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(増補版)464E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月~1888年6月)

2016-11-30 02:46:41 | 日記
題:(増補版)464E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月~1888年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年6月6日、御歌所設置(所長に高崎正風)
  宮内省御歌掛を廃止し、御歌所を設置した。
  御歌所(おうたどころ)は、天皇陛下や、皇族方の御
 歌や御歌会に関する事務を扱った所で、明治21年(1888
 年)創設され、昭和21年(1946年)廃止されている。
1888年6月7日、2回目の博士号が25人に授与された。
1888年6月10日、乃木希典が、ドイツ留学より帰朝した。
  乃木希典(のぎまれすけ)が、約1年半のドイツ留学を
 終え帰国した。
  しかし、帰国してからというものは、昔の磊落(らい
 らく、度量が広く、小事にこだわらないこと)な振る舞
 いが一転し、
  古武士の風格を尊ぶような謹厳そのものに変貌し、乃
 木を知る人々を驚かせた。
  性格一変して、謹厳そのものとなったという。
  その性格が一転して変ったの理由には、一つは、ドイ
 ツ留学中に、ドイツ国の偉大な所が、軍人が節制を守り、
 規律に服し、軍人の面目は死を以て守るにあると観て、
  さらには、ウィルヘルム二世の崩御に際し、国民挙げ
 て謹慎哀悼の状を表するを見て、痛くこれに感じ入り、
 顧みて近年の日本人は、一身の利を求めて国家を忘れる
 者多きことを嘆き、乃木は、山鹿素行を私淑し、常に、
 武士道の振る舞いをすることで、その模範を広く示そう
 とした。
18886月13日、市町村統合が始まった。
1888年6月15日、皇室典範草案の審議が終了する。
1888年6月18日、枢密院会議が開かれた。
  枢密院が、大日本帝国憲法草案の審議を開始した。
  明治天皇陛下が御臨席なされ、また、伊藤博文を議長
 として憲法議事の第一回が開かれた。
  枢密院は、明治憲法のもとの天皇陛下の最高諮問機関
 で、
  この年に、大日本帝国憲法草案審議のために設置され、
 議長・副議長・顧問官により組織した、内閣から独立さ
 れた機関だった。
  1947年(昭和22年)日本国憲法施行によって廃止とな
 った。
1888年6月18日、雑誌『日本人』が、高島炭鉱の批判報道を
 開始する。
  坑夫になりすました記者の記事が掲載された。
  長崎の高島炭鉱の、厳しい労働が記事となり、社会が
 沸騰した。
  当時の女性方も男性と同等に頑張っていた。
  今・現在、当時のことを、女性方は明るく思い出して
 話すが・・
  当時の日本人は、皆、列強諸国の圧迫に抗すことの出
 来る日本を作ろうと頑張っていた。
  NHKは、恵まれた今・現在から見ると、落差の大き
 い当時のことを、悲惨な当時の事を、状態を、何でも「
 ことさらに大きく、酷(ひど)く」「日本を貶(おとし)
 めて」放送する放送局だが・・、
  ある意味、正しい・正確な報道をしていない放送局と
 なっている。
  そして、日本の国民の方々をプロパガンダ(嘘宣伝)
 し、偏頗(へんぱ、かたよっていて不公平なこと)な方
 向へ導こうとする放送局となっている。
1888年6月18日、整理公債条例が追加公布された。
  紙幣整理による物価安定を図り、
  また、幣制(へいせい、貨幣の発行や流通などについ
 ての制度)を統一して、
  新しい国家体制を確立していきたいという意図の中だ
 った。
  富国強兵の国家の方針の中で、伊藤博文内閣は、税収
 不足で立ち遅れた海軍の造船計画を実施するために、海軍公債
 を起債した。
  1886年(明治19年)6月に、海軍公債証書条例を公布した。
  応募は3倍を突破するという状況だった。
  これから、毎年、起債された。
  不換紙幣のせいろを終えた松方正義大蔵大臣は、国債
 整理への取り組みを積極化させ、
  1886年9月に、整理公債条例を公布した。
  目的は、発行済みの高金利の国債を、市中金利の低下
 に合わせて低利借り換えし、利払い費の節約を図りたい
 とした。
  また、国債法規の統一を図ることにあった。
  日本銀行に整理公債事務を命じ、繰り上げ償還などを
 行なって行った。
  整理公債は、交換発行、普通募集、特別発行という3つ
 の方法で発行した。
  交換発行は、満期を迎えた国債の償還元金の代わりに
 整理公債を公布するなどして発行された。
  普通募集は、中山道鉄道公債の発行以降採用された価
 格競争入札によって行われた。
  1892年までに、5回の募集が行われ、入札はすべて成功
 した。
  特別発行は、1888年のこの年に、整理公債条例6条に
 「市場の時価に準し整理公債証書の価格を定め臨時之を
 発行して日本銀行に公布する事を得」との一項を追加す
 ることによって、始まった。
  大蔵省預金局向けに、この年の1888年から1897年まで
 に8回、発行された。
1888年6月19日、日本赤十字社に資金が下賜された。
  1877年2月、日本赤十字社の前身の博愛社が、元老院
 議員である佐野常民(さのつねたみ)と大給恒(おぎゅ
 うゆずる)によって設立された。
  1887年、日本赤十字社と改称された、昭憲皇太后陛下
 が積極的に活動されていた。
  正式紋章は、昭憲皇太后陛下の王冠のデザインを似て
 使わせて戴いている。
  家族の方々が指導的立場に就いていた。
  昭憲皇太后陛下は、1888年7月15日に、会津磐梯山の
 噴火で甚大な被害が出た福島での被災者救護に当るよう
 に、日本赤十字社に対して命じられている(日本赤十字
 社の初の災害救護活動)。
  以後、日本赤十字社は天災救護活動を本格化させた。
1888年6月21日、皇城内に初めて電燈が点火した。
  東京電燈は、1883年(明治16年)2月に、設立が認可さ
 れ、
  矢嶋作郎が初代社長に、大倉喜八郎が取締役に就任し
 た。
  資本金は20万円だった。
  1887年(明治20年)から電気の供給を開始した。
  エジソンが世界で始めて、ニューヨークのパール街に
 火力発電所をつくり、付近の需要家に白熱電灯で電気を
 供給し始めてから、5年後だった。
  麹町区麹町と日本橋区南茅場町、京橋区新肴町、神田
 区錦町、北豊島郡千束村(後の浅草区千束)の5カ所に火
 力発電所を建設して、その周辺へ電気を供給した。
  当初、電気料金は、16燭光の半夜灯で1ヶ月1円50銭だ
 った。
  当時、盛りソバが8厘から1銭、牛メシが1銭だった。
  今、駅の立ち食いモリソバが400円とすると、1ヶ月の
 電気代が6万円に相当する。
  庶民の手の届くものではなかった。
  それでも東京電燈の電灯契約数は、開業時の138から、
 4年後には1万を超えた。
  そして、10年後には3万7千以上にもなった。
  電灯は、東京市内に爆発的に広がった。
  東京電燈株式会社による電気供給事業が、1887年(明
 治20年)に始まったのに続き、
  翌年・1888年に、神戸電燈、
  翌々年・1889年に、大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈
 が開業し、
  1890年(明治23年)には、横浜共同電燈と深川電燈が、
  1891年(明治24年)には、熊本電燈、北海道電燈など
 が開業し、
  電燈の電気を供給する事業が全国に広がっていった。
  1897年(明治30年)末には、全国で電気を供給する会
 社は39社にも達した。
  東京電燈の設立を計画し、初代社長に就任し、
  神戸電燈、京都電燈の設立にも参画したのが、
  幕末時では、長州藩の志士だった矢嶋作郎であり、
  矢嶋作郎は、わが国の電気事業の創始者といえる。
  (電気事業起業家と九電力体制、志村嘉一郎氏の論文
 を参考にした)
1888年6月27日、九州鉄道会社が設立された。
  九州鉄道(きゅうしゅうてつどう)は、九州の私設鉄
 道会社で、九州初の鉄道路線を開通した会社。
  1887年(明治20年)松田和七郎、藤金作、伊丹文右エ
 門、渋谷清六、白木為直、嘉悦氏房の6名が、会社設立発
 起者総代となり、福岡・熊本・佐賀の各県令に呼びかけ
 て創立した。
  この年・1888年、政府に設立認可され、初代社長に高
 橋新吉が就任し、
  初の路線は、1889年に、開通した博多駅~千歳川仮停
 車場間であり、後に鹿児島本線の一部となった。
  北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、2003年から
 九州鉄道記念館として利用されている。
.
