転載 【 PUBLICITY 】 1852 :さかのぼる~水俣病の後始末

2009-07-11 22:59:54 | 社会
■■メールマガジン「PUBLICITY」No.1852 2009/07/11土■■


▼その本を開くと、それまで見えていた出来事や「事実」が一
変する、そういう本がある。ただし、そういう本とめぐりあっ
た人が幸福か、不幸か、それはわからない。

▼読者の皆さんは、『不知火海』という本をご存じだろうか。
副題は「水俣・終わりなきたたかい」。1973年7月10日
第1刷。石牟礼道子が著者代表を務め、創樹社という出版社か
ら発刊された。

この本の圧巻は、写真である(W・ユージン・スミス、塩田武
史、宮本成美他)。写真の力というものをこれほど痛感させら
れる本は少ない。

水俣病について知るためには、講談社文庫に入っている石牟礼
道子の傑作『苦界浄土』よりも、写真の豊富な『不知火海』の
方がいいかも知れない。特に、チッソがどれほど傲慢で卑怯な
振る舞いを繰り返してきたか、『苦界浄土』はあまり触れてい
ない。その非道の歴史が、『不知火』の写真の一枚一枚に刻み
つけられている。

しかし、残念ながら『不知火海』の写真の魅力を、このメルマ
ガで伝えることはできない。文章を引用できるのみである。


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夜中に、猫が奇妙な声をたてて壁やフスマに飛びかかるように
なった。

海の中に踊るように飛びこむのを目撃することがあった。猫が
死ぬとネズミが増えるので、よそからもらってくると、その猫
もまた死んでしまった。

トンビやカラスが突然きりきり舞いをしたり、飛び上れずに、
地面をバタバタ走りまわっていた。

海ではボラやチヌなどがフラフラと泳いだり、プカプカと腹を
上にして浮くようになった。

子供達が大きな鯛をつかまえて、市場に売りにきたこともあっ
た。

溝口トヨ子ちゃんは昭和二十八年十二月十五日に発病した。カ
ラスや猫たちと同じ病だった。母のマスエさんは神さんや針灸
に連れていったが効果はなかった。せめて栄養をつけねばとカ
キやサシミを毎日食べさせた。

昭和三十一年三月十五日、桜が舞って、小学校へ上がるのを前
に幼い命は消えた。

昭和三十一年十二月一日認定、一号患者。

父の忠明さんの一家は「水俣に工場のでくるげな」と天草から
渡ってきた。「水俣ならまだよか暮しのでくっち」思ったのだ。

101-2頁
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▼この文章には、轟々と毒を垂れ流すチッソの排水口の写真、
そして娘の遺影が置かれた部屋の写真が組み合わせられている
。どの頁にも、頁をめくる者をその頁に釘付けにしてしまう力
が漲っている。


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よってたかって患者家族は見舞金契約を飲まされた。

水俣病問題は終った。少なくとも社会問題としては、その表層
部において決着はつけられたのである。

わたしたちには知るよしもない刻(とき)が始まったのである。

チッソは契約締結以降も、みせかけのサイクレーター(浄化装
置)を取りつけて、廃液を流し続けた。そしてすでに母親達の
胎内では子供達の汚染が進行していた。

子供達はすべて脳性小児マヒと診断された。しかし母親達はそ
れが水俣病であることを知っていた。その母親達に返ってきた
のは「死なんばわからん」という言葉だった。

子供が二人死に、解剖され、水俣病と認定された。

(『熊本日日新聞』提供)

115頁
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▼2009年7月8日、1995年に続く「第2の政治決着」
と言われる、水俣病の被害者を救済するための特別措置法が成
立した。


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水俣病救済法が成立 第2の政治決着、対象は2万人超
朝日新聞2009年7月8日10時54分

 手足のしびれなどの症状がありながら水俣病と認定されない
被害者らを救済する特別措置法が8日午前、参院本会議で賛成
多数で可決、成立した。村山政権下の95年の政治決着に続く
「第2の政治決着」で、一時金などが支給される対象者は2万
人以上になるとみられる。

 救済対象者は、国の認定基準を満たした「患者」と区別し「
水俣病被害者」と位置づけた。95年決着と同じ手足の先ほど
しびれる感覚障害か、全身性の感覚障害、視野が狭くなるなど
新たに加えた四つの症状のうち一つでもある人。自民、公明の
与党が150万円、民主党が300万円とした一時金の額は、
被害者団体などとの協議に委ねた。

 04年の最高裁判決で、対策を怠った国が被害を拡大させた
と認められたことを受け、政府の責任とおわびを明記。また、
国から金融支援を受け、熊本県への多額の借金がある原因企業
チッソが、患者への補償金などを確保するため、補償会社(親
会社)と事業会社(子会社)に分社化できる仕組みを盛り込ん
だ。

 これまでに、救済を受け入れる姿勢を表明している被害者は
熊本、鹿児島の約4千人。一方、熊本、新潟の約2千人が「分
社化は加害者の責任逃れを許すことだ」と反対し、訴訟を続け
る意向だ。
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▼7月4日付の東京新聞では、与野党が可決を急いでいたこの
法律は、その目的が患者救済ではなく「チッソ救済」であり、
分社化は「会社ロンダリング」である、と批判を加えている。
ここまで辛辣な追求を行なっている新聞は、全国紙には見当た
らない。

▼熊本日日新聞の7月9日付社説は、「水俣病特措法 「救済
」の名はついているが」との見出しで、

「被害者より加害者の救済が優先されてきた水俣病の歴史」

を整理しており、問題の在処を探る手がかりとなる。

▼これまで患者に対して行われた救済措置は3回。

1:1959年12月の見舞金契約、

2:一次訴訟でチッソの責任が確定して結ばれた1973年7
月の補償協定、

3:1995年の政府解決策=認定を棄却された被害者の増大
に対応し、一定の症状がある人に1人260万円が支払われた。

▼しかし、2004年の最高裁判決は国と熊本県の加害責任を
認め、行政の認定基準とは異なる幅広い基準を示した。この判
決が今回の特措法につながった。

しかし、なぜチッソと国は、こんなに細切れの対応をしてきた
のだろう。特に気になるのは、「認定を棄却された被害者の増
大に対応し、一定の症状がある人に1人260万円が支払われ
た」という、95年の「第1の政治決着」の意味である。

「認定を棄却された被害者の増大に対応し」? どういうこと
か、一瞬、理解に苦しむ。要するに、国の認定基準が厳格すぎ
たのだ。国は、明らかな水俣病の症状があるのにもかかわらず
、水俣病とは認定されない人々が増えすぎたから、仕方なく「
対応」したのだ。おい、本末転倒していないか?

国の面子を保つために、水俣病の犠牲者をさらなる犠牲に追い
やったのである。それにしても、95年である。あまりにも遅
すぎる「対応」だった。この遅すぎる対応の延長線上に、今回
の法案も位置づけられる。

▼今回の特別措置法につながった、2004年の最高裁判決に
ついて、当時の東京新聞の報道をみておこう。


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水俣病、国と県に責任 最高裁が初判断 
関西訴訟 患者37人へ賠償
2004年10月16日付東京新聞

熊本、鹿児島両県から関西に移り住んだ水俣病の未認定患者四
十五人(うち死亡十五人)と遺族が、国と熊本県に損害賠償を
求めた「関西水俣病訴訟」の上告審で、最高裁第二小法廷(北
川弘治裁判長)は十五日、「国と県が被害の拡大を防がなかっ
たのは著しく合理性を欠き違法」と述べ、国と県に賠償を命じ
た大阪高裁判決を支持する判決を言い渡した。(中略)

水俣病の行政責任を問う訴訟は、八〇年に提訴された「熊本第
三次」以降、新潟水俣病訴訟を含め六つの地裁判決がいずれも
企業に賠償を命じた。しかし、行政責任については東京、大阪
など三つの地裁判決が認めず、判断が分かれた。

六つの訴訟が控訴審中の九五年、政府は一人二百六十万円の一
時金などの解決策を示し、「関西訴訟」を除くすべての原告団
計約二千人が翌年、控訴を取り下げて和解していた。


国は最終解決急げ
解説

被害の拡大を食い止めるチャンスはいくらでもあった。それで
も、国は一向に動かず、事態を悪化させるばかりだった。関西
水俣病訴訟で最高裁は、水銀の垂れ流しを止めなかった国の「
不作為」を厳しく批判した。

