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空なのだ・・・。

2013-10-27 00:03:34 | 日記
 題:空なのだ・・・。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 古代の世に・・、
 ある1つの民族(イスラエルの民)が生き残るために、
 できた宗教が・・、
 何の拍子からか・・、
 伝道が始まって世界へ広がった。
 しかし、
 その生まれの血は争えない。
 脈々とその中に巣くっていて残った狭い宗教概念が、
 その所から、人類の悲劇が、多く生まれた。
 多くの世界の人々が、無念の死を遂げた。
 その宗教性のあまりにも卑屈さ劣悪さに、
 人類のためには、
 この宗教は、今後、残ってはならないが、
 図らずも、
 そのことを記した言葉が、このキリスト教の聖書の中に
ある。一抹の光となっている。自虐である。
 そして、この書が、あまりにも過激なため、
 その書を省いて、キリスト教の聖書だとしている聖書も
あるが、
 その文書「伝道の書」の、一部を以下に記す。
(「伝道の書」1・2)に、
 「空の空、空の空、いっさいは空である」とある。
 いっさいのものは空である、確かなものは1つもない、と
いうことを言っている。
 学問とか、芸術とか、あるいは、この宗教でさえも実際
は空であると言っている。
 そして、(「伝道の書」2・11)に、
 「そこで、わたしは、わが手のなすすべての事、および
それをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であ
って、風を捕えるようなものであった。日の下には益とな
るものはないのである」と。
 この宗教を信じたのだが、なしたすべての事、なすに要
した労苦、皆、空であって、
 益になったこと、黒字になったものは何もない。
 赤字ばかりだ。
 世の中は悲惨的である。
 そして、(「伝道の書」3・20~21)に、
 「みな1つ所に行く。皆ちりから出て、ちりちりに帰る。
だれが知るか。人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊はくだ
るかを」と。
 キリスト教の聖書の創世記に、キリスト教の神は、人間
をチリから造ったというが、その神が造った人間だから、
死ねば天に上るとは限らないのだ。
 人間であっても、獣であっても、死ねば同じだ。
 同じく地にくだるのだ。
 そして、もとのちりに帰ってしまうという点において同
様なのだ。
 そんなところに、人間と動物の区別なんかあるのではな
い。
 人間が、人間として自分で自分の価値を見い出している
と思っているかもしれないが、しかし、それはただ空想に
しか過ぎないということだ。
 キリスト教の神を信じることもまた空想なのだ。空なの
だ。宗教それ自体が空なのだ。一切は空なのだ。
.
     (詳しくは、以下のブログへ)
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技術的発展で、幸せを得ている人々は、『悪い』のか?

2013-10-25 16:08:07 | 日記
 題:技術的発展で、幸せを得ている人々は、『悪い』のか?
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書は、人々が幸せになるために、役立つ
のだろうか?
 人々の暮らしに、役立つのだろうか?
