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(増補版)447E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月~1887年4月)

2016-10-31 04:43:59 | 日記
題:(増補版)447E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月~1887年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年4月26日、第26回 條約改正會議で、改正案が成立し
 た。
  第二十六回条約改正会議で、裁判管轄に関するイギリ
 ス・ドイツ案を修正して議定(ぎじょう、合議してこと
 を決めること、また、その評議)した。
  その内容は、領事裁判権を撤廃する・関税自主権の一
 部を回復する(輸入税率を5%から10%に引き上げる)
  代わりに、次のことを実行する。
  (1)批准後2年以内に、日本内地を外国人に開放する。
  ハリスとの条約では、横浜・神戸などの居留地以外で
 は、外国人は、居住・通商・不動産所有は禁止されてい
 た。
  領事裁判権も、居留地のみに適用としていた。
  井上案によると、外国人に内地雑居の地を認める。
  つまり、どこでも居住・通商が出来ることになる。
  (2)そのために、外国人にも通用する西洋主義によ
   る法典を編纂する。
  そのためには、日本の国家主権が制限される。
  (3)内地雑居の地で起きた外国人が関係する事件では、
    すべての裁判所で、外国人判事・検事を半数、任
    用する・・というものだった。
1887年4月26日、九代目市川団十郎、井上馨邸にて「勧進帳」
 を演じ、栄誉に浴した。
  東京.麻布鳥居坂の井上馨邸で、明治天皇陛下が歌舞
 伎を観覧された。
  初めての天皇陛下の演劇観覧だった。
  また、井上の他にも、伊藤博文や松方正義などの元老
 などの国内外の関係者が観劇し、演目は「勧進帳」のほ
 かもあった。
  これによっても、歌舞伎の高尚化が進み、歌舞伎役者
 の社会的地位も良くなり、
  近代歌舞伎が、国劇の地位を確保する大きな転換点と
 なった。
  政府側も、欧米に文明国・日本を印象付けるため、内
 外上流社会の社交場として、外国大使らを招く国際的な
 観光行事として取り組んだ。そして、
  天覧劇への外国要人の招待は、不平等条約改正を図る
 「鹿鳴館外交」の一環とされた。
1887年4月28日、農業の振興に大切な化学肥料・・、
  東京人造肥料会社が設立された(2月説あり)
 後の大日本人造肥料、そして、日産化学工業株式会社へ。
  同社のホームページより、以下その沿革・・、
  1887年(明治20年)高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝ら明
 治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である
 東京人造肥料会社として創業した。
  その後、関東酸曹株式会社、日本化学肥料株式会社等
 を合併し、
  そして、大日本人造肥料株式会社に商号変更、
  1937年(昭和12年)に、日本産業株式会社傘下の日本
 化学工業株式会社に資産等を包括譲渡したのちに、現在
 の社名である日産化学工業株式会社に改称した。
  最初の工場は、現在の江東区大島1丁目に建造され、い
 まも跡地の公園には当時を偲ぶ記念碑がある。
  1887年(明治20年)2月、東京人造肥料会社(のちの東
 京人造肥料株式会社)設立
  1889年(明治22年)7月、日本舎密製造会社(のちの日
 本化学肥料株式会社)設立
  1891年(明治24年)3月、日本舎密製造会社小野田工場
 (現在の当社小野田工場)完成
  1895年(明治28年)12月、合資会社王子製造所(のち
 の関東酸曹株式会社)設立
  1897年(明治30年)11月、関東酸曹株式会社王子工場
 (のちの当社王子工場)完成
  1907年(明治40年)12月、東京人造肥料株式会社小松
 川工場(のちの東京日産化学株式会社)完成
  1910年(明治43年)7月、東京人造肥料株式会社が大日
 本人造肥料株式会社と改称
1887年4月30日、法律顧問ロエスレル「日本帝国憲法草案」
 を提出する。
  政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレルが、法
 制局長官の井上毅に、独文での憲法試案を提出した。
  ロエスレルは、1878年、当時の駐独公使・青木周蔵の
 周旋によって、外務省の公報顧問として招聘された。
  ロエスレルは、1834年、ドイツ・バイエルン地方のラ
 ウルに、弁護士の子として生まれた。
  カール・フリードリヒ・ヘアマン・ロエスレルは、エ
 ルランゲン大学やチューリッヒ大学で、法学や国家学を
 学んだ後、
  ロストック大学の教師となると、
  1861年に、27歳の若さで同大学の国家学教授となった。
  1878年に、訪日するまでその地位にあって、イギリス
 の経済学者アダム・スミスを批判した書や、社会行政法
 に関する書を著し、学界の指導者として知られていた。
  ドイツ公使だった青木周蔵のあっせんにより、外務省
 の法律顧問として訪日したロエスレルは、
  1881年3月ころから、民法の起草をするかたわら、
  岩倉具視の知恵袋といわれ、
  のちに、大日本帝国憲法(明治憲法)の起草者のひとり
 となる井上毅に、ドイツ(プロイセン)流の君主主義的憲
 法の採用をアドバイスした。
  一方、大隈重信は、イギリスにならった開明的憲法を
 つくるように政府に提案したが、
  同年・1881年7月、岩倉によって憲法制定の根本方針は、
 ドイツ的立憲主義とすることが上奏され、
  他の事件とのからみもあって大隈は罷免された(明治
 十四年の政変)。
  その後、ロエスレルは、内閣顧問に抜擢(ばってき)
 されて、伊藤博文の信任を得た。
  1886年秋ごろから、伊藤の私邸で、伊藤、井上、伊東
 巳代治、金子堅太郎を中心に大日本帝国憲法の草案作成
 が極秘のうちに着手された。
  ロエスレルも、私邸近くに宿泊して助言を求められた。
  1887年夏に、「日本帝国憲法草案」ができあがったが、
 その草案の多くは、ロエスエルが、4月に提出した私案の
 大半が採用されたと言われている。
  そして、「日本帝国憲法草案」は、そのまま受け入れ
 られ、
  1889年に発布され、1890年に公布された。
  その後、ロエスレルは、商法を起草したが、民法とと
 もに施行延期となっている。
  1893年に帰国し、翌年・1894年に、妻子の住むオース
 トリアに移り、亡くなった。享年60歳。
1887年4月、「対馬要塞」が建設を開始した。
  温江砲台・芋崎砲台・大平低砲台を起工した。
  そして、この年の9月に、大石浦砲台も着工した。
  翌年の1888年には、この4つの砲台が竣工している。
  対馬の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞。
  対馬中部の浅茅湾を防備するため、1887年4月から工事
 が開始された。
  この工事は、東京湾に次いで日本で二番目のもので、
 1888年10月までに、4砲台が竣工し、日清戦争を迎えた。
1887年4月、長崎海運局の前身となる長崎司検所が開所した。
1887年4月、三菱社社長岩崎彌之助が、大蔵大臣伯爵・松方
 正義に長崎造船局の払下げを申請した。
  1887年6月、代金45万9000円で許可を受け、長崎造船局
 は三菱社の所有となる。
  現在、三菱重工業長崎造船所となっているが、日本を
 支えて来た、そして、これからも支えて行くこの社の流
 れ(沿革)は・・、
  1857年(安政4年)江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」の建設
    着手。
  1860年(万延元年)「長崎製鉄所」と改称。
  1861年(文久元年)完成。
  1868年(明治元年)官営「長崎製鉄所」となる。
  1871年(明治4年)工部省所管「長崎造船局」と改称。
  1879年(明治12年)立神第一ドック完成
  1884年(明治17年)三菱経営となる。
    「長崎造船所」と改称。(三菱重工業は、この年を
    創業年としている。)
  1887年(明治20年)設備の払い下げを受ける。
  長崎県長崎市にある本工場(長崎造船所)、香焼工場、
 幸町工場と、諫早市の諫早工場からなる。
  大型客船や大型タンカー、LPG船等の船舶のほか、発電
 プラント、環境保全設備、海水淡水化プラント等、多岐
 にわたる製品を製造している。
  本工場(長崎造船所)は、1857年(安政4年)に、日本
 初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として誕生し、江戸幕
 府から明治政府に管理が移った後、
  1887年(明治20年)三菱に払い下げ、以後民営の造船所
 として多数の艦船を建造した。
  戦艦「武蔵」を建造したことでも有名。
  戦後、三菱重工は3社に分割されるなど親会社は紆余曲
 折したが、本工場は賠償撤去指定工場を免れ存続する。
   一時期は受注も途絶え小型の漁船を細々と建造する
 有様であったが、
  1950年(昭和25年)の朝鮮戦争前後よりその高い造船
 技術を評価され 、
  以後オイルショック頃まで大型タンカー受注が続いた。
  現在は、民間船舶の他、海上自衛隊の自衛艦も多数建
 造している。
  1950年代には、後甲板の傾斜に特徴的な設計を持つ護
 衛艦を多く建造し、護衛艦における「オランダ坂」の名
 前の由来となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:マッチポンプ・・アメリカ・・
.
