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(増補版)522E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年11月)

2017-04-29 03:50:52 | 日記
題:(増補版)522E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月、長瀬商店が花王石鹸を発売した。
  花王(株)創業者の長瀬富郎は、舶来のブランド石鹸
 に負けない国産ブランド石鹸の創製を決意し、て、石鹸
 職人の村田亀太郎や、薬剤師の瀬戸末吉らの協力を得て、
 この時、桐箱入3個で35銭の花王石鹸を発売した。
  この名前は、顔も洗える高品質を訴求して「顔」に通
 じる「花王」とした。
  また、発売当初から、中国大陸等への輸出も考慮に入
 れて、東洋第一の石鹸にしようと、桜ではなく牡丹をあ
 しらった包装紙とした。
  また、花王石鹸発売当時の原料調合ノートには、石鹸
 だけではなく、
  その後に発売された歯磨・香水・クリームなどの原料
 調合も記載されているて・・、
  長瀬富郎は、花王石鹸製造にあたって、自身で、薬剤
 師・瀬戸末吉から必要な化学知識を習得し、香料・色素
 など薬剤の調合技術を吸収していた。
  また、翌年の1891年に発売された粉歯磨「寿考散」は、
 長瀬商店の第2弾の発売商品だった。
  袋入り3銭で、外袋は、赤で輪郭をとった落ち着いた
 デザインとなっていて、背景には「まがたま」が二つ、
 組み合わせてある。
  寿は長寿を祝い、考は老でもあり古来歯の保全が人間
 の寿命に重大な関係があるものとして名づけられた。
  因みに、散は粉のこと・・、
  (産業技術史史料情報センターのホームページを参考
 にした)
1890年11月1日、日本鉄道の秋葉原~上野間が開通した。
  旅客や貨物が増加していて、貨物線を延長し、秋葉原
 貨物取扱所として、上野駅のひっ迫解消のため、開業に
 至った。
  また、上野駅周辺道路が狭隘で、同駅へ向かう旅客や
 貨物を乗せた馬車が、渋滞を起こす状態になっていた。
  このため、旅客と貨物の分離が計画された。
  当初は、上野駅からのこの貨物線を「秋葉原線」と呼
 び、秋葉原は「秋葉原貨物取扱所」と呼ばれていた。
1890年11月1日、盛岡まで延長した。
  この日、一の関~盛岡間が完成して、仙台~盛岡間が
 全通した。
  そしてまた、この日、盛岡駅が開業した。
  また、この盛岡駅前と盛岡の中心部を結ぶ開運橋が、
 この盛岡駅の開業に伴い完成した。
  この橋が尊いところは、当時の岩手県知事の石井省一
 が私費で完成させたところだった。
  温かい心の盛岡の方たちの人柄・土地柄と共に、誇れ
 る歴史的事項となっている。
  この橋は、翌年、市が買収し、その後、県に編入され
 た。
1890年11月1日、盲人教育に点字が採用された。
  点字について、日本での最初の記述は、1865年(慶応
 1年)幕府の外国奉行・柴田日向守剛中に随行した岡田摂
 倉が、パリの訓盲院を尋ねた時の日記にある。
  そして、1879年(明治12年)2月、文部省発行の教育雑
 誌第89号に掲載された在アメリカ留学生監督の目賀田種
 太郎の「パーキンス盲学校視察報告書」にある。
  現:筑波大学付属盲学校の前進である「楽善会訓盲院」
 の教師であった小西信八と石川倉次は、共に仮名文字論
 者だった。
  小西は、仮名文字、及び、漢字を凸書した教科書での
 教育の困難を見るにつけ、読むにも書くにも自由になる
 文字を工夫しなければならないと感じた。
  そして、教育博物館にあった、イギリス制点字板と、
 盲人教育に関する資料を借りて研究した。
  1887年(明治20年)に、生徒の小林新吉に教えた。
  小林は、2週間で、自由に読み書きができるようにな
 った。
  他の生徒に及ぼす影響も大きかった。
  しかし、これが、ローマ字形式での表記であったので
 小西は、同年・1887年の末、わが国の仮名に合うような
 点字の改良を、教員や生徒に依頼した。
  石川倉次は、初め6点では全文字を表すのは不可能だ
 と考え、8点点字を考えた。
  これは1・4の点の間と、3・6の点の間に1点ずつ
 加えたもので、3点四方の8点点字で濁音も含まれてい
 る。
  この8点用の点字板を製造し、生徒に使わせてみたと
 ころ「ローマ字よりも使いやすい」ということで、大変、
 喜ばれた。
  石川は、この8点に満足せずブライユの6点でよい工
 夫ができないものかと考えた。
  小西もまた、ブライユの6点で仮名を表出したいとい
 う意見であった。
  そして、再び、教員や生徒全員あげての点字翻案の業
 に努力した。
  7点・8点・9点など、多くの案が出たが、やがて、
 その中から三つに絞られ・・なおかつ・・
  1890年(明治23年)9月27日から、点字制定会が開かれ、
 この3案について、種々の角度から審議した。
  また、実験を重ねた。
  1890年の同年11月1日、の第4回制定委員会において、
 石川案の採用が決議された。
1890年11月3日、帝国ホテルが落成し、7日に開業(創業)
 した。
  東京の鹿鳴館のとなりに、帝国ホテルが、総建坪1300
 余坪、ドイツ・ネオ・ルネッサンス式木骨煉瓦造3層、
  設計:渡辺譲、総工費:26万円、客室数:約60。
  ビリヤード台、ダンスホールを備え・・、
  室料:最下等50銭、2食付き2円50銭・・、
  1912年(明治45年)に、総支配人の林愛作が、旧知の
 アメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトに新館の
 設計を依頼した。
  フランク・ロイド・ライトは、アメリカの建築家で、
 20世紀建築界の大巨匠。
  1919年(大正8年)失火から全焼した。
  新館の早期完成は経営上の急務になった。
  この後、設計変更を繰り返すライトと、経営陣との衝
 突は避けられなくはなった。
  そして、当初の建設予算の150万円が・・6倍の900万円
 に膨れ上がった。
  林は、総支配人を引責辞任した。
  ライト精魂注いだホテルの完成を見ることなく離日し
 た。
  1923年(大正12年)8月末、ホテルの隣接地に新館(
 ライト館)が全館落成した。
  鉄筋コンクリート、および、煉瓦コンクリート構造、
 地上5階・地下1階、延床面積1万535坪、客室数270室
  皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは、総面積3万
 4千平方米余の大建築となった。
  中心軸上に、玄関、大食堂、劇場などの公共部分が
 列ねられ、左右に客室棟が配された。
  全体計画から個々の客室に到るまで、ライトのセンス
 で、最高傑作のきわめて多様な秀れた空間で構成された。
  鷲が翼を広げたような、巨大なホテルは、小部分がい
 くつも繋ぎ合わされた連結構造で・・、
  建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊が
 あっても全体には累を及ぼさない仕組みも設計された。
  また、大規模ホテルとしては、世界で初めて、全館に
 スチーム暖房が採用され、
  耐震防火に配慮した画期的な設計となっている。
  1923年9月1日、新館落成記念披露宴の準備中に、何と、
 関東大震災発生した。
  しかし、ホテルは、小規模な損傷はあったものの、ほ
 とんど無傷であった。
  変わらぬ勇姿を見せた。
  しかし、残念なことに・・その後、この名建築は取り
 壊され、
  その一部が、明治村に保存され、名建築を偲ばせてい
 る・・人類の偉大な資産で、惜しい状況となっている。
1890年11月4日、アレクサンドル・ボロディンの歌劇「イー
 ゴリ公」が初演された(マリインスキー劇場)
  アレクサンドル・ボロディンは、帝政ロシアの作曲家、
 化学者、医師。
  マリインスキー劇場 は、ロシアのサンクトペテルブ
 ルクにあるオペラとバレエ専用の劇場。
  歌劇「イーゴリ公」は、オペラで、中世ロシアの叙事
 詩『イーゴリ軍記』を題材に、1185年、キエフ大公国の
 公、イーゴリ・スヴャトスラヴィチによる、遊牧民族ポ
 ロヴェツ人(韃靼人)に対する遠征を描いた。
  序幕付き4幕からなる。
  あらすじは・・序幕:プチーヴリ市内。
  イーゴリ公は、自分の土地であるルーシの町へのポロ
 ヴェツ人のコンチャークからの侵攻を防ぐため、妻ヤロ
 スラーヴナの懇願と日食という悪い前兆を心配する人々
 の反対を押し切って遠征を始める。
  第1幕・第1場:プチーヴリ市内のガーリチ公の館の中
 庭。
  イーゴリのいなくなったプチーヴリでは、ガーリチ公
 の思うがままになっていた。
  ある時、若い女性の集団が公がさらった娘を返すよう
 に請願してきたのに対し、彼と彼の取り巻きは請願にき
 た彼女たちを怯えさせ、追い返す。・・以下略・・
1890年11月7日、帝国ホテルが開業した。
1890年•11月10日、浅草十二階が竣工した。
  東京・千束町(現=台東区浅草2丁目14)に遊覧所「凌
 雲閣(りょううんかく)」が竣工し、落成式が行われた。
  八角形レンガ造りの10階の上に木造建築の2階があり、
 「浅草十二階」と呼ばれた。
  最高高さ65mで、関東大震災で消滅した(1923年)
1890年11月11日、凌雲閣(浅草十二階)が開業した。
  東京・浅草に、12階建ての塔「凌雲閣」が開業した。
  名称は、「雲を凌ぐほど高い」ことを意味し、浅草十
 二階、浅草凌雲閣とも・・
  発案は、写真家で東京市議会議員の江崎礼二、設計者:
 ウィリアム・K・バルトン
  東京の高層建築物の先駆けとして建築された。
  展望室からは、東京界隈はもとより、関八州の山々ま
 で見渡せた。
  高さ173尺(約52米) 、建坪37坪(122.31平方米)。
  構造10階まで煉瓦造り、11、12階は木造。
  入場料:大人8銭、子供4銭
  1階は入口階、2~7階は、諸外国の物品販売店(計
 46店舗)、8階は休憩室、10~12階は展望室。
  1階~8階にかけて、日本初のエレベータが設置され
 た。
  12階の展望室には、望遠鏡が設置され、見料は1銭。
  1891年(明治24年)5月、開業当日よりエレベータの故
 障が頻発し、使用中止になった。
  1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により、建物
 の8階部分より上が崩壊した。
  地震発生時、頂上展望台付近に、12~3人の見物者が居
 た。
  福助足袋の看板に引っかかり助かった1人を除き、全員
 が崩壊に巻き込まれ即死した。
  1923年9月23日、経営難から復旧が困難であったため陸
 軍赤羽工兵隊の手で爆破解体された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:グローバリズム推進派は、一部の私腹を肥やす勢力に加担している・・
    その「おこぼれ」にあずかりたいと・・
.
1872年、海洋生物学が起きた。
  1872年~1876年の『チャレンジャー (6世) 号』の世界
 周航により・・、
  海岸から外洋、そして、表層から深層にわたって、
  動物の水平的分布と垂直的分布の調査が行われ、
  これが、海洋生物学の基礎となった。
  最古の海洋生物研究機関であるイタリア・ナポリ海洋
 生物学研究所は、1872年に設立され、そして、1874年に
 オープンした。
  1888年には、イギリス海洋生物学会が創立され、そし
 て、プリマス海洋研究所もできた。
  1888年には、アメリカでも、ウッズホール海洋生物研
 究所が創立された・・など・・、
  これ等の研究所は、今でも、世界で活躍している海洋
 生物研究センターで・・、
  特に、ウッズホール海洋生物学研究所の研究は、海洋
 生物学の発展に、重要な役割を果たした。
.
1906年4月18日、アメリカのサンフランシスコで、地震と火
 災が同時に発生するという、アメリカ史上、最悪の大参
 事が起きた。
  この参事がきっかけに、日本人やアジア人系移民の多
 くが、略奪にあい、また、暴力を受けた。
  日本人移民は、明治以来、移民が行われていて、カリ
 フォルニアに集中していた。
  また、この時、アメリカ白人に、人種差別の「黄禍論」
 が始まっていた。
  暴力事件は、この様な人種差別から生まれていた。
  1906年、サンフランシスコ市(学務局)は、日本人の
 児童の「隔離教育」を決めた。
  この様な「酷(ひど)い人種偏見」に対し、当然、日
 本政府は、強い抗議をした。
  これは、深刻な外交問題へと発展して行った。
  この2年後の1908年、この問題に、アメリカ連邦政府
 も介入して来て、日本は、移民が出来ない状態にされた。
  そして、この日本の当然の人種上の抗議を・・、
  アメリカは、日本が圧力をかけて来たとして・・、
  そして、『日本を脅威する』というセンセーショナル
 な「異常な反応」をした。
  そこには、すでに、日本に、「悪意を持って対応する
 というアメリカ」があった。
.
1941年、ランドフル・フィリップ(アメリカの黒人運動家)
 が、この年、黒人の公正雇用を要求するワシントン大行
 進を組織し、成果を収めた。
  因みに、ランドルフは、1963年の戦後でも、アメリカ
 史上最大規模のワシントン大行進を指揮するなど公民権
 運動の重要な人だった。
.
1944年、アメリカのヘンリー・モーゲンソーが、ドイツの
 非軍事化、非工業化を図り、原始的な牧畜農業国家にす
 るという戦後処理計画「モーゲンソー案」を立案した。
.
1947年3月31日、GHQの戦後の占領政策に於いて、憲法の
 施行に先駆けて、教育の基本であり、且つ、「教育の憲
 法」と呼ばれた「教育基本法」と、「学校教育法」が、
 同時に成立した。
  形式的には日本の国会で可決されたが、中身は、憲法
 と同じくGHQの指導によって作られたものだった。
  この教育基本法のなかで、戦後、常に問題となり続け
 たのが「教育権」とは、一体、誰のものなのかという点
 だった。
  旧文部省(現文科省)など国や政治家は、「教育権は
 国」が持つと主張した。
  一方、日教組は、「教育権は教育現場(日教組)が持
 っている」とした。
  民法820条で、両親が「子の監護および教育をする権利
 を有し、義務を負う」と書かれている。
  「教師」と「国」と「地方公共団体」、そして、「親」
 が、「教育権とは一体誰のものか」という論点で、対立
 さざるを得ない構図が作られていた。
  このことで、「国(文部省)」と日教組は、戦後、こ
 とごとく対立した。
  この決着は、昭和50年代に至って、文部省と日教組と
 で「歴史的和解」がなされた。
  何も生み出さない、日本人同士の不毛の戦いだった。
  その最大の原因は、GHQが、「教育権」という権利
 について「誰が持っているのか」という内容を明示せず、
 あいまいにした点にあった。
.
