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(増補版)531E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年2月)

2017-05-31 16:14:54 | 日記
題:(増補版)531E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年2月26日、板垣退助が、立憲自由党を離党した。
  少し振り返る形になるが・・
  大同団結運動の主導者・後藤象二郎が、1889年3月、突
 如、黒田清隆内閣に入閣するに及んで、入閣賛成派と反
 対派が激しく対立し、大同団結運動が分裂状態に陥った。
  この時、板垣は、後藤や河野広中に説得されて上京し、
  1890年5月、愛国公党を組織し、大同派の団結を図った。
  1890年9月、板垣らの努力で愛国公党、自由党、大同倶
 楽部(くらぶ)は合同し、立憲自由党を結党して民力休養、
 政費節減を掲げて政府攻撃に乗り出したが、
  板垣は、第一議会開会中の1891年2月、土佐派議員が政
 府に買収された責任を感じて離党した。
  1891年3月には復党して党総理となり、
  1895年には、伊藤博文内閣との協力関係を進め、
  1896年4月、内務大臣となる。
  1896年9月、内相を辞し、党活動に専念し、
  1898年、憲政党内閣のもとで、ふたたび内務大臣とな
 ったが・・
  1898年10月、辞職した。
  その後、政治活動から身を引いて社会問題に専心した。
1891年2月27日、帝国議会の衆議院が、中江兆民の辞表を受
 理した。
  中江兆民は、民党を結成しようと奔走し、
  1891年9月、立憲自由党が結党された。
  そして、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、自由党
 土佐派の裏切りによって政府予算案が成立した。
  兆民は、このことに憤り、1891年2月に辞職した。
  その際、「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩
 艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御
 届候也。」という辞表を提出した。
  自身をアルコール中毒と主張する辞職願は、僅差で承
 認されたが、政府の土佐派切り崩し工作への皮肉である
 という批判を受けた。
1891年2月28日、九州鉄道会社線の遠賀川~黒崎間が開業し
 た。
1891年2月、横川~軽井沢間の軽井沢側から着工された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本は、いざという時にはやりますという、精緻な、
    且つ、超強力な、防衛体制の構築のため・・
     論議を尽くして行かなければならない。
.
1606年、アメリカの植民地化の勅許状が出た。
  誰がその地に居ようが、「その地をイギリスのものと
 せよ」とのイギリス王の命令書が出た。
  イギリスのジェームス一世は、北アメリカの恒久的な
 イギリスの植民地とする勅許状を出した。
  そして、この年・1606年に設立されたロンドン会社(
 後のヴァージニア会社)が、
  翌年・1607年に、105人の植民者の一団を、新大陸・ア
 メリカへ送り付けた。
  その北アメリカの地の植民地化の命令を出したイギリ
 ス王の名を取って『ジェームズタウン』と名付けた。
  ここが、北アメリカにおける、イギリスの最初の植民
 地であるヴァージニアとなった。
  最初、入植者たちは金銀を求め、漁(あさ)った。
  それは、16世紀に、メキシコやペルーなどの中米南米
 など広大な地で、掠奪や殺戮の限りを尽くし、殺人鬼と
 化していたスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者
 たちが、金銀を求める姿と同じだった。
  また、儲けの要である東洋への通商路を求めた。
  数年間、探索が試みられた。
  それに、植民者としての新天地のその生活との闘いの
 日々だった。
  1609年~1610年の冬は、特に、厳しい寒さで、「餓死
 の時期」と呼ばれた。
  当時、500人を超える植民者たちが居たが、餓死などで
 60人に減っていた。
  厳しい生存状況の中で、多くの生命が失われた。
  生き残った者たちは、その厳しさに耐えられず、植民
 を断念しようとさえした。
  生きる事がおぼつかない植民者たちの「一攫千金の夢」
 は潰え去っていた。
  この窮地を救ってくれたのが、先住民であるインディ
 アンの方々だった。
  まったく、ここに、厚い厚い恩が生まれているのだが・・?
  インディアンの方々は、命がけで、この厳しい冬期を
 越える事を教えた、そして、危機を救った。
  しかし、しかし、この危機の時期が過ぎ去ると、この
 様な破たん寸前の危機を救って戴いた恩があるのに・・?
  喉元過ぎれば熱さを忘れる・・この植民者たちの恩忘
 れの輩たちだった・・このインディアンの先住民の方々
 を追い出しにかかった・・その土地が欲しい・・だった・・
  そして、インディアンの方々を殺戮して行く。
  1919年には、イギリスは、たくさんの植民者と年季奉
 公人と称する人間を送り込んだ。
  これは、オーストラリアでもやった事と同じように、
 イギリス本国で不要になった人たちを、「物を片付ける
 が如く」に棄民した。
  キリスト教徒は、恩や縁ということを簡単に捨てる・・、
  だからイギリスも、よく、この様に、国民を棄民した。
  (アメリカは、黒人の方々を棄民した・・あのリンカ
 ーンが・・)
  この時も、その棄民をした。
  ロンドンの町の道端に居る極貧者を、連れ出して行き、
 かり集めて、アメリカへ送り込んだ。
  ロンドン市は、その促進のために税金から金を出した・・
 支出した(あたかも人間の・・ロンドン市民の清掃事業
 であった・・卑劣である)。
  また、女性も、「植民地花嫁」として送り込んだ。
  花嫁を得た植民者は、120ポンドの煙草を支払った。
  名目は美しく渡航費と称したが、あたかも女性を買う
 がごとくの行為だった。
  そして、この1619年8月20日には、さらに悪い事をしで
 かしていた。
  人類史上の最悪の大汚点である「アメリカの奴隷貿易」
 が始まった。
  キリスト教の聖書に書かれた「奴隷狩り」の教えの如
 くの行為が行われた。
  オランダ船が、20人のアフリカの方々を奴隷として、
 ジェームズタウンに連れて来た。
  アメリカ人は、卑劣にも、このアフリカの方々を奴隷
 として買った。
  アメリカ人たちは、この行為を『輸入』と称した。
  意識の遅れた者どもだった。
.
1960年代、アメリカは、この頃になって、やっと、黒人か?
 否か?の記入を・・自己申告制にした。
  キリスト教は、有色人種を蔑視して来た。
  キリスト教の歴史は、その最初から、その差別の歴史
 だった。
  そして、人々へ、その教義を刷り込んで来た。
  キリスト教の聖書に書かれている「奴隷狩りの行為」、
 それは、隣国の民を、安易に奴隷にした。
  聖書で、キリスト教の神は、隣国に攻め込み、隣国の
 民を「奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫んだ・・そして、
 その行為を、キリスト教の神の「正義だ」とした。
  キリスト教国のアメリカは、アフリカの黒人の方々を、
 長い期間、奴隷にして来た。
  そして、黒人の方々を虐げてきた。
  WASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)
 の白人のキリスト教徒たちは、黒人の方々を奴隷として
 使い、そして、蔑んだ。
  この大汚点の歴史が・・アメリカに残った。
  本当い軽蔑すべき行為だった。
  国勢調査や、色々な人口統計において、アメリカは、
 「白人」「黒人」「その他の人種」と書くことを要求し
 た。
  それは、特に、黒人の方々を差別するためのものだっ
 た。
  「黒人であるか否か」を知るためのものだった。
  この事を端緒にして、黒人の方々は卑劣な差別を受け
 た。
  少しでも黒人の血が入っていれば、「黒人と記せ」と
 要求された。
  決して「白人」とはしなかった。
  国勢調査局は、「黒人の血の割合が、どんなに少なく
 ても黒人として申告しなければならない」と指示した。
  卑劣である。
  1960年以降になって、やっと、黒人の方々にも「自己
 申告制」が採用され、黒人と記すのは本人次第と、やっ
 と、なった。
  しかし、1970年に制定されたルイジアナ州法では、32
 分の1以上の黒人の血が混じっている住民は、「黒人とす
 る」とされた。
  そして、出生、結婚、死亡などの証明書には、その人
 種を記せとされた。
  黒人の詩人であるラングストン・ヒューズは、「アメ
 リカ合衆国では、黒人という言葉は、ともかく血管の中
 に、いくらかでも黒人の血が流れている者には、誰にで
 も適用されるのだ」と嘆き、詠った。
  この事は、「たとえ、白人の血が、いかに多くても、
 黒人の血が一滴でも確認されれば、その人は、「白人」
 ではなくて、れっきとした「黒人」だという事」を意味
 された。
  「白い黒人の悲劇」が生まれた。
  今まで、白人だと誰もが思っていた方が、ある時、何
 かのきっかけで、黒人の血が、一滴でも混じっているこ
 とが判明すると、
  その瞬間から、その人は、黒人として、白人社会から
 黒人社会へと追い返された・・追放された。
.
2005年12月29日、韓国の廬武鉉(ノムヒョン)大統領は、
 「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」、
 別名「親日派糾弾法」を公布した。
  日本が、誠実に朝鮮半島・韓国の国づくりをしたこと
 は顧(かえり)みられなかった。
  日本から朝鮮半島・韓国へ、莫大な資本を持って行っ
 て朝鮮半島を創って行った善意はまったく顧(かえりみ)
 られなかった。
  そして、逆に、その行為を無視し、日本に協力して「
 国造りに励んだ人々」を吊(つ)るし上げた。
  日本の統治時代に、日本に協力した人間は、その子孫
 の財産までも、その全部を、没収するという法律だった。
  恐ろしいまでも事実誤認をして、罪に落とす法律だっ
 た。
  また、これは、過ぎ去った過去を罰するという、やっ
 てはいけない行為となっている。
  国際的にもやってはいけないとされている「非難され
 るべき非常識行為」である。
  例えば、もし、あなたが、以前に酒を飲んだからと、
 今、その行為を罰するという法律(禁酒法)を作って、
  その法律が出来たからと言われ、そして、逮捕された
 ら・・?
  あなたは、どうしますか?
  こんな事、あり得ますか?
  また、今、住んでいるあなたの家が、過去のある時に
 建てたその家が、その時は合法だとされ、建築許可され、
 そして、建築したのに・・、
  今、過去にさかのぼって・・その家は違法だという法
 律ができて、法律違反だとされ、「あなたの家は取り壊
 せ」と、命令が出されたら、あなたは、従いますか?
  どう思いますか?
  国際的にも・・「このような事は出来ない」とされて
 いて、
  また、常識的にも、この様な事を、国家が行なっては
 いけない事となっている。
  しかし、韓国は、この様な事をした・・行った。
  この様な法律を作って、親日家を虐(いじ)め、そし
 て、その人々を潰した。
  そして、韓国国民の方々へ反日感情を煽(あお)った。
  また、この法律で、遡(さかのぼ)って、「李完用(
 りかんよう)」という人を売国奴だとされた。
  その他の人々にも、さかのぼって、日本に協力したと
 した人々をリストアップして、卑劣な糾弾(弾圧、嫌が
 らせ)行為をした。
  朝鮮戦争の英雄の、白善燁 (ペクソンヨプ) 将軍まで
 も糾弾された。
  反日意識が、朝鮮・韓国の国民の方々へ刷り込まれた。
  そして、現在、韓国に在住する、韓国へ行った家族の
 日本人の子弟・子供(仕事などで韓国へ行った日本人子
 弟)に対し、慰安婦を強制連行する様な日本人の子だと、
 虐(いじ)めが行われている。
  変に煽る韓国政府・・異常に煽る韓国政府が、ここに
 ある。
  問題を吹き返している。
  また、日本が統治したと言ったって、そのほとんどが、
 朝鮮の方々によって行政・政治などが行なわれた。
  その8割以上の方々が、多数が、朝鮮の方々だった。
  この事実が、ユーチューブに公表されるや、日本の公
 共放送のNHKは、直ちに、必死に、削除した。
  公正であるべき公共放送のNHKの異常な行動だった。
  韓国の異常行動を糾弾する行為を覆い隠すNHK、「
 事実を隠す行動をするNHK」だった。
  親日であれば、真実を捻じ曲げてまでして監獄へ入れ
 るという韓国の現状を伝えないで、韓国を庇(かば)う
 NHKだった。
  韓国の最高裁までもが、この行政の行動に追従した。
  この裁判で判明したことだが、登記簿謄本までも、書
 き換えるという、考えられないレベルの異常行為がなさ
 韓国だった。
  韓国は、国際的な常識も通じない国となっている・・
 そして、その国政は、シッチャカ、メッチャカとなって
 いる。
  国民の方々が、可哀想な状態である。
.
2010年、韓国系アメリカ人
  2010年のアメリカの国勢調査では、韓国系アメリカ人
 は、約170万人で、アメリカの総人口の約0.6%を構成して
 いる。
  因みに、日系アメリカ人は、2005年の国勢調査におい
 て122万人強で、アメリカ合衆国の総人口の0.4%を占めて
 いる。
  2011年の調査では、アジア系アメリカ人の内訳では、
 中国系、フィリピン系、インド系、ベトナム系、韓国系
 に次いで、日系アメリカ人は6番目となっている。
  そして、この在アメリカの韓国系アメリカ人が、慰安
 婦問題をアメリカで煽っている。
  しかし、北アメリカの日系人は、韓国系アメリカ人や
 中国系アメリカ人などと比べると、民族街に集結したり
 することが少ない。
  特に、アメリカでは、第二次世界大戦において、差別
 的な、そして、違法で異常な強制収容される歴史があり、
  また、アメリカに対する忠誠を誓う日系兵士の奮戦な
 どの努力もあり、
  強制収容されるときは、不動産などの財産を失うとい
 う苦しみもあり、
  その様な歴史から、日系アメリカ人は、あまり民族性
 を出さずに、民族的に集結するようなことも控え、同化
 するように努力していた。
  しかし、韓国系アメリカ人は、この対極の状態に居た。
  アメリカに渡った韓国系アメリカ人は、競合の少ない
 黒人街の貧困地域で商売を始めた。
  ここで、黒人の方々を差別した。
  従業員に、黒人の方々ではなく、ヒスパニック系を雇
 用した。
  そして、民族的にも集結し、閉店後は、「韓国人街」
 へ帰った。
  この様な行動から、黒人の地元住民の方々から、自分
 たちだけでまとまって、「自分達を差別しながら、自分
 達から儲けている連中」と思われた。
  この様な事から、1992年4月29日のロスアンゼルスの
 「黒人暴動」とか、「ロス暴動」と差別的に白人たちが
 呼ぶ、黒人の方々の「差別撤廃を訴える行動」が・・、
 この時、韓国人商店襲撃へと結びついた。
  韓国系アメリカ人は、この様な状況になる様な事を行
 なっている。
  また、韓国系アメリカ人は、ヒスパニック系アメリカ
 人やインド系アメリカ人などとも、色々、トラブルを起
 こしている・・この様な差別的行為が、あまりにもひど
 いので、アメリカ国内で問題となり騒がれた、そして・・
 この様な民族性がある・・少なくとも、温厚な民族性で
 はない。
  氏より育ち・・というが・・同情すべき歴史の中にあ
 った。
  (参考)氏より育ちとは、人間を形成するときに大事
    なのは、家柄よりも教育や環境であるということ。
     日本は、幸いにして、豊かな、そして、様々な
    文化の中に育まれた長い歴史の中にある・・、
.
