英国で植民地支配を肯定の動き(日刊ベリタ)/ル・モンド・ディプロマティーク

2005-06-28 20:02:07 | 世界
日刊ベリタ=ベリタ通信が、ル・モンド・ディプロマティークの記事を掲載。/歴史認識をめぐり、日本と近隣諸国との間に緊張が高まっているが、英国では大英帝国の植民地支配を肯定する動きが出ている。現実には、大英帝国は大量殺りく、大規模な民族浄化を行い、情け容赦なく搾取を行ったのである。英国に必要なのは、謝罪や罪悪感の表明よりも、むしろ植民地の歴史を教え、誤りを認め、なんらかの賠償措置をとることである。(翻訳・ 佐藤健彦/ル・モンド・ディプロマティーク特約=ベリタ通信) 
 
以下前半部分を転載。
全文は以下で。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200506281124082

 大英帝国が終焉を迎えてからまだ一世代そこそこしか経っていないというのに、その復権に向けた動きがすでに始まっている。有力紙、保守派の大学教員、さらには政府首脳が、目立たないながらも協調して攻勢をかけている。 
 
 この動きがいかに大きく広まっているのかは、ブレア首相の後継者と目されるブラウン財務相が、この1月の東アフリカ訪問中に、「英国が植民地の歴史について謝罪しなければならない時代は終わった」と宣言したことからもうかがえる(1)。この発言は今春、選挙運動の開始を目前に控えた時期に、復権の動きを主導するデイリー・メイル紙に語られたものであり、失言でないことは明らかだ。 
 
 その4カ月前もブラウンは、ロンドンの大英博物館(旧英領植民地から略奪した財宝であふれるアラジンの洞窟)で行われた同紙のインタビューで(2)、「われわれは(・・・)帝国を誇りに思うべきだ」と言明していた。1997年、はじめての政権獲得をもたらした総選挙の際、似たような文句をスピーチから削るようにと説得されたブレアでさえ、ここまで発言したことはない(3)。 
 
 2005年1月、英国のメディアは総じて、ブラウンのこの突拍子もない発言をほとんど論評なしに伝えた。しかし、この財務相が念頭においていた人々は、ごく最近まで過激な右翼の歴史修正主義としか見られていなかった主張への彼の支持を見逃しはしなかった。ブラウンは、新自由主義に熱意を燃やし、首相と協調しながらも、この「新労働党」の彼のライバルよりも平等主義的で、社会民主的なイメージを演出するよう、それまでは常に心がけていた。その彼が植民地時代への共感を明らかにしたことは、ブレア政権の新自由帝国主義の虚勢と介入戦争とは手を切ってほしいと望んでいた人々に、不愉快な驚きを与えたことだろう。しかし、彼もまた英国旗(アイルランドの社会主義者ジェイムズ・コノリーの有名な言い回しによれば「肉切り屋のエプロン」)を身にまとい、同様の決意を公言したという事実は、彼が意中とする支配階級の人々には好印象を与えたに違いない。 
 
▽植民地支配肯定の動き 
 
 政府やメディアといった英国の支配階級は、非植民地化を過去の歴史とみなし、そこで何が起こっていたのかを決して顧みようとしなかった。1967年に英国軍がイエメンのアデンから流血の撤退を行った後も、大英帝国が20世紀半ばにいたるまで、世界人口の4分の1を支配するために用いていた手法について公に議論されることはほとんどなかった。 
 
 帝国の復権に向けた動きは、米国のソマリア介入が大失敗に終わった1990年代初めにさかのぼる。これを契機に米国と英国の非主流派が、アフリカに新たに植民地を設け、それを国連に統治させるという「理想主義的」な構想を提唱する声をあげた。1993年1月、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、この案についての社説を掲載し、英国の植民地主義者キッチナー卿の写真まで載せた。彼は19世紀にスーダンでマフディー軍を虐殺した張本人である(4)。 
 
 1990年代のバルカン戦争のさなか、欧米の自由主義者の間で「人道的介入」の賛同者がしだいに増えていった。19世紀末の自由帝国主義が、キリスト教文明と貿易を広めることを根拠に据えていたのに対し、現在は人権、市場、そして良き統治が大義として唱えられている。 
 
