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(増補版)644E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)

2019-05-19 02:32:31 | 日記
題:(増補版)644E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年4月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年4月9日、横川駅~直江津駅間が営業開始された。
  また、日本・両毛・甲武・川越の各鉄道、および、貨
 物連絡運輸が開始された。
  碓氷峠を挟む横川駅~ 軽井沢駅間は、難所のため工事
 が遅れた。
  1888年から1893年にかけて、碓氷馬車鉄道という馬車
 鉄道が国道18号上に敷設されていた。
  しかし、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半も
 かかっていた。
  延長11.2 kmの間に、18の橋梁と26のトンネルが建設さ
 れ、着工から1年9か月後の1892年12月22日に、工事が完
 了した。
  翌年の1893年4月1日に、官営鉄道中山道線(後の信越
 本線)として横川駅~軽井沢駅間が開通した。
  そして、1997年10月1日に、横川駅~軽井沢駅は廃止と
 なった。
  これは、北陸新幹線の高崎駅~長野駅間の先行開業に
 伴う廃止だった。
  ヨーロッパの技術を取り入れ、お抱え外国人の技術提
 案なども取り入れ、アプト式で有名なこの路線、苦労し
 て開業したが、現代になって、新幹線がスマートに走り
 抜けて行く区間となった・・その様な世界に誇る鉄道技
 術を持つ日本となった。
.
1896年4月14日、板垣退助が、第2次伊藤内閣の内務大臣に
 就任した。
  自由党と政府の提携がなり、板垣退助が内相に就任し
 た。
  第9議会を前に政府との提携を模索していた自由党は、
 1895年11月22日、立憲政体と責任内閣の方針を同じくす
 るものと、相共に連携するとの「宣言」を発表した。
  この宣言は、藩閥、とりわけ伊藤博文との提携があり
 うることを示していた。
  伊藤首相は、これを受けた・・閣僚を集め演説を行っ
 た。
  自由党の方針は、内閣と同じく立憲政体の完成にあっ
 た。
  「譲るべきは譲り」「相共に謀(たばか)るべき」で
 あると主張した。
  そして、両者の提携の必要を訴えた。
  (参考)謀る:(1)計画・方法などを思いめぐらす。
     工夫する。(2)相談する。(3)計略をめぐら
     してだます。
  自由党は、第9議会に与党として臨んで・・
  1896年4月には、板垣退助が離党の上、内相として入閣
 した。
.
1896年4月15日、逓信省大臣官房及各局分課規程を改正し、
 施行した。
  鉄道局に、新たに汽車課・建設部が設置された。

1896年4月16日、音楽家の幸田延(こうだのぶ)が、帰朝し、
 披露演奏会を行った・・ピアニスト、ヴァイオリニスト、
 音楽教育家、作曲家。
  東京音楽学校の教授として滝廉太郎、山田耕作らを育
 てた。
  1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、
 未完)と・・
  1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章のみ)は、
 日本人による初のクラシック音楽作品であり、素晴らし
 い作品である。
  兄に、小説家の幸田露伴と、海軍軍人であり探検家の
 郡司成忠が居る。
  妹もヴァイオリニストの安藤幸。
.
1896年4月18日、奈良鉄道の木津駅~奈良駅間が開通し、京
 都駅~奈良駅間が全通した。
  日本の二大古都が鉄道で結ばれた。
  しかし、京都駅~奈良駅間でほぼ並行する近畿日本鉄
 道京都線が、スピード、列車本数とも圧倒的優位に立っ
 ていて・・
  長らく非電化であった奈良線は、輸送力の小さな脇役
 的な鉄道の地位にとどまっていた。
  1984年に、電化された後も、その地位は本質的には変
 わっていない。
  1987年、日本国有鉄道の分割民営化で、西日本旅客鉄
 道に所属した。
  列車はすべて木津より関西本線に乗り入れて京都~奈
 良間に直通運転される。
.
1896年4月20日、森正道が、小児病のひとつ脾疳(ひかん)
 の治療法を発表した。
  (参考)脾疳: 身体が痩せ、腹がふくれてくる小児病。
     小児の慢性胃腸病。
  (参考)森正道:もりまさみち、1860年~1932年、医
     師。東京大学卒。
      ドイツに留学して外科学をおさめ、1905年、
     帰国。三重県羽津病院長をつとめる。
  1904年、三重県の小児科医の森正道は、農山村の貧困
 な家庭の小児が、過食と下痢で腹が大きく膨れ、頭髪が
 薄くなり、夜盲症や眼の結膜炎を起こして化膿、失明す
 る病気があり、脾疳(ひかん)と呼ばれた。
  森は、この病気が脂肪の不足によって起こるとして、
 肝油を与えて治療を行った。
  この様な病気が、その後、ドイツやデンマークでも報
 告された・・世界各地で見られる病気であることが分か
 った。
  肝油からビタミンAを単離して結晶化する研究は、日
 本の理化学研究所が成功した。
  ビタミンAの化学構造は、1931年に、スイスのカラー
 が、オヒョウ肝油からの研究で決定した。
.
1896年4月20日、日本勧業銀行法・農工銀行法のそれぞれを
 公布した。
  農工銀行は、各府県に設立された特殊銀行で、農工業
 の改良発達のため、長期で低利な貸付を目的とした(土
 地を持たない小作人への融資の道も開いていた)が・・
  1921年に、勧農合併法が制定され、漸次、日本勧業銀
 行に合併された。
  1898年~1900年に、全国46府県に各1行を設立した。
  北海道は北海道拓殖銀行。
  府県が半額出資し、その中央機関として日本勧業銀行
 (現:第一勧業銀行)を設立した。
  資金源の債券発行が伸びず、勧銀の代理貸付けを行っ
 て、1921年~1944年に、すべてが勧銀に合併された。
.
1896年4月22日、ロシアが、朝鮮の利権を獲得した。
  朝鮮の慶源・鍾城の鉱山採掘権を取得した。
  ロシアは、実質的な権力のない高宗におもねり鍾城・
 慶源の鉱山採掘権を取得した。
  また、朝鮮北部の森林伐採権も取得した。
  また、関税権などの国家基盤をも取得して朝鮮半島で
 の影響力を増して行った。
  この様な事から、この後に起きる日露戦争は、朝鮮半
 島でロシアが侵略した朝鮮西北部のロシア軍と戦うこと
 となる。
  例えば、朝鮮の咸鏡道は、戦争初期において、ロシア
 軍の占領下に置かれていたが、1904年8月以降は、日本軍
 が徐々に北上して解放して行った。
  ロシア軍は、ウスリー川地域に軍隊を置き、圧迫をし
 ていた。
  この様な時、韓国政府はロシア側に付くでもなく、日
 本側でもなく、中立の宣言をしていた。
.
1896年4月26日、桑田熊蔵、山崎覚次郎、高野岩三郎ら、社
 会政策研究団体を設立した。
  翌年・1897年4月24日、社会政策学会と命名した。
  毎月1回の例会で社会問題を討議した。
  経済学者を中心としたが理論研究にとどまらず、足尾
 鉱毒事件調査など実際問題や、政策の提言にも熱意を示
 した総合的な学会だった。
  1907年12月、工場法を論題としたことを皮切りに公開
 の活動を開始し、記録を『社会政策学会論叢(ろんそう)』
 として刊行するなど啓蒙(けいもう)的役割も担った。
  労働問題の解決に力を注ぎ・・
  1922年、282名の会員を数えた。
  ドイツの同学会に範をとり社会主義と一線を画し、社
 会改良主義の立場を貫いた・・が・・
  1924年12月、第18回大会を最後に休眠状態に入った。
  設立当初、この研究会は、ドイツ留学で当時最先端の
 経済学とされていた社会政策学派の講壇社会主義(当時
 は「講壇社会党」と呼ばれた)を学んだ桑田・山崎が、
 社会問題の激化予防と解決のため、ドイツ社会政策学会
 をモデルに設立した。
  会は、さらに、金井延・田島錦治・高野房太郎・佐久
 間貞一らを会員に加え、月例会も開催した。
  1898年7月、桑田・金井・戸水寛人の執筆による「社会
 政策学会趣意書」を発表した。
  「趣意書」は、自由放任主義、および、社会主義への
 反対を表明し、
  また、「現在の私有的経済組織を維持し、其範囲内に
 於て箇人の活動と国家の権力に由つて階級の軋轢を防ぎ
 社会の調和を期す」とある。
  これは、明確に、資本主義の枠内での社会改良主義の
 立場を標榜し・・
  と同時に、この趣意書には、会員の片山潜らが結成(
 1898年)した社会主義研究会との違いを明確にするとい
 う意図も込められた。
.
1896年4月27日、民法(明治29年法律第89号)が公布された。
  民法第一編・第二編・第三編(総則、物権、債権)が
 定められ、公布された。
  これによって、日清戦争後の経済発展の基礎固めが行
 なわれた。
  続いて、1898年6月21日の明治31年法律第9号により定
 められた民法第四編・第五編(親族、相続)・・
  附属法令として、1898年6月15日、明治31年法律第11号
 民法施行法が公布され・・
  全体が1898年7月16日から施行された。
  原案起草者は、穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三名。
.
  (今日の言葉)
.
  題:200年前にアジアに来たロシア白人が、アイヌを先住民だとした・・
    それを見て・・日本の政治家たちが・・
    紀元前の何万年も前から日本に住んでいる日本人の先住民は、アイヌだと決めた・・
    先住民の日本人の後から来たアイヌの人たちが先住民だとした・・
    アイヌの人たちは、13世紀~14世紀に、北方からやって来たのに・・
.
紀元前12万年、ナウマンゾウが本州から津軽海峡を渡って
 北海道へ行った。
  紀元前1万3000年になると、最後の氷期は終了した。
  この氷期には、海水面が80~140mも下がっていて、津
 軽海峡や宗谷海峡がなくなっていて大陸と地続きとなっ
 ていた。
  幕別町忠類村(ちゅうるいむら)で見つかったナウマ
 ンゾウの全身化石は、12万年前のものだった。
  このゾウは、本州から津軽海峡を渡って北海道へ行っ
 た・・
  また、その様なゾウを食糧としようと本州から人々が
 渡って行った。。
  4万5千年前から2万年前頃になると、サハリンを通って
 大陸から渡ってきたマンモスゾウがいた。
  マンモスゾウを追って、北海道に北方の人々が渡って
 来た。
  また、渡ることが出来る津軽海峡で、北海道と本州の
 人の行き来がなされていた。
  日本人の先住民である縄文文化の人びとの暮らしが、
 北海道各地に残された遺跡から知ることができる。
  北海道では、旧石器文化、縄文文化など約1万2,000ヶ
 所の遺跡が確認されている。
  そのうちの約7,000ヶ所という多くの遺跡が、縄文時代
 の遺跡となっている。
  日本の各地を、沖縄から北海道まで、アフリカからの
 人類のうねりの様に、日本の先住民たちは移動し、そし
 て、交雑した。
  縄文文化の遺跡から、住居や「ムラ」の跡、土器や石
 器などの道具がたくさん見つかっている。
  墓地や水場、狩りの跡なども見つかる。
  また、北海道では、多くの「貝塚」も見つかっている。
  伊達市北黄金貝塚からは、ハマグリ、カキ、ホタテな
 どの貝がらだけでなく、マグロやヒラメの骨、オットセ
 イやクジラなど海獣の骨、さらに、縄文文化の人びとの
 お墓やシカの頭の骨をならべた儀式の跡なども見つかっ
 ている・・この人たちはアイヌの人々とは違う。
  釧路市にある東釧路貝塚からも、貝類や魚の骨のほか、
 イルカの頭骨を放射状に並べたものが出土している。
  縄文文化の人びとは、すべてのものや事象に魂がある
 と考えていた。
  「貝塚」は、人びとが使い終わったものを、恵みをも
 たらしてくれる世界へ送る場だったと想像もできる。
  函館市大船遺跡や垣ノ島遺跡で見つかった「盛土(も
 りど)」遺構も、同じような祭祀や儀礼の場であったと
 想像され推定されている。
  このような「送り場」は、縄文文化の人びとの精神文
 化を伝えてくれていると推定されている。
  北海道北東部には、約7,000年前に「石刃鏃(せきじん
 ぞく)」という独特な鏃(やじり)が伝わった。
  これはシベリアなど大陸の影響を受けたものと想像さ
 れている。
  また、北海道の西南部と津軽海峡を挟んだ北東北は、
 縄文時代前・中期に同じ特徴の円筒状の土器を使うなど、
 共通の文化圏を持ち、つながりがあった。
  このことからも津軽海峡を挟む18ヶ所の縄文遺跡群は、
 現在、世界遺産登録を目指している。
  北海道からは、北黄金貝塚、入江・高砂貝塚、鷲ノ木
 遺跡、大船遺跡、キウス周堤墓群、垣ノ島遺跡の6ヶ所が
 入っている。
  (北海道博物館 赤れんがサテライトを参考にした)
     ・
     ・
8世紀頃、擦文文化(さつもんぶんか)
  擦文土器を持つ文化で、北海道、東北地方北部に分布
 している。
  これは、東北地方の古墳文化の影響を受け、そして、
 成立した。
  8世紀頃より、鎌倉時代および室町時代に及んだとされ
 る。
  北海道の続縄文文化に本州から北上した土師器 (はじ
 き) を伴う文化が接触したと考えられる。
  そして、これは、アイヌとも違い、アイヌ文化に先行
 する文化とされる。
  この遺構は、江別市や恵庭市などの道央部に発見され
 る。
  奈良時代の律令政府とかかわりのあった人が被葬者だ
 と考えられている東北地方の末期古墳と同形で、出土遺
 物も、土師器(はじき)、直刀、蕨手(わらびで)刀、
 鉄斧、鉄鎌、銙帯(かたい)金具、勾玉や和銅開珎など
 似たものが多い・・
  おもな、生業は漁労であり、方形の竪穴住居には「か
 まど」があり、粟、ひえ、そばなどが出土することによ
 って、小規模な栽培も行われていた。
  そして、この擦文文化の時代には、北海道には縄文人
 の子孫は居たが、アイヌは居なかった。
  この後、13世紀頃、樺太に居たアイヌが、モンゴルの
 攻撃などの歴史的事変で、それまでの居住区を追われ、
 北海道に移動して来たと考えられている。
  それは・・アムール川下流域から樺太にかけての地域
 に「吉里迷(ぎれみ)族」が住んでいた。
  この集団は、モンゴルに遠征されて、1263年、モンゴ
 ルに服従した。
  その翌年・1264年、この族は、「骨㟴(くい)」や「
 亦里于(いりう)」が、「毎年の様に侵入して来る」と
 いう訴えをフビライへ報告した。
  ここで言う骨㟴は、アイヌを指している。
  (参考)「北からの蒙古襲来の真相」中村和之(法政
     大学国際日本学研究所所属)、
      クイ(骨㟴、蝦夷)は、二ヴフ語でアイヌを
     意味するkuyiを音訳したものと思われる。
  この訴えを受け、元朝はアイヌを攻撃した。
  (参考)『元史』「世祖本紀」至元元年十一月丙子(
     1264年11月25日)条に記されている。
  これが「北からの蒙古襲来」で、鎌倉幕府への侵攻の
 「元寇」よりも10年早い時に起きた。
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ南下したと考
 えられている・・アイヌの人々の北海道居住の初め・・
.
802年5月22日、(延暦21年4月14日)阿弖流為(あてるい)
 と母禮(もれ)は、兵5百余人を率いて胆沢城(いさわ
 じょう)の坂上田村麻呂将軍に投降したと日本紀略に記
 されている。
  (参考)阿弖流為:あてるい、平安初期の蝦夷の族長。
     北上川流域一帯を支配し、延暦8年(789年)、
     征東将軍紀古佐美(きのこさみ)軍を破る。
      延暦21年(802)、征夷大将軍の坂上田村麻呂
     が胆沢城を造営し始めると、これと戦うことな
     く、盤具母礼と共に一族五百余人を率いて投降
     し、河内国杜山で処刑された。
      田村麻呂は助命懇願した。
  (参考)蝦夷:えぞ、えみし。古代、日本の北辺、実
     際には中部以東、北陸、関東、奥羽地方に住む
     人々は、大和朝廷より、蝦夷という名で異民族
     扱いされていた。
      蝦夷はまたエミシとも読む。
      彼らがいかなる人種、民族であったかは、江
     戸時代以後、多くの史学者によって論じられて
     きたが、決め手がなく、一方、人類学者もこの
     解明を手がけたが、人骨などの実証拠が乏しか
     った。
      新井白石や本居宣長は蝦夷すなわちアイヌ説
     をとった。
      長谷部言人ら人類学者は、石器時代人骨の研
     究から、非アイヌ説をとり、日本人でも東国、
     北辺に住む化外 (けがい) の民を蝦夷と称した
     としている。
      金田一京助は奥羽地方に残る地名をアイヌ語
     で解釈できるものとして、奥羽地方にいた蝦夷
     はアイヌであると考えるが、考古学的資料から
     はにわかに説明しがたい。
      東北地方出土人骨のうち、アイヌであると思
     われるものはごく少い。
  (参考)蝦夷:最初は〈えみし〉といい、〈夷〉〈毛
     人〉の字をあてた。
      大化改新後はおもに北越・奥羽地方および北
     海道に住む人びとをいい、〈蝦夷〉と書くこと
     が多くなったが、9世紀~15世紀には〈夷〉が
     一般的で〈蝦夷〉という表記は少ない。
      訓も〈えみし〉のほか〈えびす〉〈えぞ〉が
     混用された。
      中世での〈蝦夷〉の表記は安東(安藤)氏を
     指すことが多いとされ、奥羽・北海道に住む人々
     一般をいったかどうかは個々のケースにより異
     なる。
      こうしたことばとアイヌとの関係については、
     まだ明確でない。
      中世期の〈蝦夷〉を明確に定義するのは困難
     である。
      またこうしたことばとアイヌとの関係につい
     てもまだ明確でない。
.
1060年、北海道は遠い昔から和人が渡っていた。
  律令時代にも北海道への人的な行き来は確認されてい
 るが・・意冨比(おおひ、おおい)神社という道南の北
 斗市にある神社には、平安時代の康平三歳(1060年)の
 銘が入る鰐口がある。
.
1135年、船魂神社
  船魂神社は、函館の港を見下ろす函館山の麓、函館観
 光の中心地に鎮座する、北海道最古の神社で・・
  古来、船の守護神、海上安全、大漁祈願、交通安全、
 開運導きの神様として崇敬されて来ている。
  また、源義経を津軽海峡の海難から助け、この地へ導
 いたという伝説も残る神社・・
  起源は、保延元年(西暦1135年)崇徳天皇の御代に、
 融通念仏宗開祖の良忍上人がこの地に着いて、ここは神
 霊の宿る処だと里人に伝え、海上安全を祈念して奉られ
 た。
  これ等の神社の多くは道南の漁業拠点に集中し、道南
 には古社は多い。
  平安時代の奥州藤原氏の残党が渡島で神社を建立した
 という説もある。
  一例として、意冨比(おおひ、おおい)神社、旧大日
 堂という道南の北斗市にある神社には、平安時代の康平
 三歳(1060年)の銘が入る鰐口を有する。
.
1205年8月16日、北海道の知内川(しりうちがわ)で砂金が
 採れ、この日(元久2年7月23日)に金山祭を行ったとい
 う記録がある。
.
1220年頃、この頃からの鎌倉時代には、京都などの強盗・
 海賊は、いったん関東へ連行し、津軽の大名・安藤氏が、
 北海道へ島流しにしていた。
  この者たちの多くは、道南に住んだ。
.
1264年、アムール川下流域から樺太にかけての地域に住ん
 でいた「吉里迷(ぎれみ)族」が、元朝のフビライに、
 「アイヌが攻めて来る」と報告した。
  フビライは、この事によって日本への元寇より早い時期に、こ
 の地域へ襲来した(北からの蒙古襲来)
  この元寇に追われて、アイヌが北海道へ移住したと考
 えられている。
.
13世紀、この時期のアイヌの北海道の居住地域は、オホー
 ツク沿岸や道東に限られていた・・
  この後、北海道全域へ広がって行く。
  そして、1220年頃からの鎌倉時代には、京都などの強
 盗・海賊は、いったん関東へ連行し、津軽の大名・安藤
 氏が、北海道へ島流しにしていた。
  13世紀の北海道のアイヌは、オホーツク海岸や道東に
 多く住んでいて、流刑者は道南地方に追放されたので、
 この後に、道南は、アイヌと和人の雑居地状態なったと
 考えられる。
  1320年頃から、この安藤氏は、アイヌの人たちとの交
 易を行なっている。
.
1320年頃、この頃から、津軽の大名・安藤氏は、アイヌの
 人たちとの交易を行なった。
.
1456年、コシャマインの戦い(~1458年)
  蝦夷地のアイヌが起こした大規模な安東氏らに対する
 蜂起。
  津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠としていた安東
 (安藤)氏の蝦夷地への逃亡(1443年)の後、深まった
 対立が原因で起こった。
  蝦夷地南西部(現在の道南地方)の安東氏ら根拠地の
 支苔(志濃里)(しのり)館など(道南十二館)のうち10
 館が一度はアイヌの手におちた。
  若狭(わかさ)出身だと伝えられる武田信広(松前氏の
 祖)が、蝦夷地東部の首長コシャマイン父子を討って、
 戦は終わった・・
  この後、武田信広は、「上ノ国守護」の蠣崎(かきざき)
 季繁の女婿となって蠣崎家を継いだ。
  そして、武田信広の子孫は、支配地の「三守護職」の
 権能を掌握して、松前藩を成立させた。
.
1648年、アイヌの人々同士の争い
  アイヌのメナシクルは、現在の新冠町から白老町方面
 にかけての集団であるシュムクルと・・
  シベチャリ川(静内川)流域の領分をめぐって遅くと
 も1648年から対立をしていた。
  (参考)メナシクル:静内以東の太平洋沿岸地域など
     に居住するアイヌ集団の名称。
.
1669年6月21日、シャクシャインの戦い
  シブチャリのアイヌの首長シャクシャインを中心とし
 て起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起。
  アイヌ惣大将のメナシクルとシュムクルは、シブチャ
 リ地方の漁猟権をめぐって、争いを、1648年から続けて
 いた。
  シャクシャインは、メナシクルの副首長であったが、
 カモクタインが、1653年に、シュムクルによって殺害さ
 れたために首長となっていた。
  抗争を危惧した松前藩は、仲裁に乗り出した。
  1655年には、両集団は一旦講和をした。
  この時、シュムクルは松前藩に接近した。
  シュムクルは、松前藩に親善的な友好な立場となった。
  1665年頃から、アイヌ同士の対立が再燃した。
  1668年5月31日には、メナシクルによってオニビシが
 殺害された。
  (参考)オニビシ:北海道に存在したアイヌ集団のひ
     とつハエクル(シュムクル)の首長・惣乙名。
  松前藩は、アイヌとの交易の特権を豊臣秀吉から得て
 いたが・・
  また、江戸時代になっても、この特権は、徳川家康か
 らも与えられていた。
  この様な交易の特権を得ていた松前藩とアイヌとの交
 易は、松前藩が財政的な困窮度が増して行った事もあっ
 て、厳しい対応となって行った。
  米と干鮭の交換レートなどに厳しさが増した。
  この頃、全国的な飢饉が発生していて、やむを得ない
 面もあった。
  松前藩は、米が無くなって3000俵を幕府から借りる事
 もあったくらいだった。
  また、この様な状況の中、アイヌが、交易を一方的に
 「押買されたりする行為」もあった。
  また、和人の山師が、砂金堀のため、内陸部を切り開
 く行為もアイヌにとって生活を脅かす行為となった。
  また、大名の鷹狩り用の鷹を勝手に捕獲することもア
 イヌの人々の生活を脅かした。
  また、シャクシャインにオニビシを殺されたハエのア
 イヌは、松前藩庁に武器の提供を希望した・・
  しかし、松前藩は、これを拒否した。
  サル(現:日高地方)の首長ウタフは疱瘡で死んだが、
 これが、「松前藩によって毒殺された」と思われること
 なども影響した。
  これらが発端となって、シャクシャインは各地のアイ
 ヌの方々たちへ蜂起を呼びかけた。
  アイヌの方々はこれに呼応した。
  和人の製品がアイヌの方々の生活に根付いていて、こ
 れを得るのに交換レートが厳しくなっていることも蜂起
 の心情を作った。
  また、アイヌの惣大将同士の争いも多くなっていた時
 期で、アイヌの方々の不満の心情も鬱積し高まっていて、
 対松前藩蜂起へと移行し爆発した。
  1669年6月21日(寛文9年6月4日) 、シャクシャインら
 の呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く、東は釧
 路のシラヌカ(現:白糠町)から西は天塩のマシケ(現:
 増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。
  決起した2,000の軍勢は、鷹待や砂金掘り、交易商船を
 襲撃した。
  突然の蜂起に、和人は対応できず、東蝦夷地では213人、
 西蝦夷地では143人の和人が殺された。
  松前藩はこれに対応し、また、幕府へ蜂起を急報し、
 援軍を求めた。
  幕府は、松前藩の要請に応じて、弘前津軽氏・盛岡南
 部氏・秋田佐竹氏へ出兵を命じた。
  シャクシャイン軍は松前を目指した。
  1669年7月末、援軍の兵が松前藩と合流し、戦闘は8月
 上旬まで続いた。
  兵器の差や、内浦湾一帯のアイヌが分断されて力を発
 揮できず、シャクシャイン軍は不利な状況となって行く。
  シャクシャインは長期戦に備えた。
  松前藩は戦いの長期化を恐れた・・
  それは、戦いの長期化による交易の途絶や、幕府によ
 る改易を恐れたのだった・・
  松前藩は和睦を提案した。
  シャクシャインは和睦に応じて、1669年11月16日、松
 前藩陣営に出向いた・・
  その和睦の酒宴で、松前藩は、シャクシャインを殺す
 という卑怯な行為をしてしまった。
  指導者を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰えて行った。
  その後、松前藩は、交換レートを緩めた。
.
1859年、江戸幕府が、開港場居留地における外国人の信仰
 の自由を認めた・・キリスト教信仰の容認・・
  また、キリスト教宣教師の来日を許可した。
  キリスト教カトリック教会は、パリ外国宣教会を通し
 て宣教師を派遣して来た。
  フランス横浜領事館付通訳兼司祭として来日したS・
 B・ジラールは江戸入りした。
  また、彼は、1862年1月、横浜天主堂も建立した。
  ベルナール・プティジャンは、1862年に来日し・・、
 1864年に大浦天主堂を建立した。
  アメリカ、イギリス、カナダ、オランダからはキリス
 ト教プロテスタントの宣教師が来日した。
  キリスト教正教会は、1861年、ニコライ・カサートキ
 ンが来日し、函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭となった。
  そして、後に、キリスト教日本ハリストス正教会を設
 立した。
  キリスト教が、明治時代になって高札の撤去まで弾圧
 があったと過大な嘘を言うが・・、日本は早くからキリ
 スト教に対して見過ごして来て、また、無視して来た・・
 弾圧などはまったく早い時期からやっていない。
  そして、明治時代の維新となって、日本が近代国家へ
 の歩みを始めた頃、逆に、キリスト教を含めて、日本に
 は『西欧礼賛』があった。
  何でもかんでも西欧が良いと、「真の姿を見ず」に西
 欧を美化し礼賛し取り入れた。
  この頃、キリスト教関係書が盛んに翻訳された・・し
 かし・・今・現代、キリスト教関係者は、この頃の翻訳
 は駄目だと言っている・・翻訳のレベルがまったく低い
 と言う・・この様なレベルでキリスト教徒になった人も
 多く居た・・
  翻訳について、内容の正確さの問題もあったが、翻訳
 文の日本語として成立しないようなレベルの物もあった
 と・・
  この様な知識レベルで、キリスト教にのめり込んだ人
 たちは多かった・・
.
