◆トランプ大統領の就任式をライブでみてしまいました。
何かが起こりそうな予感があったのですけど、なにもなく無事に終わってよかったです。
しかし、これからのアメリカはもちろん日本や世界との関係がどうなっていくのかは不安です。誰かのコメントで、「2年以内にトランプ大統領の弾劾裁判と罷免が必ずある」と予言していたのには驚きました。とにかく、大統領就任にまつわる一連の事態には、就任時の支持率が過去最低であるとか前代未聞のことごとが多すぎるということです。しかし、就任式では、大統領が聖書に手をおいて宣誓をしたわけです。というlことは、トランプさんもキリスト教徒のわけでしょうか。いや、ただ過去の式典からの流れの中で、恒例の行事としてそのようにしただけなのかとても気になるところです。この宣誓について、日本のキリスト教福音保守派の牧師さんがその概略を報告している記事があります。
「大統領はリンカーンの聖書とお母さんからもらった聖書、この2冊の上に手を置いて宣誓をした」
しかし、ぼくがここで一番気になることは、トランプ大統領はキリスト教についてどのような認識を持っているのか。また、いつごろからどのような傾向の教会、牧師と関わったのか。その関わりの中でトランプ大統領はなにを希求し、その結果なにを認識することが出来たのか、また他の何を得ることが出来たのか。つまり、その人格形成の過程で、その教会と牧師から影響をうけたことがあるとしたらそれは何か。つまり、ぼくは大統領の精神構造もどきに興味があるので、前述したようなことについて知りたいわけです。こうしたぼくの興味の範囲からすると、次の二つの記事をよんでみるだけで一応、十分ともいえそうです。
一つは、都内にある賀川豊彦によって建てられた教会の一つである日本キリスト教団堀切教会の牧師さんの文章で、「オバマからトランプにバトンタッチされるアメリカについて思う」です。これは下記の雑誌記事の内容を簡単にまとめた文章です。ですので、次の雑誌『世界』の記事がぼくなりの、とりあえずのお気に入りという次第です。
雑誌『世界』1月号「ドナルド・トランプの神学ープロタント倫理から富の福音へー」森本あんり(国際基督教大学教授ー哲学・宗教学ー)。記事は9頁。
また、同じ著者による次の本は話題になったと思います。『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』 新潮選書 森本あんり 著者略歴
◆ Iさんが前回のぼくの投稿記事に、次のようなコメントを書いてくださいました。
……「映画『沈黙』・・・沈黙をつき破って、神様が私達の心にどのように声かけて下さるか・・・観に行きます」。
コメントを読ませていただいて、ぼくなりに厳粛な気持ちになりました。
“沈黙”、「沈黙をつき破って」、そして“神さま”、「神さまが私達の心にどのように声かけて下さるか」。
ぼくはこの映画の予告編をみたのです。そして、その画面の流れのなかで場面が切り替わる瞬間ごとに、その画像のなかの登場人物とそこにある自然の情景の激しさに、厳粛な気持ちをもたざるをえませんでした。そして、そこで“厳粛な気持ち”をもたされたということは、自分にとっていったいどういう意味合いのことなのかと思うのです。ここで、改めて自問せざるを得ないわけです。そしてこれは、この映画をみるに際しての、ぼくの「なぜ!」という問いの一つになるはずです。
聖書には印象深いことばがたくさんあります。
例えば、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の冒頭のことばは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書かれています(「言、は、ことば、のルビ付き」です。日本聖書協会版ーこのHPのここには無料の聖書本文検索サイトがありますー)。また、大阪の釜ケ崎(東京の山谷地区と同じ)に30年ちかく住み続けて、野宿者の支援活動をされている本田哲郎神父は、この個所を著書『小さくされた人々のための福音ー4福音書および使徒言行録ー』のなかで次のように訳しています。
「はじめから、『ことば』である方は、いた。『ことば』である方は、神のもとにいた。『ことば』である方は、神であった」
すこし余計なことを書いたかもしれませんが、Iさんが言われる「“沈黙”をつき破る」ものがあるとしたら、それはやはりIさんが言われたように、「神さまが……どのように声をかけて下さるか……」というその神からの語りかけとしての“ことば”でしかあり得ないわけです。旧約聖書の冒頭にある創世記でも、最初の発語としての“ことば”は、「光あれ」といわれた神のことば、と書かれています。そして聖書の世界では、上記に引用したような聖書の記事からかんがえても、“ことば”ということについて特別の意味合いがあるように書かれていると言われています。例えば、新約聖書では、キリストが言われた言葉にたいする信頼は信仰、信じることまったく同じことなのだと。また、古代中国では発せられたことばが言霊として霊力をもつなかで実体的な力を持っていたのだと、たしか白川静先生も言われていたように思います。つまりことばにたいする感覚は、現代人と古代人の間ではまったく違うのかもしれません。(すみません、こうして書いていて 、なにを言おうとしているやらわからなくなってきてしまいました。)
そうです、Iさんの言われた三つのことばがとても重たいですね、ということなのです。「沈黙、神さま、声(ことば)」
ぼくはこうした場所でも、じぶんの勝手なことばを書き連ねてしまっています。たしか吉本さんは、「言葉の根源は沈黙」なんだよと言われていたと思います。根源という言葉は使われていなくてもそのような意味合いだったと。それと、べつに吉本さんが言ったからではなく、そのように言われてみると確かにハッとせざるを得ないわけです。言葉の問題としての理屈などではなく、例えば、ぼくの日常生活でのことばの表出の問題。つまり、自他関係で発することばの自己覚知の問題一何か恰好をつけて意味不明に書いてますけど、無理な自己表出は自己矛盾でしかないというわけですよね。
「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」ガラテヤの信徒への手紙/06章07節
ウロウロしている続きで、ここでぼくは”沈黙”ということについて思うこととしたら、まず空間をイメージするかもしれません。宇宙、自然、欠如、飢餓、アウシュビッツ、無、死体、闇、死刑、戦争、不条理、歴史、祈り、キリスト、……そして……これから、残されたじかんのなかで考えつづけなければとおもうのです。
また、遠藤さんの「沈黙の世界」の悲惨な歴史、3.11の過酷な現実、先の大戦の犠牲者、自殺死、孤独死……、神の不在、神の沈黙、神とは、世界とは、人間とは、歴史とは、そして、約2000年前に時の権力によって、十字架の上で殺されたイエス・キリスト。そのキリストの生きざまと死にざまの証言集でもある聖書は、ぼくにたいして何を伝えようとしているのか?
遠藤周作さんは、『沈黙』の舞台になった島々をみはるかす記念館の「沈黙の碑」に、こんな言葉を刻んでいます。映画の予告編のさいごに出てくることばです。
「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」
それから、前回の投稿記事を読み直したら、決定的に間違ったところがありました。ICUで田川さんの講義を聞いたひとは、はらじゅく86のひとではなく、むかし身障授産関係で仕事をしたときの同僚の女性でした。たぶん勘違いなのです。このことはまた書かせていただきます。
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