1969年、日米繊維交渉(~1971年)
  日米繊維交渉で、日本の繊維産業が潰された。
  この様に、潰された日本の産業は多いが、この逆はな
 い。
  日本の産業のために、アメリカの業界を潰したことは
 ない。
  そして、この日米繊維交渉は、日本の毛・化合繊製品
 の対米輸出規制をめぐる交渉で、1969年~1971年に渡る
 交渉だった。
  この毛・化合繊製品をめぐる交渉は、政治問題化し、
 紛糾した。
  第2次世界大戦以後の日米関係において「最悪の危機的
 状態をもたらした」と言われている。
  この問題は、1968年のアメリカ共和党大統領候補ニク
 ソンの選挙公約に端を発し、
  1969年春、ニクソン新政権下に出された日本に対する
 厳しい自主規制要求に始まった。
.
2003年11月、中国の胡錦濤国家主席が、「特定の大国が、
 中国に不利益をもたらそうとして、海峡をコントロール
 しようとしている」と・・暗にアメリカを非難した。
  「中国を、外国の支配から守るための新戦略を策定す
 るように」・・と、人民解放軍に要請した。
  中国は、『マラッカ海峡を封鎖されること』を恐れて
 いる。
  石油を初め、中国の死命を制する物品が、この海峡を
 通過しなければならないからで・・、
  また、中国には、過去、アメリカが、日本に対して行
 った石油禁輸措置のトラウマがある。
  (シーレーンの大切さ、重要さは、日本も十分認識し
 ているが・・)
  第二次世界大戦の開戦の重大原因となった当時、アメ
 リカは、日本を悪者に仕立てて・・、
  日本と戦争に至ること必然だという事を承知して・・
  (戦争をしたいとしたルーズベルト・アメリカ大統領
 が)石油、ガソリン、および、その他の重要な資源の対
 日禁輸措置を・・、
  それも・・石油需要の80パーセントを、アメリカに依
 存していた日本に対して実施し・・大打撃を与えた。
  その上、まだ、これでもかという悪意で、日本の船舶
 に対する『パナマ運河の通過の禁止』(パナマ運河閉鎖)、
  及び、アメリカにおける日本資産の凍結など行なった。
  世界史上、最悪の「悪名高い先制攻撃」を日本にした。
  世界は、「アメリカの先制攻撃と認識している」と言
 われている。
  中国は、これを、「歴史的教訓」として、恐れている。
.
2017年3月2日、アメリカのトランプ大統領が言った・・、
  「移民が、安全に家に帰れるよう努力したい」・・と、
  グローバル競争とは、コスト競争であり・・、
  労働力コストをどれだけ下げるかが『基本』で、
  国内から海外の発展途上国へ工場を移せば、『非常に
 安い賃金で労働力が得られる』・・、
  これがしたいと考えた『グローバリスト』たち・・、
  また、アメリカ国内であっても、メキシコなどから流
 入する不法移民を雇えば、低賃金な労働力が得られ・・、
 また、劣悪な環境下でも、好きなだけ働かせる事ができ
 る。
  不法移民を使えば、国内で超安価な生産が実現できる。
  不法な流入は・・だから、ある面・・意図的に・・こ
 の様な理由から・・意図的に行われる面もあった・・不
 法なのだが・・不正なのだが・・。
  超富裕層の利益享受の実現の為の・・やり方だった。
  しかし、この様な点には・・まったく触れずに、グロ
 ーバリズムが美しく謳(うた)われ、讃美されている。
  このグローバリズムを讃美するグループに入っている
 NHKは・・、
  グローバリズム推進派のNHKイデオロギーは、
  また、キリスト教に偏するNHKは・・巧妙に・・こ
 の点を放送した・・そして、言った・・
  「(不法移民だって)税金を払って、アメリカを支え
 ている」・・と・・、
  「その(不法)移民のどこが悪い」・・と・・、
  よくも・・国民を感情的な、センセーショナルな、薄
 っぺらい論理で、言葉だけで・・騙(だま)すものだ。
  この様な国民の洗脳を目論(もくろ)んだNHKは、
 「トランプおろしのグループに入っている」・・、
  「トランプ政治の批判をした」・・、
  NHKの巧妙なる言い方・・錯覚を起こさせる言い方
 で・・また、ごまかしの放送だった。
  アメリカで・・労働コストが破壊され、低所得者層が
 さらに拡大しているアメリカ。
  儲かるのは1%の・・ほんのわずかな超富裕層。
  その格差は拡大する一方の・・アメリカ。
  この様な事にはまったく触れないNHK。
  1%の超富裕層にゴマをすり・・1%のお金持ちが喜ぶ
 グローバリズムを讃美しているNHK。
  NHKは、「グローバリズム讃美の放送ばかりをやっ
 ている」・・、
  NHK出身の千葉商科大学教授の宮崎緑氏を出演させ
 て、何度も何度も発言させている・・「グローバリズム
 は素晴らしい」と・・何ら『脈絡なく』発言している。
  ただただ意味ないグローバリズム讃美のオンパレード
 の話だった。
  マス・メディアと一緒になって、情報を、正しく伝え
 ないで・・ただただ、トランプおろしに躍起になってや
 っている。
  トランプ大統領だって、正規な移民の就労を否定して
 いる訳ではない。
  正規の移民が、正規にアメリカで就労し、税金を払っ
 て「アメリカを支えていること」は、当然、勿論、否定
 なんかしていない。
  ここの錯覚を訂正しないで、わざと「誇大に」「悪印
 象だけを持たせている」・・印象放送で、国民を繰って
 いるNHK。
  不法に・・大量に・・アメリカへ流入し、アメリカの
 労働市場を破壊し・・混乱させている・・不法移民が問
 題なのだ・・
  そして、その利益は・・わずか1%の超富裕層のふとこ
 ろへ流入し、格差がどんどん拡大する事に対して・・ト
 ランプ大統領は、何とかしたいと言っているのだ・・
  こんなことは・・ちょっぴりとも放送しない。
  トランプ大統領は、「正論なのである」。
  移民の方々、正規の方々を・・虐げている訳ではない。
  ここを、NHKは誤魔化すから、はっきり説明しない
 で逃げているから「不公正なNHK」なのだ。
  キリスト教が、教義を誤魔化す言い方とまったく同じ
 で、ごまかし、誤認混同させるNHKとなっている。
  しかも、それを、センセーショナルな言い方で放送す
 るから始末が悪い・・まったく公正でない、公共放送と
 して失格のNHKである。
  NHKはこんな事ばかりしている。
  アメリカを本当に支えた中流層は・・1%の超富裕者層
 に食われて・・居なくなった。
  日本も・・中流層が崩れている。
  他山の石ではない。
  高い給料を貰って居るNHK職員は安泰(あんたい)
 なのだろうが・・?
  アメリカは、この様なことを、南北戦争の後でもやっ
 た。
  悪いのは「アメリカ南部だ」と言いながら・・アメリ
 カ北部の工場経営者たちは、南部のプランテーションの
 経営者と一緒になって・・組んで・・奴隷解放前の状態
 に戻したいと・・戻そうと、黒人の方々を虐げた。
  安い労働力をアメリカ北部の工場で使いたいというハ
 レンチな行動をした。
  何が、北部だけが、奴隷解放したと言うのか?
  南部の方々だけを悪者にして・・?
  トランプ大統領は、メキシコからの不法移民が麻薬を
 持って来ることにも苦慮している・・このことに、NH
 Kは触れない・・。
  トランプ大統領が言った、「アメリカが法を維持し、
 国境を守らなかったために、雇用や収入(を失った)、
 そして、愛する人を失ったアメリカの家族に対して、
  あなたはどう言うのですか?」・・と・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


(増補版)521E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)

2017-04-25 03:14:59 | 日記
題:(増補版)521E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月24日、貴族院初代議長に伊藤博文が就任した。
  貴族院の議長は、内閣の輔弼(ほひつ、天皇陛下への
 御進言をすること)により天皇陛下から勅任されること
 となっていた。
  任期は7年。
  1947年(昭和22年)5月2日まで続いた。
  因みに、
  2代:蜂須賀茂韶  (1891年 7月~1896年10月)
  3代:近衛篤麿   (1896年10月~1903年12月)
  4代~8代:徳川家達(1903年12月~1933年 6月)
  9代:近衛文麿   (1933年 6月~1937年 6月)
  10代~11代:松平頼寿(1937年6月~1944年9月)
  12代:徳川圀順  (1944年10月~1946年 6月)
  13代:徳川家正  (1946年 6月~1947年 5月)
1890年10月27日、日本初のエレベータが、浅草に登場した。
  幕末の水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が建てた好文
 亭という図書館のような建物内に、本を運ぶためのリフ
 トのようなエレベーターがあったという・・、
  日本初の電動式エレベーターは、写真家で、また、東
 京市議会議員であった江崎礼二氏の発案で、
  文明開化で、外国に追いつき追い越せと努力する日本
 の東京での高層建築物(浅草の凌雲閣・りょううんかく)
 12階建ての建物に設置された。
1890年10月30日、教育勅語を発布
  『教育ニ関スル勅語』(教育勅語)が発布された。
  (氷川清話)教育勅語が出来る。
  「忠」と「孝」が基本思想。
  この日、議会の招集に先立ち、「教育に関する勅語(
 教育勅語)」が発布された。
  抜粋・・、
  「国民は、父母に孝行し、兄弟は親しみ合い、
  夫婦は仲むつまじく、友人は信じ合い、
  つつしみ深く、高ぶらず、
  民衆に広く愛をおよぼし、
  学問を修(おさ)め、技術を学び、
  かくして知能を向上させ、人格を完成し、
  進んで国家・社会の利益を拡大し、(中略)
  国家や社会に危急のことが起こった時は、進んで公共
 のために尽(つく)くさなければならない」。
  教育ニ関スル勅語は、明治天皇陛下が、山縣有朋内閣
 総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与え
 た勅語。
  この教育勅語は、アジアの国で取り入れられている。
  この教育勅語は、戦後のGHQの思想の変革方針によ
 って廃止された。
  (1948年・昭和23年6月19日、国会決議により廃止、
  形は民主的な形で、そして、日本が自主的な判断をし
 た形にしている)
  メディア・ネット情報などは、当然、アメリカを美し
 くたてている。
  そして、戦前のものはすべて悪いという言い方になっ
 ている。
  アメリカは良くて、日本については悪い事しか言わな
 いメディアの状況となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:シベリア抑留は不適切である・・拉致である・・
.
紀元前8000年頃、縄文早期
紀元前3500年頃、縄文後期
  日本の縄文時代が見直されている。
  日本の縄文時代は、思ったよりも進んだ社会だった。
  思った以上に凄かった。
  縄文時代は、農耕以前の時代で・・、
  「貧しいながらも、平等な社会だ」という以前のイメ
 ージが、変わって来ている。
  1996年~2003年に、東京都東村山市の下宅部(しもや
 けべ)遺跡を発掘・調査すると・・、
  大量の漆製品や木製品、そして、未完成の丸木舟など
 工業的に進んだ製品が出土した。
  この良質な保存状態は・・この地の豊かな地下水のた
 めに・・良好な保存状態が保たれていた。
  また、この遺跡では、縄文後期(紀元前3500年頃)の
 「編みかご」が50点以上も出土した。
  この「かご」は、カシ類などの木の実を水につけるた
 めに使ったと見られている。
  ここ数年で、縄文のかご類の研究は、飛躍的に進んで
 来ていて、かごの素材の特定や、編み方の解明が進んだ。
  そして、潰れたかごの状態から、元の形状が復元でき
 る様にまでなった。
  この遺跡のかごの素材は、「アズマネザサ」と推定さ
 れ、上部がくびれ、土器に似た姿と解明された。
  また、佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡では、縄文
 早期(紀元前8000年)のかごが、700点以上も出土した。
  編み方に、様々な装飾技法が用いられていて・・、
  縄文人が、早い段階から知的な完成度の高いかごを作
 っていたことが分かった。
  また、縄文中期は、華やかな装飾の土器が作られ、三
 内丸山遺跡(青森市)のような大集落が営まれて、縄文
 文化は、高度に華やかに繁栄していた。
  縄文時代の後期や晩期は、遺跡が小規模化した。
  数も減り、土偶や祭祀具(さいしぐ)が発達した。
  そして、動植物や古人骨の研究も相まって研究された。
  その結果・・、
  集落は、小規模化しながら、食料や土器、貝製装飾品
 などの生産が集落ごとに分業化され、『集落間でのやり
 とりが活発に行われていた』。
  土器や石器などの生活道具、食料の『生産』や『流通』
 が活発に行われていた。
  この事を見ても、後期や晩期に、文化が衰退した根拠
 はない。
  寒冷化にはあったが、危機を分散することで、資源が
 絶えないようにして、『高い回復力を持つ社会を築いて
 いた』と考えられる。
  日本の縄文時代は、地域で文化の違いのある各々が特
 徴を持った時代だった。
  (読売新聞、2017年4月5日を参考にした)
.
