gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

(増補版)286E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年10月~1868年11月)

2016-01-30 04:39:50 | 日記
題:(増補版)286E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年10月~1868年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年10月12日(8月27日)明治天皇陛下、御即位(氷川
 清話)
  明治天皇陛下(17歳)が、紫辰殿において即位の大礼
 を行われた。
  これは、政情の激しい移り変わりによって遅れていた
 即位の礼だった。
1868年10月14日(8月29日)大阪造幣局に貨幣鋳造機舶来。
  明治新政府は、1868年5月16日(慶応4年4月24日)に、
 旧金座および銀座を接収し、
  6月11日(閏4月21日)に、貨幣司を設けて、二分判お
 よび一分銀などの鋳造を引き継いだ。
  そして、1869年3月17日(明治2年2月5日)に、貨幣司
 が廃止されて、太政官に造幣局が設置され、
  8月15日(明治2年7月8日)に、造幣局は造幣寮へ改称
 されて大蔵省所属となった。
  また、1868年(慶応4年)に、参与会計事務官・三岡八
 郎、外国事務局判事・五代才助らが、同年に廃止された
 イギリス帝国・香港造幣局の造幣機械を6万両で購入する
 契約を結び、
  11月1日(明治元年9月17日)に、英国建築技師・トー
 マス・ウォートルスが、雇用され局舎設計、および、機
 器購入などを担当している。
  1870年3月3日(明治3年2月2日)に、旧香港造幣局長・
 キンドルが、造幣寮首長に任命されている。
  大阪本局は、1871年1月17日(明治3年11月27日)に、
 銀貨製造を開始し、
  4月4日(明治4年2月15日)に、大蔵省造幣寮として創
 業式を挙行した。
  また、6月27日(明治4年5月10日)に、新貨条例および
 造幣規則布告がされて近代的貨幣制度が開始された。
1868年、財政困窮の新政府・・、
  勝海舟が語る・・、
  ちょうど維新の始めであったが、万事改革の際とて、
 財政のごときも非常に困難を極めた。
  中にも一番その処置に憂慮したのは、かの旧諸大名が
 藩政の弥縫策(びぼうさく)として贋銀(にせがね)を
 発行したのが、海外にも流れ出ておったものだから、こ
 の際、横浜居留の外国人は、おのおの公使によって、公
 然と引き換えを我が当局者に迫ったことだ。
  さすが英断明識の大久保利通内務卿も、その引き換え
 金額の多寡が分からないのみならず、当時、国庫の準備
 金も僅少であったから、これには少々当惑して、ついに一
 伊地知幸介を立会人として、俺の所へ相談に来た。
  その時、俺は、一棒に擬して「みな引き替えろ」と一
 喝した。
  ところがさすがは大久保だ。
  大いに悟る所があったと見えて。
  断然、引き換えを決行の旨を各国公使に通知したが、
 その額は案外に少なく、わずかに数十万円に過ぎなかっ
 たそうだ。
  ひっきょう、俺は、いかに諸大名が贋銀をしても、た
 いてい高が知れていると考えたから、「みな引き替えろ」
 と言ったのさ。
  なあに、塾考の上で決行すれば、やれない事は天下に
 ないのさ(氷川清話)
1868年10月(9月)勝海舟、家族駿府に移住(氷川清話)
1868年10月21日(9月6日)官軍が、南部兵を破り、大館城
 を復す。
1868年10月23日(明治元年9月8日)明治と改元し、一世一
 元の制を定めた。
  同年1月1日に遡って、新元号・明治を適用。
  明治と改元。自今一世一元の詔出る(氷川清話)
  慶応4年から明治元年になる(氷川清話)
  日本は、明治という時代になって、これから2000年に
 向かって人口を増やして行く国になる。
  そして、2000年を過ぎた頃、ピークを迎えた。
  日本は、この明治以来、人口を何と3倍に増やして来
 ていた。
1868年10月23日(9月8日)大鳥圭介が、会津より函館へ去
 った。
1868年10月24日(9月9日)兵火のため、会津城下が、焦土
 と化した。
1868年10月25日(9月10日)岩代の二本松藩主丹羽長国、羽
 前の天童藩主・織田信敏、共に官軍に降る
1868年10月27日(9月12日)官軍、庄内を破り水澤を略す。
1868年10月27日(9月12日)驛逓司、郵便規則布告。
1868年10月28日(9月13日)大久保利通、京都において岩倉
 具視、木戸孝允と会し、車駕発輦を議す。
1868年10月31日(9月16日)榎本武揚らが、開陽丸など旧
 幕府の艦隊主力を率いて品川沖を脱走した(10月4日説
 あり)。
  ジュール・ブリュネらのフランス軍事顧問団の一部も、
 これに同行した。
  約、半年前の1868年5月3日(4月11日)、新政府軍は、
 江戸開城に伴い、降伏条件の一つである旧幕府艦隊の引
 渡を要求した。
  しかし、榎本は拒否した。
  そして、榎本は、人見勝太郎や伊庭八郎が率いる遊撃
 隊を乗せ、悪天候を口実にして、艦隊8隻で、品川沖から
 安房国館山に脱走をした。
  これは、勝海舟の説得によって、旧暦4月17日に、品
 川沖へ戻り、4隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)
 を新政府軍に引渡した。
  しかし、開陽丸等の主力艦の温存に成功した。
  榎本は、なおも抵抗姿勢を示して、6月13日(閏4月23
 日)には、勝に艦隊の箱館行きを相談するが、反対され
 る。
  1868年7月13日(5月24日)に、徳川宗家の駿河・遠江
 70万石への減封が決定。
  榎本は、移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦
 で、遊撃隊や請西藩主・林忠崇に協力して、館山藩の陣
 屋を砲撃した上、小田原方面へ向かう彼らを館山から真
 鶴へ輸送したほか、
  輪王寺宮や脱走兵を東北地方へ運ぶなど、旧幕府側勢
 力を支援した。
  8月(旧暦7月)には、奥羽越列藩同盟の密使(仙台藩・
 横尾東作、会津藩・雑賀孫六郎、米沢藩・佐藤市之允)
 と会い、
  1868年9月7日(7月21日)、列藩同盟の参謀を務めてい
 た板倉勝静・小笠原長行宛に支援に向かう旨の書状を出
 した。
  9月(旧暦8月)に入ると、密かに脱走準備を進め、
  1868年9月19日(8月4日)、勝に軽挙妄動を慎むよう申
 しわたされるが、
  1868年9月30日(8月15日)に、徳川家達が駿府に移り
 移封が完了すると、
  1868年10月4日(8月19日)、榎本は、抗戦派の旧幕臣
 とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、
 美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率
 いて江戸を脱出し、
  奥羽越列藩同盟の支援に向かった。
  この艦隊には、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松
 平太郎、彰義隊や遊撃隊の生き残り、
  そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・
 ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が
 乗船していた。
  江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告
 文」という趣意書を勝海舟に託している。
  『檄文
  王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。
 然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は
 然らず。
  王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名
 を以てす。
  其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を
 領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は
 頓に官有と為し、
  遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。
  又甚しからずや。
  これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。
  我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して
 情実通ぜず。
  故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんと
 す。
  それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一
 洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行
 せしめん事、唯此一挙に在り。
  之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。
  廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心
 に志ある者は、此言を聞け。』
  房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、
  咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、
  8月下旬頃から順次仙台に到着した。
  1868年10月17日(9月2日)、榎本、ブリュネ、カズヌ