▽新帝国主義の提唱 
 
 コソボ戦争が激化する中、ブレアは、世界的な介入の新たな潮流づくりとでも呼ぶべきものを開始した。その根底では、自己利益と道義的目標とが微妙に混じり合っていた。それから1年足らずのうちに、ブレアは、この「国際共同体のドクトリン」を旧植民地のシエラレオネに適用し、多くの犠牲者を出してきた果てしない内戦に介入するために、39年ぶりに英国軍を送り込んだ。 
 
 2001年9月にニューヨークとワシントンが攻撃を受け、続いて米国政府の主導のもと、かつての大英帝国支配地アフガニスタンが侵略されると、この介入政策はそれまで伏せられていた本当の姿をもって、政治の主流に躍り出ることになった。翌年の春、ブレアの外交顧問で、アフガニスタン特使だったロバート・クーパー(現在は欧州理事会でソラナ事務総長の部下として働いている)は、「人権意識と世界市民的な見地をもった世界にも受け入れやすい、新しいタイプの帝国主義」を提唱するパンフレットを出版した(5)。ほぼ同じ頃、ブレア首相は非公式に、旧植民地のジンバブエとビルマ(ミャンマー)への軍事介入を前向きに考えていると話していた。 
 
 このような政治的冒険主義は、イラク戦争とイラク占領が引き起こした政治的、人的惨事のため、少なくとも一時的に抑制された。しかしながら、欧米による軍事介入は「復古反動主義の洗練」の土壌となって、ナイアル・ファーガソンやアンドリュー・ロバーツのような英国の保守派の評論家や歴史家に、新帝国主義の提唱者として活躍し、植民地の過去の歴史を書き直す機会を与えた。米国主導の世界帝国を公然と支持するファーガソンは、「帝国−英国はいかにして近代世界を形成したか」(6)を著して、21世紀の貿易グローバル化の先駆的存在であったとして大英帝国を擁護した。これは、帝国を建設した「商人、冒険家、宣教師たち」へのブラウン財務相の賛辞と明らかに呼応する。 
 
 もう一人のサッチャー主義者の歴史家で、英国メディアの常連でもあるロバーツは、「アフリカは英国の統治下にあった時代が最も繁栄していた」という理由から、アフリカの再植民地化を公然と推奨している。最近南アフリカの大統領が、チャーチルと大英帝国の「ひどい遺産」を非難する発言をしたことに対して、ロバーツは、帝国はそれまで「暗黒の無知」にあった世界に「自由と正義」をもたらしたのだと、BBCの番組で平然と語っている(7)。 
 
 1950年代に植民地ケニヤでマウマウの反乱が起こった時、英国軍が行った残虐行為の恐るべき規模についての最近の研究と、自分のグロテスクな主張とにロバーツがどのように折り合いをつけるつもりなのか、興味深いところである。キャロライン・エルキンズの近著「英国の強制収容所」(8)では、収容所にいれられたキクユ人が32万人にのぼり、1090人が絞首刑にされ、村民を恐怖に陥れるために電気ショック、暴行、輪姦などの暴力行為が組織的に行われたことが詳述されている。犠牲者の数は優に10万人を超えると考えられている。 
 
 当時、英国兵は、キクユ人男性を一人殺すたびに5シリング(現在の価値で約7ユーロ)の賞与を受け取った。彼らはためらうことなく、アフリカ人の造反者から切断した手足を道路標識に釘で打ちつけた。1万人以上の犠牲者を出したマレーシアの戦争では、切り落としたマレー人の共産主義「テロリスト」の頭を掴み、一緒に写真撮影するほどだった。最近放送されたドキュメンタリーテレビ番組で帰還兵が語ったように(9)、英国兵は1960年代後半にも、アデンから撤退する前に、暴力や拷問、そして殺りくを繰り広げていた。ある元兵卒は、戦争犯罪のかどで訴追される危険を恐れ、詳細について話すのを拒んだ。すべては文明の名のもとに行われた。現在イラクで起きていることとの連続性はあまりに明らかだ。

全文は以下で。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200506281124082

日刊ベリタ

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
日本の怠慢 (neko)
2005-06-29 01:22:23
こういう英国と接近を試みる日本こそ、怠慢そのものですね。



第一、日本の保守派は、一方では日本を階級のない国民国家などと持ち上げつつ、他方では、欧州でも有数のクラースが現存する英国史の、特権階級による歴史ではなく言説におもねる。



怠慢な日本人が、こういうことを許しているのでしょう。ますます他のアジア人から反発されるだろう。



返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。