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(追記)ユダ王国のヘロデ大王について・・

2013-09-30 12:27:39 | 日記
 題:(追記)ユダ王国のヘロデ大王について
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イスラエルの古代・・の、南イスラエルの「ユダ王国」
の王・ヘロデは、大王と呼ばれているが・・、
 しかし、よく調べると、何だか「怪(あや)しい」男の
様だ。
 エジプトの大王が、大きなピラミッドを造っているが、
 このパレスチナの大王も、自分もパレスチナの地で、そ
の様にしようと思ったのか、南イスラエルの山をピラミッ
ドの様にさせた。そして、自分の墓にしている。
 エジプトのピラミッドは、農閑期の失業対策として、民
のための善政の工事だったが・・、
 このイスラエルの偽(にせ)の大王は、民をいじめると
いう、名ばかりの大王だった。
 苦しんでいる民を、更に、苦しめ、しないでも良い工事
をしたと言える。
 この男は、イスラエルの男ではなかった。
 隣国の人間だった。
 イスラエルの王に、巧妙に立ちまわり、ゴマもスリ、も
ぐりこんだ男だった。
 そして、隣国をいつも軽蔑していた。
 自分が、その地の男だったのに。
 こんな男が王位について、ユダヤ人が喜ぶ訳がない。
 成り上がった者は、ローマ帝国へのご機嫌もとった。
 得意なゴマスリもした、そのしわ寄せは民へ来た。
 莫大な税金を民へ課した。
 そして、権力を握ったら、この男は、エルサレムの最高
法院(サンへドリン)の役職者を全員、殺した。
 最後の一人まで徹底した。
 当然、政治は「恐怖政治」となった。
 民は、怯(おび)えた。
 政治上の不平分子も徹底してやった。
 民を苦しめて取った税金で、国中に、ローマが喜びそう
な施設(箱物)などを造った。
 「ローマ風劇場」「ローマ風競技場」などだ。
 そして、敵が怖かったのか、この様な奴は、当然、敵が
多いので、怖(こわ)がる訳だが、
 城壁を堅固にし、また、城壁増築もした。エルサレムを
さらに城壁で囲んだ。
 また、不平の民を放逐する訳に行かないので、また、殺
す訳にも行かないので(納税者なので)、懐柔(かいじゅ
う)策をとる。
 民が喜ぶ、エルサレム神殿の大改造をした。
 やはり、民・ユダヤの人たちは喜んだ。
 この神殿は、イエスが大暴れした例の神殿である。
 イエスは、口で、言葉で、納得させることが出来なくて、
 腕力で、大暴れで、民の商店を壊した。
 八つ当たりされた町の商人の方たちは、大迷惑だったろ
う、可哀想なことだ。
 この神殿には、本尊の「ヤハウェ神との契約」が入った
証(あかし)の箱はない状態。
 行くへ知れずの本尊。
 本尊の「もぬけのからの神殿」だった。
 また、パリサイ派の過激分子は「熱心党」を作ったが、
 更に超過激な『短剣組(シツカリ)』が生まれた。
 探検組は、ローマ人やローマへの協調者を暗殺して歩い
た。民は恐れ、恐怖に沈んだ。
 この、探検組に睨(にら)まれたローマ政府への協調者
(ユダヤの裏切り者)にはイエスが入り浸(ひた)った取
税人がいた。
 ローマ政府の手先となって、苦しんでいるユダヤの方か
ら税金を取った奴である。
.