1937年、杉原千畝が、ソ連への入国の拒否通告を受ける。
  杉原千畝は外交官ではない・・日本のスパイとして働
 いていた。
  その様な職員の身分なのだ。
  ソ連人女性と結婚してまでして、ソ連の情報を得よう
 とした。
  ここまでして、日本軍に有利となる情報を探った。
  ソ連から入国を拒否されるくらいの情報を探ったスパ
 イだった。
  しかし、杉原千畝のソ連人の妻から「逆スパイをされ
 ていた」という話もある。
   ・
   ・
2018年10月31日、中国が、南沙諸島の運用を強行に開始し
 た。
  この時から遡ること3年2ヶ月前の2015年8月20日、アメ
 リカ国防総省は、「アジア太平洋での海洋安全保障戦略」
 と題した報告書を公表した・・
  中国が、2013年12月に、南沙諸島での埋め立てを開始
 して・・、
  2015年6月までに、2,900エーカー(約12km2)を埋め立
 て、その面積が、周辺諸国による埋め立てを含めた全体
 の『約95パーセント』に当たることを明らかにした。
  また、埋め立てから滑走路や港湾施設の建設によるイ
 ンフラ整備に重点が移行していることも指摘した。
  中国が、この様にして実効支配をして、軍事拠点化し
 ているこの場所を、地球上で取引されている原油や液化
 天然ガス(LNG)の約半分が通過している。
  そして、2016年1月、アメリカのCSIS(戦略国際問
 題研究所)は、報告書において・・、
  中国の空母打撃群保有の可能性と併せて、「2030年ま
 でに、南シナ海が事実上中国の海となる」と警鐘を鳴ら
 した。
  2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、
 中国が、南シナ海のほぼ全域で領有権を主張する「独自
 に設定した境界線『九段線』」には、国際法上「歴史的
 権利を主張する法的根拠はない」と認定する裁定を下し
 た。
  また、中国が、南沙諸島などで人工島の造成などをし
 ている岩礁はすべて「島ではなく」、「岩」または高潮
 時に水没する「低潮高地」であると認定する裁定も下し
 た。
  しかし、2018年10月31日、ファイアリー・クロス礁、ミスチー
 フ礁、スビ礁を運用開始したと、中国が公表した。
.
2019年、今、ロシアが困っている・・中国の浸透が続いて
 いるのが・・その理由・・
  中国が、シベリアへの浸透を謀(はか)っている。
  中国とロシアの長い国境線では・・ロシアは、その為
 の国境の壁を、そのすべてに設けられない・・、
  また、長い国境線の厳重な管理も難しいという状態・・
 その様な中を・・中国は浸透を謀(はか)っている。
  アメリカも、国境に壁と作ろうとしているが、その為
 の金がないという、予算措置が出来ないという。
  必死に国づくりをして、良い国となり、その国づくり
 の努力の結果、幸せな生活ができるようになる・・
  そうすると、国境を『違法に越えて』、自分も幸せに
 なりたいと、違法に国境を越える者たちが増える。
  中国は・・日本が満州族の方々が多かった地に、その
 満州族の方々の国の建国の手助けをして、満州国を建国
 して差し上げたが・・、
  しかし、その地は、日本が戦争に負けると、中国の地
 だと「知らぬ間になってしまった」。
  今、その地には、満州族の方々は居ないという。
  殺されたのか・・他に移住させられたのか・・不明の
 状態となっている。
  そして、「中国東北部」と称されて、「中国のもの」
 とされている。
  中国の漢民族が少数だったこの地は、明らかにこの様
 になってはいけない地であって・・、
  本当は、この地は、「中国東北侵略部」と称するのが
 正しい。
  そして、この地の北のロシアのシベリア部分に、中国
 が浸透している今・現在なのである。
  そして、その地も、そのうち、「中国東北侵略部・北
 地区」とでも名付けられるだろう。
  中国の歴史は、昔からこの様な周辺国・周辺部への侵
 略・浸透が行われて来た・・
  そして、「洗国」という事が行われた・・
  洗国とは・・国を洗うと書くが、その国のその地の男
 だけを他の場所に移して、その地へ「中国の漢民族の男
 だけ」を移り住まわせて、強制的に漢民族を増やさせて
 「漢民族化を行なって」・・「国を奪う」という事を、
 昔からやってきた国だった。
  キリスト教聖書にも、この事が記述されている・・
  キリスト教の神は叫ぶ、「△△人は、男だけを殺せ」
 と・・そして、場合によっては、このキリスト教聖書に
 書かれたキリスト教の神は、「生娘は生かして置け」と
 も叫んだ。
  そしてまた、キリスト教の聖書の神は、「○○人は、
 皆殺しにせよ!」とも叫んだ。
  この様な事を、中国は、昔からやってきた。
  チベットやウイグル、そして、内モンゴルや中国南方
 の諸国・諸地域が、今・現在、「半・中国化されてしま
 っている」。
  中国は、長期にわたる侵略国なのである。
  日本の沖縄や北海道も狙われている。
  そのうち、洗国という手が使われる可能性があるとも
 言える・・それは、中国が昔からやって来た事である。
.
2019年4月8日、韓国の子供たちは、「酷いことをした日本」
 というイメージで教え込まれている。
  それも、「嘘の話をでっち上げられて」教えられてい
 る。
  例えば、韓国の小学校6年生の社会の教科書に裸の酷い
 状態の男の人たちが写っている写真が掲載されている。
  産経新聞社の加藤達也氏によると・・、
  この写真の元は北海道の旭川新聞がかつて掲載した写
 真であって、これらの人達は日本人を撮影した写真であ
 って「朝鮮人徴用工とは縁もゆかりもない人たち」であ
 る。
  それを、韓国の小学生の社会科の教科書には「強制労
 役に動員された我が民族」と書かれている。
  この写真は、1926年に、旭川新聞が掲載した写真で、
 道路建設現場の写真で、写っている人たちは日本人。
  韓国が日本の貶めのために作っている徴用工の銅像の
 モデルとなっている写真とも言われている。
  産経新聞は、この事を韓国に指摘した・・その指摘を
 受けた韓国教育省は、「韓国教科書の誤りを認めた」。
 「訂正することも約束した」。
  しかし、間違い教科書を回収するという事ではなく「
 シールを貼って隠す」というものだった。
  韓国は、この1例の様に、雑な荒っぽい認識で事を処し
 ・・この様なレベルで韓国の子供たちの洗脳・刷り込み
 をしている。
  韓国の少年少女たちを反日へと導く教育がなされてい
 る・・この様な洗脳教育の怖ろしさを、韓国政府は認識
 していない。
  韓国は、この1例だけではなく、次々と根拠のないこと
 で「歴史を改ざん」し、日本を貶め、反日教育をしてい
 る。
  竹島は、韓国の領土だと刷り込んでいる。
  また、まったく無かった従軍慰安婦も「あった様に」、
 事実であった様に、子供たちへ刷り込んでいる(反日教
 育の刷り込みばかりに重点を置いている)。
  そして、日本の教科書を批判している。
  日本の一部のグループが、日本の歴史の多数を歪曲し
 て教科書を作り、2011年に、日本政府の検定審査を通過
 しているとしている・・
  そして、これは、韓国・中国をはじめとする政治的紛
 争を起こしていると教えている・・自分たちの行為を希
 薄化するために、この様なことを言っている。
  日本が、故意にトラブルを作っているという洗脳をし
 て・・「日本だけが悪い」というイメージを作り上げて
 いる。
  日本は、周辺国と友好的に行きたいと、今まで「何も
 言わずに来た」が、やはり、正しい事実を、認識を主張
 しなければならない状況にある。
  反日観を刷り込まれた韓国の青年が、スポーツの国際
 大会で政治的な行動をするなどの問題が発生している。
  そして、韓国の間違った認識を世界に流布している。
  間違った反日教育で歪められた歴史観を、世界に流布
 している。
  日本の青少年自体も間違った認識を持つように教えら
 れている。
  それは、近隣の周辺国への配慮から、真実を正確に教
 えて来なかった日本がある。
  真実を教えられない日本の青少年は、韓国だけが発信
 する事柄を、その間違った認識をなんとなく持ってしま
 っている。
  朝鮮・韓国の元徴用工は、日本で働いで良い生活をし
 たいということで、志願したことを教えた・・
  また、慰安婦にも「志願者が数多く存在した」ことも
 教えてみたら・・その様な意見聴取をしてみると・・「
 びっくりです」という言葉が返って来る・・
  また、「それでは、話が変わって来ますね」という返
 事にもなる。
  そして、日本で、真実を、何故、教えないのか、教え
 てほしかった・・という言葉にもなる。
  その様なことはわからなかった・・その様な解らない
 状態では誤解を生むので、その様な所まで教えた方がい
 い・・という言葉にもなる。
  近隣への配慮から、日本は、近現代史はプリントを配
 るぐらいで「教えない」という状態になっている。
  「日本軍が無理やり連れ去った」という様なまったく
 嘘の「事実ではないイメージまで生まれてしまっている」。
  日本には、「近隣諸国条項」という、「近現代の歴史
 的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な
 配慮がされていること」と書かれた条項あり・・、
  必要以上に、中国・北朝鮮・韓国に配慮した教科書の
 検定基準がある。
  中国や韓国は、「事実よりも」、政治的にうまく行く
 ようにという観点から歴史を教える形になっている・・
 だから、「事実は二の次」という形から間違った記述が
 なされる教科書が生まれている。
  日本政府も、それに異議を言う訳でもなく、逆に、す
 り合わせる様な状態も生まれている。
  韓国は、「国」が教科書を作っている。
  日本を貶める別の写真には「戦争に動員された幼い学
 生たち」と書いている・・動員という言葉を使って悪い
 イメージ作りをしている。
  韓国の戦争記念館では、朝鮮戦争で活躍した韓国兵士
 の経歴が掲示されて、大々的に説明されているが・・、
  この韓国の軍人たちは、日本と一緒になって、第二次
 世界大戦でアメリカなどと戦った軍人であるが、この経
 歴は、まったく記されず、隠されていて書かれていない。
  日本の軍事教育を受けて、朝鮮戦争でも活躍するよう
 な軍人になったことなど、「まったく説明されていない」。
  韓国は、この様な改竄(かいざん)までして、刷り込
 みのイメージ作りをしている。
  日本を貶めるという一貫した行為が、韓国でなされて
 いる。
  この様な韓国の嘘を、外国メディアが「真実だと思っ
 て」世界へ配信してしまっているという取り返しがつか
 ないことまで起きている。
  日本が、変な配慮から指摘をしないので、この様な事
 まで起きている。
  ロイターという大メディアが世界に配信して・・「間
 違いだった」という「訂正」は、なされていない・・日
 本は、間違いを「されっぱなしになっている」。
  朴槿恵時代の韓国の教科書と、文在寅(むん・じぇい
 ん)時代の教科書はまったく違う・・
  朝鮮戦争の場合、今・現代の文在寅時代は・・、国連
 軍が韓国国民を「虐殺している」から北朝鮮軍が、韓国
 へ入って来た・・という記述になってしまっている・・
  事実は、突如、北朝鮮軍が38度線を越えて攻めて来た
 のに・・国連軍の虐殺も何もないのに・・文在寅は、こ
 の様な内容でありたいという思いで、朴槿恵時代の教科
 書を書き換えた。
  韓国の事を「南韓」と書いている・・北朝鮮の意向に
 沿った書き方となって来ている韓国の教科書の状態。
  小学校の内から、日本帝国主義ということを植え付け
 て、「日帝」という言葉を使って学ぶ。
  日本は、周辺国から孤立していると思い込ませている。
  高校になると、教科書の111頁(全424頁)が日帝の事
 を貶めるというボリューム比率となっている。
  日本の貢献によって、経済的発展をした韓国の姿など、
 少しも記述していない。
  韓国にある「全国教職員労働組合」は、教職員の組合
 だが、北朝鮮の思想であるチュチェ思想など「親北な教
 育を行なう職員」も在籍していて、この様な行為が過去
 に韓国のメディアから批判を受けている。
  この組織が「7割」くらいへ影響を与えている。
  文在寅を支える組合の中核的な組合となっている。
  活動目標は「日韓の分断」と「親北朝鮮」。
  日本が間違いを指摘して、証拠を提示しても無視する
 現状となっている。
  しかし、日本にも、河野洋平官房長官(当時)が謝罪
 するという「韓国に迎合した行為」がある。
  そして、この「間違いの迎合した談話」を取り下げる
 事もしない日本がある。
  結局、日本の態度から認めているという姿もある。
  お互いを理解しようという目的で始まった「日韓談話」
 をしても、韓国は史実はどうでもよいとなって、「韓国
 を悪く言ってそれで良いのか」の感情論となる。
  事実認定から始めて、事実の認識を積み重ねようとい
 う目的が果たせない。
  まず、日本は、韓国がそうであっても・・、
  世界中で、事実ではない悪宣伝をしている韓国の行為・・
 この様な行為を止める様にしなければならない。
  河野談話の当時は、その様な事も言って、その様な歴
 史認識だったが、間違いだったと、世界や第三国に分か
 ってもらうように・・日本はすべきだ。
  また、日本の青少年にもしっかり事実を教える・・近
 現代史を教えなかったことも反省すべきだ。
  また、歴史問題を利用する「反日的日本人が存在する」
 ことも問題だ・・日本を貶める行為をしている人間が居
 る。
  その様なことをしているのがNHKやNHK職員・・
  そして、朝日新聞や東京大学の教授・・京大・一橋大
 の教授たちの行動・・
  大学入試問題の答えに「日本が侵略した」と書かない
 と正解にならないという問題がある・・
  予備校も、この様に教えざるを得ない状態にある。
  https://www.youtube.com/watch?v=MAdfFKqVp_I&list=PLwHocn02O9IZAcGWND9SjCqwmuk5tLBnV
  「反日教育の実態」出演者・・
  司会:上念司(経済評論家)
  西川史子(医師・タレント)
  武田邦彦(中部大学教授)
  藤井厳喜(国際問題アナリスト・評論家)
  須田慎一郎(経済ジャーナリスト)
  井上和彦(軍事ジャーナリスト)
  加藤達也(産経新聞社会部編集委員 元ソウル支局長)
  村上政俊(元衆議院議員・元外交官)
  吉木りさ(タレント)
  鈴原ゆりあ(タレント)
  大高未貴(ジャーナリスト)
  眞鍋由佳(主婦)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
コメント

(増補版)643E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年4月)

2019-05-05 02:43:09 | 日記
題:(増補版)643E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月、山川健次郎、水野敏之丞らが、X線によるレン
 トゲン撮影に成功した。
  X線発見の第一報が日本に到達したのは、1896年2月20
 日前後、長岡半太郎博士(1865年~1950年)であろうと
 いう。
  X線の利用が行われたのは、「物理学界では、ドイツ
 に留学中の長岡半太郎博士からの報を受けて・・
  一方では、東京大学理科の山川健次郎教授、鶴田賢次
 助教授、水木友次郎助手(技師)が・・
  他方では、第一高等学校・水野敏之丞教授、山口鋭之
 助教授がおのおの個々に実験にとりかかり、共に成功し、
 少し遅れて京都でも第三高等学校・村岡範為馳教授、及
 び、島津源蔵が島津源吉、島津常三郎、粕谷宗資と共に
 実験に成功している。
  「医学界では、済生学舎の外科・丸茂文良学士は、東
 京大学スクリーバ教授の勧めにより鹿島清兵衛の援助を
 得て、医学者として初めてレントゲン線発生実験に成功
 し、細菌に対する影響についても研究している。
  これについて、5月31日、済生学舎校友会行った講演と
 実験供覧の記事「レントゲン氏の所謂X光線のデモンス
 トラチオン」が済生学舎医事新報42号508頁、6月15日に
 載っている。
  翌年の1897年になると、4月には、東京帝国大学医学部
 解剖学教室にX線装置が設置され、
  9月には、島津製作所が教育用X線装置を製作して、巡
 回展示し、
  10月には、小西六社がX線発生装置を輸入して、実験
 を開始し、この装置は、翌年、兵庫県立病院に貸し出さ
 れて診療に利用されている。
  1898年になると、X線の医学利用も次第に本格化し、
 東京帝国大学医学部外科学教室に設置されたX線装置で
 スクリーバが、3月17日の東京医学会例会において人体透
 視を供覧した。
  12月には、芳賀栄次郎が、自分の留学費用でドイツで
 購入したシーメンス社製X線装置を東京軍医学校に設置し
 ている。  
  特筆すべきは、日露戦争が始まった1904年6月には、芳
 賀栄次郎が、陸軍にX線装置を携行させて、第四野戦病
 院に設置し、戦傷治療に使用した。
.
1896年4月1日、青梅鉄道、甲武鉄道会社に営業を委託(建設
 は当初から委託した)
.
1896年4月1日、広島大本営が解散した。
  日清戦争の大本営が戦後処理を終えて、詔勅によって
 解散した。
  1894年8月8日、広島城内にあった第五師団司令部の建
 物が、明治天皇陛下の広島の御滞在所とされていた。
  陛下は、1894年9月15日から1895年4月27日までの7か月
 間、この地に御滞在された。
.
1896年4月3日、イタリアのスポーツ新聞「ガゼッタ・デロ・
 スポルト」が創刊された。
  スポーツ報道以外にも、1909年から開催されている自
 転車ロードレース、ジロ・デ・イタリアを主催している。
.
1896年4月6日、第1回夏季オリンピックがアテネで開催され
 た(~1986年4月15日)
  第1回国際オリンピック大会
  近代オリンピック競技大会の第1回大会が、フランス
 のピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、ギ
 リシャのアテネで開催された。
  開会式は、アテネのパンアテナイ競技場に5万人の観
 衆を集めて行なわれ・・参加国は欧米先進国の14か国だ
 った。
  選手は、男子のみで280人で、古代オリンピックと同じ
 ように女子禁制の大会だった(参加人数241人説あり)
  実施競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェン
 シング、射撃、自転車、テニスの8競技43種。
  ヨットも予定されたが悪天候のため中止になった。
  ウエイトリフティングは、体操の一種目として実施さ
 れた。
  観衆に人気の陸上競技は、アメリカが圧倒的な強さを
 発揮し、全11種目のうち9種目において優勝した。
  ギリシャの財政事情によって金メダルは無く、優勝者
 には銀メダルが、第2位には銅メダルが、第3位には賞状
 が授与された。
  記録は、100メートル陸上競技男子は12秒0で、アメリ
 カのトーマス・バークが優勝した。
  金メダル獲得数、アメリカ(11)、ギリシャ(10)、
 ドイツ(6)、フランス(5)、イギリス(2)、ハンガリ
 ー(2)、オーストリア(2)、オーストラリア(2)、デ
 ンマーク(1)、スイス(1)、混合チーム(1)
  オリンピック賛歌は、この第一回アテネオリンピック
 で演奏されたもの・・スピロ・サマラス作曲、コスティ
 ス・パラマス作詞
.
1896年4月8日、河川法が公布された(底水工事より高水工
 事への転換した)
  日本で最初の河川法である。
  この法律は、河川管理者を原則として都道府県として
 いて、必要に応じて国が工事を実施する体勢を定めた。
  当時、相次いで起こっていた水害の防止に重点をおい
 たもので、以後日本の大河川の改修は、この河川法の下
 で実施された。
  当時、森林法・砂防法と合わせ『治水三法』と呼ばれ
 た。
  この旧河川法における河川管理の特色は、河川を「河
 川法適用区間」と「河川法準用区間」に分け・・
  適用区間については、内務省(戦後は建設省)によっ
 て直轄管理を行い、
  準用区間については、各都道府県知事が管理を行うと
 いうものであった。
  制定当時は、治水にのみ重点をおいた法整備であった
 ため、利水に関する想定はされていなかった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:米中の対立が始まったが、これは、「中国の態勢が
    崩れる」まで、アメリカは行なう・・
    そして、ドイツ国民の半数以上が、難民に対して
   「否定的な感情を持っている」と、アンケートの調査結果で
    明確となった。
.
紀元前5世紀、「古代ギリシャ人が到達した世界観」を書き
 残したのが「歴史の祖」と言われるヘロドトスだった。
  ヘロドトス(紀元前484年~紀元前425年)は、彼の著
 「歴史」の第4巻に書いた・・
  世界は、「オーケアノス」によって取り囲まれ、「ア
 シエー(アジア)」「エウローペ―(ヨーロッパ)」「
 リビュエー(リビア)」の三大陸からなっている・・と
 書いた。
  この三大陸を分かつのは、「タナイス(どん)川」「
 ネイロス(ナイル)側」「地中海」だと言い・・、
  ナイル川右岸にある「エジプト」はアジアだ・・と・・
  また、アジアの東の果てにあるのは「インド」で、そ
 のインドから東の地は、すでに「無人の境」で、その状
 況を語り得る者は一人も居ない・・と・・
.
紀元前202年、中国の楚(そ)の項羽(こうう)は、劉邦
 (りゅうほう)の率いる漢軍に囲まれ、四面から流れる
 楚の歌を聞いた。
  もはや、楚軍は降伏してしまったものと勘違いをし、
 絶望した。
  名高い「四面楚歌」の故事にまつわる紀元前202年の出
 来事だった。
     ・
     ・
5世紀、イギリスの初め・・
  この頃、ゲルマン部族の一系統のアングロサクソン族
 がブリテン島に移住した。
  そのゲルマン系諸部族は、「七王国」と言われる様に、
 7つに分かれて・・数百年間にも渡って戦ってばかりい
 た。
  しかし、不思議にも、この七王国は「言語ではまとま
 っていた」。
  ここから、後に、英語となる祖型が生まれて行った。
  後の時代、統合された国が形づくられる前、英語とい
 う統合言語が生まれていた。  
  9世紀になる頃、海から、バイキングにブリテン島は
 攻撃された。
  バイキングは、北欧を拠点とした海賊で、「ノルマン
 人」あるいは「デーン人」と呼ばれる、ヨーロッパ各地
 を荒らしまわる者たちだった。
  871年、イングランドの南西部のウェセックス国で、ア
 ルフレッドという名の者が王位に就いた。
  即位の当初、この王国は、このバイキングに追い詰め
 られていた。
  アルフレッドは、その気性の様に「野生の猪」と言わ
 れ猛進し逆襲した。
  バイキング達も侵攻を再開するという状態で、アルフ
 レッドを窮地に陥れた。
  アルフレッドは、追い詰められ、忠実な家臣団だけと
 共に小島に逃れ、潜(ひそ)んだ。
  深い森で、敵も近づき難かったが、味方も動きにくか
 った。
  アルフレッドは、農家に匿(かくま)われた。
  アルフレッドの素性を知らない農婦に、アルフレッド
 は、番をする様に命じられた「ケーキを焦がし」、彼女
 にこっぴどく叱られた。
  そのうち、アルフレッドの支持者が、だんだん数を増
 し、数年後、デーン人に対して決定的勝利をおさめた。
  もはや、デーン人は、イングランドの北東部の一地方
 に留まるしかなく、アルフレッドの勢力は、ロンドンを
 含む南部を手中に収(おさ)めた。
  北方からの渡来者のノルマン人は、対岸のフランス北
 岸に行かざるを得なくなり、今日、この地をノルマンデ
 ィーと呼ぶ。
  アルフレッドは、「大王」を付けて「アルフレッド大
 王」と呼ばれる。
  アルフレッドは、法典や年代記の編纂(へんさん)に
 努力した。
  1066年、「ノルマン人の征服」はイギリス史の大事件
 となっている。
  849年に、アルフレッドは生まれ・・、
  853年の4歳の時、教皇のレオ4世に謁見。
  855年の6歳の時、父とローマを再訪し、帰途、西フラ
 ンク王国の王女ユーディスと再婚した。
  871年(22歳)兄たちが次々に死に、兄の後を継いで即
 位した。
  875年(26歳)ウェセックス勢が初めて海戦で勝利を収
 めた。
  878年(29歳)伝説的に語られる天然の要害で助けられ
 た・・この時は、デーン人に急襲されていた。
  886年(37歳)ロンドンを奪回した。
  899年10月26日、死去・・死ぬまでデーン人の侵攻に苦
 しめられた。
  デーン人は、イングランド東部に定着していて、常に
 攻撃を仕掛けていた。
  兄の死も、871年のアッシュダウンの戦いというデーン
 人との戦いのときの傷が悪化して死んでいる。
  イギリス人の「史上初の王」。
  (参考)デーン人:北ゲルマン人の一支族。
      初め、スウェーデン南西部スコーネに居住し
     ていたが・・、
      今日のデンマークの諸地方に進出 (デンマー
     クの語は「デーン人の国」の意)
      ゲルマンの民族移動後も故郷にとどまり、ス
     コーネのスキョル朝は、古英語詩『ベーオウル
     フ』にもスキョルディンガスとして知られてい
     る。
      フランク王国のカルル1世 (大帝) がザクセン
     を征服して、デーン人と直接接触し、ユトラン
     ト(ユラン) のデーン王ゴッドフレッドは積極的
     にこれに対応、シュレースウィヒ南方に長大な
     土塁を築く一方、艦隊を率いてフリースランド
     海岸を襲撃した (810年)
      830年代からは、東西フランク王国およびイン
     グランドに侵入・・、
      ハンブルク、パリ、ロンドンなどの重要都市
     を攻撃し、占領した。
      彼らは、ノルウェー系バイキングに比し組織
     的で、全ヨーロッパを恐怖に陥れた。
      イングランド全島を征服する試みは、ウェセ
     ックスのアルフレッド大王にはばまれたが・・、
      9世紀後半、中部イングランドには、デーン人
     の自治のもとに彼らの法が行われるデーンロー
     地域が形成された。
      北フランスにおいても、彼らの首領ロロは、
     西フランク国王から彼らの実力で支配した土地
     を正式に封土として受け、これがノルマンディ
     ーとなった (911年) 。
      10世紀末より、再び、デーン人は、イングラ
     ンドに繰返し侵入して、略奪し、貢納 (デーン
     ゲルト) を要求した。
      1013年、イングランド王となったデーン人の
     スウェイン1世は、翌年没したが、その子カヌー
     ト(大王) とその子孫は、イングランドにデーン
     朝を開いた (1018年~1042年)
.
1016年、デンマーク王子クヌットは、ついにイングランド
 を征服して王となり、デーン朝を開いた。
  彼はまもなくデンマーク王となり、ノルウェー王をも
 兼ね、スウェーデンの一部をも支配する北海帝国を建設
 した。
  この頃が、デーン人の活動の最盛期。
.
