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(増補版)487E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)

2017-01-31 02:42:16 | 日記
題:(増補版)487E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年5月15日、大槻文彦著の「言海 (第一冊)」が発刊さ
 れた。
  最初の近代的国語辞書で、後に、大言海となる。
  1875年(明治8年)2月に起草(きそう、草稿を書くこと)
 し、
  1884年、脱稿して、これを4分冊にして
  1889年5月、この時に、第1版を刊行した。
1889年5月16日、宮内省図書寮付属博物館を廃止し、帝国博
 物館、帝国京都博物館、帝国奈良博物館を設置した。
  官制が成って、初代の博物館総長に九鬼隆一を任命し
 た。
1889年5月21日、最初の市会議員選挙、
  東京において本日より3日間行われた。
1889年5月23日、讃岐鉄道の丸亀~琴平間が開通した。
  この時の開通式で香川県議の大久保諶之丞が祝辞で瀬
 戸大橋の架橋を提唱した。
1889年5月28日、地久節(ちきゅうせつ)の御儀が初めて行
 われた。
  地久節は、皇后陛下の誕生日の旧称。
  老子の「天長地久」による語で、天皇陛下の誕生日の
 旧称である天長節(てんちょうせつ)に対する名称。
  地久節を奉祝すべきとの世論が高まり、女学校では、
 学業を休んで奉祝式を催すようになった。
  以来、昭和に至るまで続いた。
1889年5月31日、6月2日にかけて、雑誌「日本」にロンドン
 =タイムスに掲載された大隈条約改正案が翻訳されて、
 掲載され、波紋を引き起こした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:愚かなる・・第二次世界大戦への道程・・そして、今のアメリカは・・??
.
1899年、アメリカが、「中国の門戸解放を宣言した」。
  これは、遅れて来たアメリカが、中国に参入したいと
 いう宣言だった。
  この様な「言い方」や「書き方」からは、事実が見え
 にくいが、これは「アメリカが中国に参入し、中国の旨
 (うま)い汁を吸いたいという宣言」だった。
  中国を「アメリカの利益を生み出す地にしたい」だっ
 た。
  中国市場参入を狙ったアメリカなのだった。
  それは、日露戦争前の極東では、清国の義和団の乱が
 収まると同時に、『 ロシアの満州支配 』が強まって
 いた。
  アメリカは、この動きに対抗した1899年の「門戸開放
 宣言」だった。
  ロシアに強く反発した。
  1904年に日露戦争が開戦すると、
  強まるロシアの力を抑止するため、『日本を応援』し
 た。
.
1906年、日露戦争に勝利した日本に、満州がロシアから移
 譲(いじょう、権限や権利、財産などを他に譲り移すこ
 と)された。
  この時のアメリカ大統領は、第26代大統領のセオドア・
 ルーズベルトだった。。
  アメリカは、中国を美味(おい)しい市場としたかっ
 た・・しかし・・、
  1899年に、アメリカは、中国市場の門戸開放をしろと
 宣言していた。
  出遅れていたアメリカのアピールだった。
  ヨーロッパ列強諸国、および、ロシアは、すでに、中
 国を美味しい市場としていた。
  イギリスは、あくどい麻薬のアヘンを使ってまでして、
 吸い取る限りの利益を中国から得ていた。
  満州は、ロシアの市場となっていた。
  そして、日露戦争が始まると、アメリカは、日本を支
 援した。
  しかし、日露戦争に日本が勝利すると、満州が、ロシ
 アから日本へ『移譲』された。
  「アメリカさん・・どうぞ・・」とは、ならなかった。
  日本は、中国政府とも条約を結び、満州に日本から資
 本を持って行って・・投じ、満州経営を始めた。
  アメリカの思惑と違った。
  ここが、アメリカには面白くなかった。
  白人植民地に入って来た新参の有色人種の日本となっ
 た。
  新興国の日本だった。
  ここのポイントからが、最終的に第二次世界大戦へ通
 じて行くことになる。
  日本がドアボーイの如く・・満州へ招き入れる日本の
 振る舞う事を、セオドア・ルーズベルトは期待していた。
  「満州のドアから入って来なさい」にはならなかった。
  満州から美味しい汁が来るとはならなかった。
  逆に、今、美味しい汁を吸っているアメリカの植民地
 のフィリピンが、日本にとられるという、脅威と感じる
 る『日本の見事な日露戦争の勝ち方』だった。
.
20世紀初頭、アメリカの西海岸地域に『黄禍論』という日
 本人差別が吹き荒れた。
  そのたびに、日米両国は、鋭い緊張関係に陥(おちい)
 った。
.
1906年、セオドア・ルーズベルト(第26代アメリカ大統領)
 が、日本との将来対決を意識した。
  そして、『対日戦争の準備』を始めさせた。
  この年に、対日戦争計画である『オレンジ計画』の準
 備を指令した。
  日露戦争の翌年のこの年、その指令を出した。
  このセオドア・ルーズベルトは、フランクリン・ルー
 ズベルト(第32代アメリカ大統領)と従兄弟関係にある。
  また、アメリカの大学生の歴史教科書に使われている
 「アメリカ外交史」(ロバート・ファレル著)には、
 「日露戦争こそが日米対立の序曲」と論じられている。
.
1933年3月14日、第32代アメリカ大統領に就任したてのフラ
 ンクリン・ルーズベルトが、閣僚会議で日本との戦争に
 ついて論じた(就任して10日目)。
  アメリカの日本の見方の転換は、「日露戦争後」にあ
 った。
  日露戦争後は、アメリカは、常に、日本を軍事的、経
 済的ライバルと意識してきた。
  それまでは、東洋の小国、近代化を一生懸命にやって
 いる発展途上国と見て来た。
  だから、日露戦争の時は、アメリカは、日本にとって
 良いタイミングで戦争の仲介をしてくれた。
  しかし、日露戦争後にその見方が変わった。
  それまでと変わって・・「ライバル国・日本」となっ
 た。
  1933年3月14日、ルーズベルトは、大統領就任後二回目
 の閣僚会議を開いた。
  この時、早くも、ルーズベルトは、日本との戦争につ
 いて論じた。
  前置きは・・「日本人が(マレー半島の)ジョホール
 から、中国の万里の長城まであふれるだろう」という言
 葉から始まった。
  そして、「できれば戦争を避け『兵糧攻め(経済制裁)』
 によって屈服させる方針をとりたい」と、
  しかし、戦争になった場合は、「陸軍は役に立たない。
  太平洋を挟んだ戦争は、海軍が主力になるためハワイ
 を基地とし、
  さらに、アリューシャン列島から日本本土を空爆すべ
 きだ」・・と、熱心に論じた。
.
1938年、日本は、中国のすべての港の封鎖に成功し、海上
 からの補給が出来なくすることに成功した、1838年の後
 半の事だった。
  この頃、あまりにも、アメリカなどの一方的な戦争介
 入が酷かった。
  ルーズベルトの頭にあったことは・・先に銃を抜く「
 農夫」だった。
  その農夫の「肩を持つ(かたをもつ)」わけではない
 が・・、
  その農夫の人格をも口汚く、品なく、あらん限りの悪
 口を言う「金持ち牧場種に雇われた銃の早撃ちの殺し屋」。
  とうとう、その農夫は耐えきれなくなり銃に手を掛け
 る。
  それを「待ってました」と早撃ちの殺し屋は、銃など
 持ったことのない農夫が銃を半分抜いたところで、農夫
 の心臓を撃ち抜いた。
  正当防衛だという。
  法律違反ではない人の殺し方で、金で雇われた殺し屋
 は依頼主の要望に応えた。
  アメリカは、この様な卑劣なファイトバックを歴史の
 あちこちでやっている。
  メキシコもやられた。
  領土を取られた。
  散々メキシコを虐めて・・メキシコが立ち上がったら・・
 これでもかというほどに・・「やっつける」。
  また、ドイツの・・、ナチスのヒトラーの肩を持つ訳
 ではないが・・、
  返済しても、返済しても、まだまだあるという膨大な
 借金を戦争に打ちひしがれて、「言い訳や反論もできな
 いドイツ」に、一方的に戦争に勝った者として押し付け
 た戦勝国。
  返済しきれない借金を、重い重い借金を敗戦国に背負
 わせた戦勝国。
  ここに・・正義は・・あるのか?
  正当性は・・あるのか?
  出来ないことを背負わせた方が、当然、悪いのである。
  出来ないことは、当然、言ってはいけないのである。
  暴力的に押し付けたあなたが悪い。
  そこには・・キリスト教の教義の復讐(ふくしゅう)
 の悪意しかない。
  そこからは、ヒトラーという人間も出て来るだろう。
  その様に仕向けた・・君たちに責任があるのだ。
  その責任の重さを分からないか?
  自分たちの責任に口をつぐんで、吐露しないで、謝罪
 しないで、懺悔しないで・・、
  次の世代の子供たちへ問題を先送りした・・
  この卑怯な自分たちの態度・行動を反省しないか?
  卑怯だと思わないのか?
  その自責の念は生まれないか?
  真の責任者は、君たちではないのか・・?
  日本も、長い期間、仕組まれていたのだった・・卑劣
 なアメリカ大統領のルーズベルトが仕組んでいた。
  知らないうちに、中国で、秘密裏に、アメリカは宣戦
 布告していた。
  ルーズベルトは「義勇軍だと、嘘のレッテルを貼って、
 『日本と戦え』と命じていた」(何だって・・レッテル
 は貼れる)。
  この時に、第二次世界大戦の開戦がなされた。
  アメリカの宣戦布告なしの開戦だった。
  これは、アメリカの日本に対するれっきとした『奇襲』
 だった。
  世界遺産に登録せよ!!
  1938年、日本は、中国沿岸の港のすべてを閉鎖するの
 に成功した。
  アメリカは、海洋からの中国への補給が出来なくなっ
 た。
  アメリカは、中国の蒋介石を援助しようと「援蒋ルー
 ト」を仏印(ベトナム、ラオス、カンボジア)に、無断
 で作った。
  国家の主権の侵害である。
  侵略行為である。
  侵略行為をしてまでして、アメリカは戦争に介入して
 来た。
  そして、アメリカは、秘密裏に、アメリカ正規軍まで
 この地点に上陸させて、派遣した。
  日本は、当然、このアメリカの仏印の武器弾薬の供給
 ルートを遮断したいとなる。
  日本は、真珠湾で、あたかも先に銃を抜いたように見
 せかけられた。
  卑劣なアメリカのルーズベルトのプロパガンダ(嘘宣
 伝)であった。
  真珠湾攻撃を知り・・ルーズベルトは「戦争を作った」
 と言った。
  そして、「シャローム」のキリスト教教義の様に、「
 完全破壊の原爆投下と、
  やはり、「シャローム」のキリスト教教義の「無条件
 降伏」を日本に突き付けた。
  キリスト教に強く洗脳されたルーズベルトのやりたい
 ことだった。
.
1943年8月11日、第一次ケベック会談(~1943年8月24日)
  実質、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチ
 ャーチル首相の会談(秘密会談)。
  カナダのウイリアム首相も加わった(カナダは、正式
 な参加国ではない)。
  イタリアの枢軸国からの脱落も話し合われた。
  日本は、ドイツ降伏後に、12か月以内に降伏させると
 した。
  中国の「援蒋ルート(中国の蒋介石に武器と金を援助
 するルート)」を強化する事についても話し合われた。
  ソ連と蒋介石の中国へも連絡された。
  また、反英運動が激化しているパレスチナについても
 話し合われた。
  核兵器の開発についても話し合われ、核兵器技術の共
 有に合意し、合意書が作成された。
.
1945年4月12日、ルーズベルト、脳出血で死去する。
  この日に、第32代アメリカ大統領フランクリン・ルー
 ズベルトは死んだが・・、
  ルーズベルトの妻エレノアによると、ルーズベルトは、
 「戦後は、社会主義的な世界になる」と予測していた。
  そして、スターリンが「アメリカとソ連が、いずれ立
 場を同じにする」と話したことに希望が湧いたという。
.
1945年9月に、FBIに駆け込むまで、スパイ網の要(かな
 め)にいたエリザベス・ベントレーは・・、
  1951年8月、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、ホ
 ワイトら政府内の情報員の活動実態について証言した。
  ベントレーは、「工作員の役割は、秘密文書を持ち出
 す事の他に、
  アメリカの政策(ルーズベルトの政策)に、こちらの
 望むような影響を与える事だった」と言っている。
  それだからか、何故か? ルーズベルトの政策がおか
 しかった。
  第二次世界大戦中のルーズベルト政権が、如何に、ソ
 連スパイによって浸透されていたか?
  議会の調査委員会や、FBIの捜査で、かなりの部分
 が明らかにされた。
  ルーズベルトのやっていることがおかしいと、動いた
 アメリカ国民の方々もあった。
.
