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(増補版)86C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年5月~1582年6月)

2015-04-30 03:17:08 | 日記
題:(増補版)86C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年5月~1582年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1582年6月2日、本能寺の変
  信長の家臣・明智光秀が謀反を起こし、丹波亀山城(
 京都府亀岡市)から引き替えした。
  そして、京都の本能寺に居た信長を襲撃し、信長は自
 刃した。(1534年~1582年)48歳。
  信長から光秀へ与えられていた命は、「備中高松城の
 羽柴秀吉を救援せよ」との命だった。
  信長の後継者と目されていた信忠は、信長と共に、備
 中高松城で戦う羽柴秀吉への援軍に向かうべく行動をし
 ていた。
  秀忠は、京都の妙覚寺に居て、明智の謀叛を知るや、
 本能寺へ信長救援に向かったが、信長自害の知らせを受
 けるや、光秀を討つべく態勢を整えるため、側近など手
 勢と共に二条新御所へ行く。
  信忠は、二条新御所へ着くと誠仁親王を脱出させ、臨
 戦態勢に入った。
  しかし、わずかな手勢であったため、善戦したが、そ
 の戦いもむなしく、明智軍に攻め寄せられ、自害に至っ
 た。介錯は鎌田新介だった。享年26歳。
  信忠には、京都から脱出できる可能性があった。しか
 し、信忠の心情から光秀軍と刃をまみえたのだろう。
  脱出していれば、また、日本の違う歴史が流れたと言
 える。
  信長は、生前から、家督を譲っていた嫡男・信忠で、
 これはと思っていた息子だったのだろう。
  信忠も、忠実に父の教えを受けていた様だが、時には
 抗弁もしていたという。
  流れは、秀吉に来る。
  秀吉は、主の仇である光秀を討つ。
  これをする事がポイントと認識していた。
  この事で、織田勢力の実質的な相続者になって行く。
  多く居た信長の相続者たちの息子たちから、流れが秀
 吉に流れて行く。
  そして、その事を天下に認知させるには、信長の葬儀
 を自ら主宰する事だった。
  秀吉には、信長からもらった信長の子の養子が居た。
  その信長の葬儀の会場として、大徳寺が選ばれた。
  さらに秀吉は、信長の菩提を弔うために、塔頭の総見
 院(信長の法名)をたて、追討大茶会も催した。
1582年6月2日、この時、本能寺の変の時の安土城
  本能寺の変の時には、蒲生賢秀が留守居役として在城
 していた。
  しかし、信長の横死の知らせを受け、
  蒲生賢秀・氏郷父子は、本拠地・日野城(滋賀県蒲生
 郡にある蒲生氏が築いた城)に、信長の妻子などを安土
 城から移動させ、退去した。
  安土城は、山崎の戦の後、明智秀満率いる明智軍が来
 て、退却後に、天守とその周辺建物(主に本丸)を焼失
 している。消失の日は6月15日という。
  消失の原因については
  1、明智秀満軍の敗走の際に放火したという説(「秀
 吉事記」「太閤記」)、しかし、この説を否定する有力
 な説もある。
  2、秀満の残党狩りで、伊勢から入った織田信雄軍が
 城下に火を放っているが、この火による延焼説。(ルイ
 ス・フロイスの記述、フロイスは、信雄を暗愚呼ばわり
 している、信雄の放火だと言っている)
  3、略奪などによる野盗説
  4、落雷説
  本能寺の変以降も、二の丸などが残っていたので、し
 ばらくは織田氏の居城として機能している。
  信長の嫡孫・秀信が、清州会議の後に入城している(
 主に、二の丸を中心に機能していた)。
  しかし、秀吉の養子・豊臣秀次(秀吉の姉の長男)の
 八幡山城築城のため、1585年をもって廃城とされた。
1582年6月2日、徳川家康:本能寺の変のとき、
  信長の後継者とみなされていた一人:徳川家康は、本
 能寺の変の時、堺で近習数名と情報収集中で、帰国の途
 次(とじ、途中)の飯盛山(大阪府東部)でこの報に接
 した。
 近習だけの少数でいたために、光秀討伐のチャンスを
 失し、一歩、出遅れた形となった。
  家康は、秀吉が勝家を討った時(1583年)は、祝の品
 を送っているが、
  秀吉が、信長の三男・信孝を自殺に追い込んだ辺りか
 ら警戒の念を強め、
  信孝の自殺に加担した信雄も、次第に秀吉のやり方に
 疑問を持つようになり、
  ついに、信雄と家康とが連合し、秀吉に敵対する事に
 なった。
  ここに実力と大義名分の戦い、小牧・長久手の戦い(
 1584年)が起きた。
  家康には、盟友・信長の遺児を助けるという大義名分
 があった。
1582年6月3日、安土城立ち退き