2012年、  (今日の言葉)
.
  題:日本は、近隣諸国の方々から、『本当に好きだ』と言われている国である・・、
.
  武田邦彦教授が、下記のことをYouTubeで発表されて
 いる。
  題:武田邦彦:意外?世界の反日国家一覧
  https://www.youtube.com/watch?v=AbRqzQxHk4o
  以下は、その調査結果である。
  日本が「大好き+好き」が、韓国・中国は60%ぐらい
 であるが、
  他のアジアの国々の方々は、90%から100%近い方々が、
 日本を、「大好き」もしくは「好き」と言われている。
.
...........大好き・好き・嫌い・大嫌い・大好き+好き
韓国:.......11%、47%、22%、20%、....(58%)
中国:.......21、..45、..16、..18、.....(66)
台湾:.......44、..45、...2、...9、.....(89)
香港:.......31、..51、...8、..10、.....(82)
タイ:.......55、..42、...2、...1、.....(97)
マレーシア:..51、..43、...5、...1、.....(94)
シンガポール:59、..36、...4、...1、.....(95)
インドネシア:45、..49、...5、...1、.....(94)
ベトナム:...64、...33、...1、...2、.....(97)
フィリピン:..50、..45、...1、...4、.....(95)
.
  また、『日本が一番頼りになる国だ』と言われている。
.
§頼りになる国(2012年)
  世界に良い影響を与えると思う
1、日本.....58%
2、ドイツ...56%
3、カナダ...53%
4、イギリス.51%
5、中国.....50%
6、フランス.48%
6、EU.......48%
8、アメリカ.47%
9、ロシア...31%
.
  そして、「やはり」と言うのか、「そうだろうな」と
 言うのか、
  『ロシアが、一番、世界に悪い影響を与えている国だ』
 と言っている。
  因みに、『アメリカ合衆国が、二番目に、世界に悪い
 影響を与える国』になっている。
  アメリカも、ロシアと一緒に反省しなさい。
.
  世界に悪い影響を与えると思う(2012年)
9、ロシア...36%
8、アメリカ.33%
7、中国.....31%
6、EU.......25%
5、フランス.22%
4、日本.....21%
3、イギリス.20%
2、ドイツ...16%
1、カナダ...14%
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)463E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月~1888年6月)

2016-11-27 05:10:15 | 日記
題:(増補版)463E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月~1888年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年(明治22年)5月21日、鐘淵紡績所の設立が許可さ
 れた。
  東京の繰綿(くりわた、綿繰り車にかけ、種の部分を
 取り去っただけの、まだ精製していない綿)問屋5店は、
  1886年、東京綿商社の設立を決議した。
  翌・1887年、認可され隅田川の鐘淵に紡績所(工場)
 を建設した、
  資本金100万円、錘(すい)数3万錘で出発。
  しかし経営不振で、
  1888年に、綿売買を廃止し、鐘淵紡績会社と改称した
 (渋沢栄一は顧問)。
  1892年の苦境期に、三井銀行が再建・支援に乗り出し、
  1894年、兵庫工場を建設し、続いて・・
  1899年に、上海紡績など7社を合併、
  1905年には、織布部門、
  1908年には、絹糸部門、
  1922年には、絹布、絹製品、
  1934年には、毛糸、化学繊維、麻製品に進出、多くの
   紡績会社を吸収し、
   さらに鉱業、化学、農牧畜を兼業し、
  1938年には、これ等を分離して鐘淵実業を設立、
   その後、鐘淵実業は、製鉄、航空機製造などに事業
   拡張、また、中国各地に直営事業を経営し、また、
   投資し、重化学工業へも進出した。
  1944年の第二次大戦中に、鐘淵紡績と、繊維以外の事
   業を行なっていた鐘淵実業が合併して鐘淵工業(株)
   が発足した。
  1946年の第二次大戦後は、繊維事業中心に転換し、鐘
   淵紡績(株)と社名復帰し、化粧品・食品等の事業に
   も次々進出、
   また、持ち株会社に指定され、
  1948年に、過度経済力集中排除法が適用され、
  1949年に、非繊維部門を鐘淵化学工業(現:カネカ)
   として分離した。
   朝鮮戦争による特需景気で繊維部門を再建した。
  1971年、鐘紡(株)となる。
  2004年に、債務超過などの理由から、産業再生機構に
   支援を申請、支援が決定した。
  2004年の同年に、化粧品部門をカネボウ化粧品として
   分離。
  2005年の翌年6月に、有価証券報告書の虚偽記載を行っ
   ていたことにより『上場廃止』となった。
  2006年に、産業再生機構による支援が終了し、
   投資会社3社に主要事業を譲渡。
   カネボウは、その他事業の運営、清算業務等を行っ
   たのち、
  2007年に、解散、社名を海岸ベルマネジメントに変更
   し、清算業務だけを行った。
  2008年に、海岸ベルマネジメントは、投資会社3社出資
   の買収受取会社であるトリニティ・インベストメン
   トに吸収合併された。
   なお、カネボウが譲渡した主要事業会社は、2006年
   に、カネボウ・トリニティ・ホールディングス(現:
   クラシエホールディングス)を統括会社として再出
   発、2007年には、社名、商標名を「Kanebo」から「
   Kracie(クラシエ)」に変更した。
  アメリカとの「繊維摩擦」で、この会社も、苦労し、
 虐げられた。
  (鐘紡百年史、及び、その他史料などを参考にした)
1888年5月25日、憲法草案会が開かれた。
1888年5月29日、麒麟(キリン)ビール発売
  日本麦酒醸造会社が、麒麟ビールを発売した。
1888年5月、米津風月堂が、アイスクリームと、アイスキャ
 ンディーを発売した。
1888年5月、電気学会が創立された。
  一般社団法人・電気学会(いっぱんしゃだんほうじん
 でんきがっかい)は、電気学術の調査・研究と広報・普
 及を目的に創立された学会で、
  初代会長は榎本武揚(52歳)が就任し、会員数は約二
 万四千人、元文部科学省所管・・と説明がある。
1888年6月1日、東京天文台が、麻布に新設された。
  帝国大学付属として、東京天文台が東京港区麻布飯倉
 に設立され、
  帝国大学理科大学天象台(学生用観象台)と、海軍省
 海軍水路部観象台と、内務省地理局が統合された。
  初めは、1878年に創設された東京大学付属の天文台で、
 創設当初は、観象台と称して文京区の東大構内にあった
 が、
  この年に、港区麻布に移って東京天文台と改称 し、
  1924年(大正13年)に、都下三鷹市に移った。
   日本は、第二次世界大戦後、各種の観測を進めてい
   くために各地に観測所を設立してきた。
  1949年(昭和24年)に、乗鞍(のりくら)コロナ観測所
   (岐阜・長野県境乗鞍岳)、
  1960年(昭和35年)に、岡山天体物理観測所(岡山県
   鴨方(かもがた)町)、
  1962年(昭和37年)に、埼玉県都幾川(ときがわ)村(
