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(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)

2018-05-15 03:53:37 | 日記
題:(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月29日、日本鉄道本社汽車課直轄の工場を大宮に
  設け、12月10日、操業開始した。
  (1896年9月1日、汽車課から分離し、大宮工場となる)

1894年3月、村井兄弟商会が、両切り紙巻煙草「ヒーロー」
 を発売した。
  紙巻きたばこの起源は、1853年~1856年のクリミア戦
 争の戦地で、パイプを失った兵士が、火薬を包むための
 紙で、刻みタバコ葉を巻いて吸ったのが始まりと言われ
 ている。
  しかし、コロンブス以前に、アメリカ・インディアン
 は、乾燥させたタバコの葉を刻んで植物などで巻いて吸
 うことを行っていた。
  1700年には、ラテンアメリカからスペインに向けて紙
 巻たばこ用の紙が輸出されている。
  クリミア戦争以前にも、特に、スペインでは紙巻たば
 こが吸われていた。
  紙巻たばこが、主流となったのは、ヨーロッパや日本・
 中国では第一次大戦後で、アメリカでは第二次大戦後。
  また、一般大衆を欺いている行為が・・ライトたばこ
 など、低タールをうたう製品は「ごまかし」がある・・
 大衆を欺いている。
  欧州では、「ライト」「低タール」といった用語の使
 用を禁止しているくらいである・・
  これは、実際には、減少したニコチン摂取量を補うた
 めに喫煙するたばこの本数が増えたり、より深く吸い込
 むことに、はっきりつながっていて、肺腺がんリスクを
 増大させている。
  マイルドやライトでも、吸い方によって吸い込むニコ
 チン量が急増している。
  2009年、アメリカに、タバコに起因する死亡は、44万
 3,000人であり、アルコールは9万8,334人というデーター
 がある。
  また、たばこを吸う人のうち、約半数は、たばこに関
 連した病気で死亡しているとする調査報告があり、
  たばこを吸う人は、そうでない人に比べて寿命が約14
 年短くなるという指摘もある。

1894年3月、朝鮮国内で東学党の乱。

1894年4月2日、日英通商航海条約交渉が開始された。
  この日、ロンドンで、第1回、日英条約改正委員会が
 開かれた。
  調印は、1894年7月16日・・、
  治外法権が撤廃された。
  これは、イギリスが、ロシア帝国の南下に対して、力
 の増した日本に期待した結果だった。
  内容は、内地開放を代償として、領事裁判権を撤廃さ
 せ、関税自主権も部分的に回復させた。
  また、片務的であった最恵国待遇を相互的だとした。
  この条約の調印の時、イギリス外相のキンバーリー伯
 は、日本の青木駐英公使に対して・・、
  「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的
 地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したこと
 よりも重大なことだろう」・・と、日清戦争が起きると
 いう状況を掴(つか)んだ上で語っている。
  また、独り立ちした日本を承認したという形となり・・
  以降、この年の1894年から翌年の1895年にかけて、同
 内容の条約を、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、
 オランダ、イタリアなど14カ国に調印させた。
  これによって、日本は、法権のうえで、欧米列国と対
 等の関係に入った。

1894年4月8日、ブルックナーの交響曲第5番が初演された。
  グラーツオペラ座(Grazer Oper)

1894年4月10日、愛媛の道後温泉に、道後温泉本館が完成
 した。  
  道後温泉本館は、愛媛県松山市の道後温泉の中心にあ
 る温泉共同浴場で・・別名:愛称が「坊っちゃん湯」。
  1890年、道後湯之町の初代町長として伊佐庭如矢(い
   さにわゆきや)が就任し・・、
    この頃、町の最大の懸案は、老朽化していた道後
   温泉の改築であった。
    伊佐庭は、町長就任に際して、自らは無給とし、
   その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。
    総工費は13万5千円。
    当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、
   あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾き
   かねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。
    反対運動は激しさを増し、伊佐庭が命の危険を感
   じるほどだったが、伊佐庭は決定を貫き通した。
    棟梁は、城大工の坂本又八郎を起用し、姿を現し
   た木造三層楼は、当時でも大変珍しがられた。
    伊佐庭は、さらに道後への鉄道の引き込みも企図
   し、道後鉄道株式会社を設立した。
    一番町~道後、道後~三津口間に軽便鉄道を走ら
   せ、客を温泉へ運んだ。
    関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展
   して行った。
  1895年、本館完成の翌年のこの年、文豪・夏目漱石が、
   松山中学の英語教師として赴任した。
    漱石は、その建築に感嘆し、手紙や、後の小説『
   坊つちやん』の中で「温泉だけは立派なものだ」と
   絶賛し、実際に、頻繁に通った。
    手紙では、8銭の入浴料で、「湯に入れば頭まで石
   鹸で洗って」もらえ、3階に上れば「茶を飲み、菓子
   を食う」ことができた・・と・・
    小説では「住田」の温泉として登場する。
    これにあやかって、「坊っちゃん湯」という。
  1994年、国の重要文化財(文化施設)に指定された。
  2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編におい
   て2つ星に選定された。
  2007年3月、美しい日本の歴史的風土100選に、松山城
   と共に選定された。
  2009年、経済産業省「近代化産業遺産」に認定された。

1894年4月13日、移民保護規則が公布された。
  日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始
 まった。
  今までにない変わりゆく改革の中で、急速な近代化と
 社会変化が起きた。
  農業形態も、経済構造が変わっていくなかの改革で、
 農村部に余剰労働力が生まれた。
  国内や海外へ移動する出稼ぎ労働者が現われた。
  1868年、横浜在住のアメリカ商人ユージン・バンリー
 ドは、150人の日本人労働者をハワイの砂糖プランテーシ
 ョンへ送った。
  また、40人をグアムへ送った。
  この労働者は、「元年者」として知られている。
  日本政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国し
 た。
  近代日本の最初の海外移民だった。
  しかし、この「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい
 酷(ひど)い取扱を受けた。
  明治政府が、救出に乗り出さなければならないほどだ
 った。
  国民を大切にする日本政府は、この「元年者」の失敗
 で、この後、20年間近く、日本人の海外移住を許さなか
 った。
  かわりに、北海道開拓を推進した。
  そして、17年後の1885年、ハワイ「官約移民」で再開
 された。
  これは、ハワイ王国の依頼でもあった。
  アメリカによるハワイ乗っ取りへの対応・・アメリカ
 の行動を抑えたいというハワイ王国の日本に頼った面も
 あった。
  日本人の本格的な海外移住が始まった。
  「官約移民」制度は、日本と独立国であるハワイ王国
 の条約に則った正式な正規な行動であった。
  日本人労働者を3年契約で砂糖プランテーションへ送
 るというものだった。
  1894年までの9年間に、総計2万9千人ほどの日本人が、
 この制度によってハワイへ渡航した。
  また、この時、数千人の日本人が、太平洋上の木曜島
 (イギリス領)、ニューカレドニア、オーストラリア、
 フィージーなどへ渡った。
  この頃の渡航者のほとんどが、海外への永住をめざし
 た移民ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出
 稼ぎだった。
  そして、1893年、外務省関係者、知識人、ジャーナリ
 ストなどが集まり「殖民協会」を設立された。
  これは、日本も、西洋諸国の様に、国外市場を拡大し、
 海外へ向けて発展しなければならないとしていた。
  この殖民計画事業は、イギリスのオーストラリア移住
 (侵略)などのようには行かず・・失敗した。
  1899年、南アメリカのペルーへ、最初の契約労働者の
 渡航が始まった。
  そして、ラテンアメリカへの日本人渡航は盛んになっ
 て行った。

1894年4月14日、アメリカのニューヨークで、キネトスコー
 プが公開された。  
  キネトスコープは、1891年、トーマス・エジソンによ
 って発明された(1888年説あり)
  撮影機の方は、キネトグラフといい、キネトスコープ
 より先に、エジソンが発明した。
  1893年、シカゴ万国博覧会に出展された。
  1894年4月14日に、ニューヨークのブロードウェイ1155
   番地に、世界初の映画館(キネトスコープ・パーラ
   ー)が設置された。
    キネトスコープは世界的に大ヒットし、その後、
   2年でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パ
   ーラーが設置された。
    これは、スクリーンに映写されるのではなく、箱
   の中をのぞき込む形だった。
    当時、「ピープショー」とも呼ばれ、ピープ(peep)
   とは、のぞくという意味。
  1895年、一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投
   影される形の映画(シネマ)が、リュミエール兄弟
   によって発明された(シネマトグラフ)
  1896年11月25日~1896年12月1日、日本で、エジソンが
   発明したキネトスコープが、神戸の神港倶楽部で初
   上映された。
  1897年、リュミエールが発明したスクリーン式の「シ
   ネマトグラフ」が、大阪の南地演舞場や京都で披露
   された。

1894年4月16日、東海道線が、西ノ宮駅~三ノ宮駅間で複線
 開通した。

1894年4月、甲午(こうご)農民戦争
  朝鮮の全羅道(チュルラド)一帯の農民が、東学教徒
 とともに蜂起した。
  これをきっかけに、各地で農民蜂起があいつぎ、東学・
 農民軍は、随所で政府軍を撃破した。
  全羅道と、その周辺の官庁をつぎつぎと占領し、5月末
 には、全洲(チョンジュ)を制圧した。
  朝鮮李朝政府は、清に軍の派遣を要請する一方で、東
 学農民軍の指導者である全琫準(ジョン・ボンジュン)
 と交渉し、両者は和解した・・が・・

1894年4月、北越鉄道株式会社創立願を逓信大臣に提出した。
  (7月26日仮免状下付)

1894年5月1日、中国鉄道発起人が、岡山駅から津山駅・勝
 山駅・米子駅を経て、境駅に達する鉄道建設を出願した。
  (1894年7月14日、線路を岡山駅~米子駅間に改める)
  (1896年4月30日、免許状下付、のち免許線路の短縮を
  申請し、津山駅以北取消した)

1894年5月4日、朝鮮で、農民軍が白山に集結して、甲午農
 民戦争が再び開始された。

1894年5月7日、文官高等試験細則を制定した(閣令第2号)

1894年5月12日、第6特別議会が召集された(開会、15日)

1894年5月14日、イギリスでブラックプールタワーが公開さ
 れた。
  ブラックプールタワーは、ブラックプールにある塔で、
 エッフェル塔に触発されて建設され、この日に開業した。
  高さ:158メートル
  エッフェル塔:324メートル
  東京タワー:332.6メートル