2012年8月10日、韓国の李明博大統領が、明らかに日本の領
 土である竹島に上陸するという行為をした。
  李明博・韓国大統領は、「日本の右傾化に歯止めをか
 けるため(上陸した)」と発言した。
.
2012年8月14日、韓国が、日本の天皇陛下の謝罪の土下座を
 要求した。
  李明博・韓国大統領の発言、「天皇が足を縛って跪
 (ひざまづ)く土下座をするなら、(日本へ)訪問して
 もいい」だった。
  日本のメディアは、何故か?これを、ほとんど報道し
 なかったが、一部の報道機関だけが、多くを修正して報
 道した。
  日本の天皇陛下が侮辱された発言に対し、日本のメデ
 ィアのほとんどが、韓国を庇(かば)った。
  韓国を糾弾する日本のメディアは、ほとんどなかった。
  報道の中立性が、まったくない日本の報道機関だった。
  この様な暴言を許してしまう日本の報道機関。
  正義を追求し、闘うという姿勢が、まったくない日本
 の報道機関だった。
  常識ある国の状態を逸脱した国であっても、その侮辱
 発言は、常に、正すという姿勢の報道機関であらねばな
 らない。
.
2013年、この年の韓国は異常に感じた(いつもだとの声が
 聞こえるが・・?)
  そこで、以下の事が言いたい・・、
  韓国は、今まで、中国の冊封思想・冊封態勢の意識の
 下にあった。
  遠い昔から、中華の冊封思想の影響下にあった。
  そして、現在、韓国は、アメリカが心配するほど、そ
 の冊封思想の中国に歩み寄った。
  アメリカ離れがあった。
  そして、アメリカと体制を共にする日本からも離れた。
  それ故、韓国は今、特に、李朝時代の冊封体制に入る
 かどうかの瀬戸際にある。
  中華の冊封体制下に入るかどうかの是非が、真剣に韓
 国に問われている。
  重要な課題となっている。
.
2017年、北朝鮮のミサイル開発が急進展している。
  北朝鮮の国民の方々にとっては、アメリカが、北朝鮮
 を「悪の枢軸」と呼び、また、アメリカから、「テロ国
 家」と呼ばれた。
  当時、その様に呼ばれたイラクは、アメリカから攻撃
 され、国もメチャメチャにされ、そして、滅びた。
  この時、北朝鮮の指導者、及び、国民の方々は、本当
 に、戦々恐々とした心境・状況だったと思われる。
  それ故に、『国を、そして、国家を、しっかり守らね
 ばならない』と思っただろう。
  そこで、今やっている様な、核開発をし、また、ミサ
 イル開発もして行く必要性があるのたと・・つくづく感
 じた事だろう。
  今年・2017年の正月、北朝鮮指導者は、テレビで、そ
 の達成率が、「ほとんど完成に近づいた」と放送した。
  そのテレビを見た北朝鮮の国民の方々は、「アメリカ
 からの攻撃の恐怖が、これで薄らいできた」と思っただ
 ろう。
  「将軍様が、北朝鮮に、アメリカが攻めて来られない
 ようにして下さっている・・防衛努力をして、その様に
 して戴いている」・・と、そう思っているだろう・・
  そして、その事を、「有り難く感じている」だろう。
  「将軍様のお蔭で、安心していられる」と思っている
 だろう。
  将軍様のやっていることは、北朝鮮を攻めてくる相手
 に対する攻撃力を強くしているが、これは、攻めて来ら
 れない様にしていることで・・国が、簡単に攻められな
 い様にしている・・防衛力を強くしているのだ・・と思
 っているだろう。
  一方、日本は、北朝鮮から7分でミサイルが届くという
 状況の中にある。
  7分は、「あっ」という間だ。
  最近、北朝鮮は、高高度からミサイル攻撃をする技術
 を手に入れた。
  その高度な技術を手に入れた・・開発した。
  日本には、この『ミサイル攻撃を防ぐ手立てがない』
 という。
  その技術はないという、
  その兵器システムがないという・・、
  『3発が、関東地方に落ちたら、日本は、それでおし
 まいになるでしょう」と軍事専門家は言う。
  日本はおしまいになるでしょう・・と言う。
  日本には・・「アメリカの核の傘」があるという。
  その意味は、「日本には、『アメリカの核抑止力』が
 あるから安心してください」・・という意味だという。
  だから、「日本は、核など持たなくてもいいのだ」と
 アメリカから言われていると言う。
  何か・・??・・こちらに力点があるように思える??
  「だから、日本は、核を持つな」・・と・・
  アメリカには、「日本には核を持たせない」という『
 強い意志』があると専門家は言う。
  日本の核が「両刃の剣になる」ことを恐れている。
  この点は、中国も同じで・・日本の核保有に対し強く
 恐れ、この点についての「米中の密約(秘密条約)」が
 あるという。
  トランプ大統領までは、強くこのことが踏襲されて来
 ていた。
  しかし、トランプ大統領は、「日本は、守るべきは守
 りなさい」と言っていて・・至極、当然の考え方になっ
 てきた。
  「守りたくても守れない日本」から変われる道を開い
 て来た。
  トランプ大統領は、核について、「持つのなら、持ち
 なさい」と言った。
  長らくというか、今まで、アメリカには無かった考え
 方だった。
  そして、アメリカ在住の長い方が、証言的に言う・・、
  「アメリカ政府筋が、日本に核を持たせまいとするの
 は、罪悪感ないし、恐怖心があるからだ」・・と。
  そして、日本の大政治家の中川昭一氏は・・2006年の
 だいぶ以前い言った・・
  2006年に、北朝鮮の核実験があった時に・・理性的に
 核管理ができるかどうか疑わしい国家:北朝鮮が、核保
 有国になろうとしている時に・・
  それでも、核の議論さえしようとしない日本の現状を
 憂えて、そして、その様な状況を皮肉をも込めて・・、
  「わが国には『非核五原則』がある」と・・名言とも
 言うべき言葉だった。
  核を、「作らず、持たず、持ち込ませず」という非核
 三原則が日本にあるが・・それに・・
  「発言させず」、そして、「考えさせず」という空気
 まであって、横行していて・・と嘆いた。
  その心の中で、このままでは『日本民族の滅亡』の姿
 を恐れ、見たのだろう。
  「丸腰である人間は、銃に撃たれない」という常識の
 世界を信じているだけで・・本当に安全なのか??・・
 と・・、
  その様な常識の通じる国家もあるだろうが・・??
  その様な理想論の中に住んでいてよいのだろうか??
  そんな世界観なら・・新聞記事の三面記事は、記事が
 無くなって、真っ白になるだろう。
  そうでないのが世の中・・この方が常識・・
  多くの国民の方々の命がかかっている世界を・・その
 様な常識の世界に・・理想論の世界に置いたままで良い
 のか?・・良い訳は・・『ない』・・
  ここに、無責任な「座して死を待て」という論理がある・・
 その如くの言葉がある。
  石破茂(元防衛大臣〉の言葉・・2009年5月に、北朝鮮
 が地下核実験に成功したときに言った言葉・・、
  「敵基地攻撃論については、私が、防衛庁長官の時に、
 法的には排除されないと行ってきた。
  東京を火の海にするという宣言(北朝鮮の宣言)があ
 って、ミサイルを日本に向けて撃つ段階であれば、そこ
 を叩くのは『理論的にはありうる』。
  ただ、ノドン(北朝鮮ミサイル)が、どこにあるか分
 からないのにどうやって叩くのか。
  (北朝鮮のミサイルが)200基、配備されて居るとして、
 二つ、三つ、潰(つぶ)して、あと全部、(日本の各都
 市に)降ってきたらどうするんだ。誠に現実的ではない」
 (朝日新聞、2009年5月27日、カッコは筆者の記入)
  これは、北朝鮮の肩を持つ言い方・発言となっている、
 ある意味、無責任な裏切り発言となっている。
  「日本の方々の命の重み」に責任を果たしていない。
  その様な発言となっている。
  石破茂氏は、最初から、日本人の方々の命を救うには
 どうするか?・・という、逃げられない、避けられない、
 重大な、大切な思考を・・安易に・・放棄している。
  石破氏は、キリスト教徒であるが、キリスト教徒らし
 い性悪説に因る考え方「ことを成し得ない」という悲観
 論的な発言となっている。
  大切・重大な日本の『防衛論の可能性』の論議を放棄
 している。
  「抑止が大切」と言っておきながら、日本国民の生命
 と財産を守るという「きちんとした体制を作ろう」とい
 う話から逃げている。
  ヨーロッパに・・スイスという永世中立国があるが、
 きちっと国防を国の重要論題として、核も所持し、その
 抑止効果も含めてしっかり存立している。
  きちっとした国を守る体制を確立する事こそが大切な
 のだ。
  ふわふわとした防衛論や理想論では、話が地について
 いないのだ。
  日本は、いざという時にはやりますという、精緻な、
 且つ、超強力な、防衛体制の構築のため・・論議を尽く
 して行かなければならない。
  核保有を含めて・・。
  民進党は、この論議を前向きにとらえ、推進役になる
 くらいの行動を・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


(増補版)530E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年2月)

2017-05-29 04:46:16 | 日記
題:(増補版)530E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年1月29日、「旅客甲丙間ニ到ル途中切手紛失シ乙駅
 ニテ賃金徴収方」を通達(鉄二調甲第48号)
1891年2月3日、内村鑑三が、第1高等中学校を辞職した。
1891年2月4日、横川~軽井沢間の路線が、中尾線(アプト式)
 を採用することに決定された。
1891年2月5日、川上音二郎一座が、堺で旗揚げ興業をした。
  川上音二郎(かわかみおとじろう、1864年1月1日~
 1911年11月11日)は、俳優、興行師。
  1878年、14歳のとき故郷を出奔。
  自由党壮士となったが、講釈師、寄席芸人になったり、
 「書生にわか」を試みたりした。
   1891年(27歳)堺で、川上書生芝居を旗揚げし、地方
 巡演ののち、『板垣君遭難実記』で東京公演に成功した。
1891年2月8日、大阪鉄道会社線が、稲葉山~王寺間を開業
 した。
1891年2月18日、三条実美が逝去した(55歳)
  三条 実美(さんじょう さねとみ、1837年3月13日~
 1891年2月18日)は、幕末・明治の日本の公卿、政治家。
  位階勲等爵位:正一位大勲位公爵。
  右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族
 院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。
 元勲。
  公卿では摂家に次ぐ名家清華家の出で、禄は約469石。
  家臣の尊攘志士・富田織部の訓育を受け、漢学者志士・
 池内大学に学んだ。
  1859年(22歳)大老・井伊直弼の弾圧を受けて、父・
 実万が辞官落飾となったことから政争に巻き込まれ、次
 第に尊攘思想を強めて行った。
  尊攘派公卿の中心人物となる。
  急進的攘夷派の指導者として、長州藩と提携。
  1862年(25歳)14代将軍・徳川家茂に、攘夷督促(とく
 そく)の朝命を伝えるなど、尊攘派公卿の先鋒(せんぽう)
 となり運動したが・・、
  1863年(26歳)八月十八日の政変:会津・薩摩を中心
 とする公武合体派のクーデターにより失脚し、七卿落ち
 の一人として長州へ逃れた・・そして、
  さらに、1865年(28歳)幕長間の紛争に巻き込まれる
 のを避けて、大宰府に移り、王政復古を機に上京した。
  維新後は、明治新政府に重用され、
  1868年1月9日(31歳)、岩倉とともに副総裁に就任し
 た。
  そして、太政大臣・内大臣等を歴任するなど国家建設
 に尽力した。
  1889年(明治22年、52歳)一時、首相を兼任した。
1891年2月20日、土佐派自由党議員の裏切りにより、政府支
 持の動議可決(自由党が分裂)
  この日、予算削減をめぐって紛糾していた衆議院で、
 大成会の提出した「予算削減は政府同意を経て議会で決
 議する」という議案に、立憲自由党土佐派が、議会解散
 を避けるためと、予算削減を行うために妥協し、決議し
 た。
1891年2月21日、中江兆民が、議会の弱腰を批判し、衆議院
 議員の辞表を提出した。
1891年2月24日、立憲自由党が分裂した。
  土佐派など29議員が離党した。
1891年2月25日、三条実美の国葬が行われた。
.
  (今日の言葉)
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  題:漢江の奇跡(ハンガンのきせき)は・・、
    日本の経済援助なしではできなかった。
.
紀元前6年頃、イエス・キリストが生まれる。
  イエスの生誕は、紀元前6年頃ともいわれている、また、
 紀元前4年頃ともいわれている。
  そして、その中間ともいわれている。
  西暦が決められた頃は、西暦0年がイエスの生誕とされ
 ていた。
  しかし、その後、生誕とさられる年数は変転した。
  生誕だけで、この様な状態で、つまり、その存在が不
 確かなのである。
  没したのは、紀元後30年頃とされている。
  「キリスト」という意味は、「膏(あぶら)を注がれ
 た(塗られた)者」「受膏者」という意味のヘブライ語
 で・・、
  故に、イエス・キリストが姓名ではない。
  当時、「イエス」という名を持つ人は何人も居て・・、
  だから、ナザレ生まれのイエス(ナザレのイエス)と
 言われて個人を特定した。
  しかし、このイエス・キリスト(ナザレのイエス)の
 実在は証明されていない。
  初期のキリスト教が、1世紀~2世紀のころ、都合の悪
 い書類を大量に焼却した。
  この事によって実在が証明できなくなった・・または、
 本当に実在していなかったのか?
