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(増補版)410E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年3月)

2016-08-29 04:38:52 | 日記
題:(増補版)410E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年2月2日、静岡県下85ヶ村の借金等農民1500人が、伊
 豆銀行や金貸業者を襲撃した。
  1884年に、繭価暴落などで、借金に悩んだ秩父の農民
 が、困民党を結成などして、金貸し業者などを襲撃した
 が、その様な流れの中に、この騒動もあった。
  松方財政に端を発する事件があった。
  しかし、詳細は調べ得ない。
1885年2月7日、軍隊と行きあった場合は右側通行となる(
 右肩の鉄砲との衝突を避けるため)
  因みに、日本の沖縄県が、第二次世界大戦後にアメリ
 カ軍の統治下に置かれた時、車の左側通行を変更させら
 れていた(対面交通の向きを変えさせられていた)。
1885年2月7日、岩崎弥太郎が没した。
  郵便汽船三菱の創設者の岩崎彌太郎が52歳で死去し、
  後に、弟の彌之助が、第2代社長に就任し、三菱社を
 設立した。
1885年2月7日、閣議で、対清交渉方針を決定した。
  これまで積極的に関与することを留めていた日本は、
 この年より方針を変えた。
  日本と連絡を取り合う安駉壽(あんけいじゅ)の言葉、
  「改革希望派の人には、三々五々相集りて相談を為せ
 ども、之を発する勇気の乏きと、之を引率する統領なき
 に苦めり」
  「何卒此上は、外兵の余威を借りて内部の改革を行う
 より外に手段なきに付、貴国は今暫く其兵を駐留せしめ
 られんこと内心希望せり」
1885年2月9日、日本鉱業会が設立された。
  「鉱業ノ進歩改良ヲ謀リ併セテ鉱業上ノ知識ヲ交換ス
 ル」(創立時の規約第1条)
  この学会は、日本最初の学会で、鉱山業に関する科学・
 技術上の問題のほかに、製鉄・製鋼技術の問題も扱った。
  規約にも、「事業ノ改良発達ヲ期スル」とあった。
  後に、1914年、日本鉄鋼協会が設立された。
1885年2月20日、朝鮮国正使・徐相雨らが来日し、天皇陛下
 に国書を奉呈した。
  朝鮮は、1876年~1885年まで、6回の使節団/視察団を
 日本に送っていた。
  それは、公式であり、また、非公式であり、
  修信使、および、朝士として、多彩な人物が、明治維
 新後の日本の変化を探索しようとした。
  その朝鮮の使節は、日本の近代的文物や制度、そして、
 開港後の姿を使行録に詳しく記録した。
  近代化の受容を強いられた朝鮮事情、朝鮮のの対応を
 現していた。
  そして、この時の使行は、1885年2月5日~1885年4月3
 日までの旅程で、
  日本に留まった期間は1ヶ月と20日だった。
  第5次修信使という、この使節団の目的は、外交的交渉
 ではなく、漢城條約の条項であった「国書を持って日本
 に謝意を表明するため」新しく派遣されるという形で、
 全権大使の徐相雨に、欽差大臣という肩書きをもって出
 発させた。
  徐相雨、穆麟徳、朴戴陽以外にも、日本語通事、中国
 語通事、従人3名が同行し、
  正使と副使、そして、従事官の3使体裁を揃えた使節だ
 った。
  この正使と副使が、それぞれ 從二品の高官に任命され
 て国王の国書を奉呈するためだったという点では、
  修信使という名称を使わなかったとしても、以前の修
 信使行のような威容を誇っていたと言える。
  何よりも、彼らは、刻々と新しく生まれ変りつつある
 日本の現実を、実際に目にしたのだった。
  いわゆる文明開化であり、西洋化であり、機械化であ
 って、
  当時の修信使たちは、その社会と制度の変化一つ一つ
 に対し、目を見張った。
  (李孝庭氏の論文より抜書き構成した)
1885年2月20日、農商務省水産局を設置した。
  農商務省(のうしょうむしょう)は、1881年4月に設置
 された農林、商工行政を司った中央官庁だった。
  農林・水産・商業・工業・鉱業などの産業行政一切を
 担当した。
  明治政府は、日本産業の資本主義化を達成するため、
 殖産興業政策をその課題に掲げ、
  農商工の各分野で行政指導を進めた。
  欧米の機械制工場制度の移植や鉄道、電信の導入など
 を促進した工部省(1870設立)、
  農政を所管した内務省(1873創設)、
  さらに、大蔵省が、当時の産業振興の重要な部門であ
 った。
  工部省中心の移植産業政策と、内務省中心の在来農業
 の資本主義化政策は、1870年代に、めまぐるしい機構の
 改廃、統合を重ねる過程で、相互に補完しあいながら、
 資本主義育成策の重要な部分をなした。
  1885年の内閣制成立とともに、工部省が廃止されて、
 農商務省が、唯一の産業主務官庁となり、
  駅逓(えきてい)事業は、逓信省に分離した。
1885年2月24日、伊藤博文を、対清交渉全権大使に任命した。
  参議・伊藤博文を、特派全権大使として清国へ差遣(
 さけん、公の使者として派遣すること)する。
  西郷従道と井上馨が、これに従った。
  朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され
 た。
1885年2月24日、内務省が、国道表を告示した。
  本年一月太政官第壹號ヲ以テ國道之儀布達相成候ニ付
 該線路別表之通相定候條此旨告示候事
              内 務 卿伯爵・山縣有朋
  路線中前號路線ト相通用スヘキ者(例ヘハ第貳號東京
 ヨリ大坂港ニ達スル路線中其神奈川驛迄ハ第壹號東京ヨ
 リ橫濱港ニ達スル路線ト同線ナル如キ類)ハ之ヲ略シ其
 番號ヲ記ス(以下略)
  國道表
  壹號:東京ヨリ橫濱ニ達スル路線
  驛名:日本橋、管轄名:東京府、國名:武藏、
  驛名:品川、 管轄名:東京府、國名:武藏、(以下略)
  貳號:東京ヨリ大坂港ニ達スル路線
  驛名:神奈川、管轄名:神奈川縣、國名:武藏、
  驛名:保土ケ谷、管轄名:神奈川縣、國名:武藏、
                      (以下略)
  三號:東京ヨリ神戸港ニ達スル路線 (以下略)
  四號:東京ヨリ長崎港ニ達スル路線 (以下略)
  五號:東京ヨリ新潟港ニ達スル路線 (以下略)
  六號:東京ヨリ函館港ニ達スル路線 (以下略)
  二十六號:大坂府ト廣島鎭臺トヲ拘聯スル路線
  驛名:大坂、管轄名:大坂府、國名:攝津、
  驛名:尼崎、管轄名:兵庫縣、國名 攝津(以下略)
  四十四號:東京ヨリ沖繩縣ニ達スル路線
  驛名:山家、管轄名:福岡縣、國名:筑前、
  驛名:鹿兒島、管轄名:鹿兒島縣、國名:薩摩
  驛名:那覇、管轄名:沖繩縣、國名:琉球(以上)
1885年2月、硯友社(けんゆうしゃ)の結成
  大学予備門 (のちの第一高等学校) の学生・尾崎紅葉、
 山田美妙、石橋思案と、高等商業学校の丸山九華らの4人
 が、文学結社の「硯友社」を結成した。
  当時流行の政治小説に対し、芸術主義を標榜(ひょうぼ
 う、主義・主張などをはっきりと掲げ示すこと)した。
  そして、1885年5月に、機関誌『我楽多 (がらくた) 文
 庫』を発行した。
  巌谷小波(いわやさざなみ)、広津柳浪、川上眉山、泉
 鏡花、小栗風葉らが、前後して加わり、
  たちまち明治文壇の一大結社となり、明治20年代の文
 壇の主流となった。
1885年2月、麻疹が大流行する。
  麻疹(はしか)は、小児に多い発疹性(ほっしんせい)
 の急性感染症で、学校感染症の一つである。
  感染症予防法の5類感染症の一つ。
  厚生労働省のホームページには(抜書き構成した)・・、
  麻しんは、麻しんウイルスによって引き起こされる急
 性の全身感染症で、
  麻しんウイルスの感染経路は、空気感染、飛沫感染、
 接触感染で、その感染力は非常に強く・・、
  免疫を持っていない人が感染すると、ほぼ100%発症し、
 一度感染して発症すると、一生免疫が持続すると言われ
 ている。
  また、麻しんウイルスは、ヒトからヒトへ感染すると
 言われ・・、
  感染すると、約10日後に、発熱や咳、鼻水といった風
 邪のような症状が現れる。
  2~3日、熱が続いた後、39℃以上の高熱と発疹が出現
 して、肺炎、中耳炎を合併しやすく、患者1000人に1人の
 割合で脳炎が発症すると言われている。
  死亡割合も、先進国でも、1000人に1人と言われている。
  近年は、ワクチンの2回接種が行われ、麻しんに感染す
 る人数は減っている。
1885年3月1日、赤羽~品川間の鉄道開通(官私営鉄道の最
 初)
  品川線開通:日本鉄道の品川線(品川~新宿~赤羽間)
 が開通し、新橋~赤羽間直通旅客列車の運転を開始した。
  現在の山手線の前身。
  板橋駅、内藤新宿駅(現=新宿駅)、渋谷駅が開業。
  1887年に新宿駅に改称。
1885年3月9日、初めて電話機・電燈が輸入された(エジソ
 ンが電話機と白熱電燈26個を工部大学に寄贈)
1885年3月16日、福沢諭吉が、時事新報に「脱亜論」を発表
 した。
  初出:『時事新報』1885年3月16日
  内容:(前略)・・近代西洋文明がわが日本に入った
 のは、嘉永の開国を発端とする。
  国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだ
 いに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる老
 害の幕府というものがあり、これはいかんともできなか
 った。 
  幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくる
 ことができない。
  なぜかといえば近代文明は日本の旧体制と両立するも
 のではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡し
 てしまうからである。
  だからといって、文明をふせいてその侵入を止めよう
 とすれば、日本国の独立は維持できなかった。
  なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の
 眠りを許すものではなかったからだ。 
  ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を
 軽いとする大義に基づき、また、さいわいに神聖なる皇室
 の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立
 てた。
  政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近
 代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではな
 い。
  アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主
 義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。
  わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、
 国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移
 っている。
  しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那
 といい、一を朝鮮という。
  この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗
 に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないので
 ある。
  だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗
 教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものが
 あるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べ
 れば支那・韓国はよほど似ているのである。
  この二国の者たちは、自分の身の上についても、また
 自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。
  交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞き
 しないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすこと
 にならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、
 百千年の昔とおなじである。
  現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じ
 れば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智とい
 い、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際に
 おいては真理や原則をわきまえることがない。
  そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて
 残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たな
 い者のようだ。
  筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中
 にあっては、とても独立を維持する道はない。
  幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、
 われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を
 改めるとともに人心を一新するような活動があれば、そ
 れはまた別である。
  もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡
 国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されること
 は、一点の疑いもない。
  なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、
 支那・韓国の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれ
 を避けようとして室内に閉じこもり、空気の流通を遮断
 して、窒息しているからだ。
  「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えである
 が、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役に
 も立たない。
  のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理
 的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・
 韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえ
 るのだ。
  例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は
 信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国
 かと疑うだろう。
  支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなけれ
 ば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違
 いない。
  支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もそ
 の影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もま
 た無情と推量されるのだ。
  事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。
  喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、
 愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその
 町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、
 他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。
  その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害
 となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大
 不幸というべきである。
  そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣
 国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないの
 である。
  むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退を
 ともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だから
 と特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接
 するように処置すべきである。
  悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。
  筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものであ
 る。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教の大罪が、後々までも続いて行く事が
    悔しい。
.