1894年5月15日、第六特別議会が開会された。
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~1894年6月2日解
 散で短い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく対立した。
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語。
      ロシアの東アジア進出により緊迫した国際情
     勢であった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで反政府側の日本
     主義派・・、
      そして、自由党、改進党などの民党連合は、
     政府外交を批判し、また、政費節減・民力休養
     路線と批判した。
      それは不平等条約によって侵されている国家
     主権の回復と、積極的な対外進出を主張してい
     た。
      また、それは、対等条約を実現するためには
     現行条約を励行して、条約の規定のない所で外
     国人を厳しく取り締まり、彼らに不利益を与え、
      対等条約の交渉に列強が応じない場合は、条
     約破棄もせよというものだった。
  この第六回帝国議会で、貴族院議員の近衛篤麿・小沢
 武雄は、議員の二条基弘ほか50人の賛成を得て、「北海
 道ニ鉄道ヲ敷設シ及港湾ヲ修築スルノ建議案」を提出し
 た(建設線路は、函館・小樽間、空知太、網走間、旭川・
 宗谷間)
.
  (今日の言葉)
.
  題:イタリアは敗戦国だ・・しかし、アメリカ・イギリスは戦勝国側にした。
    日本やドイツは、今だに、国連憲章の敵国条項に落としめられている。
.
紀元前160万年、人類の先祖が、この頃、草原の生活で洗練
 された歩き方を始めた。
 160万年前のホモエレクトスだった・・、
 画期的な進化が現れたのだった・・、
 垂直に立つことによって脳は進化し、重く、大きく・・
 言葉の話せる脳への進化だった・・情報伝達力の向上で
 あった。
 アファール猿人の場合は、喉の奥が広くなく、まだ、
 音の種類は狭かった・・が・・、
 まっすぐ立つことによって、喉の奥に空間が出来て・・、
 複雑な音が出せるようになった。
 この脳は、足や手が発達した後に与えられたものだっ
 た・・
 木から降りて、猿と違って、二本の足で立って歩く生
 活になって・・貴方の祖先も・・ここから・・アダムと
 イブもここから・・
  キリスト教のアダムとイブの話の前に、これが無いと
 始まりません・・そうでなければいけません・・その様
 な進化があったのでした・・『進化する力を持つ人間』
 が存在していた・・
  思考を固定化しては、発展はありません・・
  キリスト教は、この最初から間違っていました・・
       ・
       ・
紀元前2万年、フランスの遺跡で、人間が集団で、馬を崖下
 に落とし、狩りをしていた状況が発見された。
 集団で複雑な役割分担をし、言葉で情報をやり取りし
 ・・人間は、さらに、あらゆる面で進化して行きました。
  脳が大きくなった人間・・さらに、この様な複雑な方
 法も手に入れた・・そして、コンピューターにたどり着
 く・・
       ・
       ・
紀元前206年、中国の漢の王朝に、前漢と後漢がある。
  この年、秦が討たれ・・前漢への時代が始まる。
  やっと、漢民族が、歴史に登場・・現れました・・
  中国初の統一王朝だった秦王朝の華夏族・・この秦王
 朝が、この年・紀元前206年、滅亡した。
  (参考)華夏族:かかぞく、漢の時代以前に、中原の
     黄河流域に暮らしていた部族。
  この後、中国は、この秦朝・華夏族を討った漢民族の
 各軍の将帥による群雄割拠の時代となる・・
  漢中、及び、巴蜀(はしょく、現在の四川省)に封じ
 られていた劉邦(りゅうほう、前漢を興した人)が・・、
  紀元前202年に、垓下の戦いで、項羽を討って、中国を
 再統一した。
  (参考)垓下の戦い:がいかのたたかい、中国、漢の
     劉邦が、その勝利を確定的にした戦いで・・
      垓下(現在の安徽省宿州市など)を中心に行
     われた。
      しかし、この戦いが、実際あったのかどうか
     に対して、歴史家から疑問が出されている。
  この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀
 によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年と
 なる。
  今・現在、この漢民族が、チベット・ウィグル・内モ
 ンゴルを完全に漢民族国家にしようと暗躍している。
  また、南シナ海や尖閣諸島、および、沖縄などのその
 他の諸地域をも欲しいと狙っている。
  そして、この中国が使う手が冊封体制(さくほうたい
 せい)・・
  現在、この冊封体制下の国に北朝鮮・韓国が入ってい
 る。
  (参考)冊封体制:さくほうたいせい、中国の皇帝が、
     朝貢をして来た周辺諸国の君主へ、官号・爵位
     などを与えて、君臣関係を結んで、彼らにその
     統治を認める(冊封)・・、
      豊臣秀吉が、必死に、徳川家康を大阪城に来
     させようとしたことと同じ・・
      そして、この冊封は、宗主国対藩属国という
     従属的関係におくことをさす。
      朝貢とは、藩属国の使節が、漢皇帝に朝見し
     て土産の産物を献上することをいう。
      これに対し、皇帝は、回賜として、貢物以上
     の返礼物を与えて皇帝の威徳を示した。
      その状況から、朝貢は、君臣関係を表す政治
     的儀礼であった。
      歴史的に、この漢代における外臣の制度がそ
     の始まりと言われている。
      例えば、朝鮮半島北方に成立した渤海(ぼっか
     い)などは、中国・唐と冊封関係を結んだので、
     東アジアの国際情勢は、唐を中心とした冊封体
     制のなかに組み込まれた状態だったが・・、
      日本は、この時、この体制の外にあって・・
     中国とは対等の隣国関係を保持したなどの経緯
     が歴史上にある。
.
2世紀頃、日本で、一番古い『漢字』の記載事例・・
  日本で、これまで知られている漢字で、最も古いもの
 は、2世紀ごろの土器に書かれたもの・・、
  そして、中国の歴史書に、3世紀のころ、日本と中国
 との間で、手紙のやり取りがあったとする記述がある。
  優秀な日本人は、これを発展させて・・、平安時代に、
 中国にない表音文字の平仮名(ひらがな)や片仮名を発
 明した。
  9世紀前半に入ると、漢字と片仮名が混じった文章例が
 みられ・・さらに発展させた表記法を行なった・・
  表意文字と表音文字の混合させた・・世界にはこの様
 な事例なく、日本唯一の優秀な表記法。
  また、10世紀から、平仮名は、漢字と並ぶ文字として
 認められ、ひらがなで書かれた豊かな文学が花開いた・・
  豊かな芸術が花開き・・世界に誇る最初の長編小説や
 日記文学が書かれ、他国の追随を許さない『孤高の光』
 の輝きがあった・・それを、優秀な日本の女性方が成し
 遂げた・・
  この様な素晴らしさを理解の出来ない、戦後の進駐軍
 のアメリカ司令部のマッカーサーは、日本人を馬鹿にし
 て、こんなに多くの漢字を覚えている訳はないと、日本
 人の識字率テストをしたりした、そして、日本を英語化
 しようとした・・
  日本は、中国から漢字を伝えられたが、日本は、更な
 る、豊かな表現手段として平仮名・片仮名を発明し、表
 音文字・表意文字を駆使して美しく豊かな日本文化を発
 展をさせて行った・・
  今・現在でも、ノーベル文学賞を貰うべき方々は、数
 え切れないほど居られるが・・キリスト教に偏するノー
 ベル委員会が授与しないだけ(キリスト教国に偏る)・・
       ・
       ・
980年、キエフ公国は、黒海の北方のウクライナ、ベラルー
 シ、ロシアの西部を領する地であるが・・、
  この国のウラジミール1世(在位980年~1015年)の意
 向によって、キリスト教東方正教会が広まった。
  ウラジミール1世は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト
 教を見比べた上で、キリスト教東方正教会を選んだ。
  それは、まったく個人的な好みの「卑劣な選択」だっ
 た。
  彼は、4人までの妻が持てるイスラム教に惹(ひ)か
 れた。
  しかし、禁酒の戒律が嫌だった・・それが、イスラム
 教にあったため、東方正教会のキリスト教を選んだ・・
 酒が飲みたかった・・
  これによって、東方正教会がスラブ人の間に広まった。
  キエフ公国は、バザール・ハン国を滅ぼした後、モス
 クワ近くまで支配した。
  しかし、13世紀半ばに、この国は、モンゴル人によっ
 て滅ぼされた。
.
1008年、日本の才女・紫式部が、源氏物語の執筆を始めた。
  古い時代から女性に優しかった日本・・男女平等をは
 じめ、平等の国・日本の才女・紫式部・・、
  この日本の女性が、世界で最初の長編文学を著わした。
  紫式部は、幼いころから聡明な女性だった。
  彼女の父も、式部省に勤める学者として名高かった。
  この父親が、彼女の弟に漢文を教えていると、そばで
 聞いていた紫式部の方が先に覚えてしまったという話が
 伝わっている。
  20歳代の頃・・紫式部は、国司として赴任する父親に
 従って越前(福井県)に赴(おもむ)いた。
  彼女は、藤原宣孝(のぶたか)から求婚されていた。
  しかし、この宣孝は遊び者であった。
  それで、紫式部は、返事を先延ばしにしていた。
  その様なところだったので、この事もあって、紫式部
 は、京を離れたのだった。
  越前では、父の秘書として、才能を発揮し、その役割
 を果たした・・そして、広い知識も収めた。
  結局、紫式部は、藤原宣孝と京で結ばれたが、夫に先
 立たれた。
  その後、一条天皇の后(きさき)の彰子(しょうし、
 藤原道長の娘)に仕えた。
  才女の集まる宮廷は、優雅で、知的な社交の場だった。
  優秀な才媛らと、その才能を競った。
  そのような環境から、世界に誇る優れた文学が生み出
 された。
  紫式部日記もこの環境を伝える文学となっている。
  宮仕えを終えた紫式部は、1008年頃から、不朽の名作
 「源氏物語」の執筆にとりかかった。
  全54巻にもおよぶ長編小説だった。
  現代に至っても、なお燦然と輝き続ける人類の宝とな
 っている。
.
1297年、ベネチア共和国の第49代元首のピエトロ・グラデ
 ニーゴは、政治改革案を提案した。
  ベネチアの政治は、非常に民主的な政治を目指してい
 た。
  ベネチアの考え方は・・「この世の仕組みは、あくま
 でこの世の民が決める・・(キリスト教の神ではない・・
 また、その代理人であるキリスト教聖職者でもない)」・・
 とした。
  故に、ベネチアは、力を誇示するローマ法王の「支配
 を及ぼそうとする権力」と対峙した。
  ローマ法王(教皇)が嘆いたほどだった・・「教皇で
 ある自分は、ベネチアだけは違う(支配は出来ない)」・・
 と・・、
  べネツアは、キリスト教司祭でさえベネチアの民・住
 民が選び、ローマ法王の権力を排除した。
  ベネチアの政治体制は、ローマ帝国の長さと同じ500年
 間も続いた。
  ベネチアの為政者の選出も神経を使っていた。
  まず、複雑な手順で、その「選出のための有権者」が
 決められた。
  それから、その有権者らの投票で、元首(ドージェ)
 が選出された。
  そして、さらに、専制的にならないように、元首が、
 補佐官の数名と相談して事を為すというシステムになっ
 ていた。
  それでも・・同じ家から二代目、三代目と続かないよ
 うに・・、
  そして、いつの間にか「君主制に転じていた」なんて
 ならないように注意していた。
  今、世の中が進んでいる21世紀だというのに、独裁的
 な国家・・タミの声を聞かない「中国」や「北朝鮮」が
 存在し、その独裁者が、大量殺戮兵器の核ミサイルを世
 界へ向けている。
  このベネチアの元首・グラデニーゴが、1297年に、政
 治改革案を提案したのも、民主政が形骸化して、ダンド
 ロ家やティエポロ家、モロシーニ家といった名門から元
 首が選ばれることが多くなり、金銭が絡む不正や衆愚政
 治的な動きによって政治が左右されることが多くなった
 からだった。
  しかし、この時、グラデニーゴの提案が受け入れられ
 て、改革が行われたと思ったが・・しかし・・、
  中産階級が大幅な増員という形となって、発言力が増
 していた。
  確かに、上流階層の発言力は抑えられたが、また、以
 前から発言力のない下層民衆と共に、この発言を抑えら
 れた・・
  そのため、上流階層と下層民衆の双方から、グラデニ
 ーゴは攻められた。
  また、ローマ法王もベネチアの台頭を快(こころよ)
 く思っていなかったため・・奸計(かんけい、悪意ある
 はかりごと)を巡らせた・・
  ローマ法王は、反対派と共に、グラデニーゴの失脚を
 画策した・・
  よく歴史上で、政治に首を出すキリスト教法王だった。
  1310年6月15日に、クーデターが勃発した。
  だが、グラデニーゴの対応によって、このクーデター
 は失敗に終わった。
  そして、政治改革を行なうのであるが、グラデニーゴ
 は、何故か?、この翌年、急死する・・毒殺?・・
  反対派の毒殺説が存在する。
  ピエトロ・グラデニーゴ:1252年生まれで、1311年に
 59歳で没した・・、
  元首としての在任は、1289年(37歳)から1311年(59
 歳)の22年間だった。
.
15世紀、この頃になると、スラブ人のモスクワ大公国の勢
 力が拡大し目立った。
  キリスト教東方正教会は、キリスト教の三大分流の一
 つだが・・、
  1054年、東ローマ帝国圏のコンスタンティノポリスと
 ローマの総主教座が、東西に分裂し・・、
  以後、西方のローマ‐カトリック教会に対して、正(
 オーソドックス、正統だの意味)教会として発展した。
  15世紀頃になると、ギリシャ正教会が、オスマン帝国
 の支配を受けるようになり・・主流が、ロシア正教会
 (ハリストス正教会)に移った。
  モスクワ大公国のイヴァン3世(在位1462年~1505年)
 は、ロシアをほぼ統一させ、ビザンツ帝国の最後の皇帝
 の姪を妻に迎えた・・、
  この後、ロシア人が、スラブ系の諸勢力の中心となっ
 て、キリスト教の東方正教会の主導権を握った。
  そして、20世紀になって、その多くが・・共産圏へ入
 った。
.
1637年、哲学者・デカルトの最初の著書「方法序説」が書
 かれた。
  この中で、デカルトは、キリスト教のイエズス会のラ・
 フレーシュ学院で学んでいたが・・キリスト教の数々の
 論理矛盾に対し・・そして、これを、伝統的に受け入れ
 ているだけの学問に対し・・批判した。
  当然、その結論は・・そこには、確実なものは「ほと
 んど見当たらない」と・・、
  最新の科学にも通じていて・・「このデカルトやパス
 カル」は、その合理主義を取った。
  そして、科学的思考も重んじた・・非科学的な論理矛
 盾だらけのキリスト教を嫌悪した。
  デカルト等は、「人間の理性は、非合理なものを断ち
 切る知恵を持つ」・・と説いた。
  そして、絶対王政の下で、「キリスト教会が定めた戒
 律」より・・「個々人の理性による判断」の方が確かだ
 ・・と・・
  そして、その思考法を重んじる近代哲学が広まって行
 った。
  近代哲学は、科学的根拠のないキリスト教の宗教行事
 も・・、
  イエスやマリヤの像を拝(おが)むなどの現世利益を
 求めるキリスト教の非合理なすべての事々を、当然、指
 摘した。
  「誰が救われ、誰が救われないかなど、あらかじめキ
 リスト教の神(主)によって決められている」という陳
 腐さなどを指摘した。
  同時に、キリスト教によって権威づけられた国王の統
 治に対する疑問へも気付かされる。
  また、権威づけられた国王・諸侯側も、キリスト教側
 へ種々の利便を与えた。
  デカルト派の近代哲学者は、「人間が理性を持って判
 断したことに『誤りはない』」と断言した。
  ここから、「より多くの人々が理性的判断を下す」と
 いう『民主主義の望ましさが認識されて行った』。
  民主主義の目覚め・・
  そして、「国王は、キリスト教の神(主)から授けら
 れたものであるから、国王は思いのままの政治を行なう
 ことが出来る」という『王権神授説』は、『否定されて
 行った』・・キリスト教の虚構は崩れて行った・・
.
1918年11月11日、第一次世界大戦が終結した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、あれほど強烈に「植民
 地の収奪をしておきながら、その植民地諸国に対して、
 謝罪など一度もしていない」・・、
  朝鮮は、中国に冊封されていて、なんだかんだと中国・
 清朝の翼下に入りたがっていた。
  強いものに付くという状況だった。
  1894年3月29日に起きた甲午農民戦争の朝鮮国内の反乱
 が抑えきれないと見ると、「中国・清の出兵を要請し、
 助けを求める」というような李氏朝鮮の状況だった。
  日本が、力を付けて、中国・清と対等に行動できるよ
 うになると、朝鮮の態度も変わった。
  そして、日清戦争に日本が勝利すると、朝鮮は清から
 独立することが出来た。
  それとともに、日本の翼下に入って来た。
  日本と朝鮮・・日朝はこの様な関係にあった。
  誠実な日本は、朝鮮の国づくりを一生懸命に行なった。
  他国がしない様な投資を、日本は、一生懸命、朝鮮に
 した。
  しかし、時を経て、時代が変わると、朝鮮は、日本が
 『植民地支配をした』と言い出した。
  日本へ、その謝罪の要求さえもした。
  「もう二度と、この様な謝罪要求などしないから」と
 いう言葉に引っ掛かって、ならば・・と、友好のためと、
 日本が謝罪をすると・・、
  その後に、その様な経緯は捨て去って、その後、「日
 本が謝罪した」と世界に喧伝した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカなどより、日本は、朝鮮の
 国造りに貢献しているという日本に対して・・、
  二度と謝罪要求しないという前言はどこ吹く風と、何
 度も謝罪を要求するという態度をとった。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、植民地に強引に自国の
 法律や習俗までも押し付け、植民地収奪をするという事
 までしていた。
  キリスト教の自国の宗教でさえ押し付けた。
  ヨーロッパ諸国やアメリカの強国の植民地へのあくな
 き要求・欲望は極まっていた。
  世界大戦まで引き起こした。
  (第一次世界大戦では、オスマントルコの領有した中
 近東の広大な地域を、イギリスやフランスの勢力下に入
 れた)
  日本の対応は、善意に満ちていた。
  その何よりものその証拠が、朝鮮の人口が3倍にもな
 った。
  衛生状態も、見違えるほど向上した。
  日本と同等、または、それ以上の教育の充実にも、日
 本は努力した。
  産業も起こし、鉄道も朝鮮じゅうにくまなく敷設した。
  ・・など、その例は、枚挙にいとまがない。
  朝鮮からの感謝の言葉もない。
  この貢献の事実は、朝鮮は、認識し、認めよ。
  日本の国民の資金・税金が投入されて、なされたこと
 なのだ。
  また、因みに、第一次世界大戦の勝利側は、イギリス
 帝国、フランス共和国などの連合国側で・・
  一方、敗戦国側の中央同盟国側には、ドイツ帝国、オ
 ーストリア=ハンガリー帝国のほか、オスマン帝国が居
 た。
  このオスマン帝国の中近東の広大な領土が、イギリス・
 フランスの勢力下に入り、この後、色々な問題を引き起
 こす。
.
1944年8月、国際連合憲章が、アメリカ合衆国、イギリス、
 ソビエト連邦、中華民国の代表がワシントンD.C.郊外の
 ダンバートン・オークスで会議を開き(ダンバートン・
 オークス会議)、憲章の原案となる「一般的国際機構設
 立に関する提案」を作成した(~1944年10月)
  そして、1945年6月26日、サンフランシスコ会議におい
 て、51ヶ国により署名された。
  そして、この国際連合憲章の第53条第1項後段(安保理
 の許可の例外規定)は、「第二次世界大戦中に連合国の
 敵国だった国」が、戦争により確定した事項を無効に、
 または排除した場合、国際連合加盟国や地域安全保障機
 構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して『軍事的
 制裁を課すことが容認』され、この行為は『制止できな
 い』としている。
  また、敵国の侵略政策の再現に備える地域的取極がな
 されている場合も、安保理の許可がなくとも『敵国に対
 して軍事的制裁を課すことができる』としている・・
  そして、馬鹿らしくも、戦後、70年以上も経た今でも、
 『有効だ』とされている・・「時代遅れの国連憲章」と
 なっている。
.
1945年10月24日、国際連合が活動を開始した。
  国際連合憲章の発効に伴って、国際連合が発足した。
  本部は、アメリカのニューヨーク市のマンハッタンに
 ある。
  韓国は、日韓併合で、第二次世界大戦を、「れっきと
 日本と共に戦った」のに、中国の上海か?どこか?に居
 た日本と対決していた小さいわずかなグループを引き合
 いに出して、都合よく・・「そのグループの後を引き継
 いだ」という言い方を言い出した。
  『だから、韓国は戦勝国だ』という卑劣な言い方を言
 い出した。
  日本にも、日本の敗戦を最初から予測し、確信してい
 た人は多くいた。
  つまり、日本国政府の意思と一致しない人々は多く居
 た。
  日本には、だから・・「その人々の意思を引き継いだ」
 なんて言い出す事はしない・・
  『卑劣な節操のない屁理屈は言わない』が・・
  韓国のその言い方は、『馬鹿者』と言いたいくらいの
 その様な恥ずかしいもの・・。
  韓国兵士・・当時は、日韓併合の兵士(東京裁判で、
 有罪となった兵士の方も居るという状況)も、勇敢に、
 アメリカやイギリスの連合国軍と戦い、日本の将校とな
 って、東京裁判でその軍事行為が裁かれた。
  韓国は、日本と同じ枢軸国として裁かれている。
  また、汚いのは「イタリアだ」。
  ドイツと一緒になって、あれほど戦い、その枢軸国に
 後から日本も加わって、戦って・・、形成が悪くなると、
 イタリアは、クルッと向きを変え、勝っている方へ加担
 して、最高位の人間・ムッソリーニを捕らえて、殺して
 (私刑・リンチ)、戦勝国に化けてしまった。
  そして、アメリカも、イギリスも、その様に遇してい
 るから・・おかしい???
  ドイツの裁判や、日本の裁判の様な事はしていない。
  すべてを不問としている。
  おかしいではないか・・おかしい事が起きているでは
 ないか・・
  誤魔化しが起きている。
  例えば、何人も殺してきた犯人が、ある時、クルッと
 態度を変えて、行動が変わったら、「犯人ではなくなっ
 てしまった」・・という様なもの・・
  こんな話は通らない・・こんな理屈は通らない・・イ
 タリアだって同じ様に裁判を受けるべき敗戦国だ。
  例えば、信長が本能寺で、明智光秀に討ち取られ「明
 智光秀の三日天下」となった。
  その後の豊臣秀吉との戦いに敗れた。
  しかし、秀吉は、光秀の首を取り損なっている。
  光秀の天下は、実態としては、秀吉に、その体制は崩
 されたが・・、
  もしかしたら、光秀は、どこかで態勢を取り直すとい
 う過程にもあった。
  つまり、光秀が敗れて、逃避行の身にはなったが・・
 戦に敗れた時点で終わったとしてはいけない。
  一分の可能性を持って信長を破って手に入れた、光秀
 の天下は続いている。
  実態は、天下は、秀吉に流れて行くのだろうが?・・
 しかし、100パーセントでは無い。
  そして、可能性を求めて逃げ延びた光秀は、逃避行途
 中の山の中で、落人狩りの百姓に討ち取られてはいるが、
 一分の可能性があった光秀の可能性が・・ここで無くな
 ったのである。
  その残っていた僅(わず)かな光秀の可能性を「その
 百姓たち」が奪ったわけである。
  光秀は、可能性はほとんどない状態に居たが、その僅
 かな可能性を、百姓たちが奪い取ったのである。
  つまり、可能性のほとんどない、その可能性は、その
 落人狩りの百姓グループに移った、99.99999・・パーセ
 ントの可能性は秀吉だろうが。
  しかし、秀吉は、この百姓から当然、その残りの
 0.000・・1%を取り返さなかった。
  秀吉は、「100%の天下人では無い」と言えるか??
  これは、屁理屈である。
  こじつけ論理である。
  くだらない論理である。
  しかし、「この様なこじつけ論理」が、イタリアの場
 合にも言われているのである。
  くだらない事に・・アメリカ・イギリスが、このくだ
 らない論理を振り回して、「正義だ」「正しいのだ」と
 言っている。
  アメリカ・イギリスは、この様に・・勝手に自分だけ
 の論理を振り回してやって来た。
  問われるべき罪もないのに・・罪があるのだとして殺
 して来た。
  また、罪を問うべきを問わないで・・公正・公平に行
 なわないで来た。
  お好みで、すべてを処して来た。
  イタリアは、連合国状態になってしまった。
  そして、日本やドイツに対して・・国連の敵国条項が、
 今だに、現在もまだ、存在しているという・・
  これが、アメリカに都合が良いと、いまだに、その状
 態を取って、世界中に、そして、日本・ドイツに押し付
 けている。
.
2014年、ロシアは、クリミアを強引にロシアへ併合させてし
 まった。
  クリミア半島は、地理的にヨーロッパの南端と言えた。
  これは、キリスト教圏とイスラム圏との境界でもあっ
 た。
  この様な位置関係から、古い時代から様々な多様な信
 仰を持った民族が、クリミアに侵入してきた。
  東ローマ帝国の系統の東方正教会のキリスト教徒が、
 ロシアやウクライナへ侵入し、また、クリミア半島へも
 入ってきた。
  また、オスマントルコが、クリミア半島に、イスラム
 教を入れた。
  この様な両宗教の地となって来た。
  また、モンゴル系のクリミアタタールの人々もいる。
  クリミアには、ロシア正教、ウクライナ正教、イスラ
 ム教スンニー派の3者の方々の複雑な宗教的関係がある
 状態となっている。
  大国や強国が、武力で解決する問題ではない。
.
2015年9月、EUへ向かう難民の方々・・それも豊かなド
 イツへ
  幼い3歳の難民の子供が波に漂(ただよ)う悲惨な姿
 はEU諸国へショックを与えた。
  豊かなドイツへ向かう難民の方々・・、
  そのドイツ・・なんとも歯切れが悪く・・その悲惨な
 幼児の姿を見て、難民の受け入れを決めた・・が・・
  元々は、ドイツには、難民を救済するとする基本法が
 あった・・第二次世界大戦時の卑劣な行為の罪滅ぼしで
 あったが・・、
  この頃になると、ニコニコ顔で受け入れるという当初
 のドイツではいられない・・当初とはだいぶ違っていた。
  この3歳児の悲惨な姿の報道後、一時は、態度を変えた
 が・・しかし、ドイツは、『入国審査を再開する』と言
 い出した。
  即刻、ドイツは、アウトバーンで「検問を復活させた」。
  このアウトバーンの検問は、30年ぶりだった。
  この様な事までやり出すドイツだった。
  アウトバーンは大渋滞となった。
  ドイツへ来る列車も運休にされた。
  押し寄せる難民の方々に対し、ドイツは、この様な事
 をした。
  列車で到着した難民の方々は、最初の3日間で3万1000
 人に達した。
  だから、他のEU諸国も、同様な態度を取り出した。
  オーストリアは、すぐさまハンガリー国境に軍隊を派
 遣した。
  チェコも、国境監視を始めた。
  EUの「自由往来」のシェンゲン圏内の取り決めは、
 まったく『無視』の「あるが無きのごとく」だった。
  EUの美しく飾り立てた理念「人、モノ、金、サービ
 スの自由な移動」は、どこかへ行ってしまっていた。
  「シェンゲン協定」も、「ダブリン協定」も、まった
 く捨て去ったEUだった。
  2015年9月だけで、難民の方々は、16万4000人が入国
 した。
.
2015年9月、EUへの、多くの難民の流入が続く・・
  ドイツの豊かさが私たちも欲しいと・・、
  それが得たいと・・難民となってドイツへ流入する、
 押し寄せる・・その難民を受け入れるドイツ・・そうし
 なければならないと・・、
  難民が押し寄せるような良い国に、ドイツの今のお年
 寄り方がしたのだが・・子供たちの為にと一生懸命に働
 いて・・国づくりに励んだ・・今のドイツはその努力
 の結果で・・
  2015年、ドイツの難民の入国数は「80万人と予想され
 た」。
  しかし、その流入は激しく、この数が、100万人に修正
 された。
  人口8000万人の国に、この年だけで100万人を受け入れ
 る。
  この難民の受け入れに「○○万人だ」と上限を決める
 事はおかしいと発言する声・・その様な論理があった・・
  しかし、無制限に難民が入ってくれば・・社会も、労
 働市場も、学校も、混乱してしまう。
  メルケル首相は、自身が、東ドイツ出身で、悲惨な東
 ドイツから豊かな西ドイツへ来たという体験をした人で
 あるため、難民の方々へ理解を示し、難民の方々の身に
 なった発言をしていた。
  そして、「できる」と発言した。
  ドイツ中が、この「できる」で高揚した。
  かつて、第二次世界大戦に至った、あの高揚の様な、
 似た状況にドイツはあった。
  少しでも異議を唱える人間には「非人道的」というレ
 ッテルが張られた。
  下手な発言は、極右だとされた。
  この様な中で、ドイツ社会の中に難民が入って来て、
 定着して行った。
  そして、ドイツが変わり始めた。
  ドイツ社会がきしみだした。
  問題の原点には・・難民を発生させる、そもそもの原
 因があるが、その解決が見えない中に、ドイツへたどり
 着いた難民の方々、そのたどり着いたその場の崩壊が、
 現実となって行った。
  警察沙汰が増加した。
  収容施設は、ぎゅうぎゅう詰めとなった。
  そこで、暴力沙汰が増えた。
  難民の民族と民族の、「民族の違いの闘争」が起きた。
  2015年9月27日、ヘッセン州の収容所で、コソボのアル
 バニア人とパキスタン人の大規模な闘争が起き、400人も
 の難民が暴れた。
  警察官も負傷し、難民の方々も負傷し、その他の多く
 の難民施設でも、一触即発の事態が続いているという状
 態になった。
  言葉も宗教も違い・・昨日までまったく知らない者同
 士が、狭い中に、ぎゅうぎゅうと押し込まれて居るとい
 う欲求不満の塊の社会ができていた。
  警察も限界に来ていた。
  民間の警備会社が投入されたが、警備員には移民系が
 多いので・・火に油を注ぐという結果になった。
  2015年9月28日、警察が、宗教別に収容すると発表した。
  この様な人々が、これからドイツ文化を受け入れて、
 静かに生活して行けるのかという事が「危ぶまれた」。
  この様な時に、ハンガリーは、国境を封鎖した。
  クロアチアも、続いて、国境封鎖した。
  EUの国境が・・閉じられて行った。
  それでも、難民の流れは止まらなかった。
  民族移動が、一旦、始まると止められないのごとくだ
 った。
  難民は、悪路でも、何でも、迂回したりして入って来
 た。
  ユーゴ内乱の時の地雷が残る「地雷地帯」にまで入っ
 てきた。
  10月になって、気温が下がっても、冷たい雨が降って
 も、道がぬかるんでも、難民の行軍はあった。
  スロベニアは、難民の数があまりにも多いので、その
 数に驚いて、軍隊を出し、流入を防ごうとした。
  しかし、その隣のクロアチアは、スロベニアにどんど
 ん難民を送り出していた。
  2015年10月17日、この難民問題が、からんでケルン市
 長の有力候補がナイフ刺された。
  犯人は、『難民政策が気に食わない』のでやったと言
 った。
  10月末の冷たい川に、首まで浸かってでも渡河してい
 る人々の様子が報道された。
  水温は8度だった。
  赤ん坊、お年寄り、子供が、どうなっているのかが心
 配された。
  この様な原因を作っている「元が悪いのだ」が・・?
.
2016年3月13日、テレビ報道は、年がら年中、日本国民の世
 論操作をしている。
  例えば・・
  ☆2016年3月13日、日本テレビ:
  自民党大会での安倍総理の「選挙の為だったら何でも
 する、こんな無責任な勢力に敗ける訳にはいかない」と
 の発言を、悪意ある編集をして内容をまったく変えた・・
  「安倍首相『選挙が為だったら何でもする』」と表示
 をして、「安倍首相の悪印象」を印象付けた。
  またこれは、総理という立場での指導的発言を、首相
 という国の代表に立場を変えるという悪意もある。
  国の責任者にある状況にして、異常発言の状態に編集
 し、放送し、悪印象へと操作をしている・・まったく許
 せぬ日本テレビの放送のやり方。
  日本テレビは、仏教蔑視の放送も年がら年中している。
  悪い場面で、お寺の鐘をゴーンとならしたり、仏壇の
 リンをチーンと鳴らしたりと、年がら年中している世論
 操作・印象操作ばかりする放送局となっている・・テレ
 ビコマーシャルを依頼している企業へも悪印象を与えて
 いる。
  ☆2014年9月10日、テレビ朝日:
  川内原発に関する報道で、原子力規制委員会の田中俊
 一前委員長がいくつかの記者の質問に対して回答を拒否
 した部分のみを放送して偏向した編集をして世論に偏っ
 た印象を与えた。
  ☆2015年6月5日、フジテレビ:
  VTR内で日本についてインタビューに答えている韓
 国人2人について、翻訳の字幕や日本語吹き替えの内容
 と異なる映像を使用し、韓国人が日本を嫌っているかの
 ように放送した。
  ☆2017年7月3日、TBS、
  小池百合子東京都知事が就任あいさつをした際に、握
 手をした映像をカットして「自民党の川井重勇都議会議
 長(当時)が握手を拒否」と放送して、全く事実と違う
 放送をした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)

