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(増補版)195D2/3:気になった事柄を集めた年表(1802年~1804年)

2015-08-30 05:00:17 | 日記
題:(増補版)195D2/3:気になった事柄を集めた年表(1802年~1804年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1802年、農学者の大蔵永常(おおくらながつね)が、「農
 家益(のうかえき)」前編を刊行した(1768年~没年不
 明)
  「農家益」は、農学書で、
  「はぜ」の栽培や「製ろう」の技術など、特用作物(
 とくようさくもつ、食用以外の特別の用途にあてるため
 栽培・加工する農作物のことで、
  綿・桑・茶・麻・タバコ・藍など)の栽培と、その加
 工法が詳しく述べられている。
  因みに、「はぜ」は、ウルシ科ウルシ属の落葉小高木
 で、
  果実を蒸して、圧搾して、採取される高融点の脂肪(
 木臘)は、和蝋燭、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、
 クレヨンなどの原料として利用される。
1802年、「絵本太閣記」(岡田玉山挿絵)7編が完結した。
 (1804年絶版)。
  岡田玉山(おかだぎょくざん)は、画家で下絵を得意
 とした。
  絵本太閤記は読本(よみほん、伝奇小説)で、伝奇的
 な、現実には起こりそうにない生涯を描いている。
1802年、令:出版統制、
  この年に完結したばかりの「絵本太閤記」は、この令
 が出された1ヶ月後に、幕府から絶版を命じられた。
  「絵本太閤記」の挿絵を担当した岡田玉山は、手鎖の
 刑を受け、版元の勝尾屋は銭十貫文の過料に処せられた。
1803年閏1月、幕府が、長崎で落札した輸入品を、大坂の
 ほか、京都・堺へ販売することを、京都・堺・長崎・大
 坂・江戸の5か所の商人に許した。
1803年2月5日、幕府が、勘定方役人・山田大吉に、東梅道
 筋分間絵図面の作成を命じた。
1803年2月、本草学者・小野蘭山(おのらんざん)が、「
 本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう、日本の本草
 学の集大成と言われる)」の刊行を開始した(1806年完
 結)。
  小野蘭山は、京都の人で、独学で学識を深めた人。
  幕命により、江戸の医学館で講義するかたわら、諸国
 で薬草を採取したりした。
  また、日本各地を歩いて、植物のほか動物、鉱物を採
 集した。
  幕命で、医学館で講じたのは、71歳で幕府の医官にな
 ってからだった。
1803年2月、伊能忠敬が、幕命によって、東海・北陸・佐渡
 の沿岸の測量に出発した。
1803年5月、「はしか」が大流行した。
  この時代の流行は、規模が大きかった。
  前年に、朝鮮半島に流行し、日本の対馬を経由して、
 長門に上陸し、西日本に拡大し、大流行となった。
  「はしか」は、一生に1度かかる「命定め」の伝染病と
 して恐れられていた。
  死亡率が高かった。
  流行のたびに多くの命が失われた。
  この年の流行は、歴史に残る大流行だった。
  幕府が、窮民を救済することを町会所に命じた。
  庶民は、「御役三病」と言って、天然痘・ハシカ・水
 痘の3つの病を無事に終えることが最大の願いだった。
  因みに、日本のハシカの最初の流行は、998年の、平
 安時代の歴史物語の「栄華物語」に出て来る。
1803年5月、江戸~大坂を運行する菱垣廻船が衰退したた
 め、十組(とくみ)問屋が組外商人の 取り締まりを願い
 出た。
1803年6月11日、心学者の中沢道二(なかざわどうに)が
 没した(79歳)
  織物師でもあった。
  松平定信が作った佃島人足寄場の教諭方にも就任した。
  言葉:「堪忍の 成る堪忍は 誰もする 
           成らぬ堪忍 するが堪忍」
1803年7月、アメリカ船が、長崎に来て、通商を求めた。
  黒船来航と大騒ぎするころ(1853年)の約半世紀前で
 あるが、
  アメリカは、まだ新興国家だった。
  ロシアやイギリスに比べ、遅れて東アジアに進出して
 来た。
  アメリカが、東アジアに進出する大きなきっかけは、
 日本近海のマッコウクジラの発見だった。
  その当時の、マッコウクジラの脳油は、石鹸やロウソ
 ク、そして、灯油、そして、
  機械の潤滑油として使われる極めて貴重なものだった
 (油だけを使用して、その99%は捨てた。この様な、可
 哀想な捕獲・殺戮の利用率だった。
  オーストラリアのキリスト教に支援された日本の今の
 クジラ捕獲への虐め行為は、お門違いである。
  日本の利用率は100%で、日本は長い歴史があり、伝統
 の文化の中にあるクジラ捕獲である)。
  西洋各国は、この様な可哀想な利用率使い方で、大西
 洋のクジラを乱獲し、
  大西洋のクジラが居なくなったため、太平洋に出て来
 ていた。
  その捕鯨船団の寄港地として、日本の港を必要として
 いた。
  1848年に、カルフォルニアに金鉱が発見されて、
  アメリカの本当の所有者のアメリカ・インディアンの
 方々が、また、不埒な扱いを受ける45年前のことであっ
