「民衆の安全保障」が問われている/小倉利丸ブログno more captalism から

2011-04-17 22:40:08 | 社会
震災、津波、そして原発大事故から3週間が経過している。この間の日本の社会運動の動きをみながら、ぼくは、言いにくいことをあえて言葉にする必要を強く感じて、書くことにする。被災地の人々に対する救援、支援が国境を越えて世界規模で拡がる中で、オルタナティブをめざすべき日本国内の社会運動が、いつのまにか、災害からの復旧のメインストリームの価値観に押し流されかねないあやういところに立たされているように見える。言いたいことは以下の二点である。
(1)被災地の人々は無力な弱者ではない。かれらもまた主体であり、私たちは、安易な<援助するもの>と<援助されるもの>「といった関係のなかで被災地との関係をみてはならない。いかなる場合であっても、オルタナティブの運動を継続する集団的な力を、現場と私たちとの間で構築する努力を諦めてはならない。
(2)災害援助や人道支援に軍隊が動員されているということが、災害援助に不可欠なこととして肯定したり、批判を棚上げにしてはならない。自衛隊や米軍の災害援助や人道名目での海外派兵を批判し、防災訓練への自衛隊や米軍の動員を批判する観点をきちんと提示するとが必要だ。これは「民衆の安全保障」にとって避けてはならない重要な問いである。

これらのことは、これまでも第三世界の武力紛争や大規模災害に対して先進国の援助のあり方として、繰り返し議論されてきたことであり、周知のことだが、目の前の国内の大災害に直面するとこれまで当然のようにして論じられてきた言葉が抑制され、どこか肝心の論点が回避されているような言説が増えているように感じるのは私の誤解なのだろうか。軍隊の安易な動員が国連のいう「人間安全保障」を阻害し、民衆の不安全を助長するということも指摘されてきた。こうした課題がこの東日本大震災(と政府は命名することになったが)と福島原発の大災害に際しても問われているし、問わなければならないことだと思うのである。以下、上記の二点について書いておく。(今回は(1)について、(2)は次回に)

●無力な弱者という位置に追いやることが何をいみしているのだろうか?
被災地の人々は、外部のものたちの支援を必要としているからといって、彼らを受身で無力な存在であるかのようにみなすことはあってはならないことだ。このような無力な弱者というレッテルは、権力が民衆に対して温情主義的なパターなリズムによって権力への同調を組織するときの常套手段だ、ということを忘れるべきではない。いかなる困難な局面にあっても、かれらは無力ではないし、弱者でもない。わたしたちと同じ一人の人間として、主体としての潜勢力を持つ者である。みな主体であり、当事者としての権利と要求を持ち、権力との関係を自立的に構築しうる存在である。無力な弱者というレッテルをはることによって、国や行政は、かれらを救済することのできる唯一の存在であるかのように振る舞う。

政府や自治体の災害援助のための対応や措置は、不十分であるという批判はあっても、それ自体として「正しい」ことであって、かれらの援助に依存しなければ生存すらおぼつかないことは確かと思う。しかし、その行為の動機もまた「正しい」とはいえない、という厄介な問題を見ないことにしてはならない。政治の権力が災害において民衆に対してどのような意図でどのようにその力を発揮するのかという問題は、情緒に流されることなく冷静な批判的分析に晒さなければならない。瓦礫の山の前にたちすくんで「なんということでしょか、夢を見ているようです」といったコメントしか出せないような政治学者では困るのだ。災害にたいする権力の対応を冷徹に見据える批判力は、復興のプロセスとその理念に関わる権力の意図を見抜いて、それへの対抗的な力を創造することと密接に関わるからだ。新たな経済成長、より強固な原発建設、危機に強い政府、「強い日本」でいいのだろうか?いいはずがないのだ。

「平時」であれば当然のようにしてありえたであろうもろもろの市民運動や労働運動など、権利のために集団的な闘いが、とりわけ現地では見えなくなっているのは、そうした闘いが不要だからなのだろうか?もはや運動の課題はなくなり、災害と闘うことや復興は運動を呑み込み、官民一体、労使一体、挙国一致で異論をはさむ余地なくなしうるものとしてある、などということがありえるのだろうか?活動家自身が被災して、十分な活動ができないことがあるだろうが、それだけでなく、むしろ、被災地で起きているのは、運動の担い手たちが、孤立化を余儀なくされ、それぞれの運動の担い手が語りたいことを語ることができないような抑制を余儀なくされるような状況に置かれているのではないか、という点をわたしは危惧する。いかなる状況にあっても、運動はその力をもたなければならないし、運動をになう担い手たちの繋がりを維持すること、政府、行政、資本や支配的な世論への異論や要求を集団として突きつけることを可能にするような集団性が維持されなければならず、語るべきことを語りがたくし躊躇させるような状況は断じて許してはならないと思う。もし、わたしたちが、被災地と呼ばれている地域の運動にたいしてできることがあるとすれば、このような意味で、この地域の人々のなかにある運動との連携と運動の繋ぎなおしを外から支援し連帯することが、物資の支援以上に必要ではないかと思う。運動は人と人との繋がりであり、権力はこの繋がりを分断して権力への依存と同調を組織化しようとする。自立した復興への努力が削がれる。それでいいのだろうか、と思う。

さて、上に書いたことは言いたいことの半分にすぎない。残りの半分を述べるには、やや遠回りをした方が僕の言いたいことを伝えやすいように思う。
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=107

「民衆の安全保障」が問われている(その2)
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=108

「民衆の安全保障」が問われている(その3・終)
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=109


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