2018-05-11 03:09:44 | 日記
題:(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月9日、明治天皇陛下大婚満二十五年祝典挙行
  明治天皇陛下銀婚式
  明治天皇陛下・御夫妻の「大婚25年祝典」(銀婚式)
 が行われた。
  記念日から1ヶ月遅れの開催だった。  
・大婚25年祝典(氷川清話)
  これより、日本で銀婚式が広まった。
  そして、この日、明治銀婚の記念切手が発売された。
  明治天皇陛下の大婚25年記年祝典で、逓信省が記念切
 手2種類をはじめて発行する。
  日本で初めての記念切手は、紅色が内地用で2銭、青
 色が外地用で5銭だった・・
  デザインは、菊の花の紋章にオスとメスの2羽のツル
 が描かれている。
  実は、外国人の新聞の投書がきっかけとなり、急に、
 記念切手の発行が決まったといわれ、日本最初の記念切
 手となった。
  この式典に、渋沢栄一は召されて参内しました。
  そして、栄一に同行した長女の穂積歌子(ほづみ・う
 たこ、1863年~1932年)は、その著書「はゝその落葉」
 の中で、この日のことを以下の様に記している・・、
  (上略)久かたの天の御柱めぐりめぐりて。
  廿年あまり五つとせと云ふにならせ給ヘバとて。
  やがて其年の春三月九日。
  御祝典取行はせ給ひ。
  勅任以上の司人。
  および民間にあるも四位以上の人々ハ。
  其夫人と共に九重の内に召しのぼせ給ひ。
  御代ことほぎの舞楽拝観をなんゆるさせ給ひける。
  されバ数ならぬ身も此おほん恵ミの露にもれざりし事
 こそいとうれしかりしか。
  大人にハ冠をかけ給ひしより。
  公の御儀式にたづさはらんも要なしとて。
  議会開院の式にすら出まし給はざりけれどこたびハあ
 まりの御めでたさに。
  始めて四位の大礼服調ぜさせられて参内せさせ給ひき。
  (下略)
  はゝその落葉、穂積歌子著、明治三三年二月刊
 
1894年3月12日、堀井新治郎が、謄写版(ガリ版)の特許を
 取得した。
  初代の堀井新治郎は、明治・大正時代の日本の発明家
 で、謄写版(ガリ版)印刷機の開発者。
  幕末のただなかにあたる安政3年9月16日(1856年10月
 14日)、近江国蒲生郡駕輿丁村の、菱田弥左衛門の次男
 として生まれた。
  内務省勧農局紅茶伝習所に入り、緑茶再生法伝習所等
 を経て・・、
  1879年(23歳)8月13日、岐阜県御用係となり、その後、
   農商務省製茶巡回教師になる。
  1883年(27歳)8月、滋賀県蒲生郡岡本村で、代々醸造
   業を営む堀井家の養子となり、亡夫と儲けた一児を
   連れた堀井ヒデと結婚して、第38代堀井家の家主・
   新治郎となる。
   滋賀県勧業委員や米質改良委員などを歴任した後、
  1893年(37歳)1月、新治郎は、簡易印刷方法研究のた
   め官職を退く。
    巡回教師活動は、多くの資料を複数部用意する必
   要があるが、当時の印刷は高く、一般が利用できる
   金額でないことから、同文を一括して印刷できる簡
   易な印刷方法の必要性を仕事を通じて痛感していた。
    仕事を通じて欧米で簡易印刷について調査してい
   たことから、開発の方向性は見え始めていた。
    なお、子息・耕造も、同時期に勤務先である三井
   物産を退職し、父と行動を共にし簡易印刷方法の研
   究に邁進することとなった。
    当時、日本で行われた簡易印刷としてはコンニャ
   ク版印刷があったが、多くて20枚の印刷が限界で、
   企業や役所・学校はより多数の同文書類を必要とす
   ることが多く、質の高い簡易印刷は様々な活動にお
   いて強く求められていた。
    簡易印刷の方向性が纏まりかけて来たことから、
  1893年(37歳)3月、シカゴ万博視察を兼ねて、印刷技
   術の先進国であるアメリカ合衆国に簡易印刷方法の
   情報収集・技術習得に出向く。
    アメリカでは、エジソンが孔版印刷ミメオグラフ
   (謄写版)の理論を、1861年に開発し、新次郎が渡
   米した頃、エジソンは原型を完成させた。
    その間、日本では、度重なる研究開発費に渡米費
   用等の資金を捻出するため、子息・耕造は、蒲生郡
   の自宅を含め、仏壇を除く資産を売却し、
  1893年(37歳)4月、その資金で、一家は東京府東京市
   神田鍛冶町へ転居した。
   家族の生活は極貧の状態であった。
  1893年(37歳)10月、視察を終えた新治郎は、日本に
   帰国した。
  1894年(38歳)1月、新治郎親子は、「蠟引きした原紙
   をやすり上におき、鉄筆で書いて製版する方法」を
   発明し、「謄写版」と命名し、発表した。
    この頃、謄写堂と社名を称する。
    また、速やかに特許出願を行うが、資金がなく自
   力申請した結果、書類に不備があって特許受理には
   至らなかった。
    堀井家にとっては早々の資金化が必要なことから、
  1894年(38歳)7月、ジャパン・ウィークリー・メイル
   (横浜居留地にて発行された在日外国人向けの新聞、
   明治維新期から近代化する日本の情報を世界に発信
   しつづけた英字紙)に謄写版の広告を出し、大きな
   反響を得ることができた。
    また、東京帝国大学講師ウエングステンからも優
   秀な発明との賞賛を得、横浜のモルフ商会他在日外
   国商社等から資金支援の申し出があったが、条件面
   での不満があって、これらの申し出を謝絶した。
    営業は主に耕造が担当したが、当時は簡易印刷へ
   の期待の高さから詐欺的営業も多く、堀井の謄写版
   に対しても世間の信頼を得ることはできなかった。
  1894年(38歳)7月、日清戦争が勃発すると、簡易印刷
   機は軍部においても必要なものであることから、陸
   軍省より堀井親子に多量の謄写版発注があった。
    製造途中において火災に遭い、印刷紙の多くを消
   失するなどの問題が生じたものの、新治郎親子の昼
   夜を厭わない作業により、期限内に完納することが
   できた。
  1895年(39歳)3月12日、2499号にて特許(謄写印刷紙)
   が認められた、加えて、軍への納入は世間に十分信
   用証明するものであったことから、以後は役所等よ
   り多くの注文を得るに至った。
    新治郎親子も営業に注力すべく行商活動する従業
   員を雇って販売を広げながらも、掛売りの焦げ付き
   などから資金面では厳しい展開が続いた。
    それでも、堀井親子の謄写版が簡易印刷の主流と
   なるに及んだ。
  1897年(41歳)3月、耕造が結婚し、5月には博覧会創
   設25年記念博覧会(京都)において賞杯を受ける。
  1904年(48歳)4月、新次郎は病に倒れて隠居し、子息・
   耕造が第39代堀井家家主となる。
  1916年(60歳)5月8日、緑綬褒章を受章し、
  1917年(61歳)新次郎は「新治郎」の名を息子・耕造
   に襲名させ、自らは「元紀」と名を改めた。
  1922年(66歳)4月29日、帝国発明協会優等賞を、
  1926年(70歳)9月17日、帝国発明協会最高賞である帝
   国表彰を、
  1929年(73歳)10月16日、特等賞を受賞した。また、
  1929年(73歳)11月30日、産業貿易功労者として子息・
   新次郎が表彰された。
  1932年(76歳)7月19日、新治郎(元紀)は目白台の自
   邸にて永眠する。
  生前特許出願数は647件、内特許件数433件(日本特許
 394件、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアでの
 特許39件)に達した。

1894年3月28日、朝鮮の政治指導者・金玉均が、上海に誘い
 出され、拳銃で暗殺された。
  これは、李氏朝鮮の刺客だった。
  金玉均の遺体は、中国・清朝の軍艦で朝鮮に運ばれ、
 遺体になっても卑劣な刑(凌遅刑)が執行された。
  中国・清朝と朝鮮・李朝の示し合わせた暗殺だった。
  日本人の和田延次郎は、秘かに金玉均の髪と衣服の一
 部を日本に持ち帰り、浅草本願寺で葬儀を営んだ。
  金玉均には、凾館で知り合った妻が居たが、金玉均の
 暗殺が起きた直後、東学党の乱が起き、金玉均の妻子の
 安否状況が心配されたが、日本軍が、偶然、発見し、そ
 の妻と女の子を保護した。
  その時の二人の姿は、まったく憐れむべき状況・姿だ
 ったという。
  因みに、朝鮮は、この金玉均だけでなく、金玉均の朝
 鮮開花派の人々をも処刑した(問答無用の蛮行がなされ
 た)。
  暗殺者は、朝鮮帰国後、李氏朝鮮の高宗(第26代国王)
 から激賞され、要職に就いた・・そして、開化派を弾圧
 し続けた。

1894年3月29日、朝鮮南部の全羅道で、農民を基盤とする在
 地宗教の東学党が、圧政に抵抗して蜂起した・・甲午農
 民戦争が始まった。
  農民の蜂起の原因は、李朝朝鮮の圧政と腐敗で、その
 「腐敗した役人の追放要求」と、「利益を収奪する外国
 人の追放」だった。
  農民の勢いは強く、朝鮮半島の一部を制圧するほどだ
 った。
  兵力の弱い李氏朝鮮王朝は、清国に出兵を求めた。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  そして、この後、日清両国に衝突が起きた。
  そして、このぶつかり合いが、拡大して行った・・
  日清戦争の原因となった。
  戦場は、拡大し続け、満州南部などに拡がった。
  これまで清国に劣勢だった日本の兵力は、この時点で
 は、陸戦でも海戦でも、清国と対等、もしくは、圧倒す
 るくらいまでになっていた。
  これまで、圧倒する清国に対して、日本は、努力を重
 ねて来ていて、「新兵器も用意し、装備していた」。
  また、「軍隊の訓練に励み、規律も優秀で優っていた」。
  そして、「日本人全体の意識が、国民として一つにま
 とまっていた」。
  因みに、1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時
 には、事前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約
 を結んでいた。
  (参考)東学農民の蜂起の原因:この1894年に朝鮮南
     部で起きた農民戦争の原因は・・、
      外国貿易の開始による経済変動で、南部地方
     の農民は生活破たんを起こすほど悪かった。
      この様な苦境に直面している民に、新興の民
     族宗教東学は、こうした農民層に浸透し救済し
     た。
      また、李朝の郡守の圧政に怒った全羅道郡古
     阜の農民たちが、全琫準を指導者として、東学
     の組織を通じて決起した。
      この「東学党の乱、甲午農民戦争」と、苦境
     にあえいでいた農民の方々の大農民反乱に発展
     した。
      農民軍は、全羅道都の全州を占領、また、他
     国に軍事介入の口実を与えぬように、悪質李朝
     官吏の処罰や身分解放などを条件に李朝政府軍
     と休戦した・・が・・
  
1894年、横浜で鉄桟橋が完成した。
  横浜港は、1859年の開港以来、急増する貨物量に対し
 て、
  『イギリス波止場』(後の「象の鼻」波止場と呼ばれる)
 や、『フランス波止場』と呼ばれる艀荷役に必要な小規
 模の船溜まりこそあったものの・・、
  直接岸壁に接岸して荷役が行える施設はなかった。
  増加一途の貨物量は、艀荷役だけでは対応しきれなく
 なっていた。
  接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性は高まってい
 た。
  艀荷役が、慢性的な埠頭不足により、近代国家に相応
 しい埠頭を建設することが早急の課題とされた。
  明治維新直後から、井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事
 はその建設を要請していた。
  1870年になって、工部省お雇い外国人の英国人技師リ
 チャード・ヘンリー・プラントンが、横浜築港桟橋計画
 の提案をした・・また・・、
  1874年にも、内務省お雇い外国人オランダ人技師ファ
 ン・ドールンも築港計画提案をした。
  大隈重信大蔵卿からも、接岸荷役体制に向けた築港計
 画が上申された。
  しかし、これ等の多くの要望があったが実現はできな
 かった。
  また、当時は、既に、「東京港の建設」の機運にあり、
 品川沖に築港する案もあった。
  しかし、その東京港建設案は、財政難や、横浜からの
 反対などもあり、実現はしなかった。
  1886年、横浜開港から27年が経過したこの年、機運が
 やっと高まった。
  内務省から、オランダ人技師デ・リーケへの設計要請
 があり・・また・・、
  神奈川県より、イギリス陸軍大佐であり技官であった
 ヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請が行なわ
 れた。
  しかし、この両者の設計案は、政府内で議論が沸騰し
 た・・
  さらに、政府内にその上位案件として、東京港建設と
 横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が起き
 た。
  この時、外務大臣となっていた大隈重信は、横浜港建
 設を強く進言した。
  さらに、パーマーがイギリス・タイムス記者を兼職し、
 同紙上で、日本を好意的に報道した実績や、不平等条約
 改正に向けた日英同盟への働きなどがあり、
  正式に、パーマーの横浜港築港案が採択されるに至っ
 た。
  また、さらに、下関砲撃事件での賠償のうち、アメリ
 カへの支払った賠償金が、べらぼうな取り過ぎだったた
 め・・、
  1883年、グラント大統領、及び、アメリカ議会の承認
 により、日本への償還が承認された。
  この償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的
 な目処も立った。
  1889年、このようにして、やっと横浜築港第一期工事
 が始まった。
  待望した接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。
  しかし、基礎に必要な螺旋杭は、当時の日本の精錬所
 からは供給できなかった・・まだ、技術の未熟な日本が
 そこにあった。
  大量の螺旋杭を輸入し、難局を乗り越え、建築された。
  1894年、こうして、現在の大さん橋の前身となる「鉄
 桟橋」が完成した。
  鉄桟橋は、陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は
 457メートル、幅19.2メートルで・・当時の技術では最先
 端を行く近代埠頭だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉:もろもろの事象は
          過ぎ去るものである
          怠ることなく修行を完成なさい。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 11
.
  カクッター川
  水浴びをしている水牛・・
  それを見て・・気持ち良さそうだねー・・
  今は、その様な情景が流れる・・
.
  仏陀は、パーバ村とクシナガラの間に流れる、このカ
 クッター川のほとりにさしかかった時、ついに耐え切れ
 なくなります。
  ここで袈裟を敷いて腰をおろし、アーナンダに水を汲
 んで来るように頼みます。
.
  仏陀は、弟子に対して、こういう風に語る部分があり
 ます。
  非常になんか こう、人間味のあるエピソードなんで
 すけれど・・、
  それは そのー、もしも自分に何かあったならば、そ
 のことで、自分に供養の食事を出した鍛冶屋の子の責任
 が、問われる様なことになりはしないか・・、
  彼は、けっして悪くないんだと、彼がその事で自戒の
 念に悩まされ、自分に悪徳があるのではないのかと、こ
 ういう風に考えない様に、彼によく言って聞かせてくれ
 と・・、
  当時の鍛冶屋と言いますと、芸能人とかその他の職業
 と同じ様に、いわば当時は、カーストの外にあった、大
 変こう、大きな差別を受けていた階層の人たちですね。
  そういう人たちの供応を喜んで受け、そういう人々に
 心を配るという、そういう遊女だ、あるいはアウト・カ
 ーストの人だという人々にも、まったく平等に、自分の
 思いを伝え、接することを、日常の事としていた、仏陀
 の偉大さというものを、今の、近代を超えて来た私達、
 人権なんていう事をですね、改めて学んでいる私達以前
 に、仏陀は、自ら、率先してその事を教えてくれたよう
 な気がして、感動しない訳にはいきません。
.
  仏陀は、アーナンダに、今夜、クシナガラにある2本
 並んだ沙羅の木の間で、自分は死ぬだろうと予言をしま
 した。
  そして、こう続けました。
.
     アーナンダよ、
     鍛冶工の子・チュンダの後悔の念は
     この様に言って、取り除かねばならない
     『 友よ、
     修行完成者は、
     最後の供養の食べ物を食べて
     お亡くなりになったのだから
     お前には利益(りやく)があり
     大いに功徳がある。
     友・チュンダよ、
     この事を尊師から
     目の当たりに聞き、承った 』。
.
  仏陀が、35歳の時、悟りを開いたのは、供養の食事
 がきっ掛けでした。
  自らの死のきっ掛けとなるチュンダの食事も、それに
 劣らないほどの功徳があると、仏陀は言います。
.
     この二つの供養の食べ物は、
     正に等しい実り、
     正に等しい果報があり、
     他の供養の食べ物よりも、
     はるかに優れた、
     大いなる功徳がある。
     その二つとは何であるか?
     修行完成者は、
     供養の食べ物を食べて、
     無常の完全な悟りを達成したのと、
     及び、供養の食べ物を食べて、
     煩悩の残りのない、
     二ルヴァーナの境地に入られたのとである。
.
  クシナガラに達した仏陀は、もはや、動くこともまま
 ならず、頭が北向きになるように、床をしつらえさせ、
 病み、疲れた身体を横たえました。
  大パリニッバーナ経は、仏陀が横になると、沙羅双樹
 に変化が現れたとしています。
.
     さて、
     その時、
     沙羅双樹は、
     時ならぬのに花が咲き、
     満開となった。
     それらの花は、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     ふりそそぎ、
     ちりそそいだ。
     また、
     天のマンダーラワ花は、
     虚空から降って来て、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     降りそそぎ、
     ちりそそいだ。
     天の楽器は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に奏でられた。
     天の合唱は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に起こった。
.
  仏陀、入滅の地、クシナガラ。
  今も尚、仏陀の死を悼み、参拝に訪れる人が絶えませ
 ん。
  町の中心には、仏陀・入滅を祈念する涅槃堂が建てら
 れております。          (つづく)
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃(Nirvana) のこと。
  (参考)利益: (りやく)仏教の言葉。ためになる
     こと。法力によって恩恵を与えること。自らを
     益するのを功徳(くどく)、他を益するのを利
     益という。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 12
  涅槃堂への道を・・歩く・・
  涅槃堂の鐘の音が・・響く・・
.
  敷地内には、沙羅双樹の木が、代々、植えられ涅槃堂
 を見守り続けております。
  (涅槃堂に入っていく、そして、涅槃像の前で座り・・
  祈る・・)
.
  仏陀が入滅されたときの姿を顕す大涅槃像。
  死を間近にした仏陀の周りには、多くの弟子や信者が
 集まったと言います。 
  大涅槃像の台座には、25年もの間、仏陀と共に歩ん
 できた弟子・アーナンダの像が刻まれています。
  今にも訪れるであろう師との別れを悲しみ号泣する・
 アーナンダ。
  仏陀は、アーナンダを呼び寄せ、こう、諭しました。
.
     止めよう、アーナンダよ。
     悲しむな
     嘆くな
     私は、あらかじめ、この様に、説いたではないか。
     すべての愛する者
     好む者からも
     別れ
     離れ
     異なるに至るという事。
     およそ、
     生じ
     存在し
     つくられ
     破壊さるべきものであるのに
     それが破壊しないようにという事が
     どうしてありえようか 」。
.
  仏陀は、死の間際まで、この世に残される者たちを、
 励まし続けました。
.
  涅槃堂から出て行く・・、出口のところで手を合わせ、
 静かにあたまをさげる。
.
  仏陀を辿る旅は、ここが終着点です。
  (大きく鐘の音が・・響く)
.
  理想的な死と言うものがあるのでしょうか・・
  その、問いに・・、
  それは・・、私・個人の事は、旅の途上で消える様に、
 死んで行ければ幸せだと思いますね。
  あのー、子供の頃から、ずーっと、小学校は4回転校
 し、中学校は3回変わり、ほとんど自分の家というもの
 を持たずに、転々と過ごして来ましたから・・、
  ずーっと自分の人生は旅だと考えて来ましたのでね。
  生涯の終わりというものも、何かの形での旅の途中で、
 世を去るというのは、本当に理想的な終わり方ではない
 かと思います。
  その意味で、仏陀の旅は、本当にうらやましい、齢80
 を重ねて、大変な旅だったでしょうけども・・、
  旅の途中で、しかも豪華な都や宮殿の中でなく、美人
 の中でもなく、
  そういう寂しい寒村の林の中で亡くなった、
  そういう仏陀の姿に、本当に共感と言いますか、憧れ
 と、尊敬というか、そういうものを感じます。
  人間の死に方と言うのは、その様なものだろうと感じ
 ます。
.
  仏陀は、自分が死んだ後、いかにあるべきかについて、
 修行僧たちに説きました。
  そして、最後に聞いておくべき事はないかと、三度、
 訊ねます。
  修行僧たちは、己のなすことを充分に理解し、黙って
 いました。
  そこでアーナンダは、この様に言いました。
.
     尊い方よ。
     不思議であります。
     珍しい事であります。
     私は、この修行僧の集いを
     このように喜んで信じています。
     仏陀に関し
     あるいは、法に関し
     あるいは、集いに関し
     あるいは、道に関し
     あるいは、実践に関し
     一人の修行僧にも
     疑う疑惑が起こっていません。
.
  満足した仏陀は、最後の言葉を口にします。
.
     さー、修行僧たちよ。
     お前たちに告げよう
     もろもろの事象は
     過ぎ去るものである
     怠ることなく修行を完成なさい 」
.
  ・・・と。
  こう、言った訳ですね。
  仏陀の生涯・悟った法というもの、まあーダルマと言
 いますか、
  宇宙・自然・人間存在の真理というもの、それを最後
 に一言で、もろもろの総てのものは過ぎ去るものである、
 変化しないものはない。
  こういう風に最後まで、修行僧たちへ告げて、そして、
 怠ることなく、その真理というものを学びなさいと、こ
 ういう風に、あたかも自分達の同胞・友達に向けて語る
 様に、語りつつ・・、
  仏陀は、ここで生涯を終える訳です。
  仏陀を考えて見ますと、仏陀は、求道(ぐどう)の人
 と同時に、
  そして、偉大なる求法(ぐほう)の人、あるいは、伝
 道の人であった。
  死の直前まで、人々に向かって自分の悟った真理とい
 うものを語り続けようとした。
  ここに、仏陀の宗教者としての存在、それから、人間
 としての魂のやわらかさ、そういうものを感じないでは
 いられません。
  体制の保持者である王とも語る、貴族とも語る、財界
 や商人たちとも語り合う、それでいて、差別された人々
 とか偏見を持たれた人々に対して、まったく率直に、そ
 ういう人々の立場に立って、ものを考え、法を説くとい
 う、こういう事を考えますと、仏陀の持っている現代性
 といいますか、こういうものの大きさを改めて感じたこ
 とでした。
  仏陀のイメージが随分変わりました。
.
紀元前483年頃、ブッダ最後の旅 13
  ブッダの入滅
  悟りを開いてから45年の間、苦しみの海に沈む人々
 を導き続けた仏陀。
  病と如何に向き合い、老いをどう受け入れ、そして、
 死にどう臨むのか・・、
  仏陀は、最後の旅で身をもって示しました。
  仏陀の遺体は、クシナガラで荼毘にふされました。
  その遺骨は、仏陀にゆかりの深い8ヶ所に分骨され、
 それぞれストゥーパに納められました。
  大パリニッバーナ経は、この様に締めくくられていま
 す。
.
     その遺功によって、
     この豊かな大地は、
     最上の供養物をもって飾られているのである。
     この様に、
     この眼のある人(=ブッダ)・仏陀の遺骨は、
     よく崇敬され、
     種々に、
     いとも良く崇敬されている。
     最上の人々によって、
     この様に供養されている、
     合掌して、
     彼を礼拝せよ。
     「 げにブッダは 
          百劫(ひゃくごう)にも
                  会うこと難し 」
                       (完)
  (参 考)五百塵点劫: (ごひゃくじんてんごう)
      とは、法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久
      遠をたとえた語である。
       正しくは五百億塵点劫である。
       法華経の如来寿量品第16に・・、
        「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて
       伽耶城を去ること遠からず、道場に座して
       阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。
        しかし、われは実に成仏してより已来(
      このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」
      とあり、
       続けて・・
        「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の
      三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)りて
      微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の
      国を過ぎて、すなわち、一塵を下し、かくの
      如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるま
      で)、東に行くとしたら、この諸々の世界の
      数を知ることを得べしや、不(いな)や」と
      弥勒菩薩に質問している。
       これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。
       「たとえば、三千大千世界のあらゆる地種
      を、仮に人ありて磨(す)りて墨となし、東
      方の千の国土を過ぎて、乃ち一点を下さん。
      大きさ微塵の如し」
       この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称
      される。
       これに対し、寿量品(本門)の「五百千万
      億那由他阿僧祇」を、五百(億)塵点劫と称
      して、化城喩品(迹門)の三千塵点劫よりも
      はるかに長遠であるかが示されるようになっ
      た。
       法華経における釈迦成道は・・、
       「われは実に成仏してより已来(このかた)、
      無量無辺百千万億那由他劫なり」と説いてお
      り、経文の記述に素直に従うならば、この五
      百塵点劫はあくまでもたとえ話として出され
      ただけであって、釈迦が成道した時ではない。
       また、化城喩品の三千塵点劫も、たとえ話
      として持ち出された話に過ぎない。
       しかし、日蓮は、『釈迦御所領御書』など
      で・・、
       「過去五百塵点劫より、このかた、この
      娑婆世界は、釈迦菩薩の御進退の国土なり」
      などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の意味
      を持たせたことから、釈迦が本当に覚った時
      と解釈されるようになった。
       なお、一般的に、釈迦は、インドで生まれ
      菩提樹下で成道したとされる。
       これを伽耶始成、また、始成正覚というが、
      法華経においては、釈迦は、そのようなイン
      ド応誕の仏ではなく、本当は、遠い過去に成
      道していた、と打ち明ける。
       これを久遠実成をという。
                 (Wikipediaより)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)

