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(増補版)475E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)

2016-12-30 03:54:58 | 日記
題:(増補版)475E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年1月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年(明治22年)、出来事:
・憲法発布:2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
  天皇陛下が定める欽定憲法。
・内閣総理大臣
 黒田清隆:明治21年4月30日~明治22年10月25日
 三条実美:明治22年10月25日~明治22年12月24日(内大
      臣兼任)
 山県有朋:明治22年12月24日~明治24年5月6日
・森有礼文相暗殺:2月11日、東京・麹町区(現=千代田区)
 永田町の文部大臣官邸で森有礼文相が国粋主義者に刺さ
 れ、2月12日に死亡した。
.
1889年、内閣・行政:
・市の成立:2月、内務省が36の市を告示。
・特別市制:3月23日、東京・京都・大阪を特別市制とする
 ことが公布。
・市制:4月1日、日本に初めて31の市が誕生した。
 江戸御府内を基礎とした15区により東京市が成立。
 年内に計40の市ができた。
・第1次山県有朋内閣(12月24日~)
.
1889年、皇室:
・新宮殿:1月11日、天皇陛下が赤坂の仮皇居から新宮殿に
 移られた。
.
1889年、国際・国際会議:
・エッフェル塔完成:3月31日、[フランス]パリのシャン・
 ド・マルス広場に建設されたエッフェル塔の落成式が行
 われた。
  フランス革命100周年を記念して開催されたパリ万博の
 シンボルとして建てられた。
  高さは312.3mで、当時、世界一高い建造物。  
.
1889年、防衛・軍事:
・徴兵令改正(一年志願兵制度)公布:1月22日。
 1年志願兵の制が始まった。
・憲兵条例を改正公布(憲兵):3月。
・陸軍省 「陸軍歴史」(全30巻)出版
・海軍省 「海軍歴史」(全25巻)出版
.
1889年、経済・金融・貿易:
・日本生命保険会社開業:9月20日、
・ビール工場建設:日本麦酒目黒工場(現恵比寿)完成
  日本麦酒醸造会社(現=サッポロビール)が東京・下
 目黒村(現=渋谷区恵比寿)にビール醸造所を建設。
  煉瓦造りの3階建ての工場を建て、ドイツ人技術者を招
 き、ドイツ産の麦芽を使用してドイツ製醸造機械で生産
 を始めた。  
  1888年、工場地購入
  1890年、恵比寿麦酒発売
  1899年、ビヤホール
・年末、神奈川県、石油貯蔵規則を発布し、石油小売商人
 困難となる。
.
1889年、物価:
・物価:氷、1貫目:8銭。
.
1889年、交通・運輸:
・東海道鉄道全通:
・鉄道一千哩記念祝賀会
・九州鉄道開業
・横須賀線開通
・国府津~静岡間開通:2月1日、東海道線の国府津~静岡
 間が開通。国府津~沼津間は箱根の山の北側を回るルー
 トで現在の御殿場線。
・東海道線の静岡~浜松間が開通し新橋~長浜間が全通し
 た:4月16日。
・中央線開業:4月11日、甲武鉄道の新宿-立川間が開業。
・甲武鉄道の立川~八王子間が開業:8月11日、新宿-八王
 子間は1時間17分。中央線の前身。
・東京乗合馬車会社が開業:5月11日、
・東海道線の車両に便所が設置:5月、
・丸亀~琴平間開通:6月23日、讃岐鉄道の丸亀~琴平間が
 開通した。
  現在の予讃線・土讃線の一部で、四国の鉄道の始まり。
・横須賀線の大船~横須賀間が全通:6月16日、
・東海道線全通、湖上連絡船廃止:7月1日、馬場(のち=
 大津、現=膳所)~米原~関ヶ原が開通し、新橋~神戸
 間を結ぶ鉄道の東海道本線が全線開通した。
  直通列車は、1日1往復で所要時間は約20時間。
 運賃が改定され、新橋-神戸間は下等で3円73銭。
 長浜~大津間の琵琶湖の湖上連絡船は廃止:初の鉄道連
 絡船(1883年)
・東京湾汽船(現=東海汽船)が開業:11月11日、
・博多~千歳川間開通:12月11日、九州鉄道の博多~千歳
 川(久留米近くの筑後川の右岸にあった)間が開通した。
  現在の鹿児島本線の一部で、九州の鉄道の始まり。
.
1889年、衣:
・警察官・消防官の帯剣が制定された。
・服飾に復古的な傾向強く現れ始め、日本髪用品の売れゆ
 きが良くなる。
.
1889年、食:
・フランスの万国博覧会に上菱ビール出品される。
.
1889年、住:
・凾館水道竣工
・東京石工組合認可
・木挽町に歌舞伎座建つ
・大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈、それぞれ開業
・福島県郡山水道会社開業
.
  (今日の言葉)
.
  題:次期アメリカ大統領のトランプ氏で、この様な筋の通
    らない話は変わると考えるが・・
.
1905年、アメリカは、日露戦争によって、アメリカが目指
 した「日本の勝利」「ロシアの敗北」の目標が達成され
 た結果、
  「中国市場を獲得したい」というアメリカの目的や、
  「ロシアの満州支配の強まり除去」(ロシアの市場化
 の動きを除きたい)のアメリカの目的が達成され、そし
 て、そうなると感じた。
  しかし、実際にその様になってみると、そこに、用済
 みとなった日本が居て、今度は、中国(清)のアメリカ
 の市場化の対抗軸に日露戦争に勝利した日本が居た。
  この時点が・・、この日露戦争の後こそが・・、
  「アメリカが、日本を叩きたいとした出発点」だった、
 「日米対立の序曲」だった。
  今までのアメリカの行動の原点には・・「自分たちの
 利益を追求したい」だけがあった・・、
  そこには、常に、戦争を介在していた・・、
  今度は、その日本を除きたいとする・・その様なアメ
 リカが居て・・、
  アメリカは、日本をその様な位置に位置づけた。
  ここに日本の悲劇があった。
  (アメリカは、共に進むかたちを、常に、取ろうとし
 て来なかった)。
  この翌年の1906年、セオドア・ルーズベルト大統領(
 第26代アメリカ大統領、在任期間:1901年9月14日~1909
 年3月4日)は・・、
  「日本との将来の対決を予想した」。
  そして、愚かにも「対日戦争計画(オレンジ計画)」
 の準備を命じた。
  それは、日露戦争における、日本の見事な勝ちっぷり
 にあった。
  日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊に、見事
 な完勝をした。
  それは、「新たなアメリカの脅威」だった。
  アメリカのセオドア・ルーズベルトは、日本の勝利に
 よって満州のアメリカの市場化への道・通商の道が開か
 れると期待した。
  つまり、日本が、ドアボーイの様に演じると思った。
  しかし、日本の一級の軍事力がそこに見えた、見てし
 まった。
  アメリカは、むしろ逆に、「アメリカが、うまい汁と
 吸っているフィリピン」が奪われるという恐怖・脅威を
 感じた。
  そして、さらに日本にとって、日米にとって、悲劇な
 事は、この脅威論を背景に、アメリカ西海岸に広がった
 「黄禍論(黄色人種の日本人が、禍(わざわい)を起こ
 すという論理)」だった。
  (これは、低級なマスメディアによってあおられた)。
  さらにまた、「アメリカ西海岸に、日本が攻めて来る」
 という、まったく根も葉もないことを、アメリカで言い
 ふらされた。
.
  そして、
.
1906年、この年から、卑劣な事だが、アメリカでは、日本
 との『戦争の仮想シミュレーション』が、毎年、なされ
 た。
  セオドア・ルーズベルト大統領(第26代アメリカ大統
 領、在任期間:1901年9月14日~1909年3月4日)が、命じ
 て始められた『対日戦争計画』である。
  「オレンジ計画」と名付けられたこの計画は、具体的
 な戦争シミュレーションで、
  毎年、日本を仮想敵国として実施され、戦争のやり方
 が検討され、見直された。
  もう、日本との「戦争ありき」の、「対日戦はやるの
 だ」の頭しかないアメリカだった。
  戦争回避の話はなされず、回避策が皆無のアメリカだ
 った。
  アメリカ海軍省戦争研究所は、対日戦争に、凝り固ま
 っていた。
  好戦的なアメリカだった。
  真珠湾で日本が攻撃する筋へ持って行かれた。
  真珠湾の日本の奇襲の作り話は、本当に「ちゃんちゃ
 らおかしい作り話」なのだ。
.
  そして、
.
1913年5月19日、排日土地法
  この年に、アメリカのカリフォルニア州は、日本人移
 民の農地所有を禁じる法律を制定した。
  日本政府は、当然、抗議した。
  アメリカは、日本を逆恨みした。
  これを利用した「日本を悪者に貶(おとし)める組織」
 が、ウォー・スケア(戦争騒ぎ)を煽(あお)り、高ま
 らせられた。
  「日本軍が、攻めて来る」のではないかという病的な
 危機感に覆われた。
  海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルト(1933
 年に、第32代アメリカ大統領になる)は、この様なカリ
 フォルニアに、1914年に訪れ、
  元中国軍の顧問だったホーマー・リーが書いた本「サ
 クソンのH」が送られている。
  その本は、「イギリスが、アジア系民族によって亡ぼ
 されそうになる」という予言的に書かれた刺激的内容に
 なっている。
  この様な本を、フランクリン・ルーズベルトは読んで
 いる。
  この元中国軍顧問の男が、中国、もしくは、共産・コ
 ミンテルンの工作員の可能性は否定できない。
  また、今・現在でも、この類の様な工作が、アメリカ
 や日本などの「特に、マスコミや官僚」に、なされてい
 るという可能性が否定が出来ないという。
  それは、マスコミや官僚をターゲットにするのが、「
 効率が良い」からである。
.
  そして、
.
