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(増補版)116D1/3:気になった事柄を集めた年表(1642年~1649年)

2015-05-31 07:44:11 | 日記
題:(増補版)116D1/3:気になった事柄を集めた年表(1642年~1649年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1643年3月、田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばい
 ばいきんしれい、17ヶ条)
  前年の寛永の大飢饉で、幕府は、本格的な農政改革に
 乗り出した。
  この令は、百姓の没落を防ぐ目的があった。
  勘定奉行4名の連署で、土民仕置き覚えを公布し、田
 畑の永代売買を禁止した。
1643年、トリチェリとビビアニ(イタリア)が、「トリチ
 ェリの真空」を発見した。
  水銀気圧計も発明した。
1644年、松尾芭蕉(まつおばしょう、俳諧師)が生まれた
 (1644年~1694年)、
  伊賀国(三重県)で生まれた。
  名字・帯刀を許されていたが、身分は農民とも、また、
 一族は平氏の末流とも・・?
  北村季吟に師事し、俳諧の道へ、紀行文:「奥の細道」
  奥の細道は2,400キロメートルの歩程だった。
  焼香に駆け付けた門人は80名だったという。
1644年8月、土井利勝(どいとしかつ)が没した(1573年~
 1644年)
  秀忠の老忠として、絶大な権勢を誇った。
1644年、宗門人別帳が作成された。
1644年、代官の勤方条目を定める。
1644年、老臣会議、頻繁に開催される。
1644年、糸割符貿易
  糸割符の白糸を京都、堺、長崎の商人に頒布した。
1644年、明が滅んだ。
  明代は商業の発展が著しかったが、対外的には積極的
 ではなく、異民族の侵入に疲弊し、李自成の乱で滅んだ。
1645年、塩田開発
  赤穂藩が、塩田の開発を始めた。
1645年、社会資本整備・新田・灌漑施設の開発
  この頃以降、小規模な新田・灌漑施設の開発が増加。
1645年、太閤ものの筆禍事件
  徳川幕府は、家康を「東照大権現」「神君」として絶
 対化する過程で、秀吉に対する一種の史実歪曲・隠蔽(
 いんぺい)工作を行い、秀吉に関する出版物などを禁止
 したりしたが、いわゆる「太閤もの筆禍事件」がぞくぞ
 く生まれた。
1645年、諸国特産物などを記す俳論書「毛吹草(けふきぐ
 さ、松江重頼著)」が刊行された。
1645年、ネーズビーの戦いが起きた。
  イギリスのピューリタン革命中に、中部イングランド
 のネーズビーで、
  議会軍が、国王軍(チャールズ1世)に決定的な勝利を
 収めた戦い。
  国王軍が、壊滅的打撃を受け敗北。
  クロムウェルの鉄騎隊を中核とする新模範軍が大いに
 活躍した。
1646年2月、5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)が生
 まれた(1646年~1709年、将軍期間1680年~1709年)
1646年、経済活動・営業許可、大阪の剣先船(けんさきふ
 ね)が大和川での営業を許可された。
  この船は、この年に、上荷船・茶船からの請願によっ
 て許可された、大和川筋で活躍した船で、
  その沿岸が、棉作の中心地であったため、干鰯や油粕
 などの肥料物資の積荷が多かった。
1646年、農民の訴訟規則を定めた。
1646年、例幣使、日光へ例幣使(れいへいし)が始まる。
  日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始
 まった。この年から、毎年行なわれた。
  朝廷から派遣された奉幣使(ほうへいし)が、京都よ
 り日光に至る道を例幣使街道と言った。
  江戸幕府最末期の1867年まで至った。
  また、1647年には、中絶していた伊勢神宮奉幣使も復
 活した。
1947年6月、ポルトガル船が長崎に来航し、貿易を求めた。
  ポルトガル国王ジョアン4世は、貿易再開のための使節
 を日本に派遣した。
  幕府は九州の大名をして備えしむ(拒否した)。
1648年10月、中江藤樹(なかえとうじゅ、陽明学者)が没
 した(1608年~1648年)
  近江国(滋賀県)に生まれた。
  父は農業を営む、9歳の時に、武士の祖父の養子となる。
  27歳の時、家督を相続して武士となっていたが、母の
 孝行と健康上の理由から辞職を申し出るが、藩は拒絶。
  脱藩し、京に潜伏の後、近江に戻った。私塾を開く。
 これが藤樹書院。
  朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受けた。
  藤樹は平等を説いた。「近江聖人」と称えられた。
1648年、令:市中の諸法度を定めた。
  江戸と大坂市中の諸法度などを定めた。
1648年、令:商売、物乞い、無礼の振売りが禁止
  江戸市中の橋上での商売、物乞い、無礼の振売りなど
 を禁止にした。
  振売り(ふりうり):商品を担いで、物の名を唱えな
 がら売り歩くこと、
1648年、オランダが、スペインから独立した。
  独立国家としてのオランダが誕生した。
  なんと80年戦争と言われる戦争の結果、勝ち得たのだ
 った。
  スペインのフェリペ2世が、新教徒の弾圧をしたり(ス
 ペインはキリスト教カトリックの旧教国)、重税政策で
 圧迫したことが、1568年の開戦の切っ掛けだった。
  それから80年後の成果だった。
1648年、パスカル(フランス)が、気圧が、高さによって
 減少する事を実証した。
1648年、ウェストファリア条約が結ばれ、30年戦争が終わ
 った。
  キリスト教カトリックとプロテスタントとの愚かな宗
 教戦争だった。