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イスラエルの地の出来事

2013-09-29 04:12:01 | 日記
 題:イスラエルの地の出来事
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イエス(BC4頃~AD30頃)。
 一人のユダヤ人として、ユダヤの一時期、歴史の中で必
死に生きた人だった。
 今・現代、そのユダヤ人の方たちから、一番、疎(うと)
んじがられている人でもある。
 イエスは、北イスラエルの地・ガリラヤに生まれ育った
が、そして、南イスラエルの地には「ユダ王国」があった。
 この「ユダ王国」に、イエスの生まれるはるか以前の時、
 「ギリシャ帝国」から命令が来た。
 「イスラエルの宗教を捨てよ」。
 そして、「ギリシャの祭壇に供犠を捧(ささ)げよ」・
・と。
 イスラエルの民は、この「セレウクス朝ギリシャ帝国」
の帝の勅命に従った。
 これを見た「ユダ王国の王権を継ぐ家系である『ハスモ
ネ家』の系図に居る『マタティア』(?~BC166年)」は、
激怒した。そして、叫んだ。
 「宗教連合を支持するものは、我が後に続け」。
 マタティアは、5人の息子・ユダ(マカベ)・シモン・
ヨナタン等と支持する人々と山に潜伏した。
 ゲリラ戦である。
 そして、マタティアが死んだ後は、ユダ(マカベ)が引
き継いだ。
 そしてまた、ユダの戦死後は、ヨナタンが引き継ぎ、
 エルサレムを占領した。
 セレウクス朝ギリシャ帝国に、ハスモネ家は大司祭の系
図でもあったので、正式に大司祭職を認めさせた。
 しかし、このヨナタンも、後に捕えられて、殺された。
 その後は、シモンが引き継いだ。
 しかし、このシモンも暗殺されてしまった。
 引き継いだのは、シモンの子のヨハネス・ヒルカヌス
(BC135~105年)だった。
 ヒルカヌスは、「ローマ帝国」の援助を得た。
 ここで、やっと、ユダは独立できた。
 王国が建設できた。
 ヒルカヌスは、気になっていたサマリア人の神殿を破壊
した。そして、割礼を強いた。
.
 そして、時は遡(さかのぼ)ってギリシャの話。
 ギリシャの大王だったことで有名なアレキサンダー(BC
356~323)が死んだ時、アレキサンダーの死によって、安
定していた勢力図に変化が現われた。
 そして、それまでのギリシャ帝国は、分割・割譲されて
いった。
 世の勢力分布は変わった。
 「本拠マケドニア」と、「クレオパトラ(BC70~30)で
名高いエジプトのプトレミオ朝」と、「アジアのセレウク
ス朝ギリシャ」だった。
 パレスチナのこの小さな国は、これ等の大国の「はざま」
で生きた。
 パレスチナの地は、「セレウクス朝ギリシャ」と「プト
レミオ朝エジプト」の争点の地となった。
 この時のセレウクス朝ギリシャは、ユダヤ人を徹底的に
ギリシャ化しようとし、エルサレム神殿を破壊した。
 そして、「ゼウスの神殿」を建てた。
 ユダヤ人の律法は厳禁となった。
 ギリシャ人は、彫像(イコン)を美化・尊重した。
 裸体美を愛した。
 これは、ユダヤ人は、宗教的に受け入れられなかった。
 裸体は恥辱の最たるものだった。
 ヤハウェ神殿の近くで、裸体で体育競技をするギリシャ
人に反感し、嫌悪を持った。
 ギリシャ化したユダヤ人が裸体になったりした。
 ハスモネ家のヒルカヌスは、大司祭を名乗ったが、事実
上は王だった。
 世の中は世俗化した。
 大司祭の世俗化でもある。
 人々はこのことに反発した。
 「王権は、ダビデと、その裔(えい)に継承される」
である。
 ユダヤの人々の中には、律法への忠誠と共に、世俗化し
た王権力への反感を持つ人たちがいた。
 この人たちが、「パリサイ派」の人たちだった。
 ユダヤの人々には、このパリサイ派の人々の他に「サド
カイ派」の人たちがいた。
 サドカイ派は、上層部の人たちが支持し、王・ヒルカヌ
スも、このサドカイ派と結び付いていた。
 イエスは、この「パリサイ派を、よく、罵倒した」。
 一般的に、「サドカイ派が、国家主義的」で、
 「パリサイ派は、国際主義的・国際協調的」と言われる。
 ユダヤ人の「バビロニア捕囚などの、異民族の中での生
活の経験が、ユダヤ人を国際的な感覚にし、国際協調的に
していた」。
 キリスト教教義の「異教徒は殺せ」は、まったく、卑劣
で、劣った教義である。
 この教義は、まったく、国際的な人間を作らず、人間を
成長させない教義である。
 ユダヤ人の多数は、パリサイ派になっていた。
 このパリサイ派を、イエスはしきりに罵倒したが、その
意義が分からない。
 このイエスの生まれる前、紀元前40年に、
 南イスラエルの「ユダ王国」に、大王と言われた「ヘロ
デ (BC73~BC4)」が、この年に王位についた。
 ヘロデは、「ユダ王国」の長くはないが王位を継承する
「ハスモネ家」の系図にいる人だった。
 ユダヤの国家、ハスモネ家の国、その大王と言われたヘ
ロデ王の時、社会矛盾が激化する。
 階級の格差も大きくなる。 