  いずれにしても、実在証明の出来ない事となっている。
  イエスの活動は、その最晩年の1年か、2年の超短期だ
 った。
  それまでは、父と同じ職業の大工をしていた。
  もしかすると、父の没後、大工を止め、エルサレムで
 予言者を始めたのかとも言われている。
  この頃のエルサレムは、町の娘に売春をさせていたエ
 ルサレム神殿が存在したり、また、戦争も頻発するとい
 う世情の中にあった。。
  巡礼の参拝で来た地方の人たちを相手に、その不特定
 の男たちを相手に、街の娘たちは恥辱の行為を強いられ
 ていた。
  そして、その様なエルサレム神殿の前で、「金持ちの
 豪華な供物より、貧乏人の貧しい供物の方が価値がある
 のだ」などという程度の道徳論を披露するイエス・キリ
 ストだった。
  いつも、決まった少人数のグループと活動していた。
  いつ聖書を読んでも、その人間関係の狭さが気になる。
  イエスは、平均寿命が三十数年という時代の、最晩年
 の1年か、2年の超短期間、エルサレムの広場で、予言者
 稼業をしていた。
  聖書にも記されているが、イエスは、故郷の人たちか
 ら、「予言者とは、うまいことをやっているな」と言わ
 れていた。
  イエスは、故郷の人たちからは、普通の人に見られて
 いた。
  だから、イエス自身も故郷の人たちに対し、「話が、
 そして、暗示がかからない」と嘆いている。
  イエスの子供の頃から、イエスを見ている故郷の人た
 ちには、普通の人と変わらない状態だった・・その様に
 見られていた。
  「あのイエスが、予言者をやっているよ」という状態
 だった。
  だから、イエスに向かって、「予言者業とは、うまい
 事をやっているな」の言葉になった。
  当時、エルサレムには、この様な予言者を仕事とする
 者が大勢いて、その多くが刑場で殺された。
  麦の一粒が落ちたら、その一粒のままにあるという乾
 燥した砂漠地帯の環境の中で育ち・・だから・・、
  天の雨の恵みが豊かに降り注ぐ、その様な豊かな地の、
 価値ある言葉は、想像もできない、また、話すこともで
 きない。
  砂漠の恵みの少ない地、わずかな恵みに群がる人々が
 居るという地・・だから、飢餓と背中合わせの地で・・、
  聖書もある様に・・キリスト教の神が、隣国の民を、
 『奴隷にせよ、奴隷にせよ』と叫び、隣国の民さえ自民
 族の生きる糧とせよという神の叫ぶような地・・その様
 な教え・・、
  豊かな思想・思考は生まれない。
  だから、そこは、奪い取りと殺戮だけとなる。
  そして、無理やりの神殿娼婦にさせられた街の娘は、
 神殿にやってくるお参りの見ず知らずの男の相手をさせ
 られた。
  キリスト教は、この様な環境の世界の宗教。
  男尊女卑の世界であった、その教えであった。
.
1600年、イギリス東インド会社ができた。
  インドの方々を殺戮し虐げた、酷いイギリスの会社が、
 この年に、出来た。
  世界遺産に登録すべき人類の歴史の大汚点だった。
  アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社
 である・・と、表面は美しく説明されている。
  アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行か
 ら貸付を受けながら、
  17世紀~19世紀半ばにかけて、アジア各地の植民地経
 営や交易に従事した(国としての行動)
  アジア貿易と美しく言うが、実態は、植民地で、奴隷
 のようにインドの方々を働かせ・使役し、搾取した。
  イギリスの勅許会社と言う通り、国が勅命で行なう行
 動は、「イギリスという国」なのであって、「イギリス」
 そのものだった。
  会社なんだから、イギリスという国ではないというの
 は「虚言」で『逃げ』だった。
  (イギリスは、この様な言い逃れを言って、世界中で
 悪行為ばかりしていた)
  アジア貿易の独占と言ったって、武力で以って、力で
 従わせて行った。
  従わないインドの方々は殺戮し、また、木に吊るして
 殺した。
  木に吊るして死んでも、そのまま並木道は、その様な
 可哀想なインドの方々が、ずらりと吊るされ、見せしめ
 にされ、インドの方々を恐怖に陥(おとしい)れ、この
 様な力で従わせさせていた。
  こんな事を長い期間(17世紀~19世紀の300年近くも)
 し続けたイギリスだった。
  それだけ、様々な、考え付くすべての悪の酷いことを
 した。
  東インド会社が、酷いことをする故に、イギリスは、
 卑劣な逃げのかたちを作った、隠れ蓑とした。
  それは、東インド株式会社という名で誤魔化した。
  東インド株式会社だけで、あんな卑劣な、大々的な殺
 戮や、戦争が・・出来る訳が無い。
  すべて、イギリスという国家と同時進行・連動だった。
  陰に隠れるイギリス国家は卑劣であり、劣悪・卑劣な
 罪悪漢である。
  こんな卑劣な論理が成り立つならば、国家が、どんな
 悪いことをやっても、「○○という個人がやった」とい
 う言い訳が成立し、それで済まされてしまう。
  国の責任は回避される怖ろしい事である。
.
1867年、旧根岸競馬場
  居留地の外国人の娯楽として競馬が始まった。
  関東大震災で大きな被害を受けた。
  現在でも残る一等馬見所は、7階建て、高さ28.77メー
 トル。
  客席を覆う大きな庇(ひさし)は、市柱が少なく、客
 席からコースを良く見渡せた。
  戦後、米軍に接収された。
  今は、市が管理している。
  しかし、廃墟(はいきょ)同然の様で、壁面は、蔦(
 つた)に覆われている。
.
1869年10月、三菱の前身となる土佐開成商社が成立した。
  岩崎弥太郎は、土佐藩最下級士族の岩崎弥次郎の長男
 として1834年に出生した。
  1855年(21歳)に、江戸へのぼり、安積艮斎の塾に入
 門するも、父の奇禍(父親が酒席で庄屋と喧嘩して投獄
 された)で、帰国し、父に連座して入牢された。
  1859年(25歳)に、土佐藩参政・吉田東洋の門下生と
 なり、後に、藩の下横目の職を得て、長崎に出張するが、
 無断帰国し解職された。
  1866年(32歳)に、再び、土佐商会主任として長崎に
 行き、藩の貿易に従事し、同所閉鎖後は、大坂出張所で
 働く、
  1869年10月(35歳)土佐藩首脳の林有造が、海運業私
 商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立
 ち上げた。
  代表は、海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之
 助で、
  岩崎弥太郎は、事業監督を担当した。
  1870年(36歳)の維新後に、土佐開成商社が九十九商
 会と改称して、船2隻を土佐藩外債を肩代わりする条件で
 入手し、海運業に従事した。
  後に、三川商会と改名した。
  1873年(39歳)に、三菱商会となる。
  1874年(40歳)に、台湾出兵で政府輸入船を託され軍
 事輸送にあたり、
  1875年(41歳)政府の補助金を受けて国内海運を独占
 し、三菱財閥の基礎を築いた。
  1885年(明治18年)51歳で没した。
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1869年(明治2年)パン、ビスケットを専門に製造する木村
 屋が創業した。
  そして、1874年に、創業者の木村安兵衛とその次男で
 二代目の英三郎が、あんぱんを考案した。
  翌年・1875年に、明治天皇陛下に献上された。
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1895年、日清戦争によって、日本が、中国(清)に勝った
 ・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよう
 な出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、
  「貢を持って従属すれば良し」の思想である。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制をとり続けて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国の体制下に従属させられて来
 た。
  朝鮮は、古代から中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティとして来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主である中華(清)を負かした事
 は、だから、驚天動地の事だった。
  朝鮮は、中華(清)から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で、独立した。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」との
 日本の毅然とした対等の独立した立場をとった日本だっ
 た。
  この時、冊封体制の下の体制に入ると思っていた中華
 の煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていたのだっ
 た。
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1945年8月28日、アメリカ軍の日本進駐。
  アメリカは、卑劣な事に、最初、戦後の日本に進駐す
 る兵士を、黒人兵だけとした。
  それは、日本が、まだ、徹底的に抵抗すると思ってい
 たからだった・・
  ・・レジスタンスを組織したりして・・、
  その為、人種差別的に、その様なことが起きるか否か
 の見定めもあり、白人兵を危険に曝(さら)さないとい
 う方針で、黒人兵だけを組織し、日本へ進駐した。
  因みに、終戦直後の、第二次世界大戦における日本の
 敗戦からサンフランシスコ講和条約締結までの間、
  連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の占領下に置
 かれた日本であった。
  故に、主権と行政権を留保した。
  日本の降伏に伴い、日本政府が受諾したポツダム宣言
 の文面では、ウィンストン・チャーチル英国首相の提案
 によって、「日本領土」ではなく、「日本領土内の諸地
 点」への「保障占領」となっていた。
  そして、降伏文書の調印まで、日本本土(北海道・本
 州・四国・九州)に先遣隊として到着したアメリカ主導
 で組織された連合国軍は、1945年8月28日から、日本への
 進駐を開始した。
.
1950年6月25日、朝鮮戦争
  この日、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金
 日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が、突然、韓国に侵
 攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。
  その2日後の6月27日に、マッカーサーは、朝鮮半島に
 おけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与された。
  ただちに、軍需物資の緊急輸送と、アメリカの民間人
 救出のための船舶、飛行機の手配を行った。
  そして、朝鮮戦争の司令官となったマッカーサーは、
 中国との国境に流れる鴨緑江(おうりょっこう)に架か
 る橋を爆破したいと、アメリカ本土・ワシントンに、そ
 の作戦の許可を求めた。
  その橋を渡って中国軍(中共義勇軍と称した)が、続々
 と渡って来ていた。
  マッカーサーの作戦は、至極、当然の、筋の通った作
 戦だった。
  すぐに行なうべき作戦だった。
  しかし、アメリカ本土・ワシントンからの許可は下り
 なかった、許可は得られなかった。
  武器弾薬と共に中共軍が、ぞくぞくと入って来ていた
 のにである・・、
  この時のアメリカの作戦は・・、
  「アメリカは、戦争に勝ってはならない」。
  「いつまでも戦うのが良いのだ」・・だった。
  マッカーサーは、回顧録で、この時の詳細を記した。
  マッカーサーの作戦のすべてが否定された・・と、
  すべてに「ノー」と言って来た・・と、
  また、おかしなことに、蒋介石の国民党軍が、国連軍
 に加わって参戦し、応援したいと、参戦の意思を強く示
 したが・・、アメリカ本土のワシントンは許可をしなか
 った。
  そして、マッカーサーは、優秀で、頑張りすぎると解
 任されてしまった。
  マッカーサーは、ここに至って初めて気づいた、
  「自分は、アメリカのエスタブリッシュメントのメン
 バーではない」・・と。
  (参考)エスタブリッシュメント:establishment、既
    存体制と訳されることもある。
     イギリスでいわれはじめたもので、社会改革を
    はかろうとする者から攻撃される既成の社会秩序
    の総体をいうが・・、
     通常は・・国家、政府機関、支配階級、特権階
    級などをさす。
  そして、総てを察したマッカーサーは、1951年5月3日、
 アメリカ議会の上院軍事委員会で、第二次世界大戦(大
 東亜戦争)について重要な証言をした・・、
  「日本が戦争に至ったのは、その大部分が安全保障の
 必要に迫られたからだった」・・と、
  日本の存立を否定したアメリカの行為に、やむを得ず
 の戦いを起こしたのだった・・と、
  「日本の大義」を認めた・・そして、そう認識した証
 言を行なった。
  大東亜戦争の真実を証言した。
  さらに、朝鮮戦争には、後日談がある・・、
  国連軍が組織される時、スターリンは、安全保障理事
 国として「拒否権を発動できた」・・しかし・・
  『そうはしなかった』・・、
  国連軍が創設されなければ、スターリンが応援する北
 朝鮮の勝利となる・・
  しかし、スターリンは、拒否権を発動しないで、「そ
 の会議に出席するな」と指令した。
  アメリカとグルになっていたことが事実となって、今、
 知る所となっている。
.
1965年、漢江の奇跡(ハンガンのきせき)は、日本の経済
 援助なしではできなかった。
  さらに、日本は、韓国を統治していた時代、日本は、
 アメリカやヨーロッパがやったような統治ではなかった。
  アメリカやヨーロッパは、ただただ、植民地から利益
 を奪取しただけだったが、日本は、韓国のインフラを整
 備した。
  また、日本の誠実な統治によって、韓国の民族資本が
 蓄積された。
  これもあったから、日本からの巨額の戦後賠償金も生
 き、見事な「漢江の奇跡」が出来た。
  この日本の性善説の韓国救済行為は、世界へも影響を
 与えた。
  ただ単に、韓国だけに留(とど)まらない行為だった。
  欧米の・・そして、イギリスが・・、インドや、オー
 ストラリアのアボリジニの方々などで行なった性悪説の
 殺戮や略奪行為、
  そして、アメリカの西部地域の殺戮と掠奪、および、
 太平洋地域の掠奪、および、フィリピンをはじめとする
 アジア地域での性悪説の略奪行為・・その様な行為とは、
 まったく違う。
  (参考)1965年、韓国は、日本と日韓基本条約を結ん
    だことにより、無償金3億ドル・有償金2億ドル・
    民間借款3億ドル以上(当時1ドル=約360円。現在
    価格では合計4兆5千億円相当)。当時の韓国の国
    家予算は3億5千万ドル程度)の日本からの資金供
    与及び貸付けを得ることとなった。
     国際協力銀行によると、1960年半ばから1990年
    代までにトータル6000億円の円借款が行われ、韓
    国はこうした資金を元手に「漢江の奇跡」の象徴
    とも言われる京釜高速道路をはじめとした各種イ
    ンフラの開発や、浦項総合製鉄をはじめとした企
    業の強化をおこなった。
     インフラ整備後は、日本の民間企業によって大
    規模な投資がおこなわれた。
     しかし、韓国では、日本による多額の経済・技
    術援助が韓国の発展に寄与したことを一般には知
    らされていないため、多くの韓国人は、自国が独
    力で経済成長を達成したと考えていると指摘され
    ている。
     恩を売りたい訳ではないが、人として、助けて
    戴いた日本に対しての礼をしっかり尽くして戴き
    たい。
     決して、恩を仇(あだ)で返すようなことはし
    ないこと。
.
1981年3月30日、レーガン大統領暗殺未遂事件
  アメリカのロナルド・レーガン大統領は、大統領選挙
 の期間中から「FRBに対する疑念」を口にしていた。
  大統領に当選した後、レーガンは、FRB議長に面会
 を申し込んだ。
  FRB議長は断った・・拒否した。
  FRB議長は、アメリカ大統領の面会要請を断われる
 ほど絶大な権力を持っていることを示した。
  レーガン大統領の再三の面会要請によって・・面会が
 行われるが・・その面会で、レーガン大統領は・・、
  「FRBは、何故、必要なのか?」
  「この質問を良く受けるのだが・・」と切り出した。
  その言葉を聞いて、FRB議長は慌てた様子を周囲に
 示した。
  FRBの存在に懐疑的だったレーガンは、大統領に就
 任してわずか2か月後の1981年3月30日に、ワシントンで
 銃撃された。
  緊急手術が行なわれて、幸い、危うい所を助かった。
  アメリカの大統領は、政府が独自に紙幣を発行しよう
 としたり、民間資本の中央銀行を廃止させたり、規制し
 たりすると、暗殺の危機にさらされる。
  これまでのアメリカが、そのことを示している。
.
