gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

(増補版)216D2/3:気になった事柄を集めた年表(1824年~1825年)

2015-09-29 03:14:58 | 日記
題:(増補版)216D2/3:気になった事柄を集めた年表(1824年~1825年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1824年、英蘭協約(えいらんきょうやく)が結ばれた。
  イギリスとオランダとの間で、アジアにおける両国の
 勢力範囲が確定された。
  1819年のイギリスのシンガポール占領をきっかけに、
 これに反対するオランダとの間に外交交渉が行われてい
 た。
  オランダは、インド、および、マレー半島の商館と領
 土を放棄し、
  また、イギリスも、スマトラ島にあった領土と商館を
 放棄し、
  マラッカ海峡を境界線として、両国の勢力範囲が決め
 られた。
  この条約によって、オランダの植民地は縮小し、イギ
 リスの世となった。
  オランダの地は、インドネシアのオランダ領東インド、
 オランダ領ギアナ、スリナム、日本の出島となった。
  列強が、アジアの地の、うまい汁を吸う所を獲りあっ
 って駆け引きしていた。
1824年、ビルマ戦争が起きた(~1886年)
  イギリスとビルマ(現・ミャンマー)との間に3回に渡
 って起きたイギリスの侵略戦争(~1886年)
  63年間もの長い間、収奪地の拡大を目的に行われたイ
 ギリスの横暴な武力誇示行為の戦争。
  第一次戦争は、1824年から1826年に渡って行なわれた。
  イギリスに反抗して、コンバウン朝(アラウンパヤー
 朝)は、東部ベンガル(今のバングラデシュ)地方のイ
 ギリス侵略行為に対してを戦った。
  イギリスは、絶え間なく19世紀の間、ビルマ戦争(18
 24年~1886年)を行なって、ビルマ侵略をし、植民地と
 した。
  イギリスは、この侵略戦争を謝罪していない。
1825年(文政8年)1月、初代の歌川豊国(うたがわとよくに、
 浮世絵師)が没した(57歳)
1825年2月、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)
  幕府が、諸大名に異国船打払令を出した(無二念打払
 令)。
  外国船が、しばしば来訪し、上陸や、暴行事件が起
 きたため、江戸幕府が発した。
  第11代将軍、徳川家斉(いえなり)の時である。
  19世紀初め、北太平洋で操業するアメリカ・イギリス
 の捕鯨船が、日本近海を航行し、水、食料を求めて頻繁
 に渡来し、諸藩は沿岸警備をし、苦慮していたが・・、
  1808年のフェートン号事件や、1824年の大津浜事件と
 宝島事件などを受けて発令された。
  無二念打払令・文政の打払令・外国船打払令ともいう。
  「異国船はこれを発見しだい、二念なく打ち払うべし」
 とあった。
  1842年に、廃止した。
1825年7月、4世・鶴屋南北(つるやなんぼく)作「東海道
 四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)」が、江戸中
 村座で初演された。
1825年7月、幕府が、新金銀の引き換えが進まないため、古
  金銀の通用期限を、文政10年1月まで延長した。
  1824年の触書では、1825年までの通用であったが、延
 期して1827年2月(文政10年1月末)までとした。
1825年11月、諸国が凶作のため、将軍・家斉の日光社参が、
 再度、延期された(または中止)。
1825年12月、幕府が、酒株(さけかぶ)を所有しない者、
 所有していても1807年以後、休株・無営業である者の酒
 造を禁止した(文政10年解除)。
1825年12月、青地林宗(あおちりんそう、医師、蘭学者)
 が、日本最初の物理学書「気海観瀾(きかいかんらん)」
 をまとめた(文政10年刊行)。
  幕府の天文台訳員となり外国文献を、多数、訳した。
  気海観瀾は、西洋の理科書を抄訳(ところどころを抜
 き出して翻訳すること)し、物質の定義や、力学や自然
 現象を図解して説明した。
  引力、温質、気性、気種、清気、燃気、硬気、吸気、
 光、色、音、エレキテル、気化、雲、雨、電雷、虹、水
 性、験水、潮汐などの40項目にわたり、
  19世紀初頭のヨーロッパの物理・化学の基礎的知識が、
 簡潔に記述されている。
1825年、滝沢馬琴の合巻「傾城水滸伝(けいせいすいこで
 ん)」初編が刊行された。
  当時、たいへんに人気を博したので、版木が摩耗して
 しまい、二度彫り直して3版まで出版されたという。
1825年、本居宣長(もとおりのりなが、国学者)の神道書
 「直毘霊(なおびのみたま)」が刊行された。
  宣長の古道論の精髄を示しているという。
  「日本古代にあったのは、したがうべき教義として意
 識されず、なんらの人智を加える必要もなかった〈物に
 ゆく道〉であるとする信念から、ただ神意にまかせる〈
 惟神(かんながら)〉の道を説く」とある。
1825年、化粧の流行
  この頃、江戸での女性の化粧が、上方風に襟首に白粉
 を厚く塗る女性の化粧が流行した。
1825年、雷電為右衛門が没した(1767年~1825年)
1825年、ジャワ戦争が起きた(~1830年)
  この戦争は、インドネシアで、ジャワ人が起こしたオ
 ランダに抵抗する戦争で・・、
  オランダの経済政策に対する不満が契機となった。
  オランダは、ナポレオン戦争で、本国の財政はひっ迫
 していた。
  その為、より強く植民地からの収奪を強めようとした。
  また、オランダの支持を受けた王位継承者がからんだ。
  ジャワ軍は、ジャワの人々は、必死にオランダ軍に対
 して果敢な抵抗を展開したが、近代的な軍備を整えたオ
 ランダ軍にはかなわなかった。
  結局、このオランダ軍にしろ、そして、イギリスにし
 ろ、進んだ武器によって、力によって、植民地の人々は
 押え込まれた、そして、利益の押え込みもされた。
  勝利したオランダは、さらに、1830年から強制栽培制
 度をジャワの方々へ課して、より収奪を強めて行く。
  オランダの都合の良い作物を、強制的に栽培させると
 いう横暴きわまる制度を行なった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)215D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年~1824年)

2015-09-28 03:55:50 | 日記
題:(増補版)215D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年~1824年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1823年(文政6年)、大旱魃(かんばつ)となる。
  藩財政が困窮した(豊後岡藩など)。
  農民の一揆なども起きた。
  田の水争いが起きた。
  京都神泉苑など各地で雨乞いをする。
  4月~6月に、関東地方は干害と風水害との記述もあり。
  岸和田藩主は、郷内の宿老を集め代参を立てて祈雨の
 祭典を修め・・の記述もある。
1823年、幕府が、中央に新たに「外国総奉行」を設置した。
  日本各地に役人を配置した。
  幕府が、日本人の海外渡航に関する規制を緩和した。
1823年、ロンドン気象学会が創立された。
  イギリス(王立)気象学会の前身。
1823年、ラクビーの始まり
  イギリスのラクビーの町で、フットボールの試合中、
 エリスという少年がいきなり球を抱えて走り出し、ここ
 にラクビーが始まった。
1824年(文政7年)2月、幕府が、南鐐二朱銀(なんりょうに
 しゅぎん)の改鋳を命じ(この年に発行の文政二朱銀の総
 称)、3月から通用を始めた。
  南鐐とは、銀の美しい良質の銀を意味している。
1824年3月、「近世職人尽絵詞(きんせいしょくにんづくし
 えことば)」などを描いた浮世絵師の鍬形斎(くわがた
 けいさい、北尾政美・きたおまさよしともいう)が没し
 た(64歳)
  津山藩松平家の絵師だった。
  近世職人尽絵詞は、肉筆画の傑作と言われており、江
 戸における多種多様な職業に従事する人々を、軽妙かつ
 生き生きと描いている。
1824年5月、幕府が、一朱金(いっしゅきん)の新鋳を命じ
 (文政一朱金。江戸時代の金貨のうち最悪質なものと言
 われている)、 7月から通用を開始した。
  金品位は12%で不評だった。
  財政収入の増加を目的に発行したが、低品位の悪評で
 長く流通しなかった。
  1840年に、通用停止とした。
1824年5月、常陸・大津浜事件(おおつはまじけん)
  イギリス船2隻が、常陸に来て、イギリス捕鯨船員11
 名(12名の記述も)の常陸上陸事件が起き、水戸藩藩兵
 が捕らえ留置し、尋問した(密貿易の疑いもあった)。
  結局、水と野菜が欲しいという事で、幕府は、これら
 を与え、2か月足らずの後に釈放し、退去させた。
  徳川斉昭(とくがわなりあき)の水戸藩を中心に攘夷
 熱が高まった。
  また、イギリス船員が、薩摩・宝島(現:十島村)の
 牧牛を強奪しようとしたことから役人との間で銃撃戦と
 なり、イギリス人1名を射殺したとの記述もある。
  このイギリス船(捕鯨船)は、常陸沖で、日本の捕鯨
 船に対する海賊行為を行なったり、
  また、領海侵犯であったため幕府軍艦は拿捕した。
  外交問題となった。
  幕府は、国防の進展と日本近海の調査が促された。
  この後、薪水給与を停止して、異国船打払令が出され
 ていく。
1824年8月、諸国洪水。
  関東・東北大風雨による大洪水。
  江戸では、隅田川の出水で永代橋が破損し、本所・深
 川が浸水した。
  荒川出水、佐倉村方面洪水氾濫。田畑、山林、家屋な
 ど流失。
  8月14日より15日、終日、大風雨、洪水氾濫、阿武隈川
 土手破損。
  1824年8月17日、静岡、当日から約3日間、北から風雨
 激しく、大波や大水害を受ける。
  1824年8月15日、大洪水にて新町裏決壊す(白石市記録)
1824年閏8月、江戸西両国広小路にて、らくだ2頭が見世物
 となった。
  1日に観覧客が5000人を超える日があったという。
  歌川国安の絵にも描かれている(駱駝之図)。
  「甲子夜話」に「今年、駱駝、長崎よりこの都に来れ
 り」と、雄雌の一頭ずつが見世物になったとある。
1824年9月、平田篤胤(ひらたあつたね、国学者)の「古道
 大意(こどうたいい)」が刊行された。
  1811年に完成していた神道書。
  篤胤の講演を、門人が筆録した講義ノート。
  篤胤は、1809年の34歳頃より、江戸で広く、一般の人
 たちに対して、古道、儒道、仏教などの講説を始めた。
1824年、佐藤一斎(さとういっさい、儒学者)が、「言志
 四録」の1巻「言志録(げんしろく、倫理書)」を刊行し
 た。
  学問・修養の方法、哲学的思索、人生観について述べ
 ている。
1824年、中沢道二(なかざわどうに、心学者)の道話(心学)
 を編集した「道二翁道話(どうにおうどうわ)」が刊行
 された。
  人間の「本心」の究明のために、儒書・仏書はもちろ
 ん、広く和歌や文芸作品なども引用して、加えて庶民の
 多様な日常生活の体験を素材にし、分かりやすく説いた。
1824年頃、この頃、両国のすし職人の花屋与兵衛が、にぎ
 り鮨を創案した。
1824年、大村益次郎が生まれた(1824年~1869年)
  益次郎は、明治になって軍政の創始者となった。
  長州藩の医家に生まれ、
  初め、蘭学者の梅田幽斎や緒方洪庵に学んで医師にな
 った。
  長崎で学んだりし、また、父母を養うため帰郷して医
 を開業したが振るわず、宇和島藩に迎えられる。
  そして、西洋兵書を翻訳したり、軍艦製造などを指導
 した。
  欧州兵学の知識をもって、宇和島藩主の伊達宗城の推
 挙で、幕府の蕃書調所に仕え、講武所教授に就任。
  この間、ヘボンに英語を学ぶ、
  名声を聞いた長州藩に呼び戻され、帰藩して兵学を教
 え、
  長州藩の兵制改革に携わり、武器軍備を改良し、力量
 を発揮した。
  長州再征(1866年6月)には、総参謀として、優れた戦
 術で幕府軍を壊滅的に破った。
  戊辰(ぼしん)戦争(1868年1月~1869年)には、討幕
 軍として上洛、
  そして、江戸に出て、彰義隊攻撃の指揮官をつとめた。
  北越の平定作戦にも携わった。
  戦局を大局から、総合的な視点で捉え、軍略は戦う前
 から必勝の成算をうかがわせた。
  五稜郭の戦いの情勢判断においても、西郷隆盛より正
 確な情勢判断力があった。
  西郷は、大村に諌められ、その通りに戦局は推移した。
  西郷は、大村の卓見に感服し、「我誤てり面を合はす
 に恥づ」と、そのまま西郷は帰郷した。
  維新後、1869年(明治2年)に、兵部大輔となり、
  兵権の中央政府への統一をはかったが、その急進的な
 兵制改革は、守旧士族の反感を招き、
  神代直人らに、京都で襲われて、重傷を負い、大阪で
 没した。
  大村の意図は徴兵制度に結実した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)214D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年~1823年)

2015-09-26 04:53:25 | 日記
題:(増補版)214D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年~1823年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1823年(文政6年)3月24日、三方領地替(さんぽうりょう
 ちがえ)が行われた。
  陸奥国白河藩主の松平定永を伊勢国桑名へ、
  桑名藩主の松平忠尭を武蔵国忍へ、
  そして、忍藩主の阿部正権を白河へ転封した。
  この三方領地替(さんぽうりょうちがえ)で、松平定
 永の海岸警備が免除された。
  これは、幕府による大名転封の一形態で、3大名間で
 行われるもの(3大名間で領地を互いに交換させる事)。
  これは、大名の統制策として発動されて来た。
  また、これは、白河藩隠居の松平定信が、港湾財源を
 持つ桑名への転封を狙って仕掛けたというが・・、
  また、別の説では、松平定信の子の松平定永が、江戸
 湾の海防警備の負担が出来ないと、下総国佐倉藩への転
 封を願ったところ、
  佐倉藩主の堀田正愛の抗議を受けて紛糾したため、
  佐倉藩が、白河藩の替わりに江戸湾警備を引き受ける
 代償として行われた懲罰的転封を受けたとの説もある。
  白河藩は希望の桑名へ転封され、かつ、江戸湾警備の
 役を免除されるという、まったく白河藩の希望とおりの
 三方領地替だった。
  不平等なものだった。
  隠居とはいえ松平定信の元老中首座の力は衰えていな
 かった。
1823年4月6日、大田南畝(蜀山人、狂歌師、戯作者)が没
 した(75歳)
1823年4月14日、幕府が、道中通日雇(どうちゅうかよいひ
 よう、旅行の時の人足)宿を営む者を、六組飛脚問屋仲間
 に加入させた。
1823年8月11日、シーボルト(ドイツ)が長崎に到着した。
  シーボルトは出島の外に出て病人を診察する事を許さ
 れた。
  また、翌年、鳴滝塾を開いて医学を講じた。
1823年9月、幕府が、5年間の倹約令を出した。
1823年10月、幕府が、暦問屋11人以外の暦の出版を禁止し
 た。また、略暦などの売ることを禁止した。
1823年11月、幕府が、蘭書・天文書・オランダ書の翻訳出
 版を禁止した。
1823年、青山延于(あおやまのぶゆき、儒学者)が、神武
 天皇から後小松天皇までの歴史書「皇朝史略(こうちょ
 うしりゃく)」を漢文体で簡略に著した。
  青山延于は、大日本史の編纂に従事していた。
  そして、初学者の通読に適する書をと思い、本書を著
 作した。
1823年、房総砲台を代官に委する(委任する)(氷川清話
 より)
  これは、白河藩が桑名へ転封されて、代官の森覚蔵が
 房総の台場支配を命じられたことを言っている。
1823年12月、モンロー宣言
  アメリカ合衆国の第5代大統領J・モンローが、この時、
 議会へ送った教書の中で述べた。
  この後、これが、アメリカ外交の基本方針となった。
  これは、アメリカのヨーロッパ諸国からの干渉の拒絶
 だった。
  (アメリカは、ヨーロッパ諸国による植民対象の国で
 はありません・・だった)。
  次に、だから、アメリカも、ヨーロッパ諸国の政治に
 は介入しません・・と、
  そして、ヨーロッパ諸国の圧迫や、その他の方法によ
 る西半球諸政府に対するいかなる干渉も、アメリカへの
 非友好的意向の表明と見なす・・と言った。
  西半球諸政府とは、北アメリカだけでなく、南北アメ
 リカ大陸の国々の事だった。
  アメリカの意識下に、南北アメリカ大陸を支配下に置
 きたいたいという意思があった。
  この宣言は、アメリカ合衆国の出発点と言え、
  またこれは、アメリカの帝国主義的下心の表明でもあ
 った。
  明らかにアメリカは、南北アメリカ大陸を自分の物の
 様に感じていた。
  それ故に、ヨーロッパ諸国からの干渉を拒否した。
  そして、アメリカも、ヨーロッパ諸国には干渉しない
 からとの理由を付けた。
  故に、スペインが、メキシコの独立運動に関わった時
 に、アメリカは、そのスペイン行動を阻止する行動を起
 こした。
  また同様に、イギリスが、ベネズエラの介入をした時
 も、関わりを付けて止めさせた。
  この後は、アメリカは、領土的野心の行き着くところ
 が無いかの如く、領土を得る行為を、帝国主義的行為を
 して行く、
  ハワイを併合し、フィリピンを領有し、
  ミッドウェー島を占領し、グァム島を占領し、
  ウェーク島も占領し、サモア島を占領し、
  そして、自分の武力行使の基地=軍事基地を作って行
 った。
1823年、このモンロー宣言は、イギリスから独立(1776年
 のアメリカの独立宣言)から47年後の事だった。
  これは、普遍主義に反対して、ヨーロッパによるアメ
 リカ大陸への干渉を認めなかった・・などと、説明され
 ているが・・、
  何しろ、アメリカは、19世紀の末に至って、明らかに
 帝国主義的な領土拡張主義に転換した。
  歴史的事実として、フィリピンはじめ、色々な国々を
 奪って行く事実が存在する。
  そして、中国をおいしい場として見えていた。
  それを得るには、「門戸開放」という「自由主義の論
 理」を用いるのが得だと考えるに至った。
1823年、アメリカは、モンロー宣言の頃は、まだ、弱い国
 だった・・が、変わって行った。
  アメリカは、皆(イギリスやフランスやオランダなど)
 が、アジア諸地域や中国で、うまい汁を吸っている姿を
 見ていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)213D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年~1823年)

2015-09-25 03:40:05 | 日記
題:(増補版)213D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年~1823年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1822年(文政5年)12月、佐藤信淵(さとうのぶひろ、農政学
 者)の「経済要略(けいざいようりゃく)」ができた。
  上下の2巻で、信淵の大部の著書「経済要録」に先行
 した書で、彼の経済論の成立期の知識・思想大系の全貌
 を知る書。
  諸侯の取るべき政策、宇宙論、天文地理、農学・農政
 学、鉱山学、交易流通論など。
  「経済トハ、国土ヲ経営シ、物産ヲ開発シ、部内ヲ富
 豊ニシ、万民ヲ済救スルノ謂ナリ」
1822年、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、1730年~
 1801年)の古事記注釈書「古事記伝(こじきでん)」の
 刊行が終了した。
  後の古代文学研究に多大な影響を与えた書。全44巻。
  1764年に、「古事記」研究研究に着手していた。
  そして、1998年の宣長が69歳の時に完成させた。
  そして、宣長の存命中は、卷17までが出されていた。
  巻17までが「古事記」上巻、卷34までが中巻、巻44ま
 でが下巻である。
  宣長の注釈は、今日でもなお批判に耐えうる価値を持
 っている。
  「甘んじて批判を受けよ」と言いいたい場合が多い今
 日に、素晴らしい業績である。
1822年、大蔵永常(おおくらながつね、農学者)の「農具
 便利論(のうぐべんりろん)」が刊行される。
  代々農業兼商業に営む家に生まれた。
  この著は、全国各地で使用される農具の中で、広く普
 及の価値があるというものを、細かい絵入りで説明して
 いる。
  耕耘(こううん、田畑を耕し、雑草を取り去ること)、
 種まき、除草、施肥、給水、収穫、調整などの各作業ご
 との用具を取り上げている。
  また、夏の干ばつのときの井戸から水を引く法とか、
 畜力犂(すき)、大掛かりな揚水機なども記され、オラ
 ンダ製の揚水機まで説明し、農民が新しい道具を受け入
 れることが大切と強調している。
1822年、松田伝十郎(まつだでんじゅうろう、幕臣)が、
 間宮林蔵とともに樺太を探検したときの記録「北夷談(
 ほくいだん)」を著した。
  松田伝十郎は、間宮林蔵よりも先に樺太が島である事
 を確認したと言われている。
  幕府は、1892年のラクスマンの来航以後、蝦夷地の直
 轄化を積極的に進め、
  箱館奉行を設置したり、近藤重蔵に択捉島を視察させ
 たり、蝦夷地の経営と防備に積極的に取り組んでいた。
  幕府は、1799年に、蝦夷地を直轄地とした。
  そして、松田伝十郎は、蝦夷地取締御用掛となり、択
 捉島・樺太ななどに任じた。
  これは、1822年に、松前藩に返還されるまで続いた。
  この著は、松田伝十郎の蝦夷地での赴任した記録で、
  1799年:厚岸に上陸して虻田に赴任、
  1803年:択捉島に赴任、
  1808年:宗谷に赴任し、樺太を探検する。
  1809年:樺太に赴任。樺太アイヌと交易をする。幕府
      が交易の借金を肩代わりして清算する。
  1812年:樺太に赴任し、交易の改革に努める。
  1817年:江差に赴任、
  1820年:箱館に赴任、
  1822年:宗谷・樺太を周り、マシケで越年。
  1822年:蝦夷地の松前藩への返還に伴い、役を解かれ
 た。
  特に、1808年の渡航で、松田伝十郎は、樺太の西海岸
 を探検し、間宮林蔵が東海岸を探検し、
  松田は、アムール川河口対岸のラッカに至り、樺太が
 島である事を確認した。
  松田は、アイヌの借金の清算に尽力して、アイヌの山
 丹(満州人)との交易を正常化してあげている。
  松田は、3回、4回と、何度も頻繁に樺太を調べている。
  詳しく、住民の様子や、地理や、動植物を記している。
  アイヌの生活習俗が図入りで詳しく説明され、満州の
 役職名を持っている者がいることも記している。
1822年、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、戯作者)の「
 続膝栗毛(ぞくひざくりげ)」12編が完結した。
  大衆から知識人に至るまで歓迎され、続編が刊行した。
  続編は、金毘羅詣、宮島参詣、木曽街道、木曽路より
 善光寺道、善光寺道中、上州草津温泉道中と続いた。
1822年、二宮尊徳(にのみやそんとく)が、小田原藩家老・
 服部家の再建(1818年より)、この財政立て直しに成功
 して、この功により1822年に、小田原藩に登用された。
  そして、藩主の分家・宇津家の下野(しもつけ、栃木
 県)桜町領の難村復興を命じられた。
  1837年にかけて、報徳仕法の模範と言われる桜町仕法
 を施して成功した。
  その他、陸奥(むつ)中村藩(福島県)などの再建等、
 多数の業績がある
1822年、日本に最初に、この年にコレラが流行したことは
 前記したが、
  当時、この病気の手掛かりはなく、予防措置を取るこ
 とが全くできなかった。
  36年後の1858年にもまた、コレラが再び流行する。
  これは、この前年のアメリカからの黒船による日本に
 持ち込んだものとされている。
  江戸に飛び火したコレラは、8月上旬から中旬にかけて
 蔓延し、葬列の棺が、昼夜絶えることなく、大通りや路
 地につらなり、
  どこの寺院も列をなしたという。
  江戸だけでも、死者は10万~26万人という。
  第三次のコレラ流行は、1862年で、江戸だけで患者数
 56万人、死者数7万3000人~数十万人という。
  そして、この1822年のコレラ流行は、特に、西国での
 流行が酷(ひど)かった。
  開国によってだと、日本に来た異人がもたらしたとの
 噂が広まった。
  これは、くすぶり始めていた「攘夷論」を後押した。
  しかし、海外交易が順調なので、大きな声とはならな
 かったが、
  一方で、商業拡大と、産業革命的動きの開始で、巨大
 化が始まっていた都市部では、上下水道の整備や、側溝
 の充実など、近代的な都市環境の改善があった。
  ヨーロッパなどを含む諸国との、海外貿易が利益を出
 すようになった。
  しかし、翌年は、海外との金銀兌換格差から交易は、
 大幅な赤字に転落した。
1822年、清国が、アヘン販売を厳重に禁じた。
  しかし、何度、禁じても、イギリスが運んで来る密輸
 アヘンの流入は止まらなかった。
  逆に、流入量は増えていた。
  清国は、毎年、禁止令を出すという状態だった。
  密輸入も盛んになされ、横行した。
  それを取り締まる官吏までもが、麻薬中毒者になると
 いう悲惨な状況だった。
1822年、パスツール(フランス、化学者、細菌学者)が生
 まれた(1822年~1895年)
  革なめし業者の子として生まれた。
  近代微生物学の祖と言われている。
  酒石酸の立体異性体の発見をした。
  生物の自然発生説を否定した。
  発酵・腐敗が微生物によって起こることを証明した。
  感染症を研究し、ワクチンによる狂犬病などの予防に
 成功した。
1823年(文政6年)1月31日、勝海舟が生まれた(1823年~
 1899年)
  江戸、本所亀沢町に生まれ、
  江戸時代後期の幕臣で、明治初期の政治家。
  名を義邦、通称を麟太郎。
  安房守(あわのかみ)といい、海舟は号である。
  蘭学・洋式兵学を学んだ。
  1855年に、蕃書翻訳御用出役になり、海軍伝習生とし
 て長崎でオランダ人に学び、
  1860年に、咸臨丸の艦長として、初めて太平洋を横断
 しサンフランシスコに渡った。
  1864年に、アメリカより帰国後に軍艦奉行になり、
  その間、幕府海軍の創設に功があった。
  江戸末期15代将軍・徳川慶喜を助け、国内紛争を回避
 するために尽力し、
  特に、倒幕の官軍が東下して来るにあたって、官軍の
 西郷隆盛と会見し、
  江戸無血開城を成立させた。
  1873年に、明治政府の参議軍郷になった。
  1875年に、元老院議官になったが、ほどなくやめ、晩
 年は著述に専念した。
  著作は「海舟全集」に収められており、
  特に、「吹塵禄(すいじんろく)」など維新前後の軍
 事外交を知るのに良い資料となっている。
  海舟の著作の「氷川清話」によると、「明治の改暦に
 よって2月11日を誕生と定めた」とある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

臨時ブログ:放送大学の、誤解を与え、結果、嘘となっている講座

2015-09-24 03:25:19 | 日記
題:放送大学の、誤解を与え、結果、嘘となっている講座
 (真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑記)
.
  2015・9・23、午後1時45分~午後2時30分、講座名:
 「現代の国際政治、第2回、アメリカの世界戦略(1)ス
 ーパー・パワーへの道」、講師:高橋和夫氏の放送大学
 の講座はおかしい。
  アメリカ北部とイギリスを庇って、「奴隷制度に反対し
 た」と嘘を講義する。
  その様な、放送大学の講座だった。
  アメリカ北部とイギリスは、奴隷制度に反対したと嘘
 を言い、本当に公平な話はしない放送大学講座となってお
 り、誤解を与える講義となっている。
  イギリスは、15世紀から奴隷貿易をして、アフリカの
 方々を奴隷として、アメリカに連れて行く商売をしていた。
  19世紀に至るまでの、本当に本当に長い期間、この非
 人道的な奴隷貿易をしていたイギリスなのです。
  この様な歴史的事実があることに対して、嘘を言う放
 送大学であり、講師である。
  多くの人々を集めて話をするような講座ではない。
  高橋講師は、「イギリスは、奴隷制度に反対したから
 南北戦争の南部の応援をしなかった」などと、誤解を与
 える様な話をする、結果、嘘の講義をする。それだけを
 言う。
  また、「アメリカ北部の奴隷を使っていた段階の状況
 には一言も触れず」に、誤解を与える講義をする。
  講座に参加したの質問者の方が正直で、その話をする
 と、その質問で、リンカーンの奴隷解放に疑念の質問が
 出れば、
  高橋講師は、「この類の本は1万冊以上あり、反対意見
 はいっぱいある」と話をはぐらかす。
  そして、その反対意見を一言も説明せず、講義もしない
 のに、反対意見の存在を批判する話をするという始末。
  そしてさらに、高橋講師は、「大統領候補にも色々居
 て、リンカーンが奴隷解放しないという候補者がいた」
 と、話を、公正な説明としようとしない。
  そして、質問があってやっと反リンカーン側の説明に
 言及するという状態、それも、リンカーン側に偏した立
 場に、常に立ってする。
  まったく一方に偏する講座だ。
  今のアメリカの体制に媚を売る放送大学の講義となっ
 ている。
  まったく公平な、公正さのない放送大学講義だ、そして、
 講師だ。
  リンカーンは、「奴隷解放の大統領」と言われているが、
 これは作られた名声である。  
  「奴隷解放の父」などと言われているが、リンカーンが
 奴隷解放が第一の政策の様に言われるのは間違い。
  プロパガンダ(嘘宣伝)である。
  リンカーンが、奴隷解放に関してどんなことを言ってい
 たかの一例が下記である、
  リンカーンの黒人奴隷の解放に関する発言:
 「私は、白人種と黒人種の社会的政治的平等を如何なる
 形でも、もたらすことに賛成はしていないし、これまで
 もそうではなかった。
 私は、黒人を有権者にすることも陪審員にすることにも、
 賛成していないし、
 彼等(黒人)が役職者になる資格を与えることとか、白
 人と結婚するとかいうことにも賛成しておらず、これま
 でもそうだった。
 さらには、
 白人種と黒人種の間には身体的な違いがあり、
 2つの人種が、社会的政治的平等という条件で共に暮ら
 すことを永久に禁じることになると考えている。
 彼等が、そのような生活をできない限り、
 彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
 他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当てら
 れていることに賛成する・・」と。
  何という卑劣な発言なのだ。
  何しろ、リンカーンは「奴隷解放に賛成していない」と
 言っている。
  そして、「過去からそう思っていた」とまで言っている。
  また、身体的に違うのだと、まったく最悪の蔑視発言
 までしているリンカーンなのだ。
  そして、黒人とは永久に一緒に住めないとまで最悪の
 蔑視発言を言っている。
  一緒に住むことを永久に禁じるとまでリンカーンは言
 っている。
  彼らはその様に生活できないのだと蔑視発言の限りを
 言っている。
  そして、下等なのだと軽蔑すべき発言までしている。
  そして、白人が上等であることに賛成だと言っている。
  そして、「黒人に政治に参加する事にも賛成しない」と
 言っているし、「司法への参加〈陪審員になる事〉にも
 賛成しない」と、黒人の方々の立法と行政と司法の三権に
 黒人の方々の人権を認めていないと人権無視発言を言っ
 ている。
  最悪の発言である。
  そして、奴隷という人権剥奪の状態に対しても、「奴隷
 解放に賛成していない」という人だった。
  何故、こんな人が、「奴隷解放の父」なのだろうか?
  作られた名声としか言えない。
  奴隷解放をしたのは、黒人の方々が、自ら行ったのだ
 った。
  公民権の回復も、黒人のキング牧師が活躍し、暗殺さ
 れてしまったが、黒人のこの方の功績である。
  リンカーンは、人道主義的な行動をとる人ではなかった。
  子供の時に、目の前で、リンカーンのおじいさんが殺
 されたので、一生、リンカーンはインディアンの方々に
 恨みを持っていた。
  大統領になる前の弁護士時代は、法律を駆使してイン
 ディアンの方々の土地を取り上げていた。
  インディアンの土地の権利の抹消処理を、多数、行っ
 ていた。
  リンカーンは、弁護士時代から大統領時代にかけて、
 インディアンの方々の土地取り上げに奔走している。
  ことに、西部方面へのインディアン領土への鉄道拡張に
 関して、インディアンの土地権利の抹消処理を、多数、
 手がけた。
  リンカーンが「無効(neutralized)」としたインディ
 アン部族の土地に対する書類は、現在も数多く残されて
 いる。
  そしてまた、常に、徹底排除の姿勢を崩さず、彼らの
 大量虐殺の指揮も取り続けた。
  民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホや、
  ダコタ戦争を始めとする多くのインディアン戦争は、
 リンカーン政権下で行われた。
  リンカーンは、執念を掛けて、インディアン民族に対
 して、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮
 している。
  当時の保留地は、外に出ることを許されない完全な強
 制収容所だった。
 また、
 リンカーンは、ミネソタのダコタ族との連邦条約を一方
 的に破棄して、
 ミネソタ州にある彼らの保留地を強制没収し、
 彼らをノースダコタ等の他のスー族の保留地に強制連行
 した。
 ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
 州を挙げての皆殺し政策が行われ、
 女子供を問わず賞金首とし、徹底絶滅が図られた。
 リンカーンは、この虐殺方針に対しても、責任者として、
 全く異議を唱えなかった。
 1863年、この夏、
 リンカーンは、ジェームズ・カールトン准将に、南西部
 のナバホ族インディアンの討伐を命じた。
  ナバホ族は、ダコタ族同様に、抵抗していた。
  カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると睨んで
 おり、以下のように声明を行ったが、今回もダコタ暴動
 の際と同様、司令者であるリンカーンはこれを是認した。
 1864年、リンカーンは、
 ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル)離れた
 東にあるアパッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」
 への徒歩連行を命じた(ロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホ)。
 この強制連行の途上で、数百人の死者が出たが、
 そのほとんどが子供や老人だった。
 「ボスク・レドンド」で、ナバホ族は強制労働を課され、
 女性は、米軍兵士から強姦され、
  また、乳幼児のほとんどが生まれて間もなく過酷な環
 境下で死んだ。
  結局、リンカーンの死後の1868年に、和平条約が調印
 されるまでに、2000人以上のナバホ族が死んだ。
  など、多数のリンカーンの先住民・インディアンいじ
 めの事例が多々ある。
  そしてまた、リンカーンは、白人と黒人が平等である
 とは思っていなかった。
  リンカーンは、はっきり「奴隷制と奴隷制廃止論のど
 ちらにも反対する」と発言もしている。
 また、
 「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、しか
 し、奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるよりはむし
 ろ増大させるものと信ずる」と、奴隷解放の反対理由を
 言っている。
 そして、リンカーンの発言:
 「これまで私は、黒人が投票権をもったり、陪審員にな
 ったりすることに賛成したことは一度もない。
 彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにする
 ことも反対だ。
 皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはない」。
  更に、リンカーンの発言:
 「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直接
 にも間接にも干渉する意図はない。
 私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそうし
 たいという意思もない」。
 また、リンカーンには、
 俗な言い方をすれば「連邦を救いたいのだ、黒人の奴隷
 解放は二の次なのだ。
  黒人奴隷解放が、どの様な結果になろうが連邦が救えれ
 ば私はそのことをする」がある。
  黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に、
  リンカーンを白人至上主義者と呼んだ。
  この時、広く注目を集めた。
  批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人
 を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主張
 し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに苦情
 を言っている。
 リンカーンの擁護派は、
 彼が大半の政治家ほど悪くはないと、その程度の政治家
 だった。
  日本の放送大学の講義もまったく嘘を話している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009