2016年8月3日、リオ・オリンピック(ブラジルのリオデジ
 ャネイロ・オリンピック、~2016年8月21日)を見ている
 と、気になることがある。
  色々な方たちが頑張っている。
  日本の選手の方々も本当によく頑張った。
  選手の方々の一人一人に血のにじむ努力があり、ドラ
 マがあり・・、
  メダルをとれた人、残念だったがもう少しで手に届い
 た人、頑張ったが残念だった人などと・・、
  悔しくもある人、喜びの中にある人・・、
  そこにある色々な一人一人のドラマに涙した。
  色々な国々の若い選手たちが、頑張っている姿を見せ
 ている。
  色々な国々、色々な民族の方々、そのそれぞれに、美
 しいドラマが、やはり、あるのだろう。
  感動と涙があるのだろう。
  しかし、何か気になることがある。
  どうしても変だなと感じる事がある。
  あの民族の祭典と言われるオリンピックに、インディ
 オの方々が、また、インディアンの方々が・・、
  オリンピックという民族の祭典に・・、
  このインディオの方々や、インディアンの方々の姿が
 見かけられないのだ。
  スペイン・ポルトガル・イギリス・アメリカ合衆国・
 カナダ・オーストラリアに殺戮された民族・・、
  インディオの方々や、インディアンの方々などの民族
 の方々の姿が見られないのだ。
  イギリス・オーストラリアに殺戮されたアボリジニの
 方々の姿が見かけられないのだ。
  殺戮されなかったら、インディオの方々も、また、ア
 メリカ・インディアンの方々も、
  そして、アボリジニの方々も・・、
  このリオ・オリンピックに、他の民族の方々に交じっ
 て、感動のドラマを演じて居られただろう。
  そこにも感動のドラマや、感動の涙があったのだろう
 と思う。
  殺され、そして、少なくされた民族の、残された方々
 が・・、
  悔しさの中で、この民族の祭典・リオ・オリンピック
 を見ているのだろうと思う。
  キリスト教の教義に繰られ、洗脳され、マインド・コ
 ントロールされた「悪辣な者ども」によって、抹殺され
 た民族の、リオ・オリンピックに出場していただろう人々、
 出場していただろうなという影の姿・負の姿の民族の方々
 が、影の形で、負の形で見えて来る。
  また、残された民族の方々も、この様に見ているのだ
 ろうなという・・残され少数になってしまった民族の方々
 の姿も見えてくる。
  悔しさを噛みしめながら、無念の気持ちの中で、見て
 いる方々が居られる姿が見えて来る。
  今、残されて、少数になったインディオの方々や、イ
 ンディアンの方々などで・・、
  特に、若い方たちに、自殺が多い状態となっているこ
 とが悲しい。
  民族の行く末に、希望が持てなくなっているのだとい
 う。
  キリスト教の大罪が、後々までも続いて行く事が悔し
 い。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)409E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

2016-08-28 02:38:22 | 日記
題:(増補版)409E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年1月17日、羅馬字会(ろーまじかい)創立、第一回
 例会を開催した。
  矢田部良吉、外山正一らが、羅馬字会を創立した。
  漢字・仮名を廃して、ローマ字を国字に、との主張を
 かかげた。
  そして、この年に、ローマ字による日本語のつづり方
 「羅馬字にて日本語の書き方」を発表した。
1885年1月20日、秋田院内鉱山が、古河一兵衛へ払い下げ
 られた(詳細は前記を参照ください)
1885年1月25日、千葉医学校が開校した(現在の千葉大学)
  医学校(いがっこう)は、医師になるための学校、医
 師養成学校で、
  1883年の文部省の医学校通則では、公立医学校には甲
 種と、乙種の別が定められた。
  甲種には、宮城、秋田、千葉、新潟、石川県金沢、愛
 知、三重県甲種、京都府、大阪、神戸、岡山県、徳島、
 福岡、長崎、熊本の各医学校が認定された。
1885年1月25日、大山巌が、欧州の兵制視察を終えて帰朝し
 た。
  大山巌とともに、川上操六、桂太郎も帰国。
  この頃の、日本の軍制(ぐんせい、軍の維持・管理・
 運用などに関する諸制度の総称)を見ると・・、
  日本にドイツの軍制をもたらしたのはドイツ人だった。
  中でも、ドイツ陸軍参謀将校のヤーコプ・メッケル少
 佐だった。
  メッケルは、1885年3月~1888年まで、陸軍大学校の
 「お雇い教師」として中央政府に雇用された。
  そのため、その活動も当初、陸大での軍事教育が中心
 であった。
  メッケルの軍事教育は・・、
  陸大のような高等教育機関では、本来おこなわないは
 ずの「日本の操典(日本陸軍が作成した、各兵種の教育、
 および、戦闘についてのしっかりした拠り所となる書)
 の研究からはじめる」点で斬新であった。
  また、参謀旅行や図上戦術などを特徴とする点で実践
 的なものでもあった。
  しかし、1886年12月に、ドイツ陸軍師団参謀ブランケ
 ンブルクが来日した。
  このことで、時間の余裕ができた状況となったメッケ
 ルは、日本陸軍の軍制改革そのものについても、多様な
 提案を行なった。
  メッケルの提案によって、改正・改革された日本の軍
 制の例には・・、工兵隊の編成についてや、徴兵制度が
 ある。
  メッケルの提案の結果、「工兵隊編成改正」や、徴兵
 制度の条例改正(1889年の徴兵事務条例改正)が行なわ
 れた。
  そして、メッケルの提案によって、1873年以来の鎮台
 制度も改革された。
  (京都大学へ提出した布施将夫氏の論文を参考にした)
1885年1月26日、南条文雄が、はじめて東京大学で梵語を教
 えた。
  日本で、初めて、本格的にサンスクリットを教えたの
 は、
  1991年に、「博言学」の「お雇い教師」となったフロ
 ーレンツだった。
  そして、空海に限らず、サンスクリットを学習した日
 本人は、19世紀末以前にはいなかった。
  初めてサンスクリットに接した日本人は、1879年に、
 オックスフォードに学んだ南条文雄と笠原研寿だった。
  フローレンツは、ヴェーダ文献を始め、広くサンスク
 リット文献に通じていて、
  サンスクリット研究の導入者として、最も適任だった。
  それより数年前に(1885年/1887年)、南条文雄は、
 非常勤講師として東京大学でサンスクリットを教えたこ
 とがあるものの、扱うことができたのは仏教文献に限ら
 れていた。
  (桃山学院大学の報告で、小林信彦氏が、1989年、関
 西外国語大学の公開講演で配布されたものの抜書き)
1885年1月27日、ハワイへの第1回移民
  ハワイへ、第1回の約官移民団(927人)が、横浜港か
 ら出発した。
  日本からハワイへの移民は、1868年から行われていて、
  1902年には、サトウキビ労働者の70%が、日本人移民で
 占められるほどであった。
  1924年のアメリカ本土で成立する「排日移民法」成立
 まで、約22万人の日本人がハワイへ渡った。
  因みに・・、
  1881年3月、ハワイ王国の王様であるカラカウア1世が
 来日して、赤坂離宮で明治天皇陛下と会談をした。
  これは、結局は、ハワイの窮状を、日本に助けて戴き
 たいというものだった。
  カラカウア王の提案は・・
  (1)カラカウア王の姪で、王位継承者のカイウラニ王
    女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)
    との縁組をいたしたい。
  (2)日本・ハワイの合邦(日本とハワイが連邦状態に
    なりたい)。
  (3)日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設をし
    たい。
  (4)日本主導による「アジア連邦」の実現・・だった。
  このハワイ王国の危急存亡を救っていただきたいとい
 う提案は・・、
  アメリカ合衆国によるハワイ侵略が目に見えた形にあ
 ったからだった。
  そして、このハワイ王の提案は、よくヨーロッパでも
 行われていた王家存続の方法だった。
  そして、ハワイ人の人口も何故か急激に減少した。
  ハワイの方たちの減少をもくろんで、ハワイの方々(
 ハワイ人)には抵抗力のない病原菌が持ち込まれたとい
 う話もあった。
  その人口減の関連で、ハワイへの日本人移民策が推し
 進められる。
  1890年には、ハワイ総人口の40パーセントが日本移民
 という状態となっていた。
  1894年7月4日、ハワイ共和国が成立した。
  1895年1月、最後の王党派による大規模な武力蜂起が起
 きた。
  しかし、武力鎮圧された。
  1895年1月16日、リリウオカラニ(ハワイ王国の最後と
 なってしまった女王)は逮捕され、廃位された。
  この後、アメリカ移民の白人のサンフォード・ドール
 は、ハワイをアメリカ合衆国に併合する条約を作り、こ
 の条約が成立したときハワイ準州の初代知事に任命され
 た。
  1898年8月12日、アメリカ大統領ウィリアム・マッキン
 リーは、ハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言した。
  そして、イオラニ宮殿に掲げられていたハワイ王国の
 国旗は降ろされた。
  そして、星条旗が掲げられた。
  この時、古来のハワイ住民らは、悲しみの声を上げた。
  1899年、そして、その翌年、ハワイ王国の後継者であ
 るカイウラニ王女は、24歳という若さで病気で逝去され
 た。
1885年1月28日、発火しやすい黄リンマッチを禁止した。
1885年1月、広目屋(広告業)が、楽隊を雇って宣伝に用い
 ることを始めた(別の説もある)
  チンドン屋は、披露目屋・広目屋(ひろめや)・東西
 屋(とうざいや)などと呼んだ。
  1878年(明治11年)12月11日の『郵便報知新聞』見出
 しに「チンドン屋よろしく大道飴売」とあり、
  また、1889年(明治22年)10月6日の『東京日日新聞』
 見出しに、「条約改正論戦、チンドン屋総出の形」など
 に見られるように、
  チンドン屋は、明治の初期から存在した。
  しかし、用例が少なく確かではない。
1885年1月、田中智学(たなかちがく)が、立正安国会を設
 立した。
  田中智学は、宗教家で、東京に生まれた。
  町医者多田玄龍の3男。
  東京江戸川一之江妙覚寺で得度し、後に、僧籍を返還
 し、
  日蓮宗を脱して日蓮主義による宗教活動を提唱した。
  1880年、横浜で、蓮華会を結成し、在家仏教運動を開
 始した。
  1885年、東京に移って、立正安国会を創立した。
  日刊新聞『天業民報』を発行し、
  1914年に、門下の信仰団体を統一して、国柱会を設立
 した。
  名称は、日蓮の著『開目抄』にある「われ日本(にほん)
 の柱とならん」に由来する。
  法華経と国体との一体化を説いた。
  『法華経(ほけきょう)』を信行(しんぎょう)し、日
 本国体を開顕(かいけん)し、立正安国の真世界を目ざす
 ことにあり・・、
  在家仏教の立場から、仏教改革を提唱、実践した。
  その独自の日蓮主義は、高山樗牛(ちょぎゅう)らに影
 響をあたえ・・、
  伊勢丹(いせたん)創業者の初代小菅丹治(こすげたんじ)
 らも内外から教勢の発展に努めた。
  著名な会員に、石原莞爾(いしはらかんじ)、宮沢賢治
 らがいる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:人類救済のためにも・・無くさなければならない
   宗教となっている。
.
  キリスト教は、『有色人種の蔑視教義』で、長い歴史
 に渡って、有色人種を殺戮して来た。
  キリスト教聖書で、神が叫ぶ、「奴隷にせよ」・・と、
  奴隷に関するキリスト教の卑劣な教義も、キリスト教
 の聖書に書かれているが故に・・、
  記されたところが聖書ゆえに、人類の歴史にその奴隷
 制が、消えることなく続き、卑劣な行為が行われて来た。
  特に、アフリカの黒人の方々が、酷(ひど)い扱いを
 受けた。
  可哀想な人々であった・・、
  行為者は白人・・、
  キリスト教が洗脳した『肌の色の違い』で、悪行為が
 さも、正義の行為のように錯覚されて・・行われた・・
 そして・・
  アメリカに連れて行かれるその船倉で、その船底で、
  船倉が、赤道を越えて行く長旅である為・・、
  人間の生きていられる様な状況でないため・・環境で
 はないため・・、
  その様な劣悪な環境の中で、多くの黒人の方々は亡く
 なって行った。
  そして、生き残って・・行き着いたアメリカ合衆国で、
 長い長い期間、反省が行われるわけではなく・・家畜同
 然の扱いを受ける・・卑劣な扱いを受けた。
  また、キリスト教の卑劣な考え方・・、
  「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」
 という・・、
  キリスト教のこの考え方・教義で・・、
  何人の方々が。。正義だと言って殺され・・亡くなっ
 たというのであろうか?
  南米・中米・北米で・・、
  また、その離島で・・、
  多くのインディオの方々が・・、
  そして、インディアンの方々が・・、
  スペインのキリスト教徒、および、キリスト教の聖職
 者たちに・・、
  50年間にも渡る、また、長い期間に渡る殺戮で・・、
  1000万人もの方々が・・殺戮された。
  また、アメリカ合衆国で、インディアンの方々が・・、
  そして、カナダの地でも、インディアンの方々が・・、
  殺戮された。
  卑劣な有色人種の蔑視のキリスト教の教義・考え方・・
  この教義・考え方かから、この様な卑劣な行為がなさ
 れて来た。
  今・現在、キリスト教を説明する書物は・・、
  キリスト教が破たんに満ちていることを記している・・
  それらの、教義の崩壊の声に満ち満ちている。
  すべての書籍が、キリスト教が最終段階であるのを指
 摘している。
  そして、弱弱しく言う、「自分たちの肯定する歴史的
 な事実に基づこう」・・と・・、
  したがって、その歴史的な事実が覆(くつがえ)され
 れば・・、キリスト教のそのすべてが成り立たなくなる。
  キリスト教学者は、涙ぐましい努力をしている・・が、
  その努力は・・覆される結果となっている。
  そして、言う・・、
  「キリスト教徒は、自身の信仰の墓穴を掘る様な事が
 あるかもしれないが、客観的かつ冷静に行なおう」と・・、
  そして、また、言う・・、
  「過去にキリスト教研究者は、勇気を奮(ふる)い起
 こし、大胆に、(キリスト教を守る)防衛努力をした・・と、
  崩されたキリスト教の過去の栄光の歴史の立て直しの
 『防衛的努力』がなされた」・・と、
  崩される例が多いが、防衛努力をしたと、それをしよ
 うと言う・・、
  しかし、そのほとんどが、むなしい結果に終わった。
  19世紀のイギリスの神学者で枢機卿だったジョン・ヘ
 ンリー・ニューマンは、
  自分の研究結果が、あまりに無残なため、自分の研究
 結果である「理性の時代」を、
  神学校の学生を守るため(読ませられないため)(見
 せられないため)、その研究結果の書類を、金庫にしま
 って、鍵をかけてしまった・・という・・、
  今、キリスト教の史家や研究者は、そうする限界を認
 めている・・、
  (研究しても良い結果は得られない・・と)。
  そして、それは、同時に、それは、信じている宗教の
 破壊につながることも理解している・・と言っている・・、
.
  そして、次の話・・、
  イエスには弟たちが居たが、その一人・ヤコブが・・、
  原始キリスト教の信徒の中で揉(も)めていた事で、
 解決の為の意見を言った。
  これが、初めての教会会議だったと言う・・が、
  それは、『ユダヤ教の食事と性行為に関するいくつか
 は認めよう』となった、
  そして、『それを守ろう』となった。
  この事は、満場一致で皆の総意となった。
  この決定に、特に、アンティオキア派の信徒は、喜ん
 だ。
  パウロも認めた。
  これが、キリスト教の教会会議の『総意』の最初の記
 録となっている。
  この後の、キリスト教の最高会議であるローマ法王も
 出る公会議では・・、
  異論は「異端だ」とレッテルが張られ、死刑に処せら
 れ、そして、追放された。
  全教会一致の会議、整合一体化の神秘体の宗教と、意
 味不明な自画自讃がなされた。
  そして、説明ができなくなると「精霊」が出て来た。
  そして、「精霊が命ずる」となる。
  この様な決定の経過が辿られて「全教会一致の会議」
 の宗教となっている。
  こんな事だから、腹の底では納得していない。
  パウロでさえ『違う事』を伝えている。
  パウロも、腹の底では違う事を考えていたのだ・・、
  キリスト教の宗教の構造が、この様なものだから、あ
 ちこちで不一致にあふれるた・・、
  「全教会一致の強引な決定の美」がなされた・・、
  その「おまじない」の様な決定は、あちこちで、その
 ため逆に、不一致を生み出していた。
  パウロの行なった例の様に・・。
  今・現代になって、その不一致の結果が、修復できな
 い、収拾できない、混乱を収めることが出来ない事態と
 なって表れている。
  研究者や史家も、お手上げの状態となっている。
  そして、崩壊へ向かっていると研究者たちから言われ
 ている。
.
