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(増補版)609E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年9月)

2018-08-31 04:46:00 | 日記
題:(増補版)609E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年8月、従軍看護婦の派遣。
  日本では、すでに、1877年の西南戦争の時、日本赤十
 字社の前身である博愛社が、看護人(男性)を熊本や長崎
 に送っているが・・
  日清戦争が起きると、日本赤十字社は、自社で養成し
 た看護婦を臨戦地の宇品、広島へ派遣した。
  戦争に女性も参加するということで世人の注目を引い
 た。
  因みに、日露戦争の時の活動領域は、朝鮮や満州にま
 で広がり、死亡者も出た。
  そして、日清戦争時には108名、日露戦争時4417名、
 第二次世界大戦時3万1450名の日赤看護婦が戦地に赴い
 て傷病兵の看護にあたった。
  1979年から日赤従軍看護婦に、また、1981年から旧陸
 海軍看護婦に、慰労金が給付されることになった。
.
1894年8月、陸軍省の依頼によって、神奈川・程ヶ谷(現:
 保土ヶ谷)直通線(神奈川から分岐し程ヶ谷に連接)を起工
 した。
  1894年12月下旬に竣工した・・延長3.5km。
  1896年度に、陸軍省から譲り受け、1898年度から一般
 運輸として営業した。
.
1894年8月、筑豊興業鉄道が、筑豊鉄道と改称された。
  筑豊で産出される石炭の輸送を目的に、1891年に、筑
 豊興業鉄道として設立された。
  1888年7月30日、筑豊興業鉄道に対し鉄道線路測量仮免
   状下付
   (穂波郡飯塚村~遠賀郡若松港間、鞍手郡直方町~
    田川郡赤池村間)
  1889年7月12日、鉄道布設免許状下付
   (遠賀郡若松港~鞍手郡直方町~穂波郡飯塚町、直
    方町~神田村間)
  1889年8月21日、鉄道線路測量仮免状下付
   (田川郡神田村~添田村間)
  1890年11月19日、鉄道布設免許状下付
   (田川郡神田村から同郡伊田村)
  1891年8月30日、若松から直方間開業
.
1894年9月1日、第4回臨時衆議院議員選挙が行なわれた。
  投票率:84.84% (前回比-3.92%)
  党派別獲得議席
  自由党:107
  硬六派:立憲改進党:49
      立憲革新党:39
      国民協会:32
      帝国財政革新会:5
      中国進歩党:4
  無所属:64
.
1894年9月1日、大本営が、第1軍を編成した。
  司令官:山県有朋大将
  参謀長:小川又次少将
  砲兵部長:黒田久孝少将
  工兵部長:矢吹秀一工兵大佐
  監督部長:吉沢直行一等監督
  軍医部長:石阪惟寛軍医総監
  参謀副長:田村怡与造歩兵少佐
  参謀:福島安正歩兵中佐、上原勇作工兵少佐、青木宣
     純砲兵大尉、蠣崎富三郎歩兵大尉、立花小一郎
     歩兵大尉
  高級副官:渡辺章歩兵少佐
  明治維新後は、各藩の軍隊ではなく、国家の軍隊に再
 編された。
  1873年から徴兵制が施行され、士族の軍隊ではなく近
 代的な国民の軍隊に切り替わった。
  西南戦争もこの徴兵軍で戦って勝利を収めた。
  日清戦争開戦時、徴兵制度が始まって20年が経過して
 いた。
  武器の整備や兵の訓練、将校や下士官の養成などにつ
 いても、それなりの経験を積んで来ていた。
  この1年半前の1893年4月9日、川上次長は、東京を発
 って、朝鮮~天津・北京地区~上海・長江流域地区を回
 り、1894年7月7日に帰京し、地形視察と中国軍事状況を
 偵察していた。
  この旅行で、川上は、中国の「畏るるに足らざること
 を確信」としている。
  また、ドイツへの留学など、日本は自らを磨いて来て
 いた。
.
1894年9月8日、大本営が宮中を出て広島へ「大纛(たいと
 う)進展」することになる。
  大纛:1、軍中で用いる大きな旗。また、天子の乗り
      物の左に立てる旗。
     2、天皇陛下のいる陣営。大本営。
  日清戦争の最高統帥機関である大本営が、広島県広島
 市の広島城(現中区基町)内に設置された。
  広島城の大本営が、第5師団司令部へ進出。
  大本営は、1893年5月19日、勅令第52号戦時大本営条例
 によって法制化され、制度となった。
  日清戦争において初めて設置された。
  この時、大本営は、1894年6月5日、東京の参謀本部内
 に設置されたが・・、
  1894同年8月1日、皇居内に移っていた。
.
1894年9月12日、御木本幸吉が、半円真珠養殖法の特許を申
 請した。
  御木本幸吉は、1893年、5個の半円真珠養殖に成功して
 いる。
.
1894年9月15日、広島に移された大本営に、明治天皇陛下が
 入られた。
  ・大本営を広島に移さる(氷川清話)
  ・天皇行幸(氷川清話)
  1894年9月15日、明治天皇陛下が、呉行幸のため広島の
 宇品港へ御出発された。
  「広島御発輦呉港幸行之図」小国政・画がある。
  (参考)御発輦:ごはつれん、天皇陛下の御車が出発
     すること。
.
1894年9月15日、平壌の戦い
  日本軍が、平壌総攻撃をし、清国の拠点である平壌が
 陥落した。
  日清戦争における最初の本格的な陸戦。
  混成第9旅団長の大島義昌少将は、朝鮮到着直後から、
 清国の大軍が平壌に集中しているとの情報を受けていた。
  騎兵斥候を平壌に出し、駐留させていた。
  7月下旬になって、清国軍は、義州を経由し、平壌に迫
 って来た。
  斥候隊は、中和さらに黄州に退く。
  1894年8月10日、黄州から中和に偵察に出た時、強力な
 敵と遭遇し、指揮官の町口中尉、竹内少尉などの幹部が
 戦死する。
  第9旅団は、成歓の戦いでの清国軍の敗兵が春川周辺に
 いるとつかむ。
  日本からの第5師団残部が元山と釜山に上陸、そして、
 ソウルに向かう。
  このため、その警戒を兼ね、朔寧方面に朔寧分遣支隊
 を派遣する。
  大本営は、清軍を朝鮮半島外に撤退させる目的で、8月
 14日、第3師団の派遣を決定。
  さらに、9月1日、両師団で第1軍を編成し、陸軍大将・
 山縣有朋が軍司令官に任命された。
  第5師団長・野津道貫は、すでに8月19日、ソウルに到
 着していた。
  韓廷首班の大院君は、清国兵が次々と南下の報を聞く
 と動揺した。
  第5師団長・野津は、情勢判断の結果、朝鮮政府を動揺
 させないため、早期の平壌攻略が必要と判断する。
  そして、第5師団の北進を開始する。
  また、混成第9旅団にも、義州街道の前進を命じた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アイヌの方々を応援する者たちが、「アイヌの人たちは
   日本の先住民だ」と、力で政府に認めさせたが、「上記に
   記載した日本に渡来した「日本人の先住民」は、アイヌで
   はない。
    そして・・中国は、「超インフレ操作」をする・・
    そして・・為替操作もする・・
.
紀元前1000年~紀元300年、日本人を作った人々
  日本人:農耕民:約3000年前~1700年前
  朝鮮半島を通じて稲作を主とする渡来民が流入した。
  そして、水田稲作が導入された。
  この集団は、主に、北九州、畿内、関東を結ぶ日本の
 中心軸に広がり、その他の場所では比較的影響がを及ぼ
 さなかった。
  特に、北海道や南西諸島、東北への影響は引き続きほ
 とんどなかった。
  アイヌの方々を応援する者たちが、「アイヌの人たち
 は日本の先住民だ」と、力で政府に認めさせたが、「上
 記に記載した日本に渡来した「日本人の先住民」は、ア
 イヌではない。
.
300年、日本人を作った人々
  日本人:約1700年前~現在
  政治の中心が畿内に移って、朝鮮半島に加え、現在の
 上海周辺からも若干の渡来民が流入するようになった。
  古墳時代に入ると、東北地方に居住していた第一段階
 (旧石器・縄文人)の子孫の大半が、北海道へ移り・・、
  替わって、第二段階(漁労民もしくは園耕民)の子孫
 を中心とする人々が住み着いた。
  南西諸島では、グスク時代に南九州から第二段階の子
 孫を中心する集団が移住・混血した。
  江戸時代には、第三段階の集団との混血も進んだ。
  北海道では、古墳時代から平安時代にかけてオホーツ
 ク文化人と縄文人の子孫との交流があり・・、
  江戸時代以降は、本土日本人との混血も進んだ。
  アイヌの方々を応援する者たちが、「アイヌの人たち
 は日本の先住民だ」と、力で政府に認めさせたが、「上
 記に記載した様に、アイヌの人々は「日本人の先住民」
 ではない・・
  数次にわたる日本人の先住民の渡来の中から交雑して
 アイヌの人々となった・・熊襲(くまそ)もそれ、津軽人
 もそれ、琉球人もそれ、本州人もそれ、会津人もそれ・・
 などなど・・
  この様な歴史的真実、科学的真実の中で、アイヌの人々
 だけを特別扱いにすることは間違っている・・
  白老町で100億円の税金を使ってアイヌ記念館を造るこ
 とを中止せよ!
.
1866年11月12日、孫文が生まれた(~1925年3月12日)
  初代中華民国臨時大総統、中国国民党総理・・
  中国では、1935年から1948年まで発行されていた法幣
 (不換紙幣)で肖像に採用されていた。
  現在は、100新台湾ドル紙幣に描かれている。
  中国国民党では、現在も、孫文は「党総理」であると
 党則第15章で定めている。
  1895年、日清戦争の終結後に、広州での武装蜂起(広州
   蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。
  1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭
   山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京で
   の活動費と生活費の援助を受けた。
    また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートル
   の屋敷は犬養毅が斡旋した。
  1899年、義和団の乱が発生し、翌年・1900年、孫文は
   恵州で、再度、挙兵するが失敗に終わった。
  1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大
   月薫と駆け落ちに近い形で結婚した。
    また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴
   させていた。
    長い間、満州民族・清国の植民地にされていた漢
   民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」
   と言ってきた。
  1911年12月25日、この年、辛亥革命が起き、この日に
   孫文が、アメリカから上海に帰着すると、革命派は
   そろって孫文の帰着を熱狂した。
  1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南
   京に成立した。
  1913年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまった。
  1915年、袁世凱は共和制を廃止し、帝政を復活させ、
   自らが中華帝国大皇帝に即位する。
    直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。
  1917年、孫文は、広州で広東軍政府を樹立する・・
     しかし、その後、広州を追われる・・日本へ再
    び亡命した・・この頃、宋美齢と結婚(日本人の
    梅屋庄吉が資金面で援助していた)
  1923年1月26日、孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨ
   ッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」
   が上海で発表された。
    中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約
   し、ソ連との連帯を鮮明にした。
    この宣言は、ソ連コミンテルンと中国・国民党の
   連携の宣言であった。
  1923年2月21日、孫文は、広東で大元帥に就任(第三次
   広東政府)した。
  1924年11月28日、孫文が、日本の神戸で「大アジア主
   義」の講演を行う。
  日本の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相は、
 「孫文の言う事が、コロコロ変わるから相手にはできな
 い」と言明している。
  この頃から、中国は、ソ連の強力な支援を受けている。
  孫文は、隙あらばどの国からも支援を引き出そうとし
 た。
  そして、中国は、引き続きソ連から支援を受けた。
  ソ連コミンテルンから国民党も軍事援助を受けた。
  これが、蒋介石の国民党の主要な財源となった。
  ソ連コミンテルンは、大量の共産スパイを国民党の中
 へ送り込んだ。
  ガチガチに中国・国民党とソ連コミンテルンの関係は
 一体となって行った。
  国民党が、台湾へ逃れた後も、この関係は続いた。
  ソ連は、対日工作も、盛んに色々行なっており、工作
 員も潜り込ませていた。
  その様な工作員の報告の中に、「東京の軍学校の教員
 を一人リクルートした」との報告もある。
  これは、「軍の内部に、共産主義シンパをつくり出す
 工作に成功した」という意味。
  GRUの対日諜報史にも、「GRUの工作員を神戸か
 ら忍び込ませた」の記述がある。
  (参考)GRU:ロシア連邦軍における情報機関の「
     ロシア連邦軍参謀本部情報総局」のこと。
      参謀本部の一部署であるが、参謀系統を通し
     た情報の収集のほか、スパイ活動、SIGINT、
     偵察衛星や特殊部隊スペツナズの運用も管轄し
     ており、ソ連KGB(現在のSVRなど)と並
     ぶ強力な情報機関。
      第二次世界大戦中のスパイ、リヒャルト・ゾ
     ルゲはGRUの管理下にあった。
  (参考)SIGINT:通信、電磁波、信号等の、主
     として傍受を利用した諜報活動のこと。
  (参考)特殊部隊スペツナズ:ソ連軍、現ロシア連邦
     軍参謀本部情報総局(ГРУ、GRU)に所属
     する特殊部隊。
      戦時の敵後方での偵察、破壊工作や要人の暗
     殺を任務としているが、平時にも私服で破壊対
     象の偵察活動(スパイ活動)を展開している。
.
1894年11月21日、旅順要塞の陥落
  旅順口の戦い(りょじゅんこう、日清戦争)
  中国・清国の遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸
 の威海衛(いかいえい)とならんで清国・北洋海軍(李
 鴻章が率いる)の基地となっていた。
  日本をさんざん威圧し、脅(おど)して来た巨艦を持
 つ清国・北洋艦隊の基地だった。
  また、中国・清国の海上輸送の要(かなめ)の地だっ
 た。
  この為、日本はこの重要拠点の地を攻めた。
  この旅順の攻略にあたったのが、大山巌(おおやまい
 わお、西郷隆盛のいとこ)が率いる第二軍だった。
  1894年11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、
 秋山好古(あきやまよしふる)少佐の騎兵第一大隊が清
 軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強
 いられた。
  しかし、3日後の1894年11月21日の攻撃では、旅順の大
 部分を占拠し、旅順要塞は陥落した。
  日本は、明治維新から富国強兵で国力の強化に努めて
 来たが、欧米諸国は、まだまだ、日本がアジア第一の強
 国・清国にこの様な目ざましい戦いをするとは思っても
 いなかった。
  どの国も日本が敗北するだろうと見ていた。
  欧米列強諸国は、清国の最強の「東洋のジブラルタル」
 といわれた旅順を見事な迅速さで攻略した日本に目を見
 張った。
  特に、攻略戦の迅速さは見事だった。
  第二軍には、教科書にもよく出る著名人が参加してい
 た・・軍医として派遣された森鴎外(作家)、記者とし
 て国木田独歩(作家)、西洋画家の浅井忠など・・、
  日本の勝因は、動員・兵站・指揮のシステムなどが近
 代軍として清軍に対して優れていて・・
  近代化された日本軍は、基本的に、終始、優勢に戦局
 を進めた・・そして、遼東半島を制覇した。
  この戦いを振り返ると・・、
  1894年10月24日、大山巌大将が率いる第二軍が金州に
   上陸。
  1894年11月6日、金州城を制覇。
  1894年11月21日、日本軍1万5千は、清国軍1万3千に対
   して攻勢をかけた。
    清国軍の士気は極めて低い状況・・堅固な旅順要
   塞が僅か1日で陥落する。
    日本側損害:戦死40名、戦傷241名、行方不明7名、
    清国損害:戦死4500名、捕虜600名・・で敗退・・
    旅順の攻略戦は、大変な困難を極めるだろうとい
   う欧米諸国の予想を裏切る迅速さだった。
    また、日本は、非常に厳しい軍律でこの戦いに臨
   んだ・・
    大山巌は、「我軍は仁義を以て動き、文明に由(
   よ)って戦ふものなり」という訓令を発している。
  この戦いの後、いつもの様に中国の清国軍は卑劣な行
 動をとった・・中国はいつもこの卑劣な行為をする・・
  軍服を脱いで中国市民の中に隠れた・・
  これでは一般の中国市民に災禍が及んでしまう。
  この隠れた卑劣な中国兵の掃討を日本軍は行った。
  そして、南京事件と同じ様な嘘宣伝を始める・・
  中国に居る日本軍が行なっていない行為を、「した」
 とプロパガンダ(嘘宣伝)を始めた・・
  日本軍が一般市民を虐殺したという嘘を言いふらした・・
  この結論を先に言うと・・世界各国は、『これは中国
 のデッチアゲの嘘発言』と了解し、解った。
  日本軍は、市街の掃討をするときには・・、
  市民の中から日本軍を狙う清国兵、「市民の中に隠れ
 た清国兵」「軍服を脱ぎ捨てた中国兵」を掃討する時に
 は・・、
  例えば、日本の第二軍司令部は・・各人・各家の安全
 を保証する措置を講じ、安心するようにと言った・・
  紙あるいは布に、「此者殺すべからず、何々隊」とか、
 「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文を中国
 の人たちに渡した。
  そして、人々に、民衆に、落ち着きを取り戻せるよう
 に配慮した。
  ほとんどの中国兵はすでに逃げていた・・
  1894年11月26日早朝に、九連城に入ると、すでに清国
 軍は逃げて、居ない状態となっていた・・無血入城とな
 った。
  嘘をでっち上げて日本を貶(おとし)める中国は・・、
  旅順陥落後の民間人や、戦闘を放棄した者の死傷者数
 について「18000名」と言っている(この後、2万名弱と
 言う)
  戦争は、巻き添えになる一般市民の方々も居るものだ
 が・・
  市街戦が行われば・・その様な方々の数について、外
 国などの報道機関は以下の数を公表している・・
  『タイムズ』(1894.11.28):200名
  『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20):2000名
  フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年):
 1500名
  日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍
 司令官への報告:1600名
  しかし、中国と裏でつながっているのか? 1894年12
 月12日になって・・『ニューヨーク・ワールド』の新聞
 (クリールマン記者の記事)は、旅順虐殺の捏造(ねつ
 ぞう)記事を、センセーショナルな書き方で報じた。
  初めは、きょとんとしていた他の新聞各社だったが、
 その後、各社はこれに追随した。
  この頃の新聞各社は、「販売部数を拡大しよう」とセ
 ンセーショナル記事を書いて競い合う状況にあった。
  その嘘つきの口火をきった『タイムズ』の報道に対し
 て、正直な『セントラル・ニュース』は、12月29日付け
 の新聞で、『正当な戦闘以外での殺傷はなかった』と報
 道した。
  また、ゲルヴィルによる証言:旅順陥落を目撃したニ
 ューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲル
 ヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマ
 ンの報道するような虐殺は発生していないと証言した。
  また、さらに、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 で「虐殺は捏造されたものであった」と論じた。
  そして、また、ダネタン報告:ベルギー公使のアルベ
 ール・ダネタンの本国への報告調査では・・、
  事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多
 分(たぶん、量や程度が過大なこと)に誇張されたもの」
 と報告した。
  また、フランス武官ラブリ子爵は、「殺された者は軍
 服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されて
 いないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難
 しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」
 と述べた。
  日本政府は、世界へ説明書を書いてきっちり反駁した。
  伊藤博文は、政府として正式な説明をした・・
  議会は、以下の通りと決定した。
  1.清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡。
  2.旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を
   脱いだ兵士であった。
  3.住民は交戦前に逃亡していた。
  4.逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令され
   ていた。
  5.日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、
   それを見知った者が激高した。
  6.日本側は軍紀を守っていた。
  7.クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容
   に驚いている。
  8.旅順が陥落した際、捕らえた清兵の捕虜355名は丁重
   に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられるこ
   とになっている。
  この伊藤らが作成した説明書は、第七項を省いたもの
 が12月17日と、12月18日の両日に、アメリカの各新聞に
 掲載された。
  また、陸奥が、直接、アメリカの新聞社に説明すると
 いうやり方が、アメリカ側から好感された。
  そして、欧米諸国で、「虐殺は無い」として認められ
 た。
  欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」
 を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨー
 クワールド紙が・・
  ライバル紙と競い合って・・、
  イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を
 行っていたことが常識であり、定説となっている。
  ニューヨークワールド紙は、ニューヨーク・ジャーナ
 ル(ニューヨーク・モーニング・ジャーナル)紙との扇
 情主義報道で競争し・・、
  この他、世界でも、病的な好奇心だけを沸かす扇情的
 な記事で競い合っていた。
  虐殺は無いの証言も多く・・クリールマンの報道を耳
 にしたベルギー公使が現地にいたフランスの武官に尋ね
 たところ、「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいた」と否定した。
  ベルギー公使のその後の「虐殺」の否定で、日本への
 誹謗に反論していることから、扇動報道だったと結論付
 けられた。
  中国は、南京事件もそうだが、よく嘘をつく国・・
  この様な事をして『相手を惑わせる者が、能力のある
 者」と評価される中国の状況で、また、判断基準で・・、
  中国社会では、この様な事が「日常茶飯」として、歴
 史上で行われて来た。
  今・現代も、中国は世界中で、「多くの工作員」と「
 多額な資金」を使って盛んにこの類の工作を行っている。
  扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)の災禍を受
 けた日本だった。
  この火付け役のクールマンは、この時だけでなく、1888
 年の米西戦争の時も、この様な報道をして、世界を惑わ
 せ、世論を誘導している。
  この時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」と疑義が
 出されている・・美味しい書き方は止められないという
 ところ・・
  それにしても、中国は、韓国と一緒になって、「南京
 事件だ」「慰安婦問題だ」と、今だに世界を惑わせ、ま
 た、自国民を惑わせている。
.