1947年、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(イギリ
 スの哲学者、バーバード大学教授、また、ケンブリッジ
 大学教授などを歴任、1861年~1947年)氏は言う・・、
  「私は、アメリカ人を3つに分けて考える。
  最初の3分の1は、まともで正直で優秀な人たち。
  次の3分の1は、善良であるけれど、それほど優秀でな
 い人たち。
  残りの3分の1のアメリカ人は、クリミナル(犯罪者〉
 だ」・・と。
  実際、アメリカ人の3人に1人は、「ケロッと嘘を付く」、
 その様な人が多い。
  この様な国民性だから「訴訟社会」となっている。
  ワシントンが、「桜の枝を折った」と正直に言ったぐ
 らいで大騒ぎに褒めちぎる・・その様な国。
  アメリカは、知的真剣さを持つ優秀な人もいるが、犯
 罪者タイプの狡猾で冷酷で偽善者的な人が多い。
  日本人は「誠実」「誠意を示す」を大切にしているが、
 その様な「日本人の誠意」は通じない。
  シニカル(冷笑的、嘲笑的、あざ笑う)に利用される
 だけ・・。
.
1953年11月に、アイゼンハワー政権のブラウネル司法長官
 が・・、
  アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 「ホワイト以外に、カリーや、陸軍省のジョージ・シル
 バーマンらの名前を明らかにした」ように・・、
  また、戦争中のソ連の交信記録(1943年~1944年)を
 解読したアメリカVENONA資料には・・、
  スパイ網は、FBI報告をはるかに上回る規模だった。
  何故、ルーズベルト政権に、ソ連協力者が浸透するこ
 とが出来たのか?
  また、浸透を止めることが出来なかったのか?
.
1953年(昭和28年)11月16日、ハリー・トルーマンは、ア
 メリカ大統領職を退(しりぞ)いた後も、全米に向けて、
 ラジオで言い訳し、説明しなければならない事があった。
  それは、ルーズベルト時代に蓄積された負の遺産の清
 算を迫られたからだった。
  急に、ルーズベルトから引き継いだ大統領職に就いた
 トルーマンは、ルーズベルトの悪が清算されないまま、
 引き続いて政治をやってしまっていた。
  ルーズベルト政権内には、ソ連の息のかかった人間が、
 うようよと居た。
  ソ連の巧妙なスパイ網となっていた。
  それが白日の下になると、アメリカ国民の方々は厳し
 く批判した。
  日本やドイツに厳しい制裁案を書いたり、そして、当
 時の財務長官のモーゲンソーの右腕で、そして、トルー
 マンも重く用いられて来ていた、そして、出世までさせ
 ていた財務次官補のハリー・デクスター・ホワイトも『
 ソ連のスパイ』だった。
  ホワイトは、消されたのか?・・米下院非米活動委員
 会の喚問を受けた直後に、心臓麻痺で死去した。
  国際通貨基金(IMF)の初代・米国理事をしたり・・
 「ブレトンウッズ体制」を作ったりした功績のあった人
 物だった・・が・・、
  そして、その他にも・・ルーズベルトが、推し進めた
 ニューディール政策の推進者の中にも、特に、多くのソ
 連スパイがいた。
.
2010年、そして・・今のアメリカ・・、
  グローバル化の制度の下で、貧富の格差は広がってい
 る。
  アメリカは、富める者を、「より富ませる政治」をや
 っている国。
  アメリカで、1980年から2010年までの30年間で、所得
 の低い下層(40%)の人々の所得は『減少』した。
  また、40%~60%の中間層の人々は『停滞、動かず』
 だった。
  豊かになった人々は、上層20%の人々だけだった。
  アメリカの株式の半分以上は、「最上層の1%」の人が
 所有している。
  この層が豊かになることに、アメリカの政治は集中し
 た。
  アメリカ政府が、「労働者の利益を上げる」と言った
 が・・??・・まったくの空論で、嘘だった。
  事態は・・空転していた。
  政府は、多額の『政治資金』を豊かな層から受け取っ
 て来ていた。
  そして、その層が豊かになる・・、その層に応える政
 策を行なった。
  貧富の差は・・拡大した。
  MITの経済学者のフランク・レビイらは、「これは、
 アメリカ経済の制度(グローバル制度)から来るものだ
 と説明した。
  それで・・、
  勤労者の経済的貢献が、反映していない仕組みとなっ
 ている・・と、
  (勤労者は、しっかり働いているが、制度が悪いから、
 この勤労の結果が反映しないで、この実態となっている)」
 ・・と・・、
  つまり、勤労者が、一生懸命に働いても、制度的なこ
 とから、上層に吸い取られてしまう・・と・・、
  また、1950年代~1970年代初期の約20年間で、アメリ
 カの大企業500社の会長の年収は、平均的労働者の20倍~
 30倍だった。
  しかし、1980年代からこの格差は、拡大し始め・・、
  アメリカ政府は・・貧富の格差が拡大する政策を露骨
 にやっていた。
  2000年には、何と! この格差は、525倍となった。
.
2016年、アメリカの上院議員のジェームス・ウェブ氏(ア
 メリカ上院外交委員会・東アジア・太平洋小委員会委員
 長など歴任)は言う、
  「アメリカに、貧富の差がこんなに拡がると、大変な
 ことになる。
  そのうち、アメリカ政治は、『動乱期』に入るのでは
 ないか」・・と・・、
  このウェッブ氏は、海軍士官学校卒の職業軍人で、正
 直な人だという。
  そして、彼は、アメリカの民主党が、陰で、金融業者
 (ゴールドマン・サックスなどという)に繰られている
 事に、非常に怒り、そして、嫌っていると表明した。
.
2016年以降、アメリカ連邦議会の予算局は、「2016年以降、
 アメリカの財政は、どんどん悪化していく」と見ていて、
 『国防予算を削るしかない』・・と、している。
  アメリカの政治家たちも、同じ見方で・・、
  アメリカの安全保障の最大の敵は、『財政難だ』と言
 っている。
  「予算を削減するところは、ここしかない」・・と・・、
  日本は、アメリカの日本での軍事費の75%を負担して
 いて、ドイツや韓国の負担割合の2倍から4倍と、超高率
 な負担を要求されている状況にある。
  アメリカの軍事費が縮減すれば、アメリカの軍事的な
 勢力圏は縮小せざるを得なくなる。
  その隙間に、中国の拡大となる・・その様な時代とな
 っている・・、
  アメリカの縮小の時代において・・日本の安全は、放
 っておけない『大問題』と・・なっている。
  手遅れにならないうちに、対応は・・急(いそ)がれ
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)486E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)

2017-01-27 05:16:26 | 日記
題:(増補版)486E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年5月10日、会計検査院法が公布された。
  歴史・・、
  1969年(明治2年)太政官(内閣の前身)のうちの会計
   官(財務省の前身)の一部局として設けられた監督
   司を前身とした。
    その後、検査寮、検査局と名称を変えた。
  1880年(明治13年)太政官に直属する財政監督機関と
   して誕生。
  1889年(明治22年)大日本帝国憲法が発布され、憲法
   に定められた機関となった。
    以後、約60年間、天皇陛下に直属する独立の官庁
   として財政監督を行って来た。
  1947年(昭和22年)日本国憲法が制定され、憲法第90
   条の規定を受けて、現行の会計検査院法が公布され、
   施行された。
    会計検査院は、同法によって内閣に対し独立の地
   位を有するものとされた。
    改正点は、国会との緊密性、検査対象の拡充、検
   査結果の行政への、即、反映。
    (会計検査院ホームページを参考にした)
1889年5月11日、東京乗合馬車会社が創立された(1888年5月
 説あり)
  東京馬車鉄道株式会社の資料は多いが、この東京乗合
 馬車会社の資料は、下記の1点が発見された。
  菊川町(現:墨田区菊川のあたり)にこの乗合馬車の会
 社はあった。
  墨田区で著名な小島惟孝氏の「墨田の町々」によると、
  1889年(明治22年)5月の中外商業新聞(現在の日本経
 済新聞)に、
  「本所区菊川町二丁目の東京乗合馬車会社は、昨年(
 1888年)五月十一日其筋より設立の許可を得・・馬車も
 江木社長が英国にて購入し来りたる分三十両丈到着した
 るを以て、
  既に此の程より仮営業を始めしが・・」とみえ、
  菊川から二之橋を渡り、左折して馬車道を両国橋にで
 て、九段まで通じていた。
  市電が開通する三十五・六年まで繁盛した。
  今でも二之橋から北へ二本目の通りを「馬車通り」と
 いう愛称で呼んでいる・・とある。
  因みに、「東京馬車鉄道株式会社」の記述は・・、
  欧米視察の後、鉄道馬車の必要性を痛感して帰国する
 人は多く、第三十三国立銀行の種田誠一氏も、その一人
 だった。
  視察後に、他3名の発起人を含めて1880年(明治13年)
 「東京馬車鉄道株式会社」を設立した。
  馬180頭と馬車30両を収納する車庫兼厩舎が必要なこと
 から本社地の選定に苦心した。
  当時も、過密都市「東京」で、容易なことではなかっ
 た。
  民有地は無理と判断し、秋葉原の火除地や、上野駅周
 辺(駅がまだ作られていなかった頃)の借用を願い出た。
  しかし、これは許可されず、結局、汐留の鉄道局構内
 を借用することで許可が下りた。
  当時の鉄道局だった。
  出願したルートは下記の3路線。
  1、新橋停車場~新橋~日本橋~昌平橋~(御成り通り)
   ~上野公園~浅草広小路
  2、新橋停車場~新橋~日本橋~昌平橋~(大伝馬町通
   り)~浅草橋~浅草広小路
  3、新橋停車場~新橋~京橋~(日本橋東仲通り)~
   江戸橋~(馬喰町通り)~浅草広小路
  1882年(明治15年)6月25日、新橋~日本橋間で、最初
 の営業が開始された。
  停留所は、基本的に汐留本社、新橋、終着地のみで、
 途中の停留所は存在せず、利用者が降りたいところを車
 掌に告げれば下車できた。
  乗車の際も手を上げれば乗れた。
  そして、1882年の同年10月に、新橋~日本橋~上野~
 浅草~日本橋~新橋というP字形の環状線も竣工し、
  1882年12月3日に、盛大な開業式が行われた。
  1899年、品川馬車鉄道会社を吸収合併し、路線を品川
   まで延長した。
  1900年(明治33年)電車への動力変更の特許を得て、
   社名を東京電車鉄道株式会社に改称した。
  1903年(明治36年)電車に転換するまで、約20年間、
 営業された。
  ある下町っ子の東京馬車鉄道の回想・・、
  「大通りは其処をまた、小さな鉄道馬車が不景気な鈴
 を振立てゝ、みじめな瘠馬に鞭をくれ乍らとぼとぼと、
 汐留から只一筋に、漸く上野浅草へと往復して居りまし
 たが、
  今の電車と違って乗降も乗客の自由で、鳥渡(ちょっ
 と)言葉さへかければ何処の辻でも其処の角でも、勝手
 気侭に停めてくれました。
  馬は馬で所構はず糞便をたれ流す、車台は車台で矢鱈
 に脱線する、其都度跡の車台から駆者や車掌を招集して、
 はては乗客までも力を添へ乍ら掛声諸共元のレールヘ、
 をさめるのでありましたが、
  狡滑な人は其ひまに随分乗逃も出来たでせう。
  思へば実に幼稚な物で、其が東洋第一と誇る日本の主
 府、我東京市の面目を僅に保っていた唯一の交通機関で
 あったかと思ふと、全く情ないやうな心もいたします」
 (喜多川浅次著『下町物語』)
  この馬車鉄道が、最盛期には、300輌の車両と2000頭の
 馬を擁し、毎日、東京の中心地を馬糞まじりの砂ぼこり
 を蹴立てて往復しつつ、
  巨大な利潤をあげ、株主には、毎季3割5分の配当を行
 う我が国でも数少ない超優良企業であった。
  (東京都公文書館を、一部、参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本が第二次世界大戦を開戦するまで、いったい、何があったのか?
    開戦前の状況を見る(1940年~1941年)・・、
.