 イスラエルの地の人々・・、
 自分達を「神に選ばれた選民」と特別視して・・、
 その特権意識をもって、飢餓と背中合わせの地に居た。
 そして、「飢餓に見舞われた時」に・・、
 その「特権意識でもって」・・、
 「隣国の、善意の第三者の糧(かて)」を・・、
 「何ら悪意の無い方々」の「生きるための糧」を・・、
 自らが、我が民族が、生きるためには、我々は「選民な
のだから」と・・、
 そしてまた、その「選民には神の義があるから」と・・、
 善意の第三者の、隣国の富を、奪いに、攻め込んで行く。
 この様な事を教える『キリスト教の教義』。
 そして、その事を『消えてなくなる事のない聖書』に書
き、歴史を連綿と持って来ている。
 キリスト教聖書の(「創世記」11・1~9)に、
 有名な『バベルの塔』について記されているが、
 まったく建設的な内容ではない。記述では無い。
 読むと希望が、まず、無くなる。
 「民が、シンアルという平野の地を得て、幸せに住んで
いた。彼らは、より幸せになろうと、色々、工夫をし、幸
せになろうと努力した。『さあ、レンガを造って、よく焼
こう」。
 こうして彼らは、石の代わりに、レンガを得た。
 同様に、「しっくい」の代わりに、アスファルトを得た。
 この様に、彼等は、彼らの時代なりの技術の発展に努め、
その努力の甲斐(かい)があって科学的・技術的発展をし、
成果を得ていった。
 幸せさを向上させていった。
 そこで、彼らは、得た技術で、また、科学的成果で、次
なる発展へ挑戦した。
 『さあ、町と塔を建てて、その頂(いただき)を天に届
かせよう」・・と。
 これが、キリスト教の神の気に入らない事だったらしい、
 この後に、神からの『いじめ』が待っていた。
 もしかすると、神に憧(あこが)れた民は、是非、神に
お目に掛かりたいと思って、天に届かせようとしていたの
かもしれないが・・、
 自己、邪推するキリスト教の神は、自分の思ったことが
間違いないとして・・、
 その部分についての聖書のその記述は・・、
 「主(キリスト教の神)は下って、人の子たちの建てる
町と塔とを見て、言われた」。
 つまり、この民の行為は、『駄目だ』と言った。
 そこで、キリスト教の神は、民へ、罰まで与えようとま
でした。
 神は考えた。「民が、この様に、科学技術を発展させた
のは、民が同じ言葉で、意思の疎通がスムースであったか
らだ」・・と。
 そして、民たちのコミュニケーションが、うまく出来な
いようにしてしまった。
 神は言う、「民は一つで、皆、同じ言葉である。彼らは
すでに、この事を始めた。彼らがしようとする事は、もは
や何事もとどめ得ないであろう」・・と。
 神は、バベルの塔をぶっ壊した。
 そして、民への仕打ち・邪魔をし始める。
 民の何処が悪いというのか?
 そして、キリスト教の神がやった事は、民の言葉も乱し
た。
 そしてまた、民をでんでんバラバラに「け散らかして」
しまったという。
 人類の発展・・。人類は、火を使う事をおぼえ、
 そして、その火で滅菌し、衛生的な食を得た。
 この火の知識は、人類の発展に大いに寄与した。
 そして、焼いた肉などの食事は美味しかった。美味しく
なった食事をする事を覚えた。
 そしてまた、人類を襲う野獣などから身を守る事が出来
た、逃れる事が出来た。
 そして、明るい火の光は、洞窟内を明るく照らし、そし
て、温め、
 その光の周りで、明日の狩猟についての語り合いも、も
たれたであろう。
 団欒(だんらん)があったであろう。
 人類は、この火というものを知っただけで、どれだけの
豊かさがもたらされたかは、筆舌につくせない。
 人類は、この様な積み重ねで、豊かになり、幸せになっ
て来たのだ。
 キリスト教の神は、何故、この発展を、このプロセスを、
この発展のプロセスに反対し、足を引っ張るのだろうか?
 キリスト教聖職者は、「神は、神のいる天を覗(のぞ)
かれる事が嫌だったのだ」と言う。
 そして更に、キリスト教聖職者は言う、「人間の分際で
神のいる位置に達しようとしたからだ」・・と。
 そして更に、キリスト教の聖職者は言う、「神の座に座
ろうとしたのだ。人間の分際で」と。
 そこは言い過ぎでしょう?
 今・現代の、超高層の建物。それらの技術や発展で、人
々は、幸せをエンジョイしているのです。
 また、その現代人の豊かな生活を、皆様がエンジョイし
ている生活を、キリスト教は、現代にそぐわないというの
ですか?
 キリスト教はその様に教義設定する宗教ですか?
 その様に、見受けられますが、その教義は間違いです。
.
