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根性悪(こんじょうわる)が気に入らない・・、

2014-09-29 05:09:35 | 日記
 題:根性悪(こんじょうわる)が気に入らない・・、
  新しく生まれ来た方々には、無限の可能性があるのだ、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の論理は、何とも自分勝手で、『浅はかな論
理』に思える。
 キリスト教聖職者が・・言う・・、
 「キリスト教は、罪からの許しを、もっとも大きなテー
マとしている。そして、その『罪の許し』の最大の特徴は、
そうした罪が、もう既に、許されているという事にある」
・・と、
 そしてまた・・言う・・、
 「人間が、罪に対してあれこれ努力をしても、そして、
功績を積んでも駄目なのだ、そして、それ故に『罪の許し』
があるのではなく、もう既に、我々の罪は、許されている
というのである」・・と言う。
 そして更に言う・・、
 「キリストが、十字架上で犠牲になる事によって、我々
の罪は許されたのである」・・と、
 そして、「その事が、喜びに繋(つな)がるものでなけ
ればならない」・・と、
 そして、「人は、責められるよりも、許されて成長する」
・・と、
 そして、「既に許されているという事は、我々を安心さ
せ、生きる勇気を与える」・・と、
 「否定される自己が回復する事ほど大きな希望はない」
・・と、
 「この様に神がして、神による肯定が存在しているので
ある」・・と、
 そして、「罪だらけで、否定せざるを得ない自分の現実
を、神が『そのままでいいんだ』と受け入れてくれるので
ある」・・と、
 「自分の居場所のない人も、神は受け入れるのだ」・・
と、
 以上が、キリスト教の教義の論理展開である。
 キリスト教の考え方である。
 キリスト教は、勝手に、人には罪があると有罪にし、
 そして、その罪は、既に、許されているとする。
 人間が努力しても無駄で駄目なのだと、『人間の努力を
駄目』と洗脳する。
 キリスト教は人間の努力を駄目と洗脳する、やる気を削
(そ)ぐ宗教。
 そして、その許される状態にしたのは、イエスが十字架
上で死んだからだとし、ありがたく思いなさいと・・、
 そして、人は責められるよりも許されて成長すると、我
田引水的に言う。
 そもそも、『罪がある』と責めているのはキリスト教の、
あなたです・・・?? 
 そもそも、あなたが勝手に、人を有罪にしているのです、
『罪つくりのあなた』になっているのです、
 そこに罪があるのです・・本当の重い罪が・・あなたに
あるのです・・、その事に洗脳されて悩む方々が居るので
す・・
 無益な罪つくりなら止めなさい・・、
 『無実の人間』を勝手な論理で、あり得ない話で、勝手
に有罪にして、既に許されているからと言ったかと思えば、
 人を罪に落とすような責められるという話よりも、
 許されるという話の方が成長すると、
 イエスが既に十字架の犠牲で、あなたは許されています
とは??
 こんな回りくどい話はしないで欲しい、戴きたい。悩む
方々のことも思いなさい・・
 今までの話は何だったのだ??・・と言いたい・・
 結局、恩を売りたかっただけではないか??
 自分で、勝手な話をデッチ上げて、人を罪に落しておい
て・・、
 こう言うやり口は、「語りの詐欺まがい」になっている。
 最初の、事の始めだって、アダムが食べそうな所に木を
置いて・・、
 アダムがうまそうだと食べたら、アダムに罪が発生した
と・・、
 アダムだって、代々の、後々の子供たちまで続くという
罪に落ちると思えば・・食べないです・・
 それをあなた(神)は、ただ、食べるなよと言っただけ
・・、それなら、少しだけならと、アダムだって食べます
・・あなたの言い方が悪かったのです・・
 しっかり食べるな・・と、理由をかみしめて言わなけれ
ば駄目です、そんなに重大な事ならなおさら・・
 だから、その罪が・・、アダムだけに、その罪があるの
かと思ったら、その子供たちへも、代々、その罪があるの
だなんて、古い話だ・・、
 島崎藤村の「破戒」ではないが・・、代々、生まれつい
ただけで・・、
 代々、その重荷を背負って行くというのは、おかしな考
えだ・・論理展開だ・・おかしな風習ではないか?? 
 自分には、何ら落ち度のない罪を背負っていると設定す
るとは・・卑劣な「なすり付け」です・・
 倫理観は極度に低い宗教です・・
 親の罪を被(かぶ)らせるという、キリスト教のこの設
定は・・、古い風習の中で、考え方で、出来た話だ、
 聖書記述者の・・まったく古い考え方からできた筋書き
だ。
 古い、どうしようもない封建的な考えの中にあるキリス
ト教だ。旧習の宗教です・・、
 この逆が・・、逆の考え方が、正しいのだ・・、
 新しく生まれ来た方々には、無限の可能性があるのだ、
 仏にまでなり得るという「佛性」があるのだ。
 そこへ行くと、このキリスト教の、この「古い風習」そ
のままの話の展開は、最低な話の展開です・・、
 話の初めの禁断の木の実のなる木を、元々、置いた神の
思い遣(や)りの無さが仇(あだ)となった愚(おろ)か
しい話の展開にしても、
 そして、この話を信じる者だけを、この他のこの類いの
話で、じくじくと虐(いじ)めて、程度の悪い話で困らせ
るとは??
 そもそも、こんな窮地(きゅうち)に貶(おとし)めな
いで下さい。可哀想なキリスト教徒の方達。卑劣な宗教よ。
 また、アダムとイブ夫婦に・・幸せな安心の生活を造っ
てやってほしかった。
 こんな落とし穴を作って、罠(わな)にはめる神の根性
悪(こんじょうわる)が気に入らない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

今後、二度と不幸なことが起きないように・・、

2014-09-29 02:45:12 | 日記
 題:今後、二度と不幸なことが起きないように・・、
...(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか)
.
 キリスト教は、いつの時代も、「権威が欲しい」が第一
の目標となっている宗教、そして、それが、性癖となって
いる。
 キリスト教の行動を見ていると、民衆を救うということ
よりも、権威が欲しいと、そして、その権威を得るために
も、金が欲しいとなり、その金を目当てに色々な悪い事を
している。
 その1例が、資産家の女性を魔女とし、自前のキリスト
教裁判所で魔女裁判までして、魔女処刑をし、その魔女の
資産を没収した。
 そして、この『権威が欲しい』は、キリスト教が出来た
頃からであった。
 その初期の頃より以来、その権威が欲しいの気持ちを持
ち続けているキリスト教なのだ。
 キリスト教の歴史は、「権威だ」「権威だ」の権威の歴
史だった。
 それは一時期、『権威を得なければ』としなければ、立
ち行かない立場にもあった、そして、その様な宗教だった
と言える。「権威を得ねばならない様な宗教だった」と言
える。
 初期、キリスト教のできる頃の信徒は、ユダヤ人だけ、
 そのユダヤ人から権威を得るためには・・と、考えれば、「
 キリスト教と何ら関係ないダビデを引き出し、そして、
利用することが一つの方法だった。
 ダビデと言えば、「ユダヤ人の唯一の英雄」。
 キリスト教聖書に記載されて、そのダビデが生きていれ
ば言うだろう、「キリスト教?そんな宗教、全然、知らな
いよ」・・と。「キリスト教なんて何も関係ないよ」と。
 キリスト教は、ただ関係のないダビデを利用した。
 キリスト教以外のユダヤ人の方々は、さぞ怒ったでしょ
う。民族の英雄をよくも利用したな・・と。
 「マタイによる福音書」は、ぬけぬけと書いた・・、
 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムは・・」・・と。
 一般のユダヤ人の方々が信じていた「ダビデはメシア・
救世主だ」という信じる所に、丸々乗っかって、そして、
その中にイエスが居るという構図にして、聖書に書いてし
まったという所。
 そして、ダビデで権威づけた文の中で、イエスを「イエ
ス・キリスト」と言ってしまったという図。
 ユダヤの方々は、「さぞ、カンカンになって怒った事で
しょう」。
 ユダヤ教が、主な宗教であったユダヤの地のユダヤの方
々へ、ユダヤ教を破門された、ごく少数の信徒の集まりに
過ぎない「原始のキリスト教」が、こんな事を言い出し、
ユダヤの方々は、怒ると共に、「このカルト宗教め」と思
った事でしょう。
 信じられないDNAを最初から持つキリスト教は、最初
から権威が欲しい、信じてくれの歴史の中で、イエスを、
ユダヤ民族のスーパースター、ダビデの後裔(こうえい)
としたくて仕方なかった。
 しかし、そのダビデを、聖書に書き込んだという行為は
・・、ユダヤ人が対象ならいざ知らず、この小さな少数の
一民族だけの事ならいざ知らず・・、
 TPOが「まったく、アウト」。
 時代錯誤だし。ユダヤ民族だけの英雄だし。
 キリスト教聖書は、時代の中で、完全に消耗しきってい
る。
 何ら信じて幸せになれるというものではありません、ま
た、宗教ではありません。
 ダビデが、ユダヤに繁栄をもたらした王様だと言ったっ
て、「風呂をのぞき見したダビデ、そこで見た女性を手に
入れたいと、その女性の夫の自分の部下を、卑劣な行為で
殺し、その部下の妻を奪い取るという最低の輩」。
 何ら、信仰するに足る人物では、微塵もありません。
 だから救世主という論理は、疾(と)うの昔に消え去って
います。
 そんな人物の権威に寄り掛かる宗教は、クエスチョンで
す。キリスト教にある、昔からある「その様な心根(ここ
ろね)」が、クエスチョンです。
 皆様を幸せにしたいとか、幸せになって下さいが第一に
来なければならない宗教の目標なのに、自分の事ばかり考
えるキリスト教という宗教。
 昔から、自分の利しか考えない宗教。
 キリスト教は、何しろ、最初から、宗教理念が低い宗教
です。
 特に、「マタイによる福音書」は、「権威が欲しい」「
権威が欲しい」の福音書です。
 信じるのは自由ですが、その所を「どうなのかな」と、
思いながらお読みください。
 この様な聖書をいくら読んでも、天から声は、聞こえて
きません。
 だから、聖書作家としての「マタイの想い」が余計に見
えて来て、逆に、マタイの幼稚さも見えて来ます。
 古いユダヤの家系の権威にすがったマタイなのです。
 今・現代、ダビデなど歴史上の人物、その権威などどう
でもいい社会。
 また、グローバルの時代の今・現代には、歯牙にも掛か
らない霞みの彼方(かなた)の事。
 この様な聖書、何度も読む様なものではありません。
 また、この様な書物で、決して人類は救済されません。
 「マルコによる福音書」から10年から20年、時を失った
頃に、「マタイが、こんな事を考えましたという代物」と
いう図となっている。
 イエスを「デッチ上げたいマタイ」の図。
 虚構で、でっち上げの図。
 しかし、なんと・・、今・現代でも、キリスト教は、こ
の図を、延々とやっている。
 権威を付けたいというマタイ、聖書作家として下手糞な
事をしているのだ。
 『イエスは、ダビデの家系の人だ』と単純に書いていれ
ばいいものを、
 イエスの父・大工さんをしていたイエスの父ヨセフを持
ち出す。ここで話がややこしくなる。
 イエスの父ヨセフを、ダビデの家系の者だと入れてしま
ったのだ。
 マタイは、筆を滑らせ、イエスと血が繋(つな)がって
いないイエスの父ヨセフが、ダビデの末裔(まつえい)な
のだと書いてしまった。書きたい事が書けるにしても、こ
れは失敗だ。
 当然、イエスが救世主になる前に、イエスの父ヨセフが、
救世主になってしまった。
 そうなる事を、マタイは、知ってか? 知らずか? マ
タイは書いてしまった。
 だから、本当は、このヨセフが、「真の救世主だったの
かもしれない」。
 この様なキリスト教聖書の記述、こんな聖書の記述を信
じて、人を殺しに行く事だけはしないで下さい。
 虚構・デッチ上げと共に、矛盾を抱え込むキリスト教な
のだ。
 真実、イエスには、兄弟姉妹が、大勢、居た。
 (「マルコによる福音書」6・3)に書かれている、
 「この人(イエス)は、大工ではないか。マリアの息子
で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹
たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と。
 そして当然、この大勢のこの兄弟姉妹は、「ダビデの家
系のイエスの父ヨセフ」の血を引く「ダビデの家系の子供」
である。
 ここを、キリスト教は、訳では「兄弟姉妹」となるが、
正確には「弟妹」だと、不正確なこと言い、言い訳に努め
る。本当に、聖書は「言い訳が、本当に、あちこち、多い
言い訳だらけの本だ」。
 ならば、キリスト教は、「弟妹」と早くすればいいのに、
一向にしないのは、その基本の底本「マルコによる福音書」
の記述が正しいからである。
 最初の福音書のマルコが記述する頃は、まだ、イエスは、
普通の人間だったのだ。
 イエスの父が「神だ」とは考えられていなかった。
 次の世代のマタイが、イエスの父ヨセフを、救世主の家
系に入れてしまうが・・。
 まだ、マルコの時代には、イエスは、普通に兄弟姉妹が
居る人間だった。
 皆、キリスト教徒でさえ、その様に思っていたのだ。
 イエスは、洗礼者ヨハネに洗礼される必要のある人間だ
った。
 「処女懐妊だ」「ダビデを持ち出し、救世主の後裔(こ
うえい)だ」・・なんて言う作り話なんて・・まだマルコ
には・・、
 まだ、その様な、『夢の様な・・作り話』が、なされる
なんて思ってもいなかったのだ。
 正直者のマルコが、正直に、事実を、書いたのだ。
 最初の福音書だし・・、
 だから、イエスには「兄」や「姉」が居たのが事実。
 だから、イエスに権威が欲しいという欲求が・・、その
後の福音書の「マタイによる福音書」や「ルカによる福音
書」に求められ・・、
 夢の様な嘘話し、作り話が、記述されて行く。
 嘘記述が、ますますエスカレートし、後になればなるほ
ど、酷(ひど)くなる。
 そして、その信頼性は喪失して行く、
 その様になって行く事を知らない、浅はかな記述だった。
 この様な聖書に、キリスト教に、洗脳されて、戦争など
を起こすようなことがないように・・、今後、二度と不幸
なことは起きないように・・。
.
 (参考)疾(と)うの昔 とっくに過ぎ去った昔。ずっと以
   前。「問題は―に解決した」「―から決まっている」
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

目を覚(さ)まして下さい。

2014-09-27 16:03:53 | 日記
 題:目を覚(さ)まして下さい。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
...
 キリスト教の教え:『キリスト教における死について』
の文・・
((これは、死を讃美するという、害ある文です。
また、自死(じし)の勧(すす)め的な文でもあります。
注意してお読みください)):
 「キリスト教聖書は、死を勝利ととらえ、楽観的にとら
える。決定的勝利だと、キリスト教では、死を勝利として
位置づける。すなわち、死は、人間から力を奪い取り、す
べての力を無にしてしまう神の勝利なのだ。そして、すべ
ての事柄は死から始まる。それが聖書の示す死である。キ
リスト教においては、死からすべてが始まる。「死から生
へ」という力が働くという死生観に立つ。クリスチャンは
決して死なない。聖書が告げる死、それは、完全なる死で
あり、全存在的な死である。キリスト教信仰がとらえる死
は、神によって与えられた統合された一人の人格が、肉体
も霊魂も含めて完全に死に絶える事、一切の被造性が破壊
されて、神によってすべてが救い上げられる事なのである。
すべてが神の支配の中に置かれる。我々に命を与える神は、
死をも、暗闇をも支配し、決定的な勝利を告げるのである、
死を支配し、死に勝利される神が、同時に死だけではなく
我々の生をも支配されるのである」・・と。
 上記の文を理解できましたか? 分かりましたか? 
 ただ、ただ、キリスト教は、理由を説明せず、勝手な押
し付けで、上記のような事々を、押し付けるという宗教。
 そして、洗脳され、マインド・コントロールされる。
 マインド・コントロールされたら、分からなくなる、
判断できなくなる。恐ろしいことです。
 江戸時代、徳川幕府は、キリスト教のプロパガンダ(嘘
宣伝)で、大変、酷(ひど)い事をした様に、受け取られ
ていますが、
 本当は、温厚な日本人なのです。
 捕えるにしても、穏便(おんびん)に、穏便(おんびん)
に・・という幕府の思いがあったのです。
 この様な所が伝えられずに、ヨーロッパの様な、酷(む
ご)いやり方の様に、印象付けられ、そして、ヨーロッパ
の様な事々が、日本でも、行なわれたのだろうと思い込ま
され、そして、その先入観と、錯覚で・・、
 そして、キリスト教によるデッチ上げで、作り上げられ
ている。
 悲惨であれば、あるほど、キリスト教にとって都合が良
いのだ。
 幕府は、本人で無くても、家族や知人でも、「止めると
の意思表示さえあれば、許した」のだ。
 また、たとえ捕えられても、刑場の柵の一部は開けてあ
り、逃げたければ逃げられるという、『逃げる事は自由』
となっていた。日本人は、優(やさ)しい民族なのです。
 取り締まりが厳しかったのは、ほんの一時(いっとき)
で、ヨーロッパの様に、何百年も、じわじわと陰湿に、民
衆の方々をいじめ抜くという様な事は、日本はやっていま
せん、やって無い。やっても、上記の様な、穏便なやり方
なのです。
 そして、すぐに幕府は、キリスト教の信仰は、『黙認の
態度』になっています。キリスト教は、嘘ばかりプロパガ
ンダします。キリスト教に偏するNHKも注意を要します。
 江戸時代、その取り締まりをやっていた一時期(いちじ
き)、その様な取り締まりの状況の中で・・、
 キリスト教宣教師たちは、『殉教』を美しいものと洗脳
しました。卑劣な洗脳です。
 日本には、まったく無かった『殉教は美しいのだ』の考
え方を洗脳しました。卑劣なやり方です、宗教です、死を
信徒の方々に強要したのです。
 だから、キリスト教の信徒の方から、子供を連れて出頭
して来る人も居たくらいでした。
 そこに、死を美化するキリスト教の教義があった。
 上記の文が、その一つです、一端です。
 卑劣なキリスト教の教えです。
 「キリスト教は死を勝利ととらえ、楽観的にとらえる」
と言っていますが、これは実体とは、まったく違います。
 ニュース番組で、アメリカの要人(ようじん、要職にあ
る人)の葬儀の模様を見ましたが、報道していましたが、
 墓に棺(かん)を納める時、家族は、皆、泣いていた。
 日本と全く同じ、その要人の死を悼(いた)んで、悲し
みにくれて、泣いていました。
 楽観的などと・・よくも他人事のように言うものだと、
キリスト教の教義を・・軽蔑します。
 この様に、キリスト教国の人々が、悲しみ泣く状況は、
よく目にします。
 「キリスト教は、決定的勝利だと、死を勝利として位置
付ける」は、呆(あき)れるほどの・・嘘(うそ)です、
 よくもこんなウソを公言するものだと、改めてキリスト
教を軽蔑します。
 だから、上記の文は空理空論です。
 読むに価(あたい)しない。信仰するに価しません。
 こんな論理に洗脳されて、マインド・コントロールされ
て、不幸にならないこと、洗脳されない事、しない事。
 愛するお母さんが・・、御両親が・・亡くなられたら・
・、大いに涙を流して・・悲しんで下さい・・、悲しんで
差し上げて・・下さい。
 下手(へた)に・・我慢すると・・きっと、後(あと)
で・・心が・・壊(こわ)れます。
 後で、大きな負担が、心にやってきます。
 キリスト教は、ひどいことを・・悪の教えを・・広めて
います。
 『完全なる死だ』なんて、勝手に言いつのっているだけ
です・・。目を覚(さ)まして下さい。
..
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人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在している。

2014-09-27 03:39:33 | 日記
 題:人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在している。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の生まれた地・砂漠は・・、
 動物の死体は、骨だけになって残る・・、
 そしてまた、
 僅(わず)かにあっただろう草木は・・枯れ、
 そして、風に吹かれ、
 砂漠の砂と共に・・何処かに・・吹かれ、
 砂漠の砂と共に・・何処かへ・・、
 消えていく・・、
 痕跡もない・・、跡かたもない。
 そこへ行くと・・、
 朽ちて倒れた草木が・・、また、草木に限らず動物も、
 朽ちても土に還(かえ)り・・、
 また、新しい芽吹きを得る。
 新しい命の誕生が、そこここに・・見られる。
 新しい命の芽吹き、新しい命の復活が・・、
 そこここに・・見られる。
 これが宗教観の違いに・・大きく関(かか)わる。
 豊かな・・そこここの・・新しい命の芽吹きに・・、
 新しい命の誕生に・・感謝する。
 豊かな自然の営みに、命の誕生の神秘と・・力に、
 そこここの神や仏のおわします姿に感謝し、礼拝する。
 その様な地に・・生まれ・・そして、育まれたのが仏教・・、
 そして・・、
 佛教の本を読むと、
 本当に・・実に数多くの人々が「釈尊の所へ、教えを乞
おうと、はせ参じ、仏法の教えに接し、そして・・、
 真理を会得して、そのまま釈尊に帰依した」という記述
が・・、
 実に多い・・。
 キリスト教のイエスにおいて、その様な話は、一つもな
い。
.
 そして、次の話。
.
 キリスト教聖職者の司祭の森一弘氏は・・、
 修道会に入って一生懸命努力して居ても、壁の存在を常
に感じていたと言う。
 無味乾燥な感じもし、悶々(もんもん)としていたと言
う。
 キリスト教徒で・・『頑張るな』と言っている鎌田實氏
なら、
 ここで「そんなに頑張るなよ」って言うだろうが・・、
(実は、鎌田實氏は、非常に頑張って『頑張るな』とあち
こちで言っている、テレビやラジオの出演や、雑誌などマ
スコミに頑張って多く関わっている、また、この鎌田氏の
出演活動などを支えているのは、鎌田氏のスタッフの方々
が、鎌田氏が不在でも、頑張って支えて居られるからなの
だ。何しろ、頑張って社会に貢献することが、大切なのだ)
 また、『頑張るな』のキャンペーンをするキリスト教も
「そんなに頑張るな」って、頑張る森氏へ言うだろうが・・、
 そして、森氏は、イエスではなく「マリアの夢」を見て
何かふっ切れたと言う。
 イエスでなくて良いのかどうか? 分からないが、
 また、三位一体の神でなくて、いいのかどうか? 分か
らないが・・、
 森氏は、ここで、神に委(ゆだ)ねて、生きようと思っ
たと言う。
 マザーテレサさんは、正直な人で、死ぬまで、とうとう
『(キリスト教の)神は不存在だった』と悩んだ。
 そして、とうとう、(キリスト教の)神は出て来なかっ
たという人生を送った方。
 キリスト教の神の不存在の悩みの中の人生だった。
 森氏が言うような、神に委(ゆだ)ねて生きると言った
って無責任な生き方だ。誠実な生き方ではない。最後まで
神が出ない場合もあるのだ。
 マザーテレサさんの様に、神は居ないと正直に悩みなが
らも、インドの可哀想な方々を救う仕事を、一生懸命、正
直に、そして、努力し、頑張って努めた方が、美しく見え
る。
 悩まなければならない神なのである。
 居るか? 居ないか? 分からない、そんな、あやふや
な事に委(ゆだ)ねて・・、
 自分は、何ら、アクションを、『しないという人生』『
生き方』。
 しかし、マザーテレサさんが居ないと悩んだ神が、夢の
中か、『幻聴』か、『幻視』かは知らないが、出て来たと
森氏は言い・・そして、決断したというが・・、
 そうだとしても・・、何らかの方向へ行動を起こしたと
しても・・、それを神の示唆だと思うのか?
 自分の意思が、自分の背中を押したと思わないのか?
 深層心理の自分の意思が・・ふわっと浮かび上がったと
思わないのか?
 深く思っていた、深い自分の決断が・・決定した瞬間だ
ったのだ。
 人間は、生活して行くにおいて、びっくりするほど、ま
た、自分で認識できないほど数多くの決断を、自分でして
いるのだ。
 そこに「神が介在していると思っている自分が居る」の
だ。
 その決断を、しっかりしたいと願い、思う、自分も居る
のだ。
 何もしないで「ぼけっと」した人間は、「ぼけっと」終
わってしまうだろうが、それはそれなりに、自分がする決
断の連続の中に存在しているのだ。大きな決断、小さな決
断、決断に見えない決断、などなど・・。
 キリスト教の、ただただ神を待て、神にゆだねろは、『
悪の教え』だ、人間を破滅に導き・・破壊する。
 この無気力さは・・心も破壊する、悪の教えなのだ。
 人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在してい
る。そして、頑張り社会を支えるが正しいのです。
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
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人間が・・神になってしまうのです・・、

2014-09-27 00:05:35 | 日記
 題:人間が・・神になってしまうのです・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教聖職者が・・言う・・、
 「キリスト教聖書で言っている様に、キリスト教の神が、
人間を創ったという創造主と・・被造物という人間との・・、
神と人間との間に『上下関係』がある」・・と。
 また、聖職者が・・言う、
 「キリスト教の神は、人間に、『自然を従えよ』と言っ
た。ここに、人間と自然の間に『上下関係』がある」と。
 そしてまた、キリスト教の聖職者が・・言う、
 「キリスト教は、神・人間・自然を・・、『上下関係』
として捉(とら)えています」・・と。
 そして、「『創られたもの』としての人間は、決して、
『創ったもの』になることは出来ないのです」・・と。
 ここで、はっきりしたいのが・・「自然」である。
 このキリスト教の神の言う『自然』は・・、「地球の自
然を言っているからである」。
 当然、地球外のものも自然なのだが・・、
 地球以外のものも・・自然だとして捉えると、キリスト
教によくある「矛盾」が生じるのである。
 つまり、『宇宙すべての自然を従える人間』となってし
まう。
 宇宙すべての自然を従える人間となると・・、
 「人間が・・神になってしまう」。
 キリスト教の神は、『人間は神になれない』と言ってい
る。
 ここに・・矛盾が「発生している」。
 キリスト教は、「キリスト教の神が、宇宙を創造した」
と言うが・・、しかし、しかし、なのである。
 そのキリスト教の教義は、地球の中で成り立つ思考の教
義となっている。
 その自然が・・、人間が従えるその自然が・・、
 宇宙のすべてを含んだ自然だと考えると・・、
 その自然たる宇宙を従えた人間は、キリスト教の神と
『同一の神』となってしまう。
 この様な矛盾は、キリスト教には一杯あるが・・、これ
は、『基本中の基本』の大問題である。
 キリスト教の神が言っている事は、この様な事になって
いるのである。
 現代の科学は言う、「太陽は、膨張しています」・・と。
 その時まで、人類は存続できないのだが・・、例え・・、
キリスト教が言うように、人類が・・存続できたとしても
・・、
 人間は・・地球もろとも太陽に飲み込まれ・・吸い込ま
れ・・、
 人間が、『宇宙全体の自然を、従えるような事など、到
底(とうてい)、出来ない』のである。
 明らかに、キリスト教の教義・考え方は、『間違ってい
る』のである。間違った考え方で、正しい判断なんて、で
きないのである。そうだと不幸が訪れてしまいます。
 そしてまた、キリスト教の聖職者が、言う・・、
 「人間は、徹底的に、人間でしかあり得ないのである」
・・と。
 「だから、そこに、キリスト教は、人間の平等を説いて
いる」・・と。
 この言い方は、拡大解釈、極まりない言い方である。
 キリスト教は、序列、極まりない宗教である。
 神の下に・・聖職者を置き、頂点にいる神の意志を、そ
の下の聖職者が聞き、その聖職者の下にいるキリスト教の
信徒へ、上意下達するのだというキリスト教の考え方・教
義、キリスト教のヒエラルキーの序列の世界・・、
 その聖職者だって・・身分、階級が・・細かく上下関係
がなされていて・・、中には足の引っ張り合いをしていて、
エルサレムでは聖職者が乱闘している。
 また、天使だって「大天使だ」、何々天使だと序列だら
け。
 キリスト教は、何処にも、平等や平等観なんて無い宗教。
 序列の宗教、階級の宗教なのだ。有色人種は、劣等だと
年がら年中、言っていた宗教。
 話を捻じ曲げ、作り出して嘘を言う聖職者たち。
 そんな姿の中で・・宗教が成り立っている。
 そしてまた、キリスト教の聖職者が、言う・・、
 「神に支配されているという意識を持つと、人間が、人
間を支配しようという考え・意識はなくなる」・・と。
 これは自分に都合のよい話へ、合理性なく、論理性なく、
引き込んでいる。
 これはまた、キリスト教聖職者の序列の一つを見たって
・・おかしいと思う。
 キリスト教の神を説くキリスト教の聖職者の世界が、何
故、あの様な序列・ヒエラルキーの世界になって居るのか?
 また、神の使いの天使の世界も・・序列だらけだが、こ
んな事は言えたもんではない。
 キリスト教の神は、隣国の富を奪いに攻め込ませて・・、
 「奴隷にせよ」「奴隷にせよ」と叫ぶ、
 キリスト教の神が率先して、人間を、人間以下にする「
奴隷にしろ」と言っているではないか? 差別しているで
はないか?
 キリスト教の神が、率先して、人間を人間以下にする卑
劣な事をしているではないか? 差別観を植え付けている
ではないか?
 キリスト教は言う、「神の人間支配は良いが、人間が人
間を支配すると、危険をまき起こし不幸になる」・・と。
 そして、キリスト教は、この事例として「ヒットラーや
ムッソリーニや日本の戦時体制」を言う。
 これは、第二次大戦の不幸な時代をわざわざ持ち出して、
キリスト教の神を美化しているに過ぎない。
 この様な不幸な人間関係の時もあったろうが・・、キリ
スト教の例にした事例が悪いだけ、不幸な人間関係は一杯
ある。ドイツのヒットラーは、キリスト教に被(かぶ)れ
て、ユダヤの方々に大変酷(むご)いことをした。
 キリスト教の論理展開は、何か素直ではない。
 ひねくれた論理展開だ。
 ただ、キリスト教の神を、美化したい論理へ持ち込みた
いだけだとしか見えない。
 お母さんが、愛情溢れた目で見て、子供を導く姿は、微
笑(ほほえ)ましい姿に見えます。
 導く、そして、導かれるという関係です。
 時には、厳しく言う時もあるでしょう。
 キリスト教の仕方はこれでない、そして、見方は、短絡
的で狭いです。
 キリスト教は、どうしても、論理が正しく正常に組み立
てられない宗教。どうしようもない宗教。
 そして、直しようもない宗教です、関(かか)わってて、
このどうしようもないところに陥(おちい)って、
 解決しない・・どうしようもない・・この事に、あなた
の大切なものが、失われていくことになります。
 あなた方を救い出したいので、この様な事を書かせて戴
きました。
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 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009