 ーブは仙台城で伊達慶邦に謁見する。
  翌日以降、仙台藩の軍議に参加するが、
  その頃には、奥羽越列藩同盟は崩壊しており、
  1868年10月27日(9月12日)に仙台藩も降伏を決定した。
  これを知った榎本と土方歳三は登城し、執政・大條孫
 三郎と遠藤文七郎に面会し、
  翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた。
  旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、
 鳳凰丸を艦隊に加え、
  桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣
 の伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊など、計約
 3,000名を収容。
  新政府軍の仙台入城を受けて、1868年11月22日(10月
 9日)に、仙台を出航し石巻へ移動した。
  この時、新政府軍・平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣
 の救済と、ロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓する
 という内容の嘆願書を提出している。
  1868年11月24日(10月11日)には、横浜在住のアメリ
 カ人でハワイ王国総領事であったユージン・ヴァン・リ
 ードから、ハワイへの亡命を勧められるが断っている。
  その後、幕府が、仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪わ
 れ海賊行為を行っていた千秋丸を気仙沼で拿捕し、宮古
 湾で補給の後、蝦夷地へ向かった。
1868年11月1日(9月17日)江戸を東京とした。
1868年11月4日 (9月20日)明治天皇が、東京行幸のため京
 都を出発された。
  明治天皇、京都発輦、東幸し給う。
  岩倉、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをと
 もない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の
 兵隊を含め、その総数は3,300人にも及んだ。
1868年11月6日(9月22日)会津若松城落城、官軍に降伏(
 戊辰戦争が終わる)
  会津藩は、若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山
 口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けたが、9月に
 入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の
 降伏が相次いだ。
  孤立した会津藩は、明治元年9月22日(11月6日)に、
 新政府軍に降伏した。
  同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が、降伏したのは
 その2日後であった。
  旧幕府軍の残存兵力は、会津を離れ、仙台で榎本武揚
 と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争とな
 って行く)。
1868年11月6日(9月22日) 会津藩が降伏して・・、
  非常に大変な戦いを、会津の方々はとことんまで戦っ
 た。激烈な戦いだった。
  人々の、民衆の、一人に至るまで・・、
  そこには、正義があった。
  薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠の
 計らいで、松平容保公は、死一等を減じられて謹慎とな
 った。
  そして、養子の喜徳とともに、江戸(東京)に護送さ
 れることになった。
  本来であれば、家老上席にあった西郷頼母、田中玄清、
 神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知
 れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していた
 ため、
  次席の萱野長修が、戦争の責任を一身に負って切腹し
 た。
  江戸に送られることになった松平容保公を、家臣たち
 は断腸の思いで見送った。
  2007年(平成19年)山口県の選挙区選出の安倍晋三内
 閣総理大臣は、会津若松市を訪問されたときに、山口県
 (長州)選出議員として発言された、「先輩がご迷惑を
 かけたことをお詫びしなければならない」と、謝罪され
 た。
  会津藩主・松平容保公は、1862年に京都守護職として
 京へ赴くとき、この様な事も、多くの考え、深い考えの
 中に予想されていた。
  幕府からの命令の遂行との間に立たれて居られた。
  藩の民を巻き込むだろう経過も考えられていた。
  江戸から明治へという新しい時代への転換へ、移行す
 る、そこに生じるエネルギーを、会津藩主と藩の方々、
 この地の方々は、一身に受けて立っていた。
  大変な、大きなエネルギーが、次なる時代の幕を開く
 ために、この地で行われた。
  本来なら、このエネルギーの放散は、江戸で行われる
 べきものだった。
  それを、南部の地で行われ、南部の方々が受けて戴い
 た。
  本来なら、南部で行われるべきものではなかった。
  会津藩やこの地の方々は、それを受けて立って戴いた。
  お蔭様で、江戸の町は、いつもの平穏の時が、過ごさ
 せて戴けた。
  江戸の市民は、また、その後継の人達は、会津の方々
 へ深く感謝しなければならない。
  会津の方々は正義を通し、その正義と、また、正義が
 ぶつかった戦いだった。
  日本の次の幕が、お陰様で開いて行った。
  開いて行くことが出来た。
1868年11月7日(9月23日) 庄内藩降伏、奥羽越列藩同盟
 瓦解して、本州での戦いが終った。
1868年11月8日(9月24日)磐城の各藩主、官軍に降る
1868年11月11日(9月27日)明治天皇陛下、農民の収穫を
 天覧される。
1868年11月12日(9月28日 )スペインと通商条約調印
1868年11月16日、会津世直し一揆(~1869年1月13日)
  1868年11月6日に、会津藩が明治政府に降伏すると、
  藩政崩壊による、権力の空白状態となり、民衆蜂起が
 起きた・・と、説明されているが・・?
  http://www.kkjin.co.jp/boso010_130119.htm を、
 お読み戴きたい。
  ここには、会津の方々の想いが綴られている。
  会津の方々は、総べての方々は、非常に誠実であった。
  その誠実の中に、歴史の流れがあった。
  会津藩主の松平容保公も、深い、色々な考え・想いの
 中で、その行動を選択された。
  その深い奥は、凡人には思いが及ばない。
  会津藩主を始め、会津藩の臣下の方々、そして、会津
 の方々・皆さまが、誠実に、歴史の中で行動された。
  この行動は、光り輝き、素晴らしく、歴史に刻まれて
 いる。
  私の親戚の小学3年生の子は、容保公が好きになった。
 会津に住みたい、住むんだと言っていた。
1868年11月(10月)勝海舟、駿府に下る(氷川清話)
  新政府からの要職をすべて断り、勝海舟は、徳川慶喜
 のいる駿府へ下った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

臨時ブログ:あの手この手で、盛んに行なわれているキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)

2016-01-29 02:58:44 | 日記
臨時ブログ:あの手この手で、盛んに行なわれているキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  (読売新聞、2016・1・24)で、キリスト教系の大学の
 月本昭男氏が、若松英輔著の「イエス伝」の書評を書い
 ていた。
  今、まったくキリスト教の論理が崩れている現代に、
 この様な時に、珍しいなと思い読んでみる。
  月本氏は、上智大学教授で、専門は「旧約聖書」であ
 る。
  そして、この本の著者・若松氏は、批評家と紹介され
 ている。
  この書評の半分以上が、過去の、既に済んだこと(関
 係がほとんどない、シュバイツァーはどうだったという
 話に費やされている)。
  やっと、この書評の部分に至っても、キリスト教の「
 文献の貧弱さ」を言わずもがなで、吐露している。
  つまり、この書に関わるのは、短い記述の4つの福音
 書だけだ・・と。
  そして、その「わずかなソース(素)」を字で読んで
 はいけない・・と月本氏は言う。
  「書いてないことを感じ取れ」・・と月本氏は言う。
  つまり、「よし」としている事は想像、まったくの想
 像だと。
  つまり、キリスト教に洗脳された頭で想像しろと言い
 たいらしい。
  こんな書評があるか?
  その様なキリスト教に洗脳された頭で感じ取れと言い
 たいらしい。
  しかも、よく感じ取れと言いたいらしい。
  「奥の目に見えない真実を感じ取れ」と言う。
  「真実だ」と感じなければいけないという。
  ひどい話だ。
  わずかな4つしかないソース(素)の聖書の「その4つ
 の福音書を読むな」と言い・・、
  その字でなく、目に見えないものがあるから感じ取れ
 という。
  肝心なそこを説明しないで、良く感じろという。
  この書評者は、書評をそっちのけで、キリスト教に洗
 脳され、マインド・コントロールされた頭で、「字を読
 まないで、感じろ」とだけ言う。
  またまた、キリスト教の得意の理論的に行き詰ってい
 ることを露呈して、マインド・コントロール論理を、新
 聞書評で展開する。
  洞察せよ、過ぎた事象を洞察せよ、そこが豊かだ、秘
 められていると、書評そっちのけで、月本氏は、マイン
 ド・コントロールを新聞紙面に書きつける・・書評だと
 称して・・。
  これが諸評か?
