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(増補版)605E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)

2018-07-30 03:58:45 | 日記
題:(増補版)605E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月25日、高陞号(こうしょうごう)事件が起こった。
  日本への返事を無視して、朝鮮への兵員増強をしよう
 としている中国の清国・・、
  その様な行動を控えさせたいという日本・・、
  陸奥宗光外相は、「回答期限の25日以降は、清国の軍
 艦ないし兵員輸送船を攻撃しても外交上問題ない」とい
 う旨を海軍側に伝えた。
  最後通牒の回答期限を過ぎれば、清国の回答無視の決
 定により、清国軍の兵員増強・増派を確認した時点で、
 その行動阻止の行動がとれるという意味だった。
  7月24日、第一遊撃隊は、牙山湾内にて清国軍艦「済遠」
 「広乙」が護送する陸兵1000名を乗せた輸送船「飛鯨号」
 の船団と出会ったが、回答期日前であったため、そのま
 ま素通りさせた。
  そして、回答無視が確定した7月25日が来る。
  7月25日午前10時8分、清国陸兵1100名(乃至1500名)
 が乗船するイギリス船籍商船「高陞号」は、日本艦艇の
 指示を受けて豊島沖に停船した。
  7月19日の日本が清国へ出した最後通牒で、日本艦隊に
 よる朝鮮西岸の海上封鎖を予期した清国直隷総督兼北洋
 大臣の李鴻章は、イギリス商船をチャーターして陸軍兵
 を搬送させる策を取っていた。
  第一遊撃隊司令官・坪井航三少将は、指示を無視した
 「済遠」の追撃に向かった為、「浪速」艦長・東郷平八
 郎大佐が、このイギリスを敵に回しかねない難局に当た
 る事になった。
  東郷大佐は、浪速を高陞号から900メートル離れた位置
 に停留させると人見善五郎大尉に高陞号の臨検に向かう
 よう指示した。
  人見大尉は、カッター船に乗って高陞号に赴き、武器
 を手に殺気立つ清国兵達に囲まれた中で、高陞号船長ガ
 ルス・ウォルズウェーと面談した。
  浪速も警戒態勢をとって、砲門の狙いを定めていた。
  清国兵も迂闊には手を出せなかった。
  人見大尉は、高陞号の船籍と目的を尋ねて「英国ロン
 ドンのインドシナ汽船会社代理店ジャーディン・マセソ
 ン社所有のイギリス船籍商船である事」と、
  「清国政府にチャーターされ陸軍兵1100名と大砲14門
 その他を朝鮮・牙山港へ搬送する途中である事」を確認
 した。
  続けて、高陞号を浪速に随行させるよう求めるとウォ
 ルズウェー船長は承諾した。
  人見大尉は、浪速に帰還し、その旨を東郷大佐に報告
 した。
  東郷大佐が、自艦浪速に続くよう英文の手旗信号を送
 ると高陞号から「重大事態発生」の信号が返って来た。
  清国兵の反抗が起きていた。
  その反抗を読み取った東郷大佐は、再び、人見大尉を
 高陞号に向かわせた。
  そして、可能ならウォルズウェー船長を浪速に移乗さ
 せるよう指示した。
  しかし、清国兵は、イギリス人が船を降りるならば殺
 害すると脅迫した。
  ウォルズウェー船長は、高陞号を天津・大沽港に引き
 返させるという妥協案を提案した。
  それを受けた東郷大佐は、まず、船長に高陞号から離
 れるようにとの英文信号を送った。
  返信は、「こちらからは離れられない状態だ、そちら
 から船を送ってもらいたい」だった。
  東郷大佐は、「それは出来ない」と信号して、再び、
 「船を離れるように」と送信した。
  この交信は、高陞号が清国兵に乗っ取られていて、叛
 乱状態にあって、その非戦闘員の資格を喪失した確証を
 得る為だった。
  高陞号の船上の清国兵は騒ぎ出していて、すでに、停
 船してから4時間ほどの時間が経過していた。
  東郷大佐は、攻撃の警告を発した。
  7月25日13時45分、東郷大佐は、浪速のマストに攻撃警
 告の赤旗を掲げた。
  だが、高陞号船上はざわつくばかりで、反乱状態にあ
 り、返信も無い状態だった。
  混乱などが起き、状況の改善は無く、進展無しと判断
 した東郷大佐は魚雷発射を命じた。
  魚雷接近で、清国兵が動揺し、その隙を突いてイギリ
 ス人船員達が海に飛び込んだ。
  その状況を見て、東郷大佐は、すぐさまカッター船を
 出して救助に向かわせた。
  魚雷は不発に終わった・・
  清国兵たちは、海を泳ぐ船員達に銃撃し始めた・・そ
 のため、複数名が殺害された。
  この様な中、日本水兵は、ウォルズウェー船長を含む
 イギリス人船員3名の救出に成功した。
  その後、東郷大佐は、やむなく右舷砲2門の砲撃で高陞
 号を撃沈した。
  この高陞号事件は、この後、日英間の問題となった・・
  しかし、結論的には・・東郷平八郎大佐を評価する声
 が上がった。
  8月4日、イギリス政府は、長崎に英国海事裁判所を開
 き、8月7日に結審したが・・、
  この裁判は、ウォルズウェー高陞号船長に過失が無い
 事を証明するものだった。
  続いて、上海において開廷された英国海事裁判では、
 8月17日の結審宣告で、日本軍艦の行為は正当であるとの
 判決が下った。
  日本政府に対する賠償請求を放棄する勧告がイギリス
 本国政府に伝えられた。
  イギリス政府が、この勧告を受け入れた事で高陞号事
 件は決着した。
  その後、国際法を熟知し、厳格な判断を下した浪速艦
 長・東郷平八郎大佐を評価する声が上がった。
.
1894年7月25日、豊島沖(ほうとうおき)の海戦
  豊島沖は、朝鮮の泰安半島(たいあんはんとう、黄海
 に突き出た半島)の西方にあるが・・
  一方、この日、第一遊撃隊司令官・坪井航三少将が、
 指示を無視した清国艦の「済遠」の追撃に向かったが、
 清国艦と交戦状態となった。
  日本艦隊は巡洋艦3隻、清国側は巡洋艦2隻、砲艦1隻。
  日本側はほとんど損害はなく、清国艦隊は巡洋艦1隻が
 陸岸に乗上げて爆発し、砲艦は降伏し、巡洋艦1隻だけが
 かろうじて脱出した。
  この日、7月25日午前7時、この第一遊撃隊は、牙山湾
 の出口付近にある豊島沖にてスループ艦「武蔵」と通報
 艦「八重山」と合流する予定だった・・この時、牙山港
 から航進して来た清国艦「済遠」「広乙」と遭遇した。
  この清国艦2隻は、前日の清国兵員輸送船を牙山港に届
 けた後、続けて天津・大沽港から到着する輸送船「高陞
 号」を出迎えに行く所だった。
  同日7時52分、南西方向に進み黄海に出ようとする「済
 遠」「広乙」と、北上する第一遊撃隊の両艦隊が、距離
 3000メートルまで近づいた時、突然、攻撃が加えられた。
  豊島沖に轟音が響いたが・・どちらかの砲弾が発射さ
 れた。
  清国側は、日本艦艇が先に砲撃したとした。
  日本側の報告には、「吉野」が国際海洋法に則って「
 礼砲」を放つも「済遠」は返礼せず戦闘準備をし、やが
 て実弾を発射をして来た・・と、
  因みに、
  日清戦争の時、日本は、徹底的に、『兵士に国際法を
 教えた』。
  日本本土から、わざわざ教える係の者を派遣をしても
 教えた。
  アメリカやヨーロッパでもやらないことをした。
  逆に、アメリカは、卑劣な事をした。
  敵から情報を得るために、「罪を問わないから白状せ
 よ」と、白状を誘惑した。
  この様な事から、戦場では、国際法を遵守する精神が
 無くなっていた。
  国際法違反をしても許されるという心が働いた・・そ
 の様なことをアメリカは行なっていた。
  兵の国際法違反を、厳然と罰しないアメリカ。
  兵士が、まず、「第一に守らなければならない国際法」
 を、ないがしろにする様なアメリカだった。
  この様な事から、国際法で守られるはずの戦場の日本
 の病院が襲撃される事例も発生した。
  この様な風潮を、アメリカは生まれさせた。
  この様な事例をNHKは放送しない・・日本を貶める
 事例ばかりをNHKは放送している。
  日本の貶める番組ばかりを製作して放送するNHKと
 なっている。
  また、日本が、この様な海戦で、「何故、強かったか?」
 と言うと・・、
  中国・清が、イギリスにあれほどアヘン戦争で、嫌と
 いうほど痛めつけられ、辛酸な目に遭わせられたと言う
 のか・・殺され、国が亡びるほどアヘンを売り込まれ、
 廃人だらけにされ殺されているのに、その喉(のど)元
 が過ぎれば「朝鮮や日本を居丈高に脅し」、虐(いじ)
 めにかかっている。
  その様な行為で・・散々辛酸な目をなめて来て、分か
 っている中国・清のはずだが・・、
  「何故、同じ様なことをするのだ」と、日本は、その
 不正義を見かねていた、そして、立ち上がった。
  日本の艦隊には、「その正義観があった」、だから強
 かった・・兵の士気も上がったのだった。
  日本は、明治の開国以来、富国強兵策でやって来て、
 この様な状況を生むまでに精進して来た・・
  欧米列強は、中国・清が勝つだろうと予測していた・・
  その様な予測の差を、日本は、逆転させていたのだっ
 た。
  今まで、欧米列強が、力を誇示し、中国や朝鮮・アジ
 ア諸国、そして、インドなど、好き勝手に力を誇示して、
 うまい汁を吸っていた・・日本は、その様な姿に憤(い
 きどお)りを抑(おさ)えながら、日本は国を富ませて、
 兵を強くする努力をして来ていた・・
.
1894年7月25日、政府派遣の伝染病研究所長・北里柴三郎が
 香港でのペスト流行実地調査の帰途、長崎に立ち寄った。
.
1894年7月25日、下総鉄道の佐倉駅~佐原駅間の建設仮免許
 状が下付された。
  成田山新勝寺は、江戸時代も江戸っ子に親しまれ、明
 治の鉄道の時代になっても、鉄道で結ぼうという構想は
 早くからあった。
  1887年(明治20年)に、本所駅~市川駅~ 佐倉駅~佐
 原駅間を結ぶ構想の武総鉄道が設立され・・さらに・・、
  1889年(明治22年)に、佐倉駅~成田駅~佐原駅間を
 結ぶ構想の北総鉄道が設立された。
  しかし、当初、千葉県は、東京への交通手段で鉄道と
 利根川水運の両方があると、競合し、共倒れするのでは
 ないかと恐れた。
  そして、利根運河ができている以上、同地域には鉄道
 は不要だとの見解になった。
  この様な経緯で、この路線の建設は大分遅れた。
  やっと、この年・1894年(明治27年)になって、本所
 駅~市川駅~佐倉駅間に総武鉄道(後の総武本線)が開
 通した。
  そして、成田までの開通はまだまだ先だった。
.
1894年7月26日、播但(ばんたん)鉄道の姫路駅~寺前駅間
 が開通した。
  播但線は、兵庫県姫路市の姫路駅から兵庫県朝来市の
 和田山駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線
 (地方交通線)で・・播但鉄道は、この姫路駅~寺前駅
 間が開業すると同時に設置された。
  この路線は、山陽本線と山陰本線を結ぶ陰陽連絡路線
 で・・阪神大震災によって、神戸周辺の鉄道が不通にな
 った時は、バイパス路線として活躍した路線だった。
  関西の代表的な非電化路線であった。
  そのため、1972年(昭和47年)に、蒸気機関車の廃止
 時は・・、
  また、1992年(平成4年)3月14日の客車列車全廃時に
 は、それぞれ多くの鉄道ファンが沿線に詰めかけた。
.
1894年7月27日、甲午改革(こうごかいかく)が開始された。
  1894年(甲午の年)から1896年にかけて、朝鮮にて内
 政改革が行なわれた(第一次甲午改革)
  日本のアドバイスによって、金弘集政権の下で、官制
 の改革による国政事務と宮中事務が分離され、また、銀
 本位制が採用され(通貨改革)、身分差別の撤廃、拷問
 の廃止など、広範囲な改革が行われた。
  金弘集(きんこうしゅう⇒キム-ホンジプ )政権は開
 化派の政権で、近代化のための改革法令を発令した。
  清国の外交官・黄遵憲の著書『朝鮮策略』を持ち帰っ
 て国王・高宗に上呈し、開化政策推進の契機とした。
  常に、外交の前面に立ち、欧米各国との修好通商条約
 の締結、日本との交渉などに携わった。
.
1894年7月28日、日清戦争: 成歓(せいかん)の戦い
  1894年6月8日、中国・清国の葉志超(ようしちょう)
 総督、聶士成(じょうしせい、軍人)山西太原(山西省
 の省都の太原)鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、
 歩兵約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した。
  1894年7月24日、3880名に達した。
  1894年7月23日午前2時、日本軍の混成第九旅団(歩兵
 四箇大隊など)が郊外の駐屯地龍山から漢城に向かった。
  1894年7月25日、朝鮮が、清国の宗主権破棄を宣言した。
  大鳥圭介公使に対して牙山の清国軍撃退を要請する。
  1894年7月26日、混成第9旅団(旅団長大島義昌少将)
 にその旨が伝達された。
  1894年7月28日、日本軍が、牙城に篭る清国兵を攻撃す
 るため出発した。
  1894年7月29日午前3時20分、佳龍里おいて清国兵の攻
 撃によって、歩兵第21連隊第12中隊長・松崎直臣歩兵大
 尉が戦死する(日本側初の戦死者)
  他数名が死傷(安城の渡しの戦い)
  1894年7月29日午前8時30分、日本混成第9旅団が、成歓
 の中国・清陣地を制圧した。
  大島旅団長は、清国軍の主力が牙山にあるとして、7月
 29日午前、全旅団に牙山へ向け出発を命じる。
  1894年7月29日午後3時頃、牙山に到達する、すでに、
 清国軍は敗走。
  この作戦での日本兵の死傷者は88名・・清国兵は500名
 以上の死傷者。
  清国兵は、武器等を放棄し、平壌まで逃亡。
  この安城の渡しの戦いで、歩兵第21連隊の木口小平二
 等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話
 がある。
.
  今日の言葉
.
  題:対中・・経済戦争・・
    人民元「国際通貨化の脅威」に立ち向かえ・・
    共和党のトランプ氏は「大統領になれば、中国を為替操作国として
   罰する」と息巻いている。
    消費税増税をIMFに対日勧告させて安倍晋三政権を予定通りの増税に
   追い込む根回しだ。
.
1905年8月、日露戦争の講和会議が開かれた。
  そして、1905年9月5日(日本時間)に調印された。
  アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス
 海軍造船所において、大日本帝国全権・小村寿太郎(外
 務大臣)とロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で
 会議がなされた(~1905年9月4日)
  当初、ロシアは、強硬姿勢を貫き・・、
  「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロ
 シアは負けてはいない」。
  「まだまだ継戦も辞さない」・・と主張していたため、
 交渉は暗礁に乗り上げていた・・が、
  日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると
 判断しており・・
  また、この調停を成功させたいアメリカは、ロシアに
 働きかけることで事態の収拾をはかった。
  結局、ロシアは、満州、および、朝鮮からは撤兵し、
  日本に樺太の南部を割譲するものの・・、
  戦争賠償金には一切応じない・・というロシア側の最
 低条件で交渉は締結した。
  この条約によって、日本は、満州南部の鉄道、及び、
 領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲
 得した。
  しかし、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあた
 る20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得するこ
 とはできなかった。
  そのため、条約締結直後、戦時中の増税による耐乏生
 活を強いられてきた国民によって「日比谷焼打事件」な
 どの暴動が起きた。
  そして、日露戦争に日本は勝利をしたが、その後のこ
 の交渉の時点で、日本は、情報戦で、狡賢いロシアにし
 てやられている。
  それは、日本が「正直で律義な国民性」から約束を守
 ったためだった・・、
  逆に、ロシアは、約束を守る様な事はまったく無かっ
 た。
  日本は、日露双方が合意に達するまでは、交渉の中味
 は、記者・ジャーナリストには漏らさない・・という約
 束を最後まで律儀に守り続けた。
  それ故、日本からは、何の情報も発信しなかった。
  それに対し、ロシアは、情報を漏らす行為を行なって
 いた・・約束破りの行為をしていた。
  それも、ロシア側に都合が良い色付けをし、脚色した
 情報を、アメリカやヨーロッパの記者たちに与えた。
  さらに、ロシアが不誠実で汚いのは、キャビアや高級
 料理や酒でもてなし、接待漬けにして、懐柔して情報操
 作をしていたことだった。
  律儀で正直な日本との差は歴然で、それまで、日本を
 応援してくれていたアメリカ世論もロシア贔屓(ひいき)
 となって行った。
  ロシア全権代表のウィッテは老獪(ろうかい)で汚か
 った。
  また、「日本は賠償金を欲しがる強欲国家だ」とか、
 ロシアの嘘情報やリークで情報が漏らされ、世界は情報
 操作され、日本の国家イメージは悪くされていた。
  日本の全権代表・小村寿太郎は、忠実に約束を守った。
  戦争に勝利した日本は、その後の情報戦で、汚いロシ
 アに、結果的にこの様にしてやられた。
  第二次世界大戦後に、アメリカにデッチ上げられた東
 京裁判だって、「裁く法律が無いのに裁判をする」とい
 う嘘裁判のアメリカだった。
  後から事後法を作って裁くという「虚偽の演技をする
 嘘つきアメリカ」だった。
  再審すれば「全員無罪」のインチキ裁判だった。
  (参考)事後法の禁止:事後法 ex post facto lawに
     よってさかのぼって処罰することはできないと
     いう原則。
      行為後に施行された刑罰法規に遡及効を認め
     て施行前の行為を処罰することは許されない、
     という遡及処罰禁止の原則。
      罪刑法定主義の重要な内容をなすもので、ア
     メリカは、こんな基本的な事を侵してまでして
     東京裁判を行なって、日本を罪に落とした。
  東京裁判のこの時に出された検事側の資料だって、根
 拠のない、信憑性(しんぴょうせい)のない、信頼が出
 来ない資料が提出されたり、誤訳されたり、改竄(かい
 ざん)されたりした資料が多かった。
  東京裁判は、再審して、全員無罪にするべきなのだ。
  こんな、嘘の話を根拠にして、戦後の機構が成立して
 いる・・馬鹿々々しい事がらを根拠にして機構を作って
 いる。
  もう、そろそろ、その国連などの嘘付システムを、世
 界の機構を・・見直すべきだ。
  中国が、「実事求是」(事実に基づいて真理を検証す
 る)というなら、南京事件の嘘を白状せよ、デッチ上げ
 を白状せよ。
  南京攻略戦は、そもそも、上海で、アメリカと共に、
 戦争を仕掛けた中国に「事の発端がある」のだ・・
  また、日本は南京入城後に、自治委員会を作って、占
 領を止め、食糧の配給を始めたりして、努力しているの
 を感謝せよ。
  自分たちだけが、中国の人々を見捨てて、重慶へサッ
 サとアメリカに助けてもらって逃げ出したのに、自分た
 ちだけ助かればいいと「逃げるという卑劣さ」なのに・・、
  日本は、住民登録まで行ってしっかり管理したりして
 いるのだ。
  秩序回復にも努めたりしているのだ、虐殺などをする
 訳がない。
  東京裁判では、この様な時に虐殺をしたという。
  また、その根拠にし、証拠にした「陥都血涙録」とい
 う中国国民党の士官の郭岐の書いた回想録がインチキな
 のだ。
  これに書かれたことを「日本がした」とされた・・何
 の裏付けも取らず。
  宦官(かんがん)の伝統がある中国人がやる様な事を
 日本兵がしたという・・デッチ上げなのだ。
  また、流暢な中国語で会話をしながら、悪いことをし
 ている日本兵など・・作り話の記述が多い・・これらは、
 まったく嘘話なのだ。
  南京の外港の下関(しあこわん)の放火が日本軍によ
 るものとされているが、これは、中国軍が、南京から逃
 げ出す時に放火したものと、はっきりしているのだ・・、
  こんな嘘の話ばかりなのだ。
.
1931年3月1日、満州国が建国された。
  元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には、満州人で
 ある清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。
  この地の土着民族としては、濊貊・粛慎・東胡・挹婁・
 夫余・勿吉・靺鞨・女真などが生活していた。
  (参考)濊貊:わいはく、紀元前2世紀の中国東北部に
     いた「濊」「貊」は、濊貊・沃沮・高句麗・夫
     余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道に
     いた「東濊(濊貊)」は前漢代の中国東北部にい
     た濊の後裔とされる。
  (参考)粛慎:しゅくしん、満州(中国東北地方及び
     外満州)に住んでいたとされるツングース系狩
     猟民族。
  (参考)東胡:とうこ、春秋戦国時代から秦代にかけ
     て内モンゴル東部から満州西部に住んでいた遊
     牧民族。
  (参考)挹婁:ゆうろう、後漢から五胡十六国時代(
     1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在
     したとされる民族・・消えた民族・・日本民族
     もこの様にならねば良いが・・国のことを疎(
     おろそ)かにして居たら・・この様になる・・
  (参考)夫余:ふよ、中国東北部(満州)にかつて存
     在した民族およびその国家。
  (参考)勿吉:南北朝時代に、高句麗の北から満州地
     域に住んでいた狩猟民族で、現在の松花江から
     長白山一帯に居住していたと思われる。
      粛慎、挹婁の末裔で、唐代における靺鞨の前
     身。
  (参考)靺鞨:まつかつ、隋唐時代に中国東北部、沿
     海州に存在した農耕漁労民族。
      南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の
     表記が変化したものであり、粛慎、挹婁の末裔。
  (参考)女真:じょしん、満洲の松花江一帯から外興
     安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけ
     て居住していたツングース系民族。
      民族の聖地を長白山とする。
  以上からも分かる通り・・漢民族の「かの字」も出て
 来ない・・この地は漢民族の地ではないのである・・女
 真族(満州族)の五族協和は正解なのである。
  朝鮮半島の西北の地域で、中国の東北部(中国のたん
 こぶの様に突き出た地域)は、今・現代は、中国の領土
 となっているが・・、
  中国は、ここは「化外の地」としていた。
  中国は、「この地は化外の地で、中国とは関係が無い」
 としていた。
  万里の長城の外の地域で、それも、万里の長城から「
 はるか北方の遠隔の地」で、
  中国が領土だと主張するような地ではなかった。
  韓国は、この地に朝鮮族が居るので、今・現代、「こ
 の地は朝鮮の地だった」と、小学校で教えている。
  かつて、日本は、この地に多く住む満州族(女真族)
 の方々に「建国を手助けして、満州国が建国された」。
  そして、この地は、満州族以外の人々もいる状況から
 「五族協和」を理念とした。
  (参考)五族協和の理念:満州族を主体とするが、朝
     鮮族、蒙古族、朝鮮族、漢族、日本族、白系ロ
     シア人など協和して住む地とした・・後に、逃
     れて来たユダヤの方々も受け入れた。
  しかし、今・現在、領土欲の強い中国が、化外の地だ
 と言っていた中国が、自分の領土だとしている。
  そして、また、チベットや、ウイグルや、内モンゴル
 の地も、漢民族の中国は、自分の領土にする行為を行な
 っている。
.
1985年、ローマ条約が発効した。
  EUの母体である欧州経済共同体(EEC)の設立条
 約(ローマ条約、1958年発効)において・・、
  加盟国間で人、物、サービス、資本が自由に移動でき
 る共同市場を創ることが目指された・・が・・
  その後、1985年に、西ドイツ、フランス、ベルギー、
 オランダ、ルクセンブルクの5カ国が「人の移動の自由」
 の実現に向けて、域内国境を段階的に撤廃することに合
 意した(シェンゲン協定)
  国境を無くしたEU・・人の往来が自由・・これは美
 しく見える・・
  「ヒトの自由化」・・しかし、その後、そうは問屋が
 卸していない・・、
  ギリシャ・ポルトガル・スペイン・イタリアなどに、
 金になる仕事が無い。
  そこで、これ等の国々の特に優秀な若い人たちが、ド
 イツへ、そして、北欧へと向かう・・人の往来の自由だ
 から・・当然、稼げる国へと向かう。
  高学歴の優秀な青年たちが・・高学歴で優秀なコンピ
 ューター技師、弁護士、会計士、音楽家やアーティスト
 など、才能ある者たちがが自由に移動する・・流出する。
  優秀な頭脳労働者たち・・高い収入を出先で得て・・
 もう故国へは帰りませんと・・帰るつもりは「まったく
 ない」という状態・・
  優秀な人材が生み出す富は、彼ら・彼女らの故国では
 なく・・ドイツや北欧諸国へ行ってしまう・・、
  ヨーロッパの南の諸国は、高齢者や失業者ばかりの国
 となる・・、
  故国を去った優秀な人材たちは、ヨーロッパの北の国々
 の富の蓄積に貢献する・・、
  EUの目指す理想づくりは・・絵に描いた餅・・実態
 は、ヨーロッパの格差づくりをしている事になる・・「
 皮肉な結果となっている」・・、
  だからと言って、その様な優秀な人々を追い返す事は
 出来ない。
  今・現在、これと同じ事が、日本で起きている。
  中国が、優秀な日本の「超エリート狩り」をしている。
  1割、2割なんて話ではない。
  また、2倍、3倍なんていう半端な給料ではない。
  中国は、経済システムで動かす国ではない。
  中国は、「国策で動く国」・・、
  日本の超優秀なエリートを桁違いの超高級な給料で引
 き抜いて行く・・という国策。
  ノーベル賞をどんどん取る遺伝子を持つ日本の超エリ
 ートを引き抜き続ける国策だ。
  中国という国は、自分の国に利益があるとすれば、札
 束で叩く様なことを、臆面もなくやる国・・、
  今、ドイツも、EU諸国も、「中国の金にものを言わ
 すやり方」に、節操も無く「なびき」、そして、牛耳ら
 れている。
  中国は、腹の中で笑っているだろう、
  「この欲深な、強欲な者どもよ」と・・、
  金さえ見せれば何でもできる・・と・・
  金で、中国に魂(たましい)を抜かれた者どもとなっ
 ている。
.
2015年11月、中国・人民元が国際通貨に・・その問題点
  人民元「国際通貨化」の脅威に立ち向かえ・・
  中国の根底の国家戦略の一つに、「人民元」の「国際
 基軸通貨化」がある。
  その為にも、その世界に通用する基軸通貨の裏付けの
 為にも、中国は、軍事力の増強を、せっせとやって行く。
  そして、その行き着く先には「米ドルを超える人民元」
 の基軸通貨化がある。
  アメリカに「とって替わる中国」が最終目標・・、
  その為には、荒っぽい事も、やるだろう、今までやっ
 て来た様に・・、
  中国は、自国民さえ、1000万単位で殺してきた。
  そんな世界が現出して行く可能性もある。
  こんな予想が杞憂に終わることを祈るのみである。
  (資料)
  田村秀男(産経新聞特別記者)の記事を以下に記す・・
  人民元「国際通貨化」の脅威に立ち向かえ・・
  異形の党支配経済、延命は決定的!?
  国際通貨基金(IMF)は2015年11月末の理事会で、
 中国の人民元を来年秋から特別引き出し権(SDR)の
 構成通貨(現在はドル、ユーロ、円、ポンド)への追加
 を決める。
  元は国際通貨としてのお墨付きを得ることになるが、
 単なる経済事案ではない。
  通貨とは基軸通貨ドルが示すように、国家そのもので
 あり、経済のみならず政治・外交・軍事すべてを根底か
 ら支え、運営を誤れば揺るがす。
  中国の場合、元は共産党通貨であり、それを世界で通
 用させることは、破綻しかけた共産党指令経済を延命さ
 せることはもとより、対外的な膨張を助長させる。
  日本にとっては脅威の増大を意味する。
  共産党中央が指令する中国経済は、事実上マイナス成
 長に落ち込んでいる。
  習近平党総書記・国家主席の中国は手負いの巨大怪物
 も同然だが、愚かではない。
  習氏は、米英が仕切る国際金融市場の総元締め、国際
 通貨基金(IMF、本部ワシントン)に元を国際準備通
 貨として認定させる道を付けた。
  現在の代表的な国際通貨はドル、ユーロ、円、ポンド
 であり、IMFの国際準備通貨単位である特別引き出し
 権(SDR)を構成している。
  SDRは帳簿上で記載されるだけで、流通するわけで
 はないが、各国中央銀行は通常、SDR構成通貨建ての
 金融資産を準備通貨として保有するので、民間はSDR
 を構成する通貨での支払いや決済に安心して応じる。
  これまでの人民元は、韓国のウォンや東南アジア各国
 の通貨同様、ローカル通貨であり、これらの各国は外貨
 準備を積み上げながら、外貨の流出を防ぐと同時に、外
 資が流入するように金融、財政政策を調整しなければな
 らない。
  元の国際通貨化が、党支配経済存続の鍵になるという
 切実な事情は2つある。
  現在の中国は、外貨の流入が細り、資本の流出に加速
 がかかり、外貨準備が急速に減少している。
  もう一つ、元資金を使った対外融資や投資を増やす対
 外戦略上の必要性である。
  中国は、固定資産投資主導による高成長路線が限界に
 来ており、このままでは経済崩壊してしまいかねない。
  それを打開するためには、国有企業の再編成など合理
 化・競争力強化策が必要だが、党幹部の既得権益調整に
 手間取るので短期間では実現不可能だ。
  手っ取り早いのは、対外投資を増やして、輸出を増強
 することで成長率を引き上げる方法だ。
  その決め手とするのが、中国とユーラシア大陸及び東
 南アジア、インド、中近東・アフリカを結ぶ陸と海の「
 一帯一路」のインフラ・ネットワーク整備構想である。
  習近平政権は、その投融資を行うための基金や国際開
 発金融機関を相次いで発足させようとしている。
  代表例が、年内設立をめざす多国間のアジアインフラ
 投資銀行(AIIB、本部北京)である。
  AIIBは、国際金融市場でドルなど外貨を調達して
 インフラ資金とする計画で、英独仏など欧州や韓国、東
 南アジア、ロシアなどが参加したが、世界最大の債権国・
 日本と国際金融シェアが最大の米国が参加しないことも
 あって、AIIBの信用力は弱い。
  このために、国際金融市場での長期で低利が必要とな
 るインフラ資金の調達は困難だ。
  それを打開するためには、中国が元資金を提供するし
 かない。
  しかし、元がローカル通貨である以上、元による決済
 は限られる。
  翻って、元が国際通貨になれば、その障害は少なくな
 る。
  元が国際通貨になるためには、ドル、ユーロ、円、ポ
 ンドと同様、SDR構成通貨への組み込みをIMF理事
 会が認定することが前提となる。
  IMF理事会審議の鍵を握るのは英国など欧州と、I
 MFの唯一の拒否権保有国・米国である。
  厳密に言うと、SDR認定事項は最重要案件とはみな
 されず、議決権シェアで7割以上の賛成があれば、米国
 の拒否権を無効にできるが、SDRの新規発行は米国の
 賛同が必要だ。
  したがって米国の同意がないと、元が加わった後のS
 DRの追加配分に支障が出る。
  習氏は、米欧各国に対し、実利を提示することで、抱
 き込みを図ってきた。
  日本は対米追随なので、対日工作の必要はなかった。
  足元をみられた欧州 詭弁にやられる米国の甘さ
  2015年10月下旬の習氏の訪英は大成功だった。
  キャメロン首相の発表によると、習主席訪英中に決ま
 った中国の対英投資案件の総額は約400億ポンド(約
 7兆4000億円)。
  さらに、習氏は、ロンドンに人民元建ての国際決済セ
 ンターの特権を提供し、元建て国債の発行を表明した。
  これに応えて、キャメロン政権は「国際通貨元」支持
 を表明した。
  ドイツ、フランスなど残る欧州主要国も自国市場に元
 の国際決済業務の拡大を期待して、なだれを打つように
 元のSDR組み込みへの支持を表明した。
  米国はどうか。
  ルー米財務長官は3月時点では元のSDR認可には反
 対表明したが、習氏の訪米後の10月6日には、「IMF
 の条件が満たされれば、支持する」と表明した。
  6月の上海株暴落後の中国当局による市場統制や8月
 の元切り下げは金融市場自由化原則に逆行する。
  ところが、オバマ政権は態度を軟化させた。
  上海株式市場の統制は緊急措置であり、元切り下げに
 ついて「元の市場実勢に沿う改革の一環」とする北京の
 説明を大筋で受け入れたのだ。
  習政権は6月の上海株暴落以降、党・政府指令による
 経済支配を強化している。
  これだと、だれが見ても国際的に自由利用可能である
 というSDR通貨認定条件に反するはずだが、IMFは
 そう見ない。
  フランス出身のラガルド専務理事は3月下旬の訪中時
 に、「元のSDR通貨承認は時間の問題だ」と習氏に約
 束している。
  IMFは8月、上海市場の統制を当面は容認すると同
 時に、元をより大きく市場実勢を反映させる改革案を示
 せば、元を来年9月からSDR通貨に認定してもよい、
 というシグナルを送った。
  市場原理とはおよそ無縁な小出しの自由化でよしとす
 る、対中国だけのワシントンの二重基準である。
  習氏は9月訪米時、ワシントンの甘さにつけ入った。
  「中国は輸出刺激のための切り下げはしない。元を市
 場原理により大きく委ねていく改革の方向性は変わらな
 い」
  「中国政府は市場安定策を講じて市場のパニックを抑
 制した。今や中国の株式市場は自律回復と自律調整の段
 階に達した」
  「外貨準備は潤沢であり、国際的な基準では依然とし
 て高水準にある」
  「人民元国際化に伴って、外貨準備が増減することは
 極めて正常であり、これに過剰反応する必要はない」
  中国伝統の白を黒と言いくるめてみせるレトリックで
 ある。
  8月11日の元切り下げは過剰設備の重圧にあえぐ国有
 企業が背後にあるが、4%台半ばの元安にとどめざるを
 えなかったのは、資本逃避が加速したためだ。
  元相場を市場実勢に反映させると言うなら、外国為替
 市場への介入を抑制すべきなのだが、実際には元買い介
 入によって元の暴落を食い止めるのに躍起となっている。
  株式市場は自律的に回復しているというが、当局が市
 場取引を制限しているために、上海株の売買代金は6月
 のピーク時の4分の1まで雌伏したままだ。
  外準減少が正常、というのも詭弁である。
  資金流出は加速し、元買い介入のために外準を大幅に
 取り崩す。
  国内の資金不足を背景に対外債務は膨張を続け、「高
 水準の外準」を大きく上回る。
  外準を支える対中投資の大半は香港経由であり、その
 うちかなりは外資を装った中国の投資家で、ほとんどが
 党幹部に直結している。
  建前上は厳しい資本流出入規制を実施している中国で、
 特権を駆使する党幹部だけがその網の目をくぐれる。
  言い換えると、中国は党支配体制だからこそ資本逃避
 が慢性化する構造になっている。
  習氏が党総書記就任前の12年前半にわずかずつ人民元
 を低めに誘導すると、資本逃避が起きた。
  あわてて元を高目誘導したらデフレ圧力が高くなった
 ので、14年前半には再び元安方向に修正したら、やはり
 資本逃避が再発する。
  景気の方は14年初めから停滞感が強くなる一方である。
  中国当局発表では14年は7%台半ば、15年も7%弱の
 実質成長を続けているが、モノの動きを忠実に反映する
 鉄道貨物輸送量は前年同期を下回り、以来マイナス幅は
 拡大するばかりである。
  その場合、金利を下げ、元安にするのが景気対策とい
 うものだが、すると資本逃避で国内資金が不足する。
  元のSDR通貨認定は、北京にとってまさに焦眉の急
 である。
  人民元帝国誕生で軍拡も加速
  米英の国際金融資本にとって中国はグローバル金融市
 場の中の巨大なフロンティアである。
  小出しでも中国の金融市場の対外開放や自由化は、米
 金融界にとって中国市場でのシェア拡大を有利に進めら
 れる。
  北京は特定の米金融大手を一本釣りにして特権を与え
 るからだ。
  ゴールドマン・サックス、シティグループなどは江沢
 民政権時代以来、とっくに党中央と気脈が通じあってい
 る。
  ニューヨーク・ウォール街代表者が政権中枢を担うオ
 バマ政権では、グローバル金融市場に中国の元金融を取
 り込むことが国益とみなされるだろうし、元そのものが
 脅威となる日本と利害が微妙に異なる。
  中国の対外貿易規模は日本のそれの3倍以上であり、
 すでにアジアでの元建て貿易は円建てを超えている。
  中国は「国際通貨」元を振りかざしながら、アジア全
 域を元経済圏に塗り替えるだろう。
  日本の銀行や企業は元金融や元建て決済を認可しても
 らうために、北京の顔色をうかがうしかない。
  それは、日本外交の手足を縛る。
  すでに金融界は浮き足立ち、「中国嫌い」で評判の麻
 生太郎財務相ですら、中国側に東京に元決済センター設
 置を要望する始末だ。
  中国との通貨スワップに頼る韓国はますます北京に頭
 が上がらなくなる。
  国際通貨ともなれば、中国は刷った元で戦略物資やハ
 イテク兵器を入手できるようになり、軍拡は一層進む。
  これでは日本は立ち上がれぬ・・危機意識なき財務官
 僚たち
  日本としての今後とるべき策は、何が何でも元の完全
 自由変動相場制移行と資本市場の全面自由化を早期に実
 行させることだ。
  国境を越える資本移動の自由化は、外国資本や金融機
 関による対中証券投資や融資の制限の撤廃、さらに中国
 市場からの引き上げを自由にすることを意味する。
  元の自由変動相場制は、元の対ドルや対円相場の変動
 を自由にし、中国当局による市場介入や管理を取り払う。
  中国が元を乱発すれば、元相場は暴落不安が起き、中
 国からの資本逃避が起きる恐れがある。
  SDR通貨として認定されても、通貨の国際的な信認
 は国内の政策次第で失われる。
  そんな懸念から、北京は金融や財政政策で自制せざる
 をえなくなる。
  つまり、市場のチェック機能を持たせることで、元の
 暴走にブレーキをかけられる。
  党による市場統制力は次第に弱まるだろう。
  考えてみれば、これまでの中国の人民元管理変動相場
 制は中国のとめどない膨張を支えてきた。
  管理変動相場制のもとでは、自由変動相場制とは全く
 異なって、対ドル相場は人為的に安定させられる。
  元の安定を背景に、中国にはこれまで順調に外資が流
 入し、その外資の量に応じて中国人民銀行は元を刷り増
 しし、国有商業銀行、国有企業、地方政府に資金を流し
 込んで、不動産開発を進めて、投資主導による高度成長
 を達成した。
  国有企業は増産しては輸出を増やしてきた。
  ところが、不動産投資も国有企業の増産投資も過剰と
 なり、景気は急降下し、地方政府や国有企業の債務は膨
 張を続けている。
  鉄鋼などの過剰生産は、安値での輸出攻勢を引き起こ
 す。
  半面で、鉄鉱石など一次産品の国際商品市況は急落し、
 産出国経済を直撃している。
  市場需給を無視した党主導による金融は世界経済不安
 の元凶になっているのだ。
  来年は米大統領選挙だ。
  日本としては米国のまともな勢力と組み、元の変動相
 場制移行と金融自由化の早期実行を北京に迫るしかない。
  仮に北京が為替や金融の自由化を約束したところで、
 実行するはずはない。
  何しろ中国の国際ルール無視ぶりは目に余る。
  中国は2001年末、難交渉のうえに世界貿易機関(
 WTO)に加盟したが、ダンピング輸出、知的財産権無
 視などが横行している。
  国内総生産(GDP)統計は偽装の産物だというのが
 国際常識だ。
  外交・軍事では南シナ海の砂地埋め立てと軍事拠点化、
 絶え間のない外国に対するサイバー攻撃と、あげればき
 りがない。
  人権の尊重、言論・表現の自由は、自由で公正な金融
 市場ルールの下地のはずだが、党中央にはその意識のか
 けらもない。
  米国とはそれでも、日本の危機意識を共有できる余地
 はある。
  正式候補に決まるとは限らないが、民主党のヒラリー
 氏はウォール街に批判的で対中警戒派だし、共和党のト
 ランプ氏は「大統領になれば、中国を為替操作国として
 罰する」と息巻いている。
  日本として、元のSDR化で習近平政権は軍事を含む
 対外膨張路線をひた走るだろう、と伝えるべきだ。
  問題は通貨・金融を自省の専管事項とする財務官僚だ。
  IMFにおいて中国のSDR通貨工作のなすがままに
 した。
  そればかりか、IMFで精を出しているのは、消費税
 増税をIMFに対日勧告させて安倍晋三政権を予定通り
 の増税に追い込む根回しだ。
  語るに落ちる裏切りぶりである。
  たむら・ひでお 昭和21(1946)年生まれ。
  早稲田大学政経学部卒。
  日本経済新聞社に入社し、ワシントン特派員、米アジ
 ア財団上級フェロー、香港支局長などを歴任。
  平成18年に産経新聞社に移籍し、編集委員、論説委員
 を兼務する。
  著書に『アベノミクスを殺す消費増税』(飛鳥新社)、
 『人民元の正体』(マガジンランド)など多数。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)604E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)

2018-07-23 16:54:38 | 日記
題:(増補版)604E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月19日、日本が、中国・清へ、日本の手交(しゅこ
 う、手渡すこと)した最後通牒の回答期限である7月24日
 を過ぎても、中国・清が、日本へその返事もしないで、
 中国軍の朝鮮への増派をするならば(それは、朝鮮に対
 する宗主国ぜんとした威嚇行為であるとともに、同時に)
 日本に対する威嚇行為(敵対)と見なす・・との内容の
 最後通牒を中国・清へ送りつけた。
  そしてまた、この様な無視の行為をする中国・清の態
 度であるならば、陸奥宗光外相は、回答期限の7月25日以
 降は、清国の軍艦などへ日本が攻撃をしても、「外交上
 の問題はない」の旨を日本海軍へ伝えた。
  日本は、今まで自重し、清の強引な行動を静観して来
 たが、また、影で工作する清の態度を静観して来たが、
 この時点では、はっきりした毅然たる態度を示すという
 方針に替わっている。
.
1894年7月20日、この日の午後、大島公使は、この様な状況
 になっては、毅然たる態度を示すべきとの方針において、
 自主独立の国としてありたいと日本へ伝えている朝鮮に
 対し、清国の宗主権を認めさせられている『中朝商民水
 陸貿易章程』を、廃棄をしなさいと伝えた。
  また、中国・清が「朝鮮は属邦である」とし、その属
 邦保護を名目として、朝鮮の「自主独立を侵害」する清
 軍の撤退について、朝鮮の考え方を7月22日までに伝えて
 もらいたいと伝えた。
  これは、1636年~1637年の丙子の役(へいしのえき、
 清の朝鮮への一方的侵略行為)の一例の如く、過去から
 何度も、中国・清から度々の武力行使を受け苦渋してい
 る朝鮮が、また、日本も清から脅され、威圧行為も受け
 ているという、その様な状況に於いて、その様な清軍を
 退けられないのであれば日本が代わって駆逐するとの含
 意があった。
.
1894年7月20日、総武鉄道の市川駅~佐倉駅間が開通した。
  開業120周年となる2014年に、記念行事が行なわれた・・
 以下は、そのことを伝える記述・・
  ~おかげさまで120周年! 120年間の感謝を込めて~
  総武本線市川~佐倉間は開業120 周年を迎えます!
  1894 年(明治27年7月20日に総武鉄道(市川~佐倉間)
 が開通し、市川駅・船橋駅・千葉駅・佐倉駅が2014年に
 120 年目を迎えます。
  JR東日本千葉支社では、お客さまに感謝の気持ちを
 込めて「総武本線開業120周年記念イベント」を開催しま
 す。
  7月20日には、市川駅・船橋駅・千葉駅・佐倉駅で120
 周年記念入場券発売やスタンプラリー、写真展やコンサ
 ートなど楽しいイベントを開催します。
  また、120 周年記念号として寝台特急「あけぼの」号
 で運行されていた寝台車両24系を使用した「市川~佐倉
 120周年号」で行く日帰りの旅コースと「120周年千葉青
 森号」で行く夜行列車の旅コースの旅行商品をインター
 ネットで限定発売します。
  ぜひ、120 周年で盛り上がる市川駅・船橋駅・千葉駅・
 佐倉駅へ遊びに来て下さい。
.
1894年7月23日、連合艦隊が佐世保港を出港した。
  この日の午前11時、強硬に陸兵増派をしようとしてい
 る清国の行動を止めさせようと、海上封鎖の任務を帯び
 た伊東祐亨中将が率いる連合艦隊が、佐世保港から朝鮮
 半島の京畿湾へ向けて出港した。
.
1894年7月23日、日本は、清軍撃退依頼を出すようにと大院
 君へ伝えた。
  朝鮮政府内にある過去からの清国の武力行使と圧力に
 屈し、清国の属邦体制を止むなく認めて受け入れている
 派(親清派)と・・、
  この強圧的な清に対して、日本に助けを求める親日派
 が朝鮮政府内にあって・・、
  親日派であった金玉均が、清国によって暗殺される如
 く、陰に陽に中国は強引な行動をしていた。
  その様な清の属邦体制を止むを得ず受け入れている現
 政権の王政派(閔妃)に対する親日政権の大院君に清軍
 撃退依頼を出すようにと伝えた。
  日清戦争の原因となった甲午農民戦争の清軍の鎮圧出
 兵も、清の工作員が暗躍して出兵要請を朝鮮に出させて
 いる。
.
1894年7月23日、この日の日本の「国民新聞」には、「今や
 我国は清国と開戦するの最高潮に達す」と記されている・・
 また・・
  この翌日の7月24日の「時事新報」には、「一刻も猶予
 せず、断然支那を敵として我より戦を開くにしかざるな
 り」とあり・・この時点に至っては「戦わざるを得ない」
 という新聞論調で、完全に開戦の方向で一致していた。
.
1894年7月23日、日本が、朝鮮王宮へ軍を派遣し、強硬策を
 行なった。
  そして、午後5時、大島旅団長が朝鮮国王に面会する。
  一人も死者は出ていない、そして、この日の内に幕営
 地に引き上げている(中国・清はまったく関係ない)
  襲撃ではない・・また、日清間の交戦も無い・・
  この日の午前零時30分、公使より電報、「作戦通り実
 行せよ」と・・
  行動部隊の第六中隊が、迎秋門が破れなかったので、
 囲壁を越え、内部より鋸と斧で門扉を開く(午前5時頃)
  第七・第五中隊が王宮に入る、そして、光化門・建春
 門も内部より開門した。
  この間、守備の朝鮮兵は抵抗する者もなく、また、皆、
 北方へ逃走。
  午前4時20分~午前7時半、双方から銃撃が起きる。
  抵抗した一部の朝鮮兵は、北方の王宮囲壁を出て、白
 岳の方向に逃走する。
  国王は雍和門内に居て、山口大隊長が、日本軍兵を門
 内に入れない代わりに韓兵の武器交付を要求した・・承
 諾された。
  また、大隊長は国王に拝謁した、「我が兵士は玉体を
 保護するために居て、決して危害の及ばざるを期すべし。
 殿下幸いにこれを諒せよ」と・・
  (参考)諒:りょう、おもいやる。明らかにする。ま
     こと。
  午後5時、大島旅団長が王宮に入り国王に面会した。
  夕方、日本軍は歩兵第二十一連隊第二大隊」に「王宮
 の守備」を命じたほか若干の部隊を王宮周辺要地に留め、
 午後5時から午後6時の間に幕営地にひきあげた。
  これは、公使館と旅団が協議して計画していたことだ
 った。
  この行為に対し、列強諸国からの批判は無く、誰かが
 殺害されたという事でもなかった。
  しかし、日本政府からはこの様なことをするなとの指
 令が出ていた。
  しかし、この行為は、朝鮮の人々の反日意識を高めた・・
  この点からも、すべき行為ではなかった。
  この様な行為は中国・清もしていて、朝鮮の人々は清
 に対しても反感を持っていた。
  しかし、この後、この行為で王宮内の財貨宝物が略奪
 されたと、「してもいない行為を、した」とプロパガン
 ダ(嘘宣伝)に使われた。
  清国の宋主権行使に苦渋していた朝鮮を救うとしても
 やり方が良くなかった。
  天皇陛下も、この事件に対し、また、武力行使に対し
 疑問を御明示されている。
  また、上記の午前4時頃撃ち合ったと言ったって、日本
 のこの行動の目的が・・、
  清に宋主権を主張されて、不満の中で属邦状態に身を
 置いている朝鮮が・・、
  陰に陽に日本に助けを求めている現状の朝鮮が・・
  日本が替わって「やらねばならないのだろう」と方針
 を決め、清軍撃退依頼を出しなさいと言っても、親清派
 と親日派とが押し合っている朝鮮・・
  そして、この度のこの行動・・態度を決めなさいとの
 この王宮へ押し寄せた行動であって、朝鮮兵と撃ち合い
 になったって、朝鮮兵と戦うことが目的ではないので、
 朝鮮兵を撃ち殺すこともない。
  この撃ち合いで戦死者の一人も出てない。
  助けようとしている日本なのだ・・朝鮮兵を撃ち殺す
 訳がない。
  今、中国が、ウイグルや、チベットや、内モンゴルで、
 取締りの名目で、ばちばち、ウイグルやチベットや内モ
 ンゴルの方々を殺しているが、それとは訳が違う。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、ヨーロッパの終焉が言われている・・というより、
   ドイツの差配するヨーロッパとなっている・・
   ドイツの経済に頼らざるを得ないEUなのだ・・
   そして、そのドイツが、中国に経済的救済を求めている形で
  中国に近づき、中国は、どんどんドイツに大量発注している・・
   そんな関係のドイツと中国・・そのドイツの軍事技術が、
  どんどん中国に入ることが懸念されている・・
   中国はそれを望んでいる・・
.
紀元前5万年~紀元前4万年、この頃、ユーラシア大陸から
 人類が、寒い極北の地を通って、そして、地続きだった
 凍てつくベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸へと行っ
 た。
  この時、この極低温の地を、人類が行けたのは、体温
 の低下を防ぐための衣類・着物があったからだった。
  その様な防寒性能の良い着物が作れたのは、『縫い針』
 の発明があったからだった。
  この当時の縫い針が、シベリアから出土している。
  人類のこの発明の智慧が、その活動範囲を拡大してい
 たのだった。
  この様な歴史的な知識や、科学的知識のない北海道の
 政治家が、議会の討論の中で、「北海道は無土の地だっ
 た」と、人の居ないと地だったと言った。
  「人類が広い広範囲な活動をしていた」などという状
 況の知識の「まったく無い理解状況」の中で、政治的議
 論と判断と決定がなされている。
  人類の広い活動範囲とともに、広い人類の結婚・交雑
 が行われていて、日本列島は5万年前から、また、4万年
 前という遠い遠い昔から、広い活動とともに結婚・交雑
 の歴史の中にあった。
  アイヌも琉球も、また、本州も、その人類の交雑の歴
 史が続いて来ていて、その遺伝子的にも、そのことが証
 明されている。
  アイヌだけが特別ではない。
  中国の仕掛ける「アイヌ独立論」は、自国の抱える別
 民族である「チベット民族の方々の独立活動」「ウイグ
 ル民族の方々の独立活動」「内モンゴル民族の方々の独
 立活動」などの独立運動を相対化したいための仕掛けな
 のである。
     ・
     ・
1193年、北方十字軍
  ローマ法王(教皇)のクレメンス3世の、1193年の呼び
 かけが発端だった。
  いつも、戦争を呼びかけるキリスト教ローマ法王(教
 皇)だった。
  この時のキリスト教の「北方十字軍」は残虐だった。
  この東方遠征時には、そこの住民は「ほとんどが皆殺
 し」にあった。
  卑劣な被害を受けた地域は、現在のポーランドからバ
 ルト三国におよぶ一帯で、多くのスラブ人の方々が住ん
 でいた。
  キリスト教が、討伐の対象とする『正当な理由は無か
 った』。
  せいぜい、キリスト教にとっての異端の宗教を信じて
 いる「異端の民だ」という程度だった・・何も悪いこと
 はしていない。
  プロセインという国を作ったが、ドイツ騎士団(ドイ
 ツ騎士修道会)が多く、悪行為の実行団だった。
  現時点においてキリスト教が卑劣な事は、この一事例
 の様な「過去の暗黒の歴史」を示しても、「私たちは、
 そんな悪いことしていない」と嘘を言っている事である。
  また、キリスト教は、卑劣なキリスト教の教義も必死
 に言い換えをしている。
  まったく反省のそぶりも見せないキリスト教であり・・
 ここに問題の根源がある。
  (参考)北方十字軍:ほっぽうじゅうじぐん、バルト
     十字軍とも言われる。
      キリスト教カトリックの王であるデンマーク、
     スウェーデン、ポーランド、そして、リヴォニ
     ア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始され
     た十字軍のことで、北ヨーロッパ、および、バ
     ルト海沿岸南東の異教徒に対して蛮行が行われ
     たカトリック教会諸国の同盟によって行われた。
.
1636年~1637年、丙子の役(へいしのえき)
  韓国の南漢山城(ナムハンサンソン)が関係し・・、
  南漢山城は韓国の世界遺産であるが、標記の丙子の役
 の時、中国・清が、朝鮮(李氏朝鮮)を侵略した。
  この丙子の役の最も熾烈な47日間の戦いを描いた映画
 「南漢山城」が、今、韓国で評判になっているという。
  中国・清が、朝鮮を侵略すると、君主と家臣らは敵を
 避けて南漢山城に隠れた。
  寒さと飢えが襲う・・絶対的な軍事的劣勢の状況・・
 清国軍に完全に包囲された絶体絶命のその時・・
  国家と国民を守らなければならないという吏曹判書チ
 ェ・ミョンギル(イ・ビョンホン)と・・
  (参考)吏曹:いじょ、李氏朝鮮に置かれた行政機関
      判書:ばんそ、官職
  清国軍の攻撃に最後まで相対して戦って大義を守らな
 ければという礼曹判書キム・サンホン(キム・ユンソク)、
  (参考)礼曹:いぇーじょ、李氏朝鮮の行政機関
  そして、その間に立った仁祖(パク・ヘイル)の煩悶・・
  その攻勢はより深くなって、中国・清国の無理な要求
 と圧迫はより一層強まるっていく・・この様に映画は描
 かれるが、
  この丙子の役となるとき・・清国との戦いが決定的と
 なった時、李氏朝鮮は、日本に援軍を乞う事も検討した・・
  今の韓国もそうであるが、陸続きの中国は、容易に朝
 鮮に侵略できるため・・朝鮮半島は中国の冊封体制下に
 置かれる状況に常にあった・・
.
1904年~1907年、ドイツは、ナミビアを侵略した。
  土地を奪われたナミビアの人々(ヘレロ民族の方々)
 は、当然、反抗を開始した。
  しかし、武器や装備に各段に勝るドイツが勝つのは当
 たり前だった。
  (槍と銃の戦い・・この様な卑劣な戦いをドイツは行
 った)
  ドイツは、ナミビアのヘレロ民族の人々を大殺戮し、
 殺して、そして、強制収容所へ入れた。
  そして、強制収容所に入れた人々に強制労働をさせた。
  しかし、結局、最後には、ドイツは、この方々も皆殺
 しにした・・血も涙もない卑劣なドイツだった。
  ヘレロ民族の人々は全人口の8割の人々が、ドイツに殺
 されてしまった・・言葉に尽くせぬ卑劣さだった。
  「20世紀最初のジェノサイド」と言われている。
  (参考)ジェノサイド:その共同社会や民族を滅ぼす
     ほどの大量殺害。集団殺戮(さつりく)。 
  この蛮行は「ヘレロ・ナマクア虐殺」と言われている。
  これは、上記の様に、ドイツ領南西アフリカ(現・ナ
 ミビア)において、ドイツが先住民族(ヘレロ民族の方
 々)に対して行った虐殺で、アフリカ分割の動きの中で
 行われた。
  ドイツのこのヘレロ民族への攻撃は、1904年8月、ドイ
 ツのロタール・フォン・トロータ将軍によって行われた。
  三方から包囲して、カラハリ砂漠に追い込み、殺戮し
 た。
  また、1904年10月には、ナマクア族も蜂起したが、同
 様に、武器を持たないのも同然の人々を、ヘレロ民族同
 様に、「赤ん坊の手をひねるがごとくに虐殺した」。
  この様な民族虐殺を容易に行うドイツは、この後、ユ
 ダヤの方々への民族虐殺の行為へとつながって行く。
.
1933年3月23日、ドイツ国会が、ヒトラーの全権委任法を可
 決した。
  これによってドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党
 (ナチ党)の権力掌握がなされた・・
  そして、これ以降、反ユダヤ主義が国是となったドイ
 ツにおいて・・様々なユダヤ人の方々に対する迫害が行
 われた。
  ドイツでは、第二次世界大戦の勃発の後、ナチス内部
 では、「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」
 を行おうとする動きが強まり、ドイツ国内や占領地のユ
 ダヤ人を拘束し、強制収容所送りを始めた。
  ドイツは、この「600万人のユダヤの人々の殺害」以外
 にも数々の卑劣な行為がある。
  「ロマ(ジプシー)・シンティ」「何千人もの精神障
 害者」「多くの同性愛者の殺害」「占領地のSS」「ド
 イツ国軍による戦争犯罪」「60万人から80万人と言われ
 る犠牲者が出たレニングラード包囲」「ワルシャワのゲ
 ットー破壊」など。
  ドイツは、これらの過去を正しく清算しなければなら
 ない。 
  今までの清算の仕方には欺瞞に満ちたところがある。 
  その様な過去への態度なら・・また認識の仕方なら、
 また、同じ様な蛮行を繰り返す事になるだろう・・、
  そして、今、利益優先で中国と悪だくみをしている。
  (参考)受権法・・ドイツのヒトラーが率いるナチス
     政権下のこの年・1933年に制定された「全権委
     任法」が代表例。
      議会の承認なしに、政府による立法権行使を
     認める法律の総称。
      ナチスは、委任法で、政府が定めた法律に矛
     盾する憲法規定の効力を失わせた。
      憲法自体を空文化させることで、独裁体制を
     固めて行った。
.
1937年11月、アメリカは、この月、中国国民党の蒋介石や
 重い責任を持つ軍人を南京から連れ去り、これから南京
 城での戦いが始まるという事態に、中国司令部を無くし
 て、南京の戦いはシッチャカメッチャカにした・・
  (この翌月の1937年12月に、日本軍の南京入城という
 時だった)
  そして、南京事件が「でっち上げられた」のである。
  何しろ・・秘かに中国側に味方して、戦いに参戦した
 アメリカは卑劣で・・南京戦が乱戦となった主犯は、ア
 メリカだった・・
  このアメリカによって重慶に連れ去られた中国の中枢・
 司令部の国民党・・
  この中国国民党の国際宣伝処に所属していたアメリカ
 人のセオドア・ホワイト(ジャーナリスト)・・
  この男は、自叙伝で回想し、くだらないことを書いて
 いる・・
  重慶に逃れた国民党政府は、自国に有利な事なら何で
 もした・・そして、どんな嘘でもついた・・。
  南京事件のデッチアゲも朝飯前だった・・
  嘘をつくこと、騙すこと、中国とアメリカは、共に、
 日本に対抗して行くのだとアメリカに納得させるためな
 ら、どんなことをしても良いと・・それは必要な事だと・・
  その様に考えていた・・と書く。
  そして、宣伝目的で作られた嘘の数々・・
  そして、その嘘写真・・誤記を装って書かれた嘘の数
 字・・それらが宣伝されて行った・・
  そして、それらが、一人歩きをし出し・・「真実」と
 して定着して行った・・と。
  その様な中で、嘘八百の中の馬鹿馬鹿しい話の一つが・・
 以下である・・
  蔡黄華というデッチ上げられた中国女性が、日本の兵
 士を数人殺したという・・
  そして、逃走して、反日ゲリラの首領になったという
 「真っ赤な嘘話し」を作り上げて記事にした。
  これに、多くのアメリカ人記者が飛び付き、この女性
 の写真を要求して来た。
  中国国民党の宣伝部は、腰に二丁拳銃を下げた中国人
 女性の写真を作った。
  この中国人女性は、アメリカで、国民党の蒋介石総統
 夫人の宋美齢に次ぐヒロインになった。
  世界のどこにもいないという「架空の人物」がもては
 やされるというアメリカだった。
.
1942年、ドイツは、国で慰安婦施設を経営していた。
  レッキトシタ証拠が、いくつもある、卑劣な行為をし
 ていたドイツ。
  ドイツには、慰安婦について後ろめたい過去がある。
  ドイツは、1942年の時点で、約500のドイツ軍が運営す
 る慰安婦施設があった。
  その運営される慰安婦施設が、ドイツ軍当局へ報告し
 ている書類など、多数の証拠が存在し、その内容は明ら
 かとなっている。
  その書類の一つが、調査報告書の形で・・、
  ドイツ国防軍の専属か、否か? 
  民間人の利用もできるのか?とか・・
  娼妓の人数や年齢は?とか・・、
  性病の予防処置をしているか?とか・・、
  一人の娼妓の客の最高数は?とか・・、
  コンドームの使用状況は?・・など、微に入り細に入
 り報告させている。
  ドイツ軍が完全管理している実態があった。
  そして、この事が、1977年に、本として克明に実態が
 書かれ、出版され、公知の事実となった。
  本は、フランツ・ザイトラーにより書かれ、本の表題
 は、「買春・同性愛・自己毀損、ドイツ衛生指導の諸問
 題、1939年~1945年」。
  ドイツには、国軍によって、組織的で、規模の大きい
 慰安婦制度がれっきとしてあった。
  ドイツは、この事を後ろめたく思っていた。
  その事もあって・・ドイツは、日本の「韓国がでっち
 上げる慰安婦問題」を、自分たちの汚点を消したいとし
 て、「日本の真実の説明」に一切耳を貸さずに、ドイツ
 の新聞などマスコミは、韓国の嘘のプロパガンダの言い
 分だけを公表した。
  また、ドイツ国会も、決議案を採決しようなどという
 破廉恥で卑劣な行為に及ぶほどだった・・結局、採決に
 は至らなかったが、ドイツの卑劣さが国会レベルにまで
 至っていた。
  まったく韓国の卑劣な嘘宣伝に踊らされているドイツ
 となっていた。
.
1945年5月2日、ドイルのベルリン陥落
  ドイツ国防軍のベルリン防衛軍司令官のヘルムート・
 ヴァイトリングが降伏して・・ベルリンは陥落した。
  ヒトラーは、すでに、1945年4月30日に自殺している。
  そして、ドイツの戦後が始まるが、ドイツには1200万
 人のナチスに加担した人々・ナチ党員が居た。
  このナチ党員らは、何ら罪を問われること無く、戦後
 の時間を過ごして行った・・そして、そのままとなった
 ドイツが、今、存在している。
  アメリカも、このナチス加担者のナチ党員の罪は問わ
 なかった。
  ドイツの一般国民と同じように戦後を過ごさせて来た。
  何ら責任を取らないナチ党などの人々が、ドイツの中
 で一般のドイツ人たちと同じように過ごしてきた。
  謝罪も何もしない人々が、一般の人々と同じように過
 ごしてきた。
  ドイツという戦後のドイツ政府は、このことに目をつ
 むり、一緒になって謝罪も何もしないで戦後を過ごして
 きた。
  そして、ドイツのやることと言ったら・・「ナチスは
 悪いことをした」「ナチスは、600万人のユダヤ人の殺害
 をした」というけれど・・、
  「ナチスは、悪いことをしたけれど・・」とまでは何
 度も何度も言うが、肝心の謝罪の言葉なしに戦後を過ご
 して来た。
  世界に対するドイツの欺瞞の態度が今・現在もある。
.
1945年、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線における、ドイ
 ツが戦争に敗れる前後において・・ソ連兵による婦女暴
 行が50万件もあった・・
  また、アメリカ兵による婦女暴行も19万件もあった。
  1945年4月16日、ソ連は、ベルリンの攻囲作戦を開始し
 た。
  昼も夜も、ベルリンを砲撃した。
  昼も夜も、その砲撃音は、常にベルリンに鳴り響いた。
  電気もガスも水も・・ストップした。
  ベルリンから脱出できなかった、ベルリンから逃げそ
 びれた市民の200万人の人々は・・防空壕内に逃げ、生き
 延びていた。
  そのほとんどが、その圧倒的多数が「女性と子供たち」
 だった。
  そして、12万人の乳幼児がいた。
  1945年4月26日、ベルリンは完全に包囲された。
  そして、1945年5月2日、ベルリンは陥落した。
  この攻防の最中から、この後の時の中で、ソ連兵やア
 メリカ兵による婦女暴行などの蛮行は行われた。
  婦女暴行の他にも、家宅侵入や略奪など、その阿鼻叫
 喚(あびきょうかん、人々が苦しみ泣き叫ぶような、非
 常にむごたらしい状態)、その中でレイプが行なわれた。
  この時だけのベルリン市の女性の犠牲者だけでも9万500
 人から13万人だという。
  二つの主要病院の報告だけであるから、そのデーター
 は少な目であっても、しっかりした信頼できるものと言
 える。
  この様な悲劇は、1944年の末から始まっていた。
  ドイツの敗退が始まると、東方のドイツ領土から兵士
 だけでなく、ドイツの一般市民も脱出し、ドイツやベル
 リンを目指した。
  また、追放されるドイツ人たちも居た。
  その逃避行をする人々は1200万人から1400万人いた。
  着の身着のまま・・ドイツを目ざし、飢えと寒さ、そ
 の様な中、多くのドイツ人が虐殺にあった。
  死者と行方不明を合わせ300万人だという。
  日本を貶(おとし)めてばかりいるNHKは、この様
 な事は一切放送しない。
.
1945年、第二次世界大戦の戦後、ドイツはパニックとなっ
 た。
  流言飛語が飛び交った。
  「1910年から1925年までに生まれたドイツ人の青年は、
 不妊手術をされる」
  「ドイツの市町村長は、全員がクビになり、強制収容
 所から解放されたユダヤ人が取って代わる」
  「ドイツの各都市は、計画的に略奪される手はずにな
 っている」。
.
1988年、この年に、日本に帰化した蔡善花氏が大切なこと
 を教えてくれた・・話された・・
  韓国が漢字を捨てたが・・??
  日本でも、アメリカの戦後のGHQが、日本に日本語
 を捨てさせようとした・・英語化しようとした・・
  日本に、漢字を捨てさせようとした・・
  無知からGHQは、「日本は、漢字があるから文盲率
 が高く・・民主化が遅れているのだ」とした。
  この時、日本は、知識人が反対し、GHQを説得し、
 疑(うたぐ)るGHQを納得させるために、「日本人に
 テストを実施した」・・
  そうしたら、ほぼ100%の日本人の出来の凄い良さの結
 果で、「日本人の知性・知識の高いことが立証された」。
  馬鹿なGHQも「びっくり」という過去の史実がある
 が・・
  韓国は・・漢字を捨ててしまって、廃止し、ハングル
 文字だけにした。
  今、韓国の若い人たちは、漢字が読めない状態になっ
 ている。
  当然、漢字で書かれた過去の史料や文献・資料が読め
 ない。
  それで何が起きたか?というと、『知性の劣化』。
  (参考)知性:ちせい、物事を知り、考えたり判断し
     たりする能力。
  この様な恐るべきことが韓国で起きていると・・日本
 に帰化したエッセイストの呉善花さんがそのことを何度
 も書いたりして、発表されている。
  韓国は、同時に自分たちの歴史も失っている。
  (参考)呉 善花(オ・ソンファ、1956年~)は、韓国
     生まれの評論家、日本研究者。済州島出身。
      大東文化大学(英語学専攻)卒業後、東京外
     国語大学地域研究研究科修士課程(北米地域研
     究)修了。
      拓殖大学国際学部教授。元韓国籍で日本に帰
     化。
      子供時代を済州島で過ごす。
      1980年に、韓国軍に入隊しながら大邱保健専
     門大学を卒業。
      1983年に訪日、日本で働く韓国人を題材とし
     た『スカートの風』を出版。
      戦前に日本在住経験のあった母親からの影響
     もあったが・・そして・・
      学校教育によって一時は反日主義に傾倒して
     いたが、訪日後にさまざまな葛藤を経て知日派
     になった。
      韓国併合を全否定しない・・日本の自虐史観
     の改善を求めている・・
      韓国では・・親日派、「韓国を卑下する書籍
     を出版してきた」という否定的評価を受けてい
     る。
      また、韓国における漢字復活論支持者であり、
     自著でもたびたびハングル専用教育の弊害につ
     いて言及している。
      1988年に、日本へ帰化。
      韓国による入国拒否という行為に遭っている。
      2007年10月1日、済州島在住の母の葬儀で韓国
     へ入国しようとしたところ、日本での「反韓的
     な活動」が理由で、韓国当局から入国禁止措置
     が取られていたため、済州国際空港で一時入国
     を拒否された。
      これに対し、呉の要請により、在済州日本国
     総領事館は、日本人への人権侵害との申し出を
     し、韓国入管は呉の入国を認めた。
      2013年7月27日には、親戚の結婚式への出席の
     ために韓国へ入国しようとしたが、仁川国際空
     港で完全入国拒否(本国送還命令、韓国入国法
     76条)となった。
      ルーツを朝鮮半島に持ちながら、韓国に対し
     て批判的な評論活動を引き続き行なっているこ
     とが影響したとされている。
      卑劣にも、大韓民国当局は、拒否の理由を明
     らかにしていない。
.
2013年5月、今、韓国は、「なんだかんだ」と言っているが、
 何と言おうと、実際は「日本の統治は良かった」と思う
 韓国の人々が、大勢、生きている。
  その方々が、口を開かなくても、事実は、実際は、良
 いのだから・・だから、心では「(韓国)政府は何を言
 ってんの? 日本に感謝しなければならないのに、貶(
 おとし)めてばかりで・・」となっている。
  しかし、これからは、その方々が亡くなって行かれ、
 居なくなる。
  その時、(韓国)政府にプロパガンダ(嘘宣伝)され
 た韓国の人々は、本当にそう思って、始末が悪くなるだ
 ろう・・、
  「日本の統治は良かった」と実感した人たちが、大勢、
 生きている時は良かったが・・結局は、プロパガンダさ
 れた人々だらけになるだろう。
  半分、中国に冊封されて日本の貶め行為の政治行動を
 し続けるだろう。
  そのような事件が、2013年5月に起きている。
  「日本の統治は良い事だったと、私は思っているよ」
 と言った韓国の95歳のお年寄りが、若い男に殴り殺され
 ている。
 実際の日本の素晴らしい統治に感激した韓国のお年寄
 りが、「日本の統治は良かったよ」と口にしたら・・、
  韓国の嘘の反日教育を受け、洗脳された若者が、「そ
 んなわけはない」と韓国のお年寄りを殺すという事件だ
 った。
.
2017年、ドイツに入って来た移民は、結局、社会の下層に
 しか居られないのが実情で・・、
  経済的にも、社会的にも不満を持っている人間と化し
 た集団となっている。
  そこで、「iS(イスラム国)」に流れ込んでいる。
  ドイツ国籍は取れても、社会の最底辺に据え置かれて・・
 そして、ドイツに反感を抱く。
  今、ドイツには、「サラフィスト」と呼ばれるイスラ
 ムのウルトラ過激派・超過激派が、どんどん増えている。
  日本も、「労働移民」という都合のよい考え方で判断
 しているが、そんな様に都合よく行く訳はない。
  移民は、人間という複雑な行動や考えをする対象であ
 るという認識を・・自分に都合よく、夢のような解決・・
 そんな夢想しての政策を決める様な事はない様に・・、
  (参考)サラフィストを恐れるフランス・・
     2016年4月4日、ヴァルス首相は、「フランスの
     サラフィストはイスラム教徒の1%にすぎないが、
     イデオロギー、文化的闘いに成果を上げつつあ
     る」と表明し、警告した。
      サラフィズム(サラフィー主義)・・イスラ
     ム過激派と一口に言っても、国の歴史・宗教・
     政治的背景によってさまざまなグループがあり・・
     サラフィズムは、イスラム原理主義を守り、キ
     リスト教徒や他宗教徒を敵とみなし、真正イス
     ラム国カリファ再建の「聖戦(ジハード)」を
     掲げている。
      サラフィズムがフランスに入ったのは、特に、
     1991年、アルジェリアのイスラム救国戦線が選
     挙で圧勝したのに、与党が無効としたため武装
     イスラム集団(GIA)との内戦が10年続いた
     頃・・
      ムスリム人口の西洋での増加とともに、イス
     ラム過激派や原理主義サラフィズムもフランス
     に入って来て・・サラフィズムの影響下、ニカ
     ーブを着た女性イスラム教徒も増加した・・郊
     外への移民家族の集中化のなかで、ムスリムの
     コミュニティ化が進んで行った・・
      サラフィズムには3系統あり・・
      武装・過激化を提唱する 「革命的サラフィズ
     ム」・・、合法・政治的にイスラム主義国家を
     目指す、エジプトのムスリム同胞団に通じる「
     政治的サラフィズム」・・そして、「サラフィ
     ズム・キエティスト」は、政治に関係なく伝統
     的布教に努め、テロリズムでヨーロッパを恐怖
     に陥れる「イスラム国」を強く批判している。
      シリアに向かうフランス青少年(現在600人、
     女性200人、160人戦死)は、アッラーのための
     ジハードにまい進している・・
      パリやブリュッセルのテロ犯の大半は、元犯
     罪者か麻薬ディーラーで・・自国には懲役か失
     業しかないと絶望するニヒリスト青少年らは「
     イスラム国」、アッラーのために自爆テロを続
     けている・・
      聖戦に憧れる多くの青少年が、家族と断絶し
     てイスラム教に改宗する・・
      ヨーロッパ社会での差別、屈辱を、神やムハ
     ンマドのための 「聖戦」によってヨーロッパに
     復讐し反抗しようとする・・
.
2018年、今、ヨーロッパの終焉(しゅうえん、終わり)が
 言われている・・というより、ドイツの差配するヨーロ
 ッパとなっている。
  (参考)差配:さはい、指図してとりさばくこと。
  ドイツの経済力に頼らざるを得ないヨーロッパとなっ
 ているから・・経済力の強いドイツが牛耳る・・「ドイ
 ツ帝国」の再来と言われている。
  しかし、そのドイツ・・、中国の購買力で息を吹き返
 した自動車のベンツの如(ごと)く、このベンツ以外は
 影が薄くなって来ているドイツの状態・・、
  ヨーロッパは、その様なドイツに頼らざるを得ず・・
 「ドイツの力と意思に決定づけられている状況」となっ
 ている。
  EUは、「EUの衣装を身にまとったドイツ帝国」の
 状況が強くなっていると言われているが、そのドイツ・・
 各部の地盤沈下が酷(ひど)く・・中国に救いを求めて
 いる。
  ベンツだけの救済だけでなく・・その為、中国が主導
 するAIIB(アジアインフラ投資銀行)へ、このドイ
 ツだけでなくEU諸国が、こぞって参加している・・
  腐肉に群がるハイエナのような状況になっている。
  今、ドイツは、移民が酷く・・ドイツでは、どこの幼
 稚園や小学校でも、外国系の子供たちの方が多いという
 ケースがたくさんある。
  今、ヨーロッパの終焉が近づきつつあると言え・・そ
 のヨーロッパの文化も消えていく状況・・町並みも消え
 て行く状況。
  中国に近づいて、中国の軍事力の増強にテコ入れする
 ことが恐れられている・・
  ドイツの技術が、中国に注入されることが恐れられて
 いる。
  ドイツの軍事技術が、どんどん中国に入ることが懸念
 されている・・中国はそれを望んでいる・・、

 (追伸)先日、テレビで放送されたが・・、
     オーストリアの世界遺産の美しい街並みの満々中に
     超近代的は高層ホテルが建つ話がある・・景観ぶち壊しホテル
      もう世界遺産より食う方が先・・背に腹は代えられぬという
     ヨーロッパとなっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)603E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)

2018-07-18 03:22:02 | 日記
題:(増補版)603E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月17日、御前会議で慎重な審議を重ねられ、開戦が
 確認された・・そして、最後通牒が送られた。
  回答期限は、朝鮮に対しては7月22日、中国・清国に対
 しては7月24日とした。
.
1894年7月17日、海軍軍令部長が中牟田倉之助から樺山資紀
 に交代した。
  海軍軍令部は、1893年5月20日の「海軍軍令部条例」に
 より設置された。
  この頃の海軍の建設にあたって、初めは、軍令の専掌
 機関はなく、海軍省が軍令と軍政を一元的に管掌してい
 た。
  1884年、海軍省内に外局として軍事部が設置されて、
 初めて軍令をつかさどった。
  1886年、軍事部は参謀本部の海軍部となり、
  1888年、参軍のもとの海軍参謀本部となり、
  1889年、海軍大臣のもとに戻って海軍参謀部となった。
  1893年、海軍省から独立して天皇陛下に直隷する海軍
 軍令部となった。
  作戦、編制、情報、通信、戦史などをつかさどった。
.
1894年7月18日、総武鉄道の佐倉駅~銚子駅間の建設仮免許
 状が下付された。
.
1894年7月19日、イギリスの第二次調停案への回答期限を、
 7月24日と清に通告した。
.
1894年7月19日、朝鮮の望む自主独立と・・宋主権を行使し
 主張する清国・・、
  「断固なる処置を施すの必要あり」の訓令を受けた大
 鳥公使は、朝鮮が清国と結んでいる諸条約の廃棄を提案
 した。
  つまり宗属関係の撤廃、清国軍の撤兵、ソウル~釜山
 間の軍用電信の架設、日本の兵営建設などを示し、朝鮮
 政府に手交した(7月20日)
.
1894年7月19日、海軍連合艦隊を編成し、伊東祐亨が初代司
 令官に就任した。
  日本海軍初の聯合艦隊を編成した。
  司令長官は伊東祐亨中将だった。
  日清戦争開戦が現実のものになってくるにつれて「警
 備艦隊」というのはふさわしくないという意見が出た。
  一時は、警備艦隊を常備艦隊に統合する案が出たが、
 当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が警備艦隊
 を「西海艦隊」と改名し、常備艦隊と西海艦隊をもって
 「連合艦隊」を組織するという案を出した。
  これが連合艦隊編成のきっかけとなった。
  以降、日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成され
 た。
  1923年(大正12年)以降、常設となった。
.
1894年7月19日、別子銅山新居浜精煉所の煙害をめぐり農民
 が精煉所を襲撃した。
.
1894年7月20日、日本汽船の長崎~上海航路が運航停止と
 なった。
  日本郵船の庸船「アンゼルス丸」だけが、イギリス国
 旗を掲げて週1回就航した。
.
1894年、この頃から1902年頃にかけて、外務省の「霞倶楽
 部」、農商務省の「采所クラブ」、陸軍省の「北斗会」、
 政友会の「十日会」と次々に記者クラブが生まれ・・、
  さらに、1905年には、司法省の「司法記者倶楽部」、
 1907年には、内務省の「大手倶楽部」、1910年には「兜
 会」が組織された・・が・・、
  まだまだ新聞のイメ−ジは悪く、政府も省庁も、記者た
 ちを車夫、馬丁と同様に思われ、扱われていた。
  記者室も玄関先の控え所にちっぽけな場所を与えられ
 ただけだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:これから先の風景は・・、人口の急増と都市化、
   エネルギー消費の爆発的増大、CO2排出量の急増・・
   これ等のすべての先には地球温暖化と異常気象がある。
   海水温が2度上昇すると、台風の強度は2倍になるという。
   この様な中、世界の趨勢(すうせい)は静かに着実に
  原子力発電へと行かざるを得ない。
   人類が、生活に必須のその電力を得るためには・・、
   その投資の主要部分が、原子力発電が占めることが明白と
  予測されている。
.
紀元前5600万年、日本列島:始新世(5600万年前~3400万
 年前)頃からその原型が形成された。
  中新世(2,300万年前~530万年前)に、日本海が形成
 されてユーラシア大陸と分離した。
  中新世になると・・今度は、日本列島が大陸から引き
 裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来始めた。
  2100万年前~1100万年前には、さらに断裂は大きくな
 り、
  西南日本は、長崎県対馬南西部付近を中心に時計回り
 に40度~50度回転し・・、
  同時に、東北日本は、北海道知床半島沖付近を中心に、
 こちらは反時計回りに40度~50度回転したとされる。
  これにより今の日本列島の関東以北は南北に、中部以
 西は東西に延びる形になった。
  いわゆる「観音開きモデル説」である。
  そして、およそ1500万年前には、日本海となる大きな
 窪みが形成され、海が侵入してきて、現在の日本海の大
 きさまで拡大した。
  1600万年前~1100万年前までは、西南日本(今の中部
 地方以西)のかなり広い範囲は陸地であった。
  東北日本(今の東北地方)は、広く海に覆われ、多島
 海の状況であった。
  その後、東北日本は、太平洋プレートなどによる東西
 からの圧縮により隆起して陸地となり、現在の奥羽山脈・
 出羽丘陵が形成されるにいたった。
     ・
     ・
紀元前1500万年、日本列島が今の位置に来た。
  日本列島が今の位置にやって来たのは1500万年前。
  その形は現在と同様ではなかった。
  気温や海面の変化、氷河の拡大・縮小などに起因する
 ダイナミックな変動を繰り返しながら、現在の日本列島
 の姿へとなった。
     ・
     ・
紀元前500万年、日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来
 上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前。
  その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。
  その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間
 氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こっ
 た。
    ・
    ・
紀元前100万年、デニソワ人
  2010年3月25日付のイギリスの科学雑誌『ネイチャー』
 に、マックス・プランク進化人類学研究所の研究チーム
 は、発見された骨のミトコンドリアDNAの解析結果か
 ら、「デニソワ人」は、100万年ほど前に現生人類から分
 岐した未知の新系統の人類と発表した。
.
紀元前80万4000年、「ネアンデルタール人」と「デニソワ
 人」の祖先が分岐した。
  2008年、ロシア西シベリア・アルタイ山脈のデニソワ
 洞窟で子どもの骨の断片が発見された。
  2010年12月23日、マックス・プランク進化人類学研究
 所などの国際研究チームは、『ネイチャー』に論文を掲
 載した・・その内容は・・、
  見つかった骨の一部は、5歳~7歳の少女の小指の骨で
 あり、細胞核DNAの解析の結果、デニソワ人はネアン
 デルタール人と近縁なグループで・・、
  80万4000年前に、現生人類であるホモ・サピエンスと
 の共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先
 が分岐し、
  64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であ
 ることが推定された。
  デニソワ洞窟は、ネアンデルタール人化石発見地のう
 ち最も近いイラク北部シャニダール遺跡から、約4000km
 の距離を隔てている。
  メラネシア人のゲノムの4%~6%がデニソワ人固有の
 ものと一致することから、現在のメラネシア人にデニソ
 ワ人の遺伝情報の一部が伝えられている可能性が高いこ
 とが判明した。
  また、中国南部の住人の遺伝子構造の約1%が、デニソ
 ワ人由来という研究発表も、スウェーデンのウプサラ大
 学の研究チームより出されている。
  ネアンデルタール人と分岐した年数も、35万年ほど前
 との説もある。
  ジョージ・ワシントン大学の古人類学者のブライアン・
 リッチモンドは、デニソワ洞窟で見つかった巨大臼歯か
 らデニソワ人は体格はネアンデルタール人と同じか、そ
 れよりも大きいとみている。
  概略のところは、40万年前~30万年前にアフリカを出
 て、中東を経て、ヨーロッパに拡がった集団がネアンデ
 ルタール人に・・、
  中東を経て、アジア内陸部に移動した集団がデニソワ
 人になった。
  それに遅れて、6万年前~5万年前に、アフリカを出た
 我々現生人類(ホモ・サピエンス)の祖先は、まず、中
 東でネアンデルタール人と交わり、さらに、アジア内陸
 部でも先住者のデニソワ人と交雑し、世界中に拡がって
 現在に至ったという推定もある。
  ネアンデルタール人やデニソワ人は、その後、絶滅し
 てしまったが、アフリカ土着のネグロイドを除く現在の
 現生人類遺伝子のうち数%は、ネアンデルタール人由来
 である。
  中東での現生人類祖先とネアンデルタール人との交雑
 を示す研究成果は、2010年5月に発表されているが、
  2010年12月に、アジア内陸部におけるデニソワ人とも
 現生人類祖先は交雑したとする研究結果が出たことから、
 この結果が正しければ、過去には異種の人類祖先同士の
 交雑・共存は「通常のことだった可能性が出てきた」。
  (この例の様に、我々の祖先は、広い交雑域の中に、
 長い長い年月に居た・・アイヌと琉球は別民族というキ
 リスト教系大学の独断は、まったくの科学性のない主観
 的見解である)
  なお、アジア内陸部で、デニソワ人と交雑した現生人
 類祖先は、その後、長い期間をかけてメラネシアなどに
 南下していったと考えられている。
  また、中国方面に移住したグループは漢民族となり、
 高地に移住したグループはチベット人の「別民族となっ
 た」。
     ・
     ・
紀元前40万年、ネアンデルタール人がアフリカを出た。
  40万年前~30万年前に、アフリカを出て、中東を経て、
 ヨーロッパに拡がった集団・ネアンデルタール人に・・、
  中東を経てアジア内陸部に移動した集団がデニソワ人
 になった。
.
紀元前35万年、日本列島にナウマン象が現れる(~1万7000
 年前に絶滅)
  ナウマン象は、約35万年前に日本列島に現れ、約1万
 7000年前に絶滅した。
  日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(間宮・
 宗谷・津軽・対馬海峡)を通って、色々な動物が渡って
 来たと考えられている。
  さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡って来
 た。
  最終氷期に大陸と繋がった北海道だけは、マンモス動
 物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、それら
 の混合相となった。
.
紀元前20万年、人類の起源のホモ・サピエンスが、アフリ
 カに登場した。
  人類はアフリカに誕生したあと、数回にわたってアフ
 リカからユーラシア大陸へと移動した。
  しかし、現在のように地球の広い範囲に拡散移動した
 のはホモ・サピエンスの登場以降のことである。
  現代に生きる人類の起源を遺伝学的に研究すると、20
 万年前ごろにアフリカにいた人類集団の一つにその起源
 をたどれる
  ホモ・サピエンスが全地球的な拡散をはじめたのは、今
 から5万年前頃であった。
.
紀元前12万年、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)の
 前期旧石器などの遺物が発見されている。
.
紀元前12万年、デニソワ人の旧人が日本列島に居た。
  現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前にアフ
 リカを出発し、それ以前にはアフリカ外には分布してい
 なかった。
  従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)
 を遺したのはデニソワ人などの旧人である。
  日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)が現れるの
 は4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハ
 プログループD1b (Y染色体)の起源年代とおおむね一致す
 る。
  (参考)デニソワ人:ロシア・アルタイ地方のデニソ
     ワ洞窟(ロシア、中国、モンゴルの国境に近い
     地域)に約4万1千年前に住んでいたとされるヒ
     ト属の個体および同種のヒト属の人類である。
      デニソワ洞窟は、アルタイ地方の中心都市バ
     ルナウルから約150km南方に位置する。
      Homo sapiensの亜種とされることが多い。
      ネアンデルタール人と並んで、我々現生人類
     であるホモ・サピエンス・サピエンスに最も近
     い化石人類である。
      また、現生人類の一部(メラネシア人など)
     と遺伝子情報を部分的に共有する可能性が高い
     としている。
      マックス・プランク進化人類学研究所の研究
     チームは、発見された骨のミトコンドリアDN
     Aの解析結果から、デニソワ人は100万年ほど前
     に現生人類から分岐した未知の新系統の人類と
     発表した。
.
紀元前11万年、気候が冷涼になった。
  約11万年前には気候が涼しくなり始めた。
.
紀元前9万年~紀元前8万年、日本列島での人類の足跡は、
 9〜8万年前(岩手県遠野市金取遺跡・中期旧石器)に遡
 (さかのぼ)る。
  この時代に属する遺跡は、日本列島全体で数千ヵ所と
 推定されている。
  地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終
 末から完新世初頭までである。
  (参考)更新世:こうしんせい、地質時代の区分の一
     つで、約258万年前から約1万年前までの期間。
      大陸の形は現在とほとんど変わらないが、氷
     期・間氷期の氷床の拡大・縮小による海水準変
     動に伴って、海岸線の位置が移動した。
      更新世の後期では海水準にして百数十メート
     ルの変動があった。
      海水準が低下した時期は、現在浅い海である
     海域の多くが陸地となっている。
  また、日本列島は、氷床によって大陸と陸続きだった。
  完全に渤海は氷床に埋まり、また、黄海も完全に氷床
 に埋まり、東シナ海も北半分は氷床に埋まっていた。
  また、対馬海峡も氷床で埋まり、台湾も大陸と氷床で
 埋まり地続きだった。
  人類は容易にこの氷床上を歩いて日本に渡って来れた。
  また、樺太と大陸は地続きで、樺太から北海道、本州、
 四国、九州は、氷床があり歩いて渡れる状態にあった。
.
紀元前6万年、現生人類(ホモ・サピエンス)が東アジアに
 到達した。
  アフリカを出た私たちホモ・サピエンスの祖先は、5
 万年前〜6万年前頃には、東アジアにまで到達していた
 と考えられている。
  研究者の多くは、4万年前頃に、旧石器時代の遺跡が急
 激に増えることから、現代人につながる人々が少なくと
 もその頃に日本で暮らしていたと考えている。
  ところが、実際は、さらに古い遺跡も見つかっている。
  岩手県遠野市では、8万5000年前~5万年前と推定され
 る遺跡が見つかり、石器も出土している。
.
紀元前6万年、板状の木製品が出土した。
  板状の木製品は、明石市西八木遺跡で、約6〜5万年前
 の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の
 木製品(加工痕のある木片)が出土した。
  この木片は、長さ23.4センチ、最大幅4.8センチ、厚さ
 4ミリで、少なくとも2種類の石器で加工されている。
  用途はまだ分かっていない。
  この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代の
 板ということになり、旧人が工作した板ということにな
 る。
.
紀元前5万年、日本の遺跡・竹佐中原遺跡
  長野県飯田市で、竹佐中原遺跡が発掘調査された。
  この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が
 出土した。
  石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、
 植物珪酸体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス
 年代測定など)した結果、3万年より古く、5万年より新
 しいことが分かった。
  4か所から出土した石器は、2グループに分けることが
 でき、一つは3万年〜3万数千年前(後期旧石器時代の初
 め頃)、
  もう一つは、3万数千年前〜5万年前のものであること
 推測された。
  つまり、中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変
 わる時期の遺跡とされた。
.
紀元前4万年~紀元前3万年、日本列島で世界最古の磨製石
 器が作られていた。
  氷河期に日本列島は大陸と陸続きになり日本人の祖先
 は獲物を追って日本列島にやって来たとされてきたが、
 近年の研究では、氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海
 峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってき
 た。
  また、舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島
 産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見さ
 れていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日
 本列島にやってきた」という研究者の発言も新聞で報道
 されている・・しかし、この時期には、船の遺物は発見
 されていないため少数の意見である。
  一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採
 掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では、
 知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
  また、4万年〜3万年前には、世界最古の磨製石器が製
 作されており、すでに日本では独自の文化が形成されて
 いたことが分かった。
.
紀元前4万年、ナウマン象の骨製品
  長野県の野尻湖遺跡で、約4万年前の地層(日本考古学
 用語では「土層」とも言う)からナウマン象の骨製品が
 まとまって発見された。
.
紀元前3万8000年、野尻湖湖底遺跡
  約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した動物を解体す
 る場所であったと推定されている。
  長野県上水内(かみみのち)郡信濃町野尻にある遺跡。
  野尻湖は、斑尾(まだらお)山と黒姫山に挟まれた標高
 約650mの高原に位置し、遺跡は湖西岸の立ケ鼻という岬
 付近の湖底に所在する。
  1948年、地元住民が偶然ナウマンゾウの臼歯を発見し、
  1962年から湖底や湖畔の発掘調査が始まり、以後、継
 続的な調査が行われている。
  ナウマンゾウやオオツノジカなど大型哺乳類の化石、
 ニホンジカ・イノシシなど中・小型哺乳動物の化石とと
 もに、剝片によるナイフ形石器、象牙を加工した骨角器
 などが出土し、約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した
 動物を解体する場所であったと推定されている。
  最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は
 野尻湖湖底遺跡はじめ各地から報告されており、そうし
 た動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してき
 た可能性は考えられる。
  つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さ
 えも想像される。
  この期の遺跡の調査例は少ない。
  石器や生活道具類が発見される程度である
  野尻湖で狩りが行われた決定的な証拠はまた発見され
 ていないが、骨製品がその可能性を示唆している。
  ちなみに、ゾウ1頭の肉で50人の集団が45日分のカロリ
 ーを確保できたと推定されている。
  縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中
 で大きな比重を占めていたが・・、
  旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が
 主体であったようだ。
  旧石器時代人は、主として狩猟によって食糧を得てい
 たと言える。
  当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの
 大型哺乳類の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなど
 の中・小哺乳動物の骨が発見されている。
  そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・
 サイトも発見されている。
  このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩
 人たちであったと思われる。
  竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないの
 は、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り
 返していたからだとも推定されている。
  当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたという。
  この様な大きな移動量は、日本人の形成に於いて、北
 海道から沖縄まで、長い歴史の中で、その血の混合が均
 一になされていた。
  日本の旧石器文化が、シベリアとの強い関連性がある
 ことが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離
 頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。
  その移動の広さは想像以上である。
  日本は、酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、
 日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能
 性がある。
.
紀元前3万3000年、日本列島の後期旧石器時代は、約3万5000
 年前に始まり、縄文時代へと移行する約1万5000年前まで
 の約2万年間続いた。
.
紀元前3万年、沖縄の洞穴で発見された子供の骨は初期現代
 型新人の特徴に一致する。
  沖縄県那覇市山下町第一洞穴遺跡で、1968年に発見さ
 れ・・、
  約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、
 国内では最古級の人骨である。
  最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致す
 るという。
.
紀元前2万8000年~紀元前1万1000年、後期旧石器時代
  後期旧石器時代は、コナラ、クリ、クヌギを主体とし
 た落葉広葉樹林が西日本から東日本を覆うようになった。
.
紀元前2万8000年~紀元前1万年、日本の後期旧石器遺跡が
 4000ヶ所を超える。
  1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(現・群馬
 県みどり市)で関東ローム層中から旧石器を発見した。
  日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。
  現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が
 確認されている。
  これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1万2000年前
 の後期旧石器時代に残されたもの。
.
紀元前2万7000年、地球の寒冷化が進行する。
  2万9000年前を過ぎる頃から、地球規模で急激に寒冷化
 が進行し、約2万5000年前を前後する頃には最終氷期最寒
 冷期を迎えた。
.
紀元前2万年、この頃、海面が最も下がった、現在より120
 メートルも低下していた。
  本州と四国、九州、それから屋久島、種子島も陸続き
 で、また、ロシアと北海道も陸続きで・・、
  縄文人の祖先たちやマンモスは、ユーラシア大陸から
 歩いて日本にやって来た。
  この頃は、黄河の河口が、現在の韓国の済州島の南あ
 たりにあり、黄河の水が、狭くなった対馬海峡から日本
 海に流入したことによって、日本海が淡水化していたこ
 とが分かっている。
  その為、新潟は、今、おいしい海産物があるが、2万年
 前は、日本海がほぼ淡水だったため、魚はほとんど採れ
 なかった。
  また、関東平野は、海面が下がったことで、深い谷が
 たくさん出来ていて・・、
  関東平野にできたその大きな谷に、7000年前の海面上
 昇で海水が流れ込んで来た。
  その7000年前の海面上昇は、関東の内陸部、例えば、
 川越あたりから貝塚が発見されていることからも明らか。
 (明星大学教育学部・長谷川裕彦准教授)
.
紀元前2万年、最終氷期の寒冷期で、海面が120メートル以
 上も低下していた。
  現在から、約2万年前の最終氷期の最寒期には、海面は
 全世界で120m以上も低下しており・・、
  日本列島も、津軽海峡の一部、宗谷海峡、瀬戸内海の
 大部分などが陸続きで、アジア大陸ともつながり、現在
 の日本海は、ほとんど塩湖だったと推定されています。
  このとき、多くの動物が渡来し、日本の生物相に大き
 な影響をあたえました。
  最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南
 部から中央高地にかけては亜寒帯性針葉樹林で・・、
  それより西側は温帯性針葉・広葉の混交林が広範囲に
 拡がっていった。
  暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋
 側沿岸の一部と南西諸島に後退していた。
  約1万年前からの完新世になって、平均気温が高くなり、
 海面が上昇し、現在の海陸分布ができあがった。
.
紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡。
  日本の住居跡遺跡が整った形で発見された。
  大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」で、約2万2000年前
 の極めて形の整った径6メートル、深さ20センチメートル
 の円形竪穴住居が発見された。
  外周に柱穴を持つもので、径10センチぐらいの材を20
 本近く斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施し、そ
 の上を草や皮で覆った構造が考えられる。
  この住居跡は、構造がよく分かった上にサヌカイト製
 のナイフ形石器や翼状剥片が、約200点も一緒に出土した。
  (参考)サヌカイト:讃岐岩(さぬきがん、サヌカイ
     ト)は、名称のもとである香川県坂出市国分台
     周辺や、大阪府と奈良県の境にある二上山周辺
     で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。
  調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉な
 どがあり、熱のために赤色化していたことで、火が使わ
 れていたことが分かる。
  土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。
  礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲
 に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化してい
 て、調理施設に関連したものと考えられている。
  一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、
 火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考
 えられている。
  そのほか、死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。
  死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこ
 にベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものが
 ある。
  シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋
 葬する習俗が遅くとも2万年前には出来ていたらしい。
  旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中し
 ている箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、
 土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。
  集落の規模と構成はまだ分かっていない。
  竪穴住居といえば、縄文時代や弥生時代の住居形態を
 想起するが、竪穴住居が旧石器時代に遡っただけでなく
 旧石器時代人が石器だけでなく木を使っていたことが分
 かった。
  木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップ
 などの生産用具を作り、生産効率を上げることが出来る。
  径10センチくらいなら、今の建築材料の柱の太さとそ
 う変わらない。
  それを20本も、木の柄の付いた斧で木を倒したとされ
 ている。
.
紀元前1万8000年、沖縄県出土の人骨が判定された。
  2010年(平成22年)2月4日、沖縄県教育委員会は、沖
 縄県石垣市白保(石垣島)の新石垣空港建設敷地内にあ
 る白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)か
 ら発見された人骨について、琉球大学や東京大学などと
 研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20代
 から30代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で
 約2万年前のものと分かったと発表した。
  また「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変
 遷に関する総合的研究」の分析では、発見された人骨片
 のうちの右頭頂骨片に対して、20416±113年前(BP)とい
 う推定年代値を得た。
  これは放射性炭素によって直接ヒト化石の年代を推定
 した値としては国内最古のものであった。
.
紀元前1万6000年、浜北人の年代測定の結果
  浜北人は、静岡県浜北市(現・浜松市浜北区)根堅(
 ねがた)の石灰石採石場で、1960年から1962年に発見さ
 れた頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・寬骨・脛骨)の
 人骨化石である。
  上・下2つの地層から出土した。
  それぞれの層から出た獣骨の年代を加速器質量分析(A
 MS)法による炭素年代測定での結果は、上層が約1万4000
 年前、下層出土の脛骨が約1万8000年前を示した。
.
紀元前1万4500年、世界最古級の土器が日本から出土した。
  世界でも最古級(約1万6500年前)の土器が青森県の
 大平山元遺跡から出土した。
  旧石器時代の終末に、九州では、豆粒文土器(長崎県・
 泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現した。
  一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出
 現期のこの頃の土器の役割はまだ十分解明されていない。
  この青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着し
 た炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法
 で1万6500年前と出た。
.
紀元前1万4000年、日本列島の旧石器時代は、人類が日本列
 島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考
 えられている。
  無土器時代、先土器時代ともいう。
.
紀元前1万年、上部港川人が発見された。
  1967年〜1969年に、1万2000年前のものと考えられる人
 骨(上腕骨・尺骨・寬骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・
 第1中足骨)の断片が発見された。
  これは、日本本土で多く発見されている縄文人の骨格
 的特徴によく似ており、上部港川人と呼ばれている。
  港川人は、沖縄県八重瀬町(旧具志頭村)港川の海岸
 近い砕石場で発見された。
  港川人は、1万8000年前(旧石器時代)に生きた人骨化
 石に対して発見場所にちなんで付けられた名称で、
  1967年に発見された港川人の人骨は、約1万7000年~
 8000年前頃のものと推定された。
  国内で発見されている更新世化石人骨の中で体全体の
 形が分かるほど残っているのは港川人だけであることも
 あり、日本人のルーツを研究する上で重要な資料とされ
 ている。
  頭蓋骨は現代人よりも少し大きく、堀が深い顔立ちで
 頬骨がはり、鼻筋が高い。
  縄文人と似ている特徴をもつこの港川人は、人類の謎
 を解き明かす上で、非常に重要な存在と考えられており、
 今後、更なる調査が行なわれている。
.
紀元前5000年、気温上昇により海面が上昇した。
  縄文時代前期の7000年前、今より気温は2度、海面は2
 メートル高かった。
     ・
     ・
     ・
2018年、日本の主食の米が、いざという時に、日本人の食
 を助けてくれる米が、今、そのシステムが働かないよう
 になろうとしている。
  2018年から、その様な自体になるだろうと予測されて
 いた。
  日本は、食糧における安全・安保のために、政府は、
 米という穀物は、日本人の命の糧とした政策をとって来
 た。
  しかし、圧力を受けて、その政策を放棄した。
  米への圧力と言えばTPPでも攻められていた。
  「日本の生命線だから・・」という説明に耳を貸さな
 い態度を見て来た。
  近い将来、人口と、その人口のための食糧のバランス
 が不安定となる事が確実視されている。
  現在、日本は、長い間、国民の食の安定・安全・安保
 を担ってきたシステムを、制度を止める。
  2018年をもって終了としている。
  どこのファミリー・レストランでも、家族連れの方々
 が、楽しそうに食事をされているが、その食のシステム
 が変わる。
.
2020年代、アメリカを越える中国・・
  CIA(中央情報局:アメリカ合衆国の大統領直属の
 情報機関)と、
  ペンタゴン(アメリカ国防総省)と、
  アメリカ国務省は・・予測する・・、
  「今後、20年間の『中国』の経済成長率と軍事予算成
 長率は・・、
  アメリカの経済成長率と軍事予算成長率を、はるかに
 越えるだろう」・・と。
  そして、2020年代になると・・、
  東アジア地域における、米中の経済力と軍事力バラン
 スは逆転し、
  「アメリカは、いずれ、東アジアからの撤退を余儀な
 くされる」・・と・・、
  この予測通りだと、日本の「アメリカ追従政策の破綻
 (はたん)」が起きる事態となる。
  伊藤貫氏と日下公人氏の対談の本を参考にして記すと
 ・・、
  ニクソン大統領とフォード大統領の両政権で国務長官
 を務めたキッシンジャーは言う・・、
  「戦争に敗けて・・敵に占領された国には、二つの対
 応策しかない」・・と、
  その一つは、「占領軍に対して、長期間の徹底的な『
 ゲリラ戦』を実行する」、
  そして、その二つ目は・・、
  「眼先の利益と、安全を確保するため、占領軍に協力
 し、服従するコラボレーショニストになる」・・と・・
  「日本は、二つ目だ」とは明言していないが、そのニ
 ュアンスを込めた発言となっている。
  せっせと服従し、恭順の意を示していれば、そのうち、
 占領政策を緩めてくれるかもしれない。
  一つは、国家の「ディ・レジティマタイゼーション」
 で、国家がレジティマシー(正統性)を失うという意味。
  かつて戦争相手であった・・戦勝した敵の押し付けて
 来た憲法や法律、行政制度、教育制度、歴史解釈など、
  敗北した国は・・「道徳的に劣悪な国」であり、
  戦勝国は・・「道徳的に優越した正義の国」であると
 いう歴史解釈を押し付けられて・・使う。
  敗戦国家の国民は、「なんだ、自分の国は、占領軍の
 言いなりになっているだけの追従の似非(えせ:似て非
 なる・・正しいものに為り得ぬ)国家か・・?」・・と
 思うようになる。
  外見は「立派な独立国」で、「経済大国」のように見
 えたが・・???
  本音は、まったく違って、ただ・・ただ・・この国は、
 戦勝国に服従している・・「属国にすぎない」・・と。
  周りの国まで、口には出さないけれど・・その国を蔑
 (さげす)む。
  国家のクレディビリティ(信憑性、信頼性、確実性)
 や、正統性を・・半端にしか見ない。
  その点での尊敬など受けない。
  国家の「ディ・モラライゼーション、de-moralization、
 士気喪失」の弊害が起きる。
  国民が士気を失う。
  「モラール(士気、気概、競争心)」を失う。
  (参考)士気:しき、戦いに対する軍隊の意気込み。
     転じて、一般に、人が団結して物事を行う時の
     意気込み。
  「戦勝国の顔ばかりうかがう国」と、劣等意識を植え
 付けられる。
  国への忠誠心も阻害される。
  国のためより、自分のための・・国民になる。
.
2020年代、アメリカが、経済的に、また、予算的に、その
 緊迫する状況から・・、
  アメリカの軍事費は・・明らかに・・現在の状況を維
 持できなくなる。
  「アメリカに頼っていれば大丈夫」・・は、崩れる。
  「日本の安全は大丈夫」に、危険のランプが灯(とも)
 る。
.
2020年代、この年代に、アメリカの青少年の『過半数』は、
 有色人種(非白人〉に・・なる。
  2042年頃、アメリカの有色人種が、アメリカ人口全体
 の『過半数になる』。
  今、アメリカ白人の平均年齢は42歳、ヒスパニックの
 平均年齢は26歳。
  アメリカの白人女性は、1人当たり1.7人の子供を生む
 のに対し・・
  (因みに、2.1人以下の場合は人口減少が起きる)、
  アメリカのヒスパニックの女性は3.0人を生む。
  WASP〈白人・アングロサクソン・プロテスタント)
 の支配層は・・少数派になって行く・・
  すべての考え方の前提が崩れ去って行く・・消え去っ
 て行く・・
.
21世紀のこれからの政治は、その国際政治の主舞台は、か
 つての欧州・大西洋から、アジア・太平洋へとシフトす
 る。
.
21世紀のこれから先の風景は・・、
  人口の急増と都市化、
  エネルギー消費の爆発的増大、
  CO2排出量の急増・・これ等のすべての先には地球温暖
 化と異常気象がある。
  海水温が2度上昇すると、台風の強度は2倍になるとい
 う。
  この様な中、世界の趨勢(すうせい)は静かに着実に
 原子力発電へと行かざるを得ない。
  2014年には、160兆円が世界で電力投資されているが、
  2035年には、それが200兆円に達すると試算されている。
  その投資の主要部分が、原子力発電が占めることが明
 白と予測されている。
.
2027年、JR東海のリニア中央新幹線が開業する予定。
.
2034年、日本の人口が1400万人減少すると言われている。
.
2040年、日本の896市区町村が消滅する可能性があると予測
 されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)602E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)

2018-07-12 15:42:12 | 日記
題:(増補版)602E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月9日、別子銅山新居浜精錬所の煙害に抗議して、
 農民の850人が、精錬所に対し実力で抗議行動をした。
  その被害農民の方々は、操業停止を求めていた・・
  そして、その要求を実現すべく新居浜分店への襲撃状
 の過激な行動となった。
  会社側は、その被害農地を買い上げることで解決しよ
 うとした・・
  1895年、農民代表は、住友大阪本店と補償交渉をする
   ことになった。
   そこで時の鉱業所支配人・伊庭貞剛は・・、
   「住友家の家名を汚すようなことがあってはならな
   い」と、足尾の二の舞を避けるべく、瀬戸内海の無
   人島への精錬所移転を計画した。
  1895年、四阪島を買収、
  1896年、着工、
   総費用は、当時、銅山年収の1.5倍以上に相当する170
   余万円を要した・・しかし・・
  1899年、別子で大洪水が発生、設備半壊、500名が死亡
   する大被害があり・・四阪島への移転は2年遅れて・・
  1904年、操業開始となった。
   移転してみると・・期待に反して被害は減らず、む
   しろ汚染地域が拡大した・・、
  1908年には、米麦とも収穫量が激減した。
   愛媛県会は、県知事と農商務相への陳情決議と被害
   救済建議案を全会一致で可決した・・、
    愛媛県選出代議士も連署して除害命令と被害救済
   建議案を衆議院に提出した・・、
    被害郡の町村長も、連署して上申書を農商務相へ
   提出した・・、、
    自治体関係者は、こぞって農民側に立ち大会社・
   住友を追求した。
    しかし、被害の補償額を巡って折り合いは付かな
   かった・・、
  1910年、農商務相の調停で、煙害賠償金の支払いと、
   農作物の生育に重要な期間に、10日間の操業停止が
   決着した。
    政府は、日立、小坂銅山など全国的に激しくなっ
   てきた鉱毒問題に対処するため鉱毒予防委員会を設
   置した・・、
    その専門家の政府指導で・・
  1915年に、建設費35万円で、低い煙突6本を四阪島に
   設置した・・しかし・・これも効果無く失敗・・、
    その後、高い煙突を建てたり、電気集塵機を導入
   して排ガス浄化に努めた・・が・・効果は薄く・・、
  1939年、やっと解決策が出て来た・・
   SO2(亜硫酸ガス)中和工場(脱硫)完成により、
   ようやく賠償金を大幅に減らすことができた。
  住友鉱業の煙害では、足尾鉱毒とはまったく異なり、
 被害農民は県、国、会社に強く訴え、会社側の対応を引
 き出し・・、
  会社側は、被害防止に前向きな対応を図っていた。
  支配人・伊庭貞剛は、煙害を受けた銅山周辺に植林を
 積極的に進め・・今では緑が回復している。
  (この植林事業が、今日の住友林業の元になる)
  田中正造は、足尾に比べて前向きな住友の対応を評価
 した。
  しかし、技術的な知識不足から多額の費用をかけた移
 転、低煙突建設ともに効果がなく、
  1939年までに、被害農民に支払った賠償金等は総額730
   万円に上った。
  (参考:西田進氏HP、http://www.nishida-s.com/index.html)
.
1894年7月12日、イギリスの調停案も拒否し・・金玉均も
 暗殺するという清・・その清との日清の会談も決裂し、
 小村公使が、清国政府に第二次絶交書を手交した。
  清の軍人・袁世凱は、朝鮮で画策して、朝鮮国王の名
 で清国の出兵を要請させ・・
 (まったく、朝鮮は、自主独立しているという状態では
 ない状態)、
  清は、表面は美しくして出兵しているが、実態は、朝
 鮮を操作するという状況だった
  清の出兵は、1894年6月8日に清は軍を出兵させ、牙山
 に上陸させた・・
  (日本に通知してから行動する・・という条約は、無
 視され・・事後報告の状態だった)
  この様に中国・清の工作員の軍人が横行する朝鮮の状
 態で、清のやりたい放題だった。
  日清間では、撤兵問題も話し合われたが、宋主権を持
 つという意識の清は強く、話し合いは紛糾した。
  開戦せざるを得ない状況が出て来て、日本は、開戦に
 当たって、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ロ
 シアなどの関係各国に対し、清国に対する開戦を通告し
 ている。
  現在の中共(中華人民共和国)も、ある意味、この時
 の様な冊封体制下の様な振る舞いをしている・・(北朝
 鮮は、完全に冊封体制下に置かれて、朝貢しているがご
 とくとなっている)・・そして、覇権を誇示している・・
 完全に、現在の北朝鮮は中国への朝貢状態で・・韓国も
 飲み込まれている。
  この時も、この様な状況下にあり、日本は第二次の絶
 交書を手渡した。
  過去には、1886年には、中国・清の誇る北洋艦隊が、
 最新鋭艦の「定遠」や「鎮遠」(当時の日本海軍にとっ
 て化け物のような巨大戦艦だった・・当時の世界最大級
 の大砲を備え、また、装甲も厚く、東洋一の戦艦だった)
 などを連ねて、長崎に示威している中国だった・・
  中国水兵は、完全な優越的態度で、長崎で事件を起こ
 したり・・日本を馬鹿にして暴れ回った。
  そして、そこには、大国・清に侵攻されると恐れてい
 た日本があった。
  日本は艦隊をそろえようにも景気が悪く、予算が不十
 分だった・・長い間、希望がかなえられなかった・・
  しかし、景気が良くなると日本は艦を作って行った・・
 また、イギリスの指導も受けた。
  日本は海軍国と言われるが、当時の日本は、海軍力に
 自信が無かった・・
  山形有朋陸軍大将が、元勲の井上馨へ・・
  「(黄海)海戦に大勝したのは予想外」という意味の
 ことを書き送ったくらいだった。
  その様な実情を知ってか知らぬか、野党は対外硬だっ
 た。
  また、マスコミもこの対外硬の論を張った。
  1894年6月28日、日英間で条約改正交渉中のイギリス外
 相が調停に乗り出す動きを見せた・・更に・・
  1894年6月30日、ロシア公使ヒトロウォは陸奥と会談、
 「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵とい
 う希望をうけいれるよう勧告し、かつ日本が清国と同時
 撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責めを負
 うことになる旨忠告する」と申し入れた。
  これで日本側の開戦気運には一気にブレーキがかかっ
 た。
  1894年7月2日、陸奥はヒトロウォにつぎのように回答
 した・・、
  「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、
 反乱そのものもなおまったく跡を絶つにいたっていない
 のではないかと考える。
  日本政府は、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」
 と・・、
  1894年7月9日、清の総理衙門総領大臣(外務大臣に相
 当)慶親王が、「日本の撤兵が先だ」としてイギリスの
 調停案を拒絶した。
  1894年7月10日、ドイツとの対立を重要視していたロシ
 ア本国政府は、これ以上朝鮮問題に深入りすることを禁
 じていた・・さらに・・、
  1894年7月10日の同日、駐露公使・西徳二郎より、これ
 以上ロシアは干渉しない、との情報が外務省にとどいて
 いた。
  1894年7月11日、伊藤内閣は、清の調停拒絶を非難する
 とともに、強引なる主張ばかりをする清・・、
  その清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣
 議で決定した。
  1894年7月12日、そして、この第二次絶交書を手交した。
.
1894年7月16日、ロンドンで、日英通商航海条約の締結が
 なされた・・
  外務大臣の陸奥宗光が調印した。
  この条約によって・・領事裁判権が廃止され・・、
  関税率が引き上げられ、関税自主権の一部を回復した・・
  安政五カ国条約以来の不平等が、やっと修正されて・・
 日本の法権が回復したのだった。
  そして、この日英通商航海条約の調印は、日本の朝鮮
 での行動を、また、行為を、「イギリスが認めた」とい
 うことを示していた。
  イギリスには、過激な侵略的な動きをするロシアに対
 する恐れがあった・・
  この面での日本の行動に期待していた・・
  ロシアに対する防壁としての日本の役割に期待してい
 た。
  朝鮮では・・朝鮮の東学党の乱を契機として、日清間
 に緊張が発生していた。
  この日英通商航海条約の締結の後、他の欧米諸国とも
 同様の条約を調印し、日本の国際的地位は飛躍的に向上
 した。
  日清戦争の始まる直前の、この日英通商航海条約が調
 印されたことは・・江戸期からの悲願の差別の条約が、
 やっと、改正されたのだった。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという状況のアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカは、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から「40年の月日」が経っていた。
  陸奥宗光は、不平等条約「治外法権の撤廃」に粘り強
 く交渉を重ねた。
  日本は、この不平等条約に苦しんでいた。
  その事例一つが、和歌山県沖のノルマントン号事件だ
 った。
  イギリスの罪を問うことが出来なかった。
  まず、この治外法権のため、事件の裁判を担当したの
 がイギリス人判事だった・・
  そして、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」とな
 ってしまった。
  この様な不平等条約の改正を、この年、1894年、つい
 に、イギリスとの間で、治外法権の撤廃に成功した。
  そして、陸奥の目論見どおり、大国のイギリスが改正
 に応じたため、他の国々もあとに続き・・、
  15か国から治外法権の撤廃を勝ち取った。
  そして、この調印直後、日清戦争が始まった。
  1894年8月1日、この日に、日清両国は宣戦布告した。
  欧米列強の奪い取りの世界が演じられてきたアジアの
 世界の中で・・、
  ただただ、その無節操な奪い取りの世界の中で・・、
  日本の周囲の国々・島々、また、東シナ海沿岸の大部
 分など・・、
  また、日本の北や南に広がる主要な島々が、ことごと
 く列強の手に落ちるのを日本は見て、鳥肌の立つほどの
 恐怖感を感じないではいられなかった。
  そして、日本も、列強諸国による不平等条約があって、
 それに縛られるという「半植民地の様な国家の状態」だ
 った。
  その様な領土をあさる列強に取り巻かれている日本の
 姿・・、
  列強各国は、日清戦争で、日本が敗北するだろうと予
 測していた・・
  それだけ、清の力は強く、日本は弱小とされていた(
 長崎での事件などで清に馬鹿にされている日本だった)
  列強諸国は、「アジアの中心は中国だ」と見ていた。
  結果は、日本の勝利だった。
  列強諸国は喝采した。
  そして、日本に対する彼ら列強は、日本での特権を相
 次いで放棄した。
  これを逆から見れば、この列強諸国は、日本が負けれ
 ば、日本を蔑(さげす)み、また、不平等条約は、その
 ままにして、日本からうまい汁を吸い続けただろう。
  この様な状況の日本の解放と共に、朝鮮も中国から初
 めて解放された。
  独立国となれた。
  そして、中国文明より低い国と侮(あなど)られた列
 強諸国の蔑視の視点も変える事が出来た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:自分だけが・・良い子にならないように・・
.
約4万年前頃~約4400年前、アフリカから始まった人類の拡
 散~偉大なる人類のうねりが世界へ・・そして・・
  日本人は、遠い遠い昔のこの頃、旧石器時代から縄文
 時代の中期と言われるこの頃・・日本人の大陸からの移
 動がなされていた。
  この頃、大陸と日本列島は地続きだった・・そんなそ
 んな遠い昔、大陸から移動して来た日本人が形成がなさ
 れて行った。
  その長い間の長い長い期間、日本列島に於いて、血は
 混ざり合い、そしてまた、混ざり合い、その混血によっ
 て日本人の形成はなされて行った。
  アイヌの方々の祖先も、琉球の方々の祖先も、その仲
 立ちの本州などの島々の祖先も、その混血によって形作
 られて行った。
  そんじょそこらの数百年の歴史しかない国々とは訳が
 違っている。
  数百年の歴史しかない者たちが、数万年の歴史を持つ
 先住民の方々を殺戮して出来たような国とは訳が違う。
  オーストラリア・ラテンアメリカ・カナダ・アメリカ
 合衆国などとは訳が違う。
  日本列島の遺跡を分析してみても、その文化が混ざり
 合っていく経緯が分かる・・
  日本列島への渡来のルートは、ユーラシアの各地から
 さまざまなルートで日本に流入した。
  特に、1万2000年前までは、日本は、大陸と陸続きであ
 ったため、流入は容易であった。
  この時の日本人の集団は、狩猟採集を主としていた。
  DNA(デオキシリボ核酸、遺伝子の本体)的には、
 現在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団
 だった。
  この旧石器時代の日本人が、そのまま混血がなされな
 がら、結婚がなされながら縄文人へと発展した。
  (参考)デオキシリボ核酸:DNAと略記され、遺伝
     子の本体であり、真核細胞では核膜に包まれ、
     核の中に塩基性蛋白質であるヒストンと会合し
     た状態で存在している。
  今、分子人類学が進展している・・そのDNAから見
 ると・・母系が辿れるミトコンドリアDNAハプログル
 ープと、父系が辿れるY染色体グループがある。
  ミトコンドリアDNAハプログループの研究によって
 アフリカを人類の起源とする説が証明された。
  そして、その民族集団の移動のルートも辿れるように
 なった。
  日本人のミトコンドリアDNAハプログループで特徴
 的なのはハプログループM7aがある。
  琉球諸島とアイヌに比率が高く本州が少ない分布とな
 っている・・しかし、その一体的な形質が証明された。
  この発生は、台湾付近で日本を最大の集積地(最も頻
 度の高い地域)とし、台湾・日本から朝鮮半島、中国東
 北部へ北上し、北上の上限がシベリアとなっている。
  また、人間の祖先がアフリカを出た後、イランからア
 ルタイ山脈を経由し、「北ルート」で到達したとする説
 と・・、
  インドから東南アジアを経由したルートで到達したこ
 とが分かるという。
  父系が分かるY染色体グループから見ると、最初に日
 本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、4万年前
 ~3万年前にやってきたD1b系統である。
  D1bは、日本に多く見られる系統であり、アイヌ88
 %、沖縄県約50%(4%~56%)、本州約36% (31%~39%)で、
 東アジアではほとんど存在しない。
  日本人を特徴づけるD1bである。
  D1系統は、4万年程前に、二つのグループに分岐し、
 日本列島に至り誕生した(それがD1b)
  ミトコンドリアDNAによる人類集団を類似性を系統
 樹様にして見てみると・・他集団との類似性がみられる
 が・・日本人集団に近いのは中国人集団であり、その次
 にカンボジア人集団であるという結果となる。
  また、日本人集団は、中国人集団、マレーシア人集団、
 ポリネシア人集団などと近縁で、「アジア・モンゴロイ
 ド」としてまとめられる。
  「アジアのモンゴロイド」と近縁なのが「アメリンド」、
 次いで、「オーストラロイド」、「コーカソイド」の順
 で、「ネグロイド」とは最も離れている。
  斎藤成也氏ら総合研究大学院大学により、ヒトゲノム
 中のSNP(単一塩基多型)を示す100万塩基サイトを
 一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人
 と琉球人を含む日本列島人の大規模なDNA分析が行わ
 れた。
  その結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっ
 とも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、沖縄
 にすむ日本人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
  一体とした民族を裏付ける結果となった。
  今、キリスト教系大学で語られる、アイヌ・琉球人は
 別民族という論は、まったく主観的に主張されているだ
 けで、まったく科学的裏付けのない根拠のない論理であ
 って、結果を見間違っている・・、
  その論理性は、まったく浅い主観的分析で、ある意味、
 感情論的主張となっている・・、
  (何故か?中国が言う「アイヌ独立論」とつながる主
 張の様に感じられる)・・
  (今、キリスト教系大学では、孔子学院など中国との
 つながりが強い行為が行われている)
  (参考)アメリンド:ヨーロッパからの移住民による
     虐殺が始まる以前より、アメリカ大陸に住んで
     いた諸民族の総称。
      狭義では、北米大陸に居住するイヌイットと
     アレウト、さらには、エスキモーを除いている。
      カナダとアメリカ合衆国の先住民(カナダ・
     インディアンとアメリカ・インディアン)をさ
     すこともあるが・・、
      中南米に住むインディアンも含む・・、
      そして、スペイン語でインディオと呼ばれ 、
     その言語は、約160の語群に分けられる 。
      キリスト教系大学で語られる「言語が違えば
     別民族」という論理で行けば、このインディオ
     も160の別民族となってしまう。
  (参考)オーストラロイド:オーストラリア先住民
      (オーストラリア・アボリジニー)とその類
      縁の人種をいう。
       やはり、この人種もヨーロッパからの移住
      人(イギリス)による虐殺に会った。
  (参考)コーカソイド:白色人種、ヨーロッパ人種と
     もいう。
  (参考)ネグロイド:類黒色人種。アフリカ‐ニグロ
     イド・エチオピア人種・コイサン・ピグミー・
     メラネシア人など。
  以上の様な、科学的知識を根拠に持たない者たちが、
 日本国内で、中国の働きかけで、アイヌ独立論を振りま
 いたり・・、
  北海道は無土の地で、人が居なかったと言ったり・・、
  白老町に、100億円もの国民の税金で、アイヌ民族の為
 の箱物を建てるとか・・
  馬鹿馬鹿しい話があちこちで展開している。
  この他にも、いっぱいこの類の無智の話が展開してい
 る日本となっている。
  それよりも、遺伝子的にもまったく別の民族であるチ
 ベット・ウィグル・内モンゴルの民族の方々の地が、漢
 民族というまたく違う民族によって・・まったく関係が
 無い民族によって、奪われようとしている。
     ・
     ・
34年、実質的に「キリスト教を作ったパウロ」は・・、
  この年に、テント職人のパウロは回心する(60年説も
 あり)
  サウロという名前でも呼ばれたこの男が・・本業のテ
 ント作りのかたわら、信仰するユダヤ教の業務もしてい
 た。
  その業というのは、ユダヤ教に敵対する宗派の人たち
 を、上部の組織の許可を得て、捕まえ、そして、突き出
 すという役目だった。
  下っ端役人という所だった。
  捕まえられた者の中には、死刑になるものも、当然、
 多く居た。
  長い間、この役目にあって、当然、多くの人たちが、
 このパウロによって捕まって、命を落とした・・
  その人の数も、決して少ない数ではなかった・・
  多くの人々を死へ追いやったパウロだった。
  パウロも、つくづくこの行為の罪作りな所に嫌気がさ
 した・・
  いつまでこんな罪作りな事をやっているんだろうと、
  ある日、自分を顧(かえり)みる事もあった・・、
  「人の命をとりあげて、自分が生きる」という姿を顧
 (かえり)みる事もあった・・、
  パウロは、ある日、突然、けじめをつける時が来る・・
  この役目の罪作りなところに嫌気がはっきりとさした。
  ここを、当然、キリスト教は美しく書く・・
  「天が一転かき曇り」・・「天からイエスの声が聞こ
 えた」・・、
  『サウロよ、何故、我々を痛めつけるのだ』・・と、
  そして、パウロは、この後、キリスト教を作って行く・・
  宗教を作ることを思い立つ・・、
  この後、まだ、キリスト教ができるまで何十年と、ま
 だまだ、かかったが・・、
  その間、パウロは、ユダヤ教を良く知っていたので、
 そのユダヤ教の正典に書いてある通りのことをやる。
  違う所は、イエスを利用するところだった。
  もしかすると・・何十年か前に、パウロが上部の許可
 を得て捕まえたイエスを思い出したのかもしれない。
  イエス逮捕のきっかけは、パウロがからんでいたのか
 もしれない・・
  パウロが役所に突き出したかどうかは不明だが、パウ
 ロは、何十年も以前のイエスを思い出した。
  パウロは、何十年も経て、作ろうとしたキリスト教に
 イエスを利用しようと思った。
  しかし、パウロは、イエスの生い立ちなどはすべて捨
 てた・・
  ただ、イエスの刑死を利用しただけだった・・
     ・
     ・
1453年、キリスト教の東方正教会の本山のあったビザンツ
 帝国は・・、
  この年に、オスマントルコ帝国に滅ぼされた。
  全盛期のオスマントルコ帝国の領地は、ローマ帝国領
 とほぼ同じという・・広大なものだった。
     ・
     ・
1859年7月1日、横浜港が開港した。
  横浜港は、1858年7月29日に締結された日米修好通商条
 約に基づいて、この日に、武蔵国久良岐郡横浜村に開港
 した。
  いわゆる「安政の開国」による開港五港での開港だっ
 た。
  横浜港が開港すると、欧米の商人は、日本人と筆談の
 できる中国人を、仲介役(買弁:ばいべん、中国で、外
 国の貿易業者との仲立ちをした業者)に伴って横浜に来
 た。
  また、中国人の中には、活版印刷などの新しい技術を
 持つ者も居た。
  そして、明治の初めには、横浜の華僑は、約1000人を
 数えた。
  人々は、居留地の一角、旧横浜新田を造成した地に集
 まって住み、中華街を形成して行った。
.
1894年3月28日、朝鮮の指導者・金玉均が、中国・清によっ
 て暗殺された・・中国・清の横暴な行為だった。
  この朝鮮の指導者・金玉均は、日本の福沢諭吉と師弟
 関係にあった。
  福沢諭吉は、この金玉均に、何かと心配りをしていた。
  金玉均は、福沢諭吉に指導を仰いだ・・、
  金玉均は、遅れている朝鮮の近代化について、福沢諭
 吉に相談した。
  その一つが・・諭吉は、朝鮮に於いて新聞を出す事を
 勧めた。
  そして、朝鮮で使われなくなっていたハングル文字の
 良さを見抜いていた諭吉は、そのハングル文字を使って
 新聞を出す事を勧めた。
  そのハングル文字は、今では、朝鮮では、なくてはな
 らない文字となっている。
  (朝鮮・韓国は、この福沢諭吉に感謝しなければなら
 ない)
  そして、資金のなかった金玉均に、福沢諭吉は、新聞
 用の活字を日本で身銭を切って、自分の金で作らせた。
  そして、それを持たせて、朝鮮へ帰らせた。
  そこまでして、福沢諭吉は、一生懸命に朝鮮の事を思
 っていた。
  この福沢諭吉の一例の様に、日本は、本当に誠実に、
 親切に、朝鮮の事を思って、色々と行動を起こしていた。
  しかし、この金玉均は、朝鮮で横暴な行動をする中国・
 清国に暗殺されてしまう。
  また、ここまでしている日本に、まったく理解を示さ
 ない今・現在の朝鮮・韓国・・、
  今・現在も、朝鮮・韓国は、「なんだかんだ」と色々
 と、日本を貶(おとし)め続けている。
.
1924年、未来の宗教は・・・
  ジョーゼフ・キャンベルの言葉 : 
 「未来の宗教はどうしても仏教に近づいていくだろう」
  (参考)ジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell)、
     1904年3月3日~1987年10月30日
     アメリカの神話学者、文学者、講師
     比較神話学や比較宗教学で有名。
  彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なもの・・、
  彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」という
 文に要約される・・
  1924年、キャンベルは家族とヨーロッパを訪れた。
  船に戻った時、彼は、ジッドゥ・クリシュナムルティ
 と遭遇した。
  彼らは、アジアの哲学について議論した。
  そのことが、キャンベルの長い人生の中でヒンドゥー
 教とインドの思想について興味を持たせるきっかけとな
 った。
  この旅行の直後、彼は、キリスト教カトリックの宗教
 を棄て、キリスト教の活動を止めた。
  すでにラテン語を流暢に話せた彼は、彼の言語の幅を
 広げるため、日本語を身につけようとした。
  (参考)ジッドゥ・クリシュナムルティ:1895年5月12
     日~1986年2月17日、インド生まれの国際的宗教
     哲学者、思想家、教育者
      人は組織、信条、教義、聖職者、儀式によっ
     て真理に到達することはできず、ただ、自己認
     識によってのみ真理を見出すことができると説
     いた。
      「真理は道なき大地にあり、そこに到達でき
     るのはいかなる宗教や教派でもない」
      「物事をあるがままに直視し、自覚により自
     らの置かれた状況を凝視すること」
      すべての物事が、時間的にも空間的にも互い
     の条件付けによって成り立つという彼の考えは、
     仏教の縁起説と同様で、我執を問題とし、ある
     がままの観察による我執からの解放を目指すと
     いう点でも、仏教と基本的なスタンスは同じ。
      インドだけでなく、欧米でも幅広い支持を得
     る・・首座 (仏陀の化身) に任命された。
.
1939年8月31日、朝鮮の新聞である「東亜日報」が・・、
  朝鮮人の業者・女衒(ぜげん、뚜장이)が・・朝鮮の女
 性を、本人の意思に反して、強制的に慰安婦にした罪で
 処罰されたと報じた。
  朝鮮語による・・朝鮮人の記者によって書かれた記事
 で・・朝鮮人の警察官が捕まえて、処罰したという事で
 ある。
  日韓併合中のことで、日本政府が、人道的にも劣ると
 罪を厳しく処罰していたことを明らかに示している。
  今、韓国が、日本を貶(おとし)めようして言ってい
 ることは、完全な嘘でデッチアゲである。
  今、韓国が、日本政府や日本の軍が、慰安婦に強制的
 関与をしていたと言っていることは、まったくのデッチ
 アゲで嘘である・・真実は、その逆で、「取り締まって
 いた側である」・・
  やっていたのは朝鮮人の業者・女衒(ぜげん、뚜장이)
 である。
  韓国よ、嘘を言うのはいい加減に止めなさい!
.
1948年春、表意・表音文字・・
  聞きなれないこの言葉・・この表意表音文字を持つ日
 本民族は素晴らしいのである。
  この文字によって、日本の文化や科学が、輝かしい飛
 躍をして来た・・素晴らしい結果を歴史に残している。
  ただの「表音文字だけで暮らすアメリカ」が、その対
 極にある。
  事例を言えば・・『東』。
  これは、朝、木の向こうに、日が昇って来たところを
 表わしている。
  そして、「ひがし」とか、「とう」とかと読む。
  「ひがし」という音は、日が昇る方向を表わす・・東
 の意味である。
  陽が沈む西は、横に引かれた1本の線が、海の水平線
 で、口の陽が、その水平線から沈んだ状態、縦の2本の
 線が水平線から日が沈んだという意味を表わしている。
  これが「にし」とか、「せい」とかと読み、陽が沈む
 方向の意味の「西」を表わしている。
  「東」も「西」も表意であり、「ひがし」「にし」と
 表音ともなって、その意味を伝え、目的を果たしている。
  だた、その1字だけで、この様な機能を持っている優
 れた文字を持つ日本民族なのである。
  ただ、だらだらと長い英語とは違うのである。
  この様な事を知らずに、GHQのマッカーサーは、日
 本を英語化しようとした。
  英語化されたら、愚民化政策だ。
  日本の学者が、必死に止めたから良かったものを・・
  愚かなアメリカ主体のGHQであった。
  また、こんなに多くの文字を知る訳はないと、日本人
 を馬鹿にしたマッカーサーのGHQは・・テストをした。
  そうしたら・・テストをしたら・・その結果の素晴ら
 しいこと・・日本人の優秀さにびっくりしたGHQ・マ
 ッカーサーだった・・、
  漢字テストの識字率が97.9%というほぼ100%の出来栄
 えの凄さだった。
  世界で最初に書かれた長編小説の作家、それも女性の
 紫式部の「源氏物語」・・
  この深い・・味わい深い意味も、日本語でなければ読
 み取れなくなる。
  因みに、英語に、31文字の単語を発見した時はびっ
 くりした・・
  これでは、日本語だったら俳句ではなく、短歌まで出
 来てしまうと思った・・
  表音文字だけの英語・・順列組み合わせだけの英語・・
 馬鹿みたいに超長い単語が生まれてしまう・・
  また、因みに、1948年の春、馬鹿なGHQが、日本の
 教育状況と日本語に対する無知と偏見から、「日本語は
 漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりに
 くいために民主化を遅らせている」とした。
  日本を、英語化するべきだとした。
  自分に都合の良い言葉に変えてしまおうということだ
 った。
.
1960年代半ば以降、電卓市場には、新規参入が相次いだ。
  大手電機メーカーから事務機器メーカー、計測器メー
 カーまで、最大で40社ほどを数えた。
  電卓競争が勃発した。
  切っ掛けは、アメリカ半導体メーカーのテキサス・イ
 ンスツルメンツの8桁の電卓用のLSI(大規模集積回路)
 を標準化し、各社に売り込んだ。
  1971年に、5万円を切る電卓が世に出回ると、カシオは、
 すぐさま、3万8700円の『ASー8』という機種を売り出
 した。
.
1972年、国内ボウリング場がピークだった。
  2016年の4倍の約3700店があった。
  1970年には、ボウリングの女子プロボウラーの中山律
 子さんが、初のパーフェクトと達成した。
  1970年代前半は、日本は、空前のボウリングブームに
 湧いた。
.
2014年7月30日、ウイグル人虐殺、ヤルカンド県大規模虐殺。
  国が奪われつつあるウイグル・・漢民族による虐殺が
 起きている、続いている・・
 ヤルカンド民衆蜂起その1:7月28日早朝、ヤルカンド県
  イシュクル郷警察署と政府が幾つかの集団の襲撃を受
  けた。
   その後、漢民族・中国の治安当局は襲撃集団を武力
  で弾圧した。
   その後、当郷に属する14、15、24村の村民が蜂起を
  起こし、手に棍棒、斧などの物を持ち村役所、中国人
  移民の商店などを襲撃した。
 ヤルカンド民衆蜂起その2:7月30日、漢民族・中国の当
  局は、イシュクル郷周辺を包囲し、蜂起に参加した民
  衆を徹底弾圧した。
   RFAウイグル語放送は現地情報として、すくなく
  てもおよそ120人が死亡と伝えた。
   死者の詳細が不明なのである。
   今、ヤルカンド県全域に非常事態令が敷かれた。
   外部との通信は全て遮断された。
 ヤルカンド民衆蜂起その3:7月30日、ウイグル農民が、
  大規模蜂起を起こすのは1990年4月のアクトゥ県バレー
  ン郷農民蜂起が起きて以来24年振りだった。
   当時のバレーン郷蜂起も、結局、漢民族・中国の当
  局に残虐に弾圧された。
   現代のウイグル抵抗運動におけるシンボル的抵抗事
  件として歴史に刻まれた。
 ヤルカンド民衆蜂起その4:7月30日、今回のヤルカンド
  民衆蜂起も、近年における中国政府のウイグル人に対
  する激しい弾圧に対するウイグル農民の大規模抵抗と
  して、24年前のバレーン郷蜂起と同じ歴史的意義があ
  る・・、
   漢民族の中国政府の弾圧に対し、ウイグル人は不屈
  であると、はっきり宣言したと表明した。
 ヤルカンド民衆蜂起その5:7月30日、ウイグル民族運動
  指導者ラビヤ・カディール女史が昨日声明を発表し、
  中国政府に過剰な武力を使わないよう呼びかけ、ウイ
  グル人に対する弾圧政策を直ちに中止することを要求
  した。
   外国メディアによれば、民衆の襲撃は5箇所で同時に
  起き、6時間継続した、という。
   (参考:ニュースソース:毎日新聞)
  2014年8月1日、緊急拡散・・ヤルカンド県で31日約800
 人の蜂起民衆が警察署二箇所を襲い、そこにいる特殊警
 察、武装警察と衝突し、多数の死傷者が出た模様。
  漢民族・中国の中共軍は、カシュガル駐屯の第六機械
 化師団を緊急出動させ、全面虐殺を行ったという。
  また・・下記の連絡がある・・、
  2014年7月28日から、ヤルカンド県及びその周辺地域で
 中国・中共軍、武装・特殊警察部隊による大規模な虐殺
 が行われています。
  真相がよくわからない。
  緊急事態です。
  多くのウイグル人が、老弱男女問わず、殺されていま
 す。
  最新ウイグル語情報によれば、ヤルカンド県の民衆蜂
 起地域(イリシュク)郷などでは中共軍、警察部隊の大
 規模虐殺でウイグル人老弱男女問わず3000人以上が殺害
 された模様。
  このような大規模虐殺が起きたのは、2009年7月5日夜
 起きたウルムチ大虐殺以来です。
.
2017年6月、欧州連合(EU)は、昨年(2017年6月)の国
 連人権理事会で、中国の人権状況を批判する声明を準備
 したが、ギリシャの反対で挫折した。
  ギリシャは、2010年の経済危機でEU内で「お荷物」
 扱いされた時、中国に支えられた恩義があった。
  今、EU内の「中国の代弁者」となっている。
  EU内で、中国に代わって主張する者となっている。
  結局、中国の金の勢いで、中国の不正についての正し
 い意見が抑えられるという事態が、EU内で起きている。
  この様な事が、世界中で起きている。
.
2018年2月23日、アメリカのFBIが、中国の孔子学院をス
 パイ容疑などで捜査対象とした。
  アメリカ社会の脅威だとした。
  アメリカ連邦議会上院の情報委員会の公聴会で、クリ
 ストファー・ライFBI長官は、アメリカにある中国政
 府対外機関「孔子学院」について、スパイ活動などの違
 法行為に関わる疑いで、捜査の対象にしていると公言し
 た。
  英メディア・ビジネスインサイダーによると、ライ長
 官は公聴会で、複数の孔子学院に対して、中国共産党思
 想のプロパガンダ拡大だけでなく、アメリカ政府関連の
 情報までも違法に入手するスパイ活動にかかわっている
 容疑があり、捜査していると述べた。
  ライ長官は、アメリカ政府機関「中国問題に関する連
 邦議会・行政府委員会(CECC)」の委員長を務める
 マルコ・ルビオ下院議員の質問に応える形で、次のよう
 に述べた。
  「世界におけるアメリカの軍事、経済、文化、諜報力
 を引き下げる目的で、中国は、『国家主導』で動いてい
 る」
 「これを国家の脅威のみならず社会の脅威ととらえ、ア
 メリカは全面的な対応を取る必要がある」・・と。
  因みに、日本にも、何故か?キリスト教系大学の桜美
 林大学に孔子学院がある。
  キリスト教組織と中国のつながりは強い・・、
  この公聴会に出席した国家情報局(DNI)局長のダ
 ン・コート氏も、FBI長官の会頭に合わせて、中国へ
 の危機感を露わにした。
  また、中国による世界的な浸透工作を調べるため、す
 でに複数の機関が調査を行っていると明かした。
  中国は、大量の資金を使って世界のあらゆる面に情報
 工作をしている。
  この様な事は、中国は、昔からやって来た。
  南京事件も、「起きてない南京事件を有るものとして」、
 中国は、大金を使って、世界に喧伝(けんでん、世界や
 世間に言い、はやし立てること)している。
  中国は、初め、起きても無い南京事件を「ある」と言
 い、その人数は2万人と言った。
  その人数は、今、中国は膨らませ、今では、中国は30
 万人が殺されたと言っている。
  しかし、この南京事件は、1938年当時、国際連盟に、
 中国は「2万人」と申し立てた。
  しかし、起きてもいない南京事件に対して、国際連盟
 は、「当然、その中国の申し立てを拒否した」。
  当然、起きても居ない南京事件であるが故に、その中
 国の申し立ては受け入れられなかった。
  しかし、中国は、大量の金を使って宣伝映画を作って、
 欧米諸国へ向けて嘘を発信続けていた。
  結局、欧米社会だけでなく、日本人でさえその中国の
 工作の嘘に巻き込まれてしまう。
  実際は、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)の一例が
 ある様に、中国の督戦隊(とくせんたい、中国の自軍の
 後ろで監視し、戦うように仕向ける部隊、だから、逃げ
 る自軍の兵士・中国軍に対してでも撃つ)が逃げるな、
 日本と戦えと、逃げる自国兵を撃ったり(この事件の場
 合、中国・国府軍第36師212団)、乱れに乱れた中国兵や
 一般市民は、揚子江の唯一の南京出口で、我先に逃げ惑
 う市民を数少ない船の取り合いで銃に撃たれるという状
 態・同士討ち状態だった。
  何しろ、肝心な司令部を、アメリカが秘かに参戦して、
 中国軍の味方して、蒋介石や中国司令部を連れ去ってし
 まっていた。
  救出の名の下に、司令部を無くなしていた・・統制の
 効かなくなった中国軍の乱れによって殺された人々があ
 また居た。
  中国は、卑劣にも、嘘の宣伝を欧米諸国にして、ゆが
 められ、捏造された情報が、中国政府の悪意ある工作で、
 さらに深く浸透している。
  それに紛動(ふんどう)された欧米諸国は、故無き間
 違った非難を、日本にするという状況になっている。
  中国政府は、「日本は、卑劣な国家だというイメージ
 宣伝」をしつこくして、世界は「それが真実だ」と思い
 込まされるという状況となっている。
.
2018年7月6日、中国の領土拡大工作
  今、中国が、ウイグルやチベット、そして、内モンゴ
 ルを必死になって自分の領土にしようとしている・・、
  その動きの一端が分かる数日前の記事が、この日の読
 売新聞に載っていた。
  その表題、および、内容は・・、
  「ウイグル族を顔認証・・当局、街中に監視カメラ」
  中国でイスラム教を信仰する少数民族・ウイグル族が
 多く暮らす新疆ウイグル自治区で、監視カメラと最新の
 顔認証技術を使った住民監視が強化されている。
  2009年7月に、区都ウルムチで起きたウイグル族による
 大規模暴動(抵抗)の再来は許さないとの習近平政権の
 断固とした意思を反映した施策だが、変わらぬ強権統治
 にウイグル族の不満はくすぶり続けている。
  (参考)ウイグル族による大規模抵抗:2009年6月、中
     国広東省の玩具工場でウイグル族と漢民族の労
     働者が衝突した事件を発端に、新疆ウイグル自
     治区ウルムチで7月5日、ウイグル族の学生らが
     抗議デモを行った。
      一部が過激化して漢民族・中国の治安当局と
     衝突する大規模な活動に発展し、当局発表で197
     人が死亡、1600人以上が負傷した。
  ・・漢民族主体の当局とウイグル族の衝突は、過去、
 何度もあった。
  中国政府は、「イスラム過激派によるテロ警戒」名目
 でウイグル族への監視を強めている。
  ウイグル族が集まる所、モスクなどの周辺は特に厳し
 い。
  カシュガル中心部の「エイティガール寺院」では、一
 帯に多数の監視カメラと複数の検問が設置されている。
  武装警官が3人1組で頻繁(ひんぱん)に巡回し、緊張
 感でいっぱい。
  マスクをしている記者に、強い口調で、「顔が隠れて、
 いけない」と。
  ウルムチには16万台の監視のカメラが設置されている。
  最新の顔認証技術を使った監視体制となっている。
  事前登録した要警戒人物の顔が認識されると、公安当
 局に情報が瞬時に伝わる仕組みになっている。
  最近、40倍の費用を投入した。
  また、最新技術の導入を急ピッチで進めている。
  街中では、スマートフォンの抜き打ち検査が行われて
 いる。
  保存データーに反政府活動的なものがあれば、即、拘
 束・逮捕される。
  1930年代~1940年代に、ウイグル族を中心にした「東
 トルキスタン共和国」が生まれたが、1949年に、中華人
 民共和国が建国された後、漢民族・中共軍が侵略・進駐
 し、分離・独立の行動が抑えられた。
  1955年に、ウイグル自治区が設置されると漢民族がト
 ップに就いた。
  共産党書記がトップになる制度にされた。
  分離・独立の動きを抑える管理が強められた。
  学校でも中国の標準語が教えられ、独自の言語が無く
 なる方向性にある・・
  また、宗教文化も失われる方向性がとられた。
  漢民族とウイグル族との貧富の差も酷く、深刻な状況。
  天然資源は豊富だが、漢民族の主動で開発がなされて
 いる。
  その恩恵にウイグル族は浴していない。
  街中で、物乞いするウイグル人も多い。
  ウイグル人は収入が少なく、結婚できない状況だとい
 う(ウイグル人が増えては困るため・・)
.
2018年、日本と北朝鮮との関係だって、日本がしっかり対
 応して来なかったからと言うが・・??
  日本にしっかりした国防力の裏付けがあれば、「拉致
 された方々を取り返しに行った」。
  その様な国防力を持たせなかったのが「アメリカ」。
  安全保障条約があるからと、日本を守ってやるからと・・
  そう言ったって、その裏付けで取り返し行動を起こし
 て、その時、アメリカがその安全保障上の支えになるか
 は、不明・・、
  だから、故に、実施に踏み切れなかった。
  こんなことは、今・現代でも同じ・・、
  他国に頼っていては・・らち(埒)があかない・・
  北朝鮮から核ミサイルが、日本にぶち込まれたら・・、
 二発目の核ミサイルを防ぐために、アメリカは、核ミサ
 イルを北朝鮮にぶち込むか?・・否である。
  アメリカは、北朝鮮の核ミサイルが、アメリカの都市
 にぶち込まれることを思ったら、日本のための核ミサイ
 ル使用を躊躇(ちゅうちょ、決心が決まらず、手が縮こ
 まる)する。
  国は、自(みずか)らが守らねばならない。
  これは・・歴史が教えること。
  『国は自らが守れ!』
  直ぐに「非核三原則」を撤廃せよ!
  アメリカから、即、一隻、アメリカ兵付き、核ミサイ
 ル付きで、原子力潜水艦を購入せよ!
  日本に向けての核ミサイルが発射されたら、即、この
 核爆弾が日本に着弾する前に、この原子力潜水艦の核爆
 弾ミサイルが発射されますと宣言せよ!
  その様な・・しっかりした裏付けを持って拉致された
 方々を返せと言い、返す様子が無いならば、即、奪還作
 戦を実施すべき・・、
  日本の将兵の指揮下にある、日本兵とアメリカ兵によ
 る核ミサイルを持つ原子力潜水艦の存在をしっかり相手
 に意識させる・・、
  日本は、もう、通常兵器は不要・・、
  核武装に向かうべきなのだ・・、
  今、世界は、『一方的に消滅する世界』ではないのだ。
  『共に消滅する世界』となっている。
  「瀬戸際防衛」の時代なのだ。
  タイトロープの上を行く世界・・、
  核ミサイルが、1発も落ちて来ないからと安心はするな。
  結局、一旦、ことが起きたら、放射能で、地球上の全
 生物は死滅する状況・・、
  天に唾を吐いた者も・・結局は死がある時代なのだ・・
  営々と何百万年も・・人類が築いてきた長い長い歴史
 が・・終わる時なのだ。
  キリスト教の「シャローム」の教義は、間違いなのだ。
  「シャローム::キリスト教徒以外の誰も居なくなっ
 た後の平和」という状況を求めるキリスト教の教義は間
 違い・・、
  キリスト教は、その様な平和を望む・・、
  キリスト教徒も、共々(ともども)、皆、完全にすべ
 てが居なくなってしまう・・その様な時代なのだ・・、
  キリスト教徒だけが生き残るは・・間違い・・そうは、
 ならない・・、
  キリスト教徒だけが行けるという「キリスト教の天国」
 だって、キリスト教徒に殺された人々が、満ち満ちてい
 て・・、
  キリスト教徒のあなたが行ったって、恨み怨みつらみ
 を言われるだけ・・、
  自分だけが・・良い子にならないこと・・
  キリスト教は、「自分だけ、いい子になる宗教」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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(増補版)601E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年7月)

2018-07-06 03:07:31 | 日記
題:(増補版)601E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月25日、高等学校令が公布された。
  この法律によって、高等中学校を高等学校と改称した。
  これは、旧学制の高等学校で・・、
  帝国大学、および、官立大学に、ほとんど独占的に進
 学できる学校だった。
  選ばれた少数エリートの特権的な学校だった。
  ドイツのギムナジウムや、フランスのリセなどヨーロ
 ッパの伝統的な中等学校に似ていて・・、
  第一 (東京) 、第二 (仙台) 、第三 (京都) 、第四 (
 金沢) 、第五 (熊本) の5校があった。
  その後に、第六 (岡山) 、第七 (鹿児島) 、第八 (名
 古屋) 高等学校が設置された。
  1918年の学制改革によって、公立、私立の七年制高等
 学校 (尋常科4年、高等科3年) が設けられ、国立も増設
 された。
  以後に増設された学校は、新潟高等学校、松本高等学
 校など・・所在地の地名を冠した名称とした。
  1940年現在32校あり・・国立 25校、公立3校、私立4校
 で、その後の変化は、あまりしていない。
  第2次世界大戦後、学制改革によって多くが新制大学の
 一部となった。
  単独で新制大学となったものもあり・・、
.
1894年6月30日、イギリス・ロンドンのタワー・ブリッジが
 完成し、開通式が行われた。
  1886年に着工していた・・
  民謡の「ロンドン橋落ちた」のロンドン橋とは違う・・
 このロンドン橋は、この橋のすぐ上流にある。
  テムズ川に架かる橋で、二つのゴシック風の尖塔があ
 る。
  上下2層の鉄橋で、下橋ははね橋で、船舶の通行時には
 現在でもハの字型に上方に開く。
  可動方法は、初期は蒸気機関で水をパイプに通し跳開
 部の端に水圧を掛け、シーソーの原理を利用して開閉し
 た・・現在は、電力を利用している。
  上方の橋は尖塔をつなぐ高さ40メートルのガラス張り
 の歩道(有料)で、この歩道から金融街のシティーのオ
 フィス街やシティーホールが見渡せる。
  第二次世界大戦時は、ドイツの爆撃目標となり、また、
 V2ロケットの目標となり、1944年8月2日に、V1ロケ
 ットの1発が命中し、車道部分が被災した。
  因みに、ロンドン橋は、西暦46年に、ローマ人によっ
 て架けられた木製であった。
  1013年、スヴェン1世が率いるデーン人が侵攻して来て、
 エゼルレッド2世によって焼き落された。
  (参考)スヴェン1世:960年~1014年、デンマーク王(
     在位985年~1014年、ノルウェー王(在位985年
     ~995年、1000年~1014年)、イングランド王(
     イギリス王、1013年~1014年)を兼ねた。
  (参考)エゼルレッド2世:968年~1016年、イングラ
     ンド王(イギリス王、在位978年~1013年、1014
     年~1016年)
      デーン人に侵略されるごとにイングランド(
     イギリス)は「デーンゲルド」という退去料を
     支払った。
      度重なる支払いでイングランド(イギリス)
     財政は大きな負担となった。
      デーン人のイングランド(イギリス)攻撃を
     恐れ、国内のデーン人を虐殺したり(デーン人
     を怒らせ逆効果)・・また・・
      ノルマンディー公国と友好関係を結んだり、
     その公国のリシャール1世の娘エマと結婚したり
     した。
      1013年のデーン人の侵攻時には、その攻撃に
     屈し、ノルマンディー公国に逃れた。
.
1894年6月30日、勝海舟が従二位に叙せられた。
.
1894年6月2日、伊藤首相が第六議会を解散した。
  世界の列強は帝国主義の真っただ中、欧米列強による
 植民地化が進行中であった。
  国の守りをやっと固めて来た日本・・、欧米の植民地
 化の手から逃れて来ていたが・・、
  アジアの最強国は、急速に軍備を増強して来ていた中
 国・清であった。
  その清に追い付こうと軍備を固めたい日本だったが、
 厳しい財政状況に置かれていた。
  1890年~1891年は、不況下の第一議会だった。
  農作物は凶作で各地に米騒動が起きていた。
  産業界も恐慌で綿紡績も操業を短縮するという状況だ
 った・・生糸輸出も減退した。
  第二議会では軍艦製造費など減額決議した。
  第三議会でも、政府提出の軍艦建造費や鉄道関係法案
 などが否決される状況。
  第四議会の頃、やっと経済も好転の兆しが見え・・し
 かし、海軍省の軍艦製造費は減額される状況だった。
  1893年の第五議会になって、やっと、企業にも新たな
 勃興の機運が見えて来た。
  対外的には、ロシアの極東進出が強く浮き出て来てい
 た・・1892年のウラジオストック軍港の建設と、1892年
 11月のロシア東洋艦隊の日本に来航して日本脅しの示威
 行動があったりした・・
  そして、甲申事変などの朝鮮状況の不安定・・
  その中にあって、中国・清の地位強化の強硬策があっ
 た。
  その様な状況の中で、事態を解決のために切り開いて
 行きたい日本があった・・関税自主権回復の問題もあっ
 た・・欧米列強の圧力の回避に苦心する・・
  そして、イギリスとやっと条約改正交渉が進む・・
  そして、第六議会・・対外硬論のある厳しく、そして、
 激しく対立した議会だった。
  メディアは反政府側の論を張っていた・・対外硬の論
 調だった・・軟弱外交だと批判し、世論を操作した。
  1894年5月31日、対外硬六派連合が、政府弾劾上奏案を
 大差で可決させた・・対外硬の内容で、政府は惨敗
 し、絶体絶命の窮地に陥(おちい)った。
  1894年6月1日、不安定な朝鮮の甲午農民戦争で、朝鮮
 政府軍が大敗した・・そして、清国が朝鮮へ出兵する動
 きとなる。
  1894年6月2日、衆議院は上奏却下で解散された。
  1894年7月6日、イギリスとの条約改正の最終案で合意
 の方針となる。
  1894年7月16日、日英は新条約に調印する。
  イギリスは、日本支持を示した。
.
1894年6月、勝海舟が、初めて日光廟に詣でる(氷川清話)
.
1894年6月、勝海舟、「幕府始末」を著わす。翌年、出版。
(氷川清話)
.
1894年6月、山陽鉄道の広島工場が開設された。
.
1894年6月、浪速鉄道が、軌間を2フィート6インチ(76.2c
 m)から3フィート6インチ(106.7cm)に変更した(
 40%広くなった)。
  軌間は、鉄道の線路における2本のレールの内側と内側
 の間の幅のことであるが・・、
  JRの在来線は106.7cmで、新幹線は143.5cmであ
 る。
  因みに、新幹線の軌間の143.5cmは世界的に「標準軌」
 であるが、日本では間違って「広軌」と呼ばれた。
  日本は狭軌の不都合さから、何度も標準軌への改軌論
 への提案があったが、やっと新幹線で実現した。
  また、因みに、琵琶湖疎水のインクラインは220.0cm
 である。
  そして、秋田新幹線や箱根登山鉄道の一部区間では、
 1本の線路に2つの軌間のレールを置いて(三線軌条にし
 て)異なる軌間の線路をそのまま直通運転することがな
 されている。
  また、奥羽本線および田沢湖線は、線路を敷きなおす
 改軌をして、ミニ新幹線の山形新幹線と秋田新幹線を開
 業している。
.
1894年7月4日、ハワイ共和国が独立を宣言した。
  大統領のサンフォード・ドールが独立を宣言した。
  ドールの一家は、ハワイ王国において、政治的支配力
 を強めつつあった裕福なアメリカ人移民によるエリート
 社会の一員であった。
  ドールは法律家となって、ハワイ王カラカウアやその
 妹リリウオカラニの弁護士として、また友人として仕え
 た(裏切りのアメリカ人)
  1887年、ドールは、この年に起きたアメリカ系の経済
 人・政治家・サトウキビ農場主らが結成した政治組織=
 ハワイ連盟の武装蜂起に参加している。
  ハワイ連盟は、白人市民たちからなる民兵部隊ホノル
 ル・ライフル連隊の後ろ盾を得てカラカウア退位を迫っ
 た・・そして・・
  ハワイ連盟は、カラカウア王に退位の代わりに、アメ
 リカ人の内務大臣ロリン・A・サーストンが起草した新憲
 法を受け入れさせた・・
  この強引で、強制した憲法を、「銃剣憲法」と蔑(さ
 げす)んで言われる・・卑劣な行為だった・・
  この憲法は、日本からの移民を含む、すべてのアジア
 系移民の投票権・・一切の投票権を奪った(有色人種蔑
 視行為)
  また、資産額や収入額が低い人々を締め出したため、
 先住民のハワイ人の方々も選挙権を剥奪された。
  結局、白人アメリカ人の国になってしまった。
  ハワイ国王の権利も極端に無くなされた。
  ハワイ王室や大多数のハワイ人の方々の政治力は無く
 なり、完全な武力によるハワイ国の強奪状態だった。
  そして、この後、ハワイ王室も無くなされる。
  これ等の事は、国連の世界記憶遺産に登録せよ!
.
1894年7月5日、関西鉄道の四日市駅~桑名駅間が延伸開通
 した。
  関西鉄道は、現在のJR東海とJR西日本が保有する関西
 本線・草津線・片町線・紀勢本線・桜井線・和歌山線・
 奈良線・大阪環状線という広い範囲に展開した鉄道会社
 だった。
  名古屋~大阪間の独自の直通ルートを開設したりして
 官営鉄道(官鉄)と壮絶な旅客獲得競争を繰り広げたこ
 とは有名。
  また、旅客サービスや車両技術において先進的な試み
 を行ったことでも知られるが、この背景として、日本の
 鉄道技術の先駆者と言われる島安次郎が初期に技師とし
 てこの会社に在職していた。
.
1894年7月6日、アメリカの24代大統領のグロバー・クリー
 ブランド大統領(民主党)がストライキ(Pullman Strike、
 プルマン・ストライキ)の鎮圧のために軍隊を派遣した。
  1年前の1893年には、世界恐慌が、最悪状態で発生し
 ている。
  ストライキは、1894年5月から、シカゴから始まってい
 た・・そして、全国規模に発展・拡大して行った。
  そして、ストライキ発生にプルマン豪華車輌会社が関
 係していた。
  この会社に働くには会社の社宅に入らねばならず、ま
 た、商店を所有し、町の図書館や教会や水道やガスを所
 有していた。
  会社は、4セントで買った水を10セントで売った、また、
 33セントで勝ったガスを約7倍の2ドル25セントで売った。
  物も会社の店で買わねばならす、社宅に住まねばなら
 ず、会社が決めた料金はどんな料金でも会社に支払わね
 ばならなかった。
  そして、会社は絶えず金を取り立てた。
  二週間目の週末ごとに、会社は給料から差し引いた。
  家賃などが差し引かれれると、わずかな金しか残らな
 かった。
  1893年に、不況から大幅な賃金の値下げが行なわれた。
  それにもかかわらず、株の配当は高く維持し、不況に
 も関わらず特別配当まで行った。
  従業員の委員会が、賃下げ撤回を要求したが拒否され
 た・・そして、委員会のメンバーの3名が解雇された。
  粘り強い交渉だったがことごとく拒否された。
  ストライキ宣言が発せられた。
  アメリカ鉄道労働組合が動き出したが、ことごとく拒
 絶された。
  抗議の行動を起こした人たちまで解雇された。
  この行き場のなくなった事態に、全国規模のストライ
 キが宣言された。
  経営者サイドの対処の仕方は、連邦政府を巻き込む戦
 法だった。
  24の鉄道会社によってつくられた経営者協会は、スト
 ライキ破りを導入した。
  そして、その上、軍隊の出動を要求した。
  そして、何ら深い考えをしないクリーブランド大統領
 は、シカゴ市町やイリノイ州知事に何ら相談なしに、頭
 越しに、シカゴへ連邦軍を投入した・・出動させた。
  正確な情報も知らないで、官吏で済むところをと批判
 された。
  軍隊を動かす権利を持つ者の「安易な行動」が起こさ
 れたのだった。
  大統領の返事は、「正確な郵便物の配送は、行わなけ
 ればならない」・・だった。
  平和裏に行われているストライキに対しての大統領の
 異常反応だった・・核のボタンではなかったから良かっ
 たが・・??
  逆に、鉄道会社の雇っていた治安官代理が、連邦軍の
 到着で興奮し、火事を起こしたり、銃を発射して市街戦
 を起こしたりした。
  軍隊も群衆めがけて発砲し、市民に死者が出た(20人
 ~30人)
  この様な事態に出て来たのが司法だった・・
  司法が、「差し止め命令」というストライキ破りの「
 新たな手段」を提供した。
  この後、経営者サイドは、この手をよく使った。
  プルマンのストライキ労働者たちは、差し止め命令を
 「紙のガトリング機関銃」と呼んだ。
  差し止め命令に従わないと、法廷侮辱罪で捕まり、投
 獄された。
  今や、経営者は、労働者の武器を奪い取ったのだった。
  経営者は、裁判所へ出かけてストライキの活動禁止の
 命令を出してくれと要求すれば済むようになった。
  99%、裁判所はその要求に応じた。
  ストライキ指導者には、法廷侮辱罪が適用されるのが
 常だった。
  裁判所は、経営者の行なっている事業の期待は「無形
 の財産」で、ストライキは、この財産を脅(おびや)か
 すという論理だった。
  裁判所は、この事業への期待の無形の財産こそ守らね
 ばならないこと、保護しなければならないこととした。
  労働者は、自らの経済状態を改善する権利を奪われて
 しまった。
  アメリカの最高裁判所が、「シャーマン反トラスト法」
 でもって、この差し止め命令に合憲性を付与した。
  この後、約40年間、この理屈に合わない不正義な状態
 がアメリカで続くことになる・・
  アメリカという国は、「屁理屈が通る国なのである」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカという国は、「屁理屈が通る国なのである」。
.
紀元前4万年、こんなに遠い昔に・・日本人は日本列島に
 やって来た・・
  ウルム氷期と言われる約7万年前~1万年前のこの氷期
 の紀元前4万年に、日本人は日本列島に来た。
  このウルム氷期に、アジア大陸から日本列島に移った
 後期旧石器時代人が、縄文人の根幹をなした。
  大陸と日本列島は、まだ、地続きだった。
  遠い遠い昔から、日本人は民族として成り立って来た・・
 その様な、長い長い長い歴史を持っている。
  先住民の方々が居る事にお構いなく・・武力によって
 先住民の方々を殺戮し・・最近と言いたいほどの近年に、
 国を作ったアメリカ、カナダ、そして、ラテンアメリカ、
 そして、オーストラリアなどとは・・訳が違う。
  この様な一連の事は、ユネスコの世界記憶遺産に登録
 すべきである!
  ウルム氷期直後の厳しい自然環境が改善されて、生活
 も安定化していくと、日本列島全域の縄文人の骨格は頑
 丈となって行った。
  独自の身体形質を得て行った。
  長く続いたその縄文人の時代・・その縄文時代の終末
 期から弥生時代にかけて、再び、アジア大陸から新石器
 時代人が、西日本の一角に渡来した。
  その地域では、急激に、新石器時代的身体形質が生じ
 た。
  混血が急激に進んだ・・が、和して進んだその身体的
 形質の変化は・・直接及ばなかった地域もあり、その地
 は、縄文人的形質をとどめた・・そして・・、
  その後「徐々に均一化」がされて行った。
  地理的に隔離された北海道や南西諸島の人びとは、文
 化の変革による身体形質の変化はあっても、現在、なお
 縄文人的な形態を持っている。
  歴史的資料としては、種子島の横峯遺跡から約3万年以
 上前の土層(地層)から、日本国内最古の調理場跡が発
 見されている。
  また、南九州の地層は、火山灰による時代の確認が容
 易である・・、
  そして、愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、
 放射性炭素年代測定により14,500年前と測定された人骨
 が発掘された。
  せいぜい数百年のアメリカ合衆国・オーストラリア・
 カナダ・ラテンアメリカなどの、先住民の方々の殺戮に
 より成り立った国々とは「まったく違う」のである。
      ・
      ・
紀元前6年、キリスト教のイエスが生誕したと言われている。
  しかし、イエスという人間は、作られた可能性の高い
 「想像上の人物」である。
  でっち上げられてできたという可能性が高い人。
  「ある狭い地域のみ」の噂話的存在であった。
  それ故に・・周辺地域にはまったくその痕跡は無い。
  証拠が無い・・ましてや・・外国に、その存在の証明
 できるものは「まったく無い」・・「皆無状態」なので
 ある。
  また、キリスト教の重要人物である「モーゼ」も、は
 っきりと「歴史学者から存在否定される」・・存在証拠
 が無い人間なのである。
  キリスト教を作ったヘブライ人は、チグリス・ユーフ
 ラテス川の下流域の・・メソポタミア文明の領域の「ウ
 ル」に居て・・、
  キリスト教聖書は、このウルの人々が旅立つところか
 ら始まる。
  聖書に書かれる地・カナン(パレスチナ)「乳と蜜の
 流れる地」へ向けて旅立つ話から始まる。
  彼らは、牧畜をしながら北へ向けて、チグリス・ユー
 フラテスの上流へ向けて旅立った・・川の流域が、メソ
 ボタミア文明の栄えた地でもあったからだった・・
  チグリス・ユーフラテス川を遡(さかのぼ)り、川の
 上流域に来て・・それから・・カナン(パレスチナ)へ
 向かって行った。
  しかし、これでは・・「モーゼのエジプト脱出」の話
 が浮き上がってしまう・・モーゼは何時?活躍したの?
 という事になってしまう・・その様な話になり、浮いて
 しまう。
  キリスト教は・・ここで・・史実を捻じ曲げようとし
 た。
  つまり、ウルからエジプトへ向かったとした。
  しかし、これは、キリスト教聖書を「無謬だ」として、
 「間違いはないのだ」とする人たちの作り話なのだ・・
 デッチアゲ話なのだ・・、
  この当時、メソポタミア文明の地とエジプトとは、ま
 ったくと言うほど・・その交流は無かった。
  メソポタミアは、イラン高原の文明の地との交易が多
 く、その地へ「インドの木材」などが、メソポタミアの
 地を経由して・・交易が頻繁になされていた。
  その結びつきは「強く」、「長く続いた」。
  インダス文明とメソポタミア文明は、お互いに影響し
 合い、また、このメソポタミアを経由してイラン高原の
 地の文明とも結びついていた。
  (エジプトとは関係は無かった)。
  (参考)紀元前1500年、古代ユダヤ:ヘブライ人(セ
    ム系ユダヤ人)は、チグリス・ユーフラテス川の
    北方域のシリアの近くで遊牧生活を送っていたが、
     この頃以後、ユダヤ人の一部分が、カナン(カ
    ナーン、パレスチナ、イスラエル)へ移住した。
  この史実による正しい話で困っているのが、キリスト
 教聖書の「モーゼのエジプト脱出」の話。
  しかし、実際は、そのモーゼの実在性も否定され、史
 実における実証性も無いという状況・・となっている、
  後になって・・ヘブライ人は、カナンの地に着いてか
 ら後は、エジプトと関係を持った・・が・・(その前は
 まったく無かった)
  カナンの地に来て・・飢えると、ナイル川の恵みを求
 めてエジプトへ流入した(エジプト脱出の逆)
  エジプトの地も寛大で、その民を受け入れた。
  流入したカナンの民は「下働き」をした。
  エジプトとカナン(パレスチナ)の地との出入りは年
 がら中行われていて・・出入りは自由だった。
  この様な事は、キリスト教聖書にも書かれていて、カ
 ナンからエジプトへ行った人が、エジプトで出世して、
 カナン(パレスチナ)の地の家族をエジプトへ呼び寄せ
 ている・・
  この様な事が、キリスト教聖書に書かれている。
  キリスト教聖書は、必死の生き残りの「民族のマニュ
 アル」で・・家族が、民族が、厳しい環境下で如何に生
 き延びるか?・・の伝承である。
  そして、後に・・書となったものである。
  民族が生き残るのが最大の目的であるため、その教え
 る所は・・自民族のみに有利に書かれ・・現代に「そぐ
 わないものとなっている」。
  「他民族の生娘(きむすめ)は、生かしておけ」(隣
 国へ富を奪いに行った時、生娘は殺さないで生かしてお
 け)」とキリスト教は教える・・
  自民族の繁栄の為に、他民族の女性を、自民族の子供
 を産ませるために殺すなという教え・・
  (他民族の男性などは・・「殺せ・殺せ」とキリスト
 教の神は叫んでいる)・・キリスト教はこの様な教えな
 のである。
  故に、だから、逆に、「自民族の娘は、他民族へ嫁に
 出すな」となる・・そう教えている。
  民族の生き延びることのみ教えるキリスト教聖書で、
 当然、今・現代では、他民族との軋轢(あつれき)ばか
 りが生じる・・戦争の生まれる教えで・・まったく過去
 の過ぎ去った『無用の教え』となっている。
  今・現在では、『害悪を与える教えとなっていて』、
 『存在してはいけない教え』となっているのである。
  キリスト教の周囲に戦争が多く起きるのも、その教え
 が原因している。
  現代社会に「まったくそぐわない教え」である。
  キリスト教は、「無くなさなければならない宗教」で
 ある。
  キリスト教のイエスは、紀元0年に生まれたとされて、
 西暦が制定された・・が・・
  そもそも、そのイエスの実在性はないという存在。
  また、その誕生年は、紀元前4年と訂正された。
  そして、さらに、お粗末な事に、また訂正がなされ、
 今現在は、紀元前4年、若しくは、紀元前6年だとされて
 いる。
  架空の話なので・・この話は、そのどちらでもよいが・・
 問題なのは・・架空の話のキリスト教が原因で戦争が多
 発していることである・・
  この戦争を無くす意味でも・・「キリスト教は無くさ
 ねばならない宗教」となっている。
  そのイエスの復活の話も、「弟子だけが見ている」と
 いう状況・・この様なことごとによって構成されている
 キリスト教・・一部の限られた人によって書かれ作られ
 構成され・・間違い・矛盾・害悪は多い・・
  キリスト教は、『弱者を殺す宗教』となっている・・
      ・
      ・
1938年3月4日、韓国(当時は朝鮮)には、「女衒(ぜげん、
 뚜장이)」という女性を食い物とする「卑劣な商売の者」
 たちが居た。
  この者たちは、国(韓国・朝鮮)に帰って、若い女性
 方を買い、性風俗関係の仕事をするところへ売った。
  若い女性方は、体を売るという状況に置かれた。
  当時、韓国(当時は朝鮮)は貧しかったため、その女
 性方の両親も、やむなく自分の娘がその様な状況になる
 ことを受け入れた。
  また、朝鮮・韓国のその若い女性も、貧しい親を助け
 ようと、納得して、その「女衒(ぜげん、뚜장이)」を
 やることに従った。
  この「女衒(ぜげん、뚜장이)」は、中国国内の街中や
 韓国朝鮮の街中で、商売を行なった。
  そして、その一部、この様な「女衒(ぜげん、뚜장이)」
 たちの中に、日本の軍隊と共に行動する者たちが居た。
  この事が捻じ曲げられて、日本が貶(おとし)められ
 ている。
  この様な事を日本が行なったとされている・・まった
 くひどい嘘である・・
  標記の日にちの日本軍の書類がある。
  それは、「女衒(ぜげん、뚜장이)」たちが、朝鮮・韓
 国で、女性方を集める時、「誘拐行為などをするな」と
 いう「注意を与える書類」である・・、
  また、「それに類するような行為」も絶対してはなら
 ないという「注意を与える書類」だった。
  そして、また、「軍の名前を不正に利用したりしない
 様に」と言っている。
  この様な不正をしたら厳しく罰すると言っている。
  「女衒(ぜげん、뚜장이)」の不正を厳しく戒(いまし)
 めている。
  この様な史実が、色々とはっきりとあるが、韓国は、
 日本を貶めようと、「無いことを有る様に嘘を言う」。
  韓国・朝鮮は、江戸時代の昔から、この様な事を日本
 に対してやって来た国だった。
  また、別の史料には、日本の警保局(けいほきょく、
 1947年まで存在した内務省の内部部局)が、「国際法を
 遵守しなさい」と募集行為に対して指導している・・
  また、「婦女売買や誘拐などを禁じている」ことを言
 って知らしめている。
  韓国の言う事は、まったく根拠のないデッチアゲのこ
 となのである。
.
1992年~1993年、日本政府と韓国政府は、協同して慰安婦
 問題の調査を行った・・
  結果、韓国政府の言う事は、「根も葉もないデッチア
 ゲ」という結果となった。
  この様な調査結果や、事実に反して、日本を貶め続け
 る卑劣な韓国となっている。
  1992年から1993年、日本政府と韓国政府は、慰安婦問
 題の調査を合同で行った。
  この日韓両政府の調査ですら、韓国の言うような「日
 本政府、あるいは、日本軍による強制連行の根拠となる
 証拠は無かった」。
  まったく韓国の言い分が否定された。
  まったくというほど見つからなかった。
  しかし、韓国政府は、この様なはっきりした経過、事
 実があるのに、史実があるのに、日本を貶め続けている。
.
2011年、「ドイツと中国」の「2国間政府サミット」が、
 定期的に開催されることになった。
  今、ヨーロッパ世界が、中国の「金に繰られている」
 状況となっている。
  イギリスのメイ首相は、中国へ行って中国を賛美する
 発言をしている・・讃美して「ゴマすり発言」をしてい
 る。
  その見返りに、中国は、1兆4000億円規模の商談を手
 土産に与えた。
  こんな形でヨーロッパ中の国々が、「中国の金に目が
 くらんでいる」。
  2011年からは、ドイツと中国は、「2国間政府サミッ
 ト」を定期的に開催して、ドイツは、どっぷりと中国に
 飲み込まれている。
  ギリシャは、中国に港を渡している(借金返済ができ
 なかったため・・結局、中国の金で牛耳られている)
  かつて、アメリカのルーズベルト政権の周りに、秘密
 裏に、「共産スパイ(工作員)」が満ちていて・・こん
 な状況が後になって分かったが・・ルーズベルト政権の
 政治が繰られていた・・こんな事もあって、日本とアメ
 リカの戦争にも至った・・、
  今、ヨーロッパ中の国々が・・中国の金に繰られてい
 る。
.
2018年、今・現在も、キリスト教は、節操なくその教義を
 変え続けている。
  キリスト教は、ヨーロッパに入る時、ヨーロッパの宗
 教を取り入れた。
  そのことによって、ヨーロッパの人々に受け入れても
 らおうとした。
  キリスト教の歴史は、この例の様に、節操なく、臆面
 もなく教義を変えた。
  他宗教との習合の歴史だった。
  キリスト教は、恥ずかしげもなく、節操なく他宗教と
 習合した。
  キリスト教の教義なんて「あってないがごとし」だっ
 た。
  キリスト教の天使だって、まったく影も形も無く・・
 そのようなものだった。
  今では、限りなくキリスト教の神に近いという「大天
 使が存在している」が・・居るが??
  馬鹿々々しくなるくらい「キリスト教は変容」してい
 る。
  天使の居なかったキリスト教は、他宗教から天使を拝
 借した・・取り入れた。
  今やキリスト教の天使は、昔から、最初から、居た様
 な顔をしている。
  キリスト教の教義の重要な部分を占めている。
  「イエス・キリストも知らない天使」を取り入れて、
 平然としているキリスト教・・、
  キリスト教とは、この様な宗教・・
  信じるに値しない・・
  イエスの誕生日だって、最初は無かった。
  キリスト教は、当時、他の宗教で盛んに盛大に催して
 いる「冬至の祭り」を取り入れた。
  イエスの誕生日とした。
  クリスマスの始まりだった。
  馬小屋で生まれた話や、博士を追って星が動く話も、
 当時、あちこちにあった話。
  キリスト教は、節操なくこんな事ばかりして来て、結
 局、自分の宗教理念に誠実ではなく、ふらふらと宗教理
 念を変えに変えて来た。
  故に、齟齬(そご、事柄が、食い違って、合わないこ
 と)が、あちこちに生じた。
  その都度、キリスト教は、その辻褄(つじつま)合わ
 せに狂奔(きょうほん、狂ったように、辻褄を合わせを
 する)した。
  「キリスト教神学の発生」は、悲しいかな、このため
 に発生した。
  キリスト教は、今・現在でも、その辻褄合わせに狂奔
 し続けている。
  結局、嘘をつく行為となっている。
  キリスト教は、その様にしなければ時代に取り残され
 る宗教であるからだ。
  今・現代では・・キリスト教は、「魔女は生かしてお
 いてはならない」などとは言わない。
  中世の頃のヨーロッパでは、盛んに、キリスト教は、
 この事を言った。
  そして、資産家の女性を魔女に仕立てて、キリスト教
 裁判所で、キリスト教聖職者の裁判官が「火あぶりの刑
 の判決を下し」、多くの女性の方々が、可哀想に、火あ
 ぶりにされた。
  そして、その女性の資産を我が物に、キリスト教のも
 のとした。
  しかし、今・現代では、キリスト教は、そのキリスト
 教の教義「魔女は、生かしておいてはならない」を、お
 くびにも言わない。
  キリスト教は、何時(いつ)の時代も、その教義をコ
 ロコロ変え、結果、嘘をつき続けている。
  信じるに足る宗教ではない・・害あって益なし。
  今、キリスト教は、「シャローム」の教義を変えてい
 る・・まったく恥ずかしいこの教義を変えている。
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2050年、未来の話だが・・、
  この頃になると、地球上のほぼすべての水域で漁獲量
 が減少し、ほとんどが小型種になる。
  マグロが食べられるのは・・我々が最初で最後か・・
  世界は、地球環境の保全を前提にした新しい経済へと
 歩みを進めている・・
  漁獲量について、「2050年までに、地球上のほぼすべ
 ての水域で漁獲量が減少し、ほとんどが小型種になる」。
  これは、国連環境計画(UNEP)が会議中に発表した
 予測である。
  原因は乱獲や水質汚染。
  回転すし店で、大型種のマグロを楽しめるのは、私た
 ちの世代が最初で最後かもしれない。
  魚だけでなく自然資源が喪失する。
  だから会議の本質は経済活動のあり様を問うものだっ
 た。
  日本は、木材や食料など自然資源の多くを輸入に頼る
 が、輸入元の国々が、「『緑の』国民経済計算」構想に
 参加し、そうした価値を価格に上乗せする事も考えられ
 る。
  (参考)『緑の』国民経済計算」構想:世界銀行のロ
     バート・ゼーリック総裁が発表した、森や海な
     ど生態系の経済価値を評価して、政策に反映さ
     せる構想)。
  乱獲や乱開発をしないといった原則を守る原材料の生
 産や調達にお墨付きを与える認証制度も討議された。
  パーム油では、「RSPO(持続可能なパーム油のため
 の円卓会議)」が「持続可能な原料」との認証を与える。
  イギリス・オランダの巨大企業のユニリーバは、「我々
 のパーム油は2015年までにすべて持続可能な供給源から
 にする」と宣言した。
  日本の企業は、多様性保全に取り組む企業ネットワー
 クの発足にかかわったが、行動指針には「配慮する」「
 努める」など心掛けの言葉が並んだ。
  日本の企業に危機感が足りない。
  世界は、地球環境の保全を前提にした新しい経済へと
 歩みを進めている。
  編集委員:小森敦司氏(朝日新聞、2010・11・9)
  (追伸)因みに、キリスト教は、「地を従えよ」とい
     う教義・考え方がある。
      我々人類のために、地は従えるものだの思い
     込ませである。
      結局、この洗脳によって、自然破壊となる。
      深い森林に覆われていたヨーロッパ大陸に、
     森林が無くなってしまったのはこの思い込ませ
     による。
      豊かな、微生物も含めて、自然の恵みはまっ
     たく無くなってしまった。
      今・現在、森や海など生態系の経済価値を評
     価する時代に入っているが、やっと、キリスト
     教の思い込ませの否定の感覚が認識されて来た。
..
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または
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