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(増補版)579E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年4月~1893年5月)

2018-02-24 04:17:35 | 日記
題:(増補版)579E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年4月~1893年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年4月、敦賀~富山間の鉄道建設に着手した。
  北陸本線の歴史・・、
  北陸本線は、全線が官営鉄道として建設された。
  1889年、長浜駅~敦賀港駅間が、東海道線の支線とし
   て開業した。
  1892年7月6日、鉄道敷設法により線路取調委員を設置
   した。
  1892年8月より、北陸線の調査を開始した。
  1893年2月10日、帝国議会第一回鉄道会議に「敦賀ヨリ
   福井金沢ヲ経テ富山ニ至ル百二十三哩五十七鎖余」
   に係る「線路ノ形勢設計ノ概況」が提出され、
  1893年2月16日、これをもとに工事着手順序及び年度別
   予算が決定された。
  1893年4月8日、鉄道庁敦賀出張所、及び、鉄道庁第三
   部敦賀派出所を設置して、敦賀~森田間の線路実測
   に着手し、
  1893年8月、これを終えて着工した。
1893年5月1日、シカゴ万国博覧会が開催された(〜10月30日)
  シカゴ・コロンブス記念万国博覧会や、世界コロンビ
 ア博覧会とも言われる。
  日本からも、絵画、彫刻などが多数出展した。
  アメリカは、「アメリカ発見」から400年を大々的に
 祝った。
  そして、自国の達成しつつある「文明」の進歩と産業
 の躍進を誇示した。
  そこに、世界の列強の仲間に入りたいというアメリカ
 があった。
  しかし、その蔭で、『キリスト教に洗脳された有色人
 種蔑視行為をする』という「後進国以下の行為」を行な
 っていた。
  アメリカの先住の方々であるアメリカ・インディアン
 の方々や、アフリカの方々、また、南太平洋などの方々
 を・・、
  また、当時、アメリカやヨーロッパの植民地で「未開」
 だとか、「野蛮」だとかと蔑視していた方々を、会場の
 片隅に見世物として展示した。
  「珍奇な見世物」とした形・見方で展示した。
  この万博のメインの展示場は、「白い都市」ホワイト・
 シティと名付け、白人の文明を誇示した。
  白人文明の進歩を成果に光を当てていた。
  キリスト教が蔑視し、マインド・コントロールする有
 色人種の方々には、その白人優越に対する「影の役割」
 を担(にな)わせた。
  「白人優位」「優勝劣敗」のキリスト教思想が当然の
 様に誇示されていた。
  1例を言えば、インディアンの方々には、インディアン
 の方々が培って来た、長い年月に育んで来た『独自の文
 化』があり、独自な花が開いていた訳だったが・・。
  それらの貴重な多様な文化のすべてを、「ことごとく
 破壊したこと」を『進歩だ』と誇示して展示した。
  インディアンの方々の『固有な文化』にはまったく意
 を配っていなかった。
  殺戮や破壊の成果を「誇示して展示」していた。
  マヤ文明も、インカ文明も、同時に破壊されて、無く
 なって、それが、「白人の成果だ」と誇示していた。
  紀元前2000年から、メキシコの中央高原には、トウモ
 ロコシ栽培を中心とする「定住農耕村落」が出現し、そ
 の文化を継続して持っていたが・・その方々の文化は、
 消滅させられた。
  アメリカ・インディアンの方々の、コロンブス到着時
 の人口推定値は、過去には、北米に100万人とされていた
 が、最新の研究成果において、北米に200万人~500万人
 とされている。
  また、最も多い場合には、北アメリカに980万人~1800
 万人の方々が生活を享受していた。
  この多くの方々を、卑劣にも、あらゆる手を使って、
 銃を使って殺戮し・・、
  また、インディアンの方々が食糧とした野牛が居なく
 なればインディアンの方々も居なくなるだろうと・・野
 牛狩りをしたりとして、インディアンの方々を殺戮した。
  また、中南米には、1500万人とされていたが、最新の
 研究成果において、中南米に3700万人~5400万人とされ
 ていて、最も多い場合には、中南米に8000万人~1億人と
 いう研究値がある。
  この様な方々が、白人によって激減したことは、まっ
 たく悲しむべきこと、忌まわしい事である。
1893年5月5日、アメリカで金融恐慌となった(1893年恐慌)
  この前兆の1つは、1893年2月23日に、過剰に拡大を続
 けていたフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道が
 破産した事だった。
  この10日後に、大統領に就任したグロパー・クリーブ
 ランド大統領は、大統領就任と同時に金融危機に対処し
 始め、経済危機の主たる原因と考えられていたシャーマ
 ン銀購入法を撤廃するよう議会に働きかけ、成功した。
  経済悪化が明らかに懸念されたので、大衆は銀行に殺
 到し、現金を引き出し、銀行取り付け騒ぎとなった。
  イギリスにおける金融危機と、ヨーロッパの貿易量の
 減少が重なっていて、投資家はアメリカの株を売った。
  そして、兌換のアメリカドルを得ようとした。
  大衆も銀証券を金に換金しようとした。
  アメリカは金の兌換を停止した。
  銀と銀兌換紙幣の需要が落ち、銀の価格と価値が下落
 した。
  債券保有者は、当然、額面価格割れを恐れた。
  同時に、ナショナル・コーデージ・カンパニーや、ノ
 -ザン・パシフィック鉄道などの多くの会社が破綻した。
  その総数は15000社、500銀行など・・シッチャカ・メ
 ッチャカだった。
  失業率も19パーセント、中流層も抵当債券が払えず、
 建てた家から追い出された。
  無人の屋敷が、幽霊屋敷の様に並んだ。
  この恐慌は、当時までアメリカ合衆国が経験した最悪
 の経済不況とされた。
  イギリスを中心とする世界経済の構造変化の最終段階
 だった。
  銀価格の低下でイギリス植民地のインドは大きな影響
 を受けた。
  また、イギリスの植民地オーストラリア経済も大きな
 影響を受け厳しい恐慌となり持続した。
1893年5月10日、アメリカ連邦最高裁が、トマトを野菜と裁
 定した。
  これは、関税がからんだ裁判だった。
  アメリカで、輸入する場合、果物には関税がかからな
 いが、野菜には関税が課せられた。
  輸入業者はトマトは果実だと主張した。
  官僚は野菜だとして、この論争がエスカレートした。
  判決が、野菜だとした理由は・・「畑で育てられ、デ
 ザートにならないから」だった。
  しかし、植物学では「果物」である。
  しかし、アメリカの法律では「野菜」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:20xx年に、国防を怠った日本国民が、天国へ行って、
   天国で日本の先人たちが・・核攻撃の対処をしなかった
   日本国民の大打撃・消滅を見て、「落つる涙は」と詠(
   うた)うだろう。
.
8世紀、地中海がイスラム教徒の勢力下となる。
  コロンブスは、生涯、自分が到達したアメリカの地を、
 インドだと思っていた。
  彼は、1492年、アメリカ海域の西インド諸島に到達し
 た。
  スペインが、このコロンブスに西へ向かわせたのは、
 8世紀以降、地中海が、ほぼ全域に渡って、イスラム教徒
 の勢力下にあったからだった。
  特に、13世紀の末に、オスマン・トルコ帝国が成立す
 ると、西ヨーロッパのキリスト教徒は、地中海を通るこ
 とが出来なかった。
  キリスト教徒は、東へ勢力を拡大する事が出来ずに、
 また、南へも、勢力拡大することが出来なかった。
  止むを得ず、西方へ向かうしかなかった。
  コロンブスが、水平線に消える船影を見て、地球は丸い
 と知って、西への探検に向かったという話は、キリスト教
 国によくある美しく仕上げた嘘話・作り話で・・、
  キリスト教の美化話である。
  また、キリスト教国は学問・芸術が非常に進んでいた
 という話も「酷(ひど)い作り話」で・・、
  イスラム圏が劣った地域と蔑(さげす)むのは、世界
 に対する卑劣なプロパガンダ(嘘話)である。
  事実は、まったく逆で、イスラム圏は、学問・芸術な
 ど「すべてにおいて」素晴らしく進んだ社会だった。
  キリスト教国より数段高いレベルにあった。
  また、進んだ軍事力において、圧倒していた。
  キリスト教国は、大切な医学を、イスラム圏に頼らざ
 るを得ず、イスラム諸国に医学を教えてもらい、留学生
 を派遣していた。
  また、種々の学問の教えを受けていた。
  この様な恩恵を受けている国々へ、この恩知らずのキ
 リスト教国は、キリスト教の聖職者の「嘘とあおり」で、
 十字軍を派遣したりする。
  そして、1494年6月7日には、トルデシリャス条約とい
 うとんでもない自分勝手な条約をする。
  世界は自分たちのもの、その世界を分け合おうという
 条約である。
.
16世紀後半、桃山文化(~17世紀初め)
  日本の文化は、「現世を楽しむ開放的な文化」と言わ
 れる。
  これらの日本の文化は、庶民の間から湧き上がって来
 た・・そして、世をより豊かに楽しんだ。
  それに比較して、ヨーロッパの文化は、不埒な方法で
 権力と資金力を独占したキリスト教が、芸術家たちを独
 占して・・描かせ、また、作曲させたのとは違う。
  平等な世の中から、高い芸術性を持った庶民の中から
 様々なジャンルで生まれた。
  大阪の堺の千利休は、「質素なわび茶の作法」を完成
 させた。
  庶民から大名まで、その「茶の湯」の文化を楽しみ味
 わった。
  また、庶民の間には能楽が生まれ、日本人特有の深い
 精神性の高い芸術を完成させた。
  長谷川等伯は、日本水墨画の秀作「国宝:松林図屏風」
 を描いた。
  絵師として狩野派の狩野永徳・狩野山楽らは城郭や寺
 院の襖絵を飾った。
  華麗な姫路城など日本人の建築技術は、早くから高度
 な技術域に達し、その技術が縦横無尽に発揮されていた。
  天守閣を高く聳(そび)えさす桃山文化は、日本人の
 優秀さを示す一つの証左(しょうさ、証拠、また、証人)
 となっている。
  人々は、色とりどりの衣服を身にまとい、小唄を楽し
 み、踊りに興じた。
  その豊かさは衣服にも表れ、麻の他に、木綿も着るよ
 うになったり、また、小袖(こそで、小さい袖の、和服
 の普段着)が流行したりした。
  17世紀の初めには、出雲の阿国(いずものおくに)と
 いう女性が、「阿国かぶき」を始め、大いに流行した。
  これは、後に、歌舞伎へと発展して行く。
  また、この頃、楽器の三味線(しゃみせん)が琉球(
 沖縄県)から流行して来た。
  この楽器の流行と共に浄瑠璃(じょうるり)が広まっ
 た。
  この浄瑠璃は、この後、人形あやつりと結び付いて、
 人形浄瑠璃となった。
  (参考)浄瑠璃:平曲や謡曲に発した、琵琶(びわ)・
     扇拍子による音曲(おんぎょく)の語り物と、そ
     れを承(う)け三味線を使って発展した諸派の音
     楽との、総称。
  (参考)人形浄瑠璃:三味線と浄瑠璃に合わせて人形
     をあやつって演ずる、日本固有の人形劇。
.
1598年、豊臣秀吉が死す。
  スペインのフェリペ2世は、キリスト教宣教師たちを
 アジアへ派遣した。
  宣教師たちは、中国を武力征服をすることをスペイン
 へ報告した。
  そしてまた、日本への征服と利用価値があることにつ
 いても報告した。
  しかし、1598年、豊臣秀吉が死んだこの年に、このフ
 ェリペ2世も死んでしまった。
  スペインの日本征服は実行されなかった。
.
1896年、ロシアと清の秘密同盟
  日清戦争が、日本の勝利で終わった翌年・1896年に、
 清国(中国)は、秘密裏にロシアと同盟条約を結んだ。
  清国は、日本への日清戦争の「復讐戦争」を企画して
 いた。
  この秘密条約は、「李鴻章・ロバノフ条約」と言い、
 ロシアか、または、清国のいずれかが、日本と戦争にな
 った場合、他方が軍事援助をするという「日本敵視の秘
 密攻守同盟」だった。
  これは、日露戦争の伏線となった。
  つまり、日露戦争は、ロシアだけと戦争をしたと思わ
 れているが、そうではなく、この秘密条約で、清国とも
 日本は戦っていた。
  日本は、日露戦争で、満州でロシアと戦ったが、その
 時、この秘密条約の清国の中国とも、満州で戦っていた。
  日本は、その様な「ロシア・清国の同盟軍」と戦い、
 満州へ進軍した。
  第二次世界大戦で、アメリカが戦勝して沖縄へ軍事進
 出したのと同じで、日本の満州での戦いも、同様な状況
 で、侵略ではない。
  「中露同盟軍」と戦い、戦勝しての満州地域の戦いと
 なった訳で、侵略などと言われるいわれはない。
  侵略と言われる理由はまったく成立していない。
  これが侵略なら、アメリカも日本への侵略となる。
.
1920年代、「ワシントン軍縮条約」の1920年代は、「タガ
 をはめられた」と感じた日本があった。
  ドイツも同じく、似たような安全保障の不平等感に悩
 んでいた。
  また、国民も大変な屈辱感を抱いていた。
  それが、世論や軍部内の不満をつのらせ、やがて「ロ
 ンドン軍縮会議」をめぐる日本の政治の大混乱、そして、
 満州事変という経過となる。
  「主権の不平等」は、自国民の平静さを損する。
  「ロカルノ条約」さえなければ、ドイツにナチズムは
 起らなかった。
  例え、ヒトラーに政権ができたとしても、あのような
 過激な再軍備路線に走ることはなかった。
  今、日本は、「国家の防衛主権」を、まったく剥奪さ
 れている。
  日本は、「自ら課した拘束」だとマインド・コントロ
 ールされて来た。
  そして、最良の選択だと洗脳されて来た。
  この不安全な安全保障のハンディキャップに気付いて
 も、看過して来た。
  だが、今こそ、日本国民は自覚し、目覚めなければな
 らない。
  この状態から脱却しなければならない。
  今だに、戦後体制下に押し込められていることの「危
 (あや)うさ」に・・気付かねばならない。。
  明治時代、この点、フリー・ハンドを持っていた。
  その点、現在、独立状態になれない、「タガをはめら
 れた中」にいる。
  仮の話であるが、この点について、アメリカが、理解
 を示さないのであれば、一旦、日米安全保障条約を停止
 (破棄)すべきである。
  今・現在、確かなる変革が必要である。
  緊急事態が起きているのである。
  しっかり、憲法も改正せよ。
.
1940年5月10日、アイスランド侵略
  アイスランドへ、イギリスが侵攻した。
  アイスランドは中立国である・・が・・
  イギリスは、この国を侵略した(フォーク作戦)
  イギリスは、アイスランドの重要な港を手に入れよう
 とした。
  イギリスは、アイスランドの首都(レイキャビック)
 へ上陸し、侵略作戦は開始された。
  アイスランドの抵抗もなく、速やかに通信網を封鎖し
 た。
  そして、不法にもドイツ系住民(民間人)を拘束した。
  アイスランド王国政府は、同日、「この侵攻は、国の
 独立を甚だしく侵す」と抗議し・・また・・、
  「すべての損害の補償を求める」と抗議文書を出した。
  この様な歴史のあるイギリスとアイスランド。
  今(2017年)、イギリスでは、「アイスランド人、お
 断り」という言葉が流行(はや)り、行き交っている。
  また、イギリスは、非常に閉鎖的になっていて、
  スコットランドの独立騒ぎを根に持っていて・・
  また、「スコットランドと言わないでくれ、グレート・
 ブリテンと言ってくれ」と言っている。
  イギリスでは、アイスランドの方たちが差別を受けて
 店にも入れないという。
  また、イングランドという言葉でなく、「グレート(
 偉大)」という語が入った「グレート・ブリテン」と言
 ってくれと言うイギリス人となっている。
  相変わらず、スコットランドは、独立したがっている。
  卑劣なイギリスから逃げたがっている・・、
.
1943年1月24日、カザブランカ演説
  この日のルーズベルトのカサブランカ演説で露呈した
 「ルーズベルトのキリスト教にマインド・コントロール」
 された「シャロームの考え方」:「ドイツと日本を、完
 全破壊して後、シャローム(完全破壊の後の平和)が訪
 れる」は、米国務長官コーデル・ハルには、その考え方・
 方針が、完全に間違っているという問題点が、はっきり
 見えていた。
  ハルは、これを聞いて「復讐というほかない」と思っ
 た。
  そして、ルーズベルトの気づかぬ点に考えが及んだ。
  ルーズベルトが言うように「ドイツを牧畜農業国家に
 すると、工業力を抹殺して、この地域が安定的になり行
 くと思っているのか?」、
  「欧州経済そのものも破壊し尽くすという事に気付い
 ているのか?」
  「気づいて居ないから(こんな演説を)するのだ」と
 激しくハルは反発した。
  隣に座る陸軍長官のヘンリー・スティムソンも、「(
 徹底的破壊の)懲罰的なやり方は、必ずや、復讐心を起
 こさせ、いずれ、新たな戦争の引き金になる」と・・、
  キリスト教の「シャロームの考え方」にマインド・コ
 ントロールされたルーズベルトの考え方を批判した。
  イギリスのチャーチル首相も、みるみる怒り始め、「
 こんな馬鹿げた考え方はあるか」と、
  「イギリスを、ドイツの屍(しかばね)に鎖で縛り付
 けるのか?」と・・ののしった。
  イギリス外相のイーデンも、強い反対をした・・
  にもかかわらず、ルーズベルトの考えは頑(かたく)な
 だった。
  キリスト教は、自分たち・仲間には甘いが、他には、
 異端には、死とか、必要以上に厳しいが・・このルーズ
 ベルトも、同じだった。
  後に、スティムソンは、この時、イギリスは、ケベッ
 ク会談で、60億ドルの経済支援の約束を得ている・・
  このため、イギリスは、この借款問題があったので強
 く反対に出られなかったと明かした。
.
1945年8月6日、アメリカの政治家が言った・・、
  「日本が戦争を止めたと言わなかったから、原爆を落
 としたのだ」・・と・・、
  この様な論理が、成立する訳はない。
  この論理は、言い換えれば、「お前が、喧嘩を止めた
 と言わなかったから、俺は、お前を刺したのだ」となる。
  殺すことまでする必要が無いのに、殺す行為をすると
 いう事である。
  卑劣な行為の理由にならない擁護となっている。
  つまり、是認の理由にならない理由でもって、是認さ
 せるように見誤らせている。
  だから故に、これを正当化の理由とするなら・・まっ
 たく自分勝手な、自分を正当化したいが為だけの論理と
 なる。
  つまり、愚論であり暴論である。
  どんな事情があろうが、原爆などという大量殺戮兵器
 を、当時、既にあった国際法違反の行為(一般市民の非
 戦闘員の殺戮が確実に起きると分かっている行為、その
 悪行為を意識して違反行為をした)
  過大な行為の『刺す』という行為、また、『原爆投下』
 という極悪・無益な過大な行為をした・・となる。
  アメリカの政治家の発言は、屁理屈の、まったくの子
 供の論理である。
  こんな論理を振りかざすアメリカの政治家が居るとい
 うアメリカの政界は、軽蔑の極みに成り下がっている。
  原爆開発者のオッペンハイマーは・・、
  「日本は、すでに敗けていた、原爆を落とす必要はま
 ったくなかった(投下の正義はなかった)」と言った。
.