 た。
1803年10月17日、杉田玄白とともに「解休新書」を訳出し
 た蘭方医の前野良沢(まえのりょうたく)(1723年~
 1803年)が没した(81歳)
1803年、山谷に、料理茶屋・八百善が開店した。
  江戸第一の料理として評判となった。
1803年、瀬戸焼:加藤民吉の父子が瀬戸焼を始めた。
  肥前有田から染め付け磁器の製法を伝えたのに始まる。
1803年、アメリカが、ルイジアナをフランスから購入した。
  購入したと言ったって、そのフランスも、本当の所有
 者であるアメリカ・インディアンの方々から無断で奪っ
 たものである。盗品購入である。
1804年、日本の総人口: 25,622,000人
1804年1月1日、寛政暦を完成させた天文学者の高橋至時(た
 かはしよしとき)が没し(41歳)、4月3日に、子供の景保
 (かげやす)が天文方となった。
1804年3月、鍬形恵斎(くわがたけいさい)の画の「近世職
 人尽絵詞(きんせいしょくにんづくしえことば)」上巻
 ができた。(翌年の3月15日に中巻が完成した)。
  肉筆画の傑作と言われている。
  江戸の町の日常風景を、独特の洒脱さと軽妙な筆づか
 いで活写している。
1804年5月17日、幕府が、一枚絵・絵草子刊行に関する取り
 締まりを強化した。
  喜多川歌麿(きたがわうたまろ、浮世絵師、狂歌師)
 が、「絵本太閤記」の挿絵で処罰されている。
  歌麿は、美人大首絵(おおくびえ、美人や役者の上半
 身を大きく描写した絵)を発表して注目を集めていた。
1804年7月3日、4代目・鶴屋南北(つるやなんぼく、狂言役
 者、1755年~1829年)の「天竺徳兵衛韓噺(てんじくと
 くべえいこくばなし)」が、河原崎座で初演された。
  この話は、天竺(インド)へ渡った船頭の見聞の手記
 を題材とする天竺徳兵衛物の一つ。
  徳兵衛を、日本国転覆をねらう謀叛人としている。
  また、3代目までは江戸歌舞伎の道外方(どうけかた)
 であったが、4代目から歌舞伎役者となった。
1804年7月23日、植崎九八郎上書(うえざきくはちろうじょ
 うしょ)
  幕府が、いたずらに国政を論じたとして幕府小普請組
 の旗本・植崎九八郎政由(まさより)を処罰した。
  1787年の松平定信の老中就任に際し、前代の田沼政治
 をきびしく批判した。
  そして、幕政の刷新を訴えた。
  10項目余の内容からなり、人材登用、銭相場の引上げ、
 百姓離村の防止(農業人口減少の防止)、年貢負担の軽
 減、綱紀の粛正、物価の引き下げ、消費の抑制、風儀取
 り締まりなど多岐に渡っている。
  そして、1801年に、将軍・家斉に改革政治批判をまと
 めた書を上呈した。
  この頃は、上書ブームでもあった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)194D2/3:気になった事柄を集めた年表(1800年~1802年)

2015-08-29 04:17:49 | 日記
題:(増補版)194D2/3:気になった事柄を集めた年表(1800年~1802年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1801年4月2日、伊能忠敬は、幕府から、前年につづいて陸
 奥から関東の測量を命じられ、江戸を出発した、
  7月26日、銚子犬吠崎から富士山の方位測量を終えた。
1801年6月、出羽村山郡の百姓一揆。
  出羽国村山郡の幕領・山形藩の農民が、米の買占めな
 どに反対して打ち壊しをする(村山一揆)
  1781年~1801年にかけて、藩政の改革を巡って政争を
 繰り返していた。
1801年6月29日、儒者の細井平洲(ほそいへいしゅう)が、
 没した(1728年~1801年)(74歳)
  尾張国知多郡平島村の豪農の次男に生まれる。
  中西淡淵の学徳を慕って入塾し、後に、長崎に遊学す
 る。
  そして、江戸に出て、私塾の嚶鳴館(おうめいかん)
 を開いた。
  また、辻講釈を聞いた米沢藩の藩士が感銘を受け、こ
 れが機縁となって、出羽米沢藩主の上杉鷹山に招かれ、
 鷹山の師となり、藩政改革に取り組み、藩校の興譲館を
 創立し、教えた。
  そして、尾張徳川家の侍講に招聘され、藩校の明倫堂
 で藩内教化に努め、藩校の再興に尽力した。
  また、農村をまわって講話をおこない、庶民教育にも
 熱心で、巡回講和は平易で人の心を捉え、5日間で5万人
 の聴衆があったという。
1801年7月12日、小沢蘆庵(おざわろあん、歌人、尾張犬山
 藩士)が没した(79歳)
  平易なことばで心情を歌う「ただごと歌」を唱えた。
  「ただごと歌」は、思ったまま、感じたままを、比喩
 などの技巧を凝らさないで、ありのままに表現した歌。
1801年7月25日、地理学者の長久保赤水(ながくぼせきすい)
 が没した(85歳)、詳細は前述を参照ください。
1801年7月、巾着切り(きんちゃくきり=スリ)などが、徒
 党を組んで、往来人に対して喧嘩をしかけて、懐中物な
 どを盗むため、幕府は 厳重な取り締まりを命じた。
1801年8月、幕府が、本草学者の小野蘭山(おのらんざん)
 に関東から東海、和歌山から紀州領へ(熊野古道の記述
 も見られる)で薬草を採取させた。