1658年、マルティノ・マルティニが「中国古代史」を出版
 した・・すると、ヨーロッパのキリスト教社会に大きな
 論争が巻き起こった。
  この本は、「ヨーロッパで初めて出版された、最も信
 頼に足る中国史」と評された。
  今・現代は、キリスト教の聖書に記述される「アダム
 とイブの創造」や、「ノアの大洪水」など・・キリスト
 教徒でさえ、それは作りあげられた仮想の歴史だと知っ
 ているが・・
  17世紀の頃、キリスト教のイエズス会キリスト教宣教
 師たちが、東洋にやって来て・・、
  中国に入り、中国の歴史の事実を知ると・・大問題が
 持ち上がった。
  ヨーロッパへ・・中国に関する様々な情報をヨーロッ
 パへもたらすと・・その歴史に、驚異的事実が書かれて
 いる事にキリスト教徒たちは驚いた。
  ヨーロッパでは・・矛盾の多いキリスト教の出来事に
 種々の歴史的主張が行われ、歴史が経過して来ていたが・・、
  それでも、なんだかんだと辻褄(つじつま)を合わせ
 ようとする年月が過ぎていたが・・
  17世紀に至って・・中国の歴史を知ると、キリスト教
 の歴史や、年代史との矛盾が生じた。
  それも、中国の歴史を知れば知るほど、中国の歴史の
 方が正しいと分かって来た。
  今まで、キリスト教の歴史研究者たちには、まともな
 中国史は登場していなかった。
  メランヒトンの普遍史(キリスト教の聖書が叙述する
 内容に基づくキリスト教的史観から構成された世界史)
 にも、中国史は登場していなかった。
  (参考)メランヒトン:ドイツの神学者、宗教改革者、
     大学のギリシア語教授、ルターに次ぐ指導者、
     1497年~1560年、
  マルティノ・マルティ二(1614年~1661年)の「中国
 古代史」が、問題発生のきっかけだった。
  マルティ二も、自(みずか)らも、中国で宣教活動を
 しながら、中国の史書などを読み、本書を記した。
  彼は、三皇五帝から夏・殷、そして、周、さらに、彼
 のいる清朝の今まで続く諸王朝は、疑いの無い事実とし
 て分かって来ていて・・「事実だ」と認めるに至った。
  となると、キリスト教の話の歴史の根拠が崩れること
 になる。
  (参考)夏:殷(いん)以前にあった中国最古の王朝。
      始祖は禹(う)。
      紀元前15世紀ごろの桀(けつ)王が暴政を行っ
     たため、殷の湯(とう)王に滅ぼされた。
  (参考)殷:いん、中国史上、実在の明らかな最古の
     王朝。
      紀元前17世紀末、もしくは、紀元前16世紀初
     め~紀元前11世紀、今の河南省を中心に黄河下
     流域に威を振るった。
      開祖は湯王。
      自らは首都の名である〈商〉を国号として用
     い、しばしば都を移した。
      最後の都(王朝の後半期)が殷墟である。
      紀元前1050年ごろ、紂(ちゅう)王の時、周の
     武王に滅ぼされた。
  中国の三皇五帝の最初の帝王の伏羲(ふくぎ)は、イ
 エスよりはるか以前の年代に統治を始めたことになる。
  また、ヘブライ語聖書の「ノアの大洪水」より600年以
 上も古くなる。
  ノアの大洪水で人類は絶滅して、ノア等の人類が再出
 発したという話もおかしくなる。
  ヨーロッパは、「矛盾という話」どころか、中国の歴
 史書類が「間違っていると論証できない」なら・・、
  「キリスト教聖書の記述や年代の方が、間違っている
 ことになる」と気付いた。
  当然、マルティにも気付いていた。
  しかし、マルティニは、中国の歴史書の記述を否定す
 ることが出来なくなっていた。
  また、マルティニだけではなく、ヨーロッパの歴史学
 者たちも、「アダムとイブの創造」や「ノアの大洪水」
 などのキリスト教聖書の記述を歴史的事実として信じて
 いたが・・高度な水準を有している中国の歴史書を、そ
 の記述を・・否定することが「出来なかった」。
  否定的根拠を提示することが・・出来なかった。
  中国の文明は、それなりに重大な事実の歴史の積み重
 ねの「事実の上」にあった。
  これは、キリスト教の「根も葉もない話」を、明確に
 指摘する数多くのエピソードの一つである。
  キリスト教カトリックも、また、キリスト教プロテス
 タントも、このキリスト教の根拠を崩される大問題に、
 対立しあいながらも、キリスト教の根拠を守ろうとして
 努力をした・・が・・
  その両派の一致した見解をまとめる事もできず、また、
 その根拠も見い出す事も出来なかった。
  世は大航海時代。
  18世紀にかけて、色々な研究が行なわれるが、次々と
 新しい説が唱えられるが、相互の批判や論争が叫ばれる
 だけで、さらに混乱は増した。
  「キリスト教の存立の根拠の危機」が深まるばかりだ
 った。
  それに、大航海時代・・新たな諸民族の歴史などの新
 事実は、キリスト教の考える枠内に入れられるものでは
 なかった。
  悲しいかな科学的根拠を欠いたキリスト教が、「その
 根拠を崩される時代」だった。
  思えばキリスト教の天動説を崩されたガリレオの地動
 説の科学の進歩から、このキリスト教の悲劇は始まって
 いた。
  所詮(しょせん)、最初からその様な宗教だった。
  キリスト教の学者たちが、どのように論争を重ねたか
 の歴史を書いてみたって時間の無駄になるだけなので省
 く。
  人間観も、「神の似姿観」におさまることへの不合理
 さを「つくづく感じる時代」となって行く・・
  この転換を理解が出来ずに、取り残される人は居るが・・
  天地創造第六日に神の姿をかたどって創造され、支配
 者として「特別な地位を与えられた」・・その様な傲慢
 な考え方から、色々な問題発生の根源ともなって来た・・
  森林伐採などに始まる地球の環境破壊の「やり放題の
 人間さま」が生まれた・・など・・
  「地を従えよ」のキリスト教教義は、温暖化で悩む今・
 現代の「自然破壊の原因の考え方」のキリスト教教義だ・・
  謙虚に自然を見る目も育たない。
  人間のバランスある理性も損なわれる・・
  自然の中の一員、小さな分かち合いしかない人間を気
 付かせない・・
  傲慢にふるまう権利など、人間は、誰からももらって
 いない・・
.
1872年6月12日、日本で、「初めての鉄道」が創業した。
  新橋~横浜の鉄道開始と言われる、品川駅~横浜駅(
 現:桜木町駅)間で仮開業がなされ、1日2往復の列車運
 行が行われた。
  翌日の1872年6月13日には、6往復となった。
  経営は国営で、路線は旧東海道に沿って敷かれ、単線
 だった。
  途中に、品川、川崎、鶴見、神奈川の4つの駅(停車場・
 ていしゃば)が置かれた。
  鶴見以外は江戸時代の宿場で・・、
  鶴見は、武蔵国橘樹(たちばな)郡の東海道沿いにあ
 った村落で、宿場ではなかった。
  ただ、付近を流れる鶴見川は水運に利用されていた。
  線路は、1881年の9年後に複線となった。
  そして、やがて、終点の横浜から関西の神戸まで延伸
 され、東海道本線となり、日本を支える大動脈となった。
.
1873年1月10日、徴兵令が布告された。
  明治維新・・新政府は、この様な布告が出来る所まで
 力を付けた。
  明治維新の1867年、新政府が出来て・・新政府は、当
 然、中央の政府が統治する形の確実な確立を、当然なが
 ら目指した。
  しかし、各地に独自の軍事力を有する諸藩(旧大名)
 が存在した。
  新政府は、独自の直轄の軍事力を整備すると共に、反
 体制を解体したいとした。
  しかし、諸藩の抵抗と財政難によって簡単には実現し
 そうになかった。
  1871年2月、新政府は、西郷隆盛の協力を得て、薩摩藩・
 長州藩・土佐藩の兵力から政府直轄の軍隊である御親兵
 (後の近衛兵)を編成した。
  そして、その力を背景に、1871年7月、廃藩置県を断行
 した。
  さらに、地方の秩序を維持するため、全国の要所に鎮
 台・分営を配置した。
  そして、ここに、旧藩の兵力を集めて行った。
  そして、1873年1月10日、徴兵令が布告されるに至った。
.
1913年12月23日、アメリカで、民間の中央銀行が出来ると
 いうハレンチな重大法案の「連邦準備法」が成立した。
  クリスマス休暇で、議員が選挙区に帰り、不在中、ほ
 とんど審議されないという状態で可決した。
  「世界を手玉にとる」。
  その為に、際限なく人を大量に殺す力を得ようとする。
  一方、金融で、世界を牛耳ろうとする者たちも居る。
  自分だけに都合よく世界が回るようにと、その様なこ
 とをする。
  中国が、何年間も10%台の伸びの軍拡を続けて、その
 伸び率は20%にも届こうかという異常さもある。
  そして、軍事力でアメリカを抜こうという状況である。
  この国の怖さは、「一握りの者たちによる独裁」とい
 う政治体制である。
  会議と言ったって、『ナチスのハイルヒトラー』を彷
 彿とさせる「反対の出来ない・・全員が賛成を唱和する
 議決をする状況」。
  厳しい討論の場面などない。
  一党独裁で、野党が居ない状態。
  また、民の選挙による「民の選択」も排除されている。
  また、金融でも、世界を牛耳ろうとする者たちが、世
 界中の金持ちが、『ある国の金融状況を操作する』。
  目的は、「座して、金が自然に転がり込んで来る」で
 ある。
  リンカーンの暗殺による死後、法定通貨を駆逐し、そ
 して、二度におよぶ恐慌を起こさせて、世界的な金融資
 本家たちは支配力を強めて行った。
  その目的は、金が儲かるアメリカの「通貨発行権」を
 握る事だった。
  この試みは3回目だった。
  その為の秘密会議が、アメリカのジョージア州の小島・
 ジキル島で開かれた。
  詳しくは、ユースタス・マリンズ著「民間が所有する
 中央銀行」にあるが・・
  アメリカは、この主権を失った。
  この会議のメンバーは・・、
  ①ネルソン・オルドリッチ、上院議員(娘婿はジョン・
   D・ロックフェラー・ジュニア)
  ②フランク・バンダーリップ、銀行頭取(ロックフェ
   ラーの銀行)
  ③ヘンリー・ダビットソン(モルガン商会経営者)
  ④チャールズ・ノートン、銀行頭取(モルガンの管理
   下)
  ⑤ベンジャミン・ストロング、副頭取(モルガンの管
   理下)
  ⑥ポール・ウォーターバーグ、商会の経営者(ドイツ
   系ユダヤ人)
  ⑦ピアット・アンドリュー、財務省次官補・・
  以上の様にアメリカの二大財閥(J・P・モルガンと
 ロックフェッラー)関係ばかり。
  そして、その影の背後に居て影響力を行使したのが・・
 イギリスのロスチャイルド家・・
  ロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーによって
 アメリカの中央銀行の民間銀行の形による設立が画策さ
 れた。
  そして、出来たのがフェデラル・リザーブ・システム
 (FRS=連邦準備制度)
  これは、真の目的が見えにくくしたためだった。
  参加者は、中央銀行を想像させる名前を回避すること
 で一致した。
  目的は、アメリカ議会から通貨の米ドルの発行権限を
 奪う事だった。
  この法案は、1913年12月23日、クリスマス休暇で議員
 が選挙区に帰り、不在中、ほとんど審議がなされない中
 で可決した。
  連邦準備法は、その様な状況で成立した。
  この様な「どさくさ」で民間の中央銀行が出来る事と
 なった。
  日本でも、最近(2019年)、この様な似た状態で、ほ
 とんど審議もしないで『移民法』が可決した。
.
1936年12月12日、西安(せいあん)事件が起きる。
  西安は古都の長安である。
  蒋介石が変身した。
  この変身から日中戦争、そして、第二次世界大戦に至
 る経緯が始まった。
  アメリカが、この蒋介石に陰で関わっているが、戦後
 になって、新事実が公開されて、コミンテルンの謀略も
 あったことが明らかになった。
  1936年に起きた「西安事件」は、怪しげな動きを始め
 た中国が原因で起きた事件だった。
  蒋介石が騙(だま)され、誘拐され、そして、監禁さ
 れてしまった。
  やったのは張学良だった。
  (参考)張学良:ちょうがくりょう、中国、東北の軍
     閥。
      1928年、中国町北部の実権を掌握し、蒋介石
     の国民政府と提携した。
      1928年12月29日、中国東北全土で青天白日旗
     (中華民国国民党の党旗)を掲揚した。
      1931年の満州事変以後、国府の対日方針に従
     って無抵抗主義を取り、東北を日本軍にゆだね
     た。
      共産党軍の長征に際して西北剿匪副司令に任
     命されたが、秘かに共産党軍と停戦を結び・・
      (剿匪(ぴんいん)の意味は、匪賊を討伐す
     る、共産党を討伐する)
      1936年12月、共産党軍の討伐を督励するため
     に西安に到着した蒋介石を捕らえるという西安
     事件を起こした。
  そして、蒋介石は、共産党勢力と共闘するように求め
 られた。
  共産党を倒したいと戦っていた蒋介石だが・・しかし、
 ここで、蒋介石は、共産党勢力と共闘するという180度の
 転換をした。
  ソ連との密約があったという。
  共産党を取り締まる役(剿匪)に付いた張学良が、蒋
 介石を捕らえるのも怪しかった・・
  そして、盧溝橋事件が起きる。
  1937年7月7日夜、盧溝橋で、突然、日本の駐屯軍へ中
 国軍が発砲した。
  この日本の駐屯は、中国政府と北京議定書の協定で駐
 屯を行なっている事で、他の国も同様に駐屯していた。
  しかし、この様な状況の中で、中国は、日本に発砲し
 た。
  戦後、情報が公開されて、中国兵の発砲で、蒋介石の
 国民党軍と日本が戦うように仕組んだコミンテルンの策
 謀だとはっきりした・・
  コミンテルンは罠に嵌(は)めようとしていた。
  この翌日の1937年7月8日には、事態を重視した日本は
 森田中佐を派遣し、宛平県長・王冷斉、及び、冀察外交
 委員会専員・林耕雨等も中佐に同行した。
  そして、これに先立って豊台部隊長が、直ちに蘆溝橋
 の中国兵に対しその不法を難詰した。
  また、同所の中国兵の撤退を要求した。
  しかし、それらの交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付
 近、及び、永定河西側の長辛店付近の高地から日本軍に
 対して、迫撃砲、及び、小銃射撃によって攻撃がなされ
 た。
  日本軍も止むを得ず自衛の応戦をし、龍王廟を占拠し、
 蘆溝橋の中国軍に対して武装解除を要求した。
  午前9時半、中国側の停戦要求によって両軍は停戦状態
 に入った。
  日本側は中国の行動を監視した。
  この後、戒厳令が施行され、比較的平穏に経過した。
  中国側は、1937年7月9日の午前5時を期して部隊を撤退
 することを約束した・・
  しかし、午前6時になっても盧溝橋付近の中国軍は、撤
 退しないばかりか、逆に、兵力は増加して行った。
  そして、日本軍に対して度々銃撃を行なった・・
  日本軍は止むを得ずこれに応戦し、中国軍の銃撃を止
 めさせた。
  日本軍は中国軍に協定不履行に対して厳重抗議を行な
 った。
  中国側は、9日午前7時、旅長及び参謀を盧溝橋に派遣
 して、中国軍の撤退を督促させた・・
  中国軍は、午後0時10分、ほぼ撤退を完了した・・
  しかし、一方で、川の西岸に兵力を増加し、弾薬など
 の軍備品を補充するなど、戦備を整える状況であった。
  この様な中国側のはっきりしない状況が続き、10日も
 日本軍監視部隊に射撃を加えるなどをした。
  そして、ついに、中国軍が協定を無視した。
  中国軍は龍王廟を占拠した・・
  そして、引き続き盧溝橋の日本軍を攻撃した。
  ここで戦闘が開始された・・日本軍は午後9時頃、龍王
 廟をとり返した・・
  11日早朝、龍王廟を日本軍は退去した。
  しかし、中国軍は、兵力を増加させて行った。
  この様な状況の中、日本軍駐屯軍参謀長は、北平に於
 いて、中国側首脳部と折衝に努めた。
  中国側の態度は強硬であった・・
  打開の道が無く、交渉も決裂するのもやむを得ない状
 況に陥った。
  しかし、日本側の強固な決意を見て、中国側は急遽、
 態度を変えて、午後8時、松井特務機関長に対し、日本側
 の提案を受け入れた。
  そして、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って
 署名の上、日本側と手交した。
  1937年7月11日、停戦は成立した。
  協定内容は、中国側は、協定違反などの責任者を処分
 する・・
  また、将来、再び、この様な事件の惹起をすることが
 無きよう防止につとめること・・
  また、蘆溝橋、及び、龍王廟から兵力を撤去し、保安
 隊を以って治安維持に充てること・・
  及び、抗日の各種団体の取締を行う・・など
  しかし・・この後、この年の1937年12月になって・・、
 上海の日本人の生活している居留民地区(他の国々の人
 たちも居る地区)の日本人地区に、大部隊の中国の国民
 党軍が攻めて来る。
  日本兵は3000人くらいであったが、アメリカなどが支
 援するその数が10倍以上の大部隊で攻撃して来た。
  日本は、戦わざるを得ない状況に置かれて行った。
  この時、日本の兵力はわずかだった・・日本からの支
 援部隊を送らざるを得なくなった。
  支那事変(日中戦争)が起こされて行った。
.
2019年4月1日、アメリカは、中国の態勢が崩れるところま
 でやる!・・今・現在のトランプ政権の姿勢・・
  『ニュース女子』 #207(平成を振り返る~経済・社会・
 政治・国際情勢~) ・・以下は、その聞き取り記述・・
  https://www.youtube.com/watch?v=_YA9HIqvWCo
・平成元年(1989年)12月、日経平均株価、最高値3万8,957
 円を記録した。
  第26代、日銀総裁の三重野康氏が、バブル経済の抑制
 を目的とした「金融引き締め策」を実施した。
  これはかえって景気が悪くした。
  平成2年(1990年)バブルは崩壊した。
  その結果、「失われた20年」がやって来る・・不況が
 続く時代へと突入した。
  平成9年(1997年)四大証券の一角の山一證券が経営破
 綻し、つぶれた。
  「山一證券」の最後の社長の野澤正平氏が、「私ら(
 経営陣)が悪いのであって、社員は悪くありませんから!」
 と、涙で記者会見をした。
  号泣状態の会見がメディアで大々的に報じられた。
  平成9年(1997年)タイのバーツが暴落し、アジアが通
 貨危機に陥(おちい)った。
  日本の金融業界はいずれも業績が悪化し、銀行は生き
 残りをかけて合併に次ぐ合併の再編が行われた。
  平成13年、さくら銀行+住友銀行=三井住友銀行
  平成14年、第一勧業銀行+富士銀行+日本興業銀行=
 みずほ銀行
  平成18年、東京三菱銀行+UFJ銀行=三菱東京UF
 J銀行
  急速に拡大したのがITベンチャー企業・・ライブド
 ア、楽天、ヤフー、サイバーエージェント
  六本木ヒルズに拠点を持った。
  セレブな生活を送る・・「ヒルズ族」と言われた・・
  ライブドア元社長の堀江貴文氏は・・
  平成16年(2004年)プロ野球球団買収、平成17年(2005
 年)ニッポン放送買収を仕掛けて世間を騒がせたが、ど
 れもうまく行かなかった。
  平成18年(2006年)堀江社長は逮捕された・・証券取
 引法違反容疑だった・・ライブドアの株価は暴落(ライ
 ブドア・ショック)ITバブルの陰り・・ライブドア株
 価がたったの94円となる。
  平成20年(2008年)平成最大の金融危機・・リーマン・
 ショック・・アメリカの罪・・アメリカのサブプラムロ
 ーン問題が発端・・国際的な金融危機・・世界中、また、
 日本にも大打撃を与え、株価が大暴落した・・
  そして、歴史的な円高となる・・企業業績はみるみる
 悪化し・・その後遺症は残ったままとなる・・何時、良
 くなるのかの見通しが立たない状態・・
・平成は災害の時代・・未曾有の大災害が日本に襲来した・・
  平成7年(1995年)1月7日、阪神・淡路大震災(マグニ
 チュード7.3)兵庫県南部・・国内観測史上初の最大震度
 7を記録した・・商業ビルや高速道路が倒壊した・・死者
 6,434人(関連死を含む)、住宅被害は約64万棟(消防庁
 確定)・・
  平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災(マグニチ
 ュード9.0)東北地方・・マグニチュード9.0は国内観測
 史上最大・・死者1万5,897人(警察庁発表、2019年3月1
 日時点)、行方不明者2,533人・・福島第一原発、水素爆
 発・メルトダウンなど重大事故が発生した・・
  平成7年(1995年)地下鉄サリン事件・・オウム真理教
 が起こす・・世界で初めて化学兵器が一般人に使用され
 た無差別テロだった・・死者13人、負傷者6,300人以上・・
 平成30年(2018年)死刑囚13人の死刑が執行された(オ
 ウム真理教元代表・松本智津夫元死刑囚ら)・・
・事故・・
  平成17年(2005年)JR福知山線脱線事故・・JR福
 知山線の塚口駅~尼崎駅間で発生・・死者107人(運転士
 1人含む)、負傷者562人・・史上最悪事故・・
・凶悪事件・・
  平成9年、神戸連続児童殺傷事件、さかきばらせいとと
 名のった。
  平成10年、和歌山毒物カレー事件
  平成12年、世田谷一家殺害事件
  平成13年、附属池田小事件
  平成20年、秋葉原無差別殺傷事件
  平成28年、相模原障碍者施設殺傷事件・・最大の殺傷
 事件
・雲仙普賢岳(長崎県)の噴火・・平成2年(1990年)11月、
 198年ぶりに噴火。
  翌年、再噴火後、最大の火砕流が発生し、43人の使者・
 行方不明者を出した。被害者の多くが報道陣や消防団関
 係者だった。
・平成の経済史・・
  リーマン・ショック、
  ライブドア事件、
  銀行破綻、
  消費税導入、
  バブル崩壊・・日銀と大蔵省が導いた。
  1991年1月、皆がこのバブルは終わらないと考えていた
 が、不動産価格が下落し、株価が下落し、生活も一変し
 た。
  これが、今だに尾を引いている。
  失われた20年、30年と言われる・・
  今に残るこの出来事の要因は2つ・・日銀の金融引き
 締め(利上げ)と、大蔵省の総量規制、産業規制(不動
 産、建設、ノンバンクへ融資をするなとした)・・ピー
 クを過ぎた頃にやって、かつ、やり過ぎた・・大崩壊へ・・
  株価は違法な取引で高くなっていたのは事実、土地も
 そう・・それで、税法が修正された。
  また、インフレになってないのに、やってはいけない
 この様な時に、引き締めを日本銀行がやってしまった・・
 不動産規制はやっても良いが、金融引き締めは、日銀の
 大間違い。
  この大間違いを国内で言わないのが不思議・・
  世界では、国際社会では、皆が言っているのに??・・
  逆に、日本国内では、三重野日銀総裁はバブル退治に
 邁進して「平成の鬼平」とマスコミは「称賛するという
 始末」・・ていたらく・・
  平成元年から金融引き締め政策を実施した犯人・張本
 人は日銀・・日銀は馬鹿なことをしたのだった。
  物価が上がってない時にやったら駄目なのだ、絶対に
 駄目なのだ・・
  それでも、日銀は、「正しい正しい」と言っている・・
  この引き締めをズーット続けた日銀の罪も重い・・
  失われた30年は日銀が作った・・そして、大手銀行も
 破綻して潰れる状況・・日本長期信用銀行も潰れた(1952
 年、設備資金等長期資金の安定供給を目的として設立さ
 れた銀行)・・
  皆が、都市銀行が潰れるなどと想定してないことが起
 きてしまった・・
  預金を集めるのが業務だったのが、借り手を探す世の
 中になった・・バブルで企業に金が余っているので借り
 手が居ない・・だから、無理に金を貸してビルを建て替
 えさせた。
  「税金対策に良いですよ」と言って無理に借金を作ら
 せた・・しかし、バブルが崩壊して、不動産価格が暴落
 して、その借りた方たちは借金だけが残り、借金の山を
 築いた・・
  破綻した個人が多く出るという悲劇が生まれた・・千
 代田区、港区に、特に、多く出た・・銀行の口車に乗っ
 た人たちの悲劇が起きた・・
  北海道拓殖銀行も潰れた。
  官僚に「潰しに行け」という指示が出る時代だった・・
  平成9年、北海道拓殖銀行が経営破綻。
  平成10年、日本長期信用銀行が経営破綻。
  バブルの時は、大蔵省担当の者が居て、大っぴらに接
 待攻勢をかけていた・・ノーパンしゃぶしゃぶが大流行
 した。
  この様な大問題を生じさせた日本銀行は、その責任を
 とったのか??