  信長の死の翌日(1583年6月3日)午後2時より、安土城
 立ち退きが始まった。
  信長の夫人たちは、金銀財宝を持ち出し、天守に火を
 かけて行くように賢秀に命じた。
  しかし彼は、信長が心を尽くして建てた後、また集め
 た財宝を、自分の勝手には出来ないと、そのままにして
 立ち退いた。
  しかし光秀の接近に、あわただしく安土を捨てて逃げ
 たため、女中衆は履物もなく、裸足の者も多く、足は血
 に染まって哀れだったという。
1582年6月3日、密書
  京都本能寺に織田信長を討った明智光秀の飛脚が、夜
 の闇にまぎれ、毛利の陣営と間違えて、備中・高松城攻
 めの秀吉の陣営に迷い込んだのは、1582年6月3日であっ
 た。
  飛脚は、毛利への密書を持っていた。秀吉は愕然とす
 る。
  この秀吉に、「天下を取る絶好の機会が来たとは思い
 なさらぬか」と黒田官兵衛は言った。
  この時から、秀吉に天下取りの野望が広がった。
  そして、この時、多くの土の俵で長堤を3.1キロメー
 トルに渡って築き、梅雨時の足守川(あしもりかわ)を
 堰き止め、高松城を水攻めにしていた秀吉は、急ぎ、和
 議を成立させた。
  翌日(6月4日)には将兵の救出を条件に、城主・清水
 宗治を自刃させる。
  そして、京都を掌握した光秀を討つべく、中国からの
 大返しを敢行した。
1582年6月4日、本能寺の変の報を入手した秀吉は、近日中
 に、高松城の守将の自刃によって開城される予定だった
 という高松城の状況の中、毛利軍と和議を結んだ。
  そして、この日・6月4日に、蜂須賀正勝・他1名を立会
 人にして高松城の守将の自刃の検分を行い、翌5日から6
 日にかけて撤兵するとした。
1582年6月5日、秀吉の中国大返し開始。
  「川角太閤記」によれば、4日夕方から、まず、宇喜多
 秀家の兵を発ち退かせ、
  翌日、この日の5日未明2時頃から、秀吉自ら、退陣の
 軍を起こした。
  途中、岡山は素通りし、
1582年6月8日、この日・8日、午前10時、姫路城に着陣した
 と記されている。
  4日もかかっていることになる。
  99.6キロメートル。2日の距離である。
  これは、6月7日の様である。
  先に立った宇喜多直家の子・八郎(幼名、秀家)が出
 迎えた。
  父・直家は既に亡く、子の八郎(11歳)が、子供なが
 ら軍勢を率いて、この秀吉の戦いの先陣を務めていた。
  秀吉は、宇喜多直家に1万の軍勢の協力を得て、備中
 (岡山県西部)高松城(讃岐・高松城ではない)攻めに
 成功していた。
1582年6月8日、秀吉接近の報を受けている明智光秀は、キ
 リシタンで有名な娘・ガラシャの夫・細川忠興と、その
 父・細川藤孝に味方になってくれと依頼するが、「信長
 の喪に服す」と剃髪して味方になることを断わられてい
 る。光秀は何度も頼んでいる。
1582年6月9日、秀吉は、姫路城に留守居役を置いただけで、
 全軍を率いて姫路城を進発した。
  この日に明石を経て、兵庫港(神戸市兵庫区)近くに
 野営した。
  また、別働隊を組織し、明智方になる可能性がある洲
 本城を攻撃している。
  洲本城は、その日の9日に落城している。
  また、秀吉は、この日に、砦(岩屋砦)を」構築して
 いる。
  この砦構築は、秀吉の10日の書状によれば、明智光秀
 が久我(京都市伏見区、合戦場の三島から北東20キロく
 らいの所)付近に着陣したと知ったため、光秀が河内へ
 の移動を防ぐため、また、明智軍急襲への防備。
  また、この日の光秀の着陣前に、光秀が上洛し入京し
 た際、公家や町衆が群がって出迎えたという。
  光秀は、朝廷などへ銀子を献上している。
  また、地子銭(地代)免除の特典を発し、新たな天下
 人として振る舞っている。
  しかし、この頃の光秀の書状を見ると、味方してくれ
 れば丹波でも若狭でも差し上げる、そして、50日・100日
 の間に近国を平定し、その後は政務を譲って引退すると
 書いている。
  もう精神的に、秀吉に敗けている。
  それに対し、秀吉の書状は、協力の謝意を表している
 記述で、戦う前から勝敗は決していた。
1582年6月10日、秀吉軍、朝、明石を出発。
  夜、兵庫に着く。
  秀吉及び明智は、色々な風評を流し合って、情報戦も
 している。
  例えば、「大阪滞在中の神戸信孝が、光秀軍に包囲さ
 れて自刃した」とか。
  秀吉の行軍も慎重になっている。
  光秀の伏兵警戒もあり、また、同盟者も募ったのだろ
 う。
  また、最初の猛スピードの中国大返しも、光秀を討つ
 という事より、毛利の追撃を封じたともいえる。
  この日、光秀は、筒井順慶に加勢を求めたが、加勢す
 るものと思われていた順慶の態度がはっきりしないので、
 宇治川を越え、洞ヶ峠(大阪府牧方市)まで出かけ圧力
 を掛けた。
  しかし、効なく、光秀はあきらめ撤収し、洞ヶ峠を降
 り、下鳥羽に陣を敷いた。