1991年、ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカで、
 1991年に、ソ連が崩壊しロシアとなり、エリツィンが大
 統領になると、アメリカは、ジェフリー・サックスとい
 う国際主義の経済学者をリーダーとするアメリカ人顧問
 団をロシアに送り込んだ。
  そして、価格統制を廃止し、市場経済を導入した。
  そして、さらに、「バウチャー方式」という手法で、
 ロシア国営企業の民営化を推し進めた。
  これは、政府が国民に対し、一定金額のバウチャー(
 民営化証券)を配布し、民営化された企業の株式と交換
 できるようにする方式で、
  表向きの導入理由は、「従業員は、自分が働いている
 会社の株式をバウチャーによって取得して、株主になる
 ので、働くモチベーションが上がる」というものだった。
  しかし、現実には、商才に長(た)けた連中が、この
 株式の意味が分からないロシアの方々から、バウチャー
 を安く買い漁(あさ)って行った。
  そして、買い集めたバウチャーで、国営企業を払い下
 げてもらい、オーナーとなり、新興財閥となった。
  銀行や、自動車販売会社や、石油会社などの・・この
 新興財閥のほとんどが・・ユダヤ系だった。
  エリツィンとアメリカによって、この様な新興財閥が
 次々と誕生した。
  そして、莫大な富を独占した。
  膨大な富を独占したこのグループは、さらに、政治に
 も・・、
  このグループは、エリツィン大統領を全面的に支援し、
 政治にも強い影響力を及ぼした。
  そして、また、1996年の大統領選挙においても、エリ
 ツィンを全面的に支援した・・そして、その功績で・・、
 このグループの一員が、第一副首相に就任した。
  また、さらに、このグループの要員が、ロシア安全保
 障会議副書記や、CIS(独立国家共同体)執行書記と
 なった。
  このグループの新興財閥は、「政商」として富を独占
 した。
  ロシアの方々は、この時点で、そのあまりの酷(ひど)
 さに、激しい批判の声を上げた。
.
2017年5月25日、イギリスのコンサート会場で、爆発テロが
 あり・・22人の方々が無くなった、尊い命が失われた。
  また、この後、死者数は増加した。
  イギリス中部のマンチェスターのコンサート会場で22
 日夜(日本時間23日の朝)に起きた自爆テロで、8歳の
 女児1人を含む22人が亡くなり、また、59人が負傷した。
  イスラム過激派組織「イスラム国」が犯行声明を出し
 た。
  (イスラムの方々は、このイスラム国はイスラム教で
 はないと言っている)
  イギリスでは、2005年7月に、52人もの人々が亡くなる
 「ロンドン同時テロ」がある。
  イギリス警察当局は、5月23日、実行犯の男をサルマン・
 アベディ容疑者(22歳)と特定したと発表した。
  アベディ容疑者は、リビア系イギリス人。
  イギリス警察当局は、5月24日、「我々の捜査対象は、
 ネットワークだ」と述べ、単独犯ではないとの見方を示
 した。
  ラッド英内相も、5月24日、イギリスBBC放送に対し
 て、アベディ容疑者が、「一人で行動していたのではな
 いかもしれない」と述べた。
  リビアから最近帰国したとの地元紙報道も事実だと認
 めた。
  イギリス紙ザ・タイムズは、容疑者が「3週間前にリビ
 アに行き、数日前に帰って来た」と友人が述べたと伝え
 た。
  コロン仏内相は、フランス・テレビで、5月24日、アベ
 ディ容疑者がシリアに渡航し、イスラム過激派組織「イ
 スラム国」と関係があったとの情報をイギリスとフラン
 スの情報機関が把握していると述べた。
  当然、上記のイスラム国やテロ犯を弁護する訳ではな
 いが、
  また、当然、この様な行為を、憎むが・・
  テロが悪いという事だけに集中するのは良くない。
  その奥にある巨悪が問題なのだ・・
  何故、テロをせざるを得ない状況になっているのか?
  その視点を持たなければ、「テロは無くならない」。
  テロを起こさせる原因の原点を辿(たど)って行くと・・
  自分だけが裕福になり、その様な世界システムを強い
 立場にあるから、金があるから、だから、自分に都合の
 良い社会システムを作ってよいのだ・・という所に居て、
  狡猾に作り出している輩たちが一番悪い輩なのだ。
  自分に都合よいシステム、結局、それは、「社会の歪
 (ひずみ)」を作り出している・・その様な輩たち・・、
  更にその輩たちへ、「これが正義である」と錯乱的に
 思考させるキリスト教の考え方・教義が悪いのだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)529E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

2017-05-26 03:20:12 | 日記
題:(増補版)529E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年1月1日、小岩井農場が開設された。
  井上勝らが岩手県に農場を建設され、設立者や支援者
 らの名前を取って小岩井農場と名付けられた。
  以下、小岩井農場のホームページを参考にして・・
  1888年(明治21年)6月12日、盛岡を訪れていた明治政
 府の鉄道庁(当時は鉄道局)長官、井上勝は、眼前に広
 がる岩手山の南麓に広がる風景、木もまばらな不毛の原
 野に目を奪われた。
  奥羽山脈から吹き降ろす冷たい西風のなかに、ススキ
 や柴、ワラビなどが散在する火山灰地の原野・・、
  井上は、この荒れ果てた土地に、大農場を拓こうとい
 う、かつて、誰も抱いたことのない夢が、頭の中に広が
 って行った・・、。
  この井上勝という人は、「日本の鉄道の父」と言われ
 る人で、
  幕末の動乱期に、イギリスに渡航した伊藤博文、井上
 馨らの5人の長州藩士の一員で、近代土木技術、鉱山学な
 どを学んだ。
  そして、帰国し、1872年、新橋~横浜間の日本最初の
 鉄道敷設をした・・
  また、それだけでなく・・東海道本線、東北本線など、
 数々の鉄道工事の陣頭指揮をし、、日本の鉄道事業の基
 礎を築いた。
  この岩手県盛岡を訪れたのも、東北本線の延伸工事を
 視察するためだった。
  井上は、この岩手南麓に広がる荒地を前に、井上の胸
 に去来したのは、今まで・・長年、鉄道敷設事業に携わ
 る中で、数多くの日本の「美田良圃(びでんりょうほ:
 美しい田と良い畑)」を潰したことだった。
  やむなく、その様にならざるを得ない行為に対する悔
 恨の念だった。
  岩手の広大な荒野を前に、この様な荒野が、手付かず
 で放置されているのであれば、せめてそれを開墾し、大
 農場を拓きたいと思った。
  美しい田園風景を損なってきたことの、悔恨の情を埋
 め合わせをしたいという気持ちだった。
  そこに、国家公共に報いる・・国家公共のため・・自
 分がなすべき事業と確信した。
  井上は、この構想を、岩崎彌太郎のもとで、三菱を支
 えていた小野義眞に打ち明けた。
  そして、助力を依頼した。
  当時、三菱社は、彌太郎の死後、実弟の岩崎彌之助が
 第2代社長に就いていた。
  小野義眞は、早速、井上と彌之助を引き合わせた。
  井上の理念、「国家公共のため、荒地に農場を拓きた
 い」という井上の高邁な願いに感銘を受けた彌之助は、
 その場で出資を快諾した。
  こうして、1891年(明治24年)1月1日、井上が場主と
 なり小岩井農場が開設された。
  名前の由来は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1字
 ずつ取って作られたのだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、グローバリズムは、その欠陥を露呈して反発を招いている。
.
1910年、今の韓国(大韓民国)は、この当時、大韓帝国と
 言った。
  当時、この大韓帝国の李完用という政治家を中心にし
 て「一進会」という組織があった。
  この組織が、「韓日合邦建議書」を起草した。
  これは、「日本と大韓帝国が合邦することを要求する」
 という声明書だった。
  そして、100万人の署名活動を行なった。
  大韓帝国の人々は、合邦する事が大歓迎だった。
  そして、日本と大韓帝国は併合に至った。
  日本は、この大韓帝国の人々を「政治に参加させよう」
 と努力した。
  また、教育に努力し、生活を向上させようとした。
  そして、日本は、社会インフラを一生懸命に整備した。
  この豊かにするという考え方・概念は、アメリカやヨ
 ーロッパの植民地支配には、まったく無かった。
  アメリカやヨーロッパは、卑劣にも、ただただ「搾取
 と略奪をするだけ」という植民地経営だった。
  アメリカやヨーロッパは、政策を遂行するため、徹底
 的に自国の言葉を教育した。
  相手国の文化を否定するという「虐(しいた)げ行為」
 だった・・「いじめ行為」だった。
  自国の利益が得られれば良いという、自国の利益を優
 先した・・得るという目的から、観点から行動がなされ
 た。
  やっていることは、まったく人道的ではなかった。
  すべては搾取の為だった。
  植民地の方々は、可哀想な事に自国の言葉が奪われ、
 文化も奪われた。
  アメリカは、フィリピンの植民地を英語化した。
  今でも、フィリピンは英語が公用語になっている。
  また、ベトナムも、フランス語化され、フランス語が
 公用語になっている、
  また、インド(イギリスの植民地〉でも英語化され、
 英語が公用語になっている。
  自分の御都合主義だった。
  何しろ、アメリカのフィリピン、イギリスのインドな
 ど、アメリカやヨーロッパは、武力によって植民地とし
 た。
  台湾は、清(当時の中国)から、「化外(けがい)の
 地だ」と、日本は言われた。
  「化外の地」とは、『国家の統治が及ばない地』とい
 う意味である。
  開拓もされず、ほったらかしのこの台湾を、日本は、
 一生懸命に整備した。
  伝染病が多い地だったが、衛生面に於いても一生懸命
 に努力した。
  学校、ダムなどの社会資本の整備にも一生懸命に努力
 し、築いた・・
  (参考)化外の地(けがいのち、化外之地)とは、中
    華文明に於いて文明の外の地方を表す用語。
     中華思想では、中国の権力・法律が行き届いて
    いない地方のことをいい、また、その地方に住む
    民族を「蛮族」と呼んだ。
     中国の古代では、中原から遠く中華文化の影響
    が薄かった台湾・海南・新疆などのことを呼んだ。
     また、小中華思想のあった朝鮮やベトナムなど
    では、中国文明の行き届かない地域をもそう呼び、
    中原からはるか遠くの占城、真臘の外の地域や、
    北方遊牧民が立てた王朝を化外の地と見做し、朝
    鮮王朝は明の滅亡後に興隆した清を蛮夷とみなし
    ていた。
     宮古島島民遭難事件によると、日本政府は、日
    本人を殺害したこの事件に対し清朝に厳重に抗議
    したが、台湾の原住民は「化外の民」(国家統治
    の及ばない者)であるという清朝からの返事があ
    り、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、
    台湾出兵を行った。
.
1913年、連邦準備銀行(FRB)が設置された。
  アメリカの国際金融資本が、なぜ、そんなに金を持っ
 ているのか?
  これは、まったく不公正な事が行われている。
  あまりにも・・堂々と行われているため、ほとんどそ
 の指摘がなされる事がない。
  まったく・・「打出の小槌(うちでのこづち)」状態
 なのである。
  (参考)打出の小槌:うちでのこづち、望む物の名を
     唱えながら打つと、それが出てくるという、小
     さい槌(つち)。
  アメリカ政府が、金が必要となった時、例えば、戦争
 の時など、莫大な金が必要となるが、その時・・、
  アメリカ政府は、国債を発行する。
  国債を印刷機で刷る。
  そして、その国債を、アメリカの中央銀行(FRB)に買
 ってもらう。
  世界の基軸通貨のアメリカ・ドルは、この中央銀行に
 発行権があるからである。
  中央銀行から得た金を使って、アメリカ政府は戦争が
 遂行できる。
  中央銀行は、アメリカ政府から買った国債を、市中銀
 行に買ってもらう。
  アメリカの中央銀行は、アメリカ政府に、アメリカ・
 ドルの金を渡したが、市中銀行から、また、金が入って
 来るので、結局、中央銀行が刷って発行した札(金)は、
 中央銀行のものになる。
  何の努力もしないで、中央銀行は金を手にすることが
 出来る。
  結局、中央銀行が、世界基軸通貨のアメリカ・ドル札
 を刷る行為は、自分の懐を肥やす「打出の小槌状態」と
 なる。
  この様な、アメリカ政府のアメリカ国債の借金は、べ
 らぼうに、莫大な額となっている。
  日本も、一生懸命、このアメリカ国債を買ってあげて
 いる。
  この様に「お得な立場の中央銀行」なのだが、公的機
 関ではない。
  ここが、また、不公正な所となっている。
  ある民間機関が、この様なお得な特別席に座っている
 アメリカなのだ。
  この100パーセント民間の銀行の大株主が、ロスチャイ
 ルド系の金融機関が握っている。
  何ら努力もしない「打出の小槌状態」を持つ金融機関
 なのだ。
  だから、18世紀に、ドイツのユダヤ系銀行マイアー・
 アムシェル・ロスチャイルドは・・、
  「自分に通貨の発行権を認めてもらえれば、法律は誰
 が作ってもいい」と、この濡れ手で粟状態の事を言って
 いる。
  通貨の発行権さえ握ればどうにでもなると言っている。
  因みに、日本の中央銀行は、日本政府が大株主となっ
 ている。
  アメリカ政府は、中央銀行から莫大な額の借金をして、
 その借金を返済させるために、中央銀行は、政策に口を
 出し、胃のままに政府をコントロールするという状態に
 なっている。
  通貨を支配するという事は、必然的に、国を、そして、
 世界を支配する事になって行く。
  現代の錬金術と言える通貨発行権は、巨大利権なのだ。
  まったく不公正なシステムが、実際、今、存在してい
 る。
  巨大な不労所得を享受する者ども。
  不公正この上ない。
  だから、世の中の動き、戦争なども、この輩たちの意
 思を推し量らなければならない。
  国際金融資本の意思を推し量らなければならない。
  アメリカが、民主主義国家と言うのは嘘。
  刷り込まれた幻想。
  実際は、アメリカの中央銀行(FRB)を取り巻くほ
 んの一握りの者たちが牛耳っている。
  そして、ここに絡んでいるのが「ネオコン」。
  (参考)この「打出の小槌」状態を、「信用創造」と
    いう。
     そして、その「信用創造」とは、銀行が預金と
    貸し出しを連鎖的に繰り返すことで、お金(預金
    通貨)が増えていくしくみを言う・・と、説明さ
    れている。
  (参考)FRBについては、一応、美しく、下記の様
    に説明されている。
  米国の連邦準備制度理事会。
  大統領が任命する7人の理事で構成され、うち一人が議
 長として統括する。
  中央銀行として公定歩合・FFレートの変更などを行う
 が、実際の中央銀行業務は下部組織である全米12の連邦
 準備銀行(FRB;Federal Reserve Bank)が担当する。
  [補説]連邦準備銀行と略称が同じだが、一般的に報道
 などで「FRB」とよばれるのは連邦準備制度理事会。
  (説明ー2)連邦準備銀行。
  米国の連邦準備制度において、全国12の連邦準備区に
 1行ずつ設けられており、連邦準備制度理事会(FRB;
 Federal Reserve Board)の統括のもと、紙幣の発行など
 を行う。
  各区の市中銀行に対して地区ごとの中央銀行としての
 役割を果たす。1913年設置。
.
1960年、慰安婦問題について、無実の日本に対して、韓国
 の作り話があまりに酷(ひど)いので、やむを得ず、以
 下の事を書く・・、
  在韓米軍慰安婦問題(ざいかんべいぐんいあんふもん
 だい)とは、在韓米軍と慰安婦(売春婦)に関する問題で、
  大韓民国の元慰安婦のグループが、1960年代から1980
 年代にわたり、韓国政府当局者によって組織的に米兵と
 の性的行為を強制されたとして、当時の政府指導者、韓
 国政府、米軍をアメリカの裁判所に告発、損害賠償を求
 める訴訟を起こしたことから知られるようになった。
  現在でも、在韓米軍基地周辺などで外国人売春婦の存
 在が指摘されており、2010年に、アメリカ国務省は、現
 在進行中の人身売買であるとする報告を行った。
  韓国では、在韓米軍慰安婦の他、基地村女性、特殊接
 待婦、洋公主などの呼び名があり、韓国においては、韓
 国人を相手にする売春婦とは明確に区別される。
  1962年6月には、米軍基地近隣104ヶ所を特定(淪落)
 地域に指定し、この地域での売春取締りを免除した。
  2009年1月7日(現地時間)、『ニューヨーク・タイム
 ズ』(電子版)が報じた。
  ニューヨーク・タイムズとのインタビューに応じた元
 慰安婦の原告女性(Kim Ae-ran)は、韓国政府は、アメ
 リカ合衆国軍(国際連合軍でもあった)の一つの大きな
 ポン引き(one big pimp)だったと主張している。
  朴正煕大統領時代の韓国は貧しく、外貨が不足してい
 たため、韓国当局者は、売春禁止法があったにもかかわ
 らず慰安婦たちを称賛し、また、売春行為を奨励してい
 たとも主張している。
  原告女性は、韓国当局者から「もっと体を売りなさい。
 あなた方はドルを得る愛国者だ」と称賛されたとも、イ
 ンタビューで語っている。
.
1980年代、自虐経済(グローバリズムの名のもと、どんど
 んこの状況が加速されて行った)
  バブル崩壊後(1991年・平成3年・3月~1993年・平成
 5年・10月ころ)、20年間、デフレに陥(おちい)った日
 本経済は、思考をも、内向きに変えてしまった。
  デフレ精神が、しみついた経済は、なんの成長戦略も、
 イノベーション(経済発展の一因としての技術革新)も
 生み出せない。
  ただ、縮小するだけの自虐経済でしかなく、これが、
 1980年代の終わりから始まった日米構造協議と連動して、
 グローバリズムの名の下(もと)、どんどん歩みを加速
 させて行った。
  仕組まれていたのだろう、自虐経済は、時を前後して
 発生した「自虐史観の問題」と流れが一致している。
.
1990年代、この頃から始まったグローバリズム。
  「アメリカン・グローバリズム」。
  グローバリゼーションは、「世界のアメリカ化」であ
 る。
  グローバリズムは、アメリカのグローバリズムである。
  グローバリゼーションは、アメリカの市場原理で、そ
 の市場原理を、グローバル規模で拡大しようという原理
 だ。
  グローバル規模の自由化のアメリカのやり方でやりた
 いというのが、「アメリカン・グローバリズム」なのだ。
  それは、アメリカの経済・企業システムに適合するよ
 うに世界各国を変えようとするアメリカ政府の強力な政
 策やイデオロギーなしに進展するものでは無かった。
  グローバリズムという言葉に翻弄されているが、ある
 一国のアメリカが、グローバリズムと言って、「アメリ
 カの考え方に於けるグローバリズム」を、他国へ押し付
 けようという一国主義なのだ。
  民主主義を標榜するアメリカが、何ら、民主主義的で
 はないやり方で、グローバリズムを推し進めている。
  国によっては、アメリカ等の、国外からのグローバリ
 ゼーションの大波に翻弄され、呻吟(しんぎん)する国
 や途上国もある。
  アメリカのグローバリゼーションを使った政策であり、
 イデオロギーである。
  この政策で、アメリカは、「急速に格差が拡大してい
 る」。
  それは、弱者を無視するイデオロギーであるので当た
 り前である。
  また、それは、個人の単位だけでなく、国単位でも起
 き、弱小国の産業も潰される。
  企業単位でも起きるから、中小企業も潰される。
  大きい企業には都合が良いのである。
  アメリカの様な大きい国には都合が良いのである。
  アメリカに生まれた貧困層は哀れである、憐れである。
  アメリカの中間層は居なくなった。
  その下の層へと転落した。
  その代り「1割にも満たない超富裕層」がより富を貯め
 込んでいる。
  グローバリゼーションのもとで、一方的に増加する富
 と機会を手にした超富裕層が、様々な可能性の広がる社
 会のこの階層が、そのすべてを手にして行く、富を手に
 して行く。
  逆に、この他方では、可能性が閉ざされ、自己選択の
 自由がない境遇に陥(おちい)って、この層・貧困層が
 増え続けている。
  新たな貧困層が生まれたのである。
  アメリカで、1990年代に始まった。
  はじめは、良さそうに見えた。
  景気が拡大し、失業率も低下した。
  しかし、低い失業率で、持続的に景気が拡大したにも
 かかわらず、多数の中産階級の賃金は上昇せず、それば
 かりでなく、株式や不動産といった資産市場価格は上昇
 し、このキャピタルゲインを受けた、わずかな超最富裕
 層に、その恩恵は集中した。
  「アメリカン・ドリームのアメリカ」は消えた。
  働いても、働いても豊かになれない「ワーキング・プ
 ア」が誕生した。
  そして、増えて行った。
  上層階層が豊かになれば、下層階層へその「富のしず
 く」が、滴(したた)り落ちるという「トリクル・ダウ
 ン」の話は、空理空論だった。
  おとぎ話に終わった。
  (参考)トリクルダウン理論とは、「富める者が富め
    ば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリク
    ルダウンする)」とする経済理論または経済思想
    である。
     均霑理論(きんてんりろん)とも訳される。
      サプライサイド経済学における中心的な思想と
    なっている。
  アメリカン・グローバリゼーションは、「トリクル・
 ダウン」が起きないようにしていて、そのメカニズムの
 中で成立するようにしているので、当たり前である。
  このシステムが、2015年に、TPPとして日本に輸入
 された。
  何もないという強い者が、強いがゆえに正義だと言う、
 弱い者を顧みないシステムは、強いもの信奉のシステム
 は、強い者=選ばれし者のシステムは、その選ばれし者
 という選民が、グローバル競争をしてこそ正義というア
 メリカン・グローバリズムの考え方である。
  そこに、弱者は、当然のこととして排除されるのが正
 義なのだとしている。
  キリスト教の選民思想の教義である。
  社会層間の格差が拡大し、階層的・地域的な不均等を
 もたらす教義である。
  グローバリゼーションは、キリスト教と同じ様に負の
 面を隠して、美化され過ぎている。
  人々を惑わしている。
  「グローバリゼーションは、世界中の企業と人々に可
 能性が広がる」は、良く言い過ぎている。
  1例を言えば・・、「アメリカで、ジャンク・フードば
 かりを食べ、また、食べざるを得ない人々の声を聞いて
 差し上げて下さい」。
.
1992年、慰安婦問題が、ねつ造された。
  捏造(ねつぞう)に関与したのは、「朝日新聞」と、
 「中央大学」の吉見義明教授だった。
  「朝鮮人の女衒(ぜげん、若い女性を買って、連れて
 行き、買い求める所へ売る。そして、性風俗の仕事をさ
 せる人身売買の仲介業)が、人さらいをして慰安婦を集
 めているのは、皇軍(日本の軍)の名誉を汚す事になる。
  だから、是正せよ」と、日本軍は、はっきりと書いた。
  こんな、読み間違えるはずのない文が、日本を貶(お
 とし)める道具にされた・・文書にされた・・証拠だと
 された。
  こんな明白な文を、それにもかかわらず、偽りの捏造
 に仕立てた。
  そして、朝日新聞は、「軍関与の証拠が見つかる」と
 大々的に、大袈裟に報道した・・嘘の報道をした。
  中央大学の教授が見つけたのだとした。
  (この証拠と称する文書も、その様な証拠になるとい
 うような文書でないため、長い間、ほったらかしにされ
 ていた。
  この教授が証拠としたが?古くからすでにあった、だ
 から、誰からも省みられなかった。
  そのような記述の文書を、嘘証拠を仕立てたのだった)
  その様なことであるのを、しっかり裏付けも取らず、
 朝日新聞は記事にして、結局、嘘報道となった。
  そして、この嘘がばれて、朝日新聞は、一連の事につ
 いて謝罪に至る・・、
  日本の軍は・・、
  「皇軍としての名誉が傷つく」から、朝鮮人の業者が、
 慰安婦の酷(ひど)い人集めをしているから、やめる様
 に罰しろと「命令書」を出したのだ。
  「止めさせる命令書」が、逆に、証拠に仕立てられた。
  朝鮮人の業者が、同胞の朝鮮の若い女性を食い物にし
 ているから、やめさせる様にと言っている事が、「証拠
 だ」と言うのだから「開いた口もふさがらない状態」と
 なる。
  止めに入った日本軍が、罰してまでして止めるように
 と行動した日本軍を、逆に、犯人に仕立てた。
  こんな明白な事を、朝日新聞は、中央大学教授と一緒
 になって、日本を貶める記事で報道した。
  この様な、詳細の事情が分からない世界は、この朝日
 新聞の記事を正しい報道だとして、受け入れてしまった。
  今、世界に慰安婦像が60体以上ある。
  アメリカやヨーロッパなどに、そして、世界に、朝鮮
 の活動家が、世界中に建てている。
  また、お粗末な事に、1993年8月に、「河野談話」が発
 表され、「これは真実だ」と言った。
  これは、お粗末な行動だった。
  罪作りな発言だった。
  この言葉から、国連の報告書も作られるという話に広
 がった。
  この流れは、今でも続いて、止まっていない・・
  日本政府は、声を大きくして、正義の声を発せよ!
  変な妥協はするな! 誤解のもとになる。
  後の世代の方々へ負の遺産(嘘の遺産)を作るな、常
 に、正義の言葉を発せよ!
  韓国・朝鮮の方々との歴史には、この様なだましの歴
 史が連綿と続いて来ているいることを学べ!
  こんな事は、江戸時代にもあった。
.
2016年6月23日、イギリスで国民投票が行われ、イギリスの
 EU離脱が決まった。
  良く見えたグローバリズムは大きな落とし穴があった。
  グローバリズムが世界に広がり、拡大し続けるととも
 に、普通の人々が普通に生活できないという、経済が毀
 損(きそん)され酷(ひど)さが目立って来た。
  その一方で、富は一握りの層に集中して行った。
  ひどい経済格差が世界中に広がって行った。
  グローバリズムに対する民衆の怒りが沸点に達した。
  その端緒を切ったのが「イギリス」だった。
  2016年6月23日の国民投票で、イギリス国民は、EUか
 らの離脱を選択した。
  その要因の一つに、『イギリスへの移民問題』があっ
 た。
  また、財政の現状を粉飾してユーロ圏に潜り込んだギ
 リシャの問題があった。
  実際は、ギリシャの財政は酷い危機状態にあった。
  ギリシャ経済は、崩壊同然であった。
  こんな不誠実なギリシャを支えねばならなかった。
  移民が、シリアから150万人もの人々が、難民としてE
 U諸国に入って来ていた。
  ポリティカル・コレクトネスと言いながら、アメリカ
 には、依然として、黒人の方々への人種差別が存在し、
 そして、続いている、また、宗教的にも、キリスト教に
 偏している国家となっている。
  この様な、言っている事と、やっていることが矛盾す
 る国家の口車(くちぐるま、口車に乗る:言葉巧みに言
 われてだまされる。おだてに乗る)の中で、世界は流転
 (るてん)した。
  移民を受け入れて、イギリスの下層の労働者は、仕事
 を奪われた。
  難民流入で、犯罪やテロが頻発した。
  治安も悪化した。
  治安の良い日本からは、想像ができないような酷い状
 況となった。
  雲泥の差となった。
  (2017年5月23日、自爆テロがまた起き、23人の尊い命
 が亡くなった)
  フランスでも、EUを主導するこの国にも、移民に対
 する反発は高まっている。
  EU離脱を掲げる大統領候補の支持率が急激に高まっ
 た。
  イギリスの様に、EU離脱とは成らなかったが、
  また、イタリアでも、EU離脱の支持者が増加してい
 る。
  また、ドイツでも、移民問題への不満の声が高まって
 いる。
  因みに、フランスは、500万人もの移民を受け入れてい
 る欧州の最大規模の移民大国であるが・・、
  2015年1月の「シャルリー・エブド」襲撃事件、
  2015年11月のパリ同時多発テロ、
  2016年7月のニースでのトラックテロ・・と、テロの
 連鎖が続いている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)528E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

2017-05-23 02:00:20 | 日記
題:(増補版)528E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年1月1日、日本の総人口4025万人となり、4000万人を
 突破した。
  因みに、2015年の日本の総人口は1億2700万人、そして、
 ロシアは、1億4410万人で、韓国(大韓民国)5062万人。
1891年1月3日、博文館が、「少年文学叢書(そうしょ)」を
 刊行開始した。
  これは、世に好評を博し、日本の近代児童文学の先駆
 けとなった。
  1894年まで、ほぼ毎月刊行された。
1891年1月8日、衆議院予算委員会が、政府提出予算の大幅
 削減案を提出し、政府はこれに同意しなかった。
  政府の作成した予算案が、1890年12月3日、衆議院に
 提出された。
  衆議院は、63名の予算委員を選出し、審査方針の論義
 に入った。
  論義は、立憲自由党内の政府妥協派の抵抗によって難
 航した。
  しかし、結局、7項目からなる審査方針と、これに基づ
 く「官吏俸給表」や、「各局統廃合及人員配当表」「旅
 費定額表」を審査の基準として決定したのち、6科に分か
 れて予算の審議に入った。
  1891年1月8日、衆議院予算委員長の大江卓(立憲自由
 党)は、「民力休養(減税)」と「経費節減(予算削減)」
 を掲げる民党の多数意見を尊重し、軍艦建造費など800万
 円以上を削減する大幅な軍縮予算案を査定し、これを内
 閣へ報告した。
  1月9日、蔵相・松方正義は、衆議院本会議で「この査
 定案に不同意である」と明言した。
  2月5日、蔵相・松方正義は、「歳出の廃除・削減は、
 確定議前に1院(衆議院・貴族院)ごとに政府の同意を
 求めるべきである」と言明した。
  首相・山県有朋も、衆議院で同趣旨の演説をした。
  2月20日、与党の大成会は、「憲法67条にもとづく歳出
 に関し、確定議前に政府の同意を求めるべきだ」との動
 議を提出した。
  憲法67条には・・、
  「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ
 由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナ
 クシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス 」
 ・・という規定がある。
  自由党土佐派など旧愛国公党系の議員28人は、立憲自
 由党を裏切って動議案に賛同したため、わずか2票差で可
 決された。
  2月21日、中江兆民は、「衆議院は腰抜けだ」。「無血
 虫の陳列場だ」と叫んで、辞表を提出した。
  2月24日、林有造・植木枝盛ら土佐派29議員は、立憲自
 由党を脱党した。
  2月26日、板垣退助も脱党し、大成会など政府支持派と
 共に予算成立に協力した。
  3月2日、衆議院は、政府との妥協による予算案を修正
 (歳出削減幅を651万円に縮小)して、可決した。
  3月、脱党していた土佐派の片岡健吉ら25議員は、自由
 倶楽部を結成した。
  立憲自由党は打撃をうけた。
  3月19日、欧米から帰国した星亨は、立憲自由党大会を
 開催し、党名を自由党として再結成し、板垣退助を総理
 に迎えた。
  その後、自由倶楽部を結成していた片岡健吉ら25議員
 も、自由党に復帰した。
  4月、山県有朋は、第一議会終了を機に、勇退を決意し、
 辞表を提出した。
  5月6日、松方正義が、蔵相兼第四代総理大臣に就任し
 た。
1891年1月、インフルエンザが流行した。
  国立感染症研究所・感染症情報センターの記事に・・、
  1889年~1891年に、H3N8によるパンデミックが発生し
 ていたと記されている。
  (参考)パンデミック(英語: pandemic、世界流行)
     は、ある感染症(特に伝染病)が、顕著な感染
     や死亡被害が著しい事態を想定した世界的な感
     染の流行を表す用語。
1891年1月9日、内村鑑三不敬事件
  内村鑑三の教育勅語不敬事件起こる(礼拝拒否)
  東京・本郷の第一高等中学校の嘱託教員をしていた内
 村鑑三は、教育勅語奉読式での敬礼を誠実に行わないで、
 不敬の礼であると同僚や生徒からたしなめられ非難され
 た。
  また、その後、社会的な問題となった。
  内村は、学校を辞任した。
1891年1月12日、東京と大阪の商工会議所の設立が許可され
 た。
  この年、全国の経済の発展と、国際化の進展に伴い、会
 議所制度の強化が必要とされ、条例が施行された。
  また、1878年(明治11年)3月、日本初の「東京商法会
 議所」が設立された(初代会頭・渋沢栄一)
  商工業者の声を、国の政策に反映させるために発足し、
 以来、行政への意見具申は、今日に至るまで最も重要な
 活動となっている。
1891年1月12日、新橋~神戸間の直通旅客列車を2往復運転
 とした。
1891年1月12日、長浜~深谷間線路を貨物線として使用を開
 始した。
1891年1月12日、御殿場~沼津間の複線が完成した。
1891年1月13日、警視総監が、保安条例を発動し、壮士ら
 54名へ東京退去を命じた。
1891年1月14日、鉄道庁第二部長一等技師・松本荘一郎が、
 ボーナルおよび本間英一郎とともに、碓氷の現地を巡視
 したの結果、中尾線が適当である旨を、長官へ報告した。
1891年1月19日、板垣退助が、議員40名と共に立憲自由党を
 起こした。
1891年1月19日、明治火災保険会社(後の東京海上火災保険)
 が、設立された。
1891年1月20日、仮議事堂が全焼した。
  東京・内幸町の帝国議会仮議事堂が全焼した。
  失火原因は漏電だった。  
  1890年に竣工したばかりだった。
  直ちに、再建がはじまった。
1891年1月20日、「旅客切手ノ正当ナラザルトキ取扱」を
 通達した。
  (鉄二調甲第43号、廃札にする乗車券および無改鋏・無
 日付その他取扱上正当でない乗車券についての報告は、
 従来、浜松以東は新橋運輸課長、浜松以西は神戸運輸課
 長あてであったが、駅長から、直接、鉄道庁第二部調査
 係主任あて報告となった)
1891年1月20日、カラカウア、ハワイ王国の第7代国王が死
 亡した。
  この方が、史上初めて、日本を訪れた外国の国家元首
 であった。
  明治天皇陛下と会見し、アメリカによるハワイ王国が
 奪われる動きがあったため、日本からの移民の要請をし、
  また、ハワイ王国存続のために、日本と姻戚関係を結
 びたいとの要望から、カイウラニ王女と山階宮定磨王
 (のちの東伏見宮依仁親王)の結婚を希望した。
  しかし、日本のアメリカに対しての配慮から、実現に
 は至らなかった。
  アメリカは、メキシコからテキサスなどを奪った方法
 と同じ方法で、1887年にクーデターが起こし、
  また、1893年、サンフォード・ドールなどのアメリカ
 からの移民たちが、増加した移民たちの力によって革命
 と称する国の奪取が行われた。
  まったくテキサスなどを奪う方法と同じだった。
  その結果、アメリカ合衆国の名目的な国家となり、結
 局、1898年に、ハワイ準州としてアメリカに併合され、
 ハワイ王国は消えた。
  アメリカは、軍艦を派遣して、軍艦を持たないハワイ
 王国を武力で威嚇し、武力で奪った。
  (史実)1887年6月:「ハワイアン・リーグ」の呼びか
    けで「ホノルル・ライフルズ」(白人市民の義勇
    軍)が協力する集会が開かれ、ここでカラカウア
    王に対し、現首相の退陣と新憲法採択を要求する
    決議案が発表(強制)された。
    (民主的な行為に見せかけた王国の奪取)。
     カラカウア王は、なんら有効な対抗手段を取り
    得ず、上記白人集団を中心とする新内閣の組閣を
    認めざるを得なかった。
     サーストン率いる「13人委員会」は、新憲法を
    起草、7月6日に、24時間以内に承認するようカラ
    アウア王に突きつけた。
     それ故、「ホノルル・ライフルズ」という武力
    のもとに調印させられたこの「1887年憲法」は、
    「ベイオネット(銃剣)憲法」と呼ばれるように
    なった。
     内容は、決定権を持つ選挙権を持つ者は、欧米
    生まれの外国人居住者に限って認めるという「ハ
    ワイ国を奪うことがありありの憲法」だった。
     白人に土地所有者が多かったので、土地を持つ
    ものを条件にしたため、多くのハワイの方々やア
    ジア人には選挙権は得られなかった。
     この様な卑劣なやり方などでハワイは奪われた。
1891年1月25日、小笠原長行が没した(1822年6月29日~1891
 年1月25日、68歳)従四位、
  「夢を夢見た非凡な貴公子」と言われた人。
  肥前国唐津藩主の長男として生まれた。
  幼少から明敏で、江戸に出て、朝川善庵に師事、40歳
 の1862年に若年寄、そして老中格、そして、江戸幕府の
 幕末の老中になった。
  生麦事件の時、事態を早急に終結するのが良いと判断
 し、賠償金10万ポンドをイギリスにポンと支払った。
  しかし、欲が深いイギリスは、薩摩藩から、さらに金
 を得ようと、取ろうとして、薩英戦争に至る。
  武力にものを言わせて金を取るの相だった。
  当時、来日していたアメリカ人女性宣教師のマーガレ
 ット・バラは、アメリカの友人への手紙に、以下の様に
 記した。
  「その日は、江戸から南の領国へ帰るある主君の行列
 が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役
 人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、
  この人たちは、当然、守らなければならないことも、
 幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。
  そして、その大名行列に出会ったとき、端によって道
 をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったの
 です」・・と・・、
  また、日本人の林董(はやしただす、幕臣、明治時代
 の外交官、伯爵)の回顧録に・・
  (事件を起こしたイギリス人の)リチャードソンたち
 は、「今日は、島津三郎通行の通知ありたり。危険多け
 れば見合すべし」と友人から忠告されていたと記されて
 いて、完全に薩摩藩の島津公の行列があることを知って
 いた。
1891年1月29日、ハワイ王国でリリウオカラニ女王が即位。
  しかし、ハワイ王国は奪われる運命に・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:「ルーズベルトは米国民を裏切り 日本を戦争に引きずり込んだ 。
   アメリカ共和党元党首ハミルトン・フィッシュが暴く日米戦の真相」
   という本が、2017年2月13日に出版された。
.
紀元前2万7000年、沖縄県で、この頃の人骨が発見された。
  沖縄県石垣市の旧石器時代の遺跡から、人の全身の骨
 が見つかり、沖縄県立埋蔵文化財センターなどが分析し
 た結果、
  これまで国内最古とされていた骨よりさらに1000年古
 い、およそ2万7000年前の骨と見られることが分かった。
  遺跡からは複数の骨も見つかり、埋蔵文化財センター
 は、国内で初めての旧石器時代の墓だったと考えられる
 と指摘している。
  沖縄県立埋蔵文化財センターなどは、石垣市にある「
 白保竿根田原洞穴遺跡」で、去年7月までの5年間、発掘
 調査を行い、国内で最も古いおよそ2万6000年前の人の骨
 が見つかっていた。
  この調査では、人の全身の骨も見つかっていて、詳し
 く分析した結果、これまで国内最古とされていた骨より
 さらに1000年古い、およそ2万7000年前の骨と見られるこ
 とが分かった。
  また、遺跡からは、食べ物や道具など生活の痕跡が見
 つからなかった一方で、複数の骨が発掘され、
  このうち1体の骨は、体を折り曲げた状態だったこと
 などから、文化財センターは、国内で初めての旧石器時
 代の墓があったと考えられると指摘している。
  調査に参加した元琉球大学准教授の土肥直美氏は、「
 見つかった全身骨格は、動物にかまれた痕があることか
 ら、遺体を埋葬しない風葬で葬られたと見られ、沖縄で
 は、琉球王国時代には、風葬の風習があったことがわか
 っているのでつながりがあるのか分析したい」と話して
 いる。
  (2017年5月19日、NHKニュースを参考にした)
.
1916年、ウィルソン・アメリカ大統領によって、ルイス・
 ブランダイスが、ユダヤ教徒最初のアメリカ合衆国最高
 裁判所陪席判事に任命された。
  サミュエル・ウンターマイヤー(1858年~1940年)が
 ウィルソン・アメリカ大統領の弱みを握ったことから、
 この話が始まった。
  これは、もともとは、ウィルソンの方から依頼した話
 だった。
  ウィルソンアメリカ大統領は、卑劣な事に、自分の女
 性問題を握られ、それに対しての「ゆすりに負けた」、
 その様なアメリカ大統領だった。
  ウィルソン大統領は、その女性スキャンダルのもみ消
 しを、サミュエル・ウンターマイヤーという弁護士に依
 頼した。
  ウンターマイヤーは、その見返りを求める。
  最高裁判事を指名するときは、「自分が推薦する人間
 を選んでくれ」と・・、
  ウィルソンは、その要求を受け入れた。
  そして、ウンターマイヤーの指定したユダヤ人が、最
 高裁判事となった。
  これが、アメリカの最高裁判事となった最初のユダヤ
 人となった。
  ウィルソンは、この後、個人的弱みを握られて行き、
 意のままに繰られた。
  ウィルソンの側近には、左派のイデオロギーの人物た
 ちで満ちた。
  ウィルソン大統領の言葉に、ロシア革命でロシア共産
 政権が樹立された時、「素晴らしい民主主義国が出来た」
 と言った。
  ウィルソン主義を掲(かか)げたが・・、
  そして、「アメリカ型の自由と民主主義を世界に広げ
 るのだ」としたが、
  結局、したことと言えば、外国の政治に積極的に介入
 し、内政干渉のし放題で・・、
  自分の思うようにいかないとなれば、「戦争もいとわ
 ない」という低劣な行動・態度で、軍事介入を積極的に
 して行くという低劣な国際主義者だった。
  社会主義的で、グローバル主義者だった。
  この様なグローバリズムの国際主義者だった。
  ウィルソンは、国際連盟を創設したが、この様な輩だ
 った。
  そして、国際金融資本が、その持ち前の「金融パワー」
 にものを言わせて、アメリカ支配を強め、
  そして、アメリカ政権内に、「ネオコン」が入り込ん
 で行った。
.
2007年、「グローバリズム」と言って、一見、良い様に聞
 こえるが、
  また、そして、「国際主義なんだ」とも言って、良い
 様に思わせるが、
  その言葉を掲(かか)げて、事を起こしている連中は、
 国際金融資本家たちで、巨大な金融資本を牛耳っている。
  このウォールストリートを拠点にする「超金持ち連中」
 は、
  国際金融資本のメインプレーヤーたちは、世界最大の
 金融財閥を形成している。
  ロスチャイルドを筆頭とするユダヤ系の金融資本家た
 ちで・・、
  グローバリズムとか、国際主義という言葉を冠して、
 事をしているが・・、
  つまるところは、自分の財閥に金が転がり込む仕組み
 を作って、やっている。
  それは、さも正しそうに、そして、美しそうに見せて
 いる。
  その金で・・企業に介入する。
  特に、重点を入れている一つが・・『メディア』、
  メディアは、その国の世論に多大な影響力を持ってい
 る・・そこで、ここに目を付け・・金の力によって、経
 営に大きな発言力を増して行く、
  そして、その報道姿勢について、自分たちの姿勢に則
 (のっと)ったものにして行く。
  日本の世論も、この手で、コントロールされて行って
 いる。
  国民の世論形成に影響力の強い所を押さえて行く。
  そして、国さえが・・コントロールされていく。
  この様な立場にいるロックフェラー(ロックフェラー
 第3代当主デービット・ロックフェラー)は言う、
  「一族と私は国際主義者であり、世界中の仲間たちと
 ともに、より統合的でグローバルな政治経済構造を、い
 うなれば、一つの世界を、構築しようと企んでいる。
  もし、それが罪であるならば、私は有罪であり、それ
 を誇りに思う」(ロックフェラー回顧録、2007年)。
  自分たちに都合の良い社会経済体制を作りたいのイデ
 オロギーで、国家体制さえ解体し、ワン・ワールドを作
 りたいとしている。
.
2016年、ヒラリー・クリントンが・・、
  アメリカの次期大統領になる有力候補と言われていた
 時、
  ヒラリーの気になる弱点として指摘されたのが「メー
 ル問題」だった。
  このヒラリーの「メール問題」というのは、
  2012年9月11日に、リビア東部のベンガジにあるアメリ
 カ領事館と、中央情報局(CIA)の活動拠点が、テロ
 リストに襲撃され、
  クリストファー・スティーブンス大使と、アメリカ人
 職員3人が、殺害される事件が起きた(ベンガジ事件)。
  このスティーブンス大使は、リビア政権転覆計画の責
 任者で、武器と金塊をシリアへ送る任務にあった。
  この武器と金塊は、リビアから引き上げる予定だった。
  このリビアの過激派に襲撃され、殺されたのだった。
  ヒラリーの「メール問題」は・・これに絡んでいた。
  ヒラリーのメールのあて先はこの大使らであり、
  このアメリカの謀略を指示していたのが、当時、国務
 長官だったヒラリーである可能性が極めて高かった。
  当然、この様な非合法な行動は、公(おおやけ)に出
 来ないので、国務長官だったヒラリーは、記録が残る国
 務省のメールではなく、私用のメールを使って指示した、
 指令を出していた。
  しかし、このメール事件を、ジェイムズ・コーミー米
 連邦捜査局(FBI)長官は、2016年7月2日に、「ヒラ
 リーを告訴しない」とした。
  アメリカ・メディアは、一斉に、激しい非難をした。
  まったく臭い話に、蓋されたというアメリカだった。
  ヒラリーの背後に、「ネオコン」が居るとささやかれ
 た。
.
