近江商人博物館を見学し、今も近江商人屋敷の残るこの地であれば、必ず近江商人が祈願しただろう神社があるはずだと思い、博物館で案内してくれた方に聞いたところ、すぐ近くにありました。大城神社というところで、テレビを見ないので知りませんでしたが、少し前の朝の連ドラ『カムカムエヴリバディ』(2021年~2022年)で重要な舞台となった神社だそうです。
大城神社の由緒は古く、621年(推古天皇29年)に厩戸皇子(聖徳太子)が金堂寺を建立し、その護法鎮護のため、この大城の地に社殿を造ったのが始まりとされます。現在も町名を金堂町と言います。1170年(嘉応2年)、現在の場所に社殿を改造し、天満天神(菅原道真公の神霊)、大梵天王、八幡大神を合祀し、五個荘の産土神(土地の守護神)としました。それにより、この頃から天満宮と称されるようになりました。1869年(明治3年)、恐らく前年の神仏分離令により、現在の大城神社という名称になりました。
ここは、観音寺城から見て北東にあたります。北東は日本の風水で「鬼門」、つまり邪気が入ってくる方角とされたため、その方角を守る城の守護神として、室町時代の近江守護であった佐々木六角氏からは特に崇敬されました。しかし、1568年(永禄11年)、箕作城の戦い(観音寺城の戦い)に伴う佐々木六角氏の没落により、社殿記録等が失われました。
1831年(天保2年)、大梵天王を五箇神社分祀。1855年(安政2年)、八幡宮を結神社に分祀。残るは天神様で、境内には太宰府天満宮にもある御神牛の青銅像が3体ありました。写真を撮り忘れてしまったのですが、御神牛は必ず座った姿勢の「臥牛」です。これは菅原道真公が亡くなった際、遺言により御遺骸を牛車に曳かせたところ、牛が座り込んで動かなくなり、その場所に埋葬されたという言い伝えによります(その場所が、現在の太宰府天満宮になりました)。
かつては表鳥居から、御旅所(神社の祭礼で、神が休憩する、つまり神輿を鎮座する場所)に至る2丁(1丁は109.09m)ほどを桜馬場と言い、両側に桜を植えた小堤があったそうです。しかし、その桜は1860年(万延元年)に曳山車(ひきやま)を造るにため伐採されたとのこと。現在は見る限り、桜はなさそうですね。
楼門。最後は、参拝して終えました。
大城神社
滋賀県東近江市五個荘金堂町66
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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