1947年3月、買い出し
  「買い出し」と言っても、今の若い方たちは、何のこ
 とを言っているのか、分からない方が多いでしょう。
  辞書には・・、
  第二次大戦中や戦後の食糧不足の時代に、都会に住む
 人が、食糧を買い求めるために農村に出かけた。
  食糧が欠乏する都市部の住民は、農村へ主食などの買
 い出しに行った・・と説明されている。
  そして、当時の写真には、食糧の遅配・欠配で、休日
 は買い出しの人で混雑する上野駅(1947年2月)とか・・
  買い出しを終え、列車に乗り込む人たち(1947年3月)
 千葉・飯岡駅、列車は鈴なりの人となっている。
  つまり、買い出しは、戦後の食糧難時代が主に語られ
 ている。
  日本の政府は、「食べ物を分け合って食べよう」と、
 配給制度を作った・・が、それも、そのうち、「欠配」
 と言って、配給制となっていた米などの食糧が配給され
 ず、食糧を得られなかったりした。
  困った日本の方たちが、そこに居た。
  栄養失調(えいようしっちょう)になって死ぬ人が居
 るくらいだった。
  これは、新聞記事に出るという珍しい事ではなく・・
 近所の某さんが栄養失調で死んだと話題になるような状
 態・・身近な状態だった。
  また、配給される合法な食べ物だけを食べることを守
 った裁判官が、「餓死する」ことも起きるという日本だ
 った。
  「法律を守る立場の裁判官」だから、「違法な食べ物」
 は食べる事は出来ないと、配給される食べ物だけを食べ
 ていた方だった。
  この頃、成年者への米の配給は「1日、お茶碗1杯」、
 代用食の大豆やサツマイモも、遅配や欠配となった。
  そこで、闇ルートとなる「買い出し」に行かなければ
 生きては行けなかった。
  写真:手に入れた食糧をリュックに入れ満員の列車に
 乗り込む人たち(1946年9月)埼玉・鶴瀬
  その買い出し列車は、超満員で、窓から乗り降りし屋
 根やデッキにまで乗客があふれた。
  値段は、米1キロ20~40円、麦1キロ15~25円、サツマ
 イモ1キロ5円程度だった。
  また、手持ちの晴れ着や袴、コートなどを食糧に換え
 ることが多く、箪笥の中の着物を少しづつ持ち出して、
 米などに代えた、タケノコの様に、うす皮を剥がされて
 行くので、これを、「タケノコ生活」と言って、この言
 葉が流行した。
  一般の人たちは、何でも食べていた。
  野原の草は当たり前。
  話によく出るのが「さつま芋のつる」を食べた話。
  「それでも、甘くておいしかったよ」と言う方も居る。
  「芋のつるは、良い方だったよ」という言葉も出る。
  食べる物のない時は、「芋のつる」は甘くて美味しく
 感じたよ・・大根もよく食べたよ・・空き地という空き
 地は、皆、畑にして、大根が取れれば、食べ物が無いか
 ら、毎日、大根ばかり食べていたよ・・と・・、
  誰もが「ひもじい日本」・・それでも、皆が助け合っ
 た・・そこに、優しい日本の方たちがいた。
  「向こう三軒、両隣(むこうさんげん、りょうどなり)」
 という言葉があった。
  その近所の方々と特に助け合った。
  そして、優しい農家の方たちも居た。
  農家の方たちが使うだろうと思われる「ザル」を売り
 に行くと、同情してくれて、よく買って戴けた。
  自分も竹藪を持っていて、ザルを作っているだろうに、
 困っているから売りに来るのだろうと「買って戴けた」。
  「下駄」も良く買って戴いたという。
  その優しい農家の方々へ、食糧も求めた。
  戦争が続いたので、農家の方々も豊かな食糧の備蓄が
 あった訳でもないのだろうが、その様な中から思いやり
 の食糧を分けてくれた。
  「銀シャリが食べたい」が町の人たちの夢だった。
  農家の方々も、空襲で悲惨な目に合っている町の人々
 に同情して戴いていた。
  「ヤミ米の買い出し」・・法律を逃れる「ヤミ物資」
 である。
  農家の方たちもそれを承知で、目の前の困って助けを
 求めて来ている町の人々へ・・食べ物を分けて戴けた。
  「木更津」という言葉がよく出た。感謝と共にこの言
 葉が何度も出た。
  「高崎」へも、あちこちに買い出しに行ったと・・、
 八高線に乗って行ったと・・寒い北風の中に待たされた。
  親切な方が、米を売ってくれそうな農家の方を探しに
 行っている間、寒風、吹きすさぶ中で、その返事が来る
 のを待った。
  皆が、押し合いへし合いで、帰りの汽車に乗りこんだ・・、
 線路の所に落ちた人が居て、なかなか列車が出発できな
 かったなど・・、皆が必死だった・・しかし、基本的に、
 皆・日本の人には優しさがあった。
  朝の超早くに、向こう三軒両隣(隣組)の年長の方が
 迎えに来て、一緒に出掛けた時もあった。助けてくれて
 いたのだった・・、
  ヤミ米は、当然、取り締まり対象となっていた。
  お巡りさんが摘発していた。
  「駅で、取締りしているか見て来てあげる」と・・農
 家の方が、わざわざ取締りをしているか?を駅まで見に
 行って戴いたこともあった。
  お巡りさんに捕まって、すべてを没収されて、すべて
 が水泡に帰し、悔しい思いを話したおばさん・・遠くま
 で買い出しに行ったのに・・と悔しそうに言う・・、
  戦争末期に夫を亡くして、「そういう事情なら・・」
 と許されて・・お米も没収されなくて・・裏からそっと
 出されて・・そういう事なら、それをもっと早く言えば
 「取り調べもしなかったのに」と言われた・・と・・、
  袋に入れた重い米・・それを体に巻き付ける。
  一杯持って帰りたいが、重いし、体がその米で冷える。
  お巡りさんに見つけられやすくもなる。
  プロのお巡りさんも分かっていたのだろう・・、一目
 で見破っていたのだろう・・幼い子を連れた・・若い女
 性・・幼い子を家に置いておけなくて、一緒に買い出し
 に出かけた女性・・
  この様な状況を経て生き延びた・・日本中がこの様な
 状態を切り抜けた。
  列車と言ったって、今のようなスマートな列車ではな
 くて・・蒸気機関車で・・レトロだなんて言って居られ
 る状態ではなかった・・トンネルに入ると、客席は煙が
 充満して煙くさかった・・窓を開けていると、目に煤(
 すす)が入って痛かった・・
.
1953年7月27日、朝鮮戦争の休戦協定が署名された。
  正式名称は、「朝鮮における軍事休戦に関する一方国
 際連合軍司令部総司令官と他方朝鮮人民軍最高司令官お
 よび中国人民志願軍司令員との間の協定」。
  「最終的な平和解決が成立するまで朝鮮における戦争
 行為とあらゆる武力行使の完全な停止を保証する」と規
 定した。
  そもそも朝鮮戦争は、北朝鮮の一方的な侵略開始から
 始まった。
  南側は、何ら悪くない。
  1950年6月25日に、金日成が率いる北朝鮮軍が、中華人
 民共和国(共産中国)の毛沢東と、ソビエト連邦のヨシ
 フ・スターリンの同意と支援を受けて、国境線となって
 いた38度線を越えて、南側の韓国へ侵略を仕掛けたこと
 によって勃発した。
  そして、この戦争で、共産中国は、数百万人もの国連
 軍の兵士と韓国軍兵士を殺戮した。
  しかし、この責任は問われていない。
  うやむやにされている。
  しかし、朝鮮戦争の前の戦争である大東亜戦争(第二
 次世界大戦)の日本の責任は、「しつこく問うアメリカ」
 となっている。
  日本には、国連の敵国条項(敗戦国条項)が今だに生
 きていて、適用されている(名指しされていないと言う
 が屁理屈である)
  これは、おかしいのである?
  新しい国連の在り方が作られるべきである。
  また、その後の戦争である朝鮮戦争時の・・、
  韓国へ戦争を仕掛けた北朝鮮が悪いのであって、それ
 に加担した共産中国が悪いのである。
  アメリカは、これをうやむやにして、その前の戦争の
 日本の責任ばかりを今だに問うている。
  また・・、
  大東亜戦争(第二次世界大戦)で、日本と戦ったのは
 中国の蒋介石軍の国民政府軍である。
  日本が敗戦となって、この戦争の戦勝側に居た中国は、
 だから、蒋介石軍の国民政府軍が戦勝者である。
  だから、戦勝国の連合国が作った国際連合の常任理事
 国に入ったのが、蒋介石の国民政府の中国だった。
  これは、正しい筋の話だった。
  しかし、アメリカは・・またまた、アメリカの勝手な
 論理を登場させて・・日本と戦ったこともない共産中国
 を常任理事国にした。
  アメリカから離れて、勝手に歩き出したソ連。
  そのソ連と冷たい戦争が始まって・・米ソ冷戦で・・、
  アメリカは、共産中国を取り込みたかった。
  共産中国を、同じ共産圏で、ソ連側へ行かせたくない
 ために・・
  1971年、台湾に居る国民政府の中国に詰め腹を切らせ
 てしまった。
  北京政権に国連・常任理事国の座を与えた。
  「平和愛好国」だとした。
  朝鮮戦争で、共産中国が参戦し、数百万人もの人々が、
 国連軍と韓国人が共産中国軍に殺されたが、その戦争責
 任を問う事が、だから、できない。
  ただただ、言いやすい相手の日本の戦争責任を、共産
 中国より以前の、昔の戦争責任を、日本の戦争責任を言
 う卑劣なアメリカとなっている。
.
1974年12月、ギリシャ共和国が生まれた。
  3人に1人が公務員という国=ギリシャ・・まったく変
 な国。
  皆が、なりたいと思うと公務員になれる不思議な国。
  1974年12月、ギリシャ共和国が生まれた。
  そして、その翌年・1975年、EC加盟が申請された。
  ギリシャには、産業と言えば農業しかない。
  そして、経済は、「高いインフレ率」を示していた。
  貿易収支は大赤字で、高い失業率であった。
  巷には失業者があふれていて、この様な状況では、E
 Cに加盟できる条件ではまったくなかったが、何故か?
 この翌年の1976年に、ECは、ギリシャと加盟の交渉を
 始めた。
  そして、1981年、ギリシャの政権が交代し、この新政
 権は、早急なECの加盟はないとしたが、その方針は転
 換され、この年・1981年に、ECの加盟条件が満足して
 いないにもかかわらず、何故か?ギリシャは、ECに加
 盟した。
  この年のギリシャの負債は、GDP比30%近くという
 異常値だった。
  しかし、この後の加盟後、ギリシャは、膨大な補助金
 を貰い、その補助金漬けが続く状況となった。
  当然、ギリシャは、この補助金漬けで『潤った』。
  しかし、これは解決につながらなかった。
  1980年代、豊かな補助金を貰い続けるギリシャは、確
 かに「潤うギリシャ」となったが、「虚構の豊かさ」の
 中にあるギリシャだった。
  ギリシャは、安楽だけを求めた。
  ECの補助金は、何ら有意義に投資される訳でもなく、
 補助金は・・どこかに消えた。
  ギリシャの借款は、1990年には、GDP比80%に跳ね
 上がっていた。
  構造改革や財政縮小の「苦が求められることは無かっ
 た」。
  ただただ、プレゼント状態の補助金だった。
  ただただ、プレゼントを貰うだけの「天国の住人状態」
 と化していた。
.
1990年、腐っているEU
  この年に、政権の座に就いたギリシャの首相は、他の
 首相と比べれば、偉かった。これが当たり前なのだが・・?
  この首相の名をコンスタンディノス・ミツォタキス首
 相と言う。
  彼は、初めて、ギリシャの財政立て直しをしようとし
 た。
  お粗末な事に、この時が初めてであった。
  しかし、長年の甘い浪費に慣れた(堕落した)ギリシャ
 国民は、彼のする種々の苦しい再建の施策に耐えられな
 かった。
  彼の政治は・・3年で終わった。
  大いなる不満が高まり充満し、爆発した。
  短命な「正当の首相」だった。
  そして、1993年に、横領の前科で辞任した前首相のパ
 パンドレウが、あっという間に返り咲き、政権の座に就
 いた。
  そして、この『政党』が、ギリシャに怪しげな事を始
 める。
  1993年には、GDPの13%が赤字だったギリシャが、
 すごい勢いで、この常態化したギリシャの赤字が減り始
 めた。
  1998年には、2.5%だとギリシャは発表した。
  ユーロ圏への加盟には、「3%以下」にならなくては
 ならない。
  ギリシャは、あっという間にこの条件をクリアした。
  2000年、晴れてギリシャのユーロ圏への参入が正式に
 決まった。
  この時、ギリシャの赤字は1%だった。
  ギリシャの財政は、素晴らしく健全となった。
  多くの専門家は、まったく信じていなかった。
  しかし、EUの担当者たち、財務大臣たちは、警告が
 あるのを無視し、目をおつぶりになった。
  そして、ギリシャのユーロ導入を認めた。
  2001年、ギリシャにユーロが導入された。
  ギリシャは、それまで、高い利子を付けなければ売れ
 なかったギリシャ国債が売れた・・ユーロの信用でよく
 売れた。
  低い金利でも、ギリシャの国債はよく売れた。
  低金利で、ギリシャは、資金を得られるようになった。
  多くの外国の金融機関が、ギリシャへ金を貸しまくっ
 た。
  本当を知っている人も、見ないふりをして儲けまくっ
 た。
  ギリシャ国民の方々は、何も知らないで、巷(ちまた)
 に溢(あふ)れる金に沸き立った。
  こんなことが、いつまでも続く訳は無かった。
  ギリシャの借金は膨れ上がっていた。
  「楽アレバ・・苦アリ」。
  キリスト教のプレゼント思想・プレゼント体質もこれ。
  楽ばかりを求める宗教=キリスト教。
  ギリシャは、キリスト教ギリシャ正教の国。
.
2001年、韓国にとって、中国が最大の貿易パートナーとな
 った。
  韓国は、いつの時代も、可哀想な立場にいる。
  大国の間で、いつも揺れ動いていた。
  今、韓国が、最大限、意を配らねばならない国は、『
 中国』。
  その為に、昔からやって来た事と同じことを、今、日
 本に対してやっている。
  その様に、昔から、韓国は、「自分の立つ瀬」を作っ
 て来た。
  韓国の事大主義。
  韓国は、歴史の中、そのほとんどが、「事大主義の中」
 に居た。
  日本との併合関係を選択したのも、その事大主義から
 だった。
  「日本の侵略だ」というのも明らかに「こじつけ」で、
 日本の侵略で併合したと言う言い方が、日本との併合の
 次の時代になっているから、前の日本との併合時代を否
 定して悪く言い、今時点の事大主義による選択を肯定す
 る必要から言っている。
  (参考)こじつけ:関係のない物事を無理に理由をつ
     け関係づける。
      また、無理に理屈づける。
  今、アメリカとの関係が終了して、中国との関係へ移
 る状況にある。
  2001年から、韓国の代々の貿易パートナーは、アメリ
 カでなく中国になった。
  因みに、事大主義とは、自ら進んで「時の大国に仕(
 つか)えること」で、地位の向上と、安全を図ろうとす
 ることと説明されている。
  そして、その事大主義の韓国の中国との貿易額は、2002
 年には、30%もの急激な伸びで、ますます、中国との関
 係を緊密なものにした。
  また、2000年には、100万人の韓国人が、中国へ訪れて
 いて、中国に長期滞在する人も6万人居る。
  留学生も、1万5000人も居る。
  留学生は、今や、アメリカを抜いて中国が最大となっ
 ている。
  中国から韓国へ行く人も増加していて、2001年には、
 45万人が訪問している。
  中韓接近は驚くべき速度で進んでいる。
  韓国は、外交でも、当然の様に『中国重視』姿勢とな
 っている。
  軍関係の協力関係も、「日ごとに強まっている」。
  韓国世論も、「これからのアジアの中心は中国だ」と
 いう声が強くなっている。
  アメリカの元国防総省のジェームズ・アワー氏も言う、
 「中国が、朝鮮半島に、かつてない野心を抱き始めた」
 と・・、
  そしてまた、中国は、「東アジアへの影響力を(19世
 紀以前)のレベルにしたいとしている」・・とも言う。
  韓国は、中国の核が怖い。
  当然、北朝鮮の核も怖い。
  日本だけが・・のんびりと・・している。
.
2003年、カダフィ大佐が、大量破壊兵器の廃棄を宣言した。
  そして、核開発に関係する膨大な資料をアメリカに渡
 した。
  そこには、核弾頭の設計が「中国モデル」である事を
 はじめ、中国の関与を示すものが、多数、含まれていた。
  中国の隠れた支援があった。
  また、パキスタンの核が、中国によって造られている
 事は、パキスタンの「核の父」アブドゥル・カーン博士
 の証言などで、既に、はっきりしている。
  さらに、パキスタンは、北朝鮮にも、ウラン濃縮技術
 を提供していることが、カーン博士の証言で確実となっ
 た。
  つまり、中国から流れた核の製造技術が、パキスタン
 を通じてリビアへ流れ、そしてまた、北朝鮮にも流れた。
  そして、2018年の緊迫した事態となっている。
  すべての元凶が中国となっている。
.
2004年、欧州憲法の制定も、結局、成らずに終わった。
  民意が反映する選挙を経ない者が、EU政治を繰る。
  EU国民も、今、誰が自分たちを政治しているかを知
 らないし、知ろうともしない。
  EUは、こんな事態となっている。
  EUで決めたって各国が批准しなければ、まったく無
 関係となるから・・ついに「関心ない」になったのか? 
  例えば、2004年に、欧州憲法を制定する準備が着々と
 進んで、その調印も終わった。
  しかし、結局、批准が進まず、おじゃんとなって断念
 されてしまった。
  EU国民は、EU憲法など望んでいないことが、はっ
 きりした。
  この様な風潮を助長しているのが、今は、EUを脱退
 したイギリスだった。
  イギリスは、『団結壊し』の張本人だった。
  イギリスは、言いたいことを言って、EUの各取り決
 めや法律を採択するか?しないか?イギリスが自由に選
 べるという「イギリスの勝手し放題」を、他のEU諸国
 に公式に認めさせた。
  また、イギリスには適用されないという「特別扱いの
 条約」など、イギリスの我儘(わがまま)が通用する連
 合となっていた。
  一生懸命に決めても、ザルの様に漏れる話し合いがな
 されている。
.
2016年4月8日、ギリシャの港(ビレウス港)が中国に買わ
 れて・・中国のものとなった。
  着々と進む中国の世界制覇・・、
  民主主義的な組織だとは言い難い「非民主主義組織の
 EU」。
  最高の権力を持つEU内の組織が、何らEU国民の・・
 「民衆の選択」・「選挙の洗礼を受けていない」。
  民主主義を標榜する訳のEUが、EUの民衆が、自ら
 が選択したという覚えのまったく無い人間たちによって
 牛耳られているという組織となっている。
  その組織の決定権での下で、生活をさせられている。
  そして、様々な義務が課せられている。
  矛盾の多いEUとなっている。
  ギリシャが大嘘をついてまでして、大赤字の国家財政
 を隠してまでして、「EUに入りたかった理由」は・・、
 『ユーロ』という強い国際通貨を使いたかったからだっ
 た。
  それで、大嘘つきを演じてしまった。
  不正義、極まりない行為である。
  「あの強い通貨を使うことが出来る様になれば、すべ
 てが解決する」のギリシャの行為だった。
  「あの強い通貨が、手に入れば、何でも買える」だっ
 た。
  日本人は、『円』という国際通貨を、何とも思わない
 で使って、その恩恵に浴しているが・・、
  日本は、誠実に働いて、国づくり・社会づくりをして
 来て、その努力の結果だという、しっかりした実績、し
 っかりした日本経済に支えられた国際通貨の『円』の今
 があって・・その円のありがたみは、当たり前の様に感
 じられて、何ら「そのありがたみ」を感じられない日本
 人となっている。
  世界中の国々が、円を『信用して』両替してくれる。
  しかし、「ドイツ・マルク」や「中国・人民元」は、
 ちょっと違う・・格下にある。
  ギリシャは、この様な「ユーロ」という国際通貨を使
 える国になることを夢に見た。
  自国の通貨が、一気に国際通貨になるという夢だった。
  日本が、今、世界で、円によるODAで、しっかり援
 助をしているが、この様な意味からも、被援助国の方々
 も「円のありがたさ」を感じている。
  ユーロを手にしたこのギリシャによって、今、ヨーロ
 ッパが、バラバラになろうとしている。
  誠実が一番なのだが・・、それだけ、巧妙なギリシャ
 の粉飾は、大きな罪づくりだった。
  ギリシャは、華々しくオリンピックをやったりして、
 擬制し、世界中を欺(あざむ)いた。
  (参考)擬制:ぎせい、実質は違うのに、そう見なす
     (見せかける)こと。
  世界中が騙(だま)されて、。ギリシャへ投資した。
  世界中の銀行が、ギリシャに融資した。
  逆に、これが、ギリシャを破滅に近づけ、破綻(はた
 ん)を早めた。
  ギリシャは、バブルとなった。賃金は3倍になった。
  バブルという事は、終りが近いということ。
  ギリシャ政府も、誠実ではなかった。お手上げだった
 から、その様にしたのか?
  ギリシャ政府は、まともな国家予算が立てられなかっ
 た。
  国家の破綻の終末状況だった。
  予算運営もせず、予算監視もせず、ただ、木偶の坊(
 でくのぼう)政府と成り下がった。
  借金スパイラルが回った。
  「放漫」の二字のギリシャだった。
  この様な悪の体質は、根が深かった。
  中国から借りた金も返すことが出来ずに、ギリシャの
 港を明け渡した・・
  中国の軍艦が来る港となってしまった・・中国は、イ
 ギリスにやられたことを、今、その同じことを、ギリシャ
 でやっている。
  「返済できないなら・・金は借りるな」の当たり前が
 出来ないギリシャだった。
  (参考)2016年4月10日、産経ニュース
  ギリシャは8日、同国最大の港であるピレウス港の売
 却契約について、中国海運最大手の中国遠洋運輸集団(
 コスコ・グループ)と正式に調印した。
  ピレウス港は、地中海の海運の要衝で、アジア・中東
 地域から欧州への玄関口にあたり、今後、中国の欧州進
 出に拍車がかかる可能性がある。
  コスコ・グループは、中国政府の管理下にある国有企
 業で、今回の買収は、習近平指導部が主導する形で進め
 られた。
  現地からの報道では、中国側は、ピレウス港を運営す
 る国営会社の株式の67%を2段階に分け、計3億6850万ユ
 ーロ(約450億円)で取得する。
  中国側は、このほか港湾整備・開発に3億5千万ユーロ
 を投資する予定。
  当初は、株式51%分の取得にとどめ、これらの投資の
 実行を受け5年後に残りの株式を買い取る。
  中国は、すでにピレウス港のコンテナ埠頭(ふとう)
 の運営権を握っていた。
  ギリシャは、欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)
 の支援を受けて財政再建中で、同港などの国有資産の民
 営化は支援実行の条件。
  当初は、民営化に反対したチプラス政権も現在は推進
 姿勢に転じている。
  首相府付近では、この日、民営化反対のデモも行われ
 た。
.
2016年6月23日、イギリスのEU離脱
  イギリスの欧州連合国民投票法に基づく投票が行われ、
 EU離脱が決定した。
  EU(欧州連合)に加わり、そして、居るという存在
 理由・・、
  EUの欧州連合条約に以下のような意味が書かれてい
 る・・、
  『連合は、人間の尊厳に対する敬意、自由、民主主義、
 平等、法の支配、マイノリティ(差別や構造によって社
 会的に弱い立場の人たち)に属する権利を含む人権の尊
 重という価値観に基づいて設置され・・、
  これらの価値観は、多元的共存、無差別、寛容、正義、
 結束、女性と男性との間での平等が普及する社会におい
 て、加盟国に共通する・・、
  EUに至る前の、かつては、資源やエネルギーを取り
 合う戦争ばかりの次元の低い状態から脱却したいと、
  その為には「財布を一緒にしよう」という様な高い理
 念を掲げた。
  しかし、それを、やって来てみて・・結局、行き着い
 たところは、皆が「エゴをむき出すような社会連合の姿」
 となってしまった。
  グローバリズムを標榜するが、一歩もその高い理念に
 は近づけない国々となった。
  隣の家と財布を一緒にすると言ったって、自分の子供
 には美味しいものを食べさせたいというような話で行き
 詰っている。
  レベルが、下がっているのである。
  皆が、加盟国が、結局、「わが家は、より豊かな生活
 をしたい、させたい」となってしまった。
  イギリスは、結局、EUを離脱したが・・、
  イギリスは、初めから不満が多かった。
  はっきり言って・・イギリスは、自分好みにEUがな
 らないなら、EUを去るという、「脅しでもってEUに
 迫った」が、結局は・・去った。
  EUに、色々と要求を出したイギリスだった。
  受け入れられないなら「EUを去る」のほとんど脅し
 のイギリスだったが・・EU側は、イギリスに去られて
 は困るのである。
  政治力は下落するし、アメリカへのパイプは細くなる
 し、世界の金融市場での馬鹿にならないイギリスの力も
 利用できなくなる。
  そして、イギリス離脱で、「EU懐疑派」の勢いが増
 すのが怖いという状態となった。
  イギリスのEUを離脱で、EUの統合力を増す・強く
 するという方向性はさらに弱まった。
  EUの理念も縮小し、ひびが入って行く事態を迎えて
 いる。
  標記のEUの理念がまぶしくなっている。
  イギリスは、EUによる通過自由で、イギリスに流入
 して来る多くの「東欧市民」に困った。
  そして、最近は、EU諸国に流入した難民が、通過自
 由で、イギリスを目ざして流入して来る事に困っていた(
 移民流入問題)
  EUの理念が、そっちのけで、「メリットとデメリッ
 ト」が天秤にかけられるという判断が働いた。
  標記の「EUの理念による判断」はまったく無かった。
  因みに、EU諸国の本音として・・、
  「EUの多くの国は、国の主権を移譲(ゆずる)をし
 てまでして、EUを強大にしたいとは思っていない」。
  しかし、その様に位置づけられているEU内で、水面
 下での覇権争いは、静かに、そして確実に進行していて、
 グローバル化、グローバリズム何て言う大局的見地に立
 った話は『絵に描いた餅』となっている。
.
2018年1月1日、NHKのニュースが殺人事件から始まった。
  平成30年、NHKのニュースは殺人事件から始まった。
  これに対し、民放のテレビ朝日は、安倍首相の今年の
 決意や抱負を伝え、経済界首脳の今年の展望・抱負が続
 き、外国指導者の声も伝えた。
  この差は何だ?
  『殺人事件が好きなNHK』はこんなことを年がら年中
 やっている。
  NHKの殺人事件好きには辟易(へきえき)する。
  国民をまったくバカにしているNHKとなっている。
.
2018年、今、中国の核ミサイルは、日本の都市のすべてを
 照準としている。
  日本の大都市・東京・大阪・名古屋・福岡の4大都市だ
 けなどという甘いものではない。
  ちょっとした規模の日本都市のすべてに、中国の核ミ
 サイルが飛んで来るという状況となっている。
  それに対して、日本の防衛力で、それを防げるかと言
 えば・・、
  その中国の攻撃核ミサイルの1割ぐらいには「迎撃ミサ
 イルを飛ばせる」という防衛力である。
  命中率の話ではない・・、
  迎撃ミサイルで、「迎え撃つために発射できる」とい
 うレベルである。
  日本の防衛装備の力が「その程度だ」という事である。
  つまり、中国が、日本を狙って、やろうとやれば、ほ
 ぼ無防備の日本に、核ミサイルが飛んで来るという実情
 になっているという事である。
  北朝鮮も、すでに、日本に届く核ミサイルを持ってい
 る。
  アメリカに届く核ミサイルが無い現時点で何とかしよ
 うと騒いでいる状況である。
  国防を怠って来た日本は、国防をしっかり考えなけれ
 ばならない。
  『戦争』と『国防』は違うのだ。
  この肝心な「日本の国防」を行なおうとすると、日本
 国憲法が最大の障害となっている。
  平和憲法というが、日本の国防が非常に弱いという上
 記の様な状況から「まったくそぐわない状況」となって
 いる。
  「中国や北朝鮮にとっては『平和』である」のであっ
 て、日本にとっては、「まったく平和な状態ではない」。
  日本国憲法の前文は、戦後、70年を経て、まったく上
 記の様に実情に合わなくなっている。
  この憲法前文から書き直さなければならない。
  日本民族の「存亡の危機」を救えなくなっている。
  日本国憲法の前文には・・、
  「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われ
 らの安全と生存を保持しようと決意した」・・とあるが、
  決意したって、上記の様に、その様な現状ではないの
 である。
  愛する日本の人々を、「座して死を待つ」状態にして
 いる。
  その様な最悪事態に置いている状況をつくっている。
  日本国憲法の前文は・・
  「平和を愛する日本国民の公正と信義に信頼して、わ
 れらの安全と生存をしっかり保持する責任を意識し、
  しっかりした国防につとめる努力を怠らないと決意し
 た」・・としなければならない。
.
20xx年に、起こりうる可能性の高いこと・・
  1467年の応仁の乱の時には、以下のような和歌が詠ま
 れた。
  「汝(なれ)や知る、都は野辺(のべ)の夕雲雀(ゆ
 うひばり)、上がるを見ても、落つる涙は」
  (おまえは知っているだろうか、都はすっかり焼け野
 原になってしまった。
  夕方、都からヒバリが飛び立つのを見ても、涙がとめ
 どなく落ちてしまう)(「応仁記」より)
  1467年に、応仁の乱が始まり、細川氏の東軍と、山名
 氏の西軍に別れ、京都を主な戦場として、11年間、戦い
 は続いた。
  この戦いの結果、室町将軍の権威が衰えた。
  また、古くからの大名の実権も衰えた。
  下の者が実力を持ち、新興の大名が生まれた。
  山城(やましろ、京都府)では、地侍(じざむらい)
 らが守護を追放して、8年間の自治を行なう山城国一揆が
 起こったりした。
  また、加賀(かが、石川県)では、浄土真宗の信徒ら
 が、守護大名の支配に反抗して一向一揆を起こした。
  信徒らによる自治は、約100年間つづいた。
  この戦乱が、日本で最大と言われているが・・
  今・現時点で思えば・・まったく小規模な戦いである。
  今、日本は、「日本全土が焼け野原になってしまう」
 「日本全土が蒸発してしまう」という危機にある。
  20xx年に、国防を怠った日本国民が、天国へ行って、
 天国で日本の先人たちが・・核攻撃の対処をしなかった
 日本国民の大打撃・消滅を見て、「落つる涙は」と詠(
 うた)うだろう。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)578E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年4月)

2018-02-15 04:36:05 | 日記
題:(増補版)578E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年3月、大阪~神戸間で電話が開通した。
  3月25日時点での契約者数は、大阪141、神戸74。
  また、この頃、「モシモシ」という言葉が流行した。
1893年3月、筑豊興業鉄道が、若松駅構内炭積用桟橋架設工
 事一部竣工し、使用を開始した。
1893年4月1日、直江津線の横川~軽井沢間(11.3km)が開
 通した。
  碓氷峠は、日本で初めてのアプト式を採用した。
  これにより上野から直江津までが全通した。
  鉄道局は、難所の碓氷峠を日本で初めてのアプト式軌
 道を採用した。
  これまで、1885年に、高崎~横川間が開通していた。
  また、このアプト式は、1963年に、廃止された。
  また、この時、同時に、横川・丸山(信)および矢ヶ崎
 (信)・軽井沢間を複線として使用を開始した。
  そして、アプト式蒸気機関車による旅客列車4往復の運
 転を開始した。
  (運転時分:下り1時間18分、上り1時間20分、中間に熊
 ノ平信号場を設けた。
  なお、開通まで、碓氷馬車鉄道会社が、鉄道馬車によ
 って客貨を輸送していた。
1893年4月1日、西多摩郡・北多摩郡・南多摩郡の多摩3郡
 が、神奈川県から東京府へ移管された。
  三多摩の名の由来はこれ。
  水路の関係(水源問題)で・・東京の上水道の水源が
 多摩地区で神奈川ではなく、管理面で東京府へ移管しよ
 うとなった。
  きっかけは、1886年のコレラの大流行。
  この時、「多摩川上流で、コレラ患者の衣服が洗濯さ
 れた」という噂が広まった。
  (実際は、洗濯したのは水道水に影響しない多摩川支
 流であったが・・)
  東京への上水道となる玉川上水への汚染は無かったが、
 この後、管理面を一貫して強化するため、東京府へ移管
 する事となった。
  因みに、明治維新頃、この地は、「品川県」「韮山(
 にらやま)県」「入間(いるま)県」「西端(にしばた)
 県」だったが、
  1871年の廃藩置県で、神奈川県の所属となっていた。
1893年4月1日、鉄道局本庁が逓信省構内へ移転した。
1893年4月1日、長崎電灯株式会社が開業した。
  長崎市内に初めて電燈がついた。
  68戸に供給、取付け灯数129灯、うちアーク灯9灯
1893年4月2日、秋山好古(34歳)が、多美(23歳)と結婚した。
  陸軍少尉のころ、下宿していた旧旗本・佐久間家の長
 女・多美と結婚に至った。
1893年4月8日、青森~福島間の鉄道建設のために、青森に
 鉄道庁出張所を設置した。
  また、敦賀~富山間の鉄道建設のため、敦賀に、また、
 鉄道庁出張所を設置した、青森・敦賀に鉄道庁第三部派
 出所を設置した。
1893年4月11日、「文官判任以上退官賜金ノ件」改正公布(
 勅令第20号)
  朕茲ニ文官判任以上ノ者退官賜金ノ件ヲ裁可ス。睦仁
 (明治天皇陛下)、内閣総理大臣山縣有朋、大蔵大臣伯
 爵松方正義、勅令第九十八号、文官判任以上ノ者在官満
 一年以上十五年未満ニシテ退官シタル者ニハ退官現時ノ
 俸給半箇月分ヲ以テ在官年数ノ一箇年ニ当テ其年数ニ応
 スル金額ヲ一時支給ス但非職満期ニ由リ退官シタル者ハ
 其在職最終ノ俸給額ニ依リ之ヲ給ス、本令施行前ニ満年
 賜金若クハ一時賜金ヲ受ケタル者又ハ前項ノ賜金ヲ受ケ
 タル者再ヒ任官シ自後退官シタルトキハ前項ニ掲クル在
 官年数ヲ春再任ノ日ヨリ・・云々
1893年4月14日、出版条例を廃止して出版法を公布した(4
 月13日説あり)
  出版物取締り法規で、1869年5月の出版条例 (行政官達
  444号) と、1887年12月の出版条例 (明治20年勅令76号)
 を引継いで、新聞、定期刊行雑誌を除くすべての文書図
 画と、学術関係などの雑誌を取締りの対象とした。
  出版法は、基本的には、出版条例を踏襲したが、出版
 物の発行要件で、出版にあたっては発行日から到達すべ
 き日数を除いて3日前に内務省へ2部納本することとし
 た。
  また、出版届けを出すことや、出版物の末尾に発行者・
 印刷者の氏名・住所を記載することなどを決めた。
  そして、違反した場合には、執筆者・発行者の処罰の
 ほか、 出版物・紙型などの没収まで及んだ。
1893年4月15日、版権法が公布された(4月14日説あり)
  版権(はんけん)は、著作権の旧称で、出版権である
 著作物を複製・発売する権利を決めた。
  1899年に、著作権法 (明治32年法律第39号)(旧著作権
 法)が公布されるまでの間に用いられた。
  この当時の「版権」は、現在の著作権法での著作権と
 は異なっていて、著作物のうちの一部である「図書」な
 ど(概ね、現在の著作権法での「言語の著作物」にあた
 る)についての権利であって、
  脚本、音楽、写真、映画等は、その対象とされていな
 かった。
1893年4月、「集会及政社法」 改正
  1890年の「集会及政社法」では女性の政談集会や、政
 治結社への参加を禁じられていた。
  この法律の撤廃は女性運動の重要な課題となった。 
  日本の政府は、早くから女性への権利に目覚めていて、
 すでに、1871年には、津田梅子ら5人の女性をアメリカ合
 衆国に留学させていて、1872年には学制を発布して、「
 男女平等の義務教育」を実施していた。
  また、1874年には、東京に女子師範学校(現:お茶の水
 女子大学)を設立していた。
  アメリカは、まだ女性が差別されていて、アメリカで
 女性の参政権が認められたのは1920年である。
1893年4月、津村順天堂が開店し、婦人薬の「中将湯(ち
 ゅうじょうとう)」を発売した。
  ツムラの婦人薬、中将湯、第2類医薬品
  (1)更年期障害(のぼせ、不眠、イライラ)、冷え
    症に
  (2)16種類の生薬の婦人薬
  (3)創業以来のロングセラー商品
  効能・効果:産前産後の障害(貧血、疲労倦怠、めま
 い、むくみ)、血の道症、更年期障害、不安神経症、月
 経不順、月経痛、頭痛、肩こり、腹痛、腰痛、冷え症、
 のぼせ、めまい、耳鳴り、不眠症、息切れ、動悸、むく
 み、感冒
.  
  (今日の言葉)
.
  題:核兵器の攻撃兵器の種類によっては、日本の3分の1が蒸発してから、
   防衛出動するというのである・・
    今の憲法では、その様にしかできないと言うのである。
.
紀元前5万年、アボリジニの方々が、スンダランドからオー
 ストラリアに来た。
  その時以来、延々と、アボリジニの方々は、オースト
 ラリアに住み続けた。
  完全に、オーストラリアの地はアボリジニの方々の地
 となった・・国となった。
  だが、しかし、その時から50000年以上も後になって、
 キリスト教の白人たちがやって来た。
  今、紀元2000年が過ぎた頃である。
  このアボリジニの方々が、オーストラリアを国にして
 来た『50000年という年月』にどのくらいの重みがあるの
 かを考えて見なさい。
  1642年に、オランダ人のアベル・タスマンがタスマニ
 ア島を発見した。
  (このタスマニア島のアボリジニの方々も、白人キリ
 スト教徒に、この後、絶滅させられる)
  そして、このアベル・タスマンは、この後、ニュージ
 ーランドを発見している。
  17世紀末に、イギリス海賊のウィリアム・ダンビアが
 オーストラリア西海岸に上陸した。
  (結局、このイギリスがオーストラリアを奪う)
  このダンピアノ報告を受けたイギリス王立協会は改め
 て調査船を派遣した。
  1766年、イギリスは、ジェームス・クックを派遣し、
  1766年10月7日にニュージーランドを発見し、
  1770年4月20日に、オーストラリア東海岸を発見した。
  1770年4月29日に、シドニー南方のボタニー湾に上陸し
 た。
  クックは、この東海岸一帯をイギリス国王ジョージ3世
 の名において領有すると宣言した。
  (「天の名において、この領有を認めない」)
  そして、この地を「ニュー・サウス・ウエールズ」と
 命名した。
  そして、18世紀に後半に至ると、イギリスは、この地
 の開発を本格的に進めることにした。
  この計画の当初より、全住民のアボリジニの方々の殺
 戮が計画(全滅計画)として卑劣にもあった。
  そして、資源獲得と囚人対策があった。
  イギリスという国のこの方針により、先住民のアボリ
 ジニの方々は殺戮され始めた。
  アボリジニの方々に言わせれば、当然、『私たちの地
 が、イギリスに侵略された』となった(これが正論)
  そして、アボリジニの方々は、動物の狩りをされるよ
 うに射殺され続けた。
  「今日は、○○匹を獲った」と書かれた日記が残され
 ている。
  もしアボリジニの方々が、この逆の行為をしたら『正
 当』とイギリスは認めるのか?
  イギリスは、その考え方を受け入れられるのか?
  自分たちは、アボリジニの方々に対して行っておきな
 がら、その行為を、当然、受け入れられないだろう。
  その様なことを、イギリスはしたのだ。
  アボリジニの方々が、最新式の武器を持って、イギリ
 スへ上陸し、イギリスがやったことと同じことをやった
 なら、その行為を、イギリスは、認められるか?
  アボリジニの旗を立て、領有したと宣言したら・・、
  「君たちを同じことをしているのだ」という論理は、
 認められるか?
  イギリスに問う?
  または、悔い改めて懺悔せよ。
  キリスト教聖職者たちが、陰の任務として、『侵略の
 尖兵』としての任務を与えられて、世界のあちこちで植
 民地化の可能性を探るスパイ行為にうごめいていたが・・
  最悪の暗躍の極悪行為をしていたが・・
  すべての悲劇は、ここから始まった。
  アメリカ大陸のインディオの方々は、1000万人を越え
 る、途方もない数の方々が殺された。
  悪の殺戮行為を、歴史上、長い長い期間、やって来て
 いる。
  いい加減止めれば良いものを・・
  今・現代も、『形を変えて』、日本などで、色々な工
 作をしている。
  放送媒体にも潜り込んでいる、NHKにも潜り込んで
 いる。
  官僚にも、教育界にも、その他にも潜り込んでいる。
.
712年、古事記が、献上された。
  日本現存の最古の歴史書であり、文学で・・、
  この古事記に、既に、日本には『民の声は天の声』の
 考え方があった。
  この様に、『民主主義の心・考え方』は、日本古来か
 らの考え方・在り方だった。
  偉大な日本は、現代が理想としている民主主義を、す
 でに、見通し、そして、遠い昔から、実現していた。
  この書は3巻あり、序 (上表文) に、天皇陛下の天武
 天皇の命によって、稗田阿礼 (ひえだのあれ) が「誦習
 (しょうしゅう、書物などを口に出して繰り返し読むこ
 と)」していた『帝紀(皇室の記録)』『旧辞(神話・
 伝説)』を、元明天皇の命によって、側近の太安麻呂 (
 おおのやすまろ) が「撰録」し・・、
  712年(和銅5年)に、献上した。
  しかし、「誦習」「撰録」の具体的内容については諸
 説があり・・、
  天地の始りから推古天皇の時代までの皇室を中心とす
 る歴史が記され・・、
  その内容は、伝説を含む話や歌謡、系譜で・・、
  誦習を、「稗田阿礼の暗唱」という説もある・・、
  古事記原文は・・、
  「時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年はこれ廿八。
 人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払るれ
 ば心に勒す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日継及び先代
 の旧辞を誦み習はしめたまひき。」
  ここの「誦み習はしめ」が、「暗唱説」と「誦習説」
 となっている。
  ただ、当時の字である漢文の古い記録の古語を、節を
 つけて朗々と訓読する技術を持っていた人・稗田阿礼と
 解されている。
.