1940年1月12日、ソビエト連邦がフィンランドの各都市を空
 襲した。
1940年1月21日、浅間丸事件
  千葉・房総沖で、イギリス軍艦が浅間丸を臨検し、ド
 イツ人船客21人を拉致した。
  このため反英気分が再び強化した。
1940年2月16日、ノルウェー領海で、イギリスとドイツが軍
 事衝突(アルトマルク号事件)
1940年3月12日、ソビエト連邦・フィンランド講和条約が
 モスクワで調印された(冬戦争終結)
1940年3月20日、フランス・ダラディエ内閣辞職。レノー
 内閣が成立した。
1940年3月30日、汪兆銘(おうちょうめい)が、南京で親日
 政府樹立(南京政府)
  政府発足後、イタリア、タイ、フランス、満州国、バ
 チカンなどが国家承認した。
1940年4月9日、ドイツ軍が、デンマーク王国・ノルウェー
 王国に侵攻(北欧侵攻)、デンマークが降伏。
1940年5月10日、ドイツ軍が、オランダ王国・ベルギー王国・
 ルクセンブルク大公国・フランスに侵攻開始(ナチス・
 ドイツのフランス侵攻、オランダの戦い)
1940年5月10日、イギリスが、アイスランドに侵攻した。
1940年5月15日、オランダがドイツに降伏した。
1940年5月18日、日本が、重慶を空襲した。
1940年5月28日、ベルギーがドイツに降伏した。
1940年6月3日、ドイツ軍がパリを空襲した。
1940年6月4日、ドイツ軍がダンケルクを占領した。
  抱囲されていた英仏軍の大半が脱出に成功した(ダン
 ケルクの戦い、ダイナモ作戦)
1940年6月5日、ドイツ軍がフランス総攻撃を開始した。
1940年6月7日、ノルウェー国王のホーコン7世が、イギリス
 に亡命した。
1940年6月9日、ノルウェー国王が、イギリスより対独抗戦
 中止を命令した。
1940年6月10日、イタリアが、イギリス・フランスへ宣戦
 布告した。
1940年6月10日、アメリカのルーズベルト大統領が、イタリ
 アの対応について「背中から刺すようだ (Stab in the
 Back)」と非難した。
1940年6月10日、ノルウェーがドイツに降伏した。
1940年6月11日、フランス政府がトゥールに移転した。
1940年6月13日、フランス軍がパリから撤退した。
1940年6月14日、ドイツ軍がパリに無血入城した。
  フランス政府はボルドーに移転した。
1940年6月15日、イタリア軍が、フランス領に侵攻した。
1940年6月15日、ソ連軍がリトアニアに進駐を開始した。
1940年6月16日、フランスのレノー内閣が辞任し、ペタン元
 帥が首相に就任した。
1940年6月17日、フランスが、ドイツに敗北した。
  フランス・ペタン首相がドイツ軍に休戦提議した(正
 式調印6月22日)
1940年6月17日、ソ連軍が、ラトビア・エストニアに進駐を
 開始した。
1940年6月18日、フランスのド・ゴール将軍が、自由フラン
 スとして、ロンドン放送で、対独抗戦継続を呼びかけた。
1940年6月19日、日本が、中国への武器供給を中止するよ
 う求めた。
  『援蒋ルート』の閉鎖を要求した。
  日本は、フランス領インドシナ政府(フランス)に対
 し、アメリカが中国・蒋介石を援助して大量に無制限な
 武器と金を供給していた行為のルートとなっていた「援
 蒋ルート」を閉鎖するように要求した。
  しかし、このルートからの中国への供給が止まらない
 ため、日本は、このルートによる供給を止めるために、
 この地域に、1940年7月28日に進駐した(フランス政府は、
 1940年7月19日に、日本の要求を受け入れるとした。
  フランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー将軍
 は、シャルル・アルセーヌ=アンリー駐日フランス大使
 の助言を受け、仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問
 団(西原機関)の受け入れを了承した。
  また、アルセーヌ・アンリー大使との協議においても
 8月末に交渉を妥結し、松岡・アンリー協定が締結された。
  日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フラン
 ス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらに、これ
 にフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏
 印との経済関係強化が合意された。
  しかし、アメリカは、仏印に上陸している自分の行為
 を棚に上げて、日本の上陸を侵略だとした。
  そして、これを、第二次世界大戦の開戦理由の一つに
 した。
  アメリカこそ、アメリカ正規軍や武器をこのルートに
 先に上陸させている。これこそ侵略行為だ。
  因みに、この2日前の6月17日に、フランスは、枢軸国・
 ドイツに敗北し、独仏休戦協定が締結されている。
  当然、休戦協定を受入れたフランスは、援蒋ルートを
 使う連合国・アメリカの行為を是認しない方針となって、
 日本の方針を了承した。
1940年6月19日、日本がフランスに対漢援助禁止を要求した。
1940年6月22日、独仏休戦協定が調印された。
1940年6月25日、アメリカの援蒋ルートの中国への武器援助
 ルートを閉鎖するため、南部仏印への進駐が決定された。
1940年6月27日、伊仏休戦協定が締結された。
1940年6月28日、ソ連がルーマニア領に進駐した。
1940年7月、アメリカが、「両洋艦隊法」を成立させた。
  この法律によって、予算措置がなされ、大西洋、太平
 洋の両洋で、ドイツや日本に対抗する海軍建設が決定さ
 れた。
  もう、この頃から、アメリカ大統領のルーズベルトは、
 日本を完全に仮想敵国として、戦う準備を始めていた。
  この計画は、モンタナ級戦艦5隻 (航空母艦建造に集
 中するため、のち建造中止)、アイオワ級戦艦2隻(航空
 母艦建造に集中するため、のち建造中止)、航空母艦18
 隻、アラスカ級大型巡洋艦 6隻,、巡洋艦 27隻,、駆逐艦
 115隻、潜水艦43隻など合計133万トン(7割増)の艦艇建
 造、15,000機の航空機製造などが決定された。
1940年7月2日、フランス政府がヴィシーに移動した。
1940年7月3日、イギリス艦隊が、アルジェリアのオラン港
 のフランス艦隊を撃滅した。
1940年7月5日、フランス政府(ヴィシー)がイギリスとの
 国交を断絶をした。
1940年7月10日、ドイツ軍によるイギリス本土空襲が開始さ
 れた(バトル・オブ・ブリテン)
1940年7月11日、 フランスのルブラン大統領が辞職した。
  ヴィシー政権でペタン元帥が国家主席に選出された(
 第三共和政終了)
1940年7月19日、ドイツ・ヒトラーがイギリスに和平を求め
 る国会演説を行った。
1940年7月21日、リトアニア、ラトビア、エストニアが独立
 した。「社会主義共和国」であると宣言した。
1940年7月23日、 サムナー・ウェルズ(アメリカ国務次官)
 がバルト諸国のソ連への編入を承認しない旨を宣言した
 (ウェルズ宣言)
1940年7月27日、南進政策を決定した。
  大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処
 理要綱」を決定した。
  日本は、世界情勢の変局に対処し、内外の情勢を改善
 し、速やかに支那事変の解決を促進するとともに、好機
 を捕捉し対南方問題を解決す。
  支那事変の処理いまだ終わらざる場合において、対南
 方施策を重点とする態勢轉換に関しては、内外諸般の情
 勢を考慮しこれを定む。
  右二項に對処する各般の準備は極力これを促進す」
「仏印(広州湾を含む)に対しては、援蒋行為遮断の
 徹底を期するとともに速やかにわが軍の補給擔(担)任、
 軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめかつ帝國の必
 要なる資源の獲得に勉む。情況により武力を行使するこ
 とあり」
1940年8月20日、八路軍(中国・華北のすべての共産党系の
 軍)が、日本を大々的に攻めて来た。
  大攻勢の状態(百団大戦、~ 12月5日)。
1940年8月末、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アン
 リー大使との間で日本とフランスの協力について協議が
 開始された。
  8月末に、交渉が妥結し、松岡・アンリー協定が締結さ
 れた。
  ・フランス領インドシナへの日本軍の進駐の承認。
  ・極東における日本とフランスの利益を相互に尊重。
  ・仏印においてフランス側が可能な限りの援助を行う。
  ・日本と仏印との経済関係強化。
  以上がが合意された。
1940年9月7日、クラヨーヴァ条約:ルーマニア、南ドブロ
 ジャをブルガリアに割譲した。
1940年9月22日、日・仏印軍事協定成立(9月23日説あり)。
  この日、現地の両軍司令部間(西原一策・アンリ・マ
 ルタン)での軍事協定(西原・マルタン協定)が締結さ
 れた。
  翌日の9月23日より正式進駐が開始された。
1940年9月23日、日本軍が北部仏印へ進駐を開始した。
  日本軍、フランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印
 進駐)
  一部で交戦となったが、ドクー総督の指令で、9月25日
 に停戦した。
1940年9月23日、イギリス軍が、西アフリカのフランス領へ
 侵攻した。
  フランス軍に撃退された。
1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結された。
  アメリカは第二次世界大戦に参戦していなかったが、
 この三国同盟はアメリカを硬化させた。
1940年10月3日、フランス政権(ヴィシー)が、ユダヤ人並
 びに外来者に対する法を可決した。
1940年10月12日、三国同盟に対する対抗措置を取るとアメ
 リカが表明した。
1940年10月12日、ドイツ軍が、ルーマニアに進軍を開始し
 た。
1940年10月16日、アメリカが、くず鉄の対日禁輸を決定し
 た。
  また、援蒋ルートとしては、イギリス領ビルマのビル
 マ公路などを利用することで、蒋介石への援助を続けた。
1940年10月27日、メキシコが、対日禁輸を解除した。
1940年10月28日、イタリア軍が、ギリシアに進軍を開始し
 た(ギリシャ・イタリア戦争)
1940年10月28日、ドイツのヒトラーと、イタリアのムッソ
 リーニが会見した。
1940年11月5日、アメリカ大統領選挙で、フランクリン・ル
 ーズベルトが3選された。
1940年11月11日、イギリス海軍が、空母艦載機によりイタ
 リアのターラント軍港を攻撃した(タラント空襲)
1940年11月13日、御前会議で日華基本条約および支那事変
 処理要項を決定した。
1940年11月14日、ドイツ軍が、イギリス中部の都市コヴェ
 ントリーを空襲した。
1940年11月20日、ハンガリーが、枢軸国に加入した。
1940年11月22日、トルコ全土で戒厳令が敷かれた。
1940年11月23日、ルーマニアが、枢軸国に加入した。
1940年11月23日、タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発
 した。日本が仲介役となる。(11月5日説あり)
  11月25日からはタイ王国とフランス領インドシナ間の
 国境紛争が勃発した(タイ・フランス領インドシナ紛争)
  陸上での戦いでは、タイが優勢だったものの、海上で
 の戦いでフランス側が勝利した。
  タイとフランスは、第三国に仲介を求めていたが、ア
 メリカやドイツはこれに乗り気ではなく、結果として、
 日本が仲介役を行うことになった(1941年5月9日、東京
 条約締結、タイ王国とフランス領インドシナ間の合意)。
1940年11月24日、スロバキアが、日独伊三国条約に加入し
 た。
1940年11月27日、ルーマニアで、イオン・アントネスクに
 よるクーデターが起きた。
  ニコラエ・ヨルグを含む、亡命中の旧国王カロル2世の
 支持者60人以上が逮捕・処刑された。
1940年11月30日、日華基本条約調印(汪兆銘政権承認、日
 清通商航海条約破棄)
1940年12月18日、ドイツのヒトラーが独ソ戦(バルバロッ
 サ作戦)の準備を命令した。
1940年12月28日、アメリカは、この時すでに、武器貸与を
 考えていたが、この日、アメリカ大統領のルーズベルト
 は、炉辺談話(ルーズベルトが行ったアメリカ国民向け
 のラジオ演説)で、「民主主義の兵器廠」発言を行い、
 連合国への支援意図を強調した(12月29日説あり)。
1941年1月2日、日本海軍航空部隊が昆明を爆撃した(〜3日)
1941年1月6日 - アメリカ海軍が 戦艦ミズーリを起工した。
1941年1月7日、皖南事変(かんなんじへん)。
  中国・国民党軍が、移動中の新四軍(国民革命軍新編
 第四軍)を包囲し攻撃した(第二次反共攻勢)
1941年1月10日、独ソ不可侵条約更新
1941年1月17日、国民政府が新四軍に解散命令
1941年1月18日、欧州航路最終の貨物船「だあばん丸」が横
 浜に帰港した。
1941年1月20日、中国共産党が新四軍を再編
1941年1月21日、松岡外相がタイ・仏印紛争に関して調停を
 申入れ、両国受諾
1941年1月22日、中国共産党が皖南事変に抗議し、国民政府
 に国共調整臨時弁法12条を要求した。
1941年1月31日、日本の調停によりタイ・仏印紛争が妥結し、
 停戦協定を妥結した。
1941年2月1日、第1回東亜児童大会を開催した。
  「大東亜共栄圏諸国」の児童約2,800人を招待され、東
 亜共栄圏の児童による合唱、芝居などが催され、楽しん
 だ。
1941年2月3日、対独伊ソ交渉要領が決定した(日ソ国交調整)
1941年2月7日、タイ・仏印紛争調停会議が東京で開催され
 た。
1941年2月14日、野村駐米大使がルーズベルト大統領と会談
 した。
1941年2月15日、堀切駐伊大使がムッソリーニ首相と会談し
 た。
1941年2月28日、タイ・仏印紛争緊迫によりハノイの邦人引
 揚げが準備された。
1941年3月8日、野村駐米大使とハル国務長官が日米交渉を
 開始した。
1941年4月3日、ロンメル将軍のドイツ軍が、北アフリカ戦
 線でイギリス軍を撃破した。
1941年4月6日、ユーゴスラビアが、ソビエト連邦と不可侵
 条約に調印した。
  ドイツが、ユーゴスラビアとギリシャに侵攻した(ユ
 ーゴスラビア侵攻、ギリシャ・イタリア戦争)
1941年4月13日、日ソ中立条約が成立した。
1941年4月17日、ユーゴスラビアがドイツに降伏した。
1941年4月23日、ギリシャがドイツに降伏した。
1941年5月8日 - 東京条約が締結され、タイ・フランス領イ
 ンドシナ紛争が終結した。
  1941年5月9日に締結された東京条約では、フランス領
 インドシナからカンボジアとラオスの一部地域を、タイ
 に割譲するという合意が成された。
  これは、領土・権益の保全を定めた、先の松岡・アン
 リー協定に反する内容であったが、フランスはこれを受
 け入れた。
1941年5月19日、越南独立同盟(ベトミン)が成立した。
1941年5月27日、ドイツ海軍の戦艦ビスマルクが沈没した。
  エルンスト・リンデマン艦長は、甲板に残りビスマル
 クと運命を共にした。
1941年5月27日、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトが、国
 家非常事態宣言を発令した。
1941年6月、オランダ領東インド政府との交渉が決裂した。
  主要な資源供給先であるアメリカ・イギリスの輸出規
 制により、日本は資源の供給先を求めることになった。
  対象としてあげられたのはオランダ領東インドであっ
 たが、連合国であるオランダ政府が日本への輸出規制に
 参加する可能性も懸念されていた。
  日本は、オランダ領東インド政府に、資源の提供を求
 めたが叶わなかった。
  軍首脳から資源獲得のために南部仏印への進駐が主張
 されるようになった。
  また、援蒋ルート遮断も行なわざるを得ない事項だっ
 た。
1941年6月14日、16,246名のリトアニア人がソビエト当局に
 よってシベリアへ強制追放された(~6月18日)
1941年6月22日、ナチス・ドイツが、ソビエト連邦に対して
 攻撃開始(バルバロッサ作戦)し、独ソ戦が始まった。
1941年6月25日、南部仏印への進駐が決定された(南方政策
 促進ニ関スル件)
  6月30日、原案通り南部仏印進駐を行うことが決定。
1941年6月26日、フィンランドがソビエト連邦に対して宣戦
 布告した(継続戦争)
1941年6月27日、ハンガリーが、ソビエト連邦に対して宣戦
 布告した。
  ユーゴスラビアのチトーがパルチザンを組織し、ドイ
 ツ軍に対するゲリラ戦を開始した。
1940年6月28日、フランクリン・ルーズベルト大統領が国防
 力強化のため、科学者動員令を発令し、科学研究開発局
 を設置した。
1941年6月30日、対ソ戦を拒否。
  ドイツが、日本に対して対ソ参戦を申入れた。
  日本は拒否した。
1941年7月5日、駐日イギリス大使のロバート・クレイギー
 が、日本の南進について外務省に懸念を申し入れた。
  日本側は情報漏洩に驚いた。(アメリカによる諜報)
1941年7月7日、アイスランドにアメリカ軍が駐留した。
1941年7月12日、英ソ相互援助協定締結
1941年7月14日、加藤外松駐仏大使が、フランス政府の副首
 相のフランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐
 の許可を求めた。
  この日、加藤外松駐仏大使が、ヴィシー政府副首相の
 フランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐許可
 を求めた。
  フランス政府は、7月19日の閣議で、日本側の要求を受
 け入れることを決定した。
1941年7月18日、第3次近衛内閣成立(外相豊田貞次郎)
  戦後になって、マッカーサーが、フーバー前大統領と
 会談した時、マッカーサーは言った・・、
  「ルーズベルトは、1941年夏に、日本側が模索してい
 た近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努
 力をすべきだった」・・と、批判した。
  また、この様な事実を明かした米歴史家のジョージ・
 ナッシュ氏は・・、
  「この事実を記したこの著書が、今でも米国の英雄と
 されているルーズベルト大統領への歴史評価を見直すき
 っかけになってほしい」・・と、話した。
1941年7月19日、フランス政府が、日本の要求(フランス領
 インドシナ・南部仏印への日本の進駐)を受け入れると
 閣議で決定した。
1941年7月23日、ルーズベルト米大統領、シェンノート指揮
 下のアメリカ正規軍の中国配置を認可し、軍事援助を明
 らかにする。
  (アメリカは義勇空軍だと言い訳を言った。しかし、
 義勇だ何だと言おうと、アメリカの正規の軍隊なのだ。
  例えば、真珠湾へ向かう日本の軍隊を、アジアの植民
 地解放の義勇軍だと言ったって、アメリカ・イギリスは
 認めたくないだろう)
1941年7月23日、日本・仏印間に南部仏印進駐細目の話合い
 成立。
  そして、日本は、アメリカに「平和進駐である」こと
 を説明すると決めている。
1941年7月24日、日本が、フランス領インドシナに進駐する
 事をアメリカに説明した。
  野村大使とサムナー・ウェルズ国務次官の会談が行わ
 れた。
  野村大使は、南部仏印進駐がやむを得ない措置である
 とした。
  日本は、アメリカに25日も、また、27日にも、軍事占
 領ではないと説明した。
  また、豊田外相も、駐日アメリカ大使と会談し説明し
  そして、28日の進駐となった。
  結果、さらに日米間の関係は悪化する。
  アメリカは、問題をすべて、日本側に転嫁した。
1941年7月25日、アメリカが、在米対日資産を凍結(アメリ
 カは日本の進駐を、ドイツの作戦と呼応して行っている
 と誤認し、誤解した。
  元はと言えば、アメリカが戦争に介入して、中国へこ
 の地域を使って武器・弾薬を上陸させ、送っておいて・・、
 アメリカが先にこの地域を軍事的に占領し、利用してい
 ることを棚に置いている。
1941年7月26日、イギリスが在英日本資産を凍結した。
  極東アメリカ軍をフィリピンに創設した(司令官:ダ
 グラス・マッカーサー中将)
1941年7月27日、蘭印が在蘭印日本資産を凍結
1941年7月28日、日本軍が、フランス領インドシナ南部進駐
 した(南部仏印進駐)
  アメリカの援蒋ルートによる中国への武器供給が止ま
 らないため、日本は、そのルートからの供給を止めよう
 と仏印進駐をした。
1941年8月1日、アメリカが、石油の対日輸出全面禁止を発
 表(日本の息の根が止められた。すべてが破綻するのは
 火を見るより明らかだった)。
  日本に、やむをえずの早期開戦論が生まれる。
  当然、アメリカもその様になることは分かっていた。
  おおもとの石油が無くなれば破綻しかないので、どこ
 の国でもそうなるだろうという評論が多いアメリカの行
 為だった。
1941年8月18日、豊田外相が、日米首脳会談を要請した。
1941年8月25日、イギリス・ソビエト連邦がイラン進駐を開
 始した。
1941年9月3日、日米首脳会談の要請をアメリカが拒否した。
1941年9月28日、日本軍が、西貢(サイクン、香港特別行政
 区)に派遣された。
1941年10月16日、近衛首相、内閣を総辞職。
1941年10月18日、東條内閣を組閣。
1941年11月23日、南雲機動艦隊が単冠湾(ひとかっぷわん)
 に集結した。
1941年11月26日、ハル国務長官が、日本案を拒否し、中国
 撤兵要求を提議(ハル・ノート:最後通牒)
  南雲機動艦隊が単冠湾を出港。
1941年11月27日、大本営政府連絡会議が、「ハル・ノート
 は日本に対する最後通牒である」とした。
1941年12月6日、イギリスが、フィンランド・ハンガリー王
 国・ルーマニア王国に対して宣戦布告した。
1941年12月8日、真珠湾攻撃で第二次世界大戦(大東亜戦争)
 となる。
  日本、対米英宣戦布告。
  但し、真珠湾攻撃の現地ハワイの日付は12月7日。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)485E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年5月)

2017-01-25 04:52:13 | 日記
題:(増補版)485E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年4月30日、大同団結運動の河野広中ら政社組織化を唱
 え、大井憲太郎らのゆるい連合組織形成派と対立した。
1889年5月1日、東京府で、市制・町村制が施行された。
  東京15区で市制を施行し、東京市が誕生。
1889年5月3日、幸田延(こうだのぶ)が、米国留学のため
 横浜港を出発した。
  日本初の音楽留学としてアメリカ、ドイツ、オースト
 リアに留学した。
  1870年、東京の幸田家に、幸田露伴の妹として生まれ
 る。
  ピアニスト、ヴァイオリニスト、音楽教育家、作曲家。
  1895年(25歳)帰国し、東京音楽学校教授として瀧廉
 太郎、山田耕筰、久野久らを育てた。
  1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、
 未完)と、1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章の
 み)は、日本人による初のクラシック音楽作品(現在、
 全音楽譜出版社から2曲とも出版されている)。
  1915年(45歳)大正天皇御即位を祝した混声4部合唱付
 交響曲「大礼奉祝曲」を作曲した。
  1937年(67歳)帝国芸術院を設立し、会員にもなる。
1889年5月9日、正岡子規(22歳)が、常盤会寄宿舎で血を
 吐く。
  因みに、子規は、この年の4月3日から、常磐会の友人
 と2人で、菊池謙二郎の実家のある水戸まで、徒歩旅行を
 行っている。
  1902年(明治35年)9月、死去。享年34。
  東京都北区田端の大龍寺に眠る。
  辞世の句:「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
       「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
       「をとゝひのへちまの水も取らざりき」よ
 り、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、
  雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。
  因みに、獺は、「うそ」または「おそ」と読み、カワ
 ウゾの別名。
1889年5月10日、大同団結運動は、政社派が大同倶楽部を、
 連合派が大同協和会を興し、事実上分裂した。
  この日、河野広中派が大同倶楽部を結成し、大井憲太
 郎派が大同協和会を結成した。
1889年5月10日、東海道線の下等列車に洋式トイレを設置
 した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ合衆国の独立宣言について・・、
.
1776年7月4日、アメリカ合衆国の独立
  大陸会議はアメリカ独立宣言を採択(7月2日に決議)
 し、この日に、公布された。
  以下に、アメリカ独立宣言の全訳を記すが・・、
  その前に、今・現代、アメリカのどこに、その理念が
 あるのだ?・・と言いたい、
  「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創
 造主によって一定の奪いがたい権利を与えられ、その中
 には生命、自由、および、幸福の追求が含まれているこ
 とを、我々は自明の真理であると信じる」とあるが?
  これは嘘だ!!
  アメリカの人種差別は、その『極に達している』。
  人種差別国に成り下がっているではないか?
  アフリカの方々を、一番多く奴隷にして、虐げた国で
 はないか?
  創造主なんて「奪いがたい権利など与えてなんかいな
 いではないか?」。
  嘘つき創造主となっている。
  侵しがたい生命なんて嘘八百ではないか?
  ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)
 の方々を、動物の如くに「殺戮の限りをした」ではない
 か?
  自由だって、自分たちの都合よく考えて「暴力によっ
 て、蔑(さげす)むべき方法によって、奪いに、奪った」
 ではないか?
  生まれて来た子を奪い取って、自分のものとし、奴隷
 の身分に落とし、生母と別々に売ったではないか?
  「自由を奪う卑下されるべきアメリカ」となったでは
 ないか?
  幸福の追及なんて「自分たちだけの幸福」で、狭い、
 そして、狡(こす)い理念ではないか?
  今・現代だって、黒人の方々を虐げているではないか?
  奪い取りと殺戮の歴史しか、アメリカにはないではな
 いか?