 この様な流れから、パリサイ派の中に、分派の動きが生
まれる。
 そして、この動きは、「戦闘的な『熱心党』を生んだ」。
 また、その反動で「隠者的なエッセネ派が生まれ、裸体
に反感して、長衣をまとった」。
 一方、パリサイ派の人々は、復活の思想を持ち、奇蹟を
信じ、メシア(救世主)出現の思想を持った。
 サドカイ派には、「復活の思想はなかった」。
 当初、イエスは、「しきりに罵倒したパリサイ派に所属
していた」。そして、批判色を濃くしていった。
 所詮、イエスは、一つの決まった組織内に居られる人で
はなかった。
 イエスの行動は、ガリレア湖畔のカぺルナウム(町の名)
で、ユダヤ教のラビ(聖職者)として説教をした。
 時代を眺めてみると、
 イスラエルの地は、戦争に明け暮れる地獄の様相の地だ
った。
 パリサイ派は、サドカイ派を弾圧したりし、
 パリサイ派が、第一王子を支持たのに対し、サドカイ派
は、第二王子を戴いて巻き返すとかの泥沼状態。
 それらの争いに乗じて、様相を見ていた外国勢が、侵入
し、漁夫の利を占めようと、エルサレム神殿に兵が至って、
 祭司はその場で殺されたり、反抗した王子は捕えられた
り、虐殺の悲惨な声が満ちたりと・・。
 宗教の劣悪さが、卑劣さが、時代の様相に反映していた。
.
 (参考)アレクサンドロス3世(古希: Ἀλέξανδρος Γ'、
紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前33
6年 - 紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王(古希:
Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)は、アルゲアデス朝のマケドニア
王、ヘラス同盟(英語版)(コリント同盟)の盟主、エジ
プトのファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレ
クサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでア
レクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも
多い。
 (参考) うと・む【疎む】 [動マ五(四)]いやだと
思う。嫌って遠ざける。うとんずる。
 (参考)ヘロデ【Herod】 [前73ころ~前4]ユダヤの
王。在位、前37~前4。キリスト誕生当時専制君主として
君臨、ヘレニズム文化に心酔し、エルサレム神殿を再建。
猜疑心(さいぎしん)が強く、妻子や縁者を殺害。
 (参考)マケドニア(ギリシア語:Μακεδονία、マケド
ニア語:Македонија、ブルガリア語:Македония)は、東
ヨーロッパのバルカン半島中央部にあたる歴史的・地理的
な地域。67,000km²ほどの広さにおよそ465万人が住み、
中心的な都市は南東部にあるギリシャ領のテッサロニキ(
サロニカ)である。
 (参考)クレオパトラ7世フィロパトル(ギリシア語:
Κλεοπάτρα Φιλοπάτωρ, ラテン語: Cleopatra VII Philop
ator, 紀元前70年12月/紀元前69年1月 - 紀元前30年8月1
2日)は、古代エジプトプトレマイオス朝最後のファラオ
である。父はプトレマイオス12世(アウレテス)、母はク
レオパトラ5世であり、兄弟はベレニケ4世(姉)、アルシ
ノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、プトレマイオス14
世(英語版)(共に弟)が知られる。「クレオパトラ」の
名はギリシア語で「父の栄光」を意味する。
現在、一般に「クレオパトラ」として浸透しているのは、
このクレオパトラ7世の事である。「絶世の美女」として
知られ、人をそらさない魅力的な話術と、小鳥のような美
しい声であったと伝えられる。ただし、クレオパトラの肖
像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨
に横顔がのこされているのみであり、この評価は後世の作
り話だとの説がある(#人物節を参照)が、妹のアルシノ
エ4世の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする
説もある。
 (参考)ゼウス(古希: ΖΕΥΣ, Ζεύς, Zeus)は、ギリシ
ア神話の主神たる全知全能の存在[1]。全宇宙、天候(特
に雷)、社会秩序を司る天空神でもあり、オリュンポス十
二神をはじめとする神々の王である。
 (参考)えい【裔】 血筋の末。子孫。
 (参考)カペナウム(ギリシア語: Καπερναούμ, Kaper
unaoum)は新約聖書に登場する、ガリラヤ湖の北西岸に
ある町のことである。今日のイスラエルのテル・フームに
あった。新共同訳聖書では、カファルナウムと表記。
 日本正教会訳聖書ではカペルナウムと表記される。
.
