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気になった事柄を集めた年表 [Ⅱ]:(2014・10・31 改訂)

2014-11-01 01:48:15 | 日記
 題:気になった事柄を集めた年表 [Ⅱ]:(2014・10・31 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1550年7月に、ザビエルが京都へ行った。アンジローは、
 鹿児島に残り伝道をしたが、うまくいかず反感を買い、
 鹿児島に居られなくなり中国へ逃れた。このアンジロー
 は、人を殺して海外に逃れ、ザビエルが京都へ行った後、
 鹿児島に残ったが、いさかいからか、鹿児島に居られな
 くなり、中国に逃れ、その中国でトラブルからか中国で
 もトラブルから殺害されるという、荒れた経歴から、こ
 のアンジローという男の性格や素性のよからぬ姿が見え
 て来る。→1年
1551年1月、ザビエルは、京都に入れたが、天皇の謁見(
 えっけん)も許可されず、また、ザビエルが希望した仏
 教の中心地の延暦寺の訪問もなされなかった。ザビエル
 は、延暦寺の学問所を訪問したかった。
  この様に、ザビエルの京都訪問は散々だった。ザビエ
 ルはあきらめて京都を去った。ザビエルは、いったん、
 平戸に帰り、その後、山口の大内義隆に、2度目の謁見
 をし、布教の許可を得た。1度目は、義隆を怒らせ、布
 教の許可は得られなかった。因みに、ザビエルは日本語
 ができず、説教をする人のそばに、ただ立っているだけ
 だったという。、また、ザビエルは、最初の山口の大名
 の大内義隆と謁見したが、大内義隆を怒らせてしまい、
 追い払われていた。→0年
1551年8月末、ザビエルは、ポルトガル船が豊後に入港し
 たと聞いた。また、豊後の領主の大友宗麟からこのポル
 トガル船入港についての助力を請う書状が来たので・・
1551年9月15日、ザビエルが、山口をたち豊後へ向かった。
 このポルトガル船の船長は、ザビエルと知己だった。こ
 の様子を見ていた大内義孝は、ザビエルを歓待し、布教
 の許可も与えた。この直後の・・→0年
1551年9月28日に、山口で反乱がおこり、ザビエルが数日
 前に布教の許可を貰った大内義隆と嫡子の義尊がともに
 自刃(じじん)して果てた。心労と失望に苦しむザビエ
 ルだった。ポルトガル船の運んで来た本国からの書信の
 内容も、不穏さを増した。→0年
1551年11月15日、ザビエルが日本を去った。→1年
1552年12月3日、ザビエルが死んだ。場所:中国・広東の
 上川(さんちゃん)島、享年46歳。→25年
1577年、南蛮寺が京都に建った。→5年
1582年、天正遣欧使節が長崎から出発した、1584年にポ
 ルトガルのリスボンに到着した。→3年
1585年3月23日、天正遣欧少年使節たちが、教皇グレゴリ
 ウス13世に引見し、九州の大名の大友宗麟・有馬晴信・
 大村純忠の書簡を渡した。この少年の使節たちは、旅の
 途中で、日本人の女性たちが、南蛮貿易で売られている
 姿をあちこちで目撃した。キリスト教に偏するNHKや放
 送大学は、この件はまったく放送しない。→2年
1587年6月19日、豊臣秀吉は九州征伐中であったが、宣教
 師のガスパル・コエリョに伴天連(バテレン)追放令を
 突き付けた。キリスト教の禁教である。
1587年7月4日、豊臣秀吉が、伴天連追放令を発布した。
  黒田官兵衛は、高山右近の影響を受けて、天正11年
 (1583年)頃に洗礼を受けたキリシタン大名であった
 が、豊臣秀吉が伴天連追放令を発令すると、いち早く、
 キリスト教を捨てた(キリスト教の棄教)。→5年
1592年、キリシタン大名の高山右近が、長崎で没した。
1597年2月5日、豊臣秀吉に迫害されたとキリスト教が言
 う「長崎の西坂で殉教の26人」が十字架刑となる。
  これは殉教ではない。
  禁教令で、ほとんどの宣教師が帰国し、若しくは、長
 崎に戻ったが、6人の宣教師は、法を犯して活動していた。
 それだから罰せられたのだ。日本人の信徒は、その宣教
 師にそそのかされて、やはり法違反行為をしていた。そ