1915年、日本を貶(おとし)める工作がなされた二十一ヵ
 条要求。
  これは、日本がはめられた事件だった。
  今、新事実が、次々に明らかになって来ているが、
 そして、歴史的事項が、あらゆる年代で書き換えられて
 いるが・・、
  この事件でも、新事実がが明らかとなった。
  当時、中華民国大統領の袁世凱(えんせいがい)が、
 中国国民を納得させるために、この二十一ヶ条を、日本
 に書いてくれと、『日本側へ頼んでいた』ということが
 明らかとなった。
  これは、当時の日本の外務大臣である加藤高明の自伝
 にも書かれているが、
  また、東郷茂徳元外相が、巣鴨プリズン(刑務所)に
 入っている時に記した回顧録にも出て来る。
  中国の「引っ掛け外交」だった。
  日本に「エサ」を撒(ま)いて、日本の失策を作ると
 いう作戦だった。
  世界へ、「日本は武力を背景に、不当極まる要求を、
 押し付けて来た」と宣伝された。
  あえて、日本へ「最後通牒」を出してくれと頼んだと
 いうことは、おくびにも出さなかった。
  日本は、完全に嵌(は)められて悪者にされてしまっ
 た。
  これは、中国の狙い通りに展開した。
  以後、日本の立場は急速に悪くなった。
  日本への世界の圧力は、急拡大して行った。
  この様な裏まで知って、そして、判断する国などなか
 った。
  日本は、悪者にされ、「武力で脅されたので無効だ」
 の論理が出てきた。
  正式に交換された条約までが無効という話になった。
  近年も、韓国が、この論調を主張するという臆面ない
 行動をとり、また、不正義な行動をしている。
  信頼などあったもんじゃない状態。
  この頃の話に、「田中上奏文」という日本が、引っ掛
 けにかかった「引っ掛け話」がある。
  これは、日本を引っ掛かけていたという事が、2005年
 に明らかになった。
  「日本の悪玉化」=「ディーモナイゼーション(悪魔
 化論)」で、日本は、どうしようもない「悪玉」にされ
 た。
  今・現代、「靖国神社参拝」が、中国によって「ディ
 ーモナイゼーション」されている。
  そして、アメリカが、中国と同じ論調となっている。
  しかし、次期アメリカ大統領のトランプ氏で、この様
 な筋の通らない話は変わると考えるが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)474E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1889年1月)

2016-12-28 04:24:09 | 日記
題:(増補版)474E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1889年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年、アメリカ合衆国のショエリダン将軍が没した。
  この将軍の有名な言葉に、
  「私がこれまであった中で最も良いインディアンは死
 んだインディアンだ」。
  まったく卑劣な人種差別の言葉である。
  アメリカの将軍たちは、インディアンの方たちに対し
 て、この様な人種差別意識を持っていた・・そして・・、
  『病的なまでの憎悪』を持っていて、強力な武器で、
 あまりにも残忍なやり方で、インディアンの方々を殺戮
 して行った。
  「徹底殲滅の姿勢」、この時に、アメリカ政府の指令・
 取らせていた姿勢が・・この「徹底殲滅の姿勢」だった。
  (参考)
  ショエリダン将軍:(1831年~1888年)両親は、アイ
 ルランドのキャバン州からの移民。
  リンカーンが、シェリダンについて言った・・、
  「褐色のがっしりした小男(身長:165cm)、胴長短足
 で、絞首台に吊るすには不十分な短い首、足首がかゆけ
 れば屈むことなく掻くことができる長い腕」・・と。
  リンカーンの人間性も分かる言葉となっている・・、
  陸軍士官学校の時、級友と喧嘩して、銃剣で突き殺そ
 うとした(そして・・1年間の停学)。
  このショエリダンの言葉である「最も良いインディア
 ンは・・死んだインディアンだ」は、アメリカで流行語
 となり、白人アメリカ人に、度々、使われた。
1888年8月31日、イギリスで、「切り裂きジャック」による
 最初の殺人事件が発生した。
  19世紀末のロンドンの売春婦連続殺人犯「切り裂きジ
 ャック」の犯行だった。
  (参考)
  切り裂きジャックは、1888年にイギリスで連続発生し
 た猟奇殺人事件の犯人の通称。
  未解決事件であり、21世紀の現在でも犯人の正体につ
 いてはいくつもの説が唱えられている。
  解剖学的知識があるとされて、ジャックの職業は、医
 師だという説が有力視されているが、近年、肉屋である
 という説も有力とされている。
  また、被害者に抵抗の後がない事から、同性の女性だ
 という説もある。
  被害者数は、5人から20人とする説がある。
1888年9月3日、帝国イギリス東アフリカ会社
  イギリスのビクトリア女王が、東アフリカ会社の勅許
 をウィリアム・マッキノンに与えた。
  帝国イギリス東アフリカ会社は、イギリス王室勅許状
 を受けた特許会社で、
  スコットランド出身の資本家であるマッキノン(1823年
 ~1893年)が創設したイギリス領インド蒸気船海運会社が、
 東アフリカのザンジバルへの航路を1872年に開設した際、
  さらに、内陸への進出を計画したことが端緒となった。
  1885年に、ドイツ東アフリカ会社が、ザンジバルの対
 岸の本土部へ進出すると、
  イギリスは、ザンジバルの首長を通して、東アフリカ
 沿岸を間接的に確保しようとした「それまでの方針」を
 変え、
  マッキノンが以前から主張していた商事会社による内
 陸統治という考えをとるようになった。
  特許会社は、王室から独占特許状を与えられて、貿易
 や生産の独占をしようとして許された会社で、
  ある範囲の行政権限をもって、植民地経営を行なった
 会社で、植民地統治をした組織であった(実質はイギリ
 ス)。
  1895年には、イギリス政府が自ら統治に乗り出し、東
 アフリカ保護領が形成された(イギリス領東アフリカ)。
 イギリスの植民地である(本性が飛び出した)。
  さらに、1920年には、ザンジバルの首長の権益が残っ
 ていた海岸部を合わせて、ケニア植民地、および、保護
 領とした。
  最初は、モンバサ港周辺にイギリスが持っていた商業
 利権をもとに、
  1888年、勅許会社の帝国イギリス東アフリカ会社(IBEA)
 が設立されて・・経営(統治)が開始され、
  1895年に、現在のケニアに相当する部分が保護領とな
 り・・、この保護領は・・
  1920年に、直轄のケニア植民地となる。
1888年、イギリスが、サラワク王国、ブルネイ、北ボルネ
 オを保護国化(実質の植民地)した。
  1841年、ブルネイのスルタンが、イギリス人探検家ブ
   ルックにサラワクを領地として与え、「白人藩王」
   が誕生した。
  1846年、サラワク王国が、ブルネイから独立した。
  1881年、イギリスの北ボルネオ会社が、サバを租借し
   た。
  1888年、サラワク王国と北ボルネオ会社に、領土を侵
   食されたブルネイが、イギリスの保護領となった(
   乗っ取られた)。
  1890年、サラワク王国が、リンバン川流域を併合した。
   テンブロンは、ブルネイ本土から切り離された。
  1963年、サラワクとサバが、マレーシア連邦に参加し
   た。
   ブルネイは、イギリス領のまま残り、テンブロンは、
   その飛び地となった。
  1984年、ブルネイが、イギリスから独立した。
  ボルネオ島の北側にあるブルネイは、古くから中国の
 文献に交易拠点として記載されて、アジアとヨーロッパ
 を結ぶ「海のシルクロード」の中継地として繁栄してい
 た。
  18世紀に、東側にあるサバが、「海賊の島」として有
 名なスールー諸島のスルタンに取られてしまった。
  そして、19世紀には、内乱が起こり、ブルネイのスル
 タンが、1839年に、やって来たイギリス人の探検家ジェ
 ームズ・ブルックに鎮圧を頼んだ。
  そして、鎮圧に成功したブルックに、スルタンはクチ
 ン(現在サラワク州の州都)を領地として与えてラジャ
 (藩王)に任じた。そうしたら・・、
  ブルックは、白人王(ホワイト・ラジャ)に即位して
 サラワク王国を作った(国を乗っ取った)。
  そして、イギリスの保護の下で、次々とブルネイの領
 土を奪って拡大していった(植民地の拡大)。
  1881年、一方のサバも、イギリスが作った北ボルネオ
 会社が、この年・1881年、スールー島のスルタンから租
 借し、ブルネイの領土を侵食しながら拡大して行った。
  こうして、東西から挟み撃ちにされたブルネイは、残
 った領土を保全しようと、
  1888年に、イギリスの保護領になったが、間もなく内
 陸部からも勢力を拡大していたサラワク王国にリンバン
 川流域を奪われて、テンブロンは飛び地になってしまっ
 た。
1888年11月14日、パストゥール科学研究所が設立された(
 1887年説あり)
  L・パスツールの業績を記念して、1888年、パリに設立
 された医学研究所。
  設立にあたっては、フランス内外・世界からの醵金(き
 ょきん)による多くの寄付金が寄せられた。
  また、11月14日の開所式には、フランス大統領が列席
 するなど、この研究所は、当初からフランスにおける、
 伝染病の研究・治療の中心としての役割が期待された。
  そのため、この研究所には、所長のパスツール以下、
 彼の弟子たちを中心に優秀なスタッフが集められた。
  彼らは、狂犬病など伝染病の予防と治療にあたるほか、
 生物化学や細菌学など基礎的研究に取り組んだ。
  創設時の建物は、現在、パスツール博物館となってお
 り、彼が使用した顕微鏡はじめ、各種実験器具類が、完
 全に保存されているほか、
  自然発生説否定のために創案した「ハクチョウの首型
 フラスコ」や、研究発表のための乳酸菌・酵母などの微
 生物形態図、カイコの図なども保存されている。
1888年6月15日、ドイツのヴィルヘルム2世が即位した。
  (~1918)
  独帝フリードリヒ3世死去し、ヴィルヘルム2世即位。
  年に二回皇帝が代わったことから「三皇帝年」と言わ
 れた。
  プロイセン王子フリードリヒ(フリードリヒ3世)と、
 イギリス王女ヴィクトリアの長男としてベルリンに生ま
 れた。
  1888年に、祖父ヴィルヘルム1世、父フリードリヒ3世
 が相次いで死去したことにより、29歳でドイツ皇帝・プ
 ロイセン王に即位した。
  祖父の治世において、長きにわたり宰相を務めたオッ
 トー・フォン・ビスマルク侯爵を辞職させて親政を開始
 し、治世前期には、労働者保護など社会政策に力を入れ、
 社会主義者鎮圧法も延長させずに廃止した。
  しかし、その後保守化を強め、社会政策にも消極的に
 なっていった。
  1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は、政治的権
 力を大きく落とした。
  一方外交では、一貫して帝国主義政策を推進し、海軍
 力を増強して、新たな植民地の獲得を狙ったが、イギリ
 スやフランス、ロシアなど他の帝国主義国と対立を深め、
 最終的に第一次世界大戦を招いた。
  オーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコ、ブル
 ガリアと同盟を結んでイギリス、フランス、ロシアを相
 手に4年以上にわたって消耗戦・総力戦で戦うこととなっ
 た。
  1916年に、パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエ
 ーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将による軍部独裁体制が
 成立すると、ほとんど実権を喪失した。
  大戦末期には膨大な数の死傷者と負担に耐えきれなく
 なった国民の間で不満が高まり、ドイツ革命が発生する
 に至った。
  革命を鎮めるために立憲君主制へ移行する憲法改正を
 行なったが、革命の機運は収まらず、結局オランダへ亡
 命して退位することになった。
  そのままなし崩し的に、ドイツは、共和制(ヴァイマ
 ル共和政)へ移行し、ホーエンツォレルン家は、ドイツ
 皇室・プロイセン王室としての歴史を終えた。
  ヴィルヘルム2世自身は、戦後もオランダのドールンで
 悠々自適に暮らし、ドイツ国内の帝政復古派の運動を支
 援した。
  1925年に、ドイツ大統領となったヒンデンブルクは、
 帝政復古派であったが、ドイツ国内の議会状況から帝政
 復古は実現せず、最終的に反帝政派のアドルフ・ヒトラ
 ーによる独裁体制が誕生したことにより復位の可能性は
 なくなった。
1888年11月2日、咸宜帝(かんぎてい)が仏官憲に引渡され
 た。
  阮朝(グエンちょう)は、1802年~1945年にかけて存
 在したベトナムの王朝。
  咸宜帝(かんぎてい、1872年7月22日~1943年1月14日)
 は、阮朝の第8代皇帝(在位:1884年~1885年)
  1884年に、13歳で即位したが、
  1885年・翌年に、抗仏勤皇大蜂起の檄を発して王都フ
   エを脱出、地方の在地知識人にフランスへの徹底抗
   戦を訴えた。
   フランスは、ただちに兄の同慶帝を立て、咸宜帝に
   帰順を呼び掛けた。
   咸宜帝はこれに従わず、農村を転々として抵抗を続
   けたが、
  1888年、ついに捕らえられてアルジェリアに配流され
   た。
   やがて、現地でフランス人女性と結婚し、3児をもう
   けた。
  1943年、72歳で死去した。
1888年10月7日、中国初の海軍「北洋艦隊」が編成された。
  (北洋海軍創設)
  中国、清末期の新式海軍・主力艦隊。
  李鴻章によってつくられ、『定遠』『鎮遠』など甲鉄
 砲塔艦4隻、巡洋艦7隻、装甲砲艦1隻を中心とした。
  威海衛に基地を置き清国海軍の主力であった。
  1891年に、品川、長崎、呉、神戸を親善訪問して、中
 国海軍の主力として勢威を誇った。
  海軍の戦備が劣っていた日本に衝撃を与えた。
  中国海軍の主力として勢威を誇ったが、日清戦争で惨
 敗し、壊滅した。
1888年5月13日、ブラジルで摂政イザベル皇女が奴隷制廃止
 法案に署名 (米大陸の奴隷制終焉)
  キリスト教は、キリスト教の神が容認した慣行として
 「奴隷制が認められている」。
  キリスト教聖書にも、キリスト教の神が「奴隷にせよ。
 奴隷にせよ」と叫んでいる。
  この様に、キリスト教という「宗教として容認する」
 という形態であったことで、無くなることなく人類の歴
 史に続いて来て、悲しい歴史を刻んだ。
  また、卑劣な事に、その事がキリスト教の聖書にも書
 かれているからこそ、消えることなく、
  奴隷制は人類の歴史の中で無くなることなく続いた。
  日本においても、キリスト教宣教師がからんだ南蛮貿
 易で、日本女性が奴隷(性奴隷)として売られている。
  1582年、天正遣欧少年使節の少年たちも港々に居る売
 られた日本女性を見ているが、そのことは秘密にされ、
 キリスト教によってプロパガンダ(嘘宣伝)された。
  織田信長は、キリスト教宣教師がその様な悪とは知ら
 なかったが、豊臣秀吉は、その情報を得て、臣下に確認
 を行わせ、その事実を知り、政策を一転させた。
  1587年7月、キリスト教の禁教の施策となった(天正
 遣欧少年使節の5年後)。
  1596年、再び、秀吉が禁教令を出す。
  従った宣教師たちは、長崎出島から、ちゃんと出航し
 て行ったが・・、
  問題なのは、違反して、日本に潜伏した宣教師たちだ
 った。
  秀吉が、ちゃんと法を発令したのにもかかわらず、法
 に従わないキリスト教宣教師たちが居た。
  また、その宣教師たちは、日本の一般民衆を惑わした。
  そのため、再び、禁教令が出された。
  取締り行為もせざるを得ず、行なった・・この事を、
 キリスト教は「殉教だ、殉教だ」と騒いだ。
  法律に従わない「お前たちが悪いのだ」。
  法律違反行為者を取り締まるのは当たり前だ。
  その代表例が、キリスト教が「日本二十六聖人」と美
 化している人たちだ(法律違反者たち)。
  法に従わなかった人々、または、地下に潜ったキリス
 ト教聖職者たちに惑わされて法を破った人たちである。
  秀吉は、マニラのキリスト教本部にも「領土的野心を
 持たぬ事」と通達している(キリスト教宣教師は、日本
 の植民地化への先兵となっていた)
  この様な事は、歴史教科書から一切が隠されている。
1888年10月29日、スエズ運河の自由航行に関する条約締結
  1869年に開通したスエズ運河は、1882年以降、イギリ
 スによって軍事占領された。
  これに対し、ヨーロッパ諸国が、運河の自由通航の保
 障を求めたため、この条約が締結された。
  原締約国は、イギリス、ドイツ、オーストリア=ハン
 ガリー帝国、スペイン、フランス、イタリア、オランダ、
 ロシア、オスマン帝国(日本は加入してない)
  この条約は、運河の自由航行を定めているが、戦時に
 は、しばしば、航行が阻害された。
  第二次世界大戦中に、枢軸国の艦船が通航を拒まれた
 のをはじめ、
  1956年のスエズ危機(第二次中東戦争)では、一時運
 河が封鎖された。また
  1967年の第三次中東戦争による運河の閉鎖は、1975年
 まで続いた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ヤルタ会談・・くせものの会談・・密約のある会談・・
    嘘をつく癖のあるキリスト教に洗脳されたルーズベルトも・・同じだった・・
.
1945年2月3日、ヤルタ会談をするため、アメリカ大統領ル
 ーズベルトが、黒海に突き出たソ連領のクリミア半島の
 突端のヤルタに着いた。
  ソ連のスターリンは、まだ着いてない。
  ルーズベルトとスターリンの会談は、翌日・4日、午後
 4時に、スターリンの表敬訪問の形で始まった。
  1943年11月のテヘラン会談以来の約15か月ぶりだった。
  互いに戦果を褒め合い、打ち解けたムードだった。
  フランスを参加させるか?と、その第二次世界大戦の
 終結が見えている状況のこの中で、フランスの功績につ
 いての話になった。
  「フランスに、参加する資格はあると思いますか?」
 とスターリンは言った。
  二人は、すでに、「フランスの功績は無かった」で合
 意していたが、この言葉が出た。
  ルーズベルトは、「あるとすれば、それは親切心から
 ですな」と言い、同席しているソ連外相のモロトフと共
 に、一同は、大声で笑った。
  日本の「に」の字も出ない。
  「日本は、すでに決着している」という一同の認識だ
 った。
  この会談自体が、第二次世界大戦後の勢力圏をどう配
 分するか?に、思惑を巡らす状況だった。
  日本は、「完全に、負けるから」の認識の中にあった。
  世界の勢力圏の話し合い、駆け引きだった。
  すでに、イギリスとソ連の意見が、合わない状況にあ
 った。
  つまり、日本への原爆投下の必要性は、この時点でさ
 え「まったく、無かった」、必要性はないの認識の中に
 あった。
  死に体の日本、原爆投下の必要性なし・・だった。
  キリスト教の「シャローム」の教義=異教徒の完全抹
 殺の後に、平和が訪れるという迷信に洗脳された、キリ
 スト教徒のルーズベルトは、「無条件降伏を要求」して
 たが・・、イギリス首相も驚くという「無条件降伏を日
 本へ要求」していて・・、
  そして、異教徒の完全破壊の教義に洗脳された頭の中
 から、「原爆投下が出てきた」。
.
1945年2月8日、ヤルタ密約
  千島列島は、日本のものです。
  びっくりなさるかもしれませんが、北方四島はもちろ
 んの事・・千島列島も日本のものです。
  ただ、厳しい言い方だが、『ルーズベルトが、馬鹿だ
 った』。
  1945年2月8日、ヤルタ密約の協議が行われた。
  この協議で「ソ連の対日戦争を始めること」について
 話し合われた。
  この協議に参加したアメリカ大統領のルーズベルトは、
 まったく、この協議に関する基礎知識がない状況だった。
  ここが悲しい事だった。
  「有色人種の日本の事だ」と軽く見ていた。
  この様な人間性のルーズベルトだった。
  本当に、キリスト教の有色人種蔑視観というのは多く
 の有色人種の方々へ悪影響を与えている。
  この場のルーズベルトもそうだった。
  まったく、当事者能力が不足しているのであった。
  この協議に同席したアメリカ国務省のソ連専門家・ボ
 ーレンは、戦後に、この場のルーズベルトの交渉が、ま
 ったくお粗末だった事を、「厳しく批判した」。
  最大の、最高の交渉者であるべき、このアメリカ大統
 領のルーズベルトの認識の無さはゼロに等しかった。
  「樺太や千島列島」が、日本領土になっているのは、
 「日露戦争で日本が得た」・・と、間違って認識してい
 た。
  ボーレンは、このソ連との協議のために、「基礎知識
 が書かれた本」を、ルーズベルトへ渡していた。
  しかし、ルーズベルトには、まったく、この基礎知識
 が頭に入っていないという事に、ボーレンは、この協議
 が始まって気づいた。
  ルーズベルトは、この基礎知識の本に、目を通してい
 なかった。
  読んで居なかった。頭に入れていなかった。
  事実関係を、まったく理解していないで、協議に臨(
 のぞ)んでいた。・・オソマツ・・
  ボーレンは、「千島列島は、ソ連へ渡すべきではなか
 った」・・と言っている。
  しかし、悲しいかな・・と言うべきか? 愚かな者た
 ち・・と言うべきか?  この協議を行なうアメリカ側
 に、ほとんどと言って、一人も・・この極東の常識・基
 礎知識を持つものが居なかった。
  アメリカ国務省のこのソ連専門家のボーレンは、つく
 づく、『あれほど簡単に、ソ連のスターリンへ、千島列
 島を渡すべきではなかった」・・と言った。
  このアメリカの『ミス』は・・、例えば、仮の話であ
 るが、立場を代えて話すと・・、日本の代表が、ソ連と
 話し合って・・「今、アメリカの州となっている『アラ
 スカ州は、元は、ロシアのものだったですよね』・・だ
 から、アラスカはソ連のものです」・・と、ソ連へ渡し
 てしまったら・・どう思うか?・・その様なものだ。
  こんな『決定的なミス』が、アメリカによってなされ
 ていたのだった。
  樺太は、ロシア人が来る前から日本人が住み始めてい
 た。
  日本人の領土だった。
  その後、ロシア人も来て・・住み始めた。
  そして、そのうち、ロシア人がどんどん来るようにな
 って、樺太の担当者が幕府へ日本人も樺太に来て住まな
 いと、樺太はロシアのものの様になると言った。
  しかし、日本人は思った様に増えず、そして、幕府は
 ロシアと協議して共同の地とする。
  しかし、その後、樺太・千島列島の交換条約をロシア
 と締結する。
  そして、日露戦争に勝利した日本は、樺太の半分の所
 有権を復活し、南樺太を以前の状態に戻した。
  南樺太が日本の地になった。
  つまり、千島列島は、ソ連へ簡単に渡すような地では
 なかった。
  しかし、アメリカの協議をする面々は、まったく、そ
 の知識がなく、「日露戦争で日本が得たのだ」という間
 違った・大雑把な思い込み、間違い知識しかなく、日本
 の歴史の過程の中で、堂々と日本の固有の領土となって
 いるという理解は無かった。
  薄っぺらな知識と間違った思い込みしかないというア
 メリカの協議をする面々だった。
  協議の最高責任者であるルーズベルトは、「ロシアが、
 戦争で取られたものを取り返すだけのもとだ」と、びっ
 くりするぐらいの、間違いの、薄っぺらな思い込みの中
 で協議をしていた。
  この間違い知識の中で・・ことの処理がなされた。
  だから先に記した逆の話、「アラスカは、ソ連のもの
 だと言ったら、アラスカは、ソ連のものになるのか?」。
  この協議自体が成立していない、「再審ものだ」。
  このヤルタ密約協議が、間違っていると分かっていた
 人が、もう一人いた。
  しかも、この協議の場に、この現場に・・居た。
  それは、駐ソのアメリカ大使・ハリマンで・・、
  ハリマンも、この千島列島についてのアメリカのルー
 ズベルトと、ソ連スターリンの話の中に居て、
  『この話はおかしい』と分かっていた。
  この密約協議で、スターリンは、卑劣にも・・引っ掛
 け発言をしていた。
  スターリンは、しきりに・・「日露戦争で、日本が奪
 った領土を、単に、取り返したいだけだ」・・と、何度
 も、「この引っ掛け発言を」している。
  何度も・・何度も・・この引っ掛け発言をして・・強
 調した。
  基本的に、ルーズベルトに基本的知識が無かったのが
 悲しい事で・・問題なのだが・・、
  その上に、ルーズベルトには、「日本の島など取るに
 足らぬ」の認識があった。
  悲しい事に・・こんな輩が、世界を「不安定にする」
 のだ。
  薄っぺらな知識で、責任だけが大きい輩が・・?
  しかし・・駐ソ大使のハリマンは「偉かった」。
  しっかり・・この点を・・ルーズベルトに「指摘した」。
  ハリマンは、しっかりした知識で、「千島列島は、(
 樺太・千島交換条約で)日本の領土として正式に認めら
 れてます」という知識で、指摘した。
  また、ハリマンは、はっきり、スターリンが、ルーズ
 ベルトをはめている・・欺(あざむ)いていると見てい
 た。
  そして、ルーズベルトに、はっきりと忠告をした。
  しかし、しかし、愚かなるこの大統領は・・言った、
 「ソ連が、日本と戦ってくれるなら、日本の千島列島な
 ど取るに足らぬ、つまらぬ事だ」・・と。
  馬鹿め!
.
  キリスト教は、この宗教が出来た古代の時代に、また、
 この宗教の出来た地である砂漠の地で・・、
  飢えに襲われ、
  そして、どうしようもない時は、
  ナイルの恵まれた流れの地、そして、実りある地に、
 身分をかなぐり棄てて、なりふり構わずに・・逃げ込ん
 だ。
  また、そして、隣国の富を奪いに行ったりして、飢え
 を凌(しの)いだ。
  この様な、自然の厳しさゆえに取ったやむを得ない行
 動でも・・このうしろめたさを・・民は・・、
  キリスト教の神の義があるから・・と、自らを慰(な
 ぐさ)めた。
  そのキリスト教の神の義によって許してもらえるのだ
 と、免罪符と同じ考え方をした。
  戦いとなって他民族を殺す事になっても・・「(キリ
 スト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」と考え
 た。
  飢えているのだから・・と、許しがあると・・その様
 な苦し紛(まぎ)れの宗教を創った・・神を創った。
  赦しを作った・・、
  天からの恵みの少ない砂漠の地の・・「このような赦
 (ゆる)しの形をとった宗教=キリスト教という宗教」。
  しかし、現代の・・「恵まれた時代に生きている時」
 も、
  また、「恵まれた地に生きている時」で・・あっても、
  このキリスト教の赦(ゆる)しの教理に洗脳されて、
  また、この教理が一人歩きをし・・悪さをし始める・・
  自分の利を求めて殺戮に及(およ)んでいる。
  「(キリスト教の)神の義」があるから「正義なのだ」
 と言って、
  そして「自分が強く」、そして「自分が大きく」、そ
 して「自分が恵まれて」いても・・、
  「義がある、正義なのだ」・・と、
  「小さい者を、そして弱い国を」攻め、そしてキリス
 ト教の教義「シャローム」を求める・「無条件降伏」を
 要求する。
  シャロームのキリスト教教義の「完全絶滅」のキリス
 ト教の教理にマインド・コントロールされて「原爆投下
 を実行する」。
  それらすべてを、「キリスト教の正義」だとする。
  「不正義な行為を・・正義だ」とする。
  キリスト教によって、「不正義を・・正義と錯覚する」。
  キリスト教に強い信仰心を持っていたアメリカ大統領
 ルーズベルトは、その行為を正義だとして、「許されな
 い行為」を、「悪の行為のことごとくを」、アメリカと
 いう強力な国家を利用して行った。
  自分の考えを正義だとして、アメリカという豊かな国
 と、国民の方々を、その命を利用した。
  多くの武器・弾薬を、アメリカ国民の方々の多くが「
 戦争反対を叫ぶのにもかかわらず」、自分の考えに合う
 国だけに正義だとして、その豊かさをもって、言葉に尽
 くせぬほどの大量の武器・弾薬を、世界中にばらまいた。
  戦争の、戦いの・・輸出をした。
  悲惨な戦争が広まるのは・・当たり前だった。
  考えの違う者たちを悪として、その様な行動をした。
  キリスト教の法王が行なう公会議が、「考えが違う者
 たちを・・異端として・・殺戮したように」
  「異教徒は殺せと・・キリスト教の教義の行動をした
 ように」、弱者を殺戮し、虐げた。
  ルーズベルトのニューディール政策でも、回復しなか
 った頑固な世界恐慌の悪い景気の影響は・・、
  (ルーズベルトのニューディール政策で、アメリカ景
 気は回復したと言われているのはプロパガンダ・嘘宣伝)、
  アメリカの景気回復は、このルーズベルトがやった「
 戦争景気で回復した」。
  武器・弾薬を、アメリカ国内でどんどん作り、世界中
 にばらまいた。
  「戦争を作って・・回復した」とは言えないので、こ
 こでも嘘をついた。
  嘘で固められた行動だった。
  命を亡くなされた方々が、言葉を尽くせぬほど多いの
 に、ただただ、唖然として、怒りが湧く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)473E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1888年12月)

2016-12-26 02:56:42 | 日記
題:(増補版)473E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年12月~1888年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年12月3日、角藤定憲(すどうさだのり)らが、大阪の
 新町座で、壮士芝居を興業した。
  角藤定憲は、壮士芝居の創始者で、中江兆民の門下、
 また、自由党壮士。
  壮士芝居とは、自由党壮士の芝居の意味で、自由民権
 運動の末期に、政府の言論取締政策のなかで、政治宣伝
 と糊口(ここう、細々と暮らしをたてること)の資を得
 るため演劇改良も兼ねて演じたもの。
  1888年12月、角藤定憲 (すどうさだのり) が中江兆民
 の後援を得て大阪で旗揚げしたのが最初。
  そして、1888年12月のこの時、大阪新町座で改良演劇
 として、自作小説を脚色した『耐忍之書生貞操佳人』と
 『勤王美談上野曙』を上演した。
  新演劇の導火線となった。
1888年12月3日、全国を3府43県と改めた(12月4日説あり)
  愛媛県が、香川県から分離して1道3府43県となり、現
 在の47都道府県の区分がほぼ確立した。
1888年、写真印刷業の最初
  アメリカで技術を習得した小川一真が、この年に、日
 本で最初に、写真版印刷業を始めた。
  絵葉書を安価な画像媒体として可能にした背景は、写
 真製版技術の普及である。
  絵葉書で使用されたコロタイプと呼ばれる写真製版技
 術は、1870年代にドイツで開発されたといわれる。
  この方法は、ゼラチンを版面とする写真印刷法で、一
 つの版で、数千枚しか刷れないこと、印刷スピードが遅
 いなどの欠点があるが、高画質なので、書画・水墨画な
 どの美術印刷に適した。
  日本では、アメリカで技術を習得した小川一真が、
 1888年に、写真版印刷業を始めたのが最も早く、
  その後、まもなく、写真版に手彩色をほどこすことも
 行われた。
  横浜では、そうした彩色写真が外国人向けのお土産と
 して作られ、明治20年代にスーベニアル・アートとして
 発達した。
  絵葉書も、その技術と伝統を受け継いでいる。
  横浜の絵葉書作製に携わった会社・個人としては、上
 田写真版合資会社、星野屋、トンボヤ、カール・ルイス
 などがあげられる。
  当時の彩色絵葉書は、写真師が撮影した風景や人物の
 写真を、絵葉書となる紙にコロタイプで墨刷りし、それ
 に一枚一枚手で彩色をほどこすことによって完成した。
  彩色については、まず、プロの画工が絵付けの見本を
 つくり、それにもとづき、内職の女性たちが手彩色の作
 業をおこなった。
  こうした分業により、現在に伝えられる彩色絵葉書が
 つくられた。
  なお、彩色をほどこさないモノクロ絵葉書も多数つく
 られた。
  (横浜開港資料館ホームページを参考にした)
1888年12月6日、第28、第35両国立銀行の合併が許可された。
  1882年、中央銀行である日本銀行が開設され、
  1883年、国立銀行条例の改正、そして、
  1884年、兌換銀行券条例により、紙幣発行は、唯一、
 日本銀行のみが行うようになった。
  そして、この年に、第二十八国立銀行(浜松二十八銀
 行)が、静岡三十五銀行(現在の静岡銀行)に合併した。
1888年12月7日、後藤象二郎が、東海と北陸へ、大同団結
 運動展開のために向かう。
1888年12月8日、牛島謹爾(うすじまきんじ)が、郷里久留
 米を出発、渡米の途に上る(後に、馬鈴薯の栽培に成功
 し「馬鈴薯王」となる)
  牛島謹爾(1864年~1926年) 明治-大正時代の移民。
  1864年(文久4年)1月6日、福岡県久留米で農家の三男
   として生まれた。
  1885年(21歳)上京して、漢学塾二松學舍(現:二松
   學舍大学)に入塾した。
  1888年(明治21年)(24歳)渡米。はじめ、サンフラ
   ンシスコのアメリカ人家庭で働きながら英語を学ぶ。
   のち、カリフォルニア州ストックトンの沼地をひら
   き(苦闘の開拓)、
   良種のジャガイモの大量生産に成功。
   6万エーカーを超す大農園を起こし、「ポテト王」と
   よばれた。
   在米日本人会の初代会長として排日問題の対応にあ
   たった。
  1908年(44歳)結成された在米日本人会の初代会長と
   して、排日運動の緩和につとめるなど、大きな功績
   をあげた。
  1926年(大正15年)3月27日、日本へ帰国する途中、ロ
   サンゼルスで死去。63歳。勲五等双光旭日章。
1888年12月11日、東京美術学校が、上野に設立された。
  東京美術学校が、小石川から上野に移転した。
1888年12月13日、枢密院が、貴族院令の審議を開始する。
1888年12月17日、衆議院議員選挙法と貴族院令の審議が終
 了する。
1888年12月18日、特許条例(明治21年12月18日勅令第84号)
 が公布された。
  1885年(明治18年)4月18日、本格的な特許法である専