  リルケや内村鑑三という・・自分に都合の良い先人を
 持ち出す。
  ごまんと居る、都合の悪い人は出て来ない。
  それらの先人の恩寵があると、よくやる権威の傘を借
 りた言い方をする。
  この様な言葉は、キリスト教は、最後に、調味料をか
 けるようによくやる。
  そして、また、定番の如く、最後に「まじない」の様
 に言う、「2000年の時空を越えて(架橋して)、読者を
 イエスへ誘(いざな)う(邂逅・かいこうする)」と。
  いつもの様な、理屈そっちのけの「天よりのお達し」
 があるの如くのマインド・コントロール文を書く。
  読売新聞は、最近、キリスト教に関係する酷い記事を
 よく掲載する。
  注意を要する。
  少し事例をあげれば、キリスト教作家の、天草の乱の
 考えられない犠牲者数をデッチアゲする事から始まる、
 虚偽を交えた話とか、
  「だから駄目なのだ性善説」などというニュース記事
 など、キリスト教の性悪説が正しいと読売新聞は言いた
 いのだろうが、キリスト教に偏していておかしい。
  杉原千畝の日本を貶(おとし)める映画の後援をした
 りする読売新聞となっている。
  杉原千畝が、キリスト教徒だったからと、キリスト教
 が、さんざん宣伝していた話に乗っかっている。
  「日本を悪者にしている嘘」を言いふらしている。
  日本は、ユダヤの方々を助けていたのが真実なのに、
 まったくその逆を、読売新聞は宣伝している。
  この事を、指摘したらば、途中から訂正をしたけれど
 も、読者に紙面上で謝罪すべきである。
  何か、キリスト教へ「おべっか記事を書かないと、例
 えば、ニュースを得られない」とかの不都合があるから
 やっているとか、
  自分に利があるからやっているという話を聞く。
  その様な点が無いのならば、紙面ではっきり説明すべ
 きである。
  金でタレントを買うという話も聞く。
  また、キリスト教に偏するNHKは、相変わらず放送
 法の法律違反行為をしている。
  その1例が、キリスト教の十字架を付けてNHKに出演
 させている行為である。
  このキリスト教徒のタレントを、NHKは、本当によ
 くNHKに出演させている。
  公平性の無いNHKとなっている。
  このタレントだけが法律違反なのではなく、NHK職
 員のスタイリストが、その様にしてNHKに出している。
  また、NHK職員のディレクターも、承知で出演させ
 ているという・・NHKの法律違反行為となっている。
  そして、このタレントは、このおかげで、民放にも顔
 が利くのか、民放にもよく顔を出している。
  キリスト教を取り巻いて、法律違反まで行ってする破
 廉恥なプロパガンダ(嘘宣伝)が盛んに行なわれている。
(追伸):NHKの息がかかった元NHK職員が、解説を
 している番組(○○○氏)にこの放送法違反者は出てい
 る。
  また、NHKの元職員が司会をする日立製作所提供の
 世界を巡る番組にも出ているという様に、NHK関係が
 総出でやっている行為となっている。
  外資に乗っ取られた日本の放送媒体の機関が、法律や
 常識ではやってはいけないことをしている。
  そして、すべて金で、事を成して行く唾棄すべき世界。
  キリスト教は、金の力を使って伝道している。プロパ
 ガンダ(嘘宣伝)している。
  そしてまた、日本には「世間様」という言葉があって
 この様に世間様を「馬鹿にした」「誤魔化すような」こ
 とはしなかった、NHKへ、AIへ、KMへ、その他へ、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)285E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年8月~1868年10月)

2016-01-28 04:21:10 | 日記
題:*(増補版)285E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年8月~1868年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年8月25日(7月8日)西園寺公望(さいおんじきんも
 ち、公家、政治家、教育者)会津征討越後口総督府大参
 謀が、越後長岡城に入城した。(1849年~1940年)
  福沢諭吉の『西洋事情』を読み影響を受けた。
  そして、世界の情勢にも関心を持つようになる。
  明治元年10月28日(1868年)、新潟府知事に就任し
 た。
  1869年に、御所内・私邸に私塾立命館(現:立命館大
 学)を創設した(学校組織としての連続性はないが、学
 祖とし、この年を以って創始としている)。
  1870年~1880年、ソルボンヌ大学に留学。
  明治14年(1881年)に、明治法律学校(現:明治大学)
 を設立した。
1868年8月30日(7月13日)幕臣・天野八郎(あまのはち
 ろう、彰義隊指揮官)が、本所にて捕わる。
1868年8月31日(7月14日)出羽の庄内兵が、新庄城を陥
 す。
  新庄城は、政府軍側についたため、庄内勢に攻められ、
 焼き払われた。
1868年9月1日(7月15日)大阪が開港した。
  開港と同時に外国人居留地と定められ、諸外国への競
 売が行われた。
  競売は完売し、直ちに、街路樹や街灯、洋館が並ぶ西
 洋の街へと整備された。
  居留地に接する地域も外国人雑居地となった。
  文明開化の発信拠点となった。
  1899年(明治32年)に、居留地制度は廃止された。
1868年9月3日(7月17日)江戸を東京と改称した(7月18
 日説あり)。
  「江戸ヲ称シテ東京ト為ス」の詔書が発せられた。
  1868年5月22日(慶応4年閏4月1日)に、大木喬任(
 軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、
  佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出し
 ていた。
  1868年11月26日(10月13日)に至って、天皇陛下が、
 東京に入られ、
  明治2年(1869年)には、政府が、京都から東京に移
 された。
1868年9月5日(7月19日)徳川慶喜公が、水戸より駿府に
 退いた。
  徳川慶喜、駿府にて謹慎 (きんしん、言動をひかえめ
 にすること)(氷川清話)
  慶応4年7月19日、江戸から水戸藩で謹慎していた慶喜
 公が、まず駿府藩へ船で移動した。
  9月9日(7月23日)の到着後は、宝台院で謹慎した。
  9月24日(8月9日)、家達ら旧幕臣達が、駿府藩へ移
 封し、9月30日(8月15日)に駿府に着いた。
  勝海舟は、この前後して、政府との交渉役を任され、
 11月24日(10月11日)に、船で江戸を去り、
 翌11月25日(10月12日)に、駿府へ着いてからは、幹事
 役として、大久保利通と駿府藩の折衝を努めた。
  また、勝海舟は、1869年8月25日(明治2年7月18日)
 に、政府から外務大丞に任じられたが、1869年9月18日
 (8月13日)に辞任し、
  また、1869年12月25日(11月23日)の兵部大丞任命
 もすぐに辞表を提出した。
1868年9月11日(7月25日)河井継之助(かわいつぎのす
 け、越後長岡藩牧野家の家臣)が、越後長岡城を奪回し
 た。
  1868年7月8日(5月19日)に、長岡城は、新政府軍に
 奪われていた。
  7月21日(6月2日)に、長岡城を、再度、奪還しよう
 と戦いを開始していた。
  この時の、河井の戦術は、軍事史に残る快挙で、後に、
 研究対象にされるほど優秀だった。
1868年9月15日(7月29日)会津戦争、二本松の戦い
  官軍が、岩代の二本松を攻めた。
  1868年8月12日(慶応4年6月24日)に、棚倉城が落城、
  そして、8月30日(7月13日)に、磐城の戦いで、磐城
 平城が落城した。
  9月2日(7月16日)に、三春藩が、奥羽越列藩同盟を
 脱退し、明治新政府軍は、じりじりと北上した。
  9月15日(7月29日)、藩兵の大半が、白河口の戦いに
 出向いている隙をつき、新政府軍は、二本松城を攻撃し
 た。
  城の落城が目前としても、二本松藩主・丹羽長国は、
 病を患いながらも城に留まろうとした。
  家臣は、無理に駕篭に乗せ、二本松の北15キロメート
 ルにある水原に退去し、後に米沢へ逃れた。
  新政府軍の板垣支隊は、激戦の末、二本松城に砲撃が