  そして、次の話・・、
  キリスト教徒で学者の田川健三氏は言う・・、
  「2000年の間、これだけ広まれば、悪い所もあるだろ
 う」・・と、尻をまくった言い方をする・・、
  その説明のはじめから・・完全に信じてはいない。
  「数多くの害悪も流してきた」・・と、胡散臭い(う
 さんくさい)所もある・・と言う。
  そして、「くだらない部分も大量にある」・・と、田
 川氏は言う。
  そして、氏は言う、「だが、せっかくだから、何か汲
 (く)み取りたいところを見つけたい」・・と、
  キリスト教は、この様な状態になっている。
  最後のあがき的な宗教となっている。
  キリスト教から、離れなさい・・、
  そして・・、
  人類救済のためにも、キリスト教は無くさなければ・・
 ならない。
..
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(増補版)408E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

2016-08-26 03:09:05 | 日記
題:(増補版)408E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、その他:
・往復ハガキ発売(1月)
・電信料金、全国均一制
  1870年(明治3年)6月、前島密によって建議され、
  1871年4月20日(明治4年3月1日)スタートし、
  当初、この事業部署は「駅逓司」といい、本拠は、現
 在の日本橋郵便局の位置で、搬送に郵便馬車が活躍した。
  業務の多角化、取扱量の増大、国際化の進展によって、
 郵便事業の重要性は、年ごとに高まって行った。
  1885年(明治18年)12月、電信電話事業も包含する「
 逓信省」が創設された。
  郵便局のシンボルマーク「〒」は、1887年(明治20年)
 に、逓信省全般の記章として制定した。
  〒は、逓信の頭文字のTとテをロゴ化したもの。
・国産の石盤ができる。
  石盤(せきばん)は、粘板岩などを薄い板に加工して
 木の枠をつけたもので、
  蠟石(ろうせき)、白墨などを用いて文字や絵をかき、
 学用品として用いられていた。
  ペン筆記用加工紙の、普及前の欧米で用いられていた
 石盤slateが、明治初年、日本に導入され、
  和紙が、手工芸品として比較的高価であったことと、
 唯一の筆記具であった毛筆が、低年齢児には取り扱いに
 くいことのために、
  小学校、幼稚園での初学用具として、広く用いられる
 ようになった。
・除虫菊栽培はじまる。
  この年、玉利喜造が、アメリカから除虫菊の種子を持
 ち帰り、それを東京・駒場の東京農林学校農場で栽培し
 たのが最初。
  アメリカでは、19世紀後半から大規模に栽培されるよ
 うになっていた。
  ピレトリンを抽出し、粉剤や液剤にして、農業害虫に
 たいしても使用した。
  (参照:農薬工業会ホームページより抜書き)
・東京感化院創立
  この年に、高瀬真卿(たかせしんけい)によって、日
 本最初の組織的な少年感化院が設立された。
  高瀬真卿は、明治~大正時代のジャーナリスト、社会
 事業家で、
  仙台で「東北毎日新聞」を発刊し、自由民権論をとな
 えた。
  東洋的な儒教精神と、それに基づいた家族制による感
 化が行なわれた。
1885年1月1日、往復はがき、初めて発行される。
  往復ハガキの通用が始まる。
1885年1月1日、東京日日新聞が、勢力挽回のため、我が国
 ではじめて、朝夕刊発行をはじめた。
  しかし、1年間、試みたが形勢は変わらなかった。
  無休刊制も導入した。
  この新聞は、毎日新聞(東京)の前身で、1872年2月21
 日に、創刊された日刊紙。
  江藤新平らが後援した。
  1874年末に入社した福地桜痴(おうち)が、社説欄を
 創設し、政府御用新聞としての立場を鮮明に打ち出し、
  自由民権派の政論新聞に対抗して健筆をふるった。
  1911年(明治44年)に、大阪毎日新聞に買収された。
1885年1月6日、国道の等級を廃止し、幅7間以上を国道と
 定めた。
  以下は、明治18年(1885年)の国道と現在の国道の例
 (路線名)1号、(明治18年当時の区間)日本橋~横浜港
        (現在の起終点)東京都中央区~大阪市
 (路線名)2号     日本橋~大阪港(横浜までは1号)
        (現在の起終点)大阪市~北九州市
 (路線名)3号     日本橋~神戸港(大阪までは2号)
        (現在の起終点)北九州市~鹿児島市
 (路線名)9号     日本橋~伊勢皇太神宮
        (現在の起終点)京都市~下関市
 (路線名)11号     日本橋~熊本鎮台
        (現在の起終点)徳島市~松山市
 (路線名)44号     日本橋~沖縄県(那覇)
        (現在の起終点)釧路市~根室市
         (参照:国土交通省ホームページ)
1885年1月6日、東京の万世橋際に駅逓局東京貯金預所が新
 設された。
  この年の郵便の特記すべき事柄は・・、
  ・電信為替・郵便小為替が創設される。
  ・日本郵船会社に郵便物の逓送が委託される。
  ・汽車郵便逓送規則が制定される。  
  ・逓信省が創設され,初代逓信大臣として榎本武揚が
   選ばれる。 
  そして・・、
  この年・1875年(明治8年)5月、日本の郵便貯金制度
 が始まった。
  前島密が、イギリス滞在中に、郵便貯金が国民の生活
 や国家の発展に大きな役割を果たしているのを見て、
  日本でも取り入れることにした。
  創業時は、「郵便貯金」ではなく、単に「貯金」と呼
 ばれた。
  1880年(明治13年)、民間銀行との混乱を避けるため
 「駅逓局貯金」という名称に改め、
  1887年(明治20年)以降に、「郵便貯金」になった。
  郵便貯金制度の開始に当たり、最初の郵便貯金通帳が
 作られ、
  当時の名称は、「貯金預渡通帳」だったが、
  1885年(明治18年)に、「駅逓貯金通帳」に改めた。
  そして、1889年(明治22年)、「郵便貯金通帳」とい
 う名称になった。
  (郵政博物館ホームページより抜書き)
1885年1月9日、甲申事變善後約定(1月7日説あり)
  井上馨・全権公使、甲申事変に関する漢城条約締結。
  特命全権大使・井上馨、韓国全権大臣・金宏集と談判、
 朝鮮王国と甲申事変に関する漢城条約に調印。
  我要求五事を約す。
  交渉は、互いの主張があり、平行線を辿った、全権大
 使の井上馨は、すみやかに両国関係を修復する事が、第
 一義(だいいちぎ、最も大切な根本的な意義)で大切だ
 として、打開すべく、明らかな被害・日本側の被害に関
 する事のみにして(他を棚上げして)解決を見た。
  第一款:朝鮮国は、国書をもって日本国に謝罪を表明
     すること。
  第二款:日本国民の被害者遺族並びに負傷者に対する
     見舞金、及び暴徒に略奪された商人の貨物の補
     填として、朝鮮国より11万円を支給すること。
  第三款:磯林大尉を殺害した犯人を捜査・逮捕し、正
     しく処罰すること。
  第四款:日本公使館を再建する必要があるので、朝鮮
     国が代替の土地と建物を交付しそれに充てるこ
     と。
     また、修繕・改築費用として、朝鮮国は2万円を
     支給し、工費に充てること。
  (朝鮮側が減額を望んだので、井上馨は、その意を汲
  んで、既存の建物を改修して用いるという修正案に改
  めた)。
  第五款:公使館護衛兵用の兵営は、新しい公使館に相
     応しい場所に移動し、その建設と修繕は、済物
     浦条約第五款の通り朝鮮政府が施行すること。
1885年1月10日、朝鮮国との交渉を行っていた井上馨帰国。
  金宏集朝鮮全権が、井上馨に、亡命した金玉均らの引
 き渡しを要求した。
  金玉均は、日本の明治維新を模範としたいとして、
  また、清朝(中国)からの独立をしたいとした。
  そして、朝鮮の近代化を目指したいとした。
  1883年には、借款交渉のため日本へ渡り、
  翌年・1884年4月に、帰国。
  清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始した
 のを好機と見て、
  1884年12月に、日本公使・竹添進一郎の協力も得て、
 閔氏政権打倒の甲申事変を起こした。
  しかし、清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終わ
 った。
  井上角五郎らが助けて、日本に亡命した。
  日本亡命中には、岩田秋作と名乗っていた。
1885年1月11日、井上馨が、金玉均らの朝鮮引き渡しを拒否
 した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHK・・ひたすら日本を悪く言い続ける
    (国を売る放送局)
.
  キリスト教に偏するNHKの元職員・池上彰は・・、
  アメリカの原爆投下について、今ではアメリカのプロパ
 ガンダの嘘話とはっきりなっていることを、今・現時点
 でも、その嘘を言い続けている。
  「日本を売る話」を、そして、「日本を悪く言う嘘の
 話」を、
  さも、テレビ解説だと・・真実そうにみえるやり方で
 言っている。
  その様な行為は・・NHKも、同じやり方で「日本を
 売り」「日本を悪く言っている」。
  NHKの元職員・池上彰は、このNHKの行動に洗脳
 され、マインド・コントロールされている。
  NHKの、最も悪い所は、「嘘と、屁理屈で、ひたす
 ら日本だけの悪い所を言い続けること」だ、
  ひねくれた言い方で、公平な言い方はしていない。
  公正で、公平であるべき放送局が、そうではない。
  日本の公共放送で、日本の放送局の模範となるべき放
 送局なのに・・そうではない。
  NHKは、あまりに大きな放送媒体であるので・・、
 「自制が効かない」、
  また、その大きさから、自分の身を顧(かえり)みる
 事ができない。
  そして、「これでいいのだという・・増上慢に陥(お
 ちい)っている」。
  NHKは、競争状態に置くべきだ。
  無競争の状態で、のほほんと、また、高給を貪(むさ
 ぼ)っている・・、
  そのため・・甘い職場になっている。
  例えば、東地区と西地区に分割し、「東NHK(HN
 HK)」と「西NHK(NNHK)」とに分割すべきだ。
  切磋琢磨する形態に・・分離すべきだ。
  NHKの酷い事例の1例・・、
  その言い方があまりにも屁理屈で、酷い・・
  広島や、長崎に原爆が落ちたのは『自業自得だ』的に
 言う。
  元NHK職員の池上彰は・・「ハワイの真珠湾攻撃を
 したからだ」と言ったが・・、
  NHKは、「日本が先に中国の無差別爆撃をしたから
 だ」と言った。
  NHKという放送局は、よく「中国へのごますり放送」
 をするが・・、
  この時、NHKは、原爆が投下されたのは、中国の爆
 撃をしたからだと・・放送で言った。
  NHKは、さも、アメリカによる「東京大空襲の無差
 別爆撃」も・・、
  「大阪の無差別爆撃」も・・、
  「日本の各地の都市の無差別爆撃」も・・、
  皆、この中国のこの爆撃行為が原因だ・・のような言
 い方である。
  まず、規模が格段に違うではないか?
  日本の爆撃は、些細な爆撃であったのだ・・、
  NHKの言い方は・・例えば・・さも、グレタあんち
 ゃんが、「お前が、先に手を出した」「俺につっかかっ
 た」から、「刺したんだ」と言うがごときである。
  些細なことを、言いがかりにして、大罪の言い訳にす
 るという不合理さをである。
  大のNHKが、常識がありそうなNHKが、この様な
 屁理屈論理で・・放送をしている。
  まったく、馬鹿々々しい公共放送である。
  こんな言い方が、世の中で通るのなら、世の中が、ま
 ったく恐ろしい世の中になってしまう。
  些細なことで、簡単に人が傷つけられてしまう。
  NHKは、世の中に、『こんな風潮をばらまいている』。
  こんな簡単な論理が解らないで、NHKは、マスメデ
 ィアを繰り・・、
  そして、大きな放送媒体を利用する、利用できるとい
 う立場にいる。
  常識が、まったく無い輩に、分からない輩に、大きな
 影響力を持たせているという状態になっている。
  無分別(むふんべつ、思慮がなく軽率なこと)な輩に、
 人類の文明の利器を与えていると・・言える。
  NHKも、巨大な放送媒体を使って、超強力な影響力
 のある放送をしているという自制心、自制の念を持て。
  軽薄な、今のNHKは、些細なことで人を殺すような
 論理と同じ論理を振り撒いている。
  NHKは、この様な放送をする前に、爆撃というもの
 を少しは勉強したのだろうか?
  既に、スペイン戦争で、空爆で、嫌と言うほど爆弾投
 下したのが、1936年~1939年・・NHK、知っていまし
 たか?。
  NHKが言う、日本の『重慶爆撃』は、1938年12月4日~
 1943年8月23日で、そのスペイン戦争の8年も後の事であ
 る・・知っていましたか? NHK!。
  完全に、スペイン戦争の方が早い。
  中国に落とした僅かな爆弾が・・どういう理由で、原
 爆になり、アメリカが、日本に落とす事になるのだ・・
 NHKよ!はっきり説明して戴きたい。
  何故?このスペインに落とさなかったのだ・・NHK
 よ!説明しなさい。
  空爆の行為は、1914年から始まった第一次世界大戦で
 も、既に、行なわれていた・・知っていたか?、NHK!。
  また、1849年には、オーストリア帝国が、ベニスを気
 球で爆撃している。
  これには、原爆を落とす罪ではないのですか? NH
 K!
  1871年には、フランス政府が、パリコミューンに爆撃
 している・・どうです? NHK!
  1911年には、イタリア軍が、飛行機からトルコに手り
 ゅう弾を投下している。
  1912年~1913年に、バルカン戦争で、22ポンド爆弾を
 開発して、盛んに都市爆撃をしている。
  1914年の第一次世界大戦では、ドイツが、パリ爆撃を
 し、
  1915年は、飛行船で、
  1917年に、イギリス本土爆撃を、
  そして、イギリス・フランスも、その報復爆撃を、1915
 年後半には、戦闘機・爆撃機と別れて盛んに爆撃してい
 る。
  日本は、1914年9月の青島の戦いで、海軍のモーリスフ
 ァルマン式飛行機の4機で、青島市街が最初。
  この飛行機は、ライト兄弟の飛行機の様な飛行機で、
 爆撃したなんて言えないくらい。
  そして、この戦いは、第一次世界大戦であるので、こ
 の後、ドイツ戦艦に対して実施した。
  命中しなかったという。
  心理効果を狙ったという。
  くだらない論理を言って、屁理屈を言って、NHKは、
 日本国民へ下らない放送をして、日本の国を貶(おとし)
 めている。
..
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(増補版)407E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

2016-08-23 05:01:58 | 日記
題:(増補版)407E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、演劇:
・黙阿弥 「水天宮利生深川」千歳座で初演 (2月)
  水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)歌
 舞伎狂言が、1885年2月、東京の千歳座で、5世尾上菊五
 郎が初演した。
  明治維新による幕藩体制の瓦解を背景に、気が狂うほ
 どに生活に窮する士族・船津幸兵衛の悲劇を描いたもの。
  千歳座が開場するのに際して・・、
  近くにある水天宮の利益(りやく)を利かせ、
  作者・河竹黙阿弥が、実際に見た明治維新後の社会的
 悲劇を取り込んで、書き下ろした。
  旧幕臣の士族が、扶持(ふち)を失い、生活に窮し、
 妻に死に別れ、残された盲目の娘を頭に、赤子もいる子
 供たち3人を抱え、苦労しながら生計をたてる・・が、
  金貸しにも責められ、錯乱して川に身を投じる・・が
 ・・、
  作者の実見の光景を描写したので、世相を良く映し出
 し、評判となった。
1885年、発明:
・ベンツ(ドイツ)が、ガソリン自動車を発明した。
  ベンツと言ってもメルセデス・ベンツ社ではなく、ダ
 イムラー社のこと。
  困難な課題をすべてクリアし、ベンツは、ガソリンエ
 ンジンで走る三輪自動車「パテント・モートルヴァーゲ
 ン」を作り上げた。
  1885年に、試運転に成功し、
  1886年に、特許が認められ、
  これによって、ベンツは、世界初のガソリン自動車を
 造ったエンジニアとなった。
・丸善、万年筆を輸入、和製もできる(1884年説あり)
  丸善雄松堂株式会社のホームページに・・
  万年筆は、明治17年(1884年)、丸善が初めて輸入
 販売を開始。
  「カウスのスタイログラフィックペン」というもので、
 軸先に針が少しのぞいていて、
  紙に軸先をつけると針が引っ込み、周りからインキが
 流れ出るというものだった。
  当時の売り場担当者だった金沢井吉が、それに惚れ込
 み、彼の通称が「万吉」であったことから、
  スタイログラフィックペンのことを「万吉筆」、また
 は「万さんの筆」と呼ぶようになり、
  いつしか「万年筆」になったという説があるという。
  ちなみに、現在のような「Fountain pen(泉式)」を
 輸入したのは、1895年(明治28年)、米国製ウォーター
 マン万年筆でした・・とある。
・浅草でゴム印を作るのに成功。
  新聞に、浅草で製造されていたゴム印の紹介記事が載
 った。
  それまでは、ツゲ(黄楊)印や石印に印肉をつけて捺
 印していた。
  そして、その新聞の広告記事は・・
  「軽くていいと、有名な書家、画家から注文あり」(
 京浜毎日新聞)
・筆の軸にインキを入れる、字を書く道具を作った者あり。
 売れるかな(京浜毎日新聞)
1885年、医・衛生:
・パスツールが、狂犬病ワクチンを完成した。
  パスツールは、ワクチン療法の創始者だった。
  病原体を弱毒化する方法を開発し、ワクチンの製法を
 確立した。
  しかし、その結果を得るまでに、パスツールには研究
 の蓄積があった。
  1848年(26歳)結晶に関する論文を発表。
      酒石酸塩で立体異性体を発見。
  1856年(34歳)アルコール製造業者の依頼で、発酵の
     研究を始めた。
      アルコールを作らず、すっぱくなる液に微生
     物=乳酸菌がいることを発見した。
      さらに、細菌の培養法を開発した。
      低温殺菌法(1865年)を考案した。
  1860年(38歳)自然発生説を否定する実験結果を発表
     した。
  1870年(48歳)カイコの病気についての研究する。
  1876年(54歳)ビールに関する研究。
      ローベルト・コッホが炭そ病の病原菌を発見。  
  1879年(57歳)ニワトリコレラ菌の研究から弱毒性の
     病原体で免疫ができることを発見した。
  1880年(58歳)狂犬病の研究を始めた。
  1885年(63歳)7月6日、狂犬病にかまれたメイステル
     少年が来た。
      パスツールは初めて人間に狂犬病のワクチン
     を注射した。
      メイステルは回復した。
      世界中から狂犬病の患者が押し寄せた。
・長崎に於いて、1885年、コレラ流行後、下水道の大溝を
 改築し、中小溝・下水路の改修が行なわれた。
  また、大阪に於いて・・、
  大阪市の井戸の水質は、上町台地周辺を除き全体に悪
 く、
  1893年~1894年(明治26年~27年)に、元大阪市飲水
 試験所が調査した全市の井戸38707 の内飲料適は、僅か、
 1838にすぎず、
  多くの市民は、天満橋上流で採取した水を、簡単な濾
 過器を備えた濾水船で処理し、市内で販売された水を利
 用した。
  1879年(明治12年)頃のコレラの流行後、河川の飲用
 が禁止され、天満橋上流の河川水のみが許可され、
  1887年(明治20年)頃には、濾過河川のみが許可され
 た。
・萩野吟子(ぎんこ)が、女医となる(3月)
  1885年(明治18年)3月、後期試験を受験し合格。
  同年・1885年5月、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」
 を開業。
  34歳にして、近代日本初の公許女医となる。
・全国的に麻疹(はしか)が流行し、東京では、芝居の子
 役不足となる。
  1885年3月に出版された「脱亜論」の一節に、以下の文
 がある・・、
  文明ハ猶麻疹ノ流行ノ如シ目下東京ノ麻疹ハ西國長崎
 ノ地方ヨリ東漸シテ春暖ト共ニ次第ニ蔓延スル者ノ如シ
 此時ニ當リ此流行病ノ害ヲ惡テ之ヲ防カントスルモ果シ
 テ其手段アル可キヤ我輩斷ジテ其術ナキヲ證ス
  (目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、
 春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。
  この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするに
 しても、果してその手段はあるだろうか? 