2018-05-10 03:04:18 | 日記
題:(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年1月1日、イギリスでマンチェスター運河が開通した。
  マンチェスター船舶運河は、鉄道時代になってから建
 設されたが、鉄道に対して十分な競争力を持っていた。
  しかし、時代と共に外洋船が大きくなったため、その
 競争力は失われた。
  しかし、現代でも、その使用は可能の状態にある。
  この頃に、日本の琵琶湖疏水が建設されている。
  琵琶湖疎水の第一疎水は、1890年に完成している。

1894年1月4日、ロシア・フランス政治軍事同盟が締結され、
 正式に成立した(露仏同盟)
  1891年から1894年に、フランスと帝政ロシアの間に結
 ばれた政治協定であり、また、軍事協定であった。
  1894年1月4日のこの日、フランス側の軍事協定承認の
 通告をもって同盟の完成とされた。
  ロシア側は、1893年12月27日に批准していたが、1918
 年まで秘密にされていた。
  ドイツ、オーストリア、イタリアの3国の攻撃に対して、
 ロシアとフランスは、協力して戦おうというもので、そ
 の後、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」へと
 発展した。
  この条約は秘密条約で、初めは、対ドイツの防衛同盟
 の性格を持ったが、イギリスが加わって三国協商となっ
 た。
  この条約は、ロシアの苦しい状況があった。
  1890年に、ドイツ・ロシア間の再保障条約が満期とな
 り、その再延長をドイツが拒否した・・
  そこで、ロシアは、フランスに接近した。
  1891年に、政治協定を結び、
  1892年に、秘密協定の軍事協定を結んだ。
  そして、この1894年に、フランスが、軍事協定承認を
 通告して同盟関係が確定した。
  ロシアは、今までの歴史に於いて、一番条約を破る国
 となっている・・
  日本との中立条約も破って、日本領土を奪うようなこ
 とをしている・・、
  そして、その日本領の日本人たちを戦車などで、多数、
 殺戮し・・、
  また、シベリアへ、日本人を不法に、多数、拉致をし、
 多くの日本人をその極寒のシベリアで死に至らしめてい
 る・・亡くなっている・・
  しかし、ロシアは、この事例の様に、自分は、条約が
 無いと心配するというような国・・
  💢💢💢・・約束を守らない国が💢💢何を言うか・・と言
 いたい💢💢💢
  💢💢💢・・一番、歴史を汚してきた国・・💢💢💢

1894年1月4日、日本鉄道の八戸線の尻内駅~八戸駅間が開
 通した。

1894年1月7日、豊州鉄道会社が、伊田駅から奈良駅の線路
 延長の出願をした(1895年10月5日免許状下付)

1894年1月18日、初瀬鉄道の奈良駅~桜井駅間の建設仮免許
 状が下付された。

1894年1月24日、鉄道局歳入歳出出納規程が制定された。

1894年1月26日、天満紡績争議
  大阪天満紡績で、職工達が労務管理に反対して騒動を
 起こした。
  1887年に設立された天満紡績会社は、その翌年・1888
 年に、大阪府西成(にしなり)郡川崎村で開業した。
  1889年10月30日から翌月・11月6日にかけて、おりから
 の米価騰貴のなかで、賃金引上げなどを要求し、300~
 400名が職場を放棄のストライキをした。
  この時、会社側の賃上げの約束と憲兵の説得によって
 問題は収まった。
  そして、また、1894年1月26日、開業早々の第二工場に
 おいて、「賞与が出ないこと」と、「厳しい技師長に対
 する不満」から30名ほどが食堂に立てこもった・・そし
 て、罷業(ひぎょう、仕事を意識的に休むこと、ストラ
 イキ)を呼びかけた。
  別説では、1894年1月27日、夜勤を終えた工員たちが技
 師・工務係ら上司3名の解雇を求めて午前6時ころより食
 堂を占拠し、出勤してきた昼勤の工員たちに同盟罷業(
 ストライキ)を呼びかけ、これに従わない一部の工員に
 対して夜勤の工員が殴打した・・とある。
  そして、13名が勾引(こういん、尋問のため、被告人・
 容疑者を強制的に裁判所・警察署などに連れて行くこと)
 されたが、同日の夜業は3分の1運転にとどまった。
  争議は失敗に終わった。
  4名の男工が2か月の重禁錮を科された。
  多数の職工には、義捐(ぎえん)金を醵出(きょしゅつ)
 されたとされている。
  また、別の史料には、会社側の要請を受けた曾根崎警
 察署の警察官が、工場に入り作業を再開させる一方、会
 社側は、技師たちに解雇相当の理由はないとして工員た
 ちの要求を退けた。
  これに対し、工員たちの中には納得をせず退社する者
 も出た。
  なお、昼勤工員の殴打に関して、工員6名が暴行によっ
 て告発され、5名が有罪判決を受けてそれぞれ重禁錮2か
 月・罰金3円、1名はその後の控訴によって重禁錮1か月・
 罰金2円判決が下された・・とある。

1894年2月1日、富山の薬売り業者らが設立した私立の共立
 富山薬学校が開校した。
  (1894年は、発足との説がある)
  因みに、この年に、日本薬剤師会が発足している。
  そして、この後に、官立旧制薬学専門学校となり、富
 山大学の旧制前身校の一つとなる。
  富山市の補助金と、富山県内所在の複数にわたる製薬
 会社による寄付金で設立された。
  本科(修業年限2年、入学資格 満17歳以上)、速成科
 (修業年限1年、入学資格 満15歳以上)、選科を設置し
 た。
  1895年2月に、開校始業式が行なわれた。

1894年2月1日、関西鉄道、官設鉄道・参宮鉄道と旅客貨物
 の連帯運輸を開始した。
  私設鉄道は、官設鉄道との競争の中にあった。
  日本の鉄道敷設計画は、最初から、しっかりとした考
 えの筋が通っていた・・
  「しっかりとした日本の背骨にする鉄道計画」という
 視点・捉え方をした・・、
  また、日本の先人の偉い所は、外資が入ると日本の植
 民地化への道をひらくと、「外資鉄道計画をきっぱり拒
 否した」。
  しかし、スタートだけは、イギリスの資本と技術に頼
 らざるを得なかった。
  そして、1872年、新橋駅~横浜駅間が開業した。
  当然、目標としては、東京と関西圏を結ぶところに置
 いていた。
  そして、中山道ルートが想定されたが・・なかなか、
 その実現性・見通しは立たなかった。
  新政府の中心人物である岩倉具視は、鉄道建設により
 産業開発を図るという「日本鉄道計画」を作った。
  そして、 1881年、東京駅~高崎駅間と、東京駅~青森
 駅間の免許状下付を受けた。
  東京駅~高崎駅間は、政府が予定する中山道幹線鉄道
 の一部であった。
  また、青森への縦貫線は、東北地方の開発を目指すも
 のだった。
  1883年の上野駅~熊谷駅間の開業に始まり、翌年・
 1884年には、高崎駅まで全通した。
  明治天皇陛下をお迎えした開業式は・・まさに、日本
 の幹線鉄道の完成を祝うものだった。
  私設鉄道の免許状下付は、鉄道建設は官設で進めると
 いう方針を変えるもの・・、
  政府として、財政事情からのやむを得ない措置として、
 半官半民の会社で、鉄道建設を促進することとした。
  半官半民の日本鉄道より2年後には、純粋の民間資本に
 よる鉄道(阪堺鉄道)が登場した。
  短距離鉄道だが、地の利を得て業績は好調だった。
  この成功を見て、各地に鉄道会社が誕生した。
  1888年に、幹線鉄道として山陽鉄道が姫路まで開業し、
  また、難工事の中山道ルートから 東海道ルートへと変
 更がなされ・・順調に工事は進み・・、
  1889年、に全通した。
  そして、ようやく蓄積されて来た民間資本による鉄道
 建設が進んで行く。
  日清戦争時に、広島まで開通していた山陽鉄道が活躍
 し・・、
  1900年度末の鉄道営業キロは、官設鉄道1206kmに対し
 て私設鉄道4674kmと4倍近い差があった。

1894年2月8日、洋風に改装されていた京五条大橋が元に戻
 った。
  五条大橋の歴史・・
  1589年、桃山時代(天正17年)に、秀吉が五条大橋を
   作った、橋脚は石で造営した。
  1645年、江戸時代(正保2年)に、高欄に青銅の擬宝珠
   が左右に16基つけられた。
    五条大橋は、江戸時代に五度架け替えられた。
    鴨川と高瀬川の両方をまたぐ大橋梁で、中央の反
   り返りが高く、「虹のような橋であった」と言われ
   ている。
  1878年、明治時代(明治11年)に、高瀬川の小橋とは
   分けて、長さ48間、幅4間2尺の板橋に架け替えら
   れた。
    この時、擬宝珠がはずされ、洋風のペンキで塗装
   された。
    ここで、当然、景観論争が起きた。
    洋風のペンキで塗装された姿への批判・・
    「槇村知事が、洋風心酔により旧形を変じてペン
    キ塗りの嫌らしきものとなせし」と新聞で批判は
    高まった。
  1894年(明治27年)に、擬宝珠高欄のある現在の形に
   戻された。
    この完成時、渡り初めは、80歳以上の高齢者夫婦
   54組が行った・・元に戻され、京の人々は喜んだ。。
    擬宝珠のある五条の橋は、京都の人のあこがれと
   なっていて、明治27年2月8日、昔の通りなつかしい
   擬宝珠がつけられ、106歳の高橋茂兵衛氏は、立烏帽
   子の大紋をつけ、きれいどころも加わって雄々しく
   渡り初めがなされたという。
   (参考)立烏帽子:たてえぼし、烏帽子の一種。
       烏帽子の中で最も格式が高い 。

1894年2月14日、朝鮮全羅道で農民らが反乱を起こした。
  朝鮮官吏の汚職など政治は腐りに腐っていた。

1894年2月15日、また、朝鮮全羅道古阜で、農民反乱が発生
 する。

1894年2月16日、天満紡績騒動で、職工の指導者4人が重禁
 固刑となった。

1894年2月17日、出納官吏の身元保証金算率を制定(公達第
 83号)

1894年2月20日、信越線の客車、および、緩急車に真空ブレ
 ーキが取付けられ、技術の刷新がなされた。

1894年1月22日、葉山御用邸が完成した。
  1897年、隣接の旧紀州藩主徳川茂承邸を買い上げて葉
 山南御用邸とし・・、
  さらに、1905年には、三宮錫馬邸を編入し、葉山御用
 邸付属邸とした。

1894年2月23日、タカジアスターゼが発明された。
  日本の製薬会社三共の事実上の創業者である高峰譲吉
 は、麹菌からジアスターゼを抽出し、自身の名の「タカ」
 を冠してタカジアスターゼと命名し、世界最初の消化酵
 素薬剤の製造法を米国特許庁に出願した。  
  発売は1897年、
  日本での発売は1899年。
  1854年、高峰譲吉は、越中国高岡(現・富山県高岡市)
   の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の
   漢方医・高峰精一の長男として生まれた。
  1855年(1歳)父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀
   国金沢城下の梅本町(現・石川県金沢市梅本町)へ
   移住。
    幼い頃から、外国語と科学への才能を見せ、加賀
   藩の御典医であった父からも西洋科学への探求を薦
   められた。
    母は、造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)
   の娘で、名を幸子(ゆき)と言い、後年の清酒醸造
   の麹の改良にも繋がっている。
  1865年(12歳)加賀藩から選ばれて長崎に留学し、海
   外の科学に触れたのを最初に、
  1868年(14歳)京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)
   に入学、
  1869年(16歳)大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校
   に学ぶ。
    工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を
   首席で卒業。
  1880年(26歳)英国グラスゴー大学への3年間の留学を
   経て、農商務省に入省。
  1884年(30歳)アメリカ、ニューオリンズで開かれた
   万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出
   会ったキャロライン・ヒッチと婚約する。
    博覧会取材のラフカディオ・ハーン に会う。
  1886年(32歳)帰国後、専売特許局局長代理となり、
   欧米視察中の局長・高橋是清の留守を預かって特許
   制度の整備に尽力する。
  1887年(33歳)結婚。
  1890年(36歳)渡米し、アメリカへ永住することにな
   る。

1894年2月、奥羽線の福島駅~米沢駅間が着工された。

1894年3月1日、第3回臨時衆議院議員の総選挙が行なわれた。
  自由党が120人と議席をのばした。

1894年3月5日、イギリスで第5代ローズベリ伯爵内閣が成
 立した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉・・この世界は美しい、
            そして、
             人生は甘美である。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 7
  病を克服した仏陀は、回復するといつもの様に托鉢に
 出かけました。
  後ろには弟子のアーナンダが従います。
  仏陀の従兄弟でもあるアーナンダは、25年にわたっ
 て、常に行動を共にして来ました。
  この日、托鉢から戻り食事を終えた仏陀が発した言葉
 に、周りの弟子達はおどろかされました。
  それは、何時も身近に居るアーナンダですら、始めて
 耳にする言葉でした。
.
  インドの子供達が、大喜びで水浴びする・・その姿を
 微笑みながら見る・・、
.
  アーナンダとの対話 アンバパーリーとのいきさつ、
 そして、仏陀の老いと病と、そういうものが、いくつも
 つき重なった場所なんですけど、この場所で、ある日、
 仏陀とアーナンダの間に、こういう対話があります。
  「仏陀・最後の旅」の中から、とても印象深い対話で
 す。
.
     さて尊師は、
     早朝に、内衣を付け
     外衣と鉢とをたずさえて
     托鉢の為にベーサーリー市へ行った。
     托鉢の為にベーサーリーを歩んで
     托鉢から戻って食事を済ませた後で
     若き人・アーナンダに告げた。
     アーナンダよ、
     座具を持って行け
     私はチャーパーラ霊樹の元へ行こう
     昼間の休息の為に。
     そこで尊師は、
     チャーパーラー霊樹の元に赴いた
     赴いてから、あらかじめ設けられていた座席に
    座した。
     若き人・アーナンダは、尊師に敬礼して一方に
    座した。
     一方に座した若き人・アーナンダに、尊師はこ
    の様に言われた。
     アーナンダよ、
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。

  これは中村元さんが、パーリー語から訳された言葉な
 んですけれども、あのー、色々ありまして、サンスクリ
 ットの方から訳されたこのくだりにはですね、非常に印
 象的な言葉が加えられています。
.
     この世界は美しい
     そして、
     人生は甘美である
.
  まあ、こんな風に、サンスクリット語の本の方には書
 かれている訳なんですけれども、そこまで本当に、仏陀
 が、言われたかは分かりません。
  この物語を編んだ人が、霊樹の地は楽しいという言葉
 を、さらに、普遍して、その様に自分の思いを付け加え
 たかもしれません。
  この辺は分かりませんですけれども、人々が、仏陀に
 そういう風な言葉を言って欲しいなーという風に、心か
 ら思っていたことが伺えるのですね。
  仏陀の信仰と言いますか、法の教えの第一歩は、人生
 というものは、苦であるという、いわば、ネガティブ・
 シンキングと言いますか、どん底から出発する訳です。
  この世というものは苦しいものである、そして、生老
 病死、様々な苦しみに満ちている。
  この苦しみの中から人はどのように苦しみに耐えて生
 きていくか。
  仏陀は、その事を終生、ずーッと追求し続けた人なん
 ですが、
  それでも苦から出発したこの世界、この認識がですね、
 仏陀の最後の旅の「 末期の眼 」の中で、
  『 この世界は美しい、人生は甘美である 』、
  例え、苦の世界であったとしても、こんな風に、最後
 に、仏陀に呟いて欲しいと思った人々が、どれほど居た
 ことなんでしょうね。
  人間というものは、『 決定的な絶望の中に生き続け
 ることは、本当は難しいこと 』です。
  そして、私達・弱い人間というのは、どうしてもその
 様に、物語の中で自分達の思いを、仏陀に託して、そし
 て、こういう事を言って欲しかったという事を付け加え
 て、伝承というものが生まれてきます。
  ですから、それは、仏陀が、言った言わないとは別に、
 人々が、その様に、苦から出発して、あるいは楽の世界、
 醜の世界から美の世界、辛い世界から甘美な世界へ行き
 たいという願いを抱き続けて、2500年も生き続けて
 来たという事を表している訳ですから、それはそれで真
 実であろうという風に思う所があります。
.
  若き人・アーナンダに、尊師は、この様に言われた。
.
     アーナンダよ
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
.
  雨季が明け、再び、旅に出る日がやってきました。
  ヴァイシャリーの人々は、何時までも、別れを惜しん
 だと言います。
  町の郊外にあるレリック・ストゥーパは、ヴァイシャ
 リー王によって建立されたと伝えられております。
  小さな半円形のストゥーパからは、仏陀の遺骨の一部
 を納めたシャリ容器が、半世紀前に発掘されました。
.
  インド人のプッドゥ・バランさんは、このあたりで布
 教活動しているお坊さんです。
  バランさんは、ここで、毎日、お経を上げています。
  バランさんの言葉: 
   今から2500年も前の話になりますが、お釈迦様
  は、好んでこの地で法を説いていました。
   ある日、ヴァイシャリーの人々に、この様に語った
  と伝えられています。
.
     私は、この地にずっと留まることは出来ません。
     西にあるクシナガラという町へ向かいます。
     名残惜しいけれど、どうか、私を行かせて下さ
    い。
     この物語に基づいた歌を唄いたいと思います。
.
  インドのお坊さんの経: 
     ヴァイシャリーの人々は
     お釈迦様が歩き出すと
     泣き出しました。
     お釈迦様は、クシナガラの
     サーラの方へ出発しました。
     村の人々が、皆、泣き出しました。
                     (つづく)
  (補 注): アンバパーリーは、徹夜でご馳走を用
      意し、翌日、釈迦の一行が訪れた時は自ら給
      仕してもてなしました。
       食事が終わった時、彼女は、釈迦が留まっ
      た果樹園を教団に寄贈することを申し出て釈
      迦はこれも受けています。
       最後の場面はこんなふうに伝えられていま
      す。
.
     尊師は法に関する講話をもってかの女を教え、
     諭し、
     励まし、
     喜ばせ、
     座から起って、
     去っていった 。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 8     
  インドのお坊さんの経: 
     お釈迦様が、
     ヴァイシャリーにいるときは
     いろんな処に
     仏教が広まっていきました。
     お釈迦様は、
     何事も正直に話すようにと
     繰り返し語っていきました。
     お釈迦様は、
     ヴァイシャリーの人々を
     誰よりも愛してくれました。
     お釈迦様が、
     クシナガラのサーラの森に行くときは
     老若男女、みんなが泣きました。
.
  お経を唱えながら、裸足で水に濡れた田の畦道を行く
 仏教僧の映像。
  畦の道に僧の経が流れて行く。
  ・・・。
  そして、悪路を車で進んで行く・・
  大きく左右にゆれる車。
  警笛を鳴らしながら、乗客を満載したバスと行き違う。
.
  イヤー、もう、照り返しがすごいですね。
  イヤー、もうこれは、死にそうだ。
  ナマステー。
  お茶を一杯下さい。
  (お茶の葉を沸騰している鍋に直接入れ、煮て、)
  なんか戦後を思い出すね。
.
  仏陀の足跡を辿り、連日、悪路を進む・・、
  旅は、まだ、半ばを過ぎたところです。
.
  ありがとう。
  あちちっ、・・・旨いですね。
  もう、極楽という感じだな。
  (多くのハエが・・ それを手で払う店の人、周りを
  飛ぶ)
.
  今までの旅の風情は?
  イヤー、なんか修行という感じですね。
  前にインドに来た時は楽な旅をしたもんですからね。
  本当は苦行修行の旅なんですね。
  こういう農村を見ないと、インドは分からないという
 のは、本当ですね。
  仏跡は地方の農村地帯に残っている。
  仏蹟探訪の旅 ロマンティックな感じはしますけれど、
 本当は苦行修行の旅なんですね。
  だから観光の積もりできたのでは、もうもたないでし
 ょう。
  お遍路の様な覚悟で、やはりやらなければならない旅
 ですね、苦行の・・・・。
  ナマステ。サンキュー。
  イヤー、またこれはひどい日差しだな。
.
  ヴァイシャリーを出た仏陀は、更に北に向かって
 歩き続けます。
  ヴァイシャリーから北西に、およそ50キロ、当時の
 ヴァッジ国の国境にあたる場所に発掘中の巨大な遺跡が
 あります。
  (ケッサリア・ストゥーパ)
  イヤー、これはすごい。あー。
.
  このストゥーパは、紀元200年~紀元700年の間
 に建てられたものと考えられています。
  本格的な調査が始まったのは、1998年。
  現在発掘されている部分だけでも、直径123メート
 ル、高さ31メートルにおよぶ、レンガ造りの巨大なス
 トゥーパです。
  さらに、この下にどれ程の遺跡が埋もれているかは、
 まだ、明らかになっていません。
 (遺跡を登り、進む・・)
  あー、ここに仏陀像があるんだね、あー、
  (頭を下げ、手を合わせる)
.
  大パリニッバーナ経によると、旅の途中、仏陀の前に
 悪魔が現れました。
  悪魔は、今こそ、尊師のお亡くなりになる時ですと告
 げます。
  まだ、その様な時期ではないと退けます。
  (カラスが、ぎゃーぎゃーと鳴いている)
  カラスがすごい。
  しかし、その一方で仏陀は、死に向かう準備を始めま
 す。
  (巨大ストゥーパの周りをくるくる歩く・・、
   何匹ものカラスが木にとまり、ぎゃーぎゃーと鳴く)
  ストゥーパだから、中に入る事はないんだね。
  (ストゥーパの上も、何匹ものカラスが飛び回る)
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 9
  ある時、アーナンダに向かって、仏陀は衝撃的な言葉
 を述べます。
  それは、「自分は、もう、3ヶ月後には、この世に居
 ないだろう」という、そういう予言です。
  アーナンダは、さぞかし、もう、驚愕し絶望したに違
 いありません。
  しかし、余命は、もういくばくもない、自分は3ヵ月
 後に、この世を去る。
  自分の言っていることは、決して間違いない。
  こういう風に、仏陀は、断定します。
  おそらく、仏陀の80年の生涯の中で、自分の人生の
 終わりというものを、すっきりと予感した。
  そういう瞬間だっただろうと思いますね。
  ・・・で、仏陀は、アーナンダに、「自分はこの世を
 去る・・
  去る前に、自分が、色々、言っておきたいことがある。
  だから、「修行僧達を沢山集めなさい」 こういう風に、
 アーナンダに命じます。
  そして、アーナンダが、集めた大勢の修行僧を前に、
 仏陀は、この様に言われたという風に、経典には書かれ
 ています。
.
     そこで尊師は、
     修行僧達に告げられた
     さあー、修行僧達よ
     私は、いま、お前達に告げよう
     諸々の事象は過ぎ去るものである。
     怠ることなく修行を完成なさい。
     久しからずして
     修行完成者は亡くなることだろう
     これから3ヶ月過ぎた後に
     修行完成者は亡くなるだろう・・と、
.
     尊師・幸いな人、
     師はこの様に説かれた。
     この様に説いたあとで
     さらに、
     次のように言われた
     我が齢は熟した。
     我が余命はいくばくもない。
     汝らを捨てて、私は行くであろう。
     私は自己に帰依することを成し遂げた。
     汝ら修行僧たちは、
     怠ることなく よく気をつけて
     よく戒めをたもて。
     その思いをよく定め統一して
     おのが心をしっかりと守れかし
     この教説と戒律とに務め励む人は
     生まれを繰り返す輪廻を捨てて
     苦しみも終滅するであろう・・と、
,
  物事は、移り変わるものだという様な事を、いくら口
 で言っても、どんなものでも流転するという様なことを、
 自分の身をもって、みんなに語ろうとしているんではな
 いでしょうか。
  例えば、仏陀という人が、尊敬され、そして、その教
 えが、広がれば広がるほど、その人を、偶像化して、永
 遠に戴いて崇拝していこうという気分というのは、強ま
 ってきます。
  どっかで自分は、もう、如何に仏陀といえども、自分
 も涅槃に入るんだという事を言って、それで、その時、
 突然、自分が居なくなって、周りが大混乱するよりも、
 あと3ヶ月というこの日々を、周りの修行僧やアーナン
 ダ達が、しっかり心に刻んで、あと1日、あと1日とい
 う風に、大事にして生きるようにという、生きるもの・
 残されたものへの配慮だという風に、思いますけどね。
  ・・・・・。
  あのー、僕自身はね、余命ということを考えないんで
 す。
  むしろ、天命という考え方、で、自分が何時まで生き
 るとか、
  何時、死ぬとか、そういうことはね、ほとんど考えた
 ことは無いんです。
  あのー、出来れば長く元気で生きられれば良いと思い
 ます
  けれども、人間の天寿というものは、あらかじめ決ま
 っているんじゃないかなーという事を考える事がありま
 してね。
  その天寿を全うしたい、ですから、世の中というのは、
 すごく不合理なもので、30歳の天寿の人も居れば、10
 代で亡くなる人も居る、90歳、100歳まで生きる人
 も居る。
  ですから、僕は自分の人生と言うのは、ある時期から、
 「いつでも」と言うのは、おかしいのですけれども、
 「もういいよ」という、声なき声が、聞こえてきた時が、
 自分の寿命の尽きる時だと思っていますし、寿命が尽き
 ると言うことがですね、何か終わるとか、無くなるとか、
 そういう風に考えていないのですね。
  ですから、何か新しい出発と感じもしますし、とりあ
 えず、与えられた、今日一日、明日の一日、仏陀の言葉
 の様にですね、
  元気を出して、苦しみに耐えてという風に思ってます
 ね。
  ですから、寝る時は、もう、明日は目が覚めないかも
 しれないという風に思いますし、起きた時に、「あー、
 今日一日あったな」と思いますし、あまり、そういう風
 に先の事を考えたことが無いですね。
.
  自らの死を予言した仏陀。
  別れを惜しむ人々が、数多く後を追ってきました、し
 かし、仏陀は、彼らに戻るように説き、形見として自分
 の托鉢の鉢を渡しました。
.
  インドの仏教歌: 
     金のお皿でご飯を
     食べて貰いましょう
     仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
     差し上げましょう
     金の台の上に
     席を用意しましょう
     仏陀にお願いして
     座って貰いましょう
     ここで仏陀に
     静かに休んで貰いましょう
     私は、みんなに仏陀が
     来ていることを知らせます
.
  長い汽笛を鳴らして走り、そして去っていく列車
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 10
  霊鷲山を出てから、半年になろうとしていました。
  仏陀は、熱心な信者が居るパーバ村へ向かっていまし
 た。
  ナマステー。
  当時、この一帯にはマンゴー園が広がっていました。
  持ち主は、パーバ村の鍛冶屋の子・チュンダ。
  以前、仏陀が、パーバ村を訪れた時に帰依した敬虔な
 信者です。
  チュンダは、仏陀を歓迎するために、貧しいながらも
 できるだけの準備をととのえ、首を長くして待っていま
 した。
  燃料に使う、牛糞ですか?
  あれなんか、積み重ねているところなんかも、何千年
 も同じ様に、燃料に使っているわけなんですね。
  牛糞に、藁を混ぜて・・・。
  あっ、そのままでなくてね。
  あ、そうか、そのままでは燃えないのだ。やっぱり。
  あーそれじゃー、一応加工している訳なんだね。
  えー、だけど、昔の村らしい村ですねー。
  ナマステー。
  (加治屋さんのところに来て)
  あー、ふいごですね、昔のねー。
  あのー、なんか、鍛冶屋さんと言うにはあまりに素朴
 なー。
  でも、こんな風にして、農機具とか色々を作るのでし
 ょうねー。
  (あるインドの方へ)ナマステジー。
  あのー、仏陀が最後の旅の中で、この村で病気をした
 と、聞いたのですが?
  この村で言い伝えられてきた話によると、仏陀は、仙
 人に姿を変えて南から 来たそうです。
  日が暮れ始めていたので、仏陀は、この村に泊まるこ
 とにしました。
  村の誰かが、夕飯を用意したそうです。
  いろんな言い伝えがありますが、豚肉料理を出した
 という説と、ククルムタと呼ばれるキノコ料理を出した
 という話があります。
  (手を合わせて)ナマステジー。(お礼を言って立ち
 去る)
  (鍛冶屋さん、鞴・フイゴを手でこいで風を送っている)
.
  仏陀は、チュンダが用意してくれた食事を、快く受け
 入れました。
  しかし、口に入れて直ぐ、それが、食べてはいけない
 ものだと分かりました。
  ここで、仏陀は、チュンダにこう告げます。
  チュンダよ、
  残ったキノコ料理は、それを穴に埋めなさい。
  神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンの間でも、
  また、神々・人間を含む生き物の間でも、
  世の中で修行完成者(=仏陀)のほかでは、
  それを食して完全に消化し得る人は見出せません
 ・・・と。
  「かしこまりました」と鍛冶工の子・チュンダは、尊
 師に答えて、残ったキノコ料理を穴に埋めて、尊師に近
 づいた・・・。
  近づいて尊師に敬礼し、一方に座した。
  チュンダが、一方に座した時に、尊師は、彼を教え・
 諭し・励まし・喜ばせて、出て行かれた。
.
  その時、仏陀は、激しい腹痛に見舞われていました。
  仏典には、こう記されています。
.
     さて、尊師が、
     鍛冶工・チュンダの料理を食べられた時
     激しい病が起こり
     赤い血がほとばしり出る
     死に至らんとする激しい苦痛が生じた。
     尊師は、
     実に、正しく思い
     良く気を落ち着けて
     悩まされる事無く
     その苦痛を堪え忍んでいた。
     さて、尊師は、
     若き人・アーナンダに告げられた
     『さー、アーナンダよ、
     我々は、クシナーラーに赴こう』・・・と。
.
  80歳の老いた身に、血が出るほどの激しい下痢。
  立っていることさえままならない身体を、引きずるよ
 うにして、仏陀は、自ら終焉の地と思い定めた、クシナ
 ガラを目指しました。
  パーバ村からクシナガラまでは、およそ20キロの道
 のりです。 
                     (つづく)
  (参 考):クシナーラー = クシナガラ
  (解 説):チュンダは、釈尊への尊崇の念で食事の
      供養をしようとして珍味のキノコ料理をさし
      上げたが、結果、釈尊の死を早めるに至った。
       釈尊は、チュンダが後悔して嘆くであろう
      し、また、まわりの者たちがチュンダを責め
      るようになるであろうと、チュンダに同悲さ
      れ、「私の生涯で二つのすぐれた供養があっ
      た。
       その供養は、ひとしく大いなる果報があり、
      大いなるすぐれた功徳がある。
       一つは、スジャータの供養の食物で、それ
      によって私は無上の悟りを達成した。
       そして、この度のチュンダの供養である。
       この供養は、煩悩の全くない涅槃の境地に
      入る縁となった。
       チュンダは善き行いを積んだ」と仰せにな
      った。
       最初のスジャータの供養とは、釈尊がさと
      りを開かれる前、
       極限にいたるほどの苦行をされていたが、
      極端な苦行は悟りへの益なきことを知り、そ
      れまでの苦行を捨て、村娘のスジャータから
      乳粥の供養を受けられた。
       それによって体力を回復し、菩提樹の下に
      座り、「悟りを開くまではこの座を決しては
      なれない」という決意でもって坐禅瞑想に入
      られた。
       そして、この上ない悟りを開かれたと伝え
      られている。
       スジャータの供養は、悟りに至る尊い縁に
      なったのである。
       そして、このスジャータの供養の功徳とひ
      としく、このたびのチュンダの供養は、大い
      なる涅槃に至る尊い縁となると、釈尊は、チ
      ュンダの食物の供養を讃えておられる。
       チュンダがさし上げた特別のキノコはどう
      やら食用に適さなかったようある。
       しかし、チュンダは自分のせいで釈尊を死
      に至らしめたという後悔をするだろうし、ま
      た、周りの僧俗がチュンダを責めるであろう
      と釈尊は思われ、チュンダの嘆きに寄り添っ
      て、「チュンダは大いなるすぐれた功徳を積
      んだ。
       チュンダの供養で、私は煩悩の残りなき大
      いなる涅槃に入ることになった。
       「チュンダは善いことをした」と、チュン
      ダの供養をほめ、起こるであろうチュンダの
      嘆きと周りからの責めをあらかじめ取り除か
      れたのである。
       ここに釈尊の慈悲の深さ、同悲のお姿が伺
      われる。
       仏教で言われる慈悲の行いとは、具体的に
      どういうものなのかがよく示されている。
       しかも、釈尊のチュンダへの言葉は、無理
      にチュンダを慰めているというものではなく、
      ご自分の死を「大いなる涅槃に入る縁」と見
      られてのものである。
       ご自分の死んでいくことに対して、不幸と
      もいわず、嘆きもせず、静かに受け止められ
      るばかりではなく、煩悩が全く消滅する大涅
      槃に入る尊い縁として見ておられるのである。
       そういう背景があってチュンダの供養を讃
      えておられるのであって無理にチュンダを慰
      めているのではなかろう。
       このことによって教えられることは、自分
      にふりかかるどのような〈災厄〉をも、転悪
      成善(悪を転じて善と成す)で、善き縁であ
      ると受け止める智慧があって、初めて他者へ
      の憎悪や責める心から解放されるのであろう。
       もし、自分は内心で嘆いているけど、人を
      悲しませてはいけないという愛情であれば、
      それはそれで尊いとしてもなお暗いものがあ
      る。
       このように釈尊は、ご自分の死を大涅槃の
      悟りに至る機縁と見られたが、この釈尊の死
      の意味は、浄土の教えを信じる者における死
      の意味と重なるものであろう。
       自らの死を大涅槃界である浄土に生まれる
      縁といただいている念仏の信心と、釈尊にお
      ける死への智見とは、内面的に連なるものが
      ある。
       真実の信心は、死をも浄土へ生まれる縁で
      あるとの智見を生むのである。
              (寺報「草菴仏教」より)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)592E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年1月)

2018-05-07 02:05:56 | 日記
題:(増補版)592E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年、出来事:
・金玉均が暗殺された。
  1894年3月28日、金玉均が暗殺された(43歳)
  金玉均(きんぎょくきん、1851年2月23日~1894年3月
 28日)は、李氏朝鮮における後期の政治家で、朝鮮独立
 党の指導者だった。
  1882年(31歳)2月から日本に学び、福沢諭吉の支援を
 受け、慶応義塾に学んだ。
  金玉均は、日本の明治維新を模範として、中国・清朝
 からの独立を果たしたいと、その実現を目指し、また、
 朝鮮の近代化も成し遂げたいとした。
  その実現が、清仏戦争が起きた時を好機と見て、1884
 年12月4日、政権打倒クーデター(甲申事変)を朝鮮で起
 こした。
  清仏戦争で清の介入は無いと見たが、清の介入で、事
 件は失敗に終わった。
  その実行は、3日間の政権で終わった。
  日本へ亡命し・・その後・・、
  李鴻章と会うために上海に渡ったが、この地で暗殺さ
 れた。
  福沢諭吉は、金玉均の法要を営んだ。
・東学党の反乱
  1894年3月29日、朝鮮で東学党の反乱が起きた・・そし
 て、広がって行った。
  抑圧され、圧迫されて来た朝鮮農民の方々のこの反乱
 は、甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)とも言わ
 れる・・
  朝鮮王朝(李朝)の重税政策に苦しみ、また、両班(
 りゃんばん、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を
 担った支配階級の身分の者のこと)たちの賄賂横行と不
 正横行などで、民衆の生活は苦しい状況で、その朝鮮政
 府の暴政に対して、農民戦争が起きた。
  そして、東学という宗教的訴えが、狡猾な李朝朝鮮の
 地方官に利用され、逆に、農民が収奪される口実ともさ
 れた。
  農民たちの訴えは、その汚吏(おり、汚職や不正な事
 をする役人)に向けられ、政治的要求へと変わった。
  そして、行動は反乱となり、1894年2月、全羅道古阜郡
 の民乱を契機にして始まり、一応の成果を得て解散はし
 た・・が・・
  その後、政府派遣の官吏の不法弾圧に激怒した全琫準
 (ぜんほうじゅん、東学党の乱の指導者)は、全羅各地
 に呼びかけて、1894年5月、古阜、泰仁で本格的な闘争に
 立ち上がった。
  全羅各地で蜂起した農民軍は、白山に集結、大多数が
 農民で、東学徒は少なく、指導者は東学メンバーだった。
  全琫準らの指導者は、農民軍を軍隊式に編成し、また、
 四大綱領を発表し、広範な農民層の支持を得た。
  農民軍は、黄土峴、長城で政府軍を撃破し、全州を占
 領した。
  政権は、これに驚き、清国に出兵を要請する、その一
 方、農民軍の改革案を受け入れた。
  全州での和約後、農民軍の大半は解散したが、全羅道
 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され、実質
 上の政権機関として機能した。
  朝鮮政府の暴政に対し、次のような詩が朝鮮国内に広
 く伝わった。
  金の樽に入った美酒は、千人の血からできており
  玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている
  ろうそくから蝋が滴るとき、人々の涙も滴り
  歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高
 くとどろく
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~6月2日解散で短
 い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく、対立した。
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語で、
      この時は、ロシアの東アジア進出により緊迫
     した国際情勢にあった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで、反政府側の日
     本主義派・・そして・・自由党、改進党などの
     民党連合は、政府外交を批判した・・、
      また、政費節減・民力休養路線を主張した。
      不平等条約によって侵されている国家主権の
     回復と、積極的な対外進出を主張した。
      また、対等条約を実現するためには、現行条
     約を励行して外国人を取り締まり、彼らに不利
     益を与え、対等条約の交渉に列強が応じない場
     合は条約破棄もというものだった。
  (参考)現行条約励行運動:
      対外強硬六派いわゆる「硬六派」によって唱
     えられた反政府の言論運動で・・幕末期に江戸
     幕府が諸外国とむすんだ不平等条約について、
     条約正文に明白に規定されていない事項に関し
     てはいっさい外国人の権利を認めず、日本国内
     における外国人の活動や生活を制約することを
     通じて条約改正を行ない、平等条約の実現を図
     ろうというもの。
・日英通商航海条約が締結された。
  1894年7月16日、ロンドンで日英通商航海条約が締結さ
 れた。
  陸奥宗光外相(1844年~1897年)の治外法権の廃止交
 渉が功を奏した。
  陸奥宗光は、不平等条約「治外法権」の撤廃に粘り強
 く交渉を重ねた。
  日本は、この不平等条約に苦しんでいた。
  その一事例が、和歌山県沖のノルマントン号事件。
  イギリスの罪を問うことが出来なかった。
  この不平等な治外法権の権利のため、この事件の裁判
 を担当したのはイギリス人判事だった・・
  そして、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」とな
 ってしまった。
  この様な不平等条約の改正を、1894年、ついに、イギ
 リスとのあいだで治外法権の撤廃に成功した。
  陸奥の目論見どおり、大国のイギリスが改正に応じた
 ため、他の国々もあとに続き、15か国から治外法権の撤
 廃を日本は勝ち取った。
・日清戦争
  1894年8月1日、この日、日清両国が宣戦布告した。
  欧米列強、そして、ロシアなどの各国の奪い取りの世
 界が演じられて来たアジアの世界・・、
  ただただ、無節操なその奪い取りの世界・・日本の周
 囲の国々、また、東シナ海・南シナ海などの大部分、ま
 た、日本の北や南に広がる主要な国々が、そのことごと
 くが列強の手に落ちるのを日本は見て、鳥肌の立つほど
 の恐怖感を感じないではいられなかった。
  また、日本には、列強諸国との不平等条約がまだあり、
 それに縛られるという「半植民地の様な国家の状態」だ
 った。
  その様に領土を漁(あさ)る列強に取り巻かれている
 日本の姿だった。
  どの列強各国も、この日清戦争では、日本が敗北する
 だろうと予測していた・・
  それだけ、清の力は強く、また、日本は弱小であった。
  先年の長崎での事件などでは、まったく清に馬鹿にさ
 れている日本だった。
  また、日本は、最強の清国艦隊を見せつけられていた。
  列強諸国は、「アジアの中心は中国」と見ていた。
  しかし、結果は、日本の勝利だった。
  列強諸国は喝采した。
  また、列強は、日本での特権を相次いで放棄した。
  これを逆から見れば、この列強諸国は、日本が負けれ
 ば、日本を蔑(さげす)み、また、不平等条約は、その
 ままにして、日本からうまい汁を吸い続けるという様相
 だった。
  これで、日本が解放されると共に、朝鮮もまた中国か
 ら初めて解放され・・独立国となれた。
  また、中国文明より低い国と侮(あなど)られた列強
 諸国の蔑視の視点も変える事が出来た。
・天皇行幸(氷川清話)
  1894年9月15日に、明治天皇陛下が呉行幸のため、広島
 の宇品港へ御出発された。
  これは、日清戦争時に、広島城に大本営が置かれ、明
 治天皇陛下はその行幸をなされた。
  「広島御発輦呉港幸行之図」小国政・画がある。
  (参考)御発輦:ごはつれん、天皇陛下の御車が出発
     すること。
・広島において第七議会(氷川清話)
  第7回帝国議会(だいななかい ていこくぎかい)は、
 1894年10月18日に開会された大日本帝国の帝国議会(臨
 時会)で、開催地は広島市の広島臨時仮議事堂だった。
  日本の憲政史上で、唯一、東京以外の場所で開かれた
 国会だった。
.
1894年、産業:
・紡績工場の数:45
・花王石鹸
  神楽坂に花王石鹸の工場が開設され、ねり歯磨きが製
 造開始された。
・服部時計店
  東京・銀座尾張町角に服部時計店が店を構え、時計塔
 を設置した。
  また、服部時計店懐中時計の製作に成功した。
  服部金太郎は、1884以降、横浜の外国人商館から洋時
 計を仕入れるようになり、品揃えを豊富にしたことで斬
 新な品揃えだとして、評判が立った。
  当初は、輸入に頼っていて、仕入れた時計は飛ぶよう
 に売れた。
  国産時計は、1892年、服部金太郎が作った精工舎で始
 められ、3年後には、輸出も行われるようになった。
  記録には以下の様に記される・・
  「服部時計店社長・服部金太郎氏の創立に係る、同氏
 は、夙(しゅく、早い時期から)に、時計製造の如き精
 密工業が、最も我国民に適し、他日、必ず、日本の重要
 工業の 一として成功すべきことを確信し、其の創立を
 決意すると共に、現顧問・吉川鶴彦氏を技師長として招
 聘した」
  「明治二十五年(1892年)五月、東京市本所区石原町
 に仮工場を設け、始めて掛時計の製造に着手せり・・」
  1894年、精工舎は、創業二年半にして、最初の懐中時
 計である22型タイムキーパー製造にも成功させた。
  そして、清国(中国)に少量ながら輸入も始めた。
  「明治二十九年(1896年)には、懐中時計機械の製作
 を創む、當時の懐中時計は、二十二型 シリン式にして
 之を現時流行品たる八形九形の如き小型の時計と比すれ
 ば全く隔世の感なくんはあらす」
・オーヴィル・ヘンリー・ギブソンが大手ギターメーカー
 のギブソン・ギター・コーポレーションを創業した。
.
1894年、交通:
・甲武鉄道市街線新宿〜牛込間開通、牛込・四ツ谷・信濃
 町の各駅開業。
・カール・ベンツの「ビクトリア」が1000キロの長距離ド
 ライブに成功した。
.
1894年、論・文学・本:
・樋口一葉「大つごもり」
  1894年12月、「文学界」第24号に発表された。
  大みそかを背景に、女中奉公をしている薄幸の娘お峰
 のその女中生活を通じて明治の女性の哀感を描いた。
  一葉の貧乏生活の体験から生まれた作品。
  この年は、一葉が、下谷龍泉寺町(東京都台東区竜泉)
 から本郷区丸山福山町(文京区西片)へ転居し、荒物雑
 貨・駄菓子店を営みつつ執筆に専念している時期の作品。
  [ 筋 ]・・18歳のお峰が、山村家の奉公人となってし
      ばらくした後、お暇がもらえたため、初音町
      にある伯父の家へ帰宅する。
       そこで病気の伯父から、高利貸しから借り
      た10円の期限が迫っているのでおどり(期間
      延長のための金銭)を払うことを頼まれ、山
      村家から借りる約束をする・・が・・
・高山樗牛「滝口入道」連載(讀賣新聞)
  1894年4月~1894年5月まで『読売新聞』に連載された。
  平家の滅亡を背景に、斎藤時頼と横笛との悲恋を描く。
  『平家物語』に材を得て、擬古文によって書かれたこ
 の悲恋物語は、『読売新聞』懸賞歴史小説首席(二等)
 の入選作で、大学生某の匿名で発表されて話題となった。
.
1894年、歌・流行・世相:
・この頃から自転車が流行する。
  この前年・1893年、我が国で最初の自転車倶楽部であ
 る日本輪友会が設立された。
  1890年頃から自転車の修理、及び、試作車を手掛けて
 いた宮田栄助が、1893年、本格的に自転車の製造販売を
 開始した。
  1893年、森村兄弟が、東海道をサイクリングする。
  1893年、ダーズリー・ペダーセンは、独創性のある三
 角フレームの自転車を製作した。
  イギリス軍はこれをボーア戦争で使用する。
.
1894年、医・衛生:
・北里柴三郎が香港へ行ってペスト菌を発見した。
  明治政府の命により香港に渡っていた北里柴三郎は、
 思わず声をあげた。
  「これだ、ついに発見したぞ、ペストだ」。
  それは1894年6月14日のことだった。
  長年に亘(わた)って人類を苦しめて来たペスト・・、
  多くの人々の命を奪って来たペストの正体を暴いた瞬
 間だった。
  説としては・・古代エジプトやローマの時代からすで
 にあったと言われているこの疫病は、感染力や致死率が
 非常に高かった・・、
  しかし、その原因がつかめず、また、姿が見えないた
 めに大いに恐れられていた。
  そのペストが、この年・1894年に、中国南部で再び発
 生し、香港でも猛威をふるい始めた。
  そこへ原因を突き止めるために北里らは向かった。
  当時、香港でペストがもっとも多く発生していた地区
 では、患者のいない家庭はないほどだった。
  香港政庁は、該当する約12,000坪(約40,000平方メー
 トル)を封鎖し、区域内の患者と住人を強制退去させた
 のち、家屋を取り壊し、家具を焼きはらった。
  それしか対処の方法が見出せない恐怖の伝染病だった。
  その様な一刻の猶予もならない壊滅的な状況のなかで、
 北里ら一行は、到着するや病死した患者の解剖に急いで
 着手する。
  ところが、いざ北里が顕微鏡で解剖標本をのぞくと、
 すでに腐敗が始まっており、雑多な菌が無数に増殖して
 いる。
  これでは埒(らち)があかない。
  しかし、北里には、経験に基づくある試みたい方法が
 あった。
  それは「症状や臓器の変化を既知の伝染病と比較する
 こと」だった。
  もし、共通点があれば病原菌の性質も似ている可能性
 が高い。
  改めて取り出した臓器を調べてみる。
  「なるほど炭疽(そ)症に近いぞ。
  あれは血液中に菌が入り敗血症を起こす。
  ペストの病原菌も同じではないか?」
  北里は、ペスト患者の血液を手に入れた。
  すると顕微鏡の視野に、特徴的な細菌が認められた!
  このときを境に、ペストという見えざる脅威は、目に
 見える病原菌へと姿を変えた。
  こうなれば、ペストを防ぐには、その菌を調べていけ
 ばよかった。
  そして、加熱や消毒液への耐性といった性質や、推定
 される感染経路などが次々と明らかになって行った。
  家屋等の消毒や菌を運ぶクマネズミの駆除をはじめ、
 公衆衛生の対策がなされると、香港は、落ち着きを取り
 戻していった。
  その香港での発見から五年後、ついにペストが神戸に
 侵入し、大阪、さらに関東にまで感染が広がった。
  北里自身が制定に関わった伝染病予防法の下、さらな
 る感染拡大を防ぐため、自ら指揮をとり奔走した。
  そして、ペスト伝播につながるネズミの駆除を徹底さ
 せ、終息に導けたた。
  1926年以降は、国内で、一度もペストの発生を見ない。
  疫病は静まった。
  一方このあと「発見者論争」が巻き起こる。
  (テルモ株式会社のホームページを参考にした)
.
1894年、その他:
・葉山御用邸が完成した。
・鹿鳴館が華族会館として払い下げられた(1889年説あり)  
  落成は1883年。
・陸軍板橋火薬製造所で綿火薬が製造開始された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てなく、法を説かれました。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 2
  齢80の仏陀は、ただひたすら歩み続けられる・・、
  出発点・霊鷲山から旅の終わりとなったクシナガラま
 での道のりは、およそ400キロ・・、
  この道を、80歳の仏陀は、ひたすら歩き続けられま
 した。
  仏陀が最後に歩んだこの道を辿ってみますと・・、
  霊鷲山から北西に16キロ。
  仏陀は、ナーランダ村に立ち寄られています。
  行く先々で、仏陀の元には多くの人々が、集まってき
 ました。
  王侯貴族からカーストの差別を受けている人たちまで、
 さまざまな階層の人々です。
  仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てな
 く、法を説いたと言われています。
  仏陀・最後の旅は、いつもと変わらぬ、布教の旅とし
 て始まりました・・、
.
  ブッダの歩かれた道、あーなんだか、もう本当に夢の
 様な幻想的な風景です・・、
  木があって、なだらかな丘があって、その向こうに、
 また、木陰に白い塔がある・・、
  村の人たちが、三々五々、ここに座ったり 腰掛けた
 り、子供達が走り回ったりしていますが・・、
  自然の中に、こんな場所があるなんて、何と贅沢なこ
 となんだろうと感じます。
  ナマステジー・・ナマステジー
  一つの堂に来ました・・あたりを見渡します・・
  暗くて見えませんけども、この中にあるのは仏陀の坐
 像です・・釈迦牟尼坐像・・
  ナマステジー・・
  あのーチョット伺いますけれども、この塔の中にある
 仏像は・・?
  仏陀の像です・・お釈迦様の像です。
  何時ごろからあるものなのですか?
  むかしむかしからあります。
  昔々というと、おじいさんの代からですか、もっと昔
 ですか?
  祖父の親の前から さらに前から・・、
  すごいですねー、これは驚きました。
  この丘の上の小さな祠の中に・・いやー、まさしくこ
 れは仏陀の坐像です。
  ・・イヤー、驚きました。
  素晴らしい仏像ですけれども、相当古いものだと思い
 ますが、とにかく立派なのです・・
  シルエットといい、バランスといい それにしても、
 この右手とお顔の損傷というのは実に生々しい。
  インドの歴史のありようを感じさせてくれる様な気が
 致します。
  ナーランダに心行くまで留まった仏陀は、ある日、弟
 子のアーナンダに こう告げます。
  『さー、アーナンダよ、パータリ村へ行こう』
  仏陀は、三つの袈裟と托鉢用の鉢一つだけをだずさえ
 て、パータリ村を目指して歩みを進めます。
  その後ろには、仏陀を慕う多くの修行僧がつき従って
 いました。
.
  インドの祈りの歌・・
     私は仏陀に帰依します。
     私は仏法に帰依します。
     私は僧伽(そうぎゃ)に帰依します。
.
  (参考)僧伽:〔仏〕〔梵 sagha の音訳〕仏教修行者
     の集団。僧侶の集団。
      広義には、在家を含む仏教教団全体をいうこ
     ともある。
      和合衆。和合僧。僧祇(そうぎ)。
.
  ナーランダからパータリ村までは、およそ90キロの
 道のり・・
  悪路で自動車は大きく揺れました・・・・
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 3
  インドの聖なる河・ガンジス。
  ヒマラヤの山間部からベンガル湾に至るその長さは、
 およそ2500キロ・・、
  インド最大の大河です。
  仏陀が目指したパータリ村は、このガンジス河のほと
 りにある小さな村でした。
  現在のパトナ市・・ビハーレ州の州都です。
  人口は、およそ140万。
  米を中心に、農産物の集散地として賑わっています・・
  パトナ市内、ガンジス河のほとりにある市場・・
  この辺は、昔のパトナ村という、村だけあって、なん
 だか野菜のバザールの様になっています・・、
  ジャガイモあり、たまねぎあり、インゲンあり、ニン
 ジンあり・・
  大根もあります・・
  それにしても、大変な賑わいです・・
  ナマステー。
  みかんを見ると、懐かしいですね・・
  どんな味がするんでしょうか・・
  ・・酸味があって、本当に「みかん」らしいです。
  戦後のみかんは、こんな感じだったです・・、
  これは旨い・・
  ガンジス河へ向かう・・
  見えてきたなー・・これが ガンジスかー・・
  河辺に来て・・あー 涼しい。
  ガンジスの流れというと、何か、こう、黄色く濁った
 流れだけを想像したんですけれど、この辺の水は青いで
 す・・、
  対岸の方には、ずーっと青い草が見えて、真っ白な洲
 があって・・、
  あー、こんなにガンジスが、美しいとは・・、
  ナーランダの村を通過して、そして、このパトナ村へ
 やって来て、仏陀は、ここからガンジス河を超えるわけ
 です・・
  おそらく、ここまで70~80キロか、90キロ・・
  どの位あるんでしょう・・
  途中で休み休み、色んなところに寄って来る訳でから、
 ずいぶん掛かったと思います
 ・・けども、この河のほとりに立った時に、おそらく、
 仏陀は、単に、物理的に川を越えるっていうだけではな
 く、何か、人生の大河を越えるという、非常に大きな感
 慨を抱かれて、この河の流れを御覧になったに違いあり
 ません・・
  仏陀は、生涯に、さまざまな形で、河を越えてきてい
 る人だと思います。
  信仰の河、思想の河 人間の河、 ・・・。
  その仏陀が、このパータリ村から河を超えて、対岸に
 渡る有様を 古い古いお経の「ダイパリミッダーナ経」
 という、日本では「大般涅槃経」として知られるお経の
 経文の中に、仏陀の旅のガンジス河のあたりの風景が、
 短く描かれています。 
.
   ついで尊師は、
   ガンジス川に赴いた、
   その時、
   ガンジス河は、
   水が満ちていて、
   水が渡し場のところにまで及んでいて、
   平らかであるから、
   カラスでさえも水が飲めるほどであった。
   ある人々は船を求めている。
   ある人々は大きないかだを求めている。
   また、ある人々は
   小さないかだを結んでいる。
   いずれも、
   彼方の岸辺へ行こうと欲しているのである。 
   そこであたかも力士が、
   屈した腕を伸ばし、
   また、伸ばした腕を屈するように、
   まさにその様に、
   僅かの時間のうちに、
   こちらの岸において没して、
   修行僧の群れと共に、
   向こう岸に立った。
.
  (参考)大般涅槃経:だいはつねはんぎょう、サンス
     クリット:Mahāparinirvā?a Sūtraマハ-パニル
     ヴァ-ナ ス-トラ 、パーリ語:Mahaaparini
     bbaana-suttanta、タイ語:mahǎprinípphaaná
     sùttantàは、釈迦の入滅(=大般涅槃(だいは
     つねはん)を叙述し、その意義を説く経典類の
     総称。
      阿含経典類から大乗経典まで数種ある。
      略称『涅槃経』。大乗の涅槃経 は、初期の涅
     槃経とあらすじは同じだが、「一切衆生、悉有
     仏性」を説くなど、趣旨が異なるので、相互を
     混同してはならない。
      パーリ語で書かれた上座部経典長部に属する
     第16経が大般涅槃経と同じもの。
      漢訳の、長阿含第2経「遊行経」および「仏般
     泥洹経」(2巻)、「般泥洹経」(2巻)、「大
     般涅槃経」(3巻)がこれに相当する。
      釈尊の晩年から入滅、さらに入滅後の舎利の
     分配などが詳しく書かれている。
      これらに基づいて大乗仏教の思想を述べた「
     大般涅槃経」という大部の経典もある。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 4
  ガンジスの河の上を舟に揺られる・・
  日本も戦争が終わって各地から引き上げる方々も、こ
 の様に川も渡ったでしょう・・
  朝鮮のソウル・・当時、京城(ケイジョウ)といいま
 した・・
  京城には、ハンガンという、当時は漢江(かんこう)
 と言いましたけれども、ハンガンという、実に大きな流
 れがあった。
  また、ピョンヤン(=平壌)という町には、ケドンガ
 ンというのですが、大同江(ダイドウコウ)という名前
 で呼ばれた大きな川があった。
  敗戦になって、引揚者と言いますか、難民となって、
 ピョンヤンから去るのですけれども、その引き上げが始
 まるまでの1~2年の間に、本当にたくさんの日本の人々
 が、そこで亡くなりました。
  夏ですと、どこか目立たないところに穴を掘って、火
 葬ができますが・・、
  冬は零下20度、30度という寒さ・・、地面はツン
 ドラの様に凍って、ツルハシも立たないほどです・・、
  そこで仕方なく、火葬にすることも出来ず、土葬にす
 ることも出来ず、テンドンガンという凍りついた厚さ1
 メートル以上も氷が張っている河の、魚を釣るために、
 あちこちに、ぽこっ、ぽこっと穴が開いているんですが、
  毛布に包んで、その穴から流して弔うということが、
 しばしばありました。
  そして、今、ガンジスの川の流れの上に居る・・
  人々の苦悩に・・仏教は答え得るのか・・
.
   その時、
   ガンジス河は水が満ちていて、
   水が渡し場の所までおよんでいて、
   平らかであるから、
   カラスでさえも水が飲めるほどであった。
   ある人々は船を求めている。
   ある人々は大きないかだを求めている。
   また、ある人々は小さないかだを結んでいる。
   いずれも
   彼方の岸辺に行こうと欲しているのである。
   そこで、
   あたかも力士が屈した腕を伸ばし、
   また、伸ばした腕を屈するように、
   まさにそのように僅かの時間の内に、
   こちらの岸において没して、
   修行僧の群れと共に向こう岸に立った。
   ついで尊師は、
   ある人々が船を求め、
   ある人々はいかだを求め、
   ある人々はいかだを結んで、
   あちらとこちらへ
   行き来しようとしているのを見た。
   そこで尊師は、
   この事を知って、
   その時、
   この環境の言葉を一人つぶやいた。
   『沼地に触れないで橋を架けて、
   広く深い海や湖を渡る人々もある。
   木切れや、つた草を結びつけて、
   いかだを作って渡る人々もある。
   聡明な人々は、
   既に渡り終わっている』
.
  ガンジス河を如何にして渡るか・・、
  それは、どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き
 放たれた理想の境地に至るかという事の例えだとされて
 います。
  仏陀は、いともたやすくガンジス河を越えられた。
.
  (参考)「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマン
     サラナンガッチャーミ、サンガンサラナンガッ
     チャーミ」と三度唱え、仏教の三宝に帰依する。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 5
.
  インドの仏教歌:
        金のお皿でご飯を
        食べて貰いましょう
        仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
        差し上げましょう
        金の台の上に
        席を用意しましょう
        仏陀にお願いして
        座って貰いましょう
        ここで仏陀に
        静かに休んで貰いましょう
        私は、みんなに仏陀が
        来ていることを知らせます
.
  ガンジスを渡った仏陀は、いくつかの村を経て、
 ヴァイシャリーへと向かいました。
  そこは、商業で栄えるヴァッチ国の首都でした。
  仏陀の時代、北インドは、16もの国にも分かれてい
 ました。
  その中にあって、ヴァッチ国は、国の方針を話し合い
 で決める進んだ国でした。
  大パリ二ッバーナ経には、仏陀が、ヴァッチ国の事を
 賞賛した言葉が記されています。
.
        ヴァッジ人が、
        しばしば会議を開き、
        会議には多くの人が参集する間は、
        ヴァッジ人には繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
        ヴァッジ人が、
        共同して集合し、
        共同して行動し、
        共同してヴァッジ族として
        なすべき事をなす間は、
        ヴァッジ人には、
        繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
.
  仏陀は、ヴァッジ国をこよなく愛していました。
  仏陀の一行は、ヴァイシャリー郊外のマンゴー園に留
 まります。
  布教の旅では、決まって町外れに滞在します。
  修行の為には静かな環境が望ましいが、托鉢をするに
 は人の集まるにぎやかな場所が必要です。
  「俗に染まらず、俗から離れず」
  大パリ二ッバーナ経には、このマンゴー園での逸話が
 残されています。
.
  イヤー、見事な果樹園ですね・・あのー、これは、マ
 ンゴーの木なんだそうです。
  私は、マンゴーは、恥ずかしながら、畑の中に生ると
 思っていたのですが、こういう堂々たる木の中に、マン
 ゴーが沢山生ってる姿は、想像しませんでした。
  ここは、ヴァイシャリーという所の郊外のマンゴー畑
 なんですけれども、ガンジス河を渡った仏陀は、このヴ
 ァイシャリーの街中ではなく、街からチョット離れた、
 この郊外のマンゴー畑の中に居を定めます。
  そして、しばらくここに滞在する訳なんですね。
  それで、このー、不思議な事に、ここにはとっても華
 やかで人間的なエピソードが一つあるんですが・・、
  このマンゴー畑の所有者といいますか、地主の方が、
 ヴァイシァリーの町では大変著名なサロンの女主人公と
 言いますか、実は、高級娼婦・遊女と言われている人な
 んですが、遊女と言ってもですねー、ただの遊女ではな
 くて、一夜の値段が、牛何十頭などという、王侯貴族を
 相手にするという様な、しかも教養もあり、音楽的素養
 もあり、文学も出来、詩も詠めるという素晴らしい、高
 名な女性であったらしいんですね・・、
  ・・で、そのアンバパーリーという女性なんですが、
 その女性は、自分のマンゴー園に高名な仏陀が滞在して
 いるという事を聞いて、そして、教えを乞いに仏陀のも
 とへやって来ます。
  そして、仏陀から様々な話を聞いて大変深く感動して、
 感動したアンバパーリーは、自分の、是非、屋敷に招待
 して一夜の宴(うたげ)を催したいという風に、仏陀に
 申し入れます。
  遊女の申し込みなんで、本来なら、僧がどういう風に
 応対すべきか、ちょっと、分かりませんが、仏陀は、そ
 こんところを非常に快く、つまり、法といいますか、仏
 法というものを尊ぶ心の持ち主ならば、いかなる職業で
 あっても差別しないという、そういう気持ちからでしょ
 うか、仏陀はそれを承諾するんですね。
.
  仏陀が、ヴァイシャリー郊外に滞在していることを
 聞きつけた若い貴族たちが尋ねてきます。
  「自分達も仏陀を招待したい」と申し入れました。
  しかし、仏陀は、既に、遊女・アンバパーリーの招き
 を受けていると、その申し出を断ります。
  貴族達の中には、自分達より遊女を優先するのかと非
 難する者も居ました。
.
  ここで遊女という、アンバパーリーという、女性の話
 が出てくるというところがですね、この経典の中での、
 ある種の非常に興味深い所です。
  それは何かと言いますと、やっぱり当時のインドでも、
 女性に対する偏見というのは、今よりもっともっと深い
 ものがあったに違いありません。
  ましてや職業の貴賤ということに関しては、さらに偏
 見が多かったと思うんです。
  そういうときに、例えそれが娼婦であろうと、どうい
 う職業の人間であろうと、分け隔てなく接する、そして、
 「人間は、皆、平等だ」という仏陀の基本的な仏教の考
 え方というものがですね、そのエピソードの中に盛り込
 まれているんじゃないか、今から2500年前、それほど
 の昔にですね、今でも、なお、残っている女性に対する
 蔑視とか、職業に対する差別とか、そういうものを乗り
 越えて最後の旅を続けて行く仏陀の姿に、なんとなく共
 感を押さえる事が出来ません。
.
  ヴァイシャリー郊外に、遊女アンバパーリー縁(ゆか
 り)といわれる仏教遺跡が、今も残されています。
  後の時代に、インド北部一帯を支配したアショーカ王
 が建立した石柱とストゥーパ・仏塔です。
  仏陀と一人の遊女の出会いが、人々の心を動かし、大
 きな仏教遺跡となって残されたのでしょうか。
  仏陀は、このバイシャリーの地で大きな試練に出会う
 ことになります。
  ここで命をも脅かす様な、重い病を得たのです。
              (つづく)
  (参考)ヴァッジ国:ヴァッジ国(パーリー語 )ある
     いはヴリジ国は・・古代インドの国名。
      初期仏教の聖典『アングッタラ・ニカーヤ』
     の中で、十六大国のひとつに数えられる。
      首都はヴァイシャリー。
      位置:現在のビハール州北部にあたり、南北
     にはガンジス川北岸から現在のネパールまで広
     がり、西はガンジス川を挟んでマッラ国および
     コーサラ国と隣接していた。
      また、東は現在のビハール州と西ベンガル州
     の州境付近を流れるマハーナンダ川近辺、ある
     いはビハール州を流れるコーシー川までで、ア
     ンガ国と接していたと考えられている。
      民族:ヴァッジ国は、ヴァッジ族、リッチャ
     ヴィ族(離車族)、ジニャートリカ族、ヴィデ
     ーハ族など、8つの部族が連合して形成していた
     と伝えられている。
      統治機構:ヴァッジ国王は、「ヴァッジ・サ
     ンガ」と呼ばれた代表議会の議長であったと考
     えられている。
      「ヴァッジ・サンガ」は、各地方からの代表
     者から成り、国政を取り仕切っていたものと考
     えられている。
      近年、このような古代インドの国家をガナ・
     サンガ国というようになっている。
      宗教:リッチャヴィ族(離車族)は、ジャイ
     ナ教を信奉していたが、後に仏教に改めたと、
     仏典は伝えている。
      実際に、ブッダは、ヴァッジ国の首都ヴァイ
     シャーリーを何度も訪問して説法していたし、
     仏教の修行者のための修行道場が設置されてい
     たという記録がある。
      したがって、ヴェーダの宗教に並び、ジャイ
     ナ教や仏教も盛んであったと考えられる。
              (Wikipediaより)
.
紀元前484年頃、「ブッダ最後の旅 6」
  この周辺に住まいしていた時期、ちょうど雨季に入り
 ました。
  そして、雨季というのはもう、往来が困難だし、疫病
 がはやったり、大変な時期なんで、雨安居(うあんご)
 と言って、その時期、旅を休んで瞑想にふけり、思索に
 ふけります。
  ちょうど、その時ですね、仏陀は、思いがけなくも、
 本当に大きな病にかかる訳ですね。
  最後の旅のほんとに途中なんですけれども、その時の
 模様を こんな風に「大パリニッバーナ経」・「仏陀・
 最後の旅」 には書かれています。
.
     さて尊師が、
     雨季の定住に入られたとき
     恐ろしい病が生じ
     死ぬほどの激痛が起こった。
     しかし尊師は、
     心に念じて
     よく気をつけて
     悩まされることなく
     苦痛を堪え忍んだ。
     そのとき尊師は、
     次のように思った
     「私が侍者たちに
     別れを告げないで
     修行僧達に別れを告げないで
     ニルヴァーナに入ることは
     私には相応(ふさわ)しくない
     さぁ私は元気を出して
     この病苦を堪(こら)えて
     寿命のもとを留めて
     住することにしよう」と
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃 (nirvaaNa) のこと。
.
  つまり大変な激痛が生じてですね。
  本当にもう、耐え難いほどの痛みと苦しみの中で、仏
 陀は、それに耐え忍び、そして、今は死ねないと感じる
 んですね。
  それがまだ自分には残した仕事があると感じていたの
 か、あるいは、自分に与えられた事を最後までやり遂げ
 るために、この旅を続けようという意思なのか、あるい
 は、天と言いますか、目に見えない大きなものの命ずる
 ままに、自分の人生というものを、もう一度、生きてい
 こうという風に考えるのか、その辺は良く分かりません
 けれども、老いと病というものは、まあ、普通に言われ
 るように、生易しいものではありません、人間が最後の
 旅に出る時に、必ず、この老いと病を道連れにして、生
 きていく訳です。
  その最後の旅の中で、仏陀もまた、この病気と苦痛と、
 そして、老いというものを感じつつ、この辺に留まって
 居られたということを思いますと、人間・仏陀、人間で
 はないけれども、人間的なそのような苦しみを、人一倍、
 深く背負った仏陀という存在、そこに、私達人間も、と
 っても同じ様な、親しみと共感、そして、尊敬の念を覚
 えるところがあります。
.
  車の中で、ちょっと七転八倒したんですよね。
  朝4時に起きて、ほとんど徹夜のまま撮影をやって、
 それからあの悪路をバスで走っているでしょう。
  でも、昔はね、シベリヤ横断したってなんとも無かっ
 たくらいだったのに、僅かこの位の事で、こんなに苦し
 まなければならないのかという、ほんとに、パトナへの
 道は、地獄への道でしたね。
  ですから あの時、ホントにねー、もう薬を飲んでも
 効かない、水を飲んでもどうにもならない、今にも吐き
 そうでという、その時に、やっぱり、今の体力の衰えと
 いうものをね、今度の、やっぱり、インドの旅では、つ
 くづく感じさせられましたね。
  ですから、実感がとってもありますよ。
  まして、私はまだ70代の前半ですけどね、齢(いわ
 い)80に達したら、この旅を車なんて文明の利器を使
 わずにしている 仏陀の大変さというのは、おそらく想
 像を絶するものが、あったに違いありません。
.
  仏陀・最後の旅には、常に苦楽を共にする弟子が
 付き添っておりました。その名は、アーナンダ。
  弟子の中でも、人一倍、心優しく、純粋な人間だった
 と伝えられています。
  病から回復した仏陀の姿を見て、アーナンダは歓喜し、
 こう言います。
  「尊師が病気の間、呆然自失して、方角も教えすらも、
 分からなくなっていました。でも、もう安心です」。
  そんなアーナンダに、仏陀はこう答えました。
.
     アーナンダよ
     私はもう老い朽ち
     齢(よわい)を重ね老衰し
     人生の旅路を通り過ぎ
     老齢に達した
     我が齢(よわい)は八十となった
     例えば、古ぼけた車が
     革紐(かわひも)の助けによって
     やっと動いていくように
     おそらく私の身体も
     革紐の助けによって
     もっているのだ。
.
  さらに、仏陀は、自分が死んだ後の心構えについ
 て、修行僧達に説きました。
.
     この世で、
     自らを島とし、
     自らを頼りとして
     他人を頼りとせず
     法を島とし、
     法を拠り所として、
     他のものを拠り所とせずにやれ。
.
     アーナンダよ、
     今でも、また、私の死後にでも、誰にでも、
     自らを島とし、
     自らを頼りとし、
     他人を頼りとせず、
     法を島とし、
     法を拠り所とし、
     他のものを拠り所としないでいる
             人々が居るならば、
     彼らは、我・修行僧として
             最高の境地にあるであろう。
.
  あのー、非常に文脈としてですね、捉えにくい言葉な
 んですけど、言っていることは一つだと思うんですね。
  自分の尊敬する人が居ることは結構である。
  だけど、大事なことは、そういうことであることより
 も、権威とか、あるいは他人に対する親愛の情とか、そ
 ういう事よりも、もっと大事な、仏教の法というものが
 ある。
  ダルマといいますね。
  そういう仏教の真実や真理、そういうものこそ頼りと
 して、他人の権威・社会の常識、そういうものに囚われ
 ることなく、自分が学んだ仏教の心を心として、そして、
 自分が亡くなった後も、雄雄しく立派に生きて行って欲
 しい、それが大事だぞと、こういう事を最後に言ってい
 る訳です。 
  仏陀の言っていることというのは、私は、決して、自
 分に頼れという風に、自我を強調しているのではないと
 思いますね。
  それよりもっと大きな宇宙の真理というものがある。
  そういうものを自覚して、そして、自分が感じた直感
 というものを拠り所にし、そして、それを、島と言うの
 も例えですけれども、河の中洲という風に訳する人も居
 ますね。
  水が増えてきても没することなく、世の中の激流に呑
 まれる事も無く、大きな永遠不朽の真理というものをし
 っかりと身に付けて、その真理を頼りにして、自分自身
 の道を歩くが良いと、仏陀は、こういう風にここで語っ
 ているんだろうと思います。
.
     この世で
     自らを島とし
     自らをたよりとして
     他人をたよりとせず
     法を島とし
     法をよりどころとして
     他のものを
     よりどころとせずにあれ。
               (つづく)
  (参考) 安居:(あんご)は、それまで個々に活動し
     ていた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まっ
     て集団で修行すること。
      及び、その期間の事を指す。
      安居とは元々、梵語の雨期を日本語に訳した
     ものである。
      本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、
     蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行
     (外での修行)をやめて一カ所に定住すること
     により、小動物に対する無用な殺生を防ぐ事で
     ある。
      後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げ
     あんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるよ
     うになった。
      釈尊在世中より始められたとされ、その後、
     仏教の伝来と共に中国や日本に伝わり、夏だけ
     でなく冬も行うようになり(冬安居)、安居の
     回数が僧侶の仏教界での経験を指すようになり、
     重要視された。
      現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い、安
     居に入る結制から、安居が明ける解夏(げげ)
     までの間は寺域から一歩も外を出ずに修行に明
     け暮れる。
                  (Wikipediaより)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)591E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年12月~1893年12月)