1066年、イギリス人は、ノルマン人の国。
  イギリスは、1066年に、フランスのノルマンディ地方
 を支配していたノルマン人が、イングランドを征服して
 建てられた。
  だから、元々、フランスに居た民族だった。
  故に、イギリス王は、フランスにも、広大な領地を持
 っていた。
  このフランスで、国王による統一の動きが強まりと、
 このイギリス王の地が絡んで戦いが始まった。
  経済的に重要な毛織物の中心地フランドル地方、天然
 の良港ボルドーを巡るフランス南西部での英仏の対立が
 激化して行って、戦争が起こった。
  このいざこざは継続して行く・・、
  その時から約271年後の1337年、フランス王は、イギリ
 ス領のボルドーと、この地方・アキテーヌ盆地を取り返
 そうとする。
  しかし、イギリス王エドワード3世は、自分の母が、
 フランス王の妹だったことを理由に、フランス王位を要
 求した・・そして、武力行使に出た・・派兵した。
  こうして戦端が開かれた・・
  長い長い戦いの幕「百年戦争(1337年~1453年)」の
 愚かなる戦いの幕が開いた。
  フランス貴族は分裂した。
  その為、戦いは一貫して、イギリスに有利に展開した。
  戦争中の1347年~1351年に、恐ろしい伝染病であるペ
 ストが、ヨーロッパ全土に蔓延し、大流行した。
  キリスト教の教義による「天のみ清浄」という洗脳で、
 地は汚(けが)れたものとされ、糞尿を道にまくという
 例の様な不衛生さが町を汚し、ペスト菌を媒介するネズ
 ミが増え・・ペスト流行をさらに悪化させた。
  このペストの大流行で、ヨーロッパ人の3分の1の人た
 ちが死んだ。
  1428年に、キリスト教の神がかり的な話で、神のお告
 げがあったとジャンヌ・ダルクという少女が登場する。
  白い馬にまたがり、聖母マリアの旗を持っていた。
  フランスは戦況を盛り返した。
  しかし、迷信だらけのキリスト教が、またも、この少
 女を魔女として、焼き殺してしまう。
  ジャンヌ・ダルクは、1431年に、19歳で、キリスト教
 聖職者の汚い「引っ掛け尋問」で魔女にされてしまう。
  ノルマンディ地方の都市ルーアンで「魔女」として処
 刑された(焚刑で焼き殺された)
  1453年に、イギリス軍が、ドーバー海峡に面した都市・
 カレーを除くフランス領土を放棄する事で戦争は終わっ
 た。
  イギリスは、ブリテン島だけとなった(スモール・ブ
 リテンの誕生)
  この後、バラ戦争(1455年~1485年)を始める。
.
1096年、第一回十字軍、
  とても聖戦などは言えないような戦いで、無実の住民
 の虐殺が実態の様相だった。
  イスラエルの住民の5万人のほとんどは殺された。
  そして、本来の目的の様に略奪が行われた。
  残った住民は、1万人に満たなかった。
  イスラム教徒側は、最初、何のための攻撃だかが理解
 できなかった。
  キリスト教聖職者(ローマ教皇のあおり)は嘘をつい
 た。
  何らエルサレムを奪ったなどとの行為は無かった。
  それなのに十字軍の行為は行われた。
  この様に、企てられた悪行の軍隊だった。
  しかし、卑劣にも、この様な企てが何回も行われる。
.
1774年、アメリカ第一回大陸会議
.
1776年7月4日、アメリカが建国された。
  大陸会議がアメリカ独立宣言を採択し、アメリカ合衆
 国が成立した。
  それから・・アメリカは、建国以来約240年・・その内、
 219年間、アメリカは戦争をしている。
.
1821年、オスマン帝国の崩壊は、1821年のギリシャ独立戦
 争から始まった(~1829年)
  アメリカは、「グローバリゼーション」を提唱してい
 るが・・、
  そして、これで、新しい人類社会の舞台が作れると主
 張しているが・・、
  これは明らかにアメリカの世界を繰る方策で・・、
  「アメリカ化」を目指していることは明らか・・、
  当然、アメリカの国益に通じる「アメリカの都合よい」、
 「アメリカが考えるグローバリゼーション」となってい
 る。
  このオスマンの時代の状況も・・これだった・・、
  オスマン世界に対抗したのが・・イギリス・フランス
 などだった。
  大きく強くなったオスマン帝国のイスラム世界に、手
 を焼いた(儲けが得られないと)イギリス・フランス・
 オーストリア・ロシアは・・、
  この時は・・「ナショナリズム」が良いのだと、しき
 りに言った。
  そして、オスマン帝国内の諸国・民族の自立心を呼び
 起こさせ・・オスマン帝国崩しを行なった。
  それによって・・オスマン帝国は、内部から崩壊して
 行った、そして、とうとう解体してしまった。
  今、アメリカは、このグローバリゼーションを行なっ
 ている・・この逆の立場・・目的は同じ・・、
  だから・・日本へ、しきりに、「グローバリゼーショ
 ンが良い」と吹聴している・・、
  日本を、かつてのオスマン帝国の様に「弱体化しよう
 としている」。
  オスマン帝国の崩壊は、1821年のギリシャ独立戦争か
 ら始まったが・・、その為、イギリス・フランス・ロシ
 アは、ギリシャの独立を支援した。
  そして、オスマン帝国の主力艦隊を壊滅させた。
  そして、1829年には、ロシアが、アドリアノープル(
 現:エディルネ、トルコ最西端の都市)を占領し、ギリ
 シャとセルビアの独立をオスマン帝国に認めさせた。
  そして、ギリシャは、イギリス・ロシアなどに支えら
 れて、ドイツから貴族を王様として招いて、ギリシャ王
 国を建てた(1830年)。
  まったく自分たちの都合よい様に・・グル(共謀者)
 となって武力行使をして、作った。
  そこには、利益のみが優先し、論理の正しさや、正義
 などは・・まったく無かった。
  また、自分の利益を保持したいイギリスは、このオス
 マン帝国の混乱を利用して、東地中海で、国益を得たい
 と、エジプト=トルコ戦争で、エジプトを支援した。
  1830年代に、オスマン帝国から独立させた。
  そして、1840年に、エジプトの太守の世襲を認めた。
.
1904年4月22日、ロバート・オッペンハイマーが生まれた。
  ユダヤ系アメリカ人の物理学者。
  第二次世界大戦の時、アメリカのロスアラモス国立研
 究所の所長として、マンハッタン計画を主導し、原子爆
 弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たし、原子爆弾
 を作り上げた。
  このオッペンハイマーに次の言葉がある・・、
  「既に負けている日本に落とすべきではなかった」
.
1945年4月26日、リチャード・リー・アーミテージが生まれ
 た。
  アメリカ合衆国の軍人、政治家。
  アメリカのアーミテージ元国務副長官の言葉:
  「(靖国神社の参拝について)他国から参拝するなと
 指図されるようなことがあれば、逆に、必ず参拝しなけ
 ればならない」。
.
1945年8月6日、広島の市民の方々が生活する家々を見なが
 ら接近したアメリカ軍機は、原爆を、その市民の方々の
 真上に「アメリカが下した命令通り」に投下した。
  キノコ雲が上がった。
  そのアメリカ軍機は、命令通りにその後の偵察をした。
  キノコ雲が上昇したあとには、何もない、蒸発した姿
 しかなかった・・、
  何もかもが蒸発した広島の町しか見えなかった。
  少し前にはあったあの市民たちが生活する姿は・・
 一瞬にして、何もかもが変わって・・無くなっていた。
  蒸発した町を見た「投下したアメリカ兵」は・・
  『何ていう事をしたんだ』と叫んだ・・
  これが、まともな人間の気持ち・・である、
  そして、この後、命令とはいえ、この卑劣な行為が重
 くこの米兵の人生を変えて行った・・
  今・現在は、ミサイルという兵器でなされる攻撃であ
 る・・
  何十発、何百発と・・、
  一度に、何発も発射される可能性のある攻撃・・この
 様な事態が考えられている。
  広島・長崎のような町々が・・いくつも生まれる・・
  ミサイルという人間が乗務しない飛行物体によって・・
  広島・長崎の時にはあった「かすかに残されたこの投
 下した人間の思い」もないという無機質な大攻撃が今・
 現代には存在する。
  しかし、日本は、憲法の鎖にしばられ、この憲法解釈
 から・・この様な攻撃に対して・・まったく苦しい防衛
 が強いられている。
  「1発目の核攻撃は甘受しなければならない状況に置
 かれている」・・と、国会で答弁された・・憲法がこの
 様に答えさせた。
  『最初の1発目の原爆攻撃で生き残った日本人が、防衛
 に出動する』という形・憲法の形となっている。
  普通の人間なら・・これでは、防衛だなんて・・これ
 では呼べない形となっている・・と
  日本人の死んだ人を山と積んでからでないと、憲法に
 よって、防衛の形はつくれない・・と
  現憲法のために・・防衛がある様で、ない形となって
 いる。
  中国の習近平が、オーストラリアで・・、
  「○○年には、日本は無くなっている」という発言の
 言葉があるが・・この言葉が、不気味に頭によぎる・・
 残る。
  疎(おろそ)かにされている日本の防衛が、完全に馬
 鹿にされている。
.
1945年8月6日、広島・長崎の原爆で亡くなった方たちは、
 まったくと言って死ぬべき理由が無い方々だった。
  アメリカは、「アメリカの若い兵士が救われた」と腹
 が立つ屁理屈を言ったが、
  アメリカは、「原爆投下を正当化している」が、
  投下の目的は、誰の目にも明らかのように「世界で、
 アメリカだけが保持した『極大な破壊力を持つ兵器』の
 世界への誇示」だった。
  アメリカは、誰の目にも明らかな様に、「戦後を、唯
 一保持する魔の破壊力の兵器で、世界を牛耳りたい、そ
 れをアメリカができる」・・だった。
  圧倒的軍事力による世界への君臨が、この時、意識さ
 れていた。
  広島・長崎の、あまりにも多い犠牲者の方々は、まっ
 たく死ぬべき理由のない「アメリカの卑劣な考え方」か
 ら実施がなされた犠牲者となられた。
  そのあまりにもひどい卑劣な破壊力は、アメリカは、
 実験場で事前に実施して、「事前に、充分、分かってい
 た」。
  しかし、広島・長崎に投下し、実施した。
  キリスト教の有色人種の蔑視観に洗脳された白人キリ
 スト教徒のアメリカにとって、「投下すべきではないの
 抑止」に働かなかった。
  だから、戦後の世界制覇への君臨の欲望の成就が、優
 先されてしまった。
  戦後、アメリカに対抗するだろう国・ソ連が、はっき
 り見えていた状況の中で、広島・長崎の方々を「無為に
 殺した」。
  ソ連は、そのアメリカの圧倒的破壊力を保持する軍事
 力に服従する道を取らず・・対抗する方針を選んだ。
  世界は、原爆を保持する二つ大国の対立構造となった。
  アメリカのイメージした「希望的なアメリカ一極支配
 体制」などという虚構の体制にはならなかった。
  次に、原爆保持数で圧倒しようという無益な競争が始
 まる。
  アメリカが、立脚した「圧倒的軍事力で世界制覇する」
 は、世界が真似て、その後、「世界の方針」となった。
  米ソの二大対立構造が世界へ波及した・・中国が、こ
 の方針で台頭した。
  そして今、アメリカと同等のの対抗軸に、中国も、今・
 現代、存在するという悲しむべき状況にある。
  アメリカが、「銃の無い社会」が実現できない様に、
 今、世界は、核兵器のない社会から遠く離れてしまった。
  そしてさらに、今、30歳代の若輩の者が「私のテーブ
 ルの上に『核兵器のボタン』がある」と言う世界となっ
 てしまった。
  広島・長崎の市民の方々への人命軽視のキリスト教に
 洗脳された判断から、この様な残酷な残念な経緯を至っ
 てしまった。
  人類は、キリスト教によって「大きく道を踏み外して
 しまった」。
  自国民優越思想を植え付けるキリスト教は、「異教徒
 は殺せ」の異端排除のキリスト教教義によって助長され
 る。
  この様なキリスト教だという事をまったく知らない明
 治の日本の諸兄は、ただ西洋崇拝の感情からキリスト教
 に寄した。
  しかし、だが、新島襄の様に、日本で聞いたキリスト
 教宣教師の美化する話と、実際、理想を抱いて渡ったア
 メリカに住んで見て、体験し、その相違の大きさに落胆
 した。
  新島襄も、自らも、有色人種として差別を受け、また、
 あちこちで毎日、差別される有色人種の姿を見て、キリ
 スト教の限界を、ここに至って「やっと知った」。
  キリスト教思考では人類は救えないと・・、
  すべての元凶は、キリスト教に由来すると・・、
.
1947年2月20日、アメリカを主体とする占領軍の総司令部(
 (GHQ)が、輸出品に製造国名の記載を命令した 。
  (Made in Occupied Japan)
  そして、アメリカの総司令官のダグラス・マッカーサ
 ー将軍の言葉・・
  「戦争において、軍略上、最も効果的な武器とされる
 ものは、食糧、その他の物資を外部の補給源に依存して
 いる兵力を、完全に封鎖する事である。
  日本軍が、ついに無益な抵抗を止めざるを得なくなっ
 たのは、他ならぬ・・この武器によってであった」。
  今・現在、食糧自給率が他の国より極端に低い日本が
 「まさしくこの状態にある」。
  農業を大切にしない日本。
  しかし、アメリカは、自国の農産品を日本へ売りたい
 がために、さらに、日本の農業潰(つぶ)しにかかって
 いる。
  まさしく、マッカーサーの言葉状態に、今の日本が、
 さらに、なって行く。
  だから・・これは、何も戦時中の事だけではない。
  今・現代、日本は、考えられないくらい「食料自給率
 が低い国」となっているのである。
  とうとう・・食糧自給率が、30%以下となった。
  (それも、改善されずに、年々、下がっている)
  そして、アメリカの農作物を買わされている。
  今、日本人は、「天国の極楽とんぼの状態に、贅沢に
 食べ物をパクパク食べているが??」、
  国の食糧倉庫は・・乏しいものである??
  戦後・・日本が、あれほど悲惨に日本の諸都市が、ア
 メリカの無慈悲な無差別爆撃で破壊されても・・日本に
 は、『あの時、豊かな農村があった』。
  戦後の奇跡の復興と言ったって、この豊かな農村、ま
 た、この地へ、農作物を買い出しに行った「食べるもの
 のない都市の人たち」へ、着物など、直ぐに必要という
 物でも無いものと交換してくれた『優しい農家の方々』
 が、豊かな農産物と共に、日本の農村には、大勢、居ら
 れた。
  この農村の優しさが、空襲で何もなくなって困ってい
 る人々への優しい心が、『戦後の爆発的復興の起爆剤と
 なった』・・
  これを知ってか知らずか・・今の日本がある。
  しかし、今、アメリカは、日本の『命の源泉』の、こ
 の農村の農業を壊している。
  今の日本は、自転車操業の食糧サイクルの中で、「天
 国の極楽トンボの食糧状態」の中で、問題の深刻さに気
 付いていない。
  マッカーサーが言う様に、かつての日本軍の様になら
 ないように・・、
  中国が、南シナ海を、自分の領土にしたい目的の一つ
 が・・これ。
  日本の物資を運ぶ「シーレーンの遮断」。
  日本の首ねっこを掴みたいのだ。
  リスキーな日本は、目覚めなければならない。
  無頓着な・・お人好しな・・温厚な日本人・・死ぬ直
 前まで・・その死が迫っている事が分からぬ民族・・、
  偉大なる功績と、長い歴史を持つ日本が・・日本文化
 が・・その中で豊かに育まれて来たが・・その明日は・・
 これほど儚(はかな)いものだったのかと憂える時代の
 中に、今ある。
  すべてをアメリカに依存して・・それで良しとして・・
 自らの努力を・・知らないふりをして・・放棄している。
  「国防をする」を「戦争をする」と取り違えて・・ま
 ったく「自らを守ろうとしない」・・
  20XX年に、天国で、天国へ行った日本人へ、「国防の
 努力を怠(おこた)ったからですよ」と言われるだろう。
  また、「アメリカが守ってくれる」と言ったって・・
 「ここに来てしまったのですね」と言われるだろう。
  アメリカにしてみれば、アメリカの都市のその一つに・・
 核が落ちるという事を考えたら・・、
  日本に核が落ちたからって、安易に核反撃をする手が
 縮(ちぢ)こまってしまうということ・・
  自らを守ることを、他人に頼っていては始まらないの
 だ。
  核の傘は、「夢の傘である可能性が高いのだ」。
  今、日本は、スイスの武装中立国の様に、スイスの様
 な核を持った武装中立国の様に・・ならねばならぬ。
  テレビで、非武装中立を論じた者がいたが・・殺され
 てもいいのか?と聞かれて、「良い」と元気に言ったそ
 の御仁が・・
  「そのことを、あなたの妻や子にまで押し付けるので
 すか?」と問われて、返事に窮したが、
  そして、ああだこうだと言ってはいたが・・最後に自
 虐的に「お花畑論理でした」と絞り出すように吐いた言
 葉が、「その実態を表わしている」。
  自分だけなら勢いよく格好良く言ってはいたが、愛す
 る人々、妻・子供・日本の方々のこと・・他の人々の命
 の話しに話が及ぶと、その無責任論理の展開が出来ない
 ことを・・ここに至って知る。
  無責任論理で「妻や子と一緒に自殺行為は出来ない」
 ということを・・やっと知る・・
  愛する妻や子にも、他の人々にも「生きる権利がある」
 ・・当然・・
  その人々を守り抜く責任もある。
  安易な非武装中立論は唱えられない・・
  「国防」と「戦争」は違うのだ。
.
1962年10月22日 、キューバ危機。
  アメリカは、キューバに、ソ連軍のミサイル基地が建
 設中であると発表した。
  そして、抗議し、その撤去を要求した。
  そして、1962年10月22日以降、アメリカは、183隻の戦
 艦と1190機の戦闘機を動員して、キューバの海上封鎖を
 実施した。
  アメリカ大統領のJ.F.ケネディは、キューバから攻撃
 があった場合には、ソ連によるものとみなして報復する
 とした。
  アメリカの海上封鎖に、ソ連が譲歩してミサイルを撤
 去し、衝突は回避された。
  第三次世界大戦の直前だった。
  これまでの経緯・・、
  1959年1月、キューバに、カストロの革命政府が成立し
   た・・そして・・アメリカは、
  1961年1月に、キューバ、アメリカ両国は断交した。
  1961年4月、ケネディ政権は、反カストロ分子のキュー
   バ侵攻を援助したが、これに失敗した(ピッグス湾事
   件)。
  1962年1月、米州機構からのキューバを除名し、食糧・
   医薬品以外の全面禁輸などにより、政治的・経済的
   なキューバの孤立化をはかった。
.