  ヨーロッパのほとんどの国が参戦し、ヨーロッパ人の
 3分の1が亡くなるという悲惨な戦争だった。
  キリスト教愚かさが出ている事例の1つ。
1648年、熱心なピューリタン(清教徒)であるイギリス人
 の政治家・オリヴァー=クロムウェルは、ピューリタン
 革命が起こると、議会軍に加わり王党軍を破った。
  1648年には、長老派を議会から追放され、翌年、チャ
 ールズ1世を処刑して共和制を宣言した。
1649年2月、慶安検地条目(27ヶ条)
  検地条例を公布する、
  検地条例は、同時に代官らに発せられたもので、検地
 が公正に行われるべきことを説いたもの。
  法令と言うよりは、検地マニュアルという性格の濃い
 もの。
1649年3月、大名に倹約を命じた。
1649年、慶安御触書(けいあんのおぶれがき)を公布する、
  32ヶ条からなる長文の論告である。
  幕府は、幕初から常時、幕末まで倹約令を言っていた。
  この触書の基調は、「百姓は分別もなく末の考えなき
 もの」(第11条)・・という、愚民観に立っている。
 そして、「みめかたちよき女房なりとも、夫のことをお
 ろそかに存じ、大茶をのみ、物参り遊山ずきする女房を
 離別すべし」(第14条)というような生活干渉にわたる
 条文もある。
  「朝は早く起きて草を刈り、昼は田畑の耕作にかかり、
 晩には縄をない、俵をあみ、それぞれの仕事を油断なく
 はげめ」(第5条)
  「屋敷のまわりに竹木を植え、下葉を取って燃料とし、
 薪を買わぬようにせよ」(第7条)
  「秋には念を入れてよい種を選んでおけ」(第8条)、
  可能な場所には麦田(二毛作)を勧め(第21条)てい
 る。
1649年、百姓から振舞い・礼物を受けてはならない、贔屓
 (ひいき)をしてはいけない。
 (この令が、慶安の触書に、本当にあった令なのか?・・
 の、疑問があると言われている)
..
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(増補版)115D1/3:気になった事柄を集めた年表(1641年~1642年)

2015-05-30 03:39:31 | 日記
題:(増補版)115D1/3:気になった事柄を集めた年表(1641年~1642年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1642年、関孝和(せきたかかず)が生まれた(1642年頃~
 1708年)和算家(数学者)、
  経歴の不明部分の多い人、
  上野国(群馬県)の生まれ、徳川家宣が6代将軍になる
 と直参として江戸詰めとなる。
  素晴らしい所は、和算が中国の模倣から超えて、独自
 の西洋を越えるほどの発展をした点。
  世界で最も早い時期に、行列式・終結式の概念を明示
 した。
  また、世界より200年も早く、円周率の高い近似値を求
 めていた。
  また、驚異的な事は、ベルヌーイ数は関孝和の発見で
 あり、数学史を塗り替える業績である。
  その他にも、広い素晴らしい業績が多くある。
1642年、井原西鶴(いはらさいかく)が生まれた(1642年~
 1693年)大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、
  代表作:「好色一代男」「好色一代女」「日本永代蔵」
 「世間胸算用」
1642年、倹約令を発した。
  絹を用いる事が禁止され、木綿を用いる様にした。
1642年、譜代大名の江戸在勤の制を定めた。
  譜代大名70人の江戸の在勤期間を定めた。
1642年、諸国が飢饉となった(寛永の大飢饉)。
  全国的な異常気象により大飢饉となった(大雨、洪水、
 旱魃、霜、虫害)。
  また、蝦夷駒ヶ岳が噴火し、降灰により、陸奥国津軽
 地方が凶作になった、
  また、初夏に畿内、中国、四国地方が日照りによって
 旱魃となった、
  そして、秋には大雨、北陸では長雨、冷風などがあり、
 全国的な異常気象となった。
  百姓の逃散や身売など頻発した。
  家光は、諸大名へ領地へ帰国し、領地の飢饉対策をす
 る様に指示した。
  また、諸国へ対し、倹約のほか、煙草作付けを禁止し
 て米作を奨励した、
  また、身売り禁止、酒造統制、雑穀を用いる製造を禁
 止した。
  また、救民のための「御救小屋」を設置した。
  また、諸国へ米の常食を禁止して、うどん・そば・饅
 頭の商売を禁止した。
  飢饉は、1642年~1643年に最も甚だしい状態に達した。
1642年、農業政策、
  幕府農政が、小農の保護・育成に転換した、
  小家族労働力による集約経営への農村の変貌始まる。
1642年、諸大名へ農民の救済を命じた。
1642年、旗本に知行地の農民の救済を命じた。
1642年、郷村諸法度を公布し、農民に各種の制限を加えた。
  倹約の意味があるが、飢饉対策でもあった。衣類への
 制限、酒・たばこの禁止など
1642年、参勤交代制に改正を加えた。
  譜代大名の交代期は6月に、
  特に、関東の譜代大名は、在府・在国半年に、8月ない
 し2月交代となった。
  他に、対馬の宗(そう)氏は、三年一勤(4か月在府)に、
  水戸藩や老中などの役付大名は、江戸定府(じょうふ)
 となった。
1642年、倉敷が江戸幕府の直轄地「天領」になった。
1642年、番士(ばんし、京都などの警護をする兵)の家督
 を定めた。
1642年、勘定奉行が、制度として成立した。
1642年、伊奈忠次に関東諸代官の支配を命じた。
  幕府は、伊奈忠治に対して関東代官の統轄と、河川の
 改修、築堤の専管を命じた。
  これによって関東郡代が事実上成立した。
1642年、イギリス
  ピューリタン革命(1642年~1649年、1640年~1660年
 とする説もあり)と、名誉革命(1688年~1689年)の二
 つの革命が、この時期に、イギリスにあった。