2018-05-01 04:13:16 | 日記
題:(増補版)591E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年12月~1893年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年12月16日、ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」
 が初演された。(カーネギー・ホール)
  https://www.youtube.com/watch?v=9n8R3x68yuI
  https://www.youtube.com/watch?v=tsi5eJp4EVY
  この曲は、ドヴォルザークのアメリカ滞在中(1892年
 ~1895年)に作曲された。
  アメリカの黒人の方々の音楽が、彼の故郷のボヘミア
 (現在のチェコの西部・中部地方)の音楽に似ているこ
 とに刺激を受けて、「新世界から」故郷ボヘミアへ向け
 て作られた。
  1893年12月15日、楽譜が出版され・・、
  1893年12月16日、ニューヨークのカーネギー・ホール
   にて、アントン・ザイドル指揮、ニューヨーク・フ
   ィルハーモニック協会管弦楽団によって初演された。
   初演は、大成功だったという。
  因みに、日本初演は、1920年12月29日、東京の帝国劇
 場において、山田耕筰指揮、日本楽劇協会によって行わ
 れた。
  また、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』、シュー
 ベルトの交響曲第7(8)番『未完成』とともに「3大交響曲」
 と言われている。
1893年12月19日、衆議院で安部井磐根らの提出した現行条
 約励行建議案が上程された。
  条約改正を遂行する政府は、衆議院の10日間停会を決
 定した。
  第5回帝国議会は、1893年11月28日~1893年12月30日ま
 で開かれたが、星亨・衆議院議長の不信任決議案の可決
 などで荒れた・・星亨は居座った。
  この帝国議会は、与党化した自由党と、野党硬六派の
 対決の議会だった。
  (参考)硬六派は以下の6党だった。
     立憲改進党(自由党との民党連合がうまくいか
      なかったため対外硬派に転向した)
     東洋自由党(かつての自由党左派・大井憲太郎) 
     国民協会(西郷従道・品川弥二郎が下野して1892
      年6月に結成された)
     大日本協会(元「内地雑居講究会」安部井磐根)
     同盟倶楽部(元吏党)
     政務調査会 
  この条約励行建議案提出は、進行中の条約改正の阻害
 になるため、議会が停会となり、解散された。
  また、大日本協会に解散が命じられた。
  大日本協会は、明治政府の外交を柔弱と非難して、「
 条約励行・自主外交・対清強硬」を掲げた。
  また、対等条約締結以外の一切の条約改正の拒否し、
  また、内地雑居反対論などを掲げた。
  しかし、大日本協会内の一部過激派が、外国人襲撃事
 件を起こした。
  そのために、日英通商航海条約締結を目前とした政府
 の態度は硬化し、条約励行建議案に対抗するために衆議
 院解散が行われた。
  そして、1893年12月29日、突如集会及政社法の対象と
 なる政治団体の指定を受け、その日のうちに、大日本協
 会は度重なる外国人襲撃事件を理由として、解散を命じ
 られた。
  政府与党は抑制的で、また、野党は好戦的だった。
1893年12月20日 筑豊興業鉄道の中間駅~筑前植木駅間が複
 線で開通した。
  筑前植木駅は、福岡県直方市大字植木にある九州旅客
 鉄道(JR九州)筑豊本線(福北ゆたか線)の駅。
  1893年12月20日、底井野信号場~植木間を複線化。
   植木信号所を駅に変更。
  1893年12月20日、信号所から信号場に格上げ、植木駅
   として開業した。
1893年12月23日、フンパーディンク歌劇ヘンゼルとグレー
 テルが初演された(ヴァイマル)
  (参考)エンゲルベルト・フンパーディンク :1854年
     9月1日~1921年9月27日、ドイツの作曲家。
      ジークブルク生まれ。ケルン音楽院などで学
     ぶ。1890年旅行中にワーグナーに巡り会い、助
     手を務めるようになる。
      その後、作曲教師や音楽批評家として活躍。
      代表作品は、ワーグナーの楽劇の手法を組み
     入れたオペラ「ヘンゼルとグレーテル」(1893年)
     オペラ「不本意な結婚」(1905年)など
  (参考)ヘンゼルとグレーテル:グリム兄弟の『子供
     と家庭の童話』に収められた昔話。
      森に捨てられた兄妹が菓子でできた家に行き、
     魔法使いの老婆に捕えられる。
      ヘンゼルは閉じ込められて太らされ、グレー
     テルは下女代りに使われるが、老婆を殺して宝
     石を奪い、かもの助けをかりて家に帰りつく。
  (参考)ヴァイマル:ドイツ・テューリンゲン州の都
     市。面積は84,27 km2、人口は約64,000人。
      1999年に、欧州文化首都に選ばれた。
1893年12月25日、関根常五郎が、墨汁の特許を取得した。
1893年12月26日、毛沢東が誕生した。
  中国共産党中央委員会主席・中華人民共和国初代国家
 主席(~1976年)
  1893年、下層中農の子に生れる・・、
  1911年(18歳)辛亥革命が起ると革命軍に約半年間参
   加する。
  1913年(20歳)湖南省立第一師範学校に入学し、在学
   中に進歩的青年団体「新民学会」を組織した。社会
   的政治的活動に踏出した。
    五・四運動のなかで、湖南の学生連合会機関誌『
   湘江評論』の編集と執筆にあたる・・、
  1920年(27歳)夏頃からマルクス主義者となって、社
   会主義青年団の地方組織をつくる。
  1921年(28歳)7月、上海における中国共産党創立大会
   に湖南代表として出席する。
  1923年(30歳)6月、三全大会で中央委員に選ばれる。
  1924年(31歳)国共合作が成立すると国民党中央委員
   候補に選出された。
  1926年(33歳)国民党二全大会で再選、さらに、広州
   の農民運動講習所所長となり農民運動の組織化に努
   める。
  1927年(34歳)国共分裂後、秋収暴動を組織、指導し
   たが、失敗。井崗山にたてこもる。
  1928年(35歳)4月、朱徳の部隊と合流し、中国工農紅
   軍を組織し、その政治委員となった。
   以後、農村の土地革命、紅軍強化、ソビエト政権樹
   立などのために戦う。
  1931年(38歳)11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和
   国臨時政府が樹立され、主席に選出された。
  1934年(41歳)再選。
   その後、5回にわたる国民政府軍の包囲攻撃と戦う。
  1934年(41歳)10月、根拠地の移動を余儀なくされ、
   長征を開始、途中の貴州省遵義・・
  1935年(42歳)1月、中国共産党中央政治局拡大会議が
   開かれた際、党中央の指導権を握った。
   1931年以来、日本軍事が強まるなかで、内戦停止と
   一致抗日を呼びかけた。
  1936年(43歳)西安事件を契機に日中戦争勃発する。
   (参考)西安事件:1936年12月12日、共産軍討伐の
      ため、陝西省の西安に駐屯中であった張学良
      麾下の東北軍と楊虎城の十七路軍が、南京か
      ら西安へ督戦(とくせん、部下を激励・監視
      して戦わせること)に来た蒋介石を監禁し、
      国共内戦の停止と挙国一致による抗日を要求
      した事件。
       一時、国民党が西安攻撃の構えをみせ緊張
      状態となったが、斡旋にあたった共産党の周
      恩来の要求を蒋介石がいれたため、1936年12
      月25日に釈放された。
       1936年12月26日のこの翌日、蒋介石は共産
      党と連合して抗日にあたる旨の声明を発表し
      たため、第2次国共合作が進み、抗日民族統一
      戦線の結成がなされた。
       張学良は事件解決直後、蒋介石が南京に戻
      るときに軟禁され、1949年台湾に連行された。
       中国側からの戦争行為によって日中戦争の
      勃発状態となる。
  1937年(44歳)9月、国共合作が成立し、この間、1937
   年には『実践論』『矛盾論』を書いて党内の教条主
   義と経験主義の誤りを批判した。中国独自の革命理
   論を展開した。
  1938年(45歳)『持久戦論』を書いて抗日戦勝利の理
   論的根拠を明らかにし、人民戦争論を打出した。
  1940年(47歳)『新民主主義論』で新民主主義革命の
   理論を深めた。
  1942年(49歳)整風運動を指導した。
  1945年(52歳)『連合政府論』のなかで民主連合政府
   の必要性を説いた。
  1945年(52歳)4月、七全大会で党中央委員会主席に選
   出された。
  1945年(52歳)8月、日本の敗北後、民主連合政府を樹
   立するため蒋介石と交渉を行なった・・国府はアメ
   リカと連携。
  1946年(53歳)夏から解放区に全面的な攻撃を開始し、
   約3年にわたる内戦。
  1949年(56歳)10月1日、中華人民共和国の成立と同時
   に中央人民政府主席に選ばれ、中国の最高指導者と
   なる。
  1954年(61歳)9月、第1回全国人民代表大会で憲法が
   制定され、共和国国家主席に選出される。
  1959年(66歳)辞任し、劉少奇に代わる。
   1945年以来党中央委員会主席の地位にあって内外の
   政策を指導した。
  1965年(72歳)文化大革命でその先頭に立った(~
   1969年・76歳)まで。
  1972年(79歳)R.ニクソン大統領、田中角栄首相らと
   会見し、国交正常化に努める。
  1976年(83歳)天安門事件で、鄧小平の解任と華国鋒
   の総理就任を提案する。
  1976年9月 83歳で死去。
1893年12月28日 鉄道局出納官吏任命規程が制定された(逓
 信省達第6号)
1893年12月28日 逓信省出納官吏身元保証金取扱規程を制定
 した(公達第542号)
1893年12月29日、衆議院で、再度、現行条約励行案が提出
 された。
  政府方針は条約改正で、陸奥宗光外相が条約励行案反
 対を演説した後、政府は衆議院の14日間停会を命じた。
  また、現行条約励行案を提出した大日本協会の解散を
 併せて命令した。
1893年12月30日、衆議院が解散された。
  星亨議長の弾劾案を衆議院で可決し、伊藤首相は第五
 議会を解散した。
  2回目の衆議院解散だった。
1893年12月31日、参宮鉄道の津駅駅~宮川駅間が開通した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:エリートが、霞が関や永田町をはじめ、アカデミズム
   やマスコミなど、日本のあらゆる分野で、指導的地位を
   占めている可能性が、1970年~1980年代のレフチェンコ
   事件当時とは比較にならないほど高いものがあるという
   ことを知らねばならない・・と・・
.
紀元前2350年、アッカド帝国の成立
  アッカド帝国は、チグリス・ユーフラテスの流域(上流
 域から下流域)に成立した帝国である。
  しかし、キリスト教は、モーゼの「エジプト脱出」の
 話を成立させたいため、メソポタミアのウルからヘブラ
 イ人が、エジプトへ向かったとしたい・・
  しかし、このキリスト教の話は、このアッカド帝国の
 領有する地域から考えても無理筋な話となっている。
  キリスト教の成立の最初の方々である「ウルのヘブラ
 イ人」は、このアッカド帝国の領内の上流域へ、チグリ
 ス・ユーフラテス川の上流域へ向かった。
  (エジプトへは向かっていない)
  アッカド帝国時代(紀元前2350年~紀元前2113年)・・、
  この「アッカド」とは、サルゴンが作ったバビロニア
 の北にある中心都市「アガデ」の別称である。
  そこの住民は、シュメール語と異なるセム語派のアッ
 カド語を話すため、シュメール人からアッカド人と呼ば
 れた。
  アッカド王のサルゴンは、当時では特殊であった常備
 軍を有することで、シュメールに対する軍事的優位性を
 確保すると、統一されたばかりのシュメールに攻め入っ
 てルガルザゲシを破り、シュメール地方とアッカド地方
 からなるメソポタミアの統一を果たした。
     ・
     ・
紀元前484年頃、ブッダが最後の旅に出る。
  ブッダは、最晩年の1年間、最後の旅と言われる旅に出
 られました(入滅は紀元前483年頃)
  多くの弟子と共に、ラージャグリハ(霊鷲山)から降
 り・・そして、旅へ・・
  霊鷲山(りょうじゅせん)は、インドのビハール州の
 ほぼ中央に位置する山。
  仏陀(釈迦佛)が、無量寿経や法華経を説いたとされ
 る山・・、
  誰にもやがて訪れる死・・、
  ハーハーと息を弾ませながら霊鷲山の階段を登る・・、
  人生の旅路の最後で、人は、老いや死と、どの様に向
 き合えば良いのでしょうか・・、
  およそ2500年前、その問いに一つの答えを出した人が
 居ました。
  その人の名は、ゴーダマ・シッタールダ(パーリ語形、
 釈迦。仏教の開祖)
  人々からは目覚めた人・仏陀(ブッダ)と呼ばれまし
 た。
  最後の階段を昇る・・
  ナマステ。ナマステー。
  (遠くから、お経を上げる声が聞こえる)
  (参考)ナマステ: サンスクリット語、インドやネ
     パールで交わされる挨拶の言葉。
  生きること、老いること、病(やまい)、そして死。
  人生は苦しみに満ちている。
  仏陀は、その苦しみと、「共に生きること」を説き続
 けました。
  (キリスト教は「人は生まれながらに原罪があるとし、
 神に救って貰うとした」・・とは違う)
  「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナン
 ガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ」・・
  「何という静かな場所なんだろう」。
  仏陀が、最晩年に至るまで教えを説いたこの霊鷲山を
 初めて訪れました。
  ちょうど、齢80を迎える頃に、この霊鷲山に滞在し
 ていた仏陀は、そこから山を降りて、そして、大変困難
 な旅、ガンジスを超えて、北へ北上するという、6ヶ月・
 数百キロにおよぶ旅に出発される・・、
  そして、その最初の出発点がこの霊鷲山・・、
  一体、仏陀が80歳になって何を感じ、そして、大変
 困難な旅に出発する、その最初の動機は何であったんだ
 ろうかというふうに勝手に想像します・・、
  人間というものは、ある時期に達すると、自分の人生
 というものを振り返ってみながら、そして、その自分の
 人生の締めくくりという様なことを 否でも応でも感じ
 ない訳にはいかない訳です・・、
  仏陀が死を迎える・・
  死への旅である、そして、最後の旅である その仏陀
 の死の旅の足跡を、自分の人生に重ねてみる・・、
  不思議な感じとなる・・
  霊鷲山にある仏像・・手を合わせる・・
  悟りを開いて45年・・、
  常に布教・伝道の旅にあった仏陀・・、
  80歳で、ここ霊鷲山を旅立ちます。
  それが最後の旅になりました。
  苦難に満ちた旅の中で、仏陀その人は、いかに老いを
 受け入れ、病(やまい)に耐え、そして、どの様に死を
 迎えたのか・・
  およそ2500年前、釈迦族の王子として生まれながら、
 出家し、苦行のはてに悟りをひらいた仏陀・・、
  その教えは、時を越え、多くの人々の中に広まって行
 きました・・
  人は、何故、苦しむのか、苦しみと如何に向きあうの
 か・・、
  仏教2500年の歩みは、その「問いかけ」の歴史でもあ
 りました。
  21世紀を迎えた今も、人々は変わらず多くの苦しみ
 を抱いています。
  その中にあって仏教は何をなし得るのでしょうか・・
  ブッダ最後の旅 インド
  さまざまな伝説に彩られ、なぞに満ちた仏陀の生涯。
  しかし、その晩年については克明な記録が、いくつか
 の経典として残されています・・、
  大般涅槃経や、ダイパリミッパーナ経。
  そこには、仏陀の死と、最後の旅の様子が記されてお
 り・・、
  霊鷲山から旅立つ前、仏陀は弟子達を集め、悟りに至
 る道について次のように説かれました。
.
  戒律と共に修行して
  完成された精神統一は 
  大いなる果報をもたらし、
  大いなる功徳がある。
  精神統一と共に修養された智慧は、
  偉大な果報をもたらし、
  大いなる功徳がある。
  智慧とともに修養された心は、
  もろもろの汚れ、すなわち、
  欲望の汚れ、
  生存の汚れ、
  無明の汚れから
  『 まったく解脱 』 する。 
.
紀元前473年~紀元前463年、第1回仏典結集。
  仏典結集(ぶってんけつじゅう)は、仏教経典の編集
 で・・、
  伝説によると、釈尊の入滅後、弟子たちが王舎城に集
 って釈尊の教えを唱集した(口伝の教法・ダルマを集成・
 整理して、後世に伝えた)
  釈尊に常侍した阿難が経典を暗唱、他の者が唱和し、
 優波離 (うぱり) が律を暗唱、他の者が唱和した。
  こうして釈尊の教えの記憶を確かめ、その正しい伝承
 に努めた。
  これが第1次結集。
  (有能な弟子500人が、マガダ国の首都ラージャグリハ・
 王舎城に集まって行なった)
  この時、釈尊の侍者アーナンダ(阿難)が中心となっ
 て教法が結集され、ウパーリ(優婆離)が中心となって
 戒律(ビナヤ)が結集された。
  100年後に第2次結集を行い、アショーカ王の援助で第
 3次を、カニシカ王の援助で4次結集を行なったという。
  三蔵(経・律・論)の成立をみた。
.
317年、日本へ伝わった大乗仏教は、インドのマウリア朝
 (紀元前317年頃~紀元前180年頃)で繁栄した。
  その後、アフガニスタンのクシャーナ朝(1世紀頃~3
 世紀頃)を経て・・
  中央アジア(西域に紀元前1世紀~紀元1世紀)、
  敦煌を経由し、長安(紀元前1世紀~紀元1世紀)を経
 て中国に伝わった。
  そして、百済(384年)、日本(538年)に伝わった。
  因みに、仏教は、中国に入った後、儒教や道教の持つ
 「陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)」を取り入れた。
.
6世紀、この頃、インドから達磨(だるま)が、中国へ来て
 禅を起こした。
  その後、6世紀半ば、朝鮮半島を経由して日本に入った。
  高句麗(372年)、新羅(528年)
.
6世紀後半、チベット仏教(ラマ教)ができた。
  4世紀~5世紀のインドでは、バラモン教の呪術、天文
 学、医学、薬学などを取り入れた密教が作られた。
  さらに6世紀後半に、チベットの吐蕃(とばん)王朝が、
 密教を中心としたインドの仏教を学び、それをチベット
 の独自性を融合させてチベット仏教(ラマ教)ができた。
     ・
     ・
1947年、日本人の平均寿命・・男:50.06歳、女:53.96歳
  参考に・・
  2016年、男:80.98歳、女:87.14歳、
  未来の2060年、男:84.19歳、女:90.93歳、
.
1950年、チベットが、中国に乗っ取られている。そして、
 多くのチベットの方々が中国に殺されている。
  以下は、1950年~1976年の間の中国の侵略で死んだチ
 ベットの方々の犠牲者数である。
  戦闘・抵抗活動中での死亡・・432,705人
  処刑死・・・・・・・・・・・156,758人
  拷問死 ・・・・・・・・・・・92,731人
  強制収容所・刑務所での死亡:173,221人
  餓死・・・・・・・・・・・・342,970人
  自殺:・・・・・・・・・・・・9,002人
  計:・・・・・・・・・・・1,207,387人
.
2003年4月20日、朝日新聞が、また、ひどい記事を書いた・・
  それを、百田尚樹氏が、ツイッターに、「昔、朝日新
 聞は、『北朝鮮からのミサイルが日本に落ちても、一発
 だけなら誤射かもしれない』と書いた。
  信じられないかもしれないが、これは本当だ」・・と、
 ツイートした。
  2003年4月20日に、朝日新聞が、東京版朝刊第2面に書
 いたこの記事は・・
  2017年4月24日、朝日新聞の政治部次長は、「確かに、
 書いていました」と認めた。
  そして、朝日新聞は、「一般論で書いた」と言い訳に
 ならない言い訳をした。
  それに対し、世論は・・、
  「核ミサイルを撃ち込まれて、焼け野原になって、皆
 が蒸発して居なくなって、一般論でしたという論理が通
 じる訳はないだろー」・・と、軽蔑(けいべつ)を交え
 て反論した。
.
2009年1月20日、アメリカのオバマ大統領の就任式が行われ
 た。
  アメリカのオバマ大統領が就任したこの年は、アメリ
 カが起こした卑劣な経済犯罪の「リーマンショックの直
 後」だった。
  2009年のアメリカ経済の成長率は、マイナス2.78%と
 いう最悪の状況だった。
  オバマ大統領は、当然、経済を軌道に乗せ、アメリカ
 経済の活力を取り戻したいと考えていた。
  マスコミも、オバマ大統領の1年目は、アメリカ経済が
 全面的な恐慌に近づくくらいのグレートリセッション(
 大不況)を経験したと報じた・・
  1929年~1930年の大恐慌の初期より「大きく落ち込む
 ほどだ」と報じた。
  オバマ大統領は、金融業界と自動車業界の救済を主眼
 点としていた。
  アメリカのデトロイトの自動車企業は、オバマ大統領
 に「30兆円の金を出せ」と言った。
  また、「金融機関には150兆円の金を『緊急だ』と言っ
 て出してるではないか」と言った。
  ゼネラル・モーターズ(GM)や、クライスラーや、
 フォードの三社は、オバマ大統領から注文を付けられた。
  言われたことは・・
  「国際競争力を回復する研究をせよ、努力をしなさい」
 と言われ・・
  そして、その為の研究課題などが言われたが、ピント
 はずれのトンチンカンな返事をした。
  それは、後ろ向きの案ばかりだった。
  「社長の給料を削ります」
  「労働者を減らします(首切り提案)」
  「工場閉鎖をして、経費節減をいたします」・・など
 だった。
  アメリカ国民の方々は、「努力もしないで、競争に負
 けた会社に、国民の金を使うな」と言った。
  日本の鎌田実氏の「頑張るな」が伝染した訳ではない
 だろうが・・? 努力する姿勢はまったく無く、後ろ向
 きの案や姿勢ばかりで・・金だけをせびった。
  鎌田氏もキリスト教徒で、キリスト教の活動方針に沿
 った「頑張るな発言」をよくしていたが・・
  努力もしないで「金ばかりをせびる姿」に、アメリカ
 国民の方々は怒った。
  第二次世界大戦の時は・・、ルーズベルト大統領が、
 第二次世界大戦を起こして、アメリカが恐慌で、「経済
 がどん詰まり状態だったのを打開して、経済を上向けた
 いという策として、この様な卑劣な戦争を起こすという
 手を打ったが・・
  この時は、ゼネラル・モーターズ(GM)などは、タ
 ンクや大砲を、どんどん作って潤(うるお)い、息を吹
 き返したが・・
  この時のオバマ大統領は、ルースベルトの様な卑劣な
 手を使う様な汚い大統領では無かった・・
  そして、そんなに甘くは無かった・・
  当然である。
  アメリカ国民の方々へ「極秘」にして、戦争を起こし
 たルーズベルトとは違っていた。
  オバマ大統領は、当然、この様な卑劣な、非人道的な
 事はしなかった。
  アメリカ共和党も、ゼネラル・モーターズ(GM)な
 どが、自由競争に負けたのは「怠けた自動車企業の自業
 自得だ」と言った。
  「怠(なま)けた君たち自身が、責任を取れ」と言っ
 た。
  「政府は甘やかすな、政府の救済には反対だ」と言っ
 た。
  議事妨害をしてでも反対する・・阻止すると言った。
  正義の共和党だった。
  オバマ大統領も正義の人だった。
  ここで思い出されるのが、キリスト教に偏するNHK
 で・・、
  NHKは、国民の祝日という日のたびに、「特別番組
 を組んで」、長時間番組として「頑張るな」のキャンペ
 ーン放送を常に続けた。
  キリスト教徒の鎌田実氏は、常に、NHKに呼ばれる
 という最大の恩恵を受けていた。
  キリスト教の「頑張るな運動」に同調するNHKだっ
 た。
.
2015年9月4日、EUの難民騒ぎは・・最悪の状態だった。
  当然、難民の方々に「幸せになる権利があった」。
  そして、ドイツには、第二次世界大戦の非人道的行為
 の反省から生まれたドイツ基本法があって・・
  「難民の方々を救済する事が決められていた」。
  豊かなドイツ・・EUで、唯一の経済的に豊かな国。
  その豊かさを求める難民と称する人々。
  存在する格差を縮めたいと、豊かさを求めてドイツへ
 向かう人々。
  ドイツは、自国の基本法を遵守する事は出来なかった・・
 守り切ることが出来なかった。
  国が壊れて行く状況だからだった。
  この様な事態に、さすが、基本法といえども守れない
 ドイツがそこにあった。
  そのしわ寄せが・・「難民通過国のハンガリー」に行
 った。
  ドイツが、事実上、放棄したドイツ基本法のしわ寄せ
 で、ハンガリーに「難民が溜まり出した」。
  ハンガリーも限界を超えた。
  早く言えば・・、「難民救済のお金をやるから来ても
 良いよ」と言った『救済する基本法を持つドイツ』へ向
 かった難民の方々を、ドイツが拒否したようなものだっ
 た。
  唯一の豊かなドイツが、難民の受け入れが、我が国の
 最大の方針ですという「宣言を取り下げた形」となった。
  豊かではないハンガリーは、そのとばっちりを受けた
 形となった。
  しかし、可哀想に、ドイツほど豊かではない、難民を
 受け入れる余裕のないハンガリーに、非難は集中した。
  国が保てないから国境に柵を作れば、「非人道的だ」
 と責められ・・
  難民を受け入れて、その受け入れ施設が、超満杯状態
 になれば、それで待遇が悪くなれば、その待遇が刑務所
 のようだと、非人道的だと責められた。
  やむなく・・「ドイツ行の列車」を、難民が乗った列
 車をドイツへ行く列車を、発車させれば・・何故、発車
 させたのだと責められ、「ハンガリーの首相は独裁者だ」
 と言われた。
  ハンガリーのオルバン首相は怒っていた。
  「この問題は、ドイツの問題だ」と核心を突いた非難
 をドイツに対して行なった。
  結局、グローバリズムを守り切る気概が無いのに、問
 題を他国のハンガリーへ押し付けるところに齟齬(そご、
 意見や事柄が、くいちがって、合わないこと)があった。
  難民の方々は、この両国の間(ハザマ)で、業を煮や
 して(ごうをにやして)、徒歩で、オーストリア国境へ
 向かい始めた・・ドイツへの歩みを始めた。
  ハンガリーから続くその道を歩く列が、何キロも続い
 た。
  その状況が、上空から撮影されて、テレビで放送され
 た。
  「EUの起こした罪」の姿が放映された。
  2015年9月4日に、EUに起きた悲劇だった。
  主犯は、ドイツだった。
  財産もすべてなげうって、病気の方も居られるだろう、
 乳飲み子(ちのみご)を抱えた女性の方々も居られるだ
 ろう・・大人とともに歩く幼子も居ただろう・・
  しかし、EUの誰もがも、救いの手を差し伸べない放
 置された歩く姿がそこにあった。
  キリスト教会の前も通って歩いてドイツへ向かったの
 だろう。
  キリスト教国のEUに起きた事だった。
.
2015年9月4日、キリスト教国のEU国内を歩き出した難民
 の方々。
  難民の方々は、EU諸国が、あまりに冷たいので、強
 硬手段を取った。
  難民の方々は、歩いて豊かなドイツへと向かった。
  EU内の唯一の経済強国のドイツへと向かい出した。
  自分も幸せになりたいと・・。
  ご老人も、乳飲み子を抱える女性も、やっと歩くこと
 が出来る幼児も・・その列は延々と続いた。
  本当は、この列が、ドイツにとっての選別の篩(ふる
 い)の役をした・・
  山を越え、谷も越え歩き・・キリスト教会の前も通り、
 その教会の救済の一人も出ない状況の中を歩き続けた。
  この様な時、哀(あわ)れな3歳児の死体の写真が報
 道された。
  波打ち際に横たわり、波に揺れる幼児の死んだ姿だっ
 た。
  第一に保護すべき幼児が、この様な姿になっていた・・
  そして、その子を保護する親もその海を越えられず、
 この子と同じ運命となったのだろうと想像された。
  この報道が、EUの冷たさを反省させ、驚愕させた・・
 自分の冷たさに改めて気づいたEUだった・・
  以下が、その時の報道・・
  題:幼児溺死写真の反響広がる・・難民受け入れ義務
   で仏独が合意・・
  [3日 ロイター]地中海を渡って欧州を目指す難民
 や移民が急増している問題で、フランスのオランド大統
 領は3日、欧州連合(EU)全域で「難民受け入れを割
 り当てる恒久的で義務的なメカニズム」について、ドイ
 ツのメルケル首相と合意したと語った。
  メルケル首相は、ドイツが近隣諸国より多くの難民を
 受け入れる用意があるとし、「公正で、それぞれの国に
 可能なことを考慮した割り当てやルール」に沿って各国
 が役割を果たす必要があると強調した。
  一方、トルコの観光地ボドルム近郊の砂浜で横たわる
 溺死した幼児の写真が、ソーシャルメディア上で広がり
 大きな波紋も呼んでいることについて、フランスのバル
 ス首相は、「欧州全域で緊急な対応が必要だ」とツイッ
 ターに投稿。
  欧州各国の政治家にも反響が広がった。
  死亡したのは、シリア難民のアイラン・クルディちゃ
 ん(3歳)で、家族らとともにボートでギリシャに向か
 っていたところ転覆し、一緒に乗っていた5歳の兄と母
 親も死亡したという。 ・・以上・・
  この報道を見たEU内に、「この悲劇を見過ごす事は
 罪だ」「トボトボ歩いている難民を救え」という声が高
 まった。
  2015年9月5日、ドイツは発表した、「『例外措置』と
 して、ハンガリーにいる難民を受け入れる」・・と・・
  ダブリン協定を、あっさりと「無視した」。
  しかし・・ドイツは、その後・・この辺について「奥
 歯にものが挟まったように言った」・・、
  「ダブリン協定は、治安維持のために、一時停止した
 だけだ」・・と・・
  とぼとぼ歩く難民の方々へ、バスが差し向けられたが・・
 何とも、先行きが曇るドイツだった・・
  難民の方々も、この行為を疑って、バスに乗ることを
 拒否した・・ハンガリーへ連れ帰される罠(わな)だと
 思った・・ドイツやEUのやることに信頼性を失ってい
 た難民の方々が、そこに居た・・
  ドイツ行の列車も次々と発車していた・・、
  2015年9月5日に、ミュンヘン中央駅に着いた難民は、
 8000人・・、
  そして、その翌日・2015年9月6日は、13,000人だった・・
  「ドイツの人道主義の勝利だ」と報道するドイツ・メ
 ディアもあった。
  しかし、ここまで来れた難民の方々は、体の強い方々
 だけの「一部の人たち」だった。
  また、実は、裏話があって・・お金のある人は、この
 難民を運ぶことを「にわか商売」にした「人の移動手段」
 を使ったという・・だから、また、お金のある人がここ
 まで来れた。
  その様なにわか商売の人が色々と居たという・・
  金さえあれば何でもできたという・・この様な「にわ
 か商売人」を利用できた人たちがたどり着けた・・
  髭剃り屋も居たし・・スマホの充電屋も居た・・物売
 り屋も出ていて、金さえあれば困ることのない状況だっ
 た・・と・・
  また、色々な斡旋業者も出て、難民が困っていること
 を処理してくれたという・・
  つまり、この難民の方々は・・やっとたどり着いたと
 いうボロボロの状態ではなく・・報道陣のカメラにVサ
 インをして笑顔を見せるという人たちだった・・
  多分、本当に困っている難民の方々は、列の後方に居
 て・・どこかで力尽きて、とどまっているのだろう・・
  その方たちは、報道されることは無かった。
  そして、おかしなことに?? この到着した難民の方々
 へ、メルセデス・ベンツ社が言った・・「まさに、この
 様な人々を、この様な人材を、わが社は求めている」と・・
 代表取締りの言葉だった。
  つまり、この到着した人たちは、経済力のある、英語
 も通じる・・
  そして、裕福だった人々が多く、それなりの教育を受
 けている人々だった・・
  ドイツの産業界は、そのことを知っていた・・
  そして、安価で、良質な、やる気のある労働力が手に
 入り込んで来たと・・捉(とら)えていた。
  安い良質な労働力が得られたと喜んでいる産業界だっ
 た・・
  ドイツでは、この後、この難民問題に、ハッピーエン
 ドで終わらない事態が続く・・
.
2018年、現代は、従来、絶対に公開されないとされて来た
 諜報に係(かかわ)る秘密文書が、続々と公開され、こ
 れまで真実とされて来た『歴史』が次々と修正されてい
 る・・この様な時代である。
  また、「マオ」という本には、毛沢東は、二十世紀最
 大の殺人者、大悪党であったという事が、豊富過ぎるほ
 どの事実をもって示されている。
  「敵の中に、秘密の同盟者を持て」という言葉がある。
  これが、軍隊なら何個師団にも相当すると言われてい
 る。
  今・現在、日本の官僚、特に、外務省や宮内庁に居る
 のではと思わせる事が起きる。
  この様な危険性は、識者も言う・・、
  「エリートが霞が関や永田町をはじめ、アカデミズム
 やマスコミなど、日本のあらゆる分野で、指導的地位を
 占めている可能性が、1970年~1980年代のレフチェンコ
 事件当時とは比較にならないほど高いものがあるという
 ことを知らねばならない」・・と。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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