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(増補版)562E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年8月~1892年9月)

2017-10-25 04:08:18 | 日記
題:(増補版)562E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年8月~1892年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年8月11日、鉄道庁の定員を改正した(勅令第72号)
1892年8月15日、イギリスで第4次グラッドストン内閣が成
 立した(~1894年)
  総選挙で自由党が僅差で第1党となり、グラッドスト
 ンは82歳となっていたが首相となった。
  82歳の年齢は、イギリス史上初で「大老人 Grand
 Old Man」と言われた。
  1893年9月、グラッドストンは、新たなアイルランド自
 治法案を議会に提出した。
  下院では可決されたが、上院で保守党・自由統一党の
 反対で、大差で否決された。
  グラッドストンは、上院改革を断行してでも法案を通
 すつもりだった。
  しかし、高齢のため指導力が低下し、1894年3月、84歳
 で辞任した。
  アイルランド問題について・・彼が追求したアイルラ
 ンドの解放というアイルランド問題の解決は、保守勢力
 の抵抗で実現できなかった。
  しかし、この国民的な課題に対して、貴族の既得権に
 固執する上院に対する批判が強まり・・、
  20世紀に入って、1911年の議会法制定で、上院の権限
 は大幅に制限され・・、
  1914年、ようやくアイルランド自治法が成立した。
  しかし、第一次世界大戦の勃発によって実施は延期さ
 れ、さらに、アイルランド側の『完全独立』を求める運
 動が激化し、解決は遠のいてしまった。
1892年8月16日、関西鉄道会社が運賃を値下げする。
  中等運賃を下等運賃の5割増に改めた(従来は、下等運
 賃の2倍だった)
1892年8月17日、露仏軍事協定(秘密協定)が成立した。
  ロシア・フランス間に成立した政治的および軍事的な
 相互援助同盟で・・、
  この頃、経済的対立を含んだヨーロッパ情勢は混迷し
 ていた。
  1890年、独露間の再保障条約が満期となり、ドイツが
 その延長を拒否したことから・・、
  1891年から公然化して、ロシアとフランスが接近し、
 対ドイツ防衛同盟の性格を帯び、発展して行った。
  1891年に、政治協定を結び・・、
  1892年、軍事協定(秘密協定、1918年まで秘密にされ
 た)を締結した。
  また、1894年1月4日に、フランスが、軍事協定承認を
 通告して同盟関係(軍事協約)が確定した。
  また、イギリスが加わって三国協商となって、三国同
 盟(ドイツ・オーストリア・イタリアの軍事同盟、1882
 年成立)と対立した。
  ドイツ帝国のヴィルヘルム2世は、世界政策を掲げ(ビ
 スマルクを退け、自身が前面に出て、帝国主義的膨張政
 策をとった。列強の既得権とぶつかると、軍事力を背景
 にした行動を示した)、
  艦隊法(イギリスを仮想敵国として、対抗できる海軍
 を建設するという目的)の制定以降、イギリスとの建艦
 競争に突入した。
  そして、3B政策(ベルリン・ビザンティウム・バク
 ダードを鉄道で結び、ドイツの影響下に置く)を企図し
 て、ロシアとの関係も悪化させた。
  露仏同盟は三国協商の土台となり、また、それは日英
 同盟と結びついて対独包囲網を形成した。
  日本が、第一次世界大戦でドイツと戦う流れとなる。
1892年8月27日、アメリカのメトロポリタン歌劇場が火災と
 なる。
  1883年10月23日に竣工した最初のメトロポリタン歌劇
 場の建物で・・、
  ブロードウェイ39丁目~40丁目にかけて建てられた。
  設計は、J.クリーヴランド・キャディ 、
  この火災の後、大規模な修復を経て・・、
  1966年に、現在のニューヨーク市マンハッタン区リン
 カーンセンターに移転するまで使用された。
  この劇場は、歴史的建造物として認められず、1967年
 に解体された。
  移転後の現在の歌劇場は、アメリカ随一のオペラ・ハ
 ウスとなっている。
1892年8月、第一次松方内閣が総辞職し、伊藤博文が後継内
 閣を組閣した(詳細は、前掲を参照ください)
1892年8月、津田梅子が、アメリカ再渡米より帰国した。
  津田梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族)・初子夫
 妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新
 宿区南町)で、1864年12月31日に生まれた。
  父・仙は幕臣であったため、幕府崩壊とともに職を失
 った。
  父・仙は、北海道開拓使次官の黒田清隆(女子教育に
 も関心を持っていた)が企画した女子留学生に梅子を応
 募させた。
  そして、同年・1871年、岩倉使節団に随行して渡米。
  5人のうち最年少の満6歳であった。
  アメリカでは、ジョージタウンの日本弁務官書記のチ
 ャールズ・ランマン夫妻の家に預けられた。
  1882年(18歳)11月、日本へ帰国した。
  帰国した梅子は、幼少からの長い留学生活で日本語能
 力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい、日本的風
 習にも不慣れであった。
  1883年(19歳)、伊藤博文と井上馨邸での夜会で再開。
  この頃から、伊藤家へ英語指導や通訳のため雇われ、
 伊藤家に滞在し、下田歌子から日本語を学ぶ、また、歌
 子の私塾の英語教師となる。
  1885年(21歳)、伊藤に推薦されて、学習院女学部か
 ら独立して設立された華族女学校で英語教師をする。
  梅子は、上流階級的気風には馴染めなかったようで・・、
  この頃、縁談が何度かあるが・・断り・・生涯未婚で
 居ようと思ったようである。
  1888年(24歳)、留学時代の友人が来日して会い、再
 度の留学をしたいと思った。
  そして、父の仙の知人で、日本の商業教育に携わって
 いたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・ク
 ララの仲介で留学希望を伝え、学費免除の承諾を得て、
 校長の西村茂樹(教育者、文学博士、道徳振興団体「日
 本弘道会」創設者)から2年間の留学を許可された。
  1889年(25歳)7月、再び渡米した。
  この後、1900年(36歳)7月、父の仙や、アリス・ベー
 コン、大山、瓜生、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、
 「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府
 知事に提出し、認可を受けると東京麹町区に開校し、塾
 長となった。
1892年9月1日、釧路鉄道の標茶駅~跡佐登駅間(41.8km)
 が開通した(開業:1892年9月8日)
  1872年に、佐野孫右衛門により、アトサヌプリ山麓の
 硫黄山で硫黄採掘が始まり・・
  当初は、馬と川船によって釧路まで運ばれていたが、
 後に、標茶まで馬搬になり、標茶から湧比別(後の五十
 石)まで50石船で、湧比別から釧路は100石船で運搬した。
  標茶に大規模な精錬所が建設され、鉄道の敷設が望ま
 れた。
  故に、釧路鉄道は、北海道東部の硫黄山で産出される
 硫黄の輸送を目的とされた。
  北海道内では2番目(北海道の私鉄では最初)の鉄道。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカの最重要の要人が、『GHQが、日本国憲法(第9条:戦争放棄等)を
   作らせたのは間違いだった』と言った。
.
1865年3月、アメリカの解放民局(難民、解放民および放棄
 地対策局)の『期限延長と権限拡大』を、黒人の方々は
 勝ち取った。
  黒人の方々の必死の闘いの勝利だった。
  しかし、この後、アメリカには、『奴隷解放の反動』
 の嵐が吹き荒れて、解放民局は活動を停止した。
  アメリカは、奴隷解放を行なう解放民局を停止させた。
.
1867年3月、アメリカの黒人の方々は、ジョンソン大統領
 (第17代大統領アンドリュー・ジョンソン)と対峙し、
 黒人の方々独自の『再建法』を成立させた。
  また、上院の承認なしに政府の要人を大統領が勝手に
 罷免する事を禁じた『官職保有法』を制定させた。
  しかし、この後、反動の時代が来て、これらの黒人の
 方々の努力は、完全に崩壊し、無になって行く。
  「根強い反動のアメリカ」があった、黒人奴隷制に戻
 ろうとする動きが、この後に、アメリカに始まる。
.
1869年、アメリカの大陸横断鉄道が完成した。
  アメリカの・・西部へのインディアンの方々の地への
 侵略行為、奪取行為に、この鉄道は大きく関係した。
  中国も、このアメリカの行為を真似して、チベットへ
 の鉄道をいち早く完成させた。
  アメリカの鉄道網の伸長はめざましかった。
  1860年には、3万マイルだった鉄道が・・、
  1880年には、9万3000マイル・・、
  1900年には、19万3000マイルとなった。
.
1873年、アメリカに経済恐慌が起きる。
  アメリカで、資本の集中が進み、特定の所へ資本が集
 積されて行った。
  1879年、スタンダード石油が、トラストを成立させた。
  また、その他、アメリカ国内に、巨大なトラストが、
 多数、作られて行った。
  アメリカは、独占資本主義の世界となった。
  資本家(特に、北部資本家)がやりたい放題の世界と
 なった。
  1890年に、シャーマン反トラスト法が制定された。
  この様なアメリカ社会が、米西戦争を起こさせた。
  アメリカは、領土欲のある帝国主義国家と一層なって
 行った。
.
1876年、アメリカの憲法修正が行われた。
  1870年頃~1876年までの頃、ワシントンの国会には、
 14人の黒人下院議員と2人の黒人上院議員が生まれた。
.
1877年、この年の夏、アメリカ最初のアメリカ全土におよ
 ぶ鉄道の大ストライキが起きた(北部資本家の悪行への
 抵抗)
  アメリカは、狡猾(こうかつ、悪賢いこと。悪い事ば
 かりして、悪い方面にばかり知恵がまわること)だった。
  自分だけの勝手な理屈で、『自分さえよければ良い』
 が、常に、そこにあった。
  この頃、黒人の方々は、「アメリカ北部の資本家と、
 南部のプランター」の『連合支配』に苦しんだ。
  黒人の方々は、その強烈な圧力に対峙(たいじ)して
 行かなければならなかった。
  この支配は、非常に強靭な支配で、黒人の方々を苦し
 め、そして、迫った。
  「奴隷制のあった時代」への、完全な揺り戻しだった。
  大統領職が転がり込んだヘイズ大統領(第19代大統領、
 任期:1877年3月4日~1881年3月4日)は・・、
  南部から連邦軍を撤退させて、その揺り戻しを助長さ
 せた・・、
  また、この年・1877年夏から、アメリカ最初のアメリ
 カ全土におよぶ鉄道の大ストライキを「弾圧した」。
  大統領のヘイズは、「資本家側にまわって」資本家を
 擁護し、労働者を弾圧した。
  アメリカ南部では、復活した旧奴隷所有者が、黒人の
 方々を搾取する新しいシステム=「プランテーション奴
 隷制度に変わる刈分小作制度(シェアクロッピング・シ
 ステム、Share cropping system)」を出現させ、黒人の
 方々から利益を搾り取った・・
  また、アメリカ北部の独占資本家たちも、南部のこの
 様な搾取制度を最大限に利用して、南部を支配した。
  そして、アメリカ北部も「おいしい搾取の汁を吸った」。
  また、南部の黒人の方々を、その様な虐げた状態にし
 ておくことによって、アメリカ北部の労働力を低廉な状
 態にしておくことが出来ることから、アメリカ北部資本
 家も最大限にこの動きを利用し関与した。
  アメリカ北部の白人労働者の労働条件改善闘争を押し
 止めることに使った。
  アメリカ北部の資本家と南部プランターとの利益は一
 致していた。
  また、卑劣な事に、この北部資本家が、また同時に、
 南部の土地所有者となり、黒人の方々から、『直接に』
 搾取した。
  儲かれば人権なんて関係ないという北部も南部もない
 アメリカだった。
  弱者の方々を虐げる「アメリカ北部と南部が共同する
 社会・・非人道的社会」が現出した。
  しかし、この様な苦悩の中から黒人の方々は、また、
 立ち上がって行った。
  緑背紙幣(グリーンバック)運動やグレンジャー運動
 が、1870年代~1880年代初めにかけて湧き起こった・・、
  そして、これを受けて人民党運動が、アメリカ全土に
 展開されて行った。
  (参考)緑背紙幣(グリーンバック)運動:リンカー
     ンが発行した緑背紙幣の価値暴落に苦しんだ農
     民などの人々の運動。
  (参考)グレンジャー運動:1870年代にアメリカ中西
     部を中心に起った農民運動。
      南北戦争後まもなく、農産物は過剰生産の結
     果、価格が下落の一途をたどり、農民の生活は
     破綻の危機にあった。
      この農民の方々の不満が組織化されて行きグ
     レンジャー運動となった。
      その初めは、農務省の一官吏が設立した「農
     業保護」組織が通称グレンジであり、
     この組織の会員がグレンジャーと呼ばれた。
      この団体は、初めは、政治活動に参加しなか
     ったが、1873年の恐慌後は、積極的に政治運動
     に進出した。
      農民に最も身近な問題・・鉄道会社の運賃や
     倉庫保管料の規制、税制改革などを州議会に訴
     えるようになり・・、
      1874年には、約150万人の会員となった。
  この様な南部の闘争と北部の労働運動が結びついて、
 政治運動として発展し・・、
   1891年には、既存政党に対抗して人民党(ピープル
 ズ・パーティ)が結成された。
  (参考)人民党:アメリカ南部(特にノースカロライ
     ナ州、アラバマ州、テキサス州)の貧しい白人
     綿花農家や、アメリカ中西部の平原にある州(
     特にカンザス州とネブラスカ州)の追いつめら
     れていた小麦農家などを支持基盤とした。
      農本主義と、銀行、鉄道、エリートに対する
     敵意という急進的な運動形態を採った。
      労働組合と連衡する場合もあれば、
      1896年には、民主党が、人民党の大統領候補
     者ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを公
     認した。
  アメリカ北部政権が、プロパガンダ(嘘宣伝)する「
 アメリカ北部政権の偉人・リンカーンが奴隷解放しまし
 た、それで、黒人の方々が奴隷の身分から解放されて、
 自由を獲得しました」なんていう話は、まったくの作り
 話で・・その様な状況では『まったくない』。
  黒人の方々の血を吐くような戦いが、それも長い戦い
 があった。
  そして、アメリカは、今・現在においても、まだまだ
 黒人の方々を虐げている。
  その根っこには、「キリスト教による有色人種への蔑
 視観と洗脳がある」。
  この洗脳が、なかなか無くならずに続いている。
  今でも、黒人の方々を差別する行為が続いている。
  KKKが復活しているニュースも報道された。
.
1880年、アメリカの工業力が、イギリスを抜いて世界一に
 なった。
  1860年には、イギリス、フランスに次いで第3位だった。
  また、1870年には第2位。
  アメリカは、この1880年代を境に、農業国から工業国
 へ転換した。
.
1880年代、アメリカの西漸運動による、アメリカ西部への
 侵略行為は、この頃、太平洋岸に達した。
  1890年の第11回国勢調査でその開拓線の消滅が表明さ
 れた。
  アメリカの開拓線が消え、この後、太平洋の国々を奪
 って行く・・ハワイの悲劇など・・フィリピンの悲劇な
 ど・・そして、フィリピンを土台として中国へ・・
.
1900年、アメリカの発展、この年、製造工業が130億ドルに
 なった。
  これは、1860年が19億ドルで、その約7倍となった。
 ☆また、1900年の賃金労働者数が530万人であり、1860年
  の131万人の約4倍となった。
 ☆また、1900年の投下資本額が90億ドルであり、1860年
  の10億ドルの約10倍となった。
.
1914年、アメリカの発展、1914年に、アメリカは、鉄鋼が
 世界第2位で、機械工業が第4位だった。
  これは、1860年には、首位部門が農業生産に関すると
 ころだった(農業から工業への転換)
.
1945年2月8日、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大
 統領は、ソ連のスターリンと秘密会談を行い、対日本戦
 への戦いに参戦することを促した・・誘った。
  そして、日ソ中立条約の『一方的破棄』をソ連に促し、
 そそのかした・・アメリカのルーズベルトの悪行の一つ・・、
  この密談は、日本領の南樺太と千島列島、満州国の権
 益(南満州鉄道や港湾などが含まれる)がソ連のものと
 なるという美味しい話(えさ)で誘った。
  しかし、このアメリカ大統領ルーズベルトが行なった
 この密約の「領土に関すること」は、『領土の不拡大』
 を規定し、宣言した『大西洋憲章に違反する行為』だっ
 た。
  (参考)大西洋憲章は、1941年8月9日から8月12日に行
     われた大西洋会談において・・、
      アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルー
     ズベルトと、イギリス首相のウィンストン・チ
     ャーチルによって調印された憲章で、世界構想
     として述べたもので、世界各地に適用されると
     した、故に、この後、世界の各国が参加を表明
     し、遵守を誓った。
      この中には、「領土の拡大意図をもって戦争
     をすること」も否定され・・さらに、なお・・、
      「領土を変更するときは関係国の人民の意思
     を尊重する」ことが決められた。
      しかし、アメリカは、自分の都合が悪くなれ
     ば、この様な事を無視し、破るアメリカだった。
.
1945年6月、日本は、6月頃から戦争終結をめぐる最高指導
 者会議を何度となく開いた。
  日本は、対日参戦を秘密に決めた(ヤルタ密約)、そ
 して、その参戦の準備を進めているソ連に、そうだとは
 知らず、連合国との講和の仲介を依頼していた。
  ポツダム宣言が発表されると、鈴木貫太郎首相や主要
 閣僚は、条件付きの降伏要求である事に着目し、これを
 『受諾する方向となった』。
  しかし、陸軍は反対し、本土決戦を主張してゆずらな
 かった。
  日本政府は、当然、仲介依頼をしているソ連の返答を
 待った。
  原爆投下は、その様な状況の中に落とされた・・
  アメリカは、ソ連から、「日本が戦争終結したいとの
 仲介」を求められて来ていることを、ソ連のスターリン
 から知らされていた・・にもかかわらず無視し、卑劣に
 も、広島に、そして、長崎へ、原爆を投下した。
.
1945年8月9日、深夜、昭和天皇陛下の御臨席のもと御前会
 議が開かれた。
  ポツダム宣言の即時受託について、意見は賛否同数と
 なった。
  8月10日午前2時、鈴木首相が、天皇陛下の前に進み出
 てご聖断を仰(あお)いだ。
  天皇陛下は、『ポツダム宣言の即時受託』による日本
 の降伏を決断された。
  以下は、この終戦の御聖断の後、昭和天皇陛下の御発
 言を迫水久常書記官長が証言している・・、
  「・・この様な状態で本土決戦に臨んだらどうなるか、
 私は非常に心配である。
  あるいは日本民族は、みな死んでしまわなければなら
 ないことになるのではないかと思う。
  そうなればどうしてこの日本という国を子孫に伝える
 ことが出来るのか。
  一人でも多くの国民に生き残っていてもらって、その
 人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この
 日本を子孫に伝える方法はないと思う。
  ・・みなの者はこの場合、私の事を心配してくれると
 思うが、私はどうなってもかまわない。
  私はこういう風に考えて戦争を即時終結することを決
 心したのである」(迫水久常書記官長の証言より)
.
1945年8月10日、午後8時すぎ、その旨を同盟通信社のモー
 ルス信号と、日本放送協会の海外向け放送が伝えた。
  『世界に対する、事実上の日本の終戦の意思表示とな
 った』・・ソ連の参戦の意味は、一層、無くなった。
  善意ある正義のアメリカであれば、『ソ連の参戦を停
 止させるべきだった』・・その様にしないアメリカであ
 ったため、各地での悲劇が起きた・・特に、ソ連の満州
 の虐殺行為と多数の拉致行為など・・、
.