  今だに、全然、その責任をとっていない。
  政策をミスするのは人間だからあるのだろうが、その
 責任をとらない日銀は大問題だ。
  1989年(平成元年)国際経済や政治ががらっと変わっ
 た年だった。
  冷戦も終わり、日本の戦後の居心地の良い温室が壊れ
 た。
  安全保障はアメリカ任せだったし・・軽武装で、経済
 成長と、経済だけを謳歌しているだけで良いとしていた。
  その甘い時代は終わった。
  大衆文化の代表の美空ひばりも死んだ。
  戦後の終わりを感じさせた。
  そして、日本に大変な時代がやって来た。
・平成の社会史・・東日本大震災や原発事故から思うこと
 は・・
  「大きな技術は、皆、嘘だった」ということが露見し
 た・・「地震の予知がまったくできない」ということが
 分かっているのに、東海地震に金をかけてやった。
  東海は山ほどやったのに・・阪神・淡路の大震災が起
 き、東北大震災が起きた。
  完全な技術のミスだ。
  津波の予知のブイは、ほとんど東海地方にしか置いて
 なかった。
  東北地方も予知されていたがブイは置かなかった。
  そのブイで、津波の大きさが分かっていれば、消防団
 の方々が海岸で退避勧告をする危険性も予知できたし、
 その他の方々へその大きな津波の規模の危険性を伝える
 ことが出来た・・のに・・
  その犠牲者は15,000人の方々だ。
  予知ができないのに、今でも発生確率を発表している。
  『科学で地震の予知はできない』。
  「無いよりまし」な程度と思うか? まったく無駄と
 思うか?・・の話。
  この30年に起きた地震は、発生確率が5万分の1などと
 非常に小さく低い地域に発生している。
  予知を出すから問題が起きるのだ。
  下手に予知をするから、「見落とされたところの被害
 が大きくなる」のだ。
  しかし、その場所で、どのくらいの大きさの地震が起
 きるのか?は分かる。
  エネルギーの蓄積度が分かっているからだ・・
  だから、自治体から出ているハザードマップは非常に
 正確だ。
  それを見て、家の対策をすれば安全が確保できる。
  この様な事の周知徹底がなされていないという現状が
 ある・・それで知って、対策を事前に立てよ!・・
・原発事故について・・
  二つの大きな嘘がつかれた・・
  チェルノブイリは爆発するけど、軽水炉の原発は爆発
 しない・・
  それは、事故制御性と多重防御の二つの柱で事故が発
 生しないようにしている・・しかし、これは嘘だった・・
  専門家会議でも嘘が通っていた・・これは、今でも嘘
 をついた状態となっている・・
  この様な専門家の嘘が存在することが問題・・
  嘘をつかない専門家となることが大切なことで基本だ・・
  間違ったなら正直に言うのが大切・・次のステップア
 ップに役に立つ展開に持って行くのが大切・・これがな
 されていない・・
  この点、東北新幹線は、東日本大震災の時に、28両が
 走っていたが事故を起こさなかった・・
  これは、それ以前の新潟の教訓が生きていて、耐震策
 を行なったからだった・・
  300キロ/時で走っていたのが27両も居たが、事故にな
 らずに対策が生きた・・技術は正直に積み重ねるのが大
 切な基本・・(面子で嘘をついて糊塗するな!)・・
  今、運転している原発の安全性は大丈夫か?・・
  (技術上の)本当のことを言ったら、総ての原発関係
 の仕事から外された・・
  「官僚に周りを固められて動きが取れない」という答
 えが返って来た・・
  その様に言う本人にも覚悟がない・・責任者が国民の
 命よりも自己保身に走った・・勲章が貰いたいという意
 識が垣間見られる・・だから、真実を絶対に言わない・・
 (「それでも地球は回っている」とキリスト教裁判所で
 言ったガリレオの如く・・技術は、誠実に実施し、行動
 してこそ生きるのだ)・・
・オウム真理教の事件について・・
  日本の憲法の現状から、「日本は無防備状態」で来て
 いる・・
  オウムの事件は、テロ事件であるが、本当は、国防事
 件である・・
  本当は、軍隊レベルで対処しなければならない・・
  長野県のサリンの事件も、地方の警察が対処するには
 荷が重すぎる・・
  日本で使われた初めてのサリン事件で、警察で対処で
 きるものではない・・
  日本の軍がしっかりしていれば、軍が出て行ってしっ
 かり調べ、対処しなければいけなかった問題だった・・
  しかし、曖昧にしてしまった・・
  日本はこの様な体制が出来ていないという『大問題』
 がある・・
  国軍の必要性はこの様な点からもある(必要な憲法の
 改正)・・
  これから、「国民の生命と財産」の安全のために、逃
 げて通れるものではない・・
  オウムは、ロシアともやろうとしていた・・ロシアか
 らヘリコプターを買い、オーストラリアのウランを手に
 入れようとし、核爆弾の開発もしようとしていた・・
  日本の公安調査庁も不十分だ・・機能不全に陥ってい
 る・・
  破壊活動防止法:暴力主義的破壊活動を行う団体に対
 する規制措置を定めるなど、公共の安全を確保する事を
 目的とする法律・・
  この法律がありながら、必要な行動ができなかった公
 安調査庁だった・・
  国際的な感覚から「ずれている日本」・・世界はこの
 問題が最大の問題と捉えているのに、のほほんとしてい
 る日本の当事者や日本の公的担当機関・・
  また、国会でこの法律の議論が『タブー』とされてい
 る・・
  前向きな改善に進まない「最大の病根」となっている・・
  議論もできなければ、『言ってはいけないのだ』と言
 われる日本の国会となっている・・
  まともな行動がとれない元凶が「ここにある」・・
  諜報機関も日本にはない・・
  ちゃんとした情報を持ち得ない現況の日本は、「お手
 上げ状況にある」・・
  逆に、国会議員たちは束(たば)になって「発言者の
 口を封じをしようとする」という「異常さ」・・
  これから移民が日本に押し寄せて来るが、そして、色々
 な人が入って来るという日本であるが・・「その対応が、
 まったくできてない」という状況を「さらけ出している」・・
  相手に「好き勝手が出来ますよ」と言っているような
 もの・・
  スパイ防止法や特定秘密保護法を作ったが、この法律
 もまったく「骨抜きになっている」・・
  諜報活動がやり放題の日本・・国家としての日本が、
 その国家としての対応が出来ないという状態にある・・
  オウムの事例が生きていない・・反省をしているのか?・・
・政治・国際情勢編・・
 日本国内・・
  平成5年(1993年)自民党、55年体制に終止符・・細川
 連立内閣が誕生した・・細川護煕総理大臣が誕生・・
  平成13年(2001年)小泉純一郎総理大臣、小泉内閣発
 足・・郵政民営化、聖域なき構造改革、
  平成14年(2002年)拉致問題解決のため、北朝鮮へ電
 撃訪問・・
  平成17年(2005年)社会保険庁、年金記録問題、ミス
 ター年金の活躍、悪夢の序章、
  平成21年(2009年)民主党が政権奪取、鳩山由紀夫総
 理大臣、鳩山内閣が誕生、円高に誘導して企業の競争力
 がなくなり経済は大混乱に陥った、次の菅政権も酷かっ
 た、
  平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災、菅政権の
 福島原発事故での酷い対応、菅内閣が大失態をする、失
 態続きだった、
  平成24年(2012年)第2次安倍内閣が誕生、アベノミク
 ス政策で経済が安定、
・国際情勢・・
  平成元年(1989年)ベルリンの壁が崩壊した、
  平成3年(1991年)ソビエト連邦が崩壊した、米ソ「冷
 戦」が終結した、
  平成5年(1993年)EU(欧州連合)が発足、通貨の統
 合、
  平成13年(2001年)9月11日、米国同時多発テロ事件、
  平成15年(2003年)イラク戦争の勃発、同時多発テロ
 事件の報復としてやった・・その後、国際テロ組織が乱
 立する、
  平成22年(2010年)尖閣諸島で中国漁船衝突事件
  平成24年(2012年)李明博韓国大統領が竹島へ上陸
・民主党政権は円高を放置して酷かった、企業の業績悪化
 で就職難になった、公約は何一つ守らなかった、消費税
 を上げた、政権交代で出来た民主党によって国民は悪夢
 を見た、
・郵政民営化・・平成17年成立、平成19年実施、
  小泉総理による行政改革の本丸で、郵政選挙に勝利し
 法案を成立させた。
  郵政三事業(郵便、簡易保険、郵便貯金)などを国か
 ら民間会社に移行した、
  民営化の1000頁の法案ができた・・「郵政民営化」以
 外は民営化ではない、水道の民営化も民営化ではない、
 地下鉄の民営化も民営化ではない、道路の民営化も民営
 化ではない、これ等のすべては「会社化」というもの・・
  株式も民間で、働く人も民間なら民営化で、これは郵
 政以外は無い・・
  株式は、国が持つものがほとんど、だから、民営化で
 はない・・東京の地下鉄も株式は国が持っている・・外
 資に郵政が盗られると言われたので、法律で盗られない
 様にした・・
  世襲制の郵便局員が「郵政民営化」に反対した・・郵
 便制度ができる時に協力し、資産を貸し、また、郵便業
 務に協力した人たちが世襲制となっている・・
  郵便事業は採算が合わない事業、だから、民営化は無
 理・・田舎の「人がほとんど居ない方たちへまで」郵便
 を届けなければならないという責任がある事業・・3割の
 年賀状で儲かるだけ、あとわずかなビジネス便だけ・・
 「郵政民営化」への執念が強かった小泉総理・・
・選挙制度・・実現しない二大政党制・・
  「選挙制度改革」は大失敗・・
  中選挙区制度から小選挙区制へ変わったのは改悪だっ
 た・・小選挙区比例代表並立制は駄目だ・・
  選挙制度改革:平成6年に公職選挙法が改正されて、衆
 議院の選挙制度が、中選挙区制から小選挙区比例代表並
 立制に変更された・・
  小選挙区制は、「執行部が絶対的な権力を持つ」制度・・
 公認の権利を持つ執行部・・
  小選挙区比例代表並立制は、有権者が1人2票を持ち、
 小選挙区と比例代表の2つの選挙を並行して行う。
  定数が465人で、小選挙区289人・比例代表176人・・
  1選挙区で1人が選ばれる一騎打ち方式なので、公認を
 受けないと絶対勝てないという選挙の状態になる・・そ
 のため、選挙に勝つには公認を貰うのが必須となる・・
  「その公認権を持つ執行部」に権力が生まれた・・
  執行部の言う事を聞かざるを得なくなる候補者となる・・
 議論などできない、自分の意見なんて言えなくなる・・
  自民党に派閥があるが、派閥のトップの力が落ちた・・
  派閥のトップで、総裁になろうとする人さえいない状
 態・・
  「議論が基本の政治」を駄目にした「選挙制度改革」・・
 自民党の活力も無くなった・・定数3の中選挙区制へ戻す
 べきだ・・
  二大政党制で、政権交代が出来る様にとして小選挙区
 制にしたが、その思惑は空振りだ・・
  国民の選択次第で代わるだけ・・
  金権腐敗政治の根絶を掲げた「選挙制度改革」でもあ
 った・・政党助成金を税金から出す様にした・・
  だからと言って、政党への企業献金を禁止してないと
 いうのが現状・・
・国際情勢について・・
  「1991年のソ連の崩壊」と「中国の興隆」・・
  1989年11月、ベルリンの壁崩壊だが・・、
  緊密な関係がある「ソ連の崩壊」と「中国の興隆」・・
  平成元年12月、マルタ会談:地中海のマルタで行われ
 た米国とソ連の両国の首脳会談。
  この会談をもって、44年間続いた東西冷戦は終結した・・
 ブッシュ大統領(父)とゴルバチョフが船上で会談した・・
  1990年8月、イラクのクエート侵攻・・
  1991年1月、湾岸戦争、中東への介入が泥沼化して行く・・
 この様な事が、30年間続いて・・
  2018年に、トランプ政権が、シリアからも、そして、
 アフガニスタンからも引くとした・・アメリカの30年の
 武器介入は終わった・・
  この30年間で、「漁夫の利で一番力を付けたのが中国」・・
 米中の対決時代となってしまった・・
  日本は、その中国の脅威にさらされるという状態とな
 った・・
  日本の経済力も、その30年間に下る一方で、中国に凌
 駕された・・
  ベルリンの壁崩壊が、世界に与えた影響は、良かった・・
  ソ連よりも全体主義の強い東ドイツが、平和裏に崩れ
 たのが良い・・史上まれに見る平和的な解決だった・・
  これは、世界の考え方も変えた・・
  資本主義と社会主義の対立軸の見方が崩れて変わった・・
  社会主義は明確に敗北した・・そして、ソ連の抑えが
 無くなった中東で暴れる者が出て来た・・
  ソ連崩壊で社会主義が駄目となり、市場主義万能とな
 った・・
  そして、ボーダーレス化し、自由化し、何でもよいと
 なった・・
  「ソ連崩壊」で急速に進んだボーダーレス化だった・・
  ボーダーレス・エコノミーで、貧しい人も豊かな人も、
 もっと豊かになれると思った・・しかし、違った・・
  グローバル化の大競争の時代に入った・・市場の取り
 合いもあって、一面、資本主義が元気な状況になった・・
  だが、ボーダレス化は良い面ばかりではない・・総て
 が「市場化すれば良い」というものでもない。
  体制の出来てない所に、その様な国を、無理に市場化
 したら弊害が起きる・・国境があるという状態で、経済
 をしっかりさせないと、「基本を作らないと駄目だ」と
 分かった・・
  それが分かった今・現代だった・・
  そして、米中の対立が始まったが、これは、「中国の
 態勢が崩れる」まで、アメリカは行なう・・
・出演者・・
  司会:上念司(経済評論家)
  西川史子(医師・タレント)
  武田邦彦(中部大学教授)
  筆坂秀世(元参議院議員・政治評論家)
  藤井厳喜(国際問題アナリスト・評論家)
  髙橋洋一(元財務省官僚・嘉悦大学教授)
  須田慎一郎(経済ジャーナリスト)
  杉原杏璃(タレント)
  脊山麻理子(フリーアナウンサー)
  大田明奈(タレント・舞踊家)
  眞鍋由佳(主婦)
.
2019年4月30日、ドイツ国民の半数以上が、難民に対して
 「否定的な感情を持っている」と、アンケートの調査結
 果で明確となった。
  この日の読売新聞によると・・ドイツの政治財団「フ
 リードリヒ・エーベルト財団」が25日に公表した難民に
 関するアンケート調査の結果・・
  54.1%が、難民申請者に対して否定的な感情を持って
 いると答えた。
  調査は、昨年・2018年9月~今年・2019年2月に、ドイ
 ツ国内の1890人を対象に実施された。
  ドイツでは、難民申請者が2015年に急増して約90万人
 に達した。
  2017年は(難民申請者が)約19万人に減ってはいるが、
 難民による暴行事件なども起こっていて、反難民感情が
 高まっている・・これがアンケート結果に浮き彫りとな
 った。
  旧東独地域では63.1%が否定的となっている。
  経済発展の遅れから、難民対応の予算を投入すること
 への不満も背景にある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
コメント

(増補版)642E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

2019-04-27 03:30:28 | 日記
題:(増補版)642E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月30日、官吏恩給法及官吏遺族扶助法補則公布(法
 律第36号)
  1.恩給法上の公務員
  恩給の対象となる公務員は、具体的には、次のような
 者をいう。
  (なお、公務員の年金制度は昭和30年代に旧共済年金
 に移行しており、恩給の対象となる公務員は、旧共済制
 度発足前に退職した公務員及びその遺族である。
  したがって、現職者に恩給の対象者は存在しない。)
 (1) 一般文官 ア 文官(官にある者)〔最短恩給年
   限17年〕
  イ 教育職員(公立学校等の職員)〔最短恩給年限17
   年〕
  ウ 警察監獄職員(警部補以下、副看守長以下、消防
   士補以下の者)〔最短恩給年限12年〕
  エ 待遇職員(形式的には官吏ではないが判任官以上
   の待遇を受ける者のうち、恩給法令により特に指定
   したもの。
    例えば、神宮司庁職員、地方道路技師等)〔最短
   恩給年限17年〕
 (2) 旧軍人(兵~大将)〔最短恩給年限 兵・下士官
   12年、准士官以上13年〕
  2.公務員の遺族
   遺族の順位は、
  ア 配偶者
  イ 未成年の子
  ウ 父母
  エ 成年の子(公務員の死亡当時から重度障害の状態に
   あり、生活資料を得る途のない者に限る。)
  オ 祖父母・・である。
  (以上、抜粋・・総務省ホームページより)
.
1896年3月30日、事業公債条例が公布(法律第50号)され、事
 業公債をもって鉄道改良費の資金とする。
.
1896年3月30日、逓信省官制改正(勅令第85号、4月1日施行、
 勅令第150号は廃止)
.
1896年3月30日、客車代用貨車取扱規程を制定(鉄運乙第534
 号)
.
1896年3月31日、拓殖務省官制の公布
  拓殖務省(たくむしょう)は、この年に、台湾事務局
 関係事務と、北海道拓殖事務を統轄する機関として、拓
 殖務省が設置された。
  しかし、1年余ののちに廃省となり、その後、南樺太、
 朝鮮の併合、関東州の租借、南洋委任統治などの植民地
 行政拡大に伴い、1910年以後、拓殖局、1922年以後、拓
 殖事務局、1924年以後、内閣拓殖局がそれぞれ設置され
 て統轄機関となった。
  1929年、田中義一内閣のとき、拓務省官制として省に
 昇格したが、所管事務として旧内閣拓殖局の事務と従来
 内務省社会局の権限であった「移民に関する事務」を引
 継いだ。
  具体的には、朝鮮、台湾両総督府、関東、樺太、南洋
 3庁の事務を統督し、南満州鉄道株式会社、東洋拓殖株式
 会社などの監督にあたった。
  1942年11月、大東亜省設置に伴い、対満事務局、興亜
 院とともに吸収され、廃省となった。
.
1896年3月31日、横浜のペスト患者が死亡した(4月1日説
 あり)
  開港した横浜、伝染病も流入して来る。
  日本にベストが初めて上陸した。
  横浜港に入港したアメリカ船籍のゲーリック号の乗客
 の一人(外国人)が病気のため下船した。
  そして、市内の病院に入院する。
  患者は容態が急変し、4月1日に死亡した。
  検査して「ペスト」と判明した。
.
1896年3月31日、台湾総督府直轄諸学校官制が公布された。
  日本は韓国や朝鮮、そして、台湾の教育制度を整備し
 教育を施すことに熱心だった。
  欧米列強の様な捨てて置く様な事はしなかった。
  修学年限や修学の科目などを決めたりした。
  女子には、特別に、この教科が必要などと、きめの細
 かい指導をしてあげた。
  そして、必要に応じて、その後も、向上させて行った。
  それに応じて、財源を配慮もした。
  今、韓国は、何かと恩になった日本を批判するが、韓
 国が出来なかった小学校や大学などの学校づくりを、誠
 実に日本は行っただけではなく・・その他に、日本は、
 それだけではなく、その教育が実際にうまく行くように
 配慮して、行なっていた。
  日本と遜色(そんしょく)なく、まったく平等で、師
 範科なども置いたりした。
  日本語の習得に関して強制することなく行われた。
  日本語を常用せざる者の別建てのコースも作った。
  だからと言って、全く同等で差別などもしていない。
  同じように豊かになろうという体制だった。
  大学なども日本人との共学の大学も置かれた。
  日本を批判することは「何事においてもできる」が、
 日本がしなかったならば、大学も小学校もない状態だっ
 た。
  できた状態が「ああだった」とか、「こうだった」と
 かという批判は、想像すれば何事も言える状況で、教育
 施設が無い状態を考えれば、その様な批判はできないは
 ずだ。
  そこまで言うのであるのならば、何故?自分たちで造
 らなかったのですか?と問いたい。
  恩を売っている訳ではないが・・感謝の気持ちを持っ
 てもらいたい。
  日本の先人の方々は、資金だけではなく、誠実に努力
 していたのです。
.
1896年3月末、酒造税法・営業税法・葉煙草専売法などが公布
 された。
  酒造税法 (明治29年3月28日法律第28号)
  葉煙草専売法 (明治29年3月28日法律第35号)
  営業税法 (明治29年3月28日法律第33号・・翌年の明治
  30年1月1日に施行された。
  この法律は、明治29年11月の税務管理局官制、すなわち
 税務署創設の前提となっている。
  この法律は、複雑な課税標準を設定したため、その執行
 に専門的な税務行政の必要性が生じ、対応できる期間の創
 設を促した。
  この法律は全国的な反対運動も起きた。
.
1896年3月末、陸軍平時編成を改め、近衛および第1師団~第
 12師団が設置された。
  師団の増設に伴う師管の改編によって旅管が廃止されて
 13師管となり、従来の大隊区は連隊区と改称された。

  その一つ・・札幌に陸軍第7師団が編成され、北海道の
 開拓と警備を担った屯田兵が基盤となった。
  初代師団長は屯田兵司令官であった永山武四郎。
  1899年に旭川への移転が決定、
  1902年、移転が完了。
  北海道に置かれた常備師団で、北辺の守りを担う重要な
 師団だった。
  北海道民は畏敬の念(いけいのねん、畏れ、かしこまり、
 敬う心情)で見ていた。
  この「北鎮部隊」の元で、旭川は軍都として発展する。
  十勝(→旭川)連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・根室
 →釧路)連隊区
  部隊は、日露戦争の二〇三高地や太平洋戦争のガダルカ
 ナルなど、歴史に残る激戦地へ派遣された。
.
1896年3月末日、臨時軍事費特別会計が終結した。
  日清戦争の臨時軍事費特別会計が編成されたのが、1894
 年6月1日からだったが、1896年3月末日で終結した。
  歳出:200百万円
  うち:陸軍82.1%(人件費18.4%、糧食費12.4%、被服費
 10.8%、兵器弾薬費5.6%、運送費16.9%、その他18.0%
  海軍17.9%(物件費75.0%・人件費19.5%・その他5.5
 %(ただし、別の資料では、海軍の人件費1.1%、艦船費6.4
 %、兵器弾薬費・水雷費5.0%、その他5.4%)
.
1896年3月、進歩党が結成された(大隈重信総裁)
  憲改進党ほか諸派が自由党に対抗して結成した。
  改進党、立憲革新党、財政革新会、中国進歩党などが合
 同し、進歩主義に立つことを宣言した・・
  また、責任内閣の完成、国権拡張、財政整理を政綱に掲
 げた。
  1896年9月に、事実上の党首大隈重信が、第2次松方正義
 内閣に外相として入閣して、進歩党も与党となって第10議
 会では金本位制確立のための貨幣法案や、戦後経営関連諸
 法案を成立させた。
  議会後、大隈は農商務相を兼任した。
  また、党幹部が農商務次官・局長、県知事などに就任・・
  1897年8月、新設の勅任参事官にも多数任命されたため
 官僚勢力との利害が対立することになる。
.
  (今日の言葉)
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  題:アメリカは、自国の通貨を発行するたびに、アメリカ財務省が、
   民間銀行の株主に金を払う(利子を払う)という「おかしな形」と
   なっている・・??