 届く大壇陣地へ進み、攻撃拠点を得た。これが落城につ
 ながった。
  二本松藩は、城に軍事総督の家老の富穀が残って、防
 戦に努めた。
  また、防戦に努めるため、老年の予備兵や、少年兵部
 隊も動員されていて、彼らは、後世、二本松少年隊と呼
 ばれた。
  しかし、可哀想な事に、彼らは火器をほとんど持たな
 かった。
  しかし、切り込みをしたり、よく防戦した。
  特に、木村銃太郎率いる20名は、攻城戦の最中にその
 ほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り
 継がれている。
  家老の富穀は、ここまでという時に、城に自ら火を放
 つと、家老以下7名は次々を自刃し、城と運命を共にした。
  しかし、まだ、城外には少年隊が居た。
  少年隊では、指揮する者が次々と相次いで戦死して行
 った。
  少年隊40名は、指揮をするものが居ない状態で、最前
 線に放置される事態に陥った。
  彼らは、戦場をさ迷った、その中で、一人一人と命を
 落して行った。
  その様な中、13歳の少年兵に遭遇した土佐藩兵が、そ
 の幼さに驚愕し、生け捕りにしようとした。
  しかし、この幼い兵は、戦う姿勢を崩さなかった。
  やむなく戦闘状態となり、この幼い兵も、命を落とす
 事となってしまった。
 (追伸:この少年兵を助けたいと思った優しい土佐藩兵
 が、この少年兵を討ったのでなく、この戦場に飛び交う
 弾にあたって少年兵は亡くなってしまった)
  後の貴族院議員で、第4司令官などを歴任した野津道
 貫(のずみちつら)は、「戊辰戦争中第一の激戦」と賞
 した。
1868年9月15日(7月29日)新政府軍が、越後を平定した。
1868年9月15日(7月29日)江戸を去る旗本家の家財処分
 が相つぎ・・云々。
  甲良家当主は、新政府裁判所に呼び出され「朝臣」で
 ある証書を提出した。
  氷川清話:徳川家臣10日限り東京を退かせる
1868年9月16日(8月1日)相馬藩家老・脇本喜兵衛の壮烈
 な最期。
1868年9月19日(8月4日)東京行幸(氷川清話)
  この日、東幸する旨が布告された。
  しかし、松平慶永、中山忠能(ただやす)、大原重徳
 らの保守派の慎重論者が、天皇陛下の健康が心配だなど
 と理由をつけて反対したために、なかなか東幸の期日が
 定まらなかった。
1868年9月26日(8月11日)大総督参謀・西郷隆盛が、官
 軍を率いて新潟に着す。
1868年9月26日(8月11日)秋田兵が、村上城を奪回した。
1868年9月、開成所学制を改定(氷川清話)
  明治初期の官立機関としての「開成学校」は、明治元
 年(1868年)9月から明治2年12月(1870年1月)まで
 の初期開成学校と、
  明治5年8月(1872年9月)から1877年(明治10年)
 4月までの後期開成学校に大別され、
  前者は、文久3年(1863年)に発足した旧幕府直轄の
 開成所が、
  慶応4年5月(1868年4月)の江戸開城により閉鎖され
 ていたものを明治新政府が接収して、同年・1868年9月
 に「開成学校」として復興した。
  後者は、大学南校が、第一大学区第一番中学として改
 編されたものを、1873年(明治6年)4月に「(第一大学
 区)開成学校」と改称し、
  その後さらに、東京開成学校と改称した。
  また、開成学校・大学南校、および、東京開成学校の
 関係者の多くが、1873年発足の明六社に参加した。
  そして、1877年、東京医学校と統合されて(旧)東京
 大学が発足し、
  同大学の法文理三学部の母体となった。
  このため、現在の東京大学の直接の前身機関の一つと
 見なされている。
  氷川清話:国事多端につき開成所を閉校す。
1868年9月29日(8月14日)東京遷都について・・、
  遷都について、政府内では、大きな認識の変化が起き
 ていた。
  三条実美が、岩倉具視に送った、この日の日付の手紙
 で、「永世の基礎、神州の根拠は、必ずこの地理(東京)
 然るべきと存じ候間、政府は、当地に御移し、東西賓主
 の位を転ぜられ候方、御長策とじ候」とある。
  ここで三条は、政府を東京に移し、来春の再幸の節に
 は、東京を京都の上に置くべきと、東京遷都を主張した。
1868年9月29日(8月14日)終日雨。奥へ向ひし官軍の手
 負千住を通りし、云々(幕臣の日記)
1868年10月1日(8月16日)河井継之助が、戦死した。
1868年10月2日(8月17日)東京府庁が開設された(初代
 府知事に烏丸光徳任命)
1868年10月4日(8月19日)榎本武揚らの幕府の残党が、
 軍艦八隻を率いて、密かに品川湾を脱出し、函館へ向っ
 た。
  1869年1月27日(12月15日)榎本武揚らが、蝦夷地を
 平定。五稜郭を本営とする
  1869年5月18日、五稜郭が開城、榎本武揚らが降伏。
 戊辰戦争が終わる。
  氷川清話:東京旧幕府海軍副総裁榎本武揚が、艦船8隻
 を率い、品川より奥州へ向けて脱走出帆する。
1868年10月5日(8月20日)諸道の官軍が、会津進撃を開
 始する。
1868年10月6日(8月21日)南部兵の進撃に、秋田兵が大
 館に退いた。
1868年10月6日(8月21日)新政府軍が、会津領内に侵攻
 した。
1868年10月8日(8月23日)会津戦争、若松城下への侵攻
  白虎隊が全滅した。
  二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関
 して意見が分かれた。
  大村益次郎は、仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助
 と伊地知正治は、会津藩への攻撃を主張した。
  板垣・伊地知の意見が通り、会津藩を攻撃することと
 なった。
  二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられた
 が、
  新政府軍は、脇街道で手薄な母成峠を衝いた。
  慶応4年8月21日(1868年10月6日)に、新政府軍は、
 母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して
 同年8月23日(1868年10月8日)朝に、若松城下に突入
 した。
  新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送
 っていた会津藩は、虚を衝かれ、予備兵力であった白虎
 隊までも投入するが、あえなく敗れた。
  この時、西郷頼母邸では、篭城戦の足手まといとなる
 のを苦にした母や妻子、そして、一族21人が自刃した。
  また、城下町で発生した火災を、若松城の落城と誤認
 した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が、飯盛山で自刃す
 るなどの悲話が伝えられている。
  そして・・、
  鳥羽・伏見の戦いにより勃発した戊辰戦争で、会津藩
 等の奥羽越列藩同盟が、官軍と戦闘、白虎隊が実戦に参
 加。
  越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げた。
  飯盛山にいた白虎隊の2番士中隊員が、城下の町に火
 の手が上がったのを会津落が落城したものと思いこむ。
  20人の隊員のうち19人が自刃。
  会津藩は、軍を年齢により白虎、朱雀、青龍、玄武の
 4班に分け、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年
 で編成されて、白虎隊が実戦に参加。
  越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げた。
1868年10月10日(8月25日)会津攻城戦
  会津若松城攻防の激戦が、官軍と会津勢との間で行わ
 れた時、白河口の戦闘で、土佐藩士・板垣退助指揮の官
 軍が、会津の一帯のこもる雷神山に猛攻を加えた。
  会津は、官軍より武器も人数もはるかに劣っていた。
  雷神山の会津勢も、もはやこれまでと思った時、全軍
 の切込みが命じられた。
  真っ先に山を駆け下った老将と美少年。
  後年の森要蔵と14歳の少年であった。
  親子は、官軍の真っただ中に切り込むと、まるで舞踊
 のように美しい剣技を見せたという。
  父が危うくなると、少年が駆け寄り、少年が危うくな