1898年、日英同盟へつながる具申
  駐英公使の加藤高明は、イギリス国内に「東洋におけ
 る英国勢力の消長(しょうちょう、物事が衰えて消える
 か伸びて盛んになるか、というなりゆき)は、日本の向
 背(こうはい、従うこととそむくこと)によりて決する」
 といった議論があると報告した。
  また、「日英両国の共同利益を保護する為め和協(わ
 きょう、一同が仲良くまたは相談して、力を合わせるこ
 と)を遂ぐ(とぐ、とげる、目的を達する)べしとは殆
 ど当国一般の希望」である」と報告した 。
  2ヶ月後、また、加藤は、「英露両国とも、日本との提
 携を希望しているが、ロシアの目的は日本の利益と反す
 る・・が・・
  イギリスの政策は、日本の目的と合致しており・・
  また、今、イギリス人は、東洋でのロシアの「跋扈(
 ばっこ、思うままにのさばること)に対して激昂(げっ
 こう、激しく怒って興奮すること)しているので・・
  仮に、日本が、ロシアの南下を同国の利益を害すると
 考えるのであれば、イギリスと進んで提携すべきである
 との意見書を外相の西徳二郎に送った 。
.
1900年6月、欧州の列強諸国が盛んに中国の清国を食い物に
 していた。
  さすがに、清国もそれに対して反発した。
  この年、中国山東省で起きた排外運動「義和団の乱」
 が勃発した。
  欧州列強が、中国の利権を奪う行為に中国全土がうん
 ざりしていたので、この義和団の乱の排外運動は、また
 たく間に北京へと拡大して行った。
  このため、日本へも要請され、日本も参加して、8ヶ国
 の軍が編成され、その対処に当った。
  自国民の保護という名目を掲げていた。
  実際、自国民の保護の必要もあったが、欧州列強諸国
 の利権の保護に日本が利用されたという所であった。
  日本はめざましい働きをして、欧州列強諸国から感謝
 をされるぐらいだった。
  また、日本の規律正しい行動に感激したイギリス高官
 が、そのことを本国に伝え、後の日英同盟の切っ掛けと
 なったくらいだった。
  乱を鎮め、各国は兵を引き上げさせた・・
  しかし、ロシアは、これとは逆に、兵を満州に送り込
 んで来た・・領土欲と利権あさりのロシアだった・・
  この様なロシアに強い危機感を持ったのが日本とアメ
 リカだった。
  アメリカは、欧州列強諸国のやることと同じことをし
 て、ハワイなどの太平洋諸島、フィリピンと奪っていた、
  そして、そのフィリピンを拠点として中国を狙った・・
 満州の利権も欲しかった。
  何といっても北にあるロシアには、「南下政策」が付
 き物だった。
  ロシアは、アジアだけでなく、オスマン帝国の興亡と
 「ロシアの南下政策」は一対の行動として中近東でも火
 を噴いていた。
  極東の南下政策もロシアの狙い目で、近隣諸国を仕切
 りに脅(おびや)かした。
  ことが起こる出発点には、いつも、この南下するロシ
 アのエネルギーがあった・・その行動があった。
  そして、その様なロシアに、中国は敗けて、満州の租
 借権を与えてしまった。
  満州での鉄道を含む各種の権益も、ロシアは、中国か
 ら与えられた。
  1904年に起きた日露戦争・・アメリカは、日本に資金
 援助をした。
  また、終結の講和締結にもアメリカは仲介し、介入し
 た・・アメリカは中国の利権が欲しかった。
  日露戦争で負けたロシアは、賠償金を払いたくなかっ
 た。
  その代わりとして、中国から与えられた満州の権益を
 日本へ手渡した。
  日本は、満州を得たいという訳ではなかった。
  この様な経緯(いきさつ)から日本は、満州と関わり
 始めた。
  勿論、国際法上、日本に十分な正当性はあった。
  日本の気がかり事項は、朝鮮が、ロシアの勢力下に入
 ると、日本の脅威が増すため(ロシア勢力下の朝鮮と接
 するというリスク)ので、この状態になることは避けた
 いとしていた。
  また、日本・ロシア・清国で条約も交(か)わし、こ
 の状態での承認は国際社会も認めていた。
  日露の講和の締結後、アメリカは、この日本がロシア
 から得た満州の権益を欲しがった。
  このアメリカの日本へのアプローチを「日本は断った」
  このことから・・日本とアメリカは背中を向け合う関
 係となった・・そして、日米戦争へとつながる一つの要
 因となった。
.
1900年8月、義和団事件が鎮圧された。
  ロシアは、北清事変(義和団事件のこと)に乗じて満
 州の牛荘(にゅーちゃん、遼寧省の重要な開港)を占領
 した・・そして、最終的に約20万の兵力を侵入させ、侵
 略行為を行なった。
  清国の暴動は、1900年8月、国際的な話し合いの下に結
 成された8ヶ国の連合軍によって鎮圧された・・日本は、
 各国に請われて参加し、中心的に活躍した。
  ロシアは、暴動鎮圧後も占領を続けた。
  ロシアの脅威は、この様な状況だった。
  満州や朝鮮などのロシアの軍事占領という増大するロ
 シアの脅威への対応策として・・、
  「同じ様にロシアを脅威と感じているイギリスと同盟
 し、ロシアの強硬行為を止めさせる」か、
  「ロシアとの協定を求める」か・・との・・「日英同
 盟」と「日露協和(協商)」の2つの選択肢の検討がなさ
 れた。
  元老の伊藤博文と井上馨は、「日露協商に積極的でだ
 った」。
  駐露公使を務めた栗野慎一郎によると・・、
  伊藤は、ロシアは強国で、万一、戦いとなった場合、
 当時の日本の軍備では、到底、ロシアに勝つという勝算
 はない・・、
  ロシアの極東における利益や希望を、ある程度までや
 りたいようにやらせ、容認し、その代わり日本の朝鮮に
 おける行動を認めさせようと考えていた。
  伊藤は思った・・イギリスという国は、自分勝手な都
 合ばかりを行なっている国だと・・謀る(たばかる、計
 略を巡らして、だます)ようなことばかりをする国だと・・、
  その様なイギリスとの連合は「効果が薄弱である」と、
  イギリスは、ロシアやフランスから敵視されているし、
  満州地方を豊かな有望な農業や商工業の栄える地にし
 て行くにはロシアと協調する・・
  また、目前の問題を解決するためにも、日露協商を結
 ぶのが先務である・・と・・
  日英同盟では頼りない・・実現の可能性はない・・と
 考えていた。
  一方、井上は、1901年11月、日英同盟交渉の進捗を見
 ながら、ロシアに滞在する伊藤へ・・
  「英国は、慣習にあらざる攻守同盟を急速に断行せん
 とする、真意解きがたし、我を利用して英国の難を避け
 んとする策にあらざるや」、
  イギリスは、焦(あせ)っている様だった・・井上に
 は、日本が利用されるように見えた。
  さらには、「若し日英同盟成立せば、露独仏対清攻守
 同盟を決行する必然ならむ」との電報を送った。
  2人の元老は、イギリスに対する不信感が強かった。
  同盟の実現性とその効果に対する疑念も強かった。
  伊藤には、三国干渉当時のイギリスのやり方が強く印
 象付けられていて・・イギリスに対する失望感が深く記
 憶されていた。
.
1901年12月、日英同盟に決した元老会議
  日露協商派と日英同盟派の対立は、1901年12月の葉山
 での秘密の元老会議(桂首相、小村外相、山本海相も参
 加)で、「日英同盟の締結が参加者全員の賛成を得た」
 ことにより決着した。
  小村外相は、この会議で提示した「日英同盟に関する
 意見書」の中で、日露協約と日英同盟を対比して示し、
 説明した。
  小村外相は、日露協約は「ロシアの侵略主義」から長
 い和局の維持の保証とはならない・・と・・
  (第二次世界大戦でも中立条約を破って日本を侵略し、
 日本の領土を奪った国・・ロシアとはこの様な国)、
  一方、日英同盟は、ロシアの野心を制し、比較的長期
 間にわたって平和を維持できる・・と分析した。
  また、イギリスは、東洋での領土は(十分持っている
 ので・・管理を越えている状況)増えることを好まず、
 現状を維持しつつ、通商上の利益を図ることを求めてい
 ると・・分析した。
  ロシアの侵略性が、南下政策が、東アジアの最大の火
 種であると分析した。
  この様なロシアが、朝鮮まで駆逐し、日本と、直接、
 接する様な状況になることが、日本の安全保障上の最大
 の脅威と捉えていた・・そして・・
  1902年1月30日、日英同盟がロンドンで調印された。
.
1924年11月28日、孫文は、この年に、北京で発生した政変
 (馮玉祥・ふうぎょくしょうクーデター)に応じて、広
 東から北京に赴く途中で神戸に立ち寄り、「大アジア主
 義」演説を行った・・
  「日本人よ! 西洋覇道の鷹犬となるか、あるいは東
 洋王道の干城となるか」。
  (参考)鷹犬:たかいぬ、鷹狩りに用いる犬。
  (参考)干城:かんじょう、国を守る武士・軍人。
  孫文は、神戸で頭山満(とうやまみつる)と会談した
 翌日に行った講演。
  神戸商業会議所など5団体を対象として、現在兵庫県庁
 となっている場所にあった旧制神戸高等女学校講堂にお
 いて行われた。
  (参考)頭山満:玄洋社の代表の立場で、玄洋社は、
     自由民権運動の結社であった向陽社を改名して
     結成された。
      中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠
     縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流が
     あった。
      また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政
     界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)
     や篤志家としての側面も持つ。
      早い時期から日本の海外進出を訴え、同時に、
     朝鮮の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドの
     ラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボ
     イ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の
     民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行
     った。
.
1933年11月17日、アメリカ、ソ連を承認。
  アメリカが、この年、ソ連を承認した・・が・・この
 頃のソ連は、「革命と内乱と策謀を輸出する」と公言ま
 でするような国だった。
  そして、昔から今も、中国の『お家芸』は、「政治工
 作」と「宣伝工作」であるが・・共産国家の策謀は、い
 つの時代も行われている。
  そして、「ニューヨーク・タイムズ」というアメリカ
 の新聞も、嘘記事で世界を惑(まど)わせた。
  日本の朝日新聞も、嘘記事をよく書いているが・・、
  朝日新聞は、慰安婦問題をデッチ上げて、すっかり、
 日本は、その間違った記事の様な国と思われて、日本は
 すっかり貶(おとし)められているが・・、
  因みに、また、この様な嘘記事ばかりを書く朝日新聞
 が、中国の文化大革命時代にも、中国讃美の嘘記事を書
 いている。
  文化大革命で、1000万人以上もの中国の方々が殺され
 ているにもかかわらず・・朝日新聞は、中国の文化大革
 命を「バラ色に書き」・・成功していると嘘記事を書き
 続けた。
  標記のアメリカのニューヨーク・タイムズも、1920年
 代終わりから1930年代に、特に、嘘記事を書いてばかり
 いた。
  この頃のアメリカの政界も、共産圏の「政治工作」に
 翻弄(ほんろう)されていた。
  1933年に、アメリカ大統領となったフランクリン・ル
 ーズベルトの周りには、側近から官僚など、大量に工作
 員に溢(あふ)れていた。
  1933年には、アメリカは、ソ連を承認した。
  ソ連は、この頃、コミンテルンを擁し、世界中に「革
 命と内乱と策謀を輸出する」と公言までする様な国だっ
 た。
  アメリカや世界が、はまっていくその一つの要因が、
 前記したニューヨーク・タイムズで・・、
  特に、この新聞社の記者(ウォルター・デュランティ)
 が曲者(くせもの)だった。
  この記者は、ソ連へ、1920年代終わりから1930年代、
 特派員として派遣された。
  1932年に、ピューリッアー賞を受賞するが、この記者
 は「眉唾(まゆつば)記事」ばかり書いた。
  記者デュランティは、「ハニー・トラップ」に引っ掛
 かっていた。
  その為、デュランティは、まったく「ソ連の対外スポ
 ークスマン」のような記事を書いた。
  これに、世界が踊らされた。
  ウクライナの人々が、ソ連の仕組んだ行為で、何百万
 人もの餓死者を出ているというのに・・それをまったく
 報じず・・
  逆に、「ウクライナ農民は、豊かな穀物収穫を享受し
 ている」と報じた。
  そしてまた、デュランティは、「ウクライナを飢餓だ」
 と報道しているのは「デマ報道だ」と嘘を報じた。
.
1941年11月20日、この日から11月25日にかけて、日本とア
 メリカは、開戦になるかもしれないという切羽詰まった
 状況で、最後の交渉が重ねられた・・
  この様な時・・、
  交渉は、色々な案の中からB案で、両国の合意が成っ
 て、交渉がまとまりそうになった・・
  この時・・ここで、工作員が暗躍する・・
  アメリカ大統領であるルーズベルト政権の中枢には、
 コミンテルンのエージェントが要所要所に入り込み、「
 日米開戦をうながす謀略」を行なっていた。
  日米交渉がまとまろうとしていたが、この工作員によ
 ってぶち壊され、破たんさせられ、戦争に突入した。
  また、最後通牒となったハル・ノートが出され、日本
 は、戦争の道へ追い込まれて行ったが、ここにも、工作
 員の影が満ちていた。
  この様な工作員の裏世界で暗躍した一人が、中国のコ
 ミンテルン情報員の陳翰笙(ちんかんしょう)だった。
  陳は、回想録「四つの時代と私」で言っているが・・
  アメリカの共産党シンパ(共鳴者)や、アメリカ政権
 内部に潜(もぐ)り込んで工作し、また、ハル・ノート
 の裏で潜り込んだコミンテルン工作員たちを繰る要(か
 なめ)にいる中心人物だった。
  この中国の工作員の陳は、これ以外でも、色々な所で
 日本を貶(おとし)め、そして、策にはめていた。
  そしてまた、アメリカ東海岸で反日を煽(あお)る活
 動もし、日本を吊るし上げる集会を、数々、開いたりし
 た。
  アメリカ世論へ、大きな影響を与えた。
  中国は、今・現代も、多くの人間を使って、また、超
 多額の資金を使って、日本やアメリカや、世界のあちこ
 ちで工作活動を行なっている。
  因みに、陳は、1897年に生まれ、1928年にシカゴ大学
 を卒業し、1924年にベルリン大学で博士号を取り、26歳
 で北京大学の教授になった。
  この時、コミンテルンに入る。
  中国の別派に弾圧され、1928年にモスクワに逃げる。
  ここで、ゾルゲに会う。
  1929年、ゾルゲを助けて、一緒に上海に来る。
  さらに、陳は、東京でもコミンテルンのつながりを作
 り、また、中国共産党のコネクションも作る。
  そして、モスクワの指令を受け、アメリカへ行き、情
 報誌でのプロパガンダ活動をし、日本をはめて行く。
  功が奏し、アメリカ世論は繰られる。
  そして、クライマックスは、日本の努力によって日米
 交渉での「開戦に至らない道」が見えた時・・
  工作員からの情報を得て、その裏で、それをぶち壊す
 事に暗躍する。
  それは、1941年11月20日から11月25日にかけて、日本
 とアメリカの開戦になるかもしれないという切羽詰まっ
 た最後の交渉を重ねている時、色々な案の中でB案でま
 とまりそうになった。
  その時、ルーズベルトの一番の側近、工作員だったラ
 フリン・カリーは、ホワイトハウスから電報を打った。
  重慶で蒋介石の顧問をしていたラティモアへ電報を打
 った・・
  その内容は・・
  「もうB案で日米交渉はまとまってしまうかもしれな
 い」。
  「これを阻止するために、蒋介石から『日米妥協に断
 固反対する』という電報を打つべきだ」・・と指示した。
  そして、蒋介石は、アメリカを脅した。
  「日米が妥協すれば、もう米中関係はおしまいだ」。
  「中国国民は、アメリカから離れる」。
  「そうなれば、日本との戦いは総崩れになる」。
  「逆に、アメリカが、日本との戦争に踏み切れば、絶
 対、日本に勝てる」・・と・・
  蒋介石は、第二次世界大戦が開戦されると、「これで
 救われた」と漏らした。
  (蒋介石の日記「大事長編」に記されている)
  そして、最終的に、日米の合意をぶち壊したのは、「
 ハル・ノート」を起草したハリー・デクスター・ホワイ
 トだった。
  このホワイトも、カリーも、GRU(ロシア連邦軍参
 謀本部情報総局)のメンバーだった。
  (ソ連の情報関係文書にはっきり記されている)
  アメリカ内部のソ連の手先(コミンテルン工作員)に
 よって、「日米開戦が押し止め(おしとどめ)られ得た
 合意・・そして、解決」が、合意直前でぶち壊された。
  そして、ソ連は、日ソ中立条約を破棄し、第二次世界
 大戦が集結している後まで、日本の領土を奪った。
  日本領の南樺太、日本領の千島列島、日本領の北方四
 島を・・不法に奪った。
  今・現在も、ソ連は、「不法占拠を続けている」。
.
1950年代、マッカーシズム
  1950年代に、アメリカ合衆国で発生した反共産主義に
 基づく社会運動、政治的運動。
  アメリカ合衆国上院(共和党)議員のジョセフ・マッ
 カーシーによる告発をきっかけとして、「共産主義者で
 ある」との批判を受けたアメリカ合衆国連邦政府職員、
 マスメディアやアメリカ映画の関係者などが攻撃された。
  アメリカの第32代大統領のフランクリン・ルーズベル
 トの側近から官僚、そして、その他の広い範囲に共産圏
 の工作員がうようよといた・・工作員だらけだった。
  その為、日本との戦争にまで至ってしまった。
  その反動もあって、1950年代に、アメリカはマッカー
 シズムが起きた。
  今・現在の日本も、中国の工作員がうようよと居て、
 スパイ天国となっている。
  このアメリカのマッカーシー旋風は、アメリカの情報
 機関が、ソ連スパイ・工作員の暗号を解読していること
 を惑(まど)わし、隠すためにも行った。
  ソ連のスパイの情報をリークして議会で追及している
 という形にした。
  ホワイトや、カリーや、アルジャー・ヒスは、アメリ
 カでの最も高位についたソ連のスパイだった。
  これは、「ヴェノナ文書」にも記されている。
,
1970年代、社会党委員長を務めた勝間田清一は、KGB(
 ソ連の情報機関で秘密警察のソ連国家保安委員会)から
 金を貰っていた。
  この事をばらしたのが、イギリスで発行された「ミト
 ローヒン文書・第二部」だった・・この記事に書かれた。
  ミトローヒンは、KGBの元文書課長で、1980年代に
 膨大な秘密文書(トラック一台分の文書と言われるくら
 いの膨大な文書)を持ち出して、イギリスへ亡命した。
  これが、今、少しづつ公開されている。
  この勝間田が、衆議院副議長になり、また、勲一等旭
 日大綬章を貰っている。
  日本が、スパイ天国と言われる由縁(ゆえん)。
  勝間田のスパイ行動は、KGB工作員のレフチェンコ
 の証言とも一致する。
  今、「しめしめ、巧(うま)く行った」と思っている
 奴等も、これから機密文書が公開されて来るから、これ
 から将来、安穏としていられない・・確実に、人物評価
 は駄目になって行く。
  これから、あちこちの機密文書が公開されて来て、昭
 和史は、徐々に、大きく塗り替えられて行く。
.
1989年、オウム真理教が、東京都で宗教法人の認証を受け
 た。
  麻原彰晃 (本名・松本智津夫、1955年~2018年) が
 1984年に始めた宗教。
  坂本堤弁護士一家殺害事件 (1989年11月) 、松本サリ
 ン事件(1994年6月) 、目黒公証役場事務長拉致・殺害事
 件 (1995年2月) 、東京地下鉄サリン事件 (1995年3月)
 など、数々の凶悪事件を引起した。
  村山富市首相の時(在任期間:1972年12月11日~1980
 年5月19日、1983年12月19日~2000年6月2日)・・
  この村山首相は、破防法(破壊活動防止法、昭和27年
 法律240号)のオウム真理教への適用に反対した。
  その理由は、「嫌疑のある団体に強制捜査をすること」
 だった。
  その結果、甘い捜査となり、オウム真理教の犯罪を防
 げなかった。
  また、日弁連(日本弁護士連合会)は、強硬に、破防
 法適用に一番反対した。
.
1991年12月25日、ソ連崩壊
  この日のソ連大統領のゴルバチョフの辞任に伴って、
 ソ連は崩壊したが・・、
  このソ連崩壊後、クレムリン秘密文書公開により・・、
 「社会党がソ連から援助を得ていた」ことが明らかにさ
 れた。
  (当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定した)
  また、戦前から、ソ連コミンテルン工作員が、たくさ
 ん日本に潜り込んでいた。
  戦後も、共産主義国家から、この様な事がなされ、こ
 の様な工作員に協力する日本人が、ソ連のスパイとして
 暗躍した。
  今・現在、中国からの潜入が多い。
.
2018年、中国の「集団指導体制」なんて言ったって「言葉
 の遊び」。
  一握りの者たちが行なう制度となっている。
  集団という言葉を使う事が「おこがましい体制」・・
 「おかしな状態の体制」・・「擬似集団」の指導体制。
  「擬似集団指導体制国家」「見せかけ集団の指導体制
 国」「擬似集団・見せかけ集団の独裁指導体制」。
  民意を反映させる自由な選挙が無い。
  「見せかけ集団の独裁政権」が一般市民を牛耳る。
  あってはならない、今の中国の政治の姿。
  一般市民の声が政治には反映しない「遅れた政治体制
 の国=中国」。
  一握りの者たちが、一般市民を搾取する政治の国=中
 国」。
.
2018年、中国は、共産主義
  しかし、資本主義経済社会に入ってきた。
  共産主義は、ソ連の滅亡で、「共産主義の人類最大の
 実験は終わった」と言われた・・
  そして、自由主義経済・資本主義経済の勝利の様に言
 われたが・・?
  そして、それを勝利として喜んだが・・果たして、「
 そうなのか?」。
  共産主義の国が、すべて無くなった訳ではない。
  中国という極大な共産主義国家が存在し続けている。
  ソ連とともに、すべての共産主義国家が無くなった訳
 ではなかった。
  中国は思うだろう・・「自由主義経済社会こそ矛盾だ
 らけ」「その資本主義経済こそ破綻すべきだ」・・と・・
  今・現在、どこの自由主義経済、資本主義経済国家も、
 札を刷る輪転機を回して、「泡のような価値を作ってい
 る」。
  今・現在、その泡の価値が世界に充満している。
  どこの国も、こんなことを「知らんぷりしてやってい
 る」。
  中国も、こんな簡単な事ならと、自由主義経済・資本
 主義社会に入って来て、何処の国もやっているように、
 輪転機を回しに回している。
  今・現在、中国の借金は、「3800兆円」だという。
  「人民元を刷れば、それで済むから」「輪転機を回し
 に回している」。
  世界中に、人民元を吐き出し続けている。
  中国は、景気が悪くなると、泡の金をどんどん刷って、
 「マンションをどんどん作った」。
  今はゴーストタウンとなっている。
  経済成長は、その恩恵で「成長は続けた」が・・?
  簡単な行為の「金を刷って架空の経済を伸ばし」、武
 器もどんどん作った。
  軍拡は・・好きなだけ拡大した。
  中国の債務は・・「只今、3800兆円」。
  中国は・・出口は意識していない。
  これは、「リーマン・ショック」の無責任行為どころ
 ではない。
  桁(けた)違いもけた違い。
  日本でも、「大きい会社は、潰せない」と言われたが、
 借金の大き過ぎる会社は、逆に、潰せなくなるという経
 済社会なのだ。
  中国は、これを知っている。
  中国の最高級幹部は、中国政権がいつか潰れると、自
 分の自由になる金(超大金)を、アメリカやスイスに移
 している。
  中国の金が泡になっても、移した金はドルなどに代わ
 っているから泡にならない・・だから、その様にした。
  その時には、その国で生きようとしている。
  家族をアメリカに住まわせている中国の大幹部も居る。
  娘のアメリカ留学は、当たり前・・誰でもやっている。
  日本の「借金の出口」を言う前に・・中国のこの事を
 言うべきだ。
  中国がやることは、「超インフレ操作」。
  共産主義社会の中国は、何でもできる・・「中国を超
 インフレ」にして、過去の借金を「無価値の様にする」。
  過去の借金から逃れられる。
  中国は、いざとなったらこれをやる予定・・、
  為替も・・いじくりまわる・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)608E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月)

2018-08-20 04:48:51 | 日記
題:(増補版)608E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年8月26日、日朝盟約
  大日本大朝鮮兩國盟約(だいにほんだいちょうせんり
 ょうごくめいやく)
  日本政府と朝鮮政府が両国同盟(攻守同盟)に調印し
 た。
  内容:
  第1条:この盟約は清兵を朝鮮国より撤退させ、朝鮮
     国の独立自主を強固にして、日朝両国の利益を
     増進することを目的とする。
  第2条:日本国は清国に対し攻守の戦争を遂行する、
     朝鮮国は日本軍の進退及びその食糧準備に、出
     来得る限りの便宜を提供すること。
  第3条:この盟約は清国との平和条約が締結されるま
     で続くものとする。
  史料:
  大日本大朝鮮兩國政府ハ日本曆明治二十七年七月二十
 五日
  朝鮮曆開國五百三年六月二十三日ニ於テ朝鮮國政府ヨ
 リ清兵撤退一節ヲ以テ朝鮮國京城駐在日本特命全權公使
 ニ委託シテ代辦セシメタル以來兩國政府ハ清國ニ對シ既
 ニ攻守相助クルノ位置ニ立テリ就テハ其事實ヲ明著ニシ
 倂ニ兩國事ヲ共ニスルノ目的ヲ達センガ爲メ下ニ記名セ
 ル兩國大臣ハ各々全權委任ヲ奉シ訂約シタル條款左ニ開
 列ス
  第一條 此盟約ハ清兵ヲ朝鮮國ノ境外ニ撤退セシメ朝鮮
     國ノ獨立自主ヲ鞏固ニシ日朝兩國ノ利益ヲ增進
     スルヲ以テ目的トス
  第二條 日本國ハ清國ニ對シ攻守ノ戰爭ニ任シ朝鮮國ハ
     日兵ノ進退及ヒ其糧食準備ノ爲メ及ブ丈ケ便宜
     ヲ與フヘシ
  第三條 此盟約ハ清國ニ對シ平和條約ノ成ルヲ待テ廢罷
     ス可シ
  此レカ爲メ兩國全權大臣記名調印シ以テ憑信ヲ昭ニス
  大日本國明治二十七年八月二十六日
          特命全權公使 大鳥圭介(印)
  大朝鮮國開國五百三年七月二十六日
          外務大臣 金允植(印)
.
1894年8月29日、芳川顕正(よしかわあきまさ)が、文相
 を第2次伊藤内閣で兼任した。
  因みに、芳川顕正は、1893年に、第2次伊藤内閣で司法
 大臣に就任し、続く第2次松方内閣でも留任した。
  また、この間の1894年に、文部大臣を臨時兼任したの
 だった。
  そして、1896年には、内務大臣も兼任した。
  そして、芳川顕正は・・、
  1885年6月9日に、ハワイ王国:王冠勲章ナイトグラン
 ドオフィシルを授賞し・・また・・
  1885年9月29日に、デンマーク王国:ダコブログ勲章コ
 マンドール・プルミエールクラスを、すでに、受賞して
 いる。
  芳川顕正は・・1842年1月21日~1920年1月10日、80歳、
  明治・大正時代の官僚、政治家、伯爵、徳島生まれ。
  浅野玄碩より医学を学び、高橋文昨の養嗣子となる
  1862年(20歳)、長崎で医学修業の傍ら、何礼之、瓜
 生寅 に英学をまなび、伊藤博文と知り合う。
  1867年(25歳)、鹿児島に赴き、海軍所の賓客として
 航海、数学、兵学書の翻訳に当たる。
  1868年(26歳)、芳川と改姓。徳島の洋学教授となる。
  1870年(28歳)、伊藤の推薦で大蔵省にはいる。
  1871年(29歳)、伊藤博文と渡米し、貨幣・金融制度
 調査に従事。
  帰国後・・紙幣頭、工部大丞、工部大書記官、電信局
 長などを歴任した。
  1879年(37歳)から翌年にかけてイギリス出張で万国
 電信会議に出席。外務少輔、工部少輔を経て、
  1882年(40歳)から3年間、東京府知事を務め、地区改
 正や築港に尽力した。
  その後・・内務大輔、内務次官として山県有朋内務卿・
 内相を補佐。
  1890年(48歳)、第1次山県内閣の文部大臣となり、教
 育勅語の制定に関与した。
  以後・・司法、内務、逓信の各大臣を歴任した。
  この間、宮中顧問官兼内蔵頭、兼帝室会計審査局長、
 中央衛生会長などとなる。
  1900年(58歳)~1904年(62歳)、貴族院伯爵議員。
  1910年(68歳)以降、一時の中断を除いて枢密顧問官。
  1911年(69歳)、この年まで、国学院大学学長、皇典
 講究所総裁を務める。
  1912年(70歳)~1917年(75歳)、枢密院副議長。
 長崎時代、英国帰りで会話はできても読み書きが不自由
 な伊藤博文に英文法を教えたのが、官途(かんと、官吏
 になること)に就くきっかけとなった。
  著作:『越山遺稿』
.
1894年8月29日、文部省が、体育の奨励に関して訓令を発し
 た。
  「体育及び学校衛生に関する訓令」で、身体の発育期
 にある児童に活発な運動を推奨し、国民の健康な身体の
 育成を図った。
  小学校の運動会などが盛んになった。
.
1894年8月31日、川上音二郎一座が浅草座で「壮絶快絶日清
 戦争」の上演を開始した。
  戦争劇ブームが起きる。
  1894年8月初め、30歳であった川上音二郎は、芝居の脚
 本を書き、認可を警視庁に申請した。
  この申請の認可は、1894年08月21日に下りた。
  戦争の実態を見ていない音二郎、実際の戦況とはかけ
 はなれた内容であったが、若い演者たちが体当たりで演
 じる活劇は評判となった。
  1894年10月7日まで芝居を打った音二郎は、1894年10月
 22日から戦地視察に出発した。
  朝鮮の仁川や平壤、そして、鴨緑川を渡って清国の九
 連城まで訪れた。
  そして、約一ヵ月後に帰国した。
  音二郎は、この時の見聞をとり込んで仕上げたのが「
 川上音二郎戦地見聞日記(川上音二郎従軍日記)」で・・、
  1894年12月3日~12月23日まで、市村座で上演された。
  また、翌年・1895年1月、横浜の港座でも公演した。
  描いた場面は、戦地視察をした俳優の本人が演じると
 いう事で、観客に、そのリアルさを予感させた。、
  九連城で、直接、傷を負った小島中尉から聞き、また、
 託された手紙を内地の家族に届ける場面(五幕目)であっ
 た。
  そして、実際は、この小島中尉は、手紙を音二郎に渡
 した数時間後に亡くなっている。
  音二郎は、小島中尉夫人に戦死をも告げなくてはなら
 なかった。
  この芝居は、川上一座の呼び物であった体を張った戦
 闘(乱闘)シーンとは対照的に、実際の愁嘆場(しゅうた
 んば、泣き悲しむ悲劇的な場面)を盛り込んだ・・その
 様な「川上音二郎戦地見聞日記」となった。
  戦場の実地を見とどけて来て、それをすぐに舞台にの
 せるという状況・・その迅速さに、実際が知りたいとい
 う観客は期待し、そして、喝采した。
  劇界には、歌舞伎と新派劇の二つのジャンルが成立し
 た。
  戦争劇ブームが起きた。
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  今日の言葉
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  題:アメリカの対中政策が「本気になって来た」。
    欧州は、中国で儲けたいと、中国寄りであったが、
    アメリカ政権の狙いが分かって来た・・
    同時に、中国の軍拡主義・覇権主義の危険性が分
   かって来た。
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紀元前260万年~紀元前250万年、世界最古の石器
  ヒト属(ホモ属)によるものは、エチオピアはアファ
 ール盆地のゴナ (Gona) にある化石人類遺跡で発見され
 た『オルドワン型礫石器群』(新生代新第三紀鮮新世後
 期)
  ホモ・ハビリスによるものと推定される。
  『磨製石器の最古のものは日本の岩宿遺跡』・・
  日本の群馬県みどり市笠懸町にある岩宿遺跡(いわじ
 ゅくいせき)で出土したもの、人の手によって磨きがか
 けられた石器としては、これが「世界最古」の石器であ
 る。
     ・
     ・
紀元前7万5000年頃、世界最古の装身具の貝殻ビーズ
  南アフリカ共和国の都市ケープタウンの300km東に所在
 する『ブロンボス洞窟遺跡』にある約7万5000年前の地層
 から、大きさが完璧に揃っている上に、例外なく開口部
 の反対側の同一箇所に孔が開いている巻貝の貝殻が60個
 あまり発見された。
  孔は、ビーズ飾りを作るための、紐の通し孔であった
 と考えられている。
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紀元前3万5000年頃、世界最古の楽器
  マンモスの牙や鳥の骨で作られた横笛
  ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州はシュ
 ヴェービッシェ・アルプにある『ホーレ・フェルス洞窟』
 の後期旧石器時代オーリニャック文化遺跡で発見された。
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紀元前3万5000年頃、世界最古の絵画
  『ホーレ・フェルスの洞窟壁画』
  洞窟は、南ドイツのシュヴェービッシェ・アルプにあ
 り、壁画は、オーリニャック文化によるもの。
  後期旧石器時代に当たる約3万5000年前に描かれたと推
 定される。
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紀元前3万2000年頃、世界最古の動物形象による像
  ライオンマン(ライオンレディー)
  ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州はシュ
 ヴァーベン・アルプのローネタール(はぐれ谷)にある
 ホーレンシュタイン・シュターデルの洞窟(ホーレンシ
 ュタイン山の『シュターデル洞窟』)から出土した、後
 期旧石器時代のオーリニャック文化に属すると考えられ
 る象牙製の彫像(女神像)で、世界最古の動物形象によ
 る像とされる。
  発見当初は、ホラアナライオンの雄をモデルとした男
 神像と見なされて「ライオンマン」と呼ばれたが、雌を
 モデルとした女神像説も論じられるようになったため、
 「ライオンレディー」とも呼ばれる。
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紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針
  日本の『沖縄県』で発見された貝殻製の釣針。
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紀元前1万8000年頃、世界最古の土器
  中国『湖南省』で発掘された約1万8000年前の土器
  また、日本の『大平山元I遺跡』の縄文土器(約1万6500
 年前)や・・
  『シベリア』で発掘された土器(約1万4000年前)も世
 界最古と言われている。
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紀元前1万2000年頃、世界最古の陶器
  日本の長崎県にある福井洞窟で発見された約1万2000年
 前のもの。
  2009年には、中国で湖南省で1万4000年前~2万1000年
 前の陶器が発見された。
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紀元前1万2000年頃、世界最古の縄・紐
  フランスにある『ラスコー洞窟』の最奥部で発見され
 た約1万2000年前以前のもの・・現存する最古の縄。
  後期旧石器時代マドレーヌ期(約1万8000年~約1万2000
 年前)に属する遺物。
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紀元前9000年頃、漆器
  日本の北海道函館市南茅部地区にある『垣ノ島遺跡』
 から出土した漆塗り装飾品。
  約9000年前~約6500年前(縄文時代早期前半)に属す
 る土坑墓から、2000年8月11日に発掘された推定年代約
 9000年前の副葬品。
  本体は朽ち果て、漆塗りを施された表面部だけが残っ
 た。
  ただし、2002年12月28日に発生した火事でほとんどを
 焼失した。
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紀元前8800年頃、銅器
  銅製の小玉:『イラク』で発見された。
  なお、世界最古の銅製食器や銅製調理用具としては、
 紀元前4000年頃のパレスチナの『Nahal Mishmar遺跡』
 で発見されている。
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紀元前3700年頃、青銅鈴
  中国の夏の時代、二里頭文化で作られた。
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紀元前3500年頃、青銅器
  メソポタミアで銅に錫を混ぜて青銅を加工した。
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紀元前3300年頃、世界最古の粘土板文書
  シュメールの都市『ウルク』の遺跡第4層から出土した。
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紀元前3000年頃、貨幣
  宝貝:タカラガイの貝殻に貨幣価値を与えた物。
  殷代後期の中国。
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紀元前2570年、世界最古の港湾施設:エジプトクフ王の港
  クフ王時代に使われた世界最古の港。
  スエズの南方約180キロにあり、現在は、船を係留する
 ためのロープを固定する石のみが現存している。
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紀元前2100年頃~紀元前1950年頃、鉄器
  トルコの『カマン・カレホユック遺跡』から出土した
 小刀のような鉄器。
  紀元前2100年頃から紀元前1950年頃に属する遺構から
 発見され、これによってヒッタイト起源説が更新された。
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紀元前14世紀、世界最古の墨文書
  文字が刻み込まれた卜占用亀甲獣骨に残る墨の跡:紀
 元前14世紀の殷代中国。
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紀元前13世紀頃、現存する最古の橋:アルカディコ橋
  ティリンスとエピダウロスを結ぶべくミケーネ人が建
 造した石橋であり、持送りアーチ橋。
  地元住民によって現在も使用されている。
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紀元前670年頃、鋳造貨幣
  エレクトロン貨:リディア王国第2代国王アリュアッテ
 スが、治世初期に当たる紀元前670年頃に造らせた。
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紀元前1世紀以上、最も古い時代の種子から発芽・成長した
 顕花植物 大賀ハス
  1952年7月18日に開花した。
  日本の千葉市。
  種子は弥生時代の遺跡(泥炭層)から出土したもので、
 間接的年代測定がなされた。
  1952年の時点で2000年以上前(紀元前1世紀末以前。弥
 生後期V期前半以前に由来と推定された。
  その開花は「世界最古の花 生命の復活」」として雑誌
 『ライフ』にも取り上げられた。
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578年、世界最古の企業:金剛組
  古代日本の摂津国難波で敏達天皇7年(578年)に創業。
  以来、長らく宮大工組織として活動を続け、近代以降
 は主に寺社を手がける総合建設会社となっている。
  2005年に、事業譲渡するまでは「創業者一族が経営を
 続ける現存企業」として世界最古でもあった。
  事業譲渡後も企業として「世界最古」には変わりない。
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601年、世界最古の木造建築物:法隆寺金堂および五重塔
  日本の斑鳩宮近郊(現・奈良県斑鳩町域)に、推古天
 皇9年(601年)、聖徳太子によって建立された。
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1232年、日本最古の港湾施設:和賀江島
  日本の最古の港湾設備であり、現存する世界最古の人
 工の港である。
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1600年頃、財閥:住友財閥
  その歴史は400年以上前にさかのぼる。
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19世紀半ば、イギリスのこの時代ほど不平等な時代は無か
 った。
  「女王は、二つの国民の上に君臨する」と言われるほ
 ど、イギリスのその不平等さは際立っていた。
  また、「(イギリスでは)上層民と下層民の分断は酷
 (ひど)い。
  (このイギリスの)二つの階層では、教育も、食べ物
 も、法律も異なる」と言われるほど最悪の低劣さだった。
  そして、イギリスは、この遅れた差別状態から長らく
 脱却できなかった。
  脱却できたのが、なんと、最近で、サッチャー氏がこ
 の悪習を変えた。
  この分断された状態を変えることをしたのはサッチャ
 ーだった・・20世紀に至ってやっと、この固執した意識
 の変革に手が付けられた。
  だから、サッチャーは、20世紀最長の政権を持った。
  「二つの階層を越える一つの国民」という意識が掲げ
 られ、悪弊にあった頑固な信条が変える社会的努力がな
 れて行った。
.
1904年2月8日、日露戦争がこの日に起きた・・が、中国も、
 この戦争に加わっていた。
  『日露中戦争』だった。
  共産圏の国家が、いかに完璧に「秘密を保つことが出
 来る」かには驚くばかりだった・・、
  この事からも分かる通り、共産圏外交が、特務工作に
 よって、民主主義国における世論操作を、いかに巧みに
 展開できるかである・・感嘆すべき凄さである・・、
  中国の政治と外交は、帰結する所は、宣伝謀略工作に
 ある・・と言える。
  2016年においても、盛んに、アメリカのシカゴの新聞
 社の権利を手に入れたりして活動している。
  分析を精細に行なえば、共産主義諸国が行なう、表(
 おもて)の発言や「報道」と、裏の真意・実態が大きく
 かけ離れているという事が判明するのは日常茶飯事であ
 る・・、
  場合によっては、180度違う事がよくある・・、
  昨日は土砂降りでも、臆面もなく、次の日は「カラッ
 と晴れる」という具合である・・、
  また、当然、その逆もある(韓国もこれ)
  一喜一憂したり、振り回されたりしないのが肝心・・、
  中国は、特に、古来から「政治とは謀略の営み」と見
 てきた面がある・・、
  「それに長けている」のが『優れているという見方』
 の国である。
  中国の歴史の大きな転換点に、この特務工作、情報活
 動、謀略が、常に、決定的役割を果たして来ていた。
  日本は、ある意味、誠実であった、あり過ぎた・・、
  これが、日本の特質であり、国際的に信頼を得る所で
 もあるが、しかし、見方を変えれば未熟だった。
  情報収拾や諜報と言われる領域まで、そして、工作と
 言われるところまで・・習熟して行くべき。
  (日本はスパイ天国とも言われている。スパイが、う
 ようよ、あちこちに居る)
  憲法も誠実に守り過ぎた、関係するところは変えて行
 くべきである・・、
  「平和は本当に、いいなあ」と、戦争を体験なされた
 方々が、嘆息なされておられるが・・、
  北朝鮮も、生き延びるため、また、生き残るため、「
 核とミサイル」を持った・・
  日本も、のほほんとしていては滅亡があるだけ・・生
 き延びる方策を真剣に問う必要がある今である・・
  日露戦争に参戦していた中国だった。
  ロシアと中国の秘密条約によって、中国は参戦してい
 た。
  教科書に書かれていない史実である・・
  しかし、この様な歴史の事実を条件に入れて、現実を
 処さなければならない・・
  (参考)日露戦争:この戦争は、1904年2月8日~1905
     年9月5日、日本とロシア帝国(秘密裏に中国も
     参戦)との間で、朝鮮半島とロシア主権下の満
     洲南部と、日本海を主戦場として戦った戦争・・
      南下するロシアに対峙するために、日本の陸
     軍部隊は韓国領内を北上し、5月に、鴨緑江を渡
     った。
      最初の戦闘で、ロシア軍を敗退させた・・
      また、南山の戦でも激戦の末に優位を占めた・・
      6月、満州軍総司令部が編成され、総司令官に
     大山巌、総参謀長に児玉源太郎を任命され、そ
     の下に、第1軍から第4軍が統轄されることにな
     った。
      8月末~9月初め、遼陽の戦は、日露両軍が、
     総力を結集した戦闘となった。
      双方ともに、2万名以上の損害を出すという激
     戦となり、ここでも、ロシア軍は後退した。
      しかし、日本軍の被った打撃も深刻なものが
     あった。
      両国は、アメリカ合衆国の仲介の下で終戦交
     渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマ
     ス条約により講和した。
  ロシアの南下政策の下で、日本の安全保障が脅かされ、
 日露の戦端が開かれたのだったが・・、
  ロシアの狙いは、満州の租借権と、関東州の租借権が
 欲しかった。
  また、鉄道施設権などの利権も欲しかった。
  そして、満州にロシア軍を常駐させ、利権を完全に掌
  握する占領状態にしたかった。
  そしてまた、その利権を朝鮮半島まで拡大したかった。
  強圧的な勢いで、まだ弱小とみられていた日本へ圧力
 をかけていた。
  アジア各国は、また、世界も、日本が勝つとは思って
 いなかった。
  アメリカは日本寄りにいた。
  この時、この戦いの観戦武官が世界から来ていた。
  その国々・・アメリカ、イギリス、ドイツ、オースト
 リア、イタリア、スペイン、スイス、スエーデン、ノル
 ウェー、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国
 などの13カ国、70人以上の武官だった・・
  この後、アメリカの日本を見る目が変わった・・
.
1905年10月12日、アメリカは、日露戦争で得た日本の満州
 の権益が欲しかった・・日露戦争後に・・
  そのアメリカ政府の意向を受けたハリマンが、日本に
 やって来た・・
  そして、日本の桂太郎首相と会談した。
  日露の講和条約締結は、この1ヶ月半前の8月29日であ
 り・・調印は、1ヶ月前の9月5日である。
  アメリカは、満州の権益が欲しくて日露の調印が済む
 と、すぐにすっ飛んで来た。
  日露戦争では、日本の肩を持つ(かたをもつ、一方の
 味方をする)アメリカだったが・・この会談後、アメリ
 カの態度は一変する。
  この会談で、日本は、アメリカの満州鉄道の共同経営
 の要求を断わった。
  セオドア・ルーズベルト大統領も言っている・・、
  「私は、従来、日本びいきであったが、ポーツマス会
 議開催以来、日本びいきでなくなった・・」・・、
  ハリマンも・・
  「日本は十年後に後悔することになるだろう!」と激
 怒した。
  アメリカ国内では反日機運が高まって行った。
  アメリカに、戦いで得た権益を渡していれば・・
  日本は、アメリカとの「共同経営の満州」という形に
 していれば・・歴史は変わっただろう。
  ヨーロッパ諸国は、すでに、中国の権益を得ていると
 いうこの時・・中国へ出遅れたアメリカ・・他の欧州列
 強諸国が美味しい中国の汁を吸っている後から行くアメ
 リカの焦りがあった。
  岡崎久彦氏・渡部昇一氏は言う・・、
  「満州の経営を日米共同で進めていけば、日米の会戦
 はなかったのかもしれません・・が・・
  それでは、欧米のアジア植民地化に、日本が、加担す
 ることになるではありませんか」・・、
  アメリカは、日本を障害物として、また、脅威として
 扱う様になって行く。
.
1906年、「世界には三つの嘘がある。嘘と、大嘘と、統計
 である」
  この言葉を、この年に、アメリカのマーク・トーエン
 が「ノース・アメリカン・レビュー」で発表した・
  そして、世界に広まった。
  トーエンは、この語句を、19世紀のイギリス首相のベ
 ンジャミン・ディズレーリ(1804年~1881年)のものと
 紹介した。
  There are three kinds of lies: lies, damned lies,
 and statistics.
  しかし、この言葉は、ディズレーリの著作には見られ
 ない。
  日本にも、「統計で嘘を言う方法」という本があるが、
 さも本当の様に統計の数字を見せられて、嘘のことを信
 じさせられるという話が展開されている。
  (参考):本「データはウソをつく、科学的な社会調
     査の方法」(ちくまプリマー新書) 谷岡 一郎
.
2018年、題:アメリカの対中政策が「本気になって来た」。
    欧州は、中国で儲けたいと、中国寄りであったが、
    アメリカ政権の狙いが分かって来た・・
    同時に、中国の軍拡主義・覇権主義の危険性が分
   かって来た。
 ・今、アメリカでは、ニューヨークタイムスやCNNの、
  「嘘つきニュース」や「間違いニュース」が暴(あば)
  かれて来ている。
   また、日本でも、マスコミなどの論理的正統性の薄
  い「気取った論理の破綻(はたん)」が起き始めてい
  る。
 ・イランの核凍結期間が非常に短いにもかかわらず、目
  的を果たしていないのに、欧州は妥協して「イランを
  許してしまった」・・
   しかし、トランプ大統領は、たずなを緩(ゆる)め
  ず「けしからん、これではだめだ」と言って、正しい
  論理を展開している。
 ・イランは、中東のテロリストたちに「武器を送り、資
  金を送り、内戦を支持し」、欧米とまったく違う事を
  している。
   しかし、欧州は、「その様な不正を黙認」しようと
  している。
 ・トランプ大統領は、サウジアラビアを重視している。
  サウジアラビアは女性の免許を取らせた。
   そして、皇太子が石油だけでは食べていけないと次々
  に改革をしている。
   しかし、カナダは間違いを犯している。
   国家を強く統一しようと、ほかの部族に厳しい事を
  している・・この様な他部族へのサウジアラビアの行
  為を取り上げて、この理屈だけで、カナダは制裁処置
  をしようとしている・・
   この様なカナダの行為は間違いだ・・カナダのやる
  ことはきれいごとだ。
 ・北朝鮮とイランは、核で共同研究している。
   この様な台頭を許すのか?
 ・ロシアのパイプラインは、今までウクライナを通って
  いた。
   そのロシアが、ウクライナと違法な戦争を行ない、
  占領した・・だから、ウクライナはそのパイプライン
  を止めた。
   ロシアとドイツは仲が良いので、ロシアは、ドイツ
  にパイプラインを引いた・・そして、石油を得たドイ
  ツがEUの各国へ石油を配るという役をし始めた。
   ドイツが、石油の蛇口の役をしている(恩を売る行
  為をしている)・・結局、ロシアの言う事を聞く奴を
  探すという役をドイツはしている。
   トランプ大統領はそれを指摘する、ドイツに、「い
  つからロシアの捕虜になったのだ」と・・、
   これは、ドイツは言われて当然である。
   ロシアに利することばかりを、石油が欲しくてヨー
  ロッパはしている・・という「異常事態となっている」。
   シリアの件でも、イランの件でも・・そうである。
   アメリカの大統領選での「ロシア疑惑がある」が、
  トランプ大統領は、ロシアに対して公平である。
   ドイツのメルケルへ「捕虜だ」と言った・・これは、
  非常に正しい指摘だ。
 ・ドイツは、中国との関係でもおかしい。
 ・アメリカ副大統領のフェンス氏が、ついに、中国とさ
  れるウイグルの人権問題を取り上げた・・
   中国の政治制度を、ついに取り上げる様になった。
   今までは、中国とアメリカは、経済戦争と言われて
  来た、お金の問題と言われて来たが・・、
   アメリカは、中国の政治問題についても言及するよ
  うになって来た。
   トランプ政権の対中政策が「本気になって来た」。
   この様な事を考えると、ドイツの在り方が大変おか
  しく・・問題がある。
 ・アメリカの対中国赤字は、「30兆円以上ある」が・・
  しかし・・
   トランプ大統領が、本当に狙っているのは・・中国
  の覇権主義を止めようとしていることにあって・・経
  済問題の先にあることを狙っている・・
   世界の経済に激震が走ってでも、経済を干上がらせ
  てでも、今までのような展開を変えようとしている・・
   中国は、えげつなく得た金でもって、覇権を得よう
  とする・・その様な中国の行為・・、
   例えば、発展途上国に対して、インフラ開発をして、
  それを借金漬けにして、結局、その国を、中国の言い
  なりにするようにするやり方。
   あるいは、ハードやソフト的に武器を、どんどん買
  い占めて、4倍ゲームで兵力を高め、軍拡している中
  国・・、
   中国の覇権主義、軍拡主義・・これを支える中国の
  経済・・、
   だから、そこを叩いて、ストップさせようとしてい
  る。
   それの真意が分からず、そのトランプ政権のやり方
  を批判していた欧州諸国は・・そのやり方に、「よう
  やく気付き始めた」・・(まだ、半分しか理解できて
  いない欧州諸国)・・
   中国の毒、中国の弊害に、ようやく気付き始めた欧
  州諸国・・、
   中国の邪悪なやり方にようやく気付いて来た。
   日本のマスコミも、トランプ大統領のやり方に気付
  かず、今まで、「単なる不動産屋」だとかと蔑(さげ
  す)んでいた。
   トランプ大統領は、今までのアメリカ政権がやって
  来なかった様な「経済と安全保障を関連した政策を遂
  行している」。
 ・2018年8月、ライフェルト・メタル・スピニングという
  ドイツの会社が中国に買収されそうになった。
   これに対し、ストップ命令が出されるはずだった・・
   この会社は、宇宙船や原子力発電所・核兵器、そし
  て、戦闘機など、非常に先端の高い技術・ノウハウを
  持っている会社で・・、
   ドイツ政府は、安全保障面や、公的秩序を不安定に
  する恐れがあると、中国へ渡ってしまうとリスクが増
  し、危険度が高まる恐れがあると、ストップをかけよ
  うとした・・、
   買収しようとした中国(企業)は、この動きを察知
  して、ドイツメディアが報道したから、中国は買収を
  撤回した。
   また、送電大手のゴジュッツヘルツという会社につ
  いても、ドイツ政府は、この会社の株の20%を取得す
  ると言い出した。
   この会社の株は、ベルギーの会社が80%を取得して
  いて、後の20%は、豪州の会社が取得するはずだった。
   2016年のクウカ事件・・産業用ロボット大手のクウ
  カが、中国の家電大手に買収された。
   この様な状況が続けば、技術がすべて中国に流出し
  てしまう・・まずいのではないかと・・
   クウカは、軍事用ロボットもやっているし・・、
   このクウカのロボット技術は、アメリカの最新鋭ス
  テルス戦闘機のF35の製造にも使われている様な「高
  度な技術が詰まったロボット技術」、
   NATO(北大西洋条約機構)は、アメリカから国
  防費を上げろと言われて来た。
   そのことに対して、欧州は、「アメリカの横暴だ」
  と言って来た・・が・・、
   欧州は、言われて当然なのである・・
   NATOは、アメリカに「おんぶに、だっこ」だっ
  た。
   それに、この様にクウカの買収を許して、アメリカ
  軍の軍体制を危険に陥(おとしい)れている。
   これを契機に(遅きに失しているが)、これから、
  対中国に関し、規制対象を、「国防だけ」から「IT、
  通信、電力、水道など戦略的重要分野」に広げた。
 ・ドイツの筆頭銀行のドイツ銀行の筆頭株主は、中国企
  業である・・ドイツの金融分野もこの様な状況・・、
   これから重要な電気自動車の「肝心かなめのバッテ
  リー」の工場を、中国は、ドイツに進出させて、すで
  に、広大なドイツの土地を買い占めた。
   そこで、独占的に、電気自動車のこのバッテリーを
  使うように仕向けて行こうという戦略・・、
   産業および生活必需品の自動車分野で牛耳ろうとい
  う中国の作戦・・
   ドイツにない技術でドイツを制する方針・・、
   あらゆる手を講じてドイツを飲み込もうとする中国・・
   EUの盟主であるドイツを牛耳ろうとする方針・・、
   獅子身中の虫ではないが、肝心かなめの重要部分、
  中心に入り込んで、すべてを制覇しようとする中国の
  戦略・・、
   オープンな西側の市場で、中国は、どんどん技術を
  盗んでいる・・そして、重要技術を奪って行く、自由
  主義経済システムの制度を利用しているので合法的だ
  が(悪用と言える)・・それを利用して奪い取り、そ
  れを中国に持ち帰って、中国の閉鎖された市場の中で
  培養して行く・・、
   そして、その奪い取ったものをどんどん大きくさせ
  る・・
   大きくなると・・
   発展途上国にも売りつけて、西側から奪ったもので
  商売をし、利益を得て、また大きくなって行く、その
  様なやり方で閉鎖市場で大きくなった巨大中国国有企
  業が・・、
   ここまで大きくなって来ると、逆流が始まる・・開
  かれた欧米市場に出させて行く・・出て行く・・
   そして、欧米の開かれた自由市場で、巨大な中国の
  官製企業が、同業他社を食いつぶして行く・・、
   元々は西側の技術であったものを使って・・この様
  な展開をさせている・・展開が起きている・・中国に
  牛耳られて行く結果が起きている。
   共産主義の地の東ドイツ出身のメルケルの感覚は、
  西側で育まれた感覚とは違う・・西側の感覚は持ち合
  わせていない・・だから、中国の話に乗りやすいとい
  う傾向がある。
 ・一帯一路で・・中国は発展途上国へ行き、政府高官に
  賄賂を贈って・・
   マレーシアの前首相(ナジム)などの例であるが・・
  桁外れの何十億という賄賂を贈った。
   そして、国内インフラを勝ち取った・・(メキシコ
  の新幹線もそうだった)、
   しかし、その後の中国のやり方は、まったく、マレ
  ーシアの経済発展に寄与していない・・、
   中国から労働者を連れて行って、マレーシアの人々
  の雇用にもならない・・
   また、高利で金を貸し付けて、返済ができないと見
  るとスリランカの港の様に「99年の租借をする」とい
  う手を使う。
   香港と同じ・・英国は香港を返したが、99年後、中
  国は返すか?
   一帯一路の実態は・・「覇権戦略」なのだ。
   2008年1月、中国の物資を積んだ試験運行の貨物列車
  が、北京からベルリンへ運行された。
   これが、一帯一路のやり始めであった。
   習近平は、2013年から言い出したが、その兆候はす
  でにあった。
   中国・共産主義国家のやり方に鈍感なメルケル。
   中国国民党の時代もドイツは中国と蜜月だった。
   ナチス・ドイツでさえ軍事援助や金の援助をしてい
  る。
   中国とドイツ=中独は・・中毒症状だ。
   チンタオ(青島)の恨み・・
   1750年頃から、ドイツは中国に手を付け始めた・・
  この頃からすでにやっていた・・、
   ドイツは、イギリスに対抗して、中国への直行汽船
  を走らせた。
   また、巨大戦艦の定遠・鎮遠はドイツが作って、日
  本を脅威に慄(おのの)かせた・・
   日本を圧迫した戦艦を造って中国へ与えたドイツ・・
   203高地で、日本陸軍は多くの兵を亡くしたが・・
  この時の要塞もドイツが造っている。
   1897年、ドイツは、ドイツ人宣教師を殺害されて、
  これを口実にして、ドイツは、中国へ出兵した・・中
  国侵略行為を始めた。
   山東省に出兵したドイツ兵・・その中心都市の青島
  は、ドイツに占領され、ドイツの拠点となった。
   さらに、ドイツは、有無を言わさず兵を常駐させた。
   ドイツは、勝手し放題で、山や港に砲台を築いた。
   海には、ドイツ東洋艦隊を常に置いた。
   また、この拠点から、ドイツは、南太平洋の諸島を、
  軍事的に管轄し、掌握した。
   ドイツは鉱山が欲しかった・・そして、銀行、鉄道、
  会社、教会、食肉処理工場などを造った。
   チンタオビールはドイツのビール・・、
   当時、東洋の真珠とか小ベルリンと呼ばせた。
   第一次大戦でドイツは敗け、これらが、戦勝国の日
  本の管轄に移る・・、
   ドイツは一切の権益を失った・・ドイツはこれを恨
  んだ・・「チンタオの恨み」という・・、
   しかし、このドイツ怨みは第二次世界大戦の当時ま
  で続いた・・怨みがましいドイツの恨みは、陰湿にも
  長く続いた・・、
   満州事変の後、日本の足を引っ張ろうと、中国国民
  党軍の近代化をドイツは行なう・・、
   ドイツは、さらに、中国へ、重要で有能な軍人を送
  り込む・・、
   「ドイツの電撃戦」を考え出したような大物人材ま
  で送り込む・・、
   そして、また、ドイツは、あらゆる兵器を輸出した。
   中国人技術者までドイツ呼んで教育した。
   この人材に、中国に帰って、あらゆる重要兵器の国
  産工場を作らせた。
   毒ガス製造工場まで作ろうとした。
   生物兵器などの科学研究所などは作っている。
   この様な中国が、第二次上海事件を中国国民党は日
  本に戦いを仕掛けて行く・・
   日本はやむなく応戦した・・、
   ファルンケンハウゼンというドイツの将軍は、蒋介
  石に「消耗のゲリラ戦に持ち込め」と言った・・
   日本軍を疲弊させよと言った・・
   ドイツは、見返りに鉱山資源を求めた。
   鉄道も作って軍の移動をしやすくした。
   日本の軍の消耗はこれらによって大きくなった。
   これ等の資金は、「アメリカが支援した」。
   JPモルガン、スタンダード石油(ロックフェラー
  財団)などのアメリカ資金が膨大に入った・・
   また、それと共に、ドイツが財政出動した・・
   この様に、膨大な資金が中国へ提供された。
   ドイツもこれで潤い、より大きな軍事大国へとなっ
  て行く、
   ナンバーワン軍事大国へとドイツがなって行った。
   そして、ナチス・ドイツが台頭して行った。
   巨大化させる栄養が、大きくする栄養である巨大な
  資金が・・世界を回って・・この様な状況が作らせた。
   ドイツは、卑劣なことに・・日独防共協定を結びな
  がら(三国同盟の前に結ぶ)中国へ、武器を密輸の形
  で与え続けた。
   中ソ不可侵条約を締結したことで、ナチス・ドイツ
  のヒトラーは態度を硬化させた・・
   ヒトラーは、「中国への密輸を止めよ」と言った」
  が、しかし、契約済みの兵器などは輸出しなけらばな
  らないという屁理屈で、ヒトラーの命令・指示を聞か
  ずに、ドイツは、兵器を中国へ与え続けた。
   ドイツは潤った。
   この潤った金で、強くなった軍事力が、イギリス・
  フランスに対して向かった。
   1938年になって、やっと、ドイツは、中国から手を
  引いた。
   この時まで、なんだかんだと続ける卑劣なドイツだ
  った。
   三国同盟の時もまだ、中国と関係を続ける裏切りド
  イツだった。
   そして、1年を経て、やっと手を切った。
   しかし、最近、新事実が分かったが、スエーデンの
  第三国を通じて、ドイツは、まだまだ、中国と関係を
  続けているという卑劣なドイツだった。
   陰湿でしたたかなドイツだった。
   最近でも、大切で重要なロボット技術を「中国へ売
  り渡したドイツ」だった。
   重機大手クラウスマッハイも、中国に買収された。
   磁気浮上の技術を持っている非常に高度な重要な会
  社(リニアモーターカー技術)
   この技術が軍事転用できるから恐ろしい。
   というより、重要な軍事技術となる技術なのだ。
   空母のカタパルトは、電磁式だが、これに使える。
   中国もロシアも持っていない技術である。
   中国・ロシアは、ジャンプ式の遅れた方式となって
  いる。
   ドイツは、中国が一番欲しい技術を持った会社を売
  り渡した。
 ・中国の一帯一路を、ドイツも一体となってやって行き、
  中国と共にドイツはユーラシア大陸を手のうちに入れ
  たいとしている。
   トランプ政権はそれを止めようとしている。
   あの冷戦時代も、ドイツは中国へ武器を渡し、売っ
  ていた裏切り国である。
   儲かればよいという獅子身中の虫の国・ドイツ・・、
   中国は、ドイツをあてにしている、頼りにしている・・
 ・トランプ大統領は、心配する東欧諸国に、「アメリカ
  が安い石油やその他のエネルギーを売ってやるから安
  心しなさい」と言っている。
   ドイツを通っているパイプライン、ドイツが配る形
  になっているこの形の骨抜きをしている。
   ドイツの大きな顔は、「架空の顔だ」と言っている。
   アメリカのエネルギー供給の話は、ロシアの横暴も
  控えさせている。
   シリアがあのような戦乱の地でなければ、中東の石
  油のパイプラインがこの地を通り、ヨーロッパへ中東
  の石油が流れる、そして、ロシアが潰される・・
   ロシアにとって、シリアが戦乱の地となっているこ
  とがロシアの石油が売れることに通じている。
 ・イランを締め付けないと北朝鮮が安心する。
   イランと北朝鮮がくっつく。
   ヨーロッパ諸国はここが甘い・・イランに甘い。
   イランを締め付ければ、北朝鮮も干上がる。
   イランをやるときは、主力はイスラエル軍になる。
   サイバー攻撃を含めてやる・・
   それを見て・・「北朝鮮よ! 約束通りしなければ、
 次になるのはお前だ」というプレッシャーになる・・
 ・参考に以下のユーチューブを御覧ください。
  https://www.youtube.com/watch?v=jNjFIc0l3Fk
  【Front Japan 桜】知事死去と沖縄左翼のシナリオ/
   中国の正体に気付いたドイツ~野口裕之/ 金正恩か
  ら視える米世界戦略/ 山根辞任にみる戦後日本/ 廃祀
  を叫ぶ古賀誠[桜H30/8/9]
   野口裕之(産経新聞政治部専門委員)
   昭和33年生まれ。昭和59年、産経新聞社入社。防衛
  庁、外務省、官邸記者クラブキャップなどを歴任。平
  成11年には北朝鮮の弾道ミサイル・テポドン1号の発
  射準備をスクープし、新聞協会賞を授賞する。著書に
  「ヤバすぎて笑うしかない狂人理論が世界を終わらせ
  る」(共著)、「野口裕之の『安全保障読本』」など。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)607E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月)

2018-08-13 04:35:26 | 日記
題:(増補版)607E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年8月24日、鉄道会議規則が改正された。
  鉄道会議(てつどうかいぎ)は、日本において1892年
 6月21日から1949年6月1日まで、鉄道敷設法16条に定めら
 れた「鉄道会議規則」(明治25年勅令第51号)に基づい
 て鉄道担当官庁(内務省→逓信省→鉄道省→運輸通信省
 →運輸省)に設置された諮問会議で・・、
  鉄道敷設法で定められた鉄道建設の順序や鉄道公債の
 発行などについて主管大臣に諮問した。
  ただし、実際には、鉄道政策全体について諮問してい
 る。
  定数は議長1名・議員20名(ただし、臨時議員として複
 数名の追加が認められた)・幹事1名で構成されていた。
.
1894年8月25日、『日清戦争実記』が創刊された。
  博文館が写真を多用して収録した「日清戦争実記」を
 出版した。
  大評判になった。
  陸軍測量部員の小倉倹司らの従軍撮影によった。
.
1894年8月25日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  北里柴三郎が、破傷風菌を純粋培養して病原菌のペス
 ト菌を発見する(6月14日説あり)
  北里柴三郎は、日本政府よりペストの蔓延していた香
 港に調査派遣されていた。
  ヨーロッパで黒死病と呼ばれて恐れられ、人類を脅(
 おびや)かし続けてきたペストの病原菌が、1894年6月14
 日、流行下の香港で、北里柴三郎が発見し、滞在中にま
 とめた論文が英国の著名な医学誌ランセットに掲載され
 た。
  そして、翌週、同じく香港でフランスのアレクサンド
 ル・エルサンも見つけ、彼の論文は、フランスのパスツ
 ール研究所年報に掲載された。
  北里は、もう一つの分株菌をドイツのコッホ研究所に
 送っていた。
  それを検証するとまぎれもなくエルサンと同一の菌だ
 った。
  しかし、北里柴三郎は最初の発見者とされず、1897年、
 ベニスで開催された万国衛生会議で、その結果が報告さ
 れ、二人が共に発見者とされた。
  1967年、ペスト菌が属する細菌群が再分類されること
 になった。
  その機に、おかしなことに、新しい学名が「エルシニ
 ア・ペスティス」とされ、エルサンの名前だけが付けら
 れてしまった。
  この経緯を知ったアメリカ合衆国のカリフォルニアの
 二人の研究者が、北里柴三郎の発見の真実は明らかにさ
 れるべきだと考え、関係する膨大な論文や記録、当時の
 研究環境なども含め精査し、徹底的に分析を行った。
  発見の真偽に焦点を当てた調査のその結論は、「北里
 柴三郎は、確実に、確かに、香港でペスト菌を研究して、
 論文の大部分は的確に特徴を記載していて、彼にもその
 発見の栄誉を与えるに十分である」という結論に達した。
  この総括的論文は、1976年、アメリカ微生物学会の機
 関誌に発表され、北里柴三郎の発見の事実をめぐる論争
 に終止符が打たれた。
  香港の発見から82年後のことであった。
  ペストは、中世ヨーロッパの経済や文化にまで大きな
 影響を及ぼし、世界で一億人をはるかに超える死者を出
 した、人類史上最大の脅威だった。
  二人の挑戦者が成し遂げたその病原菌の発見は、世界
 の医学史に残る偉業で、不正義な事に、学名にこそ名を
 残してはいないが、その最初の発見者が、日本人の北里
 柴三郎だったことは、疑う余地もない真実だった。
  1894年6月14日、北里柴三郎は香港でペスト菌を発見し
 て、イギリスの著名な医学誌「The Lancet」は8月11日号
 にその速報を、さらに、同月の8月25日号には、北里自身
 の論文を、すでに、掲載していた。
  北里よりやや遅れて、6月20日または23日に、やはり、
 香港でペスト菌を見つけたフランス国籍を持つスイス人
 のアレクサンドル・エルサンという発見の順序だった。
  彼は、古巣であるフランスのパスツール研究所に論文
 を送ったが、そして、その論文は、9月に、同研究所の年
 報に掲載されたが、発見と発表の共に、北里柴三郎より
 後だった。
  ペストは、過去に二度のパンデミック(世界的大流行)
 を起こし、1億人を優に超える犠牲者を出した恐るべき伝
 染病・・この伝染病は、三度目の大流行地の香港で、つ
 いに北里柴三郎・・次いで、エルさんの二人の研究者に
 より正体が暴かれた。
  これによって、ペスト菌は「キタサト・エルサン菌」
 とも呼ばれるが、その発見者名には不正義な残照が残っ
 た。
  光学顕微鏡で細菌を見るとき、多くの細菌は透明に近
 いこともあり観察は容易ではない。
  そのため、あらかじめ細菌標本を染色して見やすくす
 ることが行われる。
  その染色法の代表格として、デンマークのハンス・グ
 ラムが考案した『グラム染色』がある。
  グラム染色で紫色に染まる菌は「グラム陽性」、染ま
 らない菌は「グラム陰性」と分類される。
  そして、世界の微生物学界を巻きこんだこの混乱は、
 ペスト菌がグラム陽性か陰性かをめぐる北里とエルサン
 の意見の違いから始まった。
  エルサンは、1894年のペスト菌発見を報告した論文中
 で「ペスト菌はグラム法によって染色しない」と述べて
 いる。
  これに対し、北里は、ペスト菌発見時の論文では「グ
 ラム染色に関して今は言及できないが、その点について
 は後日報告したい」とした。
  その理由は明確ではないが、北里はグラム染色液を香
 港に携行しなかったのではないかと言われている。
  そうだとすると、もし北里が染色液を持って行ってい
 たら、その後の混乱は回避できたのかもしれない。
  ペスト菌を発見してから2年後の1896年、北里はついに
 グラム染色について結論を出す。
  1896年12月に行われた東京医学会において「ペスト菌
 はグラム陽性である。
  エルサン菌はグラム陰性であるので、自分のペスト菌
 とは異なる。
  どちらが真性ペスト菌であるか、第三者の公平な決定
 を待ちたい」と報告した。
  しかし、まさにその1896年12月、台湾でペストが発生
 した。
  届けられた台湾のペスト菌をただちに調べると、それ
 はエルサン菌と同じグラム陰性であり、北里が主張する
 グラム陽性ではなかった。
  やがて「北里菌は本当にペストの病原菌なのだろうか」
 という疑いが、ささやかれるようになった。
  やがて、1899年になると、神戸にもペストが上陸。
  北里は自分の目でペスト菌がエルサンの主張どおりグ
 ラム陰性であることを確認し、その年のうちに、グラム
 陽性の「北里菌」説を取り下げた。
  しかし・・『その2年前』の1897年に、エルサンと北里
 の菌は、全く同じペスト菌であることが、すでに証明さ
 れていた。
  ドイツの細菌学者ウィルヘルム・コッレは、北里とエ
 ルサンが香港でペスト菌として採取した標本、そして、
 その後、世界各地で集められたペスト菌を細かく分析し
 た。
  その結果、北里菌もエルサン菌も同じグラム陰性のペ
 スト菌であり、また、世界中のペスト流行地で集められ
 た菌とも同一のものであることを証明した。
  北里の「ペスト菌はグラム陽性」という主張は退けら
 れたが、北里がペスト菌の発見者だということは証明さ
 れた。
  この結果は、その年に開催された万国衛生会議でも報
 告され、北里とエルサンは共に発見者であることが認め
 られた。
  また後に、コッレ以外にも2人の研究者が同様の確認を
 行ったが、結果は同じであった。
  万国衛生会議の記録により、北里への疑いは晴れたと
 思われた。
  事実、その後に発行され、多くの文献でも引用されて
 いるレーマンとノイマンの細菌学マニュアルにも、「ペ
 スト菌」の項には発見者として北里とエルサンが併記さ
 れている。
  1976年、北里のペスト菌発見をめぐる不明瞭な状態は、
 意外な形で決着する。
  いままで活発な論議を繰り広げていたヨーロッパでも、
 日本でもない「アメリカの研究者」が詳細な論文を発表
 した。
  サンフランシスコ陸軍研究所のビベルと、カリフォル
 ニア大学のチェンは、19ページを費やし、この問題に第
 三者的な立場から分析を加えた。
  香港での活動内容、ペスト菌発見時の状況、発見時の
 論文の対比、意見の対立、矛盾点の確認と問題点、細菌
 学上の分析、検体汚染の可能性、北里の再評価、臨床的
 応用など、多項目にわたり客観的な検証と評価がなされ
 た。
  その結果、エルサンと同様、北里も香港でペスト菌を
 発見したことは間違いないと結論づけた。
  この論文は、この問題に関する報告の事実上の決定版
 とされており、北里はペスト菌の発見者として確定され
 た。
  エルサンが、「ペスト菌はグラム陰性」という結論を
 出したのが分かっているのに、なぜ北里は2年も後になっ
 て「グラム陽性」を主張したのだろうか?
  日本へ戻った北里は、香港から持ち帰った多くのペス
 ト患者の血液標本をグラム染色した。
  するとグラム陰性の「エルサン菌」以外に、「グラム
 陽性の菌もあることがわかった」。
  香港調査団に参加し、現地でペストにかかって敗血症
 を起こした2人の日本人の血液からも、グラム陽性の菌が
 検出された。
  「グラム陽性のペスト菌もある」と、そのときは言葉
 で・・北里は「これもペストの病原菌とすべきではない
 か」と考えた。
  ペストに罹患すると、まず脾臓やリンパ節などの腺が
 腫れ・・その腺を切開して組織を顕微鏡で見ると、「エ
 ルサン菌」が見られる。
  さらに、ペストが重症化し、敗血症に進んでくると、
 血液中にも菌が出てくる。
  その血液を顕微鏡で見ると、エルサン菌と似てはいる
 が「グラム陽性を示す菌が現れる」。
  これはおそらく、ペストが重症化し、抵抗力が衰えた
 患者に二次感染をした、
  たとえばレンサ球菌などではなかろうか。
  ペストの本質を敗血症にあると考えていた北里は、自
 分が香港で発見したペスト菌を打ち捨てても、こちらの
 「北里菌」が重要だと考えた。
  以上が、檀原氏の見解。
  実際の診療を考えれば、ペストを診断するとき、いち
 いちリンパ節を切開するわけにはいかない。
  したがって患者の血液中の菌で診断しようというのは、
 より現実的な手法。
  また、ペストが進行すると、結局は、敗血症で死亡す
 ることが多いのだから、治療のことを考えれば、敗血症
 を起こすとき増えてくる菌に注目するのも医学的。
  学問的な結果としては報われなかったが、北里は、常
 に、実際の診療や予防の役に立つ研究を心がけていた。
  その「実学」を重んじる北里の考え方が、1897年の「
 伝染病予防法」、1899年の「開港検疫法」など、伝染病
 を予防するための法律の整備、さらには、ネズミ駆除な
 どによる感染経路の分断対策として生かされ、日本は「
 ペストのない国」となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:それも、そのことを政府に認めさせたというが、筋の通らない無理を
   強いたのだろう・・歴史的、科学的智識の裏付けのない馬鹿々々しい話だ。
.
紀元前46億年以前、太陽系の形成・・地球が誕生する直前
  太陽は、過去の超新星爆発で散らばった星間物質がふ
 たたび集まって形成された『種族Ⅰ』の星と考えられて
 いる。
  また、太陽系には、鉄や、金や、ウランといった重元
 素が多く存在している。
  これらの重元素の成因は、質量の大きな高温の星の内
 部での元素合成と・・、
  その後に発生する超新星爆発によって作られ・・宇宙
 空間にまき散らされた・・という過程が、最も可能性が
 高いシナリオとされている・・、
  太陽系は・・46億年前に形成され始めた。
.
紀元前45億4000万年、地球が誕生した。
  太陽系の隕石や、月の岩石の生成年代から、この頃、
 原始地球が形成された。
.
紀元前44億年、最古の岩石鉱物
  現在、知られている最古の岩石鉱物が現れた。
.
紀元前40億年、原始海洋ができた、そして、プレートがで
 き・・そして、プレートが移動し始める。
  この頃、花崗岩(カナダ北部のアカスタ片麻岩)がで
 き、プレートができ・・
  古い変成岩に含まれる堆積岩の痕跡などから、43億年
 前~40億年前頃に、海洋が誕生したとみられ・・
  この海洋は、原始大気に含まれていた水蒸気が、火山
 からの過剰な噴出と温度低下によって凝結して、雨とし
 て降り注いで形成された。
  また、この頃、原始生命が誕生したと考えられている
 (生命の起源)
  マントル対流の作用で、プレートの移動が始まる。
  物理的・化学的に安定した物質として知られるダイヤ
 モンドに着目した学者が・・、
  ダイヤモンドは、安定して存在するため、地中で起き
 た出来事を記録していると考えた・・
  いわば「タイムカプセル」として機能することが知ら
 れているが・・この事から、ダイヤモンドを使って過去
 の地中の様子を推察する研究を行なった。
  研究グループは、南アフリカのカープバールクラトン
 から採掘された、世界でも最も古いとされるダイヤモン
 ドの標本3つを、ヨハネスブルクのアフリカ博物館から借
 り、放射性年代測定することで、ダイヤモンドを含む岩
 石(母岩)が、35億年前~31億年前に誕生したことを突き
 止めた。
  また、この後の研究で、ダイヤモンド内部の成分のう
 ち、窒素15/窒素14、炭素13/炭素12の同位体構成比を調
 べることで、ダイヤモンドが結晶化したマントル内部で
 はなく、地表付近の地殻で窒素15同位体がドープ(添加)
 された事を突き止めた。
  これは、ダイヤモンドが、プレートテクトニクス(大
 陸移動)の動きによって地中に引きずり込まれたことを
 意味していた・・
  「早ければ35億年前にはプレートテクトニクスが始ま
 っていた」と、プレートテクトニクスの起源について結
 論づけた。
.
紀元前35億年、大陸移動(プレートテクトニクス)の始ま
 り・・
  この地球の「大陸の形成」と「大陸の移動(プレート
 テクトニクス)」の発見は・・
  1910年、ドイツのアルフレッド・ベゲナーは、大西洋
 をはさむ南アメリカとアフリカの海岸線の形が、その凹
 凸が、偶然とは思えないほど一致している・似ていると
 気付いた(1912年説あり)
  そして、この両大陸は、元は一つの大陸と考えれば、
 古い地層の連続や、氷河の痕跡や、2億年前の生物の分布
 (古生物のグロソプてリスやメソサウルス)などが無理
 なく説明でき・・
  大陸は、無理なく分裂し、移動し、今の姿になったに
 違いないと考えた・・が・・この当時、この説は、世に
 認められなかった。
  ベゲナーの死後、20年の後、大陸移動説は見直された。
  その切っ掛けは、海底の大山脈(海嶺)の発見だった。
  海嶺は、地上では見られないほど長い海底火山の連な
 りだった。
  その総延長は、6万キロメートルにも及んでいた。
  溢れるマグマは、海水で冷やされ厚さ数10キロメート
 ルの枕状溶岩の岩盤が形成され・・これがプレートで・・
  地球の表面は、10数枚のプレートから成っていた。
  ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋
 プレート、北アメリカプレート、南アメリカプレートな
 どで・・このプレートは、様々な方向へ移動していた・・
  また、海底だけでなく、大陸も移動していた。
  マグマは、鉄を含有していて、冷える時に地球の磁気
 に影響され、磁気を帯びる。
  この磁気は、その後、消えることなく、この岩盤が生
 まれた時の方向を保ち続ける。
  1500万年前、地球の磁場は、度々、南北が逆転して来
 たことも分かった。
  そこで、岩石の方向が分かれば生まれた年代が分かっ
 た。
  例えば、東太平洋海嶺の岩石の地磁気の方向を調べる
 と・・、
  海嶺の軸に対象に分布した岩石の地磁気の逆転が記録
 されていた。
  また、その生まれた岩石の年代の分布からプレートの
 移動速度が分かった。
  東太平洋海嶺の場合、1億6000万年前に生まれてから、
 日本付近に移動し、到達していた。
  そのプレートは、日本列島の手前の日本海溝で沈み込
 み・・海溝がその為に出来ていた。
  日本列島の太平洋岸には、縞模様の岩石が良く見られ
 る。
  砂岩と泥岩の積み重なった地層が、時には褶曲もして
 いる。
  沖縄から関東まで1600キロに及ぶ地層は「四万十帯(
 しまんとたい)」と呼ばれ・・
  この四万十帯が、日本列島の誕生する姿を教えた。
  この地層は、砂層と泥層の互いに分布する砂泥互層で・・、
  この砂層を顕微鏡で観察すると、すべて陸地を作る花
 崗岩の破片だった。
  風化が少ない事から、一気に堆積した事が分かった。
  また、泥層を顕微鏡観察すると、断面は細かい砂と泥
 が縞模様を作り、静かにゆっくり堆積したことが分かっ
 た。
  これ等の堆積が、周期的に変化する場所で、1982年、
 国際研究として、四国沖が掘削された、そして、この南
 海トラフの浅い構造を調べた。
  その掘削された試料の上層の550メートルは、30センチ
 ほどの砂の層と、5センチの泥の層が交互に重なっていた。
  この砂の層を顕微鏡で見ると、火山を起源とする砂粒
 がたくさん含まれていた。
  この四国沖には、170万年間、火山は無い・・ならば、
 この火山性の砂はどこから来たのか?
  その試料と比較するため、沖縄から関東に至る川の砂
 のすべてが調べられた。
  すると、この南海トラフの砂は、富士川の砂によく似
 ていた。
  化学組成を分析すると伊豆・箱根火山の砂に似た特徴
 が含まれていた。
  掘削地から約600キロも離れた所の砂が、何故、南海ト
 ラフに堆積したのか?
  その富士川の源流は、激しく隆起をし続ける南アルプ
 スである。
  この山の岩石が、急流の富士川を下り、細かくなり、
 そして、駿河湾に堆積する。
  この堆積物が、巨大地震を引き金として、影響され、
 海底をなだれの様に移動する・・乱泥流と言われる・・
 移動速度は30キロ/時間・・
  駿河湾付近では、周期的に繰り返される地震で、大量
 の堆積物が、乱泥流となって600キロ離れた南海トラフに
 達し、30センチの砂の層を形成した・・
  そして、500年ごとに乱泥流が繰り返され・・その後は、
 ゆっくりと泥の層が降り積もって形成された。
  こうして55万年かかって、南海トラフの堆積層が作ら
 れて来た。
  1970年代、堆積岩に含まれる微小な化石が取り出せる
 方法が開発された。
  採集されたサンプルに、3%のフッ化水素を加えて、岩
 石の表面を溶かす・・そして、プランクトンの化石を残
 す。
  これを顕微鏡下で拾い上げて、これに金を蒸着させて、
 電子顕微鏡で観察する。
  膨大なサンプルを研究した結果、放散虫というプラン
 クトンの年代的な変化が明らかになった。
  (参考)放散虫:ほうさんちゅう、(「放射状の棒」
     の意味)は、原生生物の一群で、主として海の
     プランクトンとして出現する単細胞生物。
      珪酸質などからなる骨格を持ち、そのため微
     化石として発見される。
  こうして放散虫の種類によって地層の年代が特定でき
 る様になった。
  この方法で、四万十帯を調べてみると、普通とは逆に、
 上層が古く、下が新しかった。
  フィリピン海プレートは、3~4センチ/年の速さで南海
 トラフに沈み込んでいる。
  1980年、反射式人工地震波によって南海トラフの地下
 構造が調べられた。
  その結果、モデル実験の実験室実験と同様に、褶曲し
 ていた。
  玄武岩層のプレートの沈み込みで、上層に堆積した層
 は次々に圧縮され、褶曲した付加体となった。
  やがて、次々に付加された付加体は、隆起して陸地と
 なって行った。
  この褶曲が、四万十帯の下の層が新しい層という理由
 となった。
  岩石の磁気の方向の伏角で、岩石の誕生した緯度が調
 べられた。
  すると、四万十帯の岩石は、様々な年代の岩石が入り
 混じっている事が分かった。
  特殊な地層も発見された・・7000万年前の泥岩、その
 隣に1億3000万年前の枕状溶岩があるという状態だった。
  また、1億年前の放散虫化石が含まれる岩石と・・、
  陸地の堆積物を含まない遠い海洋の遠洋性堆積物によ
 る岩石だった。
  赤や緑の頁岩(けつがん)は、9000万年前に・・陸地
 に近い所は、粘土や放散虫が堆積したもの・・赤い石灰
 岩は、1億3000万年前のプランクトンの化石で出来ていた・・
 堆積した場所は、赤道付近である・・
  7000万年前の乱泥流堆積物・・乱泥流堆積層・火出灰
 層と泥岩の互層・チャート・枕状溶岩・・これらの様々
 な岩石が混在する900メートルの層(メランジュ)・・
  メランジュは、「かき混ぜる」という意味。
  1億3000万年前、赤道付近の海嶺で、枕状溶岩が生まれ、
 その上にナンノプランクトンが堆積するナンノ石灰岩が
 堆積する。
  1億年前頃に、中緯度までプレート移動して来て・・
 この上に、放散虫が堆積したチャートを作り・・風で運
 ばれた赤い粘土が、頁岩となってその上に堆積する・・
 陸地に近い南海トラフで、7000年前頃、泥や火山灰が積
 もり・・また、乱泥流堆積物も乗り、沈み込むプレート
 から剥ぎ取られ付加体となり・・隆起して、やがて、地
 上に現れる。
  1億3000万年の時間と、3000キロの移動距離で出来上が
 って来た岩石が、プレートの運動で混ぜ合わされて形成
 された。
  こうして四万十帯が出来上がった。
  こうした付加体が、日本列島を形成するという考え方
 ができた。
  四万十帯と中央構造線に挟まれた「秩父帯」にもメラ
 ンジュがある。
  つまり、プレートの沈み込みによって作られた付加体
 である。
  そして、ここのチャートは、四万十帯より古い3億5000
 万年前~1億8000万年前にかけて、赤道付近で降り積もっ
 た放散虫の化石からできている。
  四万十帯より古い乱泥流堆積物もある。
  秩父には、四万十帯にない武甲山のような石灰岩の大
 きなブロックがある。
  塩酸で石灰岩の表面を溶かすと、3億年前のウミユリや
 フズリナやクサリサンゴなどが現れる。
  赤道地域の珊瑚で形成された石灰岩は、鹿島沖の日本
 海溝に、1億年前に出来た海山(第一鹿島海山)が沈み込
 もうとしている。
  人工地震波で見ると、プレートに曲げの力が働いて、
 石灰岩は分断され、半分は海溝に崩れ落ちている。
  こうして剥ぎ取られた海底の海山は、付加体の一部と
 なって取り込まれ、やがて地上に現れる。
  1億5000万年に、これが起きたのが武甲山の石灰岩の山
 の頂(いただき)。
  日本列島に、4億年以上前の岩石を含む黒瀬川構造体が
 ある。
  高知県横倉山・・ここには、4億年前に堆積した地層の
 凝灰岩がある。
  ここの三葉虫の化石は、4億年前のオーストラリアの三
 葉虫の化石によく似ている。
  また、鱗木(りんぼく)の化石は、この四国とオース
 トラリアと中国だけに見られるタイプである。
  陸の植物である鱗木の化石が、破壊されないで見つか
 るのは、分析学の発達によって分かったことは、4億2000
 万年前、アジアの大部分が赤道付近にあったということ
 だった。
  シベリア・北アメリカ・中部アジア・東アジア・北ヨ
 ーロッパ・南アメリカ・アフリカなど・・、
  その後、プレートの運動によって、2億6000万年前、ア
 ジアを造る大陸が北上して行った。
  北上・阿武隈・黒瀬川地塊、秋吉海山列、チーヌス海
 海嶺・・、
  2億年前、北半球では、チベットプレート、イザナギプ
 レート、ファロランプレートの上にある大陸が衝突して
 アジア大陸が作られた。
  その大陸の縁(へり)に、プレートの堆積物が付加し
 て黒瀬川帯などが作られ、
  海溝では、秩父帯などの付加体が形成された。
  1億3000万年前、プレート(イザナギプレート)の北上
 によって、ユーラシアプレートの大陸の縁に横ずれ断層
 が起き・・、
  長さ1000キロにわたる付加体が、断層帯に沿って移動
 し、中央構造線が出来上がった。
  7000万年前、プレート(イザナギプレート)の沈み込
 みによって四万十帯の付加が始まった。
  こうして赤道付近に生まれたアジアプレートが、アジ
 ア付近に様々な地層を運び、海溝(古日本海溝)で混ぜ
 合わされて、日本列島の土台が作られていった。
  1900万年前、大陸(ユーラシアプレート)の縁の地溝
 帯に海が侵入して、海底の拡大が始まり、200万年~300
 万年の間に、日本海が出来上がった(1450万年前)。
  800万年前、水没し、沈み込んでいた東北日本が、太平
 洋プレートによる沈み込みで隆起が始まった。
  その後、500万年前、伊豆・小笠原孤の高まり隆起が付
 加して丹沢山塊などを作った。
  50万年前、伊豆半島の衝突が始まった。
  その力で、本州に褶曲山脈が作られた。
  伊豆半島は、巨大な海底台地で・・、
  伊豆・小笠原弧の高まりは、次々に本州に衝突して来
 ている。
  海洋プレートの水分の作用で温められマントルが熔け、
 火山の列を作る。
  それ故、火山の列は、海溝に並行して作られることに
 なる。
  地震の震源が、海溝に並行して分布するのも、プレー
 トの沈み込みによって歪が溜まるためである。
  昭和61年12月、伊豆大島噴火、この様な太平洋岸での
 火山の噴火や地震が多く発生する。
  昭和49年5月、伊豆半島沖地震、
  太平洋岸の海辺に貝殻を含む岩石が良く見られるが、
 これは地震によって隆起した岩石で・・、
  太平洋岸にある段丘も、プレートによる隆起が作り出
 したもの。
  今も日本列島の沖、百数拾キロの沖にある海溝には、
 海洋プレートが沈み込み、付加体を造り続けている。
.
紀元前7億年~紀元前6億年、ゴンドワナ超大陸の存在
  大陸の移動は、大陸の集合と分裂の繰り返し・・
  6億年前、ゴンドワナ超大陸が南半球から赤道にかけて
 あった。
  ゴンドワナ超大陸の真ん中に太平洋スーパープルーム
 が上昇してきたことによって、ゴンドワナ超大陸は分裂
 しはじめた。
.
紀元前4億2000万年、この頃、アジアの大部分は赤道付近に
 あった。
  鱗木(りんぼく)の化石は、日本の四国と、オースト
 ラリアと、中国だけに見られ・・、
  陸の植物である鱗木の化石が破壊されないで見つかる
 のは、分析学の発達によってわかったのだが、この頃、
 アジアの大部分は赤道付近にあったことだった。
.
紀元前4億年、日本列島にある黒瀬川構造体には、この年代
 にできた岩石を含んでいる。
  また、高知県横倉山には、この頃に堆積した地層の凝
 灰岩がある。
  ここの三葉虫の化石は、4億年前のオーストラリアの三
 葉虫の化石によく似ている。
.
紀元前3億5000万年~紀元前1億8000万年、日本列島を形づ
 くる四万十帯より古い「秩父帯」ができた。
  この秩父帯は、この頃、赤道付近で降り積もった放散
 虫の化石からできた。
  また、この頃のウミユリや、フズリナや、クサリサン
 ゴなどから造られた石灰岩が秩父帯にはあり、その有名
 な山が武甲山で、セメントが作られている。
.
紀元前2億6000万年、プレート運動によって、アジアを造る
 大陸が北上して行った。
.
紀元前2億年、ゴンドワナ超大陸が分裂(ぶんれつ)した後、
 大陸がふたたび集合してパンゲア超大陸が生まれた。
  アフリカと南アメリカ大陸の間、ヨーロッパと北アメ
 リカ大陸の間、今の大西洋(たいせいよう)にそって、
 大西洋スーパープルームが上昇して来た。
  そして、ふたたびパンゲア超大陸が分裂しはじめた。
  また、この頃、北半球では、チベットプレート、イザ
 ナギプレート、ファロランプレートの上にある大陸が衝
 突してアジア大陸が作られた。
  その大陸の縁(へり)に、プレートの堆積物が付加し
 て黒瀬川帯などが作られ、海溝では秩父帯などの付加体
 が形成された。
.
紀元前1億6000万年、日本に到達するマントルが出来た。
  日本に到達するマントルができた東太平洋海嶺・・こ
 こから1億6000万年かかって、日本付近に移動して来た。
.
紀元前1億5000万年、武甲山が地上に隆起した。
.
紀元前1億3000万年、日本列島を形成する一要素の「枕状溶
 岩」が造られた。
  また、日本列島を形成する一要素の「赤い石灰岩」は、
 この頃のプランクトンの化石から出来た。
  この岩石の堆積した場所は赤道付近の海嶺。
  そして、その上にナンノプランクトンが堆積するナン
 ノ石灰岩が堆積されてできた。
  また、この頃、プレート(イザナギプレート)の北上
 によって、ユーラシアプレートの大陸の縁に横ずれ断層
 が起き、長さ1000キロにわたる付加体が断層帯に沿って
 移動し、日本列島の中央構造線が出来上がった。
.
紀元前1億年、日本列島を形成する一要素の1億年前の放散
 虫化石が含まれる岩石が形成された。
  (参考)放散虫:ほうさんちゅう、「放射状の棒」を
     意味する・・原生生物の一群。
      主に、海のプランクトンとして出現する単細
     胞生物で、珪酸質などからなる骨格を持ち、そ
     のため微化石として発見される。
  この放散虫の岩石の上に、風で運ばれた赤い粘土が、
 頁岩となってその上に堆積した。
  また、この頃にできたのが鹿島沖の日本海溝にある海
 山(第一鹿島海山)で、今、日本海溝に沈み込もうとし
 ている。
.
紀元前9000万年、日本列島を形成する一要素である「赤や
 緑の頁岩(けつがん)」が、この頃に作られた。
.
紀元前8300万年、パンゲア超大陸は分裂を続け、太平洋と
 大西洋(たいせいよう)のスーパープルームが断続(だ
 んぞく)的に活動した時期・・
  このスーパープルームの活動で、海洋底(かいようて
 い)に火山活動によるいくつもの巨大(きょだい)な火
 山の台地(だいち)である海台(かいだい)ができた。
.
紀元前7000万年、日本列島を形成する一要素の「乱泥流堆
 積物」がこの頃に出来た。
  この乱泥流堆積物は、この後、火山灰層と泥岩の互層
 や、チャートや、枕状溶岩などとかき混ぜられメランジ
 ュと呼ばれる層となる。
  メランジュはかき混ぜるという意味。
  そして、この頃、プレート(イザナギプレート)の沈
 み込みによって四万十帯の付加が始まった。
  こうして赤道付近に生まれたアジアプレートが、アジ
 ア付近に様々な地層を運び、海溝(古日本海溝)で混ぜ
 合わされて、日本列島の土台が作られていった。
.
紀元前1900万年、大陸(ユーラシアプレート)の縁(へり)
 の地溝帯に、海が侵入して、海底の拡大が始まり、200万
 年~300万年の間に日本海が出来上がった(1450万年前)
.
紀元前1500万年、地球の磁場は、度々、南北が逆転して来
 た。
.
紀元前800万年、水没し、沈み込んでいた東北日本が、太平
 洋プレートによる沈み込みで隆起が始まった。
.
紀元前700万年、初期猿人がアフリカに出現した。
  二足歩行をした・・
  そして、猿人へと進化して行く。
.
紀元前500万年、伊豆・小笠原孤の高まり隆起が付加して丹
 沢山塊などを作った。
.
紀元前200万年、猿人(能容積500㏄、ゴリラもこの程度、
 木製の道具を使ったか?)から原人(能容積500㏄から
 1200㏄、石器を使うようになる)へ移り変わって行く・・
  そして、この原人がアフリカから出ていく(180万年
 前)・・
  ジャワへ180万年前から160万年前に至る・・
  ジョージアへ170万年前に至る・・
  アジアへ160万年前から120万年前に至る・・
  ヨーロッパへ100万年前に至る・・
  そして、各地で人種が形成されていく・・
.
紀元前55万年、日本列島を形成する要素の一つの堆積が始
 まる。
  日本列島形成の一例・・55万年前から、55万年かかっ
 て南海トラフの堆積層が作られて来た。
  この堆積層が、プレートテクトニクスによって列島を
 作っていく。
.
紀元前50万年、伊豆半島の衝突が始まる。
  その力で、本州に褶曲山脈が作られた。
  伊豆半島は、巨大な海底台地となる。
  伊豆・小笠原弧の高まりは、次々に本州に衝突して来
 た。
  海洋プレートの水分の作用で温められマントルが熔け、
 火山の列を作った。
  火山の列は、海溝に並行して作られた。
  また、地震の震源が、海溝に並行して分布し、プレー
 トの沈み込みによって歪が溜まる。
.
紀元前40万年、ネアンデルタール人は、約40万年前に出現
 し、2万数千年前に絶滅したとみられるヒト属の一種・・
  ただし、新しい学説では、以前の学説よりも約1万年早
 く4万年前に絶滅していたと新しい化石年代は示している
 とする。
  そのネアンデルタール人は、花を敷いて葬送したとい
 う。
  また、身体的に欠陥のある人(手の悪い人)を丁重に
 葬ったという遺跡があるという。
.
紀元前20万年、旧人(能容積1500㏄、現代人とほぼ同じ容
 積)から新人(ホモ・サピエンス)へ・・
  この新人(ホモ・サピエンス)がアフリカから出てい
 く・・
  ホモ・サピエンスの化石はアフリカか中東からしか出
 土しない。
  その他の地域から、ホモ・サピエンスの化石が出て来
 るのは紀元前5万年前くらいの年代からとなる。
  ヨーロッパからの化石の出土も紀元前4万年くらい前か
 らとなる。
  南アジア・東アジア・オーストラリアも、どんなに古
 くても紀元前4万年くらい前からの化石の出土となる。
.
紀元前6万年~紀元前4万年、大陸に地続きだった日本列島
 に、あらゆる方向から人類がやって来た・・
     ・
     ・
     ・
1982年、日本列島の成り立ちを調べるために、国際研究で、
 四国沖が掘削された・・
  そして、その南海トラフの浅い構造が調べられた。
.
2018年、アイヌの方々が、「日本列島の先住民だ」と、今・
 現代の2018年に主張する・・その様な会に出た。
  しかし、これは、大間違い。
  日本列島が、まだ、大陸と地続きだった頃、今から6万
 年前から4万年前に、アイヌの方々が日本列島に来て、そ
 して、交雑もしないで日本列島に居たのであるならば、
  また、それ以後も、アイヌの方々が交雑もしないで今・
 現代に至って居るというのであるのであるならば、日本
 列島の先住民と言えるが、その様な状態であったとは、
 まったく言えない・・その様な状態ではなかったので、
 アイヌの方々が、先住民であると、到底、言えない。
  6万年前から4万年前から、地続きの日本には、あらゆ
 る方向から人々が日本列島にやって来た・・アイヌでは
 ない。
  また、人間の交雑は、最近、ネアンデルタール人の血
 が交雑されて、我々の血に混ざっていると科学が証明さ
 れたが、人間の交雑は、この様に広い範囲で交雑されて
 いて・・アイヌだけが交雑されないで来たとは、到底、
 言えない。
  大陸と地続きの頃から、あらゆる方向から人間が日本
 列島にやって来た・・それらの人々・・
  また、それ以降も、引き続き、日本列島にやって来た
 人々・・
  それらの方々が、広い交雑の中から「日本列島の先住
 民の人々」を形成し、出来上がった。
  その人々が、本州の人々や、津軽の人々や、九州の人々
 や、北海道の人々や、会津の人々や、四国の人々や、無
 土器の人々や、縄文の人々などなどとなった・・そして、
 本州人やアイヌの人や琉球の人や熊襲(くまそ)などな
 どとなった。
  6万年前や4万年前から日本にやってきた人々から見れ
 ば、そんなことは、最近の事なのだ。
  アイヌの方々だけが先住民だなんて、到底、言えない。
  それも、そのことを政府に認めさせたというが、筋の
 通らない無理を強いたのだろう・・歴史的、科学的智識
 の裏付けのない馬鹿々々しい話だ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)606E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年8月)

2018-08-06 16:24:02 | 日記
題:(増補版)606E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月16日、日英通商航海条約が締結された。
  この条約によって、領事裁判権が撤廃された。
  安政五ヶ国条約の一つとして結んだ日英修好通商条約
 にかわって、この日、駐英公使・青木周蔵(しゅうぞう)
 が、イギリス外相のキンバリーと調印した。
  この条約は、1899年7月17日に発効し、最初の対等条約
 となった(陸奥(むつ)条約とも呼ばれる)
  日本は、この条約に準じて、他の欧米諸国とも法権の
 回復の新条約を締結した。
  これ等の不平等条約を発効させて、明治初年以来の懸
 案の条約改正交渉に成功した。
  日本も、やっと、欧米列強と対等の国際的地位に立つ
 ことが出来た。
  キンバリー英国外相は、この条約の成功は清国の大兵
 を敗走させるよりも日本の地位を高めたと祝辞を述べ、
 日本の立場に理解を示した。
  また、陸奥宗光外相も、日清戦争にイギリスの理解と
 援助を期待できるとした。
  この条約で、領事裁判権は取り返すことが出来たが、
 まだ、関税自主権の回復はできなかった。
  この関税自主権の回復は、1911年4月3日の新条約(小
 村条約)の調印による税権回収を待たねばならなかった。
.
1894年7月29日、東京府庁舎が落成した。
  設計は、妻木頼黄
  建設場所は、麹町区有楽町(現在の有楽町駅前)
  当初、東京府庁舎は、東京市幸橋門内(現在の内幸町
 一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されていた。
  そして、1898年に、東京市庁舎も完成した。
  1943年の第二次世界大戦中に、東京市 と東京府 が廃
 止され、東京都が設置された。
  建物は戦災で焼失した。
  1955年3月、敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会に
 よって文化財指定された。
.
1894年7月、日清戦争により、長崎の清国人に引揚命令が下
 された。
  しかし、長崎県知事の以下の諭告(ゆこく、さとし言
 い聞かせること。また、その言葉)によって、、、267人
 の中国人が残った。
  「仮令(たとえ)日清両国間に如何なる関係あるも、
 在留人民に対し充分の保護を与ふるは、当然の儀に付、
 反目敵視粗暴の挙動無之様相心得べし」と。
.
1894年7月、北海道庁が、帝国大学工科大学教授・田辺朔郎
 に鉄道・港湾・疏水・運河などについての調査を依頼す
 る。
  1894年8月から、田辺は、北海道鉄道ルートを調査開始
 した。
  また、北海道庁内に鉄道調査会が設置された(技師の
 委員は田辺、廣井、佐藤だった)
  (参考)田辺朔郎:たなべさくろう、1861年12月2日~
     1944年9月5日、土木技術者、工学者。
      琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関
     門海底トンネルの提言を行なうなど、日本の近
     代土木工学の礎を築いた。
      北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線
     鉄道開発に着手し、狩勝峠の名付け親。
      1896年、北海道庁長官を務めていた岳父(が
     くふ、妻の父)北垣国道に請われ、東京帝国大
     学を退任し、北海道庁鉄道部長として北海道官
     設鉄道の計画・建設にあたる。
      アメリカの科学誌『サイエンティフィック・
     アメリカン』に論文掲載される。
.
1894年7月、陸軍省の依頼によって、日本鉄道が目黒駅~
 品川駅間にある大崎駅から分岐して、東海道線の品川駅
 ~大森駅間にある大井に接続する軍事専用線(品川西南線)
 の起工を行なった(8月下旬竣工)
  これは、連絡駅の役目にあった品川駅における貨車の
 滞貨があったため、日清戦争の関係もあって円滑輸送を
 図るべく、陸軍省が逓信省鉄道作業局に路線建設工事を
 委託させて、1894年8月、大崎駅~大森駅間に陸軍省直通
 短路線を開通させた。
  因みに、日本の最初の鉄道の開業と言われる新橋~横
 浜間の全線開業より先に・・、
  1872年6月12日には、品川駅~横浜駅間が先行して仮開
 業していた。
.
1894年7月、甲武鉄道会社が、陸軍省の委嘱を受けて、青山
 練兵場への軍用線、および、青山軍用停車場の建設に着
 手した。
  これは、現在の千駄ヶ谷駅と信濃町駅の間の神宮外苑
 あたりに突貫工事で、1894年9月17日に、青山軍用停車場
 を開業させ、1894年9月23日から軍用輸送を開始した。
.
1894年7月、阪鶴鉄道会社に、神崎から三日町、および、
 篠山町近傍を経て、福知山(京都鉄道)に至る鉄道の敷設・
 運輸営業の仮免状が下付された。
  1929年4月30日、免許状下付。
  (参考)阪鶴鉄道:はんかくてつどう、大阪から福知
     山を経て舞鶴を結んでいた鉄道路線、および、
     その路線を運行していた鉄道会社。
.
1894年8月1日、日本と清国は、互いに宣戦布告をした。
  天津条約によって小康状態はあったが、日清戦争が
 公式に始まった(~1895年)
  まず出兵し、朝鮮を力で抑え、属国だとして扱って来
 た大国・清への挑戦が始められた。
 ・清国と和破れる(氷川清話)
  中国・清国の宣戦布告書には、『朝鮮は、我が大清の
 直轄の属領』と書かれ・・
  また、『200年余も修めて来た』と言っている。
  清国の宣戦の詔勅(部分):「朝鮮ハ我大清ノ藩屏(
 ハンペイ:直轄の属領)タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修
 メルハ中外共ニ知ル所タリ…」
  (参考)職貢:しょくこう、中国王朝皇帝に対する周
     辺国や少数民族の進貢(しんこう、みつぎ物を
     差し上げること)
  清は、この様な意識と態度だった。
  ただのあいさつ代わりの御中元だったかもしれない?
 また、みかじめ料的なところもあった・・
  それに対し・・
  日本は、『朝鮮は自主独立の国』とし、そして、清国
 は、日本の行為に妨害ばかりして来ていた・・、
  また、朝鮮も、『自主独立の国』との回答を日本に寄
 せ、助けを求めて来ていた。
  この時点で、外国は清国が勝つとみており、また、清
 国も勝つと考えていた。
  そして、1888年には、すでに、山縣は、内閣総理大臣・
 伊藤博文に、「軍事意見書」で以下のことを述べていた・・
  「我国の政略は朝鮮を、自主独立の一邦国となし、欧
 州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有(りゃくゆう、
 奪い取って自分のものとすること)するの憂いなからし
 むに在り」
.
1894年8月1日、新聞報道に対する政府方針
  1891年の大津事件に於いて、自由な新聞報道が外交に
 係るこの事件の性質上、大いに問題となった。
  その様な新聞報道の自由性に関し、この日清戦争の開
 戦時も、重大な政府の関心事となった。
  しかし、政府は、この開戦時に、新聞報道に神経を尖
 らせはしたが、政府は新聞検閲は実施しなかった。
  そして、1894年8月1日に・・、
  「外交又ハ軍事ニ関スル事件ヲ新聞紙雑誌及ヒ其ノ他
 ノ出版物ニ掲載セントスルトキハ行政庁ニ其ノ草稿ヲ差
 出シテ許可ヲ受クヘシ」という緊急勅令第134号を公布し
 た。
  しかし、効果的な対策とはならなかった。
.
1894年8月11日、九州鉄道の熊本駅~川尻駅間が開通した。
  九州鉄道は、1894年8月1日に、九州各地の軍隊が門司・
 小倉に集結したが、特に、熊本第6師団の兵員輸送に大き
 な役割を果たしていた。
  また、この日、1891年8月の鳥栖~佐賀間開通以来の新
 線として熊本駅~川尻駅間が開通した。
  熊本駅~宇土駅間は、橋梁工事が多く、経済不況と相
 まって工事が遅延していた・・九州鉄道は工事期限を延
 長した。
  (参考)九州鉄道:きゅうしゅうてつどう、明治時代
     に存在した九州の私設鉄道会社。
      北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、2003
     年から九州鉄道記念館として利用されている。
.
1894年8月20日、広島駅~宇品駅間の仮設軍用鉄道が開通し
 た。
  山陽鉄道の広島駅~宇品駅間の5.8キロが竣工した。
  陸軍省から委託された軍用鉄道仮設工事だった。
  1896年10月、陸軍省から借り受け
  1896年12月、改築工事に着手
  1897年4月、竣工し
  1897年5月1日、開業した。
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1894年8月20日、暫定合同条款(ざんていごうどうじょうか
 ん)
  日本は、朝鮮と暫定合同条約を調印した。
  「大日本・大朝鮮、兩國政府ハ、日本暦明治二十七年
 七月二十三日、朝鮮暦開國五百三年六月二十一日、漢城
 ニ於テ兩國兵ノ偶爾衝突ヲ興シタル事件ヲ治メ竝將來朝
 鮮國ノ自由獨立ヲ鞏固ニシ且彼此ノ貿易ヲ奬勵シ以テ益
 兩國ノ親密ヲ圖ラムカ爲メ茲ニ合同條款ヲ暫定スルコト
 如左
  一 此度日本國政府ハ朝鮮國政府ニ於テ内政ヲ改革セ
   ムコトヲ希望シ朝鮮政府モ亦其ノ急務タルヲ知覺シ
   其ノ勸告ニ從ヒ勵行スヘキ各節ハ順序ヲ追テ施行ス
   ヘキコトヲ保證ス・・」
  内容・・
  大日本・大朝鮮両国政府は、日本暦明治27年7月23日・
 朝鮮暦開国503年6月21日、漢城に於て両国兵の偶爾衝突
 を興したる事件を治め、竝に将来朝鮮国の自由独立を鞏
 固にし、且彼此の貿易を奨励し、以て益両国の親密を図
 らむが為め、茲に合同條款を暫定すること如左
  一.此度日本国政府は、朝鮮国政府に於て内政を改革
   せむことを希望し、朝鮮政府も亦其の急務たるを知
   覚し、其の勧告に従ひ励行すべき各節は、順序を追
   て施行すべきことを保証す。
  一.内政改革の節目中、京釜両地及京仁両地間に建設
   すべき鉄道一事は、朝鮮政府に於て其の財政未だ裕
   ならざるを慮り、日本政府若は日本の或会社に訂約
   し、時機を見計ひ起工せむことを願ふと雖も、目下
   委曲情節ありて其の運に及び難し。
    依て良法を案出し、可成丈速に訂約起工の運に至
   るを要す。
  一.京釜両地及京仁両地間に於て日本政府より既に架
   設したる軍用電信は、時宜を酌量して條款を訂立し、
   以て其の存留を図るべし。
  一.将来両国の交際を親密にし、且貿易を奨励せむが
   為め、朝鮮政府は全羅道の沿岸に於て一通商港を開
   くべし。
  一.本年7月23日王宮近傍に於て起りたる両国兵員偶爾
   衝突事件は、彼此共に之を追究せざるべし。
  一.日本政府は、素と朝鮮を助て其の独立自主の業を
   成就せしめむことを希望するに因り、将来朝鮮国の
   独立自主を鞏固にする事宜に関しては、両国政府よ
   り委員を派し会同議定すべし。
  一.以上開く所の暫定條款は、畫押盖印を経たる後、
   時宜を酌量し大闕護衛の日本兵員を以て一律撤退せ
   しむべし。
  右暫定合同條款内永遠に循守す可き者は、後日更に條
 約として遵行すべし。
  此が為め、両国大臣記名盖印以て憑信を昭にす。
             大日本国明治27年8月20日
             特命全権公使 大鳥 圭介
             大朝鮮国開国503年7月20日
             外務大臣 金 允植
  (参考)京仁鉄道:けいじんてつどう、朝鮮の京城 (
     現:ソウル) ~仁川間に日本の資本によって敷
     設された朝鮮最初の鉄道。
      1896年、アメリカ人 J.モールスが、朝鮮政府
     からソウル~仁川間の鉄道敷設権を得た。
      しかし、資金調達ができなかったため、翌年
     の1897年から日本が資金を出して権利を受け、
     敷設への準備を開始した。
      1897年、京仁鉄道引受組合を設立、工事開始。
      1899年、合資会社に改組。
      1900年7月8日、開通した、全線約 38.9km。多
     額の日本の資金が投入された。
  (参考)京釜鉄道:けいふてつどう。日本政府と財界
     の援助のもとに、朝鮮の京城 (現ソウル) ~釜
     山間に敷設された鉄道。
      1898年9月、資本金2500万円、取締役会長・渋
     沢栄一で京釜鉄道会社が設立され、
      1902年同8月、着工、多くの紛糾を経て
      1904年、完成。
      中国の鉄道との連結のため広軌軌道の1435mm
     とした。
      ソウル~釜山間 450km。 多額な日本の資金が
     投入された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の疑惑の「財政負担ゼロ」という誘惑に騙されてしまった。
    そして、EUがギリシャを突き放した・・支援は失敗だった・・
    ギリシャの実態は悪化している
    EUの美しい理念なんて「絵に描いた餅」なのだ・・
.
1295年11月3日、モンゴルのイルハン朝の第7代君主ガザン・
 ハンが、1295年10月4日にバイドゥを討ち破り、この日に
 君主の座に就いた。
  即位初年の勅令(ヤルリグ)で、イスラーム以外の主
 要建造物の破壊命令を発した。
  すなわち、仏教寺院(ブトハーネ、マウブード)、ゾ
 ロアスター教寺院(アーテシュキャデ)の破壊命令が発
 せられ、キリスト教会堂(キャリーサー)、ユダヤ教会
 堂(キャニーセ)もまたそれに続いて破壊を蒙った。
  既に、テグデル・ハン時代に、テグデル自身も含め、
 モンゴル軍民のイスラーム化の徴候が出始めていたが、
 このガザンの治世になって、イルハン朝は、既存のモン
 ゴル国家体制や慣習などを維持しながらも、国家規模の
 イスラーム化を推進して行った。
  中国のモンゴル時代のペルシャ史料「集史」に、オゴ
 タイ・ハーンの言葉で・・、
  「チンギス・ハーンの法令:一人回教徒を殺したら、
 罰金は40バリシ。
  一人漢人を殺したら、賞金は一匹のロバと同じ」。
  モンゴルのハーンたちは、文化水準が高く、財務が得
 意な回教徒を重要視した。
  モンゴルの各地の役所に、モンゴル人と一緒に回教徒
 が並んで居た。
  また、役所の制度にも、役職にも、回教徒が上層部に
 居て優遇されていた。
  その様な規則もある、科挙、近衛部隊、官職の相続、
 兵器の装備など。
  これは、漢人上層の時、金と権力の集中現象が起き、
 それが看過できない程度になったこともあったからだっ
 た。
  因みに、「集史」(しゅうし)は、イルハン朝の第7代
 君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相
 であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史
 書で・・、
  イラン・イスラム世界、さらに言えば、モンゴル君主
 ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発
 展を記した記録として極めて重要な文献。
  モンゴル史の部分の編纂には、ガザン自身も多くの情
 報を口述し、これがモンゴル史の根本となったことはラ
 シードゥッディーンも序文で述べているが・・、
  これらのことからも「集史」は、ガザン自身の見解が
 色濃く反映された歴史書。
  その性格のため「集史」は、ペルシア語で編纂された
 歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語
 やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシ
 ア語の用語も多く含まれている。
  このため「集史」は、モンゴル帝国が持つユーラシア
 規模の世界性をまさに体現した希有の資料とされている。
  (参考)ガザン・ハン:1271年~1304年、イル・ハン
     国第7代の君主。
      在位:1295年11月3日~1304年5月17日
      中央集権的諸改革を断行し、イスラム教に改
     宗してイラン人との融和を図った。
      学問・芸術を奨励した博学・多才の帝王。
.
1862年9月14日、生麦事件が起きる。
  武蔵国橘樹郡生麦村(現:神奈川県横浜市鶴見区生麦)
 付近において、薩摩藩主・島津茂久(忠義)の父・島津
 久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回り
 の藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した。
  イギリスは、日本にこの賠償を要求した。
  そして、江戸幕府に圧力をかけるため、軍艦を横浜沖
 に集結させた。
  日本の法では、また、やり方では、この様な場合、馬
 を下り、そして、殿さまに敬意を払わなければならない
 のであり・・
  この場合の様に、馬から降りもしないで、乗ったまま
 で・・しかも、殿様の行列の進行を止め、そして、途切
 れさせ、さらに、その前を素通りするという行為は、も
 っての外の最低の不敬行為であって、この様な不敬が生
 じた場合、切り捨て御免をしても良いというのが、この
 時の日本の法であった。
  何処から見ても、薩摩藩の行為は正しかった。
  しかし、イギリスは、優位な立場を主張した。
  武力などの優位な立場を主張した。
  また、イギリスには「有色人種蔑視観」があった。
  見下す感情を持っていた有色人種の日本に於いて、白
 人のイギリス人が切り捨てられたことを怒った。
  幕府は、この事態に開戦もあり得ると、その危機を触
 書で庶民へ知らせた。
  また、将軍家の菩提寺であった増上寺の寺領だった現・
 横浜の石川村は、増上寺の荷物の避難先となった。
  そして、有事の際には、増上寺に駆け付け事にもなっ
 ていて・・増上寺の寺領の村々の人足たちは、中目黒村
 (増上寺領、目黒区)に交代で詰めた。
  また、戦いを想定した準備をした・・厚木街道などの
 付け替え工事が行われ、その人足などに、連日の負担も
 あった。
  幕府だけでなく、その周辺地域も、色々とその対応が
 なされた。
  結局、薩摩は、イギリスと戦争をすることになり、そ
 の結果、莫大な金をイギリスに盗られた・・
  そして、幕府までもが、イギリスに莫大な金を取られた・・
  国防力のない日本は、強国・イギリスに好き勝手に大
 金を取られた・・
  そして、この他にも色々と金を取られる日本という時
 代だった。
.
1940年、マンシュタイン計画
  日本と違って、ドイツの卑劣なところは、第二次世界
 大戦を事前に、計画的に、侵略する事を計画したことだ
 った。
  ドイツは、日本と違って、完全に侵略の意思があって、
 そして、戦争を始めた。
  その内の一つの「マンシュタイン計画」は、第二次世
 界大戦中の1940年に行われた「ナチス・ドイツのフラン
 ス侵攻」の主要計画だった。
  これは、1939年にフランツ・ハルダーが考案した計画
 を修正したものだった。
  故に、ドイツの第二次世界大戦は、弁解の余地が無く、
 事前の計画に基づいた侵略戦争だった。
  何年も、計画を前もって準備して、そして、意図的に、
 機械化部隊によって、電撃的に侵略を行なって行った。
  しかし、この様な大きな犯罪を、この様な行為を・・、
 戦後、ドイツは、まったく謝罪をしていない。
  日本とは「まったく違う」この様な極悪行為を、ドイ
 ツは、謝罪なしで戦後を過ごして来た。
  そして、さらに、ドイツは、この大犯罪の「戦争犯罪
 の賠償も一切していない」。
  ユダヤの方々への虐殺については、ニュルンベルク軍
 事裁判の「人道への罪」のホロコーストという大犯罪に
 対する賠償だけしかしていない。
.
1940年7月、フランス中部の都市ビシーに、ビシー政権が
 成立した。
  ペタン元帥が、上下両院の合同会議の統治権を持つ「
 正式な、そして、合法性のある政権」だった。
  ペタンは国家主席となった。
  そのため、アメリカやソ連なども正統政府の扱いをし
 た。
  しかし、フランスの国土の約5分の3を占める領土は、
 ドイツ軍が占領していたため統治は及ばなかった。
  ヨーロッパでのユダヤ人への迫害は、偏(ひとえ)に、
 他の事はさておき、ドイツだけのものではない。
  フランスもユダヤ人迫害の責任は逃れ得ない・・逃れ
 ることが出来ない。
  ドイツに占領された頃のフランスには、対ドイツ協力
 の政権であるこの「ビシー政権」ができた。
  強制収容所へ送られるユダヤの方々が、殺されるとい
 うことを知っていながら、このビシー政権は、ユダヤの
 方々を強制収容所送りを行なった。
  この様な政権が、連合軍に打倒されたのだから「フラ
 ンスは敗戦国」というのが常識である。
  しかし、連合国は、その判断を甘くして、フランスを
 連合国側へ入れてしまった。
  イギリスに亡命していたドゴールが、巧く立ち回って
 戦勝国側らしくなった。
  しかし、こんな行為は・・まゆつばである。
  また、「スイス」も、「バチカン教皇庁」も、「東ヨ
 ーロッパ諸国」も、「ソ連」も同罪である。
.
2014年4月30日、安倍首相が、ドイツを表敬訪問しても、一
 切、ドイツの報道のすべてで無視された・・一切、報道
 される事は無かった。
  ナチス・ドイツの計画表では、ユダヤ人とジプシー(
 ロマ)を絶滅させたら、次は、ポーランド人、ウクライ
 ナ人・・という順序で、次々に、民族を消し去ることに
 なっていた。
  そして、この当時、ドイツの成年男子の二人に一人は、
 ナチスの協力者だった。
  そして、ドイツの卑劣で卑怯なのは、この様な真実を
 消したいため、日本を悪く言い続けた。
  その為、中国や韓国の言い分だけは報道するが、日本
 の主張は「まったく無視した状況」となっている。
  南京問題も、慰安婦問題も、尖閣諸島の問題も、10年
 も前から、ドイツは、中国と韓国の言い分だけを報道し
 て来た。
  日本を貶(おとし)めるNHKは、馬鹿なNHKは、
 この事を知っていて、「日本を貶める番組を作ってドイ
 ツに提供した」・・よくこんなことが出来るのかと憤り
 が湧く・・
  マスコミに繰られたドイツは、日本を肯定している人
 は、わずか28%で・・日本を否定する人々が46%と、日
 本を良くないと見ている人が18%も多い。
  この原因は、ドイツの新聞が、マスコミが、すべて日
 本を悪く報道する結果から、この様な状況になっている。
  因みに、中国は、肯定5%、否定90%、否定が85%も多
 くて最悪。
  次が、韓国で、肯定15%、否定79%で、否定が64%も
 多い。
  ドイツは、この次の第3位に、日本を否定する国になっ
 ている。
  安倍首相も、徹底的に悪く書かれている。
  経済が日本に抜かれ、ベンツなどの工業部門も、日本
 に抜かれ・・この日本が、ドイツを追い抜いたところが
 心地よくないと思っている。
  日本政府の「日本の主張」も・・ドイツの報道はとり
 あげない。
  2014年4月30日、安倍首相が、ドイツを表敬訪問しても、
 一切、ドイツ報道のすべてで報道される事は無かった。
  朝日新聞の嘘報道も、事実を否定したいために利用し
 ている・・、
  だから、日本の閣僚が、例えば、一つの嘘と判明した
 証言を使って全否定するのは、ドイツのホロコーストが、
 まったく無かったと否定する様なものだという言い方で
 ドイツのマスコミは報道したりする・・、
  朝日新聞の吉田清治の嘘行為をあばいても、全否定は
 出来ないと言っている・・
  こんな欺(あざむ)く報道の仕方で、ドイツの国民の
 方々を繰っている。
  書く必要もない韓国の嘘を付け加えて、日本の拉致し
 た女性たちには「15歳から6歳の少女たちが、多数、含ま
 れていた」と、まったく存在しない嘘まで書くという報
 道ぶりとなっている。
  日本の外務省が抗議すると、尾ひれはひれを書いて、
 さらに、外務省から攻撃にさらされたと書く始末となっ
 ている。
  そして、日本外務省は、「間違いだと言った報道」の
 証拠も示さなかったとも書く始末となっている。
.
2014年11月6日、メキシコが、中国の高速鉄道の導入の契約
 を破棄した(総距離210キロ、5000億円規模)
  この契約破棄の背景には、中国によるペニャ・二エト
 政権への贈賄疑惑が一大スキャンダルに発展したことも
 あった・・、
  結局のところは、技術の劣る中国製造の高速鉄道は危
 ないという判断があった。
  (資料)
  メキシコ、中国勢受注の高速鉄道契約を破棄
     (2014年11月7日 / 17:07)
  [メキシコ市 7日 ロイター] メキシコ政府は6日
 遅く、ペニャニエト大統領が、中国国有企業を中心とす
 る企業連合が受注していた高速鉄道建設をめぐる契約を
 破棄したと発表した。
  同企業連合だけが応札していたことに批判が高まって
 いた。
  メキシコ政府は新たな入札を行う方針。
  高速鉄道は、首都メキシコ市と中部の都市ケレタロを
 結ぶ計画。
  議員らは、中国国有の中国鉄建を中心とする企業連合
 を政府が特別扱いしたと非難していた。
  (資料)
  中南米で、中国の高速鉄道の建設計画が次々と失敗に
 終わっている。
  2009年の夏に発表されたベネズエラでの450キロの高速
 鉄道計画は、現在ではほとんどが放棄状態となっている。
  中国の建設スタッフは、すでに現地を去り、関連工場
 は廃墟となり、金目のものはすべて持ち去られた状況と
 なっている。
  中国メディアの言い分は・・、
  ベネズエラは原油輸出国だが、原油価格の暴落で経済
 危機に陥った・・だった、
  また、高速鉄道が完成しても電力不足の深刻なべネズ
 エラでは車両を走らせられないし、ベネズエラ政府もこ
 れを維持できないと報道した。
  ブラジルの場合、中国は鉄道事故を起こしているため、
 入札自体が出来ないとした。
  (資料)
  2015年12月26日、産経・・(抜粋)
  メキシコの高速鉄道計画が迷走の末に事実上頓挫し、
 波紋を広げている。
  中国企業がいったん落札したが、撤回されたあげく、
 メキシコのペニャニエト政権に対する贈賄疑惑など大ス
 キャンダルに発展し、世界中から批判が殺到。
  追い込まれたメキシコ政府は原油安と財政難を理由に
 計画そのものを棚上げした。
  しかし、高速鉄道の本格的な海外進出プロジェクトの
 モデルにと期待していた中国側は激怒し、補償を求める
 騒ぎに拡大している。
  メキシコ政府は1月30日、2015年予算からの歳出の2.6
 %削減などを柱とする財政緊縮策を発表した。
  緊縮策に同国が鳴り物入りで導入しようとしていた高
 速鉄道計画の棚上げが含まれていた。
  ペニャニエト政権は、原油安による財政悪化を受けた
 措置だとしているが、額面通りに受け取る関係者は多く
 はない。
  メキシコの高速鉄道計画は、メキシコ市と中部の都市
 ケレタロを最高時速300キロで結ぶもので、経済成長を牽
 引する柱として、ペニャニエト政権が各国から参画する
 業者を募った。
  三菱重工や川崎重工、ドイツのシーメンス、米国のゼ
 ネラル・エレクトリック(GE)など世界の名だたる企
 業が動いたが・・、
  昨年11月の入札には、中国鉄道建設総公司が率い、中
 国の車両メーカーの中国南車が中心となるコンソーシア
 ム(企業連合)のみが単独応札し、落札した。
  (資料)
  2018年7月16日、インドネシアは「中国に騙された」と
 後悔している。
  この様な状況になっているのは、高速鉄道計画(ジャカ
 ルタ~バンドン間・約140Km、2019年開業予定)。
  ほぼ、日本の新幹線方式での導入が確実視されていた
 が、中国の「財政負担ゼロ」という誘惑に騙されてしま
 った。
  ジョコ大統領は、円借款を利用する日本の新幹線方式
 の導入のオファーを蹴った。
  2016年1月に、盛大な起工式を行ったが、なかなか本格
 的な工事は進まなかった。
  中国側は「土地収用が終わらなければ出資しない」と
 一転して態度が変わった。
  今月(2018年7月)、工事全面スタートと発表したが、
 来年4月の大統領選挙には、絶対に間に合わない。
  再選を目指すジョコ大統領の実績として、選挙対策の
 PRにしようとの目論見は崩れ去った。
  過去に、インドネシアは、素晴らしい仕様書に騙され、
 粗悪航空機を導入してしまったことがあった。
  それは、中国製プロペラ旅客機MA60(中国名は新舟60)。
  墜落事故や、多くのトラブルを起こす欠陥機だった。
  この教訓が、高速鉄道の決定に生かされてなかった。
  (資料)
  じゃかるた新聞、2015年9月5日、日中案とも不採用 
 高速鉄道計画見直し 大統領 「両国に外交的配慮」 
 「中速鉄道」に変更
  ダルミン・ナスチオン経済調整相は4日、高速鉄道計
 画を見直す方針を明らかにした。
  ジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)大統領の意向と
 して、ナスチオン経済調整相が谷崎泰明駐インドネシア
 大使に伝えた。
  インドネシア政府は、日本と中国が受注を目指してき
 た高速鉄道事業のどちらも採用せず、替わりに同区間で
 時速200~250キロの「中速鉄道」の導入を目指すことで、
 再度検討する方針。
  ナスチオン経済調整相は4日、経済調整省で谷崎大使
 と会談し、高速鉄道の計画案を採用しないことを伝えた。
  谷崎大使によると、インドネシア政府はジャカルタ~
 バンドン間(150キロ)が高速鉄道を採用するほどの長距
 離区間ではないことと、同事業には政府予算を投入しな
 い政権の意向に沿わなかったことが最終的な見直しの理
 由と説明した。
  日本と中国いずれの提案もインドネシア政府が事業の
 一部を負担する内容だった。
  谷崎大使は「(高速鉄道計画は)前政権からの要望だ
 ったため非常に残念だが、大統領が決めたことなので結
 果を受け止める」と述べた。
  政府当局者によると、ジョコウィ大統領は側近に「い
 ずれかを採用すると、負けた国に恥をかかせる。
  日中のメンツを守りたかった」と述べ、日中への外交
 的配慮も見直しの背景にあったことをにじませた。
  ナスチオン経済調整相は、高速鉄道に代わり、同区間
 で「中速鉄道」導入を検討すると表明。
  同相は高速鉄道よりも10分ほど到着が遅れるが、30~
 40%ほど支出を抑えられると述べた。
  「中速鉄道であれば、日中両国以外にも投資を希望す
 る国が複数ある」とさらなる競争を示唆した。
  日本の提案してきた高速鉄道事業は、ユドヨノ前政権
 時の2013年に、首都圏投資促進特別地域(MPA)構想
 で合意された事業。
  ジャワ・スマトラ経済回廊の発展の中心に位置付けた
 同構想のもと、日本側は官民一体で提案を続けてきた。
  ユドヨノ政権から昨年引き継いだジョコウィ政権は、
 ジャワ島以外へ投資を誘致する方針を示し、均一な経済
 発展政策を掲げる。
  ジョコウィ政権は、高速鉄道事業に政府予算を投入し
 ないと明言していた。
  日本政府は、2013年3月、鉄道などのインフラ輸出拡大
 策を検討する「経協インフラ戦略会議」を設置した。
  インフラ関係受注額を2020年に約30兆円にするとの目
 標を掲げ、新幹線輸出はその柱の一つだ。
  日本勢はインドネシアのほか、シンガポールとマレー
 シア、タイ、インド、米国のテキサス州やカリフォルニ
 ア州などの高速鉄道計画で新幹線システムの輸出に向け
 て活動を続けている。
  今回の中国との受注合戦では、日本案は建設実績や安
 全面をアピールした一方で、中国案に比べ初期投資の負
 担の大きさが指摘された。
  これまでに日本の新幹線の導入が実現したのは台湾の
 み。
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2015年、この年のシリア難民危機が起き、深刻化したが、
 ドイツやスエーデンの移民の割合は、人口の20%を上回
 っており、国の形が大きく変貌して来ている。
  特に、ドイツ・・その国家は壊れて来ている。
  「かつて」という修飾語を付けてしか語れなくなって
 来たドイツとなっている。
  「かつてのドイツ文化」「かつてのドイツ哲学」「か
 つてのドイツ音楽」などとしか語れなくなっている・・、
  それを語ると「カタルシスに堕ちた」と言われるとい
 う状態となっている。
  (参考)カタルシス:解釈に2説あり、感情を純化する
     とするルネサンスからレッシング(ドイツ啓蒙
     思想の代表者)にいたる倫理的解釈と、感情の
     うっせきを瀉泄 (しゃせつ) するとする解釈が
     ある。
      舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることに
     よってひきおこされる情緒の経験が、日ごろ心
     の中に鬱積(うっせき)している同種の情緒を解
     放し、それにより快感を得ること。
  ヨーロッパの文化も、この様に共に壊れて来ている。
  バッハとかベートーベンとか、この様なクラシックを
 聞く人が居なくなっている。
  特に、若い人の間では、激減現象が起きている。
  日本人がイメージするドイツの姿は、過去のかつての
 時間の中に過ぎ去ってしまっている。
  ドイツのクラシック音楽会に来るドイツ人は、ほとん
 どがお年寄りの人たちだけ・・バッハやベートーベンも
 予想しなかっただろうという状態・・、
  日本は、クラシック音楽を聞きに行く若い人たちが多
 いが・・、
  また、日本の医師は、「カルテをドイツ語」で書くが、
 当のドイツは、「カルテを英語で書いている」という状
 態・・ドイツ文化は壊れて来ている。
  そして、ドイツを美しく語ったその一つだった「マイ
 スター制度」も・・これも化石の状態となっている。
  親がマイスターであっても、子供を昔どおりのやり方
 で跡継ぎにしようとは考えないドイツとなっている。
  マイスターは過去のものとなっている・・
  ドイツは、大量の移民の流入と共に、文化や国家が壊
 れて来ている。
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2018年6月24日、オーストラリアのシンクタンクが、日本の
 安倍首相を2位に信頼できる指導者とした。
  オーストラリアのシンクタンク、ローウィー研究所が
 調査レポート「2018 LOWY INSTITUTE POLL」を公開した。
  ☆リーダーの信頼度ランキング
  1位、イギリス、メイ首相、信頼できる68%、
  2位、日本、安倍首相、信頼できる66%
  3位、オーストラリア、マルコム・ターンブル首相
     信頼できる63%
  4位、フランス、エマニュエル・マクロン大統領
     信頼できる61%
  5位、中国、習近平国家主席、信頼できる43%
  6位、インド、ラーム・ナート・コーヴィンド大統領
     信頼できる37%
  7位、アメリカ、ドナルド・トランプ大統領
     信頼できる30%
  8位、ロシア、ウアジーミル・プーチン大統領
     信頼できる19%
  9位、北朝鮮、金正恩朝鮮労働党委員長
     信頼できる5%
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  ☆国別のグローバル信頼度ランキング
  1位、イギリス・・90%が信頼できる
  2位、日本・・87%が信頼できる
  3位、フランス・・84%が信頼できる
  4位、インド・・59%が信頼できる、40%が信頼できない。
  5位、アメリカ・・55%が信頼でき、44%が信頼できない。
  6位、中国・・52%が信頼でき、48%が信頼できない。
  7位、ロシア・・71%が信頼できない、28%の信頼できる。
  8位、北朝鮮・・90%が信頼できない、8%が信頼できる。
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2018年7月30日、EUが、ギリシャを突き放した。
  この日の読売新聞に・・、
  欧州連合(EU)が、ギリシャを突き放して、もう支
 援はしないとした・・と書いた。
  新聞の表題は・・、
  「ユーロ圏の支援、来月終了」「ギリシャ、遠い自立」
 「職安に長い列・高い税率に悲鳴」・・とある。
  そして、写真は・・、
  「アテネ市内の職業安定所が、詰めかけた人であふれ、
 入り口の外に座り込む人たち」・・を写している。
  また、表示しているデーターは・・、
  ギリシャ経済が、支援を始める前よりも悪化している
 ことを示している・・(何のための支援だったのか?)
 まったく改善がなされていない。
  失業率:2010年、12.7%→2017年、21.5%
  貧困率:    27.7%→    35.6%
  GDP成長率: -5.5%→     1.4%
  債務残高のGDPに対する割合:146.2%→178.6%
  そして、今まで嘘をつき、騙して来たギリシャの経歴
  2009年10月、政権交代を機に、ギリシャの財政赤字の
   過少申告の嘘が発覚する→財政危機へ落ち込む
  2010年5月、第一次支援、ユーロ圏と国際通貨基金(
   IMF)が1100億ユーロ(約14兆2000億円)の支援
   を決定
  2011年11月、ギリシャ政権が交代、欧州中央銀行出身
   のパパデモス政権の誕生
  2012年3月、第二次支援、ユーロ圏が1300億(約16兆
   8000億円)ユーロの支援を決定。IMFも支援決定。
  2015年1月、ギリシャ政権がチプラス政権に交替、EU
   などが言う緊縮政策に反対する政権が誕生。
  2015年7月、ギリシャとEUのつばぜり合いで、ギリシ
   ャ支援が失効し、事実上の債務不履行状態に、ギリ
   シャは陥(おちい)った。
  2015年8月、第三次支援:ユーロ圏が860億ユーロ(約
   11兆1000億円)をすることに決定・・EUが折れた。
  2017年7月、ギリシャが、一部の国債発行の再開を決定
   した・・誰が国債を買うか?
  2018年6月、ユーロ圏が支援終了を決定した、見放され
   た。
  2018年8月、第三次支援が終了する。
  庶民は高い税率に悲鳴を上げている・・例えば、アテ
 ネで果物店を営む50代の男性経営者は、「税金が高すぎ
 て利益はほとんど出ない」と悲鳴を上げる。
  IMFは、この様な高率の税収入などで2016年に黒字
 に転換したとした。
  しかし、ギリシャは、成長を先導する産業が乏しく、
 緊縮財政は企業の撤退や消費低迷を招き、失業率は高止
 まりした。
  ギリシャは、黒字が出せる普通の国になれるのか?
  国民の考えは、ユーロ圏の支援がなければ駄目だ、支
 援終了に反対が47%居る。
  また、今後、黒字転換したまま、景気も回復するとい
 う見方は出来ないとするギリシャ国民の方々が43%と、
 否定的見方の人々が多数を占めた。
  また、ギリシャ経済産業研究所は、ギリシャの経済再
 建に向けて、産業創出による歳入増加と雇用拡大が不可
 欠で、法人税などの引き下げで海外投資を呼び込む必要
 があるとしている。
  しかし、ギリシャの選挙が、来秋までに総選挙が予定
 されている・・そして、その選挙に立候補予定の「EU
 の緊縮財政政策に反旗を翻した」チプラス氏が、早くも
 緊縮財政を緩和する考えを示している。
  ギリシャは、「緊縮政策は放棄」し、「放漫財政」に
 逆戻りをする懸念が出ている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive