題:(増補版)286E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年10月~1868年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年10月12日(8月27日)明治天皇陛下、御即位(氷川
清話)
明治天皇陛下(17歳)が、紫辰殿において即位の大礼
を行われた。
これは、政情の激しい移り変わりによって遅れていた
即位の礼だった。
1868年10月14日(8月29日)大阪造幣局に貨幣鋳造機舶来。
明治新政府は、1868年5月16日(慶応4年4月24日)に、
旧金座および銀座を接収し、
6月11日(閏4月21日)に、貨幣司を設けて、二分判お
よび一分銀などの鋳造を引き継いだ。
そして、1869年3月17日(明治2年2月5日)に、貨幣司
が廃止されて、太政官に造幣局が設置され、
8月15日(明治2年7月8日)に、造幣局は造幣寮へ改称
されて大蔵省所属となった。
また、1868年(慶応4年)に、参与会計事務官・三岡八
郎、外国事務局判事・五代才助らが、同年に廃止された
イギリス帝国・香港造幣局の造幣機械を6万両で購入する
契約を結び、
11月1日(明治元年9月17日)に、英国建築技師・トー
マス・ウォートルスが、雇用され局舎設計、および、機
器購入などを担当している。
1870年3月3日(明治3年2月2日)に、旧香港造幣局長・
キンドルが、造幣寮首長に任命されている。
大阪本局は、1871年1月17日(明治3年11月27日)に、
銀貨製造を開始し、
4月4日(明治4年2月15日)に、大蔵省造幣寮として創
業式を挙行した。
また、6月27日(明治4年5月10日)に、新貨条例および
造幣規則布告がされて近代的貨幣制度が開始された。
1868年、財政困窮の新政府・・、
勝海舟が語る・・、
ちょうど維新の始めであったが、万事改革の際とて、
財政のごときも非常に困難を極めた。
中にも一番その処置に憂慮したのは、かの旧諸大名が
藩政の弥縫策(びぼうさく)として贋銀(にせがね)を
発行したのが、海外にも流れ出ておったものだから、こ
の際、横浜居留の外国人は、おのおの公使によって、公
然と引き換えを我が当局者に迫ったことだ。
さすが英断明識の大久保利通内務卿も、その引き換え
金額の多寡が分からないのみならず、当時、国庫の準備
金も僅少であったから、これには少々当惑して、ついに一
伊地知幸介を立会人として、俺の所へ相談に来た。
その時、俺は、一棒に擬して「みな引き替えろ」と一
喝した。
ところがさすがは大久保だ。
大いに悟る所があったと見えて。
断然、引き換えを決行の旨を各国公使に通知したが、
その額は案外に少なく、わずかに数十万円に過ぎなかっ
たそうだ。
ひっきょう、俺は、いかに諸大名が贋銀をしても、た
いてい高が知れていると考えたから、「みな引き替えろ」
と言ったのさ。
なあに、塾考の上で決行すれば、やれない事は天下に
ないのさ(氷川清話)
1868年10月(9月)勝海舟、家族駿府に移住(氷川清話)
1868年10月21日(9月6日)官軍が、南部兵を破り、大館城
を復す。
1868年10月23日(明治元年9月8日)明治と改元し、一世一
元の制を定めた。
同年1月1日に遡って、新元号・明治を適用。
明治と改元。自今一世一元の詔出る(氷川清話)
慶応4年から明治元年になる(氷川清話)
日本は、明治という時代になって、これから2000年に
向かって人口を増やして行く国になる。
そして、2000年を過ぎた頃、ピークを迎えた。
日本は、この明治以来、人口を何と3倍に増やして来
ていた。
1868年10月23日(9月8日)大鳥圭介が、会津より函館へ去
った。
1868年10月24日(9月9日)兵火のため、会津城下が、焦土
と化した。
1868年10月25日(9月10日)岩代の二本松藩主丹羽長国、羽
前の天童藩主・織田信敏、共に官軍に降る
1868年10月27日(9月12日)官軍、庄内を破り水澤を略す。
1868年10月27日(9月12日)驛逓司、郵便規則布告。
1868年10月28日(9月13日)大久保利通、京都において岩倉
具視、木戸孝允と会し、車駕発輦を議す。
1868年10月31日(9月16日)榎本武揚らが、開陽丸など旧
幕府の艦隊主力を率いて品川沖を脱走した(10月4日説
あり)。
ジュール・ブリュネらのフランス軍事顧問団の一部も、
これに同行した。
約、半年前の1868年5月3日(4月11日)、新政府軍は、
江戸開城に伴い、降伏条件の一つである旧幕府艦隊の引
渡を要求した。
しかし、榎本は拒否した。
そして、榎本は、人見勝太郎や伊庭八郎が率いる遊撃
隊を乗せ、悪天候を口実にして、艦隊8隻で、品川沖から
安房国館山に脱走をした。
これは、勝海舟の説得によって、旧暦4月17日に、品
川沖へ戻り、4隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)
を新政府軍に引渡した。
しかし、開陽丸等の主力艦の温存に成功した。
榎本は、なおも抵抗姿勢を示して、6月13日(閏4月23
日)には、勝に艦隊の箱館行きを相談するが、反対され
る。
1868年7月13日(5月24日)に、徳川宗家の駿河・遠江
70万石への減封が決定。
榎本は、移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦
で、遊撃隊や請西藩主・林忠崇に協力して、館山藩の陣
屋を砲撃した上、小田原方面へ向かう彼らを館山から真