  シュチュアート朝君主の圧政に対して、議会勢力が抵
 抗し、国王を処刑し、共和制を確立した(ピューリタン
 革命)、
  クロムウェルの議会軍が、ピューリタンを中心勢力と
 したのでその名があるが、
  保守的な長老派と、急進的な水平派などを弾圧し、
  1649年には、アイルランドを征服して植民地とするな
 どした、
  新興の市民階級の利害関係が背後にあった。
  しかし、クロムウェルの厳格な政治は不評判であり、
  1660年に、王政復古となるが、
  フランス亡命から戻った新王が、再び、反動政治を行
 ったため(キリスト教カトリックの復活政策と議会無視
 をした)
  やり方は、さも、正義な様なことを言った、「信仰の
 自由」である、
  そして、この「信仰の自由の宣言」で、実は、カトリ
 ックを復活させようとした(王と教会の戦い)、
  トーリー、ホイッグ両党は協力して、ジェームス2世王
 を廃位にした。結果的に、王は国外へ逃れる。
  王の娘・メアリとその夫・オランダ統領オレンジ公ウ
 ィリアム(キリスト教プロテスタント)を王に迎える。
  (ウィリアムは、1万3000の兵と共に、イギリスに上
 陸した、そして、ロンドンを目指して進軍した、
  イギリス北部には、これに呼応して反乱が起こった、
  そして、貴族が兵と共にはせ参じたり、
  寝返る貴族も現れたり・・の、混乱が起きた。
  ウィリアムがロンドンに入った直後、王は、フランス
 へ逃れた。
  あまりにも支持される様な政治をしていないため、
  臣下や民心の心が離れていたため、
  大きな争いも起きなかった。
  これが無血に近い状態で終わった理由だった)。
  流血をあまり見なかったので、名誉革命と言われてい
 る。
  しかし、議会は、彼ら新王の即位の条件として、権利
 宣言(後に、権利章典)の受諾を求めた、
  新しい王はこれを認め、ここに議会主義の確立を見た。
1642年12月、ニュージーランド発見。
  ヨーロッパ人が、ヨーロッパ人として、初めてこの島
 を発見した。
  以後、この島の歴史には、「ヨーロッパ人の考え方・
 行為が、それのみが正義だ」としての話が展開する。
  今・現在でも、この考え方が、世界中を荒らしまわっ
 ているが・・。
  オランダ人のアベル・タスマンは、二隻の船でこの島
 へやって来た。
  この島には、既に、先住の方たち、『先住民』のマオ
 リの方たちが居た。
  マオリの方たちは、このオランダ人より、遠の昔の「
 800年以上も以前の昔」に、9世紀の頃から、この島に移
 り住んで生活し、幸福に暮らしていた。
  この後、このキリスト教徒のヨーロッパ人は、この主
 権を無視する、牛耳る歴史を刻む。
  このオランダ人は、この時、この先住の方たちと戦い、
 そして、殺戮し、去った。
  マオリの方々は、9世紀頃こそ採集生活をしていたが、
 国を持つ立派な社会だった。
  そして、プライドを持って戦う政府を持っていた。
  そしてまた、立派な国名を持っていた。
  その国名を「アオテアロア」と言った。
  翌年の1643年には、オランダ東インド会社の総督のヘ
 ンドリック・ブラウエルが来た。
  彼は、ラテン語の「新しい海の土地」という意味、英
 語のニュージーランドに当たる名を付けた。
  それから126年の時が流れた、
  1769年になると、イギリス人のジェームズ・クックが
 来た。
  彼は、「ニュージーランド」と呼んだ。(あなたにと
 ってだけが「ニュー」なのだ)。
  彼は、島全体と周辺の調査をし、捕鯨遠征をはじめさ
 せた(あなただって捕鯨やっているでしょう)。
  それからこの島へ、イギリスはじめヨーロッパ各地か
 らのヨーロッパ人の流入が始まった。
  1830年に、ロンドンに、植民地会社が組織されるに及
 び、ヨーロッパ人の流入はさらに増加した。
  これを、ヨーロッパ人は、移民と称した。
  相手の国の承認のない勝手な流入である。
  「侵入・侵略」と言える行為である。
  当然、マオリの先住の方々との間で争いが絶えない状
 態が続くことになった。当然のことだ。
  進んだ武器を持たないマリオの方々は、多くの方々が
 亡くなった。良く戦ったと思う。
  侵入者・侵略者とマリオの先に住んでいた方々との戦
 いである。
  当然、正義はマリオの方々の方にある。
  1840年に、イギリスは、争いを止めたい意味もあり、
 先住民のマオリの方々と条約を結んだ(ワイタンギ条約)。
  その条約の内容は、
  「すべてのマリオ人は、イギリス女王の臣民となり、
 ニュージーランドの主権を王権に譲る」
  「マリオ人の土地の保有権は保証するが、その土地の
 売却先はすべてイギリス政府にする、その他の売却は出
 来ない」
  「マリオ人はイギリス国民としての権利を認める」だ
 った。
  「ていの良い乗っ取り」だった。
  そして、イギリスの植民地とした。
  マリオの方々に、当然、与えられるべき「主権」と言
 う語が無く、そこに問題が発生した。
  この問題は、今・現在でもこの問題が存在している。
  マリオの方々は、「すべての土地は自分たちのもの」
 と考えている、当然だ。
  条約締結の後、3年後の1843年から、30年間も続くマリ
 オの方々の反乱が起こった。
  遅れた武器で良く戦ったと思う。
  弱い者いじめの反乱は武力によって鎮圧された。
  しかし、根本的問題の解決はしてない。
  その問題を放棄し、無視し、100年以上に渡ってそのま
 まにした。
  やっと、1975年に至り、審議が開始され、強奪した土
 地の一部を返還した、
  そして、マリオ語も公用語にした。
  それまでは英語だけだった。
  マリオの方々の主権を認めていなかった。
  もし、あなたの家へ、見ず知らずの人がどんどん入っ
 て来たら、あなたはどうしますか?