1980年9月22日、イラン・イラク戦争(湾岸戦争)が起きた
 (~1988年8月20日)
  アメリカのブッシュ(父)大統領の時に起きた。
  因みに、ブッシュ(子)大統領の時には、イラク戦争
 (2003年3月20日~2010年8月31日にオバマ大統領によっ
 て「戦闘終結宣言」が出された)が起きた。
  このブッシュ(父)大統領の時の「イラン・イラク戦
 争(湾岸戦争)」で、アメリカはイラクを応援した。
  そして、イスラエルは、イランを応援した。
  (アメリカは、なんだかんだとイスラエルを支援する
 という、両国は緊密関係にあるのだが・・?
  この緊密関係にある両国が、まったく敵対する違う国
 を、それぞれ応援するという・・不思議・・??)
  そんなことしたら・・そうしたら・・戦争はいくらで
 も続いてしまう。
  そこで、「これでは戦争は、いつまでも続くではない
 か??」・・と、伊藤貫氏が質問すると・・??、
  「そうだ、それでいいのだ」、
  「それが、我々の目的だ」、
  「それが、我々に都合がよいのだ」という返事が返っ
 て来たという・・??
  YouTube「西部邁ゼミナール、文明の衝突と不介入主義
外交」の、14分00秒あたりから23分00秒あたりの発言。
  日中戦争(本当は、日・中米戦争)の当時、
  日本と中国の戦いだと思われたこの戦争も、陰でアメ
 リカが、れっきとした戦力(=アメリカ正規軍)で、日
 本と戦っていた。
  (日本とアメリカの戦争は、『真珠湾で始まった』な
 んていう話は真っ赤な作り話・・なのだ。
  この『日・中米戦争』で、既に、日本とアメリカは、
 戦争状態にあった。
  ただ、アメリカが、卑怯な事に、卑劣な事に、秘密に
 して、隠していただけ・・今は、明らかになっている事)
  そこで、日・中(米)戦争と書いたが・・、
  この日・中(米)戦争も、先ほどの伊藤貫氏の発言の
 如くの状況から、日・中(米)戦争が泥沼化して行った。
  アメリカが、汲めども尽きぬ無尽蔵の「金と武器」を
 中国へ注ぎ込み支援していた、隠れて流していた。
  これでは、戦争が終わる訳がない。
  この中国へ支援するルートを、「中国の蒋介石を支援
 するルート」という意味で「援蒋ルート(えんしょうる
 ーと)」と言った・・が・・、
  日本は、この存在を知って、これがあっては戦争は何
 時までも終わらない・・と、
  東南アジアにあったこの地域のこのルートを遮断しよ
 うと上陸した。
  アメリカは、この日本の行為を「侵略だ」と声を大き
 くして国際社会にプロパガンダ(嘘宣伝)し、
  (アメリカ軍だって上陸していて、こんな戦争の物資・
 武器を上陸させているのに・・だ)、日本を悪者に落と
 し、それ(日本)と戦うのが正義だとした。
  マッチポンプという言葉があるが、それは、「自分で
 火をつけておいて、火事だ火事だと騒いで、火事を消す
 行為」のことを言うが、
  アメリカは、まさしく戦争をこの様にして、そして、
 また、戦争を作って、行っていた。
  (注):伊藤貫氏の上記のYouTubeのURLは・・、
https://www.youtube.com/watch?v=529u9sljqXA&index=4&list=PLn2kLGRySM2jWCzJaowldZXCZrT7Nlda3
  表題:文明の衝突と不介入主義外交・西部邁ゼミナール
  (参考)マッチポンプ:《(和)match+pomp(オランダ)》
    自分で問題やもめごとを起こしておいてから収拾
   を持ちかけ、何らかの報酬を受け取ろうとすること。
   また、その人。
    マッチで火を付けてポンプで消火するという二役
   を一人でこなす意。
    自分の利を得るためだけで、こんな卑劣な行為を
   する輩の行為。
    何ら世界や相手への思いやりなど微塵もない。
    理屈は何でもつくから「やりたい放題」だった。
  そして、この年に・・、
1980年代、ソ連は、経済の行き詰まり、官僚制による体制
 の硬直化が明らかになった。
  1985年にソ連共産党書記長になったゴルバチョフは、
 体制の危機を乗り越えるための「ペレストロイカ(改革)」
 に乗り出した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)446E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年3月~1887年4月)

2016-10-30 04:41:09 | 日記
題:(増補版)446E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年3月~1887年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1887年3月 天満紡績・平野紡績会社が設立された。
  天満紡績(てんまぼうせき)は、大阪近郊に存在した
 紡績会社で、
  1887年3月のこの時に、第三十四国立銀行頭取の岡橋治
 助ら大阪の商工業者が中心となって設立され、
  資本金は60万円で、
  本社工場を、大阪府西成郡川崎村(現在の大阪市北区)
 に置いた。
  翌・1888年に、約7000錘の工場が完成して、操業を開
 始し、
  続いて、約27000錘規模の第2工場の建設も開始した。
  第2工場は、1889年に完成し、資本金も120万円にまで
 増やした。
  これによって創業から2年余りで、当時の日本国内屈指
 の紡績会社となった。
  ところが、その矢先の1889年9月、天満紡績争議が発生
 し、
  その5年後の1894年1月にも大規模な争議が発生した。
  そのためか、増資と減資を繰り返すなど、経営は不安
 定となり、役員を総交替させるなどの措置を取ったもの
 の、状況は回復できず、
  1900年3月、同じ西成郡を拠点とする大阪合同紡績と合
 併した。
  以上の様に日本の産業革命期の紡績業は突出した成長
 をした。
  そして、それを大企業が先導した。
  日本農家の副業的な綿生産は、欧米からの低価格・高
 品質な綿糸に駆逐されるて行く。
  明治10年(1877年)には、わが国の輸入総額の3割~4
 割が、輸入された綿製品の輸入額となる。
  この様な巨額の綿糸輸入額に危機感をいだいた明治政
 府が、近代的な機械紡績を奨励した所以である。
  因みに、日本最初の洋式紡績工場は、1867年に竣工し
 た薩摩藩営の鹿児島紡績所である。
  この様に、近代紡績への日本の試みは早いのである。
  この様な経緯の中、渋沢栄一の慧眼(けいがん、物事
 をはっきりと見抜く力)により、海外製品に対抗しつつ、
 近代紡績業を事業として成功させるために、10000錘規模
 以上の工場を建設する必要を感じていた。
  この構想は、大坂紡績として実現した。
  (下記部分は、法政大学イノベーション・マネジメン
 ト研究センターの論文を参考にした)
  平野紡績の沿革は・・
  1887年3月25日、平野紡績、14代末吉勘四郎・津田六蔵・
    中瀬九兵衛らは、平野紡績の設立手続きを行なう。
  1887年6月7日、平野紡績創立、資本金250,000円、社長
    に14代末吉勘四郎。
  1887年8月2日、菊池恭三が平野紡績に入社。
  1887年10月12日、平野紡績が、技師菊池恭三に紡機購
    入と技術研究のため渡英を命じた。
  1888年4月、平野紡績の本社工場起工、英人トーマス・
    ウォルター・ドランスフイルドを据付けと連転指
    導のため招聘。
  1888年6月、平野紡績社長に金沢仁兵衛就任。
  1889年5月1日、平野紡績操業を開始、11,520錘。
  1889年6月26日、尼崎紡績・平野紡績は技菊池恭三の傭
    聘を発起人会できめる。
  1889年9月6日、尼崎・平野の両紡績会社で菊池恭三傭
    聘契約書を交換。
  1890年5月30日、尼崎・摂津・平野の3紡績会社間で菊
    池恭三の傭聘契約書を交換。
  1893年、第2工場増設。
  1895年(明治28年)10月1日、平野紡績取締役金沢仁作
    が大阪紡績の山辺丈夫と上海に赴く(11月0日帰国)。
  (ニチボー株式会社、75年史を参考にした)
1887年4月18日、文部省が、仙台に旧制高等学校の第二高等
 中学校を、そして、金沢に第四高等中学校を設立を決定
 した。
  この第二高等中学校は、中学校令に基づき、全国で5校
 のナンバースクールの高等中学校の一つとして設立され
 た。
  1886年設立の東京の旧制一高、京都の旧制三高に次ぐ
 ものであるが、
  高等中学校としては山口高等中学校に次ぐ全国第4番目
 の設立となる。
1887年4月20日、鹿鳴館で大仮装舞踏会(4月25日説あり)
  伊藤博文首相主催の仮装舞踏会が開催された。
  日本の識者・庶民の常識が、欧化主義批判をした。
  これに、世論がさらに沸騰した。
1887年4月21日、富山市の大火(約900戸焼失)
1887年4月22日、条約改正列国会議が終了した。
  条約改正会議で、欧化政策に基づいた法典と外国人も
 参加した司法制度の整備を行うことで、治外法権撤廃を
 決定した。
  そして、この第26回条約改正列国会議は終了するが、
 外国人を登用するなどの条件に、政府部内を中心に反発
 の声が挙がった。
  さかのぼる事、この条約改正会議は、1886年(明治19
 年)7月、関税率改正については、ほぼ日本の原案に近い
 案が合意をみた。
  内地開放を税率改正の条件とする主張に対しては、井
 上は、それを認めると法権回復交渉のカードを失うこと
 となるため拒否した。
  また、「泰西主義(西洋、もしくは西洋かぶれ)」に
 基づく法律制度整備のため、井上は「法律取調所」を外
 務省内に設置した。
  日本が、制定する法律を各国に「通知」する件を巡っ
 ては、やや交渉が難航した。
  各国は「通知」の意味を、その内容が「泰西主義」に
 合致するかどうかを監査する権利を持つものと理解した
 が、
  それを認めると、日本は、法律制定に外国の介入を認
 めることとなってしまうので、井上は、列国が「泰西主
 義」に合致しないと見なされた場合であっても条約無効
 の判断は外交上の協議を経ることを要件とする条件を付
 け加えることを提案し、各国もこれに合意した。
  かくして、条約改正会議は、新しい通商条約案と英独
 共同案に修正を施した修好条約案がほぼ合意をみること
 となり、
  1887年(明治20年)4月22日の第26回会議で終了した。
1887年4月25日、紋鼈(もんべつ)製糖所を伊達邦成らに貸
 下げた。
  そして、1890年3月に、払い下げた。
  この製糖所は、日本最初の官営の製糖工場だった。
  現在、日本甜菜製糖、北海道糖業、ホクレンの3社8工
 場で、日本一の生産量を誇っている。
  日本の甜菜業は、1870年(明治3年)東京に官営で始ま
 り、
  同年・1870年、北海道紋鼈(現:伊達市)に製糖所が
 設立された。
  3階建大工場で、機械はフランス式で技術が悪く、1896
 年解散、
  機械は、台湾製糖に譲られた。
  1921年、日甜、北海道糖業で生産再開、戦後合理化し、
 北海道寡占となった。
  北海道糖業道南製糖所入口に台湾返還の日本最古機械
 (三重蒸発効用缶、結晶缶)が残っている。
  (参考)甜菜:てんさい、サトウダイコンの別名。
      甜菜糖は、この大根の根から作った砂糖。
1887年4月25日、木曽川橋梁が完成した。
  1885年(明治18年):着工。
  1887年(明治20年):完成。単線で長さ1,800ft
  1891年(明治24年):濃尾地震により大きな損害を受
   けるが、翌年・1892年に復旧する。
  上り線:618.9メートル、下り線:619.4メートル、
  構造:ワーレントラス橋
  立派な架橋技術が日本に出来上がった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:新たな戦争すべき相手が出現したという・・『アメリカの恐ろしい妄念』
   妄念:誤った、よからぬ考え・・邪念・・妄執・・、
.
1945年5月19日、アメリカの新たな戦う相手が現れる・・と、
 感じたと・・
  第二次世界大戦型たがわれているこの時、早くも、ま
 た、愚かにも、アメリカに、「新たな戦うべき相手」が
 現れた。
  この時は、ドイツが敗れ、まだ、盛んに日本との戦い
 がなされている・・
  その戦いの最中のこの時、早くも、アメリカで、共産
 主義の脅威が囁(ささや)かれ始めた。
  何と愚かなアメリカであろうか?
  日本が脅威だと感じたアメリカが、日本との戦争を作
 り(アメリカ大統領のルーズベルトは、「日本との戦争
 を作った」と白状している)、
  そして、この時、その日本との戦いが終わりが近づい
 ているこの時に、
  今度は、共産主義のソ連に脅威を感じた・・と、「新
 たな倒すべき相手」と言い出した。
  アメリカ国務長官代行のジョセフ・グルーは、眠れぬ
 日々を過ごしたと記録している。
  そして、1945年5月19日の朝早く、5時、グルーは起き、
 次なる文を書いた。
  「このドイツと日本との戦争は、『二度と戦争を起こ
 さないための戦争』とはなり得ず、
  ただ、全体主義独裁を枢軸国(ドイツ・イタリア・日
 本)から単にソ連に移し替えただけの事ではないのか。
  (中略)
  ひとたびソ連が、日本に参戦すれば(これも、ルーズ
 ベルトがソ連のスターリンをそそのかして煽(あお)って対日参戦さ
 せたのに)モンゴル、満州、さらに、朝鮮半島が、ソ連
 の手に落ちるだろう。
  そして、いずれは、中国や日本も同じ(ソ連の手に落
 ちる)運命をたどる」・・と。
  グルーは、このメモを、翌日(1945年5月20日)、アメ
 リカの駐ソ連大使とソ連専門家、そして、ヤルタ会談の
 通訳だった者にに伝えた。
  対ソ連外交の最前線に立つ二人は、グルーの意味する
 ところを理解し、大きくうなずいた。
  際限なく繰り返される、超強大な武力を持つアメリカ
 のミス・失敗・・アメリカはそれに気づいた。
  こんなことは戦争する前から分かっていたこと・・、
  ソ連のシベリアの東への拡大は続き、太平洋にぶち当
 たって、南下政策になって、不凍港が欲しいのなんのと
 言っていたではないか?
  そして、日本とぶち当たっていたではないか・・何を
 今さら言うのだ・・?
  共産主義・ソ連が急に出来たわけでもないし・・、
  そして、この年・・
1945年9月28日、占領軍の軍医総監と公衆衛生福祉局長の
 サムス大佐が、東京都衛生局防疫課長に対し、具体的な
 都内の売春街等の話を出しながら、占領軍用の女性を世
 話をしてくれと要求した。
1945年10月2日、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が、
 東京に総司令部を設置した。
  このGHQの占領政策の基本コンセプトが、「日本を
 改造し、弱体化させる」・・ということも、すでに、歴
 史的に実証済となっている。
..
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(増補版)445E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年2月~1887年3月)

2016-10-29 05:05:00 | 日記
題:(増補版)445E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年2月~1887年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1887年2月8日:逓信省全般の徽章を「T」字形とすると発
 表した。
  2月19日、「T」は「〒」の誤植と訂正した(2月14日
 説あり)
  逓信省は、2月8日に、郵便マークに「テ」を定めるが、
 外国では料金未払いの意味だと判り、まもなく「〒」と
 改めた。
  この「〒」マークは、日本国独自のものであり、日本
 国外では使用できない。
  因みに、1871年6月7日(明治4年4月20日)に、日本の
 郵便事業が始まった。
  当初は、特に定められた徽章はなかった。
  ただ、「郵便」の文字だけでだった。
  1877年(明治10年)頃から、大きな赤丸(「日の丸」
 的な徽章)に太い横線を重ねた赤い「丸に一引き」が郵
 便マークとして用いられ始めた。
  1884年(明治17年)6月23日、太政官布達第15号により、
 正式に「郵便徽章」と定められた。
  1887年(明治20年)に、「〒」が、逓信省の徽章に定
 められた際、この郵便徽章は自然消滅に属するとされた。
  1885年(明治18年)郵便等の所管官庁として、逓信省
 が創設された。
1887年2月13日、東京綿商社(のちの鐘淵紡績)が開業した。
  この時に、東京府南葛飾郡隅田村の通称:鐘ヶ淵(現:
 東京都墨田区墨田。墨堤通り沿い)に、東京綿商社とし
 て創立され、紡績会社として創業した。
  紡績工場は、1889年に完成した。
  すでに、大阪紡績は、錘数1万0500錘で、動力源として
 蒸気機関を導入するなど大規模で、また、近代的なもの
 であり、当初から好業績を記録し、規模を拡大していた。
  これに刺激されて、1886年に、三重紡績(東洋紡績の前
 身)が設立され、
  1887年に、この東京綿商社(現:鐘紡)の大規模紡績会
 社が相次いで設立された。
  国内生産力は、大幅に増加した。
  しかし、この結果、綿製品は、供給過剰に陥り、
  1890年に、綿紡績業は、初の不況を経験することとな
 った。
  この1890年には、早くも輸入綿糸を上回った。
  また、この頃から、最新式のリング精紡機が、ミュー
 ル精紡機に代わって中心となり、生産性が高まり、また、
 女工比率も上昇した。
1887年2月15日、民友社創業され、『国民之友』が創刊され
 た。
  主宰:徳富蘇峰が、民友社を興し、雑誌「国民の友」
 が創刊された。
1887年2月、彫刻競技会が、東京彫工会と改名した。
  江戸時代には、仏師や宮彫大工、人形師はいたが、彫
 刻家は存在しなかった。
  作られるのは欄間(らんま)であり、木版の版木だっ
 た。
  草分け的な彫刻家として登場したのが、高村光雲だっ
 た。
  東京浅草に生まれた高村光雲(本名:中島光蔵)は、
 奉公に出て働くその時、偶然から大仏師の高村東雲を奉
 公先に決まった。
  めきめき腕を上げた光蔵は、年季が明けた時、師は、
 光蔵に「光雲」の号を贈った。
  才に恵まれた弟子への愛情だった。
  そして、近代彫刻科としての歩みを始めた。
  明治初年の廃仏毀釈は、仏像の需要を減らしたのみな
 らず、貴重な仏像仏具が二束三文で外国人に叩き売られ、
  その上、金銀荘厳だけ剥がされて薪のごとく燃やされ
 るという惨状を生んだ。
  仏師や宮彫大工の仕事も激減し、彫物職人たちは生計
 を輸出工芸品に頼らざるを得なかった。
  この様な時に、生活を求める中、この時代に一世を風
 靡したのが「牙彫(げぼり)」=象牙彫刻であった。
  光雲は、木彫一筋を通した。数えるほどの人だった。
  この様な牙彫家にも、「谷中派」の職人と、彫刻を志
 す「彫刻競技会」の二派があった。・・しかし・・、
  1887年(明治20年)光雲は、後者の彫刻協議会の派と、
 「東京彫工会」を結成した。
  以後、光雲は、この東京彫工会や、日本美術協会に、
 作品を発表した。
1887年3月14日、 明治天皇陛下が、海防の整備のために、
 海防に関する詔勅とともに御手許金30万円を下賜された。
1887年3月20日、伊藤博文、柳原前光、井上毅、伊東巳代治
 ら、皇室典範、皇族条例草案を検討する。
1887年3月23日、所得税法を公布した。
  日本の所得税法は、この時に導入された。
  導入の当初は、所得金額300円以上の高額所得者のみを
 納税義務者としていた。
  そのため、この税を、名誉税と呼んだ。
  税率は最大3%で、税収に占める割合は僅かだった。
  しかし、酒税と地租以外、有力な税収を持たない明治
 政府にとって、将来的には、公平な負担をもたらす有力
 な税収になるとして期待されていた。
  帝国議会制定前に制定されたので、大日本帝国憲法制
 定後は、大日本帝国憲法第63条が適用された。
  1899年、法人所得を第一種所得として課税するように
 なった。
1887年3月23日、海防整備費用の献金を、府県知事に訓示し、
 地方有志から集めた。
1887年3月23日、陸軍で初めて「伝書鳩」を飼育した。
  陸軍が、東京と静岡県久能山の間を使って伝書鳩の実
 験を行い成功した。
1887年3月、清国水兵事件が北京に移された。
  1886年8月に起きた「清国水兵事件」の事件調べが、清
 国の北京に移された。
  後に、東京での、井上外務大臣と徐清国公使との会談
 で和議が成立した。
  「関係者はそれぞれの国の法律で処理する。双方の死
 傷者に対し、互いに弔慰金、見舞い金を送る」
.
  (今日の言葉)
.
  最近の新聞記事から・・「切り抜き」・・
  ディグニティー:威厳。尊厳。また、品位。気品は・・どこにあるのか?
.
  題(その1):アメリカの「核の傘」は・・?
.
2016年10月21日、アメリカの『核の傘』理論
  (読売新聞、2016・10・21)に以下の記事があった。
  それは、アメリカの『核の傘』に疑念を持ったところ
 から発した事柄だった。
  それは、もっともな面もあった。
  アメリカ大統領候補のトランプ氏が言った・・、
  「もう、アメリカは、日本の安全保障の責任はとれな
 い、日本に原爆を持たせてもよいではないか」・・とい
 う主旨の発言しているが、この様な発言も影響している
 とも考えられる。
  ・・以下は、その新聞の内容・・、
  見出し:米韓「核の傘」強化合意
     2プラス2 次官級の「戦略協議」新設
  米韓両政府は19日、ワシントンで外務・防衛閣僚会合
 (2プラス2)を開き、
  在韓米軍へのミサイル防衛システム「最終段階高高度
 地域防衛(THAAD)」配備をできるだけ早期に行う
 方針で一致した。
  「核の傘」などの拡大抑止強化を議論するため、次官
 級による「戦略協議」の新設も決めた。
  会合には、米国のケリー国務長官とカーター国防長官、
 韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外相と韓民求(ハンミン
 グ)国防相が出席した。
  北朝鮮の核兵器開発が完成に近づいていることを受け、
  韓国は、米国に対し、有事に核兵器の使用も辞さない
 方針を示して、北朝鮮の核兵器使用を自制させる「核の
 傘」を含めた拡大抑止の強化を求めた。
  カーター氏は、会談で、「米国の韓国防衛への関与は
 揺(ゆ)るぎないものだ」と述べた上で、
  「米国の関与は、米軍のすべての兵器体系で保障され
 た拡大抑止の提供を含む」と強調した。
  米韓が、拡大抑止の強化で合意したのは、韓国内で高
 まっている「核武装論」の沈静化を図る意図もある。
  ケリー氏は、会談の後の記者会見で、北朝鮮の核ミサ
 イル開発について、
  「米国の次期大統領に誰がなろうとも、非常に集中し
 て取り組むべき課題となる」と述べ、
  米新政権の重要な外交課題になるとの認識を示した。
.
  題(その2):最近の韓国経済・・、
.
2016年9月23日、韓国の最大の海運会社が倒産
  (読売新聞、2016年9月23日)によると、
  韓国の海運会社が破綻(はたん)し、物流が大混乱し
 ているという。
  コンテナ量で世界7位の韓進海運が・・、
  8月31日、ソウル中央地裁に法定管理(日本の会社更生
 法に相当)を申請した。
  負債総額は、約4500億円。
  各地の港湾当局や荷役業者が、燃料費や荷役料の滞納
 を恐れ、荷降ろしや出入港を拒否した。
  韓国最大の海運会社で、貨物船が立ち往生し、世界的
 な物流の混乱は、少なくとも2ヶ月~3か月間、続く見通
 し。
.
  題(その3):世界中の制海権が欲しい・・、
.
2016年10月1日、(読売新聞、2016年10月1日)に・・、
  「中国『海洋強国』急速に」
  「国産空母、周辺国威圧」
  「アメリカに対抗」・・とあった。
  内容:
  中国軍が、丁寧省大連で建造する国産初の空母は、
  中国の習近平政権が、野心的な「海洋強国」建設を急
 ピッチで進めている事を改めて示した。(中略)、
  この空母の建造は、昨年初め頃に始まった。
  中国国防相は、昨年末に、建造を公式に認めた。
  排水量は、空母としては小型の5万トン級、
  原子力ではなく、通常動力を採用していると説明した。
  (中略)、
  習政権は、「2020年までに、空母戦闘群を3個編成にす
 る」との目標を掲げているとされる。
  中国が、10隻以上の空母を保有して、世界中の「制海
 権」を握るアメリカに対抗し、周辺国を軍事力で威圧す
 る狙いだ。
  公式発表はないが、3隻目の空母も、上海で建造中との
 情報がある。
  軍事関係筋は、「中国軍の初期目標は、南シナ海と東
 シナ海への空母の展開」と見る・・(後略)
.
  余談:「アメリゴ」という言葉の意味に「ウソをつく
     人」という意味がある・・
     また、アメリカの語源は、「嘘吐き」とある・・
.
  題(その4):中国が、人民元の札をどんどん刷り始めるか・・?
   すでにやっているのか・・?
   ならば、やりたいことは何でもできることになる・・?
.
2016年10月2日、(読売新聞、2016年10月2日)に・・、
  中国の人民元が、国際的な主要通貨に加わった。
  今・現在、その「主要5通貨」は・・、
   米ドル (42.5%)、
   ユーロ (30.2%)、
   英ポンド( 7.5%)、
   日本円 ( 3.4%)、
   人民元 ( 1.9%)、
  国際通貨基金(IMF)が特別引き出し権(SDR)
 の構成通貨に人民元を加えたことで、
  中国が目指す「人民元の国際化」に一歩前進した。
  一方、国内総生産(GDP)で、世界2位の経済大国と
 なった中国には、国際金融市場での存在感に見合った責
 任を果たすことも求められる。
  しかし、国際化へ問われる改革・・、中国は2020年を
 めどに人民元相場を自由化する方針を示しているが、
  市場では「今のペースでは難しい」との見方が大勢だ。
  むしろ、「改革が後退している」との声も上がる。
  中国では・・(以下、略)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)444E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年2月)

2016-10-28 05:17:35 | 日記
題:(増補版)444E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、発明:
・ベルリナー(ドイツ出身)が、大量生産可能な円盤型の
 録音再生用レコードを発明した。
・徳川慶喜と自転車:最後の将軍、徳川慶喜は、静岡にお
 ける自転車の開祖となった。
  この年、紺屋町の邸内で乗り回していた。
  この当時、鉄製だった車輪をゴム輪に改造させていた。
・ゴム印が発明された。
  ただし、高価のため、その普及は日清戦争後だった。
  (1886年説あり)
  日本に海外から、ゴム印が渡って来たのは1886年(明
 治19年)。
  日本は、すぐに彫刻ゴム印を作った。
  外国で使われている鋳造ゴム印より、美しく文字も自
 由に表現できた。
  字体も自由で、好きなように彫れた。
  外国人は、その日本の技術に驚ろいた。
  東京で、ゴム印の材料であるゴム板を最初に作った店
 が、佐々木商店であり、初代、佐々木浜太郎氏。
  佐々木氏は、当初、浅草の雷門で印材商を営んでいた。
  佐々木氏は、日本に伝わってきたゴム印に着目し、家
 にあったゴム製の潜水服の一部分を切り取り、これを板
 に貼り付け、ゴム印の材料とし、販売した。
  当時、とても貴重なものだった。
  星野印版工業という会社の初代社長であった星野福次
 郎氏が、1889年(明治22年)、アメリカ人からゴム印を
 作る方法を習得した。
  これが鋳造ゴム印だった。
  この翌年・1890年には、彫刻ゴム印を製造した。
  これが、日本で初の彫刻ゴム印と言われている。
  星野氏は、1894年(明治27年)、回転ゴム印をアメリ
 カから仕入れた。
  そして、同じ物を日本で作り、これが、日本最初の回
 転ゴム印だった。
・馬にひかせる蒸気ポンプができた。
  1884年(明治17年)6月、日本初の蒸気式消防ポンプ(蒸
 気ポンプ)が、警視庁消防本署(現・東京消防庁)に配置さ
 れた。
  そして、腕こぎポンプの龍吐水が廃止されるようにな
 ったが、
  輸入品のため非常に高価だった。
  1890年2月の浅草の大火で、蒸気ポンプの強力な消火能
 力を体験した消防署部内では、国産化推進の検討がなさ
 れ、
  市原喞筒(ポンプ)製作所に製作を依頼した。
  この日、警視庁消防署では、歴史上初めて、国産蒸気
 式消防ポンプの試作機性能試験を行い、
  有効証明書を発行した。
  価格も、輸入品の半額となる見通しがついて量産化が
 進められた。
  ちなみに、国産蒸気ポンプには手引きのものと、馬引
 きのものとの2種類があった。
  手引きの蒸気ポンプは、ポンプ車の梶に綱をつけて、
 消防隊員が引っ張り、火災現場へ向かった。
  一方、馬引蒸気ポンプは、馬を1~3頭立てにし、ラッ
 パ(後に大鈴)を鳴らしながら、現場に急行した。
  各地への配備は、翌年・1900年(明治33年)、神戸市と
 函館市、
  1908年(明治41年)には、横浜市、
  1910年(明治43年)には、名古屋市などで、消防設備近
 代化の第一歩を記した。
.
1887年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・先住民が、アイヌかコロポックルかの先住民論争が起こ
 る。
.
1887年1月1日、東京気象台が、中央気象台として発足する。
  管轄は内務省。
  1870年(明治3年)、日本は、国土の測量の必要から、
 測量助師のイギリス人ジョイネル(明治3年に京浜間鉄
 道布設のために来日、明治4年に工部省測量司に移る)を
 招いた。
  このジョイネルが、気象観測の必要性を建議した。
  1873年(明治6年)5月、工部省測量司は、気象台を設
 けることを決め、ロンドン気象台長に気象器械のあっせ
 んを依頼した。
  ジョイネルの上司・測量師長・マクビーンは、フラン
 スからイギリスに帰化したシャーボーの日本招へいに成
 功し、
  そのシャーボーに、気象器械の調達を依頼した。
  シャーボーは、15か月間にわたり、イギリスで、各種
 器械の購入にあたり、
  1874年(明治7年)7月、それらの器械を携えて来日し
 た。
  シャーボーは、「日本は地震が多いと聞いたが、測量
 の測点が移動しては困る、日本で測量をするには、まず、
 地震観測が必要だと考えた。
  そして、イタリア製の地震計を、気象器械とともに持
 参した。
  1875年(明治8年)5月、これらの気象観測器械と地震
 計の据付けが完了した。
  場所は、内務省地理寮構内(現在の東京都港区虎ノ門
 2-10ホテルオークラのあたり)だった。
  そして、同年1875年6月から観測が開始した。
  当初は、御雇外人ジョイネルが、一人で担当し、1日
 3回の気象観測を行い、
  地震があれば、土蔵の中の地震計まで飛んで行った。
  間もなく、ジョイネルの要請により、
  同年・1875年9月から、正戸豹之助(地上・山岳観測、
 通信等多方面で事業整備に尽力、のち中央気象台統計課
 長)、
  下野信之(のち大阪測候所長)、
  中條信倫(馬場と改姓、のち商船学校教授)、
  大塚信豊(地震・火山業務を経て、長崎測候所長)、
  武林貞次郎(のち長崎測候所長)らが、ジョイネルの
 伝習生となり、徐々に観測に加わった。
  その後、1877年(明治10年)6月には、ジョイネルの満
 期解雇のあとをうけて、正戸豹之助が観測主任になった。
  1883年(明治16年)3月1日に、東京気象台で、初めて
 天気図を作成し、毎日の印刷配布が、
  さらに、翌・1884年(明治17年)6月1日には、毎日3回
 の全国の天気予報の発表が開始された。
  東京気象台は、1887年(明治20年)1月に、中央気象台
 と改称し、
  1956年(昭和31年)7月に、気象庁となった。
  2001年(平成13年)1月の中央省庁等の再編に伴い、気
 象庁は国土交通省の外局として新たに業務を開始した。
 (気象庁、ホームページを参考にした)
1887年1月9日、ブッセとハウスクネヒトの両人が、帝国大
 学に着任した。
  ハウスクネヒトは、ドイツ人の教育家で、日本に、ヘ
 ルバルト派教育学を導入した功績者。
  1890年まで、東京の帝国大学文科大学で、当時、有能
 な教員を育成するために設けられた教育学科の特約生に
 対してヘルバルト学派(J.F.ヘルバルト)の教育学とドイ
 ツ語を講義した。
  谷本富(とめり)、湯原元一(もといち)らを教え、日本
 にドイツ教育学が入る端緒をつくった。
1887年1月17日、皇后陛下が、婦人の洋装を奨励する思召書
 を出し、華族婦人などに洋装が広まった。
1887年1月22日、東京で営業の電灯が点灯された。
  東京・麹町の鹿鳴館に、東京電灯株式会社が、白熱電
 灯を設置する。
  そして、移動式石油発電機を使って、白熱電灯を点灯
 した。
  これ以降、電灯設置営業が進んだ。
  因みに。初の電灯は、1878年に、虎ノ門の工部大学校
 で、初めて電灯「アーク灯」が点灯している。
1887年1月24日、地方制度編纂委員会が設置された(2月説
 あり)
  地方制度編纂の基本針である『地方制度編纂綱領』は、
 1887年に、閣議決定された。
  委員会は、山縣内務大臣を委員長とし、ほか4名の委員
 からなった。
  山縣は、国家の基礎を強固にするには、町村自治を整
 備すべきとした。
  また、地方の人材と財源を充実させてから自治制を実
 施すへきとし、実施が急務であると述べた。
1887年1月29日、大阪撚糸会社が設立された。
1887年1月30日、登記制度が開始した(2月1日説あり)
  1886年(明治19年)8月13日、登記法(旧登記法)は、
 公文式(明治19年2月26日勅令)によるわが国最初の法律
 (法律第1号)として公布された。
  そして、翌・1887年2月1日から施行された。
  旧登記法の制定の目的は、「第一ニ保護、第二ニ収入」
 で、第一に、国民の権利の保護、第二に、国の税収を目
 的とした。
  しかし、実際は、やはり税収第一だった。
1887年1月、長崎の馬町の西洋料理専門店「自由亭」が廃業
 した。
  後に、長崎地方裁判所が買収、し検事正官舎になった。
1887年2月3日、ルートヴィヒ・リースが、帝国大学史学科
 教師として着任し、ドイツ歴史主義を紹介した。
  約半年後の9月に、史学科が設置された。
  これまで、法学科と哲学科で、ヨーロッパ史と日本史
 に関する授業が行われていた。
  リースは、日本の「史学的地理学」の必要性を説き、
 その影響を受けた国史科の卒業生や在学生らが中心とな
 って、1899年(明治32年)に、日本歴史地理研究会(後
 に、日本歴史地理学会と改称)を設立した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:大きな理念を達成するために・・
.
1941年12月8日、日本は、大きな理念達成・成就へ向かって
 立ち上がった。
  世には、『白人絶対思想』『白人絶対思考』があった。
  キリスト教の「有色人種の蔑視の教義」によって、有
 色人種は虐(しいた)げられていた。
  日本だけに関してでも、「排日移民法(1924年)」に
 悩まされ、侮辱を受けていた。
  有色人種は、世界各地で、白人たちに蹂躙(じゅうり
 ん、暴力・強権などをもって他を侵害すること)され続
 けて来ていた。
  キリスト教に洗脳された白人たちは、世界中で有色人
 種を差別し、虐(しいた)げ、殺戮し続けて来た。
  世界中のあちこちで、何千万人規模で、白人によって、
 ジェノサイド(集団殺戮)され、虐殺され、そして、そ
 の行為をされ続けて来た。
  20世紀に至るまで、それは語るに尽きないキリスト教
 に洗脳され、マインド・コントロールされた白人たちに
 よって、有色人種の悲劇は続いていた。
  その『白人絶対の時代』は・・、
  有色人種の誰かが立ち上がって・・、
  その有色人種の誰かの「実力」で、打ち破らない限り・・
 終わらない事態となっていた。
  白人と有色人種の差別のない正義を目ざし・・、
  「人種は平等なのだという、当たり前であるが・・崇
 高なる理念の主張」を・・、
  有色人種の誰かが・・
  「実力」でもって主張し、
  打破しなければならなかった。
  その様な状況の「白人絶対の世界」だった。
  20世紀に至って、その崇高な行為が・・行われた。
  日本は、その以前から国際会議で、「人種は平等であ
 るべきだ」「人種平等を目指すべきだ」と主張して来た。
  (日本は、「人種的差別撤廃法案」を、1919年のパリ
 講和会議で、ぜひ成立させたいと提出していた)
  そして、国際会議で、日本の「各人種は、平等である
 べきだ」の主張は、多数の意見となった。
  しかし、決定される方向にあった日本のその「人種の
 平等の主張」は、会議の議長国・アメリカによって成立
 を止められた、阻止された。
  アメリカは、この時、「多数決では駄目だ」と言って、
 成立を阻止した。
  議長国・アメリカの「議長特権」で、成立を阻(はば)
 まれた。
  この人道的な、当たり前の主張を、成立をさせなかっ
 た。
  アメリカは、「全員一致という条件」を持ち出した。
  このアメリカの主張は、「私・アメリカが、反対だか
 ら全員一致とならない、だから、廃案です、ダメです」
 と言っている様だった。
  これも、大東亜戦争(第二次世界大戦)が起きる要因・
 遠因の一つとなった。
  日本は、遠い昔から、平等の意識を当たり前の様に持
 ち、また、常に、平等を尊んで来た。
  (平等院があるごとく、平等は、古くからの日本の理
 念なのだ)、
  そして、日本は、この理念の元に、已む無くこの不正
 義に対し、行動を起こして行く。
  この様にして、20世紀に、人類にとっての最大な事件
 は起きた。
  1941年12月8日の事だった。
  白人サイドから、白人側から、開眼して、事態が打開
 されるという可能性は、『まったく・・なかった』。
  キリスト教に頑(かたく)なにマインド・コントロー
 ルされ、洗脳された『宗教的理念となって』、『信仰的
 正義となって』、白人絶対・有色人種蔑視となって・・
 その日本の理念は・・阻(はば)まれていた。
  天から、時には駆けつける阿修羅のごとき憤怒でもっ
 て諭(さと)さねば、事態は打破できない所まで至って
 いた。
  改善された次なる事態が開かれない状況となっていた。
  また、人種差別の旧態が打破できない事態だった。
  「白人種が最優秀」という観念が、長い年月に連綿と
 続き、こびりついた「思い込み」は・・、
  我が身を顧みない行動によってのみ打破され、開かれ、
  その行動が無ければ・・諭され得ない状況となってい
 た。
  白人のかたくなな思い込みと、醜悪さの中にあった。
  「白い肌に生まれた人間でなければ・・成し得ない」
 という迷妄(めいもう、道理が分からず、事実でないこ
 とを事実だと思い込むこと)なる迷信に疎(うと・む、
 嫌って遠ざける、うとんずる)まれた社会だった。
  「優秀なる人種=白人」の思いの疑念に、まったく疑
 義(ぎぎ、意味・内容がはっきりしない点)すら持たな
 い迷妄なる状況だった。
  アメリカには・・、
  「白人女性が、有色人種と結婚するのは進化の法則に
 反する犯罪だ」・・という論文があり、また、考え方が
 あり、信じられているというアメリカ社会だった。
..
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(増補版)443E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)

2016-10-27 05:37:05 | 日記
題:(増補版)443E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、論・文学・本:つづき
・「国民の友」発行(2月)
  民友社(徳富蘇峰の設立)が発行した機関誌で、1899
 年(明治32年)8月の第 372号で廃刊した・・、
  「新日本之青年(1887年) 」で一躍評論家の雄となった
 蘇峰が、主筆となって始めた雑誌で、進歩的な社会評論
 誌。
  標榜(ひょうぼう)するところは、「人民全体ノ幸福ト
 利益」を主張すると言う・・平民主義。
  (この後、日清戦争の後に、蘇峰が、国家主義に転換
 して衰退した、「国民新聞」に併合されて廃刊)
  総合雑誌の先駆となった。
  中江兆民・田口卯吉・島田三郎・内村鑑三・坪内逍遥・
 北村透谷らが・・、
  また、二葉亭四迷、山田美妙(びみょう)、森鴎外、山
 路愛山らの文学者も寄稿し、
  政治・経済・社会・文学の各分野で、多彩な論調を展
 開、社会主義の紹介にも努めた。
  初め、月刊であったが、月2回、3回、週刊となり、時
 の藩閥政府の干渉政策に対抗し、自由と平等の実現を期
 する『急進的平民主義』の立場をとった。
・「支那地誌」 刊行
  著者:参謀本部管西局 編
  1887年から参謀本部によって刊行された『支那地誌』
 『満洲地誌』『蒙古地誌』には、いずれも「物産」の項
 目が含まれていた。
  初歩的な成果を収めたと評価された。
・ 「婦女鑑」(編:西村茂樹)
  「婦女鑑」(明治20年)は、明治天皇陛下の皇后陛下
 の内意を受け、
  宮内省文学御用掛であった西村茂樹によって編纂され
 た。
  そして、天皇陛下の内意を受けて元田永孚が中心とな
 り編纂した『幼学綱要』(1882年)の補遺として作成さ
 れた。
  作成の目的は、華族女学校の教科書に充てるためだっ
 たが、
  実際に、皇后陛下が行啓して、生徒に下賜された。
  この様な、特筆すべき成立事情が有する。
  全6巻、120の例話で126人の掲載は、当時としては他
 書を量的に圧倒した。
.
1887年、歌・流行・世相:
・鹿鳴館仮装舞踏会
  (氷川清話):鹿鳴館時代
  (氷川清話):明治20年には鹿鳴館時代が開始。また、
 保安条例公布による正論家たちの皇城3里外への追放。
  西欧に、形の上でも追い着き、条約改正をしたかった。
  その様な経過の中で生まれた鹿鳴館の舞踏会も、1887
 年4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール(fancy
 ball)」に至った。
  この舞踏会は、実際は、鹿鳴館ではなく、総理官邸で
 行われたもので、しかも、外交とは直接関係のない催し
 だった。
  伊藤博文総理・梅子夫人の主催ということで開かれた
 この舞踏会は、
  実際には、時のイギリス公使夫妻が主催したもので、
 伊藤は、好意で官邸を会場に貸し出したにすぎなかった。
  しかし、当時の常識ある人たちは、行き過ぎた催しと
 指摘し、
  外務大丞をつとめたこともある勝海舟でさえ、これを
 契機に憂国の感を深め、建白書にしたためて政府に意見
 したぐらいだった。
  西洋に媚びる面もあるこの「欧化主義」の臭いのする
 催し、
  鹿鳴館の洋装・洋服も行き着いてしまった末の仮装の
 感があった。・・そして・・
・この年に、女性(婦人)に「吾妻(東)コート」「肩掛
 け(ショール)」が流行した。
  吾妻(東)コートと肩掛け(ショール)のセットのフ
 ァッションだった。
  吾妻(東・あずま)コートは、着物の上に羽織るコー
 トで、ショールカラー(へちま襟)や道行襟(スクウェ
 アーネック)の四分の三丈コートのことで、和装用コー
 トの走り。
  東京から流行し始めたので「東」コートと命名された。
・「国益」という文字が流行した。
  マッチの製造にも、牛肉店にも、この2字がつくぐら
 いだった。
・流行歌:「ノルマントン号沈没の唄」
  一番:岸打つ波の音高く、夜中の嵐に夢さめて
     青海原をながめつつ、わが兄弟は何処ぞと
     木々の影はゆらゆらと、
  二番:呼べど叫べど声はなく、たずねさがせど影はなし
     うわさに聞けば過る月、二十五人の兄弟は
  三番:旅路を急ぐ一筋に、外国船とは知りつつも
     航海術に名も高き、イギリス船ときくからに
  四番:ついうかうかと乗せられて、波路もとおき遠州の
     七十五里もはや過ぎて、今は紀伊なる熊野浦
・日本製の絹ハンカチが、外国で評判になる。
・食の流行:西洋料理
  1876年(明治9年)東京の上野に、日本人のための本格
 的な西洋料理店ができたが、
  明治期は、西洋料理は高級なものであり、フランス料
 理が中心であった。
  当時の厨房は、現在とは比較にならないくらい原始的
 な設備で調理を行っていた。
  そのため、その調理技術は極めて特殊で、熟練が求め
 られた。
  それもあって、職人は、非常に重宝され、腕の良いコ
 ックは、破格の高給の処遇を受けていた。
  この年・1887年(明治20年)の『時事新報』には、西
 洋料理のコックについて、
  「甲が十五円を与うれば、乙は二十円を与えんと言い
 出し、雇い主の間に競争を生じたり」という記事が載っ
 たほどだった。
  この獲得競争の結果、富士屋ホテルの記録によると、
 明治30年頃の給与台帳では、支配人の月給が二十五円で
 あったのに対し、料理長の月給は五十四円五十銭もあっ
 た(支配人の倍以上)。
・生活面の流行:自転車
  この年、アメリカのオバーマン・ホイール・カンパニ
 ーが、前輪にスプリング・フオーク(サスペンション装
 置)を取り付けたビクター号を開発した。
  この翌年・1888年、東京浅草の向山嘉代三郎が、帝国
 自転車製造所を開業した。
  1887年4月、大型の二輪車(自転車)が流行の記録も
 ある。
  また、次の記録もある・・、
  1887年1月13日、1月13日快晴 午後2時散歩の際、徳川
 将軍、及び、公子が、自転車を召されて市中御散歩を相
 見たり(松本亀次郎日記より)
  1887年2月18日、静岡大務新聞、自転車脱税の取締り。
  1887年3月8日、静岡県令第30号、自今道路ニ於テ夜中
 自転車ノ使用ヲ禁止ス。
  1887年4月29日、めさまし、水曲社の水上自転車
  1887年5月5日、毎日新聞、曲乗りの水上自転車 浅草公
 園の旧勧工場跡にて興行中なる水曲社の水上自転車は、
 大小二輪車に乗り水面を行く事あたかも平地を走るに異
 ならず、随分珍しきよしにて種々の曲乗りをなすと言う。
  1887年5月14日、毎日新聞、三輪車は卒業、二輪車の客
 が多い。
・娯楽面の流行:娘義太夫
  大阪では、豊竹呂昇が人気で、
  東京では、1887年には、大阪から上京した竹本綾之助
 が空前の人気となり、
  芸能での人気を歌舞伎と二分するほどになった。
  また、別史料には・・、
  娘義太夫.、明治20年代から40年代にかけ、浄瑠璃の一
 派「義太夫」を若い女性が演じて、東京を中心に大流行
 が起こった・・とある。
  また、別史料には・・、
  絵は、洗耳筆「寄席(娘義太夫)」『東京風俗志下の
 巻』94頁で・・、
  2階席はないものの、電燈が附いている。
  また、書生さんらしき姿は見えないので、本郷や神田
 あたりの寄席ではないと思われる・・とある。
  屋根には、真打の芸名を記した軒行灯を掲げ、木戸口
 の横には一座の芸人名や演芸を連ねて記した大行灯を掲
 げる。
  木戸口を入ると、札場、下足預り場がある。
  芝居小屋に見られるような花道、桝席はない。
  女義太夫で賑わい、メッカの一つだった若竹亭・・と
 ある。
・娯楽の流行:花合わせ、トランプ
  大阪で流行の記述あり、
  また、東京日日新聞の、1887年11月16日に・・、
  拙者、西洋カルタ(トランプ)引取のため横浜商館に
 到り、談話の際、洋人の曰く、日本の花骨牌は盛に流行
 して販路広大なるに反して、
  我西洋カルタは、東京を除くの外、甚尠なし、
  欧米各国の如きは、孰の国を不問、「トランプ」の流
 行、殊に盛に、文明国としてトランプの流行せざる事な
 きはトランプをもつて文明の遊具といふに依ても明なり
 といふ
  尚、高位貴顕の方にもトランプのため、交はりを結ぶ
 等の益あり
  今日、東洋の開明国と称せらるゝ日本にして、此の流
 行なかる可からずと、
  本年本国より取寄たるトランプの着荷は、土蔵の床板
 も下る計りの噸数に及びたり、
  然るに、これを引取る商人なく、幸ひ貴家に於ては、
 日本花骨牌の販売広く、且つ、西洋骨牌も亦狭からずと
 〓けば何とか拡張を謀る方法なきやと、
  我答曰、トランプ流行せざるにあらず、未だ、使用法
 の委しからざると、価の高価なるがため、随て販路狭き
 のみ、
  若し、これを拡張せんとなれば、着荷を従来の半額に
 て、五万個を限り売捌く憤発ありたし、
  上方屋も亦、是に憤発を加へ、トランプ使用法を無代
 価で添るとせば、自然販路を拡張するの道に適せんと、
  洋人、大に賛成なし、愚意に随ひ来る
  十一月十五日より、三十日迄を限り、左の拡張安売仕
 候、元より西洋人の拡張心より安売仕候事に付、同業者
 と雖も左の直段より更に引なし
  又日限後は、通常直段に引直し候ことは無論、
  地方の御注文は、是亦拡張のため、今般限り郵券代用
 不苦安売代価の外に、一個に付逓送税八銭、御添の程願
 上候
.
  (今日の言葉)
.
  題:フィリピンのこと(その1~その3)・・、
    その1:独立を目指して・・、
.
1896年8月23日、フィリピン革命戦争
  「プカット・ラウインの雄叫び」で、フィリピン革命
 戦争が始まった。
.
1896年のフィリピン革命
  モロ戦争の歴史。
  1896年のフィリピン革命は、ミンダナオのムスリムに
 対して、民族的な情熱を沸き立たせる契機となった。
  スペイン支配下には、どうしても拭う事の出来なかっ
 た「キリスト教徒対ムスリム」の対立が、一時であった
 が解消した。
  キリスト教徒とムスリムの混成部隊が、スペインと戦
 うこともあった。
  スペイン支配のシンボルであったフォート・ピラーが、
 これによって陥落した。
  アルバレス将軍が、革命政府のサンボアンガ知事に任
 命された。
  しかし、1899年に、アメリカ軍が、フィリピンにやっ
 て来ると、キリスト教徒とムスリムは、再び、対立に変
 えられた。
  アメリカ軍は、ジョン・べーツ将軍をホロ島のスルタ
 ン・キムラ2世と会談させ、
  1899年8月、アメリカの主権を認めるべーツ協定が成立
 した。
  だが、ムスリムは、これを拒否した。
  ムスリムの民族独立戦争は、今度は、アメリカに対し
 て続いた。
  アメリカは、無慈悲に強力な武器で弾圧した。
  特に、初めの10年間は、特に卑劣だった。
  アメリカは、殺傷力の強いダムダム弾や、強力な最新
 兵器を使って殺戮した。
  また、ムスリムの反抗に、神経質に、即時、徹底的に
 武力で弾圧し、鎮圧した。
  また、最悪な事に、1906年には、徴税に反対したブド・
 ダホの女性の方々や、子供たちの600人を、アメリカ軍は
 虐殺した。
  アメリカ軍は800人で行った。
  しかし、情報管制され詳細が不明で、闇の中に、葬り
 去ろうとした。
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:評論家:伊藤貫氏が対談で話す・・
    その2:アメリカのした事・・フィリピンの場合・・
.
1898年、アメリカが、フィリピンを軍事占領した。
  下記は、伊藤貫氏(国際政治・米金融アナリスト、政
 治思想家、評論家)の対談での言葉である。
  下記のURLを御覧ください。
  https://www.youtube.com/watch?v=Kla8vz0fx-U&index=3&list=PLn2kLGRySM2jWCzJaowldZXCZrT7Nlda3
  ・・略・・
  (中国がアメリカの言う通りのことをしたら、アメリ
 カは)皆、拍手したわけね、
 だけど、すごく滑稽なのは、その前の年にね、
 その(中国が)門戸開放宣言をやった前の年にね、
 アメリカは、米西戦争をやっているわけ、
 米西戦争をやって、スペインからキューバとフィリピン
をもぎ取ったわけよ、
 米西戦争をやる時、アメリカは、フィリピン人に独立さ
せると約束しておきながら・・、
  一旦、フィリピンを取ったら、独立させるという約束
 を、あっという間に裏切って・・、
 (フィリピン人の)独立派を、20万人か、30万人を殺し
ている訳ですよ、
 1898年に、フィリピンを軍事占領して、
 独立を願うフィリピン人を、20万人~30万人殺してね、
 要するに、1899年もね、殺している最中な訳です、
 フィリピンを自分たちの植民地にしようと思って、フィ
リピン人をいっぱい殺している最中に・・、
  日本人とか、ロシア人とか、ヨーロッパ人とかには、
 (理想的な)ジョン・ヘイの三原則とか、領土保全とか
 言っているわけですよ、
 これって、おかしいでしょう?
 フィリピンで、めちゃめちゃな事をやっておきながら、
 アメリカ人って、そういう人たちで・・、
  要するに、フィリピンでめちゃくちゃやってても、他
 の国に対して、ものすごく立派な事を、『我こそ理想主
 義者』という態度でお説教をするわけね ・・略・・、
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑んだ・・、
 その3:しかし、マッカーサーだけは違ったと・・
   そして、それは、アメリカ人としては「珍しい」と
  フィリピンの方々は言った。
   そのくらい、アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑んでいた。
.
1930年9月、アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑(さげ
 す)んだ。
  それは、アメリカ人は、最初からフィリピン人を軽蔑
 し、「無知と怠惰の抜け殻」と蔑(さげす)み発言する
 のが常だった。
  だが、1930年9月に、ダグラス・マッカーサーが、フィ
 リピンを去る時、「アメリカ人、フィリピン人双方が、
 互いの欲望、希望、そして、熱望に対して、同情的理解
 を共有する事が必要だ」と語った。
  フィリピンの方々は、ダクラスは、フィリピンを理解
 する珍しいアメリカ高級軍人だと感じた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive