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(増補版)341E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年1月)

2016-04-28 15:10:33 | 日記
題:(増補版)341E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年、食:
・北海道開拓使が、缶詰製造の伝習を始める(1877.10.10)
  開拓使石狩缶詰所・・、
  開拓使は、北海道の産業を振興させるために、色々な
 事業を行なった。
  「札幌麦酒醸造所」(後のサッポロビール)、「真駒
 内牧牛場」など、北海道各地で官営事業を興した。
  この「開拓使石狩缶詰所」も、その一つ。
  缶詰工場は、この他にもエトロフ島や厚岸など5か所に
 設置した。
  そして、アメリカ製の製缶機や製造機械を導入して、
 本格的に事業を開始したのが、1877年10月10日だった。
  事業を進めたのは、アメリカ人指導者2人、伝習生11人、
 など総勢19人だった。
  そして、アメリカやフランスの万国博覧会に出品をし、
 好評を博した。
  作った缶詰は、鮭缶、スモーク・サーモン缶、カキ缶、
 シカ缶、牛缶だった。
・ブドウ酒の苗木を導入した。そして後に、山梨県のブド
 ウ酒醸造場が設けられた。
  1873年(明治6年)に、大久保利通は、日本におけるワ
 イン造りを奨励した。
  その理由は、大久保は、明治維新後まもなく、フラン
 ス視察で、夕食時にあたり前のようにワインを楽しむ「
 先進国の豊かな文化」を体験したからだった(1871年の
 岩倉使節団で体験)。
  大久保は、帰国後すぐ、国策の近代化を図る「殖産興
 業政策」の一環としてワイン造りを奨励した。
  1877年(明治10年)になって、大久保の命を受けた前
 田正名(農商務省の官僚)が、
  留学先のフランスの、国際的な農学者で苗木商のシャ
 ルル・バルデから、ブドウの苗木を大量に購入して、帰
 国した。
  そして、それを、東京・三田に「三田育種場」を開設
 し、苗木を増やし、
  そして、全国に配布した。
  「メルシャン株式会社」のルーツとなる日本初の民間
 ワイン会社「大日本山梨葡萄酒会社」が、山梨県勝沼の
 地に誕生した。
  山梨県令・藤村紫朗により地元有志が募られ、「大日
 本山梨葡萄酒会社」が設立された。
  これが、日本初の民間ワイン会社だった。
・ウイスキー会社の集まりの英国蒸留酒協会が発足、
  そして、1888年には、大坂の小西儀助が、ウイスキー
 の製造を始める。
  1877年に、ウイスキー会社が集まって英国蒸留酒協会
 (DCL)が発足した。
  政府と協力しつつ、次々と製造業者を吸収した。
  スコッチの五大ウイスキーメーカー(ホワイト・ラベ
 ル、ジョニー・ウォーカー、ブラック・アンド・ホワイ
 ト、ホワイト・ホース、ジョン・ヘイグ)が、これに参
 加し、当時ウイスキー取引の60%を抑えるまでに大きく
 なった。
  日本では、明治になってアルコールが輸入され、模造
 の清酒(後の合成清酒)や、ウイスキーなどがつくられ
 たが、
  本格的なウイスキーは、1924年(大正13)、寿屋(こと
 ぶきや)山崎工場(現:サントリー山崎蒸留所)において
 初めて製造された。
  また、小西儀助商店を調べると・・、
  1870年、古西屋の屋号で薬種業を始めた。
  1880年頃、洋酒の輸入販売を開始した。
  1888年、大阪洋酒醸造会社を創立し、ウイスキー・ブ
 ランデーなど製造販売をする。
  1925年、株式会社小西儀助商店に改組・・とある。
・札幌のホップ園が設置された。
  1877年に、開拓使が、札幌にホップ園を設置した。
  そして、翌・1878年に、東京芝に桜田ビールが創立さ
 れた。
  1878年に、東京の洋酒販売商・金沢三右衛門が、発酵
 社を設立し(芝・桜田本郷町)、
  そして、発酵社は、明治10年代後半に、日本最大の製
 造高を誇った。
  「桜田ビール」を醸造し、日本のビール産業草創期を
 牽引したビールを発売した。
・横浜で、氷水が流行り出される。
  「横浜新誌」(1877年)に・・、
  「氷水を估る(うる)者は彩燈を照らし、麦湯(むぎ
 ゆ)を售る(うる)者は燈影暗らく」と記されている。
  また、1890年、渋沢栄一や浅野総一郎など、財界のそ
 うそうたるメンバーが、株主として名を連ねて青山製氷
 所が設立された。
・初めて人造氷が作られた。
  雪国の加賀藩は、将軍への「献上氷」を始めた。
  そしてまた、加賀藩は、氷と同時に、日本海で獲れる
 真鯛も運んで献上した。
  この様な文献が残されている。
  また、この様な雪国の加賀藩は、氷で物を保存する事
 を知っていた。
  加賀から江戸まで、献上氷だけでなく、氷で保存した
 真鯛も運んだのだった。
  そして、駒込にある加賀藩の前田藩邸から江戸城まで、
 この氷の荷を運ぶ際には、はね落ちる冷水のしぶきを一
 滴でも受けようと、沿道には、人が群がったという。
  この様に、明治時代の初期までは、冬の間に氷室(ひ
 むろ)で保存していた天然氷が利用されていた。
  しかし、1877年(明治10年)に、初めて人造氷が作ら
 れ、次第に人造氷の生産が増えて行った。
  (注):氷室(ひむろ):天然氷を夏までたくわえて
    おくために設けたむろ。
     地中や山かげに穴をあけ、上を茅 (かや) など
    でおおう。
     昔は宮中用の氷室が山城・大和・丹波・河内 (
    かわち) ・近江 (おうみ) にあった。
  (参考):氷室の節句(ひむろのせっく):江戸時代
    の行事の一。
     暑い盛りの陰暦6月1日に、前年の冬の雪水で作
    った折餅(へぎもち)または氷餅(こおりもち)など
    を祝って食べた。
・この頃、卵を売る目的の養鶏が始まった。
  1861年に、福岡県に生まれた伊藤伝右衛門(代議士)
 は、13歳の時に、家計を助けるために卵売りをしたとい
 う、これは1874年のこと。
  また、岡山県出身のジャーナリストの岸田吟香(岸田
 劉生・洋画家の父)が、1877年頃に、「卵かけごはん」
 を食べたと言っている。
  養鶏の卵ではないだろうが、そもそも、人類が、最初
 に卵を食べたのは、
  人類が、サバンナの地上生活を始めた頃の、約500万年
 前と考えられている。
  地上に卵を産むダチョウの卵を食べたのだろうと・・、
  また、約4万年前の人類が、ダチョウの卵の殻で装飾品
 を作っている。
  この卵の装飾品が、アフリカ東海岸の中央ケニアの岩
 窟で発見されている。
  家禽(かきん)として飼育された、世界での最初は、
 4000年前と言われる。
  エジプトの古文書に、紀元前1500年頃には、すでに鶏
 が、ほぼ毎日のように産卵したという記録がある。
  また、2500年前のローマでも、鶏が、採卵用に品種改
 良されたことが記されている。
  その後、鳴き声や尾の長さを鑑賞するために鶏が飼育
 されている。
  そして、日本には、古事記に、天照大神を呼び戻すた
 めに鶏を鳴かせたという話がある。
  「常世の長鳴鳥」の話。
  紀元前100年頃に、日本へ朝鮮半島からニワトリが伝わ
 ったという。
  奈良時代には、鶏は「時告鳥」として飼い、食べなか
 ったが、
  雉(きじ)は食べたようだ。
  この頃の人は、病気の時に卵が良いという事を知って
 いた。
  但し、日本人が鶏肉として食べる様になったのは江戸
 時代の頃からという。
  また、江戸時代には、卵売りの行商がいたという。
  1785年に出版された有名な料理本の「万宝料理秘密箱
 (まんぽうりょうりひみつばこ)」の「卵之部」に、103
 種類の卵料理が紹介されている。
  1850年には、イギリスで商業用の「採卵養鶏」が始ま
 っている。
  130年前(1875年)頃に、アメリカの小規模養鶏産業が
 盛んになり、近代養鶏に用いられる鶏の品種の多くが、
 主に、卵生産を目的として品種改良され、発展した。
  この頃の鶏肉は、卵生産の副産物だった。
  1955年代(昭和30年代)に、アメリカから新品種の養
 鶏の新技術が、我が国に導入され、
  以後、盛んになったという。
  我が国は、世界屈指の生産国であり、消費国となって
 いる。
・多くの野菜が、タマネギ、ハナハボタンなど移入される。
  1876年に、札幌農学校が開校したが、
  そして、ここに着任したクラーク博士が、欧米農業の
 導入の窓口として、農業試験場のような役割をしていた。
  1877年、ここに、農業分野担当として、ウイリアム・
 ベン・ブルックスが着任した。
  クラークの後を引き継いだブルックスは、日本に腰を
 据え、日本の農業発展に大いに寄与した(10年間の在職)。
  その間、多くの野菜や牧草の種子を海外から取り寄せ、
 大いに日本の農業発展に尽くした。
  彼は、栽培法を学生だけでなく、周囲の農家にも熱心
 に指導した。
  栽培作物もどんどん増えた。
  玉ねぎ、ジャガイモ、とうきび、キャベツ、トマト、
 ニンジン、エンダイブ、コールラビなど・・と。
・長崎ハクサイを栽培した。
  長崎市の橋本氏が栽培したという記録がある(農事試
 験場試験時報、昭和12年8月)
・大浦の生鮮食料品を扱う片岡商店が、日本人で初めての
 製パン所を併設した。
1877年、住:
・コンドルが来日した。
  日本政府の招聘により、英国の建築家のジョサイア・
 コンドルが来日した。
  工部大学校造形学科(現=東京大学工学部建築家)の
 初代教授に就任し、
  日本で初めて、本格的な西欧式建築教育を行った。岩
 崎邸竣工(1896年)
・日本初のコンクリート造の小曽根邸が建築された。
  大工の大渡伊勢吉は、港外伊王島灯台の建設に来た英
 人・ブラントからコンクリートの技法を習った。
  応用して、日本初のコンクリート造の小曽根邸が建築
 された。
  この建物は、戦時中に建物の強制疎開となり取り壊さ
 れた。
  また、この大工棟梁・大渡伊勢吉は、初の洋式無筋コ
 ンクリート造の伊王島灯台旧吏員退息所を建てた。
・工作局に器具染物製造所を設けて、欧米風の家具、及び、
 ラック塗、ワニス塗の業を始めた。
1877年、その他:
・宮内省で、初めて電話の実演を行った。
  来日したグラハム・ベルが、宮内省で自身が発明した
 電話を実演した。
  グラハム・ベルは、工部省の招きで日本へやってきた。
  この日、並みいるお歴々を前に、ベルは、厳(おごそ)
 かに受話器を取り上げると、別室のメンバーと英語で通
 話してみせた。
  実験成功の直後、東京音楽学校の校長になる伊沢修二
 と留学生仲間で、後に、司法大臣になる金子堅太郎が、
 その電話で会話した。
  これは、日本語だったから、英語に続いて世界2番目に
 通話に使われた言語となった。
  工部省は、「これは便利」と早速同じものを『複製』
 して、各官庁間に設置した。
  ところが、電話を使う習慣がまったくなかったから子
 供の糸電話と同じとからかわれ、電話をかけるよりも出
 かけた方がよほど早いと敬遠された。
  それが、12年後の1889年(明治22年)には、東京~熱
 海間に公衆電話が開設され、翌年・1890年には、東京~
 横浜で電話交換業務が始まった。
  ようやく電話の便利さが認知されて、庶民向けのサー
 ビスが始まった。
.