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NHK、キリスト教に偏する。キリスト教の無益なキャンペーンに共同行動する。

2013-10-24 15:52:35 | 日記
 題:NHK、キリスト教に偏する。キリスト教の無益な
   キャンペーンに共同行動する。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、「頑張らない」という運動を、キャンペ
ーンとして行っている。
 キリスト教の教義から、その様な運動が生まれたのだが、
 キリスト教は、『一見して』、優しく感じる「頑張らな
い運動」を、キャンペーン運動として取り組んではいるが、
 本当に、真実に、皆様のためになっているのか? 
 また、社会のためになっているのだろうか? 『否』で
ある。
 キリスト教の教義から発生したという、その根幹に、そ
の基があるとは言えない。無理に作り出したとしか言えな
い。
 運動の主旨は、キリスト教の宗教の『優しさ』をPRす
るところにあるのだが、回り回って、苛酷な結果につなが
って行ってしまうことが多い。
 キリスト教には、『愛の宗教だ』という、大きな根本の
PRポイントがある。
 キリスト教の教義や行為を調べてみると、また、学んで
みると、キリスト教は・・、
『愛の宗教どころではない』ということが分かる・・が、
 宗教イメージの『懸命なるイメージチェンジ』の中に、
この「キリスト教は愛の宗教」というPRポイントがある。
 キリスト教の、この『愛の宗教のPR』と連動して、す
でに記した「頑張るなのキャンペーン運動」が、共に、運
動として発生している。そして、『優しさ』を懸命にPR
する。しかし、この優しさ・・・?、
 優しさを、素直に喜んで良い場合と、
 無邪気には喜んではいられない場合がある。
 教育レベルなどにおいて、優しくするは、その優しくし
てくれた人に、最初は、そして、その優しくしてくれた行
為に、嬉しくは思うが・・、
 結局、将来、自分の不出来を嘆く場合に、多々、遭遇し、
 結局、あの時、優しくしてくれたということに思いが至
る。
 逆に、厳しくしてくれた教師に、その時は、逆恨みもす
るが、その後に感謝をすることが多い。
 優しい教師には、あの時は、一時、感謝の気持ちを持っ
たが、結局、あの優しさが『仇(あだ)』となって戻って
いるのだなと後悔する時が多い。
 キリスト教の、一見、優しく見える優しさには、この様
な、「結局、最後は、相手に悪結果・悪さを与え、残る『
優しさ』であるな」と思う。
 キリスト教に偏するNHKは、この「頑張らない」とい
うキャンペーン運動を、長期間に渡ってNHKの手前の機
構である放送媒体(ラジオなど)を使ってキャンペーン放
送をした。
 出演は、何時もキリスト教徒のM・K氏だった。
 この様に、キリスト教に偏するNHKは、出演者の選出
にも偏している。
 確かに、頑張るより、頑張らない方が楽でいい。
 頑張ることはつらいし・・。
 そして、また、NHKは、テレビ討論会も企画し、放送
した。長時間の討論番組であった。
 この時も、キリスト教系の大学の国際基督教大学の教授
が出演し、討論番組であるのに、「頑張らない」の論旨の
みを言い続けた。それは、まったく教示的であった。これ
のみを言い続けた。
 相手を見ない、自分だけの論旨だけを・・、
 何ら深みもない討論番組となった。討論ではない。
 長時間の討論番組の時間だけが、虚(うつ)ろに無駄に
過ぎて行った。
 この時に出演されていた、時の、文部科学大臣の伊吹文明
衆議院議員から、
 世の中で、頑張って、世の中に貢献し・・、
 皆様が幸せになる、そのための成果を上げた人が、正し
く評価されていく社会でなければならないという主旨の・・
 『頑張っている方が、社会から感謝され、報われていく
社会でなければならない』・・と、正論を言われ、
 キリスト教系大学の教授は、それに対して反論できなく
て、討論が止まる、言葉が詰まるというような、まったく
無益な討論番組であった。
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聖なる(キリスト教の)神は、その聖であるが故に、人を殺す

2013-10-22 16:27:02 | 日記
 題:聖なる(キリスト教の)神は、その聖であるが故に、人を殺す
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は言う。
 「聖なる神は、その『聖』という性格の故に、汚れた人
間=罪人(つみびと)を裁き、滅(ほろぼ)さざるを得な
い神である」・・と。
 まったく勝手なキリスト教の神だ。
 また、キリスト教聖職者の言い方だ。
 キリスト教は、勝手に「(キリスト教の)神の性格付け」
をして行く。
 そのキリスト教の神を、『人格的存在として』イメージ
して行く。
 「嫉妬深い神なのだ」と、神に言わせたりもしている。
 そして、ここのところでは「聖」を強調して話を展開し
て作っている(いつも、思いつき的にやっている)。
 ここでは、話のストーリーは、「聖なる神」である。
 こう設定したら、対する存在は「聖ではない」である。
 案の定、「汚れた人間=罪人(つみびと)」の登場であ
る。
 「聖なる神」の役者Aと、「汚れた人間」の役者Bが、
役を演ずる段階になると、ありきたりの「聖なる神が、汚
れた人間の罪人を誅するのである」。
 『誅』とは、正義が不正義を成敗することである。
 どちらが正義かは、本当は不明なのだが、キリスト教は、
何時も、「自分が正義」というキリスト教の教義になって
いる。
 馬鹿馬鹿しいほどだ。
 キリスト教なんて『愛の宗教』なんかではない。
 キリスト教の聖書のあちこちで、キリスト教の神が人殺
しをしている。成敗と称して。正義を掲げて。
 読む信徒は洗脳されていく。最初は変と思っても。
 キリスト教は、本当に、卑劣な思考展開をする宗教だと
思う。
 「汚れた人間=罪人を滅ぼすのだという」。
 この卑劣さに憤りが涌く。
 これで何人の方々が殺され、亡くなったというのか。
 「聖なる神なのだから、『殺さないでいいでしょう』と
言いたい。
 何時も、キリスト教は、このパターンで人を殺す。
 だから、南米などへ、キリスト教徒とキリスト教聖職者
たちが行った時も、キリスト教の、この思考パターンで殺
しまくった。絶滅民族が出た。
 『我々は聖なる者だ』。『お前たちは汚れた人間なのだ』
の思考パターンだ。現地人を「人ではない」と言った。
 オーストラリアの原住民のアボリジニの方々に対しても、
同じ事をした。
 キリスト教徒のイギリス人は、アボリジニの方々をまる
で狩猟の行為をするかの如くに、アボリジニの方々を狙い
撃ちにした。
 アボリジニの方々は、絶滅寸前まで行った。
 この様に、キリスト教の聖書記述者が、性悪に思考展開
した考えを、キリスト教という宗教の書=聖書であるが故、
反省される事なく、連綿と歴史を受け継がれ、
 そして、人類の負の遺産、魔女の大量焼き殺しもそうだ
し、人殺しの悪行を累々と積み重ねて来た。
 キリスト教の教義としてあるため、「変更不可」として、
存在し続け、処されて愚行されて来ている。
 これは、大間違いなのである。
 聖なる神の設定は良しとしても、何故、人間を汚れた者
と設定するのか?
 また、聖なる聖なる神だから故、人間を成敗する、滅ぼ
さなければならないと教義設定するのか?
 聖なる神だから故、佛教の仏の如く、温かく迎え、そし
て、教え、導き、悟さないのか、そうするべきではないのか?
 今、即刻、このキリスト教の教義を変えよ。
 また、キリスト教は、また、キリスト教聖職者は、当然
の如くに、この「殺人助長教義」で洗脳をするな。
 また、自分達も洗脳されていると気付きなさい。
 特に、感受性の鋭い小学生や幼稚園児などに、洗脳行為
をすることを止めよ。即刻、中止して下さい。
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NHK、キリスト教に偏する。日曜大河ドラマで日本を洗脳する『巧妙なる伝道行為』だ

2013-10-21 03:10:00 | 日記
 題:NHK、キリスト教に偏する。日曜大河ドラマで
        日本を洗脳する『巧妙なる伝道行為』だ
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 明治の曙光の頃、
 江戸期のキリスト教の禁教令も解け、
 キリスト教に初めて接した明治のインテリ層は、
 キリスト教の持つ異質性の中に、進んでいるという先入
観のある西欧の匂いを感じ、
 また、西欧の進んだ科学などへの敬慕も関係して、
 『キリスト教を新鮮な進んだもの』として受け取った。
 そして、
 その宗教の異質さに、『感化力がある』と感じた。
 それらは、「キリスト教的政治」「キリスト教的文学」
「キリスト教的社会」「キリスト教的家庭」などの言葉と
なって社会に流れ、もてはやされた。
 そして、無批判的に進んだものと見なされ、良いものな
のだと、もてはやされた。
 しかし、そこには、具体的に、神学的に、聖書学的に、
科学的に、しっかりした裏付けがなされた理論から結論に
至った訳がある訳ではなかった。
 今・現在は、逆に、新しい知見が得られ、神学や聖書学
などの研究も深くなされており、今現在、神学者で、キリ
スト教を肯定的に見る学者は本当に少ない状況となってい
る。
 明治期の当時は、その様な知見や知識がある訳ではなく、
西欧への憧れ的な現象からきていた。
 また、その無批判な受け入れ行動は、それまで持ってい
たものを、ただ、感情的に廃棄・排除・忌避した。
 当時の、明治期の方々の発言を見ると、「日本のものは
独創性がない」と日本のものを蔑(さげす)んだが・・、
 今・現代は、逆に、日本食を初め、世界は「日本ブーム」
である。
 そしてまた、当時の日本批判の言葉には「科学は新事実
の発見に留まっており、応用に至らない」と日本を批判し
た。
 がしかし、今、世界に、画期的技術を提案している国は
日本である。
 皆様もご存じの京都大学・山中伸弥教授のiPS細胞、そ
して、応用面にも希望ある再生技術など、次々に開発がさ
れている。
 そしてまた、世界がどうしても開発出来なかった「青色
レーザー」の中村修二博士も日本の大発明であり、これは
すでに応用され、使われている。
 江戸期においても、関孝和の数学は、世界の最先端を行
っていた。
 「世界で最も早い時期に行列式・終結式の概念を提案し
た事はよく知られている」という様に、江戸期にも、世界的
な学者はいた。
 この様な事を記せば数限りない。
 明治期に、キリスト教にかぶれた諸氏は、透徹した思考・
考察からキリスト教に至った訳では無かった。
 ゴッホなど西欧の印象派に多大な影響を与えた日本の美
術。その事を知ってか?知らずか?
 キリスト教にかぶれた明治期の氏は、「日本の美術は名
誉を求めているだけ」とか、「美を発揚するに努めず」と
かと言っている。
 キリスト教に偏するNHKが、今、日曜大河ドラマ「八重
の桜」で、この明治期の人・新島襄を描いているが、
まったく、今・現代の眼で脚色され、変えられ、美化され
ているため、当時のままの再現であったら大変おかしく感
じられる所も無く、美しく放送ドラマは進んでいる。
 これは嘘放送である。
 キリスト教が、よくやるプロパガンダ(嘘宣伝)と同様
である。
 NHKのこのドラマは、キリスト教がよくやる「巧妙なる
伝道行為」である。
 キリスト教に偏するNHKのイデオロギーに合う様に、
また、現在に違和感のあるところは、真実を無視して変え、
現代に違和感のない様に書き換え、巧妙なる伝道行為をし
ている。
 本日(2013・10・20)においても、会津に教会
を作る話のセリフと共に讃美歌を流し、『可哀想な人を救
うのだ』と誇大に放送され、大げさな演出となっていた。
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