 ると、父が救った。
  その姿に官軍の指揮官・板垣退助は、しばらく射撃を
 止めさせたぐらいだったという。
  やがて、子が倒れ、父がその上に折り重なって倒れた
 時、戦鼓が鳴りり、官軍が怒涛の様に屍(かばね)を越
 え、雷神山を占領した。
  この話は、この様子を遠望していた白虎隊生き残りの
 山川健次郎男爵が、明治後に語り伝え、語るたびに涙で
 声が詰まり、時には号泣したという(竜馬がゆく・1)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


(増補版)284E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年7月~1868年8月)

2016-01-27 01:50:50 | 日記
題:(増補版)284E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年7月~1868年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年7月4日(5月15日)上野にたてこもった彰義隊が、
新政府軍の攻撃で敗退した。
  戦火で、1,200戸が焼失(上野戦争)。
1868年7月4日(5月15日)新紙幣の太政官札(金札)が発行
 された。
  明治政府によって、慶応4年5月から明治2年5月まで、
 太政官札(だじょうかんさつ、不換の政府紙幣)5種(
 10両・5両・1両・1朱・1分)が発行された。
1868年7月5日(5月16日)中外新聞が、別段中外新聞を発行
 した。
  彰義隊攻撃の戦況を報道した。
  これは、新聞号外の初めとなっている。
  幕臣の柳河春三(やながわしゅんさん)は、1863年3月
 (慶応4年2月)に、この新聞を創刊した。
  そして、これが、日本最初の邦字新聞となった(日本
 人による本格的な新聞)。
  この頃としては珍しく全国に普及した。
  創刊後わずか1ヶ月で、部数が1500となった。
  外国新聞を翻訳して、外国事情を紹介しながら、国内
 の事を報じた。
  1868年7月27日(旧暦6月8日)45号で発禁になったが、
 1869年(明治2年)に再刊された。
1868年7月6日(5月17日)パリ万国博の将軍の名代が帰国し
 た。
  パリ万国博に将軍の名代として赴いた人たちが、4月に
 入ると、8日ブローニュの森、11日ヴェルサイユ、12日サ
 ンクルーの大演習・・と立て続けに外出した。
  ヴェルサイユでは、ルイ王朝の残影に、幕府の衰運を
 見る思いだっただろう。
  4月26日、栗木鋤雲(くりもとじょうん、幕臣、思想家、
 ジャーナリスト)は、渋沢栄一(しぶさわえいいち、幕
 臣、実業家など、後述参照)らに見送られてパリのリヨ
 ン駅を立ち、帰国の途に・・、
  翌日、マルセイユを発って航海へ、
  往路と同じ上海経由で、旧暦5月17日横浜着(フランス
 郵船ファーズ号の入港は、その前日・西暦7月5日だった)。
  2日前に、彰義隊は壊滅していた。
  そして、幕府・フランスの提携の盟友・小栗上野介(
 こうずけのすけ)は官軍に斬殺されていた。
  また、江戸城が明け渡されたのは、すでに2ヶ月前の事
 だった。
  渋沢栄一の事を以下に記す・・、
  渋沢氏は、幕臣であり、実業家であり、また、第一国
 立銀行や東京証券取引所など
  日本を形成する背骨を設立し、
  また、多種多様な企業の設立・経営に関わっており、
  日本の資本主義の父という人・・大偉人である。
  また、理化学研究所の創設者でもあり、教育者でもあ
 る。
  渋沢氏は・・1840年3月16日に、武蔵国榛沢郡血洗島村
 (現:埼玉県深谷市血洗島)に、農家の長男として生ま
 れた。
  北辰一刀流の千葉道場にも入門している。
  一橋慶喜にも仕えた。
  この幕臣時代、パリ万博へ行って、見て、そして、ヨ
 ーロッパ各地も見て・・大いにこれからの・・人生の糧
 を得た。
  またこの時、開成所奉行支配調役にも任命され、勤め
 た。
  帰国後、時代は変わっていた・・幕府は無くなってい
 た。
  渋沢氏は、慶喜のいる静岡へ向かった、そして、慶喜
 から、「これからお前の道を行くように」との言葉を与
 えられる。
  大隈重信の勧め・推薦から・・大蔵省に入省する。
  そして、明治維新は、明治政府に仕えることになった。
  ここで、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。
  日本赤十字社社の設立にも携わる。
  明治6年退官し、第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭
 取に就任、以後、実業界に身を置く。
  そして、七十七国立銀行など多くの地方銀行の設立を
 指導し、
  また、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、田園
 都市(現:東京急行電鉄)、秩父セメント、帝国ホテル、
 秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビー
 ル、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖
 などなどなど・・、
  多種多様の企業の設立に関わった。
  その数は・・500以上・・、
  そして、アメリカの卑劣な排日行動に心を痛め、日本
 を知ってもらうために通信社を立案した。
  これが、現在の時事通信社と共同通信社の起源となっ
 ている。
  渋沢栄一の偉い所は、考え方の基本に・・
  「私利を追わず、公益を図る」・・があった。
  この考え方を・・生涯に渡って貫き通した偉人だった。
  渋沢栄一の薫陶を受けた後継者も・・この考え方を持
 って身を処した・・自己を戒めた。
  渋沢栄一の良かったことは、当時の日本が、氏の公共
 への奉仕の姿を・・高く評価していた事だった。
  対印貿易の重要性をも認識もされていて、
  大島重信らと共に日印協会の設立にも携わった・・会
 長も務められた。
  また、一橋大学、日本経済大学、二松学舎大学、学校
 法人国士館などの前身の学校の設立にも携わった。
  また、勝海舟・伊藤博文らと共に、女子の教育の改善
 に尽くされた。
  その為の女子教育奨励会を設立した、そして、日本女
 子大学校、日本女学館などの設立にも携われた。
  当然、1926年と1927年に、ノーベル平和賞の候補にも
 なった。
  1890年に、貴族院議員に勅選(天皇陛下が自ら選ばれ
 ること)され、帝国議会貴族院本会議に出席したが、政
 治活動には深入りしなかった。
  大蔵大臣の入閣を求められたりしたが、辞退している。
  道徳教育には力を入れられた。
  幼少期に学んだ「論語」を大切にした。
  経済が発展して、利益が得れたならば、独占するので
 はなく、国全体を豊かにする。
  そのために、富は、全体で共有するもの、社会へ還元
 すべきもの・・と説いておられた。
  欺瞞の中の、不道徳な商行為を、強く戒められた。
  まだまだ、多くの書かねばらないことが多い、大偉人
 で、
  日本は、この様な大偉人を擁(よう)している。
  この事を、誇りに思わなければならない。
1868年7月7日(5月18日)戦火はおさまったが、「勝安房方
 大砲打込み近所大久保一翁へも同様の沙汰あり」。
  勝海舟日記には記述がないが、発砲があったとすれば
 官軍の嫌がらせか。
  被害はなかったということだろう(幕臣の日記)
1868年7月7日(5月18日)福地源一郎が、江湖新聞に載せた
 「強弱論」で、新政府軍に逮捕され、同紙は発行禁止と
 なる(薩長討幕軍を非難し逮捕された)。
  福地源一郎は、幕府外国方通訳として渡欧して後に、
 この新聞を発刊している。
1868年7月8日(5月19日)仮に江戸に鎮台を置く(寺社、勘
 定、町の三奉行を廃し、南北市政、社寺、民法の三裁判
 所を置いた)
1868年7月8日(5月19日)越後・長岡城陥る(北越戦争)。
1868年7月10日(5月21日)鍋島藩兵多数が、奥羽へ向けて
 行き、当宿(千住)にて昼休みをとった(幕臣の日記)
  鍋島藩は、肥前佐賀郡にあり、佐賀藩ともいう。
  佐賀藩は、アームストロング砲を自力で造ったという
 近代工業化された藩だった。
  また、新政府軍として北陸道の先鋒に任命されている。
  また、江戸において上野戦争なども戦い、新政府への
 貢献度は高かった。
  その結果、明治政府には、多数の人物が登用された。
  人物としては、大隈重信、江藤新平、副島種臣、大木
 喬任、佐野常民、田中久重など、
1868年7月13日(5月24日)徳川家達を、駿府70万石に封ず。
  (5月26日説あり)
  徳川氏が、江戸から駿府70万石に移されることが決ま
 った。
  「晴。駿河国府中城の仰せられて7拾万石駿河国」と
 徳川家への処遇。(幕臣の日記)
1868年7月16日(5月27日)広瀬武夫(ひろせたけお)が誕
 生した。
  1904年の日露戦争の初期に、旅順港閉塞作戦を行うこ
 とになり,自沈船『福井丸』の指揮官として砲火をおか
 して目的位置に達した。
1868年7月18日(5月29日)官軍大挙して、白河城を総攻撃
 した。
1868年7月19日(5月30日)新撰組の幹部、沖田総司が死す。
1868年7月20日(6月1日)6月になると江戸も表向きは平穏
 を取り戻す。
  日記の元幕臣の筆者も無禄となったよるべなさをその
 ばせる記述をしている。
1868年7月21日(6月2日)江戸城内で戦没者慰霊祭が行われ
 た(現在の招魂祭)
18687年7月31日(6月12日)奥羽連合軍が、白河城の再攻撃
 した。
1868年8月5日(6月17日)横浜裁判所を改めて神奈川府と称
 し、東久世通禧を初代知事に任命した。
1868年8月7日(6月19日)江戸の地名改称の議が起る。
  政府は、この日・8月7日に、参与・木戸孝允と大木に
 江戸が帝都として適しているかの調査にあたらせた。
  2人は、有栖川宮・三条・大久保・江藤らと協議の上、
 同年8月22日(7月7日)に、京都へ戻り、奠都が可能であ
 ることを報告した。
  遷都すべき必要性・・、
  京都は、すこぶるやりにくいやっかいな土地柄であっ
 た。
  ここ東京に、新天地を求める理由があった。
  だが、遷都は、そんなに容易には実現しない。
  公卿では久我(こが)建通が、諸侯では松平慶永と山
 内容堂が強く反対した。
  久我は、薩摩の陰謀であると言い、慶永と容堂は、い
 ま急ぐべき事では無いというものであった。
  急ぐべきかどうかは別として、久我も容堂も慶永も、
 大久保の改革の意図を理解しえなかった事は事実である。
  朝議は、大阪遷都を否決した。
  しかし、代わりに大阪親政行幸が実現する。
  大阪行幸は、明治1年3月21日に京都を出発し、閏4月8
 日に還幸(かんこう、天皇陛下が出先から帰ること)し
 た。
  この時の、大阪行幸は、約1ヶ月半滞在して、閏4月8日
 に還幸して、この間、太政官代(臨時の太政官)も大阪
 に移していたので、たんなる天皇陛下の行幸・旅行の類
 ではなかった。
1868年8月14日(6月26日)木戸孝允が、大木喬任と共に、
 三条実美に会し、車駕東幸並びに諸要件を議決する。
1868年8月15日(6月27日)大久保利通、木戸孝允、大村益
 次郎、江藤新平宅に会し、近く京都より江戸城へ鳳輦を
 迎え奉ると祝杯を挙げる。
  ここで、勝海舟の感慨(かんがい、心に深く感じて、
 しみじみとした気持ちになること)深げに言った言葉・・、
  冷静に日本を作ったのは勝と大久保と言える。
  誕生したばかりの日本を、大久保は一人、渾身(こん
 しん、からだ全体)の力を込めて作ったと言ってよい。
  勝は、晩年、次のように言った、「忠義という士とい
 うものがあって、国を潰すのだ。己のような。大不忠、
 大不義の者がなければならぬ」・・と。
  また、参考として・・、
  国を作った長州藩の軍事費は・・、
  幕府との対決に使った長州藩の軍事費(撫育金と呼ん
 だ)明治1年の残高は100万両を越えた。
  関ケ原の役の頃はどん底であった・・が、
1868年8月17日(6月29日)昌平黌を復興し、昌平学校と改
 称した。
1868年8月(6月末)6月下旬には、三条実美、岩倉具視、木
 戸孝允、大久保利通ら政府要人の間で、江戸を東京とし、
 天皇陛下が東京に行幸する事が合意事項となった。
1868年8月(6月)、貨幣司・・、
  貨幣司が設置され、太政官札が発行された。
  慶応4年(1868年)、明治政府は、旧幕府の時代の金座、
 銀座を接収し、
  6月より貨幣司を設けて、貨幣の鋳造を引き継いだ。
  この貨幣司は、翌年の明治2年(1869年)に廃止されて、
 2月5日に、太政官に造幣局が置かれた。
  大阪の天満に設置された造幣局は、その後、すぐに、
 大蔵省所属となり、
  明治3年11月より、貨幣の製造を開始した。
  イギリスより輸入した造幣機を使っての貨幣の製造で
 あった。
  明治4年4月4日に創業式が挙行され、6月27日には、新
 貨条例、及び、造幣規則布告が発布されて、我が国の近
 代的な貨幣制度がスタートした。
1868年8月(7月)慶喜、駿府に転住す
  勝海舟、前将軍、水戸より駿府へ引き移りが済んだに
 付いて格別の厚旨を以て金百両を恵与せられる(氷川清
 話)
1868年8月23日、会津戦争、白虎隊が飯盛山へと落ち延びた。
  白虎隊(びゃっこたい)は、会津戦争に際して、会津
 藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成
 された部隊で、
  中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もい
 たほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
  幕末の会津藩が組織した部隊には、他に玄武隊、朱雀
 隊、青龍隊、幼少隊などがあった。
  残念ながら、この少年たちが持っていた武器は、新政
 府軍より劣っていた(ヤーゲル銃、ゲーベル銃の短銃身
 化)。
  会津藩は、若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松に至
 る街道口には主力部隊を展開させて、防備に努めた。
  しかし、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対して、劣勢
 は否めなかった。
  本来は、城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊
 だったが、これを支援する形で、前線へと進軍した。
  若年兵の投入も、焼け石に水なのは誰もが承知のこと
 だったが、合津の方々は、老若男女のすべてが、玉砕を
 覚悟の上で臨む戦局にあった。
  白虎隊は、各防衛拠点へと進んで行き、投入された。
  しかし、会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各
 所で苦戦を強いられた。
  最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくさ
 れた、
  このうち一番隊は、藩主・松平容保公の護衛の任にあ
 たったが、
  二番隊は、戸ノ口原で決定的打撃を受けて潰走した。
  8月23日には、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落
 ち延びた。
  そして、地域の農家の方々に草鞋を貰い受けたりして、
 助けられながらも来た飯盛山だった、
  ここから眺めた戦闘による市中火災の模様。
  そして、落城などを感じ、これまでと結果総勢20名が
 自刃を決行した。
  唯一、喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが
 一命を取り留めた。
  若松城の落城の原因説について、
  飯沼が、生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』に
 よると、
  当時、隊員らは、鶴ヶ城(地元の呼び名)に戻って敵
 と戦うことを望む者と、
  敵陣に斬り込んで、玉砕を望む者の二論があった。
  激論を交わして、いずれにせよ負け戦覚悟で行動した
 ところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった
 隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、
 武士の本分を明らかにするために、飯盛山で自刃を決行
 したという。
  また、途中から別行動となった庄田保鉄らは、その後、
 鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に、白虎士中
 合同隊となって西本丸を守った。
  籠城戦は、1か月続いたが、奮闘むなしく、最終的に
 会津藩は降伏となった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)283E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月~1868年7月)

2016-01-26 02:31:55 | 日記
題:(増補版)283E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年5月~1868年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年5月(閏4月)一橋・田安両家を藩に列す(氷川清話)
  江戸時代の徳川氏の一族の内、田安家と一橋家は御三
 卿だった。
  (あと、清水家がある)。
  清水家の最後の当主となったのは、将軍・徳川慶喜の
 弟の徳川昭武(とくがわあきたけ)だった。
  しかし、昭武は、パリ万博から帰国後、水戸家の家督
 を継いだ。
  そのため、清水家は、当主不在となった。
  この時に、この事もあって清水藩は立藩していない。
  しかし、1870年2月に、昭武の甥・徳川篤守(とくがわ
 あつもり)が、新たに清水家の第7代当主となって、
  家禄2500石を賜り、華族に列した。
1868年5月(閏4月)徳川家臣の官位を止む(氷川清話)
  徳川家臣の官位剥奪・・、
1868年5月(閏4月)還幸(氷川清話)
1868年5月(閏4月)徳川家裁許五箇条の勅(氷川清話)
1868年5月(5月末)勝海舟、狙撃される
  慶応4年4月の末(1868年5月)に、官兵3、4人が小銃
 を持って俺を狙撃した。
  しかし、幸いに体には当たらないで、頭の上を通り過
 ぎたけれど、その響きに馬が驚き・・云々
1868年6月10日~8月31日(閏4月20日~7月14日)白川口の
 戦い
  戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた戦い。
  仙台藩・米沢藩などを主力とした列藩同盟軍は、会津
 藩・庄内藩と提携した。
  そして、新政府と敵対する軍事同盟成立に際し、政府
 軍側の白河城を攻撃し、新政府軍から白河城を奪い取っ
 た。
  しかし、この城は取り返される。
  新政府軍は、約700名程度でもって、列藩同盟側約2500
 名の駐屯していた白河城を奪還した。
  同盟軍は、白河を経由して、関東への進軍を意図して
 いて、再度の奪還を期し、約4500名まで増援を行い7回に
 わたって攻撃をした。
  しかし、新政府軍は、劣勢な兵数で白河城を守りきっ
 た。
  以上の、最初の戦いである旧暦・閏4月20日の白河への
 攻撃の開始で、会津戦争が始まった。
  白河藩は、当時、国替えにより藩主不在となり、幕府
 直轄領であった。
  旧幕府軍は、会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶
 応4年閏4月20日 (1868年6月10日)に、白河城を占領し
 た。
  これに対し、新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の
 指揮のもと、閏4月25日 (旧暦)(6月15日)に、白河への
 攻撃を開始し、
  旧暦5月1日(6月20日)に、白河城を落城させた。
  旧幕府軍は、7月までの約3か月間、白河奪回を試みて
 戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。
  この白川口の戦闘で美しい話が残っている。
  土佐藩士・板垣退助が指揮する官軍が、会津の一隊が
 拠る雷神山に猛攻を加えた。
  会津は、官軍より武器も人数もはるかに劣っていた。
  雷神山の会津勢も、もはやこれまでと思ったとき、「
 全軍、切り込み」が命じられた。
  その時、真っ先に山を掛け下った老将と少年があった。
  後年の森要蔵とその息子だった。
  親子は、官軍の真っただ中に切り込むと、まるで舞踊
 の様に美しい剣技を見せた。
  そして、父が危うくなると、少年が駆け寄り、少年が
 危うくなると、父が救った。
  その姿に、官軍の指揮官の板垣退助が、しばらく射撃
 を止めさせたぐらいだった。
  やがて、子が倒れ、父がその上に折り重なって倒れた。
  そして、戦鼓(戦場で、合図などの用いる太鼓)が鳴
 った。
  その合図で、官軍は、怒涛の様に押し寄せ、その二人
 を越えて行った。
  雷神山は占領された。
  この話は、この二人を遠望していた、この様子を見て
 いた白虎隊、生き残りの山川健次郎男爵が、明治の時代
 に入って披露し、語り伝えられている。
  氏は、語るたびに涙で声が詰まり、時には号泣したと
 いう。
  因みに、森要蔵(もりようぞう)は、熊本藩士・森喜
 右衛門の六男で、
  熊本藩江戸屋敷に生まれ、北辰一刀流開祖・千葉周作
 の道場・玄武館に入門し、「玄武館四天王」と言われた。
  江戸・麻生に道場を開き、多くの門弟を抱え、名声を
 轟かせた。
  要蔵の稽古は厳しく、指導する姿は、「雷をまとった
 龍の如し」と言われた。
  上総飯野藩に登用された時、「過ぎたるもの」とまで
 言われた。
  その縁戚で、会津藩に戊辰戦争の時に味方した。
  この時、次男の虎雄、高弟の勝俣乙吉郎と共に、会津
 で戦った。
  「官軍と激突、奮戦したが、銃撃を浴び共に戦死」と
 説明され、享年59歳、虎雄は16歳であった。
  官軍は、「祖父と孫だ」と思っていたという。
  二人は共に大龍寺に葬られている。
1868年6月18日(閏4月28日)勝海舟、西郷参謀に一書をよ
 せ時事五カ条を陳述す(氷川清話)
1868年6月19日(閏4月29日)70万石が徳川家へ
  徳川家相続を田安亀之助(たやすかめのすけ、徳川家
 達)に仰せつけられる(氷川清話)
  1868年、徳川慶喜の跡をついで徳川宗家16代となり、
 駿河府中藩主、70万石となった。
1868年6月19日、長崎造船局
  明治政府に収められ、長崎府判事の総轄のもと、経営
 官営長崎製鉄所となり、工部省所管長崎造船局と改称さ
 れた。
1868年6月20日(5月1日)江戸の警察権
  江戸市中の警察権が、官軍に収められた。
  旧暦5月に入ると、江戸市中は物上騒然となった。
  大村益次郎(おおむらますじろう)が、戊辰戦争で彰
 義隊攻撃の指揮者を務めた。
  大村益次郎は、江戸に入って、大久保一翁、勝安房ら
 に、彰義隊の江戸市中取締り役を解くように命じた。
  これで、彰義隊の存在の大義名分はほとんどなくなっ
 た。
1868年6月21日(5月2日)大阪府庁が設置された(醍醐忠順
 を知事に任命)
1868年6月21日(5月2日)北越戦争(ほくえつせんそう)
  新政府が、長岡藩(現:新潟県長岡市)の中立要請を
 拒否した。
  北越戦争が始まる。
  鳥羽・伏見の戦いの後、官軍は、東海道・東山道・北
 陸道に分かれ進軍した。
  一方、長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持してい
 た。
  そして、長岡藩主・牧野忠訓や、家老上席の軍事総督・
 河井継之助は、イギリス人の武器商人のウォーター、フ
 ァブルブラント商会、スネル兄弟などから
  アームストロング砲やガトリング砲など、また、イギ
 リス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃など、
  しっかりと、最新兵器を購入していた。
  万全の武器を備えていた。
  因みに、この当時、ガトリング砲は、日本に3つしかな
 という最新の兵器だった。
  また一方、 会津藩は、使者を長岡藩へ送り、奥羽列藩
 同盟への参加を申し入れていた、しかし、長岡藩は、同
 盟への参加を拒んでいた。
  この様な状況の中で、北陸道を進んできた新政府軍と、
 この日・6月21日、小千谷会談と言われる会談が持たれた。
  長岡藩は、「長岡への侵攻の中止」と、「長岡の独立
 特行」を要望した。
  しかし、新政府側は、長岡藩の嘆願を一蹴し、談判は
 決裂した。
  長岡藩は、2日後の6月23日(5月4日)に、奥羽列藩同
 盟に参加した。
  新発田藩など、他の越後5藩も、これに続いて同盟に加
 わった。
  そして、戦端は開かれた。
  新潟港が重要拠点であった。
  また、新政府軍が占領していた榎峠が戦場となった。
  そして、榎峠を奪われた新政府軍は、榎峠を奪還する
 ため、朝日山へと兵を進めた。
  この様な戦いが繰り広げられて行った。
  戦いは膠着状態に入った。
  最新兵器で武備しただけあって、長岡藩は手ごわかっ
 た。
  寺泊沖海戦も行なわれた。
  7月24日(9月10日)には、同盟軍は、長岡城を奪還し、
 新政府軍は敗走した。
  一度、落城した城が奪還されるのは異例な事だった。
  新政府軍の指揮が混乱し、迷走するほど、長岡藩は、
 打撃を与えていた。
  新政府軍は、山田顕義(やまだあきよし、伊藤内閣の
 司法相など歴任)を指揮官とする長州藩・広島藩・柳河
 藩・筑前藩・加賀藩などの軍艦で構成される艦隊を投じ
 た。
  7月25日(9月11日)上陸作戦を敢行した。
  また、黒田清隆(くろだきよたか、枢密院議長)を指
 揮官とする部隊も上陸作戦をし、
  7月29日(9月15日)には新潟港を制圧した。
  新政府軍は、長岡城へ再攻勢をして、この日・7月29日
 に再占領した。
  この経緯の中で、同盟軍だった新發田藩は寝返ってい
 た。
  同盟軍は、会津藩領へと撤退した。
  新政府軍は、出羽国(米沢藩領)まで追撃した。
  旧暦8月中旬(1868年6月末)には、越後全域が、新政
 府軍の軍門に降った(ぐんもんにくだる、戦争に負け、
 降参する)。
  さすが、長岡藩の最新兵器であった。
  この戦いは、戊辰戦争の最大の激戦の内の一つとなっ
 ている。
1868年6月25日(5月6日)奥羽越列藩同盟の報が入る
  旧暦5月6日、奥羽17藩の重臣らが白石で会合、いわゆ
 る「奥羽越列藩同盟」を結んだとの報が入る。
  こんな東北の入り口、上野の山で手こずるわけには行
 かぬ、一挙に討伐しようという事になった。
  白昼堂々と、限定戦を挑む、大村益次郎はそう決めた。
  輪王寺宮に退去を懇願し、
  また、付近の住民にも避難の勧告を出した。
1868年6月26日(5月7日)勝海舟、幹事役を申付られる。
  彰義隊の軽挙甚だし、書を法親王に棒呈す(氷川清話)
1868年7月3日(5月14日)戦端を開く前日の5月14日、大村
 は、上野包囲の作戦を立てる。
  勿論、上野にも、15日の総攻撃の報は伝わっていた。
1868年7月4日(5月15日)彰義隊討伐戦が始まる
  大総督府が、諸軍に令して、彰義隊を上野に討つ 。
  海舟は・・
  ちょうど彰義隊の戦争の日だったが、官軍200人ばかり
 で、俺の家を取り囲んで、武器など一切を奪い去ってし
 まった。
  しかし、この時、俺が幸い、他行(たぎょう)してい
 たために、殺される事だけは、まず逃れた(氷川清話)
  大村益次郎を指揮官とする上野の彰義隊討伐戦が開始
 された。
  徳川幕府の庇護の下で造られ、荘厳な伽藍を持つ寛永
 寺の大半は焼失してしまった。
  アームストロング砲の威力があった。  
  勝海舟、官兵、元氷川の家に乱入、刀、槍、雑具を掠
 め去る。不在の為、幸いにも難を免れる(氷川清話)
1868年7月4日(5月15日)雨、夜中も大砲の声聞ゆ
  今朝大小砲聞ゆ。上野にて戦争始まりしと云。
  小塚原に詰居し土佐の人数は大橋の板2・3枚はなし
 大小砲空発す。
  奥羽兵固のよし上野にて始まりしに(奥羽戦に行かせ
 る兵であったが上野戦のため引き戻された)付き其方へ
 引き上げる。
  上野へは会津と仙台の兵昨夕谷中の方より入りし沙汰
 あり。
  夕7時過ぎにも大砲聞こえ坂本の方へ火勢盛りに焼る。
  千住の方風下なり。
  8時頃甲良石丸家内子供(甲良一族と同じ身内の石丸
 家の者たち)残らず来る。(幕臣の日記)
  「千住大橋東橋両国橋皆」いっさい船が通れなくなっ
 た(幕臣の日記)
1868年7月4日(5月15日)上野戦争。彰義隊、奮戦す・・、
  朝四ツ半、18番隊、西村賢八郎が山の東側、風坂の近
 くに行くと、隊士・高山林之助が官軍に囲まれていた。
  西村は二名を殺して帰山した。
  伝令役は「砲撃が起こったら速やかに信号の御旗を揚
 ぐべし」と伝えた。
  各屯所では大杯に決死の酒を汲む者もあった。
  朝六ツ半、天野八郎は、同僚二人を連れ、広小路から
 根岸方面を見回ると、本郷とおぼしき方角から砲声が聞
 こえ、急いで山に戻る。
  谷中から池之端に出ると穴稲荷門では神木隊が二百匁
 の戦砲と小銃を持って戦っていた。
  旧暦5月15日、雨は津々と降っている。
  丸毛がズボンに長靴のいでたちで馬で谷中門(上野の
 山は全てで八門あった)へ回ると、5番隊、他の各隊が
 奮戦していた。
  三崎坂の寺々の陰に彰義隊が隠れて官軍を撃ち、谷中
 口は午前中敵を寄せ付けなかった。
  天野八郎は山内に入ると、池田大隅守に神祖の御影を
 記し輪王寺宮へ向かわせ、自ら8番隊を引率して黒門口
 へ向かう。
  何といっても山の入口・黒門が大手、最激戦地である。
  長州出身の大村は、薩摩兵をここへ向け、援軍を乞う
 ても聞かない。
  「貴公は薩人をすべて死なすおつもりか」と詰め寄る
 と、大村は「もとよりそのつもりだ」と応じ、薩摩軍は
 むしろ奮起したという。
  彰義隊側で黒門の指揮をとったのは酒井宰輔、山王台
 では大砲の使い手・近藤武雄がこれを援護する。
  官軍は、松坂屋前に陣を敷き、山入口の西側、料亭・
 松源、雁鍋の二階より大砲を撃った。
  不忍池に面した穴稲荷門では神木隊と浩気隊が奮戦。
  本郷高台に陣取った備前、柳川、佐土原、尾州の軍は、
 池を隔てて大砲を繰り出す。
  一方、池には橋もないので、官軍は小舟をしたて池を
 渡り、穴稲荷門から侵入をはじめる。
  山の東側の下寺は、遊撃などの諸隊が分屯して門を守
 った。
  官軍は、黒門口より右手に回ってこれら下寺(したて
 ら)方面も攻めたが、彰義隊はこれをよく撃退する。
  こうして午前中、彰義隊は善戦したが、昼過ぎ、官軍
 は援軍を差し向け巻き返しをはかる。
  昼どき、いったん本営に帰った天野八郎は、また、山
 王台に引き返し、清水堂脇で純忠隊に会い、「黒門口が
 危ない、いざ」と走り出したが、誰も着いてこなかった
 という。
  この時点で、かなり士気が落ちていた。
  そのうち「黒門が破れたぞ」との声も上がり、山内は
 どよめきたつ。
  隊長らは「ひるむな」と叱咤するが酒井宰輔は戦死、
 近藤武雄や大谷内龍五郎ら奮戦の勇士は多く手傷を負う。
  撤退する彰義隊を官軍は追い、山内に突入して根本中
 堂まで迫った。
  この時、行く手に東照宮の神旗をもって立ちはだかっ
 たのは大監察も勤めた幕臣・大久保紀伊守、その姿に励
 まされ、中堂前で最後の死闘が行われたが、砲弾は紀伊
 守の額に命中した。
  彰義隊は四散し、敗走する。
  本郷台のアームストロング砲は吉祥閣に命中し燃え上
 がる。
  火は次々と諸堂に移り、頭並伴門五郎は火中に身を投
 じた。
  吉祥閣に火の手が上がったのを双眼鏡で見て「これで
 勝ったな」と大村益次郎はつぶやいたという。
  死者の数はまちまちである。
  官軍側の死体は、すみやかに片付けられた。
  その数40という。
  一方、彰義隊士の死体は放置された。
  夕刻、雨の中に焼けた諸堂がくすぶるばかりで人影は
 ない。
  ただ点々と死体が転がっていた。
  大村益次郎は、退却路に根岸芋坂辺をわざと開けてお
 いたという説がある。
  たしかに芋坂を降りた根岸、金杉、尾久、三河島辺り
 は、旧寛永寺領であったこともあり、彰義隊をかくまっ
 た町人の話は多く伝わっている。
  官軍は、谷中あたりの家はしらみつぶしに調べた。
  官軍に捕まる者も多く、うまく逃げおおせた隊士は、
 奥羽に転戦し、春日左衛門をはじめ罪を許されると、慶
 喜のいる静岡に向かった。
  明治政府は、彰義隊についての報道を規制し、明治30
 年代に至って規制も緩み、膨大な「彰義隊戦史」が書か
 れたりした。
  上野から逃げた彰義隊は、谷中、根津、日暮里と広範
 囲で戦ってもいた。
  彰義隊士は言う、「我々は逆臣にあらず、主家に対し
 て義を尽くせるのみ」と。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive