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近代の最先端科学は、「キリスト教の間違い」を証明した

2010-05-30 01:49:48 | 日記
近代の最先端科学は、『 キリスト教の間違い 』 を証明した。

☆地上に神は存在しないというキリスト教の教えは、
                  近代思想の基礎を築いた。
 近代の思想家たちは、
 ヒエラルキー・統治・闘争の必要性を唱えるキリスト教の教えを
受け継ぎ、それを科学的に証明した。
 しかし、21世紀が近付くにしたがって、そうした思想には欠点
があるばかりか、科学的根拠も薄いことが分かってきている。
       (キリスト教暗黒の裏面史212頁 徳間文庫)
       (注)ヒエラルキー:ピラミッド型階層性・序列 
☆キリスト教のヒエラルキーは、
 神を頂点として、組織の構成要素すべてに優劣をつけて分類する
という考え方である。
 しかし、近代哲学者の思想は、現実は、たわいもない偶然の出来
事から成り立っているのであって、大きな意識によって意図的に生
み出されたものではない、という考え方である。
 多くの者は、今ではこう考えるようになっていた。神の意志に目
を向け、それを理解しようとしても、真理は見つからない、と。
 機械的な宇宙の小さな要素を分析してこそ審理は見つかるのだ、
と。
 宇宙が神の干渉を受けずに動いていることが科学的に証明されて
いる                    (同 214頁)
☆キリスト教は、自然界に神聖なものはないと考えている(神の居
る天のみが神聖である、と)。
 キリスト教のイデオロギーから生まれ、近代思想家によって証明
されたさまざまな思想は、20世紀末を迎えた今では、科学的根拠
に欠けることが分かってきている。
 キリスト教の教義に関わった古典物理学には宇宙観を語れるほど
の知識がなかったことが明らかになった。   (同 223頁)
 1例として、ニュートンは、十分な情報を与えられれば、出来事
の結果を正確に予測できると思っていた。
 だが、量子力学によって、人間に分かるのは結果の「確率」にす
ぎないことが明らかになった。
 矛盾のない物理学を打ち立てようとしてきた科学者たちは、現実
のすべての物事について論理的に説明するのは不可能だと、自らの
発見によって認めざるを得なくなった。
 波動関数の研究をしていた科学者たちは 物質界が「心的」でも
あり、また「物的」でもあることを発見した。
 キリスト教の天地分離説を裏付けるものとして、古典科学者たち
は精神と物質が分離していることを証明してきたが、それは科学的
な真実ではなかった。          (同 224~5頁)
 (キリスト教の間違いを確認する結果となった)

☆『量子力学の理論が正しいとすれば・・文字通りの物質界などと
いうものは存在しない。
 この結論は、それが存在しないかもしれないというような、あや
ふやなものではなく、その存在をきっぱりと否定するものである。
                    (同 224~5頁)

☆近年の科学者たちの功績によって、(ニュートンなどの)古典論
が科学的根拠の薄いものだったことが分かってきたのである。
 近代の科学的方法、すなわち、構成要素を細かく分析して、キリ
スト教的なヒエラルキーに当てはめるという方法も、今では考えな
おされている。
 近年の科学によって分かってきたことがある。
 それは、要素を分析するだけではなく、要素の全体的なつながり
もあわせて考えれば、真理により近づけるかもしれない、というこ
とだ。                 (同 226~7頁)
 
 ( 仏教は全くすごい。仏教の教義が、最先端の近代科学で正し
  いことが証明されて来ている。仏教の教義の一つを例に、『一
  切衆生、悉有佛性:(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう)
  ・・・この世のあらゆる生きとし生けるものは、ことごとく皆、
  佛性(佛の性質、佛と成り得る資質)が備わっている。そうし
  た生きとし生けるものでもって宇宙は構成され、すべて(万物)
  が繋がり、時は流れている。そのつながりの中で育んで行く』
  ・・・この定義されている仏教の考え方・教義が上記の近代科
  学の考え方と全く一致している。そして、キリスト教の教義・
  考え方は間違っている事が分かってきたと言われている)

☆今まで私たちは、キリスト教の恐ろしい歴史を見過ごしてきた。
 キリスト教の教えをさまざまな角度から検証する事もなかった。
 ・・気づくだろう。神は恐れと絶対服従を求める存在だ、と。
 教え込むことは、人間の精神を繰ることにほかならない、と。
 性差別主義・民族主義・全体主義の根底には、
 唯一至高神への信仰がある。      (同 238~9頁)

☆多様性や自由、人間の尊厳を重んじる世界へと突き進んで行け。
 そうすれば、人類が自由に人道的に生きていくという理想を揚げ、
 夢に向かって羽ばたくことができる。    (同 238~9頁)
(方向性は多神教にある事が確認され、それが正しい方向性だと分
 かってきた) (また最近、次の確認をした。来日された前パリ
 ・ソルボンヌ大学総長が上記考えと同じ発言をされていた。多様
 性の中に人類の未来があり、各多様性さの中に神聖さがあり、オ
 リジナリティがある・・・など)


奇跡の人  ブッダの ことば

2010-05-29 01:20:14 | 日記
ブッダのことば

慈 し み

一切の生きとし生けるものは、

幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

一切の生きとし生けるものは幸せであれ。

何びとも他人を欺いてはならない。

たといどこにあっても

他人を軽んじてはならない。

互いに他人に苦痛を与える

ことを望んではならない。

この慈しみの心づかいを

しっかりとたもて。


ブッダのことばについて

 財団法人東方研究会は、
 中村元初代理事長が、その後半生を傾注し、私財を投じて創立し、
 昭和45年11月、文部省(現在の文部科学省)より財団法人設立の
認可を受けた研究所であります。
 本研究所は、
 「東洋思想に関する研究調査を行い、その研究成果の普及を図り、
 もって学術・文化の発展に寄与すること」を目的としております。
 本研究所の特色は、
 上記の目的を遂行する所にあるばかりではなく、日本の将来を担
う若くかつ有能な研究者に研究継続の機会と場を与えて育成するこ
とを重要な使命としているところにもあります。
 研究員各自の出身の大学院で開始した研究を
 本研究所で継続し、
 幸いにして大学や研究所で定職を得て巣立っていった連携研究員
の数は82名にも達しております。
 中村先生が、
 その86年の人生を学問一筋に打ち込み、
 東西の思想の蘊奥をきわめつくして最後に到達されたもの、
 それは「慈しみ」のこころでありました。
 これこそが先生をして若い研究員のために本研究所を設立させた
ものでもありました。
 先生は、
 ご夫人と共に、東京の多磨墓地にある先生のお墓の横に石碑を建
て、それを「ブッダのことば」と題して後世に残されました。
 この文言は、
 仏教聖典 『スッタニパータ』 から先生が意訳され、
 それをご夫人(中村洛子終身名誉理事長)が書かれたもので、
 しかも1995年の先生の誕生日に発注され、
 1997年のご夫人の誕生日に完成したものであります。
 これは財団法人東方研究会の研究員に示された指針であると同時に、
 怨念と我執が渦巻き、テロの恐怖におののく21世紀の人類へのメッ
セージでもあります。
 なお
 同種の石碑は、
 先生の許可を得て、栃木県足利市山川町の山川長林寺と東京江戸川
区江戸川の二之江妙勝寺に建てられました。
                     2007年5月16日

                     財団法人東方研究会
                      理事長 前田專學

危機には仲間が助けてくれるという甘えが。

2010-05-28 00:13:50 | 日記
危機には仲間が助けてくれるという甘えが。
(今、欧州連合(EU・ユーロ)のギリシャが危機的状況にある)


ギリシアの危機
    まず、財政的な危機。
         2009年財政赤字が
               国内総生産(GDP)比で12.7%に膨らむ。
 また、
    45万人の抗議ストなどで、
        国内に社会混乱なども広がっている。
                  ( その他、種々の問題点は略 )
 同様に、
    ユーロのスペイン・ポルトガルでも
              赤字が膨れ上がっている。

 ユーロの ドルと並ぶ
      「 基軸通貨の信認 」 も動揺しだしている。

 ユーロ中核の フランス・ドイツ の財政状況の悪化も拡大。
      ドミノ倒し的な
          「 信用不安の拡大 」 が、懸念されている。

   「 危機には 仲間が助けてくれる という甘え 」
             によっての助長、
                   この意識に陥っている懸念も。
                (参考:日本経済新聞 H22.2.13社説)

 これと関連して思い出される事 : 
      NHKは、過日、何故か

       「 頑張らないのが 良いことだ 」 
                      と 繰り返し放送した。

 キャンペーン的に 何度も繰り返し、
        テレビ・ラジオに渡って 放送した。
                   それは 長い期間 であった。
 NHKは、
     自分たちのイデオロギーを、時々、
         この国民の所有する 放送媒体の機械・システムを
 自分たちの道具のように 使用し
        自分たちの主張・イデオロギーのキャンペーンをする。

 確かに、鬱の方には「頑張れ」と励まさないほうが良いとかとの、
       特殊事例は あるが (特殊解において成立するが?)、
 一般論として頑張ることを否定し、
          頑張らないことを奨励する事とは
                      おかしな NHKの行為。
 また、
    番組内は「頑張らないのが良い」との
                 賛成論のみの放送をする
                           偏した状況。
 頑張るという事に関する論点の広がりは
                  何一つ放送されない。
 また、
 テレビに於ける
   「学校改革についての長時間に渡る討論番組」 (テレビ1ch)
      においても、
 国際基督教大学の論者が 頑張らないことを 述べている
   (NHKではキリスト教系の大学が多く出演する状況だった。
                     今でも その傾向か?)。

 この 国際基督教大学の論者 は、
         その裏づけ的論理を 示さないで、
 教示的発言スタイル(論理の広がりも無く)で、
       固執した発言が続く・・・(全く教義の教示的スタイル)

 出席された伊吹文部科学大臣の

 「 頑張る方が 正しく評価され、頑張った結果に報いていく社会で
                       なければならない 」

     との発言と平行線となる討論。

 討論番組として
       論理の広がりも何もない プア(貧弱な討論) な状況。
 NHKは キリスト教の教義から来る
      「頑張らないが良いことだ」を 
           何故 キャンペーン的に放送議題として
                        取り上げるのか?
       反社会的な放送議題だ。

 日本や世界で、
     社会や技術等々をリードする 最先端や先端で
 頑張っている方々に支えられている 社会構造を
     考える時、
 この珠玉の方達と その頑張る行為を、
     公共放送NHKが 足を引っ張る的な
                  反対意見放送を 繰り返すのは

     間違っている。


『 ある日突然、 戦うのが 嫌になりました・・・

2010-05-27 01:07:58 | 日記

☆ 『 ある日突然、
          戦うのが嫌になりました。
   花や虫たちと、
          暮らすことにしました・…と、言って、
   この庭を、
       戦国時代の武将・石川丈山が作ったそうです。
         まあ、
            色々あったんじゃないでしょうか?

         (YouTube  「JR東海そうだ、京都行こう。
                        1997年 夏 詩仙堂編」)

☆ 『 昼間から、
         自分の足音が聞こえる場所を知りました。
    「忙しい 忙しい」 が、口ぐせの貴方を、
                        ご招待したいものです。
    絵葉書だけで
          分かったつもりになられると、
                 さびしいと京都は言っています。
           京都は1200年後の秋です。

          (YouTube 「JR東海そうだ、京都行こう。
                                清水寺編」)

☆ 『 1300年ほど前も、
            この様な夜でしたなー。
     我が、東大寺のお水とり
          炎は人々の幸を願い。
                奈良の都を 照らし出してまいりました。
    1300年後もきっと
            この様な夜が来るのでしょうなー。
                  同じ春がまた来るように、
                        いま、ふたたびの奈良へ。

           (YouTube 「JR東海 いまふたたびの奈良へ。
                         2006年 春 東大寺編」)

☆ 『 一瞬にして、
          飛鳥の時代に 引き戻されるようです。
    斑鳩(いかるが)、法隆寺。
            以和為和 ( 和をもって貴しとなす )
    ここから生まれた、日本人の心は、
         今の世の中にこそ、
               大切なことなのかもしれません。
                       いま、ふたたびびの奈良へ。

           (YouTube 「JR東海 いまふたたびの奈良へ。
                         2006年 冬 法隆寺編」)


「 他律戒 」 から 「 自律戒 」 へ

2010-05-26 02:06:47 | 日記
「 他律戒 」 から 「 自律戒 」 へ

題 : 「他律戒」から「自律戒」になって 始めて完成される 話

 キリスト教は、「他律戒」の啓示の宗教である。
    「 他(=天の神)から、与えられる律(=規則)や戒 」を
     教義としている。
 キリスト教の聖書の「申命記」には、
    「私が命じる総べての掟と戒めを守れ、
     そうすれば長く生きる事が出来るであろう」との
     命令型の教義がある。
 また、「主を愛せよ、
     今日、私が命じるこれらの言葉を心に留め、
     子供達に繰り返し教え、
     家に座っている時も、
     寝ている時も起きている時も、
     これを語り聞かせなさい。
 更に、これをしるしとして自分の手に結び、
     覚えとして額に付け、
     貴方の家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」・・・と
     ・・・「何々を行え」など・・命令型の教義がある。
 キリスト教の宗教コンセプトは、
     キリスト教信徒を『迷えるひつじ」とし、
     天の神と信徒の間に居るとした聖職者を、
     その中央集権的な序列・ヒエラルキーの上位者と位置付け
     また、聖職者・牧師を「牧童」と見立て、
     迷えるひつじ(=キリスト教信徒)を、
     追い導くというコンセプト・設定である。

 キリスト教の聖書には、
     「世話になった牧羊者の娘の、姉と妹を、同時に口説き
     いっぺんに二人を妻にする」という記述もあり、
     この1例の様な聖書作成時の昔に成立していた道徳観と
     共に存在する、「他律戒」= 「アレするな、コレするな」の
     世界である。
 キリスト教徒の方々の自主性は
     全く考慮されていない。
     それを無用とし、与えず、
     また、キリスト教信徒の自主的な知恵を取り上げ、
     また、信じないという教義設定であり、
     コンセプトである。
 全く、信徒・キリスト教徒の「理性を尊重し、信じる」という
     所がない。 
     天から聖職者を経由して与えるだけというかたちである。

 感じるところがつくづくあったのであろう、
     世界的な権威者に
     「天の神は生活のこまごましたことまで立ち入ってくる」
     という吐露した言葉もある。
 また、キリスト教は間違った他律戒によって判断し、
     ガリレオを有罪にし、ブルーノを焚刑で殺した。

 (注):キリスト教の「他律戒」の一例 :
     「台所に他の女性が入ったなら、その鍋の料理は捨てよ」
     という意味の律(律法)(=トーラー)がある。
 「参考比較」 : 
     仏教は、衆生の行状を知って後、
     キリスト教の様に『駄目だからやめよ』とか、
    「だから、こうせよ」という命じる形はとらない。
     自律戒の形をとる。
    「それは駄目な事だと解らせ」 「悟らせよう」とする。
     そうしてまた、「究極の仏の教えまで、教え導き、悟らせようとする。
     衆生・信徒を信じ、
     その「理性を信じる」ことを前提・スタートに置いている。

 『 律法は、他律戒から自律戒になって始めて完成される 』。
     自分の理性によって判断をするべきである。

 (参考1) アインシュタインの言葉 :
    「私が信じる神は、存在するものの整然たる調和の中に
     自らを現している神であり、
     人間の運命や所業に関心を持つ神(キリスト教の神)
     ではない
    (信徒の一挙手一投足までとやかく言う神ではない)』

 (参考2):
     モーゼは、
    「民数記」第31章18節に、違う宗教を立宗したり、
     虐殺したリ。
     また、第31章18節には、「まだ男と寝ず、男を知らない娘は
     すべてあなたがたのために、生かしておきなさい」・・・と。

 (参考3):
     キリスト教の聖書は、「女性は財産」との道徳観で
     書かれている。