  4年間をかけて、採薬のために諸国を巡った。
  弟子が同行し、蘭山から実地の教えを受ける研修旅行
 という性格のものだった。
1801年8月、志筑忠雄(しづきただお、蘭学者、天文学者、
 1760年~1806年)が、ドイツ人ケンペルによる「日本誌」
 の抄訳「鎖国論」を著した。
  志筑忠雄は、オランダ通詞の養子で、1776年に、稽古
 通詞となったが、翌年、病気を理由に辞職し、蘭学研究
 に没頭した。
  そして、蘭書の翻訳に尽力した。
  ニュートンやケプラーなど、西洋の天文学や物理学の
 学説を紹介した、自己の見解も加えていた。
  太陽系の起源を論じた時は、独創的な星雲説を唱えた。
1801年9月29日、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、文
 献学者、医師)が没した(72歳)
1801年9月、幕府が、諸国孝行者などの話をまとめた「孝義
 録(こうぎろく)」を学問所から刊行することを決めた。
  「講義録」は表彰事例集で、慶長から寛政期に至る全
 国8000以上の事例を登載している。
  民衆のための教化の策として、善行表彰者の報告をさ
 せ、昌平坂学問所にて集めて編集し、この年に、出版し
 た。所載の表彰者総数は8614名。
1801年12月、幕府は、土蔵のない者が、火災時に諸道具を
 往来に置くことを禁止した。
1801年、江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん、幕臣、
 兵学家、砲術家)が生まれた(1801年~1855年)
  高島秋帆(たかしはしゅうはん)に砲術を学び、免許
 皆伝を得て、江戸で教えた。
  ここで、門下として学んだ佐久間象山や木戸孝允らが
 いる。
  「まわれ右」などの日本語の号令語を考え出したのも
 彼である。
  江川家は韮山(にらやま)の代官で、父の跡を継ぎ、
 幕府の許可を得て、韮山に反射炉を造った。
  鉄の大砲を造ろうとした。
  品川台場の築造責任者にもなった。
  また、伊豆戸田村にて、軍艦を建造したが、これは、
 日本初のヨーロッパ式艦船で、近代造船業の端緒を開い
 た。
  また、民政に努め、心をくだき、種痘の施行をし、奨
 励した。
  「世直し大明神」と呼ばれた。
  また、一方、海防(沿岸防備)にも意をくだいた。
1801年、仕組まれた、インドにおける『ロヒラ戦争』
  イギリスのずる賢いインドの地の獲得方法(ロヒルカ
 ンドの場合)。
  イギリスの悪巧みで起こされたインドの地のロヒラ戦
 争の地は、
  結局、イギリスに奪われ、イギリス領となってしまっ
 た。
  この年に、インド北部のロヒルカンドが、イギリス領
 となった。
  イギリスの卑劣な領土獲得の典型的な例である。
  本当のところは、領土を奪いたいイギリスは、ロヒル
 カンドを支援した、「イギリスの軍隊を貸すから隣接の
ロヒラ人の国ロヒカンドを占領せよ」とそそのかした。
  何の恨みもないのに、1774年に、ロヒラ戦争を起こさ
 せ、その藩王は勝って、領土を手に入れる。
  イギリスは、領土の藩王を支援した部族に奪わせる。
  そして、その後、その領土をイギリスのものとしてし
 まう。
  まったく問題ない善良な藩王から、この様にして、領
 土を奪う。
  その善良な王に、虐政をする様に押し付ける。
  イギリス人で、この戦争を目撃したマコーレーは言う、
  「ロヒラ戦争の目的は、何ら悪くもない、善良な人か
 ら、その善き政治を奪い、
  その意思に背いて、厭(いと)うべき虐政を押し付け
 るという事であった・・
  ロヒラ人は、平和を望んで、哀訴嘆願し、巨額の金を
 積んで、ただただ、戦争を避けたいとしたが、
  すべては無駄だった。
  彼らには、徹底抗戦をする以外の如何なる方法もなか
 った。
  血なまぐさい戦争はかくして起こった。
  最も善良で、最も立派であった国民は、貪欲・無知・
 残虐無類なる暴君の手に委ねられ・・
  あれほど豊かなこの国は、今や、惨めな国の中でも、
 最も貧乏な地方と成り下がった」・・と。
  たまらなくなった領民は、救済を望んで、そして、哀
 願し、そして、嘆願する。
  そんな状態でも、戦争になるのを避けたいと、領民は、
 金をひたすら積み、戦争を避けようとするが・・、
  そのすべては無効だった。
  そして、この卑劣な領土を奪ったイギリスは、訴えら
 れる。
  その訴えたインド人を、ありもしないことをでっちあ
 げて訴え、イギリスの息のかかった総督の親友のカルカ
 ッタ最高法院の裁判長は、そのインド人に死刑を判決す
 る・・、
  そして、翌日、すぐに、死刑に処してしまった。
  このインド人が絞首刑になるときには、インドの人達
 は、民衆は、叫喚をあげ、泣き叫んだ。
  この公開処刑は、まるで魔女の公開の場でのキリスト
 教の焚刑での処刑の様だった。
  この様な事を、イギリスは、インドのあちこちで、こ
 の様な事をやった。
1802年1月25日、博学の好事家で南画家でもある木村兼葭堂
 (きむらけんかどう、文人、本草学者)が没する(1736年
 ~1802年)(67歳)
1802年1月、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、偽作者)の
 「浮世道中膝栗毛(うきよどうちゅうひざくりげ、東海
 道中膝栗毛)」初編刊行(1808完結)。
  江戸神田八丁堀の住人栃面屋(とちめんや)弥次郎兵
 衛と喜多八が東海道を西へ旅をし、伊勢参宮をしてから
 大阪から京都に行くという旅行記形式の滑稽本。
1802年2月、蝦夷奉行を設置した。
1802年2月26日、蘭方医・桂川甫周(かつらがわほしゅう、
 幕府の医官、1826年~1881年)が、将軍・家斉に顕微鏡の
 使用法を講じた。
  甫周は、日本で、最初に、顕微鏡を医学に応用した人。
  明治まで生きた人。
1802年3月16日、風邪(お七風)が流行する。
  長崎から始まって、全国に広がって行った風邪が流行
 し、
  幕府は、御家人に医薬を与え、また、
  困窮した町人には、御救米・銭を与えた。
1802年5月23日、贅沢禁止令
  幕府が、町人女が、色縮緬を髪飾りに使用することを
 禁止した。
  度重なる贅沢禁止令によって、町方の女性方は華やい
 だ色小袖などの着用も難しくなった。
  町人の妻が、黒縮緬にモールの帯を巻くのも禁止。
  少女が、青梅縞の袷(あわせ)の裏に黒繻子(しゅす)
 に金魚が縫われた小袖も禁止だった。
1802年6月27日、歌舞伎役者の4代目松本幸四郎(まつもと
 こうしろう、1737年~1802年)が没した(66歳)
1802年7月1日、江戸が洪水に
  6月25日より降り続いた雨で、江戸が洪水になった。
  箱根温泉場は流失するという被害を受けた。
1802年7月18日、狂歌作者の唐衣橘洲(からころもきっしゅ
 う、1744年~1802年)が没した(60歳)
  蜀山人(しょくさんじん)らと狂歌会を開き、これが
 江戸狂歌の発生の源となった。
  「世に立つは くるしかりけり 腰屏風(びょうぶ)
    まがりなりには 折かがめども」
1802年7月、幕府が、大雨洪水による米価高騰のため、酒
 造制限令を出し,酒造量を1788年の半分とした。
1802年10月、志筑忠雄が、ニュートン力学などを紹介した
 「暦象新書(れきしょうしんしょ)」が完結した。
  志筑が、イギリスの物理学者のジョン・キールの本「
 自然学入門」のオランダ語訳を抄訳して、自説を加えて、
 地動説や光の屈折などを紹介した。
1802年12月、幕府が、酒造制限を解除して、酒造米の10分
 の1を諸民の救済のため貯蔵させた(翌年に中止した)
1802年、令:旅人厚遇の令
  幕府が、諸街道の問屋、宿屋、人足、馬子に対し、旅
 人厚遇すべしとの御触れを出した。
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(増補版)193D2/3:気になった事柄を集めた年表(1799年~1800年)

2015-08-28 03:27:08 | 日記
題:(増補版)193D2/3:気になった事柄を集めた年表(1799年~1800年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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18世紀~19世紀前半、オーストラリア政府の先住民の殺戮
  オーストラリアでは、この頃、先住民のアボリジニー
 の方々が、卑劣な事に、盛んに、殺戮された。
  政策だった、オーストラリア政府は、この行為を政策
 として遂行した。
  キリスト教の有色人種蔑視に洗脳された者の安易な殺
 戮行為だった、軽蔑すべき行為だった。
  アボリジニーの方々は、絶滅させられようとしていた。
  政策は、それを目的としていた。
  まったく軽蔑すべきキリスト教の教義に洗脳された者
 たちの行為だった。
18世紀半ば~18世紀末、麻薬を売るイギリス。
  イギリスは、アヘン(麻薬)を、中国・清国の方々へ
 に売りつけた。
  この時期、イギリスは、清国との貿易額が増えて行っ
 た。
  イギリスの貿易相手国としての清国は、大きな割合を
 占めて行くようになった。
  また、清国は、何でもある国だった、その為、清国の
 輸入は少なかった。
  それに引き換え、イギリスは、中国・清国からの輸入
 品は多かった。
  一例として、イギリス本国では、中国から輸入した茶
 を飲む習慣が拡大した。
  今まで、上流社会の高貴な飲み物だった茶が、一般の
 人々も飲みだし、また、飲めるようになった。
  イギリスは、完全な輸入超過に陥(おちい)った。
  イギリスの外貨は流出した。
  この輸出入のギャップを埋めるために、外貨の銀の流
 出を止めるために、イギリスは、非紳士的な手を使った。
  やってはいけない麻薬輸出を行った(アヘン貿易)。
  18世紀半ばの頃までは、アヘン(阿片、麻薬)は、ペ
 ルシャで栽培されていた。
  イギリスは、狡いこと・悪賢いことを考えた。
  このアヘン(麻薬)を、イギリスの植民地のインドで
 栽培し、外貨流出になっている中国へ売り込もうと考え
 た。
  イギリスは、この麻薬を、植民地としているインドへ
 持って行った。
  そして、インドで栽培を奨励し、インドでの栽培を行
 った。
  インドでのアヘン栽培は、どんどん増えて行った。