1984年、イギリスのサッチャー首相が、EUに拠出してい
 る金が、馬鹿らしくなって、「返してくれ」と拠出金払
 い戻しを要求した。
  「不労所得の金」と、「汗水流した金」は差別せよ。
  インターネット決済の場合、その様なシステムを導入
 して、汗水流した金の価値を上げよ。
  例えば、汗水流した学生のアルバイトの金には、コン
 ビニでの買い物をした場合、2割安くする・・とか。
  逆に、ギャンブルや競馬で得た大金の場合は、2割余計
 に支払わせるとか・・と。
  ここで思いがおよぶのが、キリスト教のこと・・何し
 ろ、キリスト教は、楽して手に入れる事しか教えない。
  その極端が、困ったら隣国の富を奪え・・(キリスト
 教の)神の義があるから、その様な行為は許されるのだ・・
 と説く。
  そして、その隣国の富をとことん奪う事を教える。
  「生娘は生かしておけ」とか、「奴隷にせよ」とか、
 「○○人は男だけ殺せ」とか、「△△人は皆殺しにせよ」
 とか・・と・・こんな事ばかりが聖書に書かれている。
  この様に、自己の利益にさといキリスト教民族は、自
 民族に利益をと、なりふり構わず、他民族を殺してまで
 して、自民族の利益を得ようとする・・、
  今、EU諸国は、「自己の主権の明け渡しにつながる
 件には反対し、反発を強くしている」。
  だから、EUが、まとまる訳が無い。
  EUのどの国も、「EUへの自分たちの拠出金」を少
 なくなるようにし、また、逆に、EUの歳出において、
 「自国に、より多くの補助金が入ってくるように画策す
 ることに奔走する」。
  その様な事に、「なんだかんだと理屈を付けて右往左
 往している」。
  何ら大所高所の観点のない「キリスト教民族が利益を
 自己へ引き入れようとする様な行為となっている」。
  楽ばかりを追い求めるキリスト教。
  プレゼント話の多いキリスト教。
  貰うことが常態化した国は、「EUからの補助金は、
 すでに重要な常態化した収入源」と位置付けている。
  貰うことが当然と化している。
  グローバリズムの音頭で始まったEUなんて、何ら美
 しくもなんともない。
  補助金を当てにする、貰うのが常態化したぐうたらを、
 さらにぐうたらにしている。
  だから、EUの予算交渉は熾烈(しれつ)を極め、「
 ヨーロッパは一つ」、「皆で協力して助け合うのだ」と
 いう理念は影も形もない。
  ヨーロッパが一つになるという理念は・・、
  逆に、各国のエゴがむき出しでぶつかり合い、「その
 理念と真逆」という真実の姿をまざまざと見せつけてい
 る。
  たっぷりと補助金を貰ったギリシャは、その国民性「
 宵越しの金は持たない」の使い方を「し続けている」。
  何ら国の発展に寄与していない補助金となっている。
  EUは、「人間、生きるに大切な食料確保」に注力し
 ている。
  どこかの国の様に「天から食べ物が降って来る」かの
 ような施策は取らない(日本はまったくダメ)
  この点、EUは、しっかり農業を大切に補助し保護し
 ている。
  全歳出の45パーセントは農業に対する補助金となって
 いる。
  この大きな財源に対して、毎年、熾烈な奪い合いが演
 じられている。
  「自国以外はすべて敵」の心境となっているEU内諸
 国となっている。
  そして、その補助金に対して、国別に格差をつけて差
 別化している。
  この様にしなければならない理由は、それなりにあっ
 たのだが、これが穏便にすまない訳となっている。
  抗議の嵐が錯綜しているEUとなっている。
  各国の恨みつらみも生じている。
  かつて、資源やエネルギーを仏独が取り合って戦争ば
 かりしていた愚かな状態を乗り越えようとして出来たE
 Uで、今、補助金の取り合いという新たな抗争・争いの
 事態が起きている。
  そして、開発補助金。
  これも、EU歳出の30%を占める大きな財源で、同じ
 様に取り合う事態が演じられている。
  嘘の報告書まで作って裏切りの奪い合いとなっている。
  オリーブ畑が広がっているはずなのに岩山ばかりの地
 だとか、オリーブの木の1本もない事態とか、車が無い所
 に道路を作る話とか、羊も居ない所に牧畜補助金・・な
 どなど・・と・・、
  こんな人を欺(あざむ)く取り合いとなっている。
  美しくもなんともない。
  賄賂も蔓延している部門もあるという、また、補助金
 の獲得がなされると、「個人の獲得金」に様に思って使
 われるとか・・
  日本が、朝鮮・韓国へ、どんどん金をつぎ込んで、共
 に豊かになろうと、山野に植林し、鉄道を引き、道路を
 作り、ダムを造り、学校を作り、衛生環境を良くしよう
 と邁進し人口が3倍にするなど、こんな姿の一端も無い。
  これに頭に来たイギリスのサッチャー首相は、1984年、
 イギリスが拠出した金を返してくれと、拠出金の払い戻
 しを要求した。
  イギリスは、EU拠出金の65%を支払わないで済むよ
 うになった(毎年の免除)
.
2013年12月、日本の大学の「英語化」の動きが活発になっ
 てきた。
  「英語化」とは、大学で英語による授業を増やすこと
 のほか、外国人教員の増員、留学生の増員、事務業務の
 英語化、などなどなど・・など・・
  仮の話であるが・・今、アメリカ全土の小学校の授業
 を・・、
  ハワイ州も、そして、アラスカ州も、そのアメリカ全
 土の州の小学校の授業を・・「日本語でしなさい」とし
 たならば、
  その様にすると、「アメリカの技術力が向上する」し、
 また、「アメリカ全土の道徳心が向上する」し、「アメ
 リカが、より幸せになる」からと、
  この様な理由を挙げながら、半分、強制的に、「アメ
 リカで行なわれている英語(米語)の授業を止めさせて」、
 アメリカ全土の子供たちの、小学生の授業を変えさせた
 ら、アメリカの方たちは、どのように思うだろうか?
  「そうするメリットがあるのですから」と言われ、
 「有無を言わせず」、「小学生の授業の日本語化が行わ
 れたら」・・、
  アメリカの方たちは、どのように思うのだろうか?
  何しろ、良い所が、色々とあるのですよ・・と。
  日本語にしないのは、おかしいでしょう・・と。
  アメリカは、フィリピンで、「このような事」を、や
 った・・やらされた
  そして、日本でも、戦後、アメリカはやろうとした・・
 そして、止めた・・だが、今また、やろうとしている。
  フィリピンの方たちの言葉を取り上げ・・、
  今、フィリピンは英語化している。可哀想に・・。
  母国語教育でなければ技術は育たない。
  母国語教育で文化をはぐくみ進化しなくてはならない。
  ・・・
  グローバル化の必要性が叫ばれる中、大学の「英語化」
 が進んでいる・・が
  英語の授業を増やし、英語が母国語の教員を増やし、
 留学生を増やし、事務職員にも英語が堪能な人たちを増
 やす。
  そうしなければ世界との競争に負けると国はいう。
  そのための予算ならつけるという施策の結果、各大学
 は競うように英語化に突き進んでいる。
  だが、在米25年の佐藤匠徳・奈良先端科学技術大学
 院大学教授は「こんなことをしていると日本の競争力が
 下がる」という・・・なぜか?
  授業の英語化すると・・当然、授業の質が低下する。
  日本語の質の高い言語を使わないマイナスと・・、
  日本語という母国語レベルに遠く及ばない語彙数、語
 彙の深さ・質などが低下した授業の質が高いと言えない
 のは説明する必要はない。
  (英語という言語は質的にまったく劣っている)
  キリスト教聖職者が、現代ではまったく使われなくな
 ったラテン語を、組織から要請されて習得するのに一生
 を費やしているという人もいる・・人生を無為に、無駄
 に時間を喪失している・・という話にも通じる(時間と
 労力の無駄遣い)
  英語が話せたから「グローバルな人間だ」は、アメリ
 カのプロパガンダ・嘘話し・・、
  英語がペラペラでも・・その筋のことがわからなけれ
 ばいつまでも阿呆である。
  英語に力を入れる偏った勉強は阿呆づくりとなる。
  特に幼児期からは悲惨だ。
  グローバルなら中国語だと言う御仁も居る。
  世界一の投資家はアメリカからシンガポールに移住し、
 御子息に中国語を習わせている。
  凋落の英語を嫌った。
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2014年1月1日、中国の最新データーによる人口は、13億6072
 万人。
  人口調査するごとに人口が増える中国。
  最近では、「一人っ子政策の強制」によって、生まれ
 た子を届け出ないで隠し、その子が、調査で新たに見つ
 かり登録される。
  中国は、これを、頭をかかえないで、この人口を領土
 拡張に使っている。
  チベットへ行かせ、チベットの地は、とうとう漢民族
 が、一番多いという場所になってしまった。
  民主主義の世の中、住民の意思が尊重される、その住
 民の意思が、何をやっても「漢民族の意思」となった。
  チベットの地は、当然、チベットの地ではなくなって
 行く。
  そして、チベット民族への圧迫も行なわれていて、チ
 ベット民族が拡散され、追い出されることが、同時に行
 われて、チベットは、ますます漢民族の地となってしま
 った。
  日本へ難民となって来ている方が嘆き、本を出されて
 いる。
  中国は、こんなことを、「内モンゴル」でもやってい
 る。
  「ウィグル自治区」でもやっている。
  これらの地の名前は、近いうちに、漢民族の州の名が、
 「漢民族の州だ」として名付けられるだろう。
  チベット・モンゴル・ウィグルは消えるだろう。
  かつて、満州族の多くいた地、日本が満州国の建国を
 助けて差し上げたが、今は、そこに満州族は居ない。
  殺されたのか? 追い出されたのか?
  文化大革命時には、想像できないくらいの自国民を中
 国は殺した・・中国は、この様なことが何度も起きると
 いう国なのだ。
  何かが起きたのだ・・そうでなければ、この様な極端
 な変化は起きない訳だ。
  そして、この様な行為が、中国国内だけではなくなっ
 ている。
  オーストラリアの牧草地が、ドンドン中国人に買われ、
 今、中国人オーナーの牧場が多くなっている。
  その中国人オーナーが、オーストラリア人を雇うとい
 う逆転現象が起きている。
  金のある中国が、今、問題になっている。
  金を貸したギリシャが、その金の返済ができなくなっ
 たら、ギリシャの港を中国の軍艦が寄港できる形にして
 しまうという、金の力で、軍事的影響力の拡大を行なっ
 た。
  こんなことは、スリランカでも行っている。
  また、中国の狙いは、尖閣諸島だけではなく、この様
 な土地買い上げが、沖縄でも行われている。
  そしてまた、北海道の安い土地が、中国によって買い
 占められている。
  土地を現金化して大都市へ出たいという日本人の地主
 から買い上げている。
  かつて、バブルの頃、日本の東京の土地の値段で、ア
 メリカ全土が買い占められると言われた。
  金さえあれば何でもできると、今、中国は、その行動
 をしている。
  だから、今、北海道の「すすきの(薄野)」は、中国
 に乗っ取られたという。
  また、札幌に中華街の中国人町を造る計画が進行中と
 いう。
  日本の公的機関がそこへ地下鉄を通すという手伝いを
 しているという。
  今、中華街の某中国人の店に、毛沢東の肖像画が飾ら
 れていることの異様さや、異常さを不気味に感じている。
  また、何故か? 中国人のラーメン屋には、どこも、
 中国寄りの記事を書く朝日新聞が置いてある。
  この様な気になることが増えている。
.
2017年、サイバー攻撃に長(た)けた中国
  サイバー攻撃とは、コンピューターネットワーク上で、
 特定の国家、企業、団体、個人に対して行われるクラッ
 キング行為で、政治的、社会的理由に基づき、社会に混
 乱をもたらしたり、国家の安全保障を脅かしたりするこ
 とを目的とする破壊活動。
   そして、通信などのネットワークに侵入し、壊したり
 データを盗んだりし、市民生活や企業、政府、軍の活動
 に被害を与え・・、
  アメリカは、企業情報を中国が盗み、大統領選にロシ
 アが介入したと指摘した。
  しかし、アメリカのネット侵入による情報収集も、オ
 バマ政権時に発覚したりした。
  そしてさらに、データーを盗むだけではなく、相手を
 混乱させる目的からデーター改ざんなどもされている。
  このインターネット工作で、中国は、アメリカの最新
 鋭の『核弾頭技術』の情報を得た、集めていた。
.
2018年、アメリカは、現実的な使用可能な小型原爆で抑止
 力を向上させる必要がある・・とし・・、
  また、アメリカは、先制攻撃もあり得るとした。
  (参考)先制攻撃:先に攻撃すること、
  これを、別な表現をすれば・・
  今・現代、当然、日々、技術は進歩をしている・・、
  第二次世界大戦時に生まれた原子爆弾の威力も「格段
 に強力に、より大きくなっている・・
  原爆が生まれた直後の頃は、広島・長崎の都市が蒸発
 する爆発威力であったが・・、
  今・現代は、1発の原爆で、東京都・神奈川県・埼玉
 県・千葉県が蒸発する威力となっている。
  または、「日本は3発の核爆弾で蒸発する」とも言わ
 れている。
  アメリカは、この様な核爆弾を、広島・長崎投下型の
 核爆弾にする・・と・・、
  若しくは、さらに使いやすい小型爆弾を持つ方向に行
 く・・とした。
  そして、日本の防衛(国防)の考え方が、国会で議論
 されているが・・、政府は次の考え方を示した。
  日本の防衛(国防)は、日本国憲法に則(のっと)り
 実施されなければならないのは当然であり・・、
  その防衛姿勢を具体的に言えば、相手の武力攻撃があ
 った後に、防衛力発動を行なうという事となる。
  (憲法の攻撃武力の行使抑制でこの形になる)
  しかし、攻撃を受けたからと言って、最小限での防衛
 力発動となる。
  そして、その対応に於いて、日本は防衛のための武器
 だけの姿勢に留める。
  この様に大変厳しい防衛戦略となっている(憲法によ
 る抑制のために・・)
  例えば1例、ミサイル攻撃を受けた日本は、『1発目は、
 その攻撃を甘受しなければならない』。
  憲法に則って防衛を実施する形と言えば、この様な形
 となる・・と・・日本政府は示した。
  この占守防衛の形は、日本政府の一貫した形として来
 た・・これは、今後も変更せず堅持すると・・(以上)
  誰もが、楽しく、幸せな毎日を過ごして見過ごして来
 た日本の防衛・・しかし・・、
  その日常の平和・幸福を突き詰めて行くと、この様な
 形の上に立脚している・・砂上の楼閣なのだ・・
  1発目は甘受する・・つまり、関東平野の諸県や都が
 蒸発してから、防衛に動き出すということだ・・、
  もしくは、攻撃兵器の種類によっては、日本の3分の
 1が蒸発してから、防衛出動するというのである・・
  今の憲法では、その様にしかできないと言うのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)577E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年3月)

2018-02-06 05:03:15 | 日記
題:(増補版)577E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年3月4日、グロバー・クリーブランドが第24代米大統
 領に就任した(第2期)
  恐慌と共に大統領になったような民主党の大統領であ
 ったが、恐慌から抜け出すことが出来なかった。
  労働者のストライキが頻発した。
  シカゴのプルマン寝台車会社のストライキは大規模と
 なり、アメリカ鉄道組合も同調し、ストライキは24州
 におよぶ大ストライキへと発展した・・
  グリーブランドは、連邦正規軍を出動させ、指導者を
 投獄の要求をし、ストライキはやっと収まった・・
  しかし、全米労働者の憤懣は最高潮に達した・・
  そして、内政の数々は失敗し、民主党は壊滅した。
  この二期目の彼の政治を、評論家は・・、
  「想像力がほとんど無く、国の経済的災害に圧倒され
 た大統領だ」と批判した。
  彼の一期目の政治は、先住民のインディアンから借り
 受けていた牧草地の契約を無効にした・・そして、放牧
 業者、および、インディアンの方々の双方の生活を苦し
 める様な政治をした。
  ただ、外交政策で良いことをした。
  実業界の利益追求から仕組まれたハワイ併合問題を認
 めなかった・・アメリカのペテン政策に正直に反対した。
1893年3月9日、朝鮮政府が、防穀令による日本側の損害を
 4万円余りと報告した。
  因みに、1891年12月、朝鮮政府に対して14万7000円の
 損害賠償の請求を行なっていた。
  1897年4月、11万円の賠償と公使召喚で妥結した。
1893年3月10日、象牙海岸地域がフランスの植民地となる。
  貿易商品が象牙であったことに由来して命名されたコ
 ートジボワールとガーナの沿岸部のこの地を、
  ヨーロッパ列強諸国はアフリカ大陸分割に乗り出し・・
 フランスはサハラ砂漠の北側(アルジェリア、モロッコ、
 チュニジア)だけでなく、サハラの南側(ニジェール、
 セネガル、マリ、トーゴ、コートジボアールなど)の広
 大なアフリカ地域を植民地にして行った。
  1843年に、フランスが、この象牙海岸の沿岸のアシニ
 などの諸首長と保護領条約を締結を経て・・
  1893年、フランスが植民地とし、フランス領植民地コ
 ートジボワールが誕生して65年間の植民地が始まる。
  公用語をフランス語にする。
  因みに、コートジボワールは、フランス語で「象牙海
 岸」という意味であるが、1985年に、国際機関がフラン
 ス語の国名を意訳しない様に求める決議を行なったので、
 『国名』を言う時は「コートジボワール」と言わねばな
 らない。
  そして、1960年になって、やっと、コーヒー・ココア
 農民組合を基盤にした、独立運動を主導したウフェボア
 ニが中心になり、フランスから独立を勝ち取ることがで
 きた。
1893年3月16日、鉄道庁長官に、松本荘一郎が就任した(井
 上勝依願免官)
  松本荘一郎は、播磨国(兵庫県)生まれ、大垣藩(岐
 阜県)藩士の推薦を受け同藩に出仕した。
  大学南校に入り、1870年、アメリカ留学して土木工学
 を学ぶ。
  1876年、帰国し、東京府御用係となり、そして、開拓
 使御用係、工部権大技長、
  鉄道庁に入り、鉄道庁長官となり、全国の鉄道敷設に
 貢献する。
  1898年に、帝国鉄道協会を設立している。
1893年3月17日、川越大火が発生し、1,302戸が消失した。
  20時15分頃、埼玉県入間郡川越町(現・川越市)で発
 生、旧城下の養寿院門前から火災発生の一報で半鐘が鳴
 り、町の消防22組が総出で消火作業に当たったが、
  北からの強風・連日の晴天続きによる空気の乾燥・消
 火用井戸水の使い果たしなどから火勢は土蔵の間を縫い
 短時間で南町・本町・多賀町・江戸町・上松江町・連雀
 町・鍛治町・相生町・志義町・久保町・鉄砲町・北久保
 町・南久保町・東明寺相生町・高澤町・猪鼻町に拡がり
 計17町を焼失。翌18日8時に鎮火した。
  当時の町域の3分の1に相当する1,302戸を焼失した。
  当地は、埼玉県で最も栄華を誇った商人の街だが、火
 の回りが速く、家財道具を持ち出せず全財産を失った者
 も出た。
  死者・負傷者は出なかった。
  罹災者1,014人は、光西寺や栄林寺などの寺院や川越学
 校などに設けられた11ヵ所の救助所に収容された。
  地元商人たちも、次々、金品を寄贈し、また、当地に
 縁の深い渋沢栄一らの義援金・現金・米・醤油などの生
 活物資に至るまでの救援もあり、
  商人たちは、耐火性に優れた蔵造りを、東京から職人
 を招いて再建に当った。
  大火後、2年から3年で、200棟を上回る蔵造りが建設さ
 れるという早さだった・・団結・協力・助け合いの強さ
 だった。
1893年3月20日、郡司成忠海軍大尉らの63人が、千島探検に
 出発した。
  郡司成忠(ぐんじしげただ)海軍大尉は幸田露伴の兄
 で・・、
  1875年、千島樺太交換条約の締結後、ロシアに対する
 脅威から北方の警備・防衛、千島開拓の必要を感じ、志
 を抱いた。
  海軍大尉まで進んだが、自らの志の実現のために、1893
 年に予備役となった・・そして、報効義会を組織し・・、
  1893年3月20日、35人が、ボートに分乗して東京を出発。
  19人は青森県鮫沖で死亡するが・・、
  16人が占守 (シュムシュ) 島に上陸、探検し、
  越年中に10人が死亡。
   その間、拓殖方法などを研究調査・・そして・・
  1896年、60人余りの同志を募り、家族とともに占守島
 に移住した。
  そして、部下と開発にあたって、農業、漁業の開発・
 開拓に成功した。
  日露戦争の開戦後に、カムチャッカへの進撃を行なっ
 た。
  しかし、失敗し、捕らえられ捕虜となる・・が、脱出
 を行なった。
  そして、海事・国防思想の普及や、北辺の警備・防衛
 思想の重要性を説いた。
  因みに、占守島は千島列島北東端の島で、日本の領土
 である。
  少なくとも、サンフランシスコ条約締結以来、領有権
 の帰属は未確定で、ロシアの実効支配下の島と言える。
  この占守島は、第二次世界大戦の終結後の1945年8月18
 日に、ソ連が不法にも、この占守島に卑劣にも攻撃を仕
 掛けて来た。
  そして、占守島の戦いが起き、8月21日まで続いた。
  終戦後であったが、優秀な日本軍は応戦し撃滅した。
  しかし、終戦後であったため、日本軍は武器を置いた。
  この根拠ない戦闘を仕掛けられた優秀な日本兵たちは、
 決して戦いに敗けてはいなかったが、法的根拠のない状
 態で(拉致状態で)シベリアへ連れて行かれた。
1893年3月26日、北海道炭砿鉄道の手宮~桟橋間が開通した。
  北海道炭砿鉄道は、単なる鉄道会社ではなかった。
  創立時は、室蘭~空知太間、および、夕張・空知の両
 炭鉱支線の鉄道を敷設し、
  あわせて、幌内・幾春別鉄道の払下げを受けて、鉄道
 業を営む鉄道会社でありながら、
  同時に、幌内炭鉱の払い下げを受け、幾春別・空知・
 夕張などの諸炭山から石炭を採掘し、石炭の輸送・販売
 を行なう石炭業を兼営した。
  その後、回漕業、骸炭(がいたん、コークスのこと)
 製造業、山林業などを兼営する。
  そして、1906年以降は、製鉄業、電灯業、煉瓦業、製
 材業を兼営し、
  1907年には、日英共同事業として日本製鋼所を設立す
 る。
  しかし、日露戦争後に経営危機に陥り・・
  1913年に、三井財閥の傘下に吸収された。
1893年3月29日、目黒火薬製造所・白金火薬庫が、海軍省か
 ら陸軍省(東京陸軍砲兵工廠)へ移管された。
  そして、軍用火薬や、坑山用火薬の製造及び貯蔵を行
 う。
  1893年度は、12万kgでしかなかった火薬製造量は、順
 次、設備の拡充に努めた結果、1897年度には、55万kgに
 達した。
  1923年、関東大震災で被災したため、群馬の岩鼻(高崎
 市)に施設を移転した。
  ここは、1878年、海軍の火薬製造所として建設が進め
 られ、1885年に完成していた。
1893年3月29日、三重県松坂市が大火となる。
  町の約半数に当たる1500戸余りが焼失した。
  午後7時頃、魚町二丁目あたりから出火、折からの烈風
 にあおられ、中町の松阪警察署に移り、伊勢(参宮)街
 道沿いの家並など、町の中心部のことごとくに延焼し、
 中町から愛宕町一帯が焼失した。
  翌3月30日の午後3時頃まで燃え続けた。
  罹災戸数:1318戸、罹災人員:4152人
  県庁から白米を送るなど、県内外から多くの義捐金や
 救助米が寄せられた。
  また、火災後の片付けのほか、罹災者への焚き出し、
 宿舎の提供、町内医師の無料診療・施薬、教員たちの「
 火災緊要書類調製」などが自主的に行われ、救助と復旧
 が図られた。
1893年3月、山縣有朋(やまがたありとも)が枢密院議長と
 なる(1838年~1922年)
  軍人・政治家、陸軍大将・元帥。
  1838年6月14日、長州萩藩(山口県)の蔵元付仲間とい
 う軽輩の家に生まれた。
  家庭的には恵まれず、母は5歳のときに病死し、妻:友
 子との間に3男4女をもうけたが、山県の死後も生きたの
 は次女のみであった。
  吉田松陰の松下村塾門下生として尊攘思想を学ぶ、
  1859年(21歳)藩命で、伊藤博文ら5名と京都に派遣さ
   れ、以来、尊王攘夷運動に参加した。
   この時の伊藤博文との関係が、この後に重きをなす。
  1863年(25歳)奇兵隊軍監に抜擢され、壇ノ浦支営司
   令となる。
  1864年(26歳)英米仏蘭の4国連合艦隊と交戦して負傷
   (4国艦隊下関砲撃事件)
  1868年1月(30歳)戊辰戦争に参加する。
   大村益次郎の姿を見て、この後、継いで行く・・、
  1869年(31歳)西郷従道と共に渡欧する。
   ヨーロッパ諸国の軍制を視察、この後、陸軍創設・
   徴兵令施行・軍人勅諭の発布など軍制の整備に努め
   て行く。
  1870年8月(32歳)帰国直後、兵部少輔となる。
   数日後、兵部大輔の前原一誠が辞任、そのため、実
   質上、明治維新政府軍部の最高首脳となった。
  1871年8月29日(33歳)廃藩置県の実施となる、また、
   山県の兵部大輔就任が重なった。
    直ちに、国軍の創設に着手する。
    薩摩・長州・土佐の3藩の1万の兵で、親兵を組織
   するとともに、
    東京、大阪、鎮西(小倉)、東北(仙台)の4鎮台を設
   置した。
    ヨーロッパでは数百年を要した兵権統一の大事業
   を一気に実行した。
  1872年(34歳)兵部省が廃止となり、代わって陸軍・
   海軍両省が設置され、陸軍大輔に任じられる。
  1873年(35歳)陸軍卿となる。
  1877年(39歳)2月、西南戦争、征討参軍となる。
  1878年(40歳)初代参謀本部長。
   参謀本部、監軍本部を設置し、統帥権の独立(参謀本
   部を陸軍省から独立させ)を進め、
    軍政(軍備・人事・予算など軍事に関する行政)と、
   軍令(統帥)の区別を明らかにした。
  1878年(40歳)「軍人訓誡」
  1882年(44歳)「軍人勅諭」を発布。
  1885年(47歳)初代内相。地方制度を整備する。
    第1次伊藤博文内閣で、はじめて軍務外の内務大臣
   に就任した。
    黒田清隆内閣でも引き続き内相を務める。
  1887年(49歳)官僚制度の出発点となる文官試験制度
   を施行した。
    国のエリートが国の組織に加わりやすくした。
  1888年(50歳)市町村制を公布(翌年施行)した。
    内務卿になるまで、陸軍卿(初代)、近衛都督、西
   南戦争(1877年)における征討軍参謀、参謀本部長な
   ど陸軍の枢要ポストを歴任した。
  1889年(51歳)12月~1891年5月、組閣(第1次山県内
   閣)
  1890年(52歳)この年まで内相を兼ね、全国を包括す
   る警察制度の実現にも努めた(1900年3月治安警察法
   公布)。
  1890年(52歳)陸軍大将
  1891年(53歳)元勲礼遇
  1892年(54歳)第2次伊藤内閣の司法大臣
   伊藤博文と共に明治政府の指導的立場となる。
   内務卿・枢密院議長・総理大臣等を歴任して行く。
  1893年(55歳)枢密院議長
  1894年(56歳)~1895年、日清戦争、第1軍司令官
  1898年(60歳)~1900年9月、組閣、再び首相に・・、
   以後、元帥に、そして、元老格として陸軍、政界、
   官界、警察に、そして、内政、外交のお目付け役と
   なる。
  1898年(60歳)元帥
  1900年(62歳)5月、軍部大臣現役武官制を設ける。
  1904年(66歳)~1905年、日露戦争、参謀総長兼兵站
   総監
    両戦争後に戦史編纂。
  1909年(71歳)朝鮮での伊藤博文暗殺。
    軍および政界を支えた。
    大正期(1911年)になると制肘力は衰え・・、
  1921年(83歳)宮中某重大事件で、山県が主張する婚
   約解消論が敗れると、小田原の古稀庵に閉じこもり、
   第一線を退く・・、
  1922年2月1日(85歳)死去。
.
  (今日の言葉)
.
  題:近代の先頭を走るアメリカで、グローバル化の矛盾が
   限界に達している。
    グローバル化によって激しい歪みがある今、民主主義や
   資本主義が、レールを踏み外している。
    日本も、対岸の火事ではなく、経済格差や移民に伴う問題が
   必ず、何らかの形で噴出する。
.
紀元前5万年、ベーリング海峡を渡って、東ユーラシア大
 陸の人々がアメリカ大陸へ渡った。
  また、約3万年前~1万3000年前のウルム氷期の最寒期
 とされる頃に、ベーリング海峡地域は陸地化していて、
 いわゆるベーリンジアとなっていた。
  ユーラシア大陸のモンゴロイドは、このベーリング地
 峡を渡ってアメリカ大陸に進出した。
  (参考)ベーリンジア(ベーリング陸橋):現在のベ
     ーリング海峡付近に、上部洪積世の氷期に陸化
     していた陸地のこと。
      人類の新大陸への渡来の経路、および、時期
     と深くかかわりあう、その古環境とともに注目
     されていて、ベーリンジアいわれる。
      氷河形成による海水面低下により出現したも
     ので、陸橋が存在していたのは約5万年前から約
     3万5000年前までの期間と、約2万5000年前から
     約1万年前までの期間だという。
  日本には、「血は争えない」という言葉がある。
  ベーリング海峡が、まだ地続きだった頃、だから、大
 昔の大昔、日本などの東ユーラシア大陸の人々が、その
 地続きのベーリング海峡を歩いて渡って、アメリカ大陸
 へ行った。
  そして、とうとう、風の吹きすさぶパタゴニアまで、
 南アメリカ大陸の南の最南端まで行き着いた。
  だから、アメリカ大陸、北米・中米・南米、そして、
 その離島まで、その東ユーラシアの人たちで満ちた。
  北アメリカ大陸を見ても、北はアラスカなどのエスキ
 モーの方々、そして、アメリカ合衆国のアメリカ・イン
 ディアンの方々、その隣のメキシコ・インディオの方々。
  しかし、「カナダが未定となっている・・空白となっ
 ている」・・??
  何故なのだ??
  そこにも、人が居たわけだ・・東ユーラシアからの人
 が・・。
  そして・・それが・・分かった。
  最近、カナダへ旅した方の写真に、今は居ないカナダ・
 インディアンの方々の集落の写真があった。
  このカナダ・インディアンの方々の記念館もあった。
  「このカナダ・インディアンの方々は、今、存在して
 いるのですか?」との質問をした・・、
  かつてからの、以前からの疑問だったことを質問させ
 て戴いた。
  その方は、「黙って」居られた。
  その方の「その答え方」から答えは分かった。
  その方の答え方は、「そうだろう」と予想は出来てい
 た。
  やはり、「血は争えなかった」。
  隣国の富を、(キリスト教の)神の義があるからと、
 隣国の人々を殺戮してまでして「奪う事を是認する宗教」
 に洗脳されて、アメリカ合衆国と同じことをやっていた。
  カナダは、特に、「バッファロー狩り」で、食糧を奪
 う方法で、カナダ・インディアンの方々を絶滅させてい
 た。
  特に、アメリカ合衆国より寒冷の地・カナダでは、こ
 の攻撃方法は、たまらなかっただろう。
  このカナダの、特に、悲惨な事は、生き残りの方々が
 居ないことだ。
  また、完全に、その事実が覆い隠されている事だ。
  この悲惨な行為をしたという事を懺悔して、すべての
 事実を、すべての史実を、世界へ公表して、懺悔し尽く
 すべきだ!
  また、国の半分を返還して、完全絶滅させた「カナダ・
 インディアンの方々」を祈念すべきだ。
  (参考)血は争えない:この「血」は、『血統』(先
     祖から代々受け継がれてきた血のつながり、血
     すじ)を意味する。
      そこから、血=親、先祖を意味し、
      「子は、親と同じ道を歩むものが多い」とい
     うことを表している。
.
紀元前800年、ギリシャに、「民主主義が発祥した」と言う
 が・・、
  今・現代、民主主義が発祥した当時の民族とは、まっ
 たく違った民族となっている。
  その様なギリシャが、今、その様なことを言えるのだ
 ろうか?
  「かつて、民主主義を発祥させたギリシャに住んだ『
 かつてのギリシャ民族』とは違う・・今・現代のギリシ
 ャ人」とは言える。
  だから、それを言うなら、但し書きを付けて言わねば
 ならない。
  日本だって、今の様な移民政策をしていたら、この素
 晴らしい遺伝子を持つ日本民族とは違う日本民族となる
 であろう。
  素晴らしい素質と業績を持つ今の日本人は、消えて無
 くなってしまっているだろう。
  ギリシャは、紀元前800年に、民主主義を発祥させたが、
  紀元前2世紀に、ローマ帝国に組み込まれ、国柄ががら
 りと変わった・・風土もがらりと変わった。
  また、15世紀には、オスマン帝国に駆逐された。
  1829年に、ギリシャは、2600年間以上もの空白の期間
 を経て、やっと、ギリシャという国としての再興がなさ
 れた。
  ・・が、しかし、かつての、アテネはないと言って良
 い状態となっていた。
  荒れ果てて、人口もほとんど居なくなっていた。
  ほんのわずかな数・・4千人程度を数える程度だった。
  そして、この時、ギリシャ人ではなく、ドイツ王子が
 ギリシャ王となった。
  この様な歴史のギリシャには、スラブ民族が流入した。
  そして、アラブ民族が流入した。
  そして、さらに、ラテン民族が流入した。
  色々な民族が流入して、移民と言えば移民かもしれな
 いが、まったく栄光のギリシャは、何処に引き継がれた
 のか?と問えば、探しても見つからない様な状態となっ
 ていた。
  陸続きであって、民族の単一性が保たれたなんて、完
 全に言えない状態となっている。
  ギリシャの地域に居る古代とまったく違った「ギリシ
 ャ人と名のる人々」となった。
  日本もこの様になるのだろうか?
  アメリカだって、すでに、「ピルグリム・ファーザー
 ズの人々」とは、まったく違った人々が、国民となって
 しまっている。
  (参考)ピルグリム・ファーザーズ:アメリカに渡っ
     たイギリスのピューリタン(清教徒)たち。
.
16世紀~18世紀、フランスは、アンシャン=レジームの社
 会・政治体制だった。
  国民は、三つの身分に大別されていた。
  第一身分がキリスト教聖職者で、この層が最上位で虐
 げていた。
  そして、第二身分が貴族、第三身分に市民や農民が居
 た。
  キリスト教聖職者は免税特権を持っていた。
  この状態を風刺した絵が残っているが、「市民の上に
 石を乗せて押しつぶし、その石の上にキリスト教聖職者
 と貴族が乗っている」。
  社会のうまい汁を吸うキリスト教聖職者と貴族を糾弾
 している。
  市民や農民は、手足をばたつかせて喘(あえ)ぐ社会
 だった。
  アンシャン=レジーム・・旧体制。
  この圧迫がフランス革命の素地(そじ、もととなるも
 の)・・
.
17世紀後半~18世紀初頭、元禄文化
  日本の社会も安定し、農村における商品作物の発展と、
 それを基盤として都市町人の豊かなる台頭による産業の
 発展があり、経済活動が活発化していた。
  その様な社会の中で、文芸、学問、芸術が著しく発展
 した。
  庶民の生活・心情・思想などが、出版物や劇場を通じ
 て表現されていた。
  小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左
 衛門、絵画の尾形光琳や菱川師宣、工芸の尾形乾山、儒
 学の貝原益軒や新井白石、古学の山鹿素行や荻生徂徠、
 国学の賀茂真淵などは、日本の歴史上、凛然と輝く存在
 となっている。
  日本の施政者は、国民が豊かに安心して暮らせれば、
 国全体が栄えるという事を知っていた。
  また、天皇陛下の御役目は、国民が平和に暮らせるよ
 うにと祈る事だった。
  日本人は、古来より「殿様も農民も、一つの船に乗り
 込む」という人たちだった。
  日本には、古来より自然発生的な民主主義があり、何
 もヨーロッパに教えられたというものではなかった。
  この様な日本、この様な徳川の治世、古い昔からの日
 本の状態を、ヨーロッパからみれば「まったく信じられ
 ない」と感嘆の声を上げるに違いない。
  日本は平和で豊かな国だった。
  ヨーロッパのフランス革命のような、虐(しいた)げ
 られる農民の方々が、特権階級の貴族やキリスト教会に
 対して、武力によって革命を起こしたのとは、まったく
 違っている社会だった。
  ヨーロッパは、上の者が下の者を徹底的に蔑(さげす)
 み、下の者が上の者を徹底的に恨(うら)み憎(にく)
 む構造だった。
  革命では、長年(ながねん)鬱積(うっせき)したそ
 の憎しみからギロチンの嵐となった。
  日本は、何千年も持っていた「同じ船に乗っている」
 という感覚の社会だった。
.
17世紀末、ロシアが、カムチャッカ半島まで来た。
  ロシアは、生活することが難しいこの地・極寒の地で、
 生活する食糧などの生活必需品を求め、1792年に、ロシ
 アの最初の使節であるラックスマンが、日本へ派遣され、
 江戸幕府に通商を求めた。
  江戸幕府は、これを拒絶した。
  すると、ロシアは、日本人が居住して日本領となって
 いる樺太(サハリン)や、択捉島(エトロフ島)の日本
 の拠点を襲撃した。
  幕府は、松前藩に、北海道東部(東蝦夷)も管轄地(
 直轄地)として与え、ロシアに備えさせる国防任務をさ
 せた。
.
1786年、最上徳内が、日本の領土である国後島・択捉島を
 探検した。
  また、その北の得撫島(うるっぷとう)も探検し、日
 本の領土と主張し得る足跡を残した(~1799年)
  日本固有の領土の北方4島と得撫島が、この時、確定
 された。
.
1789年7月14日、フランス革命
  この日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機として、フラ
 ンス全土に騒乱が発生した。
  このフランス革命で60万人もの方々が命を落とした。
  圧迫される民衆が、止むに止まれず起こしたフランス
 革命のバスティーユ襲撃。
  (参考)止むに止まれぬ:やめようとしても、やめら
     れない。そうするよりほかない。
  フランス革命が起きる前の社会情勢は『卑劣な最悪社
 会』だった。
  特に、権力を得たキリスト教聖職者が民衆を圧迫して
 いた。
  市民革命のフランス革命は、起きるべくして起きたの
 だった。
  農産物の不作もあって物価は高騰し、庶民の不満は頂
 点に達していた。
  1789年10月5日、パリの数千の女性方が武器を持って雨
 の中を、パリ市役所前の広場に集まった。
  そして、ヴェルサイユ宮殿に乱入し、国王と議会に、
 食糧を要求した。
  一部は暴徒と化し、ルイ16世は、この圧力により人権
 宣言を承認して、女性たちに連れられてパリのテュイル
 リー宮殿に家族と共に移り住んだ。
  ルイ16世一家は、これ以降、パリ市民に監視下で暮ら
 した。
  この様な市民の爆発が起きる原因、その圧迫の原因者
 は、貴族とキリスト教聖職者にあった。
  特に、キリスト教聖職者は悪辣だった。
  革命勃発以後、キリスト教聖職者などの特権階級の多
 くが、国外逃亡をしなければならないくらいだった。
  特に、1792年5月~1794年10月まで、キリスト教は徹底
 的に攻撃された(キリスト教は弾圧と称しているが?)。
  また、革命勃発以来、キリスト教聖職者の追放と、キ
 リスト教会への憤懣が爆発し、破壊と略奪が続いた。
  この様な状態を引き起こしたキリスト教は、それまで、
 権力と金を欲しがって行動していた。
  信徒を増やしたり、信徒が欲しいなんて全く関係ない
 という状態だった。
  権力のあるものにすり寄り、自らも権力を得て行った。
  そして、世俗の王を越える地位さえ得た。
  「キリスト教の教会前の門にヒザまづいて許しを乞う
 王さえいた・・カノッサの屈辱(1077年1月)』
  キリスト教聖職者は、民衆の搾取に関して、貴族に決
 して劣らず悪辣だった。
  生活も王侯貴族並みの贅沢三昧な生活をしていた。
  また、愛人も王侯貴族なみの数の愛人を囲っていた。
  キリスト教に偏するNHKは、決してこの様な放送は
 しない・・日本を貶める放送ばかりをするNHKとなっ
 ている。
  キリスト教は、納税の義務からも逃れていた。
  しかし、逆に、民衆からは、苛酷に税金を奪い獲った。
  18世紀後半、フランス革命の前の頃、キリスト教聖職
 者は、莫大な教会税を民衆に課していた。
  民衆は8割が農民だった。
  この農民が、貴族とキリスト教会を支えていた。
  民衆は、重い年貢の他に、地代、塩税、人頭税、賦役
 労働、水車使用料・竈(かまど)使用料などを支払わさ
 れた。
  裁判権も奪われ(キリスト教裁判所)好き勝手、やり
 たい放題に虐げていた。
、 フランス革命は、起きるべくして起きた。
  民衆は爆発した・・だから、フランス革命は残虐な復
 讐劇を演じた・・公開のギロチン刑の嵐が現出した。
  その後も、反乱が起き、恐怖政治が起き、大量殺戮が
 起き、キリスト教と貴族の圧迫の反動は「まったく卑劣
 な状況」となった。
.
18世紀後半、イギリスで綿糸をつくる紡績機や、綿糸で布
 を織る綿織物の分野で、早く大量に製品を製造できる機
 械が次々と発明された。
  また、石炭を燃料とする蒸気機関も改良され、紡績機
 や織機などの動力として用いられるようになった。
  人々は大きな工場に集められ、集団で働くようになっ
 た。
  生産量は飛躍的に増大した。
  人々も、かつての毛織物に代わって、インド産の木綿
 を原料にした綿織物の衣服を着た。
  かつては田園だった所に、黒い煙を吐き出す工場が立
 ち並ぶという都市が出現した。
  鉄道も発達し、工業を中心とする社会に変化して行っ
 た。
  19世紀半ばには、約50年遅れて、この生産システムが、
 フランス、ドイツ、アメリカに広がった。
.
1808年、間宮林蔵が、樺太全土をほとんど探検し、間宮海
 峡を渡って、大陸のアムール川流域まで探検した(~1809
 年)
  アングロ・サクソン風に言えば、樺太全土は日本の領
 土である。
  また、アムール川流域も日本の領土である。
.
19世紀末、李氏朝鮮(りしちょうせん)は1392年から1910
 年にかけて朝鮮半島に存在し、朝鮮王朝、朝鮮封建王朝
 と呼ばれた。
  1392年、高麗の武将・李成桂太祖(女真族と言われる)
 が恭譲王を廃して、自らが高麗王に即位した事で成立し
 た。
  朝鮮という国号は李成桂が、明の皇帝から下賜された。
  そして、1401年、明から冊封を受けた。
  17世紀以降、中国王朝が清に変わっても、引き続き冊
 封されていた。
  李氏朝鮮は貧しく、特に、末期の朝鮮半島は、大変貧
 しく、どうしようもない国だった。
  宗主国の清国と、ロシアと日本の間を右往左往した。
  そして、結局、日本に併合を求めて来た。
  改革開明派は、特に強く日本に期待し、求めた。
  日本は、国際条約に基づき、保護国として併合を行な
 った。
  国際社会は、至極当然のようにして何も言わなかった。
  アメリカやイギリスの様に武力によって併合したので
 はない。
  また、日本は、アメリカやイギリスの様な収奪はしな
 かった。
  資本を投下して、インフラの整備をして行った。
  また、あらゆる面の改善を行なった・・その結果、衛
 生環境も見違えるほど向上し、朝鮮半島の人口は『3倍
 になった』。
  また、捨てられ、忘れ去られていたハングル文字を復
 活させた・・また、普及させた・・
  今、ハングルが、韓国で便利に使われているのは、こ
 の時の日本の改善のお蔭。
  学校教育も充実させた・・学校をどんどん作った。
  朝鮮半島は、中国の宗主国の習慣におもねってハング
 ル文字を忌避し、漢字を使っていたが、日本がハングル
 を使いやすく合理的だと復活させた。
  清の冊封体制へのごま摺り体質を変えた。
  アメリカは、可哀想に、フィリピンを強引に異国の言
 葉・英語化したが・・、
  日本は、納得の上で、韓国・朝鮮に存在したもので、
 この様に改善した、今、韓国は、そのハングルが無けれ
 ばやっていけない社会となった。
  これは福沢諭吉の卓見だった・・
  諭吉のハングルと漢字の「漢字かな混じり」は優れた
 提案だった。
  この効果があり、朝鮮半島の教育は、急速に普及した。
  識字率は飛躍的に高くなった。
  近代化への路も急速に進んだ。
  この様な事を知っている東南アジアの国々は、韓国と
 違って、日本に本当に『期待した』。
  正しい行為は理解されている。
  この様な日本の『自立した独立国家としての形』を待
 望している。
  正しい日本の行為は、今、日本の財産となっている。
.
2016年、放送大学は嘘を教える。
  この様な講座なら聞かない方が良い。
  例えば1例、アメリカ合衆国のバッファローは乱獲され
 て絶滅寸前まで行ったと教えたが、これは嘘。
  正しくない。
  正しくは、先住民の方たちの絶滅を計画して、この目
 的のために、インディアンの方たちが食糧としていたバ
 ッファローを狩り続けた。
  その目的だけの為に、ひたすらバッファロー(アメリ
 カ野牛)を殺した。
  アメリカ・インディアンの方たちが、自分たちの生き
 る糧だから、大切に狩りをして来た大切なバッファロー
 を、無意味に、ただアメリカ・インディアンの方たちを
 絶滅させたいと、アメリカはバッファロー狩りをした。
  その写真が残っている。
  バッファローが無意味に大量に殺され、アメリカ西部
 の野原に山と無残に積まれている・・という写真がある。
  そして、そのバッファローの山の上に、アメリカ人(
 白人)が誇らしげに立っている。
  しかし、放送大学はこの事にまったく触れない。
  真実を放送しない。
  わざわざ日本国民の電波を使って「嘘講義をしている」。
  誤認混同を起こす嘘講義をやっている。
.
2018年、もはやEUという国は、いや、EUという地域は、
 国境線の内に閉じこもる地域と化した・・国々と化した。
  EUは、理想を掲げたが、どこかで道を誤った。
  今は、広がったEUの国境線の内に閉じこもる「理念
 とはまるで違った国・加盟国らの姿になった」。
  グローバリズムは終わった。
.
2018年、日本に来て、日本の国籍をとっても、日本に来る
 前の国の国柄を持っていて、前に居たた国の国柄を壊し
 たくないと、前の国の国柄を愛し、失いたくないとして
 いる、日本の国籍を取った日本人たち。
  日本の国柄を壊す、日本に来たこの人たち。
  韓国や中国から来た人に、この様な状態になっている
 人が多く居る。
  特に、最近、不気味なのは、日本人の様な顔をして、
 積極的に日本を壊す行動・実力行使をしていること。
.
2018年1月22日、「グローバル化にきしむ米国」と、この日
 の読売新聞は掲載している・・、
  「破綻するアメリカ」の著者・会田弘継氏(大学教授)
 が発言している。
  今、アメリカの中間層は、絶望感と疎外感を抱いてい
 るという。
  一部の富裕層のみの所得の伸びとなっている経済で、
 中間層は、置いてきぼりというより、貧困層に次々と脱
 落している・・と・・、
  そして、この層は、グローバリズムの要請である多文
 化主義などが「押し付けられている」と反発を感じてい
 る・・と・・、
  そして、グローバル化が、先進国の中間層以下を根源
 的に苦しめる構造になっている・・と・・、
  そして、これが、もはや一国では解きがたい難問とな
 っている・・と・・、
  近代の先頭を走るアメリカで、グローバル化の矛盾が
 限界に達している・・と・・、
  国家や民主主義を動かしてきた近代の制度が崩れ、バ
 ラバラとなる遠心力が働いていて、違いばかりが強調さ
 れている・・と・・、
  深い構造的な変化が起きて、巨大な精神的破綻が起き
 つつある・・と・・、
  グローバル化によって激しい歪みがある今、民主主義
 や資本主義が、レールを踏み外している・・と・・、
  日本も、対岸の火事ではなく、経済格差や移民に伴う
 問題が必ず、何らかの形で噴出する・・と・・、
  所得の分布割合などを見れば、日本もすでに、20世紀
 前半(後退した)水準に近づきつつあり、庶民の怒りが
 暴動(日比谷焼き打ち事件の様な)に転化しうる可能性
 は十分にある・・と・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)576E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年2月~1893年3月)

2018-02-01 03:28:41 | 日記
題:(増補版)576E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年2月~1893年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年2月3日、日比谷練兵場跡地を日比谷公園とする旨、
 東京市が告示した(1903年に開園)
1893年2月5日、大村益次郎の銅像の除幕式が、靖國神社で
 行われた。
  日本初の西洋式銅像の序幕だった。
1893年2月6日、鉄道会議が、北越線の直江津~新潟~新発
 田間、
  山陰山陽連絡線の姫路~鳥取~境間、
  舞鶴線の京都~舞鶴間、
  和歌山線の高田~五条~和歌山間、
  中央線の八王子~諏訪~西筑摩郡経由名古屋間の線路
 を答申した。
1893年2月9日、パナマ運河疑獄で、フェルディナン・ド・
 レセップスらが有罪判決を受けた。
  F・レセップスはスエズ運河の成功で、国民的英雄だ
 った。
  このF・レセップスが、1880年に創設したパナマ運河
 会社は、パナマ運河建設に着手したが、設計上の誤りや、
 黄熱病や、雨期の氾濫などのために、工事が進まず、ま
 た、経理が乱脈であったため、数年後に資金が欠乏した。
  F・レセップスは、富籤(とみくじ)を認める新法律を
 制定することを政府筋に要望し、議会は、1888年6月に、
 この法律案を可決した。
  しかし、翌年・1889年2月、この会社は、多数の小株主
 の金を吸上げたまま行きづまり、破産した。
  これを隠そうとして、新聞や議会を買収、6億フランの
 社債を募集する立法を通過させた。
  しかし、1892年の秋、右翼の反ユダヤ人主義新聞『自
 由言論』によって、ユダヤ人の金融資本家 J.レイナック
 らが、パナマ会社と政府、大新聞の間に入って総額500万
 フランを贈賄したことが暴露された。
  贈賄工作に直接関わったのは、財務顧問のジャック・
 ド・レーナック男爵と、コルネリウス・エルツで、
  レーナックは右派を、エルツは急進派を担当していた。
  しかし、2人の対立から、レーナックは、贈賄先リスト
 を反ユダヤの新聞『ラ・リーブル・パロール』紙に持ち
 込んで事件発覚のきっかけを作ったのだった。
  調査の結果、100名以上の議員が連座する収賄事実が判
 明した。
  翌年・1893年の公判で、前土木相と会社重役が有罪判
 決を受けたが、他の容疑者は政治的配慮から不処分とな
 った。
  レセップスは精神錯乱の末1894年に病死した。
  レイナックは死体(自殺)で発見され、
  レイナックをゆすっていたもう1人のユダヤ人銀行家
 のC.ヘルツは、イギリスに逃亡した。
  政府もこの事実を認め、大スキャンダルとなったが、
 自殺者1名と数名の実力者が有罪になっただけで、もみ消
 された。
  急進社会党の党首 G.クレマンソーまでが連座して、政
 界を退き、第三共和政は右傾化して行った。
1893年2月9日、ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」が、
 ミラノのスカラ座で初演し、大成功だった。
  原作は、シェークスピアの『ヘンリー4世』と『ウィン
 ザーの陽気な女房たち』
  内容は・・、
  放蕩(ほうとう)で大酒飲みの老騎士ファルスタッフに
 恋文を渡された二人の女性(フォード夫人とページ夫人)
 が、お互いの恋文が同じ文面であることに気付き、女性
 たちが示し合わせ、機知を働かせてファルスタッフを懲
 らしめるという物語。
  その合間には、フォードの娘ナネッタと青年紳士フェ
 ントンの恋物語もあり、最後はファルスタッフが降参し、
 ナネッタの恋も成就してめでたく幕となる。
  老騎士フォルスタッフとウィンザーの町の人々の愉快
 な人間関係を軽妙に描き、とくに、生気あふれる人物描
 写のみごとさは比類ない喜劇となっている。
1893年2月10日、 「建艦之詔勅」
  軍艦建造費をめぐり政府と議会の対立ははげしく、2月
 10日詔勅が出されるに至り、解決した。
  帝国議会が、軍備削減を可決したため、内廷費の下付
 と官吏俸給の一割納付で、軍備を拡張することが詔勅に
 よって決まった。
  (建艦費補充は、官吏の俸給の1割納付と内廷費30万円
 ずつを6年間下付による)
  衆議院、政府弾劾奏上を議決。
  伊藤首相は勅諚によってこれを回避した。
1893年2月11日、筑豊興業鉄道の直方~金田間が開通した。
1893年2月15日、線路取調委員を廃し、線路調査掛を設置し
 た。
1893年2月23日、ルドルフ・ディーゼルがディーゼル機関の
 特許を取得した。
  ルドルフ・ディーゼルは、ドイツ人(生まれはフラン
 ス・パリ)で、幼少時代をフランスで過ごすが、普仏戦
 争で、一家はフランスから退去させられた。
  一家はロンドンに移住し、ディーゼルは、母国ドイツ
 に移り工業を学ぶ道を選択した。
  1880年に、ミュンヘン工科大学を主席で卒業した。
  この後、ディーゼルは、パリに戻り、製氷工場の設計・
 建設を手がける。
  ディーゼルは、フランス語とドイツ語両方に堪能で、
 両国から技術特許を取得することができた。
  このことは、単に、仕事上の利点だけでなく、両国の
 技術を同時に学べるという利点がディーゼルにあった。
  ディーゼルは、冷凍の仕事の関係上、熱効率の向上を
 目指していた。
  この頃のエンジンは蒸気機関のみで、水を沸騰させた
 水蒸気でピストンを動かすという蒸気機関の仕組みを改
 良しようとした。
  そして、水より沸点が低いアンモニアに着目した。
  そして、アンモニアを使った蒸気機関を開発した。
  しかし、試運転で爆発事故を起こしディーゼルは重傷
 を負った。
  この事故で、ディーゼルは既存の蒸気機関の改良では
 なく、新たな動力機関を開発したいとした。
  種々、努力の結果、1893年、新たな内燃機関の論文・
 「既知の蒸気機関と内燃機関を置換する合理的熱機関の
 理論と構築」を発表した。
  そして、この年、これによって特許を取得し、ディー
 ゼルエンジンの理論的な基礎を築いた。
  彼の研究は、ドイツの企業人の後援を得て改良され、
 1900年に、パリ万博に開発された内燃機関を出展した。
1893年2月25日、大石正巳在朝鮮日本公使が、朝鮮政府に対
 して防穀令における日本商人の損害賠償を請求した。
  日韓通商章程に基づく輸出禁止令であったが、担当地
 方官の手落ちで予告期間が短く不足していた。
  この問題は紛糾し、日本商人は、14万7000円の損害要
 求を出した。
  伊藤博文が清の李鴻章に斡旋を依頼して、これによっ
 て1893年年4月、11万円の賠償と大石公使の召還で妥結し
 た。
1893年2月28日、山陽鉄道の旅客運賃率が、上等は下等の2
 倍、中等は下等の1.5倍とすることで認可された(3月21日
 実施)
1893年2月、三友銀行のが廃業した。
1893年3月3日、日本体育大学の前身、日本体育会体操練習
 所の設立が認可された。
  設立当初は、体育(体操)教員養成を企図していたわ
 けではなかった。
  ただ、国民の体位、体力の向上を図るために「国民体
 育の振興」を目指した。
  これは、会員制の体育クラブで、現在のスポーツクラ
 ブやフィットネスクラブのようなものだった。
  しかし、国民一般の理解を得られなかった。
  民間体育(社会体育)の振興だけではなく、学校とい
 う窓口を通して事業の展開を行うという方針となった。
1893年3月4日、弁護士法が公布して、これにより代言人制
 度は廃止となる。
  日本の弁護士制度は、明治となって近代的司法制度が
 導入され、それとともに誕生した。
  その名称は代言人(だいげんにん)と言い、その地位
 は決して高いとは言えなかった。
  しっかりした資格制度も存在していなくて、悪質な者
 も居た。
  この年・1893年になって、近代的な「弁護士法」が制
 定され、初めて「弁護士」という名称も使われる様にな
 った。
  この頃の弁護士は司法省(検事正)の監督の下におか
 れ、その独占業務も法廷活動も限られていた。
  また、弁護士は、裁判官や検察官よりも格下とされ、
 試験制度も異なっていた。
  この様な状態は、1936年の法改正まで待たねばならな
 かった。
  また、1949年の新しい弁護士法が制定されて、国家権
 力からの独立性も認められた。
  そして、この年、日本弁護士連合会が結成され、司法
 試験によって裁判官、検察官、弁護士を一元的に選ぶこ
 ととなった。
  (史料)弁護士法(1893年)
  朕帝国議会の協賛を経たる弁護士法を裁可し茲に之を
 裁可せしむ
  御名御璽
  明治26年3月3日
             内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
             司法大臣   伯爵山縣有明
  法律第7号 弁護士法
  第1章 弁護士の資格及職務
  第1条 弁護士は当事者の委任を受け、又は裁判所の命
     令に従い通常裁判所に於て法律に定めたる職務
     を行うものとす。但し、特別法に因り特別裁判
     所に於て其の職務を行うことを妨げず。
  第2条 弁護士たらんと欲する者は左の条件を具ふるこ
     とを要す。
   第一 日本臣民にして民法上の能力を有する成年
      以上の男子たること
   第二 弁護士試験規則に依り試験に及第したること
                    (以下略)
.
  (今日の言葉)
.
  題:人の影だけが黒く石の建物に残る写真があるが・・
    そこに蒸発した広島の人が居たことだけがことづけられた・・
.
18世紀初め、日本の経済活動は活発だった・・江戸の人口
 は100万人を超え、世界一の人口だった。
  鉱業の、佐渡(新潟県)の金山や生野(いくの、兵庫
 県)の銀山、足尾(栃木県)の銅山が開発された。
  生産された金・銀・銅からは貨幣が造られ、全国に流
 通したほか、ヨーロッパに輸出された。
  その他、酒造、漆器(しっき)、陶器、鋳物などの産
 業も発達し、各地で特産品がつくられるようになった。
  江戸幕府は、江戸を中心とする東海道などの五街道を
 整備し、宿場を設けた。
  関所を置いて、人々の通行を管理し、また、手紙を運
 ぶ飛脚制度を作り、交通・通信の便宜をはかった。
  将軍の所在地となった江戸は、「将軍のおひざもと」
 と呼ばれ、商人や職人が多数集まり、18世紀の初めには
 人口100万人を超えた。
  当時、世界最大の都市となった。
  大阪は、米、木綿、醤油(しょうゆ)、酒などの様々
 な物産の集散地となり、「天下の台所」と呼ばれて栄え
 た。
  各藩は、大阪に蔵屋敷を置き、年貢米や特産品の売却
 を商人に依頼した。
  集められた物産の多くは、菱垣廻船(ひがきかいせん)
 や樽廻船によって江戸に運ばれた。
  京都は、朝廷が所在する文化の都として、また、西陣
 織や漆器・武具・蒔絵(まきえ)など高級な工芸品を生
 産する手工業都市として栄えた。
  江戸、大阪、京都は、合わせて三都(さんと)と呼ば
 れた。
  この他にも、各地の城下町や門前町、宿場町が、それ
 ぞれの地域の特性と伝統を生かして発展した。
  この17世紀末のパリの人口は56万人、18世紀中頃のロ
 ンドンは60万人だった。
  また、日本の金・銀は、この頃のヨーロッパの経済に
 影響を与えるほどだった。
  また、この頃は、西日本の方が、農業や諸産業が発達
 していた。
.
1700年、江戸時代には、「ゆい」とか「もやい」とかの様々
 な相互扶助・助け合いの慣行があった。
  「ゆい」は、田植えなどで互いに力を貸し合うことで、
  「もやい」は、村で共同作業をして、利益を分け合う
 ことだった。
  また、没落した農家を協力して救い、再興する事もし
 ていた。
.
1901年、アメリカの新聞「ニューヨーク・タイムズ」は、
 驚きの目をもって日本の行政を報道した。
  「台湾統治を、日本は、奇跡的に成功させました」と
 報じた。
  中国(清国)からも「化外の地」として『関係ないよ』
 と見放されていた台湾を、毛嫌いされていた未開の地を、
 日本は、『瞬く間(またたくのま)に文明化した」と報
 じた。
  台湾は、オランダが統治した時もあったが、日本の様
 なこと・・行政は出来なかった。
  オランダは、インドネシアを数百年に渡って植民地に
 して、「うまい汁を吸って来た」が・・、
  インドネシアの方々から「苛酷(かこく)な搾取」を
 するばかりだった。
  この台湾の日本のような統治は、まったくと言ってし
 てなかった。
  このような発想・考え方は出来なかった。
  キリスト教は「隣国の富を奪うように教えている」が、
 この様な搾取の考え方に洗脳されていた。
  植民地は、収奪する地としか見ていなかった・・見れ
 なかった。
  日本は、第一次世界大戦などの戦争の後に、領土が割
 譲された場合でも、そこを搾取の対照とは見なかった。
  日本は、第一級の人材を派遣して、いかに文化的に豊
 かになってもらうか・・共に豊かになれるかを考えた。
  「より文明的な生活をしてもらうか」という事を第一
 義的に考えた。
  だから、学校の整備をした、そして、インフラの設置
 から始めた。
  電気を引いた・・水道を引いた・・鉄道を走らせた。
  道路を作った・・山に木を植えた・・などなど・・ダ
 ムも造った・・、
  日本は、まったく搾取の対象としていなかった。
  学校教育には、特に、基本だと力を入れて充実させた。
  日本の内地以上の国立大学まで作った。
  アメリカやヨーロッパの植民地では、まったく想像で
 きない様な、「このような事をした」。
  アメリカやヨーロッパは、自分たちだけに都合の良い
 形になることを優先した・・英語化したり、自分に都合
 よいことをした。
  また、インドは、可哀想な支配のされ方を、イギリス
 からされた。
  イギリスのインド支配は酷かった。
  搾取する対象としか見ない以上に、また、奴隷以下の
 扱いをした・・また、命を取った・・奪った。
  並木道にインドの方々が首つりにされて、その並木道
 のどの木にも、その様に木に吊るされたインドの方々が、
 いつまでも吊るされるという考えられない悪辣さだった。
.
1910年9月30日、朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)が、
 設置された。
  この朝鮮総督府は、第二次世界大戦の終了後も廃止さ
 れる事なく続けられた・・それが都合よいと続けられた。
  日本の敗戦にともなう連合国の指示によって業務を停
 止する通達があるものとしていた・・
  そして、政務総監・遠藤柳作によって、呂運亨らに独
 立に向けて朝鮮建国準備委員会の組織化の打診があった。
  しかし、この朝鮮総督府の行政は、その後も継続され
 た。
  行政権限が、北緯38度線以南の占領行政機関となった
 時になってアメリカ軍政庁へ引き継がれた。
  「日韓併合」の本にも書いてあるが、総督府時代の35
 年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足は、1428
 万円に上った。
  そればかりではなく、日本は、温かく韓国・朝鮮半島
 を支援していた。
  例えば1例だが・・司法と警察分野などに、日本政府が
 直接支出した金額は、立替金の数倍の9000万円以上があ
 る。
  現在の朝鮮・韓国の歴史では、この『日本の特別な特
 恵的支援』には一言も言及が無く、ふれていない、勿論、
 感謝の言葉もない・・ただ、侵略だけを強調している。
  これが如何に偏狭な史観であるかを、韓国は自覚しな
 ければならない・・
  その様にしなければ、将来は開けないことを韓国・朝
 鮮は知らなければならない。
  1910年8月29日には、明治天皇陛下から臨時恩賜金とし
 て3000万円が与えられた。
  日本は、何かと、色々と、韓国・朝鮮に温かく接して
 いた。
  また、韓国・朝鮮が、日本政府から借用していた2651
 万円も、日本の温情・優しさから、特に、言及しない状
 態にされた。
  しかし、2017年の韓国の発言などの状況を見ると、日
 本国民の納得に十分な所が得られ無い状況なので、以上
 のことは、改めて韓国の感謝の言葉が心からないならば、
 そっくり返金して戴くこととする方向へと行くべきだ。
  (この最後の卑劣な言い方は、韓国大統領の言い方を
  真似ているのだ)
.
1918年、ロシアに革命が起きている頃、ある日本人が、こ
 の革命の地に居た・・ロシアのシベリアの地に・・そし
 て、この革命を見ていた。
  その時、不安定な世情に、民心は揺れていた。
  「各地のコサック、及び、将校団は、日本軍の援助を
 熱望していたが、教育家、宗教家は、有色人種の後援を
 厭い(いとい、嫌って避ける)、米英などの白人の援助
 を願いつつあった」と。
.
1943年10月21日、東京で「出陣学徒の壮行会」が行われた。
  ある学徒出陣の一学生が書き残した・・、
  「大東亜の建設、日本の隆昌を願って、それを信じて
 死んでいく」・・と・・、
  (参考)隆昌:りゅうしょう、盛んなこと。栄えるこ
     と。隆盛。
  結果的に、アジアの諸国は、植民地収奪の社会から
 解放されて、独立し、自分で努力して得たものは、横取
 りされず、収奪されずに、自分のものとすることが出来
 るという、当然の社会が実現され、到来した。
  そして、「20世紀はアジアの時代」という時代が到来
 した。
  そして、21世紀は、それにさらにまして、輝かしく発
 展するアジアの国々で、アジアは、あちこちでキラキラ
 と輝きだしている。
  日本も、おかげさまで、平和を享受できる国になって
 います。
  あなた方の学徒出陣、若くして散ったあなた方の命は
 報われています。
  アジアの繁栄を開かせて戴いた・・その礎(いしずえ)
 となっておられます。
.
1945年5月27日、松岡金平(まつおかきんぺい)、ミャン
 マー(ビルマ)のモールメイン市街にて戦死・・陸軍少
 佐。21歳。
  1923年8月10日生まれ、富山県出身、静岡高等学校を経
 て、1943年10月東京帝国大学経済学部に入学。
  1943年12月1日、富山市東部第四十八部隊入営。
  松岡金平氏・陸軍少佐の遺言:・・、
  死の解決は一つ、自分の信ずるところに、満足して死
 ぬことである。
  それは自分の場合には、新たなる日本の建設、新しき
 大東亜の建設である。
  新しきものの建設、より偉大なるものの創造、これこ
 そ自分の生命を宿すに足るものである。
  自分のつたなき生命が、偉大なる日本とともに、新し
 き大東亜と共に生きて行くのだと信ずるなら、喜んで死
 んでゆける。
.
1945年8月6日、午前8時15分、アメリカは日本の広島市の人々
 の上に原爆を投下した。
  多くの方々が殺されたと言うより、「蒸発してしまっ
 た」。
  私の知人は、お母さんの指輪だけが台所に残されてい
 た・・と・・漏らした・・
  外したことのないお母さんの結婚指輪が、お母さんの
 骨も何もなく、ただ、台所の跡で見つかった・・と言わ
 れた。
  蒸発した方々を含めて、2ヶ月~4か月以内に16万6000
 人の方々が亡くなった。
  えいえいと築いてきた、そして、継続して来た「広島
 の歴史」、「家族の何もかも」が空気となった。
  すべてが消えた・・そして、長崎が・・蒸発させられ
 た・・女性の方々も、子供たちも・・すべてが蒸発させ
 られた。
  人の影だけが黒く石の建物に残る写真があるが・・そ
 こに蒸発した広島の人が居た。
  表通りのパン屋さんの歴史も蒸発した・・裏通りの本
 屋さんも、そして、横町のおばさん方のおしゃべりも、
 なにもかもが・・蒸発させられた・・跡形もなくなった・・
 1000年も、2000年も続いてきた営みのすべてが・・痕跡
 を残さず消えて無くなってしまった。
.
1945年8月6日、キリスト教国のアメリカという国は、「赦
 すということが大切だ」と言う・・
  ならば・・「赦すという事が大切だ」というなら・・、
 「原爆を落とす前に、広島の方々や、長崎の方々を赦し
 てもらいたかった」・・、
  「真珠湾の奇襲をしたから、当然だ」の言い方は『当
 然ではない』・・奇襲ではない・・アメリカは知ってい
 たではないか・・
  ましてや、「戦争を作ったのはアメリカ」・・ルーズ
 ベルト・アメリカ大統領も言っているように・・ルーズ
 ベルトは、はっきり、第二次世界大戦がはじまった時、
 「戦争を作った」と言った。
  彼の策略で、第二次世界大戦が始まったことは、歴史
 が証言している・・示している。
.
1945年、20世紀はアジアの世紀と言われるが、この年から、
 「アジアの繁栄の世紀」が始まった。
  「きけ、わたつみのこえ」の本で、「大東亜の建設」
 の注釈に、「日本を盟主に、アジア諸国の繁栄をはかる
 構想」とある。
  日本は、何と言われようと、この戦争の後に、アジア
 の方々が、アジアの各国は・・独立したのだ。
  これは、歴史の事実だ。
  イギリス・アメリカなどの欧米列強国から独立したの
 だ。
  それまでは、列強各国は、アジア諸国を植民地として、
 やっている事と言えば「利益の収奪」しかやってない。
  「(キリスト教の)神の義がある」と、自分勝手な「
 免罪符をデッチアゲテ」、自分たちは何でもやっていい
 のだと、自分の利になる事だけをしていた。
  植民地にされたアジア諸国の方々が苦しもうが、その
 痛さを感じず、ただただ、自分たちだけに利益が舞い込
 む事だけに邁進(まいしん)していた。
  何と言われようが、事実が・・アジアの国々の方々は
 もだえ苦しんでいた・・その様なアジアの国の方々は、
 解放されて、自由になれて、独立して、自分たちで稼い
 だものは、横取りされずに自分たちのものになり、当然
 のこと、自分たちの努力で自分たちの「幸せが享受でき
 るようになった」。
  これからは、「アジアの世紀だ」と言われるような時
 代を作った・・ますます、その様になって来ている。
.
1946年5月3日、東京裁判が開廷した。
  戦後、アメリカは、「すでにあった国際法」で裁かれ
 ずにいる・・一般市民の殺戮(広島・長崎の原爆投下や
 東京大空襲などの都市へのじゅうたん爆撃)は、れっき
 とした国際法違反・・この「既存の国際法」で裁かれる
 べきを裁かれずにいる。
  そして、「国際法に無い法律」を、さも存在した様に
 (わざわざ自分好みに作って)日本を裁いた。
  こんなことが・・「正義だと言えるわけがない」
  戦後の不公正な裁判は「正義ではない」。
  ここで正義が実現しなければ、国と国の『真の和解』
 は難しい。
  法律がないのに、アメリカは、日本を裁いた事を謝罪
 せよ。
  アメリカは、事後法を作って(法律がないのに、事が
 起きた後に法律を作って、法違反していると裁く、まっ
 たく筋の通らないこと)日本を裁いた。
  逆に、その時に有った国際法を、アメリカは自国に適
 用しなかった。
  アメリカは、日本の一般市民を狙って大量殺戮をした。
  これは、既にあった、当時に有った国際法に違反して
 いたのにである。
  しかし、この罪については、アメリカ合衆国はホッカ
 ムリした。
  まったく卑怯な事を、アメリカはしている。
.
1960年、日本が、実質経済成長率が約13%という高い伸び
 を示した。
  この年以来、10年間の年平均の伸び率が、10%を超え
 るという高率となった。
  この頃から、1979年代の初め頃までを、高度成長期と
 呼ぶ。
.
1981年、ギリシャが、EC(欧州共同体)に加盟した。
  そして、よりグローバル化しようとユーロ(欧州連合
 における経済通貨同盟で用いられている通貨)が造られ
 たが、ギリシャは、このユーロに、2001年に加盟した。
  しかし、卑劣な事に、ギリシャは、巧みな粉飾をして
 誤魔化していた。
  EC側は、この時、一部が、この事に感づいていた。
  しかし、ギリシャは、ヨーロッパの祖であり、
  また、民主主義の本家であるギリシャを、ECに加え
 たいばかりに、見て見ぬふりをした・・これが、後々、
 EUの命取りとなる。
.
1993年、EC(欧州共同体)が、EU(欧州連合)になっ
 た。
  より高いレベルでヨーロッパは統合したいと、グロー
 バリズムの夢が広がった。
  しかし、今(2017年)、そのEUは、「絶望にさいな
 まれている」。
  ヨーロッパの民主主義の理想を作るという夢は、かな
 り色あせてしまった。
  その夢が壊れる切っ掛けとなったのが、皮肉にも民主
 主義の元祖のギリシャだった。
  ギリシャが、最悪の財政状態だということを隠したと
 いう嘘と、そのギリシャに対するドイツの高圧的な態度
 が嫌われ・・タガが外れた。
  ギリシャを救える国が、ドイツしかないというのも、
 ギリシャの程度を越えた最悪財政と共に、最悪だった。
  また、押し寄せる難民の問題があった。
  難民救済に対する理想的な事を言っていたドイツも、
 その方針も、絵に描いた餅と化した。
  グローバリズムも・・「苦労バリズム」と化した。
  また、2011年になって、EUのお荷物国・イタリアが、
 流れ着くアフリカからの難民の多さに悲鳴を上げた。
  この時、ドイツが言い放った・・、
  「イタリアに来た難民保護は、イタリアの義務だ」・・
  冷たく突き放した。
  EU各国は、「ドイツに、EUの連帯などと言われた
 くない」という気持ちとなった。
  今、EUの連帯は、「風前の灯火(ともしび)状態」
 にある。
.
2004年、2ユーロ記念硬貨・・ユーロ圏で使用できる法定通
 貨を決めた。
  ギリシャは、2ユーロ硬貨にギリシャ神話のエウロベを
 刻んだ(各国が自由にデザインできる)。
  エウロベは、ヨーロッパの元(もと)を作ったと言わ
 れている。
  ギリシャは、それにプライドを持っている。
  EUに入ったというのに、「ギリシャという『国のプ
 ライド』をEUに、やはり、持ち込んだ」。
  連合を作ったからと言ったって、家族が大切な様に、
 国も大切なのだ・・が現れた。
  家族の様に、国からも離れられないのが実態なのだ。
  頭で思っても、心まで変えられない・・それが人間。
.
2016年、個人投資家として有名なジョージ・ソロスが中国
 から逃げた。
  ユダヤ系アメリカ人の投資家・投機家で、「イングラ
 ンド銀行を潰した男」と言われる凄腕男。
  2006年に、著作の邦訳の出版に合わせて来日したソロ
 ス氏は、当時、国際的に話題になっていた靖国神社問題
 への関心から、靖国神社と遊就館を訪問した。
  そして、次のような事も言った・・、
  かつて日本は、「正常な国家」とはいかなるものかと
 いう新たな模範を、世界に指し、誇らかに宣言した。
  日本は、世界、及び、各地の主要な国際統治機関の支
 援、困窮はなはだしい地域に対して行ってきた感銘深い
 規模の援助と救済によって、恐怖を手段とするよりも信
 頼の構築を目ざす国際社会が正しいとして、鮮烈な指針・
 インスピレーションを示し、また、泉源となり、投資の
 対象となってきた。
.
2017年12月12日、慰安婦像でもめていたサンフランシスコ
 市長のリー氏(65歳)が急死した。
  リー氏は、12月11日、市内で買い物中に倒れ、12日に
 亡くなった。
  中国移民の両親の間にワシントン州で生まれた。
  2011年に、サンフランシスコ市で初のアジア系市長と
 して当選した。
  今、アメリカでは、不法移民が1100万人という。
  このとてつもない多数の不法状況に、アメリカ国内は
 不満の声が多くなっている。
  「職を奪われる」「治安が悪化する」などが理由。
  また、サンフランシスコ市は赤化(共産化)が完了し
 ていると言われている。
  中国共産党の働きかけが最終段階になっていると言わ
 れている。
  慰安婦問題には、陰で操っている中国の存在がある。
  その慰安婦像建立を承認したサンフランシスコ市長の
 エドウィン・M・リー市長の何故かの急死・・?
  また、以下のニュースがある・・、
  当然、韓国に、自国の「名折れだ」の声もある。
  (参考)名折れ:なおれ、名誉をきずつけられること。
     名をけがすこと。不名誉。
  【ソウル=ニューシス】イ・ヘウォン記者=
  アメリカで、韓国人売春婦店舗を運営した事業主とそ
 の一党が、韓・米警察の連係共助で大量に捕まった。
  ソウル警察庁国際犯罪捜査隊は、韓国人売春業者サイ
 トを作ってアメリカ広告サイトに掲載した疑惑(売春斡旋
 など行為に関する法律違反)で韓国系アメリカ人キム某
 (38歳)を逮捕し拘束したと19日明らかにした。
  犯行を共謀し加担したキムの母親ハム・某(63歳)種と
 ウェプティジャイノキム某(42歳)など一味3人と売春事業
 主5人、売春女性40人などが、アメリカ捜査局が現地で、
 現行犯逮捕し、検挙し捜査中となっている。
  警察は、キムは、2014年3月からこの4月13日まで、ア
 メリカ、ニューヨークとニュージャージー一帯の29の売
 春業者のサイトを作って、アメリカ・オンライン広告サ
 イトにあげた。
  キムは、アメリカ捜査機関の取り締まりを避けるため
 に国内サーバーでサイトを作ったりして、広報代でも多
 額な手数料を稼いでいた。
  キムは、月570万ウォンほどの収益を上し、儲けた金で
 外車などを買っていた。
  韓国に戻っているキムを除いた残り一党は、アメリカ
 捜査機関が立件し、捜査中であり、売春女性40人は国外
 送還を進めている。
  警察関係者は、「アメリカ警察との協調・協力を通じ
 て、キム一党の犯罪収益金を還収する一方、売春女性送
 出ブローカーに対しても捜査する方針」と話した。
  これに関連して・・今、世界中で韓国人売春婦が問題
 となっている。
  2004年になってやっと売春禁止法が制定された韓国。
  だが、施行10年目を迎えて海外へ行く売春婦が急増し
 ていることが明らかになった。
  すでに、2010年の時点で、外国で売春する韓国人女性
 は全世界で約10万人いるとみられ、国別では日本に約5
 万人、オーストラリアに約2500人、グアムには約250人が
 滞在している。
  また、アメリカで23.5%が韓国人売春婦というデータ
 ーで、国別で断然トップで1番多い。
  また、2017年10月28日、東京・鶯谷で、韓国からの売
 春婦の多さにデモ『朝鮮人売春婦追放デモ』が行われた。
  その他、この類のニュースは多数あり。
  韓国・朝鮮は、中国に冊封されて来た長い歴史があり、
 国を挙げて接待し、また、可哀想だが、女性方が、中国
 へすべてを投げ出してかしずくかねばならないという状
 況の中に長く置かれて来た。
  ある意味、この破廉恥な歴史を隠そうと中国は韓国へ
 金を出して、無実の日本を悪者にしていると言える。
  また、韓国自体にも「女衒(ぜげん)」に対する後ろ
 めたさがある。
  こんな事をしなければ、韓国経済が成り立たないとは?・・
 と、泣いた韓国高官の話もある。
  韓国の卑劣さに、こんな事を書かねばならないことを
 憂(うれ)える。
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2017年12月25日、この日の読売新聞に、「中国の工作」に
 対して、「各国が警戒している」と報じた。
  中国による外国政界や世論への工作が活発化している
 ことが相次いで明らかになったという。
  その為、各国は警戒を強めているという。
  そして、これは、習近平政権の中国の国家による方針
 だという。
  習近平は、世界第二の経済力を背景にして、自国の中
 国に、有利な体制を作ろうとしているという。
  自国・中国に有利な政治行動をとってもらう国を増や
 したい・・
  国際秩序形成において、中国主導で動く体制を浸透さ
 せたい・・、
  オーストラリアで、その様な巧妙な工作が起きていた
 り・・、
  そこで、オーストラリアは、「海外からの献金を禁止
 する法案」を議会に提出した。
  野党議員が、中国から多額の献金を受け取っていて、
 そして、党の方針に反した「南シナ海問題における中国
 の領有権を支持した」。
  ニュージーランドでは、国会議員に中国出身者が居て、
 その議員が、「中国スパイとみられる行動をした」との
 疑惑が生まれた。
  シンガポールでは、中国系の大学院教授が、「シンガ
 ポール以外の情報機関と連携」して、シンガポールの「
 政策や世論を操作し影響を与えた」・・国外追放となる。
  この情報機関は中国だと見られている。
  中国には、れっきとした「外国での政治・世論工作を
 担う部署」がある・・それが、共産党中央統一戦線工作
 部(統戦部)。
  外交官となって、操作する対象国の政治家と関係を持
 ち、人脈とする・・また、有望な中国人と関係をもって、
 同じく人脈として利用するのが手口。
  最近は、SNSによる工作を活発化させている。
  ドイツでは、ドイツ情報当局が、SNSで引っ掛から
 ない様に、中国の諜報活動についての警告を出した。
  中国のスパイ機関が、偽の経歴で、2017年だけでも
 1万人以上のドイツ人との関係を持ち、政界や官界に賛
 同者・協力者を作っている・・と。
  アメリカは、この様な情報を持っていて、アメリカ上
 院が「中国の影響力が拡大」をテーマとして公聴会を開
 いた。
  アメリカ上院議員は、「中国の政策批判者を脅迫しよ
 うとしている」と警鐘を鳴らしている。
  第二次世界大戦前後のアメリカ大統領だったルーズベ
 ルトの側近に、うようよと共産主義者が居たことは有名。
  そのあまりの酷さにびっくりしたアメリカは、その後
 に、「赤狩り旋風が吹き荒れた」。
  昔から、中国は、年がら年中、こんなことを、やって
 いるのだ。
  この様な事例は、まだまだ一杯ある。
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2017年、EUの崩壊の恐れ・・
  今、ヨーロッパで起きているのは、共産主義国・ソ連
 の崩壊にも匹敵する人類最大の社会実験が、ガラガラ崩
 れていく事態・グローバリズムの崩壊である。
  EU崩壊の恐れがある。
  その実験の置き土産は、過剰な難民・移民の流入と共
 に、「テロリストの流入」だった。
  同時に、「ドイツの理想主義」も崩壊した。
  やはり、人智を超えた未知部分があって、矛盾が生じ
 た。
  これは、日本も他山の石とは出来ない問題で・・、
  かつて、理想と希望にあふれてEUが誕生したのだが・・、
  それから20年、EUの危機・ユーロ危機の到来は早か
 った。
  ドイツは、ボロボロになってしまった。
  最大の原因者であり、その債務者であるギリシャは、
 債権者の「EU、IMF(国際通貨基金)、ECB(欧
 州中央銀行)」の要求を、「やり方が民主主義に反する」
 と非難までして背を向けている。
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2018年1月26日、この日の読売新聞が、アメリカが「核戦力」
 をもっと使用しようと、核戦力の役割を「拡大しようと
 する方針だ」と報じた。
  今、アメリカは、「核戦力体制見直し(NPR)」で、
 「核兵器による抑止」の役割拡大を打ち出す方針を固め
 た。
  通常兵器での攻撃には、従来、通常兵器で応じるとし
 ていたが・・、
  「通常兵器への反撃にも、核による報復を排除しない
 戦略を掲げ、小型核の開発を盛り込む」と・・、
  また、日本などの同盟国に対する「核の傘」を万全に
 する方針も明記される見通しだ・・と。
  2月初旬に公表される予定。
  オバマ前政権は、「核兵器の役割を縮小」を明記した
 が、今回は大きな方針転換をした。
  今回は、北朝鮮による核・ミサイル開発や、中国やロ
 シアの軍拡などで、前回策定時から脅威が大幅に高まっ
 たとの認識を踏まえ、核抑止の強化路線を明確にした。
  「核以外によって住民や基幹施設への大規模な攻撃」
 の場合、核以外であっても・・基本戦略として、核によ
 る報復をすることが「あり得る」としている。
  核攻撃以外の攻撃であっても、核で報復する可能性を
 排除しないとした。
  敵国の主要都市に壊滅的打撃を与える戦略核兵器に比
 べて、爆発力を抑えた小型核兵器の検討を盛り込む。
  敵国の基地や中枢施設の破壊を狙うときに使用するこ
 とが想定されている。
  また、読売新聞は、核使用のハードルが下がったり、
 核開発の競争が激化することの恐れを指摘している。
  今、アメリカは攻撃される可能性が高まっているが、
 その様な中でも、同盟国に対しても核兵器による「核の
 傘」を含む拡大抑止を確実に提供し続ける方針を明記す
 る見通しだという。
  潜水艦発射型の新たな開発も進めるという・・以上。
  この小型核を、日本への攻撃抑止力として、日本の
 潜水艦にも搭載すべきだ。
  日本国民、女性や子供をしっかり守れる体制を早くし
 っかり作るべきだ!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive