「人さま」思いやる心 取り戻して
終戦のときは18歳で国民学校の代用教員をしておりました。
研修で佐敷(現熊本県芦北町)の教員養成所に行ってました。
ラジオがなくて玉音放送は聞いておりません。所長さんが「よ
く聞こえなかったが、戦争が終わったらしい」と言われまし
た。みんなが黙っている、その静けさが印象的でした。ミンミ
ンゼミだけが鳴いていました。
実にほっとしました。もう飛行機は飛んでこんじゃろうねと
思いました。爆弾が落ちてこないことがうれしくて。
戦時中は男の先生が召集でいなくなって、受け持ちの生徒が
増えて90人になりました。家庭訪問すればお父さんたちがいな
いし、お兄さんたちもいない。村が荒れ果てていくんですよ
ね。戦死した人の家族の生活はどうなるのだろうかと心配でし
た。戦争って何だろう、国家とは何だろう。幼い頭で国家と戦
争、村と家について考えよりました。
あれには腹が立ちました。高等科を出た少年たちが満蒙開拓
義勇軍に入るというので職員室にお別れに来ました。軍事教練
の先生が「その敬礼の仕方は何か」と怒って、「『行って来ま
す』じゃなくて『行きます』と言わんか。生きて帰って来ては
いかん」と怒るんですよ。戦後の反動は大きかった。使
ってきた教科書は軍国主義的なところを消さにゃならんといっ
て、私は非常に抵抗を感じながら生徒たちに墨をひかせまし
た。昨日までは「撃ちても止まむ」とか「鬼畜米英」と言って
いたんですよ。今日からは自由主義、民主主義といって。
民主主義がいいかもしれないけど、戦勝国のいいなりでよ
いのだろうかと思いました。死んだ人たちに何と言えばいいの
だろうか、靖国にまつられて神様になんなはったというけれ
ど。
日本の近代化はペリーの黒船が来て始まりました。近代化と
は新しいことがいいとされ、日本の古い慣習をすべて捨て去る
ことでした。人情を忘れて、地縁血縁のきずなを捨てて。
それを取り戻さないことには、日本は自滅するような気が
します。
家の造り方もそうですね。縁側に近所の人たちが寄ってお茶
を飲んだり、お年寄りが集まってそこへ孫が来て、せんべいも
らったり。その縁側がなくなりました。
共同体には問題がいろいろありますけど、小さな共同体が失
われ、きずなが断ち切れてきましたね。そうなると「他人のこ
とはどうでもいい」と助け合わなくなった。人を殺しても平気
な世の中になった。肉親でさえも殺すことになった。
近代化された標準語では他人、他者ですが、私が生まれた
天草では「人さま」と言います。人さまを大切にする、隣人
を大事にする、ゆきずりの人であっても縁を感じて大事にす
る。それが地方や村でもなくなってきていますね。代わりに博
愛主義、人道主義が育てばよかったのでしょうが、育っていま
せん。
結果的に勝ち抜き社会を目指してきたでしょう。そしてお金
がこの世で一番、位が高いものとみんなが思うようになった。
負けた人たちはどうなるのか。
生きる意味がないのか。心の問題は置き去りにされてしまいま
した。悩みを持った人がたくさんいる。人さま方の苦しみをわ
かる人が増えてほしい。
水俣が背負った 近代化の罪
東京の街を見ると「あらあ、墓場じゃ」と思います。ビルが
コンクリートの卒塔婆のように見えます。草がないでしょう。
私が育った水俣のなぎさにはススキやグミの木、野生の菊、昼
顔が生えていた。草花がいっぱい育ったところは呼吸がしやす
いんですよ。
水俣病を起こしたチッソは近代化の一つの象徴ですね。この
ごろチッソは「責任はもうよかろう」と言いよる。95年の政治
解決で、1人260万円で決着したと。「それより後から出て
きた患者は患者かどうかわからん」て言っていますよね。「い
つまでも責任はない」と言わんばかりでしょう。魂消り(たまがり=
驚き)ますね。患者さんは今からも苦しんでゆかれるのに。こん
な世の中だから言えるのでしょうけど。
誠心誠意の謝罪の気持ちと罪を償う気持ちが低い。日本人の
モラルを低下させたお手本ですよ。(59年末にチッソが患者と
結んだ)見舞金契約のときは患者さんに判子つかせるためにい
ろんな手を使った。「はよ押さんと見舞金をもらいださんぞ」
と風評まで流して。
2月に水俣病患者で語り部の杉本栄子さんが亡くなりまし
た。栄子さんの「水俣病はのさり(たまもの)」という言葉で
すが、自分たちにかぶさってきた運命は黙って引き受けるとい
うことでしょう。水俣病以前にも悲惨なことはあった。誰かの
せいにはせず「たまわりもの」、ととらえる。そんな考え方は庶
民の中にあったと思います。魂が深いのです。
栄子さんは「今夜も、祈らんば生きられんとばい」「許さ
んことには生きられんとばい」と言っていました。「(自分
たちを差別した人たちを)呪う、憎むのはもうきつか。苦
しくて生きられん」と。言葉でただ許すのではなくて、許し
た分を、向こうの罪を、自分が背負う。もう菩薩さまです
ね。
水俣は日本の近代化のマイナスを引き受けたんですよ。それ
を日本人に忘れてほしくないと思います。
教養がなくなりましたね。教養をひけらかす必要はないけれ
ど、今は「バカ」を売りものにするのが受けているようです。
あんなテレビを見ていたら、子どもはみんなバカになります
よ。教養は品性をつくるものですが、品性がなくなりまし
た。
免疫学の世界的権威で脳梗塞に倒れ、がんと闘う多田富雄先
生との往復書簡「言魂」(藤原書店)を6月に出しました。多
田先生の存在全体に圧倒された感じです。すさまじい症状なの
に、きまじめに生きようとされている。私も病気持ちですが、
めそめそしてはいられないなあと思っております。
(聞き手・宮田富士男)
朝日新聞2008.8「夏に語る」
終戦のときは18歳で国民学校の代用教員をしておりました。
研修で佐敷(現熊本県芦北町)の教員養成所に行ってました。
ラジオがなくて玉音放送は聞いておりません。所長さんが「よ
く聞こえなかったが、戦争が終わったらしい」と言われまし
た。みんなが黙っている、その静けさが印象的でした。ミンミ
ンゼミだけが鳴いていました。
実にほっとしました。もう飛行機は飛んでこんじゃろうねと
思いました。爆弾が落ちてこないことがうれしくて。
戦時中は男の先生が召集でいなくなって、受け持ちの生徒が
増えて90人になりました。家庭訪問すればお父さんたちがいな
いし、お兄さんたちもいない。村が荒れ果てていくんですよ
ね。戦死した人の家族の生活はどうなるのだろうかと心配でし
た。戦争って何だろう、国家とは何だろう。幼い頭で国家と戦
争、村と家について考えよりました。
あれには腹が立ちました。高等科を出た少年たちが満蒙開拓
義勇軍に入るというので職員室にお別れに来ました。軍事教練
の先生が「その敬礼の仕方は何か」と怒って、「『行って来ま
す』じゃなくて『行きます』と言わんか。生きて帰って来ては
いかん」と怒るんですよ。戦後の反動は大きかった。使
ってきた教科書は軍国主義的なところを消さにゃならんといっ
て、私は非常に抵抗を感じながら生徒たちに墨をひかせまし
た。昨日までは「撃ちても止まむ」とか「鬼畜米英」と言って
いたんですよ。今日からは自由主義、民主主義といって。
民主主義がいいかもしれないけど、戦勝国のいいなりでよ
いのだろうかと思いました。死んだ人たちに何と言えばいいの
だろうか、靖国にまつられて神様になんなはったというけれ
ど。
日本の近代化はペリーの黒船が来て始まりました。近代化と
は新しいことがいいとされ、日本の古い慣習をすべて捨て去る
ことでした。人情を忘れて、地縁血縁のきずなを捨てて。
