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「予言」:「心理療法」:「遊行」・・、

2014-06-20 15:21:08 | 日記
 題:「予言」:「心理療法」:「遊行」・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教のイエスの弟子たち・・、
 大(おお)らかな人たちだったとも言えるが・・、
 悪いけれど、程度は良くない・・悪かったようだ・・、
 この人たちが演ずる・・キリスト教の聖書・・、
 いくら綺麗(きれい)に話そうとしても、そこには限界
でる・・そこで、嘘や、オーバーな表現が入る事になる。
 キリスト教に嘘が多いのは、このところに、原因の1つが
ある。
 ひたすら、オーバーな美化や表現になるのも、ここに原
因がある。キリスト教の嘘やオーバーな美化表現の原因と
なっている。
 釈迦の弟子たちより・・『はっきり劣る』、
 理知的だった釈迦の弟子たち、『自ずと』そのやり取り
には深みが出て来る。
 キリスト教の様に無理に作り上げなくても、そのやり取
りに、自然と深さが醸(かも)し出されてくる。
 後世の頭の良い人たちが、ああだこうだと、美しくしよ
うとしないでも済む。嘘をつかなくても済む。
 この差が、これがイエスの死後に、また、大きな差とな
って表れる。
 キリスト教が、一生懸命、あの弟子たちは、後(あと)
になって良くなった、良くなった・・と、誉(ほ)めるが
(これは、さすがにキリスト教も、最初はダメだったと認
めているという事になるのだが)が、
 『栴檀は双葉より芳し』
 (せんだんはふたばよりかんばし)ともいうが・・無理
なのだ。
 イエス及びイエスの弟子たちの生まれ育ちは、その様な
ものだった。民の店を壊すのが相応という姿の様だ。
 イエスから、何度も何度も叱られた、馬鹿みたいに何度
も叱られた弟子たち、
 聖書を読んでいても、お前たち馬鹿かとしか言えない気
持ちになる。悪いけれど・・、本当に、何度も叱られ
るという、忘れっぽい御仁(ごじん)の「イエスの弟子た
ち」。所詮、それに関して書く側の品も落ちて来る。もち
ろん、それを読んでいる方たちの品も落ちて来る。その様
な中に・・すべてが存在することに・・、
 チャーチル・英国の元首相の息子が、イエスの弟子たち
の事を教えられた時、「この豚野郎」と怒ったというが、
 イエスが刑場の露と消える直前、イエス捕縛(ほばく)
の人たちが迫(せま)っているという大切な重大な時、
 この時は最低だった・・、
 イエスが祈っているという時に、この様な時に、眠って
いたというイエスの馬鹿弟子たち。
 大らかさもあったのかもしれないが、その馬鹿な程度は、
この様な時になんだと・・二の句が継げない気持ちだ。
 その弟子たちの中でも、少しは頭が良いという、会計を
イエスから頼まれ、やらされていた「ユダ」。
 多分、他の弟子たちは、計算が不得手と言うより、出来
なかったのだろう。数の「たし引き」ができない、そのレ
ベルの御仁だったのだろう。
 その中の男・ユダが、銀30枚でイエスを裏切る。金銭的
にも『心貧しき行為をした人』である。このレベルである。
 少しの金にも目が光った人たちだったのであろう。
 キリスト教は、どこを見ても裏切ったり、殺したり、騙
(だま)したり、本当に程度の低い、精神的に、倫理的に
最低。『最低な書』だと思う。ためになる話は『本当にな
い』。
 『性悪説に染まった思考』で『暗展開思考』をするから、
そこから出て来る思考も良い訳がない。こんなことが分か
らない。
 それにしても、銀30枚ぐらいで、売られるイエスも安く
見積もられたものである。
 何故、銀30枚くらいで裏切るのであろうか?不思議な領
域だ。その領域で悪行為をする人たちの領域の話のレベル
の『キリスト教聖書』。
 裏切った「ユダ」も悪いが、ユダ側だけに責任のすべて
があると断定し、判断していいのか? そうではない。
 そこに、イエス側の責任も皆無とは言い切れない、
 イエスに全くない、皆無とはできないという所が・・厳
然として存在しているということを知らねばならないし、
分からねばならない。
 キリスト教の聖書は、その様には説かない、避けている。
 説けないからだ。そこが、宗教の立場の弱点となってい
る。『その面が学べない』キリスト教徒となっている。
 分かる事が、知る事が出来ない人たちを作っているキリ
スト教となっている。
 偏頗(へんぱ)な人を作っているキリスト教となってい
る。
 しかし、キリスト教はこの点を、いつもの通り、『無視
をしている』、分からない事にしている。
 キリスト教は、この点に気付いているのであろう、さす
がに・・、だが、目をつむって、キリスト教信徒を『マイ
ンド・コントロールしている』。
 繰(く)られた信徒も、純真に・純真にと、事前に十分
に洗脳され、マインド・コントロールされているから、そ
のまま通り過ぎて行くのだろう。こんなもんだと・・。怖
いものだ。
 何しろ、キリスト教は、信徒の方々に『考えるな』『考
えるな』と洗脳している。ただただ導かれるが良い・・『
さまよえる羊たちよ』・・と、
 この様なマインド・コントロールは、本当に『怖いので
ある』。この怖さに・・気付いて居(お)られない。
 キリスト教側は、当然、都合がいいので、その点の是正
をするわけが・・ない。
 よくテレビで、社長が頭を下げている姿が『あれはあれ』
と見ているのであろう。
 ユダの件は『もう少しうまく』聖書に記すべきだった。
 本来は、イエスもユダのことで頭を下げるべくところが
あるのだ。気付かないだろうが・・、
 イエスも責任は逃れ得ないという面に気付くべきなのだ。
 キリスト教は、この不祥事のこの責任を不問にして、綺
麗にしている。当然、信徒のかたたちへは説明しない。
 キリスト教は、自分たちの都合が悪いことは遠慮なく変
える。事実も曲げる。そして、表面をきれいに繕(つくろ)
う、そのやり方を過度(かど)に行って来た。
 プロパガンダ(嘘宣伝)が酷過(ひどす)い。
 社会的公正さも、まったくといってない。
 そして、このところの怖さを認識していない。
 この様な近代的なセンスはない。古い体質の宗教となっ
ている。古い体質のキリスト教のセンスを守っているだけ。
 この様にしてできているイエスの姿は偶像である。
 この偶像を崇拝している宗教と言えるキリスト教。
 キリスト教の聖堂には、武力で他国を攻め滅ぼし・・、
 その地の偶像を奪い、持ち帰り、自国のキリスト教聖堂
の外壁に張って、飾っている姿があるが・・、
 この様な目に見える偶像崇拝の姿以外にも、
 先に記した様な目に見る事が出来ない、作られた偶像も
・・・キリスト教には・・・一杯ある。
 キリスト教は、偶像を崇拝する宗教である。
 その偶像も、その作られ方も含めて質がよくない。
  銀貨30枚で、ユダが、イエスを裏切ったが、また、こ
のイエスだけでなく、仲間たちも裏切った「ユダ」だが、
 この金銭に関わる事、イエスたちの活動資金は・・、
 ある時は働き、ある時は会合で資金を募(つの)り、そ
の生活していた。当然、今・現代の言い方では、定職を持
った人たちではない。
 職業欄には、「遊行」とは書けなかったから、事実上の
状態の「無職」に○を付けるのだろう。
 故郷の、イエスの幼少の頃を、イエスの生い立ちを知っ
ている人たちが、イエスに・・、
 「予言者とはうまい事をやっているな』と言ったが、
 当時、エルサレムにはこの予言者という職業の人たちは
多かった。公的な予言者も居たが、イエスは個人的な、私
的な予言者だった。
 故郷の人たちは、それを「うまいことをしている」と見
ていた。結構収入はあったのだろう、大勢の人もやってい
る様なので。
 また、イエスは、イエスを故郷の人たちから「ぺしゃん
こにされた」ということを吐露(とろ)している。
 神通力が、故郷では効かないとも、イエスは言っている。
 イエスは、何しろ決まった事を職業的にするのではなく、
父・ヨセフの職業・大工をイエスもしていたようだが、そ
のヨセフは、早くに亡くなった様なので、イエスは長男だ
から、また、兄弟姉妹も多いようだったから、イエスは、
父の変わりに「家計を支える」という大切な責任があった
が、その責任は「放棄した状態」となっている。
 予言者として、故郷の人が言う様に「うまく、飯が食え
る立場には居たこと』は、確かだ。
 しっかりしたイエスの収入が、確保されていたのだろう、
その様子が、故郷の人たちが、うらやましがる『言葉ひと
つでも」分かる。
 弟子たちは、イエスを「ユダヤ教の聖職者の『ラビ』の
名で呼んでいる」ので、その遊行の職が根に付いている事
が分かる。遊行的に大工もやり、エルサレムでは、ラビ風
な予言者として収入を得て、金を得ていたと考えられる。
 イエスは、たびたび、エルサレムと故郷・ガリラヤを往
き来している。
 イエスを偶像的にし、想像し、美化して、キリスト教が
忌み嫌らう様な偶像化をしてはいけない。偶像を作っては
いけない。偶像崇拝宗教になってはいけない。それこそ、
他ではなく、キリスト教は自らの真実を見よ。
 また、イエスは、街中では、商売柄、顔見知りも多かっ
たのか、その顔の広さから、ときどき、会堂での人を集め
るイベントも開けたと考えられる。
 そこでは、今現代でも医学的に、診療的に、効果がある
と認められている手を触れるだけで直すという行為をして
いた。
 この現象は、イエスだから出来たという現象ではなく、
 誰にでも起きるものと、現代でも、医学的に証明されて
いる。何ら奇蹟的な現象ではない。キリスト教は奇蹟・奇
跡と言うが・・。
 イエスも霞み(かすみ)を食べて生きていた訳ではない、
 金銭を必要とする生活をしていた訳なので、今で言う治
療費と言う金銭は徴収(ちょうしゅう)していたと考えら
れる。これも、故郷の人たちが「うまいことをしているな」
と羨(うらや)ましがっていた。
 イエスは、宗教家としての托鉢(たくはつ)行為は、し
ていないので、その面から宗教家に属するジャンルの人で
はない。その様な・・人、
 「予言者」兼「心理療法をする人」兼「遊行者」。
.
 (参考)栴檀は双葉より芳し:白檀(びゃくだん)は発芽
   のころから香気を放つ。大成する人は幼少のときか
   らすぐれているというたとえ。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