1946年、この年の1946年まで「日ソ中立条約は有効だ」と
 いう事を、日本とソ連の間で条約により約束されていた。
  アメリカのルーズベルト大統領が、1943年10月に、ソ
 連へ「対日戦に参戦する」ように要請した(歴史書には
 この言葉が使われている)・・要請と言っても・・その
 話には、卑劣な事に、ソ連が喜ぶ、そして、とくをする
 餌(えさ)の話が付けられていた・・このニュアンスが
 消えている。
  その話は・・ソ連が参戦すると得るだろう「千島列島
 や樺太」を、ソ連の領土にする事をアメリカは認めると
 話しかけた・・「奪ってしまえば・・」という悪辣な誘
 いである。
  領土欲のあるスターリンは、ソ連は、その話に乗った。
  ルーズベルトは、この様な性格のスターリンを良く知
 っていた。
  ここに、新たな悲劇が始まった。
  ソ連は即座に、敗戦濃厚となっているドイツを破った
 後に参戦すると回答した(即答した)。
  即、回答するような美味しい話を、アメリカは、ソ連
 へ持ちかけ、そそのかした・・そして、その戦いの武器
 まで、アメリカはソ連へ運び入れ・・渡した。
  そして、事実、その通りとなった・・というより、武
 器までもらったら、その通りになるでしょう・・、
  この時のはるか以前に、日本とソ連は、 1941年4月13
 日に、「日ソ中立条約」を締結していた。
  この条約によって、ソ連は、極東に配備していた部隊
 を西部へ移送し、モスクワ防衛線へ投入した。
  そして、この条約は5年間、『1946年まで有効』という
 事まで決めていた・・約束していた。
  そして、その時に、さらに延長するかどうかを決めよ
 うとなっていた・・この様にも決めていたのである。
  その様な事を知っているのに、アメリカ大統領のルー
 ズベルトは、自分さえよければ良いの勝手な思惑で、ソ
 連に誘いの話をした。
  この事による悲劇は・・1945年8月8日にやって来た。
  ソ連は、対日攻撃を開始した。
  長崎に原爆が投下される前日だった。
  日ソ中立条約の『一方的無視』の破棄の参戦だった。
  アメリカのルーズベルト大統領の誘い水どおりとなっ
 た。
  1945年8月9日、ソ連は、満州になだれ込んだ。
  戦場は、満州以外にも、北朝鮮・南樺太・千島列島に
 おいても戦闘状態となって行った。
  1945年5月のドイツ降伏後、ソ連は、シベリア鉄道を
 フル稼働させて、満州国境に巨大な軍事力を集結させて
 いた。
  突入してきたソ連軍は、満州の荒野を開拓していた満
 州開拓団として行った日本の一般市民を襲った・・家族
 の方々は逃げまどった。
  特に、国境付近の開拓居留民の多くの方々は、この進
 攻したソ連軍に踏みにじられ虐殺された・・逃げまどっ
 た。
  さらなる悲劇として、このソ連軍の暴挙に乗っかって、
 匪賊(徒党を組んで略奪・殺人などを行う盗賊)となっ
 た者たちに日本の方々は餌食とされた。
  当時、満州の首都の新京だけでも14万人の日本人市民
 が居た。
  地獄となった人々・日本人家族たち、そして、1945年
 8月11日に、この日に新京から逃げる18本の列車が出た(
 正午頃までに)。
  逃げられた日本人家族は、3万8000人だった。
  逃げた3万8000人のうち、53%の20310人という半分以上
 が軍人関係家族だった。
  そして、44%の16700人が満鉄関係の家族だった。
  ほとんどが、この両方で97%で、脱出のための仕立てら
 れた列車は、軍と満鉄の家族のためだった。
  残りは、大使館関係者750人(2.0%)、そして、民間人
 家族は240人(0.6%)であった。
  ほとんどの一般日本人市民・開拓団民の方々は、満州
 に置き去りにされた。
  満州に残された一般の日本人の方々に悲劇が始まる。
  ソ連軍突入で、即座に、多くの方々が亡くなったが・・、
  歴史として語り継がねばならない事件の一つは・・、
  1945年8月12日の満州の麻山付近で、約400名の日本の
 方々が、追い詰められ悲惨なうちに集団自決(自殺)し
 た事件・・、
  この様な事件は、この地の各地で起きた。
  興安街付近では、東京荏原開拓団で行った方々が中国・
 暴民に襲撃されて、約400名の日本の方々が虐殺された。
  また、仁義仏立開拓団の日本の方々が、ソ連の機甲部
 隊の一斉射撃を受け、600名以上が虐殺されたなどなど・・
 など、筆舌につくせぬ事ごとが起きている・・、
  1945年8月14日には、葛根廟(かっこんびょう)事件が
 起きている。
  満州の葛根廟鎮において、日本人の避難民の方々の約
 千数百人の方々が、この人たちは、9割以上が婦女子で、
 この人たちが、ソ連軍や中国人に襲撃され、1000人以上
 のほとんどの方々が・・ソ連軍に虐殺されている。
  別な場所でも、白旗を上げているのに関わらず・・、
 ソ連の戦車の機関銃が火を噴き、この銃撃で、多くの方々
 が亡くなっている。
  また、避難する方々を焼き殺したり、機関銃を撃ちな
 がら、掃射をしながら・・引き殺したり・・、
  ソ連軍の戦車のキャタピラに巻き込まれて・・引き殺
 された日本人の方々が・・宙に舞ったりしたという悲惨
 な光景が伝えられている。
  そのあと、ソ連軍戦車は、丘の頂(いただき)に戻り、
 また避難民の方々を、めがけて突入しながら・・繰り返
 し、繰り返し・・機銃掃射や攻撃するということを執拗
 に繰り返した。
  完全に軍人ではない『非戦闘員の方々』への殺戮行為
 で、国際法で違反とされる、許されていない行為で・・
 『あからさまな非人道的違反行為をするソ連軍』だった。
  東京裁判で裁くべきだった・・が、差別的な、また、
 不公正なこの裁判で、裁かれる訳はなかった・・
  また、トラックで来たソ連兵が、民間人の、避難民の
 生存者を見つけ次第・・次々と、銃剣で刺したり・・、
 射殺したりした。
  2時間ぐらいの間に、女性や子供を主体とした1000人
 以上の方々が殺害されてしまった。
  男性は、兵士に駆り出されたりしていたので、南方方
 面へ転戦したりしていたので、ほとんどが女性や子供た
 ちが多いという状態だった。
  そのあまりにもの悲惨さに、自ら命を絶つ、自決・自
 殺する日本人の方々も、多い状態だった。
  頼みの日本の軍隊は、既に、南転と言って、南方諸島
 の激戦地に行って居なかった、日ソ中立条約もあったし・・、
  僅かに残った日本軍も奮戦したが、全滅したりしてい
 た。
  そして、その避難民の方々、僅かに残った生存者にも、
 襲撃が執拗に続いた。
  中国人も暴徒化して、身に付けている下着まで奪って
 行った。
  乳房を鎌で切り落とされる女性、川に逃げで溺死する
 人々、幼い子供達への襲撃、国民学校の児童たちの死・・、
 悲惨な・・地獄であった。
  子供を連れた母子に、子供を奪い、母は棒で殴りつけ
 られ、殺されたりした。
  親が殺された子供たちは、生き残った大人たちのとこ
 ろに集まっていたが、暴民たちは、その子供たちに襲い
 かかり、奪って行った。
  この子供たちは、売られたりするのが一般的だった。
  悲しいことに、8月15日の終戦が完全に過ぎてもソ連の
 襲撃などは続いた(日本の終戦の通達は8月14日)
  ソ連兵などに見つかり、暴行を受け、強姦される女性
 たちも多かった。
  また、ソ連兵は、家に火を付けて回った。
  隠れていた家に、火を付けた枯れ草を投げ入れられて、
 焼け死んだ人たちなども多かった。
  また、中国残留孤児や中国残留婦人となった方々も多
 く居た。
  これは、明らかにソ連は軍人であり、軍隊である。
  一般民間人に対する殺戮行為は、「戦争犯罪」である。
  無差別な大量虐殺のジェノサイドである。
  ナチスのユダヤの方々に対する行為を、ドイツの方々
 のジェノサイド行為であるとの反省行動と同様な行為を、
 ソ連は、なすべきである
  また、共犯であり間接原因者であるアメリカも、反省
 を表明すべきである(謝罪文を書きなさい)。
  アメリカが、原因者の一端に居る事は、今後も免れ得
 ない。
  満州人や朝鮮人には襲撃しなかった。
  日本人を狙っての行為だった。
  ソ連兵の卑劣な行為が多かった、女性方は暴行された。
  ソ連兵は、物を奪い持ち出す様に、日本人女性方を車
 に乗せて連れ去った。
  その様な女性が、ボロボロになって帰って来る場合も
 あった・・そしてまた、若い女性が牡丹江に流されて行
 くという姿もあった(帰れずに川に身投げ)。
  行方不明となってしまった女性方が数知れず居た。
  ソ連参戦で、色々な事があったのだが、抜粋的に記し
 ているのだが・・、
  次の記述も、戦争が終わっているというのに、起こさ
 れたことである。
  戦争が終わっているのに起こされているので、ソ連の
 不法行為であるが・・、
  1945年8月22日に、日本が無条件降伏をしているのに、
 ソ連は日本を攻めた。
  何と!戦争も終わって、引き揚げる方々へ、日本の引
 揚者を乗せた船が、ソ連軍の潜水艦の攻撃によって沈没
 させられた。
  それも2隻もある・・小笠原丸と泰東丸である。
  1708名の尊い命が、日本へ向かって帰国の途にあった
 日本人の方々が亡くなった。
  樺太からの婦女子を主体とする引揚者の方々だった。
  この2船の外にも、白旗を掲げたにもかかわらずソ連
 潜水艦は攻撃し、沈没させられた船がある。
  667名の方々が亡くなった。
  ソ連との平和条約の締結時には、これら上記のことな
 どの補償をソ連はするべきである。
  そして、満州では、まだまだ悲劇が続いていた。
  1945年8月27日には、ソ連軍に『連日に渡り強姦』を
 され続けていた日本人女性の方々が・・可哀想な事に、
 集団自決をするという事が起きた。
  この悲惨過ぎる事件が起きた場所は、満州国吉林省だ
 った・・敦化(とんか)事件という。
  悲惨な強姦の多い状況は、筆舌につくせない。
  また、ソ連兵は、日本人を使役し、線路などもはがさ
 せたりした。
  そして、その線路は、持ち去るという様な事までした。
  1945年8月27日には、ソ連軍に遭遇した日本人の開拓団
 の一般の方々が、ソ連軍から攻撃を受けた。
  950名の方々が亡くなられた。
  そして、まだまだ悲劇は続いた。
  その為、行く末に希望を無くした方々の514名が後に続
 くと、集団自決した。
  この他にも、この様な事例は多数。
  終戦後に、ソ連は酷いことを不法を続けている。
  1945年9月2日に、東京湾内に停泊するアメリカ戦艦ミ
 ズーリ号の甲板で、日本政府全権の重光葵と大本営(日
 本軍)全権の梅津美治郎、及び、連合各国代表が、降伏
 文書(休戦協定)に調印しているが、
  この様な状況であるのに、不法にもソ連は、まだまだ、
 日本を攻撃を続けていた。
  ソ連が、勝手に続けていた不法行為が、やっと止めた
 のが・・1945年9月5日だった。
  この日に、ソ連軍が、やっと、日本への攻撃・戦闘行
 動を止めた。
  ソ連は、ポツダム宣言受諾も無視し、また、日本の降
 伏文書調印をも無視し、何もかも無視して不法行為をし
 ていた。
  戦闘行動を続けていた。
  ソ連が支配下に置いた地域は、国後(くなしり)・択
 捉(えとろふ)・歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)
 の北方4島、および、千島列島全域・南樺太・朝鮮半島・
 満州だった。
  ルーズベルトアメリカ大統領のソ連参戦の誘い水とお
 りの行動だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトの、『千島列島や樺太
 の領土をソ連が得ることを容認するから」と・・、
  ソ連の対日参戦を餌を付けて促(うなが)していた悪
 辣行為が・・、
  日本人の無実の・・一般の方々の、あまりにも悲惨な
 大きな悲劇も起こされいた。
  これでも・・以上は一部の抜粋です。
.
1950年8月9日、エイズ薬開発者が生まれた。
  この偉大な医学者が、日本の満屋裕明先生で、この日
 に生誕された。
  死に至る病気と、世界中で恐れられていた「エイズ・
 ウィルス感染症」の治療薬を作り出した。
  この真の救世主である満屋裕明(みつやひろあき、1950
 年8月9日~)先生は・・、
 日本のウイルス学者で、熊本大学医学部内科学の教授・・、
  そして、アメリカ国立がん研究所内科療法部門レトロ
 ウイルス感染症部部長でもあり、
  国立国際医療研究センター臨床研究センター長(2012
 年~)などなど・・要職を色々と持たれている方・・、
  1985年(35歳)の時、アメリカ国立衛生研究所で、世
 界初のHIV治療薬「AZT」を開発した。
  同時に、論文発表もされた・・
  これは、しっかしとした「世界最初の開発者・発明者
 である」と証明している文献となっている。
  当然、特許権者である・・が・・、
  (参考)AZTは・・抗ウイルス化学療法剤で・・、
     強力な抗ヒト免疫不全ウイルス(HIV)作用
     を示す。
      HIV特有の逆転写酵素を阻害し、正常細胞
     への影響は少ない。
      本剤は、後天性免疫不全症候群(エイズ)及
     び、治療前のCD4リンパ球数500/mm3以下の症
     候性、及び、無症候性HIV感染症の患者にお
     いて、臨床的な有用性が認められている。
      主な副作用は、貧血、及び、白血球減少。
  満屋裕明先生のこの功績、この開発に対し・・、
  アメリカでの特許権は、実験に協力していたバローズ
 ウェルカム社が、満屋先生に無断で特許を出願してしま
 った・・(不正行為)・・、
  さらに卑劣な事に、発明・開発者欄に、満屋裕明先生
 の名前を書かずに出願した・・独占的に奪った行為・・、
  当然、書くべき・・そして、当然、書かねばいけない
 発明者である満屋先生の名前を書き入れなかった。
  そして、特許権を取得してしまった。
  完全に、特許権を奪う行為をした。
  また、満屋先生は、同社が高価格でAZTを売り出し
 たことが不本意で・・(先生は、エイズに苦しんでいる
 方々へ安価に薬を提供したかった)
  その為、当然の怒りを示され・・さらに、新しいHI
 V治療薬の開発・研究へと励まれた。
  先生のさらに偉大な所は、第2、第3のエイズ治療薬
 を新たに開発されたところだった。
  世界で2番目と3番目のHIV治療薬(「ddⅠ
 (en:Didanosine)」と「ddC (en:Zalcitabine)」)を開発
 された。
  これ等の薬を、満屋先生は、ライセンスを企業に与え
 る際に、『適切な価格での販売』を条件にしている(苦
 しまれている患者の方々を救うことに主眼を置かれてい
 る)
  この事例の様に、アメリカは、日本の重要な特許を、
 今まで「いくつも奪って来ている」。
  満屋先生は、2007年に、紫綬褒章を受され・・2015年
 には、日本学士院賞を受賞された・・また、慶応医学賞
 など受賞多数となっている。
  エイズは、かつては、死を意味していたが、今では、
 早期に治療開始によって、先生の功績のお蔭で、その様
 な状況ではなくなった。
  世界は、今でも、エイズ患者が増え続けるという状況
 にあり、ますます、先生の功績の恩恵を受ける人々が増
 え続けている。
  エイズ(後天性免疫不全症候群:AIDS)は、ヒト
 免疫不全ウイルス(HIV)の感染によって引き起こさ
 れ、1型と2型があり、日本では、1型が流行している。
  性感染が多く、また、血液を介しても感染する。
  また、感染した母親から出産時に新生児に感染する危
 険もある。
  そして、血液で汚染した針の使いまわしの感染もある。
  HIVは、免疫を制御するCD4陽性細胞(T細胞、
 マクロファージ、樹状細胞など)に選択的に感染し、自
 らの遺伝子をヒトの遺伝子に組み込む。
  その後、感染したCD4陽性細胞を破壊しながら増殖し、
 一部の感染細胞は破壊されることなく休眠し、人の体内
 で長い期間潜伏する。
  このため、HIV感染症は自然に治癒することはない。
  薬剤治療でも根治ができない。
  急性期HIVに感染すると、感染後2週間目から4週
 間目くらいの間に、HIVは、急激に体内で増殖を始め、
 CD4陽性リンパ球が破壊されて行く。
  この時期は、発熱・のどの痛み・だるさ・下痢など、
 風邪やインフルエンザに似た症状から、筋肉痛や皮疹な
 どが出る場合もある。
  2006年には、満屋先生が、アメリカの研究者との共同
 研究で開発したHIV治療薬「ダルナビル (en:Darunavir)」
 が、アフリカの方々や途上国の方々が、特許料を払わず
 に使える医薬品として世界で初めて国連の機関に登録さ
 れた。
  それ故、満屋先生は、エイズ治療薬を4つも作られた。
  研究を開始する時(初め)、満屋先生は、「アメリカ
 でエイズの研究をしないか?」と皆が言われた時、あま
 りにも酷い病気・死に至る病気であるため、皆がしり込
 みをした。
  しかし、満屋先生は、自ら進んで研究を始められた。
  この様な経緯から・・満屋先生は、この素晴らしい功
 績をあげられた(佐藤健太郎著「世界史を変えた薬」を
 御覧ください)
  この大変素晴らしい功績、多くの人類を救済をされて
 いる業績・・、当然、ノーベル賞級の人類貢献であるが、
 キリスト教国に甘い・・偏するノーベル賞検討委員会は、
 今だに、先生へ、ノーベル賞を送っていない。
  「エイズが駆逐された」という現代になっても・・
  その功績が偉大であると明白となった現時点に至って
 も、
  世界中の方々が、安心領域の病気となったという現在
 においても、先生へ、ノーベル賞は送られていない。
  30年以上も前に作られた功績であるが、まだノーベル
 賞は送られていない。
.
1953年11月、ニクソン・アメリカ副大統領が来日した。
  そして、『日本の憲法に、第9条(戦争の放棄)を入
 れたのは間違いだった』と言った。
  このニクソン発言は、日米協会が主催した午餐会で発
 言された。
  この時のニクソン発言は・・、
  「日本の非武装化は、1946年の時点では正しかったと
 しても、1953年の段階では間違いではないだろうか」と
 言った・・そして・・さらに、
  「私は、この場で、1946年に、アメリカ合衆国は過ち
 を犯したことを認めよう」・・と・・、
  アメリカの最大級の要人・ニクソンが・・、
  1946年の日本の憲法改正によって、『アメリカが、日
 本を非武装化したのは誤りであった』と明確に意思表示
 して・・示した。
  しかし、このニクソン副大統領の発言を、朝日新聞は、
 いつもやる様に、偏向報道をした。
  朝日新聞は、読者に誠実に正確に伝えないで、事実を
 歪曲して伝えた・・、
  肝心の「憲法改正は誤りであった」とする主旨は、そ
 の肝心部分の記述は削除した。
  結局、また、嘘を伝える朝日新聞となった・・、
  「日本が、自由と独立を欲するならば、適当な防衛力
 を維持しなければならない」というところを強調しただ
 けだった(朝日新聞、1953年11月19日、夕刊)
  結局、嘘記述となった朝日新聞は、ニクソン副大統領
 の公式の場における重要発言を隠してしまった・・、
  「当時のGHQの指導による大日本国憲法を改正した
 日本国憲法(第9条:戦争放棄等)は誤り」・・と、
  公式の場で明確に発言しているのにである・・
  公正に報道せず、自紙に都合の良い記事を捏造する形
 になった・・この様な性癖が染み付いている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月~1892年8月)

2017-10-19 04:50:07 | 日記
題:(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月~1892年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年7月22日 徳島県下の大水害(7月23日説あり))
  明治25年(1892)7月23日朝、台風が高知市付近に上陸
 して山陰に抜けた。
  徳島県は暴風雨、洪水、高潮の大災害に見舞われ、そ
 の上山岳の崩壊も数知れなかった。
  県下の被害は8月2日現在で死者311人、負傷者89人、家
 屋の全壊2,635戸、流失644戸、半壊2,559戸、潮入36,242
 戸、船舶478艘、堤防決壊57km、海水浸水6,799町、雨水
 浸水19,653町等に及んだ。
  山岳崩壊では、保瀬の大崩壊が25日10時頃起こり死者
 47人を出し、高磯山の崩壊が25日11時に起こり対岸の集
 落の15戸65人を埋没させるなどした。
1892年7月23日、岡山地方に未曾有の大雨
  盆を覆すが如き大雨で、旭川、吉井川、百間川、砂川
 等増水し、石関町、下出石町堤防2ヶ所の決壊を期に各
 所で破堤し、溢水と混合して市内一円高きは軒に達し低
 きは床上数尺の大洪水となる。
  風 速 直東30m/s(23日08時) 気 圧 737.6㎜Hg(=984mb)
  雨 量 23日06時~18時の12時間166㎜ 23~24両日の降
 雨総量245.4㎜
  出水高点 旭川:岡山1丈7尺、御野2丈3尺 吉井川
 :上道1丈8尺 砂川:上道1丈5尺
1892年7月25日、徳島県保瀬の大崩落
  徳島県下に津波・山崩れ・大洪水が起こり大災害とな
 る。
  明治25年(1892)7月25日、豪雨が海部川上流や那賀川
 上流を襲ったため、保瀬で大崩壊(土量約200万立米)が
 起こり、海部川の水を堰き止めた。
  このため、寒が瀬一帯は濁流に没し、4戸埋没、8戸流
 失、死者47人に被害を出し、上流一里半の樫谷の大杉の
 鞘が水に隠れ、さらに上流の轟神社の扁額が半分水に浸
 かった。(「海部郡誌」による)
  堰き止められた水が一斉に流下して大氾濫を起こすか
 も知れないという情報は上流から下流に伝えられたため、
 下流部では人的被害はなかった。(「海南町史上巻」に
 よる)
  明治25年(1892)7月25日の豪雨時に、保瀬で崩壊が発
 生し(崩壊土量200万立米)、天然ダム(湛水量1,400万
 立米)が形成され29時間後に決壊したが、事前に避難。
  明治25年(1892)7月25日、台風に伴う集中豪雨により、
 海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が起こり、
 4戸が埋没し、住民11人と山稼ぎ人36人が生き埋めとなっ
 た。
  崩壊土砂は河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成した
 ため、湛水によって8戸が流出し、9人が水死した。
  さらに天然ダムの決壊により、下流域で流出2戸、半壊
 11戸の被害が出たが、高潮被害と重なり、天然ダム決壊
 による被害のみを分離することは難しい。
  天然ダム決壊の恐れは事前に下流に知らされ、決壊時
 には鉄砲、大砲、狼煙などで伝達された。
  明治25年(1892)7月25日午前10時頃、川上村大字平井
 の保瀬の右岸山上が大崩壊した。
  山の土砂が海部川を堰き止め、洪水は逆流し、寒ヶ瀬
 一帯は濁流に襲われた。
  この大崩壊のため、埋没4戸、洪水による流失8戸、死
 者47人を出した。
  この災害は、大戸の崩壊とともに徳島県下の山岳崩壊
 中特筆すべきものである。(「海部郡誌」による)
  明治25年(1892)7月25日、長時間の暴風雨と満潮が重
 なって、海部川は至る所で堤防が決壊し大洪水となった。
  16時間にもわたる暴風雨で増水した海部川が河口での
 満潮によって堰き止められ、池内徳蔵「諸経歴概要記」
 によると、25日午前5時に最高水位となり、水嵩は海部川
 堤上3尺内外であった。
1892年7月30日、第1次松方内閣総辞職(8月8日説あり)
  第1次松方内閣は、大蔵大臣の松方正義が第4代内閣総
 理大臣に任命され、1891年5月6日~1892年8月8日まで続
 いた。
  選挙干渉により、6月に入ると、他の閣僚からも辞表提
 出者が相次ぎ、
  7月に、白根・安場らの更迭が決定されると、同月27日
 には処分に消極的であった軍部大臣が揃って辞表を提出、
 これを見た松方は自らも辞表を提出した。
1892年7月、歌舞伎座で「怪談牡丹灯籠」が初演された。
  三遊亭円朝の傑作『怪談 牡丹燈籠』が、この時、三世・
 河竹新七の脚色によって歌舞伎化され、
  五代目・尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演され、空前
 の大当たりとなった。
  そして、この時以来、人気演目として定着した。
1892年8月1日、北海道炭砿鉄道会社線の室蘭駅(現:東室蘭)
 ~岩見沢駅間(134.5km)が開業した。
1892年8月6日、伊沢修二が、小学校教育費の国庫補助を要
 求するため、国立教育期成同盟会の結成を提案した。
  この後、教育費国庫負担の請願書を・・、
  国立教育期成同盟会は、1892年12月に、第1回請願書
 (東京府伊沢修二以下10,162名)、
  翌年・1893年2月に、第2回請願書(宮城県阿部三右衛
 門以下703名)を帝国議会に提出した。
  日本には・・教育の重要性の認識は勿論、公平性、機
 会均等などの思想が根付いていた・・
  この後の台湾・朝鮮などの地においても、
  日本の内地と同等、または、それ以上の教育施設の充
 実などを図って行く。
  伊沢修二(1851年6月30日~1917年5月3日)は、日本の
 教育者、文部官僚で、近代日本の音楽教育、吃音矯正の
 第一人者。
  信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)の高遠
 藩士の子として生まれる。
  下級武士のため極端な貧乏の暮らしに育った。
  1861年(10歳)より藩校進徳館で学び、
  1867年(16歳)に江戸へ出府。英語を学ぶ。
   その後、京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。
  1869年(18歳)には藩の貢進生として大学南校(のち
   の東京大学)に進学した。
  1872年(21歳)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ
   移る。
1892年8月8日、第二次・伊藤博文内閣が成立した。
  政局の安定を目指した元勲内閣であったが波乱含みで
 あった。
  この日、第一次・松方正義内閣が総辞職し、第二次・
 伊藤博文内閣が発足した(1892年8月8日~1896年8月31日)
  ふたたび、伊藤博文が内閣を組織し、陸奥宗光とのコ
 ンビで不平等条約の改正を行なった。
  野党の政府批判、外国との条約改正点の折衝などで苦
 労多き国会運営が続いた。
  また、日清戦争も起きた。
  挙国一致体制で動き、勝利によって政権は安定化した。
  しかし、この戦争の後、ロシアが中国・清に変わって
 朝鮮へ進出して来た(日本は、朝鮮から遠ざけられた・・
 これを、野党は、外交の失策と政府批判の題目とした)
  明治天皇陛下の信任が厚く、詔勅によってしばしば政
 局の危機を乗り切った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:紀元1世紀~2世紀、キリスト教聖書ができた。
   そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見された。
   そして、この経緯と同じことを、今、中国がやっている。
.