それを取り戻さないことには、日本は自滅するような気が
します。
家の造り方もそうですね。縁側に近所の人たちが寄ってお茶
を飲んだり、お年寄りが集まってそこへ孫が来て、せんべいも
らったり。その縁側がなくなりました。
共同体には問題がいろいろありますけど、小さな共同体が失
われ、きずなが断ち切れてきましたね。そうなると「他人のこ
とはどうでもいい」と助け合わなくなった。人を殺しても平気
な世の中になった。肉親でさえも殺すことになった。
近代化された標準語では他人、他者ですが、私が生まれた
天草では「人さま」と言います。人さまを大切にする、隣人
を大事にする、ゆきずりの人であっても縁を感じて大事にす
る。それが地方や村でもなくなってきていますね。代わりに博
愛主義、人道主義が育てばよかったのでしょうが、育っていま
せん。
結果的に勝ち抜き社会を目指してきたでしょう。そしてお金
がこの世で一番、位が高いものとみんなが思うようになった。
負けた人たちはどうなるのか。
生きる意味がないのか。心の問題は置き去りにされてしまいま
した。悩みを持った人がたくさんいる。人さま方の苦しみをわ
かる人が増えてほしい。
水俣が背負った 近代化の罪
東京の街を見ると「あらあ、墓場じゃ」と思います。ビルが
コンクリートの卒塔婆のように見えます。草がないでしょう。
私が育った水俣のなぎさにはススキやグミの木、野生の菊、昼
顔が生えていた。草花がいっぱい育ったところは呼吸がしやす
いんですよ。
水俣病を起こしたチッソは近代化の一つの象徴ですね。この
ごろチッソは「責任はもうよかろう」と言いよる。95年の政治
解決で、1人260万円で決着したと。「それより後から出て
きた患者は患者かどうかわからん」て言っていますよね。「い
つまでも責任はない」と言わんばかりでしょう。魂消り(たまがり=
驚き)ますね。患者さんは今からも苦しんでゆかれるのに。こん
な世の中だから言えるのでしょうけど。
誠心誠意の謝罪の気持ちと罪を償う気持ちが低い。日本人の
モラルを低下させたお手本ですよ。(59年末にチッソが患者と
結んだ)見舞金契約のときは患者さんに判子つかせるためにい
ろんな手を使った。「はよ押さんと見舞金をもらいださんぞ」
と風評まで流して。
2月に水俣病患者で語り部の杉本栄子さんが亡くなりまし
た。栄子さんの「水俣病はのさり(たまもの)」という言葉で
すが、自分たちにかぶさってきた運命は黙って引き受けるとい
うことでしょう。水俣病以前にも悲惨なことはあった。誰かの
せいにはせず「たまわりもの」、ととらえる。そんな考え方は庶
民の中にあったと思います。魂が深いのです。
栄子さんは「今夜も、祈らんば生きられんとばい」「許さ
んことには生きられんとばい」と言っていました。「(自分
たちを差別した人たちを)呪う、憎むのはもうきつか。苦
しくて生きられん」と。言葉でただ許すのではなくて、許し
た分を、向こうの罪を、自分が背負う。もう菩薩さまです
ね。
水俣は日本の近代化のマイナスを引き受けたんですよ。それ
を日本人に忘れてほしくないと思います。
教養がなくなりましたね。教養をひけらかす必要はないけれ
ど、今は「バカ」を売りものにするのが受けているようです。
あんなテレビを見ていたら、子どもはみんなバカになります
よ。教養は品性をつくるものですが、品性がなくなりまし
た。
免疫学の世界的権威で脳梗塞に倒れ、がんと闘う多田富雄先
生との往復書簡「言魂」(藤原書店)を6月に出しました。多
田先生の存在全体に圧倒された感じです。すさまじい症状なの
に、きまじめに生きようとされている。私も病気持ちですが、
めそめそしてはいられないなあと思っております。
(聞き手・宮田富士男)
朝日新聞2008.8「夏に語る」