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(増補版)642E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

2019-04-27 03:30:28 | 日記
題:(増補版)642E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月30日、官吏恩給法及官吏遺族扶助法補則公布(法
 律第36号)
  1.恩給法上の公務員
  恩給の対象となる公務員は、具体的には、次のような
 者をいう。
  (なお、公務員の年金制度は昭和30年代に旧共済年金
 に移行しており、恩給の対象となる公務員は、旧共済制
 度発足前に退職した公務員及びその遺族である。
  したがって、現職者に恩給の対象者は存在しない。)
 (1) 一般文官 ア 文官(官にある者)〔最短恩給年
   限17年〕
  イ 教育職員(公立学校等の職員)〔最短恩給年限17
   年〕
  ウ 警察監獄職員(警部補以下、副看守長以下、消防
   士補以下の者)〔最短恩給年限12年〕
  エ 待遇職員(形式的には官吏ではないが判任官以上
   の待遇を受ける者のうち、恩給法令により特に指定
   したもの。
    例えば、神宮司庁職員、地方道路技師等)〔最短
   恩給年限17年〕
 (2) 旧軍人(兵~大将)〔最短恩給年限 兵・下士官
   12年、准士官以上13年〕
  2.公務員の遺族
   遺族の順位は、
  ア 配偶者
  イ 未成年の子
  ウ 父母
  エ 成年の子(公務員の死亡当時から重度障害の状態に
   あり、生活資料を得る途のない者に限る。)
  オ 祖父母・・である。
  (以上、抜粋・・総務省ホームページより)
.
1896年3月30日、事業公債条例が公布(法律第50号)され、事
 業公債をもって鉄道改良費の資金とする。
.
1896年3月30日、逓信省官制改正(勅令第85号、4月1日施行、
 勅令第150号は廃止)
.
1896年3月30日、客車代用貨車取扱規程を制定(鉄運乙第534
 号)
.
1896年3月31日、拓殖務省官制の公布
  拓殖務省(たくむしょう)は、この年に、台湾事務局
 関係事務と、北海道拓殖事務を統轄する機関として、拓
 殖務省が設置された。
  しかし、1年余ののちに廃省となり、その後、南樺太、
 朝鮮の併合、関東州の租借、南洋委任統治などの植民地
 行政拡大に伴い、1910年以後、拓殖局、1922年以後、拓
 殖事務局、1924年以後、内閣拓殖局がそれぞれ設置され
 て統轄機関となった。
  1929年、田中義一内閣のとき、拓務省官制として省に
 昇格したが、所管事務として旧内閣拓殖局の事務と従来
 内務省社会局の権限であった「移民に関する事務」を引
 継いだ。
  具体的には、朝鮮、台湾両総督府、関東、樺太、南洋
 3庁の事務を統督し、南満州鉄道株式会社、東洋拓殖株式
 会社などの監督にあたった。
  1942年11月、大東亜省設置に伴い、対満事務局、興亜
 院とともに吸収され、廃省となった。
.
1896年3月31日、横浜のペスト患者が死亡した(4月1日説
 あり)
  開港した横浜、伝染病も流入して来る。
  日本にベストが初めて上陸した。
  横浜港に入港したアメリカ船籍のゲーリック号の乗客
 の一人(外国人)が病気のため下船した。
  そして、市内の病院に入院する。
  患者は容態が急変し、4月1日に死亡した。
  検査して「ペスト」と判明した。
.
1896年3月31日、台湾総督府直轄諸学校官制が公布された。
  日本は韓国や朝鮮、そして、台湾の教育制度を整備し
 教育を施すことに熱心だった。
  欧米列強の様な捨てて置く様な事はしなかった。
  修学年限や修学の科目などを決めたりした。
  女子には、特別に、この教科が必要などと、きめの細
 かい指導をしてあげた。
  そして、必要に応じて、その後も、向上させて行った。
  それに応じて、財源を配慮もした。
  今、韓国は、何かと恩になった日本を批判するが、韓
 国が出来なかった小学校や大学などの学校づくりを、誠
 実に日本は行っただけではなく・・その他に、日本は、
 それだけではなく、その教育が実際にうまく行くように
 配慮して、行なっていた。
  日本と遜色(そんしょく)なく、まったく平等で、師
 範科なども置いたりした。
  日本語の習得に関して強制することなく行われた。
  日本語を常用せざる者の別建てのコースも作った。
  だからと言って、全く同等で差別などもしていない。
  同じように豊かになろうという体制だった。
  大学なども日本人との共学の大学も置かれた。
  日本を批判することは「何事においてもできる」が、
 日本がしなかったならば、大学も小学校もない状態だっ
 た。
  できた状態が「ああだった」とか、「こうだった」と
 かという批判は、想像すれば何事も言える状況で、教育
 施設が無い状態を考えれば、その様な批判はできないは
 ずだ。
  そこまで言うのであるのならば、何故?自分たちで造
 らなかったのですか?と問いたい。
  恩を売っている訳ではないが・・感謝の気持ちを持っ
 てもらいたい。
  日本の先人の方々は、資金だけではなく、誠実に努力
 していたのです。
.
1896年3月末、酒造税法・営業税法・葉煙草専売法などが公布
 された。
  酒造税法 (明治29年3月28日法律第28号)
  葉煙草専売法 (明治29年3月28日法律第35号)
  営業税法 (明治29年3月28日法律第33号・・翌年の明治
  30年1月1日に施行された。
  この法律は、明治29年11月の税務管理局官制、すなわち
 税務署創設の前提となっている。
  この法律は、複雑な課税標準を設定したため、その執行
 に専門的な税務行政の必要性が生じ、対応できる期間の創
 設を促した。
  この法律は全国的な反対運動も起きた。
.
1896年3月末、陸軍平時編成を改め、近衛および第1師団~第
 12師団が設置された。
  師団の増設に伴う師管の改編によって旅管が廃止されて
 13師管となり、従来の大隊区は連隊区と改称された。

  その一つ・・札幌に陸軍第7師団が編成され、北海道の
 開拓と警備を担った屯田兵が基盤となった。
  初代師団長は屯田兵司令官であった永山武四郎。
  1899年に旭川への移転が決定、
  1902年、移転が完了。
  北海道に置かれた常備師団で、北辺の守りを担う重要な
 師団だった。
  北海道民は畏敬の念(いけいのねん、畏れ、かしこまり、
 敬う心情)で見ていた。
  この「北鎮部隊」の元で、旭川は軍都として発展する。
  十勝(→旭川)連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・根室
 →釧路)連隊区
  部隊は、日露戦争の二〇三高地や太平洋戦争のガダルカ
 ナルなど、歴史に残る激戦地へ派遣された。
.
1896年3月末日、臨時軍事費特別会計が終結した。
  日清戦争の臨時軍事費特別会計が編成されたのが、1894
 年6月1日からだったが、1896年3月末日で終結した。
  歳出:200百万円
  うち:陸軍82.1%(人件費18.4%、糧食費12.4%、被服費
 10.8%、兵器弾薬費5.6%、運送費16.9%、その他18.0%
  海軍17.9%(物件費75.0%・人件費19.5%・その他5.5
 %(ただし、別の資料では、海軍の人件費1.1%、艦船費6.4
 %、兵器弾薬費・水雷費5.0%、その他5.4%)
.
1896年3月、進歩党が結成された(大隈重信総裁)
  憲改進党ほか諸派が自由党に対抗して結成した。
  改進党、立憲革新党、財政革新会、中国進歩党などが合
 同し、進歩主義に立つことを宣言した・・
  また、責任内閣の完成、国権拡張、財政整理を政綱に掲
 げた。
  1896年9月に、事実上の党首大隈重信が、第2次松方正義
 内閣に外相として入閣して、進歩党も与党となって第10議
 会では金本位制確立のための貨幣法案や、戦後経営関連諸
 法案を成立させた。
  議会後、大隈は農商務相を兼任した。
  また、党幹部が農商務次官・局長、県知事などに就任・・
  1897年8月、新設の勅任参事官にも多数任命されたため
 官僚勢力との利害が対立することになる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、自国の通貨を発行するたびに、アメリカ財務省が、
   民間銀行の株主に金を払う(利子を払う)という「おかしな形」と
   なっている・・??
    また、アメリカは、「通貨供給量の生殺与奪の魔法の力」が
   握られている。
    そして、これが、アメリカの財政赤字の原因の一つとなっている。
.