紀元1世紀~2世紀、キリスト教聖書ができた。
  そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見
 された。
.
200年~250年頃、ポリネシア系住民が、ハワイ諸島を発見
 し移住した。
  そして、住み付き、ハワイ諸島の所有者となった。
  時を経て(約1700年を経て)・・、
  1881年、ハワイ国王が、日本に来た時、国王からの
 提案があった。
  そして、その後、12年後、その関係もあって・・
  1893年、アメリカが、ハワイの王政を廃止し、ハワイ
 を乗っ取った時・・、
  日本は、東郷平八郎を艦長とする巡洋艦「浪速」と「
 金剛」などの戦艦をハワイに派遣した。
  ハワイにいる日本人の保護を名目としていたが・・、
  「ハワイ王政が、武力で倒されるという非常事態にあ
 って、ハワイの方たちを守ろうとした」。
  東郷平八郎(後の元帥)は、戦艦「浪速」をホノルル
 港に停泊させることで、アメリカ軍ににらみを利かせ、
 アメリカによるハワイ併合を遅らせた。
  実質的には、アメリカへの抗議であった・・アメリカ
 は激怒した。
  アメリカのハワイ王国の奪取は、明らかに一方的な侵
 略であった。
  当時、ハワイには、日本人移民が2万人以上(当時の
 人口の約50%)を占めていた。
  アメリカ人は約7000人で、日本移民の3分の1にすぎ
 なかった。
  この時のことがあるため、「ハワイの方たちは、日本
 や東郷平八郎に対しては、感謝の気持ちを大きくしてい
 る」。
  そして、この年・1893年、アメリカ系移民は、ハワイ
 王国のリリウオカラーニ女王を幽閉し、
  「廃位します」という書面に無理やりサインさせ、ハ
 ワイ女王を廃位させた。
  さらに、卑劣な事に、ハワイ王国第8代の女王であるリ
 リウオカラーニ女王を有罪にして、重労働五年の判決を
 下した。
  この時、女王は「アロハ・オエ(私の愛をあなたに)」
 という悲しい曲を作った。
  (1)雨が誇らしげに尾根を横切り 、
    森の中を通り抜けていく
    未だ開かぬ蕾を探しているかのように
    山あいに咲くレフアの花よ
  (2)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  (3)懐かしく暖かい思い出が胸をよぎる
    ついこの間のことのように
    愛する人よ 我が愛しき人よ
    真心は決して引き裂くことはできない
  (4)私はあなたの素晴らしさをよく知っている
    マウナヴィリに静かに咲くバラの花
    そこにいる啼かない鳥たち
    そして木の陰にいる美しい人
  (5)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  歌詞の内容が、雨を共和制実現を目指す白人勢力、花
 をハワイ王国の国民の暗喩と考えれば、王国の滅亡が目
 前となった当時の状況や、女王の心情に驚くほど見事に
 符合する。
  このことから、1893年の初演には、強引なアメリカに
 よる従属国化・併合に対する女王の反発であった。
  ハワイの歴史・・概歴・・
  250年頃、ポリネシア系住民(今のハワイの原住民の
     方々)が移住し、ハワイ諸島の所有者となる。
  300年頃、イースター島へ、ポリネシア人が到達。
  400年頃、ポリネシア人がハワイ諸島へ、
  900年頃、ポリネシア系住民が、再度、ハワイ諸島へ
     移住。
  12世紀後半、ポリネシア系先住民が、ハワイ諸島を族
     長を立て、支配した。
  1778年、イギリスのジームス・クックが、ハワイ諸島
     を発見した・・と欧米系の歴史は記すが、本当
     の発見者は、ポリネシア人の方々・・、
  1781年、ロシアが南下し、アラスカへ入植した(侵略
     行為)。
  1790年、カメハメハ王が、ハワイ島の王となり統治す
     る。
  1794年、ハワイ島以外の全島統治者のマウイ島大族長
     が死去した。
  1794年、イギリスが、カメハメハ王を統治者と認知し、
     支援する。
  1795年、カメハメハ王が西洋の武器を活用して、マウ
     イ島やオアフ島を攻略する。
      そして、ハワイ全島を支配下に置き、ハワイ
     王朝を樹立し、統治する。
  18世紀後半、イギリス・フランス・スペインなどヨー
     ロッパ植民地帝国が来航する。
  1816年、露米会社が設立された⇒カウアイ島を保護下
     に置く。
  1817年、カメハメハ大王が、シェーファーを追放。
     1816年に座礁したベーリング号奪回の交渉役と
     して派遣された船医シェーファーが、会社に独
     断でカウアイのカウムアリイ王と密約を結び、
     ワイメア河口にロシア砦を建設した。
      その為、カメハメハ大王との仲が険悪になり、
     シェーファーはカウムアリイに追放された。
  1820年~1880年、捕鯨貿易の寄港地となる。
  1820年、アメリカ人が来島(キリスト教宣教師たち・・
     結局、この輩たちが、ハワイ滅亡の悪の結果を
     もたらして行く)、教育、政治、経済に介入、
     影響力を行使する。
  1823年、プロテスタンティズム・西欧化が推進される。
     ⇒1935年、初の製糖会社が設立される。
     ⇒カトリック禁止令を出さざるを得なくなる。
  1835年、製糖産業が操業される(経済的侵略が始まる)
  1840年、ハワイ憲法が公布され、アメリカ・ヨーロッ
     パ諸国の干渉が激しい、産業を育成して独立を
     維持しようとする、立憲君主制へ移行(西欧近
     代化という名目)
  1842年、アメリカの良識国民派が、ハワイの植民地化
     に反対する。
  1844年、アメリカ・ヨーロッパ系白人が、ハワイ政府
     の要職に就任することが可能とされる。
  1850年、外国人が「土地を所有することが出来る」と
     認可される(土地という領土を奪っていく)
  1851年、ハワイ政府が、アメリカの保護領となること
     を宣言する。
  1852年、アメリカ議会で、ハワイ併合案が提出される。
  1862年、外国人土地保有75%に(もう、ほとんど乗っ
     取られた)⇒人口問題。農園労働者不足となる。
  1875年、アメリカとハワイの米布互恵条約が締結され
     た(不平等条約)
      経済のアメリカ市場への依存が開始する。
  1878年、ハワイ王国の女王がアロハ・オエを書く。
  1881年、日本に、ハワイ国王カラカウア1世が来日した。
      明治天皇陛下と赤坂離宮で会談した。
      そして、日本へのハワイ国王の提案内容
     (1)カラカウア王の姪で王位継承者のカイウラ
       ニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮
       依仁親王)との縁組。
     (2)日本・ハワイの合邦(連邦)
     (3)日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷
       設。
     (4)日本主導による「アジア連邦」の実現。
  1885年、労働契約移民制度が実施された。
  1887年、ハワイ王国が、本格的に、アメリカの傀儡と
     なるのは、1887年の憲法修正以降で・・、
      この年、米布互恵条約が更新され、アメリカ
     が、真珠湾の独占使用権を獲得した。
      親米派が、改革党を結成した⇒反米派は、国
     家改革党を結成した。
      ベイオネット憲法公布(王権が弱体化される)
      女王が、議会を閉会した⇒親米派が、公安委
     員会を結成した⇒アメリカのハワイ公使が、ア
     メリカ国軍の海兵隊の上陸を要請した⇒公安委
     員会が、暫定政府を樹立した。女王に廃位を勧
     告した⇒女王は強引に廃位を認めさせられた。
  1889年、ウイルコックスが反乱した。
      改革党選挙で大敗⇒女王即位。王権派・国家
      改革党支持、政局混迷、
  1891年、欧米人の登用などをせざるを得ない状況とな
     り(近代化の名目)、その中で女王即位⇒政局
     混迷の状況へ、
  1892年、親米派がハワイ併合クラブを結成した。
  1893年、親米の反王政派により、リリウオカラニ女王
     がイオラニ宮殿に幽閉され、暫定政府の樹立さ
     れ、政権奪取(クーデター?)で王朝滅亡、欧
     米諸国は暫定政府を承認した(当初からのハワ
     イ奪取の茶番劇)
      日本の巡洋艦が、ハワイ諸島へ抗議の意味も
     あって派遣された。アメリカは激怒した。
  1894年、ハワイ共和国ができ、ハワイ王国が滅亡させ
     られた。
  1898年、アメリカが、ハワイを併合した。
  1959年8月21日、アメリカが、ハワイを自国の州とした。
      立派な政府があって、住民も支持をしていた
     その王国が消え・・アメリカとなった。
.
1837年、リンカーンが28歳の時、以下のような発言をした・・、
  「奴隷制度は、不正と悪政にねざすことを信じるが、
  しかし、奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるより
 はむしろ増大させるものと信ずる」と、奴隷解放の反対
 理由を言っている。
  また、リンカーンの言葉(1858年、49歳)・・
 「これまで、私(リンカーン)は、黒人が投票権をもっ
 たり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度
 もない。
  彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにす
 ることにも反対だ。
  皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはな
 い」・・、
  さらに、リンカーンの言葉(1861年3月4日、52歳)・・、
  「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直
 接にも間接にも干渉する意図はない。
  私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそう
 したいという意思もない」。
  黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に・・、
  リンカーンを、『白人至上主義者』と呼んだ。
  この時、広く注目を集めた。
  批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人
 を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主
 張し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに、
 苦情を言っている。
  リンカーンの擁護派は、
  彼が大半の政治家ほど悪くはなく、
  政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展さ
 せた「道徳的先見家」だったと弁護している。
  (参考)人道主義:じんどうしゅぎ、人間性を重んじ、
     人間愛を実践し、併せて人類の福祉向上を目指
     す立場。
.
1858年8月21日、リンカーン対ダグラス論争
  リンカーン(49歳)と、黒人のスティブンス・ダグラ
 スとの論争は、この日を第1回として、7回、奴隷制につ
 いて論争をした。
  その時、リンカーンは以下のような言葉を言った・・、
  「私(リンカーン)は、白人種と黒人種の社会的政治
 的平等を如何なる形でも、もたらすことに賛成はしてい
 ないし、これまでもそうではなかった。
  私は、黒人を有権者にすることも、陪審員にすること
 にも、賛成していないし、
  彼等〈黒人)が、役職者になる資格を与えることとか、
 白人と結婚するとかということにも賛成しておらず、こ
 れまでもそうだった。
  さらには・・、
  「白人種と黒人種の間には身体的な違いがあり、
  2つの人種が、社会的政治的平等という条件で共に暮
 らすことを永久に禁じることになると考えている。
  彼等が、そのような生活をできない限り、
  彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
  他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当て
 られていることに賛成する・・」・・
  まったく、黒人の方々の人権を無視した発言をしてい
 る。
.
1860年代、イギリスの経済的なピークは、1860年代であっ
 たと言われている。
  そして、その30年後の1890年代までには、その優位さ
 をほぼ失った。
  そして、1970年代には、イタリアと同程度の経済規模
 まで落ち込んだ。
  その間、約100年である。
  人生100年の時代と言われているが、一人の世代で、
 イギリスについて、この様な事が言われている。
  日本は、1980年代が、飛ぶ鳥を落とす状態だった。
  日経平均株価は、1989年12月29日に、3万8915円87銭の
 市場最高値を記録した。
  そして、2017年10月11日に、2万881円27銭という21年
 ぶりの高値になったと報じられた(戻り率53.7%)
  今、戦後、最長の好景気と言われている。
  今、北朝鮮の事を含め、また経済も含め、日本は、転
 換点に居ると言える。
  足元をしっかりして「次のステップ」へ進まないと、
 イギリスの如くになる。
  日本は、20世紀後半に高度成長した。
  世界は、「日本は、もうすぐ、欧米全部を組み合わせ
 た以上に大きくなる」と予測され、見られていた。
  しかし、そうはならなかった・・、
.
1862年8月17日、ダコタ戦争(リンカーン、53歳)
  アメリカのミネソタ州南西部のミネソタ川沿いで、ア
 メリカインディアンのダコタスー族との戦い。
  居留地の移動を、何度も強いられたインディアンの方々・・
  (白人・アメリカ人は、肥沃な土地が欲しくて、イン
 ディアンの方々の地=アメリカ西部の地をインディアン
 の方々を西へ西へと追いやって行った)
  (また、追いやられた居留地と言ったって、畑作もま
 まならないような地だった)
  その様な状況であるため、インディアンの方々は、食
 料をアメリカ政府に頼っていた・・また、その条件での
 移動でもあった。
  しかし、この時は、飢餓状態にさせられ、戦争という
 より、飢餓から来る反抗であった。
  (また、白人・アメリカ人は、インディアンの全滅を
 狙って、インディアンの方々の食糧であるアメリカ野牛・
 バイソンの絶滅を行なっていた・・
  白人・アメリカ人は、「不要な野牛狩り」をして、野
 牛の頭だけが、西部の原野に山のように積まれている写
 真が残っている・・
  その野牛の山の頂上に、白人・アメリカ人が得意そう
 にして立っている)
  この戦いで、卑劣にもアメリカは、38名のアメリカ・
 インディアンのダコタ族を、一斉絞首刑を行なった。
  そしてまた、ミネソタからの追放という、アメリカが
 よくやる民族浄化を行なった。
  この時のアメリカ大統領が、第16代のエイブラハム・
 リンカーン(在任期間:1861年3月4日~1865年4月15日)
 だった。
  大統領就任後、1年5か月という、リンカーンのおじい
 さんの仇(かたき)を、就任早々に取ったのだった、
  リンカーンのインディアンに対する態度は、常に徹底
 排除の姿勢を崩さず、アメリカ・インディアンの大量虐
 殺の指揮を取り続けた。
  リンカーンについての解説にも・・「黒人奴隷に関し
 ては『奴隷解放の父』と呼ばれているリンカーンだが、
  インディアン民族に対しては、弁護士時代から大統領
 時代にかけて、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐
 殺を指揮している」・・と記されている。
  民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホ(厳寒期の遠い地への居留地移動)や、ダコタ戦争を
 始めとする多くのインディアン戦争は、リンカーン政権
 下で行われた・・まったく卑劣な行為だった。
  そして、リンカーンのこの『目には目を』の行為は、
 弁護士時代から始まっていて、インディアン方々の居住
 地取り上げに奔走した。
  その一つが、西部方面へのインディアン領土への鉄道
 拡張だった・・卑劣なインディアンの土地権利の抹消処
 理・・その行為を、多数、手がけた。
  リンカーンが「無効(neutralized)だ」としたインデ
 ィアン部族の方々の土地に対する書類は、現在も数多く
 残されている。
  リンカーンは、執念を掛けて、インディアン民族に対
 して、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮
 した。
  当時の保留地は、外に出ることを許されない完全強制
 収容所の状態だった・・食糧を獲ったり、作ったりでき
 る訳がない。
  また、卑劣にもリンカーンは、ミネソタのダコタ族と
 の連邦条約を一方的に破棄した。
  そして、ミネソタ州にあるインディアンの方々の居留
 地を強制没収した。
  そして、無慈悲にもインディアンの方々をノースダコ
 タ等の他のスー族の保留地に強制連行した。
  ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
 州を挙げての『皆殺し政策』が行われた。
  女性や子供にまで、インディアンであれば誰であろう
 とを問わず「賞金をかけた」。
  その様にして、徹底絶滅が図られた。
  リンカーンのやり方は、この様な虐殺方針だった。
  当然、リンカーンが責任者としてそこに居た。
  そして、1863年の夏、リンカーンは、ジェームズ・カ
 ールトン准将に、南西部のナバホ族インディアンの討伐
 を命じた。
  当然、無理な命令に、ナバホ族は、ダコタ族同様に、
 抵抗した。
  また、カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると
 睨んでいた。
  指令者のリンカーンは、1864年に、以下の命令をした・・、
  「ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル、何
 と、東京から大阪近くの距離である)離れた東にあるアパ
 ッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行
 を命じる(ロング・ウォーク・オブ・ナバホ)」だった。
  この強制連行の途上で、何百人もの死者が出た。
  厳寒期の中、そのほとんどが、子供や老人だった。
  そして、「ボスク・レドンド」で、ナバホ族は、強制
 労働をさせられた。
  女性は、アメリカ軍兵士から強姦された。
  乳幼児のほとんどは、生まれて間もなく、過酷な環境
 下で死んだ。
  結局、リンカーンが死んで和平条約が結ばれたが・・、
  その1868年の和平条約が調印されるまでに、2000人以
 上のナバホ族が死んだ(ナバホ族だけで・・)。
  この様なリンカーンの先住民であるインディアンの方々
 への虐殺事例は多くある。
  この原因の一つが、リンカーンという名前が、インデ
 ィアンに殺害された父方の祖父「エイブラハム・リンカ
 ーン」にちなんで命名されたというところにもある。
  アメリカ北部政権のシンボルになっているが、この様
 な人物である・・
.
1865年4月14日、リンカーン大統領暗殺事件が起きた。
.
1870年3月、リンカーンの黒人奴隷解放で、『めでたし、め
 でたし』という状態ではなかった。
  まだまだ、卑劣な状態のアメリカだった。
  リンカーンの奴隷解放で「すべてが終了した」と思わ
 せたが、それが、アメリカのプロパガンダ(嘘宣伝)で
 もあった・・
  まだまだ、アメリカは、卑劣な事を黒人の方々へ行っ
 ていた。
  そして、やっと、1870年3月に至って、黒人の方々は、
 「選挙権を勝ち取った」。
  「選挙権を与える」という事が、上から目線で認めら
 れた(憲法修正第十五条)
  1863年の奴隷解放宣言から7年2ヶ月の黒人の方々の闘
 いの後だった。
  また、黒人の方々は、闘いの成果として「公民権侵害
 に対する処罰法」を制定させた。
  黒人の方々は、初めて、アメリカという自分たちの国
 で選挙権を行使することが出来る事となった。
  卑劣なアメリカだった。
  政治上の意思表示が出来る状態が、やっと黒人の方々
 の手に入った。
  本当に遅れた国=アメリカで、民主主義もないアメリ
 カだった。
  黒人の方々も、やっと、州議会に選ばれ、自分たちの
 生活について考えを言える立場を得た。
  いくつかの州では、州議会の下院議員の半数近くが黒
 人議員となった・・
.
1870年、この頃までに、アメリカの北部政治は、完全に今
 までとは違ったものとなった。
  何と!! 北部は、『南部を市場として収奪する場』
 として位置づけた。
  奴隷制廃止運動の指導者であるサディウス・スティー
 ブンスは言った、「プランターの大土地を没収して、こ
 れを、黒人や貧しい白人に無償で分配せよ」・・と・・
  そして、「黒人と貧しい白人との同盟」が進んで行っ
 た。
  アメリカ北部の傲慢な資本家に向かって、労働運動も
 盛んになった。
  飛躍的に成長した北部の産業資本家たちは、南部の旧
 奴隷所有者たちへの再建運動が進み過ぎるのを恐れ出し
 た。
  国内市場として南部が開放されると、その南部プラン
 ターと手を結んで、南部を北部資本家の収奪の場にした
 くなった。
  この様な北部産業資本家の思惑が政治を動かして行っ
 た。
  アメリカ北部政治は変質して行った。
  1870年頃までに、完全に変質した。
  ここに、北部政治と黒人の方々との乖離(かいり)が
 あった。
  黒人の方々は、「旧奴隷所有者たちの再建運動」への
 反対活動が始められた。
  対立軸は、黒人の方々の「大土地所有者たちの土地(
 旧奴隷所有者たちの土地でもある)を分配せよ」という
 立場と・・、
  北部資本家は、「今までの南部を、市場として取り込
 もうという、だから、旧奴隷所有者たちを再建しよう」
 という立場があった。
  アメリカ北部政権は、この北部資本家の立場にいた。
  この様な反動的な動きに、黒人の方々は、当然、「旧
 奴隷所有者たちの再建運動反対活動」を開始したが、こ
 の黒人の方々への白人・アメリカ人の攻撃も始まった。
  銃のあるアメリカ社会・・、その銃を持った白人・ア
 メリカ人たちによって襲撃された。
  「KKK(クー・クラックス・クラン、1865年に結社
 されていた)」「黒十字騎士団」「白バラ騎士団」「白
 つばき騎士団」などの秘密結社だった。
  たちまち、アメリカ社会に広がった。
  総帥を「大魔王」などと称した。
  頭からすっぽり三角の覆面を被り、幽霊のような姿で
 顔を隠した。
  そして、黒人の方々を襲撃して、殺戮した。
  深夜、馬にまたがり町や野原を疾走した。
  その白い姿に黒人の方々は、恐れ慄(おのの)いた。
  威圧する奇妙な姿の行動は効果があった。
  黒人の方々の家を襲い、殺戮したりした。
  また、投票行為を妨害したり、黒人の方々に味方する
 白人をも平気で殺害した。
  黒人の方々が、教育や啓蒙活動をすると、その学校や
 教師まで襲った。
  1870年頃が最悪だった。
.
1872年5月、アメリカで、大赦法が制定された。
  反動の法が出来た。
  黒人の方々の必死の努力と血まみれの戦いによって得
 た権利=人権、当然の持って生まれた権利であるべきも
 の=人権、
  その当然の人権を、戦いを経なければ得られないとい
 う遅れた社会・アメリカに生まれた黒人の方々、
  その当たり前の権利がない黒人の方々の「その人権」
 がやっと得られて来たと思われたアメリカに・・、
  反動の嵐が・・吹き荒れて来た。
  事の発端は・・アメリカ北部資本家たちが、アメリカ
 南部を市場として取り込んだら「もっと儲かるだろうと
 考えた」からだった。
  当然の権利を得ようと活動する黒人の方々が、その足
 を引っ張る形になった・・
  奴隷制復活への動きだった。
  それ故、その活動家の黒人の方々へ、当然の権利を得
 ようとする黒人の方々へ、顔に覆面をした白人・アメリ
 カ人が・・結成された秘密結社が・・襲った。
  種々の秘密結社が生まれ、その結社に、黒人の方々は
 襲撃され、意味なく無為に殺された。
  また、白人優越=黒人蔑視のキリスト教観に洗脳され・・
 有色人種蔑視観がを持った者たちの暴力がアメリカに吹
 き荒れた。
  そのような時、1872年5月に、「大赦法」が制定され
 た。
  黒人の方々を虐げていた旧支配階級の者たちへ大赦が
 与えられ、
  また、政治的権利も種々与えられ、全面的に復活した。
  そして、奴隷解放活動をしていた「解放民局」も活動
 を停止した。
  そして、この時、大統領になったユリシーズ・グラン
 トも悪だった。
  (参考)第18代アメリカ大統領:ユリシーズ・グラン
     ト、任期:1869年3月4日~1877年3月4日、
  このグラントは、南北戦争の最終局面で、南部軍のリ
 ー将軍をアポマトックスに降伏させたグラント将軍だっ
 た。
  このグラントは、大統領となって、まったく腐敗と汚
 職の中にいた。
  北部軍の歴史的将軍も「地に落ちた輩」となっていた。
  この大統領のこの時を、「アメリカ政治の最も堕落し
 た時」と言われている。
  また、この時、政党も堕落していた。
  共和党や民主党も堕落にまみれていた。
  そして、この様な堕落の時を経て、次の大統領選がや
 って来た。
  1876年11月、開票して民主党が勝利した。
  しかし、共和党は、サウスカロライナ州などで不正が
 あったと、クレームを付けた。
  民主党の勝利を認めなかった。
  話は決着がつかず年を越した。
  そして、1877年2月、政治的取引がなされた。
  共和党は、「サウスカロライナとルイジアナの両州の
 連邦軍の撤退」を条件にして、共和党の大統領の当選権
 を得た。
  何と! 逆転である。
  共和党は、その2州などの南部を、民主党の支配下に置
 くことを了解した。
  この時、同時に、黒人の方々の今までの努力も、まっ
 たく無に帰した。
  この時、大統領が転がり込んで来た大統領が、第19代
 アメリカ大統領:ラザフォード・ヘイズ、任期:1877年
 3月4日~1881年3月4日・・である。
.
1893年、ハワイ王国の滅亡
  ハワイ王国のリリウオカラニ女王が、アメリカとの不
 平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発し
 たアメリカ系移民であるアメリカ人農場主らが、アメリ
 カ海兵隊160名の介入・侵略をさせて、ハワイ王国を滅
 亡させてしまった。
  ハワイ王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。
  完全な元アメリカ人のハワイ移民を使ったアメリカの
 傀儡(かいらい、人の手先となって思いのままに使われ
 る)のハワイへの乗っ取り・侵略であった。
  この時、日本は、あまりにも卑劣な行為の侵略である
 ので、邦人保護を理由に、東郷平八郎の率いる巡洋艦「
 浪速」他2隻をハワイに派遣した。
  そして、ホノルル軍港に停泊させて乗っ取り勢力・偽
 クーデター勢力を威嚇した。
  先住民の正統政府のハワイ王国女王を支持する先住民
 らは、日本の軍艦の来航を涙を流して歓喜した。
  また、ハワイ在留日本人も、先住民の方々の女王支持
 派と同じ気持ちで行動をとった。
  しかし、アメリカによるハワイ併合は、この年・1898
 年に実現されてしまった。
  そして、その66年後の1959年8月21日、アメリカは、ハ
 ワイをアメリカの州とした・・当初の目的を達成した。
  今、中国が、このアメリカと同じことをやっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月)

2017-10-15 03:57:59 | 日記
題:(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月22日、与党中央交渉部を母胎として、中立議員ら
 が国民協会を結成した。
  国民協会は、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭と
 する山県有朋系の官僚出身の保守主義者を中心として結
 成された国家主義的政党で、藩閥政府を擁護した。
  中国の軍拡を見て、軍備強化の必要性を主張し、また、
 製鉄所の建設など実業の振興の必要を主張した。
  条約改正問題で、第2次伊藤博文内閣と対立して与党的
 地位を失った。
  日清戦争後に、藩閥政府が、自由党や進歩党などの「
 民党」との提携に至ると、藩閥勢力の中でも最も保守的
 な山県有朋との関係を強めたが・・、
  党勢は、創立当初は70名を擁した議員が、選挙ごとに
 減少し・・衰退の一途をたどり・・、
  1898年8月には、21名となり・・、
  1899年に、品川の枢密院入りで支柱を失い・・、
  1899年7月4日に解党した。
  翌日、帝国党となって再出発した。
1892年6月26日 弁護士総会を、初めて東京で開催した。
  現在の弁護士制度ができる前は、「代言人」と呼ばれ
 ていた。
  1880年5月13日に、代言人規則が全面改正され、代言人
 組合の結成が義務付けられた。
  それを受け、1880年6月27日、横浜代言人組合が設立さ
 れ・・
  1880年6月29日に、東京に・・
  1880年9月30日に、大阪に設立された。そして・・
  1892年に、弁護士法が成立し、代言人は弁護士へ、代
 言人組合は弁護士会へと、法律によって改名した。
  この頃の弁護士は、司法省(検事正)の監督のもとに
 おかれ、その独占業務も、法廷活動に限られていた。
  弁護士は、裁判官や検察官よりも格下とされ、試験制
 度も異なっていた。
1892年6月27日、震災予防調査会が設立された(7月15日説
 あり)
  震災予防調査会は、1892年6月27日~1925年11月14日に
 設置されていた文部省所轄の地震や震災に関する研究機
 関で・・、
  1891年の濃尾地震の被害の大きさに衝撃を受けた関谷
 清景らが・・、
  地震の予防は出来なくても、被害を最小限に食い止め
 る方法を研究することは可能である・・として、
  帝国議会に対して、そのための研究機関の設置を建議
 した。
  明治政府もこれを受けて、この年に、震災予防調査会
 で、「震災予防に関する事項を攻究し其施行方法を審議
 する」ことを目的とし、文部省所轄の研究所として設置
 された。
  (参考)関谷清景(せきや きよかげ、1854年12月11日
    (1855年1月28日)~1896年1月8日)は、日本の地
     震学者。世界初の地震学教授。
1892年6月、東京~大阪間に4重電信機が導入された。
  最初期の電信は、1本の線で1通信しか送信できなかっ
 た。
  取扱量を増やそうとすると、電信線を増設するしかな
 かった。
  1890年代のニューヨーク市の電信柱は、電線だらけと
 なった。
  そこで、通信スピードを上げて短時間で多くの情報を
 送れるようにと、効率化をしようとしたが、結局は、電
 信技手の手送りの時代で、決定的改善策とはならなかっ
 た。
  ここに、「多重通信技術」が生まれた。
  1本の線で2倍、4倍と同時使用できる技術で、コストの
 低減に劇的な効果があった。
  1853年に、オーストリアのギントルが、二重通信法を
 発明した・・そして・・、
  1868年~1872年に、スターンズが、二重通信の実用性
 を上げる発明がなされ、
  1874年に至り、エジソンが、四重通信法を発明した。
  スターンズの方法は、送信と受信が同時に出来るとい
 うもので、この双方向通信で能率を倍加させた。
  エジソンは、振幅パルス変調を取り入れ、1回線を4倍
 にした。
  (参考)パルス振幅変調(パルスしんぷくへんちょう)
     は、情報信号の振幅をパルス信号の系列で符号
     化(エンコード)する、パルス変調の一つ。
1892年6月、スイスで、ブリエンツ・ロートホルン鉄道が開
 通した。
  ブリエンツ・ロートホルン鉄道は、スイスのブリエン
 ツからブリエンツ・ロートホルンの山頂へ登る登山鉄道。
  この登山鉄道は、ラック式鉄道(歯軌条鉄道)で、2本
 のレールの中央に、歯型のレール(歯軌条、ラックレー
 ル)を敷設して、車両の床下に設置された歯車(ピニオ
 ン)とかみ合わせて、急勾配を登り下りする。
  この歯車で、推進力と制動力の補助とする。
  因みに、このラック式鉄道に対して、車輪とレールの
 間の摩擦力(粘着力)によってのみ駆動と支持を行う通
 常の鉄道を『粘着式鉄道』と呼ぶ。
1892年7月1日、九州鉄道会社線の門司・博多・小倉・福岡
 の4駅と、筑豊興業鉄道会社線の直方・若松両駅との相互
 間で連絡乗車券の発売を開始した。
1892年7月3日、大磯海水浴場開き行われた。
  大磯町は、神奈川県の南部に位置する町で、相模湾や
 高麗山、鷹取山などの豊かな自然が暮らしの場に近接し、
  また、長い時間をかけて郷土が培ってきた伝統や文化
 が大切に受け継がれ、
  自然的、歴史的、文化的に魅力のある町として発展し
 てきた。
  1885年(明治18年)、初代・陸軍軍医総監を務めた松
 本順が、西洋医学における先端医療のひとつとして、「
 海水浴」を推奨し・・、
  照ヶ崎海岸に海水浴場が開設された。
  これが、我が国の海水浴場の発祥と言われている。
  また、1887年(明治20年)に、大磯駅が開業した。
  当初は平塚から国府津までの間に駅は必要ない、とい
 う計画だったが、松本順が当時の初代内閣総理大臣・伊
 藤博文に相談し、大磯駅が誕生した。
  この大磯駅開業によって、海水浴客は増え続け、政財
 界の重鎮たちの別荘が数多く建築された。
  また、保養地としての大磯の名が全国に広まった。
  (参考)海水浴発祥の地は他にもある。
      神奈川県だけでも、著名な海水浴場が、本牧、
     富岡、七里ケ浜、片瀬が挙げられるが・・、
      片瀬では、明治初期に、早くも、外国人が海
     水浴を行なっていたことが知られている。
1892年7月4日、山陽鉄道会社社長・松本重太郎が、下等運
 賃を、神戸駅~三原駅間で、最高1円とした遠距離逓減の
 運賃改正(中等は下等の2倍、上等は同3倍)について申請
 した。(7月8日に認可された)
1892年7月6日、鉄道庁に、線路取調委員を置き、委員規則、
 および、処務順序を定めた。
  線路取調委員は、全国の鉄道線路調査や、鉄道敷設法
 に掲げる線路突削、および、比較線の線路調査に従事し
 た。
1892年7月6日、アメリカのホームステッド・ストライキ(
 暴動・・銃撃戦・・死傷者発生)
  長い不況が続くアメリカ・・、
  カーネギー製鋼会社、ホームステッド製鋼工場におい
 て、組合を弾圧したことより、ペンシルバニア州ホーム
 ステッドで争議が起きた。
  労働組合に反感をいだいていた H.フリックは、同社
 の社長に就任すると、労働組合の破壊を決意して、賃金
 の引下げを計画した。
  そして、労働運動に対し、フリックは、工場にフェン
 スを巡らしロックアウトの強硬策を実施した。
  労働者側は工場の周りをガードし、地元警察も排除す
 るという状態。
  フリックは、さらに強硬手段に出て、ピンカートン探
 偵社という名の300人の私設警察=会社防衛隊を雇い、工
 場に配置し・・、
  また、スト破りの新しい労働者を雇って操業を再開し
 た。
  また、探偵社は、深夜に、工場の脇の川からボートで
 工場内に入ろうとした。
  労働者はそれを発見・・ここで、ボートの内外で、銃
 撃戦が始まった・・14時間にわたって行われ・・
  労働者側は、最後に燃え盛る列車をボートに向け突っ
 込ませた。
  また、ダイナマイトをボートに向け放り込み、ボート
 を爆破した・・ここで、探偵社側は降伏した。
  探偵社側3名、労働者側9名が死亡し、70人以上の死傷
 者となった。
  会社は、州知事に民兵の出動を要請し、ペンシルバニ
 ア州知事は、8000人の州兵(民兵)を出動させ・・
  軍の出動によって、労働者側は鎮圧され、労働組合は
 壊滅した。
  この後、フリックは、関連会社の労働組合を周到に解
 体へと追い込んている。
1892年7月7日、鉄道庁分課規程を改正した。
1892年7月13日 海軍造兵廠で、5000名スト。
  1889年、呉鎮守府設置。
   同じくして「造船部」設置、小野浜造船所を管轄す
   る。
  1897年、「仮設呉兵器製造所」は「呉海軍造兵廠」に
   改称、呉で初の軍艦「宮古」進水。
1892年7月20日、山陽鉄道会社線の尾道駅~三原駅(現:糸
 崎駅)間(9.1km)が開通した。
1892年7月21日、鉄道庁が、内務省から逓信省に管轄替えと
 なり逓信省鉄道庁となる。
1892年7月21日、鉄道庁長官に井上勝が就任した。
1892年7月21日、近藤勇の正妻・つね(56歳) が死去した。
  1837年(天保8年)、清水徳川家の家臣・松井八十五郎
 の長女として生まれた。
  1860年(万延元年)3月29日、天然理心流次期4代目で
 ある近藤勇と見合い結婚する。
  近藤は武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市)の
 百姓・宮川久次郎の三男で、
  1848年(嘉永元年)に、江戸牛込の天然理心流道場で
 ある試衛場(試衛館)の近藤周助に入門した。
  翌年・1849年(嘉永2年)10月19日に、周助の養子とな
 った。
  1862年(文久2年)に、長女・たまを出産した。
.
  (今日の言葉)
.
 題:アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
   安易な方針転換をした中国もそこに居た・・、
.
707年、平城京への遷都の審議が始まった・・
  唐の都・長安をモデルにした平城京は、東西4キロ、南
 北約5キロのほか、東側に「外京」があって・・総面積は
 約2500ヘクタールだった。
  約10万人が暮らし・・、
  シルクロードの終着点として・・人や物が行き交う、
 国際色豊かな大都市として・・栄えた。
  だが、784年に・・、長岡京(京都府)へ遷都した後は、
 田畑や草木に埋もれた・・
  幕末に、調査されるまで・・人々から忘れ去れていた。
  この平城京への藤原京からの遷都は、文武天皇在世中
 の707年(慶雲4年)に審議が始まった・・
  708年(和銅元年)には、元明天皇により遷都の詔が出
 された。
  しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都され
 た時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程
 度だった。
.
1775年5月26日、ジョージ・ワシントンを司令官とする大陸
 軍(独立を目指すアメリカ軍)が正式に発足し、統一し
 た指揮系統が作られた。
.
1820年、アメリカは、22州であったが、まだ、その半分は
 奴隷州であった。
  この後、アメリカは、何ら根拠のない「西漸説」で西
 部を奪っていくが、逆に奴隷州が増えていく状況となる。
.
1854年、卑劣な奴隷制推進法の「カンザス=ネブラスカ法」
 ができた。
  アメリカは、黒人の方々が、長い間、奴隷にされて来
 た卑劣な遅れた国だが、奴隷解放された後もキリスト教
 に洗脳された「有色人種蔑視観」は消え去ってはいなか
 った。
  今・現在も、アメリカでは、黒人の方々が差別され蔑
 視されているが、その様な差別社会であるが・・、
  ミズーリ協定の付帯条件で、今後、西部に新しく出来
 る州は、北緯36度30分の北側を奴隷禁止にして、その南
 は奴隷制を認めるとした。
  アメリカは、この時にも、今までの様に、まだまだ、
 西の地を奪うのだと卑劣にも今後の予定していた。
  それ故に、アメリカは、この様な法律条文(規則)を
 作った。
  しかし、綿花という利益率の良い美味しい作物・・、
  そして、利益率が、どんどん良くなる作物・・、
  その作物を利用した利益収奪システムには、「黒人の
 方々を奴隷にしておく」という事が『確実に必要』だっ
 た。
  しかしこれは、何も、南部だけが儲かるだけではなく、
 アメリカ北部の木綿工業も儲けていた・・そして、より
 儲けたかった。
  つまり、ミズーリ協定が、目の上のたん瘤状態だった・・
 ミズーリ協定の地理的制限を「止めたくなった」・・「
 止めたくなって来たアメリカだった」・・より儲け続け
 たいのである・・そこで、骨抜きの法律ができた・・そ
 れが・・
  1854年、カンザス=ネブラスカ法が出来た・・そして、
 その結果として、カンザス戦争(闘争)に至る・・
  (参考)カンザス戦争(闘争):南北戦争の前、自由
      州と奴隷州に接するカンザスで、南北両派の
      移民によって土地争いや、新政府の樹立や、
      奴隷問題をめぐって展開された争いで、この
      1854年の「カンザス=ネブラスカ法」以後、
      両派の争いはより激しくなって行った・・
       南北戦争が、奴隷解放か否かが原因と言う
      のは、アメリカ北部政権のプロパガンダ・・
      そして、南部を悪く言うという北部政権の嘘
      宣伝・・
  「新たに連邦に加入する諸州にて、奴隷制度になるか、
 否かは・・採否が決められる」という法律だった。
  つまり、確実に奴隷州を止めなければならないという
 ミズーリ協定の条件部分が「目障りとなった」のであっ
 た。
  黒人の方々を奴隷のままにしておくか否かは、「住民
 が決めるという民主主義」だから良いのだという屁理屈
 であった。
  ミズーリ協定を・・アメリカの連邦最高裁判所が、「
 判決で否定する」と・・、
  アメリカ大統領と伴にアメリカのすべてが「喜んだと
 いうアメリカ」においての法律であった。
  まったくバカげた『結論が分かっている』法律をアメ
 リカは作った。
  「住民の意思を大切にしているから良い法律なのだ」
 という、アメリカらしい「こすからい」、この当時、結
 果が決まっている・・自分勝手な理屈の法律だった。
  黒人の方々は、人権は認められていないし、選挙権も
 剥奪されている中で、「どこに民主主義があるのだ」と
 いう卑劣さもある・・また、差別社会のアメリカの中で
 の法律だった。
  そして、この卑劣な法律の推進者が、アメリカ北部の
 人間だった・・美味しい思いをしたいという北部人だっ
 た。
  アメリカ中で、一緒くたになって、南部も北部も、こ
 の様な事をやっていた。
  これで、事実上、ミズーリ協定が「葬り去られた」。
  『アメリカ北部に奴隷州が生まれる法律』だった。
  アメリカの国権の最高裁判所が、「ミズーリ協定は憲
 法違反だ」と判決したことを受けて、この様な事を、ア
 メリカは仕組んでやった。
  美味しい奴隷制を「なかなか手放さない」、美味しい
 奴隷制は「続けます」というアメリカだった。
.
1861年3月4日、アメリカのリンカーン大統領は、就任演説
 で、奴隷財産の『擁護論』を展開した。
  奴隷解放どころか・・奴隷制を認めるという擁護論理
 であった・・「奴隷という財産を守れ」という擁護論の
 演説をした。
  これを、アメリカは、「奴隷州に配慮した」と弁護し、
 「政治的配慮である」と言い訳をした。
  また、リンカーンは、「奴隷解放ではなく、連邦の統
 一という最高目的があった」などと・・色々な言い訳を
 した。
  それなら、そうだと、リンカーンの口から説明すれば
 よいものを・・?
  この様な、半分、屁理屈の様なリンカーンへの言い訳
 を聞けば聞くほど、リンカーンの心の中には、その様な
 「奴隷解放の意思は無いのだ」ということが明らかにな
 って来る。
  黒人の方々への配慮・思いやりなどまったくなかった。
  南北戦争のことを・・「南部の奴隷制度に耐えかねて
 南北戦争を起こした」と美しくアメリカはプロパガンダ
 し、また、リンカーンを弁護する。
  この当時のリンカーンへの風当たりは厳しかった。
  奴隷制度廃止論者のダグラスとリンカーンの論争・・、
  リンカーンの心の中には、キリスト教に影響された「
 有色人種蔑視観」があった。
  リンカーンは、子供の時に、目の前でアメリカ・イン
 ディアンにおじいさんが殺された。
  その事で、弁護士時代には、インディアンの土地の取
 り上げや、法的闘争に奔走していた。
  また、大統領になれば、死者が莫大に出るという厳寒
 期の長距離のインディアン居留地の移動を命じたり・・
  (インディアンの子供や老人、婦女子の方々に死者が
 大勢出た)
  また、移動しないインディアンに対して、酷い討伐を
 命じた・・殺戮・全滅を是認する「討伐を指示」を出し
 たりするリンカーンだった。
  1862年8月22日、奴隷制反対論者である「ニューヨーク・
 トリビューン」の主幹が、リンカーンへ『公開質問状』
 を出すくらいだった。
  この様な事態から、リンカーンは、「奴隷解放」の布
 告を出さざるを得ない、出す事を余儀なくされて行った。
  その様な心境にさせられて行った。
  アメリカ北部政権が祭り上げ、プロパガンダで、「奴
 隷解放の父」などと言っているが・・その称号は、返上
 すべき大統領だった。
  リンカーンは、南北戦争における軍へ、黒人の方々の
 「参加はまっぴら」という大統領だった。
  そうであるならば・・南北戦争において、白人・アメ
 リカ人の北部軍がしっかりしていたかと言えば、まった
 く腐敗していた。
  北部軍の軍首脳部の腐敗の影響によって、戦争準備が
 できていない状況で・・その準備不足で、南部軍にやら
 れっぱなしだった。
  北部軍は、相次いで、戦いに敗れ・・、
  開戦早々だというのに、「南部軍の旗をワシントンの
 国会議事堂に翻(ひるがえ)してみせる」という言葉が、
 南部軍から出るくらいだった。
.
1861年7月、南北戦争で、アメリカ北部軍が、ブルランで敗
 れ、早くも首都・ワシントンが陥落の危機にさらされた。
  リンカーンをトップとする北部軍の首脳部は、腐敗し
 ていて、戦争準備がなっていなかった。
  本当にアメリカを良くしようという意義が頭にあって
 開戦したのか?・・疑問が生じる状況だった。
.
1862年7月、アメリカのリンカーン大統領は、この時になっ
 て、やっと、南北戦争に、黒人の方々の参戦を認めた。
  それまで、リンカーンは、黒人の方々の軍隊編入をた
 めらっていた。
  リンカーンには、有色人種蔑視観があった。
  しかし、リンカーンのその様な思いとは別に、南北戦
 争は、リンカーン北部軍は、『完全な劣勢』に置かれて
 いた。
  黒人の方々は、リンカーン政府にいくら言っても埒(
 らち)が明かない状況に至って、北部軍の各将軍・・バ
 トラー将軍、シャーマン将軍、フレモンド将軍、ハンタ
 ー将軍などの下へ、直接、多くの黒人奴隷の方々は馳(
 は)せ参じた・・
  そして、戦争遂行のあらゆる部署に挺身した。
  その様な事態になって、やっと、リンカーン政権は、
 遅ればせながら、後追いで・・1862年7月、黒人の方々の
 軍隊編入を認めた。
  本当に、軽蔑すべきリンカーン大統領だった。
  そして、この後、あらゆる反動もあって、この黒人の
 方々の、目ざましい戦いが起きる・・そして、素晴らし
 い功績を残した。
  その1例が、サウスカロライナ州のワグナー要塞の攻撃
 だった。
  第54マサチューセッツ黒人連隊の果敢な働きは凄(す
 さ)まじかった。
  この連隊には、黒人奴隷解放運動家の大御所「フレデ
 リック・ダグラス」の二人の息子も加わっていた。
  黒人の方々は、それまで、白人・アメリカ人の虐(し
 いた)げを受けていた反動もあって、果敢に戦闘をした・・
  その為もあって、可哀想に、黒人の方々が戦死する率
 は、白人兵士より35パーセントも多く、黒人の方々は亡
 くなっっていた。
  戦死者数は4万人にも及んだ。
  この戦争には、18万6000人もの黒人兵士が、正式に北
 部軍の陸軍兵士として参戦していた。
  13万4000人が、奴隷州からの参戦だった。
  アメリカ海軍は、卑劣にも黒人の方々を拒否した。
  炊事係など3万人が参加しただけだった。
  給料面でも差別された。
  白人兵士の半分にもなるか、ならないかという差別状
 態だった。
  1863年7月のゲティスバーグの戦いと、ビックスバーグ
 の戦いが、北部軍勝利の転機となった。
  そして、シャーマン将軍のアトランタからサバナに向
 かうジョージア進撃の成功によって、北部軍の勝利は、
 最終的な、確定的なものとなった。
  1865年4月2日、南部連合の首都・リッチモンドが、北
 部軍の手に落ち・・
  その1週間後の1865年4月9日、南部軍のリー将軍は、ア
 ポマトックスにおいて、北部軍のグラント将軍に降伏し
 た。
  黒人の方々の功績は絶大だった。
  アメリカ北部軍は、黒人の方々の戦いによって救われ
 たのだった。
.
1863年1月1日、アメリカで、やっと、奴隷解放令が公布さ
 れた。
  しかし、リンカーンは、奴隷解放令が公布されようと
 している「この時点」になっても、黒人の方々を、アフ
 リカのどこかに植民させる(棄民する)ことが良いと考
 えていた。
  また、「奴隷のすべてを解放する様な事はしない」と
 考えていた。
  この様に、奴隷解放の足を引っ張るリンカーンの考え
 は、黒人の方々から「猛反発」を受けた。
  これに先立つ3か月前の1862年9月22日、奴隷解放令に
 先立つ「奴隷解放予備宣言」を公布するところまでこぎ
 つけていた。
  しかし、このリンカーンの「奴隷解放予備宣言」は、
 おかしな宣言だった。
  南北戦争が盛んに行われている現状において、リンカ
 ーンが考えていたのは、「反乱している州の奴隷を解放
 する」というものだった。
  つまり、反乱を「止めたっと宣言した州の奴隷は解放
 されない」という宣言だった。
  リンカーンは、「奴隷解放の父」とアメリカ北部の現
 政権がプロパガンダしているが・・「リンカーンは、そ
 の様な人間ではない」。
  リンカーンは、この様な段階になっても、奴隷の「即
 時、無条件、全面解放をしない」という大統領だった。
  即時、全面開放をためらう大統領だった。
  しかし、この様な状況の中で、黒人の方々は、残され
 た「わずかな解放の望み」をひたすら待ち望んだ。
  本当にアメリカは人権抑圧国家だ。
  黒人の方々への同情とともに、人権をもてあそぶ人権
 抑圧者・リンカーンへ怒りが湧く。
.
1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条」が制定
 され・・『卑劣な奴隷制度を決めていたアメリカ合衆国
 憲法』が、やっと、修正された。
  アメリカは、1861年1月1日になって、「奴隷解放令」
 が、やっと、出たが・・しかし・・、
  奴隷解放令が出たからと言って、即時に、黒人奴隷の
 方々が、奴隷という卑劣な身分から解放されるという訳
 ではなかった。
  この後、黒人の方々は、血みどろの戦争を2年間もの
 間、耐え抜いて、戦い・・、
  黒人の方々は、自由の獲得闘争をして行って・・、
  やっと、1865年に至って、卑劣なアメリカ合衆国憲法
 の憲法修正第13条が提出され・・修正案を制定させるこ
 とができた。
  卑劣なアメリカは、黒人の方々に、この様な困難な時
 間を必要としなければ、この様な悪辣な経緯を経なけれ
 ば・・黒人の方々を「自由の身にして差し上げる」状況
 にはしなかった。
  そして、やっと、黒人の方々は、自由を得ることが出
 来た(・・いや・・この揺れ戻しが・・あります・・ま
 た、昔の奴隷制に戻る様な・・本当にしつこい、奴隷解
 放の歴史だったのです・・遅れたアメリカだったのです)
  リンカーンが、渋っていた黒人の方々の南北戦争の参
 戦を、リンカーンが、あまりにも卑劣に拒絶するので、
 黒人の方々は、独自に部隊を作って参戦してしまった。
  この様な行為をしなければ、黒人の方々は参戦できな
 かった。
  黒人の方々の戦いは素晴らしかった。
  目ざましい役割を黒人の方々は果たした。
  この働きは、アメリカ北部軍の勝利を、最終的なもの
 に導く原動力となった。
  際立って重要なものが、黒人の方々のこの貢献だった。
  アメリカ北部軍の勝利は、黒人の方々によって「もた
 らされた」と言える状況だった。
  今・現在のアメリカ北部政権は、『黒人の方々によっ
 てもたらされた』と言える。
  リンカーン記念堂に、この黒人の方々の戦功・働きを
 顕彰する記念碑を建立すべき・・、
  そして、毎年、記念行事を開催し、この貢献をした黒
 人の方々の戦士に「感謝の誠を捧げなければならない」。
  この様な黒人の方々の戦功があって、やっと、黒人の
 方々は、自由を獲得することができた。
  アメリカは、卑劣にも、ここまでしなければ、黒人の
 方々を自由の身にして差し上げられなかった。
  黒人の方々は、逃亡して参戦した。
  この様な逃亡奴隷の黒人の方々は、50万人も居た。
  絶大なる人々である。
  リンカーンが、「奴隷解放をしました」そして「黒人
 奴隷の方々が自由になりました」なんていう話では『無
 いのです』。
  黒人の方々は、この南北戦争を、「奴隷解放の戦い」
 と捉(とら)えていた・・自分たちが自由になれる戦い
 と捉えていた。
  リンカーン政権は、あちこちで参戦したいという黒人
 の方々を拒絶していた。
  参戦の準備を黒人の方々は行っていた・・その為の軍
 事訓練や軍事組織を作った。
  しかし、『この様な事まで禁止するリンカーン政権』
 だった。
  黒人の方々は言った・・、
  「私たちは、すでに用意ができています。
  白人の防衛者と同様に、私たちは、私たちの生命と財
 産と名誉をかけて、自由のために良き市民として、私た
 ちの政府を守る覚悟ができています。
  私たちは、同胞の皆さんに、この事を訴えたいのです。
  そして、私たちは、軍籍に身を置くことができるよう
 に、皆さんの法律を改めて戴くようにお願いしたいので
 す。
  私たち黒人の胸の中に燃え上がっている愛国的感情を
 思う存分に発揮できますように」・・この訴えも、リン
 カーンに届かず、無視されていた。
.
1902年2月4日、リンドバーグが生まれた(~1974年8月26日)
  チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、アメリ
 カ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、
 議会名誉黄金勲章の受賞者である。
  1927年には、「スピリット・オブ・セントルイス」と
 名づけた単葉単発単座のプロペラ機で・・、
  ニューヨーク~パリ間を飛び・・、
  大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。
  1931年には、北太平洋横断飛行にも成功している。
  1953年に、大西洋単独無着陸飛行について書いた「The
 Spirit of St. Louis"(『翼よ、あれがパリの灯だ』)
 を出版し、
  これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。
  同書は、1957年に、ビリー・ワイルダー監督の手で映
 画化されて有名になった(『翼よ! あれが巴里の灯だ』)
  また、リンドバークは・・、
  「日本軍と、アメリカ軍(連合軍)との戦死者・捕虜」
 について言及した。
  特に、アメリカ軍の残虐行為について糾弾した。
  リンドバーグは、日米開戦後、軍の技術顧問となり、
 南太平洋に赴任し、そのアメリカ軍の残虐行為を目撃し
 た。
  そして、日記に、次ぎの事柄を書き記した。
  以下、その一部の抜粋・・、
☆各地の太平洋戦線で、日本人捕虜の数が『欧州戦線に比
 して異常に少ない』のは・・、
  捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、
  アメリカ兵が捕虜を取りたがらないから、
  手を上げて降参して日本兵が投降して来ても、皆殺し
 した。
  その為、日本兵の捕虜が少なかった・・、
☆あるところでは、2000人ほど捕虜にしたが、本部に引き
 たてられたのは、たった100人か、200人だった(それは、
 日本人の捕虜のほとんどを殺戮したからだった)
  残りの連中には、ちょっとした出来事があった。
  それを知った戦友は投降したがらないだろう。
☆捕虜を取らないことを自慢する部隊がいた(降参した日
 本兵を、捕虜にする前に殺したから)
☆将校連は、尋問の為、捕虜を欲しがる。
  捕虜1名につき、シドニーへの2週間の休暇を出すと
 お触れが出た途端に、持て余すほどの捕虜が手に入った。
  懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなった。
  つかまらなかったと嘯(うそぶ)くだけだった。
☆一旦、捕虜にしても、英語が分かる者は、尋問のために
 連行され、出来ない者は捕虜にされなかった。
  即ち、殺された。
☆捕虜を飛行機で運ぶ途中、機上から山中に突き落とし、
  ジャップは、途中でハラキリをやっちまったと報告し
 た。
☆ある日本軍の野戦病院を、ある部隊が通過したら生存者
 は一人もいなかった。
☆2年以上、実戦に参加した経験がない兵が、帰国前に、
 せめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、
 偵察任務に誘われたが、撃つべき日本兵を見つけられず、
 捕虜一人だけ得た。
  捕虜は、殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で、軍曹
 がナイフで首を切り裂く(殺す)手本を示した。
☆ 『爆弾で、出来た穴の中に、皆、四肢バラバラの状態
 の日本兵の死体を投げ込み、その後で、トラック1台分
 の残飯や廃物を投げ込んだ』
☆捕虜にしたがらない理由は、殺す楽しみもさる事ながら、
  お土産を取るのが目的。
  金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰り、それで、
 ペン・ホルダーとか、ペーパーナイフを造る。
  耳や鼻を切り取り、面白半分に見せびらかすか、乾燥
 させて持ちかえる。
  中には、頭蓋骨まで持ちかえる者もいた。
☆日本兵を動物以下に取扱い、それが、大目に見られてい
 る。
  我々は、文明のために戦っているのだと主張している
 が、
  太平洋戦線を見れば見るほど、(アメリカ人が)文明
 人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。
  事実、この点に関する成績が、日本人のそれより遥か
 に高いという確信は持てない(日本人の方がよっぽど立
 派だ)・・、
  リンドバーグは、ドイツ降伏後、ナチスによる集団虐
  殺現場を見学した時の日記で・・、
  「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ・・と書
 いた。
  爆撃後の穴に、日本兵の遺体が腐りかけ、その上から
 残飯が投げ捨てられ、
  待機室やテントに、まだ生新しい日本兵の頭蓋骨が、
 飾り付けられているのを見た時だ。
  ドイツは、ユダヤ人の扱いで、人間性を汚したと主張
 する我々アメリカ人に、日本人の扱い方で同じようなこ
 とをしでかしている・・とリンドバーグは言った。
  リンドバーグは、オーストラリア軍が、輸送機から日
 本兵の捕虜を、飛行中に投げ捨てられている・・と書い
 てもいる(目撃した)。
  本:『War Journal of Charles Lindbergh』
  リンドバーグは、戦前、ドイツとも接触したため、ア
 メリカで、大バッシングを受けた。
  彼の名誉が回復するのは、30年後だった・・亡くなる
 直前だった。
  彼は、正義を求めて、真実を書いただけだった。
  これ等の事は、世界記憶遺産に登録し・・
  アメリカとオーストラリアの各地に銅像を立てよ!
.
2008年9月15日、リーマン・ショック
  これは、アメリカが起こした卑劣な世界的経済騒動だ
 った。
  2008年9月15日、アメリカ合衆国の投資銀行であるリー
 マン・ブラザーズ・ホールディングスが破綻した・・
  連邦破産法第11条の適用を、連邦裁判所に申請した。
  このことに端を発して、続発的に世界的金融危機が発
 生した。
  金が借りることが出来ない年収の低い人々にまで住宅
 を買わせ、バブル状態の経済の中で、その住宅が値上が
 りして行くことで担保させようと目論んだ・・
  こんな、裏付けのないタイトロープを渡る様な儲けの
 システムは、いつかは破綻するのは必定であったが、
  これを、アメリカ大統領(ブッシュ・子)が音頭を取
 って、国全体がやるような状況を作って、それで、やっ
 た・・
  案の定、いくら国が大きいと言っても行きつくところ
 の終着点に来た。
  しかし、ここでも、また、卑劣な事をアメリカはした。
  この様な卑劣な債権を「細切れにして」、表面的には
 見えない様にして、状態の悪い債券がある様には見えな
 い様にして(健全債権ばかりの様にして)、良質な債権
 に混ぜて世界中に売りさばいた。
  また、卑劣なのは、アメリカは、「格付け会社」なる
 ものを作った・・そして、その会社にその債券の格付け
 を「良く評価させた」。
  良い債券だというお墨付けを付けた。
  つまり、自分(アメリカ)の都合の悪い借金の肩代わ
 りを世界中にさせるという行為だった。
  この様な悪のシステムが「ばれれば(隠していたこと
 や、嘘などが明るみに出て露見する)」、一気に値崩れ
 するのは当たり前だった・・
  これが、リーマン・ショックだった。
  厖大(ぼうだい、非常に多量)な金、あるように見え
 ていた金が消えてなくなった・・蒸発した。
  あまりにも巨額で、不透明で、損失が拡大していく中
 で・・この対応で、世界中が、シッチャカメッチャカに
 なった。
  あちこちの企業が、金融機関が大損失を出した。
  この様な事が分かっていて、だから、ショックが起き
 ると分かっていた者・・その者だけが、「売り抜けて」
 大もうけした・・
  それは誰か?・・その様な悪も居た・・、
  さらに、この大ショックで、大暴落したその底で買っ
 た奴も大儲けした・・
  当然、事実が判明した時は、そのショックで、株価は、
 世界中で大暴落した。
  経済は冷え込んだ、消費も落ち込んだ、金融不安が蔓
 延した・・
  アメリカ・ドルは急落してドル安が進んだ・・
  アメリカ市場の依存度の高い企業は、大きなダメージ
 を受けた・・
  景気後退が広がって行った・・
  この後遺症は、長く世界を悩ました。
  中国の人民元は、対米ドルとの関係で、米ドル急落で、
 資金が急激に中国に流入し、過剰になるくらいだった。
  中国株価は急騰した・・生産はフル回転となった・・
 総需要が高まり・・世界の工場としての存在の中国は、
 大回転した。
  それまで、失業問題が深刻だった中国は、嘘のような
 状況となった。
  経営が立ち行かない企業が続出していたが、180度、変
 わってしまった。
  サブプライムローンをあまり保有していない中国は、
 影響が、損失が、ほとんど発生しなかった。
  アメリカやEUの景気落ち込みの反動で、中国の経済
 は大伸長した。
  中国政府も、補助金などの支援策を実施し、景気対策
 を行なった。
  中国は、舞い上がった。
  重大産業振興策、医療制度改革などを加速した。
  中国の資金は、やがて、不動産取引へも流れ込んで行
 った。
  中国は流れに乗った・・
  北京の不動産価格も上昇して行った・・急騰と言えた・・
  この様な状況から発した中国経済・・
  中国は、「世界一になるのも近い」と思えるようにな
 った。
  中国が経済力で世界一になるのに「25年かかる」と言
 われていたが、「あと10年しかかからない」と、中国は
 思い込んだ。
  この思い込みが中国の舵を、大きく回転し、向きを変
 えた。
  中国の錯覚は、「経済力と国力の関係を見誤った」。
  小国などに、「金を渡せば、相手は黙る」と中国は思
 った。
  急に、自由になる金を一杯持った中国の悲しさだった。
  金の力で、相手を従わせると安易に考えて、行なった。
  アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
 安易な方針転換をした中国もそこに居た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月)

2017-10-10 04:21:05 | 日記
題:(増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月4日、琵琶湖疎水を利用した日本初の水力発電所
 である京都蹴上発電所(けあげはつでんしょ)が開業し
 た。
  1890年(明治23年)に通水を開始した琵琶湖疏水第1
 疏水に関連し・・、
  翌年・1891年(明治24年)6月に、第一期蹴上発電所が
 運転を開始した。
  営業用としては日本最初の水力発電所で・・、
  総工費は、30万円にて竣工した。
  2016年、米国電気電子学会 (IEEE) より『IEEEマ
 イルストーン』に認定された。
  (参考)IEEEマイルストーン:アイトリプルイー
    マイルストーン)は、IEEEIが、電気・電子技
    術やその関連分野における歴史的偉業に対して認
    定する賞。
     これに認定されるためには、25年以上に渡って
    世の中で高く評価を受けてきたという実績が必要。
1892年6月6日、衆議院が、「鉄道敷設法」案を委員会修正
 案どおり可決し、貴族院に回付した。
1892年6月7日、貴族院が、「鉄道敷設法」案の第1読会を開
 き、同法案を審議した。
  後日、貴族院は、衆議院の修正案どおり「鉄道敷設法」
 案を可決した。
1892年6月7日、野球の代打が初めて行われる(前年に制定)
  因みに、通算代打起用回数のセ・リーグ記録は、宮川
 孝雄の778回、パ・リーグは、高井保弘の559回。
  通算代打打率(起用数300以上)セ・リーグ記録、若松
 勉.349、パ・リーグ記録、五十嵐信一.292、
1892年6月13日、天皇陛下が、予算に対する協賛権は、貴族
 院・衆議院に差はないとの裁定を下された。
  協賛権(きょうさんけん)は、旧憲法下で、帝国議会
 に与えられていた協賛(きょうさん、旧憲法で、議会が
 法律案・予算案を成立させるための意思表示をすること)
 の権限で、法律・予算の制定者であられる天皇陛下に対
 して協力するための権限とされた。
1892年6月13日、停車場内人力車備置規則を制定し(鉄二第
 290号)構内人力車営業を駅長の管理下に統一した。
1892年6月14日、両院協議会が、予算修正につき妥協、両院
 で可決した。
1892年6月16日、小包郵便法を公布した(6月17日説あり)
  経緯・・
  1871年、郵便に関わる太政官布告が交付され、郵便制
     度が施行。最初の郵便切手が発行された。
  1873年、日米郵便交換条約調印。
  1875年、外国郵便の取扱開始、郵便貯金・郵便為替の
     取扱施行。
  1876年、上海と釜山浦に在外郵便局を開設。
  1877年、万国郵便連合(UPU)に加盟。ただし在日局の
     撤退はイギリスが1879年、フランスが1880年。
  1885年、逓信省創設。国際郵便を正式にあつかいはじ
     める。
  1892年、小包郵便の取扱開始。
1892年6月17日、東京の日本赤十字社病院が新築落成した。
  皇后陛下が行啓されて、開院式を行った。
  日本赤十字社の創立者(初代社長)は、佐野常民(さ
 のつねたみ)
  日本赤十字社は、1877年に設立された博愛社が前身。
  1886年、日本政府がジュネーブ条約に加入したことを
 受けて・・、
  翌年・1887年に、名称を日本赤十字社と改称した。
  博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の時、佐野常
 民と、大給恒(おぎゅうゆずる)の両元老院議官によっ
 て設立された。
  救護を目的とする団体で、西南戦争では、明治政府軍
 と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広げられ、両軍ともに多数
 の死傷者を出た。
  この時、この悲惨な状況に対し佐野と大給の二人は、
 救護団体による戦争、紛争時の傷病兵の救護の必要性を
 痛感した。
  ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を作ろうと
 思い立った。
  1877年、佐野と大給を発起人として、政府に救護団体・
 博愛社の設立を願い出た。
  しかし、この願いは認められなかった。
  その理由は・・、
  『このような考えは素晴らしいことではあるが・・、
  (1)現地には救護に必要な医師等は派遣しており、医
    療は足りている。
  (2)今、新しい組織を作って戦地に送れば、混乱をき
    たす。
  (3)欧州で国家間の戦争の際に組織(赤十字)を作っ
    て救護することは知っているが、このたびの内戦
    にまで適用されるものなのかどうかは分からない。
  (4)このような組織の創設は、平和な時に十分時間を
    かけて検討すべき。「明治政府からの回答書」
  しかしながら、戦場ではおびただしい数の負傷兵が手
 当てもされず、放置されていたことは事実で、博愛社の
 設立を急いだ佐野は、征討総督・有栖川宮熾仁親王(あ
 りすがわのみや・たるひとしんのう)に直接、博愛社設
 立の趣意書を差し出すことに意を決し、
  1877年5月、熊本の司令部に願い出た。
  有栖川宮熾仁親王は、英断をもってこの博愛社の活動
 を許可された。
  救護活動の許可を得た博愛社の救護員は、直ちに現地
 に急行し、官薩両軍の傷病者の救護にあたった。
  (日本赤十字社のホームページを参考にした)
1892年6月18日、ハワイ王国に、マカダミアナッツが持ち込
 まれ、商業栽培が開始された。
  原産地はオーストラリアのクイーンズランド州で、先
 住民のアボリジニの方々の間では、ブッシュ・タッカー
 として、好んで食されていた。
  1921年に、ハワイ大学で商業生産を目指した品種改良
 の研究が始まった。
  20年間の研究の努力の結果、商品化に成功した。
  1950年代頃までに、日系アメリカ人のマモル・タキタ
 ニが、マカダミアナッツとチョコレートの相性が良いこ
 とに注目して、
  ナッツをチョコレートで包んだものを製品化すると、
 爆発的な人気を呼んだ。
  これが、マカダミアナッツ製品で最も消費量が多いハ
 ワイアンホースト社製のチョコレートとなった。
1892年6月21日、鉄道敷設法が公布された(法律第4号)
  これは、鉄道建設の基本法で、予定線33路線のうち、
 第1期線は、中央・山陽・北陸など9線・・、
  そして、工事着手順や募集公債金額などを決定するた
 め鉄道会議の設置を規定した。
  また、第1期建設予定線の建設に充当するために、1892
 年(明治25年)から12年間に、6000万円を限って公債を
 募集することとした。
  この法は・・全16条から成る。
  予定の線路を調査し敷設することを明らかにし・・
  第2条で、中央線以下14線33本の予定線を、
  第7条で、そのうち第l矧工事として実測l建設すべきも
 のを列挙した。
  その費用は、公債をもって充て(第4条)、 12年間に第
 1期工事を完成すべきものとした(第8条)。
  また、鉄道会議を設置して工事着手の順序、建設資金
 募集の公債発行額を諮問することを定めた(第15条)。
  買収については、既成私設鉄道のうち第2条に掲げた予
 定線路のため、買収の必袈があると認められるものは、
 政府がその会社と協議して価絡を定め、議会の協賛を求
 むべきものとした(第11条)。
  その他、予定線のうち、私設鉄道から敷設の許可を願
 い出たときは、談会の協賛を経て、許可することがある
 とした(第14条)・・重要な例外規定。
  この敷設法の公布によって、わが国の鉄道は、創設期
 をおわり、確固たる方針のもとに秩序ある発展の第一歩
 を踏み出した。
1892年6月21日、鉄道会議規則が公布された(勅令第51号)
  鉄道会議(てつどうかいぎ)は、1892年6月21日~1949
 年6月1日まで、鉄道敷設法16条に定められた「鉄道会議
 規則」(明治25年勅令第51号)に基づいて、鉄道担当官
 庁(内務省→逓信省→鉄道省→運輸通信省→運輸省)に
 設置された諮問会議。
  鉄道敷設法で定められた「鉄道建設の順序」や「鉄道
 公債の発行」などについて主管大臣に諮問した。
  ただし、実際には、鉄道政策全体について諮問してい
 る。
  定数は議長1名・議員20名(ただし、臨時議員として複
 数名の追加が認められた)・幹事1名で構成された。
1892年6月21日、シベリアを単騎横断した福島安正中佐が、
 ウラジオ~釜山を経て、1年を費やしての長崎への帰着だ
 った。
  駐ドイツ公使館付武官を辞任して、シベリアに向かっ
 ていた。
  長崎市民は、世界的英雄を迎てえ、諏訪公園丸馬場に
 て盛大な歓迎会を開催した。
  福島安正中佐は、1892年6月29日に、新橋駅に降り立っ
 た。
  陸軍軍人・男爵。長野県生(1852年~1919年)
  信濃松本藩士福島安広の長男。
  司法省に入り、1874年、陸軍省に移る。
  語学力に優れ、1882年、朝鮮に派遣され、朝鮮の調査、
 そして、1883年に北京公使館付武官となり、満州、およ
 び、モンゴル方面を踏査した。
  1886年には、インド半島を軍事視察し、
  1887年には、駐独武官となってバルカン半島を視察し
 た。
  この帰国に際して、ロシアのシベリア鉄道建設の状況
 視察のため、1年4か月かけて、シベリア横断となった。
  日清戦争の際は、第一軍参謀、
  1895年3月から約2年間、ヨーロッパ、アジアを探検旅
 行、帰国後は参謀本部第三、次いで第二部長、
  日露戦争時は満州軍参謀、
  日露戦争後、1906年に参謀次長、中将に進み、
  1912年には関東都督となり満州経営に当たる。
  1914年、大将に進む。
  のち退官した。
  1919年(大正8年)逝去、68歳。
  勲三等旭日勲章が授与された・・男爵。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1857年、アメリカ合衆国のすべてが、そして大統領が、卑劣な『奴隷制容認判決』を喜んだ。
    そして、それを、現代になって、アメリカは、必死にプロパガンダして変えようとしている。
    そして、1859年10月、初めの反乱=黒人のジョン・ブラウンの蜂起が起きた・・、
.