   現ときがわ町)に堂平(どうだいら)観測所(2000年
   3月、観測環境の悪化等により閉所)、
  1969年(昭和44年)に、野辺山(のべやま)太陽電波観
   測所(長野県南牧(みなみまき)村)、
  1974年(昭和49年)に、長野県三岳(みたけ)村(現:
   木曽町)に木曽(きそ)観測所、
  1978年(昭和53年)に、野辺山宇宙電波観測所が建設
   され、
  主な観測器械としては・・、
   188センチメートル反射望遠鏡(岡山)、
   105センチメートルシュミット・カメラ(木曽)、
   65センチメートル屈折望遠鏡(三鷹)、
   25センチメートルコロナグラフ(乗鞍)、
   45メートル電波望遠鏡(野辺山)・・など世界の水
  準に匹敵する装置を保有し、
   位置天文学から天体物理学までの広い範囲の研究と
  ともに、
   宇宙科学研究所(現:宇宙航空研究開発機構)の研
  究にも参加し、
   また、時刻の測定・保持、暦の編纂(へんさん)など
  も行った。
  1988年(昭和63年)に、東京天文台は、東京大学から
   独立して、
   文部省水沢(みずさわ)緯度観測所(現:国立天文台
   水沢観測センター)、名古屋大学空電研究所の一部
   と統合し、
   文部省(現文部科学省)直轄の研究機関「国立天文
   台」になった。
1888年6月1日、後藤象二郎が、機関紙「政論」を創刊した。
  主宰・後藤象二郎が、大同団結運動の機関紙「政論」
 を発行した。
  後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、
  1838年(天保9年)3月19日生まれの土佐高知藩士。
   土佐藩政の最高責任者・参政を務め、そして、明治
   期の政治家。
   公武合体運動に活躍し、また、
  1867年(慶応3年)1月(29歳)、脱藩者の坂本龍馬と、
   長崎の清風亭で会談したことが、
   土佐藩が、大政奉還に向けて動き出す契機となった。
   坂本龍馬は、姉の乙女らへの手紙で、後藤について、
   「実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外
   ニハあるまいと存候(ぞんじそうろう)」・・と評し
   ている。
   公議政体論を唱え、前藩主・山内豊信に大政奉還を
   建白させ、
   江戸幕府末期の徳川慶喜の大政奉還運動に活躍した。
   明治維新後は、新政府に参与、参議を歴任して仕え
   たが、
  1873年(明治6年)(35歳)征韓論に敗れ、西郷隆盛、
   板垣退助とともに下野した(明治六年の政変)
  1874年(明治7年)1月12日(36歳)に、板垣・江藤新
   平・副島種臣らと愛国公党を組織し、民撰議院設立
   建白書の提出に参画した。
  1874年(36歳)に、実業界へ転身して商社「蓬菜社」
   を設立。
   政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経営するが、
   2年後に放漫経営のために破たんした。
   三菱の岩崎弥太郎へ売却している。
  1881年(43歳)に、自由党の結成に際し、板垣に次ぐ
   副党首格で参加した。
   自由民権運動末期の大同団結運動を提唱し、大きな
   役割を果したが、後に、政府への協力に転じる。
  1887年(49歳)、進歩党の結成に尽力し、黒田内閣や、
   第1次松方内閣で逓信大臣(1889年~1892年)、
   第2次伊藤内閣では農商務大臣(1892年~1894年)を
   歴任した。
  1894年5月(56歳)、商取引所の開設にまつわる収賄事
   件の責任をとって大臣を辞任した。
  1896年夏頃(58歳)、心臓病となり、箱根で療養につ
   とめたが、
  1897年8月4日(59歳)没した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:弱小の民族を助ける・・日本
   勿論、日本は、ユダヤの方々を助けていました。
   嘘つき新聞となった・・読売新聞・・
.
1938年、日本は、世界の会議で、「民族の平等」を訴えて
 来ていた、
  そして、この年、日本は、ユダヤ人難民を救出するた
 め、当時、日本と関係のあった満州国の住民とする河豚
 計画(ふぐけいかく)が進められた。
  だから、勿論、日本は、ユダヤ人の方々の入国拒否は
 しておりません。
  逆に、日本は、ユダヤ人の方々を助けていました。
  河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に、日本で
 進められた、ユダヤ難民を助けるための移住計画のこと。
  日本には、立派に、ユダヤの方々を助ける運動を続け
 て来ていた。
  日本は、欧米列強(アメリやかヨーロッパの武力にも
 のを言わす「しいたげ行」為)のアジアの方々を苦しめ、
 そして、虐(しいた)げる状況を、江戸時代から、「常
 に、苦々(にがにが)しく」思って来ました。
  明治という時代になって、早く、「豊かになろう」、
 そして「強くなろう」と努めたのは、その表(あら)れ
 でした。
  だから、ユダヤの方々を、日本が差別するようなこと
 が、絶対に、あるわけがありません。
  なのに??
  読売新聞に・・何のかかわりがあるのか?
  読売新聞が、杉原千畝の『嘘のデッチアゲ話し』の片
 棒を担(かつ)いでいる。
  本当に、新聞という『真実を伝えない媒体』として、
 信用を落す行為をしている。
  バカじゃないか?・・と言いたい。
  杉原千畝の嘘のデッチアゲの映画の後援をしている。
  杉原千畝の嘘のデッチアゲ話の宣伝をしている。
  読売新聞の社歴を『汚す行為』をしている。
  読売新聞の歴史に『汚点を残そうと』している。
  立派な読売新聞の社歴が『台無しになる』。
  日本は、ユダヤ人の方々を差別していなかった。
  ドイツのナチスから言われても、頭を縦に振らずに、
 ドイツのナチスに、その点は「同調できない」ときっぱ
 り断っていた。
  日本人は、ユダヤ人の方々を決して差別してはいない。
  ユダヤの方々の入国を、「ずーっと」認めていた。
  こんなはっきりした事を、読売新聞は「日本がユダヤ
 人の入国を拒否していたという嘘の記述をした」。
  杉原千畝の嘘話の筋書きに乗っかってしまっていた。
  そして、その筋書きの映画の後援までし始め、
  そして、その嘘話の記事を読売新聞に掲載することま
 で始めた。
  ユダヤの方々が、満州に逃げて来た時、満州にいた軍
 のトップだった東条英機は、当然、日本の方針通り、「
  ユダヤ人の方々の満州国への入国を認めて、満州国へ
 ユダヤ人の方々は入国できている」。
  勿論、船で、日本に逃れて来たユダヤ人の方々も、日
 本に入国できている。
  こんな、杉原千畝の嘘のデッチアゲを、読売新聞は、
 何故(なぜ)に?乗る様な事をするのか?
  この杉原千畝の嘘話は、キリスト教がデッチアゲタ。
  杉原千畝がキリスト教だという事で、キリスト教がデ
 ッチアゲタ。
  逃げて来たユダヤ人の方々へ、日本の方針を無視して
 ビザを出したと・・美しく仕立てた嘘の話をデッチアゲ
 タ。
  この当時、外国の日本国大使をされていた馬淵睦夫氏
 らも、呆(あき)れられている。
  馬淵大使らは、「日本は、ユダヤの方々の入国を認め
 ていたから、どこの大使館でも、ユダヤの方々へビザを
 発給していました」とはっきりと言われている。
  そして、杉原千畝の話は呆れた話で嘘の話だと言われ
 ている。
  何故?こんなはっきりした話に・・日本を貶めるキリ
 スト教の活動方針の話に、読売新聞は乗っかっているの
 か?
  因みに、杉原千畝だけを、キリスト教徒だという事で、
 キリスト教が大きくでっち上げるが、
  杉原千畝以前に、日本は、『日本という国として、ユ
 ダヤの方々を助ける計画を進めていた』、
  そして、また・・、
  1939年6月には、駐ベルリン満州国公使館書記官・王替
 夫氏が、難民にビザ発給し、杉原千畝の倍以上のユダヤ
 人の方々へビザの発給をしてもいた。
  (1940年5月まで、ユダヤ難民含む合計12,000人以上)
  杉原千畝だけを、キリスト教が行なう美化行為は、で
 っち上げのプロパガンダ(嘘宣伝)だ。
  (参考)史料:
  関東軍のハルピン特務機関長であった樋口季一郎少将
 は、部下とともに、ナチスドイツの激しい反発を受けな
 がらも、東条英機関東軍参謀(後の首相)の許可の下に、
 なんと1万人ものユダヤの方々を、この年(1938年)に救
 っていたという事実がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)462E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月~1888年5月)

2016-11-25 05:32:54 | 日記
題:(増補版)462E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月~1888年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年5月5日、札幌製糖会社が設立された。
  甜菜(てんさい・サトウダイコン)は、今、北海道が
 100%の生産。
  寒さに強い作物で、適温は25℃。
  1870年(明治3年)日本の甜菜業が東京に官営で始まり、
 同時に、この年、北海道紋鼈(もんべつ)に製糖所が設
 立された。
  1871年(明治4年)に、現在の函館市で試作され、また、
  1878年(明治11年)に、札幌農学校でも試作された。
  そして、1879年に、現在の伊達市(旧西紋鼈村)に、官
 営甜菜製糖所を建設・操業し、
  1887年(明治20年)に、紋鼈製糖株式会社設立し払い
 下げした後1896年廃止。一方・・、
  1888年に 現在の札幌市(旧苗穂村)に、同じく製糖工場
 (札幌製糖株式会社)を建設・操業した。
  台湾製糖の影響により、1901年に、両社は廃止された。
  (注)1896年に、紋鼈製糖所は、3階建大工場であった
    が、機械がフランス式で技術が悪く1896年に解散
    し、機械は台湾製糖に譲られた・・の、記述もあ
    る。
     そして、1921年に、日甜が、北海道糖業で生産
    を再開した・・とある。
1888年5月5日、特別認可学校規則が制定された。
  法令番号: 明治21年文部省令第3号
  明治二十年七月勅令第三十七号文官試験試補及見習規
 則第十七条第三項文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法
 律学政治学又ハ理財学ヲ教授スル私立学校ニ関シ特別認
 可学校規則ヲ定ムルコト左ノ如シ
  明治二十一年五月五日 文部大臣子爵 森有礼
  特別認可学校規則
  第一条:本令ニ於テ特別認可学校ト称スルハ明治二十
     年七月勅令第三十七号文官試験試補及見習規則
     第十七条第三項文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ
     依リ法律学政治学又ハ理財学ヲ教授スル私立学
     校ヲ謂フ
  第二条:特別認可学校ハ修業年限三箇年以上ニシテ法
     理学法学通論憲法行政法民法訴訟法刑法治罪法
     商法国際法財政学理財学統計学史学論理学等ノ
     諸学科中七科目以上ヲ学修スル為メ一定ノ課程
     ヲ設クルモノタルヘシ但法律学ヲ主トスル学校
     ニ於テハ擬律擬判ノ課ヲ設クルヲ要ス(以下略)
1888年5月7日、初の博士誕生
  前年・1887年5月に制定された学位令の規定に依り、最
 初の「博士号」が25人に授与された。
  学位は、初めは、1879年(明治12年)に、東京大学の
 学部卒業者を対象に「学位授与ノ規則」が制定され、
  学士称号を学位とみなした。
  そして、1887年(明治20年)に、博士学位制度が導入
 され、
  この年・1888年に、文部省が、学位令によって、加藤
 弘之・箕作麟祥・池田謙斎・菊池大麓・古市公威・鳩山
 和夫・高木兼寛ら25名に、博士号を授与した(日本初の
 博士号)
  因みに、夏目漱石は、1911年(明治44年)に博士号に
 選ばれたが、返上した。
1888年5月8日、枢密院の開院式が行われた。
  天皇陛下の諮問機関。
  この日、5月8日、枢密院開院式が行われ、臨席された
 天皇陛下が、皇室典範と憲法草案諮詢の勅語を下された。
  (参考)諮詢:しじゅん、参考として機関などに意見
     を問い求めること、
  枢密会議において初めて皇室典範を議せ、
  皇室典範、憲法諮詢の勅諭渙発された。
  (参考)渙発:かんぱつ、詔勅(しょうちょく)を広
     く国の内外に発布すること、
1888年5月8日、東京洋紙会社が開業した。
  1888年5月、岩崎家が経営に参画しKobe Paper Mill Co.
 (神戸製紙所、後の三菱製紙)となる。
  日本の製紙業黎明期の6社の一つである。
  1889年12月、製紙会社気田工場が、わが国初の亜硫酸
 パルプの生産を開始した。
  因みに、日本で最初の製紙会社は、有恒社、および、
 抄紙会社(王子製紙)、蓬莱社、三田製紙所、パピール・
 ファブリック、神戸製紙所。
  また、この6社に加えて、大蔵省印刷局も製紙機械を導
 入して紙を抄いている。
  (三菱製紙株式会社、百年史などを参考にした)
1888年5月10日、日本石油会社が創立した。
  有限責任・日本石油会社が、新潟県刈羽郡石地村に設
 立された。
  現:新日本石油株式会社
  新潟県にあった尼瀬油田の石油開発ブームを受けて創
 立された有限責任日本石油会社が前身。
  現在、石油・石油化学以外のエネルギー事業で・・、
  液化天然ガスや、石炭の輸入販売や、燃料電池・エネ
 ファームの開発を進めるほか、
  製油所・製造所併設の発電所や、油槽所に設置した風
 力発電設備などを使用した電力卸供給事業 (IPP) や、
 電力小売事業 (PPS) を展開している。
1888年5月12日、陸軍各条令大改正が公布された。
  鎮台制は廃止となり、新たに師団制が採用された。
  (1886年1月28日説あり)
  最初、鎮台制は、有力諸藩の兵士を天皇の親兵として
 結集した(近衛兵の前身)。
  そして、軍備の強化が必要と考えられ、旧武士を編成
 した。
  そして、さらに、徴兵制が制定されて国民皆兵となり、
 国内の重要拠点に置いた。
  国内の内乱対策や治安を意識したのが主眼だった(当
 該地方の警護)。
  1877年の西南戦争のとき、軍の近代化と兵制の改良の
 必要を痛感した明治政府は、富国強兵策をとり、諸外国
 の兵制を取り入れ、師団制をとるようになった。
  因みに、鎮台の歴史は・・
  1871年(明治4年)4月、御親兵が設置され、
  1871年6月、東山 (石巻) 、西海 (小倉) の2鎮台が設
 けられ
  1871年7月の廃藩置県に伴い、1871年8月、これまでの
 鎮台を廃止し、新たに東京、大阪、鎮西 (熊本) 、東北
  (仙台) の4鎮台が設けられた。
  1873年1月に、名古屋,広島に新設された。
  そして・・、
  師団は、独立して行動出来るような編成に拡張された
 集団で、各種の兵種も備えていた(歩兵、騎兵、砲兵の
 全てを有していた)。
  そして、独自の作戦行動をとる事も可能だった。
  日清、日露戦争の時は、これが威力を発揮した。
  海軍は、主要な軍港に、鎮守府を置いて、連合艦隊制
 だった。
  鎮台は国内向けで、師団は外国まで視野にいれた編成
 だった。
  (参考)
  1885年5月、鎮台の下に旅団が常設され、
  1888年5月12日、鎮台を廃止してこれを師団に改編した。
1888年5月14日、陸海軍参謀本部条例改正
  この年の鎮台が廃止され師団が創設されると、それま
 での鎮台の衛戍地域を大隊区に分けた。
  同年・1888年5月の「大隊区司令部条例」(明治21年勅
 令第29号)による。
  管轄区域は、1888年5月14日に公布された「陸軍管区表」
 (明治21年勅令第32号)によって定められ、
  所属する師管、旅管が指定された。
  必要に応じて、警備隊区が設置された。
1888年5月14日、「鎮台條例」 廃止
「陸軍参謀本部條例」、「海軍参謀本部條例」、「師団司令
 部條例」、「旅団司令部條例」
  この日、鎮台条例を廃止し、師団司令部条例、旅団司
 令部条例を公布した。
  これにより、鎮台は廃止となり、新たに師団が編成さ
 れた。
1888年5月14日、陸地測量部条例が公布した。
   (明治21年5月勅令第25号)
  この年に、陸地測量部が発足するまで、業務は輻輳(
 ふくそう、物事がひとところに集中すること)していた。
  陸地測量部(りくちそくりょうぶ)は、日本陸軍参謀
 本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等に
 あたった、現在の国土地理院の前身の一つで国家機関。
  参謀本部の一局であった位置付けから、本部長直属の
 独立官庁として設置された。
  日本水準原点は、当時の庁舎敷地内(東京三宅坂国会
 前庭付近)に設置されたもの。
.
  (今日の言葉) 中国に関係する話・・
.
  題:中国の『化けの皮』が剥(は)がされて来ている・・
.
1937年、「中国の赤い星」という本が出版された。
  これが曲者(くせもの)の本だった・・、
  共産圏の北朝鮮は、国家ぐるみで麻薬、偽札、マネー
 ロンダリング、他国民の拉致という犯罪行為を堂々とし
 ている。
  また、諜報活動に血道(ちみち)を上げている。
  また、国民監視の密告システムがある、また、国民抑
 制システムがある。
  そして、中国も同じ体質にある・・、
  しかし、中国は、それを分かりにくくしている点、注
 意を要する。
  2005年春の中国の「反日デモ」は、中国政府の指令に
 よる「やらせのデモ」だった。
  しかし、インターネットや携帯電話で集まった自然発
 生的なものだと思わせた。
  また、自然発生だと強く言うという工作まで行った。
  嘘の操作をするという「屋上屋を重ねる」バレバレ行
 為までした。
  巧妙に行なう所は、北朝鮮よりも始末が悪い。
  第二次世界大戦で中国の「撫順戦犯収容所」に捕虜に
 なって収容された日本兵を、徹底的に洗脳した・・、
  そのすさまじさの為、完全にその日本兵の生涯、中国
 の主張通りの事を言い続けるということが起きた。
  あらゆる洗脳がなされ、脅迫もなされ、延々とすさま
 じい洗脳の結果、
  帰国後も、中国を讃美し続け、嘘のデッチアゲまでし
 て、してもいない戦争犯罪まで自(みずか)らやったと
 告白して、懺悔して、日本を貶(おとし)め、中国を讃
 美し続けた。
  人間性を踏みにじられ、中国国家体制維持に利用され
 た元日本兵の哀れな姿があった。
  1937年に出版されたアメリカ人のエドガー・スノーの
 本「中国の赤い星」は、
  毛沢東の半生記が書かれた本であるが、一面、これも、
 日本兵の例の様だった。
  この本は、後で判明した事であるが・・、中国関係機
 関にコントロールされて書かれていた。
  つまり、中国の体質が、逆から解る本ともなった。
  何と! この本は、毛沢東の検閲も受けていた。
  また、エドガー・スノーは、中国共産党が、探し出し
 た共産主義シンパのジャーナリストという事も分かった。
  中国共産党の情報部とも連絡を取り、
  コミンテルンとも気脈を通じている人物だった。
  中国共産党の本拠地の延安にも行くという人だった。
  そして、毛沢東から聞いた話をそのまま描いたという。
  確かめることもなく・・、
  中国共産党政治局も大いに関わっているという「デッ
 チアゲ本」だった。
  この本が出版された時、世界で大反響が起き、そして、
 信じられた。
  長い間、世界を欺(あざむ)き続けた。
  この化けの皮を剥(は)がしたのが、2005年に出版さ
 れた本「マオ」(ユン・チアンとジョンハリデイの共著)
 だった。
  「中国の赤い星」は、共産中国の政治目的を持って、
 世界を繰ろうとする巧妙な嘘の宣伝本だった。
  嘘の「毛沢東像」、嘘の「中国共産党政権像」が、世
 界中に、あたかも強烈に洗脳した状態にした・・
  いや、今も、世界は、その洗脳された状態にいる。
  中国共産党の本当の実態が隠されている。
  また、本当の毛沢東像が隠されている。
  多くの虐殺が隠されている。
  ちなみに、この嘘本「中国の赤い星」を書いたエドガ
 ー・スノーは、死ぬ間際の1972年に・・、
  「自分は騙された(そして、本を書いた)」と、
  そして、後悔しているということを言った。
  今や、世界は、「中国の文化大革命」で、多くの人々
 が殺戮されたことを知っている。
  本の嘘が世界に知れ渡って、やっと、この著者・スノ
 ーは、「自分は騙された」「あの本は欺瞞だ」と言い残
 した、口にした。
  しかし、この明確な嘘の事が、洗脳の恐ろしさからか?
 あまり一般化されていない。
  逆に、その洗脳の恐ろしさが分かる事例となっている。
  そして、中国では、この「スノー」を、大成功の対外
 宣伝作戦の模範だとされている。
  日本の某大学の中国専門課程では、このスノーの本を、
 今だに「推薦図書」としているから、注意したい。
  また、中国は、この逆もしている。
  日本の次期総理候補が・・中国にとって不都合となる
 と、失墜情報を工作する。
  中国工作が、日本のマスコミを利用し、また、日本の
 マスコミが利用されて、日本を繰っている・・繰られて
 いる。
.
1989年、中国、天安門事件が起きた。
.
2004年11月、中国の原子力潜水艦が、日本領海を侵犯した。
.
  続きの(今日の言葉)
.
  題:日本国内に1000人の活動家がいると・・中国外交官が・・、
.
2005年、中国の外交官が亡命した。
  これが、ただの亡命なら何も問題なかったが、
  この中国の外交官は、「日本の国内には、1000人をは
 るかに超える中国のスパイがいて、盛んに活動している」
 と言った。
  2005年、この中国外交官は、オーストラリアのシドニ
 ー総領事館にいた一等書記官で、オーストラリアに亡命
 した。
  また、彼は、中国国内で、中国の民主化の活動をした
 活動家が、身の安全が危うくなり、海外へ逃れても、中
 国は、その活動家を拉致して、中国・本国へ連れ帰る事
 もしていると暴露した。
  約100年前、ロンドンにいた孫文が、当時の中国清朝政
 府に拉致され。
  北京に連れ戻されそうになったが、その血が、今だに
 中国共産党政権にも流れている。
.
  そして、また、続きの(今日の言葉)
.
  題:完全に・・コントロール下にあった。
.
2005年4月9日、中国の中国政府による「官製の反日デモ」
  北京で、日本に対する大規模なデモの一部が暴徒化し
 た。
  4月16日には、上海でも、日本に対するデモの一部が暴
 徒化した。
  これは、中国政府の『ガス抜き行為』が正しい見方。
  2005年4月16日の共同通信社電でも、「ガス抜き狙いが
 裏目」と記している。
  ただ、「中国政府のコントロールがきかなくて、大き
 くなり過ぎた」と言うのは嘘。
  中国政府は、完全にコントロールできる状態にいる。
  このジャンルは、中国政府の『宣伝』と、『工作』が
 酷いジャンルだ。
  完全に乗せられている。
  中国の国民の方々は、酷い格差に、そして、社会に大
 きな矛盾を感じている。
  こうなるのは・・当然の帰結だった。
  中国が、改革開放路線に踏み出した時に、「先に、豊
 かに成る者は、先に、豊かになって貰おう」という路線
 だった。
  格差は、当然、生まれるという、公認のやり方だった。
  貧富の差は、さらに拡がった。
  内陸部の農民の方がたは、相変わらず貧しく、喘(あ
 え)いでいた。
  その恩恵に浴せない不満は鬱積(うっせき)していた。
  そして、失業者層の不満も高まっていた。
  暴動が頻発した。
  また、デモも頻発した。
  そして、中国語で「革命」を意味する「起義」という
 言葉が飛び出る状況、飛び交う状況だった。
  この状況は、中国政府にとっても脅威であった。
  ここで、「反日」「愛国」のデモをやらせて、下手に
 抑え込まないという手に出た。
  反日デモは、中国全土に広がった。
  しかし、政府のコントロールよろしく、どの都市でも
 警察の対応は、初めから「見てみぬふり」だった。
  しかし、政府のコントロール下にあるという事を証明
 する事があった・・、
  2005年5月4日の「五・四運動」の日だった。
  この歴史的抗日記念日には、気が抜けたような静穏の
 日の始末だった。
  まったく何も起こらず、静穏な時間が過ぎていた。
  これは、約1ヶ月前の反日デモが、国際社会から強い批
 判を浴びたからだった。
  中国は、『国際批判に弱かった』。
  中国政府も、「デモをするな」と公言した。
  だから、「ピタッとでもが止まった」、
  大事な記念日なのに、デモは起きなかった。
  中国政府の『完全なコントロール下』にあった。
  天安門のあのデモを強権で抑え込んだ中国。
  国民を弾圧した姿。
  この時の中国の品位のママが示された。
  いつでもどこでも、デモを抑えることなど簡単な事だ
 った。
  演技。
  そして、ガス抜き、
  そして、その使い分け、
  完全に・・コントロールしている状態。
..
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(増補版)461E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年3月~1888年5月)

2016-11-24 03:17:22 | 日記
題:(増補版)461E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年3月~1888年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年4月3日、雑誌「日本人」が創刊された。
  志賀重昂、杉浦重剛、三宅雪嶺らが、政教社を結成し、
 雑誌「日本人」を創刊した。
  創刊早々、高島炭坑の坑夫虐待問題でキャンペーンを
 組み、国会の大臣弾劾権問題を特集した。
  また、政府が急ぐ鹿鳴館的西欧化を批判し、頻繁に発
 禁処分を受けた。
  雑誌は、紆余曲折、変転したが・・
  1906年(明治39年)、日本新聞の社長交代を不服とし
 て多くの社員が政教社へ移り、
  三宅雪嶺は、『日本人』誌と『日本』紙との伝統を受
 け継ぐとして、雑誌を『日本及日本人』と改名して主宰
 し、『日本人』誌は通巻449号で発展的に終刊した。
1888年4月9日、陸羯南が、日刊紙「東京電報」を創刊した。
  東京電報は、1889年2月9日に終刊し、
  1889年2月11日から、日本(新聞)となった(~1914年
 12月31日まで)
  事業者:日本新聞社。
1888年4月13日、初の喫茶店
  東京・下谷上野西黒門町(現=台東区上野1丁目1)に、
 日本初の珈琲喫茶店「可否茶館(かひいさかん)」が開
 店した。
  創始者・鄭永慶が、上野ではじめての本格的なコーヒ
 ーショップを開いた。
  1階がビリヤード場、2階が喫茶室の2階建て洋館で、
 コーヒー1杯が1銭5厘、牛乳入れ5厘、席料1銭5厘。
  1杯2銭の牛乳よりは安い。
  開店広告には「珈琲の美味なる思わず腮を置き忘れん
 こと疑いなし」(意味:美味すぎてあごが外れるどころ
 か、 美味過ぎてあごを置き忘れてしまう)
  国内外の新聞や雑誌をそろえ、知的で自由な談論風発
 の場を提供したいとした。
  しかし、3年後に潰れた。
  もりそば1杯1銭の時代に高すぎたという・・、
1888年4月17日、市制、町村制案を内閣で修正後裁可された。
1888年4月18日、仙台に二高、金沢に四高を設置した。
  第二高等学校は、後身の新制大学は東北大学で、
  第四高等学校の後身は金沢大学。
1888年4月21日、三池鉱山払下規則が告示された。
  1889年に、三井財閥に明治政府から払下げられた。
  払い下げられた三池炭鉱は、地下水との戦いから始ま
 った。
  炭鉱は官営で操業がなされ、採炭されていたが、深く
 まで掘り進んだことから湧き水が多く、対策が必要だっ
 た。
  排水を主目的とした『宮原坑』が掘削される計画だっ
 たが、
  三井の責任者となった團琢磨が、宮原坑第一竪坑を、
 1895年(明治28年)2月に着工した。
  当初は地下水との戦いが続き・・、
  3年後の1898年(明治31年)に、排水・揚炭のための坑
 外設備が完成した。
  その後は順調に揚炭・入気・排水・人員昇降その他を
 兼ねる主力坑として・・年間40~50万トンの出炭を維持
 できるように大きく改善して行った。
  1898年第一竪坑の成功の後、更に、1901年に、第二竪
 坑を完成させた。
  次々に難題を克服して、竪坑を完成に導いていった團
 琢磨は、工部省三池鉱山局勤務だった1888年(30歳)の
 時に、三井に炭鉱が払い下げられたため一旦失職した。
  旧三井物産社長の益田孝の招聘で、三井三池炭鉱に入
 社した。
  翌年1889年、三池炭鉱社を組織し、團は総責任者の事
 務長に就任した。
  MIT(マサチューセッツ工科大学)で修めていた鉱山学・治金学
 (MITを1878年・明治11年卒業)、
  更には、湧き水対策を学ぶために、欧米各国の炭鉱施
 設を視察した経験などを活かし、
  的確に三池炭鉱の総合開発・近代化・合理化を進めて
 行った。
  明治日本の産業革命は、何といっても「石炭エネルギ
 ー」が必須であった。
  團琢磨は、1891年(明治24年)蒸気機関車による三池
 炭鉱専用鉄道を開通させて、炭鉱開発に着手した。
  1898年の三池炭鉱宮原坑を皮切りに、万田坑、三池港
 築港と次々に近代化も進めた。
  海外の日本侵略の恐怖から、早急な富国強兵策が必要
 な日本だった。
  金属を溶かす溶鉱炉・反射炉から始まり蒸気で動く機
 関車、汽車、蒸気で進む軍艦、輸送船、電力を作るター
 ビンなどが必要な日本だった。
  この燃料の大半を石炭が担っていた。
  この三池炭鉱の成功を機に、全国各地で炭鉱ブームが
 起きた。
  そして、国民の努力の結集の結果・・わずか50年余で
 日本は、国を護る力を得る事が出来た。
  (九州観光推進機構、ホームページを参考にした)
1888年4月25日、市制及び町村制を公布した(市町村制)
1888年4月30日、枢密院が設置された。
  「枢密院官制」 の公布で、
  憲法審議の天皇諮問機関とする枢密院が設置され、
  伊藤博文が首相を辞任し、初代枢密院議長に任命され、
 就任した。
  内閣の後継として黒田清隆が組閣した。
  枢密院置く(氷川清話)
  勝海舟、枢密顧問官と成る(氷川清話)
1888年4月30日、黒田清隆内閣が成立し、発足した。
  農商務大臣の黒田清隆が、第2代内閣総理大臣に任命さ
 れた(1888年(明治21年)4月30日~1889年(明治22年)
 10月25日)
  伊藤博文は、大日本帝国憲法の制定に専念するため総
 理を辞し、
  初代枢密院議長に転じることになり、
  後任には、薩摩閥の中心的存在のひとりで農商務大臣
 として閣内にあった黒田清隆を推奏した。
  黒田は、自分が務めていた農商務大臣を逓信大臣の榎
 本武揚に兼務させた。
  そのほかは、全閣僚を留任させ、新内閣を発足させた
  (農商務大臣には後に井上馨を専任)
  黒田内閣の役目は、憲法制定と議会開設によって再燃
 が予想された自由民権運動に対する取締り、そして、欧
 米列強との間に交わされたままとなっていた不平等条約
 の改正実現だった。
  黒田内閣(氷川清話)
1888年5月1日、東京・品川硝子会社が開業した。
  主にビール瓶を製造した。
  1885年(明治18年)政府は、品川硝子製造所を西村勝
 三、稲葉正邦に払い下げ、民営化を図った。
  1888年(明治21年)西村らは、「有限責任・品川硝子
 会社」を設立し、業務を拡張した。
  食卓用の各種ガラス器を製造した。
  また、ドイツ人技術者を雇用し、日本で始めての大量
 生産によるビール瓶製造に乗り出した。
  これは丁度、この年、横浜のビール会社「ジャパン・
 ブルワリー(現:キリンビール:麒麟麦酒株式会社)」
 が、麒麟を商標にしてビールを販売開始したのだった。
  品川硝子会社は、キリンビール用にビール瓶納入を成
 功し、
  1889年(明治22年)には、最高の150名の職工がいたと
 いう。(出典:品川歴史館。講演記録)
  キリン歴史ミュージアムHPには、1888年の重役会議事
 録(英文)がある。
  そして、10月の項には、品川硝子会社との契約に関す
 る議事録がある。
  尚、この時、製造されたビール瓶が、明治村に1本、品
 川歴史館に1本、所蔵されている。
  興味を引くところは、重さ840gと、現代物(約600g)よ
 りかなり重く、
  比重は、現在のものと同じなので、鉛ガラスではなく
 てソーダガラス製で、
  ガラスが4割も厚く、底が2cm位凹んで、ガス圧に耐え
 る設計になっている。
  当時のビール瓶はコルク栓だった。
  王冠で蓋をするのは1900年(明治33年)から・・、
  (ウランガラス同好会、ホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:権力者であるのに・・弱い者いじめをする陰湿な権力者・ルーズベルト大統領・・
.
1944年初夏のころ、リンドバーグは、やっと、民間パイロ
 ットの肩書きで戦争に赴くことができた。
  ルーズベルトの「戦争をしたい」という隠されていた
 真実を暴露し・・、
  そして、「戦争の道を回避したい」とする個人のリン
 ドバーグに対して・・、
  権力を持っているアメリカ大統領のルーズベルトは、
 卑劣にも・・追い落とし行為をした。
  ルーズベルト大統領のスピーチライターのロバート・
 シャーウッドさえ・・婉曲に、遠回しに・・リンドバー
 グに味方したくらいだった。
  シャーウッドは言った、「リンドバーグは激しく、そ
 して、雄弁な孤立主義者(戦争反対者)だった。
  ラジオ演説において、ルーズベルト最大のライバルだ
 った」・・と、
  リンドバーグは、明らかに戦争反対を言っていたので、
 この言葉を言ったルーズベルトのスピーチライターの頭
 の中には・・
  「ルーズベルトを、リンドバーグのライバル=戦争論
 者」と表現した・・
  この様に、戦争が始まる前から、このスピーチライタ
 ーの頭の中には、ルーズベルトを、「戦争推進論者」と
 いう見方になっていた。
  戦争が始まると・・リンドバーグは軍務に復帰するこ
 とを拒否された。
  ルーズベルト政権の厳しい追い詰め策の結果だった。
  ルーズベルトは陰湿だった。
  軍務復帰の道は閉ざされた。
  陸軍長官はリンドバーグへ言った、「数々のスピーチ
 で示された(君の)考え方を考慮し、受け入れることは
 出来ない」・・と、
  また、リンドバーグは、ルーズベルト政権の手が回っ
 ていたのか・・民間企業への就職もままならず・・、
  リンドバークは言った、「民主主義は、色々な意見を
 抱擁するはずなのだが、この国の大統領(ルーズベルト)
 は、自分の意見にそぐわないものは排除する様だ」・・
 と・・、
  後になって、1944年初夏のころ、リンドバーグは、民
 間パイロットの肩書きで戦線に赴いている。
  国に忠誠を尽くすためにである。
  戦争の肯定ではない。
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:アメリカが行った『日本兵への虐殺と拷問』
.
1944年7月13日、アメリカの卑劣な日本兵虐殺が行われた。
  リンドバーグは書いた・・
  「アメリカ兵の一部が(日本兵)捕虜を残虐に拷問し
 ていることは誰もが知っていた。
  (日本兵)捕虜を射殺りたり、手を上げて降伏する日
 本兵を即座に、まるで、動物の様に殺すことに何の躊躇
 もない。
  降伏してもどうせ殺されるのだから(日本軍には)玉
 砕しか残された道はなかった。
  この点においてアメリカ合衆国が日本よりもモラルの
 点で高いとはどうしても思えない」と。
  (リンドバーグ、第二次大戦日記)
  (感想〉このアメリカ合衆国兵は、東京裁判で裁かれ
 るべきだった・・捕虜虐待で・・、アメリカは卑怯にも
 この事実を隠した。
.
  そして・・
.
1944年9月15日、ペリリューの戦い(~1944年11月25日)
  ペリリューかく戦えり。
  アメリカの提督が、日本兵の勇敢さを讃えた。
  讃えられた日本兵も素晴らしいが、讃えたアメリカ提
 督も素晴らしかった。
  ペリリューの戦いは、太平洋戦争中の1944年(昭和19
 年)9月15日から11月25日にかけペリリュー島(現在のパ
 ラオ共和国)で行われた、日本軍守備隊(守備隊長:中
 川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリ
 アム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・
 ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘。
  アメリカ側の作戦名はステールメイトII作戦は(「膠
 着」の意味)
  要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いる
 という日本軍が見せた組織的な抵抗、戦術は、後の硫黄
 島の戦いへと引き継がれていくことになった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
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(増補版)460E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月~1888年3月)

2016-11-23 05:34:31 | 日記
題:(増補版)460E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月~1888年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年1月、日本セメント会社が創業した。
  官営の深川工作分局セメント工場を起源とする。
  (旧)日本セメントを系列化した鈴木商店は、大正末
 期には、大蔵省から台湾銀行を経て鈴木商店理事に迎え
 られた長崎英造を役員に送り込んだ。
  1939年(昭和14年)日本セメントは、浅野セメントに
 吸収合併され、
  1947年(昭和22年)浅野セメントは、新生・日本セメ
 ントに商号変更された後、
  1998年(平成10年)秩父小野田と合併し、太平洋セメ
 ントとなり業界最大手のセメント会社が誕生した。
1888年1月、一字名の雑誌が流行(はや)る(「文」「学」
 「友」「情」「法」など)
1888年2月1日、大隈重信が、外相に就任した。
1888年2月1日、元老院が、町村制修正案を上奏した(2月8
 日説あり)
  内閣は、市制町村制法案を元老院に付議したが、
  その元老院は、1875 年に設置されたものの、
  後年の国会と違い、公選の議員よりなるものではなく、
 政治家、学者、知事、軍人などがメンバーとなっている
 ものであった。
  また、その権限も不完全なものであり、
  内閣から交付された議案を修正できるが、その修正は
 必ずしも拘束力を持たないといったものであった。
  このように、元老院の審議を経た後、地方長官を招集
 してその意見を聞いた。
  地方長官側より、準備期間を置くことを要望したので、
 府県知事の具申を待って、順次、施行することとされた。
  市制町村制法案は、1888年2月1日に上奏され、
  1888年3月21日に、閣議に提出されたが、
  そこでさらに、市長の公選制(市会が推薦した候補者
 3名の内から、内務大臣が選任し、天皇が任命する)、
  その時点の案では適用外とされていた東京、京都及び
 大阪への市制の適用という変更が行われた。
  このような経緯を経て、市制町村制は・・
  1888 年4月17日に公布された。
  (財団法人・自治体国際化協会、政策研究大学院大学・
 比較地方自治研究センター、立命館大学政策化学部・上
 子秋生教授より)
1888年2月3日、 文部省が、「紀元節歌」を学校唱歌と定め
 た。
  高崎正風詞・伊沢修二曲の「紀元節歌」を学校唱歌と
 して府県・直轄学校に送付した。
1888年2月11日、新聞「日本」が創刊された。
  日刊新聞で、日刊紙『東京電報』の後身として、『日
 本新聞社』から発行された。
  フランスの輪転機を輸入し発刊したが、発行部数が伸
 びず、その稼働率は低かった。
  過度な欧化主義を嫌い、国権の伸張を唱える国民主義
 で、同紙は『新聞停止法』により頻繁に咎められた。
  1888年(明治21年)から 1897年までに22回、延べ131
 日間の発行停止処分を受けた。
  1892年(明治25年)入社の正岡子規(常規)は、最初
 は短歌、後に俳句も手掛けた。
  また、高浜虚子(高浜清)らも投句していた。
  1898年(明治31年)には、正岡が『歌よみに与ふる書』
 を連載した。
  そして、根岸短歌会を経て、短歌のアララギ系や俳句
 のホトトギス派が隆盛となる基礎を作った。
  伊藤欽亮(実業家)が社長に就任すると、新聞『日本』
 は性格を変え、立憲政友会からの支援を受けた保守系新
 聞となった。
  そして、社屋が火事となり、事業継続が不可能となり、
 1914年(大正3年)12月31日廃刊となった。
1888年2月25日、大阪・名古屋・広島・熊本の各師団に、騎
 兵大隊を設置した。
  1888年(明治21年)、大日本帝国陸軍が、鎮台から師
 団に組織変更をした際、
  騎兵の兵力は、1個師団あたり1個騎兵大隊というもの
 であり、この時点では騎兵連隊は存在しなかった。
  騎兵連隊の前身である騎兵大隊は、1888年から1896年
 (明治29年)にかけて存在した。
  1894年(明治24年)~1895年(明治25年)の日清戦争
 時点では・・、
  騎兵第1大隊(東京、第1師団)
  騎兵第2大隊(仙台、第2師団)
  騎兵第3大隊(名古屋、第3師団)
  騎兵第4大隊(大阪、第4師団)
  騎兵第5大隊(広島、第5師団)
  騎兵第6大隊(熊本、第6師団)
1888年2月、皇城(東京城、江戸城)の正殿が完成した。
  中庭に対して南面し、木造平屋建て、外観は和風で入
 母屋造り。
  内部は二重格天井。
  シャンデリア、絨毯などを取り入れた折衷様であり、
 外国使臣に東洋屈指の大美術と賞賛された。
  1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典
 が挙行された。
  1945年(昭和20年)の東京大空襲により他の宮殿殿舎
 とともに焼失した。
1888年2月、鈴木政吉が、バイオリン製造をはじめた(1887
 年説あり)。
  鈴木政吉は、1859年(安政6年)、現在の名古屋市東区
 宮出町に生まれた。
  父・正春は尾張藩士だったが、乏しい家禄で、生計を
 たてるのが困難だった。
  そこで、細工好きの腕を琴・三味線づくりの内職に役
 立てた。
  長兄は夭死し、次男・政吉は奔放に育った。
  8歳から3年間は、漢学を習った。
  その後、様々な勉学に励むが、時代の流れとともに維
 新の政変と貧乏にさいなまれた。
  地代が変わったことで、家禄も奪われ、内職を家業に
 くら替えした。
  政吉は、武士の商法に打って出た父の手助けをした。
  この家業手伝いの2年が過ぎた14歳の時、
  政吉は、従姉の嫁ぎ先である東京浅草の塗物商・飛騨
 屋の奉公人として上京した。
  この奉公生活は、主人夫婦が揃って亡くなるまでの約
 3年間だった。
  この期間の試練は貴重な体験となった。
  深夜には、読売仮名付新聞で文字を覚えた。
  また、記帳や発信の基本を自習したりした。
  この日毎夜毎に養い鍛えた知識が、かけがえのない財
 産となり将来のバイオリン製作に活かされたと、後に語
 った。
  3年後に帰郷し、家業の三味線づくりの下職に従事する
 ようになる。
  政吉は、飛騨屋仕込みの早起遅寝で奮闘し、翌年には
 父から一家をまかされるようになった。
  しかし、大工の半分くらいしか稼げぬ苦境が続く。
  唯一、仕事に対する面白さだけを糧に、苦境に耐えた。
  そして、明治17年に、父が病死する。
  その後の不況は、政吉に、格別な試練となる。
  また、鹿鳴館の鼓動が容赦なく和楽器の需要難に拍車
 をかけた。
  そんな苦境の中、政吉は、高給が望める音楽教師にな
 ることを考えた。
  父の奨めで長年稽古していた長唄の素養を活かせば教
 師になることが可能だと聞いたからだった。
  稽古仲間のつてで、愛知県師範学校音楽教師恒川鐐之
 助の門を叩いた。
  入門後程なくして、運命の出会いとなる。
  政吉は、同門の甘利鉄吉から和製バイオリンを見せら
 れ、たちまちそれに魅了された。
  徹夜でそれを模写た。
  1週間で仕上げ、苦心のバイオリン初作を恒川に見せた。
  そして、その嘉賞と激励を励みに手掛けた第二作が売
 れ、注文も舞い込んで来る。
  助手を数名を雇うようになった。
  1887年(明治20年)初頭のことだった。
  数ヶ月後、岐阜県師範学校に本物の舶来品があると知
 り、政吉は自作を携行してこれに一騎打ちの比較を挑ん
 だ。
  結果は、見事な惨敗だった。
  しかし、その舶来品のバイオリンは、日本の梅雨の湿
 気にやられて板がはがれた。
  何と!その修理が政吉にまかされたのだった。
  この時、この舶来バイオリンを、政吉は、とことん模
 写した。
  これが、製品的にも、また、精神的にも飛躍のチャン
 スだった。
  1890年(明治23年)、生家から東門前町の借家に仕事
 場を移した。
  そして、さらにその翌年に、大枚300円を投じ、向かい
 の住宅を買入、これを工場にして生産・研究を続けた。
  その結果、第3回内国勧業博の有功賞(1890年・明治23
 年)を皮切りに、
  北米コロンブス世界博の賞牌(1893年・明治26年)、
  第4回内国勧業博の進歩賞(1895年・明治28年)を受賞
 し結実していった。
  政吉は、これらの表彰によって自信を得ながらも、用
 材の選定から乾燥の具合、塗装の配合等といった製作上
 のあらゆる難問にぶつかり、経験を積んだのだった。
  しかし、長唄の稽古で養った自慢の耳と、口癖にいう
 “二つのぼう”で、彼はそれらの難問と戦いながらバイ
 オリン製作に没頭して行った。
  二つのぼうとは、辛抱(しんぼう)と貧乏(びんぼう)
 のことだった。
  その様な精神のもと、政吉は、その後に訪れる経済恐
 慌を凌いで行った。
  (鈴木バイオリン、ホームページを参考にした)
1888年3月1日、帝国生命保険会社が開業した。
  後の朝日生命保険相互会社で、古河グループに属する。
  近代的生命保険会社では2番目に設立。
  因みに、タモリは、福岡時代に、同社の保険外交員と
 して3年近く勤務していた時期がある。
1888年3月19日、勝海舟、孫女伊予子誕生(氷川清話)
1888年3月、荏原郡三田村(恵比寿)にビール工場地を購入
  日本麦酒醸造会社(現=サッポロビール)が、東京・
 荏原郡三田村(現=渋谷区恵比寿)に、
  工場地として9000坪を購入した。  
  工場建設(1889年)
.
  (今日の言葉)
.
  題:正義の人・・リンドバーグ・・
   アメリカよ、歴史に恥ずかしくない行動をせよ!
   目先の利に捉われて・・ずる賢いことはするな! 恥ずかしいことはするな!
.
1939年、リンドバーグが、アメリカに帰国した。
  リンドバーグは、大西洋の単独横断飛行を成功させた
 英雄で・・、
  彼は、アメリカ大統領のルーズベルトが、アメリカ国
 民の方々の意思に反して、戦争へ向かっている事を知っ
 た・・その時・・、
  リンドバーグは、その戦争への道を回避しようと行動
 を開始した。
  ラジオなどで訴えた。
  ルーズベルトの下で、ルーズベルトの意を受けて働く
 内務長官のイッキーズは、
  そのリンドバーグの行動に対抗し、抵抗した。
  リンドバーグ批判を繰り広げた。
  リンドバーグは、ルーズベルトへ、手紙も書いて訴え
 た。
  リンドバーグは、1939年に、アメリカに帰国して以来、
 戦争回避の活動をつつけていた。
  ルーズベルト政権の内務長官・イッキーズは、リンド
 バーグを激しく攻撃した。
  リンドバーグを「ナチの回し者」となじった。
  また、「敗北者」と言った。
  また、「ドイツの荒鷲の騎士」とドイツの回し者を印
 象付けようとして言った。
  リンドバーグは、「大西洋横断の偉業」を、各国から
 表彰されていた。
  アメリカ大使館は、ドイツとの関係を改善したいと、
 ドイツへ、リンドバーグ表彰を強く要請していた。
  ドイツは、その要請を受け・・、
  「大西洋横断単独飛行など航空産業への貢献をした」
 として、ドイツの最高の名誉勲章である「ドイツ鷲十字
 章」をリンドバーグへ与え、表彰した。
  リンドバーグも、各国から与えられる表彰一つと考え
 て、その勲章を受けていた。
  しかし、卑劣にも、ルーズベルトの内務長官イッキー
 ズは、この事を攻撃した。
  リンドバーグは、「アメリカを戦争へ導く」三つのグ
 ループがあると分析していた、
  一つが、イギリスで、戦争が窮地に陥っていた、ドイ
 ツの占領域が拡大の一途だった。
  二つ目が、ユダヤ人、ドイツのユダヤ人の方々への苦
 難から当然だった。
  そして、三つ目が、ルーズベルト政府・・、
  そして、リンドバーグは、戦争への最大の先導者は、
 このルーズベルトなのだと分かっていた。
       (エール大学「リンドバーグ文庫」)
.
  リンドバーグの絡(から)む・・次の話・・
.
1944年6月、太平洋のニューギニアの日米の戦いについて、
 リンドバーグは訴えた・・、
  「アメリカは、残酷な戦いをしている」・・と・・、
  リンドバーグは書いた・・、
  「アメリカ兵は、死者への尊厳を、いっさい、持たな
 くなったようだ。
  敵兵(日本兵)の勇気についても考慮しない。
  遺体の歯を足で蹴(け)って金歯を取り出し、土産に
 する。
  武器も食糧もなく、降伏しようとする日本兵を容赦な
 く射殺する。
  われわれは、果たして本当に文明国家を代表している
 のだろうか」・・(リンドバーグ第二次大戦日記)
..
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