  そして、あなたに言います、あなたは私の女王の臣民
 になれと、権利をその女王へ譲れと。
  基本的に、たとえ無人島であっても、良く権利関係を
 確かめなくては、勝手に侵入・侵略してはいけないでし
 ょう。
  家宅侵入罪になります。国際法でもそうです。
  酷いことをしておいて、「悪くはなかった」と、こじ
 つける行為は糾弾されなくてはいけません。
  この様な行為を、キリスト教徒は世界のあちこちでや
 っている。
..
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(増補版)114D1/3:気になった事柄を集めた年表(1637年~1641年)

2015-05-29 04:04:32 | 日記
題:(増補版)114D1/3:気になった事柄を集めた年表(1637年~1641年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1637年、江戸城の本丸修築が完成した。
1637年、社会資本整備・釜無川、
  幕府代官の平岡和由、釜無川に四ヶ村堰を築造する。
1637年、北上川に大洪水が起こり、伊達領内の被害が14万
3000石にのぼった。
1637年、五人組制度を実行した。
1638年11月、初めて大老を置いた。
  徳川家光が、土井利勝・酒井忠勝を大老に格上げした。
  大老に就けるのは井伊・酒井・土井・堀田の4家に限定
 された。
  4家以外の大老は大老格と呼ばれた。
1638年、堀田正盛が、老中の職をとかれた。
1638年、阿部重次が老中となった。
1638年、太田資宗ら若年寄から奏者番(そうじゃばん)に
 移った。
  奏者番は武家の礼式を管理する役職。
1638年、オスマン帝国が、バクダッドを占領してイラクを
 併合した。
1639年4月、大久保彦左衛門忠教(ただたか)が没した。
 (1560年~1639年)旗本。
  家康・秀忠・家光の3代に仕えた。
  関ケ原の戦いでは家康本陣で槍奉行を務め活躍。
  余生は「三河物語」を執筆した。
  死の間際に、家光から、5000石の加増の話があった時、「
 余命いくばくもない自分には有り難いが不要」と固辞し
 た。
  将軍の家光に事あるごとに諫言したという逸話は、後
 世の講談や講釈の創作。「大久保彦左衛門と一心太助」
 も創作。
  多くの浪人たちを養い、その就職活動に奔走したとい
 う。
1639年7月、ポルトガル人の来航禁止。
  布教の裏に、スペインとポルトガルの領土的野心が、
 見え隠れしていることが分かって禁教体制となって行っ
 た。
  イギリス・オランダのプロテスタントの新教国の幕府
 への、旧教のカトリック教国の報告が、常に、流れてい
 た。これが影響している。
  特に、オランダが情報をもたらしていた。
  とは言っても、文化的情報は、かなり豊富に入って来
 ており、また、日本の知識人は、それに鋭敏に反応もし
 ていた。
  オランダと中国以外の貿易の禁止。
  この時の令は、ポルトガル船の来航を禁止し、ポルト
 ガルとの断交をしたに過ぎない。
  徳川幕府は国を閉ざしたのではない。
  日本は、鎖国で、内に閉じこもって居たという事では
 ない。
  勝海舟は、その著の氷川清話で、「出島の蘭館にはオ
 ランダ人が居り、中国人はそれ以上にたくさんいた」と、
 国際感覚を持とうと思えば、長崎に行けばと、その気に
 なれば知識は得られると言っている。
  第一、「鎖国」という言葉が、当時、存在しなかった。
  「寛永10年の令」「寛永16年の令」と言うものがあっ
 て、渡航を禁止したり、蛮族を打ち払うという令がある
 が、鎖国の意思はまったくない。
  例えば、明が滅亡した直後、明の家臣が、日本に助け
 を求めて来た。
  その時、将軍の家光は、鎖国で閉じこもるなんて態度
 では、まったく無かった。
  2万の大軍を大陸に上陸させて、彼等を救おうとした。
  明を再興させようと、本気で考えていた。
  実際は、明の家臣たちの反乱が失敗におよび、駄目だ
 との情報が入って、実施には至らなかったが・・、
  日本の姿勢は、鎖国の様な姿勢ではなかった。
  『いざとなったら出兵するぞ』という体制だった。
  この様な日本を示す事を、多くの明の知識人も知って
 いて、日本に救いを求めて亡命して来た。
  例えば、水戸光圀に庇護された朱舜水(しゅしゅんす
 い)などがよく知られている。
1639年、このポルトガル人が、日本への来航が禁止された
 のは、ポルトガル人が日本の法律に従わないためだった。
  日本の法律を尊重しないため、遵法でなかったために
 追放されたのだった。
1639年、ジャガタラ追放を行う。
  南蛮人の追放に伴って、日本人妻と子供も追放処分と
 なった。
  幕府は、1633年に日本人の海外渡航を禁止し、
  1636年に、ポルトガルと日本女性との間の混血児287人
 もマカオに、
  1639年に、オランダ人などとの混血児32人もジャガタ
 ラ(オランダ領のパタピア・・現在のジャカルタ)に追
 放処分にした。
1639年12月、渋川春海(しぶかわしゅんかい)が生まれた。
 (1639年~1715年)天文暦学者、囲碁棋士、
  幕府より21歳ですでに禄を受けていた。
  御城碁に出仕した。
  初手に天元に打つ碁をした。
  1690年の52歳の時、日本で最初の地球儀を作った。
1639年、宗門改めを行った。
1639年、旗本が窮乏である事の原因調査をした。
1640年1月、贅沢禁止令、おごりを禁止、
  大名・旗本に倹約令を出し、旗本などの「おごり」を
 禁止した。
1640年、宗門改役を設置した。
1640年、切支丹奉行を設置した。
1640年、綿花・煙草の作付けを禁止した。
  幕府は、この頃から繰り返して本田畑への綿花・煙草
 の作付けを禁止した。
1641年1月、江戸大火(桶町火事)、
  京橋桶町より出火、芝・木挽町・御成町・麻布が延焼
 した。
1641年4月、殉死、
  熊本藩主の細川忠利が没し、18人が殉死した。
1641年5月、人返し阻止
  徳川幕府は、この時の布令に・・、
  「他領に年久しくありつき、祭祀を持っているものま
 で召し返すことが、近年あるように聞き及ぶが、領内の
 ものであっても数年他領に住みつき、その上科(とが)
 もないものを呼びかえすことは、 今後あってはならぬ」
 とした。
  幕府は、人返しを止めさせた。
1641年5月21日、オランダ人も長崎の出島に移した。
  オランダ商館を、平戸商館から出島に移し、オランダ
 人も糸割符制下に組み込まれた。
1641年9月、家光の長男・家綱が生まれる
 (1641年~1680年)
  後の江戸幕府の第4代将軍である。
  家光は、生まれた時から家綱を自らの跡継ぎと決めて
 いたという。
  それは、自分が世継ぎ争いの経験があったからという。
 また、やっと生まれた待望の男児だったためともいう。
  9歳の時、1651年4月に、家光が48歳で逝去すると、8月
 に将軍の宣下を受けている。
1641年、利根川水系、物資輸送の大動脈になる。
  江戸川の開削がほぼ完成する。
  一連の利根川水系の川筋付替えにより、利根川・江戸
 川は物資輸送の大動脈になる。
1641年、オランダ人がマラッカを占領した。
  マラッカ海峡を占領したので、江戸幕府の1639年のポ
 ルトガル船来航禁止令がなくても、ポルトガル船は日本
 に来られなくなった。
1641年~1649年、イギリスは、ヨーロッパの片隅の弱小の
  国家だった。
  当時、ヨーロッパは、ハンザ同盟(都市同盟、12世紀
 頃より始まる、1358年に成立、15世紀の最盛期の都市数
 は200を超えた)に100を超える都市が参加するなど、
  また、イタリアの町々を結ぶ商圏が花開き、経済によ
 る豊かさを享受していた。
  この様なイギリスに陽が当たって来るのは、アメリカ
 大陸の発見(1492年、コロンブスが達した)と、インド
 への航路の発見(1497年、バスコ・ダ・ガマが喜望峰を
 回ってインドへ達した)だった。
  大西洋を舞台にし始めたイギリスへと大転換して行き、
 弱貧な国家だったイギリスへ、おいしい収奪した利益が
 流入し始めた。
  それまでのフランスを侵略して得るという利益から、
 濡れ手で粟の利益へと転換した。
  世界の海洋の上に、利益を得て、持ち来たる海洋国家
 となった。
  イギリス本国では、1641年~1649年に、ピューリタン
 革命が起き、キリスト教のイギリス国教会に反対して宗
 教革命をしたキリスト教徒のピューリタンが、議会派を
 形成して、チャールズ1世を処刑して共和国を樹立してい
 た。のち、ピューリタンはイギリスを追い出されてアメ
 リカへ至った。
..
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(増補版)113C3/3:気になった事柄を集めた年表(1635年~1637年)

2015-05-28 02:46:22 | 日記
題:(増補版)113C3/3:気になった事柄を集めた年表(1635年~1637年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1635年、ザクセン(ドイツ、新教公国)の立法家とうたわ
 れたベネディクト・カルプツォフ
 (1595年~1666年、キリスト教ルター派)は、
 裁判官としての長い経歴の間に、2万通を越える『死刑
 宣告書』に署名した。
  この卑劣な男は、1635年に、1書「刑法の実際」を出
 版した。
  その中の魔女に関する部分は、正にプロテスタント版
 の「魔女への鉄槌(てっつい)」であった。
  「魔女への鉄槌」と言えばキリスト教のカトリックの
 殺人の書で、こちらが本家であるが・・、
  プロテスタント以上に卑劣だったキリスト教カトリッ
 クの殺人の書であったが・・、
  この書によっても、多くの女性方が殺された。
  プロテスタントも、愚かにも、これを真似(まね)た。
  このキリスト教プロテスタントのこの本も、相も変わ
 らずカトリックと同じ様に「魔女の空中飛行」「魔女集
 合」「魔女との性交」「魔女マーク」という記述である。
  裁判の方法については、17種類の拷問法を挙げている。
  「指締め」「梯子」「ローソクであぶる法」「爪の間
 に木のクサビを打ち込む法」などなど卑劣な拷問方法が
 並ぶ、卑劣な事を考え、行なう、キリスト教だった。
  プロテスタントも、これまた、カトリックと大同小異
 の残酷さだった。
  その一つを説明すると、「魔女マーク」とは何かとい
 うと、
  キリスト教裁判所で、キリスト教聖職者の裁判官が、
 魔女にされた女性を調べる方法の一つに「魔女にはマー
 クがある」と言った。
  そのマークに針を刺しても痛がらないのだと言った。
  そして、そのマークがある訳だと、女性の体のあちこ
 ちを針で刺した。
  この様な卑劣な拷問をキリスト教聖職者は、教会の中
 の裁判所と称する『実態は卑劣な拷問所』でやっていた。
1635年、イギリス艦隊が、中国・清のマカオに到着した。
  中国貿易でうまい事をしているポルトガルに代わって、
 うまい汁が吸いたいとの行動だった。
  後に、このイギリスは、この地・中国で、「アヘン戦
 争」という、イギリスの不正な行為から起きた戦争を起
 こす。
  因(ちなみ)に、アヘンは、麻薬の一種で、ケシの未
 熟な果実からとれた乳液を、乾燥させた茶褐色の物質で、
 モルヒネを多量に含む、
  一度、使うと中毒となり、廃人への道へと落ちて行く。
  絶対に使ってはならない。
1635年、その後のイギリスは・・、
  イギリスとポルトガルは、中国貿易の覇権を争って、
 小競り合いを繰り返した。
  イギリスは、ポルトガルが拠点としていたマカオを去
 り、広東へ向かった。
  この地・広東で、支那(中国)と戦争となり、イギリ
 スは支那の砲台を占領した。
  イギリス国旗を掲げ、勝利を示した。
  支那は、イギリスに広東を窓口として通商を許した。
  これが後に、大きな傷口を開けて行く。
1635年、ボーナス制度の始まり
  この頃から、参勤交代の折に、諸大名が大奥中の女性
 に祝儀を贈る習慣が始まった。
  これは、春日局がつくったボーナス制度。
  当時、大奥の女中たちの収入は「御切米」と呼ばれる
 給料だけで、身分の低い女中たちは、晴れ着の新調もま
 まならない生活だった。
  ある時、大老の坂井忠勝が、これを禁止するとした(
 倹約の意味)。
  困った春日局は、老中と掛け合い、祝儀の代わりにま
 とめて将軍に献金させ、「それを上様から『御合力金』
 として頂戴する」ことにした。
  これが、今でいうボーナスとして幕府から支給される
 ようになり、大奥女中たちを潤した。
1636年4月、酒井忠世が没した(1572年~1636年)
1636年6月、経済政策:銀座を置き、寛永通宝が鋳造された。
  金・銀・銭の三貨制が確立した(金1両=銀50匁、のち
 60匁=銭4貫文)。
1636年6月、廻船・積荷の規則を出した。
1636年6月、伊達政宗が没し(1567年~1636年)、15人が殉
 死し、さらに、その殉死者に対して5人が殉死した。
1636年8月、箱根の関令が制定された。
1636年、江戸城工事:江戸城の内部、外郭が完成した。
  諸大名に江戸城総構え、天守の改築を課した。
1636年、出島を築きポルトガル人を置いた。
1636年、後金が清と改めた。
1637年1月、家光は病気がちで、しばしば政務を休んだ。
  ことに、この年は正月から健康がすぐれず、政務はも
 とより儀礼の席にも出なかった。
  6月には、朝廷で、将軍病気平癒の祈祷が行われた。
  将軍の病気は、翌1638年3月頃まで続いた。
  幕府は、将軍抜きでこの重大事態に対処せざるを得な
 かった。
  この危機を克服したのは、堀田正盛・松平信綱・阿部
 忠秋ら閣老を中心とする幕臣たちであった。
  この頃、閣老を頂点とする行政組織はほぼ制度を整え
 た。
1637年2月、本阿弥光悦が没した(1558年~1637年)
1637年12月、島原・天草の乱、(~1638年4月)
  島原の乱は、過酷な年貢負担と、飢饉災害が重なった
 窮状の中で百姓一揆として起きた。
  また、大勢いた旧領の浪人が加わり、その浪人・土豪
 の指揮で農民一揆が大きくなっていった。
  また、天草も同様の経緯で起きた。
  この百姓領民に多くの旧領時代の浪人たちも加わる形
 だった。
  当然、戦死者たちはキリシタン殉教者ではない。
  キリシタンは、他の地方より多かった程度で、ほんの
 一部を形成している程度。
  強いて一揆をおこした人たちの宗教を言うのなら、そ
 のほとんどは仏教徒だった。
  宗教戦争では、まったくない。
  キリスト教の迫害に立ち上がったという話はまったく
 の嘘。
  また、この乱に天草四郎が語られるが、実在の人物で
 はない。
  キリスト教宣教師が語った人物像、言いふらした話に
 過ぎない。
  キリスト教は、しきりに天草四郎を実在の人物の様に
 プロパガンダするが、嘘宣伝である。
  (この人が天草四郎だという後付け話はあるが、無理
 筋の話となっている、16歳の少年が、旧領主の小西行長
 の旧領の侍たちに推挙されたという、まったく不明な人
 物の話なのだ)。
  戦死者数も、ひたすら島原・天草側の死者数をひたす
 ら誇大に言うのは、また、嘘で間違い。
  幕府側も、同じ人数の戦死者が居る。
  この戦いで幕府軍の重責を担った板倉重昌も戦死して
 いる。
  幕府軍の総大将は松平伊豆守信綱。
  キリスト教に偏するNHKはまったく罪作りな放送局
 だ。嘘ばかりを放送する。
  NHKは、ひたすらキリスト教徒が大勢死んだと放送
 する、そして、殉教だと放送する、あたかもキリスト教
 の代弁者の様に放送する。
  NHKは、完全にキリスト教側だけに向いた放送をし
 続けている。
  文献に「扇動とは大ウソにならない範囲で事実と異な
 ることを言うこと」とあるが、NHKは、扇動をしてい
 る。大ウソとなっている。扇動以上だ。
  この地方の領主だったキリシタン大名の有馬晴信も、
 キリスト教宣教師からもらえる武器・弾薬が欲しかった
 だけ、
  隣国の龍造寺隆信に滅ぼされそうになっているので、
 家を守るのに必死だった。
  そしてまた、晴信は、武器弾薬以外にも、食糧や金な
 どすべてを貰っていた。
  晴信は、関ケ原の戦いの時、キリシタン大名の小西行
 長を攻撃している。宗教心なんてまったくない。
  また、キリスト教に偏するNHKの放送が、あまりに
 もデタラメだという事が新聞に報道されていた。
  (読売新聞、2015・5・20)に・・、
  NHKは、荒木村重の妻をキリシタンと放送した。
  村重の妻が処刑されるときに「十字を切って」、さら
 に、「イエズス・マリア」と唱える演出をした。
  この村重の妻は、「はっきりした仏教徒」だと分かっ
 ている。
  この村重の妻は、「大坂(本願寺)の川奈部左衛門尉
 (さえもんのじょう)という者の娘」で、れっきとした
 本願寺の門徒だ。
  辞世も、
 「磨くべき、心の月の曇らぬは、光と共に、西へこそ行
 く」という西方浄土への仏教の往生を詠じている。
  どこがキリシタンなのだ?
  イエズス会の宣教師フロイスが、「異教徒として即座
 に幾つかの詩句を作って朗吟し」て処刑されたと書いて
 いる・・と報じている。
  NHKの、歴史も何もあったもんじゃないの放送は、
 まったく呆れる。
  どこまでキリスト教に偏するNHKなのか? 大ウソ
 をついてまでして・・、こんな事ばっかりしている放送
 局なのだ。
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(増補版)112C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1635年)

2015-05-27 03:51:44 | 日記
題:(増補版)112C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1635年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1630年代、この年代は卑劣な年代だった。
  ヨーロッパは、絶え間のなく、戦争ばかりをしていた。
  卑劣な年代だった。
  そして、ヨーロッパは、卑劣な事に、ことのほか戦争
 において、鉄砲を多く使った。
  例えば、ドイツの人口が、そのため、半減してしまっ
 た。
  戦争で、人がより多く殺戮される、殺すことが出来る
 鉄砲で人々が殺されてしまった結果だった。
  生活に希望のないヨーロッパ社会は、地下が20分の1に
 なるという状態だった。
  悪事をする輩も横行した。
  成年男子の居なくなった社会だった。
  キリスト教の司祭も結婚し、子供を作った。
  キリスト教の教義は、そっちのけのっ状態だった。
  社会の存続、背に腹は代えられないと、カトリックの
 司祭も人口回復を奨励された。
  また、二人の妻を娶(めと)ることが督励された。
1633年2月、海外渡航者の帰国を制限した。
  奉書船以外の海外渡航を禁じ、また、海外に5年以上
 居留する日本人海外渡航者の帰国を制限した。
1633年2月、改革:地方直し(じかたなおし)が行われる。
  これは、旗本の窮乏対策である。
  旗本へ俸禄(ほうろく、給与)として地方を知行(ち
 ぎょう)として与えた。
  1000石以下の者に一律200石ずつ与えた(20%アップ)。
1633年12月、家光が、弟・忠長の領地没収し高崎に移した。
  翌1634年12月に、忠長は自害した。
1633年、天災:大坂の大和川、石川が氾濫し、2万石余の
 土地が荒れた。
  よく氾濫を起こす地点で、中甚兵衛の治水功労者の銅
 像もある。水害と戦う人多数。
1633年、諸国巡検使(じゅんけんし)の分国を定める。
  巡検使とは、将軍の代替りに五畿七道の幕領・大名領
 の民情政情を視察するために派遣された役人の事で、江
 戸時代に9回の派遣があった。
  大名の治績動静を視察したり、幼少の大名のもとへ赴
 任し、その後見監督に当たり(国目付)、あるいは城の
 受け渡しの時にその場に臨んで監督をするなど、すべて
 幕府の上使を務めた。
1633年、訴訟規則が成文化、
  この年に、軍役制が発布されるとともに公事裁許定と
 いって、主人と家僕、親と子、本寺と末寺、代官と百姓
 など身分に応じた訴訟取扱い方法などの規則が成文化さ
 れた。
1633年、石高制による軍役性、
  石高制と深く関わっているのが軍役制で、制度として
 は3代将軍家光の1633年に完成した。
  それによると、1000石取の旗本は、人数23人、槍2本、
 弓1張、鉄砲1挺を、
  1万石の大名は、騎馬の武士10騎、槍30本、弓10張、
 鉄砲20挺、旗3本を、
  10万石の大名は、騎馬170騎、槍150本、弓60張、鉄砲
 350挺、旗20本を、
  出動命令を受けた時の為に常備する義務があった。
  必ずしも、石高に正比例してはいないが、それぞれの
 俸禄の高に応じて軍備を課せられた。
  江戸時代には、中央政府としての幕府が、直接、持っ
 ている常備軍は比較的少なく、
  主として、諸大名の軍役に期待し、幕府は、その統帥
 権を持っていただけだった。
  軍役は、鎌倉時代の御家人役に淵原する。
  鎌倉将軍家から所領の給与、または、安堵された武士
 は、その御恩に対する奉公として、1年ずつ交替で、大番
 役(京都の警護役、後には鎌倉も加わる)を務めねばな
 らなかった。
  また、戦争には動員を受けた。「いざ鎌倉」である。
  近世は、何石にどれだけという、上からの一方的な割
 り当てで、全国的に徹底した権力であった。
  中世は、全国的でなく、関係ない非御家人も多数存在
 した。
1633年、人事:松平信綱ら6人衆=若年寄に任命された。
  若年寄(わかどしより)は老中に次ぐ重職で、この年
 の任命が始まり。
  旗本、および、老中支配以外の諸役人の統轄した。
1633年、ガリレオが、再度、キリスト教に捕まり、異端審
 問所で取り調べを受けた。
  ローマ法王庁は、ガリレオを終身刑の有罪とした。
  軟禁状態となった。
  家に閉じ込められ、外部との接触が出来なくさせられ、
 この9年後の、1642年に、ガリレオは没した。
1634年5月23日、秀吉の養女の豪姫が没した。
  享年61歳だった。
  秀吉は、自分の子を亡くした時、幼なじみの前田利家
 が4女を養女として秀吉の子とした。
  秀吉とおねの夫婦は寵愛した。
  秀吉は、「もし豪が男であったら関白にしたものを」
 と妻のおねに言っている。
  夫の宇喜多秀家が八丈島に流罪となった後は、米や薬
 などの必需品を八丈島の夫のもとへ送り続けた。
  明治になって、明治天皇陛下より、現在の浦安市に
 19900坪の宅地を賜わり、その苦労を慰めて戴いている。
1634年6月、山王祭(さんのうまつり)が、初めて江戸城
 に入る。
  徳川三代将軍・家光以来、江戸城内に入御した御神輿
 を、将軍が上覧拝礼する天下祭りで、盛大をきわめた。
1634年6月、家光が30万の大軍を率いて上洛し、武威を示し
 た。
  また、この時、上皇御料を一挙に3倍に増やしている。
1634年7月、江戸城の西ノ丸が炎上した。
  酒井忠世、家光の勘気を受けた。
1634年8月、譜代大名の妻子を江戸に移した(大名支配)
  また、琉球の江戸上りが始まった。
  幕府の将軍や琉球の国王が代替わりすると、幕府に挨
 拶に上がった。
  1634年に、京都・二条城に滞在していた将軍に会った
 のを始まりとして、その後は毎回、江戸まで行った。
  1850年に終わるまで合計18回を数えた。
1634年、仇討:
  岡山藩士の渡辺一馬が、荒木又右エ門らと共に伊賀国
 上野西端鍵屋の辻で、弟の仇敵の河合又五郎を討ち取っ
 た(伊賀越の仇討)。
1634年、領主と農民間の階級的矛盾
  幕府と藩という領主内部にあった矛盾が解消して、領
 主と農民との間の階級的矛盾が表に出てきた。
  領主財政の確立と拡充に対する農民の抵抗の激化がそ
 れ。
  ことに、1634年頃から、全国的にかなり大きな飢饉に
 見舞われたことがそれを助長した。
  島原・天草の乱もその飢饉に触発された百姓一揆であ
 った。
1634年、踏絵が盛ん。
1634年、前年の奉書船以外の渡航を禁じるなどの通達を、
 再度、行った。
1634年、社会資本整備・小貝川
  伊奈忠次が、小貝川に岡堰を築造した、また、牛久沼
 にも2000間堤(2000間=約3.6キロメートル)を築いた。
1634年、老中・若年寄の職掌を定めた。
1634年、訴訟審理規則が成文化した。
  3代将軍家光の1634年~1635年に至り、老中・若年寄・
 諸奉行の制、評定所の訴訟審理規則などが成文化され、
 ほぼその全容を整えた。
1635年6月、参勤交代が制度化された。
  参勤交代は、幕府が諸大名の経済力を弱めるため強制
 した策略だという見方が依然としてある。
  しかし、それは結果であって、幕府の目的が、そこに
 あったと言うのは曲解である。
  参勤交代は、軍役発動の一形態である。
  幕府の常備軍は少なかったので、常に、大名を半数ず
 つ江戸に滞在させて、首都防衛に当たらせたのである。
1635年6月、武家諸法度が大改訂され、内容が完備した。
  江戸幕府の支配体制が制度的に固まったと言える。
  官僚組織の整備は、その中核をなした。
  参勤交代の制度化はこの中にある。
1635年10月、老中・若年寄の役が始まる。
  老中・若年寄以下、所有司の職掌を定める。
  土井利隆ら若年寄となる。
1635年11月、評定所(ひょうじょうしょ)の条例を定める。
  法令の成立から、この時期に設置されたとされる(た
 だ、その場所については諸説あり)。
1635年11月、寺社奉行が創設された。
1635年、中国・オランダなどの外国船の入港を長崎のみに
 限定した。
  また、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の
 帰国を禁じた。
1635年、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛、連署の列(老中)
 に加わる。
1635年、諸士法度を改定する。
1635年、この頃の資料がバチカンで発見された。2014・11・
 12の新聞で報じている。
  日本の「宗門改め帳(しゅうもんあらためちょう)」
 である。
  この頃の江戸幕府を、キリスト教は、厳しい取り締ま
 りをしていると言うが嘘だとこの資料から分かる。
  キリスト教のプロパガンダと分かる。
  この宗門改め帖でも、実際は、本人でなくても、家族
 や知人でも、キリスト教を止めたと言えば「お咎(とが)
 めなし」だった。
  キリスト教は、ヨーロッパのキリスト教国の様な卑劣
 な非人道的な事が、取締りが、日本でも行われた如くに
 言うが、まったくの嘘で、デッチアゲである。
  日本は、キリスト教国・ヨーロッパの様な執拗(しつ
 ようないじめ・苦しめはしていない。
  その事が、この宗門改め帖裏付けられる。
  キリシタンではないという事を、印を押してただ庄屋
 に出せばいいことだった。
  庄屋は、まとめて藩に出せば、それで済む事だった。
  ヨーロッパの様に、キリスト教裁判所が何だかんだと
 拷問して苦しめて、罪を着せて、火あぶりにして、財産
 を没収するというキリスト教会の裁判所がやった事とは
 ほど遠い日本だった。
  キリシタンと分かっても「転びキリシタン」と書けば
 許された。
  お咎(とが)めはなしだった。
  その記述があるだけ。殺されていない。
  何しろ幕府は、穏便に穏便にと、事を進めた。
  キリスト教は、厳しい取り締まりに耐えたとか、殉教
 だとしたいから、昔から、この様に嘘を言う。
  今・現代でも、嘘をついてでも、「殉教だ」と言いた
 がるキリスト教となっている。
  江戸幕府は、貿易行為を認めていたオランダから、定
 期的に報告書を提出させ、海外情報を集めていた。
  鎖国政策で、まったく諸外国の事は知りませんでした
 とキリスト教が言うが、これも嘘。
  因みに標記の宗門改め帳は、1953年(昭和28年)に、
 キリスト教神父が、横浜から船でバチカンへ送ったもの。
  約1万点の文書、ほとんどが宗門改め帖だった。
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