水俣病が公式に確認されたのは、経済白書が「もはや戦後では
ない」と宣言した一九五六年。高度経済成長時代に強まった企
業擁護の流れの中、「原因はチッソ工場の排水」とする政府見
解が出されるのは、十二年後の六八年まで引き延ばされた。

産業保護を重視し、生命の安全に鈍感だったと言わざるを得な
い当時の行政の姿が、判決から浮かぶ。行政の企業に対する規
制権限について、判決は「住民の生命、健康の保護を目的とし
て適切に行使すべきだ」と指摘した。

行政が規制権限を行使しない違法性を最高裁が指摘したのは、
今年四月の「筑豊じん肺訴訟」に続いて二例目。「被害の原因
が当時は特定できなかった」などという“言い訳”は、司法の
場ではもはや通らないと考えるべきだろう。

三年前の大阪高裁に続き、この日の判決も、厳格すぎると批判
されている国の患者認定基準を事実上、否定した。それにもか
かわらず、国は基準を見直す考えはないと表明した。

国は司法が突きつけた不作為への批判を軽んじることなく、今
度こそ水俣病問題の最終解決に真正面から取り組む必要がある
。(社会部・鬼木洋一)
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▼さて、現在に戻って、7月9日付熊本日日の社説をさらに引
用する。


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水俣病被害者は四つに区分される。行政による認定患者約3千
人、95年の政府解決策の約1万1千人、最高裁判決で認めら
れた51人、そして今回の特措法の対象と見込まれる2万人だ。

同じ被害者がなぜこんなことになったのか。それは行政が設け
た認定基準に原因がある。一度決めた基準を厳しいものに変更
した以降は、どんなに批判を受けても行政は基準を変えなかっ
た。

実態を踏まえたものに変える機会はあったが、かたくなに拒ん
だ。木に竹を継ぐような当面のことだけを考えた対応が、水俣
病の矛盾を増大させていった。

問題が繰り返される最大の原因は、不知火海一帯の被害調査が
行われていないからだ。健康被害がどのくらいの規模で起きた
かも分からないのに、目前の事態だけに対処してきたのが、政
治、行政であり、チッソだった。

問題意識の「射程」の何という短さだろうか。「最終、全面」
解決とうたった95年の政府解決策の矛盾が現在の事態を生ん
でいるのだが、その反省もない。
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▼4段落めを再読していただきたい。日本政府は、日本最大の
公害について、未だに現地の被害調査を行なっていないのであ
る。

現地調査と、認定基準の見直し。この最低限必要な二つを為す
べきなのは言うまでもなく、国である。今回の法案に反対する
人々の矛先は、チッソの分社化に向かっているが(それは批判
されて当然の欺瞞であるが)、最大の責任者はチッソであると
同時にチッソを守っている日本国政府である。

これが「近代国家」のかたちであり、なれの果てである。

この現実の地獄を、マスメディアは伝えていない。

原爆症の認定にしろ、水俣病の認定にしろ、半世紀を超えてな
お解決に遠く及ばない緩慢な国の動きに、近代国家=官僚制国
家の壊死を、まざまざと観る思いである。

ぼくには、簡単な構図であるように見える。それほど難しいこ
とを考えているつもりはない。携わった国会議員にも、官僚に
も、善意の人はいるだろう。しかし、この結果にぼくはどうし
ても納得できないのだ。もしかしたら、納得できる論理がある
のかも知れない。どんな判断基準で考えれば、納得できるのだ
ろうか。知っている人がいたら、教えてほしい。

最近ぼくは一つのことを考えている。「近代」なるものの姿を
測るものさしは、近代の中にはない、という道理だ。そのこと
を直観的に知っていた一人が、石牟礼道子だと思う。たかだか
200年~300年程度のものさしで策を弄しようとする浅知
恵は、自家撞着で自らを滅ぼす途を開く。

企業の暴力によって人生を壊され、拙速な国会の暴力によって
余生を壊される水俣病の被害者。その破壊の様子を「客観的」
に報道し、「言論の自由」とは、つくづくユルイものである、
という事実を晒すマスメディア。今回の報道に携わった報道陣
のなかで、『苦界浄土』や『不知火海』を読んだことのある人
は、何割くらいだったろうか。

いまテレビをつけても新聞を眺めてもラジオをつけても、向こ
う側には、「政変」を巡る、軽い躁状態の坩堝が感じられる。
そのただ中で、今回の水俣病救済法の報道も流されていった。
法律成立の矛盾は、ほとんど報道すらされなかった。

ああ、そのことにぼくは納得ができないのだ、と思った。

『不知火海』に刻み込まれた、変わることなく暮らし続ける不
自由な肢体から、ぼくはしばらく眼を逸らすことができない。

チッソが撒き散らした「公害」の後始末を、今も苦しみながら
続けているのは、誰でもない、一人一人の患者と家族たちであ
る。「公」の機関ではない。


freespeech21@yahoo.co.jp
http://www.emaga.com/info/7777.html
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水俣病:この度、私共は東京に、日本という国を探しに参りました/石牟礼道子
水俣病問題 「個の責任」に立ちかえれ/緒方正人 水俣病患者 「本願の会」副代表

水俣が背負った 近代化の罪・石牟礼道子/朝日新聞
石牟礼道子『苦界浄土』講談社文庫/【 PUBLICITY 】 1736 から
産業廃棄物最終処分場建設計画の撤回を/水俣からの緊急要請/石牟礼道子 

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水俣病特措法 「救済」の名はついているが /2009年07月09日 熊本日日
 水俣病の未認定患者の救済をめぐる特措法が8日の参院本会議で可決、成立した。

 法に盛り込まれたチッソの分社化に根強い批判がある中での成立。一時金の金額や対象者を具体的にどう選ぶかといった、根幹部分の詰めもこれから。救済をうたった特措法が、水俣病問題の強制的な終結につながらないようにしたい。

 公式確認から今年で53年を迎える水俣病だが、救済をめぐってはこれまで1959年12月の見舞金契約、一次訴訟でチッソの責任が確定して結ばれた73年7月の補償協定、さらに95年の政府解決策では、認定を棄却された被害者の増大に対応し、一定の症状がある人に1人260万円が支払われた。

 しかし2004年の最高裁判決が国と熊本県の加害責任を認め、行政の認定基準とは異なる幅広い基準を示し、問題が再燃。4回目の節目となる今回の特措法はこうした事態を受けたものだ。

 救済をめぐる問題にはその時々の「時代」が色濃く投影されたが、今回の特徴はチッソの分社化が盛り込まれたことだろう。分社化は、チッソが事業部門を切り離して子会社をつくり、子会社の株式売却益を患者補償などに充てるもの。親会社は清算した後に消滅、つまり、水俣病を引き起こしたチッソはなくなる。チッソを救済策に組み入れようと、チッソが悲願とする分社化を容認した与党の政治判断だった。

 当初反対していた民主党も、解散総選挙の政治日程にせかされるような協議の中で容認へと転じた。被害者より加害者の救済が優先されてきた水俣病の歴史が、今回は法律として明記されることになった。

 水俣病被害者は四つに区分される。行政による認定患者約3千人、95年の政府解決策の約1万1千人、最高裁判決で認められた51人、そして今回の特措法の対象と見込まれる2万人だ。

 同じ被害者がなぜこんなことになったのか。それは行政が設けた認定基準に原因がある。一度決めた基準を厳しいものに変更した以降は、どんなに批判を受けても行政は基準を変えなかった。実態を踏まえたものに変える機会はあったが、かたくなに拒んだ。木に竹を継ぐような当面のことだけを考えた対応が、水俣病の矛盾を増大させていった。

 問題が繰り返される最大の原因は、不知火海一帯の被害調査が行われていないからだ。健康被害がどのくらいの規模で起きたかも分からないのに、目前の事態だけに対処してきたのが、政治、行政であり、チッソだった。問題意識の「射程」の何という短さだろうか。「最終、全面」解決とうたった95年の政府解決策の矛盾が現在の事態を生んでいるのだが、その反省もない。

 肝心の問題は残されたままだ。若い世代が訴える健康被害をどうとらえていくかなどの課題もある。「早期救済」と「全面解決」は、本来、対立、矛盾するものではない。水俣病と正面からどう向き合うのかという、基本姿勢が問われているのだ。諾否をめぐり、被害者の間に深い亀裂をもたらしはしないか。課題の方が多いことを忘れてはならない。


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