鶴へ輸送したほか、
輪王寺宮や脱走兵を東北地方へ運ぶなど、旧幕府側勢
力を支援した。
8月(旧暦7月)には、奥羽越列藩同盟の密使(仙台藩・
横尾東作、会津藩・雑賀孫六郎、米沢藩・佐藤市之允)
と会い、
1868年9月7日(7月21日)、列藩同盟の参謀を務めてい
た板倉勝静・小笠原長行宛に支援に向かう旨の書状を出
した。
9月(旧暦8月)に入ると、密かに脱走準備を進め、
1868年9月19日(8月4日)、勝に軽挙妄動を慎むよう申
しわたされるが、
1868年9月30日(8月15日)に、徳川家達が駿府に移り
移封が完了すると、
1868年10月4日(8月19日)、榎本は、抗戦派の旧幕臣
とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、
美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率
いて江戸を脱出し、
奥羽越列藩同盟の支援に向かった。
この艦隊には、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松
平太郎、彰義隊や遊撃隊の生き残り、
そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・
ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が
乗船していた。
江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告
文」という趣意書を勝海舟に託している。
『檄文
王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。
然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は
然らず。
王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名
を以てす。
其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を
領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は
頓に官有と為し、
遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。
又甚しからずや。
これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。
我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して
情実通ぜず。
故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんと
す。
それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一
洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行
せしめん事、唯此一挙に在り。
之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。
廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心
に志ある者は、此言を聞け。』
房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、
咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、
8月下旬頃から順次仙台に到着した。
1868年10月17日(9月2日)、榎本、ブリュネ、カズヌ
ーブは仙台城で伊達慶邦に謁見する。
翌日以降、仙台藩の軍議に参加するが、
その頃には、奥羽越列藩同盟は崩壊しており、
1868年10月27日(9月12日)に仙台藩も降伏を決定した。
これを知った榎本と土方歳三は登城し、執政・大條孫
三郎と遠藤文七郎に面会し、
翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた。
旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、
鳳凰丸を艦隊に加え、
桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣
の伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊など、計約
3,000名を収容。
新政府軍の仙台入城を受けて、1868年11月22日(10月
9日)に、仙台を出航し石巻へ移動した。
この時、新政府軍・平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣
の救済と、ロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓する
という内容の嘆願書を提出している。
1868年11月24日(10月11日)には、横浜在住のアメリ
カ人でハワイ王国総領事であったユージン・ヴァン・リ
ードから、ハワイへの亡命を勧められるが断っている。
その後、幕府が、仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪わ
れ海賊行為を行っていた千秋丸を気仙沼で拿捕し、宮古
湾で補給の後、蝦夷地へ向かった。
1868年11月1日(9月17日)江戸を東京とした。
1868年11月4日 (9月20日)明治天皇が、東京行幸のため京
都を出発された。
明治天皇、京都発輦、東幸し給う。
岩倉、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをと
もない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の
兵隊を含め、その総数は3,300人にも及んだ。
1868年11月6日(9月22日)会津若松城落城、官軍に降伏(
戊辰戦争が終わる)
会津藩は、若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山
口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けたが、9月に
入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の
降伏が相次いだ。
孤立した会津藩は、明治元年9月22日(11月6日)に、
新政府軍に降伏した。
同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が、降伏したのは
その2日後であった。
旧幕府軍の残存兵力は、会津を離れ、仙台で榎本武揚
と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争とな
って行く)。
1868年11月6日(9月22日) 会津藩が降伏して・・、
非常に大変な戦いを、会津の方々はとことんまで戦っ
た。激烈な戦いだった。
人々の、民衆の、一人に至るまで・・、
そこには、正義があった。
薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠の
計らいで、松平容保公は、死一等を減じられて謹慎とな
った。
そして、養子の喜徳とともに、江戸(東京)に護送さ
れることになった。
本来であれば、家老上席にあった西郷頼母、田中玄清、
神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知
れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していた
ため、
次席の萱野長修が、戦争の責任を一身に負って切腹し
た。
江戸に送られることになった松平容保公を、家臣たち
は断腸の思いで見送った。
2007年(平成19年)山口県の選挙区選出の安倍晋三内
閣総理大臣は、会津若松市を訪問されたときに、山口県
(長州)選出議員として発言された、「先輩がご迷惑を
かけたことをお詫びしなければならない」と、謝罪され
た。
会津藩主・松平容保公は、1862年に京都守護職として
京へ赴くとき、この様な事も、多くの考え、深い考えの
中に予想されていた。
幕府からの命令の遂行との間に立たれて居られた。
藩の民を巻き込むだろう経過も考えられていた。
江戸から明治へという新しい時代への転換へ、移行す
る、そこに生じるエネルギーを、会津藩主と藩の方々、
この地の方々は、一身に受けて立っていた。
大変な、大きなエネルギーが、次なる時代の幕を開く
ために、この地で行われた。
本来なら、このエネルギーの放散は、江戸で行われる
べきものだった。
それを、南部の地で行われ、南部の方々が受けて戴い
た。
本来なら、南部で行われるべきものではなかった。
会津藩やこの地の方々は、それを受けて立って戴いた。
お蔭様で、江戸の町は、いつもの平穏の時が、過ごさ
せて戴けた。
江戸の市民は、また、その後継の人達は、会津の方々
へ深く感謝しなければならない。
会津の方々は正義を通し、その正義と、また、正義が
ぶつかった戦いだった。
日本の次の幕が、お陰様で開いて行った。
開いて行くことが出来た。
1868年11月7日(9月23日) 庄内藩降伏、奥羽越列藩同盟
瓦解して、本州での戦いが終った。
1868年11月8日(9月24日)磐城の各藩主、官軍に降る
1868年11月11日(9月27日)明治天皇陛下、農民の収穫を
天覧される。
1868年11月12日(9月28日 )スペインと通商条約調印
1868年11月16日、会津世直し一揆(~1869年1月13日)
1868年11月6日に、会津藩が明治政府に降伏すると、
藩政崩壊による、権力の空白状態となり、民衆蜂起が
起きた・・と、説明されているが・・?
http://www.kkjin.co.jp/boso010_130119.htm を、
お読み戴きたい。
ここには、会津の方々の想いが綴られている。
会津の方々は、総べての方々は、非常に誠実であった。
その誠実の中に、歴史の流れがあった。
会津藩主の松平容保公も、深い、色々な考え・想いの
中で、その行動を選択された。
その深い奥は、凡人には思いが及ばない。
会津藩主を始め、会津藩の臣下の方々、そして、会津
の方々・皆さまが、誠実に、歴史の中で行動された。
この行動は、光り輝き、素晴らしく、歴史に刻まれて
いる。
私の親戚の小学3年生の子は、容保公が好きになった。
会津に住みたい、住むんだと言っていた。
1868年11月(10月)勝海舟、駿府に下る(氷川清話)
新政府からの要職をすべて断り、勝海舟は、徳川慶喜
のいる駿府へ下った。
..
(詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
このブログを世界へ転送してください)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年10月12日(8月27日)明治天皇陛下、御即位(氷川
清話)
明治天皇陛下(17歳)が、紫辰殿において即位の大礼
を行われた。
これは、政情の激しい移り変わりによって遅れていた
即位の礼だった。
1868年10月14日(8月29日)大阪造幣局に貨幣鋳造機舶来。
明治新政府は、1868年5月16日(慶応4年4月24日)に、
旧金座および銀座を接収し、
6月11日(閏4月21日)に、貨幣司を設けて、二分判お
よび一分銀などの鋳造を引き継いだ。
そして、1869年3月17日(明治2年2月5日)に、貨幣司
が廃止されて、太政官に造幣局が設置され、
8月15日(明治2年7月8日)に、造幣局は造幣寮へ改称
されて大蔵省所属となった。
また、1868年(慶応4年)に、参与会計事務官・三岡八
郎、外国事務局判事・五代才助らが、同年に廃止された
イギリス帝国・香港造幣局の造幣機械を6万両で購入する
契約を結び、
11月1日(明治元年9月17日)に、英国建築技師・トー
マス・ウォートルスが、雇用され局舎設計、および、機
器購入などを担当している。
1870年3月3日(明治3年2月2日)に、旧香港造幣局長・
キンドルが、造幣寮首長に任命されている。
大阪本局は、1871年1月17日(明治3年11月27日)に、
銀貨製造を開始し、
4月4日(明治4年2月15日)に、大蔵省造幣寮として創
業式を挙行した。
また、6月27日(明治4年5月10日)に、新貨条例および
造幣規則布告がされて近代的貨幣制度が開始された。
1868年、財政困窮の新政府・・、
勝海舟が語る・・、
ちょうど維新の始めであったが、万事改革の際とて、
財政のごときも非常に困難を極めた。
中にも一番その処置に憂慮したのは、かの旧諸大名が
藩政の弥縫策(びぼうさく)として贋銀(にせがね)を
発行したのが、海外にも流れ出ておったものだから、こ
の際、横浜居留の外国人は、おのおの公使によって、公
然と引き換えを我が当局者に迫ったことだ。
さすが英断明識の大久保利通内務卿も、その引き換え
金額の多寡が分からないのみならず、当時、国庫の準備
金も僅少であったから、これには少々当惑して、ついに一
伊地知幸介を立会人として、俺の所へ相談に来た。
その時、俺は、一棒に擬して「みな引き替えろ」と一
喝した。
ところがさすがは大久保だ。
大いに悟る所があったと見えて。
断然、引き換えを決行の旨を各国公使に通知したが、
その額は案外に少なく、わずかに数十万円に過ぎなかっ
たそうだ。
ひっきょう、俺は、いかに諸大名が贋銀をしても、た
いてい高が知れていると考えたから、「みな引き替えろ」
と言ったのさ。
なあに、塾考の上で決行すれば、やれない事は天下に
ないのさ(氷川清話)
1868年10月(9月)勝海舟、家族駿府に移住(氷川清話)
1868年10月21日(9月6日)官軍が、南部兵を破り、大館城
を復す。
1868年10月23日(明治元年9月8日)明治と改元し、一世一
元の制を定めた。
同年1月1日に遡って、新元号・明治を適用。
明治と改元。自今一世一元の詔出る(氷川清話)
慶応4年から明治元年になる(氷川清話)
日本は、明治という時代になって、これから2000年に
向かって人口を増やして行く国になる。
そして、2000年を過ぎた頃、ピークを迎えた。
日本は、この明治以来、人口を何と3倍に増やして来
ていた。
1868年10月23日(9月8日)大鳥圭介が、会津より函館へ去
った。
1868年10月24日(9月9日)兵火のため、会津城下が、焦土
と化した。
1868年10月25日(9月10日)岩代の二本松藩主丹羽長国、羽
前の天童藩主・織田信敏、共に官軍に降る
1868年10月27日(9月12日)官軍、庄内を破り水澤を略す。
1868年10月27日(9月12日)驛逓司、郵便規則布告。
1868年10月28日(9月13日)大久保利通、京都において岩倉
具視、木戸孝允と会し、車駕発輦を議す。
1868年10月31日(9月16日)榎本武揚らが、開陽丸など旧
幕府の艦隊主力を率いて品川沖を脱走した(10月4日説
あり)。
ジュール・ブリュネらのフランス軍事顧問団の一部も、
これに同行した。
約、半年前の1868年5月3日(4月11日)、新政府軍は、
江戸開城に伴い、降伏条件の一つである旧幕府艦隊の引
渡を要求した。
しかし、榎本は拒否した。
そして、榎本は、人見勝太郎や伊庭八郎が率いる遊撃
隊を乗せ、悪天候を口実にして、艦隊8隻で、品川沖から
安房国館山に脱走をした。
これは、勝海舟の説得によって、旧暦4月17日に、品
川沖へ戻り、4隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)
を新政府軍に引渡した。
しかし、開陽丸等の主力艦の温存に成功した。
榎本は、なおも抵抗姿勢を示して、6月13日(閏4月23
日)には、勝に艦隊の箱館行きを相談するが、反対され
る。
1868年7月13日(5月24日)に、徳川宗家の駿河・遠江
70万石への減封が決定。
榎本は、移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦
で、遊撃隊や請西藩主・林忠崇に協力して、館山藩の陣
屋を砲撃した上、小田原方面へ向かう彼らを館山から真
鶴へ輸送したほか、
輪王寺宮や脱走兵を東北地方へ運ぶなど、旧幕府側勢
力を支援した。
8月(旧暦7月)には、奥羽越列藩同盟の密使(仙台藩・
横尾東作、会津藩・雑賀孫六郎、米沢藩・佐藤市之允)
と会い、
1868年9月7日(7月21日)、列藩同盟の参謀を務めてい
た板倉勝静・小笠原長行宛に支援に向かう旨の書状を出
した。
9月(旧暦8月)に入ると、密かに脱走準備を進め、
1868年9月19日(8月4日)、勝に軽挙妄動を慎むよう申
しわたされるが、
1868年9月30日(8月15日)に、徳川家達が駿府に移り
移封が完了すると、
1868年10月4日(8月19日)、榎本は、抗戦派の旧幕臣
とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、
美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率
いて江戸を脱出し、
奥羽越列藩同盟の支援に向かった。
この艦隊には、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松
平太郎、彰義隊や遊撃隊の生き残り、
そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・
ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が
乗船していた。
江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告
文」という趣意書を勝海舟に託している。
『檄文
王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。
然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は
然らず。
王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名
を以てす。
其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を
領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は
頓に官有と為し、
遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。
又甚しからずや。
これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。
我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して
情実通ぜず。
故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんと
す。
それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一
洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行
せしめん事、唯此一挙に在り。
之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。
廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心
に志ある者は、此言を聞け。』
房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、
咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、
8月下旬頃から順次仙台に到着した。
1868年10月17日(9月2日)、榎本、ブリュネ、カズヌ
ーブは仙台城で伊達慶邦に謁見する。
翌日以降、仙台藩の軍議に参加するが、
その頃には、奥羽越列藩同盟は崩壊しており、
1868年10月27日(9月12日)に仙台藩も降伏を決定した。
これを知った榎本と土方歳三は登城し、執政・大條孫
三郎と遠藤文七郎に面会し、
翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた。
旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、
鳳凰丸を艦隊に加え、
桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣
の伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊など、計約
3,000名を収容。
新政府軍の仙台入城を受けて、1868年11月22日(10月
9日)に、仙台を出航し石巻へ移動した。
この時、新政府軍・平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣
の救済と、ロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓する
という内容の嘆願書を提出している。
1868年11月24日(10月11日)には、横浜在住のアメリ
カ人でハワイ王国総領事であったユージン・ヴァン・リ
ードから、ハワイへの亡命を勧められるが断っている。
その後、幕府が、仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪わ
れ海賊行為を行っていた千秋丸を気仙沼で拿捕し、宮古
湾で補給の後、蝦夷地へ向かった。
1868年11月1日(9月17日)江戸を東京とした。
1868年11月4日 (9月20日)明治天皇が、東京行幸のため京
都を出発された。
明治天皇、京都発輦、東幸し給う。
岩倉、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをと
もない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の
兵隊を含め、その総数は3,300人にも及んだ。
1868年11月6日(9月22日)会津若松城落城、官軍に降伏(
戊辰戦争が終わる)
会津藩は、若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山
口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けたが、9月に
入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の
降伏が相次いだ。
孤立した会津藩は、明治元年9月22日(11月6日)に、
新政府軍に降伏した。
同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が、降伏したのは
その2日後であった。
旧幕府軍の残存兵力は、会津を離れ、仙台で榎本武揚
と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争とな
って行く)。
1868年11月6日(9月22日) 会津藩が降伏して・・、
非常に大変な戦いを、会津の方々はとことんまで戦っ
た。激烈な戦いだった。
人々の、民衆の、一人に至るまで・・、
そこには、正義があった。
薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠の
計らいで、松平容保公は、死一等を減じられて謹慎とな
った。
そして、養子の喜徳とともに、江戸(東京)に護送さ
れることになった。
本来であれば、家老上席にあった西郷頼母、田中玄清、
神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知
れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していた
ため、
次席の萱野長修が、戦争の責任を一身に負って切腹し
た。
江戸に送られることになった松平容保公を、家臣たち
は断腸の思いで見送った。
2007年(平成19年)山口県の選挙区選出の安倍晋三内
閣総理大臣は、会津若松市を訪問されたときに、山口県
(長州)選出議員として発言された、「先輩がご迷惑を
かけたことをお詫びしなければならない」と、謝罪され
た。
会津藩主・松平容保公は、1862年に京都守護職として
京へ赴くとき、この様な事も、多くの考え、深い考えの
中に予想されていた。
幕府からの命令の遂行との間に立たれて居られた。
藩の民を巻き込むだろう経過も考えられていた。
江戸から明治へという新しい時代への転換へ、移行す
る、そこに生じるエネルギーを、会津藩主と藩の方々、
この地の方々は、一身に受けて立っていた。
大変な、大きなエネルギーが、次なる時代の幕を開く
ために、この地で行われた。
本来なら、このエネルギーの放散は、江戸で行われる
べきものだった。
それを、南部の地で行われ、南部の方々が受けて戴い
た。
本来なら、南部で行われるべきものではなかった。
会津藩やこの地の方々は、それを受けて立って戴いた。
お蔭様で、江戸の町は、いつもの平穏の時が、過ごさ
せて戴けた。
江戸の市民は、また、その後継の人達は、会津の方々
へ深く感謝しなければならない。
会津の方々は正義を通し、その正義と、また、正義が
ぶつかった戦いだった。
日本の次の幕が、お陰様で開いて行った。
開いて行くことが出来た。
1868年11月7日(9月23日) 庄内藩降伏、奥羽越列藩同盟
瓦解して、本州での戦いが終った。
1868年11月8日(9月24日)磐城の各藩主、官軍に降る
1868年11月11日(9月27日)明治天皇陛下、農民の収穫を
天覧される。
1868年11月12日(9月28日 )スペインと通商条約調印
1868年11月16日、会津世直し一揆(~1869年1月13日)
1868年11月6日に、会津藩が明治政府に降伏すると、
藩政崩壊による、権力の空白状態となり、民衆蜂起が
起きた・・と、説明されているが・・?
http://www.kkjin.co.jp/boso010_130119.htm を、
お読み戴きたい。
ここには、会津の方々の想いが綴られている。
会津の方々は、総べての方々は、非常に誠実であった。
その誠実の中に、歴史の流れがあった。
会津藩主の松平容保公も、深い、色々な考え・想いの
中で、その行動を選択された。
その深い奥は、凡人には思いが及ばない。
会津藩主を始め、会津藩の臣下の方々、そして、会津
の方々・皆さまが、誠実に、歴史の中で行動された。
この行動は、光り輝き、素晴らしく、歴史に刻まれて
いる。
私の親戚の小学3年生の子は、容保公が好きになった。
会津に住みたい、住むんだと言っていた。
1868年11月(10月)勝海舟、駿府に下る(氷川清話)
新政府からの要職をすべて断り、勝海舟は、徳川慶喜
のいる駿府へ下った。
..
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