[今日の言葉]
  アメリカの「民営化の圧力」で、民営化したため、日
 本で起きたことは・・?
  官公庁の手を離れたことで・・何が起きているのか・
 ・・?
  アメリカは内政干渉レベルの事を日本に要求して来た。 
  アメリカは、内政干渉の悪行為を、日本にして来た。
  まったく、自分だけの理屈を、アメリカは日本に強い
 て来た。
  その結果は・・?
  アメリカの「民営化せよ」との圧力で、民営化したた
 め、官公庁の行為が後退し、そのため、日本の品質・・
 その品質が低下をきたしている。
  その一つが・・「建築の検査」。
  日本が大きく揺れた問題・・、杭のデーター捏造で、
 大きな問題が起きたが、これも、そのほんの一つの1事例。
  民間へと移った検査が、厳しい官公庁へ検査を依頼す
 る事が、避けられ、ほとんどが民間の検査となっている。
  この事は、実際に起きていることを、体験し、多くを
 見聞きしているので、間違いない事なのである。
  民間委託した検査は『甘い』。
  競争状態においたとアメリカは言うが、検査を甘くし
 て、客を取ろうとする(一見、競争状態の)民間検査機
 関。
  こんな事が、こんな状態が、アメリカの言う「競争の
 実態」なのである。
  損をするのは、被害を受けるのは、「日本国民である」。
  当然である・・
  検査の申請を、甘い検査をする民間機関に持って行く
 のは当然である。
  委託された民間検査機関に、検査依頼する事が当然で、
 多くなっている。
  そこに、甘い検査がある。
  癒着もある。
  良く言えば、その民間の検査機関は、「融通をする」。
  そして、また、良く言えば、「善処する」・・である。
  事なきを得る・・ことを、起こしてくれる民間検査機
 関となっている。
  次も、その人は・・次も、その客は・・その民間検査
 機関へ検査依頼書を持って行くだろう。
  こんなことが・・日本で起きている。
  官公庁での検査の時には起きていなかったことが・・
 起きている。
  アメリカの圧力に屈した検査制度を、元に戻すべきで
 ある。
  アメリカの圧力に屈したすべてを・・元に戻すべきで
 ある。
  アメリカは、日本を自分の理屈で・・内政干渉までの
 口出しはしないこと。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)340E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年1月)

2016-04-27 03:02:07 | 日記
題:(増補版)340E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年(明治9年~明治10年)出来事:
・西南の役において、佐野常民(さのつねたみ、政治家、
 赤十字事業の創始者)が、博愛社を起こした。
  1887年(明治20年)5月に、博愛社は、日本赤十字社と
 改称した。
  万国赤十字社にも加入した。
  1887年9月29日に、ドイツで開催された万国赤十字社大
 会に、森鴎外が日本の代表として出席した。
  因みに、佐野常民は、日本人による最初の蒸気車・蒸
 気船の模型を作り走らせた。
  また、枢密顧問官・第一次松方内閣の農商務省を歴任
 し、また、龍池会(後の日本美術協会)を結成して、美
 術工芸の発展にも寄与している。
・上野彦馬(うえのひこま、写真家)が、長崎県の北島秀
 朝県令を通じ、新政府軍から戦場写真の撮影を依頼され
 た。
  門人2人を連れて、西南戦争に従軍した。
  21日間にわたり、暗箱を人夫8人に担がせ、転々として
 戦場を駆け巡り、4つ切り記録写真を69枚を残した。
  因みに、上野は、日本で初めて銀板写真法(ダゲレオ
 タイプ)を輸入し、島津斉興を撮影したと言われている。
・西南戦争が勃発し、記者の犬養毅が「郵便報知新聞」に
 従軍ルポ「戦地直報」を掲載し、また、
  福地源一郎(東京日日新聞)、犬養毅(郵便報知新聞)の
 従軍記事は人気を博した。
  1881年(明治14年)に、矢野龍渓は、大隈重信と共に
 報知社を買い、犬養毅・尾崎行雄らが入社し、立憲改進
 党の機関紙となった。
  記者だった原敬は、反発して退社した。
・東京警視本署が内務省へ移管した。
  東京警視本署が、内務省警視局に主幹事務が移され、
 内務省の一部局となった。
  設置(1874年)、再設置(1881年)
・急速に発展する日本、
  中国の文人で、外交官の黄遵憲(こうじゅんけん)が、
 駐日公使の随行員として東京に赴任して、巡査が鉛筆で
 手帳に何か書きためている事や、
  タバコ屋の店番をしている女の子が、新聞を読んでい
 るのを見て、こんな事は中国ではありえない、ハイカラ
 な事だと驚嘆した。
  明治も10年も経つと、西洋化が町の中に入って来てい
 る。
  ペリーの来航から維新までの変化が、非常に速やかで
 あったが、維新から西南戦争を経た15年位までの変化も
 急速だった。
  因みに、黄遵憲は、詩人でもあり、日本研究家でもあ
 った。
  また、黄遵憲は、アメリカ合衆国の中国人排斥が酷い
 ため、この解決に、サンフランシスコ総領事として奔走
 してもいる(1882年)。
  著作に、「日本国志」「日本雑事詩」「人境廬詩草(じ
 んきょうろしそう)」などがある。
1877年、データ:
・日本の総人口、35,870,000人
1877年、経済:
・紙幣乱発で、物価が高騰した。
  不換紙幣の乱発でインフレを招いた。
  米1石が5円を超えた、そして、1881年には、15円のそ
 の3倍を超えた。
  原因に、西南戦争の戦費の為だった。
  イギリスは、日本の外債募集案に喜んで貸すと言い、
 エジプトは外債の利子が払えずに、イギリスに、スエズ
 運河を取られていた。
  また、チュニジアは、金が返せず、国を獲られた(フ
 ランスに、これを理由に併合された)
  この様な危険な因子を含んだ外債だった。
  日本は、1882年に、お金の発券権を持っていた国立銀
 行から、日本銀行を設立して、発券銀行とした。
  そして、1885年に、銀兌換の日銀券を発行し、
  1886年から兌換開始し、銀本位制とした。
  インフレは収束して、政府財政も好転して行った。
・租税総額に占める地方税の割合…27.4%
1877年、物価:
・米価:1石=5円61銭
・国産ビール…16銭/本
・西洋料理…スープ8銭5厘、牛肉鳥類8銭5厘、
・ライスカレー12銭5厘、
・コーヒー2銭、
・パン2銭、
1877年、本:
・1877年3月10日、「頴才新誌(えいさいしんし)」 創刊。
  《団々(まるまる)珍聞》《芳譚雑誌》のように、投
 書を重視する雑誌が多かった明治初期に、
  小学校生徒の作文を中心にした青少年の本格的な投書
 専門誌として出発した。
  投書内容は、修身や立身出世を扱った教科書風の紋切
 型が多かったが、しだいに文学色を濃くして行った。
  尾崎紅葉、大町桂月、田山花袋らの明治の文学者の多
 くが、本誌の愛読者・投稿者であり、
  文学愛好の青少年に、投稿を習慣づけることによって、
 明治文学の基盤づくりに寄与した。
・1877年8月、文部省編 「日本教育史略」
  日本の教育史学の発祥を象徴する書で、後に、府県師
 範学校の教科書となった。
  日本における最初の教育史。
・田口卯吉著 「日本開化小史(にほんかいかしょうし)」
  古代~江戸幕府終末までを、貨財の生産組織を基礎と
 する社会発展の過程を体系的に述べたもので、
  イギリスやフランスの文明史観を吸収して、独自の見
 解を示した。
  日本近代歴史学の記念すべき著作となっている。
・「馬爾去斯氏人口論要略」(著:マルサス/抄訳:大島貞益)
・「民約論」(著:ルソー/訳:服部徳)
1877年、美術:
•『鮭』(高橋由一)
1877年、流行・世相:
・東京で牛肉屋が激増した。
  1877年の東京における牛鍋屋は、550件を超えるほどあ
 ったという。
  また、朝野新聞・1877年11月8日の記事に、東京府内の
 牛肉屋の数488とある。
・大阪では紺木綿(こんもめん)が払底 → 西南戦争の
 兵士の紺足袋5万足、紺脚絆1万足を調製したため。
・熊本縣 → 西南戦争余波の農民騒動 31件。
  「この年、熊本はじめ諸県で農民騒動47件」の史料も
 ある。
  この騒動の原因は・・、
  政府の西南戦争の戦費は4100万円にのぼり、
  当時の税収4800万円のほとんどを使い果たすほど莫大
 になった。
  政府は、戦費調達のため不換紙幣を乱発し(→国立銀
 行)、インフレーションが発生した。
  このため、のちの大蔵卿・松方正義は、増税、官営企
 業の払い下げ、通貨整理を行って、兌換紙幣発行に漕ぎ
 付け、通貨の信用回復により、日本が欧米列強に並ぶ近
 代国家になる下地が作られた。
  しかし、この過程で、松方デフレが発生し、
  農民の小作化が進んで(小作農率の全国平均38%→47%)、
 大地主が発生した。
  また、小作を続けられないほど困窮した農民は、破産
 して、都市に流入した。
  そして、官営企業の払い下げで発生した財閥が経営す
 る工場で、低賃金労働者となった。
  都市部の貧困層が拡大した。
  また、財政難となった国は、「原則国有」としていた
 鉄道の建設が困難になり、
  代わって私有資本による鉄道建設が進んだ。
  西南戦争は、士族の特権確保という所期の目的を達成
 出来なかったばかりか、
  政府の財政危機を惹起させて、インフレ、そして、デ
 フレをもたらし、
  当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、
  プロレタリアートを増加させた(農民の労働者化)。
  その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、そ
 の中から初期資本家が現れる契機となった。
  結果、資本集中により、民間の大規模投資が可能にな
 って日本の近代化を進めることになったが、貧富の格差
 は拡大した。
・東京で揚弓(ようきゅう)が大繁盛 → 風紀壊乱のた
 め取締を強化した。
  矢を拾う女性との風紀が乱れたため。
・西郷星(さいごうぼし)…人々の人心の動揺から起きた。
  150年ごとに地球に大接近する火星と重なった。
  西南の役で、全国の人心が動揺していたとき、火星が
 地球に近づいてきて、大接近の9月3日には距離5630万km、
 光度-2.5等あまりとなった。
  世間では、これを西郷星と呼び、その赤い光の中に陸
 軍大将の正装の西郷隆盛が見えると言って騒いだ。
1877年、衣:
・京都白川にモスリン加工工場できる。
  (注):モスリン:木綿や羊毛などの梳毛糸を平織り
    にした薄地の織物の総称。日本語では、主に、毛
    織物をモスリンと呼ぶ。
  (注):梳毛(そもう):羊毛繊維をくしけずって短
    いものを取り除き、長い繊維を平行にそろえるこ
    と。
  1875年のこと・・、毛織物の輸入が多くなりつつある
 日本は、このままでは大事な部分を外国に頼らざるを得
 なくなることを危惧した内務卿の大久保利通は、
  「毛織物は国産で興す」ことを決断した。
  そこで、大久保利通は、官が率先して模範を示そうと、
  1875年(明治8年)に、官営下総牧羊場設置と、
  そこで刈り取られた羊毛を使う官営千住製絨所の1879
 年(明治12年)設立開業を、太政官に具申し、実現した。
  大久保卿は、後に、同製絨所の初代所長となった井上
 省三をドイツに派遣し、
  機械設備を購入させて、
  同製絨所を紡毛機6台、整紡機6台、織機42台でスター
 トさせた。
  その後、後藤恕作(ひろさく)など、民間の手で毛織物
 工業に乗り出すものが現れ、
  1896年(明治29年)に、日本毛織が設立されるなど、日
 本の毛織物業界は黎明期を迎えた。
  最初期の日本の毛織物は・・、欽明天皇の御代(509年
 ~571年)に、下野国で、羚羊(カモシカ)の毛を織物とし
 て、これを計牟志呂、(けむしろ)と称したという古い記
 録がある。
  慶長年間(1596年~1615年)には、京都で兜羅(とろ)
 錦という棉と毛の交織物を織出しているが、これも一向
 にふるわなかった。
  明治初年には、西洋式の風俗が流行り出し、羅紗(ラシ
 ャ)服の需要に迫られて、
  1872年(明治5年)、明治新政府が、積極的に乗出して
 アメリカから綿羊数頭を輸入した。
  そして、東京雉子橋外の官邸で飼育を始めた。
  しかし、土地の関係もあり飼育場の、知識なり設備も
 甚だ不備であった為に、
  そのほとんどが失敗に終わった。
  しかし、一方、羅紗の需要は、益々増加し、年々輸入
 される量も大した額に上るので、
  政府は、1877年(明治10年)に、東京府下南千住に製絨
 所を設立し、
  また、京都の白川にはモスリンの加工場を設けて、
  毛織物の製造が、やっと、その端緒に入る事ができた。
  しかし、その原料たる綿羊の飼育が、ようやく奨励さ
 れ出したのは、昭和に入ってからだった。
  一方、稲畑勝太郎(いなばた・かつたろう、1862年~
 1949年)は、日本の染料業界をリードし、後に、関西経
 済界も指導した経済人だったが、
  また、フランスで発明された映画装置「シネマトグラ
 フ」を日本で初めて輸入し、映画興行を実現した人物で
 もあったが・・、
  繊維産業の発展にも寄与した人物だった。
  稲畑は、京都の和菓子屋に生まれ、京都師範学校(現
 :京都教育大学)在学中の1877年(明治10年)に、
  京都府政アドバイザーのレオン・ジュリー(フランス人)
  から推薦されて、京都府派遣勧業生(合計8人)の一人
 として、当時の繊維産業のメッカ、フランスのリヨンに
 留学した。
  フランスでフランス語を修得したうえで、工業学校に
 進み、
  卒業後は、マルナス染工場の工員(研修生)となって生
 産現場を体験し、
  さらに、リヨン科学工業技術学校(現:リヨン大学)
 で工芸化学を専攻し、
  1885年(明治18年)に帰国すると、明治政府から農商務
 技師への誘いがかかるが、これを断り、京都で洋式染色
 技術普及(京都府染工講習所の設立)に奔走した。
・鎮台所在地の一般人にもシャツの使用はじまる。
・山高帽子が、ナベボーシの名で地方でも着用される。
・西南の役によりメリヤス製造者が激増した。
・旧来のお白粉、人体に害ありと騒がれる。
・ジャカード織機の国産試作が行われた。
  (注):ジャカード織機は、1801年に、フランスの発
    明家ジョゼフ・マリー・ジャカールによって発明
    された自動織機。
----------------------------------------------------
(今日の言葉)
  アメリカ系の外資系企業が、精神攻撃的な悪どいテレ
 ビ・コマーシャルをしている。
  「あなたの食卓テーブルには菌がいる」「あなたの夫
 は、悪臭がする」・・などという、目に見えない「菌」
 や「臭い」の宣伝話題で宣伝している。
  普通では気づかないことを「神経過敏」にして、自社
 商品を売り込もうという算段。
  テレビという影響力の強い媒体を使って、繰り返し、
 繰り返し、悪どい繰り返し手法を使って、
  また、あらゆる種類の精神攻撃的コマーシャル放送を
 している。
  「あなたの車も臭い」「あなたの亭主の靴下も臭い」
 「あなたの布団も臭い」「あなたのまな板も菌だらけ」
 「貴方の洗濯物も臭い」などなどと際限なくやっている。
  節操なく。
  品の良くない精神攻撃的コマーシャルを、あらゆる手
 を使って長い期間、続けている。
  あなたが神経過敏症になって、そのアメリカ外資系企
 業の商品を買わざるを得ない状況に追い込んでいる。
  「日本系企業では絶対にしない節操ない行為をしてい
 る」。
  儲かれば、日本人が神経過敏症になろうが、構わない
 というような宣伝となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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(増補版)339E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年10月~1876年12月)

2016-04-25 02:52:27 | 日記
題:*(増補版)339E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年10月~1876年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1876年11月1日(明治9年)、官軍が、秋月の乱を平定す。
  1876年10月24日の「神風連の乱」が起き、そして、
 この3日後の27日、今度は九州・福岡で、旧秋月藩士・
 宮崎車之助ら400名が、神風連に続けと蜂起したが、
  しかし、鎮台が出動すると、敵(かな)わないとみて
 大分方面に逃走し、
  現地の士族たちに呼応を呼びかけたが応じる者もなく、
 結局、小倉鎮台に鎮圧された。
1876年11月3日、宮中御宴にて、初めて洋楽が演奏された。
  宮内省雅楽課が、初めて、洋楽を演奏する。
1876年11月4日、「甜菜(てんさい)より砂糖製造の法」
 を内務省にて翻訳し、これを地方産業開発のため領布し
 た。
1876年11月5日、前原一誠らが捕らえられた。
  陸軍少将・三浦梧桜(みうらごろう)が、萩に進撃し、
 前原一誠の餘党を破り、平定した。
  乱の首謀者・前原一誠と横山俊彦は、出雲瓜港にて捕
 えられた(11月6日説あり)。
  この萩の乱の首謀者の前原一誠(いっせい)は、10月
 30日に山口県令・関口隆吉(たかよし)を急襲し、萩で
 の市街戦を行なうが、
  前原らは、途中で戦線を離脱し、
  その後・11月5日、わずかな人数で出雲にいたところ
 を逮捕された。
  その出雲の島根県令の佐藤信寛は、前原の気持ちを理
 解した。
  佐藤も、新政府の一員でありながらも、中央政府の一
 部・政治家の不誠実な行為に批判的な気持ちがあった。
  その佐藤が、前原に言った「東京への護送において、
 天皇陛下に訴えるチャンスを与えたい」・・と。
  しかし、大量の逮捕者を、東京に護送し、裁判を行う
 事が難しいと判断した中央政府は、彼らを、萩に護送し、
 そこで裁判を行うことに決定した。
  萩での審議は、1週間に渡って行われ、
  1876年(明治9年)12月3日、前原以下・幹部7名+1
 名を斬刑に、48名を懲役刑に、14名を除族+放免に、残
 り388名を放免する・・と判決した。
  その日のうちに、刑は執行された。
  前原一誠、享年43歳・・
  除族:(じょぞく)華族・士族の者がその身分を除か
 れて平民とされること。
1876年11月6日、玉木文之進(たまきぶんのしん、長州藩
 士、教育者、山鹿流の兵学者、松下村塾の創立者、吉田
 松陰の叔父)が自害した。
  前原一誠による萩の乱に、養子の玉木正誼や門弟の多
 くが参加したため、
  玉木文之進は、その責任を取る形で、11月6日に、先
 祖の墓の前で自害した。享年67歳。
  その後は、正誼の子・正之が相続した。
1876年11月9日、谷干城(たにたてき)が、熊本鎮台司令
 長官となった(1872年説あり)。
1876年11月16日、日本初の幼稚園
  東京・神田の東京女子師範学校(お茶の水女子大学)
 構内に、官立幼稚園の附属幼稚園が設立された。
  中流以上の家庭の3歳~7歳の幼児をあずかり、教育
 を施こした。
  日本で最初の幼稚園で、主任・保母は、幼稚園教育の
 祖・フレーベルの教えを受けた。
  日本で、1872年(明治5年)に公布された学制に、小
 学校の一種として「幼稚小学」がある。
  「幼稚小学ハ甲女ノ子弟六歳迄ノモノ小学ニ入ル前ノ
 端緒ヲ教ルナリ」(第二十二章)・・と規定された。
  就学前の幼児教育施設として、日本で、実際に設けら
 れた最も早いものは、1875年(明治8年)12月に、京都
 上京第三十区第二十七番組小学校(後の柳池小学校、現
 在の京都市立柳池中学校)に付設された「幼穉遊嬉場(
 ようちゆうきじょう)」。
  これは、フレーベルのキンダー・ガルテンに倣って、
 官民一致で設けられたもので、しかし、1年半しか存続
 しなかった。
  キンダー・ガルテンの訳語として「幼稚園」を最初に
 名乗ったのが、1876年(明治9年)に開園した東京女子
 師範学校附属幼稚園だった。
  これが、日本で最古の幼稚園とされている。
1876年11月29日、東京・京橋の大火(約8500戸焼失)
  東京・日本橋数寄屋町から出火し、2万戸を焼失。
1876年11月、「朝野新聞(ちょうやしんぶん)」が、社
 屋を銀座4丁目に移転した(現:和光の地)。
  イギリス人・ブラックが「日新真事誌」を創刊した地
 を買い取った。
  1877年(明治10年)の西南戦争の現地取材を逡巡し、
 時期を逸し、遅れて、社長兼主筆の柳北が、京都まで行
 って、記事を送り、読者を失望させた。
1876年11月、伊勢暴動(12月18日および19日説あり)
  この時に、三重県飯野郡(現在の三重県松坂市)に端
 を発した、地租改正反対一揆(竹槍一揆) 。
  愛知県・岐阜県・堺県(現在の大阪府南西部)にまで
 拡大した。
  受刑者数は50,773人に達した。
  この暴動を通して、地租が、3%から2.5%に引き下げ
 られたことから「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とう
 たわれた。
  12月18日、翌日に控えた租税取り立ての延期を現在の
 三重県松阪市に相当する地域の農民が、戸長らに申し入
 れた。
  この農民と戸長らの話し合いはもつれ、松阪の農民は
 北と南に分かれ集団で行進を始め、
  各地で新政府に関係する施設の破壊・放火を行った。
  特に、北へ展開した一揆は、三重県を越え、愛知県や
 岐阜県にも広がった。
  こうした動きに対して、新政府は、鎮台や警視庁の巡
 査を派遣して農民を抑え込んだが、結局、地租を引き下
 げざるを得なくなった。
1876年12月1日、鉄道の複線の新橋~品川間が初開通した。
  新橋~品川間の鉄道が複線運転になった。
1876年12月1日、中外商業新報(ちゅうがいしょうぎょう
 しんぽう、日本名材新聞の前身)が創刊された。
  この時、三井物産の益田孝らが週刊で創刊したタブロ
 イド4ページの『中外物価新報』が起源(12月2日説あり)、
  1882年7月には、三井物産の手を離れ、
  1885年7月から、日刊となり、
  1889年1月27日に、「中外商業新報」に改称した。
  1911年8月、資本金 10万円で日本の新聞社最初の株
 式会社となり、
  1920年7月、一挙に 100万円に増資した。
  1924年12月、『大阪中外商業新報』を創刊して、関
 西にも進出した。
  1942年11月1日、政府の新聞統合令により「日刊工業」
 「経済時事」両紙と合併。
  「日本産業経済」と改題し、東日本唯一の経済新聞と
 なった。
  1946年3月1日、社名を日本経済新聞社に、題号を「
 日本経済新聞」に改めた。
1876年12月3日、前原一誠以下、萩の乱徒処分される。
1876年12月9日、各家毎に氏名の標札掲示を命ず。
  東京府 明治9年12月9日ほか
  東京府管内では、明治九年十二月九日に雛形を示し、
  明治十年一月三十一日を期限として標札等を標出致す
 べし旨の布達。
〇東京府布達 明治九年十二月九日甲第百四十四號
  ※戸籍札更ニ一定候様別紙標札心得書相示シ候條
來明治十年一月三十一日限リ標出可致此旨布達候事※
  標札心得
  第一條 宅地番號札ハ家主ニ於テ戸數點檢札ハ地主ニ
    於テ、戸主名札ハ居住人ニ於テ各自標出スヘシ
1876年12月15日、吉野朝の忠臣・新田義貞に正三位、楠
 木正行に従三位を追贈する。
1876年12月19日、函館の海防に備え湾岸砲台を設ける(
 砲12門に中隊長以下92人を置く)
1876年12月19日、伊勢暴動(三重騒動)
  三重県下で地租改正の反対する農民たちが、竹槍、ム
 シロ旗を押し立てて蜂起した。
  12月23日、東海地方にまで拡大し、日本の百姓一揆史
 上最大と言われる。
1876年12月27日、地租軽減の建議
  内務卿・大久保利通が、地租軽減を建議した。
  1873年7月28日に、地租改正法(上諭と地代の3%を地租
 とする旨を記載した1ヶ条で構成)と、
  (注):上諭(じょうゆ):公布の冒頭に記され天皇
    陛下の裁可を示す文章)。
  具体的な規定を定めた地租改正条例などから成る太政
 官布告第272号が制定され、
  明治政府は、翌年・1874年から地租改正に着手し、
  政府は、当初、検地が農民からの反発を受けることを
 懸念し、農民からの自己申告主義を採った。
  すなわち、農民自らが地押丈量を行い、面積・収量を
 算出し、
  (注):地押(じおし):田畑の等級や石盛 (こくも
    り) は従来のままとし、反別 (たんべつ) を測量し
    て修正すること。
  (注):丈量(じょうりょう):土地の面積を測量す
    ること。
  地方庁は、地方官心得書の検査例に基づいて点検し、
 これを経て地方庁が地券(改正地券)を発行する形を取
 った。
  しかし、この方法では、全国一律公平の租税を徴収す
 る目的は達しがたく、
  また、1874年の改租結果から、目標の租税額が確保で
 きそうにないことが明らかとなった。
  また、政府高官間の政争の産物である「大蔵省分割問
 題」も影を落としていた(内務省設置による測量機構と
 税額算定機構の分離)。
  このため政府は、1875年に、内務省及び大蔵省の両省
 間に地租改正事務局を設置し、
  これを中心として改租を強力に進めるよう方針転換し
 た(明治8年太政官達第38号)。
  この中で、府県庁は、地租改正事務局があらかじめ見
 当をつけた平均反収を絶対的な査定条件とし、
  申告額がこれに達しない場合は、農民が自らの労力と
 費用をかけて算定した地価を否定し、強圧的に変更させ
 たことから、伊勢暴動をはじめとした大規模な暴動が各
 地で頻発した(地租改正反対一揆)。
  これを受けて政府は、1877年1月に、地租を100分の
 3から100分の2.5に減額することを決定した。
  その後、政府の強硬姿勢は、1878年頃まで続いたが、
 税収の見込みがつくようになると、徐々に緩和されてい
 き、
  1880年に、耕地宅地の改正作業が完了した。
  地租改正は、約7年にわたる大事業であった。
  安定した税収を得たい政府方針に対して・・、
  税率を地価に対する一定率とすることにより、従前の
 ように農作物の豊凶により税収が変動することなく、政
 府は安定した収入を確保することができるようになった。
  具体的には、農作物の価格変動リスクを、政府から農
 民へ転嫁したものといえる。
  しかも、「旧来の歳入を減じない」という政府の方針
 によって3%という高額な税率が算定された。
  (地租改正の推進派であった木戸孝允は、この高税率
 を聞くと、農民を幕藩体制よりも酷い状況に追い込むも
 のだとして、最後まで反対した)。
  これは、結果的に、大多数の農民の負担を高めること
 につながり、
  また、土地の所有者がおらず、納税が困難な入会地が
 事実上、政府に没収されたことなどから、伊勢暴動、真
 壁暴動など一揆(地租改正反対一揆)が頻発し、
  自由民権運動へ影響を与えた。
  このため、士族反乱と農民一揆の結合を恐れた大久保
 利通の建議(意見)で、1877年(明治10年)に、税率
 が2.5%に引き下げられた。
1876年12月29日、三条実美および岩倉具視を、各勲一等に
 叙し、旭日大綬章を賜う(臣下勲章拝受の始まり)
1876年3月10日、電話が発明された。
  スコットランド生まれの科学者であるアレキサンダー・
 グラハム・ベルが、電話を発明した。
  助手との間で初の通話に成功した。
  ベルは、金銭的支援を受けて、トーマス・ワトソンを
 助手として雇うことができ、
  2人は、1875年6月2日に、実験を行った。
  その時、ワトソンは、偶然金属リードの1本を引き抜い
 てしまい、受信側にいたベルが、その金属リードの倍音
 を聞いた。
  倍音は、音声の伝送に必要である。
  この事から、ベルは、複数のリードは不要であり、1
 つのリードでよいと気付いた。
  これにより、明瞭な音声は伝えられないが、何らかの
 音だけは伝送できる電話の様なものができた。
1876年6月25日、インディアンの方々の最後の戦い
  アメリカ・インディアンとアメリカ政府軍・第七騎兵
 隊の戦いが起きた。
  この戦いを、インディアンの方々は、「グリージーグ
 ラス川の戦い」と言い、
  アメリカ合衆国は、「リトルビッグホーンの戦い」と
 言った。
  アメリカ合衆国軍のカスター将軍が、この戦いで戦死
 した。
  アメリカ・インディアンの方々と、アメリカ合衆国軍
 との戦いを、時系列的に大きく見ると、
  インディアンの方々の居留地の位置と、大きさを示す
 図において、
  年と共に、アメリカ・インディアンの方々が、東から
 居なくなっていく。
  つまり、西へ行けと、東の地に居られなくされて、追
 い出されている。
  そして、そこの西へ行ったところへ、また、白人のア
 メリカ人が入り込んで来て、さらに西へ移動させられる
 インディアンの方々。
  そして、ある特定の区域に住むようにさせられている。
  そして、その区域が、時代が進むにつれて狭くなって
 行き、居留地の広さ、大きさが小さくなって行く。
  そして、最後は、ゴマ粒のような居留地が、転々とあ
 るという姿になって行く。
  つまり、アメリカ合衆国は、インディアンの方々と条
 約を結んだりしているが、前の条約を無視して、その条
 約の約束を破って、常に、変更している約束が続く歴史
 となっている。
  そして、最後は、ゴマ粒のような居留地が、アメリカ
 中西部にばらまかれたように残るという状況へ至る。
  この戦いの発端も、現在のワイオミング州のビッグ・
 ホーンに金が発見されると、
  白人・アメリカ人は、ほってはおけなくなる、
  そこが、インディアンの方々の土地で、狩場であろう
 となかろうと。
  白人・アメリカ人は殺到した。
  約束も何もないように振る舞う白人・アメリカ人と、
 スー族の方々と衝突するのに、時間はかからなかった。
  当然、白人・アメリカ人が悪いのである。
  白人・アメリカ人のインディアンの方々の土地奪いが
 始まる。
  境界を侵しているのは欲に絡んだ白人・アメリカ人で、
  アメリカ合衆国政府は、カスター将軍に指示した。
  (力で奪って来いという命令になっている)
  命令を受けたアメリカ軍のカスター将軍は、
  公然と、インディアンの方々の意見や権利の主張を嘲
 弄(ちょうろう、相手を馬鹿にしてからかう事)して、
 インディアンの方々を挑発した。
  (西部劇映画でよく見る悪漢が嘲弄して、相手に、先
 に銃を抜かせるという・・あの悪巧みである・・こんな
 カスター将軍に、そして、将軍に命令したアメリカ合衆
 国に正義がある訳がない、卑怯なアメリカだった)。
  解決への道が閉ざれた中で、インディアンの方々は結
 集する。
  そして、この日に戦いは起きた。
  そして、カスター将軍と285人のアメリカ軍兵士は、
 リトル・ビッグ・ホーン川で殲滅させられる。
  このアメリカ軍の敗北は、アメリカ社会を大きく揺さ
 ぶった。
  一握りのアメリカ・インディアンの方々が、アメリカ
 合衆国軍を相手にして戦い、カスター将軍を失わせる勝
 利を得た。
  アメリカ政府は、直ちに報復・復讐に出る。
  正義も、また、復讐する正しい論理もない行動に出る。
  そして、この不名誉を挽回する策を取った。
  参謀本部へ命令した。
  今度は、クルック将軍が、最新の武器で、武装を固め
 た兵士、数千人と共に、スー族に立ち向かって行ってた。
  容赦のない攻撃を仕掛けた。
  アメリカ・インディアンの方々の抵抗の最後の砦であ
 った強大なスー族が敗れる時が来た。
  スー族を率いていたシッティング・ブルは、カナダへ
 逃れた。
  クレージー・ホースは、居留地に戻ったが、卑劣にも、
 そこで、アメリカ合衆国は殺した。
  インディアンの方々は、勇敢に機敏に、インディアン
 の方々に正義がある戦いを戦った。
  機関銃と大砲を持つアメリカ合衆国軍と、弓と矢で立
 ち向かったインディアンの方々。
  インディアンの方々に正義と勇気があったが、結果は、
 その武器の差で決着がついた。
  小さな戦いが、この後あるが、インディアンの方々の
 大きな戦いは、この戦いが最後だった。
  シッティング・ブルの、自分たちの土地を当然の権利
 として主張し、そして、要求した言葉:
  「われわれは白人が好きではない、ブラックヒルズは
 われわれのものだ」・・と、(その通り)。
1876年、イギリス女王ビクトリアがインド皇帝の座につい
 た(事実上、インドを奪う行為)
1876年、オーストラリア人(イギリス人)の絶滅行為
  イギリスは、タスマニア島のアボリジニーの方々を全
 滅させた。
  イギリスが、オーストラリアを占有して、オーストラ
 リアのタスマニア島に、19世紀に入った直後には、8000
 人のアボリジニの方々が居た。
  少なく見積もっても2500人のアボリジニの方々が居た。
  しかし、このタスマニア島のアボリジニの方々は、こ
 のイギリス人(オーストラリア人)に殺されて、約30年
 後に300人まで激減した。
  そして、この年の1876年に、最後のアボリジニーの女
 性が亡くなり、タスマニア島のアボリジニーの方々は絶
 滅した。
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(増補版)338E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年~1876年10月)

2016-04-22 16:00:19 | 日記
題:(増補版)338E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年~1876年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1869年、ハリエット・タブマン氏(1820年または1821年~
 1913年3月10日)の半世紀『ハリエット・ダブマンの生涯
 の情景』が、この年・1869年に、出版された。
  そのハリエット・ダブマン氏が、アメリカの新20ドル
 札の肖像になった。
  (時事通信社)は・・、
  2016年4月20日に、アメリカ合衆国のルー米財務長官は、
 新20ドル札に奴隷解放運動家の黒人女性、ハリエット・
 タブマンの肖像を採用すると発表した。
  欧米メディアによると、米紙幣に黒人の肖像が採用さ
 れるのは初めて。
  女性は「1世紀余ぶり」(長官)で、マイノリティー
 (少数派)重視を掲げるオバマ大統領のレガシー(遺産)
 づくりとの見方もある。
  自身も奴隷だったタブマンは、1800年代半ばに地下運
 動で多数の奴隷を逃亡させて自由の身にしたほか、女性
 の参政権獲得にも尽力。
  ルー長官は「米国の価値観や民主主義を体現した」と
 讃(たた)えた。(時事通信社)
  また、(毎日新聞)は・・、
  米紙幣に黒人女性が採用されるのはこれが初めて。
  女性としても19世紀末以来、約120年ぶりとなる。
  (女性差別や女性蔑視などない日本は、すでに樋口一
 葉氏がお札の肖像となっている・・筆者記入)。
  女性の参政権を認めた憲法修正19条施行から100周年に
 なる2020年にデザインを確定し、発行する予定。
  奴隷だったタブマンさんは、19世紀半ばから奴隷解放
 運動に参加。
  黒人奴隷を米国南部諸州から北部各州に逃がす「地下
 鉄道」と呼ばれる秘密輸送ルートを構築した。
  昨年6月に財務省が紙幣のデザイン一新を図る考えを表
 明して以後、タブマンさんの採用を求める声が相次いで
 いた。
  ルー長官は「単なる歴史的な存在にとどまらず、模範
 的なリーダー」と採用の理由を説明した。
  現在の20ドル紙幣に使われているジャクソン大統領の
 肖像は、紙幣の裏面で引き続き使われる。
  米紙幣に女性の肖像が使われるのは、1891年~1896年
 に発行された1ドル銀兌換(だかん)紙幣の、初代大統
 領夫人マーサ・ワシントンさん以来(遠い昔の話・・筆
 者記入)。
  タブマンさんは3人目(毎日新聞)。
  ハリエット・タブマン氏は、アメリカ合衆国メリーラ
 ンド州ドーチェスター郡出身の奴隷だった。
  後に、奴隷解放運動家、また、女性解放運動家。
  特に、地下鉄道(アンダーグラウンド・レールロード。
 アメリカ北部やカナダへ黒人奴隷が逃亡するのを援助す
 る秘密結社)の女性指導者のひとりだった。
  メリーランド州で、黒人奴隷である両親から生まれた。
  5歳からメイド兼子守りとして働かされた。
  (奴隷の子は、『自由』を持って生まれて来たのでは
 なかった。
  何が『自由の国だ』なんて言うのだ・・アメリカ。
  アメリカは遅れた国で、普通の人間を、奴隷にして使
 役するという悪事を行なった上に、
  さらに、この様な、生まれて来た子供にまで『奴隷と
 いう運命』を背負わせた。
  そうする事によって、自分たちに利があるのでその様
 にした。
  そこには、悪意があるだけで、愛の存在する社会では
 ないし、あるのは、ただ『低俗なる倫理観』『我が利が
 得られれば』の欲の世界しかなかった。
  この様な事は、是非、世界記憶遺産に登録すべきで、
 また、銅像を建立するべきだ・・と思いたくなる)
  ハリエット婦人は、1844年ごろ、同じく奴隷であるジ
 ョン・タブマンと結婚し、長年の奴隷生活に堪え続けた。
  奴隷監督からの殴打などを含む虐待に耐え、
  さらに酷いことに、この奴隷監督から頭部に受けた殴
 打は、後遺症を残し、
  生涯ナルコレプシー(脳疾患・睡眠障害)とてんかん
 に悩まされることになった。
  奴隷国・アメリカ合衆国は、人権蹂躙(じんけんじゅ
 うりん)が酷く、低劣な厳しい状況だった。
  1847年、ハリエット婦人の奴隷主が死に、奴隷が売ら
 れことになった。
  この事を知ったハリエット婦人は、脱出を渋る夫を残
 して北部のフィラデルフィアへ逃亡した(夫は、射殺を
 恐れたのであろう)。
  逃亡の途上、奴隷解放運動主義者で非合法組織である
 地下鉄道を支援していた組織に助けられた。
  フィラデルフィアでは、レビ・コフィンやトーマス・
 ガレット、フレデリック・ダグラス、ジョン・ブラウン
 らの黒人奴隷解放運動家と交流を持ち、
  奴隷解放の地下鉄道の「車掌役」として、その奴隷解
 放の運行をはじめた。
  1850年~1860年の間に、約19回の南部との往復を繰り
 返し、300人余りの奴隷達の逃亡を助け、自由に導いた。
  ハリエット・タブマン婦人は、一度も捕えられず、「
 救助者・車掌」として成功をおさめた。
  そのためタブマン婦人に掛けられた賞金額は、合計4万
 ドルを超えた。
  (アメリカは、非人道的な国で、奴隷を射殺すること
 が許されていた、ダブマン氏は必死だったと思う)。
  南北戦争中は、コックおよび看護婦として働くととも
 に、
  北軍のためのスパイをも務めた。
  タブマン婦人へ、アメリカ政府は、恩給の支給をしな
 かった(卑劣な差別である)。
  ダブマン婦人の晩年は、ニューヨーク州に拠点を構え、
 身寄りのない元奴隷や、戦死した黒人兵の遺族への支援
 を続けた。
  1913年に、肺炎で死去された。93歳だった。
  アメリカ合衆国は、人種差別の国で、黒人奴隷解放家
 の運動内容や、その歴史、そして、その存在は、ひた隠
 しに隠した。
  それが、黒人の方々の努力によって、隠されて来た事
 実が、最近になって、徐々にその一端、その歴史が明る
 みに出て来た。
1876年9月1日、開拓使雇のウイリアム・ホィラーが、石狩
 国札幌区東創成通り教師舘内で気象観測を開始した(日
 本最初ではない)。
  後に、1879年10月28日(明治12年)に、国営へ移管し、
 文部省所管となり、中央気象台札幌支台へ改称した。
  因みに、日本最初の気象観測は、1872年で、
  函館地方気象台の前身である「函館気候測量所」が、
 日本で最初の気象観測をはじめた観測所。
  1872年(明治5年)から観測を開始している。
1876年9月6日、元老院に憲法起草を命じる詔勅
  明治天皇陛下は、元老院議長・熾仁親王を召され、国
 憲草案の起草を命じられた。
  この頃の、自由民権家は、皆、明治維新を闘った尊皇
 家で、天皇陛下の御存在に、国民の権利、国の利益の究
 極の擁護者の地位を仰ぎみていた。
  例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎ら
 の憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、
  天皇陛下による立法行政司法の総轄や、軍の統帥権、
 天皇陛下の神聖不可侵を定めている点などは、大日本帝
 国憲法と同様であった。
  この日・1876年9月6日(明治9年)、明治天皇陛下は、
 「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅
 語」を発っせられた。
  この勅語は・・、
  「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を
 成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。
  なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。
  朕、まさにこれを撰ばんとす」
 ・・として、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと
 命じられた。
  元老院は、この諮問に応えて、憲法取調局を設置した。
1876年9月13日、府県裁判所(ふけんさいばんしょ)を地方
 裁判所と改称
  府県裁判所は、1872年9月5日(明治5年8月3日)司法省
 によって定められた5種 (司法省臨時、司法省、出張、府
 県、区) の裁判所中の1つで、
  1875年5月4日、府県裁判所職制章程が定められ、それ
 によって本裁判所が民事を始審し、刑事の懲役以下の判
 決をする任務を持ち、
  本裁判所をもたない府県では、地方官が裁判官を代行
 することなどが明示された。
  そして、この日・1876年9月13日、府県裁判所の廃止に
 伴い、府県裁判所は廃止され、新たに「地方裁判所」が
 開庁された。
1876年9月23日、国産ビール醸造、初めて工業化される(北
 海道札幌の開拓使麦酒醸造所の開業)
  札幌にビールの醸造所を開業。
  北海道開拓使に麦酒 (ビール) 醸造所が設立される。
  日本に初めてビールの醸造が工業化されたのは、1876
 年(明治9年)9月23日、札幌の開拓使麦酒醸造所開業を
 以て出発とされる。
1876年9月23日、儒者:安井息軒(やすいそっけん)が没する
 (78歳)。朱子学派の儒学者。
  日向(ひゅうが)(宮崎県)飫肥(おび)藩士で、江戸で昌
 平黌(しょうへいこう)に入り、また、松崎慊堂(こうどう)
 に古注学を学ぶ。
  飫肥(おび)藩校の助教、後、江戸に三計塾を開き、後
 に、昌平坂学問所の教授に抜擢される。
  考証にすぐれ、海防・軍備などの政策も論じた。
  「海防私議」「弁妄」など警世の論がある。
1876年9月25日、大阪堂島に米穀取引所(どうじまべいこく
 とりひきじょ)を開設した。
  1893年(明治26年)、大阪堂島に設立された米穀取引
 所は、江戸時代以来栄えた米市場の後身で・・、
  1876年(明治9年)に設立の大阪堂島米商会所が、改称
 されたもの。
  1939年(昭和14年)配給制度導入のため閉鎖した。
  さかのぼること明治2年(1869年)に、明治政府により
 廃止され、
  それに伴い堂島周辺の諸藩の大名蔵屋敷も没収された
 が、
  その後、明治4年(1871年)に、「堂島米会所」として
 復活した。
  そして、明治6年(1873年)に、油取引を加えて「堂島
 米油会所」となったが、
  明治9年(1876年)のこの時に、油取引を分離して「堂
 島米商会所」となった。
  明治26年(1893年)に、「大阪堂島米穀取引所」へと
 発展し、
  大正7年(1918年)には、過剰投機により米騒動を引き
 起こした。
  また、昭和14年(1939年)に、米穀配給統制法による
 日本米穀株式会社に吸収され・・幕を閉じた。
1876年10月2日、東京兜町に米商会所が開設された。
  日本で先物取引が開始されたのは、1730年(享保15年)
 のことで、「大坂堂島米会所」で行われた米取引が、最
 初とされる。
  一方、江戸でも間もなくして、日本橋小網町・小舟町
 周辺に米会所が開設され、取引が盛んに行われるように
 なった。
  明治時代に入っても、米の先物取引は活発で、その中
 心を担ったのが、1874年(明治7年)に、日本橋蛎殻町の
 西郷隆盛屋敷跡に開業した「中外商行会社」・・、
  現在、この地には、農産物を専門にする先物取引の市
 場「東京穀物商品取引所」が建っている。
  同取引所の起源に当たる「中外商行会社」は、1876年
 (明治9年)に、発布された米商会所条例により、同年、
 「蛎殻町米商会所」に再編された・・、
  さらに、1883年(明治16年)には、隣町で営業する「
 兜町米商会所」との協議の結果、
  互いの繁栄のため合併が最善という結論が出され、
  「東京米商会所」に改められた。
  その後も、1893年(明治26年)に、「東京米穀取引所」
 に、1908年(明治41年)には、「東京米穀商品取引所」
 へと、度々の再編が行われた。
1876年10月9日、秀英舎が開業した(後の大日本印刷)
  木版から活版印刷に
  秀英舎は、活版での印刷会社として東京・京橋の弥左
 衛門町に創立した。
  秀英舎は、主に新聞印刷や、中村正直の「西国立志編」
 の活版による再版などに代表する書物の印刷会社として
 発展した。
  その頃、活字の供給は、印刷局と築地活版のみが行っ
 ており、
  創立当初は、活字を購入していたが、
  1881年(明治14年)、保田の創案のもと、字母(父型)
 を購入し、活字の自家鋳造を開始した、
  更に、1882年(明治15年)、山下町に製文堂を設置、
 それを本格化させた。
  築地活版や、印刷局の書体を受け継ぐ五号系統と、筆
 跡新しい初号系統の2書体は、ここで形成された。
  明治30年代半ばのことである。
  後に、秀英体(秀英型とも。特に初号系統をいう)と
 呼ばれた書体群で、活版印刷減衰の後も、写植書体やデ
 ィジタル・タイプとして覆刻され、
  また、大日本印刷の書体としてポイント制活字、ベン
 トン母型を経ながらも使用され続けている。
1876年10月12日、賞勲事務局(賞勲局、しょうくんきょく)
 が設置された。
  賞勲局は、勲位・勲章・褒章など、栄典に関する事項
 をつかさどる内閣府の一部局で、
  この時・1876年(明治9年)に、太政官正院に設置され
 た。
  この年・1876年12月に、賞勲局に改称した。
  第二次大戦後、1949年に、総理府が設置されると、賞
 勲部に改組され、
  1964年(昭和39年)に、生存者叙勲の再開に伴って総
 理府が設置されると、総理府賞勲局に昇格となり、
  2001年(平成13年)以降は、中央省庁再編により、内
 閣府の管轄となった。
1876年10月24日、敬神党ノ乱(けいしんとうのらん、神風連
 ノ乱ともいう・・士族の反乱・反政府暴動)
  神風連の乱:熊本県士族の大田黒伴雄らが、熊本鎮台
 を襲撃し、また、県令・安岡良亮らを殺傷した。
  この神風連(じんぷうれん)の乱:夜11時、熊本県で
 旧守派の「敬神党」を結成する大田黒伴雄ら170人が、熊
 本鎮台(軍隊)の兵営などを襲撃し、火を放った。
  そして、司令官の種田政明少将を殺害した。
  政府の洋化政策に反発し、廃刀令がきっかけだった。
  この年に、金禄公債条例が発行され、士族の経済的な
 没落が、特に顕著となっていた。
  士族層の間に、明治新政府に対する不満はみなぎって
 いた。
  鎖国攘夷を依然主張する敬神党は、かねてから、新政
 府の洋化政策への激しい憤りを示そうといだいていたが、
  1876年3月の廃刀令の発布に端を発し・・て、
  同年・1876年10月に、党首領・太田黒伴雄らが決起し
 た。
  そして、百数十人に上る武装集団をもって、熊本鎮台
 司令長官・種田政明、県令安岡良亮らを斬殺した・・が、
  翌日、鎮台兵により鎮圧された。
1876年11月25日、福沢諭吉著の『学問のすすめ』が完結し
 た。17編刊、
  初版・重版を併せて・・25万部が出版された。
  一説には、最も売れた書籍で、最終的に300万部以上売
 れたという。
  その一文は・・、
  「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人あ
 りおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあ
 り下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何
 ぞや」
  ・・と、記して・・
  「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言わ
 れている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれ
 ども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧
 乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違い
 は何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別
 は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生
 まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を
 勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無
 学なる者は貧人となり下人となるのだ。」
  ・・と・・、
1876年10月25日、熊本に乱をなす神風連の叛徒・大田黒伴
 雄らが、翌日のこの日に、戦死(その他の者は自首、或
 は、逃走)
1876年10月27日、秋月の乱(あきづきのらん)(10月26日
 説あり)
  福岡県下の秋口で、旧秋月藩の不平士族らが、開明政
 策を掲げる新政府に対して、
  また、政府の対韓政策を批判して起した反乱で、
  主謀者の宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)、磯淳ら
 二百数十人は、
  豊前豊津に進撃し、萩の乱の前原軍と合流しようとし、
  また、熊本の神風連(じんぷうれん)の乱に呼応し挙兵
 した。
  熊本神風連の乱に続いて、攘夷主義を旗印に蜂起し、
 萩の前原一誠と連絡をとりつつ、付近の士族に参加を呼
 びかけたが、進撃なかばにして 11月3日、豊前豊津で、
 小倉鎮台の政府軍により鎮圧され、一味は処刑された。
1876年10月27日、萩の乱(10月28日説あり)
  山口県萩で、長州藩士で、明治新政府参議、兵部大輔・
 前原一誠が、
  守旧主義の立場から 政府を去り、
  郷里の不平士族に擁立されて、
  1876年10月28日に、反政府の旗を掲げ、神風連の乱・
 秋月の乱に呼応して蜂起・・萩に迫った。
  しかし、しかし・・11月6日に鎮圧された。
  前原一誠は、1869年(明治2年)に参議、ついで、兵部大
 輔となったが、
  当時の開明的な政府の方針や、木戸孝允らと対立した、
  翌年・1870年に、辞職、郷里萩に帰っていた。
  そして、一誠らは、不満をつのらせて・・
  1876年10月28日、萩の旧藩校・明倫館(めいりんかん)
 に・・200人余を集めて・・蜂起(ほうき)した。
  しかし、期待した薩摩(さつま)の不平士族らの協力は
 得られず・・、
  広島鎮台司令長官・三浦梧楼(みうらごろう)らによっ
 て・・1週間余で鎮圧された。
  一誠は、島根県で捕らえられ、首謀者8人とともに12月
 斬首(ざんしゅ)された。
1876年10月29日、思案橋事件(しあんばしじけん)
  永岡久茂らの・・千葉県庁襲撃計画・・発覚
  萩(はぎ)の乱に呼応して、永岡久茂(ひさしげ)ら、十
 数名の士族が、
  千葉に兵をあげようとして、未然に・・鎮定された士
 族反乱未遂事件・・。
  永岡久茂(ながおかひさしげ)は、旧会津藩士、戊辰(ぼ
 しん)戦争では、松平容保(かたもり)を擁して、官軍と戦
 い・・そして、敗れ・・江戸に幽閉された・・が、
  1870年、陸奥(むつ)国斗南(となみ)藩権少参事(ごんし
 ょうさんじ)となり、
  ついで、青森県権大属(ごんのたいぞく)などを経て、
 1874年上京し、『評論新聞』の海老原穆(えびはらぼく)
 と親交を結び、萩の前原一誠(いっせい)と通じた。
  1876年10月、熊本で神風連(しんぷうれん)、秋月で宮
 崎車之助(しゃのすけ)らが反乱し、ついで、萩で前原ら
 が蜂起(ほうき)するに及び、
  呼応し・・そして、千葉県庁を襲撃しようとした。
  東京・日本橋の思案橋から船で、千葉に行こうとした。
  この永岡久茂らの会津士族らを、不審に感じた船頭が
 通報・・、
  駆けつけた巡査4人と斬り合いとなった、
  そして、逮捕された。
  計画では・・千葉県庁を襲い・・佐倉鎮台の兵を味方
 に引き入れ・・会津にはいり・・萩の前原と呼応し・・
 政府を転覆させるという・・計画だった。  
1876年10月、「小笠原諸島の領有宣言」
  日本が領有を宣言した当時、すでにイギリスが領有し、
 アメリカ人が入植していた。
  1543年に、スペイン船によって発見。
  1827年に、イギリスが領有宣言。
  1830年に、アメリカ人とハワイ人(当時、ハワイは独
 立国)が入植。
  1853年、ペリー寄港。
  1862年、外国奉行が測量。
  1876年、日本による領有を関係国に通知。
  小笠原に入植したアメリカ人の子孫は、日本に帰化し
 ている。
  小笠原諸島の住民は、日本の領有と統治に賛成し、
  日本の領有に異議を唱えた国もなく、
  日本の領有は国際的に認められて来て、経過し、そし
 て、今・現在に至っている。
  因みに、日本の領土である竹島は・・、
  1905年の110年以上も前のこと、日本は、竹島を島根県
 に含めるという日本の閣議決定をした。
  そして、日本人の役人が、竹島調査のため鬱陵島(う
 つりょうとう)に渡り朝鮮の鬱陵島郡守らに会う。
  鬱陵島にいた朝鮮の官吏らはすぐに、日本が竹島を島
 根県領としたことを朝鮮朝廷に報告した。
  しかし、朝鮮王府は、何の異議も唱えなかった。
  不満をこぼすこともなく、また、
  ただの1度も。全く。黙って、何もしなかった。
  当然のことと理解を示した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)337E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年8月)

2016-04-21 13:53:13 | 日記
題:(増補版)337E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1876年1月2日、第二次府県統合
  府県数:3府35県に統合した。
  現在は、1都1道2府43県で47の都道府県であるが、
 この時、3府35件の38の府県だった。
  因みに、1871年の時は3府302県の305に分かれていた。
  そして、1872年2月10日に、3府72県の75分割(第一次
 府県統合)になり、
  (古代の日本は68だったので、近づけたのかの推定意
 見がある)、
  そして、この時、1876年1月2日、3府35県(第二次府県
 統合)をした。
  因みに、四国は愛媛県と高知県だけだった。
  東京府は、ちっちゃい東京府がちょこんとある。
  その分、神奈川県が大きかった。
  1876年の第二次府県統合は二度行われた。
  ちょっとした変更を入れると十数回の変遷の後、
  1946年9月27日に、府県制改正により北海道庁を北海道
 に移行し、1都1道2府42県となり、
  1972年5月15日に、沖縄返還により沖縄県が復帰し、現
 在の1都1道2府43県となった。
1876年6月27日、鉄道桟橋が、初めて神戸港に竣工し、港
 湾と汽車運輸の連結が成った。
1876年7月1日、三井銀行が開業した。
  最初の民間普通銀行。
1876年7月5日、新聞雑誌発禁の制を布告(出版統制の最初)
  評論新聞を発禁、急進的な新聞の弾圧を強化、
  国安妨害記事を掲載した新聞・雑誌について内務省で
 発売禁止等を布告した。
1876年7月13日、警視庁に初めて電信を設けた。
  警視庁が、電信を初めて架設し、緊急連絡に活用する。
1876年7月20日、奥羽・北海道巡幸の明治天皇陛下が、軍艦
 ではない汽船「明治丸」で、青森から横浜に御帰着(海
 の日の始)
1876年7月26日、大阪~京都間の鉄道試運転を開始する。
  この年は・・、
  1876年6月12日、品川〜川崎間に大森停車場を設置
  1876年8月9日、大阪〜高槻間に吹田および茨木停車場
   を設置
  1876年9月5日、大阪〜京都仮営業開始
  1876年12月1日、新橋〜品川複線化完成、中間に田町仮
   駅を設置
1876年8月5日、金禄公債証書発行条例 (秩禄処分)
  特権であった家禄の支給を廃した。
  華族484人・士族40万8800人余へ家禄支給を廃し、代り
 に金禄公債支給の条例を制定した(太政官布告108号)。
  これによって、封建支配層としての領主・武士層は、
 消滅した。
  彼らは、すべて公債を所有する利子生活者となり、士
 族たちの特権が奪われた。
  秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が、1876
 年(明治9年)に実施した秩禄給与の全廃政策で、
  秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と、維新功労
 者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。
  金禄公債(きんろくこうさい)は、1876年、明治政府
 が金禄公債証書発行条例に基づいて発行した公債で、江
 戸幕府の家禄制度を廃止する代償として、旧士族に交付
 した。
  発行総額は、約1億7390万円だった。
  この措置は、1869年(明治2年)の版籍奉還と、
  1871年(明治4年)の廃藩置県とともに、
  封建的身分関係を崩壊させるものであった。
  歳出の約3割にも達っしていた秩禄支給の負担が軽減
 され、近代化を進める政府の財政を助けた。
  この公債は、窮乏した士族が、すぐ手離さないよう当
 初は売買が禁止されていたが、
  1878年9月に、この禁が解かれると、多くが商人らへ
 その権利が売られ、商人の手に渡った。
1876年9月22日(明治9年8月5日)政府の財政難から鉄道払
 下条約の契約が成立した。
  大蔵卿・大隈重信および工部卿・伊藤博文と華族組合・
 九条道孝ほか25人との間に、鉄道払下条約の契約が成立
 した(お金を持っていた華族層が購入した)。
  日本の鉄道政策は、1869年12月(明治2年11月)の三条
 邸におけるイギリス公使パークスと三条、岩倉、大隈、
 伊藤等の対談の日に始まった。
 この日に、誰が、どこに鉄道を建設し、経営するかが決
 められた。
 明治政府は、巨大な財力を持つ諸大名を統括し、産業を
 開発して、『富国強兵』を実現するための手段としての
 鉄道を、
  政府以外のものの手に委ねることは考えていなかった。
  また、パークスも、それを勧めた、それは、パークス
 は、建設費のための外債を引受けるつもりなので、政府
 でなければ信用できないからだった。
  かつ、イギリスでは、小規模の民営鉄道で発足したの
 で、いろいろの障害を生じたことも知っていた。
  明治の俊英たちは、イギリスを我が方につけ、商売を
 適宜(てきぎ、状況に合わせ、適当)させて、また、知
 識を、うまく出させていた。
 この時、東京~京都~神戸間と敦賀~琵琶湖岸間、それ
 に、すでに江戸幕府に出願があった東京~横浜間が計画
 された。
 高島嘉右衛門(たかしまかえもん、横浜の実業家、京浜
 間鉄道敷設の必要性を伊藤博文と大隈重信に説明してい
 た)は、
  1871年(明治4年)東京~青森間、1872年(明治5年)
 東京市内の外濠循環線を出願していた。
 江戸時代の我が国の交通は、道路と船によっていた。
 道路で、車を使用することは禁止され、駄馬、または、
 駕龍によるほかはなかった。
 道路は、東海道(江戸~桑名~京都)、中山道(江戸~
 薮原~京都)、中仙道(木曾街道)、奥州街道(江戸~
 白石~三厩)、日光街道(奥州街道、宇都宮~日光)、
 甲州街道(江戸~甲府~岩淵)の5街道をはじめとして、
 多数の脇街道もあり、
  蝦夷地(北海道)以外は、一応、道路網ができ上って
 いた。
 上記の鉄道敷設予定区間は、旧街道に沿って計画されて
 いるが、琵琶湖畔~敦賀間は別だった。
 汽船・汽車、すなわち船舶と鉄道は、いずれも近代化さ
 れた交通機関となっていたので、これを併用しようとし
 たのは当然だった。
  東京~青森間は、東京~兵庫間と同様の縦貫線である
 以上に、北海道との連絡を持つ重大な使命があった。
  明治政府は、未開発の各種資源に富む北海道に深い関
 心を特っていて、その開発のため“開拓使”という官庁
 を特設していた。
  高島は、岩倉具視に自分の意見を進言し、賛同を得た。
  1872年12月(明治5年11月)政府は、小野友五郎に予定
 線を踏査させた。
  また、1870年(明治3年)秋には、東京~京都間を引続
 いて踏査させた。
  1870年(明治3年)京都府は、敦賀~琵琶湖畔でなく、
 敦賀~京都間とするように建議し、政府の賛同を得た。
 海陸運の併用の方針によって、東京~兵車間の鉄道は、
 中山道経由と予定された。
 1874年8月(明治7年7月)技師長V・ボイルは、中山道
 線と、その途中から分れて、新潟に至る線路を踏査した。
  開拓使もまた、独自の立場から、1881年1月(明治13年
 12月)J・クロフォードに命じ、青森~東京間を再調査
 している。
 1881年2月(明治14年1月)日本鉄道設立に際し、岩倉は、
 これらのほか、九州の大里(現在の門司)から長崎に至
 る線と、
  その途中から分れて、肥後(現在の熊本県一円)に至
 る線を予定線として計上した。
  岩倉は、また、敦賀~富山、長浜~四日市間の東北鉄
 道も計画した。
  創立願には“而シテ海路ハ又、危険非常ニシテ”と日
 本海岸の冬季の航行難を理由の一つにしていた。
  井上は、坂井(現在の三国)・伏木の河港の間に線路
 を新設し、
  敦賀~坂井、伏木~北海道間は、船舶を利用するよう
 勧奨し、
  長浜~四日市間は、長浜~武豊間に変更して、鉄道局
 が建設することにした(海陸運併用の考え方の典型的な
 もの)。
  明治政府の財政状態は、鉄道を全部官設にすることは
 不可能だった。
  東京~横浜間鉄道でさえ、1876年9月22日(明治9年8月
 5日)のこの日、華族組合に年賦払下げを契約している。
 大隈は大蔵省、伊藤は工都省の最高責任者であり、
  契約にも政府側を代表して記名調印した。
 その世話は井上馨がやっていた。
 華族は、一般資本家とは異なったものという観念はあっ
 たが、金のない政府の財政状態を示していた。
  東京~高崎間の中山道線(京都へ結ぶ目的の線)も着
 工に至らなかった。
  (着工されたものの工期と工費が、当初の見込みを大
 幅に上回る事が判明したため、東京~京都を結ぶ幹線鉄
 道としての東海道線の建設を行なう事に方針が変更され
 た)。
  岩倉の推進していた日本鉄道の計画が、1880年7月15日
 (明治13年)に至り、やっと結実した。
  (1878年4月(明治11年)に、1000万円分の国債を発行
 して、このうち鉄道建設費に213万9914円を割り当て、
 京都~大津間と、米原~敦賀間をいよいよ着工すること
 になった。
  この段階では、まだ、東西連絡幹線の全区間に着工す
 ることはできず、とりあえず本州横断路線を建設するこ
 とになったのであった。
  京都から馬場(後の膳所)間は、1880年(明治13年)
 7月15日に全区間が開通し、
  それまでの建設工事と異なり、お雇い外国人の助けを
 借りることなく、養成に努めていた日本人技術者の手だ
 けで初めて開通する鉄道路線となり、
  当初の見積もりに比べて約2割の工費節約も実現した)
  政府の願いは、一日も早く鉄道を完成することが第一
 だった。
  日本鉄道の主な出資者は、華族だったが、
  民間の出資もあり、財政当局は、その経費が浮くこと
 になり、大いに賛成された。
  財政難で、東京~横浜間鉄道さえ手離そうとした。
  その為、こうした形でなければ1891年10月(明治24年
 9月)東京~青森間鉄道を全通させることは事実上、不可
 能だった。
  大阪~堺間の鉄道は、1872年(明治5年)から計画され、
 1882年6月(明治15年5月)出願したところ、監督官庁の
 工部省では、「単ニ大阪府内ニ止リ且其性質普通ノ鉄道
 ト異ル」ものとして、大阪府限りで処理するように指示
 した。
  軌間も838mmであり、一地方の交通のみを目的とするも
 のと判定されたからだった。
  この他、地方的なものとして馬車鉄道は、設備も簡単
 なので広く各地に敷設された。
  鉱山用の専用鉄道は、1869年(明治2年)から、土木工
 事用の仮設鉄道は1881年(明治14年)から敷設され、機
 関車を使用するものもあった。
  日本の発展の基盤づくりの一つ運輸が、確実に達成さ
 れて行った。
  日本人の誠実さと勤勉さによる努力が結実して行った。
1876年8月14日、札幌農学校が設立された。
  札幌学校が、札幌農学校と改称して開校式を挙行した。
  初代校長に調所広丈、教頭にマサチューセッツ農科大
 学学長のウィリアム・スミス・クラークが招かれた。
1876年8月19日、水夫の名称を改め水兵とした。
1976年8月26日(7月7日)明治天皇陛下が、奥羽巡幸
  盛岡の馬匹4500頭を御覧給い、畜産を奨励し給う。
  1876年7月22日(明治9年6月2日)明治天皇陛下は、奥
 州街道を北上して奥羽(おうう)巡幸へと向われた。
  49日間におよぶ巡幸となった。
  明治維新に際し、奥羽諸藩の多くは、新政府に最後ま
 で抵抗していたため、国内の安定という意味で、今回の
 巡幸は待望されていた。
  聖徳記念絵画館壁画「奥羽巡幸馬匹御覧(おううじゅ
 んこうばひつごらん)」の絵は、1976年8月26日(明治9
 年7月7日)、天皇陛下が、岩手県の盛岡八幡宮にお立ち
 寄りになり、境内(けいだい)に設けられた天覧(てん
 らん)所で県産の馬を御覧になっている様子であるが、
  4、5百頭もの馬の行列が続き、軍馬術や豊年踊りが
 披露された。
  当時、日常的にも、そして、農事や軍事的にも、馬は、
 重要な役割を果していた。
  そのため、天皇陛下は、馬事に御関心を持たれ、馬の
 改良を奨励された。
  そして、奥羽巡幸では、各地で産馬を御覧になった。
  天皇陛下の愛馬として特に知られているのが「金華山
 号(きんかさん)」という名の南部馬で、
  奥羽巡幸の道中、岩手県の水沢で買い上げになり、最
 も活躍し、愛情が注がれた御料馬(ごりょうば)だった。
   のる人の心をはやくしる駒は
     ものいふよりもあはれなりけり (明治35年)
  もの言わずとも背に乗る主の心の内を汲みとる馬のい
 じらしさ、かわいらしさを詠(よ)まれた御製。
  天皇陛下にとって、馬への愛着は格別だった。
1876年8月31日、海軍提督府を廃し、東海、西海両道に鎮守
 府を設置した。
  海軍提督府(かいぐんていとくふ)は、旧海軍の機関
 で、海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄し、その前身
 は、1871年(明治4年)兵部省内に設置された。
  1875年に、日本周辺を東西の2海面に分け、東西両指揮
 官の指揮下に置くことになり、
  1876年に、東海、西海の両鎮守府を設置することにな
 った。
1876年8月31日、『柳橋新誌(りゅうきょうしんし)』(成
 島柳北)と『東京新繁昌記(とうきょうしんはんじょう
 き)』(服部誠一)が発売禁止になった。
  柳橋新誌は、漢文戯作体の随筆集で、1874年に刊行さ
 れ、1876年に三編が成ったが、発行停止(文部省から発
 行差し止め)となった。
  二編が、特に、柳橋の花柳街を舞台にして、江戸から
 明治への人情、風俗を描いているが、明治文明に対する
 見方が、物質万能の明治の文明開花だと見て、また、卑
 俗で浅薄だと見て、その側面を辛辣に批判した。
  表現は自由であるが、明治の偉人の努力や汗を、売ら
 んかなで批判した(よく欧米に追い付け、蹂躙されるな
 と努力する姿は見えなかった様だ)
  また、薩長の政府高官の無風流を低俗に揶揄(やゆ)
 した。
  東京新繁昌記は、随筆であるが、明治維新後の文明開
 化の波に洗われる東京の世相・風俗を、
  破格の漢文戯作体で書き綴ったコント風の記録となり、
 また、人情小説的に、著名人の艶聞や政治への諷刺批評
 を縦横に記し、大きな反響を得た。
  揚げ足取りの三文記事だった。
  努力する皆を横目で見て、批判を口すさんだ。
  今でも、テレビという絶大なる放送媒体を私物と化し、
 まったく、深い意味合いのない論理を展開し、我が物の
 様に使っている公共放送がある。
..
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