1552年1月29日、キリスト教宣教師のザビエルは、日本人の
 優秀さにびっくりし、
  また、その日本人の優秀さの故に、キリスト教の宣教
 に、大分、苦労した。
  日本の各地を、ザビエルが布教するとき、日本人の多
 くが、ザビエルに質問したことは・・、
  「そんなにありがたい教えが、なぜ、今まで、日本に
 来なかったのか?」だった・・そして・・
  「そのありがたい教えを聞かなかった私たちの祖先が、
 今、どこで、どうしているのか?」・・だった。
  つまり、「自分たちは救われると言うが・・そして、
 救われたとしても、ご先祖様の方たちはどうなるのか?」
 ・・と・・、
  この思いやりのある優しい日本人の質問、そして、疑問・・、
  それは、キリスト教への最大の「理屈に合わない弱点」
 への疑問だった。
  キリスト教は、キリスト教徒になれば天国へ行けると
 説いているので、ザビエルは、その様に答えた。
  つまり・・結局、ザビエルの答えは、ご先祖の方たち
 は救われない・・故に、天国で会えない・・となった。
  そして、また、キリスト教の説く・・ご先祖の方たち
 は地獄となる・・と知った日本人は、さらに・・
  「すると、あなたの信じている(キリスト教の)神様
 というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないか」・・
 と、
  「全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救
 ってくれてもいいではないか」・・と、
  ザビエルは・・答えに窮した・・
  ザビエルは困り、そして、本国への手紙で・・
  「日本人は、文化水準が高く、よほど、立派な宣教師
 でないと、日本の布教は苦労します」・・と・・、
  この当時、ザビエルは、中国でも、韓国でも、インド
 シナでも、こうしたキリスト教の急所を突く質問を受け
 たことはなかった。
  1552年1月29日のザビエルの手紙(インドのコーチンか
 らローマのイグナチオ・デ・ロヨラ神父へ宛てた手紙)
  「(日本人の)質問に答えるために、学識のある宣教
 師が必要です。
  特に、哲学がよくでき、弁証法に優れた人で・・、
  (僧侶との討論で)明らかになる矛盾をすぐにとらえ
 ることができる人が必要です。
  ボンズ(宣教師)は、矛盾を指摘され、答えに窮する
 ので、いたく恥じ入ります。
  (日本では)さまざまな苦労に(耐えてゆかねばなら
 ない)ので、年老いた人に適した土地ではありません。
  また、(実社会で)大いに経験を積んだ者でない限り、
 若い人にも不向きです。
  なぜなら、他の人びとの霊的な助けとなる代わりに、
 自分自身が滅びてしまうからです。
  日本の地には、さまざまな乗り越えるべき事柄があり、
 それに陥る危険があります。
  (日本人の行為を)とがめる(宣教師を)日本人は、
 よく観察しています。
  それ故、(宣教師の)ごくわずかな(欠点)がつまず
 きとなります。
  私は、これらのことについてシモン神父、もしも彼が
 不在の時には、コインブラの院長にあてて詳しく書きま
 す・・中略・・
  日本の地は、(宣教のために)どんなに苦労をしても
 報いられます。
  それで、あなたが聖なる徳を備えた人物を、日本へ派
 遣してくださるよう、心から望んでおります。
 ・・(後略)・・
  因みに、ザビエルは、日本語が話せなくて、インドに
 来ていた日本人を、日本へ連れ戻して行って、日本での
 話の時は、その日本人に話させていた。
  その時、ザビエルはは、脇に、ただ立っているだけで、
 無言だったという(ぼーっと立っていただけだという)。
.
1863年11月19日、リンカーンが演説で、「government of
 the people, by the people, for the people 」・・
 「人民が、人民のために、人民を統治すること」と演説
 した。
  リンカーン・アメリカ大統領が、「人民による、人民
 への政治」と言った。
  しかし、この・・「リンカーンの『人民』の中」には、
 黒人の方々は、入って無かった。
  黒人の方々を、まったく入れる気の無いリンカーンだ
 った。
  『人種差別主義者のリンカーン』は、卑劣にも、黒人
 の方々をアフリカへ棄てたいとしていた・・そして、ア
 フリカのリベリアへ棄てた・・棄民した。
  また、リンカーンは、幼い時に、目の前でお爺さんが
 インディアンに殺されたことから、インディアンの方々
 に対して「非常に強い復讐心を持っていた」。
  大きくなって・・その行為が現れる・・
  リンカーンは、青年期に、弁護士になって、この復讐
 を果たそうと、インディアンの方々の土地を取り上げる
 事に奔走した。
  今、その書類の多くが残っている。
  法律に疎遠なインディアンの方々に対し、赤子の手を
 ねじるが如くに、インディアンの方々のものである土地
 を取り上げて行った。
  また、大統領になってからも、インディアンの方々の
 掃討を命じ、虐殺行為がなされている。
  また、厳寒期の厳しい寒さの時期に、わざわざ、イン
 ディアンの方々の「居留地を移動をする」ことを命じた。
  「遠くの道のりを歩かせる移動を命じた」。
  体の弱い方々、インディアンの御老人や赤ん坊の多く
 が亡くなった。
  こんな人物を、北部アメリカは、記念堂を造って、奉
 っている。
  北部アメリカ政治が・・プロパガンダしている。
.
1883年、工業所有権の保護に関するパリ条約が締結された。
  特許などの工業所有権に関する国際的な基本原則が定
 められた。
  (参考)工業所有権は、特許権、実用新案権、意匠権、
     商標権・・などをいう・・
  人間の富の形態の一つである知的行動の産物・・
  この人間の富、ここにも・・他人の富を奪ってまでし
 もて、自分さえよければ良いと説くキリスト教の影響が
 働いた・・、
  キリスト教国・アメリカが、日本の「光ファイバーの
 大発明」などを奪った。
  世界のどこの国もが、おかしいと言っているのにもか
 かわらず・・
  『先発明主義』という珍奇な考え方を持ち出して奪っ
 た。
.
1944年9月20日、アメリカで、戦後のドイツの取り扱いを決
 める会議が開かれた。
  アメリカの・・卑劣な「国レベル」での復讐案だった。
  懲罰的色彩の強い「眼には目を」の復讐案がアメリカ
 で練られた。
  ドイツの国は、「北ドイツ」と、「南ドイツ」と、「
 国際監視域」の三分割とされた。
  「ドイツは、二度と工業力を与えてはならない」だっ
 た。
  ドイツには、牧草だけが生える「原始的な牧畜・農業
 国家」だけが許される・・という案だった。
  アメリでも、その過激さに、言葉を失う者も居たとい
 う・・その様な案の異常さだった。
  アメリカの・・戦後のドイツの扱いを検討する特別閣
 僚委員会だった。
  アメリカの国務長官・ハルは、怒りで顔を真っ赤にし
 ていた。
  1944年9月20日の事だった。
  案の提案者・主導者は、ルーズベルトの親しい友人だ
 という財務長官のヘンリー・モーゲンソーだった。
  内容は、あまりにも過激だった。
  しかし、モーゲンソー案は、ルーズベルトとチャーチ
 ルが承認を与えていた。
  カナダ・ケベックの米英首脳会談で、承認されていた。
  モーゲンソーは、「OK、ルーズベルト、チャーチル」
 の承認サインを見せた。
  誰も、反論は・・出来なかった。
  「二度とドイツに工業力を与えない」という嫌悪感を
 感じさせる強い懲罰案だった。
  ドイツの工業地帯を徹底的に破壊するというキリスト
 教の『完全破壊のシャローム』の案だった。
  「すべてを破壊して、そして、平和に至らす」という
 全アメリカ大陸のインディオ絶滅の前例の如くの迷信教
 義に影響されていた。
  ドイツ人のすべてが、農業・牧畜に従事するという案。
  またこれで、第三次世界大戦が起きるという案だった。
  国務長官・ハルは、ずばり・・
  「復讐と言うほかない」・・と言った。
  復讐の鬼と化したアメリカの意識が反映した『モーゲ
 ンソー案』だった。
  モーゲンソーは書いた・・、
  「ドイツ人は、総べて敗者であると認識するべきだ。
  餓死させないぐらいの軍のキャンプのスープを、日に
 三度、与えるだけで十分」・・とまで表現した。
  アメリカ国民の方々は、びっくりした・・この過激な
 案を知って・・そして、承認したルーズベルトに、非難
 を集中させた。
  当時、ルーズベルトは、4期目を目指す大統領選挙キャ
 ンペーン中だった。
  ルーズベルトは、モーゲンソー案を承認してから2週間
 後に、記者会見をして・・『申し開き』をした。
  そして、正式に、「ドイツの戦後案を白紙に戻す」と
 言明した。
  ルーズベルトは、撤回後、卑劣な言い訳をした・・
  「モーゲンソー案の内容を知らないまま承認してしま
 った」。
  モーゲンソーの『へま』にやられた・・と言い訳を
 言った。
  卑劣な嘘で・・モーゲンソーに失敗を擦(なす)り付
 ける言い訳だった。
  また、アメリカ国民の方々を『誤魔化す言い訳』だっ
 た。
  日本の真珠湾攻撃という偽りの「卑劣な汚名」を作り
 出した嘘つきのルーズベルトの人間性を表わす、これも
 その一例となった。
  実際、モーゲンソー案は、ルーズベルトの強い支持を
 受けていたのは「動かしがたい事実」だった。
.
1945年7月14日、釜石の艦砲射撃で773人が死亡した。
  アメリカなど連合国軍が、3隻の戦艦を主力とした9隻
 の艦隊が、日本製鉄釜石製鉄所を主目標として、艦砲射
 撃を行った。
  一般市民の423人の方々が死亡した。
  日本側は、釜石湾で、第221号海防艦と第48号駆潜艇が
 応戦した。
  第48号駆潜艇は、アメリカ艦載機の攻撃を受け、湾内
 の千鳥島付近で沈没した。
  また、1945年8月9日に、二度目の攻撃があった。
  攻撃したのは1回目と同じ艦隊で、一般市民の271人の
 方々が亡くなった。
  この時は、最初、山側に射撃し、平地へ逃げて来た一
 般市民の人たちが、今度は、艦載機の機銃掃射で殺され
 た。
  これは、完全に、一般市民を目標とした攻撃だった。
  翌日の8月10日も、また、艦載機の攻撃を受けた。
  一般市民の犠牲:694人、軍人軍属:30人、捕虜:32人、
 合計756人の記録がある。
  攻撃艦隊は、アメリカ14隻、イギリス5隻、合計19隻の
 記録がある。
.
1945年8月2日、戦後ベルリンの学校改革(~1948年)
  連合国によるドイツ占領軍政は、軍事的保障占領を基
 礎としつつも、一定の政治目的を実現するための軍政と
 して行なわれた。
  その逮合国の占領ドイツにおいて達成しようとする政
 治目的は、1945年8月2日に、連合国間で合意に達したポ
 ツダム協定に明らかである。
  アメリカは、ドイツが、二度と復讐を思いつかない様
 にという名目で、教育改革をした。
  「ドイツの復讐を思いつかないようにする新教育制度
 をつくる」などと傲慢なことをするアメリカだった。
  これこそアメリカの復讐だった。
  ドイツの一部の組織(軍など)の責任を、ドイツの人々
 の全員に転嫁したアメリカの「間違った受け取り方」だ
 った。
  その様な解釈をするのなら、その様なドイツにしたヨ
 ーロッパ、そして、アメリカにも責任がある。
  1946年8月下旬~9月上旬にかけて、ドイツの「アメリ
 カ占領地区」の教育事情を視察した対独アメリカ教育使
 節団の報告書には、次のような報告がみられる・・、
  「すべての教員の半数以上が非ナチ化によって解雇さ
 れた。
  解雇される状態が、現在より軽減されたとしても、教
 員の補充は準備がととのっていない。(中略)
  初等教育機関の教員の補充の必要性が非常に大きい。
  従って、現在、緊急の養成計画が最も重要である。
  占領地区各州は、それぞれこれらの緊急の養成計画を
 立案している。
  1年次は大学、2年次は教育実習、3年次は再び大学での
 学習を要求している。
  一つの計画は、緊急の必要に充分まにあうように思わ
 れる」。
  これらは、問題点をすべて相手(ドイツ側)へ転嫁し、
 ナチスというレッテルを貼って、だからすべて悪いとし、
 自分のお好みに作り代えるという「立ち入った強行策」
 が行われた。
  強いアメリカは、腕力で相手をやっつけ、腕力で従わ
 せたら、戦争原因でないことまで、なんだかんだと言っ
 て、相手を自分のお好みに変えた。
  国レベルの『ガキ大将』行為という状況だった。
.
1993年10月、ロシアのエリツィン大統領が、シベリア抑留
 について、謝罪の意を表明した。
  この不法行為が、シベリア抑留と記され、そして、言
 われているが『適切な言葉ではない』。
  抑留とは、「強制的にその場所に抑え留める事」とあ
 るが・・、
  しかし、この日本人を連れて行ったソ連の行為は、『
 日本人の拉致行為』である。
  拉致:らち、無理に引き連れてゆくこと・・とあるが、
 これである。
  犯罪行為である。
  ソ連の正当性は、まったくない。
  「日本軍捕虜だ」とソ連は言ったって、戦争が終わっ
 た後、戦後になって、攻めて来たのだから・・、
  戦争は終わっている状況の中で、攻めて来た・・故に、
 ソ連の言い訳は『成立しない』。
  捕虜ではない。
  また、戦闘行為をしていない民間人も連れて行ってい
 るのだから『拉致』であり、犯罪行為である。
  『隷属的な強制労働の目的』のために連れて行った犯
 罪である。
  ソ連は、日本へ『戦後補償する必要がある』。
  この問題が未解決である。
  この件についての・・話を付けよ!