    また、アメリカは、「通貨供給量の生殺与奪の魔法の力」が
   握られている。
    そして、これが、アメリカの財政赤字の原因の一つとなっている。
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紀元前261年頃、アショカ王が、全インドへ仏教を広める。
  アショカ王・・紀元前3世紀のインドのマウリヤ王朝の
 王子として生まれ、マウリヤ朝の第3代国王となる・・生
 没年は不詳。
  紀元前3世紀の半ば、史上初めてインドのほぼ全土を統
 一した。
  仏教に熱心に帰依し、不殺生や慈悲などの仏法にもと
 づく政治を掲げた・・そして、仏教のその精神にもとづ
 く世界秩序をめざす。
  世界中に伝道師を派遣し・・エジプトのアレクサンド
 リアにまで訪れる伝道僧も居た。
  この地道な布教活動は、幾世代も続いた。
  アショカ王は、仏法をを説いた碑を多く建てているが、
 アショカ王の建てた碑にアラム語の碑もあり、アフガ二
 スタンの南西部で発見された・・
  キリスト教のイエスはアラム語を話していたが・・ア
 ラム語は、オリエント世界の公用語だった。
  また、ギリシャ語の碑もあり、ギリシャ人は集団で移
 住し、その地に住んでいた。
  キリスト教は「一神教の壁があった」と嘘を言うが、
 東西の交流は頻繁(ひんぱん)になされ、仏教も伝わっ
 ていた。
  アショカ王は、厚い信仰心を人々に示し、また、その
 地を栄えさせた。
  王は肉食を断ち、人々や狩人、また、王の漁師たちも
 猟や漁を止めた。
  ギリシャ人の王・ミリンダ(メナンドロス)と仏僧と
 の宗教問答をつづった「ミリンダ王の問い」(那先比丘
 経・なせんぴくきょう)も残っている。
  高名な仏僧・ナーガセーナの説法は見事だった。
  ミリンダ王はそれに屈し、仏法に帰依するのだった。
  イエスもこの様な状況の中で、仏教に触れている可能
 性が高く・・この様な所から「汝の敵を愛せよ」の仏教
 の慈悲に影響された言葉が発せられたと言える。
  因みに、近年になって、アメリカの研究集団は、キリ
 スト教の聖書におけるイエスの言葉はほとんど無いとし
 ている。
     ・
     ・
958年、韓国・朝鮮の両班のはじめ・・
  この年、高麗・李朝時代に中国の科挙に由来する制度
 によって地方豪族などから登用する両班制度を始めた。
  両班の多くは地方の地主層であった。
  しかし、その制度は、300年後の14世紀になって後に崩
 れて行く・・
  14世紀頃から、韓国・朝鮮の両班(りゃんばん)は、
 様々な理由から増加し出した。
  特に、18世紀後半は、最悪の状況となった。
  両班(りゃんばん)。
  これが、韓国・朝鮮の諸々の悪の根源だった。
  両班は、王の両側にいた側近で、東班(とんばん)と
 西班(そばん)の特権的な官僚(最上級身分の支配階級)。
  東班(文班)は文官で、西班(武班)は武官だった。
  本来の姿は、この官位・官職は独占世襲し、種々の特
 権・特典を受けた・・血縁的身分として固定化された。
  両班は、兵役・賦役免除の特権を持ち、封建的土地所
 有を行なって常民・奴婢を支配した。
  そして、党派に分かれて党争を繰り返した。
  両班は、「働く人を蔑(さげす)んだ」。
  額(ひたい)に汗して働く人を蔑んだ。
  両班は、頭を働かせて知的に働くのを良しとした。
  両班は、科挙の試験を通ったエリートだった。
  だから、前記した頭脳労働者への偏重の思想を持った。
  韓国・朝鮮には、この両班が約7%居た。
  ただ、韓国・朝鮮ではこの頭脳労働偏重の思想が、肉
 体労働者への蔑みが大きく出た。
  また、韓国・朝鮮には家系を尊ぶ思想がある。
  そして、その家系によって肉体労働者は、ズーッと常
 に肉体労働者でなければいけないという慣例・風習があ
 った。
  これと、両班が持つ特権が、くっついた。
  本来なら科挙の試験を合格しなければならない資格が、
 肉体労働者の家系から抜け出たいとするものが、その両
 班の地位を金で買うことがなされた。
  最後には、両班は、国民の50%近くまで行った。
  もう、ここまで来たら誰でもが両班と言えるような状
 態になった。
  韓国・朝鮮には、両班が持っていた肉体労働を蔑む風
 潮が社会に根付いているが・・、
  その点、日本は、匠(たくみ)と言って技術を極めた
 方々を、日本では尊敬し、大切にして尊んだ。
  この様な日本の様な状況は、韓国・朝鮮にはない。
  そして、両班は、様々な悪事の極みを行なっていた。
  虐(しいた)げられた家系から抜け出し、両班になっ
 た者たちは、逆に、虐げる側になって、民を虐げた。
  韓国・朝鮮は、中国に長く冊封される体制を受けて来
 た風潮や性格から属国根性は染み込んでいた。
  この両班の地位を作る科挙は中国の制度で・・大陸で
 地続きにある隣国の中国・・そして、朝鮮半島の小国に
 は、常に蹂躙され続ける歴史があった。
  虐げられた民は、両班のことを・・、
  「朝鮮の官人はみんなが盗賊だ」とか、「転んでも自
 分で起きない」とか、「箸と本より重い物は持たない」
 などと揶揄(やゆ、からかう、なぶる)した。
  両班は、「兵役の免除」「刑の免除」、「地租以外の
 徴税・賦役免除」、そして、常民に道や宿の部屋を譲ら
 せる権利や、家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々
 な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪した。
  マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは、「世界一傲
 慢な貴族階級」と蔑んだ。
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1619年、オランダが、アフリカの方々を、アメリカへ奴隷
 として運び、売った。
  オランダ船が、アメリカのバージニアへ、20人のアフ
 リカの方々を連れて行き、売った。
  バージニアという地は、まったく卑劣な地で、特に多
 くの黒人の方々を奴隷とした。
  1680年~1750年には、何とバージニアの人口の44パー
 セントが黒人奴隷の方々だった。
  参考:サウスカロライナは61パーセント。
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1624年、江戸と京都の間に53の宿場が整備され、東海道五
 十三次となった。
  1600年の関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、次々と
 新しい政策を実施した。
  街道整備もその一つだった。
  1601年、東海道の伝馬制度を定め、江戸と京都の間に
 37の宿場を置いた。
  横浜には、「神奈川宿」と「保土谷宿」の2つの宿が置
 いた。
  その3年後の1604年に、「戸塚宿」が加わり、横浜は3
 つの宿場となった。
  1624年には、江戸と京都の間に53の宿場が置かれ、東
 海道五十三次となった。
  東海道のメインの街道は、参勤交代の大名や幕府の役
 人、商人や伊勢神宮などの社寺の参詣の旅人で賑わった。
  旅人は、その道中で・・名物料理を食べたり、土産物
 を買ったり、寄り道をしたり、物見遊山を楽しんだりし
 た。
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1640年、ジョン・パンチ裁判
  黒人のパンチは、逃亡し、裁判となり・・判決で・・
 「当地、および、他の場所で、所有者、および、その受
 託者に生涯仕える」ことと命じられた。
  法律を犯したとき、黒人の方の場合、奉公期間が『無
 制限』に延長するという卑劣な事をするアメリカだった。
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17世紀、アメリカへ、労働力を補うためヨーロッパから多
 くの年季奉公人が送り込まれた・・特に、イギリスから
 供給された。
  半奴隷的な扱いをした。
  アメリカは、その様な雇い主の白人へ、広い土地を与
 えた。
  また、「他の人間を支配する名誉」まで与えた。
  アメリカの人権無視に、あらためて腹が立つ。
  それまでは、イギリスからの年季奉公人を使っていた
 アメリカだった・・が・・
  この年季奉公人には、ある年数の奉公に対する購入費、
 そして、年期中の諸経費、解放時の給付金があった。
  これに対し、アフリカの黒人奴隷の方々の費用は格段
 に安かった。
  イギリスは、自分の国の「質の悪い国民」を片付ける
 様にして、かき集め、アメリカへ連れて行った。
  道路にたむろしている「貧しい弱者」や「ホームレス」
 を、なかば強制的に捕獲した。
  イギリスは、この捕獲という言葉がまったく当てはま
 るかの様に、この様な弱者の方々を捕獲した。
  人権無視のイギリスだった。
  その様な年季奉公人を、承知してアメリカは使った。
  イギリスと、人権無視の共犯的な行為をするアメリカ
 だった。
  しかし、アフリカからの黒人の方々は、安いだけでは
 なく、質の良い労働力でもあった。
  また、まったくの「人権無視の行為が出来る」という
 労働力だった。
  それを得たいアメリカだった・・アメリカはこれを「
 これ幸い」とし・・非人道的な「奴隷」に落とした。
  キリスト教の聖書にも書いてある「奴隷概念」が実行
 された。
  最初の購入費以外、費用はまったくかからなかった。
  なおかつ、黒人奴隷の方々の宗教をアメリカは奪った。
  また、卑劣な事に、その言語をも奪った。
  アフリカの言葉を話せない様にした。
  そして、家族のつながりも配慮されず、バラバラに
 されて、生まれ育った家族のつながりも奪われるアフリ
 カからの黒人の方々だった。
  まったく家畜同然だった。
  キリスト教の洗脳によって、その行為に対し、まった
 く罪悪感は無かった。
  生まれた子供は奪われた、そして、その子は売られた。
  年季奉公人は、待遇改善の要求などをしたが、黒人奴
 隷の方々には、それが許されなかった。
  その様な抗議は、当然のように、黒人の方々へは許す
 ようなことはしなかった。
  また、アフリカに居た時も農業にいそしんでいた。
  また、逃亡の時、肌の色から見分けがはっきりして、
 捕まえ易さがあり、法律上の権利もまったく与えられて
 居なかった。
  公的機関から配慮されるような事もまったく無かった。
  アメリカは、言うことも憚(はば)れるような軽蔑的
 思考で、黒人の方々をキリスト教の聖書の概念の奴隷と
 して扱った。
  非文明国家の極みにあった。
  そして、卑劣にも、イギリスが、アフリカから易い物
 品で拉致の様にして連れて来る役を担った。
  せっせとアフリカから黒人の方々をアメリカへ捕まえ
 て、安いヨーロッパの物品と交換して奪った・・そして、
 アメリカへ連れて行った。
  黒人の方々が、絶えず供給されるという点を、アメリ
 カは必要事項として、イギリスへ要求した。
  アメリカ南部のプランテーションだけではなく、アメ
 リカ北部の大商人や船主たちが、アフリカの方々を奴隷
 として要求した・・(北部には奴隷要求は無いと言うが、
 まったくの嘘・・アメリカ北部政権のプロパガンダ)
  アメリカ全土が黒人の方々の奴隷の恩恵を受けたいと
 考えていた。
  因みに、年季奉公人制度は、「偽装された奴隷制度だ」
 とされている。
  表面的な目を誤魔化す行為とされている。
  状況は悪化さえしている。
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1664年、英蘭戦争(~1667年)
  イギリスは、この戦争で勝利するとオランダと・ポル
 トガルが持っていた奴隷貿易を独占した。
  長い間、イギリスは奴隷貿易を続けた。
  酷い輸送で死亡率が高かった。
  奴隷にされた女性が産んだ子供も「奴隷という解釈」
 で、黒人の方々は、その方の人生以上の長きにわたって、
 白人から逃れられないという解釈の下におかれた。
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1672年、ロイヤル・アフリカン・カンパニーが、イギリス
 に設立され、イギリスは奴隷貿易を本格化させた。
  この組織に、奴隷貿易を専従させた。
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1676年3月、バージニアのナサニエル・ベイコンの反乱
  アメリカの植民地としての最初の反乱。
  イギリス領バージニア植民地の反乱。
  オランダ人の経済的圧迫などでその防衛を求めた。
  また、税金も高く要求された。
  1674年、植民地の住人は、ロンドンにいるバージニア
 の領主であるアーリントン卿とカルペッパー卿に対して
 政治的働きかけを行う代理人を送るために更なる課税を
 要求された。
  この状況は、入植者の悲惨さをさらに悪化させるもの
 であり、バージニア総督ウィリアム・バークリー卿の指
 導のまずさもあって、政府に対する憤懣が広がった。
  また、アメリカの先住民族であるアメリカ・インディ
 アンの方々との関係も悪化していた。
  1676年3月、ジェームズタウンに戻った後、ベイコンと
 バークリー支持者の間に紛争が起こった。
  ベイコンの一党はバークリー派に打ち勝ち、総督はバ
 ージニアの東海岸に逃走した。
  ベイコンの一党は、首都を3ヶ月間占領し、貴族政府の
 象徴である町を破壊した。
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1708年、アメリカは、先住民のアメリカ・インディアンの
 方々を奴隷にした。
  この年、1例として、サウスカロライナ州で、最も先住
 民のアメリカ・インディアンの方々の奴隷化が進んでい
 た。
  12,580人の人口中、1,400人の11.1パーセントの先住民
 奴隷が居た。
  この状態は、卑劣にも19世紀になっても行われていた。
  誰でも彼でも、白人以外は奴隷とするキリスト教の聖
 書の奴隷の記述に洗脳された輩どもだった。
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1794年、銀の市場価格が低下を始めた。
  このことで、アメリカの貨幣法で前提とされた「15:1」
 という金・銀の価格比が、市場での実体と乖離すること
 となった。
  そのために、連邦議会は、1834年に、ドルの純金分を
 減らすことで、複本位制の金・銀の価格比を「16:1」へ
 と調整した。
  グレシャムの法則(Gresham’s law)として知られる
 通り、「品位の劣る鋳貨が流通に投ぜられると、流通中
 の高品位の鋳貨が退蔵された」。
  この法則によれば、金・銀貨が、固定比率でドルとし
 て等価で流通する場合には、市場価格と比較して過小評
 価された貨幣(この場合は金貨)が退蔵されるはずであ
 る。
  実際に、Laughlin は、1792年~1834年の期間に、アメ
 リカで、金硬貨は殆ど使用されなかったと述べて、過小
 評価されたドルが「駆逐」されたと結論付けた。
  1837年の法律改正で、ドルの金含有量がさらに微調節
 された後も、アメリカ貨幣制度は、金・銀複本位制を保
 っていたが、カリフォルニアでの金ブームの結果、金の
 銀に対する相対価格が低下し、貨幣制度の上では、今度
 は、銀が過小評価されることとなった。
  そして、金が流通の主役となった。
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1834年8月1日、イギリスで奴隷廃止法が出された。
  この日に発布されたイギリスの奴隷制廃止法では・・
  黒人の方たちは、奴隷身分からは解放されたものの年
 季奉公人として元の奴隷主の下で週45時間働くことを強
 いられた。
  まったく卑劣な事を、まだ行うイギリスだった。
  そして、表面的には奴隷解放がなされたように見える
 が・・実際には・・この奉公人の制度は、奴隷制と変わ
 らないばかりか、部分的にはそれよりも悪くなっていた。
  そして、白人の行なうこの制度を監視する役割を担っ
 た有給判事は、プランターの白人経営者と奉公人との間
 の紛争を処理する役目であったが・・公平な紛争処理の
 態度ではなく、白人のプランター側に着いた処理であっ
 た。
  奉公人と名前は変わっても、まだまだ「鞭打ち」や「
 虐待」などがなされた。
  そして、元の奴隷制に戻そうとのキャンペーンまで行
 なわれた。
  そして、1838年8月1日には、年季奉公人制を廃止する
 ことをイギリス政府は決議した。
  まったく唾棄すべきイギリスの状況だった。
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1835年4月28日、ジャマイカにおいて、白人が経営する農場
 で、「ムチ、ムチ」という叫び声が聞こえるという手紙
 が残っている。
  そして、今まで以上に奴隷状態に置かれている状況を
 伝えている。
  5月30日の手紙では、今までの3倍悪くなっていると伝
 えている。
  黒人の方々にも抑えきれない不満が鬱積(うっせき)
 していると伝え、抵抗を作り出していると伝えている。
  このままでは反乱となるだろうと伝えている。
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1835年6月22日、ジャマイカ西部のトレローニー教区のウェ
 イクフィールド農園という白人の経営する農場で働いて
 いたジェイン・リードという奴隷状態の奉公人の事例。
  奴隷状態の女性が、気分が悪くなったので監督に言い
 に行くと・・地下牢に行くよう命じられ、
  そこで、翌日まで食事は与えられず、特別判事の所へ
 連れて行かれた。
  白人の特別判事は、踏み車を4日間踏むように命じた。
  この女性は、踏み車に手首をくくりつけられ、鉄の首
 輪をはめられ、腰に鎖を掛けられるということを、この
 後、行われたりした。
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1861年3月4日、アメリカ第16代大統領に、リンカーンが就
 任した。
  アメリカ北部は、「北部は、黒人たちをあまり奴隷に
 しなかった」と自慢気に言うが・・、
  これは、アメリカ北部の主義主張が奴隷にしなかった
 とかではなく、初めから奴隷労働を必要としなかっただ
 けだったという・・しかし、これもマユツバ・・
  南部の綿花を、北部の綿布工場が綿布にする工場では、
 黒人の方々が、奴隷として、しっかり使われていた。
  何ら、アメリカ北部が自慢するような事ではなかった。
  また、アメリカ北部には奴隷思想が無いかと言えば、
 それは、まったくの嘘で・・、
  アメリカ北部は、インディアンの方々を盛んに奴隷に
 していた。
  アメリカ北部の象徴的人間のリンカーンが、積極的に
 奴隷制度に反対しなかったのもその証拠で・・
  黒人奴隷の方々を、たまたま開放する段階になったか
 ら「奴隷解放宣言」をしたまでであって、そして、アメ
 リカ北部政権が、そのことをプロパガンダ(嘘宣伝)し
 たので、アメリカ北部のリンカーンは、奴隷解放論者だ
 と錯覚されているだけ・・
  リンカーンは、「まったく奴隷解放などしたくない」
 という演説までしている。
  また、「私(リンカーン)は、奴隷解放論者ではない」
 とまで言っている。
  黒人の方々をアフリカのリベリアへ棄民さえしたアメ
 リカ大統領のリンカーンだった。
  アメリカ・インディアンの方々は、土地勘があり、す
 ぐ逃げたり、また、民族として連携が強く、繋(つな)
 がりの強い救済があったりして、奴隷にしにくかった。
  しかし、アメリカ北部人は、このアメリカ・インディ
 アンの方々を必死に奴隷にしようとした。
  アメリカ北部に奴隷思想が無かったというのは、「真
 っ赤な嘘」。
  日本のテレビ朝日は、アメリカにゴマをする「奴隷解
 放をしたリンカーン」という嘘放送を今日(2019年4月20
 日)もしていた。
.
1863年、リンカーンが発行した法定通貨の金債権との兌換
 性が取り消された。
  グリーンバック(greenbacks)と呼ばれる合衆国紙幣
 (法定通貨、United States notes)の発行を、リンカー
 ンは、1862年に始めていたが、発行当初に保証されてい
 た金債券との兌換性は、1863年に取り消された。
  グリーンバックは、連邦政府の信用のみで価値を担保
 されていた。
  そして、法定通貨のグリーンバックは、金との交換比
 率が低下して行った・・半分以下にまで減価した(その
 様に操作されていた)
  アメリカ財務省は、グリーンバックの価値の回復に努
 めた。
  1875年、正貨兌換復帰法が採択され・・
  1879年に、グリーンパックの兌換が再開された。
.
1863年、横浜の山の手に、この年以降、イギリス軍やフラ
 ンス軍の軍隊が駐屯した。
  1868年の戊辰戦争の時、官軍が横浜に到着した時、戦
 闘が発生する様な事も無かった。
  諸外国は、横浜における貿易が出来る状態にして置く
 ことを重点としていた。
  貿易の出来ない状態、乱れることを望まなかった。
  その様な状況から、横浜は平穏な場所であった。
  1868年1月14日(戊辰戦争が始まった1月3日から11日後)
 平穏に安定している横浜に、戦闘で大怪我をした36人が
 送り込まれた・・
  忠右衛門の手紙には・・「当浜御役所へ上り薬用中に
 これあり」と記されていて、横浜の役所で治療を受けて
 いることを伝えている。  
  また、死去した兵士の処置で横浜は「大混雑」してい
 ることも記されている。
.
1865年、この年以降の15年の間に、「50%のデフレ―ショ
 ン」が、アメリカで起きていた。
  通貨不足と物価下落の影響で、アメリカ国民は苦しめ
 られた。
  特に、最も苦しめられたのが農民だった。
  作物価格の下落と、利子率高騰の2つの要因で、農民の
 生活は追い詰められた。
  農民は、通貨不足に悩む一部の産業資本家と協力し、
 グリーンバック党(Greenback Party)という新党を、
 1874年に、組織し、グリーンバック増発を訴え、通貨縮
 小をもたらす兌換回復に反対した。
  グリーンバック党は、1876年の大統領選に、独自候補
 を擁立したが、その運動は短命であった。
.
1868年1月14日、戊辰戦争で大怪我をした者(36人)が横浜
 に運ばれて来て、横浜の役所で治療を受けた。
  イギリスとフランスの軍隊が、1863年の文久3年以降、
 横浜の山の手に駐屯した。
  戊辰戦争が発生した頃、そして、日本が戦乱で動揺し
 たこの頃、諸外国は日本が戦乱の渦の中で乱れ、貿易も
 なされないという状態になることを望まなかった。
  戊辰戦争の官軍が横浜に到着しても、横浜では戦闘も
 起きず、平穏な地として経過した。
  1868年1月14日に、戊辰戦争で大怪我をした者の36人が、
 横浜に上陸し、横浜の役所で治療を受けた・・この様な
 事を記した日記が残されている。
  また、戦死した兵の処置で横浜は「大混雑している」
 と書かれた日記もある。
  安全な場所とされた横浜は、その様な役目も果たして
 いた。
  「次々と怪我人が運び込まれる」の記述もある。
.
1875年、アメリカは、正貨回復法(正貨兌換復帰法)を採
 択した。
  法定通貨を独自に発行した「アメリカの第16代大統領
 リンカーン」は、暗殺された(1865年4月14日)
  犯人は、「ユダヤとの関係を感じさせた」。
  その後のアメリカ大統領が、リンカーンの発行した法
 定通貨を慌てふためいて回収したが・・その姿が、その
 怪しさを表わしていた。
  また、このリンカーンの法定通貨の無力化が、政府組
 織ではない手によってなされた。
  ロンドン・シティやウォールストリートの銀行家たち
 は、ち密な工作を着々と進めた。
  1875年、正貨回復法を成立させた。
  そして、金(ゴールド〉のみを正貨とした。
  そして、銀(シルバー)硬貨を廃止する様にした。
  その後、持っていた財務省証券をアメリカ政府に買い
 取らせた。
  金(ゴールド)が手に入るように要求した。
  アメリカ財務省の保有する金はショートした、金は無
 くなった。
  1883年に、金融パニックが、アメリカに発生させられ
 た。
  この機に乗じて、彼らの銀行家は、金融を引き上げて、
 そして、新規貸し出しを縮小させた。
  ここで、アメリカは、史上最悪の金融恐慌が起こされ
 てしまった。
  さらに、イギリスは、植民地のインドに、「コイン鋳
 造用の銀の受け取りの拒否をさせた」・・
  この事によって、完全に、銀に、正貨の地位を失わせ
 させた。
  銀の価値を完全に失わせ・・金(ゴールド)のみが価
 値を持つ世界を作ってしまった。
  1900年、アメリカは、やむなく金本位制を成立させた。
  この様な状況の中で、アメリカの財務省の金保有は減
 った。
  リンカーンの法定通貨は、その裏付けを失わせられて
 行った・・
  逆に、金を大量に保有しているイギリスの銀行家の力
 は強まって行った。
  当然の結果、アメリカ金融は、イギリスの影響下に置
 かれて行った。
  アメリカ財務省は、必死に抵抗するが、金融パニック
 を再び起こされた。
  これで万事が窮することとなった。
  1907年、ニューヨークの中堅銀行が倒産に追い込まれ
 た。
  ウォールストリートの財閥系銀行がやった・仕組んだ
 のだという噂が立った。
  そして、金融恐慌が起こされた。
  アメリカは屈服した。
  モルガンやロックフェラーなどの財閥とつながるアメ
 リカ大統領のセオドア・ルーズベルトは、反トラスト法
 の停止を宣言した。
  恐慌はおさまった。
  この後、財閥は、さらに、市場独占を強めた・・
  そして、より大きな支配力を持って行った。
.
1878年、アメリカに、銀の購入を義務付ける法(ブランド・
 アリソン法)が成立した。
  アメリカに、自由銀運動(Free Silver Movement)が
 あった。
  アメリカ西部の銀産出州の利害も、また、反映された。
  その結果、自由銀運動によって、連邦政府に、毎月一
 定額の銀の購入を義務付けるブランド・アリソン法が、
 1878年に、成立した。
  さらに、その2年後の1880年には、シャーマン銀購入法
 によって、ブランド・アリソン法の2倍の銀の購入が、財
 務省に課された。
  その支払いには、財務省紙幣(treasury notes)が発
 行されるべきだとされた。
  これが意味する事は、アメリカ財務省は、アメリカで
 産出する銀のすべてを購入することになり・・
  その購入額分の紙幣が発行されることで、通貨膨張が
 避けられないということになった。
  そして、クリーブランド大統領による「銀購入法の撤
 廃」に至る。
.
1913年12月23日、アメリカに設立されたFRBは、民間銀
 行となってしまった・・アメリカ政府は『一株も持って
 いない』。
  (参考)FRB:連邦準備制度理事会 (Federal Reserve
     Board) の略で・・、
      主要都市に散在する12に分かれた地方の連
     邦準備銀行を統括する。
      予算の割り当てや人事の干渉を受けない。
      そして、最悪なのは監査制度もなく、活動実
     態の情報公開もなされない。
  最も力を持つニューヨーク連邦準備銀行の株主は・・
  ロスチャイルド銀行(ロンドン)、
  ロスチャイルド銀行(ベルリン)、
  ラザール・フレール(パリ)、
  イスラエル・モーゼス・シフ銀行(イタリア)、
  ウォーバーグ銀行(アムステルダム)、
  ウォーバーグ銀行(ハンブルク)、
  クーン・ローブ商会(ニューヨーク)、
  ゴールドマン・サックス(ニューヨーク)、
  チェース・マンハッタン銀行(ニューヨーク)、
  これらの国際主義の外国銀行が、「利子の利益を得る
 株主」となっている。
  これ等の株主は、無国籍のユダヤ系と言える・・
  また、歴代のFRB議長もユダヤ系が続くという状態。
  FRBの設立とともに、「連邦所得税法」が成立した。
  これは、アメリカ国民の方々の所得税によって返済が
 担保される様になった。
  絶対に「とりっぱぐれが無い」という状態。
  これは、やはり、アメリカ国内で「憲法違反」ではな
 いかと「ひと悶着」となった。
  紙幣の発行・・通貨が発行されると、利子や手数料が
 自動的に転がり込むというシステムで・・大儲け状態と
 なった・・
  アメリカは、自国の通貨を発行するたびに、アメリカ
 財務省が、民間銀行の株主に金を払う(利子を払う)と
 いう「おかしな形」となっている・・??
  また、アメリカは、「通貨供給量の生殺与奪の魔法の
 力」が握られている。
  そして、これが、アメリカの財政赤字の原因の一つと
 なっている。
.
1918年11月11日、第一次世界大戦の休戦協定が、連合国と
 ドイツの間で締結された。
  この日の休戦協定が成立する約2年前の1916年12月30日、
 早くも、仏首相のブリアンは、連合諸国を代表し、大戦
 終結後の欧州新体制を律する原則が、次のようなもので
 ある事を、当時まだ中立国であったアメリカ政府を通し
 てドイツ・オーストリア側へ伝えた。
  1、侵害された諸国民の権利への補償、
  2、諸民族と少国家の自由な存立、
  3、諸国家に対する脅威の恒久的な防止、
  4、世界の安全確保のための効果的保証、
  これ等の原則で、大戦終結後に、民族自決権の確立、
 ドイツへの賠償要求、国際連盟の設立として具現化され
 た。
  しかし、ドイツ・オーストリア側は、この和平提案を
 拒否した。
  さらに、1917年1月10日、ブリアンは、再び、連合諸国
 を代表し、上述の原則をさらに具体的に表現した、対独
 要求を含む次の8項目からなる文書を、アメリカ大統領の
 ウィルソンに伝え、同意を求めた。
  1、ベルギー、セルビア、モンテネグロの回復と、その
   損害補償、
  2、フランス、ロシア、ルーマニアの侵略地域からの撤
   退とその損害補償、
  3、欧州の再編成。諸国民、諸民族の権利の尊重。不正
   な侵略に対して国境・領海を保障する領土協定と国
   際規約の設定、
  4、住民の意思に反して武力により奪われた連合諸国の
   領土回復。
  5、イタリア人、スラブ人、ルーマニア人、チェコ・ス
   ロバキア人を外国人による支配から解放。
  6、トルコ人の残酷な暴政下にある民族の解放。西洋文
   明とは異質なオスマン帝国を欧州から追放。
  7、ロシア皇帝によるポーランド解放宣言の確認。
  8、連合諸国側は、ドイツ民族の絶滅や政治的消滅の意
   図を有しないこと。
.
1920年代、「アメリカは、民主主義国家だ」は、作られた
 幻想。
  「アメリカは、民主主義の国だ」は、作られた幻想で、
 洗脳された思い込み・・
  これ等の思い込みは、「金」と「情報」を使って操作
 された洗脳の結果で・・
  この様な事は、1920年代に、既に、リップマンやバー
 ネイズは、「アメリカの民主主義の幻想」に気付いてい
 て、「錯覚の世界に生きていて、それに洗脳されている」
 と見抜いた。
  世論操作が始められている・・
  今・現代、中国が、盛んに金を使って情報操作をして
 いるが・・
  アメリカを初めて明確に「民主制の国」であるとした
 のは・・アレクシス・ド・トクビルだった。
  また、アメリカの支配勢力が、「民主主義を用いて人々
 を支配し、利用するために使っている」とも言われてい
 る。
  また、「民主主義の革命的技法」を使えば、「合意の
 でっちあげ」ができると・・リップマンは主張した。
  宣伝工作技術を駆使すれば、「人々が本来望んでいな
 かったことについても、同意を取り付けられる」という
 意味の事を言った。
  リップマンは言う・・
  第一の市民階級は、専門知識を持つ特別階級で、政治・
 経済、イデオロギーのシステムにおける諸問題の分析、
 実行、意思決定、管理を行っている。
  これらの人々は、人口のごく一部でしかない・・
  しかし・・この特別階級から漏れた人々・・すなわち、
 人口の大部分を構成する多くの人たちは、「とまどえる
 群れ」(戸惑う人たち)・・と称した。
  この様な人たちが、「大多数の意見を構成する」。
  リップマンは、この人たちを「観客」にはなるが、行
 動には参加しない・・と説明した。
  選挙において、観客は、一旦、誰かを支持し、そして、
 後は、また、観客に戻って傍観する・・と・・
  だから・・とまどえる群れを飼いならす事だ・・と・・
  また、とまどえる群れに激高を起こさせてはならない・・
 横暴を許してはならない・・不都合なことを起こさせて
 はならない・・と・・
  アメリカの大統領選は、「金が続いたものが生き残る」
 と言われている・・
  そして、それが、「合意のデッチアゲ」の「民主主義
 が行われた」という満足の結果だと・・これが実態だと・・
  リップマンは、彼の代表作と言われている「世論」(
 1922年)で、「民主主義の基盤となる国民の世論が、マ
 ス・メディアの圧倒的な影響力の下にある」ということ
 を指摘した。
  マス・メディアによって世論は操作されている。
  その様な所から形成された民主主義社会が実態・・
.
2019年、「違い」こそが、豊かさを生む。
  「違い」こそが、歓迎すべきところなのだ。
  豊かな差異・「違い」から、人類の幸せが生まれて来
 る。
  「違い」をことさら言い立てて、糾弾すべきものでは
 ない。
  「違い」を愛(め)で、「違い」を味わい、幸せを感
 じ、皆とその「違い」があることを喜び合わなければな
 らない。
  「違い」を指摘し、言い立てて、糾弾し、「異端」を
 追求し、殺した・・キリスト教。
  異端審問・・そして、「異教徒は殺せ」の教義を存在
 させている・・この様になってはならない。
  キリスト教の「異教徒は殺せ」の教義は大きな間違い
 である。
  人類、最大の間違いの教義・教えである。
  この洗脳によって・・何と多くの人々が殺され、殺し
 合って来たか?
  多様な違いの中に「豊かさがあるのに」。
  多様な違いが、互いに調和して人類を幸せに存続させ
 て来ている事に感謝せよ・・その喜びを感謝し、享受せ
 よ・・
  多様な多神の中に存在する「喜び」に感謝しなければ
 ならない・・多神に感謝の気持ちで祈れ・・
  他を排除する一神ではない・・他を排除する戦争の神
 ではない・・
  慈悲ある多神の中に人類の幸せがある。
  智慧ある多神の存在、その他の存在に感謝する・・大
 きな気持ちとなれ・・
  グローバル化が良いのだと、一神の、一色共通の、他
 を否定する・・また、人種のるつぼで一色にすることが、
 良いのではない。
  るつぼに突っ込んで同じの一つになるのが・・良いの
 ではない・・
  違いの中に、「その豊かさを求めて行く世界」でなけ
 ればならない。
.
2019年、「友好親善」は、結局、絵に描いた餅になると歴
 史が示す・・だから「友好親善だけでは駄目」。
  外交のすべてが、友好親善で事が処せれば、外交なん
 て優しい仕事・・
  肝心な外交項目は、そんな生易しいものではない。
  肝心の外交は、大人の駆け引きの世界。
  友好親善なんて言っていたら、付け込まれて、ほぞを
 かまされるだけ。
  結局、ぎりぎりのところを戦う。
  どこかで踏みとどまって戦わないと同盟国にも見捨て
 られる。
  ハンス・モーゲンソーは、同盟について・・、
  「お互いに何らかの意味で強い国どうしでなければ(
 同盟関係なんて)意味がない」・・と言い・・
  「ぶら下がるだけの同盟国は捨てられる」と言ってい
 る。
  日本の「友好親善」は、結局、お坊ちゃま的なのか・・
 駄目となるのか・・、
  また、「貢ぐのでも駄目」・・
  金と譲歩の安易な外交だったら、「日本の未来はない」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
コメント

(増補版)641E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

2019-04-20 04:46:38 | 日記
題:(増補版)641E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月24日、航海奨励法と造船奨励法のそれぞれが公布
 された。
  航海奨励法は、日本船の遠洋航海促進を目的に制定さ
 れた。
  総トン数1000トン以上、最大速力10ノット以上、船齢
 15年以内の鉄鋼船に一定率の奨励金を支給するようにし
 た。
  これによって日本郵船は、ヨーロッパ・北米・オース
 トラリア航路へ進出した。
  また、東洋汽船も、サンフランシスコ航路を開設した。
  また、造船奨励法は、国内の造船保護の法令で、イギ
 リスとの生産力の格差は大きかった。
  建造原価が割高であった国内造船所に補助金を出して、
 発注増による造船業発達を企図した。
  補助金は700総トン以上(のち1000総トン以上)の船の
 建造、自製エンジンに対し支給した。
  海運業界は、コスト競争の為、船舶は輸入に依存して
 いて、その為、日本の造船業の発展は阻まれていた。
  しかし、この法律で、この様な状況が一転した。
  因みに、日本は、第1次大戦中の造船ブームで造船技
 術は国際水準に達した。
.
1896年3月24日、市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法を
 公布した。(3月23日説あり))
  第一条 市町村立尋常小学校及高等小学校ノ正教員及
     准教員ニシテ五箇年以上同一学校ニ勤続スル者
     ニハ国庫ヨリ年功加俸ヲ給ス
  第二条 年功加俸ハ五箇年勤続シタル者ニ本俸ノ百分
     ノ十五ヲ給シ後五箇年ヲ加フル毎ニ更ニ百分ノ
     十ヲ加ヘ百分ノ三十五ニ至リテ止ム
  以下・・略
  内閣総理大臣臨時代理、枢密院議長:伯爵.黒田清隆
             大蔵大臣:子爵.渡辺国武
             文部大臣:侯爵.西園寺公望
.
1896年3月26日、衆議院議員・福田久松ほか1人、「鉄道建
 築規定ニ関スル建議案」を議会に提出し、衆議院本会議
 で可決した。
.
1896年3月27日、大阪砲兵工廠が、塩基性平炉(3トン)の
 操業を開始した。
  大阪砲兵工廠は、大阪府大阪市にあった大日本帝国陸
 軍の兵器工廠(造兵廠)。
  大口径の火砲を主体とする兵器の製造を担ったアジア
 最大規模の軍事工場だった。
  また、技術水準もトップクラスだった。
  日本の陸軍の建設の指揮を揮った兵部大輔・大村益次
 郎の建言により設置が決まった。
  1870年、幕府の長崎製鉄所の機械や技術者、および、
 職工を移設して新設された。
  当初の敷地は、大坂城三の丸米蔵跡地だけだったが、
 その後、拡張されて行った。
  因みに、最大の行員数は、1945年8月に、6万4000人で、
 関係の民間工場の従業員は、約20万人で、火砲、戦車、
 弾薬類を開発し、製造した。
  1945年8月14日の大空襲でその機能のほとんどが破壊さ
 れた・・その時の戦死者382名(近隣の犠牲者は不明)
.
1896年3月27日、アメリカが、朝鮮の雲山の金鉱採掘権や
 京仁線の敷設権、そして、漢城の電灯・電話・電車の敷
 設権を取得した。
  李氏朝鮮は、為政者の権力闘争なども激しく、末期的
 な状況だった・・追放・失脚・暗殺も繰り返された。
  国の大切な権益を売り払っていて、アメリカをはじめ、
 ヨーロッパ諸国・ロシアなどは「草刈り場」のように反
 植民地状態」に置いていた。
  産業基盤もほとんどなく、500年も続く清の冊封体制下
 に沈んでいた。
  その様な中、日本と同様に、欧米列強と不平等条約を
 結ばされてもいた。
.
1896年3月28日、登録税法・酒造税法・営業税法・葉煙草専
 売法のそれぞれを公布した。
  明治時代初期には、税収に占める地租の割合が圧倒的
 であったが・・、
  その後、1899年(明治32年)には、酒造税が税収に占め
 る割合がトップに立つ(28%)。
.
1896年3月29日、横浜港に中国人のペスト患者が上陸した。
  これが、日本に初めての「ペスト」の上陸だった。
  横浜港に入港したアメリカ船籍ゲーリック号の乗客の
 一人(外国人)が病気のため下船し、市内の病院に入院
 した。
  この患者は、容態が急変して4月1日に死亡する。
  検査が行われたところ、「ペスト」と判明した。
  ネズミとノミを媒介し伝染するペスト・・幸運にも、
 この時は、大流行はしなかった。
  この頃、19世紀・・「ペスト」はパンデミック(世界
 的感染)の真っ最中で・・国家存亡に関わる重大事件と
 なっていた。
  これまで、幸い、「ペスト」は、日本では発症してい
 なかった。
  それ故、国内に病原菌を持ち込まないよう「検疫体制」
 の確立が急がれていた。
  ペストのパンデミック(世界的感染)は、史上3回起っ
 ていた。
  そして、三回目の世界感染は、アジアから起った。
  香港、広州で大流行して、1894年頃には、8万人〜10万
 人の死者が出たと推計されている。
  その後、全世界に広がり、1903年〜1921年の20年間で
 ペストによる死亡者は、1,000 万人を越えたとされてい
 る。
  この時期に、日本の各港が開港していて、その危険性
 が増していた。
  横浜にペストが初めて上陸したが、初めて感染した日
 本人も、横浜に住む沢田松五郎(23歳)だった。
  この人は、1899年11月に、中国から帰国し、門司港で
 下船し、広島で発病し、亡くなった。
  記録で、真性ペスト第一号とされている。
  1902年、横浜市内で、初めて流行が確認された。
  1894年、北里柴三郎は、第3回の世界流行のさなか、香
 港でペスト調査を行い、ペスト菌を発見した。
  因みに、同行した研究員は、ペストで亡くなった。
  (参考)最初のペストの世界的流行は、6世紀~7世紀
     の東ローマ帝国における流行で、「ユスティニ
     アヌスの斑点」と呼ばれた。
      二回目の流行は、14世紀、ヨーロッパで発生
     して世界へ広がった。
      全世界で、およそ8,500万人、当時のヨーロッ
     パ人口の3分の1~3分の2、約2,000万人~3,000
     万人が死亡したと推定されている。
.
1896年3月30日、製鉄所官制が公布した。
  この前年の1895年に、製鉄事業調査会を設置され、そ
 して、この製鉄所官制が公布され・・
  八幡製鉄所が、この製鉄所官制に基づいて、福岡県遠
 賀郡八幡町に、官営の製鉄所として設置された。
  この年の第9回帝国議会で、官営製鉄所建設案が可決し、
  1897年の翌年、筑豊炭田を後背に抱える福岡県八幡村
 枝光に建設が開始された。
  ドイツ人の御雇い外国人グーテホフヌングスヒュッテ
 が、設計から建設までを担当した。
  1899年に、中国湖北省ターイエ(大冶)鉄鉱山の鉄鉱
 を原料とする長期契約が結ばれた。
  1901年2月5日、東田第一高炉で火入れが行われ、操業
 が開始された。
  日本初の銑鋼一貫製鉄所(→銑鋼一貫作業)としての
 操業開始。
  因みに、八幡製鉄所は、1887年から操業を続ける釜石
 鉱山田中製鉄所に続く、日本国内で2番目の製鉄所。
  そして、先に国内初で成功を収めていたこの釜石鉱山
 田中製鉄所から選抜派遣された7人の高炉作業者が派遣さ
 れている。
  同年・1897年11月18日、東京から多数の来賓を迎え、
 作業開始式が祝われた。
  日露戦争後、飛躍的発展を遂げ、北九州工業地域の主
 要工場となった。
  操業の十数年後、全国生産の 7~8割を占める。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教よ! 日本を貶める行為を止めなさい。
    嘘のデッチ上げで、日本を貶めるな!
.
紀元前3万8000年、人類の居住の始まり
     ・
     ・
紀元前488年、レオニダス一世が即位した。
  レオニダス一世は・・歴史に名を残す知性ある王。
  古代ギリシャのスパルタの王であり、ギリシャ人の方々
 が誇りとしている英雄。
  この王には、二人の兄が居たがこの二人が亡くなった
 ため王位に就く運命となった。
  そして、ペルシャ戦争を戦うことになる。
  紀元前5世紀、この王は、その才能のゆえにかペルシャ
 戦争の歴史書を書いている。
  この事から「歴史の父」とも言われる。
  また、知的好奇心からか?この王は、南イタリアを訪
 れたり、エジプトのピラミッドを見物したりしている。
  世界周遊の探検旅行家でもあった。
  この王の立派だったことは、このペルシャ戦争につい
 ての記述で、敵将を褒め、また、敵兵を褒めた。
  「敵将と言えども立派に戦って死んだ者であれば、そ
 の将兵へあからさまな侮辱を加えることは無かった」。
  この対極にある卑劣な行為をしたのが第二次世界大戦
 におけるアメリカだった。
  アメリカは、東京裁判で裁くべき法律が無いのに、後
 から法律を新たに作って「日本の将兵を罪に落とした」。
  「無罪の人間を死刑にしてしまった」。
  レオニダス一世は、生年不詳で、紀元前488年に即位し
 た。
  紀元前480年のペルシャ戦争は、ギリシャ連合軍を率い
 てテルモピュライに布陣し、アケメネス朝ペルシャの大
 軍を迎撃した。
  粘り強く戦い、最後に残ったスパルタ兵300人と共に戦
 死してしまった。
.
紀元前480年8月、テルモピュライの戦い。
  ペルシャのとてつもない大軍団が、ギリシャへ攻めて
 来る・・
  ギリシャのスパルタ王・レオニダス一世は・・、
  ペルシャ王クセルクセスが、大遠征軍を率いてギリシ
 ャの北方に迫った時、これを迎え撃とうと、ギリシャ軍
 をテルモピュライという狭隘(きょうあい)な峠に陣ど
 らせた。
  そして、100万を超えるともいわれる大軍勢を待ち構え
 た。
  これはオーバーに誇張された人数だとされるが、僅か
 7000人足らずのギリシャ重装歩兵連合軍は、この様な状
 況に、恐怖のどん底にあった。
  撤退を口にする者もあった。
  その様な撤退希望者には、レオニダス一世は、それを
 認めた。
  ギリシャのスパルタ王レオニダス一世は、部下300人と
 この地に踏みとどまった(ギリシャ側総数は7000人とす
 る説もある)
  残ったスパルタ兵は、選りすぐりの兵だった。
  ペルシャ王は、斥候を出し、ギリシャ軍の動向を探ら
 せた。
  すると、スパルタ兵は、体育に精を出し、櫛(くし)
 で頭髪を手入れするのに余念がない・・という報告を受
 けた。
  生死を賭した決戦の前の態勢とはほど遠いと思った・・
 そして、いずれ、逃げ出すに違いないとペルシャ王は思
 った。
  しかし、5日目が来ても、撤退する気配はまったくなか
 った。
  怒ったクセルクセスは、「スパルタ兵を生け捕りにし
 ろ」と命じ、外国人部隊に襲撃させた。
  しかし、スパルタ兵は手ごわく、ペルシャ兵の被害は
 甚大だった。
  こうなったらと、「エリート軍団」の「不死部隊」に
 攻めさせた・・
  しかし、戦果は上がらなかった。
  スパルタ軍は戦術に優れていた・・敗走するように見
 せかけ、必死に追いかけ、その敵兵が追いつく頃、一斉
 反撃をした。
  狭隘な峠にも抜け道があった。
  この道がペルシャ側に知られてしまう・・
  逆に、スパルタ兵が、ギリシャ兵の背後にまわり、ペ
 ルシャ軍は、ギリシャ軍の前後を挟んだ態勢を作った。
  それでも、レオニダス一世の精鋭の兵士は、出撃して
 行って、戦いに戦った。
  ペルシャ兵の大軍の放つ矢は、雨の如く、また、嵐の
 如く降り注いだ。
  さすがのスパルタ兵も力が尽きた・・
  しかし、ペルシャ兵の戦死者も、夥(おびただ)しか
 った。
  戦いが終わった戦場に出たペルシャ王クセルクセスは、
 レオニダス一世の遺骸に出くわすと、八つ裂きにして首
 をはねさせた。
  そして、木に吊るして、さらし首にした。
  戦死者を丁重に扱うペルシャ人の慣例に反することを
 行なった。
  それほど、クセルクセスの憤りは激しく、怒りが抑え
 難い状態だった。
  それほど、レオニダス一世は、少人数ながらも華々し
 く果敢に戦ったのだった。
  クセルクセス王は、兄弟を二人戦死させている。
  レオニダス一世のその統率された精鋭部隊の勇気から
 出た「大いなる戦い」が讃えられている。
  因みに、ペルシャ陸戦部隊(ウィキペディア)は・・
  歩兵...................................1,700,000
  騎兵......................................80,000
  アラビア人のラクダ部隊・リビアの戦車部隊..20,000
  ヨーロッパよりの歩兵.....................300,000
   合計.................................2,100,000
  この後、歴史上では、この戦いが生かされて、サラミ
 ス海戦(紀元前480年9月)で、ギリシャ艦隊(アテネを
 中心とする戦力)がペルシャ大艦隊を撃破する状況が起
 きる。
     ・
     ・
1868年3月、戊辰戦争の新政府軍が、横浜に到着した。
  1868年の江戸から明治に代わる頃、横浜の外国人居留
 地の門は、外国人兵士が守るという関門になっていた。
  1868年3月、戊辰戦争で、東海道を進んで来た薩摩と長
 州の軍は・・横浜に到着した。
  しかし、外国人軍隊が駐屯する開港場では戦闘は発生
 せず、戦いは起きなかった。
  この翌月の4月には、横浜は、佐賀藩を中心とする新政
 府軍によって平和裡に接収された。
  また、この頃、横浜では、奥羽の大名が、戦艦や武器
 を購入したりするという、横浜はその様な状況の中にも
 あった。
  また、横浜の病院には、戊辰戦争の重傷者が、前線の
 病院から担ぎ込まれたりしていた。
  幕府と関係した周辺の庶民が、その様な横浜に用事で
 訪れたり、また、新政府と関係する庶民も訪れるという
 戦闘の無い横浜であった。
  戊辰戦争の敵・味方・・その関わりの中の横浜であっ
 た。
.
1873年2月24日、キリスト教の禁止が撤廃された。
  明治6年のこの年になって、太政官布告によりキリシタ
 ン禁制の高札が撤去された。
  しかし、それよりずーっと以前の1858年に、江戸幕府
 は、開港場居留地において、外国人の信仰の自由を認め
 ている。
  また、宣教師の来日も許可している。
  キリスト教は、過酷なキリスト教の取締りが行われた
 と、ヨーロッパと同様な卑劣な弾圧が日本でも行われた
 とプロパガンダするが・・江戸時代の初期の一時期だけ
 が厳しいという日本だった。
  実態は、上記の信仰の自由の令だけではなく、『実際
 の取締りが行われていない』という状態だった。
  各藩においても、キリスト教の信仰がたとえ知られて
 も、見て見ぬ振りをする状況の中において、何ら取り締
 まりは行われていなかった。
  しかし、キリスト教の教義の中には「殉教」を讃美す
 る言葉があり、日本での取り締まりも、厳しい状況であ
 ったと、殉教があったと・・仕切りに過酷に表現した。
  このキリスト教禁止が撤廃される260年間の間、日本で
 は過酷な弾圧が行われたとキリスト教はプロパガンダ(
 嘘宣伝)をして、日本だけではなく世界に間違った印象
 を与えている。
  この禁止撤廃がなされる前にも、実態は、しきりに宣
 教師が江戸入りして居たり、教会が建てられたりもして
 いる。
  このキリスト教禁止の撤廃は、「法のけじめ」をつけ
 るためにやっただけの事で、キリスト教が言う「それま
 で厳しく取り締まった」というのは『嘘のプロパガンダ』
 である・・キリスト教は嘘で日本を貶める行為は止めな
 さい。
  また、「隠れキリシタン」と言ったって、牧師も神父
 も居ない中で、「隠れキリシタンと言われる人たち」が
 近所の神社・仏閣にお参りする人たちを「隠れたキリシ
 タンだ」と言えるか・・言えるわけはない。
  信仰の実態も、キリスト教からかけ離れた状況になっ
 ていて、「もう、別の宗教となっている」・・キリスト
 教の存在が殆どない状況となっている。
  一生懸命、キリスト教の面影(おもかげ)を探すが、
 その点を拡大し、誇大に表現しているが、それが隠れた
 キリシタンだという言い方をすることは間違っている。
  キリスト教は、隠れキリシタンだとしたいため、仕切
 りにキリスト教への入信を勧めるが、村の古老が「我々
 のやり方とは、違う」とはっきり断っている。
  その古老の心には、キリスト教に対して、明らかに、
 「我々とは違う宗教だ」と言っていることになっている。
  それを、無理に、キリスト教への入信を勧める行為を
 するキリスト教は、「新たな宗教弾圧を行なっている状
 況になっている」。
  最近は、けばけばしいキリスト教の聖職者の服を着て、
 その方たちの儀式へ参列したりしているが、キリスト教
 から離れて『別の宗教となっている宗教』への強制的参
 入をしている状態となっている。
  キリスト教の専門解説書にも、「260年間の断絶の上の
 発見は、世界史的にも特異である」と解説している様に、
  「その特異なもの」を、美しく、自分たちに都合のよ
 い状況の捏造をしているのである。
  そして、キリスト教は、「260年間、耐えて来た」と説
 明しているが、耐えても何もない状況を仕切りに悲惨な
 状況を印象付けている・・それなりの宗教を作って来て
 いるだけなのだ。
  明らかに、その実態は、神道や仏教や呪術と合体した
 「キリスト教とは、まったく別の宗教」なのである。
  キリスト教徒の研究者の片岡弥吉という人でさえ「政
 治、社会、宗教などの異常な環境条件がいかに人間の思
 想や信仰まで異常化させるか」と述べている様に、『異
 常化』と表現する様に「別の状態になっている」のであ
 る。
  日本の宗教が異常とは言えないが・・年月がその様に
 変えてしまったのである。
  そこを、美しく書いて世界遺産へ申請して・・、
  今回、世界遺産となったが・・??
  日本のキリスト教の申請を許可する世界のキリスト教
 社会は、前回は却下したが、今回このデッチ上げを取り
 上げたのだった。
  日本には皆無だった弾圧の虚像が作られようとしてい
 る(当初のほんの一時期だけなのである)
  「日本を植民地化する」という方針のキリスト教が、
 その実態を知った日本の統治者(秀吉や徳川幕府)が、
 日本の法に従わないキリスト教宣教師たちの取締りを強
 化したことが拡大表現されしてプロパガンダされている。
  また、日本で行ったキリスト教の弾圧行為の絵だと卑
 劣な状況を作った絵を・・、
  そして、誰が書いたかわからない絵を、最近は、とっ
 てつけた様な「真実そうな解説」を付けて、仕切りにプ
 ロパガンダしている・・やることが卑劣である。
  実態を見ていない空想の絵を、さも見た者が居て描い
 たのだなどとの嘘のプロパガンダなどが行われている。
  それが、大学という学術的な場所で、キリスト教系の
 教職員によって嘘講義が行われている・・大学の権威失
 墜行為を行っている。
.
19世紀末、ロシアが極東に達し、南下し、中国を侵略する。
  そして、朝鮮半島を侵犯しながら、日本とも軋轢を生
 む・・
  ロシアと、あちこちで衝突していたイギリスは、この
 ロシアと日本が戦うように行動した。
  戦いとなってロシアが敗ければ、イギリスの目的は果
 たせて都合は良くなるのだった。
  イギリスの中国利権を侵食するロシアへ打撃を与える
 目的もあった。
  この頃、イギリスは、チベットやウイグルやネパール
 で、このロシアと凄(すさ)まじい戦いをしていた。
  だから、この様なロシアが、日本と戦うことは、イギ
 リスにとって好ましいことだった。
  そして、日露戦争が起きる。
  日露戦争を戦った日本は消耗したが、力を付ける状況
 にもなった。
  欧米列強と伍す(ごす、他と同等の位置に並ぶ)状況
 となった。
  衰退する日本ではなかった。
  この様な日本とアメリカは満州でぶつかる・・アメリ
 カは満州の利権が欲しかった。
  また、同様に、ドイツも、中国の利権漁りに暗躍する。
  このドイツは、イギリスとぶつかった。
  イギリスは日本と、1902年、日英同盟を結んだ。
  まだ、この頃のアメリカは、イギリスの下にいた。
  日露戦争まで、アメリカは親日的だった。
  日本は、日露戦争後、アメリカがあれほど嫌日政策を
 とるとは予想できなかった。
  ここから、方向転換がなされて行く。
  この後、日本は、イギリスとの同盟関係も無くなって
 行く・・ここでアメリカが色々と工作し行動した。
.
1936年7月18日、スペイン内戦(~1939年3月)
  この5か月前の1936年2月16日に、スペインで総選挙が
 行なわれた。
  その結果、共和主義者や社会党、そして、共産党の協
 力による人民戦線が、右翼の国民戦線に対して勝利した。
  そして、1936年2月19日、選挙に勝利した共和主義者が
 中心となって、アサニャを首班とする人民戦線政府を成
 立させた。
  この左翼政権は、ソ連が支配している赤色政権だった。
  この様な結果は、1931年の第二共和政の成立以来、激
 しくなっていた国内の政治的対立を、ますます激しくし
 た。
  選挙に勝利した人民戦線政府は、2年前の1934年10月の
 反ファシスト政府蜂起における政治犯の釈放や、農地改
 革、カトリック教会の特権の縮小などを課題とした。
  しかし、大衆は、さらなる徹底した社会変革を望んで
 いた。
  特に、スペインにおいて強力であったアナキスト系の
 労働者や農民は、人民戦線政府の意向を越えて・・革命
 化していた。
  これに対して、自由主義的な中間層や社会党・共産党
 の指導下にある労働者などは、人民戦線政府に協力する
 態度をとっていた。
  一方、大資本・地主・キリスト教会を基盤とする右翼
 諸勢力は、軍部を中心として秘かにこの政府の打倒計画
 を進めた。
  革命の陰謀は、フランコらの何人かの将軍を指導者と
 して練られた。
  1936年7月17日のモロッコにおける駐屯軍の蜂起を機に、
 その翌日の1936年7月18日に、軍部が、スペイン各地で反
 乱を起こした。
  この時、フランコは、カナリア諸島からクーデターの
 宣言を放送した。
  反乱は、短期決着を狙ったクーデターとして始まった。
  しかし、労働者の抵抗など、人民戦線政府側の反撃に
 あって、このクーデター計画は失敗した。
  ここで、フランコは、指揮下に、モロッコを拠点にし
 た反乱軍を確保し、ドイツとイタリアの援助も受けて、
 本土に上陸した・・
  フランコ将軍は首都へ進軍した。
  ここから長い内戦が始まった。
  ソ連は、当然のごとく政府側を支援し、政府側は、ま
 た、国際義勇軍の支援も受けた。
  一方、ドイツとイタリアは、フランコ将軍の革命軍側
 に協力した。
  この状態で、イギリスとフランスは、政府側についた。
  イギリスは、ソ連と共同戦線を張った。
  スペインが戦場のこの内戦で、イギリスとフランスは、
 ナチス・ドイツと戦った。
  これで、イギリスとフランスは、『徹底的に』、ドイ
 ツとイタリアと対立した。
  ここに、第二次世界大戦の芽が生まれた。
  スペイン内戦は、結局、ドイツとイタリアの援助を受
 けた軍部・右翼勢力が勝ち、フランコ将軍の独裁体制が
 成立した。
  そして、フランコ将軍が死去する1975年まで独裁政権
 を維持した。
  この内戦は、ピカソの絵画「ゲルニカ」のモチーフに
 なった。
.
1946年11月12日、閣議で現代かなづかいを決定(アメリカ
 の指図)
.
1946年11月15日、アメリカの日本語の破壊行為
  脅威の芽を日本から摘み取るという名目で、GHQが
 行った日本の文化破壊・・その一つである日本語の「国
 語破壊」。
  これは、『改革』という美しく聞こえる名目で始めら
 れた。
  GHQが実施したのが、国語改革・・
  やり方は・・内閣告示という形で、日本人が自ら行っ
 た様に見せかけた。
  1946年(昭和21年)11月15日、内閣訓令第七号「当用
 漢字表の実施に関する件」、第八号
  「現代かなづかいの実施に関する件」
  江藤淳氏は、この国語改革を以下の様に批判した。
  『漢字制限をおこない、表音的かなづかいを強制する
 ということは、アメリカの占領者の側から見れば、日本
 語を少しでも素通しに近いものに変形させ、アメリカ人
 に習得しやすいものにするにとどまらず、それによって
 日本語の周辺に漂っていると思われた神秘的な要素を、
 一挙(いっきょ)に洗い流してしまうことをも意図して
 いた」。
  (参考)江藤淳:えとうじゅん、1932年12月25日~1999
     年7月21日、神奈川、鎌倉、評論家。
      東京工業大学、慶應義塾大学教授等を歴任、
      本名:江頭淳夫。
      1957年、慶應義塾大学英文科卒業。在学中、
     胸を病む。
      1976年、芸術院賞受賞。日本文芸家協会理事
     長などを歴任。
      1998年、妻慶子に先立たれ、亡くなるまでを
     綴った手記『妻と私』を発表、その後自殺した。
      代表作:『奴隷の思想を排す』(1958年)
          『小林秀雄』(1961年)
          『成熟と喪失』(1967年)
          『海は甦える』(1976年)
          『漱石とその時代』(1970年、未完)
      主な受賞歴:新潮社文学賞(1962年)
            菊池寛賞(1970年)
            野間文芸賞(1970年)
            日本芸術院賞(1976年)
            正論大賞(1997年)
  その結果・・どういうことが起きたか・・
  漢字及び仮名遣いの両面において・・、
  大東亜戦争以前の日本の言語文化は、戦後の言語文化
 と制度的に切り離されることになった。
  豊かな日本語・・その言葉に内包する日本人の情念や
 意志も、その連続性が断たれることとなった。
  江藤教授は・・
  「『言葉』の変質とは、単なる言い換えにとどまりは
 しない」、
  「変質させる側からいえば夥(おびただ)しいエネル
 ギーを奪取することであり、変質される側にとってみれ
 ば際限もない脱力感を経験させられること」で・・、
  「『大東亜戦争』が『太平洋戦争』と言い換えられた
 とき、『大東亜戦争』のために傾注されて来たあらゆる
 エネルギーは、一挙に空無化され」・・、
  「そのあとには果てしない徒労感のみが残る。
  一方、かつて『太平洋戦争』を戦ったことがない日本
 人が、『太平洋戦争』という記号に自己の経験を重ね合
 わせることは、きわめて困難だといわなければならない」
  『自由と禁忌』と江藤淳教授述べた。
  歴史的仮名遣いは、使う人の趣味やある種の芸術性の
 有無の問題などではなく、
  日本人の「国語」としての成り立ち、合理性、わかり
 やすさの問題で・・
  それは、今日、生きている日本人の歴史的財産である
 はずで・・
  それを排除されてしまっては、日本の文化遺産に触れ
 ることも、過去の日本人の心情を理解することもできな
 くなってしまう・・
  そういう畏れを持ちたかった・・
  「守るべきもの」を、「失いつつあること」を自覚す
 る、その痛みを感じる・・
  福田恆存の次の言葉を・・
  「言葉は、私達の生まれる前から存在し、長い歴史を
 生きて来たのであり、私達は、日本語といふ大家族の一
 員として生れた新参者なのである。
  とすれば、私達は言葉を学ぶのではなく、言葉が私達
 に生き方を教へるのである。
  私達は、謙虚に言葉に附き合はなければいけない。
  自然と歴史と言葉、この三者は、知識としては教育の
 対象ではあるが、それ以上に最上の教師である事を忘れ
 てはならない」。
  「言葉は教師である」
  守るべきは、自然と歴史と言葉・・
.
1946年11月16日、内閣が当用漢字・現代かなづかいを告示
 (アメリカの指図)
.
1963年6月、アメリカのケネディ大統領が政府紙幣を発行し
 た。
  アメリカのケネディ大統領は、大統領令11110号
(Executive Order 11110)に署名した。
  そして、1963年6月に、財務省証券という名前の政府紙
 幣を発行した。
  その札は、FRBが発行している紙幣とほぼ同じデザ
 インだった。
  ただFRBのマークが無く、その代わり「政府券」と
 印刷された紙幣だった。
  42億ドル分が発行されたが、FRBの持つ独占的な通
 貨発行権への挑戦だった。
  そして、ケネディは、1963年11月22日に暗殺された。
  犯人とされたオズワルドも、ダラス警察署の中で射殺
 された。
  ケネディの後の大統領となった副大統領のリンドン・
 ジョンソンは、ケネディが発行したドル紙幣を秘かにそ
 のすべてを回収させた。
  政府発行紙幣など無かったかのように・・
  ケネディ暗殺と政府発行紙幣が関係があるかのように、
 明らかな関係性をその行動は「ある」と示していた。
  エドワード・グリフィンの「マネーを生み出す怪物」
 を読まれよ。
  (参考)チャールズ・リンドバーグ下院議員は、連邦
     準備法が可決された1913年12月23日に次のよう
     に述べた・・
     「連邦準備法は、世界で最も巨大な信用を規定
     するものだ。
      ウィルソン大統領がこの法案にサインすれば、
     金融権力という見えない政府が合法化される。
      この銀行制度と通貨に関する法案によって、
     世紀の重大な犯罪が準備されることになるのだ」
      アメリカ国民の方々が支払った税金の20%が
     国際金融資本家へ流れている。
.
2015年、日本の平均年収:420万円
  この平均年収は、前年度より約5万円増となった。
  男性が、521万円(前年より3万円増加している)、
  女性が、276万円
  前年に比べて、男性は1.2%増、女性1.4%増。
  因みに・・この年のNHK平均年収:1780万円
  一般庶民の日本国民は、努力してこの平均年収となっ
 ている・・が・・
  NHKはこの4.24倍・・貴方の4年分の働き分以上を貰
 っている。
  あなた方の4人分以上の金を得ている。
  NHKは、優雅に、ろくに働かなくて、高給をお手盛
 りで得ている。
.
2015年、外国人の犯罪・・中国32.3%・・など
  日本における外国人の犯罪データーについて・・、
  衆議院議員の自由民主党の長尾敬氏の調査した結果が
 以下である。
  平成27年度の検挙件数と検挙人数、
 ☆総件数:...14,267件、
  ①中国:....4,615件(32.3%)
  ②ベトナム:3,315件(23.2%)、
  ③ブラジル:1,410件(9.9%)、
  参考値、アメリカ:245件(1.7%)、
 ☆総人数:...10,042人、
  ①中国人:..3,637人(36.2%)、
  ②ベトナム:1,967人(19.6%)、
  ③フィリピン:833人(8.3%)、
  ④韓国:......696人(6.9%)
  参考、アメリカ:178人(1.8%)
 ☆沖縄における外国人犯罪:2018年、
  外国人総検挙数:119件、
  その内、アメリカ人関係(米軍関係)総検挙数:31件、
  粗暴犯・窃盗犯16件(以上:米軍広報の発表)2014年、
  沖縄人口比:0.24%、米軍の犯罪比率0.05%・・
  沖縄の米軍の犯罪の比率は少ない
  (参考)外国人は逮捕しにくい。
      また、犯罪を起こしたら、すぐ帰国してしま
     うという傾向がある。
.
2017年1月20日、ドナルド・トランプ氏が、第45代アメリカ
 合衆国大統領に就任した。
  2015年6月16日に、2016年のアメリカ合衆国大統領選挙
 へ共和党から出馬することを表明した。
  トランプ氏の初期キャンペーンは、大々的にメディア
 の注目を浴び、広く一般の支持を集めた。
  ヒスパニックへの愛を表明し、マンハッタンのトラン
 プ・タワーで各分野のラティーノ指導者らと会談を持ち、
 マイノリティの声に耳を傾けてもいる。
  (参考)ラティーノ:スペイン語を母国語とする中南
     米出身者やその子孫で、米国に住む人々。
  また、親しい黒人女優のオマロサ・マニゴールトとと
 もにミシガン州デトロイトを訪れ、黒人有権者らとセル
 フィ(画像撮影)したり、赤ちゃんを抱っこしたり、一
 緒に踊ったりし、差別されてきた人たちを理解している
 ことを訴えた。
  2016年11月8日、2016年アメリカ合衆国大統領選挙一般
 投票が行われ、開票の結果、一部の州を除き、全米で過
 半数の選挙人を獲得する見通しとなったため、第45代ア
 メリカ合衆国大統領に就任することが確実となった。
  そして・・
  労働者が、今、「労働者」と言うと何か?古そうに感
 じるが・・、
  その労働者が、豊かになりたいと、「労働争議権を獲
 得して、豊かな賃金を獲得して、その夢を実現して来た」。
  しかし、グローバル化の音頭の中で、企業は、高賃金
 の国から、「低賃金の労働力を求めて」出て行った。
  高賃金を獲得したその労働者は失職し、年収はがた減
 りした。
  一方、グローバリズムの波に乗って、「グローバル企
 業は儲けた」。
  経営者は、より高い年収となり、その年収の格差は拡
 大した。
  グローバリズムで、「豊かな者は、より豊かになり」・・
 一方、貧者は、さらに貧困層へ下落した。
  トランプ大統領は、この貧者を救いたいと「反グロー
 バリズム」を掲げた。
  その方針の中で「アメリカ第一主義」を掲げた。
  今まで世界を牛耳ってきた『エスタブリッシュメント
 たち(特権階級の者たち)』にとって一大事となった。
  キリスト教は、特に、このグローバリズムの本質を説
 明しないで、グローバリズムを良いものと「錯覚させて
 説く」。
  特に、卑劣なのは・・キリスト教系大学の学長が、学
 院生へ説く言葉・・
  「多様性に対する寛容とナショナリズム克服の進展が
 ある」と美しくグローバリズムをとらえて讃美して説く。
  そして、対極にあるナショナリズムは「分断と排除だ」
 と悪く思い込ませて説く・・、
  キリスト教の宗教が、今までやって来たことと同じ様
 にすり替えて、グローバリズムを美しく思い込ませて洗
 脳的に説く。
  キリスト教こそ、「異教徒は殺せ」の異質な者への排
 除をして来て、グローバリズムとまったく逆であったの
 に・・「ナショナリズムは、異質な者への尊重が無い」
 と悪者にすり替えて説く。
  キリスト教の「選民思想(神に選ばれし民の思想)」
 こそ、「反グローバリズムである」のにひた隠しにし・・
  キリスト教の聖書で、キリスト教の神が「奴隷にせよ、
 奴隷にせよ」と叫ぶことさえひた隠しにして・・、
  (「我が民族以外は奴隷にしてしまえ」をひた隠しに
 して)、グローバル化へ衣替えして、美しく言い換えて
 いる。
  トランプ大統領の政策・・
  ・低所得層の税金は免除する。
  ・法人税を35%を半分以下の15%にする。
  ・海外に移転した企業をアメリカに呼び戻す。
  ・不法移民は受け入れない(不法なので当然。入国し
   たいのなら合法的にアメリカに入国しなさい)
  世界のメディアは、日本のメディアも含めて、このト
 ランプ大統領の足を引っ張る事ばかりをする・・その様
 に印象操作をする。
  特権階級のエスタブリッシュメントとつながる「メデ
 ィアの黒い線」が世界に張り巡らされている。
.
2019年3月11日、この日に放送されたTBSの番組「1番だ
 けが知っている」に、IQ(知能指数)188の天才、太田
 三砂貴(みさき)氏(24歳)が出演した。
  IQは、東大生の平均が120、レオナルド・ダ・ヴィン
 チが180だという。
  そして、
  IQ188になると5億人に一人の天才で、日本の歴史上
 最高の天才だという。
  太田氏は、高校時代の16歳の時にMENSA(高知能
 者の集まる組織、高知能の人しか入会できない組織)の
 入会試験で高得点を出した。
  脳科学者の中野信子氏によると、「IQが高ければ学
 力が高いわけではない」と言われる。
  そして、「これは、IQを語るときのジレンマで、今
 の受験勉強というのは、記憶力が高ければ受かる仕組み」。
  「記憶学習能力とIQは違う」。
  「記憶学習能力が高いことは、頭がいいということで
 はない」と言われる。
  (参考)
  知能指数(Intelligence Quotient、IQ)
  IQが高いほど知能が高いことを、低いほど知能が低
 いことをあらわす。
  中央値が、IQ100
  IQ85~IQ115の間に約68%の人が収まる。
  IQ70~IQ130の間に約95%の人が収まる。
  IQ50~IQ70は軽度知的障害、IQ35~IQ50は中
 度知的障害、IQ20~IQ35は重度知的障害、IQ20未
 満は最重度知的障害とされる。
  年齢の低い児童の場合は、IQが200を超えるような場
 合もある。
  ミシガン大学のNisbett教授によると、IQの平均は
 1947年から2002年の間に18上昇しているという。
  30年で約10上昇している。
  この現象のことをFlynn effect(フリン効果)と呼ぶ。
  性差は、知能に関する多くの調査では性差は発見され
 ていない。
  カリフォルニア大学ロサンゼルス校ラスキン公共政策
 大学院の研究者 JISUNG PARK の研究で、2001年から2014
 年までの13年間、1000万人のアメリカ人学生に行われた
 PSAT試験の追跡調査が行われた。
  その結果、気温が高い年の試験結果が悪くなる傾向が
 みられた。
  特に、空調の恩恵を受けられない貧困家庭などに大き
 な影響がみられた。
  同一人物のIQは、ある程度は、年齢とともに変動す
 るものだと言うことができるとされている。
  また、「小学校1年生時点のIQはそれ以降大きく変わ
 るケースが多い」ということと、「小学校3年生以上では、
 IQの変化はかなり少なくなってくる」という研究結果
 もある。
  また、大きな事件があった場合や、深い悩みがあった
 場合などはIQが大きく変動する。
  性悪説で悪く思考したりすることは良くない。
  評価:
  130以上・・非常に優れている。2.3%
  120~129・・優れている。6.8%
  110~119・・平均の上。16.1%
  90~109・・平均。49.5%
  80~89・・平均の下。16.1%
  70~79・・境界線。6.8%
  69以下・・知的障害(認知症を含む)2.3%
.
  IQ:74~88、全人類の約20%
  IQ:89~100、全人類の約25%・・普通
  IQ:101~111、全人類の約25%・・普通
  IQ:112~120、全人類の約15%
  IQ:121~125、全人類の約5%
  IQ:126~131、全人類の約3%
  IQ:132~137、全人類の約1%
  IQ:138~150、全人類の約0.9%
  IQ:151~160、全人類の約0.09% リンカーン、コペル
   ニクスなど
  IQ:161~176、全人類の約0.009% アインシュタイン、
   デカルトなど
  IQ:177~200、全人類の約0.0009%ゲーテ、シェイクス
   ピア、ニュートンなど
         以上合計、95パーセント
  以上から
  IQ:0~23、全人類の約0.0009%
  IQ:24~39、全人類の約0.009%
  IQ:40~49、全人類の約0.09%
  IQ:50~62、全人類の約0.9%
  IQ:63~68、全人類の約1%
  IQ:69~74、全人類の約3%
  IQ:75~79、全人類の約5%
  IQ:80~88、全人類の約15%
  IQ:89~100、全人類の約25%・・普通
  IQ:101~111、全人類の約25%・・普通
  IQ:112~120、全人類の約15%
  IQ:121~125、全人類の約5%
  IQ:126~131、全人類の約3%
  IQ:132~137、全人類の約1%
  IQ:138~150、全人類の約0.9%
  IQ:151~160、全人類の約0.09% 
  IQ:161~176、全人類の約0.009%
  IQ:177~200、全人類の約0.0009%
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
コメント

(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

2019-04-12 05:00:17 | 日記
題:(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月1日、大隈重信が進歩党を結成した(~1898年6月
 20日)
  この日、立憲改進党、立憲革新党、大手倶楽部、帝国
 財政革新会、中国進歩党などが合同し・・
  立憲改進党などを中心にして、代議士99名で結成した。
  大隈重信が事実上の党首であったが、正式な役職には
 就かず、形式的には犬養毅、尾崎行雄、大東義徹、柴四
 朗(東海散士)、長谷場純孝の5名の総務委員が代表者と
 なった。
  進歩主義に立つことを宣言し、責任内閣の完成と、国
 権の拡張、財政整理を掲げた。
  自由党に対抗して、小政党を合併して組織された政党
 だった。
  1896年9月に、第2次松方正義内閣に大隈重信が入閣し
 進歩党も与党となって、第10議会では金本位制確立のた
 めの貨幣法案を成立させた。
  1898年に、第三次伊藤内閣の成立後、自由党と合同し
 て憲政党に改組された。
.
1896年3月1日、第一次エチオピア戦争: アドワの戦い
  イタリア軍とエチオピア軍が、エチオピアのティグレ
 州アドワ近郊で戦ったが・・
  イタリアのエチオピア征討軍は、アドワで大敗した。
  イタリアの敗北が決定づけられた。
  19世紀のアフリカは「悲惨な世紀」だった。
  ヨーロッパ列強各国によって、いい様に殺戮され、植
 民地化された。
  アフリカの大部分は、ヨーロッパ列強の国々によって
 影も形も無い状態だった。
  アメリカの黒人の方々の棄民目的でリンカーンが造っ
 たアフリカの国=リベリアと、このエチオピアのみが独
 立国であった・・ほとんどの国々が植民地で、蹂躙され
 ていた。
  だが、植民地獲得の欲望が収まらないヨーロッパ各国。
  そして、このエチオピアへも侵略が行なわれた。
  エチオピア軍を率いたのは「メネリク2世」だった。
  イタリア軍は、補給に事欠く状況だったが、本国の命
 令でオレステ・バレティエ将軍は、1896年2月29日、進軍
 を命じた。
  この状況を察知していた優秀なエチオピア軍は、即座
 に全面攻撃を命じた。
  イタリア軍14,527名、エチオピア軍12万人・・エチオ
 ピア軍は、各地でイタリア軍を包囲した。
  イタリア軍が撤退をすれば、追撃をし続けた。
  イタリア軍は8,000名を失った・・また、エチオピア軍
 も1万名を失った。
  主力を欠いたイタリア軍は降伏をせざるを得ず、アジ
 スアベバ条約を締結して、エチオピアの当然の独立を承
 認した・・
  『白人の横暴な行為』が挫けた事例として燦然と輝く。
.
1896年3月7日、沖縄県に県区制、郡区制が公布され、県下
 を首里区、那覇区と5郡で区分する。
  明治29年勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」に
 より・・、
  島尻郡、中頭郡、国頭郡、宮古郡、八重山郡の5郡を設
 置し、宮古と八重山に島庁(島司)を置いた。
  また、「那覇市」の前身「那覇区」と、首里市の前身
 「首里区」を設置した。
.
1896年3月7日、衆議院議員・立石岐ほか5人は、「鉄道敷設
 上本位軌道採用ニ関スル建議案」を提出した。
  また、市島謙吉ほか4人は、「広軌鉄道ニ関スル建議案」
 を議会に提出した。
  建議案は、特別委員に付託され、3月25日、本会議に
 修正案報告、同修正報告案賛成多数で可決された。
.
1896年3月10日、参謀総長の小松宮彰仁親王は、閣議決定を
 みた台湾縦貫鉄道、ならびに、基隆築港測量費の10万円
 のうち約7万3000円を鉄道建設調査費として支出すること
 を台湾総督に通牒(つうちょう、書面で通知すること)
 した。
  この調査費によって、この年の6月までに、新竹・打狗
 間の予測が終了した。
.
1896年3月11日、東海道線の大阪駅~西ノ宮駅間が複線とし
 て開通した。
  1869年、政府は、東京~京都の両京を結ぶ鉄道を幹線
 と定め、重視して施策を進めた。
.
1896年3月13日、奈良鉄道の玉水駅~木津駅間が開通した。
.
1896年3月15日、日本郵船が、欧州定期航路を開設した。
  土佐丸が就航する。
  また、1896年10月には、豪州航路を開設した。
  2年間の激しい競争の末、日本郵船のボンベイ航路は、
 国際的に認められた。
  「近海の海運」から「遠洋への海運」へと事業は拡大
 して行った。
  続いて挑戦したのが・・「欧州航路」だった。
  1896年、日本郵船は、ロンドン支店を設置し、土佐丸
 をヨーロッパに向け出航させた。
  しかし、またしても、欧米の海運会社組織が、既得権
 を主張した。
  復路(東航)のロンドンと、往路(西航)の上海寄港
 を阻止してきた。
  この最大の貨物集積地に寄港できないことは、ビジネ
 ス上の大きなマイナスだった。
  しかし、その相手を刺激すれば、ビジネスそのものが
 できなくなる状況だった。
  屈辱的な条件のもとで、運航を続けた。
  その様な運行状況ながらも、日本郵船は、船隊の拡充
 を進めて行った。
  信濃丸を含む13隻が揃った。
  総トン数で欧州海運会社に匹敵する体制ができあがっ
 て行った。
  この様な立派な体制になっては、対抗相手側も無視で
 きず、日本の海運を対等の競争相手と認めざるを得なか
 った。
  1902年、日本郵船は、欧州極東往航同盟への正式加入
 を果たした・・
  これを契機にして、海外への航路網を飛躍的に伸ばし
 て行った。
.
1896年3月16日、陸軍が、6個師団の増設を決定した。
  1871年に、明治政府は、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮
 台、東北鎮台の4鎮台を設置した。
  そして、1873年、2鎮台を増設して、東京鎮台、大阪鎮
 台、名古屋鎮台、広島鎮台、熊本鎮台(旧:鎮西鎮台)、
 仙台鎮台(旧:東北鎮台)の6鎮台を設置した。
  そして、1896年から、軍備拡張によって師団が増設さ
 れ・・、
  明治末には、国内の師団数は18となった。
.
1896年3月16日、朝鮮の大院君一派の人々が逮捕された。
  漢城府観察使の金経夏や呂圭亨など数十名が逮捕され
 裁判へ
  1896年2月11日、李氏朝鮮の第26代王・高宗が、ロシア
 公使館へ騙(だま)され、脅されて、逃げ込んで、親露
 政権が作られだが、そして、その結果、ロシアは種々の
 利権を獲得していくが・・
  そして、この日、親日派だとして金允植が流刑にされ
 たり、親日派が殺されたりした。
  この様な状況に怒った民衆が暴動などを起こしたり(
 1896年2月18日)・・
  1896年2月22日、李範晋が、法部大臣兼警務使となり、
 大院君派の粛清を開始した。
  朝鮮国内は荒れていた・・そして、この日、高宗と対
 峙する大院君派が逮捕された。
.
1896年3月22日、「生物始源、一名:種源論」立花銑三郎訳、
 経済雑誌社、
  立花銑三郎が、ダーウィンの著作を「生物始源(一名
 種源論)」という題で日本初翻訳をした。
  1000ページを超える大著だった。
  この時、28歳の銑三郎は、学習院嘱託教授であった。
  ちなみに、銑三郎は、夏目漱石の大学予備門時代から
 の同級生だった。
  銑三郎は、1900年、35歳で早世するが、漱石は、1909
 年に発表した中篇「満韓ところどころ」のなかで、銑三
 郎を親しげに「銑さん銑さん」と呼んでいたことを回想
 している。
  銑三郎と夏目漱石は、行く時期はずれたが、共に、ド
 イツとイギリスへ留学している・・
  そして、その翌年の1900年に、遅れて来た夏目漱石と
 対面した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本人の一般国民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
    シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
    その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされている監禁の状態だった。
.
紀元前5万年以上、原人:「ホモ・ルゾネンシス」がフィリ
 ピンで発見される。
  2018年4月11日の読売新聞に・・新「原人」化石、フィ
 リピンに。アジアで5番目・・と報道されていた・・
  以下、その記事の抜粋・・
  フィリピン・ルソン島で、新種の人類の化石が見つか
 ったと、フランスとフィリピンなどの研究チームが発表
 した。
  同島に5万年以上前に生存していた原人とみられる。
  (参考)原人:人類の進化は5段階(初期の猿人、猿人、
     原人、旧人、現生人類)に大別され、その3段階
     目にあたる。
      猿人とは違い、アフリカからユーラシア大陸
     に進出した。
      猿人より脳が増大し、顎や歯が縮小した。
  アジアで発見された第5の原人となり、同チームは「東
 南アジアの島々における人類の進化の複雑さなどを示す
 発見だ」としている。
  論文が11日、英科学誌ネイチャーに掲載される。
  化石が見つかったのは、同島北部のカラオ洞窟。
  歯や手足の骨の化石で、分析した結果、猿人の様な原
 始的な特徴と30万年~20万年前に誕生した現生人類(ホ
 モ・サピエンス〉などに似た特徴が混在し、同時代にア
 ジアにいた他の原人と異なっていた。
  同チームは新種と判断し、「ホモ・ルゾネンシス」と
 命名した。
  化石の年代測定から、5万年以上前に同島にいたとみら
 れる。
  アジアの原人は、中国の北京原人、インドネシアのジ
 ャワ原人とフローレス原人、中国の和県人(わけんじん)、
 台湾の澎湖人(ほうこじん)が過去に見つかっていた。
  ホモ・ルゾネンシスの臼歯は極端に小さく、海部陽介・
 国立科学博物館人類史研究グループ長は・・身長1メート
 ルあまりのフローレス原人のように「小型化していた可
 能性がうかがえる」と指摘。
  「アジアの島々では非常に独特は進化が起きており、
 他の島でも新種が見つかる可能性がある」と話す。
  ・・以上・・
 (関連事項):
  以上の話の中に、日本の先住民として、アイヌの根拠
 となる話はまったく出て来ない・・また、想像も、まっ
 たくできない。
  それは、アイヌは、それよりズーット後の世の1300年
 代にできたことが科学的に判明していて、分かっている
 からで・・
  アイヌは、まったく先住民ではない・・
  その様なことが分かっていながら、今、日本では、ま
 ったく異常な、非科学的な、また、まったく根拠のない
 「アイヌが日本の先住民族だ」という政治的決議がなさ
 れようとしている。
  今回の地方選で演説していた立憲民主党の女性議員と
 話し合ったが・・
  その論理に、まったく科学的な根拠がなく、ただ政治
 的な動きで「先住民としようとしていることが、はっき
 りわかった」。
  その議員が、「北海道でアイヌは先住民として生きて
 来た」と主張したので・・
  「北海道には、アイヌの人たちより何万年も前から縄
 文人の人たちが居たのですよ。縄文遺跡もいっぱいあり
 ますよ」と教えてあげた。
  「アイヌは日本人なんです」と主張したので・・
  「そうです。しかし、樺太のアイヌは日本人ではあり
 ません」と答えた・・
  「私は人類学をやって来た」と主張したので・・
  「そんな看板で話はしないでください」と言った。
  「国連が決めているから」と主張したので・・
  「国連が間違ったことを決める訳がない。国連が間違
 っているのなら、国連に科学的に正しいことを教えてや
 ってください」と伝えた・・
  「アイヌの言語が独特だ」と主張するから・・
  「言語が独特というなら、1例として中米のインディオ
 の方々には160もの言語があるのです。160もの先住民が
 居るという事ですか?」と・・返事が出来ない、答えら
 れない。
  「北海道にはアイヌの地名が一杯ある」と主張するの
 で・・
  「アイヌの地名なら九州にだってあるんですよ」と説
 明する。
  「学者・専門家に言って下さい」と主張するので・・
  「学者にも言っています。今は、間違っている政治家
 のあなたに間違いを説明しているのです」と言った。
  などなど・・最後は、応援演説をしたいのでと言って
 逃げた。
.
1836年、合衆国第二銀行の期限が来る・・アメリカの運命
 を決める中央銀行の期限が来る・・
  アメリカに中央銀行を作らせ、この通貨発行権を握ろ
 うと暗躍するイギリスのロスチャイルド家。
  そのアメリカの中央銀行を民間銀行として、その株式
 を牛耳ろうとするやり方自体も異常である。
  アメリカの通貨である「米ドル」を発行する銀行を民
 間銀行とするというのも異常であるが、この株式をロス
 チャイルドが牛耳ってしまおうというのも異常である。
  これによって、ロスチャイルド家には、自動的に金が
 転がり込んでくる。
  アメリカは抵抗するが、中央銀行は出来てしまう。
  その最初の合衆国第一銀行も期限が来て閉じられたが・・、
 また、色々な工作が行われて合衆国第二銀行が出来る。
  そして、その合衆国第二銀行も20年の期限が、この年・
 1836年に来た。
  アメリカ大統領のジャクソンは、その期限の来る少し
 前の1832年に、「更新はしない」と、合衆国第二銀行の
 存続の更新を否定した。
  アメリカ国内は、上や下への大激論、激しい攻防が繰
 り広げられた。
  ジャクソン大統領は、頑強に反対し、抵抗し、妥協も
 しなかった。
  そして、期限切れを迎えた。
  合衆国第二銀行は終了し、閉じられた。
  ジャクソン大統領は、暗殺のターゲットになった。
  そして、狙撃された。
  幸い不発だったため、命は助かった。
  中央銀行に反対したので狙われたと言われた。
  中央銀行が無いので、一般の銀行が銀行券を発行して
 流通させた。
  銀行券は何種類も出回った。
  金融を支配する通貨発行権を手に入れたいロスチャイ
 ルド家の目的は、達成されないままとなった。
.
1861年4月12日、南北戦争が始まった(~1865年5月9日)
  アメリカの南北戦争の勃発の理由について、イギリス
 のユダヤ系列の首相のディズレーリは言った・・、
  「何故、アメリカを二分する必要があったかというと、
 イギリスのコントロールが効かなくなったアメリカを発
 展させないためだ」・・と・・
  イギリスが、アメリカを二分しようと計画していたと
 いうこの発言を裏付ける話は明らかに色々ある。
  また、因みに、アメリカの南北戦争のアメリカ北軍の
 トップであるリンカーン大統領は、「奴隷解放の父」と
 讃美されているがまったくの嘘で「でっち上げ」。
  後から付け足されたもの。
  「奴隷解放」は・・北軍の「戦争の大義」としてでっ
 ち上げられたものだった。
  リンカーンは、はっきり「私は奴隷制度を廃止しよう
 と思っていない」と言っている。
.
1865年4月15日、リンカーン大統領が暗殺される。
  (参考)その直ぐ後の1865年5月9日、南北戦争は終わ
     る。
  南北戦争の時、リンカーン大統領は、戦費の調達に困
 った。
  ロスチャイルドなどの銀行家から資金を借りようとし
 た。
  しかし、ロスチャイルドは、非常に高い利率の利息を
 要求した。
  ロスチャイルドは、24%~36%とひっくりするほどの
 高い利子をリンカーンに要求した。
  リンカーンは、借り入れを断念した。
  ここで、リンカーンは、とんでもないことをした。
  リンカーンは、自分で金を刷ることにした。
  アメリカ政府の信用で、独自紙幣を発行した。
  「グリーンバックス」と言われるアメリカ財務省の法
 定通貨だった。
  紙幣の裏を緑色に印刷したので「グリーンバックス」
 と呼ばれた。
  アメリカの最初の法定通貨だった。
  輪転機を動かせば、いくらでも、どんどん金が刷れた。
  戦費を賄(まかな)うのは簡単だった。
  リンカーンは、「打出の小槌(うちでのこづち)」を
 手に入れた。
  イギリスのロスチャイルドらの銀行家は、南軍にも北
 軍にも金を貸して、大儲けしようとしていたが、その目
 論見は「完全に外れた」。
  イギリスの銀行家は、リンカーンを倒したいと思った。
  また、この様な行為を許していたら、アメリカの通貨
 発行権を握ってアメリカを支配するという戦略が崩壊し
 てしまう。
  そして、アメリカが、独自通貨をいくらでも発行する
 ということは、その先にアメリカの繁栄がある。
  イギリスに対抗する国家が出現してしまう。
  イギリスの脅威となってしまう。
  当時のイギリスの「タイムス」紙が社説で報じた・・
  「アメリカの法定通貨が、コストをかけずに供給され
 ている」
  「コストをかけずに通貨を供給できるということは、
 通貨発行銀行である民間の中央銀行に、利子を支払う必
 要が無い」
  「もし、アメリカに起源を持つあの有害な法定通貨政
 策が定着してしまえば、アメリカ政府は通貨をコストを
 かけずに供給することになる。そうなると、アメリカ政
 府は債務を完済し、債務のない政府になる。
  アメリカ政府は、商業活動上、必要なすべての通貨を
 所有することになり、文明国の中で史上類のない繁栄を
 謳歌することになる。
  すべての国の人材も富もアメリカ合衆国へ移動してし
 まう」
  「アメリカ政府は打倒されるべきである。
  さもなければ、アメリカ政府は地上のすべての君主国
 を破壊するだろう」・・と。
.
1895年、韓国・朝鮮が、それまでの「慕華思想」から「慕
 和思想」に転換した。
  崔基鎬教授は、自著で書く・・
  「1895年、日清戦争の終結と同時に、韓国では、それ
 までの500年に渡る慕華思想(中国に対する敬慕)から
 一転して、慕和思想(日本に対する敬慕)に転換した。
  それが、1945年からは、慕華でもなく慕和でもなく、
 他人を尊重する心を見い出す事も至難になった・・と。
  (参考)崔基鎬:チェケイホ、1923年生まれ。
      明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大
      学院教授を経て、加耶大学客員教授。
       民間レベルでの日韓関係改善に努め、サハ
      リン在住韓国人の本国往来問題、原爆被爆者
      の治療援助、在日韓国人の法的地位向上のた
      めに尽力。
.
1899年、アメリカの門戸開放宣言
  アメリカの国務長官ヘイによって提唱された外交政策。
  中国の領土保全と門戸開放、商業上の機会均等を主張
 したもので、遅れて登場したアメリカが列強の帝国主義
 競争への割り込みを意図したものだった。
  このアメリカには、一貫した方針が、ズーットあった。
  自国の領土の拡大である。
  アメリカ・インディアンの方々の地であるアメリカ大
 陸の奪取に引き続き・・太平洋の島々を奪い・・フィリ
 ピンを奪った。
  しかし、アメリカが、アジアに到達したときは遅すぎ
 た。
  イギリスが、もう堂々とそのほとんどを植民地とし、
 インドからシンガポールへ至り、また、香港へ至り、中
 国各地に利権を確立させていた。
  ロシアはシベリアに達して、北から中国へ至っていた。
  また、フランスもすでに南から中国へ至り・・もはや
 出遅れているとアメリカは思った。
  そこで発したのが、この中国の門戸開放宣言だった。
  これは、「俺にも美味しい分け前をよこせ」だった。
  日本とロシアがぶつかった日露戦争において、アメリ
 カは日本を応援した。
  これは、ロシアが退くことがアメリカにとって都合が
 良かった。
  だから、日露戦争が、日本の勝利で終わると、アメリ
 カは手のひらを返したように、今度は、日本と対抗する
 ような態度になった。
  ここが始まりとして、日本はアメリカと戦争をするよ
 うにされて行く。
  だから、アメリカは、日本と対抗することを前提とし
 て行動を続けて行った。
  日本はぎりぎりまで戦争回避に努めた。
  しかし、アメリカは、日本を追い込む手を緩めなかっ
 た。
  アメリカは、日本との開戦への路線をひた走った。
  アメリカは、中国の上海から中国浸透を企てた。
  キリスト教宣教師を利用する手をこうじた。
  中国での利益確保の先兵としてキリスト教を利用した。
  中国人留学生向けの予備校を作った。
  「精華学園」と言った。
  それと共に「日貨排斥(日本商品ボイコット)」を支
 援して、日本の貶(おとし)めと排斥行為を燃え上がら
 せた。
  キリスト教宣教師は、反日のスパイとして行動した。
  また、蒋介石の国民政府の手先となった。
  でたらめ情報のプロパガンダを盛んにした。
  これは、戦後の東京裁判までも影響するほどの嘘宣伝
 工作だった。
  アメリカは、満州の権益を欲しがった。
  この時、特に、日本が居る事を邪魔だと感じるアメリ
 カだった。
  アメリカは、日本排除へ武力行使を始めた。
  フィリピンやグアムを軍事拠点として、イギリスやオ
 ーストラリア、オランダと一緒になって南太平洋を取り
 囲むように、日本を包囲し、締め付け、また、攻撃態勢
 を作った。
  アメリカは、日本に対して威嚇的になった・・また、
 強圧的になった。
  日本が先に手を出したように見せかけの中で、実際は、
 陰で隠れてアメリカが先に武力行使をしていた。
  アメリカが、真珠湾攻撃前に日本を攻撃している事実
 は、今時点では確定されている真実である。
  「あれはボランティアだ」と言い訳するが、大統領の
 命令書があることが確認されている(アメリカ公文書館
 にその書類がある)
  この様に、アメリカは挑発行為を行った。
  中国から日本への大爆撃まで計画していた。
.
1910年8月29日、日韓併合
  「韓国併合に関する条約」が日本と大韓帝国との間で
 調印がなされた。
  この条約は、日本が求めてなされたのではない。
  イギリス・アメリカ・ロシアなどから、「韓国は独立
 してやって行けない。日本が統治した方が良い」と薦め
 られた。
  植民地ではない。
  日本が保護し統治しなければ「駄目な国と国際的に見
 られていた」。
  その様な経済レベルの国だった。
  また、社会資本もまったく整備されてない国だった。
  日本は、膨大な資金を投資して、朝鮮・韓国の「国造
 りをしていく」。
  その恩ある日本に対して、韓国は、今になって御礼を
 言うどころか、恩ある日本を貶める行為をしている。
  この様な態度が取られるのであるなら「併合という形
 ではなく、ただの保護国という形にしておけば良かった」
 と言える。
  必死に日本の資金を投入して、日本並みの国にして上
 げようという奉仕をしなければ良かったと思う。
  良い国になりたいなら「自分たちで努力しなさい」と
 いう立場で居た方が良かった。
  「ただ、軍事的には守ってやりますよ」で充分だった。
  その他の事は、何もしなけれは良かった。
  沢山の金を投入して「教育環境を整えたり」「農地を
 調整して食糧増産をしたり」「裁判制度などの社会基盤
 を充実させたり」「鉄道や道路の建設を一生懸命にやっ
 たり」「帝国大学や小学校などを、沢山、造ったり」、
 色々、手を尽くしてやったが、何の有り難みも感じない
 国・・そんなことをしてやる様な相手国ではなかった。
  この様に感謝もしない国には、今後、何もしてやる必
 要はない。
  挙げ句の果てに、日本の領土の「竹島」まで盗ってし
 まった。
  国際司法裁判所で話し合いましょうと言っても、「韓
 国は敗ける」と分かっているから、その話に応じようと
 もしない卑怯な態度をとっている。
  日本領の竹島の不法侵犯をしている。
.
1920年代、アメリカは、民主主義国家だは、作られた幻想。
  「アメリカは、民主主義の国だ」は、作られた幻想で、
 洗脳された思い込みだ。
  「金」と「情報」を使って操作されている・・この様
 な事は、1920年代に、リップマンやバーネイズは、「ア
 メリカの民主主義の幻想」に気付いていて、「錯覚の世
 界に生きていて、それに洗脳されている」と見抜いてい
 た。
  それから、世論操作をし始めた。
  今・現代、中国が、盛んに金を使って情報操作をして
 いる。
  アメリカを初めて明確に「民主政の国」であるとした
 のはアレクシス・ド・トクビルだった。
  また、「アメリカの支配勢力が、民主主義を用いて人々
 を支配し、利用するために使っている」とも言われてい
 る。
  また、「民主主義の革命的技法」を使えば「合意ので
 っちあげ」ができる、とリップマンは主張した。
  「宣伝工作技術を駆使すれば、人々が本来望んでいな
 かったことについても、同意を取り付けられる」という
 意味の事を言った。
  リップマンは言う・・第一の市民階級は、専門知識を
 持つ特別階級で、政治・経済、イデオロギーのシステム
 における諸問題の分析、実行、意思決定、管理を行う。
  これらの人々は人口のごく一部でしかない・・しかし・・
  この特別階級から漏れた人々・・すなわち人口の大部
 分を構成する多くの人たちは、「とまどえる群れ」(戸
 惑う人たち)と称した。
  この様な人たちが、「大多数の意見を構成する」。
  リップマンは、この人たちを「観客」になるが、行動
 には参加しないと説明した。
  選挙に於いて、観客は、一旦、誰かを支持し、そして、
 後はまた観客に戻って傍観する・・と・・
  だから・・とまどえる群れを飼いならす事だ・・と・・
  また、とまどえる群れに激高を起こさせてはならない・・
 横暴を許してはならない・・不都合なことを起こさせて
 はならない・・と・・
  アメリカの大統領選は、「金が続いたものが生き残る」
 と言われている・・
  そして、それが、「合意のデッチアゲ」の「民主主義
 が行われた」という満足の結果だと・・これが実態だ・・
  リップマンは、彼の代表作と言われている「世論」(
 1922年)で、「民主主義の基盤となる国民の世論が、マ
 ス・メディアの圧倒的な影響力の下にある」ということ
 を指摘している。
  マス・メディアによって世論は操作されている。
  その様な所から形成された民主主義社会・・
.
1931年、東部グリーンランド事件
  グリーンランド東部の無人地帯に、ノルウェーの捕鯨
 業者が上陸した。
  そして、ノルウェー政府が、その地を併合するという
 宣言をするという「東部グリンランド事件」が発生した。
  ノルウェー政府の主張は、グリーンランドにおけるデ
 ンマークの主権は、植民地(人が住んでいる地域)に限
 定されている・・と・・
  また、古い文書では、「グリーンランド」という言葉
 は西海岸の植民地(デンマークが実際に開拓している地
 域)のみを指している。
  故に、それ以外の地域は、「デンマーク領であるとこ
 ろのグリーンランドではない」・・
  ノルウェーが占有する正当性がある・・と主張した。
  しかし、これは、デンマークの提訴を受けた国際司法
 裁判所の裁定によって退けられた。
  デンマークは、以前からグリーンランド全域に適用す
 る法令を制定したりしている・・
  つまり、人が住んでいなくても統治してきたのだから
 ノルウェーの主張はいれられない。
  人口が希薄で人が定住していない地域については他国
 が優越的主張を立証出来ない限り主権的権利の行使はご
 くわずかであってもよい。
  また、地図において、慣習的に使われる地名は反証の
 ない限り通常の意味に解すべきなので・・「グリーンラ
 ンド」という慣習的な地理的名称は、ノルウェー側が有
 力な反証をあげられない限りにおいてグリーンランド全
 島を指していると考えるべきである・・となった。
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
  ドイツとソ連が、お互いに不可侵を約束した。
  そして、アメリカのルーズベルト大統領・・
  この大統領ほどアメリカの行く道を誤らせた大統領は
 いなかった。
  このルーズベルト大統領の周りには、うようよと大勢
 の工作員が居た。
  今・現在の日本の政権の周りも、この様な状況が起き
 ていると言われている・・、
  ルーズベルト政権の周りには、ソ連と深く精神的に通
 底した「共産主義に傾倒する側近たち」で満ちていた。
  1939年2月、戦争が始まりそうなこの時、ソ連は、ドイ
 ツと「独ソ通商協定」を結んだ。
  また、続けて、この年の8月、「独ソ不可侵条約」も結
 んだ。
  アメリカは、これに大きな衝撃を受けた。
  また、この様なアメリカに限らず、日本を含めて世界
 が大きなショックを受けた。
  アメリカも、そして、世界中もが、「ドイツとソ連は
 敵対関係にある」と見ていた・・その様に思っていた。
  これを演じたのは、「ヒトラーとスターリン」だった。
  アメリカは、ソ連を、自分の陣営に引き込みたいと考
 えていた矢先だった。
  ソ連は、この様なドイツとの関係を作った後に、好き
 勝手な「武力行為を行い始めた」。
  この翌月の1939年9月、ポーランド侵攻の侵略行為を始
 めた。
  この侵略は、あっという間の武力侵攻だった。
  そして、ドイツと「独ソ間のポーランド分割協定」を
 結んで侵略を完成させた。
  また、ソ連は、その2か月後の1939年11月、フィンラン
 ドへも侵略を開始した(フィンランド戦争、冬戦争)。
  何とかソ連を取り込もうとしていたアメリカをはじめ
 西側諸国にとって、これは許せない行為だった。
  侵略国家・ソ連の性癖のむき出しの悪行為だった。
  東京裁判時にも、この蛮行は裁くべきだった。
  または、絶対に、ニュールンベルク裁判で裁かれるべ
 きだった。
  しかし、不公正な連合国の諸国は、この不正行為に目
 をつぶった。
  フィンランドは立派だった。
  敢然と不正をするソ連に立ち向かった。
  仕組まれた日本が、アメリカに立ち向かったのと同じ
 行動だった。
  フィンランドの方々は敗れたが、不正な行為に正義の
 戦いを挑み、フィンランドの「国の正義」を通した。
  これによって、フィンランドの方々には、大いなる誇
 りが生まれた。
  その誇りが、戦後のフィンランドの立派な立つ瀬を作
 り、国の立つ位置を作った。
  アメリカには、当然の「対ソ国交断絶論」が出た。
  しかし、卑劣にもアメリカは、あいまいな態度に終始
 した。
  ソ連の行動を非難したりする声明を出したりしたが、
 また、対ソ連の輸出を差し控える勧告を出したりしたが、
  ソ連の「さらなる暴力や脅迫」に晒された北欧諸国へ
 金融援助をしたりしたが・・
  アメリカの国民の方々の意見に従う行動をアメリカ政
 権はしたが・・
  しかし、結局は、ルーズベルト政権は、対ソの国交断
 絶論は否定した。
  これは、この様な卑劣な事をソ連がしても、アメリカ
 は目をつむると見透かされ・・ルーズベルト側近たちに
 動かされるルーズベルトはおかしかった。
  それでもソ連を引き込みたいというアメリカは見透か
 されていた。
  その後のソ連は、まだ、更なる暴力行為・武力行為の
 蛮行を続けた。
  1940年には、バルト三国を取ってしまった。
  そしてまた、この年・1940年、ルーマニア領を侵略し
 た。
  しかし、まだ、アメリカは、その様な横暴なソ連へ黙
 り続けた・・逆に、ソ連に対して、対ソ連の宥和(ゆう
 わ、大目に見る)政策を取った。
  その行動・・宥和政策を強化した。
  アメリカは、バルト三国のエストニア、ラトビア、リ
 トアニアから領事を引き上げて、「バルト三国はソ連領
 だ」という意味の態度を取った。
  そして、ウラジオストクに、総領事館を開設するとい
 うアメリカだった。
  また、対ソ連の物資輸送を増加した。
  そして、さらに、1941年1月には、「対ソ道義的禁輸」
 を撤廃さえした。
  そして、1941年3月には、「米ソ東亜通商協定」まで締
 結した。
  この様な事までしてアメリカはソ連を取り込んでいく
 のだが、結局は、冷戦状態となって、原子爆弾と大陸間
 弾道の核ミサイルの軍拡の競争をする相手となる。
.
1940年、アメリカが、デンマーク領のグリーンランドとア
 イスランドに進駐した。
  ドイツが、海上封鎖水域をアイスランド周囲まで拡張
 したからだった。
  また、ドイツの爆撃でイギリス本国が危うくなったか
 らだった。
  日本は、ベトナム(フランスの植民地)に上陸したが、
 この時、フランスの許可を得ていた。
  アメリカは、グリーンランドとアイスランド政府の許
 可を取っていない。
  しかし、アメリカのルーズベルト大統領は、日本のこ
 の行動を徹底的に利用して日本を悪者に仕立てた。
  日本は、フランスのビシー政権の許可を得ていた。
.
1941年4月13日、日ソ中立条約が調印された。
  正式名称:大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和
 国連邦間中立条約が締結された。
  相互不可侵、および、一方が第三国の軍事行動の対象
 になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文
 など・・
  この時まで、ソ連を宥和(ゆうわ、相手を寛大に扱う)
 したいアメリカは、なりふり構わず、ソ連の喜ぶこと、
 節操のない行動をとっていた。
  ソ連は、好きなように、ドイツとポーランドを分割し、
 何かとドイツと巧くやっていた。
  その様なソ連を、引き込みたいと、アメリカは焦(あ
 せ)っていた。
  この様なソ連の立場と対極にあったのが日本だった。
  アメリカが日本を排斥するのは病的でさえあった。
  この様な状況の時、驚天動地の事が起きた。
  1941年4月13日、日本とソ連が中立条約を締結した。
  ドイツからソ連を引き剥がしたいアメリカ、そして、
 そのソ連が、日本と中立条約を結んだのだった。
  アメリカは、ソ連へ宥和政策を進めて来た行動が頓挫
 したと思った。
  しかし、1941年6月22日に至ると、ドイツが、ソ連へ突
 如侵入した。
  この日の3時15分、ドイツ軍は、作戦名「バルバロッサ」
 の下にソ連を奇襲攻撃した。
  ソ連にいじめられていた反ソ感情の強い周辺国は、ド
 イツへ加担した。
  当然、ソ連は、ドイツに対して開戦した。
  これで、ソ連は、アメリカ側へ入ったのだった。
  1941年11月には、アメリカは、ご褒美ではないが10億
 ドルの供与をソ連へ贈った。
  アメリカ国務省から軍事品のソ連への供与が発表され
 た。
  この共産圏の国=ソ連の立つ瀬をアメリカは作った。
  逆に、アメリカの対日経済封鎖の厳しさは増していた。
  そして、その後、共産圏・中国の毛沢東をも助けるア
 メリカとなる・・毛沢東を支援し、国際舞台の中心国の
 立場にするアメリカとなる。
  この端緒・・ソ連を助けたことに始まるアメリカの行
 動の判断は、歴史上の大汚点、大いに間違った判断とな
 った。
  この後、東ヨーロッパも共産圏・ソ連に抑えられた。
  ルーズベルトのやったことは大間違いだった。
  そして、今・・この共産圏・中国は、アメリカを食お
 うとしている。
  そして、アメリカは、共産圏・中国に追い越されそう
 になっている。
.
1945年8月23日、シベリア抑留
  完全なる終戦の後に、ソ連(現:ロシア)によって行
 なわれた国際法の違反・違法行為である。
  日本国民の拉致である。
  スターリンは、戦争の終結した1945年8月14日の第二次
 世界大戦の終戦宣言の後の1945年8月16日には、「日本人
 を捕虜として用いない」という命令を内務人民委員ラヴ
 レンチー・ベリヤに下していたが、
  何と、終戦後の後も後の1945年8月23日に、これを翻し、
 「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜
 (拉致)50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労
 働を行わせる命令を下した。
  しかし、下記の実態の1事例の様に、日本人の一般国
 民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
  シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
  その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされてい
 る監禁の状態だった。
  稲葉俊郎・東大病院助教、医師のおじいさんは、足枷
 を付けて脱走し、日本へ帰って来た。
  (参考)第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ
     連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣
     戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連
     極東軍に命じて、満州・朝鮮半島北部に軍事侵
     略した(ソ連対日参戦)。
      日本は、すでに、1945年8月14日、中立国を通
     して降伏を声明し、アメリカやイギリスの連合
     国に受け入れられていたが、ソ連は、1945年8月
     16日には日本領南樺太へ、1945年8月18日には千
     島列島へも侵略して占領した。
      樺太では直後に、日本の防衛的戦闘で、日本
     は勝利していたが千島の占守島では1945年8月22
     日に、日本から停戦命令が下り、武器を置いた。
.
1950年代半ば、毛沢東による対日戦犯裁判
  中国では・・、
  ☆中華人民共和国によって対日戦犯裁判が行われた(
 近年、中国で新史料が公開された)。
  ☆1950年、シベリアに抑留されていた旧『満州国』や
 関東軍の関係者がソ連から中国に送還された。
  ☆終戦後、中国に残留し、国共内戦下で共産党軍と戦
 って捕虜となった日本人将兵、戦犯と見なされ、拘留さ
 れた。
  1526名。
  毛沢東思想に基づく思想改造を、長年、強烈に受けさ
 せられた。
  1956年に、大半が釈放された。
  (BC級戦犯なのに、約1000名が死刑にされた)
  ☆毛沢東は、「南京虐殺について、触れることはほ
 とんどない・・言及もしていない」。
  この事からも、南京事件は、後から中国(支那)によ
 る作り出された捏造ということがはっきり分かる。
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2017年1月20日、ドナルド・トランプ、アメリカ大統領の就
 任式で・・
  「今、この瞬間からアメリカ第一主義(アメリカ・フ
 ァースト)が始まる」と演説された。
  そして、また、新大統領は、「世界の国々と友好的で
 善意に基づく関係を築きますが、すべての国には自国の
 利益を最優先する権利があります。
  私たちは、自分たちのやり方を他の誰かに押し付けた
 りはしませんが、「輝く模範として見習われる存在にな
 ります」と演説した。
  すべての国々が、自国の国民の幸せを第一に考えるの
 が当然で、自国の国益を最優先するのも当然で、その様
 な自立した国々同士が友好関係を結んでいくのが「最も
 当然な最善な事」と示された。
  そこには、今までの様なアメリカが勝手に最善として
 思い込んだ考えを押し付けるようなことはしないという
 宣言があった。
  戦争の遠因となっていた「アメリカの考え方・イデオ
 ロギー」の勝手な押し付けはしないの宣言があった。
  今まで、アメリカは『自由と民主主義』と言って表面
 的には良いように見えることを、実際はアメリカだけが
 良いという勝手な事を「他国へ押し付けた」。
  持っている武力を振り回し、自国の若者も死に至らせ、
 また、他国の人々・・戦争とまったく関係ない方々を殺
 して来た。
  この様な「勝手な独りよがりな介入はしない」という
 宣言だった。
  実際は、「アメリカのやり方」「アメリカ・スタンダ
 ード」なのに・・「グローバル・スタンダード」だと嘘
 を言って、アメリカの超富裕層に都合の良いシステムを
 押し付けて来た。
  当然の様に他国の内政に干渉し、屁理屈で「ああだ、
 こうだ」と言った。
  この様な事を、当然のように、『間違っている』と「
 否定した大統領」だった。
  しかし、今まで「利益を享受して来た組織」が、盛ん
 に抵抗している。
  その今までの組織に「おもねっている」・・日本のゴ
 マすり「マス・メディア」も、盛んに、「トランプ大統
 領に対抗する反対報道」をしている。
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2019年、アイヌの方たちだけが特別ではない。
    アイヌ特別立法はお止めください。
  アメリカで『キンタクンテ』が話題になった頃、それ
 が日本でも話題になった頃、「ルーツ」「ルーツ」と
 自分のルーツに皆が関心が向かった頃・・、
  キンタクンテは、「そのルーツをアフリカに発見した」。
  その頃、自分の事を調べてみると、何と、せいぜい隣
 村くらいの狭い社会の中で「先祖の方たちは生きて来た」
 ことが分かりびっくりした。
  同じ村、若しくは、隣村との結婚が繰り返されていた。
  これでは、「武蔵野民族ではないか」と思った。
  知人に、京都で、明治に生まれた方が居られて、関東
 大震災の時に東京に出て来られたが・・、
  その頃、鹿児島の薩摩弁の方と青森の津軽弁の方が、
 話が通じ合わなくて、通訳をしてあげたと言っていた。
  京都で育ち、都で色々な方と接して、薩摩弁と津軽弁
 が通訳できたのだ。
  今・現代、通信機器も発達し、テレビ・ラジオの放送
 も氾濫し、標準語が定着し、その様な話は夢の様だけど・・、
  また、先の話は、交通手段が発達し、遠くまで簡単に
 行ける現代、男女の接触もSNSでも会えるという時代。
  男女の接触も広くなって、その様な話しはまったく想
 像が出来ないが、武蔵野民族の自分だって同化したが「
 武蔵野民族なのだ」。
  九州には「熊襲(くまそ)」という民族が居て、ある
 時、世間の話題になったが、今は完全に同化して、話題
 になることも無い。
  能には「吉備人」が出て来てる様に、日本には「アイ
 ヌの方々だけではない方々が色々生活して居た」。
  アイヌの方々だけが特別ではない。
  武蔵野民族は完全に同化したが・・ならば、「武蔵野
 民族の方々にも特別法を作りなさいと言いたい」・・そ
 して、「武蔵野民族を無視する理由はありませんと言い
 たい」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
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