   売特許条例(明治18年太政官布告第7号)が公布・施
   行された。
  1888年(明治21年)審査主義を確立した特許条例(明
   治21年12月18日勅令第84号)が公布された。
  第1条
  新規有益ナル工術、機械、製造品及合成物ヲ発明シ又
 ハ工術、機械、製造品及合成物ノ新規有益ナル改良ヲ発
 明シタル者ハ此條例ニ依リ特許ヲ受クルコトヲ得
  特許トハ発明者ニ他人ヲシテ其承諾ヲ経スシテ前項ノ
 発明ヲ製作、使用又ハ販売セシメサル特権ヲ許スコトヲ
 謂フ
1888年12月23日、明石から姫路まで開通。 全通(1901年)
1888年12月27日、陸軍軍医学舎を陸軍軍医学校とあらため
 た。
1888年12月28日、東京府高等女学校(後の東京府立第一高
 等女学校)設置
1888年12月28日、文部省が、学生生徒の健康診断に当たる
 活力検査を開始した。
1888年12月31日、長崎市成立直前の長崎区総町90町、総戸
 数6846戸、人口4万3351人(男2万1517・女2万1843)
 上長崎村・下長崎村の各一部の総戸数1477戸、人口7299
 人
1888年6月23日、フレデリック・ダグラスが、黒人として
 初めてアメリカ大統領候補に指名された。
  フレデリック・ダグラス氏が、『真の黒人奴隷の解放
 者』である。
  この栄誉を、アメリカの白人たちは、黒人の方々の虐
 げ者たちは、リンカーンへ奪うことまでした、そして、
 プロパガンダ(嘘宣伝)までしている。
  そして、フレデリック・ダグラス氏の活躍や歴史を含
 め、
  黒人の方々の解放までの戦いが、アメリカ白人社会に
 よって、封印されて来た。
  卑劣な事である。
  自分たちの汚れた歴史を隠し、蓋(ふた)をしようと
 して来た。
  しかし、最近、黒人の方々の解放運動などの歴史が、
 少しづつ、明らかになって来ている。
1888年11月6日、第26回 アメリカ大統領選挙
.
  (今日の言葉)
.
  題:自由主義陣営と共産主義陣営の・・勢力圏取り合いの話に既に移っていた。
    アメリカの話が、嘘なのだと、作り話なのだと、この様な史実からも・・立証された・・、
.
1944年10月9日、夜9時、イギリス首相のチャーチルは、モ
 スクワのクレムリンで、スターリンに会っていた。
  イギリス外相のイーデンが・・同席していた。
  この頃は、完全に、第二次世界大戦は終わったとして、
 「戦いの後について」の駆け引きが行われていた。
  日本は、完全な「死に体」で、もう「降伏状態」で、
 話題にも上がらなかった。
  そして、戦いの後の有利な形を作りたいとして、ソ連
 は、第二次世界大戦を一緒に戦った仲間という意識から
 完全に違った体制の国・共産圏の国として、違う世界の
 離れた国として存在し、
  大戦の終結後の・・対立する新しい相手として存在し
 ていた。
  日本に・・原爆を投下して、早く戦争を終わらせたい
 と、アメリカは思ったから、広島・長崎に原爆を落とし
 たなどという話は・・その様な感覚はまったく無く・・
 すでに、その様な話は・・通り越し・・そして、終わっ
 た話となっていた。
  つまり、この話は・・アメリカの「後からの作り話だ」
 ということが、この時のイギリスとソ連の話し合いにお
 いても・・はっきりと証明される。
  話は・・自由主義陣営の領土(地域)をいかに広くと
 るか?・・に、あった。
  如何に・・共産圏の占領区域(領土)を狭くするかに
 あった。
  だから、先の話は・・「アメリカの幼稚な嘘」だった。
 「戦争を早く終わらせたかったから、原爆を投下した」
 という話は「嘘で、浮いた話」となっていた。
  この時、チャーチルは、事務的な話し合いの後、頃合
 いを見て、突然、紙と赤鉛筆を取り出した。
  そして、スターリンへ渡した紙には、「ルーマニア:
 ロシア90パーセント、ギリシャ:イギリス90パーセント、
 ロシア10パーセント、ユーゴスラビアとハンガリー:双
 方50パーセントづつ」・・などと、書かれていた。
  スターリンは、すぐに、青鉛筆で、自分の考えを書き、
 突き返した。
  しばらく・・沈黙となった・・、
  そして、反省したのか・・チャーチルが言った・・、
  「数百万人の運命を、こんな風に扱うのは・・いかが
 なものか・・」・・、
  「これは、焼き払う」・・と。
  スターリンは、「いや、保管しておいてくれ」と、平
 然と言った。
  この後も・・当事者を抜いた領土の・・勢力圏の取り
 合いは続いて行った。
  ルーズベルトは、大統領選挙の最中だったので欠席し
 ていた。
  自由主義陣営と共産圏に分断されて行く。
  この様に、武力で勝った者たちには・・、日本が与え
 た「東南アジアの国々の独立の様な事」は、この場には
 無かった。
  勝った者が、「その上に立つという意識」しかなかっ
 た。
  欧州分断だけがあった。
  ルーズベルトがそそのかした東アジアの領土取りで火
 が付けられたスターリンは・・、
  東アジアとともに、東欧の領土欲・制圧・共産圏化に
 向けて圧倒的な行動を起こして行った。
  そして、当のルーズベルトは、東欧の共産圏化に対し
 ても、スターリンの勢いにあっけにとられたのか、気が
 抜けたのか、対抗措置を取らず、取ることをせず、取る
 ことが出来ずにか・・東欧は共産化して行った。
.
  そして、その・・日本は・・、
.
1944年10月24日、戦艦武蔵が撃沈した。
  起工:1938年3月29日
  進水:1940年11月1日
  排水量:満載、72,809トン
  全長:263.0m
  速力:27.46ノット
  乗員:約3,300名
  兵装:46㎝(45口径)砲3連装3基9門ほか
  搭載機:零式水上偵察機・零式観測機他、最大7機
      カタパルト2基
  建造所:三菱重工業長崎造船所
  運用者:大日本帝国海軍
  2015年3月2日、シブヤン海海底で発見された。
.
1945年4月7日、戦艦大和が撃沈した。
  起工:1937年11月4日
  進水:1940年8月8日
  就役:1941年12月16日
  排水量:満載、72,809トン
  全長:263.0m
  速力:27.46ノット
  乗員:3,332名(最終時)
  兵装:45口径46㎝3連装砲塔3基ほか
  搭載機:7機、カタパルト2基
  建造所:日本、呉海軍工廠
  運用者:大日本帝国海軍
  因みに、戦艦武蔵は、大和撃沈にさかのぼること、約
 5ヶ月半前の1944年10月24日に撃沈されていたが・・、
  日本が、真珠湾攻撃をした頃は、航空機・戦闘機で、
 軍艦などの艦船は沈められないと言われていた。
  しかし、日本は、この真珠湾攻撃の時、戦闘機に、魚
 雷を抱かして、海へ投入する攻撃方法を生み出した。
  日本人の叡智が、この攻撃法を生み出した。
  海への投入角度などの研究と訓練を重ね、艦船撃沈の
 効果ある攻撃法だとして確立した。
  それによって、真珠湾攻撃が行なわれ、航空機による
 攻撃が、絶大なる戦果を上げた。
  しかし、戦争末期、不沈艦として戦場に投入された「
 大和」「武蔵」は、
  その建造の秘密情報をすでに知っていたアメリカは、
 その攻撃法を練った。
  結局、やったことは、日本と同じだった(真似)。
  戦闘機に魚雷を抱かせ、訓練を重ね、日本の真珠湾攻
 撃と同じように、戦闘機からの魚雷によって「大和」や
 「武蔵」の戦艦を撃沈した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)472E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年11月~1888年12月)

2016-12-24 03:01:18 | 日記
題:(増補版)472E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年11月~1888年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年11月20日、 「大阪毎日新聞」の発刊
  1876年(明治9年)創刊の「大阪日報」を、1888年(明
 治21年)「大阪毎日新聞」と改題した。
  大阪日報をあらため、大阪毎日新聞が創刊された。
  当初、東海散士主筆のもと、政治色の強い紙面を構成
 したがふるわず、しだいに穏和な論調に。
  1882年、筆禍対策の「身代り紙」として興された「日
 本立憲政党新聞」に事実上受け継がれた。
  1885年、「大阪日報」に題号を戻し、いったん休刊の
 後、
  1888年11月、大阪実業界の支援により「大阪毎日新聞」
 として再発足した。
1888年11月26日、大隈重信(黒田内閣外相)が、大審院外
 国人判事任用の条約改正案を、この日、ドイツ公使に手
 渡し、以後、各国公使にも手渡す。
  大隈は、薩摩藩出身の第2代内閣総理大臣・黒田清隆に、
 条約改正を任されるという体制にあった。
  大隈は、井上のような国際会議方式は日本にとって不
 利であるという認識に立って、
  列国間の利害の対立を利用する個別交渉の方針を採用
 した。
  それにより、1888年11月30日に、駐米公使兼駐メキシ
 コ公使の陸奥宗光が、メキシコとの間に日墨修好通商条
 約を締結することに成功した。
  これは、アジア以外の国とは初めての完全な対等条約
 であった。
  これにより、メキシコ合衆国国民は、日本の法権に服
 することを条件に、内地開放の特権が与えられた。
  陸奥は、この後、すぐにアメリカとの交渉に乗り出し
 た。
  この時は、調印に至らなかったが・・、
  以後の流れは・・アメリカと新条約を調印。
  ドイツ・ロシアとも調印(発効せず)
  イギリス誌「タイムズ」が大審院に外国人判事を任用
 する大隈草案を掲載した(1889年)
  この後、日本国内で違憲論が起きた。
  そして、大隈遭難事件が起きる(大隈外相が、玄洋社
 の前社員の爆弾テロで負傷した)
  条約改正交渉は中止となる。
1888年11月26日、枢密院が、衆議院議員選挙法の審議を開
 始した。
  1888年4月に、憲法草案を審議するために枢密院が設け
 られたが、枢密院は、天皇陛下の最高顧問機関だった。
  条約改正交渉で、伊藤首相の退任を要求する声が高く
 なり、伊藤博文は枢密院議長に転出した。
  そして、黒田清隆が首相に就いた。
  そして、この年・1888年6月~翌年・1889年1月まで、
 枢密院での審議が行われて、大日本帝国憲法と、その付
 属法、及び、皇室典範が決められた。
1888年11月26日、東京(築地)に、海軍大学校が開校された。
  日本海軍の上級将校教育機関。
  今・現在、海上自衛隊には、海上自衛隊幹部学校があ
 り、これに相当する。
  1888年7月14日、勅令第55号により海軍大学校官制が
 制定され、
  1888年8月28日、東京・築地旧海軍兵学校生徒館に開校。
  初代校長は、海軍省軍務局長井上良馨が兼任し、
  1888年11月26日、授業が開始された。
1888年11月30日、日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこう
 つうしょうじょうやく)
  条約改正後、最初の締約である日本・メキシコ間に対
 等条約が成立した。
  はじめての対等の通商条約で、治外法権が無く、関税
 自主権のある、平等条約であり、メキシコにとっては、
 アジアの国と初めて締結した条約であった
  ワシントン在勤の日本全権陸奥宗光と、駐米メキシコ
 公使ロメロとの間で協議された(大隈重信外相)。
  この頃、大隈外相は、大審院に外国人判事を登庸する
 などを骨子とする新通商条約案を各国公使に通告した。
  この頃は、安政の五カ国条約として、アメリカ(日米
 修好通商条約)、オランダ(日蘭修好通商条約)、ロシ
 ア(日露修好通商条約)、イギリス(日英修好通商条約)、
 フランス(日仏修好通商条約)と不平等条約の状態にあ
 り、李氏朝鮮とは逆不平等条約(日朝修好条規、日本が
 有利)を結んでいて、
  平等条約は、清と結んでいる日清修好条規のみだった。
1888年11月、初の少年雑誌「少年園」が創刊した。
  最初の本格的児童雑誌といわれている。
  文部省で教科書作成にあたった山県悌三郎を主筆に、
 教育・啓蒙を発刊の主旨とした。
1888年12月2日、東京人造肥料会社が、過燐酸石灰肥料の生
 産を開始した。
  1887年4月 高峰譲吉博士が、イギリス留学中に化学肥
 料製造工場を見学した内容を日本に紹介した。
  これを受けて、渋沢栄一(第一銀行創業者)、益田孝
 (当時の三井財閥有力関係者)など当時の財界の首脳が
 発起人となって前身である東京人造肥料会社を設立した。
  別史料:1887年2月、東京人造肥料会社(のちの東京人
 造肥料株式会社)設立 (日産化学ホームページ)
  別史料:1887年2月、東京人造肥料株式会社の設立準備
 会が発足し、社長に渋沢栄一、技師長兼製造部長に高峰
 譲吉の就任が内定する。
  1887年3月、高峰は、農商務省に在籍したまま人造肥料
 製造機械及び原材料買い付けのため欧米に出張する。
  1887年11月、高峰が帰国し、
  1887年12月、東京人造肥料株式会社が正式に設立され、
  1888年9月から本格的な製造が開始された。
  因みに、同社は、日産化学工業株式会社として現在に
 至っている。
  (参考)に、高峰は、1888年3月、5年間、勤務した農
 商務省を退職し、研究者県起業化としての道を本格的に
 歩むことになる。
  渋沢は、「元来は学者であるけれども、一面において
 事業を処理していく才能を持っている」と、高峰の企業
 家としての能力を高く評価した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:熱烈なキリスト教信徒だった「 ルーズベルトの評価 」
    その行動は、大きくキリスト教的考え方に影響されていた。
.
1945年4月12日、ルーズベルト大統領が亡くなった。
  ルーズベルトは、アメリカでも、「戦争を引き起こし
 た張本人」と描く書籍が、今でも、毎年の様に書店に並
 ぶ。
  また、ルーズベルトが、脳出血で倒れ、結局、これが
 原因で亡くなるのだが、
  この時、ルーズベルトの傍らには、ずーっと、愛人が
 いた。
  この事は、20年間、アメリカでは秘密にされた。
  妻への連絡も遅れるという異常な状態だった。
  ルーズベルトは、1945年4月12日、午後1時15分、倒れ、
 その日の午後3時35分に、こと切れた。
  63歳だった。
  約10時間の後、ソ連のアメリカ大使館に伝えられ、
  ソ連のアメリカ大使は、ソ連側へ緊急電話を入れ、そ
 の事情を伝え、スターリンへの会見を申し込んだ。
  その7時間後、クレムリンを訪れたアメリカ大使に会う
 と、スターリンは、自ら出迎える態度を示し、
  わざわざドアまで足を運び、アメリカ大使を驚かせた。
  スターリンは、悲嘆にくれた表情で、アメリカ大使の
 手を30秒以上も握りしめ、お悔やみの言葉も早々にして、
 スターリンは言った・・、
  「新大統領の下でも、アメリカの政策は変わらないの
 でしょうね、私は変わらないと信じる」・・と。
  政策とは・・、ヤルタ合意の事であって・・、
  スターリンが、ルーズベルト大統領から言われている、
 「日ソ中立条約を破棄して、日本へ戦端を開き、日本の
 領土を取る」と促され、そそのかされたことなどの事だ
 った。
  アメリカは、そのソ連の行動を認めるという事だった。
  スターリンは、繰り返し、繰り返し、そのことを確か
 めたのだった。、

1945年4月12日、ルーズベルトは、アメリカのジョージア州
 の静養地で死に至る脳出血に倒れた。
  愛人のラサフォードが付き添っていた。
  妻のエレノアは、大分、時間が経った、その日の深夜
 になって、やっと、そのことを知った。
  エレノアは、従姉妹(いとこ)のローラとは中が悪か
 った。、
  エレノアは、その中の悪い従姉妹のローラに、ルーズ
 ベルトが倒れた時の様子を聞いた。
  ローラは、復讐の意味を込めて、エレノアに、愛人の
 存在を告げた。
  エレノアは表情一つ変えなかった。
  しかし、エレノアの長女・アンナは、父親と愛人の関
 係を、すでに、知っていて、その事もこの時、同時に知
 ったのだが、エレノアは、この長女に裏切られた方に、
 大きなショックを受けた。
  ルーズベルトと言うと「ニューデール政策」が有名だ
 が、この政策の柱になった失業者入植運動「アーサーデ
 ール」は、エレノアの発案だった。
  妻のアイデアを、ルーズベルトは拝借したのだった。
.
  そして、次の話・・
  追い詰められた日本、2ヶ月後に、日本は降伏するが・・
  日本は、その様に追い詰められている日本であったが・・
  アメリカ兵を丁寧に葬るという日本だった。
.
1945年6月12日、静岡空襲、その時の犠牲のアメリカ兵を弔
 う日本人。
  アメリカが、国際法違反の一般市民をターゲットにし
 た。
  静岡市民をターゲットにしての空襲を行なった。
  日本は、真珠湾攻撃の時、一人も、アメリカ国民の
 方々(アメリカ市民)への攻撃や空襲を行っていない。
 殺していない。
  しかし、このアメリカは、本当に、無制限に、日本の
 一般市民を攻撃し、殺戮し続けた。
  この静岡空襲の時、アメリカのB29爆撃機が、静岡上
 空で衝突事故を自軍機同士で起こし、墜落した。
  静岡の優しい日本の国民の方々は、この事故の墜落で
 亡くなったアメリカ兵を賎機山(しずはたやま)に葬り、
 慰霊碑を建立し、1972年(昭和47年)から、毎年、その
 アメリカ兵の霊を慰める慰霊祭を開催している。
  今では、アメリカ軍も参列している。
  また、よく嘘を付くルーズベルトが、「真珠湾攻撃は
 『奇襲』だと嘘を言った」が・・、
  (因みに、ルーズベルトの言葉に、『嘘をついたって
 いいのだ』という言葉がある)
  この事も、おとなしい日本人は、静かにしている。
  奇襲ではない。
  アメリカ国民の方々は、今でも真実が知らされていな
 いで、「真珠湾攻撃は、奇襲だった」と信じている。
  ルーズベルトのプロパガンダ(嘘宣伝)だと知らない。
  この逆に、日本が、プロパガンダを言うことはない。
  (参考):
  静岡大空襲は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)
 6月19日深夜から20日未明にかけて、アメリカ軍のB-29
 爆撃機137機により旧静岡市(現在の静岡市葵区・駿河区)
 の市街地が受けた空襲。
  マリアナ諸島から飛び発ったアメリカ軍第314航空団の
 空の超要塞と名付けられたB-29大型戦略爆撃機137機は、
 伊豆半島波勝崎付近から本土上空に侵入、伊豆半島上空
 を北上し、富士山手前上空で旋回し静岡市上空に向かう
 が、一旦静岡市街上空を通過し、御前崎上空から再び静
 岡市街上空へと向かった。
  3時間余りの爆撃で投下された焼夷弾は13,211発、被害
 は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数26,891戸
 に上った。
  この静岡大空襲を含め、旧静岡市は1944年(昭和19年)
 暮れから終戦迄に合計26回の空襲を受けている。
.
  そして、次の (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、世界を繰る・・
    そして、NHKも「フィクションだ」「作り話だ」「嘘話だ」と言い訳をして、繰る・・
.
1909年、リーという中国系の男に繰られるアメリカ、そし
 て、そのアメリカが、世界を繰る。
  この年、アメリカ社会に恐怖を与える本が出版された。
  この本を書いた男が、ホーマー・リー。
  この男は、アメリカのコロラド州に生まれた作家・冒
 険家・戦略家。
  ロサンゼルスの中国人社会やチャイナタウンで影響を
 受けた。
  ルーズベルト政権支援の中国貿易の代表にもなった。
  (ルーズベルトは、「私の先祖は、中国貿易に従事し
 ていて、私は、中国人に親しみがある」と言い、
  「そんな私が、日本をやっつけようというスティムソ
 ンの提案に同意しないわけがない」と発言していること
 を想起させる)。
  リーは、中国要人が、軍資金が欲しいとアメリカに来
 ると仲介し、便宜を図る事もした。
  中国の孫文の側近として居たこともある人物。
  そして、この男=リーは・・、
  アメリカが、移民した日本人を虐(しいた)げている
 時・・、変な空想小説を書いた。
  (そして、アメリカは、1924年に至り、排日移民法を
 つくり、日本人移民を排除している)
  その本は、「アジア系民族によって滅ぼされるイギリ
 ス」についての空想をデッチアゲた小説をだった。
  日本人へ向けられたアメリカにおける日本人への蔑視
 と虐待があった。
  この様なアメリカの風潮を煽った小説だった。
  しかし、リーは、自分さえ儲かればよいと、書いては
 いけない事まで書いたのが「この本だった」(中国工作
 員だったらしい?)。
  だが、しかし、この男=ホーマー・リーは、この本の
 他にも、1909年にも、日本を貶(おとし)める本を書い
 ていた。
  この本は、ベストセラーとなり、大変、儲けたリーは、
 味を占めた。
  同じことを、第二次世界大戦直前にもした。
  1909年の日露戦争後の時も、アメリカ社会に大きな影
 響を与えていた。
  リーは、第二次世界大戦の直前にも、この様な小説を
 書いた。
  本の題は、「無知の勇気」という。
  結論的に言うと、歴史的事実と何も関係ない作り話の
 本で、
  「日本が、フィリピン、ハワイを占領し、開戦の1ヶ月
 後には、アメリカのロサンゼルスに日本軍は上陸すると
 いう、とてつもなく強い日本軍を描き、
  10ヶ月以内には、ワシントンに向けて進撃して行く」
 という、桁ちがいの嘘話となっている。
  アメリカの方々を、「日本への恐怖に突き落とした」。
  その恐怖からベストセラーとなり、本を売ろうという
 魂胆が見える本だった。
  しかし、これは、こんな個人的な儲け話以上に、問題
 の社会現象を作り上げて行った、日本・・恐ろし。
  この事は、当然、ルーズベルトも知っている事だった。
  これと似た、社会を繰ろうという行為をNHKがやっ
 ている。
  巨大な放送媒体を使って、日本全国の茶の間に入って
 行くNHKが、「日本を、視聴者の方々を繰ろう」とし
 ている。
  気に入らない政権を倒そうとするし、
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の「巧妙な
 る伝道行為」も多くしている。
  今・現在でも、ずーっと、キリスト教に偏するNHK
 は、社会を繰ろうと作り話を放送している。
  例えば1例、(読売新聞、2016年12月15日)でも報じ
 ていた。
  キリスト教に偏するNHKは、視聴率の良い日曜大河
 ドラマで、キリスト教の「巧妙なる伝道行為」を数多く
 行って来たが、歴史的事実などは無視してやって来たが、
  しかし、NHKは、『歴史的事実は尊重している』と
 言って来た。
  しかし、上記の読売新聞で、それまで言って来たNH
 Kの「論理は崩れた」。
  来年(2017年)放送予定のNHK・日曜大河ドラマ「
 井伊直虎」の、「基本的根拠が崩れる新史料」が見つか
 った・・という、読売新聞の報道だった。
  今まで、時代考証を・・ドラマが、歴史的事実と違っ
 ていないというチェックの考証を・・
  東京大学などの権威ある学者に依頼して、
  「歴史的事実と違わないようにしています」という論
 理だった・・が、崩れてしまった。
  また、視聴者から、NHKに多く寄せられる「史実を
 無視しているではないか」というクレームや、
  「史実と違う」という指摘に対して、
  「時代考証をしっかりしています」と答えて来たNH
 Kだった。
  どうしても違ったという場合は、「ドラマを面白くす
 るために、脚本家が、その様にした」・・と、
  脚本家という「他へ、責任を転嫁」して来たNHKだ
 った。
  しかし、この「井伊直虎」の場合は、これからの・・
 直後の・・放送予定であり・・、
  新史料発見が、放送予定直前というということで、ニ
 ッチモサッチモ行かない時であり、
  しかし、この新史実は、根本的な差異であって、
  ドラマの根底が崩れる去るという大きな問題だった。
  従来、「女性と考えられてきた『井伊直虎』が、男性
 だった」というのである。
  女性と男性という、主人公がまったく違うという根本
 的な重大な差異なのである。
  根本的な違いによって、ドラマ全体の根底が、ひっく
 り返る大問題が、急浮上したのである。
  新しいこのドラマの公開は、1か月未満後に迫っている。
  この時の、NHKの説明は・・、
  「ドラマは、あくまでフィクション(作り話し、嘘話)
 ですから、影響はありません」・・と言った。
  あれほどNHKは、「NHK史観」で、時代を捻じ曲
 げ、キリスト教に有利な話をでっち上げ、
  キリスト教の「巧妙なる伝道行為」をしてきたNHK
 が、「史実ですから」と言ってきたNHKが、
  ここに来て・・「作り話ですから」と言った。
  視聴者の方々は・・今までのNHKの口から出まかせ
 の話に、史実と錯覚して来た。
  事実と錯覚して来た。
  視聴率の高いこのドラマを利用して、この様な事ばか
 りして来た。
  フィクション・作り話・嘘話なら、このドラマの放送
 開始と最後に・・、
  「このドラマはフィクションであり、作り話であり、
 史実に基づいて居りません」とはっきりと視聴者の方々
 へ知らせよ!
  事実ではありません!と、視聴者の方々へ知らせよ!
  NHKは、この他にも多くの問題を抱える問題放送局
 となっている。
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)471E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年11月)

2016-12-22 03:49:37 | 日記
題:(増補版)471E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月~1888年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年10月31日、議員法の審議が終了する。
1888年10月、勝海舟が、正三位に叙せられる(氷川清話)
1888年10月、コンドル設計の宮内省庁舎と、木子清敬設計
 の皇居正殿・豊明殿が完成した。
1888年10月、長崎にコレラ流行する。
  「長崎くんち」の奉納踊りが中止となる。
1888年10月、勝海舟の「海軍歴史」編纂(へんさん)成っ
 た。
  25巻(明治22年海軍省出版)(氷川清話)
1888年11月1日、山陽鉄道の兵庫駅~明石駅間が開通した。
  同時に開業した。
  旅客と貨物の取り扱いを開始。
1888年11月1日、馬場辰猪(ばばたつい)が、アメリカで死
 去した(1850年6月24日~1888年11月1日)
  明治期の自由民権家で、土佐藩(高知県)藩士の馬場来
 八虎の次男として生まれた。
  江戸の藩費留学し、福沢諭吉(慶応義塾)に学び、
  1870年(明治3年)20歳、藩命によりイギリスに2回留
 学(1878年まで・・途中、一時帰国)、英国法(法学な
 ど)を修めた。
  滞英中、小野梓らと日本学生会を組織した。
  帰国後、小野らが結成した文化啓蒙団体(共存同衆会)
 に参加して多数の講演を行った。
  これを「共存雑誌」に発表した。
  1881年、31歳、大石正巳、末広重恭らと国友会を組織
 して、長野、山形、新潟などに遊説し、自由主義思想の
 啓蒙につとめ、
  1881年(明治14年)10月、自由党創立とともに常議員
 に選ばれ、同党の理論的支柱として活躍した。
  しかし、1882年(明治15年)板垣自由党総理の外遊に
 反対し常議員を辞任、
  1883年(明治16年)9月、自由党を脱党した。
  1885年(明治18年)11月、爆発物取締罰則違反容疑で
 逮捕されたが、
  1886年(明治19年)6月、無罪放免となり、まもなくア
 メリカに渡った。
  全米各地で、日本の実態を紹介する講演や明治政府の
 専制ぶりを批判する論説を発表するなど精力的な活動を
 続けたが、
  1888年(明治21年)夏以降、体調をくずしペンシルベ
 ニア大学病院に入院、満38歳で客死した。
  遺著『日本政治の状態』の表紙にみえる「頼むところ
 は天下の輿論、めざす仇は暴虐政府」の言葉は、彼の執
 念を示すものとして有名。
  <著作>『馬場辰猪全集』全4巻
  <参考文献>安永梧郎『馬場辰猪』、西田長寿「馬場辰
 猪」(明治史料研究連絡会編『民権論からナショナリズム
 へ』)、萩原延寿『馬場辰猪』
1888年11月1日、松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)
 の浅草文楽座での万国第一等手品が評判となり、60日間、
 興業が行われた。
  奇術師・松旭斎天一は、越前福井藩の陪臣・牧野海平
 と妻音羽の長男として生まれた。本名:服部松旭。
  家断絶により、叔父の唯阿が、住職を勤める阿波国(徳
 島県)西光寺へ移住した。
  同寺で孤児となり仏門に入ったが、宗教の奇跡を自作
 自演して破門にされた。
  大道芸の手品師となる。
  1878年(明治11年)イギリス人・ジョネスと共に上海
 へ渡り、西洋奇術を学ぶ。
  大仕掛けな舞台奇術を志し、
  1888年(明治21年)浅草の文楽座で水芸、大砲芸や宗
 教劇奇術で成功した。
  欧米巡業(1901~05)後は、歌舞伎座をはじめ、全国の
 大劇場に出演した。
  大道芸の手品を近代的な舞台奇術にまで発展させた。
  <参考文献>青園謙三郎『松旭斎天一の生涯』
1888年11月5日、日本画家:狩野芳崖が没した(61歳)
  1828年(文政11年)1月13日、長門(ながと)国(山口県)
   長府藩の御用絵師・狩野派の四代董信(ただのぶ)(
   晴皐)の長男として生まれた。幼名:幸太郎。
   家は、代々、毛利家の御用絵師をつとめていた。
   狩野派の絵師の父に手ほどきを受けていた。
   また、同家の菩提寺である覚苑寺の霖竜和尚に参禅、
   大きな精神的感化を受ける。
   後に、「芳崖」の画号のもとになった「禅の極致は
   法に入りて法の外に出ること(法外)」という言葉も、
   霖竜から与えられたものという。
  1841年、(13歳)この頃より、松隣,松林と号した。
  1846年(弘化3年)18歳、江戸に出て、木挽町、狩野勝
   川院雅信(ただのぶ)に入門し、たちまち頭角を現
   した。
  1849年(21歳)この頃、勝海雅道(ただみち)の称を
   許された(師の一字を受けて勝海と号した。