1582年6月11日、羽柴軍が兵庫を出立し、夕刻、尼崎に達し
 た。大阪は隣という地である。
  秀吉は、栖賢寺に参り、髻(もとどり)を斬ったとい
 う。決意を新たにしたのであろう。
  秀吉の軍勢がまとまって来て2万を超えた。
1582年6月12日、羽柴軍は、この日に、尼崎から北東30キロ
 の富田(大阪市高槻市)に着陣し、軍議を開いた。
  軍議の結果、山側の軍と川側の軍、そして、その中央
 の軍の三軍に分かれて進撃する事に決した。(富田は13
 日の説あり)。
  この日、池田恒興・高山右近などの諸将が、秀吉陣営
 にはせ参じた。
  高山右近は、光秀から加勢の要請を受けていた。
  秀吉軍は、4万(太閤記)、2万(兼見卿記)とある。
  秀吉軍の活気に対し、光秀軍は陣に動きが無く、心理
 的にも守勢に立った状況の中にいた。
  この場所は、合戦場となる山崎まであと10キロくらい
 の所にある。
  鉄砲の撃ち合いの前哨戦は始まっていた。
1582年6月13日、秀吉は、決戦の地・山崎へと向かった。
  光秀も陣をやっと動かした。下鳥羽から御妨塚(京都
 府大山崎町)へ。戦線を広げる目論見だった。
  秀吉が山崎に着陣したのは、13日昼頃だった。
  梅雨時で雨が降りしきっていた。
  勝敗を決する場として重要な地・天王山は、秀吉陣に
 はせ参じた中川清秀らによって占拠されていた。
1582年6月13日午後4時、山崎の合戦の戦端が開かれた。
  秀吉に加わった中川清秀・高山右近は、この近くに居
 城を構える将で、地の利に明るく、兵力差もあり、秀吉
 軍の有利の展開の内に戦いは推移した。
  有利の展開の中、秀吉が全軍総攻撃を発令した。
  秀吉軍の大軍が殺到して行った。
  兵力・士気共に勝る秀吉軍は、光秀軍を圧倒し、光秀
 軍は、たちまち総崩れした。
  キリシタン宣教師フロイスは、中国から連れて来た秀
 吉軍は疲れ切っていたという。
  それ以上に光秀の兵の士気が落ちていて、主人を討っ
 たという大義名分のなさの重石もあったのだろう。
  光秀は山崎本陣を解き、勝竜寺城に籠る。
  しかし、勝竜寺城は、秀吉軍の数万の軍勢の前には脆
 かった。
  光秀は、近臣を従えて勝竜寺城を脱出。逃亡状態とな
 る。
  光秀が来ると京都市中は混乱を極めた。
  光秀軍は、丹波へ向かう敗走軍と近江へ向かう軍とに
 分かれる。
  この力の分散が、さらに、光秀の再起不可能の分岐点
 だった。
  光秀は、近江で再起を図りたかったのか、居城・坂本
 城を目指して逃亡した。
  そして、1582年6月14日になったか?
1582年6月14日、日にちが変わった深夜頃?光秀は、小栗栖
 (京都市伏見区)で土地の住民に襲われ死亡した。
  光秀を解釈したのは溝尾茂朝であったという。
1582年6月15日、明智光秀の将・明智秀光は、山崎の戦では
 光秀の後詰めに安土城から出陣するが、
  琵琶湖打出浜(大津駅の近く)で堀秀政と戦い、大敗
 を帰す。
  この時の戦で、羽柴秀吉の将の堀秀政が、明智光秀の
 将・明智秀満(あけちひでみつ、光秀の重臣、光秀の娘
 を妻に迎えている)を坂本城(琵琶湖に面する平城)に
 攻めた。
  この光秀の娘は、信長に叛した荒木村重の嫡男へ嫁い
 でいたが、村重が謀叛を起こしたため離縁されていた。
  坂本城の包囲が完了し、攻撃した。
  激烈な戦闘であった。
  戦闘の帰趨が定まって、落城が明らかになった時、
  明智秀満は、いかんともしがたく、秀満の持つ非常に
 価値ある刀が、城と共に焼けるのがおしく、国行の刀と
 吉光の脇差を布団に包み、そして、目録も添えて、寄せ
 手に呼び掛けた・・、
  「城は炎上、まもなく我が身は果てるとも、ここに生
 涯大切にしたる名刀・・この道具は私ならぬ事、天下の
 道具なれば、是にて滅し候事は、弥平次(秀満は明智光
 秀の娘婿となる前、三宅弥平次といった)傍若無人と思
 召すべく候間、相渡申候」と述べた。
  そして、しばらく攻撃を止めれば、敵方へ刀を送り届
 け、悔いなく命をまっとうする旨を伝えた。
  堀は、これに同意した。
  そして、何と、攻撃を中止したのである。
  そして、その間に、刀は、布団にくるまれて炎上する
 城から降ろされた。
  その後、戦闘は再開となり、翌日に城は焼け落ちた。
  明智秀満は自刃して果てた。
 訂正:83C2/3で「小早川秀秋」であるべきところを、
 「宇喜多秀家」と書いてしまいました。
  訂正いたします。
  関ケ原で様子見をしていたのは「小早川秀秋」です。
  誤記したところは削除させて戴きました。
  宇喜多秀家の関ケ原での働きは、西軍の副大将として
 西軍の主力となっています。
  この関ヶ原の兵力としては、家康の本隊の次の兵力で
 1万7000、西軍最大の兵力です。
  小早川秀秋の裏切りで、西軍は総崩れになりますが、
 この宇喜多軍も壊滅的状況となります。
..