紀元前3世紀~2世紀、サルナートは、紀元前3世紀~紀元前
 2世紀、アショカ王の時代と、紀元後5世紀~紀元後6世紀
 のグプタ朝時代に栄えた『仏教教学の聖地』である。
  この地で、釈迦は4ヶ月ほど暮らし、玄奘も中国から
 はるばる訪ねて来て経典を学んだ。
  (参考)サールナートは、インドのウッタル・プラデ
     ーシュ州にある地名。
      ヴァーラーナシー(ベナレス)の北方約10km
     に位置する。仏教の四大聖地のひとつ。
      漢訳仏典では旧訳で「仙人堕処」、新訳では
     「仙人住処」と訳出される。
      釈迦が悟りを開いた後、鹿が多く住む林(旧
     訳「施鹿林」、新訳「鹿野苑」)の中で、初め
     て教えを説いた初転法輪の地とされる。
.
196年、董遇(とうぐう)が、郡から孝廉に推挙され、黄門
 侍郎にまで昇進した。
  中国の後漢(25年~220年)の学者の董遇が、「読書百
 篇義自ずから見る」という言葉を残した。
  意味:「どんなに難しい書物であっても、繰り返し読
 むうちに意味が自然と分かる様になるものだ」・・、
  董遇は、字(あざな、成年後、実名のほかにつける別
 名)を季直(きちょく)といい、弘農郡(こうのうぐん、
 河南省に設置された郡) の人。
  生没年は不明。
  関中(かんちゅう、中国の西安を中心とした一帯)が
 乱れると、兄とともに将軍・段珪(だんけい、?~ 189年、
 後漢時代末期の宦官)に身を寄せた。
  生活は苦しかったが、農事や行商の間にも経書(けい
 しょ、儒学の経典。四書・五経など)を手放さなかった。
  196年、郡から孝廉に推挙され、黄門侍郎にまで昇進し
 た。
  董遇は、献帝(けんてい、後漢最後の皇帝)の寵愛と
 信頼を得た。
  218年、吉本らの曹操暗殺計画(毒殺計画)が発覚し、
 董遇は参画していなかったが、なお、取り調べを受け、
 閑職に遷(うつ)された。
  政権奪取とかの話ではなく、恨みつらみのレベル・・。
.
1662年、台湾。
  台湾は、台湾原住民の方々だけが住む地であった。
  しかし、現在は、台湾原住民は2.3%である。
  17世紀の大航海時代、オランダ及びスペインが植民し
 た。
  台湾は、ポルトガル語で「フォルモサ=麗(うるわ)
 しの島」と呼ばれた。
  1662年になって、明(みん)寄りの支持者である鄭成
 功(ていせいこう、日本名:福松、母が日本人で、半分、
 日本人の血が流れている)がオランダを追放した。
  これ以降、漢民族が流入した(日本人が流入しても良
 い場面であった)
  台湾原住民とも混血した。
  しかし、現在、DNAの調査によれば、8割が南方アジ
 ア系である。
  鄭成功は、日本の平戸で生まれた、
  父は鄭芝龍で、母は、日本人の田川マツ。
  父・鄭芝龍(福建省生まれ)は、朱印船貿易の関係で
 日本に来た。
  そして、平戸藩主の松浦隆信の寵を受け、平戸に住ん
 だ・・そして、結婚し、鄭成功が生まれた。
  鄭一族は貿易商で、海賊や商売敵との抗争のために武
 力を持っていた。
  そして、明治の時代、この台湾のことを、現在の中国
 政権の前の「中国の清国政権」は、「化外の地」と日本
 政府へ言った。
  (参考)化外:けがい、統治のおよばない地。
  つまり、台湾は、「中国とは、まったく関係のない地
 です」と日本政府へ言った。
  しかし、現在の中国政権は、「台湾は、中国の一部で
 ある」と言い出した。
  だから、中国のこの勝手な解釈のもとに行動を起こし
 ても良いのだと言外(げんがい、直接は言葉にださない
 ところ)に言っている。
  何をやっても、「国内問題」だと・・。
  勝手な言い掛かりから、強引な行為に及ぶことは・・
 この解釈の違いから生じて行う行為は・・卑劣な戦争が
 惹起(じゃっき、事件・問題などを引き起こすこと)さ
 れる恐れがある。
.
1820年1月26日、ミズーリ協定
  アメリカのミズーリ州を、奴隷州として州昇格を認め
 る法案を条件付きで成立させた。
  その条件は、イリノイ州選出のジェシー・B・トーマス
 議員から、今後、北緯36度30分線の北にあるミズーリ準
 州から奴隷制を排除するという動議を採択した。
  この条件は、後に、憲法違反との判決が出て、まった
 く無くなる。
.
1829年、自由黒人のデイビット・ウォーカーの奴隷解放活
 動・・
  激烈な社会的影響を与えた一冊のパンフレットを、こ
 の年に書いた。
  アメリカ大統領のリンカーンが、「奴隷解放」を行な
 ったというのは、白人・アメリカ人のデッチ上げで・・、
  黒人の方々が、地道に解放へ向かって努力して行った。
  虐げられる黒人の方々は、色々な方法で・・
  そして、活動する黒人の方々は、命を賭して・・
  必死に、「自らの自由を得たい」という活動を行ない・・
  そして、奴隷解放を『成した偉業』なのである。
  白人・アメリカ人は、自らの卑劣な行為=「同じ人間
 を人家畜化し、所有して、使役し、それも、「虐げ行為
 を伴って行なった」という行為を隠そうと、
  白人・アメリカ人のリンカーンが、「奴隷解放をした」
 という話をデッチ上げた・・そして、隠した。
  リンカーンが、「どんな奴隷解放の積極的活動をして
 来たというのか?」
  「奴隷解放宣言」は、その状況になって、やむ無く行
 っただけで、リンカーンは、大統領の就任演説において
 さえ、「奴隷解放」のことを一言も触れなかった。
  『奴隷解放の栄誉』を、白人・アメリカ人は、黒人の
 方々から奪うという「恥の上塗り的行為」を行なってい
 る。
  1829年、自由黒人のデイビット・ウォーカーは、一冊
 のパンフレットを書いた。
  そのパンフレットには、極めて刺激的な事が書かれて
 いた・・、
  「・・反対に、もしも我々(黒人)が、彼ら(白人、
 特に、奴隷所有者)を奴隷にして、残忍な奴隷制度の中
 に縛り付ける様な事をしたとしたら、
  彼ら(白人)は、一体、どんな気がするだろうか?・・
  私は、君たちにたずねたい。
  君たちの母親や妻や幼い子供の生命を奪う暴君の奴隷
 となるくらいなら、君たちは、むしろ殺されることを望
 むのではないか?・・
  信じ給(たま)え、君たちを殺そうとするような、そ
 んな人間を君たちが殺すのは、喉が渇(かわ)いた時に、
 一杯の水を飲むのと同じくらい当然のことではないか」
 ・・と、
  これは、『ウォーカーの訴え』として知られ・・、
  白人・奴隷所有者らに大きな衝撃を与えた。
  黒人の方々も、ただただ、白人・アメリカ人に虐げら
 れるだけでなく、自らの自由を獲得したいとの当然の声
 を上げ始めた。
  また、1831年1月1日には、ウィリアム・ロイド、ガリ
 ソンが、「解放者(リベレーター)」を、ボストンで週
 刊で発刊し始めた。
  ジョージア州政府が、ガリソンの逮捕に5,000ドルの賞
 金を掛ける様なこともあった。
  1833年には、奴隷制反対協会が設立された。
  この組織は、1840年までに、2000の地方支部に拡大し、
 会員総数は20万人を数えた。
  定期刊行物やパンフレットの発行などの広報活動、議
 会への大衆動員をしての請願運動などを行なった。
  因みに、この請願を受ける議会側に、あのでっち上げ
 られたリンカーンも居た。
  この様な奴隷解放活動家は、常に、命の危険にさらさ
 れていた。
  金を持った奴隷制維持権力は、激しい攻撃や弾圧、そ
 して、「卑劣なテロ行為」を加えた。
  その一つが、1837年11月、イリノイ州のオルトンで、
 奴隷制廃止主義者のイライジャー・ラビジョイが殺され
 た。
  この殺害犯人たちは捕らえられたが、罰せられるどこ
 ろか、官憲(かんけん、政府の権力・権限、もしくは、
 官吏の権力・権限)の手で釈放された。
  この様な黒人の方々の自らの解放の努力の例は、まだ
 まだ、沢山ある。
  白人・アメリカ人が、「奴隷解放を成した」、または、
 「奴隷解放を与えた」というのは、「真っ赤な作り話の
 嘘」。
  白人・アメリカ人は、卑劣な非人道的行為者側に居た。
  黒人の方々を、奴隷としての地位に置いて・・、自ら
 の利益を追求する側に居た。
  黒人の方々の「名誉の自由獲得行為」の名誉まで奪う
 行為をしている。
  この事実は、世界記憶遺産に登録すべき項目だ
.
1831年8月21日、ターナーの暴動
  黒人の方々を、奴隷として使う白人・アメリカ人たち
 は、この黒人の方々の反抗を「暴動だ」と表現した。
  それ故に、この年のこの黒人の方々の反抗行動も暴動
 と表現された。
  教科書にも、歴史書にも、「黒人暴動」と記された。
  反抗をした黒人指導者のナット・ターナーは、自分の
 名も付けられず、この「ターナー」という名も持ち主の
 名前だった。
  この人権無視社会=アメリカのバージニア州サザンプ
 トンでこの反抗行動は実行された。
  黒人の方々は、これまで、ただ虐げられていたが、こ
 の時、ただ虐げられていたのではなく、白人アメリカ人
 の不正に、はっきりと抵抗の意思を示した。
  アメリカ国中に大きな影響力を与える「大きな規模の
 反抗」だった。
  結局、白人・アメリカ人の社会は、連邦軍を出動させ、
 強力な武力で鎮圧した。
  100人以上の黒人の方々が殺され、16人の奴隷黒人と、
 3人の自由黒人と、指導者のターナーが処刑された。
  この出来事は、黒人奴隷の方々に、激しい解放への意
 欲をかき立てた。
  これまで、黒人の方々は・・、
  1800年に、ゲイブリエル・プロッサーの反抗(暴動)、
  1822年のデンマーク・ビージーの反抗(暴動)などで
 抵抗して来ていた。
.
1840年、アメリカの奴隷制廃止運動家のジェームズ・バー
 ニーは、自由党(リバティ・パーティ)を結成した。
  リンカーンが、「奴隷解放の父」というアメリカ北部
 政権のプロパガンダ(嘘宣伝)ほど、世界中を惑わし、
 欺(あざむ)く嘘はない。
  黒人の方々が、どれほど自由を得ようと命を張って努
 力されたかである。
  黒人の方々が、奴隷という非人道的地位から脱出する
 過程を、調べれば調べるほど、その血塗られた努力の話
 が満ちている。
  「リンカーンが解放を与えた」的な話ではない。
  このアメリカ北部政権の酷(ひど)い虚言(きょげん、
 他人をあざむく言葉)が、明らかになって行く。
  黒人の方々が、抑圧され、抑え込まれて居る状況から
 目覚め、自由を得たいとあらゆる活動をし始める中にお
 いて、時には、白人・アメリカ人が「暴動だ」と蔑(さ
 げす)んで言うような抵抗・実力行使も行なった。
  この黒人の方々の「自由獲得行動」は、だんだんと、
 アメリカ国内に賛同する人、同調をする人々が増えて行
 った。
  最初は、なかなか理解者は増えなかったが・・、当然
 のごとく勇気を得た黒人の方々も立ち上がって行き、増
 えて行ったが・・労働者、婦人、農民、進歩的知識人な
 どだった。
  そして、その理解者たちの結集が図られて行った。
  1840年、奴隷制廃止運動家のジェームズ・バーニーは、
 自由党(リバティ・パーティ)を結成した。
  そして、この年の大統領選挙に立候補した。
  1843年には、奴隷解放運動家の大御所のダグラスが加
 わった。
  また、多くの黒人奴隷制廃止主義社も自由党に入党し
 た。
  1844年にも、自由党は、バーニーを大統領選挙に立候
 補させた。
  この時、バーニーが主張したことは・・、
  「アメリカの首都・ワシントンの奴隷制を廃止しよう」
 だった。
  また、「奴隷制が、準州へ拡大して行かない様にしよ
 う」だった。
  そして、奴隷制の卑劣さを訴えた・・「奴隷制度は自
 然権に反する」・・と。
  (参考)自然権:しぜんけん、人間が、自然状態(政
     府ができる以前の状態、法律が制定される以前
     の状態)の段階より保持している生命・自由・
     財産・健康に関する不可譲の権利。
      人権は、自然権の代表的なものとされている。
  また、アメリカが、メキシコから「テキサスを奪おう
 としている事」に反対した。
  また、「メキシコとの戦争」にも反対した。
  そして、1846年8月8日には、アメリカが、卑劣な行為
 を行なってメキシコから奪ったテキサスなどの地域に、
 「奴隷制度が広がることに反対し『奴隷制度禁止地域に
 せよ』と主張した(ウィルモット建議が提出された)」。
  このウィルモット建議は、その他の既存政党に大きな
 影響を与えた。
  ホイッグ党は、この影響を受け、その容認を巡って決
 着がつかず分裂した。
  民主党も、党内の統一が図れずに二派になって対立し
 た。
  1848年には、自由党員が、これ等の既存政党の分裂・
 分派した人々の受け皿となり、自由土地党を結成した。
  スローガンは、「自由な土地、自由な言論、自由な労
 働、自由な人間(奴隷という虐げのない社会)」だった。
  この奴隷解放の活動の経緯の中に、「奴隷解放の父だ
 と言われるリンカーン」の「リ」の字も出て来ない。
  そして、アメリカ北部政権は、1850年、「逃亡奴隷取
 締法」という奴隷を虐げる卑劣な法律を制定した。
  そして、南北戦争に至って行く。
.
1856年、ブルックスによるサムナー殴打事件など・・
  ブルックスは、反奴隷制運動の政治家で・・、サムナ
 ーが3時間に及ぶ人格攻撃の、また、卑劣な言葉(売春婦
 などに関係した演説・・具体的に書けない低劣な演説)
 品位のない演説をした・・
  怒りが収まらないブルックスは、この演説の2日後、金
 製の頭が付いた杖で、サムナーの頭を狙って殴ったとい
 う事件。
  1776年7月4日にアメリカが独立して、憲法を作ったが・・、
  その憲法という国の基本においても・・アメリカは、
 非人道的行為である奴隷制度を廃棄できなかった・・
 奴隷条項のある憲法だった。
  そして、その後も、アメリカは、黒人の方々を非人道
 的に虐げるという体たらくな行為を続けた・・
  綿花栽培が盛んになると・・、
  アメリカ南部だけでなく、アメリカ北部も、この綿花
 を扱った木綿工業が急速に発達した。
  そして、安価な労働力としての黒人奴隷の必要性から、
 アメリカ北部の資本家も、その労働力の要求も拡大した。
  そして、アメリカ西部も同様な動きが見られた。
  アメリカ北部とも紐帯(ちゅうたい、二つのものを結
 びつけて、つながりを持たせる)を深めた。
  マルクスは言う・・、
  「奴隷所有者の権力が、アメリカ北部の民主党と手を
 握って、ますます連邦を悪用して来たという事は、いわ
 ば今世紀(19世紀)初め以来のアメリカ合衆国の歴史の
 一般公式である。
  次々にとられた妥協的措置は、連邦をますます奴隷所
 有者の奴隷に転化する、相次ぐ侵蝕作用の度合いを示す
 ものであった}。
  1850年代のアメリカは・・、
  イギリスにとっての最大市場としての後進国的な特性
 と、先進工業国の地位への上昇転化の趨勢とが、相拮抗
 しはじめた状況にあった。
  そして、マルクスは、奴隷の方々の「暴動と言われる
 抵抗・反乱」に注目し、「生産体系全体を破滅させ得る」
 と理解し、見ていた。
  そして、それはただ単に、奴隷制度の制度的な矛盾だ
 けでなく、奴隷制度の方が商品経済機構の中で、工業の
 発展に対応しきれなくなり、自滅するだろうと見ていた。
  他の国の商品の生産性などで『敗れる』と見ていた。
  だから故に、アメリカの奴隷制による生産・商品化は
 行き詰まり、奴隷制は打破され、「奴隷は解放されるで
 あろう」と見ていた。
  つまり、アメリカは、「美しくリンカーンが奴隷を解
 放したと言いたい」のだろうが・・時代の流れの中で、
 奴隷は解放せざるを得ない段階に行き着いていたのだっ
 た。
  黒人の方々をアフリカに棄民したリンカーンは、「奴
 隷を解放するという言葉を宣言しただけ」だった。
.
1857年、アメリカ合衆国の『最高裁判所』が、「奴隷制度」
 について判決を下した(最高裁の最終判決・・アメリカ
 の国としての意思=最終判決)
  ある一人の黒人奴隷の方が、堂々と、アメリカ合衆国
 を相手に、最後まで戦った、法廷闘争をした・・
 『トレッド・スコット判決』が下りた(ドレッド・スコ
 ット対サンフォード事件)
  黒人奴隷の方が敗訴になったが・・、以下が、その判
 決である・・、
  (1)黒人奴隷ならびにその子孫は、所有者の財産であ
   って、合衆国の市民ではない。
    劣等人種である彼らは、白人と同等の権利を持つ
   ことはできない。
    だから、黒人であるスコットには、連邦裁判所に
   提訴する権利は与えられていない。
  (2)スコットは、ミズーリ州の市民ではない。
    したがって、この事件は、異なる州の市民の間の
    訴訟ではないから、連邦裁判所には、この事件に
    ついての管轄権がない。
     スコットがたとえ、一時的に自由州であるイリ
    ノイ州に住んでも、再び、ミズーリ州に帰って来
    た以上、彼は、ミズーリ州の法律に服さねばなら
    ず、イリノイ州の法律によって、自由を要求する
    事は出来ない。
     そのミズーリ州の法律によれば、「彼は、奴隷
    以外のなにものでもない」。
  (3)スコットが、北緯36度30分以北の自由地域に住ん
    だという事実は、決して彼を自由身分にするもの
    ではない。
     ・・というのは、連邦議会は、合衆国の準州に
    奴隷制度を禁止する権限を持っていないからであ
    る。
     したがって、1820年の「ミズーリ協定は憲法違
    反」であり、奴隷財産は、この国のどこででも(
    所有者の財産として)保護されなければならない。
  これは、「アメリカ北部政権の意思」を表わしていた。
  また、卑劣にも、ジェームス・ブカナン大統領は言っ
 た・・、
  「この判決に対し、私は、すべての善良な市民ととも
 に、その内容のいかんに関わらず喜んで従う」と。
  アメリカ合衆国のすべてが、そして、大統領が、卑劣
 な「奴隷制容認判決を喜ぶ」と言った。
  それを、現代になって、アメリカは、必死にプロパガ
 ンダして変えようとする。
.
1859年10月、ジョン・ブラウンの蜂起
  ジョン・ブラウンは、この壮挙が、「奴隷の方々の立
 ち上がる『蜂起の烽火(のろし)』となればと思った。
  結局、圧倒的多数の白人・アメリカ人の軍隊に殲滅さ
 せられてしまった。
  ジョン・ブラウンの二人の息子は戦死した。
  今、戦死と記したが、まさに、白人・アメリカ人の黒
 人奴隷の方々に対する非人道的行為に対する戦争だった。
  暴動と白人・アメリカ人は蔑視して言うが・・違う。
  自由を求めて、黒人の方々は『正義の戦争』を行なっ
 た。
  何人の黒人の方々が、自由を求めて命を落としたこと
 か・・
  白人・アメリカ人のリンカーンの与えた「奴隷解放」
 なんて・・「奴隷解放ではなかった」。
  むしろ、白人・アメリカ人たちが言う「リンカーンの
 奴隷解放」は、「白人・アメリカ人の敗北宣言」だった。
  どれほど、黒人の方々が、自由を欲して活動して来た
 か・・そして、その数々の事実が隠されて来たか・・、
  黒人の方々の歴史が、掘り起こされて来ている。
.
1860年、この年、アメリカは、約400万人もの黒人の方々を
 奴隷にしていた。
  アメリカが、隣国のメキシコを騙(だま)してまでし
 て欲しかった「メキシコ領・テキサス」などは、綿花で
 利益を得たい・・儲けたいからだった。
  この頃、それまでの長繊維の綿花に変わって、新品種
 の短繊維の陸地綿が導入された・・、
  その綿花が効率的に処理できる綿繰機(コットン・ジ
 ン)は、1793年に、イーライ・ホイットニーによって発
 明されていて、能率が150倍となり、
  さらに、水力を利用すればその効率は、1000倍にもな
 った。
  また、栽培技術も容易になる品種のため、生産量も飛
 躍的に増大した。
  当然、その儲けは、莫大に伸びた。
  それと共に、アメリカ西部の地を奪う何ら根拠のない
 「西漸説」、自分たちだけに都合の良い「西漸運動」が
 進められて行った。
  この欲にかられたアメリカは、「騙(だま)し」を、
 隣国のメキシコや、先住の民・アメリカインディアンの
 方々へ行って、その方々の土地を奪って行った。
  そして、綿花畑にして行った・・、
  それまでは、かつての綿花は、狭小な「サウスカロラ
 イナ」や「ジョージア」の海岸沿いの狭小の地で、わず
 かに行なわれていた。
  それが、「テネシー」「アラバマ」「ミシシッピー」
 「アーカンソー」「ルイジアナ」「テキサス」などと、
 広大な地域に広がった。
  その陰で虐げられ、騙され、泣く多くの人々が居た。
  肥沃な黒土に覆われたその黒土地帯は、広々と広がる
 地は・・綿花栽培に適し、奪われて行った。
  そして、そこに、奴隷にされた黒人の方々が連れて来
 られた。
  黒人の方々が、住民の過半数を占めるほどになる「黒
 人奴隷地帯」が生まれた。
  白人・アメリカ人のWASP(W:白人、AS:アン
 グロ・サクソン、P:プロテスタント・キリスト教徒)
 が働かなくても、黒人の方々に働かせて、美味しい汁を
 吸う地だった。
  綿花生産は増大し、黒人奴隷数も増大して行った。
  1860年には、黒人の奴隷にされた方々は、395万人にな
 った。
  アメリカは、南部も北部も、黒人の方々の低廉な労働
 力を奴隷として得たいとして、虐げて得ていた。
  (今、アメリカの政治を牛耳る「北部系の論理」は、
 奴隷制は南部だとしている・・が、
  悪いことは南部だと押し付け、北部は違うと言ってい
 る・・が、しかし、これは真っ赤なウソ・・
  アメリカの総べてが、黒人の方々を虐げて、低廉な労
 働力を求めて、奴隷としていた)
  今・現代においても、アメリカ南部で「嘆(なげ)か
 れている言葉」は・・、
  「黒人たちを教育しても、皆、北部の資本家に吸い取
 られてしまう」・・である。
  北部資本家が、安い黒人の方々の労働力を奪っている
 という嘆きの声である。
.
1860年、アメリカのこの年の綿花生産量は、383万べールで、
 1790年の0.3万べールの1300倍になった。
  その多くが、イギリスへ輸出された。
  アメリカの総輸出額の半分以上だった。
  (参考)ベール:綿花や干し草、羊毛などに用いられ、
    素材を圧縮しビニールや布などで巻いたり、テー
    プなどで帯をかけたりする梱包。似た単位に「袋」
    「樽」「ロール」「束」「ドラム」などがある。
.
1951年4月19日、ワシントンD.C.のアメリカ上下院の合同会
 議におけるマッカーサー離任演説は・・、
  「・・戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、
 最も大きな改革を体験して来ました。
  見事な意志と、熱心な学習意欲・・、
  そして、驚くべき理解力によって、
  日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人
 の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打
 ち立てました。
  そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、
 社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作ら
 れました。
  今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして、社会
 的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。
  世界の信頼を裏切るようなことは2度とないでしょう。
  最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながら
 も、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩める
 ことなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度
 は、日本が、アジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼす
 ことが期待できることを立証しています。
  私は、占領軍の4個師団を、すべて朝鮮半島の戦場に
 送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響
 について、何のためらいもありませんでした。
  結果はまさに、私が確信していた通りでした。
  日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を私は知りま
 せん。
  また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献するこ
 とがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません」
  「・・(中略)・・私は、今、52年にわたる軍務を終
 えようとしています。
  今世紀に入る前に、私が陸軍に入隊したとき、それは、
 私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした。
  私が、ウェストポイント(陸軍士官学校)で兵士にな
 る宣誓をして以来、世界は何度も向きを変え、希望や夢
 はずっと前に消え失せてしまいました。
  しかし、当時、兵営で最も人気が高かったバラードの
 一節を今でも覚えています。
  それは、誇り高く、こう歌い上げています。
  『老兵は死なず。ただ消え去るのみ』と。
  そして、このバラードの老兵のように、私もいま、私
 の軍歴を閉じ、消え去ります。
  神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老
 兵として。さようなら」。
.
1997年2月19日、鄧小平(とうしょうへい)が死んだ。
  鄧小平は、中国(中華人民共和国)の政治家だが、毛
 沢東の死後、中国の最高指導者となった。
  この鄧小平の死んだこの年から遡(さかのぼ)ること
 48年前の1949年に、中華人民共和国が成立した。
  そして、その29年のちの1978年に、毛沢東が死んで、
 ようやく、その29年間も続いた恐怖政治が終わった。
  毛沢東の政権下では、何回も、自国民が1000万人単位
 で虐殺されるような政治だった。
  その後を継いだ鄧小平は、経済を開放した。
  しかし、1989年に、天安門で虐殺事件を引き起こした。
  鄧小平が改革開放を始めた頃は、鄧小平が望んだこと
 は・・、
  「貧しい中国では、豊かになれる者から豊かになり、
 近代化をして、そして、日本の経済規模を越えて行きた
 い・・、
  そしてまた、アメリカをも越えて行きたい」だった。
  また、この時に、世界へ、中国が思わせたことは、中
 国の制度の違いによる恐れとか、警戒感とかは抱かせず、
 中国の台頭は、『完全に平和的なもの』であり、
  また、既存の権力構造を変化させるものでなく、国際
 ルールに従って行くだった。
  GATT(関税、及び、貿易に関する一般協定)にも
 参加して、遵守姿勢を示した。
  国際法にも、遵守姿勢を示した。
  知的財産権や私的財産権、著作権などの「ルールに従
 います」だった。
  いつまで、この「借りてきた猫」状態が続くか?
  この初期段階の中国の様子に、世界は騙された。
  中国にとっては、この段階は、大成功だった。
  しかし、中国は、『国内の一党独裁体制』は維持しな
 がら、それ以外の国際的な事は「受け入れる」としただ
 けだった。
  中国は、経済的に発展することが出来た。
  その発展と共に、「中国軍の規模や編成が発展・拡大」
 した。
  普通、この様な場合、アメリカやロシアや日本は、注
 意を払い、警戒感を抱き、「戦略の論理」が働く訳なの
 だが・・、
  中国の国際的行動方針・平和的な方針に、警戒的な反
 応を示す事はまったくなかった。
  しかし、これは、中国の取った初期の段階だけに通用
 したことだった。
  中国の次の方針には、その様には行かない状態に至っ
 た。
  つまり、規模が大きくなり、経済的に豊かになり、軍
 備を拡張するようになると、他国はその凄い状況・状態
 に刺激された。
  それまで、アメリカの対中政策は、1972年以降、「毛
 沢東が率いる中国を、あらゆる面で助けて、国力をアッ
 プさせ、ソ連に対抗させる」というものであった。
  しかし、2000年代後半になると、アメリカは、中国が
 あまりにも豊かに成り過ぎる事・拡大する事を恐れ始め
 た。
  中国のGDPは爆発的に伸び、国防費は莫大になった。
  しかし、2000年頃までは、「平和的台頭」で、中国は、
 国際的な規範や制度、そして、法律などを良く守り、
  WTOやIMF(国際通貨基金)にも加盟したために、
  どこの国にも脅威を感じさせず、与えなかった。
  しかし・・今は・・違う・・、
.
2000年以降、中国は、この頃までは、平和的な方針をとっ
 ていた。
  この為、日本やアメリカをはじめとする国々から、支
 援や投資を受けることが出来た。
  中国経済は拡大した。
  中国の方針は成功していた。
  中国のリーダーたちも、世界の状況をよく知ろうとし、
 また、その結果から、理知的な方針を取っていた。
  中国のリーダーたちは・・中国の国内の激しい内部闘
 争を生き抜いて来た人物ばかりだった。
  一旦、権力の座から落ちれば、自分だけではなく、家
 族や親族までもが命を失うという中国を生き抜いた人物
 たちだった。
  この頃は、「世界に調和して発展する」という方針を
 とった中国が存在していた。
  しかし、この方針が崩れる・・それが、2000年1月に起
 きた「リーマン・ショック」という、戦後最大の国際金
 融危機の後からだった。
  世界の経済構造が変化し始めた。
  中国も影響を受け、変わって行った。
.
2017年9月15日、午前6時57分、北朝鮮は、平壌近郊の順安
 (すあん)から中距離弾道ミサイル「火星12型」を発
 射した。
  ミサイルは、3700キロを飛翔した。
  アメリカの軍事拠点であるグアムを攻撃可能範囲に収
 めた。
  金正恩(キム・ジョンウン)委員長は以下のことを述
 べた(朝鮮中央通信)、
  ▽今回の訓練で火星12型の「戦力化が実現した」。
  ▽今後は「各種の核弾頭を実戦配備」する。
  ▽「最終目標は、アメリカと実際の力の均衡を確立す
   る事」だ。
  ▽国家核戦力の完成という「終着点にほとんど到達し
   た」ので「全国家的な力を集中」して結束を見る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)558E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年5月~1892年6月)

2017-10-04 04:14:29 | 日記
題:(増補版)558E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年5月~1892年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年5月11日、貴族院が、政府の選挙干渉に対する反省の
 建議案を可決した。
  1982年5月16日、7日間の停会を命じられる。
  1982年5月31日、衆議院、予算案から海軍予算などを削
   減し可決
   (1982年6月6日、貴族院、復活修正し衆議院へ回付)。
  1982年6月9日、衆議院、貴族院の復活修正は不法と議
   決し、予算修正案を貴族院へ返付。
  1982年6月10日、貴族院、復活修正を合法として衆議院
   へ返付し、
  1982年6月11日、予算審議権に関する勅裁を求める上奏
   案が可決。
  1982年6月13日、天皇陛下、貴族院の上奏を枢密院に諮
   詢、貴族院の復活修正を認め立法協賛権に両院の差
   はないと勅裁。
  1982年6月14日、両院協議会、予算案修正につき妥協し
   両院で可決。
  1982年7月20日、河野敏鎌内相、選挙干渉事件に関して、
   福岡県知事安場保和・内務次官白根専一らを更迭
   (1982年7月27日、高島鞆之助陸相、樺山資紀海相、
   これに反対して辞表提出)。
  1982年7月30日、松方正義首相、閣内不統一のため辞表
   提出。
  1982年8月3日、伊藤博文、各元勲の入閣を条件として
   組閣を承諾。
1892年5月13日、衆議院議員の河島醇・田中源太郎が、鉄道
 拡張法案を提出した。
1892年5月14日、衆議院が、政府選挙干渉問責決議案を可決。
1892年5月21日 保安条例を実施し、壮士143名に対し帝都よ
 り退去を命じる。
1892年5月21日、ルッジェーロ・レオンカヴァッロが作曲し
 た歌劇「道化師」がミラノで初演された(全2幕)
  テアトロ・ダル・ヴェルメ劇場で、指揮はトスカニー
 ニだった。
1892年5月22日、歯磨きチューブが発明された。
  ワシントン・シェフィールド(アメリカ人、歯科医)
  因みに、最初の歯磨剤は、紀元前1550年頃、古代エジ
 プトの医学書の内容が記載されたパピルスであるという。
  また、4世紀頃、エジプトでは、食塩・黒胡椒・ミント
 の葉・アイリスの花を混ぜ合わせた粉末の歯磨剤を使用
 していた。
  古代ローマでは、人間の尿に含まれているアンモニア
 が歯を白くするものと考えられ、尿が歯磨剤として用い
 られていた。
  18世紀(1700年代)、アメリカ合衆国では、焦げたパ
 ンを混ぜた歯磨剤が使われていた。
  また、「ドラゴンの血」と呼ばれる混合樹脂にシナモ
 ンや焦がしたミョウバンを混ぜた歯磨剤もあった。
  19世紀以降になって、やっと、欧米で歯磨剤が広く用
 いられるようになった。
  1800年代初頭には、歯磨きは、主に歯ブラシと水だけ
 で行われていた。
  その後、間もなく、粉末の歯磨剤が大衆に広まって行
 った。
  この頃の歯磨剤の多くは、自家製で、チョークの粉・
 細かく砕いた煉瓦・食塩などがよく混ぜられて使われた。
  1896年、現在の様なチューブに入ったペースト状の歯
 磨剤が、ニューヨークでコルゲート社によって初めて売
 り出された。
1892年5月27日、衆議院特別委員会が、鉄道公債法案・私設
 鉄道買収法案・鉄道拡張法案・鉄道敷設法案等の5法案
 をひとつの法案にまとめ「鉄道敷設法案」とし、6月2日、
 本会議に報告した
1892年5月、帝国通信社が創立された。
  改進党系の通信社。
  通信社は、報道機関や民間企業の需要にこたえて一般
 向けニュース(ゼネラル・ニュース)や経済・金融情報
 (コマーシャル・ニュース)の収集、配信を行う組織で、
  明治憲法発布の前後に生まれた時事通信社(1887年~
 1890年)、新聞用達会社(1890年~1892年)などが、日本の
 通信社の先駆で・・、
  当時は、群小通信社の乱立だった。
  1892年、新聞用達会社の後身として、帝国通信社(帝通)
 が創立され、日清、日露戦争を通じて業務を拡大した。
  1901年、日本電報通信社(電通)が創立され、とともに
 日本の二大通信社として競争した。
  1914年、第1次大戦勃発直前、ロイター通信社と結ぶ国
 際通信社(国際)が生まれ・・、
  1926年、東方通信社を合併して日本新聞聯合(れんご
 う)社(聯合、1928年、新聞聯合社と改称)を組織され、
 帝通の没落とともに、電通と聯合との激しい競争の「電
 聯時代」が生まれた。
1892年6月3日、田中正造が、衆議院で足尾鉱毒事件につい
 て質問をした。
  当時の毎日新聞(1892年6月5日)には・・、
  本会、明治25年(1892年)5月9日、河野広中君、及び、
 工藤幹君は、北海道殖民開拓に関する施政カ針、北海道
 官有物払下、北海道勧業委托金処分、札幌製糖会社及び
 札幌製麻会社、北海道土地貸付、炭鉱鉄道線路変更の件
 に付、
  同月・5月11日、塩田奥造君、新井啓一郎君、及び、箕
 輪勝人君、同鉄道始末に対する件に付、
  同月・5月23日、加藤淳造君、同北海道炭鉱鉄道会社に
 関する件に付き、
  同月同日・5月23日、田中正造君は、足尾銅山鉱毒加害
 の件、及び、北海道幌内郁春別鉄道会社命令書違反、神
 戸造船所、釜石鉱山、阿仁及び院内鉄山、小坂銀山に関
 する件に付き以上の質問書を提出したるに・・政府は、
 未だ何等の答弁をもなさず。
 議院法第49条には、「質問主意書は、議長之を政府に
 転送し、国務大臣は、直ちに答弁を為し、又は、答弁す
 べき期日を定め、若し答弁を為さざる時は、其の理由を
 明示すべし」とあり・・、
  黙るに、政府は上記数件の質問に対し、未だこれが答
 弁をなさず、又答弁すべき期日を定めざる理由如何、若
 し政府に於て答弁能はずとせば、何故にその理由を明示
 せざるや。
 以上、議院法第48条により提出す、国務大臣はその責任
 を負ひ直ちに明答あらんことを望む。
  明治25年6月3日
    質問者 田中正造
    賛成者 塩田奥三 他2名
.
  (今日の言葉)
.
  題:北朝鮮を賛美する日教組と、日本を貶めるNHKと・・、
    プロパガンダに精出す中国と、核を搭載したまま日本に寄港する
.
1785年、第3代アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンの
 言葉・・、
  「キリスト教の教えが広まってからというもの、何百
 万という無数の男女や子供が火あぶりにされた。
  そして、拷問にされた。
  そして、罰金を科され、投獄されて来た。
  けれど・・、
  私たちは、1インチたりとも(少しも)統一に向かっ
 て進んではいないではないか・・、
  (キリスト教は、何の役にも立っていないではないか、
  むしろ、無実の人々の命を奪って来た)
  では、一体、圧政は何をもたらしたのか?
  世界の半分の人々が愚者に・・、
  そして、残りの半分が(キリスト教の)偽善者に変わ
 ってしまったではないか、
  そして、世界の人々が過ちや悪業を支持するようにな
 ってしまった」・・と・・、
.
1793年2月12日、「逃亡奴隷取締法」が、アメリカで、卑劣
 にも制定された。
  この法律で、アメリカは、黒人奴隷制度を『強化した』。
  これまでにも、アメリカは、国の基本方針を決める憲
 法にまでも、「奴隷制容認の条項」を卑劣にも書き記し
 ていた。
  この年に制定した「逃亡奴隷取締法」は、非人道的な
 記述に満ちている・・
  どう猛な犬ども追われ、また、銃口に狙われる追跡が、
 「正義の行為だ」と記されていた。
  また、逃亡を失敗して捕らえられた奴隷には、二度と
 同じ逃亡をしない様に、他の奴隷の見せしめに、何十回
 となく激しくむち打たれ、その上、焼き印を押されたり、
 耳をそがれたりした。
  何とか、逃げられたとしても、その奴隷の首には、賞
 金がかけられた。
  生かすも殺すも、これを捕らえた者が勝手に決めてよ
 いと記述した。
  逃亡奴隷取締法は、この様な残虐なアメリカ合衆国の
 法律だった。
  よく、こんな低劣な法律を作れるものだと怒りと共に
 軽蔑し、呆(あき)れる。
  アメリカ北部がイニシアチブをとる政治、および、キ
 リスト教国=アメリカのやることだった。
  アメリカ白人の奴隷所有者にとっては、「儲け」の要
 (かなめ)という事で・・非人道的であろうと必死に非
 人道的なことを行なった。
  また、アメリカの白人の奴隷所有者は、「儲け」のた
 めと、「自己満足」のために、女奴隷に子供を産ませた。
  「キリスト教が、奴隷所有を肯定したがために、この
 様な卑劣な行為に対しても、何ら罪悪感を持たない白人
 の奴隷所有者たちであった。
  しかし、さらに、厳しく、黒人奴隷制度は強化された。
  黒人奴隷の方々は、抑圧が強くなればなるほど、これ
 に対する反発を強めた。
  黒人奴隷の女性たちは、従来の様な「子供を産ませら
 れるような事を拒絶した」。
  また、病気を装(よそお)ったりして、仕事のサボタ
 ージュをした。
  (参考)サボタージュ:労働組合の争議戦術の一つ。
      職場にはつくが、仕事の能率を下げて経営者
     に損をさせる方法。
  逃亡行為も増えた。
  また、その逃亡を助ける非合法組織もできた。
  非常に遅れた唾棄すべきアメリカ社会が現出していた。
  そして、1850年には、前の法より、より一層厳しい逃
 亡奴隷取締法をアメリカは制定した。
  アメリカ北部も完全に、この法律に加担した。
  やむなく黒人奴隷の方々はカナダに逃れた。
  この様なアメリカ北部が、この11年後、南北戦争(1861
 年~1865年)をする。
.
1847年12月3日、黒人の黒人奴隷解放運動家のフレデリック・
 ダグラスが、この日、ニューヨーク州西部のロチェスタ
 ーで、自分の週刊新聞「北極星(ノース・スター)」の
 発行を始めた。
  そして、南北戦争が勃発し、リンカーン大統領は、黒
 人の軍隊編入をためらった・・、
  黒人の方々は、「私たちもアメリカ人だ」の意識から
 軍に加わりたいとした。
  また、奴隷身分の黒人の方は、軍に参加して奴隷の身
 分から脱したいと思っていた。
  リンカーンは、その様な黒人の方々の思いをはねつけ
 た・・無視した。
  フレデリックは言った・・
  「両手が必要な時に、片手で戦ってどうなる。黒人を
 排除すべきではない。
  今、貴方(リンカーン)は、黒人の黒い手を縛ったま
 まにしておいて、あなたの白い手だけで戦う時ではない」
 と・・、
.
1938年2月、日本のユダヤ人救出
  ナチス・ドイツの迫害から逃れた多数のユダヤ人難民
 の第一陣が・・、
  この時、シベリア鉄道に揺られ、満州国の最北端の満
 州里駅に近いソ連側にあるオトポールに到着した。
  このユダヤ人の方々を救ったのが日本だった。
  「東条英機らであった」。
  日露戦争で、ユダヤ人の方々に恩を受けた日本・・そ
 の恩を返す時だった。
  日本は、決してユダヤの方々を見捨てなかった。
  日本のすべてが、ユダヤの方々を亡国の民として、『
 ユダヤの方々を救いたい』と思っていた。
  キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)で、美談にでっ
 ち上げられている『杉原千畝』だけではなかった。
  (因みに、杉原千畝は、ビザ発行の権限を持っていな
 いので、規則を犯して違反でビザ発行を行なっていた)
  関東軍参謀長を務めていた後の首相の東条英機と・・、
  そして、その東条英機の下で、樋口季一郎少将と、安
 江仙弘大佐が、20000人ものユダヤ人の方々を救っていた。
  そして、この後、このユダヤの方々は、神戸で安心す
 る生活を送った。
  この様な功績を無視し、アメリカは、東京裁判で、
 絞首刑にした。
  東条英機の絞首刑は、すでに連合国の密談で決定して
 いた。
  判決が、裁判の最初から決まっていた東京裁判は・・、
 「ただの茶番劇」だった・・当然、国際法違反だった。
.
1949年8月末、吉田茂首相からマッカーサー司令官への手紙
 「在日朝鮮人の全員送還を望む」の書簡・・
  吉田茂は、マッカーサーと往復書簡を交わしていた。
  その中の一つ。
  在日朝鮮人が、戦勝国と錯覚したりして、日本国内で
 の不法行為や犯罪が『あまりに多く』発生していた。
  吉田茂首相は、在日朝鮮人の送還費用は、日本政府が
 負担するとした上で・・、
  将来世代の負債となること、
  日本経済の再建に貢献しないこと、
  犯罪割合が高く、経済法規を破る常習犯であり、
  投獄者が、常に、7,000人を超える・・などから、
  朝鮮人全員の送還を求めた。
  その内容・・、
  連行国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥閣下
  親愛なる閣下
  日本の戦後の諸問題のうち、朝鮮人と台湾人に関する
 ものがありますが、彼らはかつて日本国民であり、現在
 もこの国に依然として滞在しているものです。
  ここで、台湾人については、彼らが比較的少数であり、
 それほど問題を起こしておりませんので、しばしふれな
 い事に致します。
  しかし、総数約100万人、そのほぼ半数は『不法入国者』
 であるところの在日朝鮮人の問題について、我々は、い
 ま、早期の解決を迫られております。
  私は、これらの朝鮮人が、すべて、彼らの生国の半島
 に送り返されることを欲するものです。
  その理由は以下の通りです。
 (1)日本の食糧事情は、現在もまた将来においても、余
   分な人々を維持することを許しません。
    アメリカの厚意によって、我々は大量の食糧を輸
   入していますが、その一部は、在日朝鮮人を食べさ
   せるために用いられています。
    これらの輸入は、将来、何世代にもわたってわが
   民族の負債となることでありましょう。
    もちろん、我々は、そのすべてを返済する覚悟を
   固めておりますが、この対米負債のうち朝鮮人のた
   めに生じた分まで、将来の世代に負わしむるのは、
   公正なこととは思えません。
 (2)これら朝鮮人の大多数は、日本経済の再建に貢献し
   ておりません。
 (3)もっと悪いことには、これら朝鮮人は犯罪を犯す割
   合がかなり高いのです。
    彼らは、我が国の経済法規を破る常習犯です。
    かなりの数が、共産主義者かその同調者であり、
   最も悪質な政治犯的犯罪を犯しがちなのです。
    投獄されているものは、常に7000人を超えていま
   す。
    戦後、今日まで裁判に付せられた、朝鮮人による
   刑事事件は以下の通りです。
  1945年(8月15日以降)事件数5334、
             朝鮮人関係者数8355人、
  1946年、事件数15579、朝鮮人関係者数22965人、
  1947年、事件数32178、朝鮮人関係者数37778人、
  1948年(5月末現在) 事件数17968、
             朝鮮人関係者数22133、
  合計、 事件数71059、朝鮮人関係者数91235、
  さて朝鮮人の送還計画として私が考えるのは次のよう
 なものです。
 (1)原則として、朝鮮人はすべて送還され、その費用は
   日本政府の負担とする。
 (2)日本に在住を希望する者は、日本政府に許可を申請
   すべきものとする。
  在住許可は、日本経済の再建に貢献しうると見なされ
 た者に与えられる。
  以上述べました私の考えが、貴官によって原則的に承
 認を得られた場合は、送還にともなう予算その他の具体
 的措置について、あらためて案を提出いたします。
                  敬 具 吉田茂
  (参考)この書簡は、吉田茂のある事を行なうための
     戦術でもあったと言われている。
  (参考)2010年(平成22年)7月においても、2万7000
     世帯の韓国・朝鮮の国籍保有世帯に、日本は生
     活保護費用を支給している。
      これは、外国人全体のほとんどと言える約70
     %にもなっている。
      他の国々よりだんぜん「ずば抜けて多い」。
      そして、日本は、毎年、外国人の生活保護費
     として1300億円もの膨大な費用を支出している。
  (参考)刑務所収容者の「約90%が韓国・朝鮮人」と
     なっている。
      永住権を持つ外国人に限った犯罪者数でも、
     半数以上の57%が韓国・朝鮮となっている。
      そして、教育関係を繰ろうと日教組に多くの
     韓国・朝鮮が入っている。
      委員長が北朝鮮出身であった・・、
.
1981年(昭和56年)、核を搭載したまま日本に寄港すると
 の発言・・、
  エドウィン・O・ライシャワー氏(1961年~1966年に、
 駐日アメリカ合衆国大使を務めた、ハーバード大学教授、
 東洋史研究)が、1981年に、古森義久(当時、毎日新聞
 記者)に対して・・、
  「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が、核兵
 器を積んだまま、日本の基地に寄港していた」と発言し
 た。
  このことを受け・・、
  「非核三原則」違反を、大使まで務めた外交官が認め
 たとして日本国内で騒動になった。
  発言の詳細内容:
  (1)非核三原則の規定する持ち込みとは、陸揚げを指
    し、核兵器を搭載した艦船の寄港は含まない。
  (2)日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵
    器を積んだまま日本の基地に寄港していた。
  (3)これについては、日米安保条約の規定する「事前
    協議」の対象とならないことを日本側も了解して
    いた。
  「国防情報センター」(Center for Defense Information)
 のジーン・ロバート・ラロック所長(元海軍少将)によ
 る「核兵器搭載艦船は、日本寄港の際にわざわざ兵器を
 降ろしたりしない」の「ラロック証言」と並び有名な「
 ライシャワー発言」となった。
  そして、1999年(平成11年)には、日本の大学教授が
 アメリカの外交文書の中に・・、
  「1963年(昭和38年)に、ライシャワーが、当時の大
 平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の
 持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間
 で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付け
 た。
.
2003年1月、日教組の槙枝委員長が、拉致行為をしている北
 朝鮮だが、この北朝鮮を賛美した。
  そして、日教組は「自虐史観教育をしている」が、こ
 の日教組の自虐史観教育を受けた子供の感想は・・、
  「わたしは、日本の国に生まれなければよかった。人
 殺しをした日本の国は大きらい」・・、
  「ぼくたちのおじいちゃんは人殺しをした。日本なん
 て大きらい」・・、
  「中国人はずい分がまんをしたと思う。ほんとうにか
 わいそうと思った」・・、
  そして、教師が、子供たちに向かって・・、
  「おじいさんが戦争に行ったことがあると言う人は手
 を挙げて」・・と言って、手を挙げた子供に向かって、
  「あなたのおじいさんの血は穢(けが)れていますね」
 と侮辱した。
  また、横須賀市の日教組の組合教員が・・、
  「万引きもいわば社会経験だ」と教えた。
  万引きをした子供を叱るのではなかった。
  道徳を教えないどころか、「悪事を推奨していた」。
  道徳反対の日教組の影響が、この様な形で出ている。
  また、日本人を拉致している北朝鮮だが、1998年(平
 成10年)に、日教組の川上委員長が北朝鮮に出向き、
 100万円をカンパし、今後も、日教組と北朝鮮の教育文化
 同盟、および、種々の教育機関との交流を決めた。
  日教組は、何かと北朝鮮を賛美する。
  2003年(平成15年)1月に、日教組の槙枝委員長が、全
 国集会で北朝鮮を賛美するメッセージをした。
  また、北朝鮮から第一級の勲章を貰っている。
  日教組は、連綿と北朝鮮を礼讃して来た。
  そして、報告書より少ない受け持ち時間数の教員が(
 報告書には水増し記入している)、その空いた時間に、
 組合活動をしている。
  改竄(かいざん)を認めた教員の『虚偽行為』を隠す
 校長や教育委員会まで居るという始末・・、
  勝手に授業時間を短縮したり、日教組は、自分たちに
 都合よく決まりを破るのが常套となっている。
  そして、指導する立場の教育委員会は目をつぶってい
 る。
  改善するために「主任制」を作ったが、日教組は、こ
 の主任制に反対し、潰す活動をしている。
  そして、主任手当を組合に拠出している。
  管理者の校長の形骸化(けいがいか、意義や内容が失
 われたりして、形ばかりのものになってしまうこと)も
 して、「職員会議の決定がすべて」として、管理者の校
 長は、お飾りとされている。
  つまり、日教組の組合が、「職員会議以外の校長の言
 うことは聞くな」と指令している。
  だから、日教組の教員は「言うことを聞かない」。
  鎌倉市の場合、すべての主任手当の金が、日教組に入
 っているという・・、
  ある意味、ピンハネ構造になっているという。
  その額は、数十億円という半端な額ではない、美味し
 い話となっている。
.
2009年4月5日、NHKの番組「ジャパン・デビュー」は、
 2009年4月5日~2009年6月にかけて、日本放送協会 (NH
 K) のテレビ番組『NHKスペシャル』で放送された。
  4回分のシリーズを放送した。
  しかし、、まったくひどい偏向番組だった。
  最初から、捏造がある、事実が歪曲されている、やら
 せだ、名誉を傷つけられたなどの抗議が殺到した。
  NHKは、公共放送と言いながら、まったく日本の国
 益に反する放送ばかりをする。
  日本ばかりを貶(おとし)める行為をする。
  台湾の方々の心を傷つけ、日台関係を傷つけた。
  そして、NHKの放送番組「ジャパン・デビュー」は、
 訴訟沙汰(ざた)になった。
  日本と台湾の両国の視聴者や、番組出演者を含めた約
 1万300人(台湾の方々約150人を含む)により集団訴訟が
 起こされた。
  編集権のあるNHKは、それを盾に抗弁した。
  「意図的なつまみ食いだ」と批判された・・その通り
 だった。
  また、シリーズという繰り返し効果を狙った。
  例えば、毎日、人格を傷つける事を言われ続けるとい
 う辛さを理解しないNHKは、それを、逆利用した。
  長い間、NHKは、この番組に限らず、この様な番組
 を、放送し続けている。
  キリスト教に偏するNHKの「道教」を扱った放送も
 偏向していた。
  『台湾の独自性を壊したい』という意図がある放送を
 していた。
  明らかに、中国の現政権に有利にしたいという意図が
 あった。
  また、中国(共産中国)に有利な意図が番組に流れて
 いた。
  編集で、その様な印象が出る様にした。
  NHKは、中国に有利な番組の作り方をよくする。
  また、NHKは、『自局に不利な事』はまったく言わ
 ない、放送しない・・
  特に、NHKが戦争を煽って来た事を・・、
.
2009年、元外務事務次官の村田良平氏が、朝日新聞などに、
  退官後の2009年に、日米核持ち込み問題について、日
 米核密約の存在を暴露し、注目を集めた。
  そしてまた、村田氏は、北朝鮮が核実験を行ったこと
 により日本の核武装をアメリカが拒否できない日が来る
 と予測した。
  それでも、アメリカが、日本の核武装を拒否するなら、
 在日米軍基地の全廃を実行し、かつ、SLBM(潜水艦
 発射弾道ミサイル)を日本は持つことになる・・と主張
 した。
  また、村田氏は、外務省があまりにも対米従属的であ
 ると述べた。
  その村田良平氏の言葉・・、
  「日本が、イギリス、あるいは、フランスと類似の、
 潜水艦による極めて限られた自前の核抑止力を保有する
 のが最も正しい道であり・・、
  アメリカの核の傘への信頼は、北朝鮮問題の処理によ
 ってすでに地に落ちている・・
  もしアメリカがこれをあくまで拒否するのなら、在日
 アメリカ軍基地の全廃を求め、合わせて、まったく日本
 の独力によって通常兵器の抑止力に加え、フランスの如
 く、限定した核戦力を潜水艦を用いて保持するというの
 が論理的な帰結であろう」。
.
2010年3月、政府調査報告書で、佐藤栄作首相が、ニクソン
 と交わした、有事の際に沖縄への核持ち込みについて、
 事前協議が行われた際には、日本側が「遅滞なく必要を
 満たす」ことを明文化した密約の文書が確認された。
  しかし、外務省の中で、引継ぎがされた形跡がないと
 いう理由から、日本政府としてアメリカ政府と密約した
 とは確認できないと結論づけた。
  その一方、内閣は、鈴木宗男からの質問主意書に対し
 て、「発見された佐藤・ニクソン会談議事録は真正文書
 であると考える」旨の答弁書を閣議決定した。
.
2016年12月9日、ワシントンポストが報じる「トランプ氏と
 ロシア」について・・、
  「トランプ氏当選のため、ロシアがサイバー攻撃」と
 CIAが報告した。
  オバマ大統領は、退任までに調査をするようにと指示
 した。
  アメリカ中央情報局(CIA)は・・、
  アメリカ大統領選で、共和党候補ドナルド・トランプ
 氏が勝利するように、ロシアがサイバー攻撃を仕掛けた
 という分析結果をまとめた。
  ワシントンポストが、12月9日に報じた。
  大統領選期間中に、民主党全国委員会(DNC)や、
 民主党候補ヒラリー・クリントン氏の選挙陣営が不利に
 なるような情報がハッキングされ、再三にわたって、内
 部告発サイト「ウィキリークス」を通じてメールが暴露
 された。
  情報筋は、この暴露は、アメリカ人の政府に対する信
 頼を失わせる意図で、ロシア側が仕掛けたものだと指摘
 して来た。
  ワシントンポストに語った情報筋によると・・、
  CIAは、ロシアが明らかにトランプ氏の勝利を狙っ
 て情報操作していたと結論づけているという。
  「ロシアの目的は、2人の候補者のうち1人の候補者が
 有利になること、
  つまり、『トランプ氏当選を助けることだった』と、
 CIAは分析している」と、政府関係者がワシントンポ
 ストに語った。
  「これが一致した見解」
  トランプ陣営は9日、アメリカの情報機関は、その信
 頼性に疑問があるため、報告は信用できないと述べた。
  「今回の報告は、サダム・フセインが大量破壊兵器を
 保有している、と発表したのと同じ情報源からきたもの
 だ」・・と・・、
  トランプ氏の政権移行チームは声明を発表した。
  「選挙は史上最多ともいえる選挙人を獲得し勝利した。
  はるか昔に終わったことだ。
  今は前進し、『アメリカを再び偉大にする』時だ。
  ロシアのウラジミール・プーチン大統領が、トランプ
 氏の大統領就任を望んでいるのは驚く話ではない。
  トランプ氏は、選挙期間中、KGB(旧ソビエト連邦国
 家保安委員会)の後身でロシア連邦保安局(FSB)長
 官だったプーチン大統領を賞賛していた。
  トランプ氏は、プーチン大統領を、「バラク・オバマ
 よりも優れた指導者だ」と発言していた。
  公表された漏えい情報の中で、トランプ氏と共和党に
 関するものはほとんど含まれていなかった。
  しかし、一方で、クリントン氏と民主党による内部機
 密や個人のメール通信は多数暴露されていた。
  (参考記事)
  また・・、
  ニューヨークタイムズによると、ロシアは、共和党全
 国委員会を(RNC)をハッキングしたが、情報を公開
 しない選択肢をとったと、CIAが結論づけているとい
 う。
  さらに、CIA職員は、少なくとも2州の有権者登録
 データベースに、ロシア政府関連のハッカー集団が、不
 法侵入したことを発見していた。
  ハッカー集団とロシア政府との関連性は、2016年前半
 にCIAが把握していた。
  しかし、トランプ氏は、ロシアの関与に関してまとも
 にとりあっていない。
  今回の分析が明らかになる前から、トランプ氏は、C
 IAの調査結果を、政治的に動機付けられたものであり、
 確実な証拠に基づいたものではないとして非難した。
  「私はそんな話は信じません。(ロシアが)干渉して
 いるとは思いません」と、トランプ氏は、タイム誌の『
 パーソン・オブ・ザ・イヤー』に選出された時のインタ
 ビューで語った。
  「そんなことは笑い話にはなっても、真面目に話すこ
 とではない。
  私が何かをするといつでも、彼らは『おお、ロシアが
 干渉した』って言うんですよ」
  ハッキングは・・、
  「ロシアの可能性がある。
  中国の可能性がある。
  そしてこれは、ニュージャージー州出身の人間(クリ
 ントン氏)の可能性がある」と、トランプ氏は語った。
  トランプ氏は、選挙運動中に行った7月27日の会見で、
 ロシアにハッキングを求めるような発言をしている。
  「ハッキングが事実なら、ロシアはおそらくクリント
 ンの3万3000通のメールを持っている。
  私は彼らが持っていることを願っている」と。
  (参考記事)
  また・・、
  ドナルド・トランプ氏が、ロシアにハッキングを促し、
 「クリントン氏のメールを見つけてくれ」と言ったとい
 う・・、
  アメリカのサーバーが、別の国家にハッキングされた
 ことを積極的に支持する発言をし、アメリカの行政機関
 の極めて重要な不文律を破ったこの発言は、激しい論争
 を呼んだ。
  トランプ氏は後になって、「皮肉を言っただけだ」と
 主張していた。
  共和党首脳のミッチ・マコーネル上院院内総務は、9月
 の機密情報に関する説明会で・・、
  ハッキングとロシアの関係についての疑念があると表
 明していた。
  マコーネル氏は、今回のCIAの分析に関して、ワシ
 ントンポストにコメントしなかった。
  ワシントンポストによると、ロシアの目的がトランプ
 氏当選にあったことが「明白だ」とした分析は、先週ア
 メリカ議会の説明会で、主要な上院議員に共有されてい
 る。
  CIA職員は、いくつかの情報筋から、ロシア政府と
 関連のある具体的な個人名を特定している。
  彼らは、ウィキリークスに、ハッキングされた数千件
 のメールを提供したとみられる。
  オバマ大統領は、議会からの要請を受け、ロシアのハ
 ッキングに関して全面的に調査し、2017年1月の退任まで
 に調査報告書をまとめるよう指示したと9日に発表した。
  議会にも報告書に関して概要説明を行う。
  「2008年、そして、この今回の選挙で、悪意あるサイ
 バー攻撃があったことを確認している」と、オバマ政権
 のテロ対策と国土安全保障省顧問を務めるリサ・モナコ
 次席補佐官は会見で述べた。
  「私たちは、新たな分岐点に差し掛かっているようだ。
  詳細に調査し、事後検証を行い、起きたことを理解し、
 そして、学んだ教訓を開示することが、私たちの責務だ」
  某筋の意見:
  大統領選のトランプ氏とクリントン氏の討論を見て、
 聞いていられない様な『低劣な言葉の人格攻撃をして、
 まったく品位を感じられなかった』。
  この様な人たちが、大国を、そして、世界を操作して
 いくことに『恐ろしさと幻滅を感じた』。
  多くの方々の命と財産が関わっているのだ。
.
2016年、この年のアメリカ大統領選に関係して、次のよう
 ことが飛び出して来た。
  CNN(シーエヌエヌ、正式名称:ケーブルニュース
 ネットワーク)は、NHKとも提携のあるアメリカの衛
 星テレビおよびケーブルテレビ向けのニュース専門放送
 局であるが・・クリントンの御用メディアと言われた。
  クリントンから給料もらってるキャスターのリストが
 暴露された。
  NHKの報道も、一時、トランプ大統領の足ばかりを
 引っ張って来た。
  公共放送という公正さの立場は無く、コントロールさ
 れているのではと疑わせた。
  そして、2016年のアメリカ大統領選に絡んで・・、
  ウィキリークス(内部告発サイト)は、ヒラリー・ク
 リントン陣営のメールを公表した。
  サウスカロライナ州で開かれたゴールドマン・サック
 ス社員向けの講演会で、クリントン氏は講演料22万5000
 ドル(約2400万円)を受け取っている。
  (因みに、ゴールドマン・サックスは「たちが悪い」
 の噂が立っている)
  また、クリントン氏は、国務長官を退任後、合計2600
 万ドル(約27億円)以上の講演料を得たとされる。
  そしてまた、漏洩メールによるとクリントン氏は・・、
 もし、北朝鮮の敵対行為を中国が制止できない、あるい
 は、制止するつもりがないなら・・、
  アメリカ政府は、『ミサイル防衛システム』で周辺地
 域を取り囲むしかないと、中国政府関係者に伝えたとい
 う。
  そして、CNNについては、トランプ氏は、「クリン
 トン・ニュース・ネットワークだ」と批判した。
  「メールの扱いが不適切」というレベルではなく、周
 辺のグローバリストたちが、世界中で紛争を作り出して
 来た・・と。
  FBI(連邦捜査局)も、被害が及ぶのを恐れて検挙
 せざるを得ない状況に追い込まれたという。
  この様な裏情報を暴露したのはウィキリークスやロシ
 アではなく・・、
  NSA(アメリカ国家安全保障局)や、CIA(中央
 情報局)などの政府機関のアメリカ国内の良識派からの
 リークだった。
  1%の富裕層のエスタブリッシュメントたちが、これか
 ら、国や地域、政界、財界、学界を問わず追い詰められ
 て行くのではと見られている。
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2017年、中国の世界へのプロパガンダ戦略。
  (1)中国の巧みな宣伝工作は、まず、金。
    中国の対外広報予算は、年間2兆円。
    この金を、世界の大学や、シンクタンクにばらま
    いている。
    (因みに、日本の外務省は、200億円)
  (2)中国が放送ネットワークを持った。
    中国版CNN(CCTVアメリカ)を作った。
    伝える情報は、中国の視点にかなったものばかり
    となっていて、この放送媒体でプロパガンダして
    いる。
  (3)そして、全世界に孔子学院を創設中。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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または
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