  筆者はその手段は断じてないことを保証する)
  因みに、脱亜論は、新聞『時事新報』紙上に、1885年
 (明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説。
  福澤諭吉が執筆したと考えられるようになった。
・南北戦争で負傷したペンバートンがモルヒネ中毒になる。
  ジョン・ペンバートンは、南部連合国軍人で、アメリ
 カ合衆国の薬剤師、コカ・コーラの発明者として有名。
・西道仙が長崎医会を創設(1884年10月31日説あり)。
  医会会長に長崎医学校の吉田健康、副会長に漢方医の
 西道仙。
1885年、科学:
・ウインクラーが、新元素を発見した。
 母国ドイツ(ゲルマン)にちなんでゲルマニウムと命名
 した。
  ゲルマニウムは、アルジロダイトから化学的に分離さ
 れた成分で、
  1885年、「新鉱物」として注目されていたアルジロダ
 イトだった。
  化学分析の結果が「銀:73~75%」「硫黄が17~18%」
 と、 成分の合計がどうしても100%にならなかった。
  ウインクラーは、「揮発して無くなってしまうような
 未知の元素があるはずだ」と考えた。
  アルジロダイトを熱して、空気中に揮発してくる物質
 を集め、そして、新元素を分離することに成功した。
  ゲルマニウムは、その性質から、エレクトロニクスの
 発展には、無くてはならない元素だった。
1885年、災害・防災:
・横浜市で日本で最初の消火栓を設置した。
  横浜市の水道は、わが国最初の近代水道で・・、
  横浜のような港湾都市にとっては、船舶への給水とい
 う機能の上で不可欠なものであった。
  海に接し、真水が得られる井戸の少ない横浜に、
  開港場を整備しようとすれば、水の確保は重要な課題
 だった。
  最初の配水地域は、市中心部のみで、街頭に設置した
 十数軒が共用する獅子頭を持つイギリス製共用栓を用い
 て配水した。
  給水開始時の共用栓数は143基、
  他に、消火栓を629基設置した。
  共用栓は、最盛期には、600基が、横浜市内各所に設置
 された。
  当時の日本では、日常の水には、井戸水を利用する場
 合が多く、
  水道を引くという考えは一般的ではなく、
  また、屋内に蛇口を引くという習慣もなかった。
  そのため、水道の水は、路頭の共用栓(獅子頭共用栓)
 から供給を行っていた。
  日本最初の近代水道となった横浜水道は、1885年~1887
 年(明治18年~20年)が創設期だった。
  創設期の600基は、イギリス・グレンフィールド社から
 輸入された。
  (タイムスリップよこはま)より抜書き
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカが、日本に先制攻撃した・・などを、
   もう一度、その概略を説明すると・・、
.
  キリスト教に偏するNHKの元職員・池上彰は、オバ
 マ大統領が広島に来て謝罪したとき、
  その翌日に、「緊急テレビ解説だ」と称して、テレビ
 に出て、、解説風に発言をした。
  「広島・長崎に原爆が投下されたのは、真珠湾の奇襲
 攻撃をしたからだ」・・と、
  卑劣にも、これは、アメリカがデッチ上げた嘘の話を
 そのまま鵜呑みにしている。
  何も知らない日本の方々へ「嘘発言している」。
  さも正しいように、池上彰は、解説と称して、この様
 に発言した。
  さも正しいように錯覚させて、発言した。
  池上彰は、まだ、今になっても、アメリカのデッチ上
 げの嘘話を、既にそうではないとはっきりしていること
 を、自分の勉強不足を・・、時代遅れの事を、わざわざ
 テレビに出て、言った。
  アメリカの代弁者の様に・・、
  ゴマすり代弁を、国民の電波を使って、オバマ大統領
 の広島訪問の翌日に、緊急だと称して言った。
  このアメリカのデッチアゲ話が、嘘話だという事は、
 数々の歴史の検証から、日本の奇襲ではないと、
  日本の奇襲とは認められないとされている。
  東京裁判でさえ、『奇襲だとしていない』。
  奇襲ではなく、「単なる事務上の遅れだ」と判決して
 いる。
  デーブ・スペクター氏の発言、「知識のある人、深い
 本を読むアメリカ人は分かっている」と言っている。
  また、氏は、「アメリカは、(嘘の話をし続けて)神
 話を作ろうとしている」と言っている。
  また、この時、日本の潜水艦は、日本の連合艦隊より
 先行して、真珠湾に侵入して行った。
  その日本の先行していた潜水艦を、アメリカの駆逐艦
 が発見して、そのアメリカの駆逐艦は、日本の潜水艦を
 攻撃している、先制攻撃をしている。
  日本の潜水艦は、数隻、先行していたが、そのすべて
 が、未帰還になっている。
  その日本の数隻の潜水艦を、アメリカは先に攻撃して
 いる。
  このアメリカの駆逐艦に攻撃された日本の潜水艦は、
 当然、この時にやられて、未帰還となった。
  そして、油などが海上に浮き上がり、判別可能状態に
 なった。
  また、このアメリカ駆逐艦の様な戦闘艦は、ただ攻撃
 して「はい、終わりました」と去る訳ではない。
  戦闘終了したと、終わったと、子供の喧嘩の様に直ぐ
 に去る事はしない。
  攻撃は、「効を奏したのか?」「その攻撃効果はどの
 程度相手にダメージを与えたか?」などを、留まって確
 認する。
  だから、この様に、戦雲極まる時には、特に、日本と
 の一戦が触発されそうな時は、特に、
  その様なときに、「ぼけっ」となんかしている訳は絶
 対にない。
  警戒して航行し、臨戦態勢をとっている。
  アメリカのその任務にあたる駆逐艦が、戦闘艦が、攻
 撃効果を確かめようとしているとき、今、攻撃したのは
 日本以外の船と思うか? 思う訳がない。
  また、めったやたらに、花火を打ち上げる様に、攻撃
 をする訳もない。
  ちゃんと、攻撃対象を認知し、計測し、攻撃対象物の
 位置、種類を認知して、効果のある攻撃をする。
  攻撃後の確認もする。
  そして、それらの結果を基地へ連絡・報告する。
  「こちら○○、△△の位置にて、日本の潜水艦を攻撃
 せり、
  油などの浮上から、攻撃効果、大なるものと判断され
 る」・・と。
  基地は、当然、ペンタゴンへ連絡・報告し、ペンタゴ
 ンは、アメリカ政府機関へ連絡・報告し、
  そして、当然、アメリカの最高機関・大統領ルーズベ
 ルトへも連絡・報告される。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、この時、日本と戦
 争する事を画策していた。
  この事は、新たな資料から明らかとなっているが、そ
 して、日本の奇襲をデッチアゲテ、アメリカ国民の方々
 の世論を変えたいと思っていた。
  「戦争をしない」というアメリカ世論を変えたいと思
 っていた、その為にも、「日本の奇襲をでっちあげたい」
 と思っていたところだった・・、
  この日本の先行した潜水艦は、アメリカの駆逐艦が攻
 撃し、アメリカのこの攻撃によって、日米が開戦状態に
 なった事にはしたくなかった・・当然、
  そのため、このアメリカ駆逐艦の攻撃は、「クジラだ
 った」となった。
  まったく、馬鹿々々しい話である。
  未帰還の『すべて』の日本の潜水艦は、クジラだった
 とされた・・?・・呆(あき)れた話となった・・、
  バカも休み休み言えと言いたい。
  鋼鉄の潜水艦が、肉と脂肪のクジラと間違う訳がない。
  事前に探索し、探査し、攻撃の必要を判断する。
  それを、クジラだとした。
  日本の漁師の魚群探知機だって、魚の種類まで分かる
 のだ・・船とクジラの見分けがつかない訳がない。
  それも、玄人(くろうと)の軍人が乗艦している軍艦
 が・・?
  日本の潜水艦は、何隻もが未帰還なのだが、交戦状態
 もあった訳だが、アメリカはクジラにした。
  そして、秘密にした。
  この時、アメリカは、日本の領土だった千島列島から、
 日本の連合艦隊が、ハワイへ向けて発進していたことを
 検知していた。
  一戦触発の時に、敵となろう相手の最大戦力に無関心
 である訳はなく。
  アメリカは、日本の最大戦力の連合艦隊の行動に、最
 大の関心を示していた、当然に・・、
  そして、把握していた。
  日本の艦隊の通信を完全に傍受し、その艦隊の位置を、
 逐一、その変わる位置を掴んでいた。
  奇襲だなんて、でっち上げるのは赤子の手をひねるが
 如くの嘘の話だ。
  日本だって、アメリアの最大の戦力の動向を掴んでい
 た。
  だから、ハワイへ向かったのだ。
  今、ハワイに集結している・・と。
  また、アメリカは、日本がハワイに攻めて来ることを
 事前に予想して、事前に、対策・対抗の演習をしている。
  だから、日本は、ハワイにおびき出されたとも言える。
  肝心の空母のすべてを、アメリカは隠していた。
  日本の戦果の中に空母は一隻もない。
  だから・・、ただ、ぼけっと、攻められた・・奇襲だ
 った・・などとなる訳はない。
  奇襲だなんて話は・・まったく、ばかげた話なのであ
 る。
  日本は、ハワイにおびき出された。
  また、アメリカは、中国で飛行機で日本を攻撃してい
 る。
  中国で、アメリカは、日本を先制攻撃をしている。
  これこそ、アメリカの奇襲攻撃である。
  日本が、「アメリカに奇襲攻撃された」と言えるのだ。
  そして、これが日米開戦となったのだった。
  あまり、知られてないが。
  まだまだ、日米開戦の初めは、真珠湾ではないという
 史実がまだまだある。
  アメリカは、アメリカ国民の方々が、戦争をしてはな
 らないという意見だった、世論だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、「戦争を作った」
 と自分の思惑を吐露し、しゃべったように、
  このアメリカ国民の方々のこの世論を、変えなければ
 と、卑劣にも変えたいと考えた。
  そして、日本が悪者にされた。
  ヨーロッパは、ドイツがほぼ制圧し、イギリスに上陸
 する気配があった。
  そんな時でも、アメリカ国民の方々は、戦争はいけな
 い、戦争をしてはいけないとなっていた。
  そこで、日本を悪者にして、アメリカ国民の方々の正
 義感を使おうと、悪の計略(けいりゃく、相手をだまそ
 うとするたくらみ)を、ルーズベルトは巡らせた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)406E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

2016-08-22 04:51:11 | 日記
題:(増補版)406E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、報道:
・アングロ・ジャパニーズ・エヴィユ(9月27日)
 日本人が編集した最初の英字新聞。
 大阪で発行された。
1885年、論・文学・本:
・福澤諭吉 「日本婦人論.後編」
  封建的観念からの人民の解放は、福沢生涯の宿願であ
 った・・が、
  日本の家庭に於ける、婦人の地位は、旧態依然たるも
 のがあったので、
  これが、解放のために立論したものが「日本婦人論」
 であった。
  明治十八年六月四日から十二日まで、八回にわたり時
 事新報社説として発表せられた。
  われわれは、この論説の単行本を未だ目挙したことは
 ない。
  明治三十一年、福沢生前に刊行された五巻本「福沢全
 集」の第五巻には、「日本婦人論後編」の前に収められ、
 大正十五年版「福沢全集」第六巻にも、後編と併せて収
 められ、
  そのときには、「明治十八年七月発免」と記されてい
 るが、これは果して何に拠って斯く記したものか明らか
 でない。
  当時の時事新報広告などによって、われわれの探索し
 た限りでは、「日本婦人論」が、単行本として刊行され
 た証跡は見当らない。
  しかし、福沢の残後、年月を経るに従って、次第に福
 沢の婦人解放論の代表的著作と目され、
  いろいろの形で、他の婦人解放論と併せて複刻出版さ
 れるに至った。
 「日本婦人論後編」は、明治十八年七月七日から十七日
 まで十回にわたって時事新報社説として発表せられた。
  この頃の社説は、すべて漢字片仮名まじりのやや固い
 文章で綴られるのが常であったが、
  この後編に限り、平仮名まじりの平易な文体で婦人に
 読み易いようにと配慮が加えられた。
  この後編は、その翌月に、四六版洋紙活字版の小冊子
 として刊行せられた。
 紅洋紙の薄い表紙で、「福沢諭吉立案/中上川彦次郎筆
 記/ 日本婦人論後編全一冊/明治十八年八月出版」の文
 字を飾り枠で囲ってある。
  序言二頁、本文六十三頁、奥附一頁、巻末に広告四頁
 を附けている。
  奥附には「明治十八年七月十五日出版/同年同月出版/
 定価金十七銭/抜萃兼出版人大分県士族石川半次郎東京
 日本橋区通三丁目十一番地寄留」と記し、その左側に売
 捌所書店名が列記してある。
  奥附の署名人石川半次郎は当時の時事新報発行名義人
 で、その寄留先は時事新報社の所在地である。
  巻末の広告頁は黄色の紙を用い、第一頁が時事新報の
 広告、二頁以下が発免書目録で、慶応義塾出版社および
 時事新報社の出版書目を掲げ、発売所として時事新報社
 と中近堂との名を併記してある。
  (日本婦人論. 後編 - Keio Universityより)
・田口卯吉 「日本開化之性質」 (9月)
  田口卯吉は、明治の経世家(けいせいか、経世の論を
 説いた知識人)。
  福沢諭吉と並び称せられた啓蒙思想家。
  号は鼎軒。黄東山樵・畠山機知・田口十内・牛嶺逸士
 のペンネームをもつ。
  経済学者・歴史家であるほか雑誌主宰者・史料編纂者・
 政治家・実業家でもあり、その活動領域は多彩である。
  学者であると同時に実践家でもあり、森鴎外からは、
 西洋と東洋に通じた「二本足の学者」と敬称された。
  江戸生れ。佐藤一斎の曾孫。下級幕臣の子で、しかも
 幼年で母子家庭となり、
  明治以降、ひどい困苦流浪生活の中で英学・医学を学
 んだ。
  1872年(明治5年)大蔵省翻訳局上等生徒となり、
  1874年、同省紙幣寮に出仕、
  1878年、退官する。
  在職中は、英書翻訳のかたわら経済学や開化史を修得
 しつつ、著述や新聞投書で保護貿易政策を批判した。
  1878年、「自由交易日本経済論」を刊行し、経済自由
 主義を唱えた。
  この主張は、1879年創刊の「東京経済雑誌」上で精力
 的に展開された。
  1877年~1882年に、「日本開化小史」を出版し、一躍
 文名を顕す」(日本思想史辞典[2009:624])
・有賀長雄 「文學論」
  有賀長雄(あるがながお)は、明治・大正期の国際法
 学者、外交政治史家、社会学者、陸軍大学校教授、早稲
 田大学教授。
  1913年(大正2年)、袁世凱に招かれて渡中、大総統法
 律顧問として清国憲法制定に尽力した。
・坪内逍遥著『当世書生気質』分冊刊行(6月)
  坪内逍遥は、かねて『遊学八少年』という戯作の構想
 を抱いていた。
  勧善懲悪を否定し、写実主義を主張した文学論『小説
 神髄』の執筆に続いて、
  1885年(明治18年)4月に書き始め、6月に『一読三歎
 当世書生気質』第1巻を刊行。
  好評のため翌年・1886年1月までに第17巻を刊行した。
  明治初年の書生社会の風俗と気質をうつすことを主眼
 として、下宿生活、牛肉屋、楊弓店などで書生らが遊ぶ
 様子も描く。
  日本近代写実小説の第一として、『小説神髄』に展開
 された理論の具体化であるとされる。
  ただし、文体は、戯作の影響が強く、芸妓が筋の中心
 には上野戦争(彰義隊のたたかい)で生き別れになった
 兄妹の再会など、通俗的な側面もあったので、作者は晩
 年『逍遙選集』を編集したときに、この作品などの小説
 類をすべて〈別冊〉にくくりこんだ。
  この小説は、当時から世評が高く、長く読み継がれた
 ため、作中の〈野々口精作〉なる人物のモデルと誤解さ
 れるのを苦にした野口英世が、清作という本名を英世に
 変えたという。
・坪内逍遥著『小説神髄』第一冊刊(9月)
  明治に入ってからの日本文学は、江戸の戯作の流れを
 汲む戯作文学か、西洋の思想・風俗を伝え啓蒙するため
 の政治小説が中心だったが、
  『小説神髄』は、道徳や功利主義的な面を文学から排
 して客観描写につとめるべきだと述べ、心理的写実主義
 を主張することで日本の近代文学の誕生に大きく寄与し
 た。
・坪内逍遥 「妹と背鏡(いもとせかがみ)」
  「妹と背(いもとせ)」は夫婦、「かがみ」は映し出
 す意味。
  つまり夫婦の生活を描写するという意味。
  この小説は、「自由恋愛」で結婚した夫婦と、親の都
 合で結婚させられた夫婦のいずれもが、不幸な結婚生活
 を送る様子を、逍遥自身の小説論に忠実に写実主義で再
 現しようとしている。
・東海散士『佳人之奇遇(かじんのきぐう)』刊(10月)
  佳人(かじん)は、美しい女性の意味で、
  会津の遺臣である東海散士が、アメリカにわたり、フ
 ィラデルフィアの独立閣でアイルランドの美女紅蓮、ス
 ペインの貴女幽蘭にめぐりあうのが発端で、
  後に、中国の明朝の遺臣も加わる。
  いずれも、亡国の憂いを抱き、権利の回復運動に進も
 うとするかれらの交情が描かれる。
  なお、この話の中でハンガリーのコシュートが亡国の
 代表として各編に登場する。
  東アジア経営にかんする意見、世界の地誌、世界史へ
 の注釈などが加わり、前半では、小国が大国に依存した
 状態では民族的解放ができないこと、
  小国の国民は、国を守る気力を持たなければならない
 こと、小国同士が手を取り合って協力すべきことが説か
 れている。
  後半になると、作者自身が、谷干城に随行してヨーロ
 ッパを視察したときの体験が混ざり、また、金玉均との
 交友から朝鮮半島をめぐる議論や、日清戦争後の三国干
 渉をめぐる議論が作品の主軸を占めるようになり、佳人
 の面影は作品からは遠ざかっていく。
・近藤瓶城編『史籍集覧』正編刊了
  岡崎藩の儒者近藤瓶城が、編纂した江戸時代までの日
 本の国史の叢書。
  1881年~1885年刊。1900年~1903年の改定版では、全
 465種1135巻。
  群書類従に漏れた諸書を通記、纂録、別記、雑類に分
 けて収録した。
・三遊亭円朝 「塩原多助一代記」
  創作された落語・人情噺。
  実在の塩原太助をモデルにした立身出世物語。
・植木枝盛 「貧民論」
  植木は、青年時代から独自のアジア主義(小国主義、
 アジア連合論)を説き、
  興亜会(日本、支那、朝鮮等東洋の団結」を目的とす
 る)の会報をよく読み、
  アジア侵略をする欧米を「大野蛮」と言った。
  アジアの被抑圧からの独立振興を主張した。
  改革アジア同士の連携を志向し、具体的には通商貿易
 という手段でのアジアの独立振興を志向した。
  新聞で、キリスト教を痛烈に批判した。
・硯友社創立、『我楽多文庫』創刊(2月)
  近代日本文学で初の文芸雑誌。
  同人雑誌の先駆。
  硯友社の機関誌。
  硯友社(けんゆうしゃ)は、1885年、尾崎紅葉、山田
 美妙、石橋思案、丸岡九華によって発足した文学結社。
  「我楽多文庫」を発刊した。
  川上眉山、巖谷小波らが参加し、当時の文壇で大きな
 影響を与えた。
  1903年(明治36年)10月の紅葉の死によって解体した。
  近代文体の確立など、その意義は大きい。
・『女学雑誌』創刊(7月)
  1885年7月20日、創刊された日本初の本格的女性誌。
  1885年(明治18年)7月~1904年(明治37年)2月まで、
 526号、計548冊刊行された。
  巌本善治が長く編集人を勤めた。
  『日本の婦女をしてその至るべきに至らしめんことを
 希図す』と創刊号の『発行の主旨』にある。
  『女学』とは、『女性の地位向上・権利伸張・幸福増
 進のための学問』とされる。
  (参考)希図:きと、希望して計画すること。
1885年、歌・流行・世相:
・歌 :琵琶歌 「南洲追憶」(作:勝海舟)
・髪:束髪(そくはつ)
  日本髪と並んで普及した女性の結髪の一つ。
  この束髪は、当時の鹿鳴館(ろくめいかん)時代の影響
 もあって女学生の間に人気を博した。
  その束髪は、洗い髪を香油を用いて整え、それから額
 中央から髪を左右に分け、後頭部で一度束ねてから三つ
 編みとし、それから髷をつくり、「西洋下げ髪」「西洋
 上げ髪」「マーガレイト」「伊太利(イタリア)結び」な
 どにまとめあげた。
  「夜会(やかい)巻き」もこれから出た髪形の一つ。
・生活:麦藁帽子値上り
・生活:馬の飼育奨励
  この年の記録から・・、
  獣医開業試験規則制定。
  戦時病馬厩服務規則制定。
  陸軍の馬医部馬医を獣医部獣医に改称。
  馬医生を看馬長へ改称。       
  民有種牡馬、牛取締に関する規則公布。
  宮内省が、藤波言忠子爵と新山荘輔子爵をヨーロッパ
 牧畜視察に派遣。      
  下総種畜場、宮内省への移管により下総御料牧場に改
 称。
  大日本獣医会発足。
  (参考:www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep04.htm)
・産業:大麦作盛ん
  北海道の事例・・、
  農業経営を安定させる施設については、逆に積極的な
 方策がとられた。
  すなわち、共立商社の設立、備荒貯蓄制度の実施、輪
 作・牧畜の奨励などが主なもので、特に、輪作補助規程
 を設けて、大麦・大豆・あわなどの輪作を奨励し、
  地力の維持増進、略奪農業の防止に努めた。
  このように、直接的な援助の廃止にかかわらず、この
 地に残った移住者たちは、自立経営の意欲も盛んになり、
 それ以後、作付反別および収穫高は飛躍的に増加し、殊
 に、産馬の振興によって牧草・えん麦などの飼料作物は
 急激に増え、
  1902年(明治35年)には、総作付面積の4割強を占め
 るに至る。
  (参考:www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep04.htm)
.
  (今日の言葉)
.
題:アメリカの非人道的攻撃の一例:無実の一般市民殺戮
.
1944年11月14日、アメリカの非人道的なじゅうたん爆撃
  この日、東京が、初めて、アメリカによる爆撃を受け
 た。
  無実の一般市民に対する無差別爆撃の国際法違反行為
 だった。
  アメリカは、国際法違反の無実の一般市民を殺戮をす
 る。
  日本は、ハワイの攻撃の時は、一人も一般市民の殺戮
 はしていない。
  アメリカの方々の殺戮はしていない。
  この時、アメリカ軍が、誤射で、自国民のアメリカ市
 民を殺戮しているが・・。
  この東京の様な卑劣なアメリカの市民ターゲット行為
 は、日本全国の都市で、この国際法違反の無差別爆撃を
 行なった。
  東京だけに関しても、以下の様な事が行なわれた・・、
  東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回もの
 爆撃・空襲を受けたが、
  106回もの回数、無実の一般市民をターゲットにした殺
 戮行為がなされた。
  特に、1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、
 5月24日未明、5月25日~26日の5回は大規模だった。
  その中でも、「東京大空襲」と言った場合、死者数が
 この1回の攻撃で、10万人以上と著しく多い1945年3月10
 日の空襲(下町空襲)を指すことが多い。
  この3月10日の空襲だけでも罹災者は100万人を超えた。
  そして、この空襲の体験をした・・、
  芸人の毒蝮三太夫(どくまむしさんだゆう)氏は、
 (読売新聞、2016年8月13日)で、以下の様な事を言う。
  第二次世界大戦時の空襲のことを言う・・、
  「警報が鳴ったと思ったら、焼夷弾がバラバラ落ちて
 きた。
  『もうだめだ、逃げよう』って、おふくろと逃げ始め
 た。
  火が強い風にあおられるのでとにかく熱くてね。
  『こんなに苦しいんなら死んだ方がいい』と俺が言っ
 たら、
  『死ぬために逃げてんじゃないよ。生きるために逃げ
 るんだから、そんなこと言うもんじゃないよ』って
 お袋に叱咤(しった、大声を張り上げてしかりつけるこ
 と)された」。
  「逃げる途中で、革の靴が落ちていて拾ったんだけど、
 片方が重いなと思ったら、足首が入っていた。
  無我夢中でその足首を抜いて、靴を履いた覚えがある。
  東京の空は真っ赤だった」・・・。
  「翌日は、一面焼け野原だから、どこが自分の家かな
 んてわからない。
  防空壕を見つけて、ふたを開けた。
  5人ほどが俺をにらみ付けているから、『空襲は終わっ
 たよ』と声をかけたよ。
  でも、動かない。
  よく見ると、息をしていなかった。
  肌がロウ細工のように白く、眼だけがぎょろっとして
 いた」・・・。
  「空襲の最中には、『俺たちは兵隊じゃない』。
  『何で焼夷弾が落ちて来るんだ』って気持ちが、何度
 も湧いた」・・・。
  (世界で一番悪いことをしたのはアメリカ、無実の一
 般市民の大量虐殺・殺戮)
  キリスト教に偏するNHKの元職員の池上彰は・・、
  これも、日本が真珠湾攻撃をしたからと言うのか?
  池上彰は、原爆投下は真珠湾攻撃をしたからと言った。
  真珠湾攻撃は、このブログでも、色々と、数おおく、
 奇襲攻撃ではないとはっきりした証拠で説明しているが
 ・・、
  また、日本の先制攻撃ではないと証明もした。
  この卑怯な言い方をする池上彰は、何でもかんでも、
 日本が真珠湾攻撃をしたからと、テレビで「解説だと誤
 魔化す番組で」言っている。
  アメリカが、先に先制攻撃していたことも、色々な資
 料から、明らかになっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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