 の事により罰せられた。この6人の宣教師は、フランシ
 スコ会の宣教師。日本は、ヨーロッパの様に無実の人を
 残酷に殺すような事はしていない。これを、キリスト教
 は、しきりに「殉教だ」「殉教だ」と嘘宣伝(プロパガ
 ンダ)する。法違反者たちなのだ。ちゃんと法に従って
 いた宣教師たちの安全は保たれている。ここが大切な所。
 ヨーロッパの悪行為とは全く日本の場合は違うのだ。自
 分たちに利があるからと、キリスト教は嘘を言うのは止
 めなさい。嘘付きキリスト教を返上して下さい。長崎の
 聖人像は嘘でできたものです。→3年
1600年代(17世紀)、この頃のヨーロッパでは、黒人や
 インディオの方々が、猿や狒々(ヒヒ)と並んで陳列さ
 れたり、裸の野蛮人として舞台の上を歩きまわらされた。
1600年、イギリスが、東インド会社を設立した、→3年
1603年、オランダが、東インド会社を設立した、→11年
1614年1月28日、家康が、キリスト教禁教令を発布する。
1614年11月7日~8日、キリシタン禁教令で、長崎に集結
 したキリスト教宣教師と主だった日本人信徒を乗せた船
 が出港した。法に従えば、日本はヨーロッパの様に酷(
 むご)いことはしなかった。しかし、法を無視して、日
 本に残り潜行した宣教師が40人ぐらい居た。責任は、キ
 リスト教側にある。→23年
1637年12月11日~1638年4月12日、島原・天草一揆が起
 こる。これは百姓一揆。これにキリスト教が乗っかった
 だけ。ほとんどが仏教徒。キリスト教はこの戦いの殉教
 を声高に言うが、幕府軍も同じような死者数となってい
 る。これを、おくびにも言わないで、キリスト教は『殉
 教だ』『殉教だ』と嘘宣伝する。キリスト教に偏するN
 HKも同様な間違ったプロパガンダ(嘘宣伝)をする。
 天草四郎は実在したとの証拠がない、キリスト教宣教師
 が言いふらした話。NHKもキリスト教徒が大勢死んだ
 と、殉教だと、あたかもキリスト教の代弁者の様に言う。
 NHKは、完全にキリスト教側だけに向いた放送をし続
 けている。
1638年4月12日にキリスト教徒側の原城が陥落した。
1685年、ヨハン・セバスチャン・バッハが生まれた。バッ
 ハは、ルターが勉学に勤(いそ)しんだアイゼナハで生
 まれた。ルターの精神を引き継いだバッハは、その音楽
 には、ルターが糾弾したキリスト教カトリックの堕落へ
 の糾弾の響きがある。~1750年没、65歳。
1689年、英国議会は、信教の自由を認めた最初の「寛容法
 」を採択した。それは、自分とは異なる宗教的、政治的
 な見解の容認を意味した。キリスト教の教義の「異教徒
 は殺せ」の完全な否定であった。相手の意見が相反する
 ものでも、尊重するのは当然なのだ。キリスト教は、こ
 の様な当然が無い宗教。遅れた宗教となっている。
1786年、ゲーテは、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ
 教会を見るためにアッシジに来たという。→68年
1789年、アメリカの初代大統領ワシントン(在任期間1789
 年~1797年)は、インディアンの方々を猛獣と言い、狼
 と同じだが形が違うと言った。→57年
1789年、英国の詩人ウィリアム・ワーズワースは、フラン
 ス革命の報を聞くとフランスへ渡った。忌(い)まわし
 い絶対王制が一掃されたと思った。反対者を投獄し、公
 正な裁判も無い、議会の投票制度も無い王制が一掃され
 たのだ。これは素晴らしい出来事と思った。ワーズワー
 スは、それが見たかったのだった。しかし、実際の事態
 は、暴徒が王の様に振る舞い、和平と和解の姿は無く、
 低劣な復讐の世界だった。見せしめの裁判、そして、旧
 官僚や貴族、そして王族の公開処刑が行なわれていた。
 各地でギロチンが使われ、死刑執行人が、恐怖政治さな
 がらに、犠牲者の首を高々と掲(かか)げ、民主主義の
 欠片(かけら)も無い狂気と憎悪、政敵の無差別処刑だ
 った。期待を裏切られ、恐怖におののいたワーズワース
 は、フランスから逃げ出した。(以上、ポール・ケネデ
 ィ氏・英歴史家、読売新聞)。これと似たこと、第二次
 世界大戦後、アメリカは、日本の政治指導者を、裁くべ
 き法律が無いのに、裁判らしい事を行い、日本の政治家
 を死刑にした。分類上は私刑(リンチ)となる。→21年
1810年、ロシアが、ベーリング海峡からアラスカに支配権
 を拡大し、北アメリカ大陸を太平洋に沿って南下する政
 策を進めていた。→5年
1815年、ナポレオンが失脚した。ウィーン体制始まる(大
 国の勢力均衡によるヨーロッパの安定をはかる)→8年
1823年、モンロー宣言、アメリカ外交のこの後の基本方針
 となった。アメリカのヨーロッパからの干渉の拒絶。意
 識下に南北アメリカ大陸の支配下にしたいがあった。ア
 メリカの出発点。帝国主義的下心。→23年
1846年、アメリカが、メキシコと戦争をして、テキサス・
 ネバダ・アリゾナ・ユタ・ニューメキシコ・コロラドを
 狡猾な手段で手に入れた。→8年
1853年~1856年、クリミア戦争、イギリスとフランスが
 トルコを援助してロシアに宣戦していた。→0年
1853年、アメリカの海軍提督のペリーが浦賀にやって来た。
 日本へ開国要求。当時、世界の大国は英露の2大国であ
 り、この2大国は、かつてのスペインポルトガルのアメ
 リカ大陸分割の様に、ユーラシア大陸の分割をして安定
 していたが、その接点回避は長く続かない緊張の中にあ
 った、日本がその接点の1つになろうとしていた、その
 隙(すき)をついて、アメリカが日本に接近した。→1年
1854年、中国人の証人禁止処置。アメリカで、白人が関係
 する裁判において、中国人は証人になれないという侮辱
 的な法律が決まった。すでに、アメリカ・インディアン
 の方々にこの措置はなされていた。日本ではこの様な人
 種差別の法律が通ったことは微塵もない。アメリカは遅
 れた国だった。人種偏見はキリスト教から来ている。
1856年~1860年、中国でアロー戦争が起きた。4年間。
 第二次アヘン戦争ともいう。外国から言い様にされてい
 た中国(清)が、中国人が、外国人の排斥をし始めた。
 アヘン戦争の不平等な条約に原因の1つがある。貿易独
 占、徴税まで行う行為、軍艦を常時停泊して圧力をかけ
 るなどなど、そして何より、アヘン貿易をし続けた
 道的な悪がある。こんな事をするのがキリスト教徒の精
 神なのか?イギリスは中国(清)を屈服させ、そして、
 九竜半島を奪った。→1年
1857年、インドでセポイの大反乱が起きる。セポイはイ
 ギリスの東インド会社のインド人の傭兵のこと。イギリ
 スはこれを押さえつけた。→1年
1858年、日米修好通商条約。この後、アメリカが対日接
 近を控えるようになるのは、英露強国に遠慮したのでは
 なく、アメリカの最大の内乱・南北戦争があったから、
 余裕が無かった。これが無かったら、まだ未熟な日本は、
 中国の様に大国の餌食の場になった。日本の叡智はこれ
 を見ていて、明治維新と共に富国強兵をまず第一とした。
1861年、ロシア軍艦対馬占領事件、ロシアの南下政策の行
 動の中で起きた。日露戦争へ繋がる事件。→0年
1861年、アメリカの南北戦争。~1865年にアメリカの南
 北戦争は終結した。→2年
1867年、アメリカが、ロシアからアラスカを購入した。
1867年、アメリカが、アリューシャン列島・ミッドウェイ
 諸島を新領土の植民地として手に入れた。→6年
1871年~1872年(明治4年~5年)、この頃、何でも、か
 んでも、「西洋に学べ、西洋に遅れを取るな」の風潮が
 世を風靡した。この叫びが日本全土を駆け巡り、野火の
 様に広がって行った。西洋の何も分からない時代、ただ
 ただ、西洋は進んでいる、西洋から学べとなっていた。
 こんな時、キリスト教が何たるかを知らず、キリスト教
 を良きものと盲信した。→2年
1873年、キリシタン禁制高札撤去。キリスト教は、この日
 までキリスト教徒が迫害が続いたというが、これは「真
 っ赤な嘘」。研究者は「17世紀には幕府はすでに黙認し
 ている」と言っている。ほんの一時期の取り締まりだっ
 た。刑場の柵の一部を開けて逃げることもできる様にし
 てもいた「日本の穏健・温厚さ」があった。キリスト教
 が言う「259年も迫害が続いた」と言うのは、よくも言
 うものだの大嘘。嘘付きキリスト教。→0年
1873年(明治6年)、岩倉具視の遣欧使節団がベネチアに
 到着した。→6年
1879年、アメリカのカリフォルニアの州憲法で、中国人の
 参政権を拒否した。精神異常者と同様な処置とした。
1882年、アメリカが、中国人の移民を禁止した。この後、
 日本人が移民をしだすが、この中国人の後に、日本人が
 移民をしたということが不運だった。日本人に対しても、
 インディアンや中国人に対するのと同様に、『非白人』
 に関する劣った種の人間との意識が根強くあった。キリ
 スト教に感化された意識だった。この意識が、アメリカ
 の指導者階級にまで及んでいた。ジョン・ダワーの言葉:
 「彼らは敏感な白人の様には痛みを感じず、彼らによっ
 て生命は安価だというのだった」。→3年
1885年、内村鑑三は、クリスチャンの女性と巡り合い結婚
 をする。しかし、わずか7か月で離婚した。鑑三はアメリ
 カへ渡る。しかし、キリスト教国という期待のこの渡米
 にも裏切られた。その反キリスト教的、また、反人道的
 なアメリカをまざまざと見たからだった。鑑三は言う、
 「これが宣教師によりキリスト教の他の宗教に勝(まさ)
 る証拠なりとして教えられし文明なりや」と。宣教師が
 言った「キリスト教は他の宗教より勝っている」という
 のは嘘だったと思う鑑三だった。鑑三は、新渡戸稲造か
 ら「高慢」とか、「利己的」とかと批判されていた。ま
 た、ちなみに、鑑三は、二人目の妻を迎えるが、この妻
 も23歳という若さで亡くなっている。→0年
1885年、ロシアが朝鮮から海軍基地(永興湾)の提供を受
 けようとした、朝鮮の李朝はロシアににじり寄った、日
 英中はこの案を潰した。この反動でイギリスは朝鮮の巨
 文島を占領した。ロシアは怒った。そして、ロシアも朝
 鮮を占領すると言った。中国の仲介によってロシアの占
 領がないことを条件にイギリスも占領を止めた。中国は
 朝鮮への勢力圏拡大を意識していた。各国の欲の勢力圏
 争いが展開した。アフリカ分割の大国の欲が展開するこ
 とにもなる。日本はこの頃から、朝鮮半島から中国に手
 を引かせ、朝鮮の独立のための清国との戦争を意識し出
 した。この様な時、朝鮮に農民の反乱が起き、李朝は鎮
 圧できなかったため、清国に出兵を要請した。日本は、
 条約に基づいて、中国の出兵を認めずに朝鮮へ出兵した。
 ここに日清戦争がはじまった。~1894年。→5年
1890年代、アメリカの作家のスチーブンスンは、大陸横断
 鉄道建設の労務者としてアメリカに連れて来られた中国
 の方々や、アメリカ・インディアンの方々が、「見下げ
 た人種」とされて扱(あつか)われていると報告した。
 また、「身の毛がよだつ害虫」とか、「姿を見ると息が
 詰まるような存在」とかと否定されたりしていると報告
 している。→7年
1897年、新渡戸稲造が、札幌農学校を辞職し、アメリカ西
 海岸で療養生活に入った。稲造は、重症の神経衰弱と診
 断され、休養を取るよう申し渡されていた。→1年
1898年、アメリカが、フィリピン・ハワイ諸島・ジョンス
 トン島・グァム島を新領土の植民地として手に入れた。
1899年、アメリカによるフィリピン征服戦争が起きた。~
 1902年。マッカーサーの父親が参戦している。また、こ
 の父親はインディアン掃討戦もしている。→0年
1899年、アメリカが、ウェーク島・米領サモアを新領土の
 植民地として手に入れた。→1年
1899年11月、新渡戸稲造の「武士道」がアメリカで出版さ
 れた。「日本人の魂」という副題が付けられた。日本で
 の出版は、この翌年。稲造は書く、その武士道の淵源を
 仏教と神道と儒教に見い出される・・と。そしてまた、
 書く、「危険や災害に直面した場合の禁欲主義的沈着さ
 は、仏教から来る」・・と、説明している。
19世紀末~20世紀初頭、外国勢力による中国分割が進んだ。
 満州(ロシア)、山東省(ドイツ)、華北・揚子江流域・
 香港(イギリス)、雲南省(フランス)・・、→0年
1900年、新渡戸稲造が、ヨーロッパへ行き、植民政策の勉
 強をし、その後、台湾へ赴(おも)いた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009