  1849年(21歳)芳崖と同日入門の橋本雅邦(がほう)と
   ともに、その英才を謳(うた)われ、竜虎とうたわ
   れた。
   佐久間象山(しょうざん)にも学んで、進取の気性に
   富み、狩野派の粉本主義に疑問を抱いて、従来の狩
   野派の筆法に西洋画の画法を取り入れた。
   新しい日本画の領域を開拓した。
   独創を試み、危うく破門されるということもあった。
  1850年(22歳)この頃、塾頭となる。
  1852年頃(24歳)師の名から一字を得て雅道と号して
   独立、長府藩の御用絵師となる。
  1855年(安政2年)27歳(30歳ころともいわれる)、帰
   郷、雪舟・幸村らの作品に傾倒し、この頃から、芳
   崖と号した。
  1860年、32歳、ふたたび江戸に出て、江戸城本丸再建
   に際し、大広間天井画を描く。やがて江戸払いとな
   って郷里に戻る。
   幕末は、国事に奔走し,馬関海峡の測量図などを描く。
  1871年(明治4年)43歳、廃藩置県で禄(ろく)を失った。
   そのため、生活に困窮し、他業に転じるなど辛酸を
   なめた。
  1877年、49歳、上京、精工社で輸出用陶器や漆器の下
   絵描(か)きなどに従事したが、貧窮を極めた。
  1879年頃(51歳)「犬追物図」制作のため島津家雇と
   なる。
  1882年、54歳、アーネスト・フェノロサの知遇を得た。
  1884年、56歳、第2回内国絵画共進会に出品した『桜下
   勇駒図』『雪山暮渓』が、フェノロサに認められ、
   フェノロサを介して岡倉天心とも親交を結び、
   鑑画会に加わって新しい日本画の創出に力を注ぐこ
   とになった。
   図画調査会雇となる。
  1885年、57歳、第1回鑑画会大会で「伏竜羅漢図」が3
   等賞となった。
   文部省図画取調掛雇となり、フェノロサや天心と力
   をあわせて東京美術学校の創設に努めた。
  1886年(58歳)第2回鑑画会大会で一等賞を受賞した
   『不動明王図』(重要文化財)は、西洋の絵の具を
   用いた色調が鮮やかで、構図の斬新(ざんしん)さと
   ともに、新しい表現を切り開く強い意志をうかがわ
   せる。
   鑑画会の中心作家として、フェノロサと二人三脚で
   日本画の近代化を進めた。
   代表作は、この晩年の数年間に集中しており、ここ
   に至って、狩野派、室町水墨画、維新後の明清画研
   究に、遠近法や西洋的色彩などの西洋絵画研究が加
   えられ、それらが集大成された。
   「不動明王図」「岩石図」「暁霧山水図」(いずれも
   東京芸大蔵)のほか、絶作「悲母観音図」(東京芸大
   蔵)は、日本画近代化の第一段階における記念碑的作
   品ともなっている。
   フェノロサ、ビゲローらとの関係から、アメリカの
   ボストン美術館、フィラデルフィア美術館、フリア
   美術館にも作品が収蔵されている。
   図画取調掛雇となる。
  1888年(60歳)同校の日本画科主任教授に内定したが、
   1889年の翌年の開校を待たず(開校の3ヶ月前)の
   1888年(明治21年)11月5日、60歳で没した。
   死の直前に完成した『悲母観音』(重要文化財)は、
   近代日本画の代表作の一つとして名高い。
   この他の代表作として「大鷲」
   『河北倫明・高階秀爾他編『日本の名画1 狩野芳崖』
1888年11月15日、天竜川に鉄橋架設が竣工した。
  早川橋梁(出山鉄橋)
1888年11月16日、今日新聞と歌舞伎新報を吸収して、都(
 みやこ)新聞が創刊された。
  1884年9月、小西義敬により夕刊紙「今日新聞」として
   東京で創刊された。
   初代主筆は、仮名垣魯文として、夕刊紙『今日新聞』
   が創刊され、
  1888年11月、黒岩涙香主筆の朝刊紙『みやこ新聞』と
   なり
  1889年2月、『都新聞』と改題(朝刊紙となる)
   小説や歌舞伎・花柳界関係、演劇・文芸記事に特色
   があって下町好みの新聞であったが、
  1892年,改進党の楠本正隆の買収後、政治的には改進
   党寄り,後には、政友会系といわれたが、
   党派色は薄く、日露講和反対運動で,マスコミの大
   勢に従った程度にとどまった。
   内容は、歌舞伎、花柳界などの通俗記事と、小説の
   充実を本領とし、黒岩涙香の翻案小説、伊原青々園
   の探偵実話、劇評などにより、東京下町を中心に読
   者を集めた。
  1942年、新聞事業令 (1941年12月、公布) により『国
   民新聞』と合併、夕刊地方紙の『東京新聞』となっ
   た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:第二次世界大戦の原因を作ったスティムソン(アメリカの国務長官)
.
1933年1月9日、この日から約2ヶ月の後に、ルーズベルトが
 大統領に就任(1933年3月4日に、第32代大統領となる)
 するのだが、
  この日に、スティムソン(ルーズベルトの前の大統領
 のフーバー大統領の国務長官)が、ルーズベルト宅に訪
 れた。
  ルーズベルトとスティムソンは、これが、最初の出会
 いだった。
  スティムソンは、自分の考えを伝えた。
  ルーズベルトは、スティムソンの話を聞き、スティム
 ソンの考えに全面的に同意した。
  そして、ルーズベルトは、後悔したように言った・・、「
  もっと早く(日本への経済制裁を)実施させるべきだ
 った」・・と。
  さも、「失敗した」というように舌打ちをした。
  そして、「日本は、いずれ屈服するだろう」と言った
 (スティムソン日記)。
  ルーズベルトは、このスティムソンの考えの継承を、
 アメリカ国内、および、世界に発表した。
  しかし、スティムソンと違ったところは、「スティム
 ソンが、日本への経済制裁をしても、戦争につながらな
 い」と考えていたのに対し、
  ルーズベルトは、「必ずしも、戦争につながらない事
 もない、戦争に至ることもありうる」と考えていた。
  そして、側近のタグウェルから、「戦争の危険」を言
 われると・・、
  「戦争になるなら、早い方がよい」と、戦争を避けよ
 うという意思はないという所を見せた。
  ルーズベルトは、完全にアメリカが強い状況にあるか
 ら、早いうちに「力で屈服させよう」という路線の中に
 あった。
  話し合って、とことん話し合って、「卑劣な武力行使
 である戦争」は、避けようという姿勢ではなかった。
  ルーズベルトのこの軍事優先の考え方に対し、抗議の
 手紙が来た。
  この事について、妻のエレノアへ「日本が悪いと責任
 を転嫁した」。
  その様な捉え方で、話し合いではなく、戦争に至るの
 はやむなしと考える、思考停止しているルーズベルトだ
 った。
  「日本が、誇大妄想に取りつかれているから」と、思
 考展開して、ルーズベルトは、日本を捉えていた。
  その日本に対する「固定的捉え方・固定観念」から、
 ルーズベルト自身は、「戦争行為の実施・・やむなし」
 の考えに取りつかれていた。
  妻のエレノアによると、ルーズベルトは、ウッドロー・
 ウィルソン政権(第28代大統領、1913年3月4日~1921年
 3月4日)の海軍次官補だったころから、
  ルーズベルトは、ハワイやグァム島や太平洋の島々に
 ついての日本に対する脅威や安全に不安を持っていた。
  そして、話し合いで解決するという考え方より、「日
 本を仮想敵国と見て叩く」ルーズベルトが、そこに居た。
.
1933年1月9日、ルーズベルトが大統領になってない、約2ヶ
 月前のルーズベルトの前の大統領であるフーバー大統領
 (第31代大統領)の国務長官であるスティムソンは、ル
 ーズベルトの「ある言葉」を聞いて思った・・、
  「(ルーズベルトは)いわゆる侵略による領土の変更
 を認めないという(前政権の)原則を受け継ぐことを明
 らかにした。
  ‶侵略国〟というあいまいな定義だけで、国際紛争にお
 ける中立の立場を捨て、一方の国に制裁を加えるという
 誤った政策を意味している。
  極東に大きな戦争を招く政策を支持したのと同じこと
 だ。
  いずれ米英が、日本に対し戦争を仕掛ける事になるか
 もしれない」・・と。
  スティムソンは、アメリカが、イギリスと共に、日本
 との戦争になると感じた。
  ルーズベルトは、この様に大統領になる前から、日本
 との戦争に至る路線にある大統領だと感じさせた。
  日本が、真珠湾攻撃をしたから第二次世界大戦がはじ
 まったのではなかった。
  ルーズベルトには、日本との戦争を、大統領として行
 う行為として、大統領になる前から意識し、存在させて
 いた。
  これまでのアメリカには、分岐点があった。
  日露戦争までは、日本の支援国であった。
  日本が、精一杯、ロシアと戦っている時、絶妙のころ
 合いに仲介してくれた。
  日本は、ロシアとの戦いに「勝利」という結果を得た。
  満州を、ロシアから日本へ移譲(いじょう、権利が移
 ること)された。
  日本の『侵略ではない』。
  アメリカには、判断の分岐点があった。
  このアメリカが仲介して、ロシアから移譲され、権利
 が、ロシアから日本へ移った満州を、アメリカは承知で、
 戦争の仲介しておきながら・・、
  その後、手のひらを返したごとく『侵略だ』と言い出
 した。
  これは、アメリカが、大義名分を作りたかったからだ
 った。
  だから、この様に言い出したのだった。
  一時、日本を理解し、同じ立場を取ったアメリカだっ
 たが・・、
  しかし、東アジアの小さい国・日本が、侮(あなど)
 れない国という意識が芽生えた。
  日英同盟の破棄するように、アメリカは、動いた。
  日本とイギリスを分断する行動をした。
  1902年に結ばれた日英同盟は、1923年に失効とされた。
  アメリカと共に日本は、イギリスとも、袂(たもと)
 が分かたされた。
  アメリカ・イギリスなどと対峙する立場という「好ま
 ざる立場」に立たされた。
  モーリーは、大統領就任前のルーズベルトを、レック
 ス・ダグウェルと共に訪ね・・、
  国務長官の『スティムソン外交の好戦性』を説き、
  このままでは戦争に至ることを説こうと、ルーズベル
 トを訪れた。
  しかし、ルーズベルトは、数時間におよぶ説得を聞い
 たのち、
  日本との戦争は避けられないと言い、
  避けるより、早い時期に戦った方がよい・・と・・平
 然とルーズベルトは答えた。
  驚いたダグウェルが・・、
  「ですが、日本は、人口増と急激な工業化で、新たな
 市場を必要としている。
  日本の行動が、イギリスと比べて酷いとは思えない(
 イギリスの方が酷い)」・・と言った。
  すると、ルーズベルトは・・、
  「私の先祖は、中国貿易に従事したことがある。
  だから、いつも、私は、中国人には親しみがある。
  そんな私が、日本をやっつけようというスティムソン
 に同意しないわけがないではないか」・・と。
  (「FDRのニューヨーク時代」ケネス・デービス著)
  (参考)
  モーリー(レイモンド・モーリー)は、ルーズベルト
 大統領を支援し、ニューディール政策の策定に当たった。
  だが、1933年9月、モーリーは、連邦政府の権限拡大に
 反対し、国務次官補を辞任した。
..
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