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一国だけが勝つ・・というのは・・幻想・・、

2014-10-31 15:23:36 | 日記
 題:一国だけが勝つ・・というのは・・幻想・・、
...(悲惨な戦争を無くせないのでしょうか)
.
 あり得る・・核放棄・・、
 アフリカの地・リビアの革命指導者カダフィ・・、
 2011年に発生したリビア内戦によって・・、
 その独裁政権は崩壊し・・、
 反カダフィ派の部隊によって、カダフィは、殺害された
が・・、
 そのカダフィが・・、
 1986年4月15日に、アメリカ軍、および、イギリス軍に
よって攻撃された。
 その背景だと言われている事は・・、
 テログループ支援、複数の空港爆破事件の背後にいる事、
西ベルリンの爆破事件などと言われている。
 この時、レーザー誘導爆弾も使われ、ピンポイント攻撃
がなされた。
 カダフィは不在だったが・・、
 カダフィは、カダフィの子供が亡くなったと主張した(
カダフィの死後、生存が確認された)。
 カダフィは、2003年に『核放棄宣言』をし・・、
 査察団の受け入れもしている。
 今、現実社会は・・、
 やろうと思えばこの様な事も含め、できる社会だ。
 この攻撃は、通常兵器(爆弾)を積んでいたが・・、
 核爆弾の場合、悲惨な事が想像される・・が・・、
 レーダーで探知しにくい・・低空飛行で飛行する・・無
人偵察機の技術・・、
 この偵察機を・・爆撃機に変えることは・・簡単なこと。
 核爆弾を積載し、発見しにくい低空で・・
 領土の奥に侵入し・・、
 発見して・・撃墜しても・・、
 その領土内で・・核爆発が起きてしまうという事態・・
となる。
 やろうと思えば・・この様な事ができる・・社会なのだ。
 自分の国だけの論理を・・
 ただただ、主張しているだけでは駄目な時代に・・、
 益々、なっているのだ。
 空を行く無人の偵察機・・、
 この様な事態が、海そして海中で・・、
 不穏な摩擦が発生した時に、狙い定める兵器が・・益々
出来て来る。
 一国が・・自分だけの論理で・・ごり押しする時代は・・
終わったのだ・・、
 去ったのだ・・。
 一旦、始まれば・・「皆が・・負けになる」。
 一国だけが・・勝つというのは・・幻想・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

気になった事柄を集めた年表 [Ⅰ]:(2014・10・30 改訂)

2014-10-30 13:42:50 | 日記
 題:気になった事柄を集めた年表 [Ⅰ]:(2014・10・30 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 気になった事柄を、年代順に並べていたら、以下の様な、
年表が出来上がりました。
 第二次世界大戦前の、アメリカの対日感情は、どうなの
かなどなどを・・お読みください。
 [内容]:::
紀元前10000~400年頃、日本の縄文時代。偉大なる日本、
 この様に日本の歴史は遡(さかのぼ)る。→8500年
紀元前1500年~紀元前1000年、縄文時代後期~晩期に、
 環状盛り土遺構が注目されている。埼玉県加須市の長竹
 遺跡が発掘調査が進み、住居や墓が密集した集落跡だっ
 た。関東地方を中心に確認例が続いた。環状は、高さ
 1.8m、幅20mの盛り土が、直径150mのC型の一方が開
 いたドーナツ状に築かれている。→150年
紀元前1350年頃、エジプトのツタンカーメンの黄金のマス
 ク。→70年
紀元前1280年頃、エジプトのルクソール大神殿のラムセス
 2世時代。→30年
紀元前1250年頃、モーゼが居たとされている。歴史家は、
 その存在を否定しているが、そして、この頃、このモー
 ゼによるエジプト脱出があったとされている。→150年
紀元前1100年、この頃から、キリスト教の旧約聖書が口伝
 承で伝えられていたが、文書となり始めた。~紀元前100
 年頃まで。→379年
紀元前721年頃、北王国・イスラエルは、アッシリア王・
 シャルマナサルによって滅ぼされた。数万のイスラエル
 人が捕えられて、メソポタミアとメディアに連れ去られ
 た。→124年
紀元前597年に、南王国ユダは、バビロニア王・ネブカド
 ネツァルは、エルサレムを包囲し、ユダ王は捕えられバ
 ビロンに連れ去られた。第1回バビロン捕囚である。
紀元前589年に、ユダ王・ゼデキアの時、ネブカドネツァ
 ルは、再び、エルサレムを攻撃し、陥落させ、王・ゼデ
 キアの両眼を潰(つぶ)してバビロンに連れ去った。第
 2回バビロン捕囚である。この時、ソロモンの財宝のす
 べてが奪われた。→7年
紀元前582年に、第3回のバビロン捕囚があり、750人ぐら
 いの人がバビロンへ連れ去られた。→44年
紀元前538年に、バビロニアは、ペルシャに滅ぼされ、ペ
 ルシャ王・キュロスは、捕囚民の祖国への帰還を許可し
 た。→23年
紀元前515年、バビロンから帰還した民は、エルサレム神
 殿の第2神殿を建てた。→115年
紀元前400~500年頃、旧約聖書の編集が始まる。→70年
紀元前384年~322年、アリストテレス。62歳。
紀元前330年に、ペルシャが、マケドニア・ギリシャのア
 レクサンドロス大王に滅ぼされた。→120年
紀元前250年頃が中国の始皇帝陵の兵馬俑坑(へいばよう
 こう)。→50年
紀元前200年~300年頃(紀元前3世紀頃)、この頃に、ロ
 ウソクが誕生した。→0年
紀元前200年、クムランで発見された「死海文書」に、こ
 の頃の写本が含まれている。→100年
紀元前100年頃、旧約聖書が完成した。紀元前1100年頃か
 ら書き始めたものの完成、旧約聖書39巻が書き終えた。
 それまでは、口伝承であった。→37年
紀元前63年に、ローマの将軍・ポンペイウスによってエル
 サレムは占領された。ローマの傀儡(かいらい)政権の
 下の政治となる。→59年
紀元前4年、イエス、生まれる。→11年
紀元7年、イスラエルの民が、ローマによって滅ぼされる。
 流浪の民となる。→23年
30年頃、イエス、殺される。→20年
50年頃~100年頃、この頃にキリスト教聖書の福音書が書
 かれた。→4年
54年、ネロがローマ皇帝となる。→10年
64年頃、ペテロがローマ軍に捕えられ、殺された。ペテロ
 はイエスの第一の弟子、ネロの迫害による、このペトロ
 の墓の上に、サン・ピエトロ寺院がたてられたが4世紀
 に・・、→2年
66年、ユダヤ人が反乱を起こした。ネロ帝は、正規軍を投
 入した。→1年
67年頃までの間に、パウロは死んだのだろうとされている。
67年7月14日、ローマに大きな火事が起こり、6日間、燃
 え続けた。その日が放火ではないかという噂が市民の中
 に広がった。ネロ帝はキリスト教徒に放火の罪を着せた。
70年、ウェパシアヌス帝の時、その子のティトゥスの大軍
 団がエルサレムを攻撃した。神殿は焼け落ちた。城壁を
 徹底的に破壊し、人が住める痕跡すらもなくなるほど市
 街を壊した。→3年
73年、ユダヤ人の最後の砦であるマサダが、全員玉砕とな
 って陥落した。ユダヤ国家は滅んだ。ユダヤ民族は離散
 の憂き目にあった。以後、1948年のユダヤ国家建設され
 るまで1875年の月日が流れた。→6年
79年、ポンペイが埋没した。→21年
100年頃、キリスト教聖書の「ヨハネによる福音書」が書
 かれた。→0年
100年代(2世紀)以後、キリスト教の殉教実録や殉教物
 語が生まれ、殉教文学として流布された。→100年
200年代(3世紀)の末、ローマ帝国の様々な地域に、あ
 らゆる階層にキリスト教は浸透して行く。宮廷から貧民
 窟まで、大都市から僻地へと広まり、帝国末期の殺伐な
 人心と荒廃した経済事情の中で拡大した。→30年
230年頃、静岡県沼津市にある前方後円墳の「高尾山古墳」
 は、「墳丘の完成を230年頃」とした。全長62mの古墳
 時代最初期と見られている墳墓である。→83年
313年、コンスタンティヌス帝が、ミラノ勅令を出して、
 キリスト教を公認した。→11年
324年、キリスト教がローマ帝国の国教となった。→2年
326年、コンスタンティヌス帝によって、サン・ピエトロ
 聖堂が建てられた。→4年
330年、コンスタンティヌス帝が、ローマを見捨てて、コ
 ンスタンティノーブルに遷都する。度々の火事に見舞わ
 れた。ローマは、すっかり寂(さび)れていった。
 →67年
397年、キリスト教聖書が現在の形の様に整(ととの)え
 られ、決定された。これまでの約400年間は、キリスト
 教は聖典の無い年月を過ごした。イエスは、アラム語を
 話した。そのイエスのアラム語が翻訳されている。翻訳
 による齟齬が発生している。旧約聖書39巻、新約聖書
 27巻、計66巻。仏教経典から見るとささやかな経典と
 なっている。→55年
452年、フン族がイタリア侵入と共に、色々な民族がヨー
 ロッパへ侵入した、匈奴と呼ばれるフン族はインドや中
 国へも侵入した→24年
476年、西ローマ帝国が滅亡した。→116年
592年、佛教興隆の詔(みことのり)が出る、→8年
600年、初めての遣唐使、→4年
604年4月3日、17条の憲法を制定、→1年
605年、斑鳩(いかるが)の宮に移り、法隆寺が建つ、
607年、小野妹子を遣唐使とした、日出ずる天子、日没す
 る天子の言葉→15年
622年、聖徳太子が病に死す、翌日、妻も亡くなる→78年
700年代(8世紀)、ベルベル人のタリクの侵入によって、
 スペイン・ポルトガルの地・イベリア半島が征服された。
 以後、約300年支配する。→12年
712年、古事記712年(上)(中)(下)の三巻、→5年
717年~741年、この年に在位するレオ3世は、コンスタン
 ティノーブルにあったものに聖像破壊運動(イコノクラ
 ムス)を始めた。首都にあった聖像のほとんどを消滅さ
 せてしまった。多くの教会の装飾や美術品は、オスマン
 =トルコ時代のイスラム教の偶像拒否によって徹底的に
 破壊された。ギリシャ正教の総本山であったアヤソフィ
 ア教会においては、イスラム教徒によってモザイクやフ
 レスコ画すべてが漆喰で塗り固められてしまった。→3年
720年、帝紀・・天皇の系譜、稗田阿礼(ひえだのあれ)
 が暗唱していた、720年日本書紀30巻、→109年
829年、9世紀の初頭に使徒のヤコブの遺骨が発見され、教
 皇のアルフォンソ2世が829年に、ヤコブの墓の上に教会
 と修道院を建てた、これが聖地とされているサンティア
 ゴ・デ・コンポステラの始まり。そして、1478年に、教
 皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ・コンポステ
 ラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の価値があると
 言ってから、この地への巡礼が増えた。因みに、ヤコブ
 は「雷の子」と言われるほど気性の激しい人だった。
 →161年
990年代(10世紀末)、キリスト教徒が、イベリア半島の
 スペイン北部を占領した。レコンキスタという国土回復
 運動の戦いを、イスラム教徒に挑(いど)む。→10年
1000年(11世紀)、11世紀から(聖徳)太子信仰が大き
 く広がった、→0年
1000年代(11世紀)、ヴェネティアが独立国になった。
 →0年
1000年代(11世紀)、使徒ヤコブの墓の上に、サンティ
 アゴ・デ・コンポステラが建てられて、巡礼が始まった。
 エルサレムがトルコに占領され、聖地巡礼が危険になっ
 たため。→0年
1100年代(12世紀)、遅れていたヨーロッパ。このヨー
 ロッパに、イスラム世界から最先端の科学が、そして、
 ギリシャからは、古代ギリシャの哲学などがもたらされ
 た。ヨーロッパが、それらの恩恵に浴して、この時代、
 ルネサンスと呼ばれる知的高揚があった。→81年
1181年、フランシスコが、アッシジで生まれた。裕福な
 織物商人の家だった。→19年
1200年~1250年、この50年間に、ヨーロッパで、70も
 の大学が設立された。→4年
1204年、キリスト教の十字軍は、コンスタンティノーブ
 ルを占領した。多くの略奪品を奪った。その略奪品は、
 ヴェネティアに運び込まれた。香料・宝石・織物などは
 莫大な利益をヴェネティアにもたらした。略奪品の商売
 の都。→0年
1204年、十字軍が、コンスタンティノーブルを占領した。
 この影響で、コンスタンティノーブルの人々は、西のロ
 ーマカトリックが異端とみなしたことに驚き、敵対関係
 となった。コンスタンティノーブルの目は東に向いた、
 そして、スラブ人の教化となり、キエフ公国のキリスト
 教化、そして、ロシアにおよび、ロシアはギリシャ正教
 を国教とした(1547年)。→1年
1205年、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の礼拝
 堂の十字架像を祈っていたフランシスコへ「わたしの家
 を再建しなさい」というイエスの声が聞こえたという。
1220年、フランシスコが、指導者の立場を退く。→89年
1309年、ローマにあった教皇庁が、フランス王フィリップ
 4世によって南フランスのアヴィニヨンに移された。ロー
 マは、ますます寂れた。政治も宗教もローマを去った。
1315年~1317年、ヨーロッパが天候異変により深刻な飢
 饉となる。餓死者多数。1315年には150万人もの餓死者
 を記録した。また、疾病による死者も増加した。→6年
1321年、ダンテが死んだ。→7年
1328年、フランス国王のシャルル4世が死ぬと、王子が居
 なかったため、王位継承をめぐって、フランスとイギリ
 スの間で、100年戦争が始まった。フランスは、家系が
 絶えたので別の家系の王を即位させた。これに対し、家
 系が絶えたフランス国王の血筋のイギリス国王が、フラ
 ンスの王位の継承権を主張し、フランスに侵攻し、100
 年戦争がはじまった。→20年
1348年~1350年、ペストが流行するが、特に、この頃の
 流行の猛威は凄(すさ)まじかった。ヨーロッパの3分
 の1の方々が亡くなった。全滅した村もあった。死者を
 埋葬する間もなく、次々と死者が出て、町のいたるとこ
 ろに累々と死体が積まれた。→29年
1377年、教皇グレゴリウス11世がローマへ帰還する。
 →35年
1412年、ジャンヌ・ダルクが生まれた。→4年
1416年、ポルトガルが、西アフリカを席巻し、奴隷貿易を
 する。→14年
1430年5月23日、ジャンヌ・ダルクが捕縛された。イギリ
 スとイギリスに味方するフランス軍の一部の策略があっ
 た。また、このジャンヌ・ダルクが活躍したイギリスと
 フランスが戦った百年戦争には「戦地を連れ歩く娼婦
 (従軍慰安婦)」が居た。
  ジャンヌ・ダルクを告発したキリスト教の異端審問所
 に、フランス人のキリスト教司祭(ピエール・コーショ
 ン)だった。このキリスト教司教は非人道的方法でジャ
 ンヌ・ダルクを責めた。また、罠(わな)を仕掛けた糾
 弾の仕方をした。また、ジャンヌ・ダルクを罵(ののし)
 りもした。→1年
1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクが火刑(焚刑)に処せ
 られた。19歳の若さだった。キリスト教会の異端審問所
 が彼女に下した罪状は「悪魔の喚起(かんき)、様々な
 異端行為、様々な過(あやま)ち、偶像崇拝、その他」
 という、多くの罪状を付けた。卑劣そのものだった。彼
 女は北フランスのルーアンという所の広場で公開で処刑
 されたのだった。処刑される時、彼女は泣いていたとい
 う。キリスト教の聖職者の司祭が取り囲んでいたという。
 また、観衆が大勢の見物人の中だったという。焼かれる
 前に、彼女は「異教徒で、異端で、偶像崇拝者である」
 と書かれた帽子をかぶせられ、また、杭に縛(しば)ら
 れていた。1412年生まれの彼女のはかない一生だった。
 悪の宗教=キリスト教には救いがなかった。城に立て籠
 るフランス軍は積極的に攻めるという姿勢も無く、また、
 取り囲むイギリス軍も積極的に攻めるというわけでなく、
 兵糧攻めの状態だった。そこに、ジャンヌ・ダルクの
 援軍で、フランス軍は活気づき、積極的に攻めて勝ち戦
 となった。この北フランス生まれの彼女の功績は何だっ
 たのか?ジャンヌ・ダルクは、男装をしたのを「異端」
 とされた。キリスト教の聖書に「女は男の服装をしては
 ならない」とあるからである。今は隠しているが・・、
 →21年
1452年、バチカン宮殿が、教皇ニコラウス5世の時、造営
 された。→1年
1453年、東ローマ帝国の首都のコンスタンティノーブルが、
 オスマン=トルコの攻撃で陥落した。ビザンティン帝国
 の滅亡。これによって、多くの学者やキリスト教聖職者
 が、ローマに逃れてきて、ローマの学問や芸術や宗教の
 勃興に大きな力になった。→7年
1460年代~1499年、一向宗(浄土真宗)の蓮如が活躍す
 る。蓮如は1499年に没した。→18年
1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ
 ・コンポステラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の
 価値があると言ってから、この地への巡礼が増えた。
 →5年
1483年、ルターが生まれた。→1年
1484年、教皇インノケンティウス8世が回勅(指令)で、
 魔女の逮捕と裁判をキリスト教裁判所の異端審問として
 行うことを正当とした。→6年
1490年頃(15世紀末)、魔女によって殺される女性が多
 く、最盛期の様子となる。この状態は18世紀の末まで、
 長く続くことになる。主に、キリスト教カトリックが行
 ったが、プロテスタントも行い、キリスト教のすべてが
 行った大悪行。→1年
1491年頃~1556年、イグナデウス・デ・ロヨラ、初めは
 軍人だった。後にイエズス会を作った。キリスト教枢機
 卿より「ヒツジの皮を着ている狼だ」と迫害された。
 65歳。→1年
1492年、コロンブスがアメリカを発見した。やはり、イン
 ディオスの黄金のありかを血眼(ちまなこ)になって捜
 した。大殺戮時と同じく強欲な人。→5年
1497年、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を通過し、新しい
 航路を発見した、→8年
1505年、ルターが、アウグスティノ修道院に入った→1年
1506年、教皇ユリウス2世は、最盛期のルネッサンスの天
 才たちを集めて、サン・ピエトロ大聖堂の再建を始めた。
 建築家ブラマンテ、画家ラファエロ、彫刻家・画家ミケ
 ランジェロ。ラファエロは、彫刻家として入ったミケラ
 ンジェロの足を引っ張るために、彼に絵を描かせるよう
 教会に進言した。芸術家の仕事の奪い合いの世界だった。
 →0年
1506年4月7日、フランシスコ・ザビエルが生まれた。
 ~1552年、46歳。→1年
1507年、ルターが、キリスト教の聖職者の司祭になった。
 彼は、鬱(うつ)気分で、キリスト教内にある序列(ヒ
 エラルキー)や習慣や富の蓄積について批判した。例え
 ば、サン・ピエトロ大聖堂の膨大な建設資金を得るため
 に、ローマ教皇は、免罪符を盛んに売り出した。また、
 地方のキリスト教会も乱れに乱れ、堕落していた。居る
 べき司祭が居ず、名前だけとなっているのに、集められ
 た金は取り上げられた。
  また、キリスト教聖職者が、無気力で無能な身内の者
 を、自分さえよければ良いと、キリスト教会内の役職に
 つかせることが横行した(今・現在でも、この様な事は、
 キリスト教会に限らずあらゆる所で行なわれている)。
  また、裕福で暇なキリスト教聖職者の肉欲に耽(ふけ)
 る姿が、目にあまる状態だった。そしてまた、この様な
 聖職者の美食に耽る姿も多い状態だった。→5年
1512年、教皇ユリウス2世は、ミケランジェロに命じて、
 システィーナ礼拝堂の天井画『天地創造』を描かせ、こ
 の年に完成した。→0年
1512年~1524年、スペインとフランスが戦争をした。
 →5年
1517年10月31日、ルターは、ウィッテンベルク城内の聖
 堂に免罪符のおかしさ、疑問を述べた95の疑問を掲(か
 か)げた、「95カ条の論題」。これは、キリスト教ロー
 マ教会の免罪符販売への抗議もあった。これへの同感の
 意思表示が2週間で全ドイツに起きた。
  当時の免罪符の売り方は、キリスト教聖職者が、ロー
 マ教皇の免罪符販売奨励を意味した教皇の紋章の付いた
 十字架を先頭にして、免罪符の教皇の勅書(書状)を金
 のビロードの上に載(の)せて行列を作って歩き回り、
 説教した。教皇は偉大なのだ。地獄での刑罰はどんなに
 恐ろしいかなど・・。「お金が箱の中でチャリンと音を
 立てさえすれば、たましいは地獄の焔(ほのお)の中か
 ら救われ、飛び出してくる」と大声で叫んだ。人々は繰
 (く)られ、争って買い求めた。大司教というキリスト
 教の高い地位の聖職者が、「懺悔をしなくても、免罪符
 を買えば、死者も救われた事になる、有効なのだ」と言
 った。→1年
1518年6月、ルターの裁判が始まった。罪状は、「異端の
 流布」だった。→1年
1519年、マゼランが世界一周した、→2年
1521年、ルターが、ローマ教皇のウォルムス勅令によって
 異端者とされた。そして、追放の処分となった。そして
 また、ルターの本は、焚本にして処分せよとされた。
1521年1月3日、キリスト教のローマ教会(バチカン)は、
 ルターに正式な破門状を発布した。絶対権力を持つキリ
 スト教ローマ教会のこの処置によって、ルターの法によ
 る保護はないという状態へと追放された事となった。
1521年4月初旬、マルティン・ルター(1483~1546)は、
 「屋根の瓦ほどたくさんの悪魔がいる」と言った。
 そして、この頃、権力絶大なローマ教会によって、ルタ
 ーに『異端宣告』がなされた。その宣告文は、「ルター
 は自由意志を否定する異教徒であり、彼の考えは、騒乱
 (そうらん)・戦争・殺人・キリスト教界の崩壊につな
 がる。・・誰もルターを匿(かくま)うな。いな、また
 ルターに従う者も罪に定める。ルターの本も庶民の記憶
 から根こそぎ葬(ほうむ)り去らねばならない」。→0年
1521年12月、ルターが、聖書翻訳を始めた。聖書の原典
 とされたギリシャ語からドイツ語への翻訳だった。→4年
1525年、ルターが結婚した。キリスト教の聖職者の司祭で
 あり、キリスト教の戒律を守らなくてはならなかった立
 場だったが無視した。子供を6人つくった。→9年
1534年、ロヨラがイエズス会設立、→1年
1535年~1541年、教皇パウルス3世が、正面祭壇の『最
 後の審判』を描かせた。→5年
1540年9月27日、教皇パウルス3世が、イグナチオ・デ・
 ロヨラにイエズス会を正式に認可した。→2年
1542年5月、ザビエルがインドに赴任し、ゴアに着いた。
 36歳。ゴアは華やかで活気に満ちた町だった。しかし、
 キリスト教司祭たちの生活は乱れ、道徳的にも荒廃して
 いた。そして、人々の救済をするどころか、自分たちの
 懐(ふところ)を肥やすことばかりしていた。商売をし、
 金もうけにうつつを抜かすという状態だった。また、生
 活も怠惰そのものだった。→1年
1543年8月25日、種子島に、ポルトガル船が漂着し、鉄砲
 を伝えた。→1年
1544年1月15日、キリスト教の日本に宣教師として来たザ
 ビエルのこの日の書簡:「・・(キリスト教聖職者にな
 ろうと)大学で勉強している多くの若者達は、教会の高
 い地位や顕職(けんしょく・地位の高い要職)に相応(
 ふさわ)しい学問を身につけたいと思うよりも、高位、
 聖職禄(ろく)、司教の地位を得たいと願って学問をし
 ているのです」と。→2年
1546年、ルターが死んだ。63歳だった。→1年
1547年、オスマン=トルコのコンスタンティノーブル占
 領後、ロシア教会は独立した総大主教座をモスクワに置
 き、この年、ロシア正教とした。→2年
1549年8月15日、ザビエルが、鹿児島の海岸に上陸した。
 同行者は、トルレス神父、フェルナンデス修道士、日本
 人3人、船員として中国人3人、計9人だった。この日本
 人の一人が、アンジローだった。アンジローは、人を殺
 したので日本にいられなくなり、海外へ逃れたのだった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

慰安婦・慰安所などのこと・・、

2014-10-28 03:34:41 | 日記
 題:慰安婦・慰安所などのこと・・、
 (真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 日本とアメリカとが戦った大東亜戦争(第二次世界大戦)。
 その戦争が終わったと知らずに、ジャングルの中で、29
年間という気の遠くなるような長い期間、戦闘態勢で頑張
って居られた小野田寛郎氏。
 この小野田氏と、上智大学名誉教授の渡辺昇一氏が対談
をされているYouTubeに、慰安婦の件などが話されていた。
 以下に、この事の概略を記す(主に前半部分)。
 尚、意訳して読みやすくしたところもあります。
 この収録・放送時は、小野田氏が84歳の時である。
 そして、このYouTubeは、小野田氏が91歳で、逝去な
された時の追悼番組である。
 平成18年8月23日に、初回放送されたものである。
.
(追悼番組)渡部昇一&小野田寛郎、大東亜戦争と戦後日本を語る。
 URL: https://www.youtube.com/watch?v=CVOTxN4awg0
 [ 内容 ]::
 ローマ法王は、靖国神社を御参りして良いと言っていま
す。公式に何度も言っています。
 軍人の戦死者を祀っているのだから・・と。
 しかし、戦争が終わって、アメリカ軍の司令長官のマッ
カーサーが日本に来て、靖国神社を焼き払えと言った。
 すべての神社も焼き払えと言った。
 ローマ法王の居るバチカンは、満州を承認していますし、
 ナチスは、ユダヤ人の迫害を国策としていた。
 その点、日本は、ナチスからユダヤ人を迫害せよと言わ
れたが、『しない』と言った。
 日本は、八紘一宇(はっこういちう)だから『やらない』
と言った。
 だから、日本軍が居た上海に、ユダヤ人が逃げて来た。
 日本軍は、国策としてユダヤ人を助けた。
 満州にもユダヤ人が居て、満州に来たユダヤ人は、それ
以上は逃げなかった。
 また、ユダヤ人は、日本にも来て、上陸もしているし。
 その点、イギリスやアメリカは、ユダヤ人が逃げてきた
ら、追い返したですよね。
 日本は、『和をもって貴しとする』という国だから、敵
を作らないということです。
 日本の軍は、悪口を言われていますが、ユダヤ人を守る
ために八紘一宇を言い出したのは、日本の陸軍大臣だった
のです。
 ユダヤ人を追い返したルーズベルト(アメリカ大統領)
より立派なところがあった。
 渡部氏がイギリスへ行った時、家を借りて、その家主
(やぬし)がユダヤ人だったが、その家主が、「戦争の時、
日本はユダヤ人の財産にはまったく手を触れなかったな」
・・と、感心していました。
 日露戦争の時、日本は、ユダヤ人に、たいぶ、助けても
らった。
 だから、ユダヤ人と太いパイプを持っていた高橋是清を
226事件で殺したのは惜しかった。
 あのパイプがあったら、戦争は起きなかったかもしれな
い。
 昔、日本は、24歳まで選挙権が無かった。だから、戦争
に行った人は、ほとんどが選挙権の無かった人だった。
 近代軍隊の一般人に対する徴兵制度を考え出したのは、
フランス革命だった。
 日本は、戦争をするのは武士(戦・いくさを職業とする
人たち)だけだった。
 小野田さんが去年に書いた従軍慰安婦の論文は良かった
ですね。
 小野田さんが、(中国の)街で、偶然、民間人として(
慰安所を)見たことを書いた。
 軍隊に入った後でも見たことがあったが・・。
 ハン江で。武漢三珍、30万人の日本軍が居た。
 お金を持って、日本軍人も慰安所へ行った。
 飛行機の40機分という多くのお金が流れていた。
 その経営者が支那人だった。
 朝鮮の人もね。日本の人もいた。
 中国の人、朝鮮の人、日本人の人が経営していた。
 そこへ兵隊が遊びに行った。
 現地の女性に手を出させないという重要なこともあった。
 また、兵隊が悪い病気にかからないようにするという面
もあった。
 この二つの目的があった。
 そしてまた、そこへ行った時は、日本の兵隊が裸になる
ので(無防備になるので)、その兵を守る兵も必要だった。
 「軍が守る」という意味は、そういう意味です。
 敵から日本の兵を守らなければならないという状況です。
 日本の軍隊が、朝鮮から女性を連れて行ったということ
は無いこと(現地に既にその店があった)。
 日本の兵隊は、その店の女性に騙(だま)されて、多く
のお金を払った。
 問題の慰安婦の事について、調べた政府(内閣)の人が
1件も強制的に連れて行った例はないと言っているのに、
当時の官房長官の河野さんが、調べもしないで、謝っちゃ
った。
 それで、世界中から恥をかいている。
 国民に謝ってもらいたい。
 無いものを認めるなんてね。
 今、日本人が、世界中で一番汚い民族の様に言われたり
している。
 高利貸しと女郎屋のおやじは、畳の上で往生(おうじょ
う)できないという言葉があるくらいの、イカサマな事。
 欧米は、その辺は、大体、承知しているのではないです
か?
 小野田さんの論文は、客観的な観察で(正しいのだから)
英訳して、国連の人権委員会へ配ったりして、日本に来る
恥を注(そそ)がなければならないと思います。
 軍のお金の多くが、慰安所に行く費用に使われたという
結果になっている。
 人間の子孫を残すという欲の一つに、そのお金は使われ
た。人間の三大欲だ。
 拾となん円という給料をもらったら、三つに分けた。
 3分の1は飲食店、饅頭食べたいなど、3分の1は貯金、
そして残りの3分の1で・・慰安所、
 その戦場の慰安婦の店、日本人の様な良心的なのは無か
った。
 アメリカ軍が(日本の占領のために日本に)来た時は、
その慰安所は(日本には)無かった。
 (アメリカ軍は)日本に吉原みたいのを作れと命令した。
 被占領国へ作れと命令した。
 これは(アメリカ軍が)被占領国(日本)に乱暴な事を
したということになる。
 日本政府は、(そのアメリカ占領軍の命令を)それをや
らないで、営業をする人(店を経営する人)がやった。
 (戦地の場合は)戦地での強姦防止があった。
 これをしないで乱れると、恨まれるということを避けた
かった。
 治安維持の面もあった。
 日本に、アメリカの占領軍が来た時にも、その命令があ
った。
 東京も(アメリカ占領軍から)命令された。
 それで東京には店があったが、横須賀には無かった。
 それで、頻々(ひんぴん)と強姦事件が起こった。
 それで、横須賀でも作った方がよいだろうと、やったら、
強姦事件がピタッと止んだ。
 しかし、変な牧師が反対し始めたが、前の(強姦が起き
る)状態に戻ったので、また作った。
 中国での店は、凄く儲かったという、その店で働いてい
た女性が、1000円あれば総二階の家が建った時に、3万
7千円の金を持っていたが、日本が負けたので価値がなく
なったので、郵政省を訴えて、賠償してくれと訴えたので
その持っていた金額を知ったのだが、その様な大金を持っ
ていた。
 その様な金を、僅かな期間で得られた。
 もの凄くもうかる仕事だった(強制連行でしたのではな
い、儲かるので仕事としてやった)。
 大体、1年間ぐらいですね(働く期間は)。
 後半は、靖国神社の話になって行く・・
..
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キリスト教の戒律から疎外されているの状況の中に居る人・・、

2014-10-27 03:34:56 | 日記
 題:キリスト教の戒律から疎外されているの状況の中に居る人・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は律法を無くした、律法や戒などを無くした
というが、さにあらず、たっぷりと律法がある宗教なのだ。
 そして、キリスト教聖書は、男尊女卑の書である。
 イエスは、ただ一人、マグダラのマリアだけは弟子と言
ったが、キリスト教は、今・現在でも、女性を司祭にしな
いなど、男尊女卑の宗教である。
 そして、イエスも、この男尊女卑の精神を持った人であ
った。
 キリスト教聖書も、女性を名前で呼ばない、また、イエ
スも女性を名前で呼ばない。
 仏教は、女性も男性同様に姓名で呼び、そして、多くの
女性を、弟子にもしているが、キリスト教のイエスは、女
性を弟子にもしていない。
 因(ちな)みに、聖書に出て来る女性が、どの様に記さ
れているかを記してみると、「この女」「こういう女」
「ゼベダイの子らの母」「クロバの妻マリア」「ヨセフの
母マリア」「もう一人のマリア」「ヨハネ、ヤコブの母マ
リア」「他の女」「マグダラの女と呼ばれるマリア」など。
 女性を男性の附属物的な存在としている。
 また、ちなみに、イエスが、5000人に食べるものを与え
た話の、その5000人は、女性は除外されている。
 ヨーロッパのキリスト教絵画が、女性を多く描かれてい
るから、キリスト教が男尊女卑宗教の印象が薄いと思われ
ていますが、さにあらず、酷(ひど)い男尊女卑宗教なの
だ。
 「男性信者より数段下の女性信者」という言葉がある。」
 「女性使徒なんて、とんでもない」という宗教。
 そして、イエスが死んだ時、イエスの父ヨセフは、すで
に死んでいると考えられ、イエスの母マリアは、マグダラ
のマリアに引き取られている(「ヨハネによる福音書」19
・25~)
 「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き
取った」とある。
 他のイエスの兄弟姉妹はどうなっているのか?
 母マリアを引き取らないのか?
 つまり、イエスの兄弟姉妹が、イエスの母マリアを引き
取るより、マグダラのマリアが引き取る事で、事がうまく
収(おさ)まるからなのだ。
 だから、イエスが、そう言ったのだ。
 そして、それは、マクダラのマリアが、イエスの家族の
成員(妻)であるからだ。
 そして、また、イエスは、そのマグダラのマリアに、最
初に復活したかった、その姿を見せたかった。
 それ故、マグダラのマリアに、最初にイエスは復活した。
 イエスの復活は無かった事なのだが、イエスを知る人が、
イエスが復活するには、まず最初に復活する人は誰かと、
考えた時「マグダラのマリア」になったのだ。
 「ペトロ」でもなく、「イエスの母マリア」でもないと
いう所に、強い縁のある人なのだ。
 イエスと共に住んでいた家に、イエスの母マリアは引き
取られたのだ。イエスは、マグダラのマリアだけは他の女
性とは違うとみていた。
 このマクダラのマリアの事だけで、キリスト教が男尊女
卑の宗教とは違うとは言えない。
 そして、イエスは妻帯者であり、この点でもキリスト教
の戒律から疎外されているの状況の中に居る人となってい
る。
.
 そして、次の話。
.
 キリスト教のイエスに12使徒が居たというが、キリスト
教の得意な嘘だ。
 4つの福音書に記載事例がほとんどないという、そして、
まったく無視されて名前さえ出て来ない使徒が4人もいる。
 使徒とされる4人を、無視して名前を出さないという福音
書があるのだ。
 使徒ではないから書かなかったのだと言っている。
 そして、1回だけしか出て来ないという「心細い使徒」が、
何と、半数以上居る。
 半数以上の使徒が、この「心細い使徒」となっている。
 作り上げられた「使徒たち」なのだ。空想の使徒。
 イエスの知り合い程度の人、本当は。
 それが、福音書に1回だけ出た、ちょっと出の使徒にされ
た人たちである。
 福音書に出て来て、使徒と言ってもいいかなという使徒
は、「ペトロ」「ヤコブ(ゼベダイの子)」「ヨハネ」「
ユダ」の・・何と・・4人だけなのだ。
 あと8人は・・申し訳ないが、付けたし。
 後の8人は、使徒とは言えない。
 1回しか出ない、または出ないという、福音書で名前を探
すのが大変な人たちなのだ、使徒であるのに。
 イエスの仲間たちは、「ほんの一握り」だったのだ。
 そして、「マタイによる福音書」に、イエスが言ったと
して・・、
 「あなたはペテロ、あなたが地上で解くことは、天上で
も解かれる」と記している。
 これは、はっきり言って・・おかしい。
 名指しで、イエスが、「ペテロは神です」と言っている
事になっている。
 何百年後に、公会議で、やっと神になったイエスが、そ
れより以前に、ペトロを神扱いしている。
 イエスが、その様にペテロに言っている。
 300年も経って、やっと公会議で、もめに揉めた上で、
神になれたイエスが、それよりはるか以前、イエスの生存
中に、ペトロを、「あなたのはなす話しは、説く事は、天
上・天国で解かれる言葉になっています、(あなたの言葉
は神の言葉です)」と言っている。
 その時にはまだ、神では無いイエスが、ペトロに言って
いる。
 まったく、キリスト教は、こんな節操無い言葉が、乱れ
飛んでいる、節操無い宗教の態となっている。
 この様に、使徒というか、弟子というか、12人は、明ら
かに居なかったわずかな人を、ちやほやしないとグループ
が保たれなかった。
 福音書には、あちこちで、イエスと意見のぶつかり合い
がある人たちなのです。
 使徒なのかなー ・・という感じの状態?
..
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心的ダメージが・・恐ろしい・・心配である・・、

2014-10-26 02:09:47 | 日記
 題:心的ダメージが・・恐ろしい・・心配である・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、可哀想な事に・・、
 また、不運な事に・・、
 キリスト教の中心に居るイエスが、刑死という経過をた
どった。
 当時、多く居たイエスの様な、イエスを含む予言者(預
言者)たちを・・、
 公権力が、ことごとく・・刑に掛けていた。
 キリスト教関係だけでも、イエスだけではない。
 多くの刑死者が居る。
 キリスト教の経典である聖書を読んだだけでも・・、
 イエス以外にも多くの刑死者が出て来る。
 キリスト教の中心に居るこのイエスも、刑死という不運
に会ってしまった。
 イエスの弟子たちは、イエスの刑の執行時には、不誠実
な事に、何処かに逃げ、そして、隠れてしまったが・・、
 イエスを知る女性がただけが、イエスの刑に立ち会った。
 その女性がたも、イエスの、予測ができなかった不運に
嘆き、そして、戸惑いの中に居た。
 キリスト教は、予測できなかったこの不運な事態を、
「贖(あがな)い」とした。
 アダムの経緯(いきさつ)で生じた「人間の原罪」を贖
ったとした。
 このイエスの刑死で、人間だけが持つ原罪が、贖われた、
救われたとした。
 キリスト教聖職者は、これを説明する説教で、「キリス
ト教の救いは『下への招き(救い)』である」と意味不明
な説明をする。
 死という形による救い方を言っているのだろう。
 しかし、当然、聖職者は、それが良いと美化の発言をす
る。
 キリスト教のこの聖職者は、キリスト教以外の、一般の
宗教が、良い状態へと導く救いの状態は駄目だと言う。
 この「上への招き(救い)」は駄目なのだと言う。
 苦しい人をより上の状態の、苦しくない状態への救いが、
なぜ駄目で、良くないのかは、キリスト教聖職者は説明し
ない。
 キリスト教聖職者は言う、「十字架の死という最悪の状
態の中に立って我々を招く」のが良いのだと言う。
 何故、良いのかは説明しない。
 ただただ、良いと言う美化の言葉ばかりだ。
 そして言う、「我々よりさらに低い所から招き、低い所
から支える」のが良いと言う。
 何故、下から支えるのが良いのかは説明しない。
 これは、キリスト教に良くある『我田引水論理』だ。
 意味不明の我田引水論理で、煙に巻いて、マインド・コ
ントロールする。
 イエスが、ただ、不運の事態から生じた刑死の事態に、
ただこじつけてできた論理ではないですか?
 キリスト教は、この様な論理、屁理屈と思える様な、ま
た、こじつけと思える様な論理・説教で、話をし、洗脳す
るから注意をしたい。
 人々を救うには・・、
 また、支えるには・・、
 下からも・・また、上からも・・、
 一生懸命に・・支え・・救って・・差し上げねばなりま
せん。
 仏教には・・、
 菩薩が、救いのために、地獄へ降りて行く・・という話
が有りますが・・、降りても・・行かなければなりません。
 また、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」ではありませんが・・、
 佛が衆生を救おうと・・、天から蜘蛛の糸を地獄へ下ろ
し、地獄の人たちが、その蜘蛛の糸を登り、救われようと
する話もあります。
 キリスト教は、本当に偏頗(へんぱ)な話で洗脳し・・、
マインド・コントロールする。
 無意味な美化だけの言葉だけが・・無味乾燥に響きつづ
く宗教だ。
.
 そして、次の話。
.
 若い、大切な時期・・、
 多くの、そして、色々な事を学ばねばならない若い時期
に・・、
 キリスト教系の学校に入ったばっかりに・・、
 キリスト教を本当に求めた訳でも無かったのに・・、
 キリスト教系の学校に入ったばっかりに・・、
 納得の行かない論理展開に・・、
 自分の素直な考えを、より深く求めて行きたい本音(ほ
んね)の自分が居るのに・・、
 その本当の自分を表現すると、期末試験などの試験の場
合には×(ばつ)となり・・、
 やむなく本当の自分を押し殺して・・、
 キリスト教が言う論理に迎合(げいごう)して・・、
 試験を通過している。
 自分に嘘をつく毎日となっている。
 この時間やエネルギーがもったいない・・、
 まことに貴重な若い時期に・・、
 この時間やエネルギーを、他へ向けたら、これからの自
分の人生に大きくプラスになるのにと・・惜(お)しく思
う。
 それよりも、心的ダメージを・・、
 若い心への心的ダメージが・・恐ろしい。
 どのような影響が、これから出て来るかである・・心配
である。
 「週に2時限もあるのですよ」と嘆いていた若者が居た。
..
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