2016年12月2日、アメリカのトランプ大統領は、就任前であ
 ったが、
  この日、台湾総統に、直接、電話をした。
  このアメリカ大統領の公式の電話は、1979年に、米中
 国交正常化に伴う、アメリカの台湾との国交断絶以来、
 初めての事だった。
  中国の主張する「一つの中国」を肯定しない、認めな
 い行為だった、行動だった。
  トランプ大統領は、この中国の主張する原則を破棄し
 たばかりか、台湾の蔡英文氏を「ザ・プレジデント・オ
 ブ・タイワン(台湾大統領)」と呼んだ。
  台湾という国の最高地位の人=台湾大統領と呼んだ。
  そして、電話の中で、「経済、政治、安全保障での緊
 密な関係が、台湾とアメリカの間にある」と、確認し合
 った。
  台湾が、完全な一つの立派な国としての立場にあると
 認めた。
  民主党のヒラリーなら、中国寄りの行動をとるので、
 こうはならなかっただろう。
  民主党のオバマもしかり。
  この同じ日・2016年12月2日に、アメリカの共和党系の
 重鎮であるヘンリー・キッシンジャーが訪中していた。
  中国の習近平国家主席と会っていた。
  1979年の米中間の国交正常化の時も、日本の頭越しに
 動いた人物だった。
  今回の・・この習近平とキッシンジャーとの会談で、
 米中関係の強化が確認されたと大々的に中国のマスコミ
 は報じていた。
  この様に報じられる様に・・習近平は、アメリカとの
 関係が、我が意を得たりと思っていた・・その様な所に、
 トランプ大統領と台湾の蔡英文総統の電話会談があった
 ことを知ると、習近平は激怒したという。
  キッシンジャーは、国際金融資本家のロックフェラー
 の意向を受けて動く人物で、親中の国際主義者。
  国交が開かれた時に動いた彼・キッシンジャーが、こ
 の時、同様に、これからの大きな展開が起きるこの時も、
 動いたのだった。
  しかも、今度は、台湾の立場が、浮上する行為があっ
 たこの時だった。
  今、時代は変わる節目にある。
  反トランプにある日本のマス・メディア(NHKなど)
 を含めた世界のマス・メディアは、この様な事はあまり
 触れない・・報道しない。
  キリスト教に偏するNHKは、特に、親中国で、反ト
 ランプの立場にある・・なんだかんだとトランプ大統領
 の足を引っ張ってばかりいる。
  まゆつばの放送局となっている・・公正でないから注
 意を要する。
.
2017年、アメリカ国民の方々が、一般大衆の方々が、アメ
 リカを支配するエスタブリッシュメントに対して、明ら
 かになったグローバリズムの不都合に、不満や怒りが爆
 発して来ている。
  かつてのアメリカで、アメリカ国民の方々を繰ったル
 ーズベルト大統領は、
  日本に真珠湾攻撃をせざるを得ない状況を作り出し、
 また、事前に、日本の攻撃を十分知っているのに、突然
 の攻撃のようなふりをして、
  「奇襲だ」と言い、アメリカ国民の方々に嘘の印象を
 持たせ、アメリカを戦争に向かわせた。
  この話は、アメリカ国民の方々も知って来ていて、今
 は、確実に、ルーズベルトのアメリカ国民の方々への裏
 切り行為だった事は事実とされている・・が、
  アメリカは、何も、このルーズベルトの破廉恥行為だ
 けでなく、この様な行為は、常になされて来た。
  例えば、ウッドロウ・ウィルソン大統領の時も、そう
 だった。
  ウィルソン大統領の側近で、大統領直属の広報委員会
 を統率していたウォルター・リップマンは・・、
  「アメリカの民主主義は・・幻想である」と言ってい
 る。
  リップマンの下で、対ドイツ戦争推進宣伝工作に従事
 したエドワード・バーネイズは、
  「プロパガンダ」という本(著書)の中で・・、
  「大衆は、あたかも自分の意見を持っているかのよう
 に信じた。
  ・・が、実際は、見えない勢力によってコントロール
 されているだけだった」・・と、言っている。
  「自分たちが、メディアを使って大衆をコントロール
 している」・・と、言った。
  選挙にしたって、金を使って、巨額な金で、候補者の
 言葉を切り貼りして、作られた情報で解説するメディア。
  それに洗脳され・・、
  「自分は、この人物のここが素晴らしいと思って選ん
 だ」となる、
  「信じて投票した」となる。
  メディアによる刷り込みを、自分の意見と勘違いする。
  危険に近づいている事に気付かず、あたかも自分の意
 見のように勘違いする。
  フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルは、
 すでに、1830年代に、アメリカを見て・・、
  「アメリカの民主政治」という本を書いているが、そ
 の中で・・、
  「アメリカ人は、アメリカの多数の意見を、あたかも
 自分の意見であるように信じて主張する」・・と言って
 いる。
  完全に、アメリカ人は、マインド・コントロールされ
 ている。
  メディアによる「刷り込み社会」。
  アメリカを支配するエスタブリッシュメント層に都合
 の良い『グローバリズム』が・・この様に作られて来た。
  それが、今、崩れて来ている。
  一般大衆が、その様なエスタブリッシュメントに対し
 て、明らかになったグローバリズムの不都合に、不満や
 怒りが爆発して来ている。
  因みに、「ルーズベルトは米国民を裏切り 日本を戦争
 に引きずり込んだ 。アメリカ共和党元党首ハミルトン・
 フィッシュが暴く日米戦の真相」という本が、2017年2月
 13日に出版された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)527E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

2017-05-19 04:05:19 | 日記
題:(増補版)527E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年、その他:
・度量衡法が公布された。
  日本は、1875年の度量衡取締条例による近代国家とし
 ての度量衡統一の後、1891年に、度量衡法が制定された。
  制定当時、原則としては尺貫法であったが、既に、日
 本は、1886年(明治19年)に、メートル条約に加盟して
 いたため、尺と貫はメートル原器・キログラム原器から
 換算する方法を採り、メートル法も公認されるという二
 元的な単位体系を取っていた。
  また、この1891年の度量衡法の公布、
  および、1893年の施行、
  1903年の中央度量衡器検定所設立の勅令公布、
  1907年~1931年の田中館愛橘の国際度量衡委員会委員
 就任、
  1909年、および、1921年の度量衡法改正・・などが重
 要。
  因みに、1921年の法改正は、メートル法への統一の方
 向を示すものであって、この公布の日である4月11日は、
 後に、「度量衡記念日」または「メートル記念日」と呼
 ばれるようになった。
・雇人口入営業取締規則が警察令として公布された。
  口入屋(くちいれや、人材斡旋屋、人材派遣屋)など
 の営利を目的とした職業紹介に対する規制は、福井県で
 は、1895年(明治28年)の県令28号「雇人口入営業取締
 規則」で、県内の営業者は営業許可が必要とされた。
  また、営利業者や募集人が、県外から職工を集団的に
 募集する事態に対応して、県外の営業者に対しても、1897
 年(明治30年)の県令72号で、県の営業許可が必要とな
 った。
  この様に、各府県ごとに行われていた規制は、第一次
 世界大戦がもたらした労働力需要のなかで、法的な整備
 をともなって全国的に行われるようになる。
  1919年(大正8年)3月には、救済事業調査会が「失業
 保護ニ関スル施設要綱」を答申し、おりしも、同年・1919
 年に、ワシントンで開かれた第一回「国際労働機関(I
 LO)」総会で、公益職業紹介所施設の増設と営利紹介
 所の全廃を内容とする失業に関する条約・勧告が決定さ
 れたことによって、国際的な労働基準にあわせた政策の
 調整が必要となっていた。
  こうして1921年(大正10年)7月、「職業紹介法」が施
 行された。
  同法では、事業は国の事務であるが、経費は市町村負
 担とされ、職業紹介の無料主義の原則が明らかにされた。
  一方、営利職業紹介は全面的には禁止されず、その営
 業と新規開業を規制した「営利職業紹介事業取締規則」
 が、1927年(昭和2年)から施行された。
  また、各府県の労働者募集取締規則を統一する内務省
 令「労働者募集取締令」が、1925年(大正14年)に施行
 された。
・井上円了が、妖怪研究会を結成した。
  井上 円了(いのうえ えんりょう、1858年3月18日~
 1919年6月6日)は、仏教哲学者、教育者。
  多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、哲学
 館(現:東洋大学)を設立した。
  また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学
 講義』などを著し、一方で「お化け博士」、「妖怪博士」
 などと呼ばれた。
・(氷川清話)保安条例による壮士54名の東京退去。
  1891年1月13日に、保安条例を再び執行し、壮士など
 54名に東京退去をさせた。
  2月11日には、さらに8人が退去をさせられた。
  大同団結運動(1887年10月)で高揚した自由民権運動
 対策のための法律で、秘密の集会・結社を禁じた。
  また、内乱の陰謀・教唆(きょうさ、犯罪を行なおう
 と思う様に他人に仕向けること)、治安の妨害をする恐
 れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規
 定に従って、皇居から3里(約11.8km)以外に退去させら
 れ、3年以内の間、その範囲への出入りや居住を禁止され
 た。
・(氷川清話)勝海舟、孫女千代子誕生(のち、近藤勉武
 を養子に迎う)
・(氷川清話)酒井雄三郎の第二インター(ブリュッセル)
 出席。
  酒井雄三郎(さかいゆうざぶろう)は、1860年、熊本
 県に生まれ、1900年12月9日、パリに没した。
  明治の社会思想家。
  1879年、上京して中江兆民の仏学塾に入り、後に、そ
 の講師、塾長代理などをつとめた。
  1890年、万国博覧会がパリで開催された際、農商務省
 嘱託の事務官としてパリに渡り、万国博覧会の仕事にた
 ずさわる一方、社会問題を研究、ヨーロッパの社会事情、
 社会運動に関する報告を雑誌『国民之友』に寄稿した。
  また、1891年に、ブリュッセルで行われた第2インター
 ナショナル (→社会主義インターナショナル ) 第2回大
 会に日本人として初めて出席した。
  その報告を『国民新聞』に寄稿した。
  1892年、帰国して上野岩太郎、小島龍太郎、佐藤勇作
 らと「社会問題研究会」を創設した。
・(氷川清話)三条内大臣逝去。
・(氷川清話)松平慶永逝去。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1891年11月27日、福沢諭吉が勝海舟を批判する。
  福沢諭吉は、1891年(明治24年)に、「痩我慢の説」
 を書き、その中で、辛辣に勝海舟の批判をした。
  「痩我慢の説」は、1891年11月27日に脱稿され、1901
 年1月1日の「時事新報」紙上に掲載された。
  「勝海舟は、幕臣でありながら一度も戦うことなく、
 江戸城を明け渡し、しかも、敵であった新政府に入って、
 伯爵になるなど、立身出世までしている」・・と・・、
  武士の精神に反し、その進退は、「極めて不透明で不
 愉快だ」というのである。
  同様に、榎本武揚も批判し、福沢は、この両者に原稿
 を送って、公表しても良いかを質した。
  それに対し、榎本は、批判されたのが辛かったのか、
 無言のまま過ごした。
  しかし、勝は、一度は黙殺しようとしたが、返書を送
 った。
  そこには、簡潔に・・、
  「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、
   我に与(あず)からず我に関せずと存候」・・と言
 った。
  訳:自分の出処進退をどうするかは自分が決める。
    その結果について人は批評したりするだろうが、
    それは他人がやること。
    私のあずかり知るところではない。
  これは、自力で歴史を動かした大実行家の胸のすくよ
 うなタンカ(啖呵)である。
  勝の凄さがある。
  福沢の言い分を一言の下に退けた。
  この違いは、勝は、政治的人間であるのに対し、福沢
 は思想家であったから・・、
  福沢は、日本の生んだ最大の啓蒙思想家ではあるが、
 しょせん、口舌の徒。
  福沢には、政治的人間・勝海舟の悲しみと孤独の深さ
 は分らない。
  この二人の関わりは、咸臨丸で米国へ赴いている(300
 トンで40日かかった、1860年)。
  勝は艦長、福沢は、総督である木村摂津守の従者。
  咸臨丸に乗船中の勝は、終始不機嫌で、癇癪を起こし
 てばかりだった。
  体調も悪かったが、実力に比して不当に低い身分に対
 する不満もあった。
  勝は、7歳年下でも身分の上の木村に反抗的な態度をと
 ることが多かった。
  木村の従者の福沢にとって、これが不愉快でないこと
 はなく、二人の不仲の原因はここにあると言える。
  この不仲は、年月が経つほど悪化した。
  米国から帰国後、福沢は、世襲でないデモクラシーを
 感じ、この世襲が政治のバイタリティーを失っていると
 見抜き、「封建制度は親の仇(かたき)でござる」と言
 って、近代国家をしっかり把握している。
  これに対し、勝は、老中から、「その方は、眼光を具
 えているから何か眼を付けた事があろう」と言われ、
  「人間のする事は、古今東西同じで、アメリカとて別
 に変ったところはありません」と答えた。
  老中がなおも、「さようではあるまい、何か変わった
 ところがあろう」と聞く。
  再三再四、聞かれた勝は、「さよう少し眼につきまし
 たのは、アメリカでは、政府も民間も人の上に立つ人は
 みなその地位相応に怜悧(れいり、頭がよく、りこうな
 こと)です。
  この点ばかりは、まったく我が国と反対の様に思いま
 する」と答えた。
  老中は、目を丸くして「この無礼者、控えおろう」と
 叱った。
  この胆力と、一言の多さが勝の特徴である。
  福沢は、鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が大阪城を
 抜け出して江戸に帰還し、江戸城が上へ下への大騒ぎに
 なった時に、それを見て冷笑し、江戸で戦火が開かれれ
 ば、自分は真っ先に逃げ出すと公言していた。
  上野の彰義隊が攻撃を受けている時に、平然と塾生に
 経済学の勉強をさせていたのも、これも当事者で無いか
 ら出来たことと言える。
  しかし、まさに幕臣の頂点に立っていた勝はそうはい
 かない。
  勝は、大実行家にならざるを得ず、しかも、矛盾した
 事でもやらざるを得なかった。
  その矛盾とは、近代国家を目指しながらも、徳川家の
 名誉だけは守るという事である。
  結果として、勝は、江戸城無血開城(1868年4月)を
 やり遂げた。
  勝は、本来、慶喜が浴びるべき旧幕臣の恨みを、一身
 で受けるつもりで、たった一人で、徳川幕府の幕引きを
 引き受けた。
  組織のたたみ方は・・非の打ちどころない。
  勝は、幕府に、取り立てて、恩義を感じていない。
  忠誠心も無かったであろう。
  忠誠心は新しい日本、近代国家に対してであった。
  勝は確信犯だ。
  勝は、晩年、巌本善治に「忠義という士というものが
 あって、国を潰すのだ」・・と・・、
  「己のような、大不忠、大不義の者が無ければならぬ」
 と言っている。
  無能者や既得権の保持者は、とかく隠れ蓑として、忠
 義の士を気取りたがるもの。
  自分はそうでないから大不忠者と言っている。
  勝が、幕府を見限ったのは、桜田門外の変(1860年3月)。
  この白昼の出来事は、幕府の骨まで腐っているという
 証拠に他ならない。
  勝は、当時、アメリカ滞在中であったが、幕府の寿命
 を実感した。
  ・・そして・・また・・
  勝が、幕府の死に体を、一層、痛感し、見限るように
 なったのは、それから4年後の第一次長州征伐(1864年8
 月)の時、
  幕府は、「井伊の赤備(あかぞなえ)」に代表される
 ような関ヶ原の戦いの当時の武器を持って参戦し、近代
 軍とは、かけ離れた状態だった。
  そんな幕府は、倒すしかないと感じていた。
  だから、神戸の海軍操練兵所で、坂本龍馬に・・、
  「攘夷などは不可能」。
  「国防こそが大事」。
  「その為には、国を統一しなければならない」・・と
 教え諭した。
  また、西郷が、「どうして幕府は本気で長州を滅ぼさ
 ないのか」と迫った時も、
  「もう幕府は、空洞化しているのだから、長州一藩を
 うんぬんするのでなく、諸藩連合で新しい日本を考えて
 行かねばならない」・・と、説いている。
  まさに、倒幕の勧めで・・、
  その結果、薩長同盟(1866年1月)も成立している。
  現在に例えると、一官僚が、官僚全部を解体したに等
 しい。
  勝の凄さであり、実行における孤独さもあった。
  「俺の孤独は、人にはわからん」・・と、勝は言って
 いる。
  福沢とは、実行家である勝とここが違った。
  勝は、また言う・・、
  「維新の頃には、妻子までもが、俺に不平だった」
  「広い天下、俺に賛成する者は一人も居なかった」
  「けれども、山岡鉄舟や大久保には、後から少し分か
 ったようだ」・・と・・
  「俺は、常に、世の中には、道というものがあると思
 って、楽しんで居た」
  また、
  「一事を断行している中途で、俺が死んだら、誰が俺
 に代わる者があるかという事も、随分心配ではあったけ
 れど、
  それに構わず、俺は、ただ行うべきことは行おうと大
 決心して、自分で自分を殺すような事さえ無ければ、そ
 れでよいと確信した」・・と・・、
  実際、勝は、生命を狙われる事が、何回もあった。
  倒幕のリーダーが西郷であったことも大きい。
  西郷は、勝から、「尊王攘夷という考えを捨てなさい」
 という教えを受けてから、勝には頭が上がらなくなって
 いた。
  元治1年、1864年9月11日に、西郷は、勝と初めて対面
 している。
  この会見の後、西郷は、大久保一蔵(利通)に宛てた
 手紙に・・、
  「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候人
 物にて、最初は打ち叩くつもりにて差越し候ところ、と
 んと頭を下げ申し候。
  どれだけ知恵のあるやら知れぬ塩梅に見受け候。
  まづ英雄肌の人にて、佐久間より事の出来候儀は、一
 層も越し候らはん。
  学問と見識とにおいては、佐久間抜群のことに御座候
 へども、現時に望み候ては、この勝先生を、ひどく惚れ
 候」・・と・・、
  勝が、最後の幕臣として主張した事は・・、
  「徳川家を守る」、
  「徳川家臣団に、俸禄を保証してやる」、
  「江戸は徳川の官僚が守る」・・という3点だった。
  そして、慶応4年の1868年3月13日に、西郷との会見に
 臨む。
  勝は、「氷川清話」に書く・・、
  「当日、俺は、羽織袴で馬に乗って、従者を一人連れ
 たばかりで、薩摩屋敷へ出かけた。
  まづ、一室へ案内せられて、しばらく待っていると、
 西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引っ切り下駄をは
 ひて、例の熊次郎という忠僕を従へ、平気な顔で出て来
 て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷
 に通った。
  その様子は、少しも一大事を前に控えた者とは思われ
 なかった。
  さて、いよいよ談判になると、西郷は、俺にいふ事を
 一々信用してくれ、その間、一点の疑問も挟まなかった。
  「色々むつかしい議論もありませうが、私が一身にか
 けて御引受けします」・・西郷のこの一言で、江戸百万
 の生霊も、その生命と財産とを保つ事ができ、
  また、徳川氏もその滅亡を免れた。
  この会議は、極めてスムーズに進行した印象を受ける
 が、真実、そうでない。
  勝は、破談になった時のことを考えて、策略を巡らせ
 ていた。
  それは、第一に、西郷に対しナポレオンの教訓を教え
 ている。
  ナポレオンが、ロシアに攻め入った時に、ロシアは自
 らモスクワに火を放ち、それによってナポレオンも敗退
 させたという事で、
  いざとなれば、江戸でもそれと同じ焦土作戦をやると
 言って・・西郷を脅した。
  その手は、実際、打ってあった。
  一方、イギリス公使館通訳官アーネスト・サトウを通
 じて、イギリス公使のハリー・パークスも動かしている。
  勝が、西郷と最初の会談を行ったまったく同じ日(1868
 年3月13日)に、パークスは、東海道先鋒総督府参謀の長
 周藩士・木梨誠一郎と会議をしているが、
  パークスは、この時、「横浜が混乱して、貿易に支障
 をきたすと、日本の為にも不利益を生ずることになる」
 と言っている。
  (参考:長周は、長門国および周防国をまとめて呼ぶ
 場合の総称)。
  また、パークスは・・、
  「したがって、とりあえず、英仏両国の軍隊で警備に
 当っているから、さよう御承知おき戴きたい」・・と、
 発言している。
  これは、官軍が江戸に攻め入るようなら、『英仏両軍
 を敵に回す事になる』という脅しに他ならない。
  勝との2回目の会談を始める前に、当然、西郷にこの情
 報はもたらされていた。
  鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日~1868年1月30日)
 では、官軍の近代兵器や、また、整然とした軍律から見
 ても、幕府軍に到底勝ち目は無かった。
  勝は、西郷との駆け引きで、江戸の治安は自分が守り、
 彰義隊も自分の手の上で踊らせ、できる事なら慶喜を水
 戸から江戸に呼び戻したいと考えていた。
  しかし、勝の思惑は外れてしまう。
  倒幕側に世代交代が起こった。
  西郷が退いて、大久保と大村益次郎、江藤新平が登場
 して来た。
  彼らは、西郷と違って、勝から教わった事もなければ、
 啓蒙されたこともない。
  彰義隊討伐は、わずか10時間で鎮圧されてしまった。
  勝は、2・3日は持つと思っていた。
  勝は、海軍の事は強かったが、陸軍の事は疎かった。
  陸軍の近代化をやってのけた大村益次郎の実力を知ら
 なかった。
  そして、実際には、江藤新平の率いる佐賀藩所有のア
 ームストロング砲が威力を発揮した。
  もし、彰義隊が2・3日持ち、耐えていれば、関東一円
 の譜代諸藩も挙兵し、東北列藩もこれに呼応しただろう。
  こうなったら形勢は、どうなっていたか分からない。
  勝も大久保も、共に、政治的人間で短気であったが、
 大事な時に頭に血の上らない人間であった、
  西郷は政治的人間であったが、西南の役(1877年)で
 部下のために情死したようなもので、滅びの美学に酔っ
 た。
  故に、冷静に日本を作ったのは、勝と大久保と言える。
  誕生したばかりの日本を、大久保は一人、渾身の力を
 込めて作ったと言っていい。
  勝の人脈はすごい。
  子分という縦の関係は無いが、横のネットワークは広
 い。
  これが、幕末から維新にかけて武力以上にものを言っ
 た。
  アメリカの国務次官補を務めたジョセフ・ナイは、「
 アメリカが強いのは、単なる軍事力、経済力だけじゃな
 い。ソフトパワーによるものだ」と言っているが、
  彼が言うソフトパワーとは、言葉と知恵の事で・・、
  勝は、このソフトパワーを持っていた。
  これからの時代、ますます、このソフトパワーが大切。
.
  (今日の言葉)
.
  題:過去に亡くなった若者の方々へ懺悔し、悔い改めよ!
.
紀元前6万5500年、メキシコのユカタン半島へ小惑星が衝突
 した。
  これによって恐竜が絶滅した。
  また、2013年2月、ロシア中部に、直径20メートル(推
 定)の小惑星が落下し、1000人を越えるけが人が出た。
  宇宙航空研究開発機構(JAXA)の吉川真准教授による
 と地球に接近する可能性がある小惑星は、これまで約1万
 6000個が確認されている。
  直径数百メートル以上の小惑星が、地球に達する恐れ
 はないと見られている。
  地球に接近する小惑星や彗星(すいせい)を国際協力
 で早めに観測し、衝突を回避しようとする動きが盛んに
 なってきた。
    (読売新聞、2017年5月4日を参考にした)
.
2017年、アメリカを支配するエスタブリッシュメント層が、
 グローバリズムの果実を独占し・・、
  一方、一般のアメリカ国民は、どんどん貧しくなり、
 戦地に駆り出された若者が命を落して来た。
  日本のメディアも、アメリカ・メディアに同調して、
 トランプ大統領を茶化すばかり。
  これまで、メディアは、グローバリズムは正義であり、
 理性であると報道して来た・・そして、一方・・、
  ナショナリズムは、感情であり、愚かであり、排除す
 べきものという主張を・・、延々と、繰り返して来た。
  一般的なアメリカ国民の生活は・・貧しくなるばかり、
 アメリカは、アメリカとは関係のない国の紛争に、アメ
 リカ軍と投入し、介入し・・、
  若者の命と、税金が・・浪費されて来た。
  これから、旧来のエスタブリッシュメント層からの反
 抗が、想像を絶するものとなるだろう。
  トランプ大統領は、就任演説で、すべての国に対し、
 精神面、安全面、経済面で、「自立せよ」と訴えた。
  「中国の冒険主義を挫(くじ)くため、アメリカ海軍
 の軍艦を350隻(現在は276隻)に増強する」。
  「中国の人民元安を止めさせる」。
  「中国からの輸入品には、関税を最大45パーセントま
 で引き上げる」。
  極限まで広がった経済格差を縮小し、アメリカ人の雇
 用と所得を回復させる。
  『反グローバリズム』を公然と掲げた。
  アメリカを陰から支配してきたエスタブリッシュメン
 ト(支配階級)層に、反旗を翻(ひるがえ)す。
  エスタブリッシュメント層とは、具体的に言えば、ウ
 ォールストリート(世界金融の中心の一つ)に巣食う「
 国際金融資本」や、外交・軍事に隠然(いんぜん)たる
 影響力を持つネオコン(ネオコンサバティズム、新保守
 主義)と呼ばれる勢力。
  軍産複合体とも呼ばれる。
  ネオコンが、アメリカ国防総省を握っていた。
  彼らが、アフガニスタン、イラクと、次々に戦争を起
 こし、世界の紛争に介入し、アメリカ軍の若い兵士たち
 を、多数、犠牲にして来た。
  グローバリズムの果実を得たのは・・ほんの一握りの
 富裕層だけ。
  グローバリズムの名の下に、工場は海外移転し、雇用
 は捨て去られ・・、
  わずかに残った工場には、またまた、グローバリズム
 の名の下に「流入した移民」によって、雇用は奪われ、
  労働賃金は・・安く押え込まれる。
  グローバリズムを利用できる「アメリカを支配するエ
 スタブリッシュメント層・経営層」は、どんどん豊かに
 なり、濡れ手で粟の状態で・・、
  一般庶民は、この逆で、どんどん貧しくなり、貧富の
 格差は、またまた一層、拡大するばかり。
  この国際金融投機は公正でもなく、また、健全である
 訳でもなく、ギャンブルに依存する経済のこの様相が、
 豊かな未来を築こうとする社会の姿ではない・・目指す
 べき姿ではない。
  実直に、「ものづくり」をする経済への転換をしなけ
 ればならない。
  かつて、豊かにものづくりに励(はげ)んだ地帯が、
 今、「ラストベルト」と呼ばれている。
  ラスト(rust)は金属の錆〈さび)のこと、「錆び
 付いた工業地帯」を、グローバリズムの名の下の行動で、
 作ってしまった地帯が、化石の様に、苦悩を現わし、残
 っている。
  キリスト教に偏するNHKの元職員・宮崎緑は、NH
 Kの番組で、グローバリズムを連呼していた。
  世界中に、アメリカのほんの一部のエスタブリッシュ
 メント層が、自分たちに都合よく作ったシステム・・、
  何ら、グローバルでも何でもなく・・ただただ・・エ
 スタブリッシュメント層に都合の良いだけのシステム・・、
  グローバリズム、世界をアメリカ企業に、有利で、都
 合のいいグローバル市場にして行く。
  アメリカの1%の、ほんとの一握りの超富裕層、これに
 ゴマをするキリスト教に偏するNHK。
  一部の大金持ちが、超大金持ちになっただけ。
  アメリカのプア・ホワイトの賃金は、拡大どころか、
 低落してきた。
  1973年から1998年にかけて、26%も減少した。
  25年間で、何と! 4分の3に減ってしまった。
  これが・・グローバリズムなのだ。
  一部の金持ちが、より金持ちになっただけ・・
  かつて、アメリカを支えた中流層・中間層は居なくな
 り、貧しくなり、教育に金をかけられなくなり、国は荒
 れた。
  今、若者は、アメリカの若者は、軍に志願して入隊し、
 奨学金を貰って、退役後に大学に入るという道を選んで
 いる。
  アメリカでは、1973年に、徴兵制が廃止され、志願兵
 を採用する制度になっている。
  毎年、15万人の若者を集めるために、大学の奨学金を
 「エサ」に使って、貧困層や、移民の子弟をかき集めて
 いる。
  そして、国際金融資本の意を受けたネオコンによって
 作られたイラク戦争などの無意味な戦争に駆り出される。
  また、アメリカの政治を繰るウォール・ストリートが
 ある。
  ここの金が、アメリカの政治を繰る、そして、それが、
 世界へ波及する。
  また、ここの金に群(むら)がるメディアが居る。
  このアメリカ・メディアに、頭の上がらない日本のメ
 ディアが、アメリカメディアに靡(なび)く、ゴマヲス
 ル。
  ウォールストリートは、軍産複合体とも連なっている。
  今、この陰謀の大山脈に挑む者が表れた。
  古いしがらみ、金、癒着などのカサブタが・・、
  ガサガサのかさぶたが、何層にもこびりついた「旨い
 汁を吸うかさぶた連中」が、一層一層、剥がされていく。
  若者の血を吸って来た者どもが、剥がされていく。
  過去に亡くなった若者の方々へ懺悔し、悔い改めよ!
  また、その無意味な戦争で亡くなられたイラクなどの
 方々、戦争と何ら関係のない亡くなられた方々へも懺悔
 し、悔い改めよ!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive