題 : (キリスト教の)神の義によれば、人を誅してもよい・・・について
こんにちは
キリスト教は「(キリスト教の)神の義によれば、人を誅しても
良い」との教義があります。
どこにこの教義はあるのでしょうか。
勉強したいです。
よろしくお願いいたします。
ビオラさんへ
はじめまして、ご質問を戴きました事に関しまして下記に書かせて
いただきます。
(キリスト教の聖書の1例)
ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を
勧告しなさい。
もし、その町がそれを受託し城門を開くならば、その全住民を強制
労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。
しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。
あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは
男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
ただし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶん
どり品として奪い取ることができる。
あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に
用いることができる。
このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、
次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々の
息のある者は、一人も生かしておいてはならない。
ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、
あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
☆自分の利のために他人を殺せと教えるキリスト教の神の教義。
そして、
この殺戮の悲惨な時点においても 「奪い取れ、奴隷にせよ」 と
色々と指図するキリスト教の神の教義。
この類の記述は 聖書の中に 種々多い状況。
また、
聖書において下記の示唆もある。
ラテン語:talio:タリオ:被害者が受けたのと同じ害を加害者
側に加える制裁。 local limit : local一定の空間を占める、
limit限界点 : 現代のキリスト教徒の困惑となる一例。
モーゼの時代には戦争をして相手を殺し、場合によっては奴隷に
せねばイスラエル人(選民思想の民族)が殺される時代であった。
この状況から生まれた教義が、「 当時の状況と当地の状況 」 と
全く変わっている現代の「 他の地域や多くの時を経た今 」に
おいてでも 同じ教義・同じ考え方で 存在している。
TPOというものの見方がありますが、TPO的にも全くアウト。
☆与謝野晶子
嗚呼、弟よ、君を泣く。 君、死に給うこと無かれ。
末に生まれし君なれば。 親の情けはまさりしも。
親は刃を握らせて。 人を殺せと教えしや。
人を殺して死ねよとて。 二十四までを育てしや。
堺の街のあきびとの。 旧家を誇る主にて。
親の名を継ぐ君なれば。 君、死に給うこと無かれ。
旅順の城は滅ぶとも。 滅びずとても何事ぞ。
君は知らじな、商人の。 家の掟に無かりけり。
(後略)
☆『 相手のかたにも正義があるのに 』 との女性の小さな声が
耳に印象的に残った。 そうですね。その通りと思います。私は答
えた。
神という衣を着せて「正義なのだから」と、「こちらは間違って
いないのです」と。 争いは、どの様な場合もそのようになって居
ります。
宗教で、その形を是と教義すれば争いの多い状況になるのは必然
です。 このキリスト教の教義は変えなければならないのです。
これから未来を受け継ぐ若い方たちのために、人類の未来のため
にも。
NHKは、昨年、義によって争う大河ドラマを日本中に放送し、洗脳
した。 『 正義だ、やってしまえ 』 的ドラマを。 この大切な
ことが分かって戴いているのか? 影響力の強い放送媒体だけに心が
痛む。 実に、この様な事例が多い局です。
☆非が全くないという事でないのに、すべて相手が悪いと相手側へ
すべて問題を転嫁し、なお且つ、良否判断の理性が全く入る事の出来
ない宗教教義に規定する。キリスト教教義「(キリスト教の)神の
義があるのだ、やってしまえ」をつくる。
紛争の地が展開され、その歴史が連綿と続く。
民は泣く。 キリスト者はその罪を知っているか?
自分の勝手な・独り善がりな「正義」に真っ向から対立するからと、
そして、独り善がりな・勝手な宗教教義で「邪悪」だと「 決め
つける 」。
「 そんな宗教 」は否。
こんにちは
キリスト教は「(キリスト教の)神の義によれば、人を誅しても
良い」との教義があります。
どこにこの教義はあるのでしょうか。
勉強したいです。
よろしくお願いいたします。
ビオラさんへ
はじめまして、ご質問を戴きました事に関しまして下記に書かせて
いただきます。
(キリスト教の聖書の1例)
ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を
勧告しなさい。
もし、その町がそれを受託し城門を開くならば、その全住民を強制
労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。
しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。
あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは
男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
ただし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶん
どり品として奪い取ることができる。
あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に
用いることができる。
このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、
次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々の
息のある者は、一人も生かしておいてはならない。
ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、
あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
☆自分の利のために他人を殺せと教えるキリスト教の神の教義。
そして、
この殺戮の悲惨な時点においても 「奪い取れ、奴隷にせよ」 と
色々と指図するキリスト教の神の教義。
この類の記述は 聖書の中に 種々多い状況。
また、
聖書において下記の示唆もある。
ラテン語:talio:タリオ:被害者が受けたのと同じ害を加害者
側に加える制裁。 local limit : local一定の空間を占める、
limit限界点 : 現代のキリスト教徒の困惑となる一例。
モーゼの時代には戦争をして相手を殺し、場合によっては奴隷に
せねばイスラエル人(選民思想の民族)が殺される時代であった。
この状況から生まれた教義が、「 当時の状況と当地の状況 」 と
全く変わっている現代の「 他の地域や多くの時を経た今 」に
おいてでも 同じ教義・同じ考え方で 存在している。
TPOというものの見方がありますが、TPO的にも全くアウト。
☆与謝野晶子
嗚呼、弟よ、君を泣く。 君、死に給うこと無かれ。
末に生まれし君なれば。 親の情けはまさりしも。
親は刃を握らせて。 人を殺せと教えしや。
人を殺して死ねよとて。 二十四までを育てしや。
堺の街のあきびとの。 旧家を誇る主にて。
親の名を継ぐ君なれば。 君、死に給うこと無かれ。
旅順の城は滅ぶとも。 滅びずとても何事ぞ。
君は知らじな、商人の。 家の掟に無かりけり。
(後略)
☆『 相手のかたにも正義があるのに 』 との女性の小さな声が
耳に印象的に残った。 そうですね。その通りと思います。私は答
えた。
神という衣を着せて「正義なのだから」と、「こちらは間違って
いないのです」と。 争いは、どの様な場合もそのようになって居
ります。
宗教で、その形を是と教義すれば争いの多い状況になるのは必然
です。 このキリスト教の教義は変えなければならないのです。
これから未来を受け継ぐ若い方たちのために、人類の未来のため
にも。
NHKは、昨年、義によって争う大河ドラマを日本中に放送し、洗脳
した。 『 正義だ、やってしまえ 』 的ドラマを。 この大切な
ことが分かって戴いているのか? 影響力の強い放送媒体だけに心が
痛む。 実に、この様な事例が多い局です。
☆非が全くないという事でないのに、すべて相手が悪いと相手側へ
すべて問題を転嫁し、なお且つ、良否判断の理性が全く入る事の出来
ない宗教教義に規定する。キリスト教教義「(キリスト教の)神の
義があるのだ、やってしまえ」をつくる。
紛争の地が展開され、その歴史が連綿と続く。
民は泣く。 キリスト者はその罪を知っているか?
自分の勝手な・独り善がりな「正義」に真っ向から対立するからと、
そして、独り善がりな・勝手な宗教教義で「邪悪」だと「 決め
つける 」。
「 そんな宗教 」は否。