  シベリア開発をさせようという魂胆で、日本人を強制
 的に拘禁して、
  (拘禁、こうきん:捕らえて、その者の身体を継続的
 に拘束すること)・・この拘禁なのである。
  57万5000人もの方々を、シベリアへ連れて行った。
  この非人道的な行為を、筋の通らない行為をソ連は行
 なった。
  劣悪な環境下で、5万5000人もの日本人の方々が亡くな
 った。
  この様な悪行為を、アメリカも、イギリスも、正そう
 とはしなかった。
  見過ごして・・見て見ぬふりをした。
  逆に、アメリカは、ソ連へ武器を渡した・・供給した。
  中立状態のソ連へ、武器を渡して『そそのかした』。
  そのアメリカの卑劣な行為によって、日本人は攻めら
 れ・・日本人たちは拘束されて行った。
  杉原千畝の嘘話どころではない、55万人以上の話なの
 である。
  卑劣な、そしてまた、攻める武器を渡す行為などをす
 る同罪のアメリカ・イギリスなどだった。
  卑劣な連合国の諸国だった。
  この悪行為で5万5000人もの日本人が殺され、また、亡
 くなった・・
  この行為に対して、はっきりしたソ連の謝罪はない。
  ソ連の手を逃れた日本人は、無事に、日本へ帰って来
 れているのだ。
  ソ連は、戦争が終わったので、逆に、『保護をすべき
 立場だった』のだ・・ソ連の保護行為はまったく無い。
  また、ソ連は、連れて行った、拉致して行った日本の
 方々を、中々、解放しなかった・・
  長期に使役した。
  釈放せず、捕まえたままで、連れて行ったシベリアで、
 長々、不法に捕まえた日本人を、劣悪な環境下で、重労
 働をさせた
  鉄道建設などの重労働で死んで行った日本人たちは、
 どれほど痛ましかったか・・、
  この不法な拉致期間は、最長で11年にも及んだ・・11
 年間も重労働をさせた。
  日本人の一般人に対して、ソ連の犯罪性は、はっきり
 している。
  また、この行為は・・武装解除した日本兵について、
 ソ連がしたこの様な行為は、「ポツダム宣言に反してい
 る」。
  ポツダム宣言は、「復帰を保証している」ではないか・・、
  1993年10月、訪日したエリツィン・ロシア大統領は、
 「非人間的な行為」と謝罪の意を表明したが、
  『はっきりとした謝罪と、その補償を要求する』。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


(増補版)520E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)

2017-04-20 14:08:38 | 日記
題:(増補版)520E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月9日、フランスのクレマン・アデールが、20馬力
 の蒸気機関を装備した単葉機「エオル号」を製作した。
  アデールは、フランスの軍人であり、電気技術者でも
 あった。
  アデールのこの飛行機は、地面から浮き上がり、飛行
 距離は50メートル・・と・・主張した。
  しかし、実際は50メートル走っただけのようで、「初
 飛行」とは認められなかった。
  また、アデールは、1892年に2号機、1897年に3号機を
 作って、飛行に挑戦したが、うまくいかなかったようだ。
  有人飛行機の初飛行は、13年後の1903年12月17日のラ
 イト兄弟まで待たなければならない。
1890年10月12日、イギリス人のスペンサーが、横浜で落下
 傘を実演した。
  これは、軽気球実演で、横浜公園で、イギリス人のパ
 ーシバル・スペンサーが、風船(軽気球)に乗り、落下
 傘で降下する実演を行った。
  飛行は、午後2時と予告されていて・・、
  観覧場は、有料席が設けら、料金は、一人50銭〜2円。
  少し高額の入場料のため、売上は芳しくなかった。
  それでも・・800円の売上があった。
  音楽隊の演奏がされて、その音楽が流れる中、直径28
 尺(約9m)あまりの気球にガスが入れられた。
  ガスの充填の間、獅子、虎、象、亀、魚の形が描かれ
 た紙製のミニ気球が打ち上げられ、客を飽きさせない様
 になされた。
  ガス充填が完了して、4時48分、気球は一気に上昇し、
  あっという間に上空(約1,000メートル)に到達した。
  そして、気球で上昇したスペンサーは、パラシュート
 で飛び降り、「太田水道貯水地近傍」に降り立った。
  そして、すぐさま横浜公園の会場に帰り、観衆の前に
 現れ大喝采を受けた。
  この男は、ロンドンに生まれ、祖父から軽気球の製造
 を引き継いだ。
  そして、シンガポール、バタビヤ、香港など、当時の
 イギリス植民地を中心に、軽気球ショー巡業をしていて、
  そのショーの途中、来日し、横浜を手始めに8回実施し
 た。
  日本政府に対して、飛行計画をちゃんと申請して行っ
 た。
  巡業日程は、1890年10月12日(日)横浜公園
  10月19日(日)横浜公園(第二回)
  11月 1日(土)神戸居留地
  11月12日(水)天覧(二重橋外)
  11月24日(月)上野公園
  11月30日(日)大阪今宮眺望閣東
  12月14日(日)京都御所博物会場前
  日時不明・・・長崎
1890年10月20日、元老院が廃止された。
  1875年(明治8年)4月14日のいわゆる「立憲政体を立
 つるの詔(漸次立憲政体を立てるとの詔勅)」に基づい
 て、、
  それまでの太政官左院に代って立法機関として設立さ
 れた。
  (1875年1月の大阪会議で、立憲政体への移行の合意が
 成立していた)
  同時に、地方官会議や、
  右院に代って司法機関として大審院(だいしんいん)
 がおかれ、残置された正院とともに三権分立の形式がと
 られた。
  立法機関としては、法典編纂を主とした左院があった
 が、これが廃止されるとともに、欧米諸国の議会の上院
 になぞらえて元老院が設けられていた。
  元老院は、議長、副議長および議官からなり、書記官、
 書記生が事務を分掌し・・、
  新法の制定と、旧法の改正を議定することを基本的権
 能としたが、
  議案は、内閣から下付され、急を要する場合は、便宜
 布告後、検視に付する(事後承認を求める)など、立法
 権はきわめて弱かった。
  1890年10月20日、帝国議会が開設されるため廃止され
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:誠実なれ!!・・あまりにも、不誠実ではないか 💢(`(エ)´)💢 💢
.
1597年2月5日、キリスト教教会は、殉教者を、神と人間を
 仲介できる存在、聖人と位置づけて祈りの対象とした。
  この間違い教義によって、多くの方々が、多くのキリ
 スト教信徒が自死した・・自殺した。
  まったく可哀想なことである。
  キリスト教は、死ぬことを美化した。
  まったく卑劣である。
  このキリスト教の間違った「思い込ませ」で、何人の
 若者たちが、信徒の方がたが、自ら命を絶ったことか?
  キリスト教は、死後を美化する、そこで若者が死を選
 ぶ。
  これからの人生を絶つ。
  厳しく糾弾されるべき「キリスト教の悪行為の一つと
 なっている」。
  キリスト教は、幼少期の子供たちの童話として「フラ
 ンダースの犬」を推奨しているが、読むことを説いてい
 るが、
  この様な子供たちへも「死を美化した話で洗脳してい
 る」。
  この話は、キリスト教のイエス像の絵の前で死ぬ主人
 公と犬が、ともに天国へ行くと美化して終わる話となっ
 ている。
  いたいけな子供たちが・・幼児の時から死ぬ行為を美
 化された話で洗脳され、聞かされて来る・・洗脳された
 長い期間・・それを繰り返し・・死を美化されて・・死
 に憧れるマインド・コンロロールをキリスト教は行なう。
  この死への憧れは、キリスト教は、昔からやって来た。
  日本では、キリスト教の渡来から・・そして、豊臣秀
 吉のころから・・、
  日本を植民地化しようというキリスト教の影の企みを
 知った秀吉は、キリスト教を禁教にする。
  秀吉の指示の通り「国外退去に応じれば」、何も起こ
 らない優しい日本であったが、
  その指示に背(そむ)いて、違反し・・日本に潜伏し・・
 指示に従わないで日本に潜伏した宣教師たちは、日本の
 法を犯して、法違反者となって宣教する。
  弾圧なのではない・・法に違反する者たちを「取り締
 まった」のである。
  キリスト教は弾圧だというが、法に従わなかったキリ
 スト教が悪いのである。
  長崎の二十六聖人(1597年2月5日)なんて「法違反者
 なのである」。
  その取締りの中で・・卑劣にも・・キリスト教は、殉
 教をマインド・コントロールする。
  キリスト教宣教師たちは、卑劣にも、日本の信徒へ殉
 教する事を勧める。
  だから、故に、何と! 子供を連れて出頭して来る日本
 人のキリスト教徒まで現れるという始末だった。
  キリスト教は、この様に、死後に憧れさせて、自死す
 ること・自殺することを美化した。
  殉教だという美辞麗句を刷り込んだ。
  そのようなキリスト教の悪行が、今・現代も行なわれ
 ていて、天国への道に美があると洗脳し、信仰する目的
 があると洗脳し、マインド・コントロールする。
  この事によって、自死するキリスト教徒の若者の多い
 ことを憂える。
  自死する宗教となっているキリスト教。
  自死させる宗教となっているキリスト教。
.
1809年2月12日、リンカーンが生まれた。
  リンカーンは、大きくなって、弁護士になり、白人だ
 けに都合の良い法律を盾(たて)にとって・・
  白人の法律なんて何も知らない先住民のインディアン
 の方々へ・・、
  また、白人の法律なんて何も関係のない先住民のイン
 ディアンの方々へ・・その方たちの土地を取り上げて行
 った。
  『これが正義なのだ』・・と・・キリスト教とまった
 く同じ考え方で・・キリスト教の神の正義なのだと・・
 キリスト教徒が、隣国の富を奪うがごとくに・・この様
 なやり方で・・、
  弁護士となったリンカーンは・・あたかも、自分だけ
 が銃を持ったものの様に・・法律を振りかざして・・イ
 ンディアンの方々の土地を取り上げて行った・・
  リンカーンの子供の頃に・・目の前で殺されたお爺じ
 いさんの仇(かたき)を取って行った。
  この様な事を・・アメリカ資本に乗っ取られた日本の
 テレビは・・そして、メディアは・・まったく触れない・・
 隠す・・
  卑劣な事である・・日本の方々を・・それで洗脳する・・
  キリスト教徒の芸人が・・面白、おかしく話をする。
  経営者がキリスト教だということで・・この芸人集団
 は・・キリスト教に偏する行為を、テレビを利用してよ
 く行う・・
  そして、キリスト教に偏するNHKに・・かわいがら
 れる・・良く出演させてもらえる・・
  この行為は・・アメリカでは「巧妙なるキリスト教の
 伝道行為」と言われ・・裁判となっている事例が多いと
 いう行為で・・温厚な日本を馬鹿にしている・・、
  このリンカーンという男が・・何人の黒人の方々を、
 アフリカに送って・・棄民をしたかも・・まったく触れ
 ない・・
  そして、インディアンの掃討を命じたり・・
  厳寒期に、死者が多数出ると分かっている命令・・イ
 ンディアンの方々へ、居留地の移動を命じたり・・こん
 な事には・・まったく触れない・・
  そして、南北戦争は、奴隷を解放しようとする北部と、
 奴隷を解放しないとする南部との戦いだという嘘で美化
 する。
  これは、アメリカの政治を牛耳る北部を「美しく仕立
 てすぎているアメリカ北部美化路線」・・これに、まっ
 たく乗っかっている。
  これは、何故、リンカーンが暗殺されたかを見ればわ
 かる。
  まだまだ、アメリカは、イギリスの従属国的であった。
  リンカーンは、金を自国で発行しようとした。
  つまり、イギリス金融資本家が、もうからない様な政
 策を取ろうとした。
  暗殺の理由だった。
  南北戦争の時も・・アメリカへ・・戦費が、イギリス
 金融資本から流入した。
  このところが・・南北戦争が起きた原因だった。
  まだまだ、可哀想に・・黒人の方々は、奴隷という地
 位に虐(しいた)げられていた。
  この時、奴隷解放という政治的宣言をする段階にあっ
 た。
  黒人の方々の「活動や努力」でその様な段階にあった
 のだ・・
  そこに、リンカーンが居ただけで・・リンカーンの政
 治的な理念からではなかった。
  だからと言って・・その宣言がなされたからっと言っ
 て、その路線にすんなり行ったわけではなかった。
  北部の工業資本家も・・安い労働力が欲しく・・そし
 て、安い労働力の黒人の方々を欲していた・・
  何も、南部のプランターの経営者だけが、悪者ではな
 かった。
  アメリカ北部も南部も、黒人の方々を虐(しいた)げ
 ていた。
  だから・・南北戦争後になっても、北部の工業資本家
 と、南部のプランターの経営者たちが・・手を握って・・
 奴隷解放路線の揺り戻し・寄り戻しの行動を・・共同し
 て取った・・このことが何よりの証拠である。
  こんなことを、今・現在、アメリカ資本に牛耳られて
 いる者ども・メディアは、少しも触れない。
  従来の嘘つき路線、プロパガンダ路線で、日本の方々
 を洗脳しようとしている日本のマス・メディアである。
.
1842年11月4日、リンカーンの結婚式の日(リンカーン33歳)
  リンカーンは、「結婚をしようとも思っても居ない相
 手」に、その相手の女性に、積極的に結婚を求められて、
 結婚する事にした。
  しかし、結婚式の直前、逃げ出す、姿をくらます。
  数年間という長い期間、逃げ回っていた。
  しかし、ある日、偶然にその女性に出会わす。
  そして、その数日の後に結婚する。
  ここには、まったく、リンカーンにはイニシアティブ
 が無い、リンカーンの意志はない。
  リンカーンの奴隷解放宣言も、まったく、「これと同
 じ」。
  しかし、今、リンカーンは、美しく祭り上げられてい
 る。
  最後の階段を登らねばならない状況において、その階
 段を昇ったら、「奴隷解放宣言だった」という状況だっ
 た。
  そのような事実は、すべて、まったく、隠されている。
  アメリカ北部の政治主導のシンボルとして祭り上げら
 れ、プロパガンダ(嘘宣伝)されている。
  リンカーンの配偶者の名前は、メアリー・トッド・リ
 ンカーン。
  1842年、メアリ・トッドは、自分の家族・親戚にも、
 11月4日の結婚式の当日の朝まで、リンカーンとの結婚の
 ことは口にしなかった。
  ウイッグ党の機関紙「サンガモ・ジャーナル」の編集
 長の妻サイメオン・フランシスの勧めで、秘密裏に交際
 を再開した二人だったが・・、
  11月4日の朝に、結婚の話を聞かされたメアリの妹エリ
 ザベスとその夫、ニニアン・エドワードは・・
  「もうこうなったらしょうがない。
  式をあげるのなら、やっぱりこの家しかないでしょう」
 と言い、自分たちの家で、式をあげさせた。
  その夜、二人は、週4ドルのホテル「グローブタバーン」
 に移り、そこに2年間住んだ。
  駅馬車の駅兼宿屋だった。
  2階にある家具つきの部屋で寝て、食事は、階下の共同
 食堂でとった。
  夜になると、リンカーンは、よく食堂で、誰かれとな
 く話しこんだ。
  すると、階上から・・リンカーンを呼ぶメアリの咳払
 いの声が聞えて来た。
  ある日は、夜中まで聞えて来ることもあった・・つま
 り、リンカーンは、新妻をほったらかしにして、夜中ま
 で話しこんでいた。
  ある朝は、怒ったメアリが、食堂でリンカーンの顔に
 熱いコーヒーをぶっかけた。
  そばにいた間借り人が、リンカーンの顔を拭(ふ)い
 て、、やけどの手当てをしたという。
  鬼嫁だった・・すれ違い夫婦だからやむを得ないか・・?
.
1882年4月19日、ダーウィンが没した(73歳)
  チャールズ・ダーウィン(1809・2・12~1882・4・19)
  神を乗り越えた「ダーウィン」。
  「種の起源」を書いたダーウィン。
  彼の頭には「ある想い」があった。
  彼の父親は、キリスト教聖職者だった。
  彼の想いを気付き、研究時間を持ちたい息子に、父は
 言った、「キリスト教聖職者になりなさい」・・と。
  それは、親として息子に、自分の職業を継がせたいと
 いう事ではなく、息子が研究にいそしむ姿を見て、その
 息子が欲しいであろう「研究のための時間」が得られる
 というのが、ダーウィンの父の考え・思いだった。
  父は、ダーウィンへ言った、「キリスト教聖職者にな
 れば好きな研究のための時間がいっぱい得られる」と。
  ダーウィンは、キリスト教聖職者になった。
  そして、キリスト教教会の中庭に、研究のための畑を
 造ったりした。
  ダーウィンの想いは、「生物の種は神の創造だという
 当時の常識を打ち破らんとした」。
  それは、彼の著「種の起源」の書きぶりを見て、また、
 読めば・・明らかだ。
  彼の凄さは、大陸が移動するという「プレートテクト
 ニクス理論」が、まだ知られていない時代に、
  また、「DNA理論」も知られぬ時代に、
  種の分化や自然淘汰の原理、大陸や海洋の歴史と種の
 地理的分布の関係などを、当時の知識で正しく見通して
 いた。
  空恐ろしいまでの凄さで、進化論を認めないのは、万
 有引力の法則を認めないのと同じだと言っている。
  また、天動説を認めないのと同じだと言っている。
  ダーウィンは、19世紀に、非科学と戦った。
  そこには、キリスト教を例外とせず、キリスト教も入
 っていた。
  今や、彼の主張するところは、動かしがたい事実とな
 っている。
  彼・ダーウィンは、最初の意気込み通り、「キリスト
 教の神を乗り越えた」のだった、
  「キリスト教の神の創造思想」を乗り越えた。
  「種の起源」の生命は、尽きることない真実を示し続
 けている。
  キリスト教の神が作ったもの、創造したものは不完全
 で・・
  だから、故に、進化するのだという、当時では認めが
 たい真実が、正しい科学的な事柄なのだと、
  キリスト教の神の創造説を、キリスト教の教義の大根
 源から崩れることを・・証明したのだった・・
  キリスト教の根源の教理を・・覆し、否定したのだっ
 た。
.
1903年12月17日、ライト兄弟が、ノースカロライナ州キテ
 ィホーク近郊にあるキルデビルヒルズにて、12馬力のエ
 ンジンを搭載したライトフライヤー号によって、有人動
 力飛行に成功した。
  ライト兄弟が、初飛行に成功した時の写真は、2人に
 撮影を頼まれた観客の一人、地元の海難救助所員のジョ
 ン・T・ダニエルズが撮ったもので、合計4回の飛行が試
 みられた。
  1回目: 12秒、(36.5m)
  2回目: 12秒、(53.3m)
  3回目: 15秒、(60.9m)
  4回目: 59秒、(259.6m)
  この飛行は、強風が吹く中で、風に向かって飛んだ。
  故に、実際は、もっと飛行距離は長くなると見られる。
  兄弟は、あてずっぽうに実験したのではなく、風洞実
 験をしたりして、一歩一歩、科学的に、また、工学的に
 成功への道を詰めて行った。
  グライダー試作機を作ったり、滑空飛行を繰り返し、
 操縦技術の習得など・・着実に・・そして、改良し・・
 研究して行った。
  また、安定した強風が吹く場所の選定など、研究室・・
 大学教授などの・・知的な情報も得た。
  この時も、日本の大発明が潰され、奪われた様に・・
 ライト兄弟の特許を無効にしようという動きがあった。
  民間のライト兄弟の栄光を潰そうとした勢力のグルー
 プが、有名なスミソニアンの、スミソニアン協会のグル
 ープだった。
  スミソニアンの強力な圧力は、ワシントン国立博物館
 の展示でさえ、スミソニアンの押す飛行機となり、世界
 初飛行に成功したのは、ライト兄弟ではなく、ラングレ
 ーだと思わせられる時代が続いた・・その様なアメリカ
 だった。
  ライト兄弟の特許は活用もされず、世界初の飛行機を
 製作した技術者はまったく活かされず・・不遇に過ごし
 た。
  今、飛行機の活躍を見ると、アメリカという社会によ
 って、不遇に泣き、陰に置かれた大発明家が、ここにも
 居るということを想え・・、
  アメリカという国は、まったく不正な、無謀な、不公
 正な、不誠実な事をやる社会なのである。
  偉業をたたえられず、失意と、法廷闘争に疲れた大発
 明家が・・そこに居た。
  1912年、初飛行から9年後、兄のウィルバー・ライトが、
 腸チフスで死に(45歳)、そして、その4年後に弟のオー
 ヴィル・ライトは、飛行機製造から身を引いた。
.
1941年8月1日、フランクリン・ルーズベルト、アメリカ大
 統領は、日本に対する石油輸出禁止の強化を発令した。
  8割を超える石油を輸入していた日本は、それまでの禁
 輸措置と共に、完全に石油の輸入が停止された。
  ルーズベルトを良く知る「ルーズベルトの娘の夫(娘婿)」
 のカーチス・ドールは自著で書く・・
  「ルーズベルト大統領(国際金融勢力の代理人)が、
 アメリカ人をいかに操縦して、第二次世界大戦に入らせ
 たかについての真相は、最大の重要性を持っている」と。
  そして、さらに・・、
  「両国(日本とアメリカ)の普通の人たちが、この戦
 争と、その原因の恐るべき教訓を理解することが、もっ
 とも重要なことです」・・と。
  ルーズベルトを繰っていた国際主義者ら・・
  この国際主義者らは共産化をしようともくろんでいて、
 ソ連が誕生しただけでは満足せず・・、
  次に、中国を共産化するため、ソ連に南下させようと
 した。
  しかし、そこに立ちはだかったのが日本だった。
  そこで、国民党の蒋介石を日本と戦わせて・・疲弊さ
 せ・・そして、その後・・中国共産党に、政権を握らせ
 るという計略を練った。
  そして、アメリカが日本と開戦し、日本を敗戦に至ら
 せる・・だった。
  その路線の中で・・アメリカは、「不戦条約違反の『
 日本への石油の輸出の完全に停止』をして、日本に対す
 る事実上の宣戦布告をした」。
.
1950年代末、戦争花嫁
  この頃まで、アメリカに渡った日本人戦争花嫁は、
 40000人~50000人に達すると言われている。
  アメリカ兵の夜の相手をした女性もいたが、
  教養ある日本女性がアメリカ兵に嫁ぐ、そして、アメ
 リカに渡ったが・・
  2年後から、その女性が日本に帰って来る。
  アメリカでの文化の違いから嫁姑問題、そして、近所
 の人種差別(日本人は有色人種として扱われる)
  人種差別が壮烈なアメリカ、義理の兄弟からも虐(し
 いた)げられ、虐(いじ)められ・・そして、地域から
 も出ていけの嫌がらせ・・自殺する日本女性も多かった。
  また、日本へ戻る帰りの船から海へ飛び込むという悲
 惨さだった。
  ワーブライド(war bride、戦争花嫁)とアメリカ社会
 からいじめられた。
  アメリカは、伝統の無い国で、卑怯な事に、アメリカ
 兵の性の問題から逃げた。
  パリ市長が泣きを入れた様に、アメリカ兵の性につい
 て、行く先々で破廉恥な問題が多発した。
  まるで、他人に・・女性の方たちへ・・害を与える者
 を町に放(はな)って・・、
  あとは、『勝手にやってくれ』は・・無責任なアメリ
 カだった。
  アメリカが言う、「軍の統制下なら管理する」は、無
 責任きわまる発言で、前記の様なパリでの様相に日本で
 もなった。
  日本での数々の蛮行の中に・・病院に集団で、銃を持
 って乱入し、看護婦から、妊婦の入院女性にまで、やり
 たいことをやった。
  この様な事が多発し、毎日、毎日、新聞にその悪辣ぶ
 りが記される続けると、占領行政という腕力をふるって、
 新聞の記事にすることを規制し、記事にしてはならない
 とした・・卑劣なアメリカである・・
  そして、相変わらず・・街で女性と何をしようが、ア
 メリカ軍とは関係ないという態度を取った。
  性の問題が・・相変わらず・・多発し・・起きた。
  指導する責任を放棄したアメリカの結果だった。
  まるで管理すべき猛獣を、『関係ないのだ』と、管理
 なしの状態で、街に放(はな)ったような状態だった。
  アメリカは、まったく・・だらしなかった。
  町では、アメリカ兵に強姦される日本女性が急増し続
 けた。
  この様な事は、ベトナム戦争の時にも、アメリカはや
 った・・多くの混血の方々が生まれた。
  まったく節度が無かった。
  アメリカの責任放棄の結果だった。
.
21世紀、アメリカ南部地域は、北部の植民地へ?
  アメリカ南部のその重要な産業は、そのほとんどを北
 部の資本に、押さえられている。
  南部人たちは、無益だと知りながら、北部への抵抗を
 執拗に繰り返す。
  それが、単なる北部への反感や、単なる感傷や復讐心
 からではない。
  アメリカ南部の農本主義、家族主義、家長制整など、
 この地の風土は、まだ、根強く残っているが、それらは、
 南部の人たちの精神構造の中に、深く染み込み、南部の
 人たちを形造っている。
  大切にしなければならないところである。
  しかし、それを、北部が侵食し、そして、破壊して行
 った。
  今、アメリカ資本が、日本の文化や、もろもろを・・
 破壊し・・工作しているのと同じ様に・・、
  大切なものが壊されている。
  日本も、この南部と同じ状況下にあって、日本の残し
 ておきたいものが失われて行っている。
  世界は、日本ブームにあるが・・、
  また、南部には・・北部にない独特の文化があるのは、
 南部は南部で、直接、イギリスの文化の影響を受けてい
 るからで・・、
  18世紀のイギリス文化の影響を受け、北部にはない南
 部の独自性が出来ている・・
.
2002年、アーミテージは、辞任した後、政権の座を降りた。
 その後に・・
  「アメリカ国務省は、2002年頃から、北朝鮮が核兵器
 を放棄することはない・・と判断して居た」という真相
 を明かした。
  これは、アメリカ政権(ホワイトハウスと国務省)の
 本音だった。
  しかし、この本音は、日本の耳に入って来なかった。
  日本は願っていた・・六か国協議で何とかしたいと・・
 と、
  しかし、アメリカと中国の両政府の共謀で、日本には
 黙っていよう、そして、日本を騙しておこうという状況
 で・・時間は・・歴史は過ぎて行った・・
.
2015年、訪日客が増えている。
  日本政府観光局の2015年11月18日発表、
  日本を10月に訪れた外国人旅行者数は、前年同月の43.8
 パーセント増。
  182万人。好調は続いている。
  パリ同時テロが影響はしている、
  10月まで1631万人。
  内訳:
  中国24%(約2倍、44万人)
  韓国20%(49パーセント増、37万人)
  台湾19%(32パーセント増、34万人)
  香港7%、
  米国5%、
  英国1%、フランス1%、ドイツ1%、その他。
  欧州客は、長期宿泊する傾向、
  中長期的には増加傾向、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)519E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年10月)

2017-04-17 05:13:00 | 日記
題:(増補版)519E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年9月21日、日本法律学校が開校した。
  日本法律学校(日本大学の前身)が開校式をした。
  この学校は、日本の法律を研究し、国運の増進をはか
 ること目的として設置された私立の法律学校で・・、
  大日本帝国憲法が公布され、皇典講究所所長・山田顕
 義が、同じ趣旨で学校設立計画を進める法律学者らを全
 面的に支援し、設立された。
1890年9月29日、逓信省が、女性電話交換手を募集した。
  応募資格は、小学校高等科修了。
  応募資格に於いて・・、
  品行方正・言語明瞭・・さらに、
  「夫ナク家事ニ関係ヲ有セザルモノ」、
  「日常ノ算筆ヲ能クスルモノ」・・という条件も付い
 ていた。
  採用されたのは、14歳~25歳までの9人の「教養ある
 良家の子女」だった。
  この頃の女性の仕事といえば、女工か看護婦という、
 ごくわずかなものしかなく、
  電話交換手は、女性に開かれた数少ない仕事の一つだ
 った。
  この電話交換手には、男性もいたようで、電話創業に
 備えて・・女性を募集したものだった。
  当時、使われていたのは、ベルギー製の単線式単式交
 換機だった。
  加入者からの通話表示があると、交換手は、そのジャ
 ックにプラグを差し込み、加入者の告げた通話相手のジ
 ャックに、もう一方のプラグを差し込んで接続するとい
 うものだった。
  こうした交換機は、1979年の全国完全自動即時化まで、
 農村や山村の小さな局で使われていた。
  日本では、東京と横浜の間で、市外電話の通話試験を
 行って成功したのが1885年(明治18年)で、この年に、
 逓信省が創設された。
  初代大臣は榎本武揚、取り扱う業務は、電信事業・郵
 便事業、そして、灯台業務だった。
  この時から5年もかかって、電話事業がはじめられたの
 は、国営にするか、民営にするかで、政府内部で意見が
 大きく割れ、
  民営を強く主張する実業界も加わり、その調整に時間
 がかかった。
  逓信省は、試験をかねて、東京~熱海間に電話線を一
 回線引いて、1889年(明治22年)1月1日から1年間、一
 般公衆の通話を取り扱った。
  この試験通話は成功したが、用件のために電話すると
 いうより、好奇心から利用した人が多かったという。
1890年10月7日、岡倉天心が、東京美術学校の校長に就任し
 た。
  副校長はフェノロサが務めた。
  1886年~1887年に、文部省図画取調掛委員として岡倉
 覚三(天心)とフェノロサは、欧米の調査旅行を行った。
  この旅行は、美術教育全般に関わる調査を目的とした
 ものだった。
  そして、2人の報告に基いて、1887年10月、勅令によっ
 て図画取調掛、および、工部大学校内「工部美術部」を
 統合・改編し、東京美術学校が設立された。
  開校は、1889年2月。
1890年10月7日、民法財産取得編を公布した。
  明治23年法律28号 (財産編、財産取得編〈非相続〉、
 債権担保編、証拠編) 、同年法律 98号 (財産取得編〈相
 続〉、人事編) 。
  民法典(旧民法)が公布された。
  明治政府が、フランスから招いたG・ボアソナードが、
 中心となって編纂した。
  1893年1月1日に、施行される予定になっていたが、日
 本の習慣を顧慮していないということなどから、その施
 行について、断行論者と、施行延期論者との間に、激烈
 な論争が行われた (→民法典論争 ) 。
  (ボアソナードを主任としてフランス民法を範として
 作られていたため、日本になじめないところがあった)
  結局、延期派が勝って、1892年の帝国議会で、修正の
 ため、1896年まで、その施行が延期された。
  また、法典調査会によって新たな体系による民法典 (
 →民法) の編纂が進められて、1898年に施行された。
  この1896年に公布された民法(総則・物権・債権の3編)と、
 1898年に公布された民法(親族・相続の2編)によって、そ
 の公布とともに廃止となった。
  そのため、旧民法はついに実施されずに終った。
  旧民法は、全体としてフランス民法に近く、ボアソナ
 ードが関与しなかったといわれる親族相続に関する部分
 も原案は進歩的であったが、法律取調委員会、および、
 元老院の審議の過程で改正されていった。
1890年10月7日、刑事訴訟法が公布された。
  (明治23年法律第96号)
  この年に、フランス法にならって制定された日本初の
 近代的刑事訴訟法典は、治罪法と呼ばれたが、
  1890年に、それが改正され、刑事訴訟法と称されるよ
 うになった。
   1922年になって制定された刑事訴訟法 (旧刑事訴訟法)
 は,ドイツ法の影響を強く受けたものになった。
1890年10月9日、初めての電話帳である「電話加入者人名表」
 が発行された。たった1枚の紙だった。
  電話交換業務が始まった時点で、開通していた東京と
 横浜の加入者は、197名だった。
  そして、この電話帳は、1番が東京府庁で、番号順に縦
 書きに記され、
  官公庁や新聞社、銀行に交じって渋沢栄一や大隈重信
 などだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本の大発明・・ノーベル賞ものの光ファイバー大発明は・・奪われた・・
    こんなことは・・まだまだ・・ある・・
.
1894年、日清戦争の始まる直前に、日英通商航海条約が調
 印された。
  江戸期からの悲願の差別の条約が、やっと、改正され
 たのである。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという卑劣なアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカが、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から40年の月日が経っていた。
.
1905年、日本は、この年、日露戦争に戦勝した。
  日本はこの時まで、日本の危機の時代をくぐり抜けて
 来た。
  この時まで・・、1853年のアメリカの来航をはじめ、
 列強各国が、日本の植民地化をうかがっていた時代・・
 それをくぐり抜けて来たのだった。
  また、遠く・・キリスト教宣教師が・・衣の下に隠し
 ていた・・日本植民地化の尖兵役の暗躍を・・アジア各
 国と同じ様にならないで来た・・そして・・
  1853年に、アメリカのペリーが来航し・・アメリカ・
 ヨーロッパの列強各国が日本へ殺到して来たが、
  日本の江戸幕府は、やむなく開国し、その各国と国交
 を開いたが、
  まだまだ、未熟な日本は、何らその防備はなく、
  その列強各国は、その機会・・植民地にする餌食の
 機会をうかがっていた。
  日本だけが・・例外であったのではなく・・
  日本は、常に、外国勢力が、ある日、突然上陸して、
 自分たちの主義や独立を脅かすかもしれない危機に曝(
 さら)されていた。
  アジア各国がされたように、日本の植民地化への思惑
 は、列強各国は、当然のように持ち、狙われていた。
  明治政府が、必死に、「富国強兵策」に邁進したのは、
 明治の賢明な諸士が、そのことのアジア各国の状況を十
 分すぎるほど理解していたからだった。
  のほほんと平和の夢を貪(むさぼ)っていたのではな
 かった・・現代の様に・・、
.
1926年9月12日、光ファイバーの大発明をした西澤潤一氏が
 生誕された。
  西澤氏の著書の一端・・
  ・『闘う独創技術』日刊工業新聞社、1981年5月
  ・『愚直一徹-私の履歴書-』日本経済新聞社、1985年
    10月
  ・『独創は闘いにあり』プレジデント社、1986年2月/
    新潮社(新潮文庫)、1989年2月
  ・『西澤潤一の独自開発論』工業調査会、1986年3月
  ・『「技術大国・日本」の未来を読む』PHP研究所、
    1989年9月
  ・『私のロマンと科学』中央公論社(中公新書)、
    1990年3月
  ・『独創教育が日本を救う』PHP研究所、1991年8月
  ・『人類は滅亡に向かっている』潮出版社、1993年
    12月
  ・『東北の時代―もはや一極集中の時代ではない』
    潮出版社、1995年4月
  ・『教育の目的再考』岩波書店、1996年4月
  ・『新学問のすすめ-21世紀をどう生きるか』本の森、
    1997年9月
  ・『背筋を伸ばせ日本人』PHP研究所、1999年6月
  ・『人類は80年で滅亡する』東洋経済新報社、2000年
    2月
  ・『教育亡国を救う』本の森、2000年8月
  ・『赤の発見 青の発見』白日社、2001年5月
  ・『日本人よロマンを』本の森、2002年10月
  ・『戦略的独創開発』工業調査会、2006年4月
  ・『生み出す力』PHP研究所(PHP新書)、2010年8月
  ・『わたしが探究について語るなら』ポプラ社、
    2010年12月
.
1932年10月2日、リットン報告書が出た。
  アメリカのやり方・・立ち回り方・・
  アメリカは、イギリスやフランスなどが、アジアの国々
 を植民地にしても、何も言わず、
  俺も植民地を取りたい・・と、フィリピンなどを植民
 地にしたりしていた。
  英国人記者HS・ストークス氏が言うように、白人様の
 植民地に進攻するのは侵略となる・・有色人種の日本が、
 その様な白人様のマネをしてはいけないと・・
  たとえば、中国を一番侵略していたのがイギリスで、
 それも、北京などの中枢の中心地域を含む広大な土地を、
 地方を、広くイギリスは侵略し、そして、占領していた。
  そのイギリスへ、アメリカは、「酷(ひど)いではな
 いか」などと一度も言ったこともない。
  グル(一味)だったのである。
  こんな不公正なアメリカが、日本にとやかく言う権利
 はないのだが・・?
  さも、公平さを演じて、日本へとやかく言うのは、ア
 メリカとグルになっているイギリスの利益となる行動を
 していた・・、
  影の当事者のアメリカに・・発言権はないのである。
  1932年10月2日に出された「リットン報告書」は、日本
 の満州の権益は『 認めた 』。
  侵略だなんて言ってない・・当然だ・・日露戦争で、
 日本は、ロシアに勝利して、満州を移譲されていたのだ
 から・・
  国連(国際連盟〉調査団さえ日本の権益を『認めたの
 だ』。
  国際社会が認めたのだ。
  ただ、おかしなところは・・日本は侵略したとした。
  ならば、北京などの中国の中枢地域を侵略していたイ
 ギリスは、どうなるのだ?
  まったく有色人種は、白人のやるような行為はしては
 いけないの、有色人種(日本人)は侵略になるの・・と
 言っている行為になっている。
  「権益を認めて、侵略とする」日本への断定。
  「権益を認めて、侵略としない」イギリスへの見解・・
 まったく理屈の合わない状況だ・・どこがどの様に違う
 のだ?
  好き勝手に、右だ左だと、自分の都合の良い振る舞い
 をするアメリカがあった。
  漢民族の中国が、満州族(女真族)の地・北支を支配
 下においていて、そこへ日本が入った。
  イギリスは、漢民族の地・北京などの広い地域に入っ
 た。
  アメリカも権益を得ようと画策する北支や中国・・
  この状況で、何が言えるのか?
  要は、白人様が、今までやってきた。
  そこへ新参者の有色人種(日本)がやって来た、
  白人様がやっていることと同じ事をやるなの話なのだ。
  白人権益。白人秩序に挑戦するな・・なのだ。
.
1940年、日本工作のために、後に、アメリカの国務省の次
 官補代理になるボブ・バーネットが日本に来た。
  ボブは、アメリカのジョンソン大統領の時(1963年~
 1969年)、アメリカ国務省の次官補代理としてアジア政
 策を担当していた。
  ボブ・バーネットは、キリスト教宣教師の父を持ち、
 中国で生まれで、上海で育った。
  オクスフォード大学などを出た。
  このボブは、1940年~1941年、アメリカのスパイとし
 て日本に来た。
  そして、この頃、キリスト教宣教師が、日本とアメリ
 カを戦争に至らせようとする行動に暗躍していた。
  酷い話だ・・
.
1964年、通信には、今や、光ファイバーが無ければ文明が
 破壊するほど、「基本中の基本技術』となっているが・・
  今から50年以上も前に、日本の西澤潤一氏、佐々木市
 右衛門氏は、ガラスファイバーのコア内の屈折率を中心
 から周辺に向かって連続的に低くなるように変化させ、
 入射角の異なる光をファイバー内で収束させる自己集束
 型光ファイバー(今日にいうGI型光ファイバー)の概念を
 特許出願した。
  物凄い着眼で、素晴らしい発明だった・・
  自己集束型光ファイバーによる光通信の可能性につい
 て発明したのだった・・
  しかし、この大発明を、日本の特許庁は、意味がわか
 らないと不受理にした??
  アメリカの圧力があったと関係者の中で指摘された。
  昭和39年・・1964年の話だった・・
  また、1970年、アメリカのコーニング社が、通信用光
 ファイバーを実用化したと発表した。
  光ファイバーの製造法とカオ論文に示された光ファイ
 バーの構造を始めとする基本特許(米国特許第三六五九
 九一五号)を得た・・
  基本特許の大発明だった・・、
  コーニングの光ファイバーは非常にもろく、まだ、実
 用化にはほど遠いものであったが、カオの理論通りに20
 dB/kmの損失を達成した。
  しかし、何と! 日本の特許庁は、それが、日本の西
 澤氏が先発明していることを、つまり、先に出願してい
 ることを、そして、西澤氏の発明とと類似するものであ
 ると知りながらも・・口をつぐんだ。
  まったく・・ひどい行為をした・・
  このアメリカの特許出願が、特許になったということ
 は、西澤博士の特許出願も特許になりうる発明であった
 ということ・・である・・
  そして、先に出願している西澤博士の特許の方が、当
 然、先の出願であるので、特許の範囲が広くなり、基本
 発明となる。
  莫大な国益となった・・訳だ・・
  しかし、西澤博士の特許出願が、例え、特許とならな
 いのならば、アメリカの特許出願も、特許にならないと
 いうことになければならない。
  西澤博士の特許出願が先になされたということによっ
 て、アメリカの特許出願は、特許になる要件を満たして
 いないからで・・、
  それは・・何ら新規性が無いと言えるからで・・
  この「新規性を喪失している」から不特許となる・・
  この光ファイバーの大発明は・・まったく、おかしな
 展開となった・・
  関係者の不満・指摘は、最高度に達した・・この様な
 ことは、まだまだある・・
  西澤博士の大発明は・・奪われてしまったとしか言え
 ない状況となった。
.
1972年、日本に対する、米中の『共同封じ込め戦略』が始
 まる。
  ニクソン大統領とキッシンジャーは、中国の毛沢東と
 周恩来(首相期間:1949年~1976年)に、うまく乗せら
 れてしまった。
  その合意は、「アメリカと中国が協力して、日本をカ
 ウンターバランスする」というものだった。
  そして、この結果、1972年から、「ジョイント・コン
 ティメント・ストラテジー(日本に対する共同封じ込め
 戦略)」が始まる。
  こんなこと「近・現代史」では教えない。
  この要点は・・、
  (1)日本には、絶対に核を持たせない。
  (2)日本の自立的独立を阻止する。
    その為、アメリカ軍は日本駐留を続ける。
  (3)朝鮮半島と台湾の問題に、日本へ発言権を与えな
    い。
  この話し合いは、1971年秋、周恩来とキッシンジャー
 の間で話し合われ、
  1972年2月、アメリカのニクソン大統領が、訪中をして、
 北京へ行ったときに、米中首脳間で合意がなされた。
  この事は、明確に・・アメリカ政府の公開された外交
 史料に記載されている。
  当時の密約は、今、公開資料となっている。
  アメリカは、緊密な日米関係を口にするが、この様な
 事を、日本に何も相談しないで、日本の『頭越し』で、
 平気でしている。
  裏切る様な国なのだ。
  2003年以降のブッシュ政権も、手のひらを返した。
  アジア政策を「中国重視、日本蔑視」にした。
  あんなに、「ジョージとジュンイチロー」と言って、
 小泉純一郎首相とブッシュ大統領は、緊密で、親日的だ
 ったのに、アメリカは裏切った。
  日本も、必死に、イラク戦争に大金を出したり、郵政
 を民営化したりして、アメリカ企業を儲けさせていたの
 にである。
  また、特に、キッシンジャーは曲者で、注意を要する。
  『親中嫌日』の男なのだ。
  最近も、中国へ行った。
  日米基軸なんて、砂上の楼閣・・、アメリカは、どう
 でもよいとしている。
  調子の良い時は、基軸だとするが・・??
.
2006年秋、北朝鮮が核実験をした。
  反対を押し切った強行実験だった。
  この時、日本の中川昭一議員(自民党政調会長)は、
 「核を持たずに北朝鮮にどういう対抗措置をとれるのか、
 真剣に議論しよう」と言い・・また・・
  「憲法でも核保有は禁止されていないのだから、核の
 議論はあってしかるべきだ」・・と言った。
  この時、アメリカのライス国務長官が、急遽、東京に
 飛んで来て・・、
  「あらゆる抑止力を使って、日本に対する安全保障を
 約束する」と明言し・・そして・・帰った。
  このあらゆる抑止力を使って日本の安全保障・守ると
 いうその手段の中に、
  アメリカが、核戦争を実行するということについて、
 種々の見方がある・・
  懐疑的に・・、アメリカが、核戦争を、自国ではなく
 日本を守るために、「核戦争を始める訳はない」という
 見方である。
  この見方は、ハンティントンや、キッシンジャーや、
 ターナー元CIA長官らが、明確に・・
  「アメリカは、同盟国のために核戦争などやらない」
 と言う。
  アメリカ国務省のボブ・バーネットも・・、
  「アメリカが、日本を守るために核戦争するなんて、
 そんな事は絶対にありえない。
  アメリカは、単に、同盟国をだましているだけ・・」
 ・・と。
  中川議員に端を発した「日本の核議論」に、何故、ア
 メリカの国務長官が、すっ飛んで来たのか? また、「
 安心しろ」と言ったのか?
  「日本が、これを端緒にして、核を持つに至ることの
 ないようにと言うことが、ただ、それだけが・・すっ飛
 んで来る重要使命だった、重要任務だった」。
  ここに、「日本にだけは・・核を持たせるな」の、「
 米中密約の存在」を強く裏付けられる・・公然の存在の
 密約が・・、
  「日本の『核の傘の保障』は、その様なもの」。
  東北の東日本大震災、この時、各国の救援隊が駆け付
 けて戴いた。
  しかし、原発事故が発生し、本当に厳しい状況になっ
 た時、各国救援隊は居なくなった。
  最後まで任務を果たして戴いたのは、自衛隊の方々だ
 けだった。
  夜、その日の任務が終わって、宿舎に帰った隊員の方
 たちは、昼の任務中に見た悲惨な状況に、涙ぐんでいた
 という、泣いていたという。
  この最終的な・・奥の・・そして・・次のステージに
 臨んだ際に、どの様な行動がとれるのか?・・である。
  アメリカは、この中川議員発言の後、日本へ、陰で・・
 相当な圧力を掛けていると・・みられる。
  この類の話をすることが、「アメリカが怖くで出来な
 くなっている」という話が・・頻(しき)りになされる。
  アメリカは、結局、北朝鮮を、「テロ支援国家」から
 外した。
.
2013年3月16日、アメリカが、やっと、特許の先願主義へ移
 行した。
  アメリカは卑怯だった・・ずるかった・・先発明主義
 を、長い間、金科玉条にした・・
  「先発明主義」と聞くと・・かっこよく聞こえるが・・??
  発明をしたとしても・・、
  その行為が・・発明をしている行為であっても・・
  その発明があったとしても、その発明者が・・「発明
 をしたのだ」と気が付かなければ・・認識しなければ、
 当然のこととして、発明したことにはならない・・、
  当たり前である・・たまたま、同じことをやっただけ
 ではないか・・
  この様に説明しても・・アメリカは分かろうとしなか
 った。
  この論理をアメリカは、ズーッと理解できなかった・・
 理解できないとして来た・・卑劣である。
  立派に、発明したと認識したのなら・・願書に書いて・・
 発明したと・・公(おおやけ)に公表せよ!・・届出よ!
  この論理を、アメリカは無視してきた・・長い、長い
 期間を・・まったく、卑怯な、卑劣なアメリカだった・・
  偶然に、無意識に、『大発明と同じことをしていただ
 けではないか?』という指摘には答える事の出来ないア
 メリカだった。
  ネットにはアメリカを庇った言い方もあるが、無理筋
 の説明である。
  公(おおやけ)に発明したと主張できないのは、発明
 したと認識してないからだ・・これは、断定できる真実
 なのだ。
  しかし、アメリカは、汚い事に、先発明主義という特
 許法を、長い期間、取って・・
  そして、アメリカは、先に発明したのだからと、先願
 主義の特許を奪って来た。
  それも・・ただ・・似たようなことをやっただけなの
 に・・である・・
  先願主義で特許を・・発明したと認識し、その理由を
 はっきり理論立てて説明し・・書いた願書を、そして、
 その願書を・・特許庁へ提出しているという行動を起こ
 している発明を、アメリカは奪った。
  たまたま、ノートに・・自分の「発明ノート」に書い
 てあるという類(たぐい)ではない・・
  「だから、発明しているのだよ」と明確に発明を立証
 している、願書で説明し、主張している人の特許を、ア
 メリカは、それ以前に、アメリカ人の某が、先に発明し
 ていたよと、先願主義で先に主張していた人の特許を、
 アメリカは奪っていた。
  また、卑劣な事に、こんな事を主張しているのはアメ
 リカだけで、どこの国も、こんな筋の通らないことを言
 っていなかった(皆、先願主義の国)・・
  言うのはアメリカだけ・・先発明主義をとっていたの
 はアメリカだけ!!
  また、だから、この様な不正義な、犯罪的な言い掛か
 りで特許を奪っていたのはアメリカだけ・・だった。
  世界中から、「おかしいではないか?」という声を、
 アメリカは無視して来た。
  しかし、この先願主義の『正義の言い分』がやっと通
 って、2013年になって、やっと、この日に、アメリカは
 先願主義に移行した。
  日本の素晴らしい特許も、この被害を、大分、受けて、
 特許を奪われ、大発明が奪われ・・日本の国益・・大き
 な国益の損失をきたして来ていた。
  優秀な日本は、こんな形でも、アメリカに貢がされて
 来ていた。
  アメリカの従属国=日本の残念な姿だった。
  アメリカは、こんな事を、まだまだ、やっている・・
.
2015年12月10日、この日の(読売新聞、2015・12・10)の
 週刊新潮の広告に、「舟と遺体が次々漂着!北朝鮮で何
 が起こっているのか」・・とある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)518E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年9月)

2017-04-13 05:37:26 | 日記
題:*(増補版)518E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年9月20日、フランスより、初めて輪転印刷機が輸入
 された(東京着)
  1890年、印刷局と朝日新聞社が、マリノニ輪転印刷機
 を輸入した。
  翌年・1891年、東京朝日新聞社が、民間で日本初の輪
 転印刷を開始した。
  印刷能力はそれまでの約20倍と、大幅に向上した。
  (別史料)マリノニが製造した輪転機が、日本に輸入
 されたのは1890年であり、
  帝国議会の開設に合わせて官報印刷用に導入した内閣
 官報局と、朝日新聞社に導入された。
  このマリノニ輪転機は、8ページ建ての新聞を1時間に
 3万部印刷することが可能であり、従前の旧型機の20倍に
 相当する効率であった]。
  その後、20世紀に入ると、マリノニ輪転機を参考に製
 造された国産の輪転機が普及するようになり、「マリノ
 ニ型輪転機」などと称され、ほぼ半世紀にわたって日本
 の新聞印刷機の主流となった。
  (別史料)マリノニ型印刷機の日本への到来は・・、
  (1)1890年、マリノニ社から巻取活版輪転機4台購
 入。(毎時4頁新聞15,000枚)、印刷局2台、東京朝日
 新聞1台。日本新聞1台。
  (2)『大蔵省印刷局百年史』:高橋局長は、このマリ
 ノニ式印刷機二台を製造させ、1890年9月20日に帰朝した
 が、これがわが国における輪転印刷機の初め。
  (3)『朝日新聞社史』:1890年9月27日、東朝が、わ
 が国新聞界最初のマリノニ輪転機設置を社告、11月22日、
 大朝も社告。
  (4)共同印刷株式会社『共同印刷90年史』:マリノニ
 社活版輪転機、1890年9月、フランスから輸入。
  当時の大蔵省印刷局、東京朝日新聞社、日本新聞社に
 設置。
.
  (今日の言葉)
.
  題:かつて、多くの日本の大発明は・・奪われ、そして、潰された・・
    そして、今も・・か・・?
.
1908年、「この年に、アメリカで、黒人大暴動が起きた」
 と・・この事が、歴史的事実だとして、書籍に書かれて
 いるが・・また、教科書にも書かれているが・・まった
 く違う。
  これは、白人の、そして、キリスト教徒のプロパガン
 ダ(嘘宣伝)だ。
  人種がからむ、この様な、歴史的事実は・・まったく・・
 これの逆なのだ・・アメリカは、特に、この様な悪行為
 をする国となっているから・・卑劣だ。
  『白人の悪行為が、カモフラージュされている』。
  『黒人の方々が、悪者にされている』。
  この様な事が、よくなされるから・・なおさら、ひど
 い人種差別が感じられる・・
  この事件は、白人が、黒人の方々へ、ひどい暴挙を働
 いていた・・これが隠されている・・『まったく隠され
 る』という人種偏見行為の、数多くあるサンプルとなっ
 ている。
  さんざんやって来た白人の悪行為の次ぎに、やむを得
 ず起きた事件がが「歴史的な事件だとした嘘が・・記さ
 れている」。
  アメリカの白人の悪さが・・隠されている。
  事件が起きた場所は、アメリカのイリノイ州のスプリ
 ングフィールド。
  黒人の方々は、「いつも、虐げられていた」。
  あまりの酷さの中にあったが、この時は違った。
  黒人の方々は、ファイトバック(抵抗行動)をした。
  黒人の方々は、今までの卑劣な白人たちの虐げに、こ
 の時は、激しい抵抗を試みた。
  アメリカの白人たち(WASP、白人・アングロサク
 ソン・キリスト教プロテスタント、)は、それでなくて
 も、黒人の方々を「殺したり」「リンチをしたり」「人
 権を無視し、人権を奪う行為をしたり」していた。
  あるジャーナリストが、この卑劣さを公正に伝えた。
  そして、黒人の方々の当然の権利の「政治的公正さ」
 「市民的自由の保障」をすべきだと記した。
  この事などは、当然なことなのだが・・、
 非民主主義の国・アメリカは、『黒人の方々への民主主
 義は除外した』。
  最低レベルのアメリカには、この事実を書く必要があ
 るという「レベル程度の低いアメリカ」だった(今もで
 ある・・)。
  この非民主主義的行為・非人道的行為を、アメリカは、
 恥じよ!
  奴隷制度で、あれほど虐げたのに、まだ、こんな事を
 やっている。
  黒人の方々は、これを契機に、『全米黒人地位向上協
 会』を結成した(1909年2月12日)・・
  ウィリアム・E・ウォーリングのメディア活動があっ
 た。
  歴史的記述をみる時、白人の見方や、キリスト教の見
 方で、事実が逆転しているから注意をする必要がある。
  この場合も、白人の「黒人の方々への暴挙」がなされ
 たから起きたのであって、
  何もないのに、急に、黒人の方々が大暴動を起こした
 のではない。
  アメリカが、ハワイで、日本の潜水艦を5隻も、アメリ
 カが先に日本の潜水艦を攻撃して沈没させていながら、
 アメリカの発した言葉は、『日本が先に攻撃した、奇襲
 した』という『まったくの嘘の言葉』だという始末だか
 ら注意を要する。
  電信などなど完全に傍受し、日本の連合艦隊の動きを
 完全に知っていた・・「『奇襲だ』なんていう嘘が良く
 言えたものだ」の状態だった・・また・・、
  ルーズベルト大統領は『明日、日本が攻めて来るよ』
 と口を滑らせたくらいだった。
.
1920年、カリフォルニア州で、新たな排日土地法が成立し
 た。
  (1913年の土地法は、「日本人移民」の土地所有を禁
 止するものだったが・・、
  今度のこの法律では、「日本人移民の子供=いわゆる
 二世」までもが、土地所有を禁じられることになった)
.
1924年、「絶対的排日移民法」が成立した。
  この法律が破廉恥なことは、これまでの排日法が州法
 であったが、この法律は「連邦法」で、アメリカは、国
 家として、日本からの移民を排斥することにした。
  この当時のアメリカ大統領は、「遺憾に思う」と表明
 した。
  アメリカ大統領は、この法律に反対だった。
  昭和天皇陛下も『失望』を表明されている。
  何しろ、何が悪いと言ったって、『人種』として日本
 が嫌いだという、理由ではない理由で、国としてアメリ
 カは日本を排斥した。
  まったく軽蔑すべき人種差別、人種蔑視の行為をした。
  これが、第二次世界大戦への、戦争への遠因の一つと
 なった。
.
1943年2月、アメリカの極東専門家の第一人者のラティモア
 が、「アジアにおける解決」を発表し、
  その中で、天皇陛下とその一族の『中国監禁』を主張
 した。
  また、ラティモアが、時々、執筆した左翼系アジア専
 門誌「アメラジア」は、天皇陛下の戦争犯罪説をキャン
 ペーンした。
  このラティモア・オーエンは、アメリカのアジア研究
 家であるが、子供のころ、父親と共に中国に渡り、12歳
 までの幼少期は中国で育った。
  1941年、蒋介石の特別顧問となり
  1943年~1944年には、アメリカの戦時情報局(OWI)
 の極東部主任となり、戦後の対日政策をまとめた「アジ
 アにおける解釈」をまとめ、天皇陛下とその一族は中国
 へ送還せよと主張した。
  1950年に、ラティモア・オーエンンは、ジョセフ・マ
 ッカーシー上院議員から「ソ連スパイ網のトップだ」と
 告発された。
  そして、下院非米活動委員会などの喚問を受け、職を
 去った。
.
2016年4月1日、日本のノーベル賞受賞者が、最近でこそ、
 毎年、受賞者のある状況となっているが・・、
  過去に於いて、いく人もの『日本人の大発明』が、ア
 メリカに奪われ、また、アメリカに潰されたことか・・、
  その隠れた日本人の大発明家は、偉業を表彰され、そ
 の功績を讃えられ、労をねぎらわれる行為すらなされて
 いない。
  埋もれてしまっている・・悲しむべき大発明家たち・・、
  白人・キリスト教徒のノーベル賞委員会は、お手盛り
 でやっている・・この日本の隠れた大発明家の方々を、
 当然の如く無視している。
  そこで・・アメリカが絡(から)んでいるSTAP細
 胞の件であるが、果たして、STAP細胞は大発明だっ
 たのだろうか?
  この日の日付で、上田眞実氏の文がある・・それが、
 以下である・・、
  表題:STAP現象、理研で再現されていたことが発覚…
    若山教授、不当に実験成果物を大量持ち出し
  文=上田眞実/ジャーナリスト
  http://biz-journal.jp/2016/04/post_14498.html
  1月に発売された小保方晴子氏(32歳)の告白本『あの
 日』(講談社)は、3月に入ってすぐ5刷りされ、販売26
 万部を超えるベストセラーとなっている。
  講談社担当者は、「読者からは多数の共感と応援を頂
 いております」といい、これからも売れ行きは伸びるも
 よう。
  本書をめぐっては、賛否両論が渦巻いているが、重要
 な点は、本書の内容が本当なのかどうかという点であろ
 う。
  そこで、本稿では、小保方氏が所属していた理化学研
 究所が開示した書類等を参照しながら、時系列で検証し
 てみたい。
  2014年3月10日、小保方氏の共同研究者であった若山照
 彦博士(山梨大学教授)が論文を撤回し、STAP細胞問題
 が表面化した。
  同年・2014年12月25日に公表された「研究論文に関す
 る不正調査委員会」(委員長・桂勳氏)の「研究論文に
 関する調査報告」(P.13)では、
  STAP細胞の研究成果は、「ES細胞の混入である可能性
 が高い」とされている。
  また、理研は、2015年3月20日に、「運営・改革モニタ
 リング委員会による評価について」のP.85で、STAP細胞
 論文は「ほぼ事実ではなかった」と宣言しており、
  STAP細胞は、その存在を完全に否定されたかに見える。
  しかし、STAP細胞が発表された直後、若山氏は、2014
 年4月17日付「日経Bizアカデミー」記事『「その時マウ
 スは緑色に光った!」若山教授が語った幻のSTAP細胞誕
 生秘話』内で、STAP細胞実験の成功秘話を克明に語って
 いるのだ。
  これには、多くの疑問の声が上がっている。
  さらに、アメリカの研究者グループが、STAP現象と同
 じ実験結果から多能性細胞をつくることに成功している。
  実は、STAP細胞論文への疑惑が取り沙汰された後に、
 理研が行った再現実験で、『STAP現象は確認されており』、
 それは『あの日』(P.220)にも書かれている。
.
2016年5月20日、また、キリスト教に偏し、アメリカになび
 くNHKの動きに、以下の事がある・・
  STAP問題、小保方氏犯人説を否定する検察判断…嘘広
 めたNHKと告発者の責任問われる
  2016年05月20日 06:13、Business Journal
  http://biz-journal.jp/2016/05/post_15165.html
  STAP細胞をめぐる問題で、理化学研究所の研究室から
 何者かが、ES細胞を盗んだ疑いがあるとして、2015年5月
 14日、元理研研究者である石川智久氏が、刑事告発して
 いた。
  しかし、1年あまりの捜査の結果、今月18日、神戸地方
 検察庁は「窃盗事件の発生自体が疑わしく、犯罪の嫌疑
 が不十分だ」として不起訴にした。
  地方検察庁が、「窃盗事件の発生自体が疑わしい」と
 いう声明を出すのは異例だが、この騒動は一体なんだっ
 たのだろうか。
  告発者の石川氏は、当時メディアに対して次のように
 発言していた。
  「私の調査から、小保方晴子氏が、若山照彦教授の研
 究室(以下、若山研)からES細胞を盗み出したと確信し
 た。
  (告発しなければ)さもないと日本の科学の信頼は地
 に落ちたままである」
  さらに石川氏は、独自に入手したという小保方氏の研
 究室(以下、小保方研)のフリーザーに残されていたサ
 ンプルボックス(細胞サンプルが入った容器)の写真を
 マスコミに提供し、
  そこにあるES細胞が動かぬ証拠だと主張していた。
  しかし、その後、ジャーナリスト上田眞実氏の調査に
 より、このサンプルボックスは、若山研が理研から引っ
 越す際にそのまま残していった、いわゆるジャンク細胞
 (使い道のない細胞)であったことがわかった。
  理研では、細胞などの試料を外部へ移動させる際には、
 MTA(試料提供契約)を必ず提出しなければならないこと
 になっている。
  だが、上田氏の取材で、証拠として示したサンプルボ
 ックスに関しては、若山研からMTAが出されていなかった
 ことが明らかになった。
  さらに、理研に対し若山研から盗難届も出されていな
 かったことも判明した。
  理研関係者に取材したところ、若山研に限らず、研究
 室が引っ越しする際に使わない試料をそのまま置いてい
 くことが多かったという。
  残されたジャンク細胞の処分問題に理研も苦慮してい
 た。
  小保方研にあったサンプルボックスも、そのひとつだ
 ったのだ。
  このサンプルボックスは、若山研が、2013年に、理研
 から山梨大学へ引っ越す際に残したものだが、その時点
 では、STAP細胞の主要な実験は終わっており、英科学誌
 「ネイチャー」向けの論文作成が佳境に入っている時期
 だった。
  石川氏の主張が正しいなら、小保方氏は、実験終了後
 にES細胞を盗み、過去にタイムトラベルをしてES細胞を
 混入させたSTAP細胞を若山氏に渡したことになる。
  このような非現実的な主張を、当時のマスコミは裏も
 取らずに大々的に取り上げ、小保方氏をES細胞窃盗犯の
 ように報道していた。
  つくられた小保方氏犯人説
  さらにこの告発には伏線があった。
  2014年7月27日に放送されたテレビ番組、『NHKスペシ
 ャル 調査報告 STAP細胞 不正の深層』である。
  同番組内では、若山研にいた留学生と名乗る人物(後
 に、Chong Li博士と判明)が登場し、小保方氏の研究室
 にあったサンプルボックスについて次のように証言して
 いた。
  「びっくりしました。
  保存しているのは全部ES細胞ですので、なぜか、STAP
 細胞に関係があるところに見つかったのは本当にびっく
 りしましたね。
  (小保方氏に)それを直接私が渡したことはないです」
 (Li博士)
  この発言を受けて、番組では次のようなナレーション
 を流していた。
  「なぜ、このES細胞が、小保方氏の研究室が使う冷凍
 庫から見つかったのか、私たちは、小保方氏にこうした
 疑問に答えてほしいと考えている」
  Li博士に対しては、石川氏も取材したといい、Li博士
 は、「(若山研では、続きの実験が計画されていたので、
 実験を)山梨大で続けるつもりだったが、ES細胞を紛失
 したことで、それを断念した」と語ったと証言している
 (「フライデー」<講談社/15年2月6日号>より)。
  そもそも、Li博士のES細胞は、STAP研究とはまったく
 関係のない種類のES細胞であることは、石川氏の告発状
 が出される時点で判明していた。
  それにもかかわらず、『NHKスペシャル』と同様に石川
 氏は、あたかも、Li博士のES細胞がSTAP研究に混入され
 たとされるES細胞と同一であるかのような告発状を作成
 し、マスコミに配布していた。
  石川氏の告発内容が、のちに虚偽であったことが判明
 したが、マスコミは、その告発状の論旨をベースに国民
 をミスリードさせていった。
  また、若山研では、ES細胞を紛失したため、実験が続
 けられなくなったと報道されたにもかかわらず、若山研
 から理研に対し紛失届が出されていない。
  本当に必要なサンプルだったのならば、実験を断念せ
 ず、理研に紛失届を出すのが自然だろう。
  それを出さずに、マスコミに「盗まれたかもしれない」
 とリークする目的はなんだったのだろうか。
  NHKや毎日新聞がそうであったように、石川氏も、若山
 研を情報源とするものが多いが、何か理由があるのだろ
 うか。
  同番組放送後、世間は、一気に「小保方氏犯人説」に
 傾いていく。
  その影響は、今なお色濃く残っている。
  NHKは、十分な取材をしたと主張しているが、なぜ、
 MTAを確認するという基本的な裏取りをせずに、このよう
 ないい加減な放送をしたのか疑問である。
  同番組は、昨年8月からBPO(放送倫理・番組向上機構)
 の審理に入っている。
  今年4月26日、BPO臨時委員会が行われ小保方氏からヒ
 アリングを行っている。
  同日出席するはずだったNHK番組関係者は、熊本地震の
 取材を理由に全員欠席した。
  NHKスペシャル、そして、石川氏による刑事告発によっ
 て、小保方氏の名誉は著しく毀損した。
  一人の研究者であり、ひとりの人間である小保方氏の
 人生を破壊しかねないこの事案に対して、今後、どのよ
 うな責任を取るのだろうか。
  そして、野次馬のように小保方犯人説に便乗し、個人
 攻撃を徹底的に続けてきた無数の人物に問いたい。
  「あなたは、あなたの無神経な批判の刃の先に倒れた
 ひとりの人間の人生を想像することができるのか」と。
  (文=大宅健一郎/ジャーナリスト)
.
2017年02月21日、そして、今年になって、やっと、その陰
 の陰謀的行為をしたNHKが糾弾される。
  STAP細胞を発明したかもしれないという・・
  大発明家かもしれないという小保方晴子氏を扱ったN
 HKスペシャルが、「人権侵害をしている」とBPOか
 ら判断された。
  その記事が・・以下である。
  表題:小保方氏のNスペでBPO「人権侵害あり」勧告 
     委員の主観で判断できるのか
  2017年02月21日 11:30dot.
  https://dot.asahi.com/aera/2017022000088.html
  会見するBPO放送人権委員会の坂井眞委員長。
  BPOは、放送倫理や放送による人権侵害などを検証
 する、民間の放送局やNHKが設立した第三者機関。
  人権侵害に基づく勧告は、BPOの判断としては最も
 重い=2月10日、東京都千代田区 (c)朝日新聞社
  疑義のあるSTAP細胞の報道をめぐり、BPOは「人権侵害
 あり」の勧告をした。
  委員の主観に頼らざるを得ない判断が、調査報道の萎
 縮につながりはしないか。
  放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会は、
 2月10日、小保方晴子氏に対する名誉毀損による人権侵害
 があったとして、再発防止を求める勧告をした。
  この勧告は、発表資料だけに頼らない報道の今後の在
 り方を問うものだ。
  問題の番組は、2014年7月27日放送のSTAPスペシャル
 「調査報告 STAP細胞 不正の深層」。
  放送の半年前に、作製が容易な新しい万能細胞として
 大々的に発表されたSTAP細胞をめぐる調査報道だ。
  何が問題となったのか・・、
  名誉毀損の判断は、「一般視聴者がどう受けとったか」
 を基準とする。
  委員会は、番組前半の「STAP細胞は存在するのか?」
 から、視聴者は次の四つを「事実」ととらえたと判断し
 た。
(1)STAP細胞の正体はES細胞である可能性が高い。
(2)細胞の解析によれば、小保方氏のつくったSTAP細胞は
  精子が緑色に光る遺伝子が入ったアクロシンGFPマウス
  に由来するES細胞である可能性がある。
(3)STAP細胞は、元留学生がつくり、小保方氏の冷凍庫に
  保管されていたES細胞に由来する可能性がある。
(4)小保方氏には、元留学生のES細胞を不正な方法で入手
  し、混入してSTAP細胞をつくった疑惑がある。
  番組で示されたこれらの事柄(摘示事実)が、小保方
 氏の社会的評価を下げたことは明らかだ。
  だが、公共性・公益性の認められる調査報道では、真
 実(真実性)か、真実と信じる相当の理由がある(相当
 性)ならば、名誉毀損にはならないとされる。
  委員会は(1)と(2)には真実性があるが、(3)では
 認められないとした。
  (3)で示された元留学生のES細胞は(2)のアクロシ
 ンGFPの入ったES細胞ではなく、そうだと見なせる相当性
 もないからだ。
  (3)が認められない以上、前提となる(4)にも真実
 性・相当性はないとし、名誉毀損による人権侵害があっ
 たと結論づけた。
  2人は「人権侵害なし」
  ただし、9人の委員のうち2人は意見が異なる。
  奧武則委員は、アクロシンGFPの入ったES細胞と元留学
 生のES細胞のエピソードは別の話として視聴者は見るだ
 ろうとし、(4)にも相当性があるので「人権侵害があっ
 たとまでは言えない」。
  もう一人の市川正司委員も、「名誉毀損があったとは
 考えない」が、奧委員とは理由が違う。
  小保方氏の冷凍庫にあった複数のES細胞のうち、どれ
 かがSTAP細胞の正体となった疑いがあるとの考えには相
 当性があり、名誉毀損とはいえないとした。
  ただし、複数のES細胞の中で、元留学生のものに焦点
 を当てたことには相当性がなく、不正確で勇み足だと断
 じた。
  つまり、小保方氏の冷凍庫内の複数のES細胞を全て映
 していれば、問題はなかったという判断だ。
  このパートについて、坂井眞委員長は、「取材が不十
 分だったのではなく、編集上の問題。
  アクロシンGFPのES細胞の話と元留学生のES細胞の話を
 分けて示せばよかった」と話す。
  だが、小保方氏の冷凍庫に、元留学生のES細胞があっ
 た点は真実性がある。
  元留学生の証言から、これを、小保方氏が不正に入手
 した疑惑には相当性がある。
  これが、アクロシンES細胞ではないことが明示された
 としても、視聴者は結びつけてしまうのではないだろう
 か。
  坂井委員長は、「その表現を見てからでないと判断で
 きない」と話す。
  小保方氏の冷凍庫には、ほかにも複数のES細胞があり、
 そのうちの一つが、STAP細胞の正体だったことがのちに
 わかっている。
  市川委員の意見のように、これらを全て映していれば、
 元留学生のES細胞は、入手方法の不明さを示すあくまで
 一例となり、問題にはならなかったのか。
  ここの線引きもよくわからない。
  「一般視聴者がどうとらえたか」は、委員の主観的な
 判断に頼らざるを得ない。
  委員会は、調査報道が萎縮することがあってはならな
 いと強調したが、主観に左右される「一般視聴者のとら
 え方」を相手に、どこまで疑惑に踏み込んだ報道ができ
 るのかには疑問が残る。
  (科学ライター・詫摩雅子)
  ※AERA 2017年2月27日号
..
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