紀元前261年頃、アショカ王が、全インドへ仏教を広める。
  アショカ王・・紀元前3世紀のインドのマウリヤ王朝の
 王子として生まれ、マウリヤ朝の第3代国王となる・・生
 没年は不詳。
  紀元前3世紀の半ば、史上初めてインドのほぼ全土を統
 一した。
  仏教に熱心に帰依し、不殺生や慈悲などの仏法にもと
 づく政治を掲げた・・そして、仏教のその精神にもとづ
 く世界秩序をめざす。
  世界中に伝道師を派遣し・・エジプトのアレクサンド
 リアにまで訪れる伝道僧も居た。
  この地道な布教活動は、幾世代も続いた。
  アショカ王は、仏法をを説いた碑を多く建てているが、
 アショカ王の建てた碑にアラム語の碑もあり、アフガ二
 スタンの南西部で発見された・・
  キリスト教のイエスはアラム語を話していたが・・ア
 ラム語は、オリエント世界の公用語だった。
  また、ギリシャ語の碑もあり、ギリシャ人は集団で移
 住し、その地に住んでいた。
  キリスト教は「一神教の壁があった」と嘘を言うが、
 東西の交流は頻繁(ひんぱん)になされ、仏教も伝わっ
 ていた。
  アショカ王は、厚い信仰心を人々に示し、また、その
 地を栄えさせた。
  王は肉食を断ち、人々や狩人、また、王の漁師たちも
 猟や漁を止めた。
  ギリシャ人の王・ミリンダ(メナンドロス)と仏僧と
 の宗教問答をつづった「ミリンダ王の問い」(那先比丘
 経・なせんぴくきょう)も残っている。
  高名な仏僧・ナーガセーナの説法は見事だった。
  ミリンダ王はそれに屈し、仏法に帰依するのだった。
  イエスもこの様な状況の中で、仏教に触れている可能
 性が高く・・この様な所から「汝の敵を愛せよ」の仏教
 の慈悲に影響された言葉が発せられたと言える。
  因みに、近年になって、アメリカの研究集団は、キリ
 スト教の聖書におけるイエスの言葉はほとんど無いとし
 ている。
     ・
     ・
958年、韓国・朝鮮の両班のはじめ・・
  この年、高麗・李朝時代に中国の科挙に由来する制度
 によって地方豪族などから登用する両班制度を始めた。
  両班の多くは地方の地主層であった。
  しかし、その制度は、300年後の14世紀になって後に崩
 れて行く・・
  14世紀頃から、韓国・朝鮮の両班(りゃんばん)は、
 様々な理由から増加し出した。
  特に、18世紀後半は、最悪の状況となった。
  両班(りゃんばん)。
  これが、韓国・朝鮮の諸々の悪の根源だった。
  両班は、王の両側にいた側近で、東班(とんばん)と
 西班(そばん)の特権的な官僚(最上級身分の支配階級)。
  東班(文班)は文官で、西班(武班)は武官だった。
  本来の姿は、この官位・官職は独占世襲し、種々の特
 権・特典を受けた・・血縁的身分として固定化された。
  両班は、兵役・賦役免除の特権を持ち、封建的土地所
 有を行なって常民・を支配した。
  そして、党派に分かれて党争を繰り返した。
  両班は、「働く人を蔑(さげす)んだ」。
  額(ひたい)に汗して働く人を蔑んだ。
  両班は、頭を働かせて知的に働くのを良しとした。
  両班は、科挙の試験を通ったエリートだった。
  だから、前記した頭脳労働者への偏重の思想を持った。
  韓国・朝鮮には、この両班が約7%居た。
  ただ、韓国・朝鮮ではこの頭脳労働偏重の思想が、肉
 体労働者への蔑みが大きく出た。
  また、韓国・朝鮮には家系を尊ぶ思想がある。
  そして、その家系によって肉体労働者は、ズーッと常
 に肉体労働者でなければいけないという慣例・風習があ
 った。
  これと、両班が持つ特権が、くっついた。
  本来なら科挙の試験を合格しなければならない資格が、
 肉体労働者の家系から抜け出たいとするものが、その両
 班の地位を金で買うことがなされた。
  最後には、両班は、国民の50%近くまで行った。
  もう、ここまで来たら誰でもが両班と言えるような状
 態になった。
  韓国・朝鮮には、両班が持っていた肉体労働を蔑む風
 潮が社会に根付いているが・・、
  その点、日本は、匠(たくみ)と言って技術を極めた
 方々を、日本では尊敬し、大切にして尊んだ。
  この様な日本の様な状況は、韓国・朝鮮にはない。
  そして、両班は、様々な悪事の極みを行なっていた。
  虐(しいた)げられた家系から抜け出し、両班になっ
 た者たちは、逆に、虐げる側になって、民を虐げた。
  韓国・朝鮮は、中国に長く冊封される体制を受けて来
 た風潮や性格から属国根性は染み込んでいた。
  この両班の地位を作る科挙は中国の制度で・・大陸で
 地続きにある隣国の中国・・そして、朝鮮半島の小国に
 は、常に蹂躙され続ける歴史があった。
  虐げられた民は、両班のことを・・、
  「朝鮮の官人はみんなが盗賊だ」とか、「転んでも自
 分で起きない」とか、「箸と本より重い物は持たない」
 などと揶揄(やゆ、からかう、なぶる)した。
  両班は、「兵役の免除」「刑の免除」、「地租以外の
 徴税・賦役免除」、そして、常民に道や宿の部屋を譲ら
 せる権利や、家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々
 な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪した。
  マリ・ニコル・アントン・ダヴリュイは、「世界一傲
 慢な貴族階級」と蔑んだ。
.
1619年、オランダが、アフリカの方々を、アメリカへ奴隷
 として運び、売った。
  オランダ船が、アメリカのバージニアへ、20人のアフ
 リカの方々を連れて行き、売った。
  バージニアという地は、まったく卑劣な地で、特に多
 くの黒人の方々を奴隷とした。
  1680年~1750年には、何とバージニアの人口の44パー
 セントが黒人奴隷の方々だった。
  参考:サウスカロライナは61パーセント。
.
1624年、江戸と京都の間に53の宿場が整備され、東海道五
 十三次となった。
  1600年の関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、次々と
 新しい政策を実施した。
  街道整備もその一つだった。
  1601年、東海道の伝馬制度を定め、江戸と京都の間に
 37の宿場を置いた。
  横浜には、「神奈川宿」と「保土谷宿」の2つの宿が置
 いた。
  その3年後の1604年に、「戸塚宿」が加わり、横浜は3
 つの宿場となった。
  1624年には、江戸と京都の間に53の宿場が置かれ、東
 海道五十三次となった。
  東海道のメインの街道は、参勤交代の大名や幕府の役
 人、商人や伊勢神宮などの社寺の参詣の旅人で賑わった。
  旅人は、その道中で・・名物料理を食べたり、土産物
 を買ったり、寄り道をしたり、物見遊山を楽しんだりし
 た。
.
1640年、ジョン・パンチ裁判
  黒人のパンチは、逃亡し、裁判となり・・判決で・・
 「当地、および、他の場所で、所有者、および、その受
 託者に生涯仕える」ことと命じられた。
  法律を犯したとき、黒人の方の場合、奉公期間が『無
 制限』に延長するという卑劣な事をするアメリカだった。
.
17世紀、アメリカへ、労働力を補うためヨーロッパから多
 くの年季奉公人が送り込まれた・・特に、イギリスから
 供給された。
  半奴隷的な扱いをした。
  アメリカは、その様な雇い主の白人へ、広い土地を与
 えた。
  また、「他の人間を支配する名誉」まで与えた。
  アメリカの人権無視に、あらためて腹が立つ。
  それまでは、イギリスからの年季奉公人を使っていた
 アメリカだった・・が・・
  この年季奉公人には、ある年数の奉公に対する購入費、
 そして、年期中の諸経費、解放時の給付金があった。
  これに対し、アフリカの黒人奴隷の方々の費用は格段
 に安かった。
  イギリスは、自分の国の「質の悪い国民」を片付ける
 様にして、かき集め、アメリカへ連れて行った。
  道路にたむろしている「貧しい弱者」や「ホームレス」
 を、なかば強制的に捕獲した。
  イギリスは、この捕獲という言葉がまったく当てはま
 るかの様に、この様な弱者の方々を捕獲した。
  人権無視のイギリスだった。
  その様な年季奉公人を、承知してアメリカは使った。
  イギリスと、人権無視の共犯的な行為をするアメリカ
 だった。
  しかし、アフリカからの黒人の方々は、安いだけでは
 なく、質の良い労働力でもあった。
  また、まったくの「人権無視の行為が出来る」という
 労働力だった。
  それを得たいアメリカだった・・アメリカはこれを「
 これ幸い」とし・・非人道的な「奴隷」に落とした。
  キリスト教の聖書にも書いてある「奴隷概念」が実行
 された。
  最初の購入費以外、費用はまったくかからなかった。
  なおかつ、黒人奴隷の方々の宗教をアメリカは奪った。
  また、卑劣な事に、その言語をも奪った。
  アフリカの言葉を話せない様にした。
  そして、家族のつながりも配慮されず、バラバラに
 されて、生まれ育った家族のつながりも奪われるアフリ
 カからの黒人の方々だった。
  まったく家畜同然だった。
  キリスト教の洗脳によって、その行為に対し、まった
 く罪悪感は無かった。
  生まれた子供は奪われた、そして、その子は売られた。
  年季奉公人は、待遇改善の要求などをしたが、黒人奴
 隷の方々には、それが許されなかった。
  その様な抗議は、当然のように、黒人の方々へは許す
 ようなことはしなかった。
  また、アフリカに居た時も農業にいそしんでいた。
  また、逃亡の時、肌の色から見分けがはっきりして、
 捕まえ易さがあり、法律上の権利もまったく与えられて
 居なかった。
  公的機関から配慮されるような事もまったく無かった。
  アメリカは、言うことも憚(はば)れるような軽蔑的
 思考で、黒人の方々をキリスト教の聖書の概念の奴隷と
 して扱った。
  非文明国家の極みにあった。
  そして、卑劣にも、イギリスが、アフリカから易い物
 品で拉致の様にして連れて来る役を担った。
  せっせとアフリカから黒人の方々をアメリカへ捕まえ
 て、安いヨーロッパの物品と交換して奪った・・そして、
 アメリカへ連れて行った。
  黒人の方々が、絶えず供給されるという点を、アメリ
 カは必要事項として、イギリスへ要求した。
  アメリカ南部のプランテーションだけではなく、アメ
 リカ北部の大商人や船主たちが、アフリカの方々を奴隷
 として要求した・・(北部には奴隷要求は無いと言うが、
 まったくの嘘・・アメリカ北部政権のプロパガンダ)
  アメリカ全土が黒人の方々の奴隷の恩恵を受けたいと
 考えていた。
  因みに、年季奉公人制度は、「偽装された奴隷制度だ」
 とされている。
  表面的な目を誤魔化す行為とされている。
  状況は悪化さえしている。
.
1664年、英蘭戦争(~1667年)
  イギリスは、この戦争で勝利するとオランダと・ポル
 トガルが持っていた奴隷貿易を独占した。
  長い間、イギリスは奴隷貿易を続けた。
  酷い輸送で死亡率が高かった。
  奴隷にされた女性が産んだ子供も「奴隷という解釈」
 で、黒人の方々は、その方の人生以上の長きにわたって、
 白人から逃れられないという解釈の下におかれた。
.
1672年、ロイヤル・アフリカン・カンパニーが、イギリス
 に設立され、イギリスは奴隷貿易を本格化させた。
  この組織に、奴隷貿易を専従させた。
.
1676年3月、バージニアのナサニエル・ベイコンの反乱
  アメリカの植民地としての最初の反乱。
  イギリス領バージニア植民地の反乱。
  オランダ人の経済的圧迫などでその防衛を求めた。
  また、税金も高く要求された。
  1674年、植民地の住人は、ロンドンにいるバージニア
 の領主であるアーリントン卿とカルペッパー卿に対して
 政治的働きかけを行う代理人を送るために更なる課税を
 要求された。
  この状況は、入植者の悲惨さをさらに悪化させるもの
 であり、バージニア総督ウィリアム・バークリー卿の指
 導のまずさもあって、政府に対する憤懣が広がった。
  また、アメリカの先住民族であるアメリカ・インディ
 アンの方々との関係も悪化していた。
  1676年3月、ジェームズタウンに戻った後、ベイコンと
 バークリー支持者の間に紛争が起こった。
  ベイコンの一党はバークリー派に打ち勝ち、総督はバ
 ージニアの東海岸に逃走した。
  ベイコンの一党は、首都を3ヶ月間占領し、貴族政府の
 象徴である町を破壊した。
.
1708年、アメリカは、先住民のアメリカ・インディアンの
 方々を奴隷にした。
  この年、1例として、サウスカロライナ州で、最も先住
 民のアメリカ・インディアンの方々の奴隷化が進んでい
 た。
  12,580人の人口中、1,400人の11.1パーセントの先住民
 奴隷が居た。
  この状態は、卑劣にも19世紀になっても行われていた。
  誰でも彼でも、白人以外は奴隷とするキリスト教の聖
 書の奴隷の記述に洗脳された輩どもだった。
.
1794年、銀の市場価格が低下を始めた。
  このことで、アメリカの貨幣法で前提とされた「15:1」
 という金・銀の価格比が、市場での実体と乖離すること
 となった。
  そのために、連邦議会は、1834年に、ドルの純金分を
 減らすことで、複本位制の金・銀の価格比を「16:1」へ
 と調整した。
  グレシャムの法則(Gresham’s law)として知られる
 通り、「品位の劣る鋳貨が流通に投ぜられると、流通中
 の高品位の鋳貨が退蔵された」。
  この法則によれば、金・銀貨が、固定比率でドルとし
 て等価で流通する場合には、市場価格と比較して過小評
 価された貨幣(この場合は金貨)が退蔵されるはずであ
 る。
  実際に、Laughlin は、1792年~1834年の期間に、アメ
 リカで、金硬貨は殆ど使用されなかったと述べて、過小
 評価されたドルが「駆逐」されたと結論付けた。
  1837年の法律改正で、ドルの金含有量がさらに微調節
 された後も、アメリカ貨幣制度は、金・銀複本位制を保
 っていたが、カリフォルニアでの金ブームの結果、金の
 銀に対する相対価格が低下し、貨幣制度の上では、今度
 は、銀が過小評価されることとなった。
  そして、金が流通の主役となった。
.
1834年8月1日、イギリスで奴隷廃止法が出された。
  この日に発布されたイギリスの奴隷制廃止法では・・
  黒人の方たちは、奴隷身分からは解放されたものの年
 季奉公人として元の奴隷主の下で週45時間働くことを強
 いられた。
  まったく卑劣な事を、まだ行うイギリスだった。
  そして、表面的には奴隷解放がなされたように見える
 が・・実際には・・この奉公人の制度は、奴隷制と変わ
 らないばかりか、部分的にはそれよりも悪くなっていた。
  そして、白人の行なうこの制度を監視する役割を担っ
 た有給判事は、プランターの白人経営者と奉公人との間
 の紛争を処理する役目であったが・・公平な紛争処理の
 態度ではなく、白人のプランター側に着いた処理であっ
 た。
  奉公人と名前は変わっても、まだまだ「鞭打ち」や「
 虐待」などがなされた。
  そして、元の奴隷制に戻そうとのキャンペーンまで行
 なわれた。
  そして、1838年8月1日には、年季奉公人制を廃止する
 ことをイギリス政府は決議した。
  まったく唾棄すべきイギリスの状況だった。
.
1835年4月28日、ジャマイカにおいて、白人が経営する農場
 で、「ムチ、ムチ」という叫び声が聞こえるという手紙
 が残っている。
  そして、今まで以上に奴隷状態に置かれている状況を
 伝えている。
  5月30日の手紙では、今までの3倍悪くなっていると伝
 えている。
  黒人の方々にも抑えきれない不満が鬱積(うっせき)
 していると伝え、抵抗を作り出していると伝えている。
  このままでは反乱となるだろうと伝えている。
.
1835年6月22日、ジャマイカ西部のトレローニー教区のウェ
 イクフィールド農園という白人の経営する農場で働いて
 いたジェイン・リードという奴隷状態の奉公人の事例。
  奴隷状態の女性が、気分が悪くなったので監督に言い
 に行くと・・地下牢に行くよう命じられ、
  そこで、翌日まで食事は与えられず、特別判事の所へ
 連れて行かれた。
  白人の特別判事は、踏み車を4日間踏むように命じた。
  この女性は、踏み車に手首をくくりつけられ、鉄の首
 輪をはめられ、腰に鎖を掛けられるということを、この
 後、行われたりした。
.
1861年3月4日、アメリカ第16代大統領に、リンカーンが就
 任した。
  アメリカ北部は、「北部は、黒人たちをあまり奴隷に
 しなかった」と自慢気に言うが・・、
  これは、アメリカ北部の主義主張が奴隷にしなかった
 とかではなく、初めから奴隷労働を必要としなかっただ
 けだったという・・しかし、これもマユツバ・・
  南部の綿花を、北部の綿布工場が綿布にする工場では、
 黒人の方々が、奴隷として、しっかり使われていた。
  何ら、アメリカ北部が自慢するような事ではなかった。
  また、アメリカ北部には奴隷思想が無いかと言えば、
 それは、まったくの嘘で・・、
  アメリカ北部は、インディアンの方々を盛んに奴隷に
 していた。
  アメリカ北部の象徴的人間のリンカーンが、積極的に
 奴隷制度に反対しなかったのもその証拠で・・
  黒人奴隷の方々を、たまたま開放する段階になったか
 ら「奴隷解放宣言」をしたまでであって、そして、アメ
 リカ北部政権が、そのことをプロパガンダ(嘘宣伝)し
 たので、アメリカ北部のリンカーンは、奴隷解放論者だ
 と錯覚されているだけ・・
  リンカーンは、「まったく奴隷解放などしたくない」
 という演説までしている。
  また、「私(リンカーン)は、奴隷解放論者ではない」
 とまで言っている。
  黒人の方々をアフリカのリベリアへ棄民さえしたアメ
 リカ大統領のリンカーンだった。
  アメリカ・インディアンの方々は、土地勘があり、す
 ぐ逃げたり、また、民族として連携が強く、繋(つな)
 がりの強い救済があったりして、奴隷にしにくかった。
  しかし、アメリカ北部人は、このアメリカ・インディ
 アンの方々を必死に奴隷にしようとした。
  アメリカ北部に奴隷思想が無かったというのは、「真
 っ赤な嘘」。
  日本のテレビ朝日は、アメリカにゴマをする「奴隷解
 放をしたリンカーン」という嘘放送を今日(2019年4月20
 日)もしていた。
.
1863年、リンカーンが発行した法定通貨の金債権との兌換
 性が取り消された。
  グリーンバック(greenbacks)と呼ばれる合衆国紙幣
 (法定通貨、United States notes)の発行を、リンカー
 ンは、1862年に始めていたが、発行当初に保証されてい
 た金債券との兌換性は、1863年に取り消された。
  グリーンバックは、連邦政府の信用のみで価値を担保
 されていた。
  そして、法定通貨のグリーンバックは、金との交換比
 率が低下して行った・・半分以下にまで減価した(その
 様に操作されていた)
  アメリカ財務省は、グリーンバックの価値の回復に努
 めた。
  1875年、正貨兌換復帰法が採択され・・
  1879年に、グリーンパックの兌換が再開された。
.
1863年、横浜の山の手に、この年以降、イギリス軍やフラ
 ンス軍の軍隊が駐屯した。
  1868年の戊辰戦争の時、官軍が横浜に到着した時、戦
 闘が発生する様な事も無かった。
  諸外国は、横浜における貿易が出来る状態にして置く
 ことを重点としていた。
  貿易の出来ない状態、乱れることを望まなかった。
  その様な状況から、横浜は平穏な場所であった。
  1868年1月14日(戊辰戦争が始まった1月3日から11日後)
 平穏に安定している横浜に、戦闘で大怪我をした36人が
 送り込まれた・・
  忠右衛門の手紙には・・「当浜御役所へ上り薬用中に
 これあり」と記されていて、横浜の役所で治療を受けて
 いることを伝えている。  
  また、死去した兵士の処置で横浜は「大混雑」してい
 ることも記されている。
.
1865年、この年以降の15年の間に、「50%のデフレ―ショ
 ン」が、アメリカで起きていた。
  通貨不足と物価下落の影響で、アメリカ国民は苦しめ
 られた。
  特に、最も苦しめられたのが農民だった。
  作物価格の下落と、利子率高騰の2つの要因で、農民の
 生活は追い詰められた。
  農民は、通貨不足に悩む一部の産業資本家と協力し、
 グリーンバック党(Greenback Party)という新党を、
 1874年に、組織し、グリーンバック増発を訴え、通貨縮
 小をもたらす兌換回復に反対した。
  グリーンバック党は、1876年の大統領選に、独自候補
 を擁立したが、その運動は短命であった。
.
1868年1月14日、戊辰戦争で大怪我をした者(36人)が横浜
 に運ばれて来て、横浜の役所で治療を受けた。
  イギリスとフランスの軍隊が、1863年の文久3年以降、
 横浜の山の手に駐屯した。
  戊辰戦争が発生した頃、そして、日本が戦乱で動揺し
 たこの頃、諸外国は日本が戦乱の渦の中で乱れ、貿易も
 なされないという状態になることを望まなかった。
  戊辰戦争の官軍が横浜に到着しても、横浜では戦闘も
 起きず、平穏な地として経過した。
  1868年1月14日に、戊辰戦争で大怪我をした者の36人が、
 横浜に上陸し、横浜の役所で治療を受けた・・この様な
 事を記した日記が残されている。
  また、戦死した兵の処置で横浜は「大混雑している」
 と書かれた日記もある。
  安全な場所とされた横浜は、その様な役目も果たして
 いた。
  「次々と怪我人が運び込まれる」の記述もある。
.
1875年、アメリカは、正貨回復法(正貨兌換復帰法)を採
 択した。
  法定通貨を独自に発行した「アメリカの第16代大統領
 リンカーン」は、暗殺された(1865年4月14日)
  犯人は、「ユダヤとの関係を感じさせた」。
  その後のアメリカ大統領が、リンカーンの発行した法
 定通貨を慌てふためいて回収したが・・その姿が、その
 怪しさを表わしていた。
  また、このリンカーンの法定通貨の無力化が、政府組
 織ではない手によってなされた。
  ロンドン・シティやウォールストリートの銀行家たち
 は、ち密な工作を着々と進めた。
  1875年、正貨回復法を成立させた。
  そして、金(ゴールド〉のみを正貨とした。
  そして、銀(シルバー)硬貨を廃止する様にした。
  その後、持っていた財務省証券をアメリカ政府に買い
 取らせた。
  金(ゴールド)が手に入るように要求した。
  アメリカ財務省の保有する金はショートした、金は無
 くなった。
  1883年に、金融パニックが、アメリカに発生させられ
 た。
  この機に乗じて、彼らの銀行家は、金融を引き上げて、
 そして、新規貸し出しを縮小させた。
  ここで、アメリカは、史上最悪の金融恐慌が起こされ
 てしまった。
  さらに、イギリスは、植民地のインドに、「コイン鋳
 造用の銀の受け取りの拒否をさせた」・・
  この事によって、完全に、銀に、正貨の地位を失わせ
 させた。
  銀の価値を完全に失わせ・・金(ゴールド)のみが価
 値を持つ世界を作ってしまった。
  1900年、アメリカは、やむなく金本位制を成立させた。
  この様な状況の中で、アメリカの財務省の金保有は減
 った。
  リンカーンの法定通貨は、その裏付けを失わせられて
 行った・・
  逆に、金を大量に保有しているイギリスの銀行家の力
 は強まって行った。
  当然の結果、アメリカ金融は、イギリスの影響下に置
 かれて行った。
  アメリカ財務省は、必死に抵抗するが、金融パニック
 を再び起こされた。
  これで万事が窮することとなった。
  1907年、ニューヨークの中堅銀行が倒産に追い込まれ
 た。
  ウォールストリートの財閥系銀行がやった・仕組んだ
 のだという噂が立った。
  そして、金融恐慌が起こされた。
  アメリカは屈服した。
  モルガンやロックフェラーなどの財閥とつながるアメ
 リカ大統領のセオドア・ルーズベルトは、反トラスト法
 の停止を宣言した。
  恐慌はおさまった。
  この後、財閥は、さらに、市場独占を強めた・・
  そして、より大きな支配力を持って行った。
.