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(増補版)85C2/3:気になった事柄を集めた年表(1581年10月~1582年5月)

2015-04-28 15:23:35 | 日記
題:(増補版)85C2/3:気になった事柄を集めた年表(1581年10月~1582年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1582年2月3日~3月11日、甲州征伐、
  織田信長とその同盟者の徳川家康・北条氏政が、信濃・
 甲斐・駿河・上野に侵攻し、甲斐の武田氏を滅ぼした。
  武田信玄亡き後、長篠の合戦以降、武田勝頼は、勢力
 が衰えていた。
  勝頼の強気・勝気が災いしていた。
  また、鉄砲という新しい技術に疎(うと)かった。
  長篠で、重要家臣の多くを失ったのも大きかった。
  参謀なども欠いて、『作戦立案力』も大きく落ちてい
 た。
  勝頼一人が息巻いていたのだろう。
  今まで通りの父の信玄流に固執したのも悪かった。
  時も見て、また、機も見なければならないのに・・。
  これまで、織田は、畿内や北陸などが忙しく、勝頼の
 東方面を後回しにしていたから良かったが・・、
  家康だけとの小競り合いで良かったが・・、
  この様な時の流れの中で、武田家に居た織田勝長(信
 長の四男)が織田家に戻っていた。
  また、信長との和睦交渉も成立しなかった。
  この様な状況においての、信長・家康・氏政の侵攻だ
 った。
  今まで、周囲の武将へ援軍を送らなかった勝頼に、こ
 の時の援軍は無かった。
  また、逆に、織田方へ寝返る者も出てしまうという武
 田方だった。
  また、戦費が嵩(かさ)む中、勝頼は、税を重くし、
 賦役も課していた。
  人心も、勝頼を離れて行っていた。
  悪いことが重なっていた勝頼だった。
  そして、忠臣・木曽義昌が、勝頼に謀叛したとの知ら
 せに激怒する勝頼だった。
  その義昌へ、怒りのあまりか? 従兄弟の軍5000を出
 陣させた。
  また、自身の大切な軍までも、1万5000もの兵をも出陣
 させるという勝頼だった。
  そして、義昌の一族をすべて殺した勝頼だった(子供
 までも)。
  信長は、勝頼による義昌親族の殺害を知ると勝頼討伐
 を決意した。
  信長の動員令によって、織田軍は伊那から進軍し、信
 長の家臣の金森軍は飛騨から、家康は駿河から、氏政軍
 は相模・伊豆から進軍した。
  信長が、討伐決定した2月3日の当日に、早くも、森長
 可らの先鋒隊が、岐阜城から出陣した。
  出陣していく織田軍に寝返り、戦わずして信濃へと招
 き入れる国もあった。
  織田本隊は、2月12日に、岐阜城と長島城から出陣した。
  翌々日には岩村城へ進み、勝頼に討たれた木曽義昌勢
 が、織田一門らの支援を受けながら、武田勢と鳥居峠で
 戦い、そして、勝利した。
  この様な事で、戦いは進んで行くが・・、
  勝頼の勝の目は・・どこにもなかった。
  勝頼の最後は・・、わずかな手勢で、天目山を目の前
 にした地で、織田の大軍と奮闘し、撃退している・・武
 田軍の将たちは活躍している・・が・・勝頼に最後の時
 が来る。
  勝頼は、まだ元服していない跡継ぎの信勝に「小桜韋
 威鎧兜、大袖付(こざくらかわおどしよろいかぶとおお
 そでつき)」(国宝、武田家代々の家督の証)を着せ、
 父子で自刃したという。
1582年3月11日、教科書に、この日に、織田信長が、武田氏
 を滅ぼす・・と、歴史教科書に書かれているが、
  この時、信長はまだ美濃にいた。
  実際は、信長の長男の信忠が滅ぼした。
  この日、武田勝頼が、追い詰められ、天目山麓の田野
 (山梨県甲州市)で自刃した。
  信長は、長男・信忠を買っていた。
  常に、戦場に連れて行った。
  信忠は、本能寺の変の時に、信長とともに死んだ(二
 条新邸で)。
1582年5月8日、秀吉が、高松城水攻め。
  秀吉が、備中・高松城(城主:清水宗治)を攻めに取
 りに掛かり、
  1582年5月8日に、2万5000の軍勢が、昼夜兼行で築堤工
 事に取り掛かった。
  長さ・約2.8キロメートル、高さ・約7メートルの土手
 をわずか19日の突貫工事で完成した。
1582年5月、四国攻め、
  この月の上旬に、信長は、三男・織田信孝を総大将に
 して、丹羽長秀・蜂屋頼隆らを副将として、四国方面軍
 を編成した。
  そして、四国攻めの指示を下した。
  それまでの四国・長宗我部元親(ちょうそかべもとち
 か、土佐国の戦国大名)と信長の関係はうまく行ってい
 た。
  元親は、1575年に、土佐を統一していた。
  また、元親の子供に、信長の一字を貰うなどしていた。
  信長と元親の間の取次役は、明智光秀だった。
  ここに、秀吉の都合が出てくる。
  秀吉は、毛利攻略に、四国の三好氏の水軍の力を借り
 たいと思っていた。
  そこで、養子縁組的な話も出て秀吉と、阿波の三好氏
 とはうまく行っていた。
  元親には、信長から、「四国は切り取り自由」の朱印
 状を貰っていた。
  四国は自由に切り取って自分の国にしていいよ・・と、
  元親は、武力で四国を切り取っていた。
  この時、秀吉の都合と、元親の行動がバッティングす
 る。
  信長は、元親に、土佐及び阿波南半分を領有のみを許
 し、他の占領地は返還するように命じた。
  しかし、元親は、信長が認めた事だと言い、また、信
 長の力を借りたものではないとも言い・・、
  指図を受けるいわれもないと・・はねつけた。
  光秀が、説得したが、
  1581年頃に、交渉は決裂していたと判断できる。
  毛利なども関係し・・反織田同盟も結ばれた。
1582年5月15日、明智光秀が饗応役となった安土城に、徳川
 家康の接待が行われている。
1582年5月29日、四国攻めの織田信孝の軍が、摂津住吉(大
 阪市)に着陣した。
  また、丹羽・津田勢は大阪に、そして、蜂屋勢は和泉
 岸和田に集結し、総勢1万4000が、四国への渡海に備えて
 いた。
  6月2日が出航する予定だった。
  しかし、この日が、本能寺の変で立ち消えとなった。
..
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(増補版)84C2/3:気になった事柄を集めた年表(1580年9月~1581年10月)

2015-04-27 16:29:08 | 日記
題:(増補版)84C2/3:気になった事柄を集めた年表(1580年9月~1581年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1580年、スペインが、ポルトガルを併合した。
  スペインのフェリペ2世が両国を統治した。
  スペインとポルトガル、この2国は交易圏の拡大を競
 ってきた。
  16世紀後半に入ると、ポルトガルの富の西ヨーロッパ
 への流出が原因とする国力衰退が目立ってきた。
スペインはその併合を狙うようになり、ポルトガル王系
 の断絶を契機に、この年に、スペインのフェリペ2世が
 軍隊を派遣し、ポルトガル王位を継承し、併合した。
  スペインのこの王朝は、超宗教的なキリスト教カトリ
 ックの王朝で、1492年に、『ユダヤ教徒追放令』を出し、
 卑劣なユダヤ教徒殺戮など迫害・いじめをした。
  多くのユダヤの方々が殺戮された。ユダヤの方々は逃
 げ回った。
  そしてまた、このスペインは、キリスト教プロテスタ
 ントのイギリスと多くの戦争をして来た。
1580年9月26日、織田信長が、大和に検地指出をする。
1580年11月17日、柴田勝家が、加賀一向一揆を討つ。
1580年代、この年代から始めた干拓事業で、倉敷が陸地に
 なった。
1580年、秀吉は、中国地方の征伐を命じられて、播磨(兵
 庫県)を平定すると、姫路付近を検地している。
  これらは、信長の武将としての立場の検地であるが、
 この後、1582年から、秀吉は、独自の立場で次々と各地
 の検地をを行った。
  秀吉が、実施した検地が具体的にみられるのは、信長
 の一武将であった1580年のものが初見である。
1581年4月1日、京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)
  織田信長が、京都で馬揃えを挙行する。
  信長が行なった大規模な観兵式・軍事パレード。
  これは、丹羽長秀や柴田勝家をはじめ、織田軍団の各
 軍を総動員する大規模なものだった。
  正親天皇が招待された。
  『天下布武(武によって天下を治め平和にする、そし
 て、七徳の武という施政者の徳を持つ)』を標榜する信
 長は、このパレードの実施によって、京都はじめ、周辺
 大名、庶民に至るまでへ、自分の思いを示した。
  信長は、皇居修復をしたりしているが、天皇を立てた
 姿勢の中での施政を目指していた。
1581年9月、信長が、伊賀を平定する。
1581年9月、安土城が内部装飾完成。
  信長が、狩野永徳父子や「奈良の大工や諸職人」の頭
 (かしら)に、小袖(こそで、袖口の小さく縫いつまっ
 ている和服)を与えている。
  安土城の内部装飾が完成したのであろう。その祝の小
 袖だろう。庶民にまでを思を至らす心があった。
1581年10月25日、鳥取城が落城する。
  それでも吉川経家は耐え抜き、4か月も籠城を続けたが、
 10月に至って、遂に降伏した。
  城主である経家と重臣の切腹との引き替えで、兵卒の
 助命なされ、開城とした。
  しかし、開城後、あまりの空腹のところに、食料を得
 て食事したため、兵士が死亡するという事態が起きた。
  多くの兵士が亡くなったという記録が残っている。
  秀吉は、多くの切腹は避けようとした。
  城主の切腹までも避けようとした。
  しかし、経家の意思は固く、信長の許可を得て、城主・
 経家以下、臣下2名、計3名の切腹で決着している。
  吉川経家、享年35歳だった。
1581年、日本最古の海洋の法規集である「廻船式目(かい
 せんしきもく)」が成立した。
  瀬戸内海の海運業者の習慣法を成文化したものと言わ
 れる。
  鎌倉期の成立とあるが、追記が色々あり、実際の成立
 年代は、室町末期とされている。
  海難救助、船荷の損害賠償など多岐にわたる。
  国内の十大港湾などが記されている。
1581年、オランダが独立を宣言した。
  オランダは、キリスト教のカトリック国であるスペイ
 ン領で、その統治下にあった。
  そのスペイン国王・フェリペⅡ世は、キリスト教プロ
 テスタントを弾圧した。
  オランダ(ネーデルランド)はキリスト教プロテスタ
 ントだった。
  人々は、また、カトリック国スペインの重税にも苦し
 んでいた。
  スペインは、統治を一層強化した集権統治とし、弾圧
 統治を強めた。
  キリスト教の司教区制度もキリスト教に都合よく変え
 た。
  キリスト教宗教裁判も厳しく、民からの廃止の声が叫
 ばれた。
  財政的にも、民衆は窮乏していた。
  民衆の反発は、そのキリスト教へ向かった。
  キリスト教会などの聖像の破壊などが勃発した。
  スペインは、強圧的に武力による抑え込みにかかった。
  また、新しい法律を作ったりして、一層、民を苦しめ
 た。政治は恐怖政治となった。
  騒乱罪も新設された。
   ドイツに亡命していた貴族・オラニエ公は、1568年、
 軍をオランダへ侵攻させた。ここに戦争が始まった。
  オランダの北部7州は同盟して戦った。
  そして、この年に、スペインへの臣従の拒否を宣言し、
 イギリス女王やフランス王の弟を主権者として迎えよう
 としたが失敗し、独立の州主権と州議会を持つ独立を宣
 言した。
  因みに、オラニエ公は、1584年に、暗殺された。
  この様な経過の中でスペインとの戦いは続いた。
  休戦条約が、1609年に、結ばれ、12年間の休戦はあっ
 たが、1621年に、戦いは再び起こった。
  ウェストファリア条約によって、1648年に、独立が承
 認された。
  八十年戦争(1568年~1648年)とも呼ばれる粘り強い
 戦いであった。
16世紀後半~17世紀、魔女熱狂。
  ヨーロッパは、魔女熱狂の時代だった。
  キリスト教が、大権力を保持し、民衆へ大迫害を加え
 ていた。聖俗の領権力を保持した。
  弾圧の一つが魔女による弾圧。
  夜、野草を煎じる助産婦が狙われた。
  また、財産を持っている女性が狙われた。
  魔女裁判の最盛期だった。
  焚刑にされた女性を焼く煙で、ヨーロッパの空が曇っ
 たと言われるくらいだった。
  全滅した村も出た。
  キリスト教会へ告げ口することが盛んに行われた。
  助産婦が、キリスト教に狙われたのは、助産婦は、医
 者的な知識が豊富で、庶民の尊敬を集め、に頼られてい
 た。
  その社会的地位が、権威が欲しいというキリスト教に
 は目障りだった。
  キリスト教は、医学と手を結んで権威を得たいとも考
 えていた。
  その意味でも助産婦の女性の方々を無くしたかった。
  医学関係の十字マークはその名残り、何ら、美しい話
 ではない。
..
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(増補版)83C2/3:気になった事柄を集めた年表(1578年6月~1581年6月)

2015-04-27 02:52:31 | 日記
題:(増補版)83C2/3:気になった事柄を集めた年表(1578年6月~1581年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1578年10月、摂津国(大阪府北部)有岡城で荒木村重(あ
 らきむらしげ、元信長・秀吉の家臣)が叛いた。
  三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は、有岡城
 で突如、信長に対して反旗を翻した。
  謀叛の理由は諸説(信長公記、フロイス日本史)ある、
  1、村重は、義昭や本願寺とも親しかったため、その
 両者の要請を受けて反逆した。
  2、村重の家臣が、秘かに本願寺へ兵糧の援助をして
 いたため、それが信長に発覚したのではと恐れた。
  3、信長の側近との軋轢・・など。
1578年11月、織田信長が、池田恒興に摂津・有岡城(兵庫
 県伊丹市)の荒木村重の謀叛に際し、有岡城攻めを命じ
 た。
  (いけだつねおき、尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美
 濃大垣城主、1536年~1584年)
  恒興の母は、信長の乳母(めのと)で、故に、信長と
 恒興は、乳兄弟の関係にある。
  恒興は、幼いころから信長に仕えた。
  尾張平定の戦いのほとんどを従軍している。
1578年11月、信長が、毛利水軍を破った。
1578年10月、コサック兵が、シベリアへの進出を始めた。
  シベリアに、最初に進出したのは、ロシア皇帝の軍隊
 ではなかった。
  最初に進出したのは、ストロガノフ家という特権商人
 だった。
  ストロガノフ家は、コサック軍団を雇い、シベリアへ
 進出した。
  ストロガノフ家は、世襲的に領土を持っていて、そこ
 で集めた税を中央へ納めるという封建領主的な特権商人
 であった。
  そこで、その領土を防衛するために、皇帝の了解のも
 とに、やがて、兵を雇い、武器を保持した。
  ストロガノフ家は、イェルマーク(コサックの頭領で
 シベリアの探検家)へ、東進して植民化する許可を与え
 ていた。
  このイェルマークが、この1578年10月に、コサック軍
 を率いて東進した。
  イェルマークの軍は、1581年9月には、シビル=ハン国
 (ジンギス・カンに由来する西シベリアの国)の首都を
 攻略している。
1579年5月、安土城が完成した。
  安土城の天守閣は、着工から3年後にほぼできたらしく、
 信長は、この時に、移り住んでいる。しかし・・、
  ルイス・フロイスは、自著の日本史に、この年に、安
 土城は落雷で本丸が焼失したと記している。
1579年5月2日、2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ、家
 康の3男)が生まれた(1579年~1631年)、将軍期間:
 1605年~1623年、
1579年6月、明智光秀が、信長に謀叛した別所長治に味方す
 る丹波国(京都府中部)の八上城の波多野秀治ら兄弟3人
 を降ろし、丹波国を平定した。
1579年9月、荒木村重が、有岡城を脱出した。
  信長に、1578年10月に、反旗を翻していた村重が、織
 田軍に攻められ籠城していたが、
  この時に、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城
 の尼崎城へ移った。
  毛利軍の将がここに居たため、その将へ尼崎への援軍
 要請であったという。
  村重は、その後、ここから西へ逃れることなく、この
 城で半年以上も抗戦する。
1579年10月5日、徳川家康の長男・信康(のぶやす、1559年
 ~1579年)が、家康や老臣との軋轢から切腹をさせられ
 た。
  桶狭間の戦いの後、家康が今川氏から自立する動きを
 してからも、信康は、母(家康の正室)築山殿と共に駿
 府に抑留され、今川氏の人質になっていた。
  そして、1562年、人質交換で岡崎に引き取られ、
  織田信長の娘五徳(徳姫)と、1567年に、結婚した。
  家康が浜松城に移った後に、岡崎城主となった。
  家康が徳川姓を称した後も、岡崎信康、あるいは、松
 平信康と呼ばれていた。
  信康の居る岡崎城に残った母・築山殿と、妻・徳姫と
 の折り合いが悪く、また、運悪く、家臣から武田勝頼に
 通牒する者が出るなどして、
  信長が、徳姫からの手紙で、この事を知って、家康に
 信康の処分を命じた。
  信康は、岡崎城を、1579年8月4日に出され、遠江堀川
 城、さらに二俣城へと移され、
  この二俣城で、1579年10月5日に、切腹させられた。
1579年10月、宇喜多直家が、秀吉に応じた。
  (うきたなおいえ、備前国・岡山県東南部の戦国大名、
 主君:浦上宗景→毛利輝元→織田信長、子に秀家)
  下剋上を繰り返ししながら、下剋上の人であり、その
 様な胸中に生きた人。
  この年の1979年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、
 中国方面に進軍して来る。
  これに対抗した直家は、1579年5月に、信長に内応した
 として東美作の後藤勝基を滅ぼしている。
  しかし、この年、1579年10月に、毛利家と手を切って
 信長に臣従した。
  以後、毛利と各地で戦うが、1581年に病死した。53歳。
1580年1月17日、秀吉の兵糧攻めにあっていた別所長治が、
 兵庫県播磨の三木城で、城兵の助命と引き替えに、妻子
 兄弟と共に自害した。
1580年3月、信長は、本願寺光佐と和睦する。
1580年4月、柴田勝家が、信長の命により、北陸一揆の最大
 拠点の加賀一向一揆を討った。
1580年5月、秀吉が、第一回の鳥取城攻め。(6月説あり)
  秀吉は、三木城を陥落させたのち、因幡に入った。
  第一回の鳥取城攻めである。
  この時期、秀吉は忙しく活躍している。
  この城には、因幡国守護職(いなばのくに、鳥取県東
 部)である山名豊国が籠もっている。
1580年8月、本願寺光寿降伏、本願寺消失。佐久間信盛・林
 通勝・安藤範俊ら追放。大和諸城破却。
1580年9月、山名豊国は、秀吉の鳥取城の包囲の3か月後の
 9月に降伏する。
  山名豊国は、信長に臣従した。
1580年9月、しかし、鳥取城へ毛利輝元が攻めよせて来た。
  今度は、豊国は毛利に対して降伏した。
  鳥取城の家臣団は、毛利家への従属を主張して豊国と
 対立する。
  この時、豊国が、信長と内通していることが発覚した。
  家臣団は、城主である豊国を追放して、新たな城主を
 迎え入れる決定をした。
1581年3月18日、鳥取城の城主として、豊国の代わりとして、
 吉川経家が入城した。
1581年6月25日、秀吉が、鳥取城へ再度、派兵する事を決断
 し、この日、2万の兵を率いて出陣した。
1581年6月29日、秀吉が、因幡国(2度目の鳥取城攻め)に
 侵攻した。
  秀吉は、帝釈山に本陣を構えた。
  そして、砦を14~15をまたたく間に築き、4万の兵によ
 る鳥取城の包囲陣を完成させた(秀吉は。この包囲網を
 7月12日に完成させている)。
  そして、毛利輝元の将・吉川経家と睨み合った。
  秀吉は、また、兵糧攻めにする。
  吉川経家は、11月まで持ちこたえれば、鳥取は雪に埋
 もれるため、秀吉の大軍は包囲を続けることは出来なく
 なるだろうと読んでいた。
  この時、鳥取では米の不作による高騰に、鳥取城は、
 これに流されて兵糧米の備蓄を鉄砲や弾薬と交換してお
 り、米の備蓄が乏しかった。
  また、秀吉は、事前に、この地域の食糧を買い占めて
 いた。これもあって米価は高騰していた。
  前年の豊国の籠城の時は十分にあったが、経家の赴任
 するまでの間、前城主の追放の間の城主不在の時に、兵
 糧の多くが流出していた。
  また、秀吉は、毛利の鳥取城への兵糧送り込みを徹底
 的に阻止した。
  また、秀吉は、鳥取城を応援する支城を攻撃し、敵の
 兵站線を遮断して、城への補給の手を完全に絶つ作戦を
 講じた。
  また、村人が鳥取城へ逃げ込むように仕向けた(鳥取
 城は、尾根伝いに雁金山城、丸山城と二つの支城を持っ
 ていたが、鳥取城と丸山城を連絡する雁金山城を強硬に
 攻めて落城させたため、鳥取城には雁金山城の敗残兵や
 周囲の村人が入る形となっていた)。
  鳥取城の兵糧は、6月の進軍からわずか1ヶ月後の7月に
 は尽きて来た。
  9月頃から兵糧が底をついた。城内は、草の根や木の皮
 などで飢えをしのぐ様となったという。
  それを、食べつくすと馬を食べ、この頃から餓死する
 者が出る様になったという。
  餓死する者4000と伝えられている。
  「甫庵太平記」に、「真黒にやせ衰えた男女が多数よ
 ろめき来たりて・・」とある。
  攻め手の秀吉側には人的損害はなかった。
  秀吉の道案内した豊国は、このあまりにも悲惨な状況
 を目にした事から、俗世を絶って武人から文人となった。
  この時期の秀吉の作戦には、キリスト教に感化された
 黒田官兵衛に作戦を関わらせた。これ以後、ヨーロッパ
 によくあるキリスト教的な悲惨な酷(むご)い作戦が多
 くなっている。
  この黒田官兵衛が、NHKの大河ドラマになったが、
 キリスト教に偏するNHKは、史実無視的に、一切、放
 送しなかった。
  ただただ、キリスト教を巧妙に美化して放送する放送
 局だった。
  黒田官兵衛が、キリスト教を捨てていることも放送し
 なかった。
  そして、因みに、この山名豊国は、秀吉亡き後、徳川
 幕府に入り、家康と秀忠のお伽衆を務め、1601年には、
 家康より但馬国に6700石を貰っている。
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(増補版)82C2/3:気になった事柄を集めた年表(1577年12月~1578年6月)

2015-04-25 02:11:36 | 日記
題:(増補版)82C2/3:気になった事柄を集めた年表(1577年12月~1578年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1578年頃、別の説:秀吉が、信長の4男・於次丸(於継丸で
 はない)を養子にもらう。
  この頃、秀吉は、信長に願い出て、信長の4男の於次丸
 (おつぎまる)を養子に貰い受けた。
  於次秀勝と言われる。
1578年1月、信長が、正二位に昇叙した。
1578年2月、播磨国(兵庫県南西部)三木城の別所長治が
 叛いた。
  別所長治は、東播磨8郡を治めるこの地域の最大の勢
 力であった。
  隣接する摂津(大阪)の三好家に対抗するため、いち
 早く信長に属した。
  信長の中国征伐でも先手を務めて、播磨一国を賜る心
 づもりでだった。
  しかし、この長治の思惑とは裏腹に、秀吉が、中国征
 伐の責任者として播磨に乗り込んで来た。
  このままでは、思っていた望みはかなうまいと思った。
  一方、毛利輝元に庇護されていた足利義明は、幕府崩
 壊後も地方の大名への依然として権力を保持しており、
 各地に檄を飛ばし、第三次信長包囲網を形成していた。
  長治は、その様な義昭の調略を受け、突然、毛利方へ
 寝返った。
  すると、長治が影響力を持っていた東播磨周辺の豪族
 も長治に同調し、東播磨の豪族が一斉に信長に叛旗を翻
 した。
1578年3月、信長の別所長治討伐命を受けた秀吉は、勝家と
 の意見が合わず、無断で戦線離脱した汚名を返上すべく、
 この命に取り組んだ。
  まず、長治の叔父・別所重棟を呼び、長治説得を命じ
 た。
  しかし、その説得も効が無く、秀吉は、三木譲攻撃を
 決定した。
  秀吉は、黒田官兵衛の進言を入れ、姫路城から書写山
 に本陣を写し、3月29日に、三木城を包囲し、攻撃を開始
 する。
  一方、毛利輝元も、長治寝返りを好機として、一気に
 播磨制圧をしようと、陸路と海路の両面から、播磨へと
 侵攻を開始した。
  そして、4月中旬から本格参戦した。そして、上月城を
 包囲した。
1578年3月13日、上杉謙信が没す(1530年~1578年)
  毛利の下に居る義昭は、1576年に、反信長勢力を糾合
 した。
  義昭の仲介で、1576年5月には、甲州・相模・越後の
 「甲相越一和」が試みられており、
  謙信は、信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺
 と和睦した。
  これによって信長と謙信の和睦は、破綻した。
  謙信が七尾城(石川県七尾市)を攻めていた1577年、
 援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の
 派遣を決定し、謙信との戦いに踏み切った。
  信長の大軍が動いた。
  この軍は、途中、秀吉と、総大将の勝家との意見が合
 わないで、秀吉が引き上げるなどの足並みの乱れも生じ
 たりしていたが、謙信の大軍とのし烈な戦いも発生した
 りした。
  色々な城を巡っての戦いがあり、戦上手の謙信に、柴
 田勝家は撤退した。
  謙信軍は、撤退する勝家軍を追撃し、1577年11月3日に、
 織田軍を撃破した(手取川の戦い・石川県白山市の川)。
  そして、謙信は、約1ヶ月後の1577年12月18日に、春日
 山城(新潟県上越市)に帰還した。
  年が明けた頃の予定では、1578年3月15日に、遠征を開
 始する予定だったらしい。
  しかし、その出陣予定の6日前の3月9日に、謙信は、遠
 征準備中の春日山城で倒れた。
  そして、その4日後の3月13日、この日の未の刻(午後
 2時)に、急死した。49歳だった。
  遺骸は、鎧を着せ、太刀を帯びさせて、甕(かめ)の
 中へ納め、漆で密封した。
  この甕は、上杉家が、米沢に移った(1601年8月)後も、
 米沢城の本丸の一角に安置されたという。
  明治になって、歴代の藩主が、上杉家の御廟へ移され
 たという。
1578年4月、信長が、右大臣を辞した。
  信長が、右大臣と右近衛大将の両官を辞した。
  この様な官位は、もはや必要なしと見たのだろう。
  また、性格として貴族風にはなじめないとも感じたの
 だろう。
  また、官位に伴う煩わしい儀式や交際をつとめて避け
 ようとしたのだろう。
1578年6月21日、救援の秀吉が退陣し、信長方の上月城(兵
 庫県佐用郡作用町)が落城した(尼子氏が滅ぶ)。
  上月城を攻める毛利勢と、上月城を救援に駆け付けた
 秀吉勢が、上月城下で戦った。
  秀吉は敗れ、書写山(兵庫県姫路市)に陣を移すこと
 になった。
  後詰めの援軍によって助けられる見込みがなくなった
 上月城は、毛利氏に攻められ、簡単に攻め落とされてし
 まった。
  尼子勝久は自殺し、山中幸盛も捕らえられ、移送の途
 中に殺された。
  秀吉軍は、信長の命令によって三木城攻めに向かうた
 め撤退したのだという。
1578年6月29日、秀吉が、播州・三木城(兵庫県三木市)を
 攻めた。
  この年の初め、信長に味方していた三木城の別所長治
 が、毛利輝元と通じて、信長に反旗を翻(ひるがえ)し
 た。
  この日、秀吉は、三木城攻めを始めた。
  この戦いは予想以上に長引いた。
  1580年1月までかかった。
  別所長治以下、主だったものの切腹と引き換えに、城
 兵の命は助けるという条件で開城する事になった。
  城主・別所長治が、1580年2月2日に、切腹し、長かっ
 た三木城攻めの幕は閉じた。享年23歳。
  辞世は、
  「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかは
 る 我が身とおもへば」
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