  以下に、そのアメリカ独立宣言の全訳を記す・・、
  『人の営みにおいて、ある人民にとって、他の人民と
 結びつけてきた政治的な絆を解消し、自然の法や自然の
 神の法によってその資格を与えられている独立した、対
 等の地位を地上の各国のうちに得ることが必要となると
 き、人類の意見をしかるべく尊重するならば、その人民
 をして分離へと駆り立てた原因を宣言することが必要と
 されるだろう。
  我らは、以下の諸事実を自明なものと見なす。
  すべての人間は、平等につくられている。
  創造主によって、生存、自由、そして、幸福の追求を
 含むある侵すべからざる権利を与えられている。
  これらの権利を確実なものとするために、人は政府と
 いう機関をもつ。
  その正当な権力は、被統治者の同意に基づいている。
  いかなる形態であれ、政府が、これらの目的にとって
 破壊的となるときには、それを改め、または、廃止し、
 新たな政府を設立し、人民にとってその安全と幸福をも
 たらすのに最もふさわしいと思える仕方で、その政府の
 基礎を据え、その権力を組織することは、人民の権利で
 ある。
  確かに、分別に従えば、長く根を下ろしてきた政府を
 一時の原因によって、軽々に変えるべきでないというこ
 とになるだろう。
  事実、あらゆる経験の示すところによれば、人類は、
 害悪が忍びうるものである限り、慣れ親しんだ形を廃す
 ることによって非を正そうとするよりは、堪え忍ぼうと
 する傾向がある。
  しかし、常に変わらず同じ目標を追及しての権力乱用
 と権利侵害が度重なり、人民を絶対専制のもとに帰せし
 めようとする企図が明らかとなるとき、そのような政府
 をなげうち、自らの将来の安全を守る新たな備えをする
 ことは、人民にとっての権利であり、義務である。
  これら植民地が堪え忍んできた苦難は、そうした域に
 達しており、植民地をしてこれまでの統治形態の変更を
 目指すことを余儀なくさせる必要性もまたしかりである。
  今日のグレートブリテン国王の歴史は、繰り返された
 侮辱と権利侵害の歴史であり、その事例は、すべてこれ
 らの諸邦に絶対君主制を樹立することを直接の目的とし
 ている。
  それを証明すべく、偏見のない世界に向かって一連の
 事実を提示しよう。
  公共の利益のために、最も穏当かつ必要な法律に裁可
 を与えることを拒否した。
  緊急かつ切迫した要のある法律を通過させることを総
 督に禁じ、総督をして国王の裁可が得られるまでその権
 能において保留させることを課し、そのようにして保留
 させた上で(裁可すべき)法を全く閑却した。
  広範な地域の人民のための他の法を通過させることを
 拒み、その人民に、本国の立法府において代表される権
 利を放棄することを求めた。
  そのような権利は、人民にとってかけがえのないもの
 であり、これを恐れるは専制君主のみである。
  立法府を普通でない、公文書の保管所からも離れた不
 便な地に召集した。
  疲弊させることにより本国の施策に従わせんとするた
 めである。
  人民の権利の侵害に対し、断固とした雄々しい決意を
 もって反対した代議院をたびたび解散した。
  そのような解散ののち、長きにわたって新たな代議員
 が選出されるようにはからうことを拒否した。
  これにより、消滅することのない立法権限は、人民全
 体にその行使が返還されたのである。
  その間も、その邦は外からの侵略、内なる騒乱のあら
 ゆる危険にさらされていたのである。
  これら諸邦の人口を抑制せんと努めた。
  その目的のために、外国人帰化諸法を妨害し、この地
 への移民を促進する他の諸法の通過を拒み、新たな土地
 の割り当ての条件をつり上げた。
  司法権を確立させる諸法への裁可を拒否することによ
 り、司法の執行を妨害した。
  判事を、その地位、俸給額、俸給の支払いについて、
 己の意志にのみ依存せしめた。
  おびただしい数の新たな官職を創設し、この地へ官吏
 の大群を送って、我らが人民を悩ませ、我らが物資を蚕
 食した。
  平時において、我らのうちに、我らの立法府の同意な
 く常備軍を駐留させた。
  軍部を文民権力から独立させ、それに優越させようと
 努めた。
  我らを、我らが国制にとって異質で我らが法によって
 認められていない権限のもとにおくべく(本国議会と)
 共謀し、
  本来の権能を逸脱した立法府の下記の目的の諸法に裁
 可を与えた。
  我らのうちに大規模な軍を宿営させるその兵が、これ
 ら諸邦の住民に対して殺人を犯しても、みせかけばかり
 の裁判をすることによって処罰を免れさせる。
  世界各地と我らの通商を遮断する。
  我らの同意なく我らに税を課する。
  多くの場合において、陪審に基づく裁判の恩恵を奪う。
  でっちあげの罪状によって、我らを海の向こうへ移送
 して裁く。
  隣接する植民地(カナダ)において、英国法の自由な
 体制を廃し、そこに専横的な政府を設立し、その境界を
 広げることによって、その地を我らが植民地にも同様の
 専制支配を導入するための先例とし、格好の道具とする。
  我らの特許状を取り上げ、我らの貴重この上ない法を
 廃し、我らの政府の形態を根本的に変更する。
  我ら自身の立法権限を停止し、いかなる場合において
 も我らに代わって立法する権限が自分たち(本国議会)
 にあると宣言した。
  我らを国王の保護の外にあると宣言し、我らに戦争を
 しかけることによって我らの統治を放棄した。
  我らの領海を収奪し、沿岸を荒らし、町を焼き、人民
 の命を奪った。
  現在も外国人傭兵の大軍を送ってくるところで、それ
 により、最も野蛮な時代にさえその比をみない、およそ
 文明国の元首の名に値しない残虐と不実の状況を伴って
 始められた死と荒廃と専制を完成させようとしている。
  公海において捕らえられた我らが同胞たる市民に祖国
 に対して武器を取らせ、その友人兄弟を処刑するか、さ
 もなくばその手にかかって自らが命を落とすようにして
 いる。
  我らのうちに内乱をひき起こし、我らが辺境の住人に
 対し情け知らずのインディアンをけしかけようと努めた。
  インディアンの戦い方が、年齢、性別、社会的地位に
 関わりなく無差別に殺害するものであることはよく知ら
 れている。
  これらの抑圧のあらゆる段階において、我らは最も謙
 虚な言葉をもって改善を請願してきた。
  我らの度重なる請願は、度重なる侮辱によって応えら
 れたのみだった。
  このように専制君主の定義となりうるあらゆる行動に
 よって特徴づけられる資質をもった君主は、自由な人民
 の統治者たるに不適当である。
  我らは、英国の同胞に対しても注意を怠ってきたわけ
 ではない。
  折に触れては、英国の立法府が、不当な権限を我らに
 対して及ぼそうとしていることを警告してきた。
  我らが祖国を出、この地に落ち着いた事情を想起させ
 てきた。
  同胞たちの生来の正義心と度量に訴え、共通の血が流
 れる絆により、彼らがこれら、我らのつながりと交渉を
 必ずや絶ち切ることになる権利侵害を非とすることを懇
 請してきた。
  同胞らもまた、正義と血縁の声に耳を傾けなかった。
  したがって、我らは、我らの分離を宣言する必要性を
 認めざるをえず、祖国の同胞は他の人類と同様、戦時に
 あっては敵、平時にあっては友とみなさざるをえない。
  ゆえに、我らアメリカの連合諸邦(the united States
 of America)の代表は、連合会議に集い、世界の至上な
 る審判者に対し、我らが意図の正当性を訴えて、これら
 植民地のよき人民の名と権威において、厳粛に公に宣言
 する。
  これら連合植民地(United Colonies)は、自由にして
 独立な国家であり、また、そうであるべきものである。
  英国王に対する忠誠はいっさいこれなく、グレートブ
 リテンとの間の政治的なつながりは、完全に解消されて
 おり、また、そうあるべきものである。
  諸邦は、自由にして独立な国家として、戦争を行ない、
 講和を締結し、同盟を結び、通商を確立し、その他、独
 立国家が、当然の権利として行ないうるあらゆる行為を
 なす完全な権限をもつものである。
  この宣言を支えるため、神の摂理への堅い信頼ととも
 に、我らは、相互にその生命、財産、そして、神聖なる
 名誉を捧げあうことを約するものである』
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)

2017-01-21 05:18:21 | 日記
題:(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年4月11日、甲武鉄道(中央線)、新宿駅~立川駅間が
 開通した。
  この甲武鉄道開通時の錦絵がある。
  それには、甲武鉄道沿線の名所旧跡が紹介されている。
  それには、小金井桜、玉川、高尾山の説明文がある。
  その錦絵には、中央の下に新宿停車場が描かれ、そし
 て、立川停車場に向かって行く蒸気機関車が描かれてい
 る。 
  左上に富士山、高尾山、御嶽山の遠景があり、
  御嶽山の方から流れているのが玉川(多摩川)(中央
 左側)で、羽村からは、玉川上水が東京市街地に向かっ
 て流れている。
  玉川には、立川と日野との間に甲州街道の橋が架けら
 れてる。
  西南戦争の戦費調達等のため、国は膨大な財政支出が
 迫られ、国家財政は窮地に立っていた。
  そこで、民間に任せたほうが望ましい分野は民営化し
 ようという方針の国。
  その様な中で、国は、1881年(明治14年)「私設鉄道」
 を認める方向に転換した。
  約10年間続けた「官設官営鉄道」に終止符を打った。
  そして、甲武鉄道の敷設・・さまざまな反対運動があ
 った。
  甲州街道で栄えていた府中や調布は、商人、宿屋、人
 力車夫などが、客がとられるといって反対した。
  農家もまた、汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害すると、
  火の粉がわらぶき屋根にかかって火事になると、
  家畜に悪影響が生じるといったいろいろな反対理由が
 叫ばれた。
  また、中野でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西に
 貫いて行くという計画に対して、
  地主や村民等が・・「鉄道は村を衰微せしむ」という
 理由をぶち上げた・・頑強な反対運動を展開した。
  こうした反対運動のために・・、
  甲武鉄道は、やむなく・・計画を大きく変更した。
  そして、えい!やー!・・っと、抵抗の少なかった武
 蔵野の原っぱを・・原野を、現在の東中野あたりから立
 川までを、定規で一直線に引っ張った・・そして、敷設
 した。
  1889年(明治22年)4月11日のこの日、後に中央線とな
 る甲武鉄道が・・、
  内藤新宿駅と立川駅間の27.2kmで開通した。
  内藤新宿より中野・境(武蔵境)・国分寺の3駅を経て、
 立川まで運行された。
  新宿を午前7時14分に出発した列車は、立川駅に予定時
 間の8時14分に到着した。
  新宿から1時間。
  新宿駅発7時14分~中野駅7時25分~境駅7時48分、国分
 寺駅8時1分、途中の各駅に1分間停車し、終点の立川駅に
 8時14分に到着。
  列車のスピード:平均時速30kmだった。
  北海道の原野の様な中野駅構内に停車している明治39
 年の蒸気機関車が写る写真がある(複線)。
  車両は、イギリスから直輸入したナスミス・ウィルソ
 ン社製の軸配置1B1型(先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)・
 タンク蒸気機関車(国鉄400形蒸気機関車)
  客車は、「マッチ箱」と呼ばれた箱型客車。
  運行は、午前・午後2本ずつ、1日4往復。
 (内藤新宿駅発、7時9分、10時0分、14時30分、17時30分)、
 (立川発、8時40分、11時40分、16時10分、18時55分)
  運賃は、上等・中等・下等と3段階に分け、運賃の基準
 は、下等は1マイル(約1609m)1銭で、中等は下等の2
 倍、上等は下等の3倍。
  1889年(明治22年)は、もり・かけそばが1銭なので、
 かなり高額。
  立川~八王子間はわずか9.7kmしかないが、鉄道架橋
 が計画した工期以上にかかり遅れた。
  1889年(明治22年)7月に多摩川本橋(約418m)、浅
 川橋(139.5m)が完成。
  この架橋の完成で、立川~八王子間は、新宿~立川の
 開業から4ヶ月遅れの1889年(明治22年)8月11日に開業
 する。 
1889年4月16日、メートル法条約に加盟する(1885年説あり)。
  メートル法条約は、メートル法による度量衡標準の国
 際的統一、および、その完成を目指して、1875年5月20日、
 パリで締結された。
  14ヵ条の本文と 22ヵ条の付則と6ヵ条の過渡規定から
 成り、パリに度量衡万国中央局を設置すること、国際度
 量衡委員会、国際度量衡総会その他を規定している。
  日本は、1885年(明治18年)に加盟手続を終わってい
 たが、公布されたのは翌年・1886年4月16日であった。
  メートル条約が締結されると、フランス政府は、各国
 に対して加盟の呼びかけを行い、日本にも、駐独公使を
 通じて勧誘してきたが、政府の意見は一致せず、
  1884年(明治17年)重ねての勧誘の際、新たにメート