3 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-06-24 00:15:48
> チャーチル・英国の元首相の息子が、イエスの弟子たち
の事を教えられた時、「この豚野郎」と怒ったというが、
 イエスが刑場の露と消える直前、イエス捕縛(ほばく)
の人たちが迫(せま)っているという大切な重大な時、
 この時は最低だった・・、
 イエスが祈っているという時に、この様な時に、眠って
いたというイエスの馬鹿弟子たち。
 大らかさもあったのかもしれないが、その馬鹿な程度は、
この様な時になんだと・・二の句が継げない気持ちだ。

確かに。
しかし、その弟子たちを核として教会は生まれた。
これが事実。

そして、その教会の中に、バッハもいるし、ミケランジェロもいるし、パスカルもいれば、リンカーンもいる。ヘンデルも記し、ブルックナーもいる。レンブラントもいれば、シュヴァイツァーもいる。ニュートンもいるし、メシアンもいる。ペルトもいるし、グヴァイドゥーリナもいるというわけだ。

そして、聖書は今もなお世界のベストセラー。

聖書を読んで、信じて、離婚から救われた人もいる。自殺を思いとどまった人もいるし、

聖書を読んで信じてキリスト教徒になって、幸せ担った人の数は数え切れない。

事実は消せない。誰にも否定できない。
返信する
Unknown (valentina)
2014-06-27 02:39:19
Hello! I know about it, but it mistakes of leaders of christianity of those times, IT WAS PERSONES, but in Bible apostles when they was been in Holy Spirit, said - "God is love". GOD IS NOT A RELIGION. It's a real relationships with God (how we can see it in first part of Bible), and I survived it truly and by ALL my heart. Jesus come to Earth, because His father wanted to save people. His own nation didn't adopt Jesus. Now door of salvation will be closen soon, because people are resisting to God... and now God became to save Israel, because in past He made a covenant with Abraham, His friend in past time.
God CAN TO SPEAK, and He can to prove its existence to you. If you want to know truth, God can to do it for you. Because He love you very much, and I experienced His love 3 times!
God bless you and He is waiting for you now.
返信する
真善美の探究 (阿頼耶)
2014-09-30 21:16:38
〔真理と自然観〕

《真理》

結論から言って、真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時、何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか、と。すると友人は、何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし、単純にからっぽという意味でもない。私という意識、世界という感覚そのものの原因のことである。この時、我々は『空・から』という言葉によって、人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化から、その裏側に真の形があることを理解した。そして、我々はこの世界の何処にも居ず、この世界・感覚・魂の納められた躰すなわちこの裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は、何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路、それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは、或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構、手段によって、再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり、意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは、表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され、記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し、再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも、因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し、意識を介さず機構に直接作用する物が存在する場合もある。


《生命観》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と、具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は、過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち、これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり、この志向が再具現の機構としての肉体に作用して変化を生じる。この為廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは、躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され、この志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなく、その志向により然としてある意識と肉体を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己、志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。
だから自我は客体認識の反射作用としてある。
これは逆ではない。

しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。
すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと
なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。

これは神と人に共通する倒錯でもある。
それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。
だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。
いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。
あれは空, それは山, これは自分。

しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。
山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。
自分というものはない。
自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。
それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。

そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。
鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。
なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。
言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。

だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。
そんなものはどこにも存在していない。
神, 霊, 悪魔, 人。
そのような名称に対応する実在はない。

それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。
私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。

これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。

だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」


神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空と質(不可分の質、側面・性質)、然の性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し、その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり、自己の発展と自分の理解。


善は社会性である。直生命(個別性)、対生命(人間性)、従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立、対には干渉のし難さから来る閉塞、従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し、尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく、状況によっては退き適した人間に任せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活き活きとした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め、これを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。認識に囚われ自分の願望を諦めることなく、認識と相互して願望を成し遂げようとする生命の在り方。
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