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ザビエルたち、キリスト教宣教師について・・

2013-09-28 01:29:28 | 日記
 題:ザビエルたち、キリスト教宣教師について・・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 日本に来たキリスト教宣教師たちは、最初の頃は、清貧
をかこっていたが、
 金持ちの貿易商人とかかわるようになると、次第に贅沢
になって行った。
 教会での食べ物をはじめ、衣服も贅沢化して行った。
 従僕をかかえるまでにもなった。
 あげくの果ては、祈祷や仕事に熱意を欠く者も出て来た。
 また、衣服に関しては、日本人は、はなはだ外見を重ん
じる国民だからと異論を唱える者もいた。
 つまり、規則通りのものでなく、華美なぜいたくな服装
をしたいという。
 また、ザビエルは、清貧に甘んじたではないかとの論議
も出た。
 しかし、実際は、ザビエルは、「日本人は外見によって
人を評価する国民だから」と言い、ザビエルは、華美に装
っていた。
 この頃のキリスト教宣教師のフロイトは、嘘をつく事の
多い宣教師だったが、その1例だが、
 頼りにしていた信長の家臣の和田惟政を過大にして、嘘
の報告をしていた。
 例えば、姉川の合戦に参戦し、「信長軍中にある最も強
力な武将で、総司令官」だと、報告しているが、
 和田惟政は、姉川の合戦に参戦もしていない。
 姉川の合戦の当日、自領の神社に行ったとのはっきりし
た記録が残っている。
 キリスト教はプロパガンダ(嘘宣伝)が多いが、日本へ
来た当初の頃から、この様な嘘体質だった。
 そして、また、
 日本に来たキリスト教宣教師の棄教は多かったが、
 徳川幕府の見解をうかがい知る1例。
 寛永20年に来日して、キリスト教を棄教したキリスト教
宣教師が、棄教した時に、
 偽りの棄教でないことの確認をするため、誓文を書かせ
た。
 その誓文に、キリスト教宣教師を取り調べ、書いたその
要旨に、その主旨がよく表れている。
 その文には・・
 「イタリアの国・ローマという所にキリシタン宗門の頭
・パッパという者(ローマ教皇のこと)がある。
 国々へバテレンを遣わし、宗門を広め、その国がパッパ
に従えば、奉行を遣わして仕置きする。
 ルソン・ゴア・ノビスパンなどその他多くの国をむさぼ
り取っている。
 日本は、軍勢で従わせるには困難なので、後生のために
宗門を広めることにして、バテレンを渡した。
 宗門がおおかた広まったら戦争をし、日本の多宗を打ち
たいらげ、パッパに従わせようというたくらみである」。
.
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そこに神はいるのか。

2013-09-26 16:07:59 | 日記
 題:そこに神はいるのか。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の教義や聖書などが、宗教として形づくられ
ていく過程・経過において、
 キリスト教の聖職者が言う様に、美しく経過し、出来あ
がって行った訳ではなかった。
 キリスト教を信仰する民も、美しく統一されて、美しく
信仰を守って来た訳では無かった。
 民もあらゆる民族と混血した。
 信仰において、『神から与えられた』という常套句が、
よく使かわれるが、
 神から与えられたという、『純粋無垢なものという話と
は程遠かった。
 そこには、民の生きる「生き様」と共に、信仰が形作ら
れて行き、多くの血も流れ、民はさ迷い、戦いに明け暮れ
もし、砂漠の地の宗教は形成されていくという過程があっ
た。
 神の介在は無い。
 民が、生きる「もだえ」の中から、人の手、民の手によ
って形作られて行ったものだった。
 海に囲まれ、長い長い期間、まったく有難いことに、ま
とまりの中にいた日本とは違う地であった。
 イスラエルの地で、糧を求めて、生を求めた、色々な民
族が行きかい、争いをする、長い時が流れる中から生じて
来た。
 そのある一時期の話。
 紀元前721年、イスラエルの民は、北と南に分かれてい
た。
 しかし、平安の時は続かなかった。
 その内の、北にある「北イスラエル王国が滅亡した」。
 外敵の侵入による滅亡だった。
 南にある南イスラエルの「ユダ王国」は、生き残るため
に、アッシリア王国にゴマスリの臣従の道を選んで、命脈
を保った。
 しかし、そのアッシリア王国も、紀元前612年に滅亡す
る。
 北イスラエル王国が滅亡してから109年の時が経過して
いた。
 そして、それから15年の後の紀元前597年に、
 新バビロニア軍によって、エルサレムは攻撃を受けると
いう悲劇が発生した。
 これによって、第1回バビロニア捕囚が行われるという
悲惨な事態も起きた。民が連れて行かれるという。
 そしてまた、その10年後の紀元前587年に、
 第2回目の攻撃をエルサレムは受けた。
 この時にエルサレムの命運は尽きた。外国による征服が
成立した。
 異教徒の制圧である。
 勿論、宗教的干渉もなされた。
 それでなくても、南イスラエルのユダ王国は、アッシリ
ア王国にゴマスリ従属していた時も、イスラエルの民は、
自分たちの信仰の形は保っていられなかった。
 異教の神・バール神への礼拝が、大っぴらに行われた。
 また、信仰の中心だったイスラエルの民の『エルサレム
神殿』には、「異教徒の神・バール神」に捧(ささ)げる
ための神殿までもが作られた。
 そして、エルサレム神殿の屋根の上にまで、「バール神
の祭壇」が設けられた。
 エルサレムの従属は、侵略国家の風俗となった。
 第二次世界大戦後の米軍占領下の日本と同じであった。
 エルサレムの娘たちは、異教の男の求めに応じ、
 「目に媚(こび)をたたえ」「自分たちの信仰の神に背
(そむ)き」、緑の木の下で、生活のためとはいえ、外国
の男たちの求めに応じた。
 (「イザヤ書」1章)に、
 「ああ忠信なりし町、いかにして遊女とはなれる。往時
は公平にてみち・・いまは人殺しばかりとはなりぬ」。
 この1例の様な事々を吸収し、歴史の事々を経験し吸収し、
それらが混ざり合って宗教は形成されて行った。
 キリスト教は、また、ヨーロッパに入って行く時にも、
節操無く、恥ずかしげも無く、異教の地の神々と習合した。
 集合癖のあるキリスト教は、あらゆる地場の神を吸収し
た。
 以前の形を保とうという何ら節操もない、確固したもの
もないキリスト教。キリスト教の性癖である。
 そこに神はいるのか。
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キリスト教は教義を変えよ。人類を愛せよ。

2013-09-26 02:10:15 | 日記
題:キリスト教は教義を変えよ。人類を愛せよ。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、馬鹿な宗教だなと思う。
 殉教を、ひたすら、大きく大きく、見せたいとしている。
 銅版画「雲仙の拷問画」(日本二十六聖人記念館蔵)は、
想像して描いた想像図である。
 真実ではない。
 この図は、想像図と公的に確認されている。
 キリスト教は、ひたすら殉教を悲惨なものへ、悲惨なも
のへと、より悲惨さへプロパガンダ(嘘宣伝)して来た。
 本図も、キリスト教系記念館(カトリック教会の設立)
の所蔵で、想像図ということからキリスト教のいつも良く
やる針小棒大に描いている。
 キリスト教は、教義から殉教を美化し、「殉教を求めて
行くべきもの」としている。
 また、殉教される時には、喜びを現(あら)わし、苦痛
を現わしてはいけないとしている。
 殉教の姿が厳しければ厳しいほど、その苦痛をさりげな
く処す事を良しとしている(苦しくても体をよじらないと
か)。
 そのキリスト教の説く殉教の姿を現わした想像図である。
 しかし、日本の取り締まりは、この殉教の図とはまった
く逆であった。
 秀吉が「バテレン追放令」を出した後に、キリスト教徒
数が逆に増えているのを見ても分かる。
 また、徳川時代においても、なるべくキリシタンを捕縛
しない様にした。
 たとえ、キリシタンだと分かってしまわれても、友人・
知人や親戚にでも、「キリスト教を捨てたと一言」、仮に
でも言えば捕縛には来なかった。
 キリスト教は、凄惨さをひたすらプロパガンダ(嘘宣伝)
する。
 キリスト教の悪行の一例の「魔女事件」一つをとっても、
村ごと全滅などという例の様に、キリスト教は想像を絶す
る殺戮をしたが、
 この日本の場合は、キリスト教が「大殉教」と称する犠
牲者数が最大でも55人とか50人というオーダーとは比較ど
ころではない。
 キリスト教の行った殺戮は、オーダーの違う人数の多さ
なのである。
 キリスト教がアメリカ大陸で行った殺戮は、何と1000万
人に届くかという悲惨さなのだ。何という数なのだ。
 キリスト教は教義を変えよ。人類を愛せよ。
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