  そして、イギリスは、その麻薬・アヘン(阿片)を、
 中国へ持って行った、貿易品として使った。
  イギリスは、忌むべき麻薬商人国家に成り下がった。
  イギリスが持ち込んだ麻薬のアヘン(阿片)で、清国
 では、急激に、麻薬中毒者が増えてしまった。
  当然、中国・清国の国内では、アヘン中毒患者の急増
 が問題となった。
  清国は、何度も、何度も、禁止令を出した。
  取り締まりも厳しく行った。しかし・・、
  それでも流入は止まらなかった、流行も止まらなかっ
 た、
  イギリスによるアヘン流入を、清国は、アヘンを武力
 を使ってまでしても阻止せざるを得なかった。
  そこまで追い込まれていた。
  当然の行動に出ざるを得なかった。ファイトバックし
 た。
  そして、アヘン戦争となった。
  イギリスは、当然、勝てる戦争だと思っていた事が、
 本当に卑劣だった。
  イギリスは、まだ、この謝罪をしていない。
1800年、日本の人口: 約 3,100万人
1800年、職業分布:この頃の職業分布、武士7%、農民84%、
 町民6%、その他(易者、医者など)3%
1800年1月、町火消しが出初めと称し,火消し道具を持ち出
 して、梯子の上で芸などを行うため、 幕府は禁止した。
1800年3月30日、昌平坂学問所が落成した。
  昌平坂学問所の新築工事が終わったため、幕府は、夏
 からの入学を許可した。
  そのため、4月には 寄宿・通学願い手続きなどが決め
 られた。
1800年4月22日、幕府が、逃亡など人足寄場関係の刑罰を
 1797年制定の罰より重くして町奉行へ 通達した。
  また、6月13日には、寺社奉行・勘定奉行へも通達した。
1800年6月、伊能忠敬の全国測量の開始
  地理学者の伊能忠敬が、幕命によって、陸奥・出羽・
 越後の沿岸測量に出発した。
  北海道を測量し、大日本沿海輿地図の測量と製図をした。
1800年7月2日、幕府が、江戸常是(じょうぜ)家を上納金延
 滞により処罰し、京都常是家を江戸・京都・大坂の 銀座
 御用とした。
  銀座移転先を、11月22日に、蠣殻町に決めた。
  常是家は、銀座の吹所(ふきしょ)で極印(ごくいん)
 打ちをしていた。
  この日、常是家の長左衛門常房と京家十代目作右衛門
 常明は、勘定奉行の柳生主膳正久通宅へ出頭するよう命
 じられた。
  そこで、常房の息子・常隣を連れて出頭した。
  ここで、長左衛門常房は、家職召放しの上、永蟄居を
 命ぜられた。
  一方、作右衛門常明は、お咎めなしであったが、取締
 り方に付不束であったとして急度御叱を受けた。
  この後、京橋銀座にあった長左衛門家の御用道具、家
 作共に召し上げとなり、作右衛門常明に与えられ、作右
 衛門は、京都および京橋から機能を集約された蛎殻町の
 銀座を継ぐこととなった。
1800年7月-幕府が、頻発する奉公人の欠落を防ぐため、奉
 公人周旋業の人宿(ひとやど)に、生国・下受人 などを記
 す人別帳を作成することを命じた。
1800年8月、賞品を賭けて的を射る賭的(かけまと)が農民の
 間で流行し、暮府が賭博として禁止した。
1800年9月8日、画家の伊藤若沖(いとうじゃくちゅう)が、
 没した(1716年~1800年)(85歳)
  京都錦小路の生まれ、
  絵画と禅に傾倒した。
  40歳で家業の青物問屋を弟に譲って画業に専念した。
  生涯、信仰の念の厚い人だった。
  独身を通し、晩年は、深草の石峰寺に隠棲した。
1800年11月、幕府が、1788年に停止した南鐐二朱銀の再鋳
 造を決めた。
1800年12月21日、伊能忠敬が、蝦夷南東海岸と奥州街道の
 略測図を勘定所へ提出した。
1800年、社会資本整備:新田開発が盛ん・・
  この頃から幕末までの新田開発は盛んだった(450件)
1800年、発明:ボルタ(イタリア)が、電池を発明した。
  正極に銅、負極に亜鉛を用いた。電解液は硫酸。
19世紀、李氏朝鮮:王朝の後半期には、社会変動が著しく、
  19世紀に入ると、民衆の反乱が相次ぎ、開港後には外
 圧の下で国内対立が一層激化した。
  19世紀末の日清戦争の後に、国号を大韓帝国と改め、
 独立の維持に努めたが、日露戦争後に日本の保護国にな
 った。
19世紀前半、イギリスで、自由貿易の要求が拡大し、東イ
 ンド会社の貿易特権が廃止された。
  国家と同等だった東インド会社。
  外交権力を持ち、交戦権を持ち、植民地政府を持ち、
 軍の機構を持ち、植民地で好き勝手ができる巨大な権力
 を持っていた。旨い汁を吸っていたイギリス国家そのも
 のだった。
  イギリス本国の産業革命で生まれた資本家が、その特
 権を欲しがった。
  欲による行動が変化の根本にあった。
19世紀、イギリスが、マレーシアを植民地にした。
  マレー半島の西側にあるペナンを、1786年に獲得した
 のに始まる。
  イギリスは、天然資源のスズ、そして、ゴムでうまい
 汁を吸った。大きな利益だった。
19世紀、フランスが、ベトナムに浸透し、植民地化して行
 った。
19世紀、アフリカの植民地化
  19世紀にアフリカが植民地の舞台となった。略奪的な
 奴隷貿易は、国際的に、また、人道的に卑劣極まりない
 行為であるが、19世紀は、その行為と共に、植民地化が
 盛んに行なわれた。
..
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(増補版)192D2/3:気になった事柄を集めた年表(1798年~1799年)

2015-08-27 16:07:21 | 日記
題:(増補版)192D2/3:気になった事柄を集めた年表(1798年~1799年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1798年6月、本居宣長(もとおりのりなが、国学者)が、
 「古事記」の注釈書の「古事記伝(こじきでん、ふるき
 ことふみのつたえ)」を完成した(3月説あり)。
1798年8月、本多利明(ほんだとしあき、思想家、経世家、
 和算家)が、西洋との交易を説いた「西域物語(せいい
 きものがたり)」を著した。
  西域と称する西洋諸国のありさまを述べ、中で、開国
 思想を説いている。
  また、物理学が真の学問だと強調し、天文、地理、渡
 海の学をもっと重視して利用すべきとした。
  また、人口増は天理であり、物価操作の有害を述べ、
 飢饉救済論を詳述し、
  国産開発、渡海貿易、官営貿易の実施、蝦夷地開発、
 北方王国の建設を説いた。
1798年11月、幕府が、銭相場が安値で、物価が高値で、各
 宿が困窮に陥っているため、
  東梅道・佐屋路(さやじ)へ10か年の人馬賃20%増し、
  他街道へ10か年の15%増しを許可した。
  因みに、佐屋路は、東海道の脇往還で、
  東海道宮宿(愛知県名古屋市熱田区あたり)と桑名宿
 (三重県桑名市)を結んでいた。
1798年、幕府役人の近藤重蔵(こんどうじゅうぞう、北方
 探検家、1771年~1829年)が、1798年に、蝦夷地御用を
 命じられ、国後島、択捉島などを探検した。
  江戸・駒込に生まれた。
  1795年~1797年に、長崎奉行の出役として長崎に赴き、
 海外知識を深めた、
  そして、蝦夷地の警護の重要性を知り、それを幕府に
 建言した。
  そして、この年・1798年に、目付の渡辺久蔵らの蝦夷
 地視察に加わった。
  1799年に、蝦夷地御用掛が設けられると、その配下に
 属し、数回にわたって蝦夷地・千島方面を探検した。
  この年、幕府は、東蝦夷地とともに千島を、幕府直轄
 領にしている。
  1802年に、択捉島に「大日本恵土呂府(だいにほんえと
 ろふ)」の標識(国標)を建立した。
  この時の先導が最上徳内(もがみとくない)で、千島
 列島(ウルップ島)も踏査している。
  ロシア人の動向調査もしている。
  また、北蝦夷(サハリン)の探検も重ねている。
  帰途、日高海岸の道が危険なので、私費を投じて、山
 道を開いた、これが蝦夷地の開道の初めとなっている。
  1800年には、高田屋嘉兵衛に、択捉への航路を開かせ
 たり、漁場を開いたり、アイヌの方々に物品や漁具を給
 したり、日本の風俗を勧めたりと、同化策も進め、また、
 移住者を増やして、生産高も増加させたりした。
  蝦夷地の全島の本拠地を石狩に置くべきだと建議した。
  これが、札幌市の端緒となっている。
  博学で、著述も多い。
1798年、ナポレオン:エジプトの遠征と調査
  ナポレオンは、当時の総裁政府の命令で、35000人の軍
 隊を率いて、エジプトに遠征した。
  エジプトを占領し、イギリスと、そのイギリスの宝庫
 と言われていたインドとの連絡を断ち切った。
  また、このナポレオンの調査によって、近世になって、
 再び、古代エジプトの文明が蘇(よみがえ)った。
  これは、ナポレオンの功績だった。
  エジプトに遠征したナポレオンが行なった事は、
  考古学・建築・化学・地理学・生物学・地質学・天文
 学・絵画・文学・機械技術・医学・印刷等々の各分野の
 専門家、学者の167人からなる学術調査団を同行させて
 いた。
1798年、ルイ・ロベール(フランス)が、連続式抄紙機を
 発明し、印刷術の発展とともに製紙工業も大いに発展さ
 せた。
1799年、幕府が、蝦夷地の直営を始めた。
1799年1月15日、幕府が、大名・旗本らの家譜の集大成の
 「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょけふ)」の
 編纂を開始した。
  幕府が、先祖書の提出を命じ、これを契機にして、
 1812年に完成し、系譜集の1530冊からなり、14年を費や
 した。
  国主・領主をはじめ、御目見(おめみえ)以上の士に
 ついて、1798年までの事跡(出来事)を記した。
  正確、広範で、信頼性が高く、研究資料として価値が
 高い。
  完成当時の献上本は、東京の国立公文書館に保存され
 ている。
  江戸時代の伝写本や活版本も流布している。
1799年1月、諸国の産物を集大成した「日本山海名産図会
 (にほんさんかいめいさんずえ)」が刊行された。
  「日本山海名物図会」再販(1797年)の後を受けて、
 大坂の塩谷長兵衛が板元として、この年に、刊行した。
1799年3月、幕府が、公刊暦以外の類似刊行物(暦)を禁止
 した。
1799年4月、幕府が、火事に対する防火の理由から、
  蕎麦屋の屋台など、煮売り商売の流行に対して、総人
 数を700に、
  また、上野・浅草などを除く地域の人数制限などの規
 制に乗り出した。
1799年5月、幕府が、オランダ風の煙管などの外国品を模造
 した品が流行する事に対し、その製造・売買を禁止した。
1799年、勘定奉行の中川忠英(なかがわただてる、武士、
 儒者)が、「清俗紀聞(しぞくきぶん)」を刊行した。
  清俗紀聞は、長崎の渡来した中国人から清朝乾隆帝時
 代の風俗を聞き、絵図で解説した書。
  おもに江南地方の日常生活、年中行事、冠婚葬祭、居
 家、飲食、賓客、祭礼、僧徒、冠礼、生誕などが図説し
 てある。
  当時の中国における風俗習慣を知るうえで貴重な資料
 となっている。
1799年、ナポレオンのクーデター:フランス革命が、ナポ
 レオンのクーデターで終結した。
18世紀~19世紀初め、この頃は、イギリスの産業革命の時
 代である。
  しかし、美しく讃美ばかりはしていられなかった。
  このイギリスの産業革命の成功の陰には、虐げられる
 方々が、大勢、居た。
  産業革命がうまく行ったのも、インドなど、植民地に
 された国々からの搾取した金があったからこそだった。
  そして、産業革命の成功の恩ある国・インドなどへ、
 特に、インドへは、死命を制する綿産業製品で、インド
 に壊滅的打撃を与えるイギリスだった。
  産業革命で生み出される綿産業製品が、インドの綿産
 業を破壊し、インドの極めて多くの方々が路頭に迷った。
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(増補版)191D2/3:気になった事柄を集めた年表(1794年~1798年)

2015-08-26 16:35:22 | 日記
題:(増補版)191D2/3:気になった事柄を集めた年表(1794年~1798年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1794年、フォールン・ティンバーズの戦い:
  アメリカ合衆国とアメリカ・インディアンの方々の戦い
  アメリカの領土の本当の持ち主であるアメリカ・インディ
 アンの方々への、アメリカ合衆国軍の掃討と名付けられた
 軍事行動・作戦は限りなく続いていた。
  この年の8月2日も、アメリカ合衆国軍のアンソニー・ウェ
 イン将軍は、合衆国軍を率いてオハイオ州を越え、進撃して
 行った。
  白人・アメリカ植民者(占領者)たちのインディアンの
 方々へ投げかける軽蔑の眼差しは、ついに、インディアン
 の方々へ民族の誇りを呼び覚ますことになった。
  アメリカ合衆国は貪欲に土地を奪って行った。
1794年1月10日、麹町から出火し、山王社や大名屋敷を類焼
 した。
  また、4月2日にも、新吉原が焼失した。
1794年5月、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく、浮世絵
 師)が、版元の蔦屋重三郎から役者似顔絵・相撲絵など
 を次々と版行し、評判となった。
  この版元の蔦屋が非常に大事なプロデューサー役を演
 じていた。
1794年6月、幕府が、ロシアより帰還した大黒屋光太夫と磯
 吉に報奨金と月々の手当てを与えた。
  そして、みだりに外国のことを話すことを禁じた。
1794年8月、桂川甫周(かつらがわほしゅう、蘭方医で幕府
 の医官)が、「北搓聞略(ほくさぶんりゃく)」を著した。
  大黒屋光太夫が、ロシアで10年間に渡って体験したこ
 とを聞き出したもの。
  桂川甫周が、将軍引見の際に列席し、尋問、聞き書き
 して、このロシア事情紹介書を著した。
1794年9月、酒造制限解除:
  幕府が、この年の酒造高を、1786年までの造り高の3分
 の2とし、制限を緩和した。
1794年9月、幕府が、土佐藩の蜂蜜などの様な薬種献上を各
 大名に命じた。
1794年10月、倹約令を10年延期した。
1794年、千葉周作(ちばしゅうさく、剣客)が生まれた
 (1794年~1855年)(生年に1793年説あり)
  陸奥(むつ)国栗原(くりはら)郡に生まれた。
  北辰一刀流の開祖、江戸神田お玉が池に開いた玄武館
 道場が江戸三大道場の一つとして繁栄した。
  門弟3600名、坂本竜馬も門下、
1794年、水野忠邦(みずのただくに、大名)が生まれた
 (1794年~1851年)、老中となる。
  将軍・徳川家慶に信任され、天保の改革を断行した。
1794年、施策:常夜灯の設置、
  幕府が、東海道逢坂に常夜灯の設置を許可した。
1794年4月、ペリーが生まれた(1794年~1860年)
  アメリカ海軍の軍人、日本へ来航し開国を求めた。
1795年1月9日、初代の横綱免許の一人である、谷風梶之助
 (たにかぜかじのすけ、力士)が没した
 (1750年~1795年)(46歳)、陸奥(むつ)の人、
  63連勝の記録を持つ大力士、309戦258勝、優勝22回、
  京坂場所を入れると98連勝、負けはわずか14回、
1795年3月、医師の橘南谿(たちばななんけい)が、諸国を
 遊覧体験を記した「西遊記」の刊行が始まった。
  8月には「東遊記」の刊行が始まる。
1795年7月17日、円山応挙(まるやまおうきょ、画家)が没
 した(1733年~1795年)(63歳)
  「雪松図屏風」(国宝)
1795年10月3日、幕府が、女髪結に商売替えを諭した。
  華美な風俗の取締りを強めていた幕府が、風俗を乱す
 とした。
  豊かな江戸の流行の中で、髪型を追及する女性たちは、
 幕府の禁令には耳を貸さなかったという。
1795年10月4日、幕府が、前年に続いて酒造高の規制上限を
 緩和し、1786年までの造り高を許可した。
1795年11月14日、大坂の定番同心の家職を継いだ高橋至時
 (たかはしよしとき、天文暦学者)が、幕府天文方に登
 用された。
  弟子に伊能忠敬がいる。最初の天文家と言われる。
1795年、鹿狩り
  家斉が、下総小金ヶ原に鹿狩りをし、一日でシカ95頭、
 イノシシ13頭などを捕らえたという。
1796年1月、幕府が、薬種として白牛酪(バター)の販売を
 公表した。
1796年2月18日、稲村三伯(いなむらさんぱく、医師)らが、
 蘭和辞典の「波留麻和解(はるまわげ)」を完成した。
  完成まで13年を要したという。
  オランダのF・ハルマの出版した蘭仏辞書を底本とし
 たもので、語数が約8万を集録している。
1796年3月8日、幕府が、諸大名へ、行列の風俗質素や、往
 来の邪魔にならない供の間隔について、触れを出した。
1796年5月28日、幕府が、肥前藩の儒者の古賀精里(こがせ
 いり)を昌平坂学問所の教授に登用した。
  朱子学の振興に努力した。
1796年10月、幕府が、医学館への薬種料を100両から200両
 へ増額した。
  医学館は金沢藩の藩校、
  教授:黒川良安(医)、スロイス(医)、
  卯辰山(うたつやま)養成所を起源とする。
1796年12月6日、琉球使節が、江戸城で将軍・家斉と会い、
 芭蕉布・久米錦・焼酎・泡盛酒などを献上した。
1796年、この年、江戸で橘(たちばな)の鉢植えが大流行
 した。
  橘は、ミカン科ミカン属の常緑小高木で柑橘類の一種。
1796年、清国が、アヘンの輸入を禁じた。
  イギリスとの貿易で、清国は、二重の深刻なる重荷を
 背負わされていた。
  一つは、イギリスが、どんどん麻薬のアヘンを、中国
 国内へ流入させ、麻薬中毒患者が急増し、国民の心身が
 劣悪になって行った。
  今・現代では、死刑判決が出るような極悪行為である。
  二つ目は、中国国内の銀の国外流出が、はなはだしく
 急増した。
  イギリスと貿易を始めた当初は、イギリスが買いたい
 ものが多く、イギリスの輸入超過だった。
  その支払いで、支払う銀がイギリスから流出し、イギ
 リスは、この銀の流出を止めたいと、禁じ手の麻薬輸出
 を始めた。
  これが中国・清に蔓延し、銀の支払いが逆転し、中国
 から銀の流出となった。
  イギリスは、卑劣な手を使った。
1796年、トレヴィシックが高圧蒸気機関の開発に成功した。
1796年、シーボルト(西ドイツ、医者、博物学者)が生ま
 れた(1796年~1866年)
  オランダ商館の医師として来日した。
1796年、カジャール朝が興る(1796年~1925年)
  イランのトルコ系王朝、首都:テヘラン
  1925年に廃されてパフラビー朝が成立した。
1797年1月、幕府が、輸入薬種の高値是正のため,14品目に
 ついて、過去の売り出し相場より安価で取引する様に令
 した。
1797年4月14日、幕府が、油の流通把握のため、少量の人力
 絞り用以外の菜種・綿実のすべてを、大坂・兵庫へ送る
 ように命じた。
  また、領主には、大坂町奉行への生産額・回送高の届
 け出をする様に命じた。
  これによって、幕府は、流通商品の口銭の実態を奉行
 所に把握させた。
1797年7月、イギリス船が、再び、蝦夷に来た。
  蝦夷地の不安定化に対し、幕府は、1793年に、既に、
 弘前藩の軍勢の281人を松前へ派遣し、
  また、この1797年のイギリス船の来航に対応して、500
 人が函館へ派遣されていた。
  幕府は、ちゃんと防備を計っていた。
  そして、幕府は、この年に、国後、択捉を調査し、東
 蝦夷地(函館から択捉まで)を直轄領とした。
  そのうえで、東蝦夷地の要所を弘前藩と盛岡藩に警備
 させることにした。
  この5年後に、函館奉行も創設し、責任者も任命してい
 る。
1797年9月11日、幕府が、金銀貸借などの金公事(訴訟)に
 つき、相対済し令を発令した。
1797年9月、幕府が、質屋の質物不法取り扱いについて、
 処罰を決めた。
1797年10月、料亭で、江戸小咄を披露する会が流行した。
  幕府は、質素倹約などの面から禁止した。
1797年11月18日、幕府が,翌年からの新暦採用を公表した。
1797年12月1日、幕府が、湯島聖堂を幕府の官学とし、学問
 所と改称した。
1797年12月18日、西洋医学を紹介した宇田川玄随(うだが
 わげんずい、蘭方医、津山藩医)が没した(1755年~
 1797年)(43歳)。
  大槻玄沢に入門し、杉田玄白、前野良沢に学ぶ。
1797年12月18日、漁船などが、外国船と遭遇することが多
 いため、幕府は、穏便に処理するように改めて命じた。
1797年、この年に、「絵本太閤記」初編が刊行された。
  庶民の圧倒的人気を得た。
  これによって、豊臣秀吉像が 形成された(1802年完結)。
1797年、安藤広重(あんどうひろしげ、浮世絵師)が生ま
 れた(1797年~1858年)、
  江戸八代河岸の幕府定火消同心の子として生まれた。
  歌川豊広に師事、本性が安藤、広重の名を与えられ、
 歌川広重ともいう。
  代表作の「東海道五十三次」など、諸国風景や江戸名
 所を多数描いた。
1798年、日本の総人口: 25,471,000人
1798年2月、幕府が、唄・浄瑠璃・三味線などの女師匠が、
 男子の弟子にとることを戒めた。
  特に、武士の 女師匠への入門を禁じた。
1798年4月、国東治兵衛(くにさきじへえ、殖産家)の「
 紙漉重宝記(かみすきちょうほうき)」が刊行された。
  国東治兵衛は、岩見(島根県)の紙問屋に生まれた。
  また、石見半紙の興隆と普及につとめた(1743年~?)
  紙漉重宝記は、石洲半紙の製法を図入りで懇切丁寧に
 解説した名著と言われていて、名高い著となっている。
1798年 5月1日、品川沖で鯨が捕れた。
  5月3日に、代官の差配で、浜御殿の海へ回して、将軍・
 家斉が見物した。
1798年5月、庶民が、慶長銀など古銀を貯蔵するため、幕府
 は、銀座での古銀引き替え促進を命じた。
  以後3カ年の各古銀交換比率を定めた。
1798年5月、塙保己一が、「群書類従」の版木の防火保管の
 ため、用地借用を、幕府へ願い出た。
  幕府は、土地の貸与と、地代などを決めた。
1798年6月、大坂から来た岡本万作(おかもとまんさく)が、
 神田で落語寄席をはじめた。
  江戸の寄席興行創始者と言われる。
  また、烏亭焉馬(うていえんば、戯作者、落語を自作
 自演し、落語中興の祖と言われる)が、小咄集「無事志
 有意(ぶじしうい)」を発刊した。
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