 ル原器とキログラム原器をつくって加盟国に配布する旨
 の通知に接して加盟が定まった。
  日本のメートル法化(にっぽんのメートルほうか)と
 は、1885年のメートル条約加盟と、1891年の度量衡法公
 布により始まった。
  1884年、新たに原器を製作するとの報に接し、これを
 機にメートル条約への加盟が決断された。
  1885年10月9日に加盟手続を終わり、
  翌1886年4月16日にメートル条約(明治19年4月20日勅
 令)として公布された。
  日本の原器は、抽選によりメートル原器はNo.22、キロ
 グラム原器はNo.6とされ、
  1889年に在パリ公使館の大山綱介・書記官が受け取り、
  翌1890年4月に日本に到着した。
1889年4月16日、静岡駅~浜松駅間の鉄道が竣工して開通し、
 開業した。
  ここに初めて東海道全線(官設鉄道)が開通した(7月
 説あり)
  日本は、この様に、国家建設のため地道に努力を積み
 重ねて来た。東海道線も全線開通した。
1889年4月19日、ロンドン・タイムスに大隈重信(外相)条
 約改正案が掲載され、論評が載る。
  以後、反対世論高まり、猛烈な批判を招いた。
  井上馨が努力していた条約改正を引き継いだ大隈外相
 は、各国と交渉を続けていたが、ロンドン・タイムスに
 報道されてしまう。
  井上馨は、妥協した改正案で・・、
  「領事裁判権の撤廃、輸入関税の一部引き上げの代わ
 りに外国人裁判官を任用し、内地雑居を認める」とした。
  大隈重信の改正案は・・、「外国人判事任用を大審院
 に限る」とした。
  そして、比較的理解を示していたアメリカ・ドイツ・
 ロシアと秘密裏に個別に交渉していた、調印する・・が、
 発効せず(メキシコとは対等条約を締結済み・1888年11
 月30日に締結)、
  しかし、イギリスの新聞:ロンドン・タイムスが・・
 大隅改正草案を掲載した。
  そして、既に締結したメキシコとの条約が内地雑居を
 認めるのなら・・イギリスは最恵国待遇なので、同じ様
 に認めるのだねと論評した。
  大隅は、これを、最恵国有条件主義を唱えて拒否した。
  日本国内でも違憲論が起き、話はこじれていく・・、
  大隅がテロに遭い負傷し・・条約改正交渉中止となる。
1889年4月21日、民法財産編を公布した(1890年説あり)
  1890年(明治23年)3月:民法(財産編、財産取得編、
 債権担保編、証拠編)公布
  1890年(明治23年)に、公布された民法典の施行をめ
 ぐって論争が展開された。
  日本における民法典編纂は、ボアソナードの指導のも
 と、フランス民法典を範として進められ、
  1890年公布し、1893年に施行されることになっていた。
  しかし、1889年、イギリス法学系の法学士会が・・、
  「法典編纂ニ関スル意見書」を発表、
  民法典と商法典との不統一などを指摘して慎重論を展
 開すると、法典の実施可否をめぐって激しい論争が繰り
 広げられた。
  特に、延期派の穂積八束が、「民法出テテ忠孝亡フ」
 を著して、日本固有の家族制度を美俗と捉える立場から
 民法実施に反対した。
  これは大きな影響力をもった。
  これに対し、断行派の梅謙次郎や岸本辰雄らは、フラ
 ンス法的市民法原理にもとづいた民法実施の必要性を強
 調した。
  結果的には、1892年の第三議会で、民法・商法を延期
 する法律案が可決されて延期が決定した。
  論争は、固有法と継受法の衝突、イギリス法・フラン
 ス法・ドイツ法の学派的抗争、自然法学と歴史法学の対
 立のほか、立法技術や条約改正をめぐる問題、実業界と
 政界の思惑など複雑な要因が絡み合って展開されたが、
  その後、法典調査会で審議・修正された新民法は、ド
 イツ民法を模範に、戸主権を重視した家中心のものとな
 った」(日本思想史辞典)
  民法典論争は、1890年(明治23年)に公布された民法
 (旧民法)の施行時期をめぐり、延期派と断行派の間で
 行われた論争のことで、不平等条約を撤去する条約改正
 を実現するため、近代的な基本法典の制定を迫られてい
 た明治政府は、フランス人の法学者ボアソナード、G. E
 に民法草案の起草を依頼し、旧民法が公布された。
  しかし、公布の前から、延期派は、その個人主義的な
 性格が日本社会の淳風美俗の根本にある伝統的な家族道
 徳を損なうものとして法典の編纂に反対した。
  その際に発表され世間の注目を集めたのが、延期派の
 中心人物、穂積八束の論文「民法出デテ忠孝亡ブ」(『
 法学新報』第5号)だった。
  激しい論争の末、1892年に、帝国議会で延期が決定さ
 れ、結局旧民法は実施されず、論争は延期派の勝利に終
 わった」。
  (参考-1)
  1887年(明治20年)10月、諸法典編纂の事業を完成す
   るために、法律取調委員会を設置。山田顕義司法大
   臣を委員長とする。
  1887年(明治20年)11月、井上馨失脚に伴い、民法編
   纂、司法局に戻る。
  1888年(明治21年)民法典第一草案成立
  1889年(明治22年)民法典論争(~1892年)
  (参考ー2)
  改めて民法の編纂に取り掛かり、財産権、財産取得編
 の主要部分、債権担保編、証拠編をボアソナードに起草
 させる一方(一部を除き現行民法の財産法部分に相当)、
 人事編及び財産取得編中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産
 契約に関する部分(ほぼ現行法の家族法部分に相当)は
 特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるというこ
 とから、熊野敏三、磯部四郎などの日本人委員に起草さ
 せた。
  1888年(明治21年)に、ボアソナード担当部分の草案
 が成立し、
  1889年(明治22年)に、元老院の議決を経て
  1890年(明治23年)4月、『民法財産編・財産取得編・
 債権担保編・証拠編』(明治23年4月21日法律第28号)と
 して公布、
  1890年10月、残部についても、この時に『民法財産取
 得編・人事編』(明治23年10月7日法律第98号)として公
 布され、
  1893年(明治26年)1月1日、双方とも、この時から、
 実施すべきものと定められた。
  この法律28号、第98号が旧民法。
1889年4月25日、宮武外骨(みやけがいこつ)の不敬事件に
 禁錮3年、罰金100円の判決。
  外骨は、控訴した。
1889年4月26日、大阪府警本部が、大阪壮士倶楽部の解散と
 壮士募集広告の取り消しを命令する。
  壮士とは、自由民権運動の活動家の事を言うが・・、
  明治二十二年のこの時、「大阪朝日新聞」などの大阪
 の新聞に奇妙な広告が載る。
  勇悍猛烈の壮士二十名募集す内十七名は散宿せしめ学
 費を給し三名は同居を諾し学費を給す。
  北区天満橋筋一丁目大阪壮士倶楽部取締、菅野道親
  これは何だ?と・・新聞は取り上げた・・そして、記
 した。
  「世に巡査の募集とか生徒の募集とか将(は)た雇人
 の募集とか申すこと屡々あれど壮士の募集とはまた希有
 なるべし」・・と。(明治二十二年四月二十二日)
  そして、これが、「治安に妨害あり」と認められ・・、
  そして、募集差止並に壮士倶楽部解散を命ぜられたる」
 となった。
  しかし、今度は・・
  「温厚篤実の壮士二十名募集す」という広告に切り替
 えられて、再び、募集記事が出た。
  しかしこれも・・、
  「如何なる冠詞を附するも壮士募集は総て治安を妨害
 する趣(おもむき)、内務大臣の訓令なりとて、警察本
 部より差止めら」れた・・
  そこで・・
  「募集を取り消す」という広告まで出された。
1889年4月26日、日本画家・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)
 死去。
  弟子の中に鹿鳴館設計者のコンドルが居た。
  3歳で初めてカエルを描き、7歳で浮世絵師の国芳に入
 門した。
  1831年(天保2年)、現在の茨城県古河市に藩士・河鍋
 記右衛門の次男として誕生した。
  数え年2歳で家族ともども江戸に移り住んだ。
  絵が格別に好きな幼少時代、他の遊びや菓子を食べる
 のも忘れて絵を眺めたという。
  わずか7歳で浮世絵師の歌川国芳に入門した。
  1839年5月(8歳)梅雨による出水で、神田川に浮かん
 だ生首を写生して、周囲を驚かせたという。
  珍しいもの何でも写生をしたという・・。
  1840年(9歳)国芳の侠気(きょうき、おとこぎ)と品
 行を心配した父は、国芳の元から駿河台の狩野派絵師・
 前村洞和愛徳の門に替えた。
  前村洞和愛徳は、周三郎(暁斎の幼名)の画才を見込
 んで「画鬼」と呼び、可愛がった。
  異例の若さといわれる19歳の1847年(嘉永2年)「洞郁
 陳之」(とういく・のりゆき)の号を授かって、狩野派
 の修業を終えた。
  幕末・明治の動乱期、強烈な個性を前面に押し出し、
 日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師だった。
  この群を抜いた筆力・写生力で海外でも高く評価され
 ている天才絵師が、この日に没した、享年58歳だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカも・・日本と同じように・・戦争に突入させられて行く・・
    (変な大統領を・・選んだからだ・・)
.
1933年1月30日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代ア
 メリカ大統領になる約1ヶ月前のこの日、ドイツのナチス
 のヒトラーが、首相の座に就いていた。
  ルーズベルトが、何故か? また、愚かにも、演説が
 ヒトラーに似ている事の疑問が・・解けた。
  ヒトラーの首相就任後の約5週間後に、大統領になった
 アメリカ大統領ルーズベルトは、ヒトラーに強く影響さ
 れていた。
  ヒトラーと同じ様な調子で「アジ演説」をアメリカ国
 民の方々へした。
  ヒトラーと同じような調子で、感情的に、アメリカ国
 民の方々を煽(あお)る演説をして、「戦争をする特権
 をくれ」と言っていた。
  そして、ヒトラーが、国家統制経済で産業を効率的に
 して行きたいとしたが、
  ルーズベルトも、同じ考えで、国家復興庁(NRI)
 で産業効率を良くしたいとした。
  ルーズベルトは、ヒトラーと高い類似性がある大統領
 だった。
.
  題:アメリカは・・人格的な欠陥の大きい大統領によって・・戦争に突入して行った・・
.
1940年5月16日、ルーズベルトは、この頃、明らかに戦争を
 する、戦争したいと想定していて、軍備増強をアメリカ
 上下院の合同議会で訴えた。
  議会は、ルーズベルトの戦争思考に反発し、戦争回避
 運動を展開し、反発した。
  また、アメリカ国民の方々も、ルーズベルトの危険な
 戦争思考に反発した。
  多くの様々な団体が、強く反発した。
  また、個人も、例えば「リンドバーグ」らも反発した。
  この頃、陰湿な事だが、ルーズベルトは、陰の世界(
 裏社会)で働く輩を持っていた。
  ルーズベルトの意を受けた大統領首席報道官のスティ
 ーブ・アーリーは、その陰の暗躍者へ連絡を取った・・、
  「大統領のお願いですが、大統領がした軍備増強の演
 説以来、軍備増強に反対する電報が、数多く舞い込んで
 いる。
  その差出人が誰かを掴(つか)んでもらいたい」と。
  このルーズベルトに便利に使われていたのがジェイ・
 エドガー・フーバーだった。
  この男は、アメリカ連邦捜査局(FBI)の前身の司
 法省捜査局長だった。
  ルーズベルトは、この男を『闇の情報屋』という使い
 道を掴んでいた。
  この男とルーズベルトとのつながりは、1933年に、ル
 ーズベルトが政権の座に就(つ)くと、フーバーの方か
 らルーズベルトへ近づき、「地位の継続」を求めた。
  1934年には、ルーズベルトは、アメリカのナチズムの
 信奉者を調べる指示を出している。
  フーバーの過酷なのは、プライバシーの闇の部分に大
 きく踏み込むところだった。
  ルーズベルトは、そこに価値を見出した。
  ルーズベルトは、調査対象をさらに広げた・・、
  政敵も調査させた。
  ルーズベルトを厳しく批判した前大統領(第31代アメ
 リカ大統領ハーバート・フーバー)も調べさせた。
  ルーズベルトは、その様な分厚い調査資料を貰い、喜
 んだ。
  そして、思わず、「こんな価値ある報告書を本当にあ
 りがとう」と言った。
  また、異例な行為である、感謝状まで送ったこともあ
 った。
  ルーズベルトは、卑劣にも、大恐慌や戦争を言い訳に
 して、「違法な捜査を奨励」した。
  危機の時代だからいいのだと・・、まったく自分勝手
 な理由を付けて・・違法行為をさせていた。
  ファシストと共産党も、ルーズベルトは命令を出して、
 監視させた。
  1939年6月26日には、大統領令を出し、スパイ、破壊活
 動防止の権限をFBIと陸海空の情報部へ与えた。
  アメリカは、監視国家となった。
  ルーズベルト大統領夫人エレノアの禁断の密会情事も、
 こんなアメリカの監視社会から分かった。
  FBIは、ルーズベルト大統領の直属の様な汚い情報
 を貢(みつぐ)組織に成り下がっていた。
  「盗聴器を仕掛けること」を命じるハレンチなルーズ
 ベルト大統領だった。
  その記録が残っている。
.
  そして・・、
.
1940年夏、ランドルフ(A・フィリップ・ランドルフ、黒
 人指導者)が、フランクリン・ルーズベルトと会談し、
 「黒人の地位向上」を訴えた。
  この時点で、アメリカ海軍の総人員は、13万9000人だ
 ったが、黒人のアメリカ海軍軍人は皆無、0人だった。
  完全な人種差別状態だった。
  雑役夫と料理係に4000人の黒人の方々が居た。
  日米開戦後、人員不足で、アメリカは、やむを得ず黒
 人の方々を採用したが、
  それでも差別は止まらなかった。
  黒人の方々は、「艦船で、白人の軍人と一緒に戦うこ
 とが禁止されていた」。
  卑劣極まりないアメリカと、日本は戦っていた。
  大半の黒人の方々は、雑役か、港湾での爆弾運びの仕
 事だった・・悲劇が起きた・・
  1944年7月17日、サンフランシスコの軍港で爆弾が爆発
 した。
  大音響が轟いた。
  黒人雑役兵が、爆弾を運んでいた。
  近くの兵舎も吹き飛んだ。
  320人が即死し、390人が重軽傷を負った。
  アメリカの規則で、従事していたのは黒人の方々だけ
 だった。
  故に、犠牲者の大半は、黒人の方々だった。
  黒人の方々は、黒人の方々だけが、危険な仕事に従事
 させられて来たことに反発した。
  当然だった。
  また、この事故後のアメリカの国の対応でさえも、人
 種差別行為をしていた。
  事故後、白人将校達には、この事故を理由に「1ヶ月の
 休暇」が与えられたが、
  黒人の方々・雑役兵に対しては、何の配慮もされず、
 休暇は与えられなかった。
  黒人の方々・雑役兵は、「爆弾運びを拒否した」。
  そして、復帰命令に反発して、現場復帰をしなかった
 50人には、「反逆罪」が課せられた。
  そして、「15年の強制労働」という卑劣な厳罰が下さ
 れた。
  この時から50年を経た後に・・、
  クリントン・アメリカ大統領(第42代大統領)は、こ
 の人種差別の酷(ひど)いアメリカの状況を反省し、
  50年月以上をさかのぼって、この時に厳罰を下された
 一人の黒人兵に、嘆願を受け入れ、
  50年以上さかのぼって恩赦を与えた。
  今・現在の時点でも、アメリカは、人種差別をし、人
 種差別の恩赦を与えるという行為をしなければならない
 『遅れた国の実態』となっている。
  日本の事を内政干渉するべきアメリカという国の状態
 ではない。
  このランドルフ氏は、ワシントン行進を計画(軍需産業
 及び、政府内の雇用における人種差別を禁ずるという大
 統領行政命令8802号を引き出すという功績を残した。
  黒人指導者として頭角を現していたランドルフは、事
 態打開のために、この「ワシントン行進」を提唱し、こ
 の運動が戦時態勢下に実行されることを危惧したルーズ
 べルト大統領から、軍需関連産業における雇用差別を禁
 止する大統領行政命令第8802号を勝ちとるとともに、
  この行政命令の実施状況を監督する機関、公正雇用委
 員会を設立させた。
  A・フィリップ・ランドルフ(1889年~1979年)は、
 労働運動指導者、公民権運動家で、
  フロリダ州クレセント・シティに生まれた。
  ニューヨーク市立大学に学び、仲間と共同で職業紹介
 所を創設した。
  1917年(28歳)には、アフリカ系アメリカ人労働問題
 月刊誌「メッセンジャー」を発刊した。
  1925年(36歳)アフリカ系アメリカ人労働組合の最初
 の成功例、寝台車ポーター友愛会を設立した。
  1940年(51歳)アメリカ大統領と会談して、国人の地
 位向上を訴えた。
  1941年(52歳)大統領行政命令8802号を出させた。
  1944年(55歳)7月、サンフランシスコの軍港で爆弾が
 爆発し、黒人の方々が、大勢、亡くなった。
  1948年(59歳)トルーマン大統領に働きかけて軍隊内
 の人種差別を廃止させた。
  1960年(71歳)黒人アメリカ労働会議を結成した。
  1963年(74歳)公民権を求めるワシントン大行進を指
 揮した。
.
  そして・・、
.
1941年12月9日(アメリカ東部時間12月8日)、日本の真珠
 湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルトは、アメリ
 カ議会へ急いだ。
  日本への宣戦布告を議会に承認してもらうためだった
 (日本の、アメリカへの宣戦布告は、すでに、なされて
 いる)。
  ルーズベルトは、普段は、スピーチライターに演説文
 を書いてもらっているが、この時は、自分で書くとした。
  当初の演説草稿は、「昨日、12月7日は、世界史に残る
 日となるでしょう」で書き始められていたが、
  「世界史」の部分が、「汚辱」に書き換えられた。
  日本の攻撃行為や、攻撃個所などが生々しく書き加え
 られて行った。
  卑劣な演説文となって行った。
  日本を、「だまし討ち攻撃」をしたという印象を持た
 せようとした。
  そして、「汚辱の日を忘れるな」という呼びかけがな
 された。
  このルーズベルトの「汚辱の日」から、アメリカ国民
 の方々は、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘
 れるな〉」が生まれ、そして、誓った。
  しかし、こんな話、すべてが、ルーズベルトが仕組んだ
 ことだった。
  この様にして、議会演説書をルーズベルトは作った。
  ルーズベルトは、「劇的な効果を狙いたい」という狙
 いがあったことを、後に、手紙で友人へ書き送っている。
  そして、「大衆心理、あるいは、個人の心理状態を配
 慮した」と言った。
  そこまで考え、「煽(あお)る」ルーズベルトだった。
  ルーズベルトが、演壇に立った時、会場は熱狂に近い
 状態になっていた(ヒトラーの熱狂と同じだった)。
  ルーズベルトが、すぐに、演説を始められないほどだ
 った。
  アメリカ国民の方々は、この熱狂にあおられた。
  火付け役が、ルーズベルトだった。
  ルーズベルトは、「改革十字軍」という言葉を使った。
  「改革十字軍を助けてほしい」と言った。
  「武器をとれ」と言った。
  ヒトラーの『アジ演説』と何ら変わらない状況だった。
  アメリカは、戦争に引きずり込まれて行った。
  (日本が引きずり込まれ・・そして・・アメリカが引
 きずり込まれて行った)
.
  そして・・、
.
1946年、フーバー元大統領が訪日し、マッカーサーと会談
  フーバー元大統領が批判・・「ルーズベルトは狂気の男」
  (産経新聞、2011年12月7日、22:41)
  【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31
  代米大統領(1874年~1964年)が、日本軍が1941年12月
 8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフラ
 ンクリン・ルーズベルト(第32代1882年~1945年)につい
 て、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い
 込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分
 かった。
  米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だ
 ったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM 
 BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。
  真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦
 する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。
  ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうと
 した・・などとする「陰謀説」が日米の研究者の間で浮か
 んでは消えてきたが、
  米大統領経験者が、「陰謀説」に言及していたことが判
 明したのは初めて。
  ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領の
 トルーマンの指示で戦後の日本などを視察。
  1946年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)の
 マッカーサー元帥と会談した。
  その際、フーバーは、マッカーサーに対し、日本との戦
 争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』
 の願望だった」と指摘。
  在米日本資産の凍結など1941年7月の経済制裁は「対独
 戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込も
 うとしたものだ」と語ったという。
  マッカーサーも、「ルーズベルトは、1941年夏に、日本
 側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争
 回避の努力をすべきだった」と批判していた。
  著書では、フーバーが、「米国から日本への食糧供給が
 なければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろ
 う」と、マッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたこ
 とも詳細につづられており、
  フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなって
 いる。
  ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされて
 いるルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけに
 なってほしい」と話している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)483E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年4月)

2017-01-18 03:40:51 | 日記
題:(増補版)483E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年3月22日、横浜相生町が大火となり、1600戸が焼失し
 た(1890年3月説あり)
  1889年4月、横浜は、市制を施行した(戸数:26000戸、
 人口:11万6000人)。
  そして、従来の消防を廃止し、新たに横浜警察署に移
 管した。
  そして、ホース絡車の消防隊を編成し、各派出所ごと
 に絡車1台に消防夫3人をもって1分隊とし、取締役1
 人を配置した。
1889年3月23日、北海道で麋鹿(となかい)保護のために、
 鹿猟が禁止となる。
1889年3月23日、土地台帳規則が制定された。
  地券と地券台帳を廃止し、地租は、土地台帳に記載さ
 れた地価を基準として徴収する旨が公布された。
  地券(ちけん)とは、明治初期に土地の所有権を示す
 ために明治政府が発行した証券のこと。
1889年3月31日、佐渡と生野の両鉱山が、帝室(皇室)財産
 に編入されて、宮内庁御料局の所管となり生野支庁と改
 称された。
  フランス人技師フランソア・コワニェ(薩摩藩当時に、
 領内の鉱業振興のために雇用されていた)と共に、生野
 銀山の近代化に取り組んできた朝倉盛明は、
  御料局移管と同時に、御料局理事生野支庁長に昇進し
 た。
1889年3月、由良要塞が起工された。
  由良要塞(ゆらようさい)は、大日本帝国陸軍の要塞
 の一つ。
  大阪湾防衛の目的で、紀伊半島と淡路島の間の紀淡海
 峡周辺に作られた。
  歴史・・、
  1889年(明治22年)3月、生石山第三砲台を起工、由良
   要塞の建設開始。
  1896年(明治29年)7月、由良要塞司令部開設
  1898年(明治31年)10月8日、司令部は兵庫県津名郡由
   良町に移転[2]。
  1903年(明治36年)5月、鳴門要塞を吸収合併
  1904年(明治37年)2月、動員下令(日露戦争)
  1913年(大正2年)4月、佐瀬川保塁、深山第一砲台、
   深山第二砲台、赤松山保塁、伊張山保塁、成山第一
   砲台、成山第二砲台廃止の方針が出た。
1889年4月1日、2府32県で市制・町村制が施行された。
  弘前市、横浜市、久留米市など31都市が選ばれる。
  横浜に市制が施行された(2万5000戸、人口:11万6000
 人)。
  1888年(明治21年)4月25日に市制と町村制が公布され
 この日に、施行された。、
1889年4月7日、大阪北野茶屋に9階建ての凌雲閣が落成した。
  同名の建物が東京の浅草にもあるが、これは、「浅草
 十二階」とも呼ばれた建物で1890年11月11日に開館した。
  そして、この大坂の凌雲閣は、大阪・北野茶屋町の遊
 園地「有楽園」内にたてられていて、9階建て、高さ39メ
 ートルだった。
  この9楼凌雲閣に先立つ1888年には、浪速区日本橋の遊
 園地「有宝地」内に、5階建て、高さ31メートルの眺望閣
 が造られていた。
  「キタの九階」「ミナミの五階」と呼ばれ、
  眺望閣は、六角柱状パノラマ式高塔で、日本で最初の
 西洋式高層建築といわれ、周囲には露天街もでき、1904
 年に解体されたが、通称としての地名が現在でも残って
 いる。
1889年4月8日、帝国大学文科大学に、中学校教員養成のた
 め、特約生教育学科を開設した。
  東京大学の教育学の教育は、1887年(明治20年)に始
 まった。
  その講義を担当したドイツ人教師が、エミール・ハウ
 スクネヒトだった。
  これが、東京帝国大学文学部教育学科の発祥点である。
  そして、彼の講じた教授理論(ヘルバルト派教授理論)
 が、その後、明治中期から後期にかけての、日本の教育
 学界、及び、教育現場の動向を強く規定していく。
  彼の携えて来た教授理論の影響力の大きさの故に、日
 本の近代教育学史・教育史のうえで、極めて重要な位置
 を、これが占めている。
  彼が、帝国大学に着任したのは1887年(明治20年)1月
 で、その翌々年の1889年(明治22年)2月から、帝国大学
 文科大学に「特約生教育学科」という特別の仮定が置か
 れた。
  そして、1890年(明治23年)には、12名の「特約生」
 が、その課程を卒業して行った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:高度な文明国なのか?
.
1933年9月、初秋のニューヨークの大通りが、25万人のデモ
 行進の群衆で埋まった。
  記録的な群衆だった。
  茶色の制服を着て、胸に青鷲(あおわし)の記章を付
 けた人々も居た。
  沿道は150万人の人々が居た。
  「私たちは国(アメリカ)のための役割を果(は)た
 している」と訴えていた。
  フランクリン・ルーズベルト政権へのアッピールと不
 満があった。
  ルーズベルトは、法改正などで強大な権力を得て、ま
 た、次なる権力も得ようとしていた。
  ルーズベルトは、「アメリカ企業をコントロールしよ
 うとしていた」。
  1933年4月12日の記者会見では、「アメリカ企業は、馬
 鹿げた過剰生産をしている」と、ルーズベルトは、不満
 を口にしていた。
  そして、「何とか規制したい」と言っていた。
  ルーズベルトの考え方は、「市場を放任しているから
 シッチャカメッチャカになるんだ」という考え方だった。
  「そんな、市場の放任の考え方は、今や破綻(はたん)
 している」と言った。
  「私は、自分のやり方(市場を放任状態にしない)が
 正しいと確信している」と言った。
  資本主義を救うには、ある程度の規制が必要だという
 考え方だった。
  ルーズベルト批判派は、「ニューディールは、ファシ
 スト運動だ」と批判した。
  しかし、ルーズベルトが、不況の克服の特効薬として
 推進した一連の構想は、1年も経(た)たない内に、次々
 と行き詰って行った。
  ルーズベルトの「ニューディール政策は、うまく行っ
 た」という話は、真っ赤なウソである。
  プロパガンダ(嘘宣伝)である。
  ルーズベルトが、不況克服のために、戦争需要を得て、
 景気刺激をしたがるのは、この点から発していた。
  その相手をさせられた日本が可哀想だった。
  可哀想を通り越し、それでは済まされない怒りが湧く・・、
  ルーズベルトが進めた「アーサーデール入植」も失敗
 する。
  金をいくら注ぎ込んでも駄目だった。
  内務長官(ハロルド・イッキーズ)は・・、
  「どんどん予算は膨張するし、まるで酒飲みの水兵が
 (酒代に給料のすべてを)注ぎ込むようなものだ」と、
 非難していた。
  こんな具合のものばかりのニューディール政策を・・、
 「成功した」と言いたかったアメリカは、
  経済復興のために戦争をしたと、本当のことを指摘さ
 れたくなかったからだった。
.
  そして・・、
.
1934年9月20日、アメリカにあった革命未遂。
  革命未遂の事は、アメリカのそのクーデター計画が、
 事前に暴露された事から判明された。
  1934年9月20日、計画が暴露された「アメリカ下院の非
 アメリカ特別委員会」は、アメリカ海兵隊の退役軍人ス
 メドレー・バトラー少将を証人として尋問した。
  少将は、明確に証言した、「ファシストによるクーデ
 ター計画が存在する」・・と。
  このバトラーに、ウォール街の債権ブローカーのジェ
 ラルド・マクガイアが接触して来たのは、1933年初秋の
 頃で、この約1年前のことだった。
  マクガイアは説明した、「ルーズベルトのニューディ
 ール政策は、アメリカの企業家精神を蝕(むしば)んで
 いる」・・と。
  そして、アメリカを救うには貴方(バトラーのことを
 将軍と言った)が・・「退役軍人を組織して立ち上がら
 ねばなりません」
  「ルーズベルトを軟禁するのです」
  「新政府を樹立すべきです」・・と。
  特別委員会の委員は、最初は、信じられないという表
 情をした。
  ジョン・マコーマック委員長も信じられないという様
 子だった。
  しかし、話を聞いて行くと・・、
  「バトラーが資金を300万ドル提示された」という話や、
  「有名企業のシンガーミシンの会長ロバート・クラー
 クが、5000万ドルもの軍資金を、すでに用意していた」
 という話や、
  「生活に困っていた退役軍人の兵士が、50万人、動員
 されることになっている」という話や、
  「銃は、レミントン社」が、
  「火薬は、デュポン社がまかなう」など・・、
  具体的な話が続くと委員たちは唖然(あぜん)とした。
  説明は、具体的で詳細だった。
  その基底に、ニューディールの批判を続けていて、強
 めていた「アメリカ自由同盟」の面々が連なっていた。
  マコーマック委員長は、その事実性を強め、心証を強
 めた。
  実際、フランクリン・ルーズベルトは、深刻な不況と
 はいえ、自由の国・アメリカで、「経済の国家統制」と
 いう、当時のファシズムや共産主義のような政策を行な
 っていた。
  この流れの先に・・、この国で初めての「政府転覆」
 という大掛かりな政治暴力がなされようとしていた。
  マコーマック委員長は、記者会見で、「バトラーは、
 証拠を持っている」と言った。
  そして、事件追求に自信を見せた。
  しかし、12月に入ると、不思議な事に、何故か? 公
 聴会は開かれなくなり、
  アメリカ国民の方々をつんぼ桟敷に置き、秘密のベー
 ルが降ろされた。
  そして、不明のうちに、その翌年の1935年2月に・・、
  証拠不十分として、追及は取り止めにするとされた。
  そして、委員会が、追及を中止した直後の1935年3月、
 マクガイアは、急に病死した。
  『反ニューディール勢力』は、以後、強い監視下に置
 かれた。
  「ルーズベルト潰(つぶ)し集団」のレッテルが貼ら
 れた。
.
  そして・・、
.
1936年頃、フランクリン・ルーズベルト大統領を・・、
  何か?おかしい大統領だと・・アメリカ国内でも、多
 くの方々が、その様に見ていた。
  国益をアメリカにもたらそうとするアメリカ大統領な
 のだが・・、
  共産主義のソ連と、枢軸国側(ドイツ、日本、イタリ
 ア、オーストリー)を共通の敵として戦っている間は、
  こだわりなく・・同じテーブルに座っていた。
  しかし、愚かにも、そのドイツや日本の枢軸国側の敗
 退が見えて来た頃より、
  まだまだ、戦いが続いているというその戦争中に・・、
  次なる敵が・・また、新たに見えてきたという輩たち
 だった。
  昨日まで、同じテーブルに座っていた者たちが、敵に
 見えてきた輩たち。
  連合国側のアメリカ・イギリスに対抗する共産国=ソ
 連が・・その敵対相手だと・・。
  愚かさの極みだった。
  キリスト教の「異端の排除教義」に洗脳され、毒され
 た者たちだった。
  ルーズベルト政権に居たホワイトは、「根っからの共
 産主義ではなく・・むしろ共産主義という理念が・・理
 想に見えた輩だった。
  そして、ソ連へ情報提供するというスパイ活動をした
 輩となった。
  ベンレートが言うように・・ルーズベルト政権には、
 ソ連のスパイたちが「うようよ」と居た。
  アイゼンハワー政権のブラウネル司法長官が・・、
  1953年11月に、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 「ホワイト以外に、カリーや、陸軍省のジョージ・シル
 バーマンらの名前を明らかにした」ように・・、
  また、戦争中のソ連の交信記録(1943年~1944年)を
 解読したアメリカVENONA資料には・・、
  スパイ網は、FBI報告をはるかに上回る規模だった
 様に・・。
  何故、ルーズベルト政権に、ソ連協力者が浸透するこ
 とが出来たのか?
  また、浸透を止めることが出来なかったのか?
  1945年9月に、FBIに駆け込むまで、スパイ網の要
 (かなめ)にいたエリザベス・ベントレーは・・、
  『1951年8月、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 ホワイトらの政府内の情報員の活動実態について』証言
 した。
  ベントレーは、「工作員の役割は、秘密文書を持ち出
 す事の他に、
  アメリカの政策(ルーズベルトの政策)に、こちらの
 望むような影響を与える事だった」と言っている。
  それで、何故か? ルーズベルトの政策がおかしかっ
 た。
  第二次世界大戦中のルーズベルト政権が、如何に、ソ
 連スパイによって浸透されていたか?
  議会の調査委員会や、FBIの捜査で、かなりの部分
 が明らかにされた。
  ルーズベルトのやっていることがおかしいと、動いた
 アメリカ国民の方々もあった。
  1936年1月24日、モーゲンソー財務長官は、この日の午
 後3時、いつものようにニュースを聞くと、
  「GM(ゼネラル・モーターズ社)が、突然、大量の
 米ドル売りを開始した」。
  米ドルは、英ポンドに対して急落した。
  これは、ルーズベルトへも伝えられた。
  ルーズベルトは怒った・・、
  「祖国の貨幣を貶(おとし)めるとは、これほど非愛
 国的行為を知らない」・・と、鋭い口調で言った。
  ルーズベルトが、これほど怒ったのは、翌日、民主党
 の大物が、反ルーズベルト演説をやる予定だったからだ
 った。
  これに呼応して、ドル売りをしたと・・。
  この演説会は、「アメリカ自由同盟」の主催で・・、
  GMや、デュポン社グループだったからだった。
  また、この頃、ルーズベルトは、大統領選の再選を意
 識していた。
  また、ニューディールを誇らしげに語っていたが・・、
  実際は、経済が好転したわけでもなく、また、失業者
 が減った訳でもなく、
  さらに悪い事に、国家復興庁(NRA)の価格統制が、
 違憲という判断が出て、
  その違憲判断などを受けて、『アメリカの自由を損ね
 ているルーズベルト』という見方や意見が、アメリカ国
 内で広まり、強まっていた。
  民主党のスミスは、米ドル売りの翌日、演説で言った、
  「ニューディールは、マルクスとレーニンの事なので
 す」・・と、
  そして、また、「問題は、ワシントンか?モスクワか
 ?」と、
  また、「星条旗か? それとも、赤旗か? の選択な
 のです」・・と。
.
  そして・・、
.
  題:遅れた国=アメリカの「人種差別から戒厳令まで」・・
.
1943年6月20日~22日、アメリカ合衆国で・・、
  白人の人種差別意識が原因とする『戒厳令も出るとい
 う騒ぎ』が起きた。
  銃撃戦がアメリカ国内で行われた内戦状態だった。
  アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトは、ど
 うしても黒人の方々を、同じ人間と見れない、同じ人た
 ちと認めたくないという大統領だった。
  奴隷解放したという「リンカーンだって」同じだった。
  リンカーンが奴隷解放したからと言って、黒人の方々
 に対して、差別観のない・・、人間として平等な感情を
 持っているのかと言えば、それは違うと言えた。
  それは、間違いだった。
  そうではなかった。
  このルーズベルトにしたって、黒人の方々に対して、
 人間として平等という『当たり前の感情』を持っていな
 かった。
  ルーズベルトのこの様な人種偏見を持った、差別感を
 持った大統領は、日本人に対しても、その様な感情(有
 色人種蔑視感情)を持った。
  故に、第二次世界大戦が、より悲惨な戦争となった。
  このルーズベルトの「人種差別観」は、キリスト教に
 よって生まれ、醸成された。
  ルーズベルトが、日本へ「無条件降伏」の要求をした
 のも、チャーチル英国首相でさえ、その異常さにびっく
 りしたのだった・・が、
  その「無条件降伏の日本への要求」は、キリスト教の
 「シャローム」の教義から来ていた。
  この卑劣なキリスト教教義は、「すべての殺戮と破壊
 から平和が来る」という教義で・・、
  キリスト教の有色人種蔑視の教義とともに、すべての
 殺戮・破壊が伴った。
  原子爆弾の投下とともに、完全破壊活動の末の「無条
 件降伏の要求」という「卑劣さを極めた」。
  この様なキリスト教のマインド・コントロールされた
 ルーズベルトは・・、
  同じアメリカ国民である黒人の方々へも「差別観をむ
 き出し」にし、差別観を持って対した。
  ルーズベルトの政策の中に「黒人の方々は無かった」。
  ルーズベルトは、民主主義を解きながらも、その民主
 の民には、「黒人の方々は含まれていなかった」。
  この差別観は、あらゆる面で生じていた。
  その差別に耐えて来た黒人の方々は・・、
  1943年6月20日から22日にかけて、やむなく行動を起こ
 した・・爆発した。
  黒人の方々は立ち上がった。
  白人たちは、黒人暴動だと表現した。
  フランス革命に市民の方々が立ち上がったのと同様に
 気高い行動だった。
  黒人の方々の行動は、当然の結果だった。
  立場を守る行動は美しかった。
  その行動は、デトロイトで起きた。
  切っ掛けは、公園で、黒人の方と、人種に対して蔑視
 観を持つ白人と・・その個人的口論から始まった。
  これが、公園にいた周りの人々を巻き込んだ。
  騒ぎは大きくなった。
  それだけ、ルーズベルトの政策をはじめ、白人たちの
 虐(しいた)げが「極限に達していた」。
  そして、双方が入り乱れての騒ぎとなり・・、
  止まることなく広がって行った。
  それだけ、黒人の方々が、ルーズベルトに始まる虐げ
 の中にいた。
  白人の・・黒人の方々への蔑視感があった。
  同じだという平等観から、尊重するという態度や姿勢
 はまったく無かった・・それが原因だった。
  それまでには、例えば・・、白人地区をただ歩いてい
 たというだけで、黒人の方が殴打された、
  そして、死ぬまでの殴打をされた・・この様な事が頻
 発していた。
  この様な差別観から来る差別行為が、この様な騒ぎと
 なった。
  差別観を植え付けたキリスト教の罪だった。
  ルーズベルトは、21日に戒厳令を発令した。
  この様な段階まで問題化した。
  名誉な事ではなかった。
  文明国ではなかった。
  ここまで騒ぎは大きくなった。
  『正規の黒人部隊』が武器庫を襲うという事態も起き
 た。
  革命である。
  アメリカ軍が出動した。
  戦争である。
  銃撃戦が行われた。
  死者35人、重軽傷者700人が出た。
  不名誉な人種差別の末の戦いだった。
  まったく遅れた人種差別の国=アメリカだった。
  この後にも、この様な騒ぎが、度々、起き、
  そして、戒厳令が出されたりするという「アメリカと
 いう遅れた国」だった。
.
  そして・・、
.
2016年、大富豪だが、質素な生活を送っているので尊敬さ
 れている投資家のウォレン・バフェット氏が・・、
  数年前に、2016年の事を予測して言った・・、
  「2016年以降のある時点で、アメリカは、対外債務の
 負担に耐え切れなくなり、深刻な財政危機と、通貨危機
 を引き起こすだろう。
  アメリカの国内政治は、動乱状態になるかもしれない」
 ・・と。
  奇しくも、トランプという大統領が登場した。
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