1878年、アメリカに、銀の購入を義務付ける法(ブランド・
 アリソン法)が成立した。
  アメリカに、自由銀運動(Free Silver Movement)が
 あった。
  アメリカ西部の銀産出州の利害も、また、反映された。
  その結果、自由銀運動によって、連邦政府に、毎月一
 定額の銀の購入を義務付けるブランド・アリソン法が、
 1878年に、成立した。
  さらに、その2年後の1880年には、シャーマン銀購入法
 によって、ブランド・アリソン法の2倍の銀の購入が、財
 務省に課された。
  その支払いには、財務省紙幣(treasury notes)が発
 行されるべきだとされた。
  これが意味する事は、アメリカ財務省は、アメリカで
 産出する銀のすべてを購入することになり・・
  その購入額分の紙幣が発行されることで、通貨膨張が
 避けられないということになった。
  そして、クリーブランド大統領による「銀購入法の撤
 廃」に至る。
.
1913年12月23日、アメリカに設立されたFRBは、民間銀
 行となってしまった・・アメリカ政府は『一株も持って
 いない』。
  (参考)FRB:連邦準備制度理事会 (Federal Reserve
     Board) の略で・・、
      主要都市に散在する12に分かれた地方の連
     邦準備銀行を統括する。
      予算の割り当てや人事の干渉を受けない。
      そして、最悪なのは監査制度もなく、活動実
     態の情報公開もなされない。
  最も力を持つニューヨーク連邦準備銀行の株主は・・
  ロスチャイルド銀行(ロンドン)、
  ロスチャイルド銀行(ベルリン)、
  ラザール・フレール(パリ)、
  イスラエル・モーゼス・シフ銀行(イタリア)、
  ウォーバーグ銀行(アムステルダム)、
  ウォーバーグ銀行(ハンブルク)、
  クーン・ローブ商会(ニューヨーク)、
  ゴールドマン・サックス(ニューヨーク)、
  チェース・マンハッタン銀行(ニューヨーク)、
  これらの国際主義の外国銀行が、「利子の利益を得る
 株主」となっている。
  これ等の株主は、無国籍のユダヤ系と言える・・
  また、歴代のFRB議長もユダヤ系が続くという状態。
  FRBの設立とともに、「連邦所得税法」が成立した。
  これは、アメリカ国民の方々の所得税によって返済が
 担保される様になった。
  絶対に「とりっぱぐれが無い」という状態。
  これは、やはり、アメリカ国内で「憲法違反」ではな
 いかと「ひと悶着」となった。
  紙幣の発行・・通貨が発行されると、利子や手数料が
 自動的に転がり込むというシステムで・・大儲け状態と
 なった・・
  アメリカは、自国の通貨を発行するたびに、アメリカ
 財務省が、民間銀行の株主に金を払う(利子を払う)と
 いう「おかしな形」となっている・・??
  また、アメリカは、「通貨供給量の生殺与奪の魔法の
 力」が握られている。
  そして、これが、アメリカの財政赤字の原因の一つと
 なっている。
.
1918年11月11日、第一次世界大戦の休戦協定が、連合国と
 ドイツの間で締結された。
  この日の休戦協定が成立する約2年前の1916年12月30日、
 早くも、仏首相のブリアンは、連合諸国を代表し、大戦
 終結後の欧州新体制を律する原則が、次のようなもので
 ある事を、当時まだ中立国であったアメリカ政府を通し
 てドイツ・オーストリア側へ伝えた。
  1、侵害された諸国民の権利への補償、
  2、諸民族と少国家の自由な存立、
  3、諸国家に対する脅威の恒久的な防止、
  4、世界の安全確保のための効果的保証、
  これ等の原則で、大戦終結後に、民族自決権の確立、
 ドイツへの賠償要求、国際連盟の設立として具現化され
 た。
  しかし、ドイツ・オーストリア側は、この和平提案を
 拒否した。
  さらに、1917年1月10日、ブリアンは、再び、連合諸国
 を代表し、上述の原則をさらに具体的に表現した、対独
 要求を含む次の8項目からなる文書を、アメリカ大統領の
 ウィルソンに伝え、同意を求めた。
  1、ベルギー、セルビア、モンテネグロの回復と、その
   損害補償、
  2、フランス、ロシア、ルーマニアの侵略地域からの撤
   退とその損害補償、
  3、欧州の再編成。諸国民、諸民族の権利の尊重。不正
   な侵略に対して国境・領海を保障する領土協定と国
   際規約の設定、
  4、住民の意思に反して武力により奪われた連合諸国の
   領土回復。
  5、イタリア人、スラブ人、ルーマニア人、チェコ・ス
   ロバキア人を外国人による支配から解放。
  6、トルコ人の残酷な暴政下にある民族の解放。西洋文
   明とは異質なオスマン帝国を欧州から追放。
  7、ロシア皇帝によるポーランド解放宣言の確認。
  8、連合諸国側は、ドイツ民族の絶滅や政治的消滅の意
   図を有しないこと。
.
1920年代、「アメリカは、民主主義国家だ」は、作られた
 幻想。
  「アメリカは、民主主義の国だ」は、作られた幻想で、
 洗脳された思い込み・・
  これ等の思い込みは、「金」と「情報」を使って操作
 された洗脳の結果で・・
  この様な事は、1920年代に、既に、リップマンやバー
 ネイズは、「アメリカの民主主義の幻想」に気付いてい
 て、「錯覚の世界に生きていて、それに洗脳されている」
 と見抜いた。
  世論操作が始められている・・
  今・現代、中国が、盛んに金を使って情報操作をして
 いるが・・
  アメリカを初めて明確に「民主制の国」であるとした
 のは・・アレクシス・ド・トクビルだった。
  また、アメリカの支配勢力が、「民主主義を用いて人々
 を支配し、利用するために使っている」とも言われてい
 る。
  また、「民主主義の革命的技法」を使えば、「合意の
 でっちあげ」ができると・・リップマンは主張した。
  宣伝工作技術を駆使すれば、「人々が本来望んでいな
 かったことについても、同意を取り付けられる」という
 意味の事を言った。
  リップマンは言う・・
  第一の市民階級は、専門知識を持つ特別階級で、政治・
 経済、イデオロギーのシステムにおける諸問題の分析、
 実行、意思決定、管理を行っている。
  これらの人々は、人口のごく一部でしかない・・
  しかし・・この特別階級から漏れた人々・・すなわち、
 人口の大部分を構成する多くの人たちは、「とまどえる
 群れ」(戸惑う人たち)・・と称した。
  この様な人たちが、「大多数の意見を構成する」。
  リップマンは、この人たちを「観客」にはなるが、行
 動には参加しない・・と説明した。
  選挙において、観客は、一旦、誰かを支持し、そして、
 後は、また、観客に戻って傍観する・・と・・
  だから・・とまどえる群れを飼いならす事だ・・と・・
  また、とまどえる群れに激高を起こさせてはならない・・
 横暴を許してはならない・・不都合なことを起こさせて
 はならない・・と・・
  アメリカの大統領選は、「金が続いたものが生き残る」
 と言われている・・
  そして、それが、「合意のデッチアゲ」の「民主主義
 が行われた」という満足の結果だと・・これが実態だと・・
  リップマンは、彼の代表作と言われている「世論」(
 1922年)で、「民主主義の基盤となる国民の世論が、マ
 ス・メディアの圧倒的な影響力の下にある」ということ
 を指摘した。
  マス・メディアによって世論は操作されている。
  その様な所から形成された民主主義社会が実態・・
.
2019年、「違い」こそが、豊かさを生む。
  「違い」こそが、歓迎すべきところなのだ。
  豊かな差異・「違い」から、人類の幸せが生まれて来
 る。
  「違い」をことさら言い立てて、糾弾すべきものでは
 ない。
  「違い」を愛(め)で、「違い」を味わい、幸せを感
 じ、皆とその「違い」があることを喜び合わなければな
 らない。
  「違い」を指摘し、言い立てて、糾弾し、「異端」を
 追求し、殺した・・キリスト教。
  異端審問・・そして、「異教徒は殺せ」の教義を存在
 させている・・この様になってはならない。
  キリスト教の「異教徒は殺せ」の教義は大きな間違い
 である。
  人類、最大の間違いの教義・教えである。
  この洗脳によって・・何と多くの人々が殺され、殺し
 合って来たか?
  多様な違いの中に「豊かさがあるのに」。
  多様な違いが、互いに調和して人類を幸せに存続させ
 て来ている事に感謝せよ・・その喜びを感謝し、享受せ
 よ・・
  多様な多神の中に存在する「喜び」に感謝しなければ
 ならない・・多神に感謝の気持ちで祈れ・・
  他を排除する一神ではない・・他を排除する戦争の神
 ではない・・
  慈悲ある多神の中に人類の幸せがある。
  智慧ある多神の存在、その他の存在に感謝する・・大
 きな気持ちとなれ・・
  グローバル化が良いのだと、一神の、一色共通の、他
 を否定する・・また、人種のるつぼで一色にすることが、
 良いのではない。
  るつぼに突っ込んで同じの一つになるのが・・良いの
 ではない・・
  違いの中に、「その豊かさを求めて行く世界」でなけ
 ればならない。
.
2019年、「友好親善」は、結局、絵に描いた餅になると歴
 史が示す・・だから「友好親善だけでは駄目」。
  外交のすべてが、友好親善で事が処せれば、外交なん
 て優しい仕事・・
  肝心な外交項目は、そんな生易しいものではない。
  肝心の外交は、大人の駆け引きの世界。
  友好親善なんて言っていたら、付け込まれて、ほぞを
 かまされるだけ。
  結局、ぎりぎりのところを戦う。
  どこかで踏みとどまって戦わないと同盟国にも見捨て
 られる。
  ハンス・モーゲンソーは、同盟について・・、
  「お互いに何らかの意味で強い国どうしでなければ(
 同盟関係なんて)意味がない」・・と言い・・
  「ぶら下がるだけの同盟国は捨てられる」と言ってい
 る。
  日本の「友好親善」は、結局、お坊ちゃま的なのか・・
 駄目となるのか・・、
  また、「貢ぐのでも駄目」・・
  金と譲歩の安易な外交だったら、「日本の未来はない」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)641E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

2019-04-20 04:46:38 | 日記
題:(増補版)641E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月24日、航海奨励法と造船奨励法のそれぞれが公布
 された。
  航海奨励法は、日本船の遠洋航海促進を目的に制定さ
 れた。
  総トン数1000トン以上、最大速力10ノット以上、船齢
 15年以内の鉄鋼船に一定率の奨励金を支給するようにし
 た。
  これによって日本郵船は、ヨーロッパ・北米・オース
 トラリア航路へ進出した。
  また、東洋汽船も、サンフランシスコ航路を開設した。
  また、造船奨励法は、国内の造船保護の法令で、イギ
 リスとの生産力の格差は大きかった。
  建造原価が割高であった国内造船所に補助金を出して、
 発注増による造船業発達を企図した。
  補助金は700総トン以上(のち1000総トン以上)の船の
 建造、自製エンジンに対し支給した。
  海運業界は、コスト競争の為、船舶は輸入に依存して
 いて、その為、日本の造船業の発展は阻まれていた。
  しかし、この法律で、この様な状況が一転した。
  因みに、日本は、第1次大戦中の造船ブームで造船技
 術は国際水準に達した。
.
1896年3月24日、市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法を
 公布した。(3月23日説あり))
  第一条 市町村立尋常小学校及高等小学校ノ正教員及
     准教員ニシテ五箇年以上同一学校ニ勤続スル者
     ニハ国庫ヨリ年功加俸ヲ給ス
  第二条 年功加俸ハ五箇年勤続シタル者ニ本俸ノ百分
     ノ十五ヲ給シ後五箇年ヲ加フル毎ニ更ニ百分ノ
     十ヲ加ヘ百分ノ三十五ニ至リテ止ム
  以下・・略
  内閣総理大臣臨時代理、枢密院議長:伯爵.黒田清隆
             大蔵大臣:子爵.渡辺国武
             文部大臣:侯爵.西園寺公望
.
1896年3月26日、衆議院議員・福田久松ほか1人、「鉄道建
 築規定ニ関スル建議案」を議会に提出し、衆議院本会議
 で可決した。
.
1896年3月27日、大阪砲兵工廠が、塩基性平炉(3トン)の
 操業を開始した。
  大阪砲兵工廠は、大阪府大阪市にあった大日本帝国陸
 軍の兵器工廠(造兵廠)。
  大口径の火砲を主体とする兵器の製造を担ったアジア
 最大規模の軍事工場だった。
  また、技術水準もトップクラスだった。
  日本の陸軍の建設の指揮を揮った兵部大輔・大村益次
 郎の建言により設置が決まった。
  1870年、幕府の長崎製鉄所の機械や技術者、および、
 職工を移設して新設された。
  当初の敷地は、大坂城三の丸米蔵跡地だけだったが、
 その後、拡張されて行った。
  因みに、最大の行員数は、1945年8月に、6万4000人で、
 関係の民間工場の従業員は、約20万人で、火砲、戦車、
 弾薬類を開発し、製造した。
  1945年8月14日の大空襲でその機能のほとんどが破壊さ
 れた・・その時の戦死者382名(近隣の犠牲者は不明)
.
1896年3月27日、アメリカが、朝鮮の雲山の金鉱採掘権や
 京仁線の敷設権、そして、漢城の電灯・電話・電車の敷
 設権を取得した。
  李氏朝鮮は、為政者の権力闘争なども激しく、末期的
 な状況だった・・追放・失脚・暗殺も繰り返された。
  国の大切な権益を売り払っていて、アメリカをはじめ、
 ヨーロッパ諸国・ロシアなどは「草刈り場」のように反
 植民地状態」に置いていた。
  産業基盤もほとんどなく、500年も続く清の冊封体制下
 に沈んでいた。
  その様な中、日本と同様に、欧米列強と不平等条約を
 結ばされてもいた。
.
1896年3月28日、登録税法・酒造税法・営業税法・葉煙草専
 売法のそれぞれを公布した。
  明治時代初期には、税収に占める地租の割合が圧倒的
 であったが・・、
  その後、1899年(明治32年)には、酒造税が税収に占め
 る割合がトップに立つ(28%)。
.
1896年3月29日、横浜港に中国人のペスト患者が上陸した。
  これが、日本に初めての「ペスト」の上陸だった。
  横浜港に入港したアメリカ船籍ゲーリック号の乗客の
 一人(外国人)が病気のため下船し、市内の病院に入院
 した。
  この患者は、容態が急変して4月1日に死亡する。
  検査が行われたところ、「ペスト」と判明した。
  ネズミとノミを媒介し伝染するペスト・・幸運にも、
 この時は、大流行はしなかった。
  この頃、19世紀・・「ペスト」はパンデミック(世界
 的感染)の真っ最中で・・国家存亡に関わる重大事件と
 なっていた。
  これまで、幸い、「ペスト」は、日本では発症してい
 なかった。
  それ故、国内に病原菌を持ち込まないよう「検疫体制」
 の確立が急がれていた。
  ペストのパンデミック(世界的感染)は、史上3回起っ
 ていた。
  そして、三回目の世界感染は、アジアから起った。
  香港、広州で大流行して、1894年頃には、8万人〜10万
 人の死者が出たと推計されている。
  その後、全世界に広がり、1903年〜1921年の20年間で
 ペストによる死亡者は、1,000 万人を越えたとされてい
 る。
  この時期に、日本の各港が開港していて、その危険性
 が増していた。
  横浜にペストが初めて上陸したが、初めて感染した日
 本人も、横浜に住む沢田松五郎(23歳)だった。
  この人は、1899年11月に、中国から帰国し、門司港で
 下船し、広島で発病し、亡くなった。
  記録で、真性ペスト第一号とされている。
  1902年、横浜市内で、初めて流行が確認された。
  1894年、北里柴三郎は、第3回の世界流行のさなか、香
 港でペスト調査を行い、ペスト菌を発見した。
  因みに、同行した研究員は、ペストで亡くなった。
  (参考)最初のペストの世界的流行は、6世紀~7世紀
     の東ローマ帝国における流行で、「ユスティニ
     アヌスの斑点」と呼ばれた。
      二回目の流行は、14世紀、ヨーロッパで発生
     して世界へ広がった。
      全世界で、およそ8,500万人、当時のヨーロッ
     パ人口の3分の1~3分の2、約2,000万人~3,000
     万人が死亡したと推定されている。
.
1896年3月30日、製鉄所官制が公布した。
  この前年の1895年に、製鉄事業調査会を設置され、そ
 して、この製鉄所官制が公布され・・
  八幡製鉄所が、この製鉄所官制に基づいて、福岡県遠
 賀郡八幡町に、官営の製鉄所として設置された。
  この年の第9回帝国議会で、官営製鉄所建設案が可決し、
  1897年の翌年、筑豊炭田を後背に抱える福岡県八幡村
 枝光に建設が開始された。
  ドイツ人の御雇い外国人グーテホフヌングスヒュッテ
 が、設計から建設までを担当した。
  1899年に、中国湖北省ターイエ(大冶)鉄鉱山の鉄鉱
 を原料とする長期契約が結ばれた。
  1901年2月5日、東田第一高炉で火入れが行われ、操業
 が開始された。
  日本初の銑鋼一貫製鉄所(→銑鋼一貫作業)としての
 操業開始。
  因みに、八幡製鉄所は、1887年から操業を続ける釜石
 鉱山田中製鉄所に続く、日本国内で2番目の製鉄所。
  そして、先に国内初で成功を収めていたこの釜石鉱山
 田中製鉄所から選抜派遣された7人の高炉作業者が派遣さ
 れている。
  同年・1897年11月18日、東京から多数の来賓を迎え、
 作業開始式が祝われた。
  日露戦争後、飛躍的発展を遂げ、北九州工業地域の主
 要工場となった。
  操業の十数年後、全国生産の 7~8割を占める。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教よ! 日本を貶める行為を止めなさい。
    嘘のデッチ上げで、日本を貶めるな!
.
紀元前3万8000年、人類の居住の始まり
     ・
     ・
紀元前488年、レオニダス一世が即位した。
  レオニダス一世は・・歴史に名を残す知性ある王。
  古代ギリシャのスパルタの王であり、ギリシャ人の方々
 が誇りとしている英雄。
  この王には、二人の兄が居たがこの二人が亡くなった
 ため王位に就く運命となった。
  そして、ペルシャ戦争を戦うことになる。
  紀元前5世紀、この王は、その才能のゆえにかペルシャ
 戦争の歴史書を書いている。
  この事から「歴史の父」とも言われる。
  また、知的好奇心からか?この王は、南イタリアを訪
 れたり、エジプトのピラミッドを見物したりしている。
  世界周遊の探検旅行家でもあった。
  この王の立派だったことは、このペルシャ戦争につい
 ての記述で、敵将を褒め、また、敵兵を褒めた。
  「敵将と言えども立派に戦って死んだ者であれば、そ
 の将兵へあからさまな侮辱を加えることは無かった」。
  この対極にある卑劣な行為をしたのが第二次世界大戦
 におけるアメリカだった。
  アメリカは、東京裁判で裁くべき法律が無いのに、後
 から法律を新たに作って「日本の将兵を罪に落とした」。
  「無罪の人間を死刑にしてしまった」。
  レオニダス一世は、生年不詳で、紀元前488年に即位し
 た。
  紀元前480年のペルシャ戦争は、ギリシャ連合軍を率い
 てテルモピュライに布陣し、アケメネス朝ペルシャの大
 軍を迎撃した。
  粘り強く戦い、最後に残ったスパルタ兵300人と共に戦
 死してしまった。
.
紀元前480年8月、テルモピュライの戦い。
  ペルシャのとてつもない大軍団が、ギリシャへ攻めて
 来る・・
  ギリシャのスパルタ王・レオニダス一世は・・、
  ペルシャ王クセルクセスが、大遠征軍を率いてギリシ
 ャの北方に迫った時、これを迎え撃とうと、ギリシャ軍
 をテルモピュライという狭隘(きょうあい)な峠に陣ど
 らせた。
  そして、100万を超えるともいわれる大軍勢を待ち構え
 た。
  これはオーバーに誇張された人数だとされるが、僅か
 7000人足らずのギリシャ重装歩兵連合軍は、この様な状
 況に、恐怖のどん底にあった。
  撤退を口にする者もあった。
  その様な撤退希望者には、レオニダス一世は、それを
 認めた。
  ギリシャのスパルタ王レオニダス一世は、部下300人と
 この地に踏みとどまった(ギリシャ側総数は7000人とす
 る説もある)
  残ったスパルタ兵は、選りすぐりの兵だった。
  ペルシャ王は、斥候を出し、ギリシャ軍の動向を探ら
 せた。
  すると、スパルタ兵は、体育に精を出し、櫛(くし)
 で頭髪を手入れするのに余念がない・・という報告を受
 けた。
  生死を賭した決戦の前の態勢とはほど遠いと思った・・
 そして、いずれ、逃げ出すに違いないとペルシャ王は思
 った。
  しかし、5日目が来ても、撤退する気配はまったくなか
 った。
  怒ったクセルクセスは、「スパルタ兵を生け捕りにし
 ろ」と命じ、外国人部隊に襲撃させた。
  しかし、スパルタ兵は手ごわく、ペルシャ兵の被害は
 甚大だった。
  こうなったらと、「エリート軍団」の「不死部隊」に
 攻めさせた・・
  しかし、戦果は上がらなかった。
  スパルタ軍は戦術に優れていた・・敗走するように見
 せかけ、必死に追いかけ、その敵兵が追いつく頃、一斉
 反撃をした。
  狭隘な峠にも抜け道があった。
  この道がペルシャ側に知られてしまう・・
  逆に、スパルタ兵が、ギリシャ兵の背後にまわり、ペ
 ルシャ軍は、ギリシャ軍の前後を挟んだ態勢を作った。
  それでも、レオニダス一世の精鋭の兵士は、出撃して
 行って、戦いに戦った。
  ペルシャ兵の大軍の放つ矢は、雨の如く、また、嵐の
 如く降り注いだ。
  さすがのスパルタ兵も力が尽きた・・
  しかし、ペルシャ兵の戦死者も、夥(おびただ)しか
 った。
  戦いが終わった戦場に出たペルシャ王クセルクセスは、
 レオニダス一世の遺骸に出くわすと、八つ裂きにして首
 をはねさせた。
  そして、木に吊るして、さらし首にした。
  戦死者を丁重に扱うペルシャ人の慣例に反することを
 行なった。
  それほど、クセルクセスの憤りは激しく、怒りが抑え
 難い状態だった。
  それほど、レオニダス一世は、少人数ながらも華々し
 く果敢に戦ったのだった。
  クセルクセス王は、兄弟を二人戦死させている。
  レオニダス一世のその統率された精鋭部隊の勇気から
 出た「大いなる戦い」が讃えられている。
  因みに、ペルシャ陸戦部隊(ウィキペディア)は・・
  歩兵...................................1,700,000
  騎兵......................................80,000
  アラビア人のラクダ部隊・リビアの戦車部隊..20,000
  ヨーロッパよりの歩兵.....................300,000
   合計.................................2,100,000
  この後、歴史上では、この戦いが生かされて、サラミ
 ス海戦(紀元前480年9月)で、ギリシャ艦隊(アテネを
 中心とする戦力)がペルシャ大艦隊を撃破する状況が起
 きる。
     ・
     ・
1868年3月、戊辰戦争の新政府軍が、横浜に到着した。
  1868年の江戸から明治に代わる頃、横浜の外国人居留
 地の門は、外国人兵士が守るという関門になっていた。
  1868年3月、戊辰戦争で、東海道を進んで来た薩摩と長
 州の軍は・・横浜に到着した。
  しかし、外国人軍隊が駐屯する開港場では戦闘は発生
 せず、戦いは起きなかった。
  この翌月の4月には、横浜は、佐賀藩を中心とする新政
 府軍によって平和裡に接収された。
  また、この頃、横浜では、奥羽の大名が、戦艦や武器
 を購入したりするという、横浜はその様な状況の中にも
 あった。
  また、横浜の病院には、戊辰戦争の重傷者が、前線の
 病院から担ぎ込まれたりしていた。
  幕府と関係した周辺の庶民が、その様な横浜に用事で
 訪れたり、また、新政府と関係する庶民も訪れるという
 戦闘の無い横浜であった。
  戊辰戦争の敵・味方・・その関わりの中の横浜であっ
 た。
.
1873年2月24日、キリスト教の禁止が撤廃された。
  明治6年のこの年になって、太政官布告によりキリシタ
 ン禁制の高札が撤去された。
  しかし、それよりずーっと以前の1858年に、江戸幕府
 は、開港場居留地において、外国人の信仰の自由を認め
 ている。
  また、宣教師の来日も許可している。
  キリスト教は、過酷なキリスト教の取締りが行われた
 と、ヨーロッパと同様な卑劣な弾圧が日本でも行われた
 とプロパガンダするが・・江戸時代の初期の一時期だけ
 が厳しいという日本だった。
  実態は、上記の信仰の自由の令だけではなく、『実際
 の取締りが行われていない』という状態だった。
  各藩においても、キリスト教の信仰がたとえ知られて
 も、見て見ぬ振りをする状況の中において、何ら取り締
 まりは行われていなかった。
  しかし、キリスト教の教義の中には「殉教」を讃美す
 る言葉があり、日本での取り締まりも、厳しい状況であ
 ったと、殉教があったと・・仕切りに過酷に表現した。
  このキリスト教禁止が撤廃される260年間の間、日本で
 は過酷な弾圧が行われたとキリスト教はプロパガンダ(
 嘘宣伝)をして、日本だけではなく世界に間違った印象
 を与えている。
  この禁止撤廃がなされる前にも、実態は、しきりに宣
 教師が江戸入りして居たり、教会が建てられたりもして
 いる。
  このキリスト教禁止の撤廃は、「法のけじめ」をつけ
 るためにやっただけの事で、キリスト教が言う「それま
 で厳しく取り締まった」というのは『嘘のプロパガンダ』
 である・・キリスト教は嘘で日本を貶める行為は止めな
 さい。
  また、「隠れキリシタン」と言ったって、牧師も神父
 も居ない中で、「隠れキリシタンと言われる人たち」が
 近所の神社・仏閣にお参りする人たちを「隠れたキリシ
 タンだ」と言えるか・・言えるわけはない。
  信仰の実態も、キリスト教からかけ離れた状況になっ
 ていて、「もう、別の宗教となっている」・・キリスト
 教の存在が殆どない状況となっている。
  一生懸命、キリスト教の面影(おもかげ)を探すが、
 その点を拡大し、誇大に表現しているが、それが隠れた
 キリシタンだという言い方をすることは間違っている。
  キリスト教は、隠れキリシタンだとしたいため、仕切
 りにキリスト教への入信を勧めるが、村の古老が「我々
 のやり方とは、違う」とはっきり断っている。
  その古老の心には、キリスト教に対して、明らかに、
 「我々とは違う宗教だ」と言っていることになっている。
  それを、無理に、キリスト教への入信を勧める行為を
 するキリスト教は、「新たな宗教弾圧を行なっている状
 況になっている」。
  最近は、けばけばしいキリスト教の聖職者の服を着て、
 その方たちの儀式へ参列したりしているが、キリスト教
 から離れて『別の宗教となっている宗教』への強制的参
 入をしている状態となっている。
  キリスト教の専門解説書にも、「260年間の断絶の上の
 発見は、世界史的にも特異である」と解説している様に、
  「その特異なもの」を、美しく、自分たちに都合のよ
 い状況の捏造をしているのである。
  そして、キリスト教は、「260年間、耐えて来た」と説
 明しているが、耐えても何もない状況を仕切りに悲惨な
 状況を印象付けている・・それなりの宗教を作って来て
 いるだけなのだ。
  明らかに、その実態は、神道や仏教や呪術と合体した
 「キリスト教とは、まったく別の宗教」なのである。
  キリスト教徒の研究者の片岡弥吉という人でさえ「政
 治、社会、宗教などの異常な環境条件がいかに人間の思
 想や信仰まで異常化させるか」と述べている様に、『異
 常化』と表現する様に「別の状態になっている」のであ
 る。
  日本の宗教が異常とは言えないが・・年月がその様に
 変えてしまったのである。
  そこを、美しく書いて世界遺産へ申請して・・、
  今回、世界遺産となったが・・??
  日本のキリスト教の申請を許可する世界のキリスト教
 社会は、前回は却下したが、今回このデッチ上げを取り
 上げたのだった。
  日本には皆無だった弾圧の虚像が作られようとしてい
 る(当初のほんの一時期だけなのである)
  「日本を植民地化する」という方針のキリスト教が、
 その実態を知った日本の統治者(秀吉や徳川幕府)が、
 日本の法に従わないキリスト教宣教師たちの取締りを強
 化したことが拡大表現されしてプロパガンダされている。
  また、日本で行ったキリスト教の弾圧行為の絵だと卑
 劣な状況を作った絵を・・、
  そして、誰が書いたかわからない絵を、最近は、とっ
 てつけた様な「真実そうな解説」を付けて、仕切りにプ
 ロパガンダしている・・やることが卑劣である。
  実態を見ていない空想の絵を、さも見た者が居て描い
 たのだなどとの嘘のプロパガンダなどが行われている。
  それが、大学という学術的な場所で、キリスト教系の
 教職員によって嘘講義が行われている・・大学の権威失
 墜行為を行っている。
.
19世紀末、ロシアが極東に達し、南下し、中国を侵略する。
  そして、朝鮮半島を侵犯しながら、日本とも軋轢を生
 む・・
  ロシアと、あちこちで衝突していたイギリスは、この
 ロシアと日本が戦うように行動した。
  戦いとなってロシアが敗ければ、イギリスの目的は果
 たせて都合は良くなるのだった。
  イギリスの中国利権を侵食するロシアへ打撃を与える
 目的もあった。
  この頃、イギリスは、チベットやウイグルやネパール
 で、このロシアと凄(すさ)まじい戦いをしていた。
  だから、この様なロシアが、日本と戦うことは、イギ
 リスにとって好ましいことだった。
  そして、日露戦争が起きる。
  日露戦争を戦った日本は消耗したが、力を付ける状況
 にもなった。
  欧米列強と伍す(ごす、他と同等の位置に並ぶ)状況
 となった。
  衰退する日本ではなかった。
  この様な日本とアメリカは満州でぶつかる・・アメリ
 カは満州の利権が欲しかった。
  また、同様に、ドイツも、中国の利権漁りに暗躍する。
  このドイツは、イギリスとぶつかった。
  イギリスは日本と、1902年、日英同盟を結んだ。
  まだ、この頃のアメリカは、イギリスの下にいた。
  日露戦争まで、アメリカは親日的だった。
  日本は、日露戦争後、アメリカがあれほど嫌日政策を
 とるとは予想できなかった。
  ここから、方向転換がなされて行く。
  この後、日本は、イギリスとの同盟関係も無くなって
 行く・・ここでアメリカが色々と工作し行動した。
.
1936年7月18日、スペイン内戦(~1939年3月)
  この5か月前の1936年2月16日に、スペインで総選挙が
 行なわれた。
  その結果、共和主義者や社会党、そして、共産党の協
 力による人民戦線が、右翼の国民戦線に対して勝利した。
  そして、1936年2月19日、選挙に勝利した共和主義者が
 中心となって、アサニャを首班とする人民戦線政府を成
 立させた。
  この左翼政権は、ソ連が支配している赤色政権だった。
  この様な結果は、1931年の第二共和政の成立以来、激
 しくなっていた国内の政治的対立を、ますます激しくし
 た。
  選挙に勝利した人民戦線政府は、2年前の1934年10月の
 反ファシスト政府蜂起における政治犯の釈放や、農地改
 革、カトリック教会の特権の縮小などを課題とした。
  しかし、大衆は、さらなる徹底した社会変革を望んで
 いた。
  特に、スペインにおいて強力であったアナキスト系の
 労働者や農民は、人民戦線政府の意向を越えて・・革命
 化していた。
  これに対して、自由主義的な中間層や社会党・共産党
 の指導下にある労働者などは、人民戦線政府に協力する
 態度をとっていた。
  一方、大資本・地主・キリスト教会を基盤とする右翼
 諸勢力は、軍部を中心として秘かにこの政府の打倒計画
 を進めた。
  革命の陰謀は、フランコらの何人かの将軍を指導者と
 して練られた。
  1936年7月17日のモロッコにおける駐屯軍の蜂起を機に、
 その翌日の1936年7月18日に、軍部が、スペイン各地で反
 乱を起こした。
  この時、フランコは、カナリア諸島からクーデターの
 宣言を放送した。
  反乱は、短期決着を狙ったクーデターとして始まった。
  しかし、労働者の抵抗など、人民戦線政府側の反撃に
 あって、このクーデター計画は失敗した。
  ここで、フランコは、指揮下に、モロッコを拠点にし
 た反乱軍を確保し、ドイツとイタリアの援助も受けて、
 本土に上陸した・・
  フランコ将軍は首都へ進軍した。
  ここから長い内戦が始まった。
  ソ連は、当然のごとく政府側を支援し、政府側は、ま
 た、国際義勇軍の支援も受けた。
  一方、ドイツとイタリアは、フランコ将軍の革命軍側
 に協力した。
  この状態で、イギリスとフランスは、政府側についた。
  イギリスは、ソ連と共同戦線を張った。
  スペインが戦場のこの内戦で、イギリスとフランスは、
 ナチス・ドイツと戦った。
  これで、イギリスとフランスは、『徹底的に』、ドイ
 ツとイタリアと対立した。
  ここに、第二次世界大戦の芽が生まれた。
  スペイン内戦は、結局、ドイツとイタリアの援助を受
 けた軍部・右翼勢力が勝ち、フランコ将軍の独裁体制が
 成立した。
  そして、フランコ将軍が死去する1975年まで独裁政権
 を維持した。
  この内戦は、ピカソの絵画「ゲルニカ」のモチーフに
 なった。
.
1946年11月12日、閣議で現代かなづかいを決定(アメリカ
 の指図)
.
1946年11月15日、アメリカの日本語の破壊行為
  脅威の芽を日本から摘み取るという名目で、GHQが
 行った日本の文化破壊・・その一つである日本語の「国
 語破壊」。
  これは、『改革』という美しく聞こえる名目で始めら
 れた。
  GHQが実施したのが、国語改革・・
  やり方は・・内閣告示という形で、日本人が自ら行っ
 た様に見せかけた。
  1946年(昭和21年)11月15日、内閣訓令第七号「当用
 漢字表の実施に関する件」、第八号
  「現代かなづかいの実施に関する件」
  江藤淳氏は、この国語改革を以下の様に批判した。
  『漢字制限をおこない、表音的かなづかいを強制する
 ということは、アメリカの占領者の側から見れば、日本
 語を少しでも素通しに近いものに変形させ、アメリカ人
 に習得しやすいものにするにとどまらず、それによって
 日本語の周辺に漂っていると思われた神秘的な要素を、
 一挙(いっきょ)に洗い流してしまうことをも意図して
 いた」。
  (参考)江藤淳:えとうじゅん、1932年12月25日~1999
     年7月21日、神奈川、鎌倉、評論家。
      東京工業大学、慶應義塾大学教授等を歴任、
      本名:江頭淳夫。
      1957年、慶應義塾大学英文科卒業。在学中、
     胸を病む。
      1976年、芸術院賞受賞。日本文芸家協会理事
     長などを歴任。
      1998年、妻慶子に先立たれ、亡くなるまでを
     綴った手記『妻と私』を発表、その後自殺した。
      代表作:『奴隷の思想を排す』(1958年)
          『小林秀雄』(1961年)
          『成熟と喪失』(1967年)
          『海は甦える』(1976年)
          『漱石とその時代』(1970年、未完)
      主な受賞歴:新潮社文学賞(1962年)
            菊池寛賞(1970年)
            野間文芸賞(1970年)
            日本芸術院賞(1976年)
            正論大賞(1997年)
  その結果・・どういうことが起きたか・・
  漢字及び仮名遣いの両面において・・、
  大東亜戦争以前の日本の言語文化は、戦後の言語文化
 と制度的に切り離されることになった。
  豊かな日本語・・その言葉に内包する日本人の情念や
 意志も、その連続性が断たれることとなった。
  江藤教授は・・
  「『言葉』の変質とは、単なる言い換えにとどまりは
 しない」、
  「変質させる側からいえば夥(おびただ)しいエネル
 ギーを奪取することであり、変質される側にとってみれ
 ば際限もない脱力感を経験させられること」で・・、
  「『大東亜戦争』が『太平洋戦争』と言い換えられた
 とき、『大東亜戦争』のために傾注されて来たあらゆる
 エネルギーは、一挙に空無化され」・・、
  「そのあとには果てしない徒労感のみが残る。
  一方、かつて『太平洋戦争』を戦ったことがない日本
 人が、『太平洋戦争』という記号に自己の経験を重ね合
 わせることは、きわめて困難だといわなければならない」
  『自由と禁忌』と江藤淳教授述べた。
  歴史的仮名遣いは、使う人の趣味やある種の芸術性の
 有無の問題などではなく、
  日本人の「国語」としての成り立ち、合理性、わかり
 やすさの問題で・・
  それは、今日、生きている日本人の歴史的財産である
 はずで・・
  それを排除されてしまっては、日本の文化遺産に触れ
 ることも、過去の日本人の心情を理解することもできな
 くなってしまう・・
  そういう畏れを持ちたかった・・
  「守るべきもの」を、「失いつつあること」を自覚す
 る、その痛みを感じる・・
  福田恆存の次の言葉を・・
  「言葉は、私達の生まれる前から存在し、長い歴史を
 生きて来たのであり、私達は、日本語といふ大家族の一
 員として生れた新参者なのである。
  とすれば、私達は言葉を学ぶのではなく、言葉が私達
 に生き方を教へるのである。
  私達は、謙虚に言葉に附き合はなければいけない。
  自然と歴史と言葉、この三者は、知識としては教育の
 対象ではあるが、それ以上に最上の教師である事を忘れ
 てはならない」。
  「言葉は教師である」
  守るべきは、自然と歴史と言葉・・
.
1946年11月16日、内閣が当用漢字・現代かなづかいを告示
 (アメリカの指図)
.
1963年6月、アメリカのケネディ大統領が政府紙幣を発行し
 た。
  アメリカのケネディ大統領は、大統領令11110号
(Executive Order 11110)に署名した。
  そして、1963年6月に、財務省証券という名前の政府紙
 幣を発行した。
  その札は、FRBが発行している紙幣とほぼ同じデザ
 インだった。
  ただFRBのマークが無く、その代わり「政府券」と
 印刷された紙幣だった。
  42億ドル分が発行されたが、FRBの持つ独占的な通
 貨発行権への挑戦だった。
  そして、ケネディは、1963年11月22日に暗殺された。
  犯人とされたオズワルドも、ダラス警察署の中で射殺
 された。
  ケネディの後の大統領となった副大統領のリンドン・
 ジョンソンは、ケネディが発行したドル紙幣を秘かにそ
 のすべてを回収させた。
  政府発行紙幣など無かったかのように・・
  ケネディ暗殺と政府発行紙幣が関係があるかのように、
 明らかな関係性をその行動は「ある」と示していた。
  エドワード・グリフィンの「マネーを生み出す怪物」
 を読まれよ。
  (参考)チャールズ・リンドバーグ下院議員は、連邦
     準備法が可決された1913年12月23日に次のよう
     に述べた・・
     「連邦準備法は、世界で最も巨大な信用を規定
     するものだ。
      ウィルソン大統領がこの法案にサインすれば、
     金融権力という見えない政府が合法化される。
      この銀行制度と通貨に関する法案によって、
     世紀の重大な犯罪が準備されることになるのだ」
      アメリカ国民の方々が支払った税金の20%が
     国際金融資本家へ流れている。
.
2015年、日本の平均年収:420万円
  この平均年収は、前年度より約5万円増となった。
  男性が、521万円(前年より3万円増加している)、
  女性が、276万円
  前年に比べて、男性は1.2%増、女性1.4%増。
  因みに・・この年のNHK平均年収:1780万円
  一般庶民の日本国民は、努力してこの平均年収となっ
 ている・・が・・
  NHKはこの4.24倍・・貴方の4年分の働き分以上を貰
 っている。
  あなた方の4人分以上の金を得ている。
  NHKは、優雅に、ろくに働かなくて、高給をお手盛
 りで得ている。
.
2015年、外国人の犯罪・・中国32.3%・・など
  日本における外国人の犯罪データーについて・・、
  衆議院議員の自由民主党の長尾敬氏の調査した結果が
 以下である。
  平成27年度の検挙件数と検挙人数、
 ☆総件数:...14,267件、
  ①中国:....4,615件(32.3%)
  ②ベトナム:3,315件(23.2%)、
  ③ブラジル:1,410件(9.9%)、
  参考値、アメリカ:245件(1.7%)、
 ☆総人数:...10,042人、
  ①中国人:..3,637人(36.2%)、
  ②ベトナム:1,967人(19.6%)、
  ③フィリピン:833人(8.3%)、
  ④韓国:......696人(6.9%)
  参考、アメリカ:178人(1.8%)
 ☆沖縄における外国人犯罪:2018年、
  外国人総検挙数:119件、
  その内、アメリカ人関係(米軍関係)総検挙数:31件、
  粗暴犯・窃盗犯16件(以上:米軍広報の発表)2014年、
  沖縄人口比:0.24%、米軍の犯罪比率0.05%・・
  沖縄の米軍の犯罪の比率は少ない
  (参考)外国人は逮捕しにくい。
      また、犯罪を起こしたら、すぐ帰国してしま
     うという傾向がある。
.
2017年1月20日、ドナルド・トランプ氏が、第45代アメリカ
 合衆国大統領に就任した。
  2015年6月16日に、2016年のアメリカ合衆国大統領選挙
 へ共和党から出馬することを表明した。
  トランプ氏の初期キャンペーンは、大々的にメディア
 の注目を浴び、広く一般の支持を集めた。
  ヒスパニックへの愛を表明し、マンハッタンのトラン
 プ・タワーで各分野のラティーノ指導者らと会談を持ち、
 マイノリティの声に耳を傾けてもいる。
  (参考)ラティーノ:スペイン語を母国語とする中南
     米出身者やその子孫で、米国に住む人々。
  また、親しい黒人女優のオマロサ・マニゴールトとと
 もにミシガン州デトロイトを訪れ、黒人有権者らとセル
 フィ(画像撮影)したり、赤ちゃんを抱っこしたり、一
 緒に踊ったりし、差別されてきた人たちを理解している
 ことを訴えた。
  2016年11月8日、2016年アメリカ合衆国大統領選挙一般
 投票が行われ、開票の結果、一部の州を除き、全米で過
 半数の選挙人を獲得する見通しとなったため、第45代ア
 メリカ合衆国大統領に就任することが確実となった。
  そして・・
  労働者が、今、「労働者」と言うと何か?古そうに感
 じるが・・、
  その労働者が、豊かになりたいと、「労働争議権を獲
 得して、豊かな賃金を獲得して、その夢を実現して来た」。
  しかし、グローバル化の音頭の中で、企業は、高賃金
 の国から、「低賃金の労働力を求めて」出て行った。
  高賃金を獲得したその労働者は失職し、年収はがた減
 りした。
  一方、グローバリズムの波に乗って、「グローバル企
 業は儲けた」。
  経営者は、より高い年収となり、その年収の格差は拡
 大した。
  グローバリズムで、「豊かな者は、より豊かになり」・・
 一方、貧者は、さらに貧困層へ下落した。
  トランプ大統領は、この貧者を救いたいと「反グロー
 バリズム」を掲げた。
  その方針の中で「アメリカ第一主義」を掲げた。
  今まで世界を牛耳ってきた『エスタブリッシュメント
 たち(特権階級の者たち)』にとって一大事となった。
  キリスト教は、特に、このグローバリズムの本質を説
 明しないで、グローバリズムを良いものと「錯覚させて
 説く」。
  特に、卑劣なのは・・キリスト教系大学の学長が、学
 院生へ説く言葉・・
  「多様性に対する寛容とナショナリズム克服の進展が
 ある」と美しくグローバリズムをとらえて讃美して説く。
  そして、対極にあるナショナリズムは「分断と排除だ」
 と悪く思い込ませて説く・・、
  キリスト教の宗教が、今までやって来たことと同じ様
 にすり替えて、グローバリズムを美しく思い込ませて洗
 脳的に説く。
  キリスト教こそ、「異教徒は殺せ」の異質な者への排
 除をして来て、グローバリズムとまったく逆であったの
 に・・「ナショナリズムは、異質な者への尊重が無い」
 と悪者にすり替えて説く。
  キリスト教の「選民思想(神に選ばれし民の思想)」
 こそ、「反グローバリズムである」のにひた隠しにし・・
  キリスト教の聖書で、キリスト教の神が「奴隷にせよ、
 奴隷にせよ」と叫ぶことさえひた隠しにして・・、
  (「我が民族以外は奴隷にしてしまえ」をひた隠しに
 して)、グローバル化へ衣替えして、美しく言い換えて
 いる。
  トランプ大統領の政策・・
  ・低所得層の税金は免除する。
  ・法人税を35%を半分以下の15%にする。
  ・海外に移転した企業をアメリカに呼び戻す。
  ・不法移民は受け入れない(不法なので当然。入国し
   たいのなら合法的にアメリカに入国しなさい)
  世界のメディアは、日本のメディアも含めて、このト
 ランプ大統領の足を引っ張る事ばかりをする・・その様
 に印象操作をする。
  特権階級のエスタブリッシュメントとつながる「メデ
 ィアの黒い線」が世界に張り巡らされている。
.
2019年3月11日、この日に放送されたTBSの番組「1番だ
 けが知っている」に、IQ(知能指数)188の天才、太田
 三砂貴(みさき)氏(24歳)が出演した。
  IQは、東大生の平均が120、レオナルド・ダ・ヴィン
 チが180だという。
  そして、
  IQ188になると5億人に一人の天才で、日本の歴史上
 最高の天才だという。
  太田氏は、高校時代の16歳の時にMENSA(高知能
 者の集まる組織、高知能の人しか入会できない組織)の
 入会試験で高得点を出した。
  脳科学者の中野信子氏によると、「IQが高ければ学
 力が高いわけではない」と言われる。
  そして、「これは、IQを語るときのジレンマで、今
 の受験勉強というのは、記憶力が高ければ受かる仕組み」。
  「記憶学習能力とIQは違う」。
  「記憶学習能力が高いことは、頭がいいということで
 はない」と言われる。
  (参考)
  知能指数(Intelligence Quotient、IQ)
  IQが高いほど知能が高いことを、低いほど知能が低
 いことをあらわす。
  中央値が、IQ100
  IQ85~IQ115の間に約68%の人が収まる。
  IQ70~IQ130の間に約95%の人が収まる。
  IQ50~IQ70は軽度知的障害、IQ35~IQ50は中
 度知的障害、IQ20~IQ35は重度知的障害、IQ20未
 満は最重度知的障害とされる。
  年齢の低い児童の場合は、IQが200を超えるような場
 合もある。
  ミシガン大学のNisbett教授によると、IQの平均は
 1947年から2002年の間に18上昇しているという。
  30年で約10上昇している。
  この現象のことをFlynn effect(フリン効果)と呼ぶ。
  性差は、知能に関する多くの調査では性差は発見され
 ていない。
  カリフォルニア大学ロサンゼルス校ラスキン公共政策
 大学院の研究者 JISUNG PARK の研究で、2001年から2014
 年までの13年間、1000万人のアメリカ人学生に行われた
 PSAT試験の追跡調査が行われた。
  その結果、気温が高い年の試験結果が悪くなる傾向が
 みられた。
  特に、空調の恩恵を受けられない貧困家庭などに大き
 な影響がみられた。
  同一人物のIQは、ある程度は、年齢とともに変動す
 るものだと言うことができるとされている。
  また、「小学校1年生時点のIQはそれ以降大きく変わ
 るケースが多い」ということと、「小学校3年生以上では、
 IQの変化はかなり少なくなってくる」という研究結果
 もある。
  また、大きな事件があった場合や、深い悩みがあった
 場合などはIQが大きく変動する。
  性悪説で悪く思考したりすることは良くない。
  評価:
  130以上・・非常に優れている。2.3%
  120~129・・優れている。6.8%
  110~119・・平均の上。16.1%
  90~109・・平均。49.5%
  80~89・・平均の下。16.1%
  70~79・・境界線。6.8%
  69以下・・知的障害(認知症を含む)2.3%
.
  IQ:74~88、全人類の約20%
  IQ:89~100、全人類の約25%・・普通
  IQ:101~111、全人類の約25%・・普通
  IQ:112~120、全人類の約15%
  IQ:121~125、全人類の約5%
  IQ:126~131、全人類の約3%
  IQ:132~137、全人類の約1%
  IQ:138~150、全人類の約0.9%
  IQ:151~160、全人類の約0.09% リンカーン、コペル
   ニクスなど
  IQ:161~176、全人類の約0.009% アインシュタイン、
   デカルトなど
  IQ:177~200、全人類の約0.0009%ゲーテ、シェイクス
   ピア、ニュートンなど
         以上合計、95パーセント
  以上から
  IQ:0~23、全人類の約0.0009%
  IQ:24~39、全人類の約0.009%
  IQ:40~49、全人類の約0.09%
  IQ:50~62、全人類の約0.9%
  IQ:63~68、全人類の約1%
  IQ:69~74、全人類の約3%
  IQ:75~79、全人類の約5%
  IQ:80~88、全人類の約15%
  IQ:89~100、全人類の約25%・・普通
  IQ:101~111、全人類の約25%・・普通
  IQ:112~120、全人類の約15%
  IQ:121~125、全人類の約5%
  IQ:126~131、全人類の約3%
  IQ:132~137、全人類の約1%
  IQ:138~150、全人類の約0.9%
  IQ:151~160、全人類の約0.09% 
  IQ:161~176、全人類の約0.009%
  IQ:177~200、全人類の約0.0009%
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

2019-04-12 05:00:17 | 日記
題:(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月1日、大隈重信が進歩党を結成した(~1898年6月
 20日)
  この日、立憲改進党、立憲革新党、大手倶楽部、帝国
 財政革新会、中国進歩党などが合同し・・
  立憲改進党などを中心にして、代議士99名で結成した。
  大隈重信が事実上の党首であったが、正式な役職には
 就かず、形式的には犬養毅、尾崎行雄、大東義徹、柴四
 朗(東海散士)、長谷場純孝の5名の総務委員が代表者と
 なった。
  進歩主義に立つことを宣言し、責任内閣の完成と、国
 権の拡張、財政整理を掲げた。
  自由党に対抗して、小政党を合併して組織された政党
 だった。
  1896年9月に、第2次松方正義内閣に大隈重信が入閣し
 進歩党も与党となって、第10議会では金本位制確立のた
 めの貨幣法案を成立させた。
  1898年に、第三次伊藤内閣の成立後、自由党と合同し
 て憲政党に改組された。
.
1896年3月1日、第一次エチオピア戦争: アドワの戦い
  イタリア軍とエチオピア軍が、エチオピアのティグレ
 州アドワ近郊で戦ったが・・
  イタリアのエチオピア征討軍は、アドワで大敗した。
  イタリアの敗北が決定づけられた。
  19世紀のアフリカは「悲惨な世紀」だった。
  ヨーロッパ列強各国によって、いい様に殺戮され、植
 民地化された。
  アフリカの大部分は、ヨーロッパ列強の国々によって
 影も形も無い状態だった。
  アメリカの黒人の方々の棄民目的でリンカーンが造っ
 たアフリカの国=リベリアと、このエチオピアのみが独
 立国であった・・ほとんどの国々が植民地で、蹂躙され
 ていた。
  だが、植民地獲得の欲望が収まらないヨーロッパ各国。
  そして、このエチオピアへも侵略が行なわれた。
  エチオピア軍を率いたのは「メネリク2世」だった。
  イタリア軍は、補給に事欠く状況だったが、本国の命
 令でオレステ・バレティエ将軍は、1896年2月29日、進軍
 を命じた。
  この状況を察知していた優秀なエチオピア軍は、即座
 に全面攻撃を命じた。
  イタリア軍14,527名、エチオピア軍12万人・・エチオ
 ピア軍は、各地でイタリア軍を包囲した。
  イタリア軍が撤退をすれば、追撃をし続けた。
  イタリア軍は8,000名を失った・・また、エチオピア軍
 も1万名を失った。
  主力を欠いたイタリア軍は降伏をせざるを得ず、アジ
 スアベバ条約を締結して、エチオピアの当然の独立を承
 認した・・
  『白人の横暴な行為』が挫けた事例として燦然と輝く。
.
1896年3月7日、沖縄県に県区制、郡区制が公布され、県下
 を首里区、那覇区と5郡で区分する。
  明治29年勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」に
 より・・、
  島尻郡、中頭郡、国頭郡、宮古郡、八重山郡の5郡を設
 置し、宮古と八重山に島庁(島司)を置いた。
  また、「那覇市」の前身「那覇区」と、首里市の前身
 「首里区」を設置した。
.
1896年3月7日、衆議院議員・立石岐ほか5人は、「鉄道敷設
 上本位軌道採用ニ関スル建議案」を提出した。
  また、市島謙吉ほか4人は、「広軌鉄道ニ関スル建議案」
 を議会に提出した。
  建議案は、特別委員に付託され、3月25日、本会議に
 修正案報告、同修正報告案賛成多数で可決された。
.
1896年3月10日、参謀総長の小松宮彰仁親王は、閣議決定を
 みた台湾縦貫鉄道、ならびに、基隆築港測量費の10万円
 のうち約7万3000円を鉄道建設調査費として支出すること
 を台湾総督に通牒(つうちょう、書面で通知すること)
 した。
  この調査費によって、この年の6月までに、新竹・打狗
 間の予測が終了した。
.
1896年3月11日、東海道線の大阪駅~西ノ宮駅間が複線とし
 て開通した。
  1869年、政府は、東京~京都の両京を結ぶ鉄道を幹線
 と定め、重視して施策を進めた。
.
1896年3月13日、奈良鉄道の玉水駅~木津駅間が開通した。
.
1896年3月15日、日本郵船が、欧州定期航路を開設した。
  土佐丸が就航する。
  また、1896年10月には、豪州航路を開設した。
  2年間の激しい競争の末、日本郵船のボンベイ航路は、
 国際的に認められた。
  「近海の海運」から「遠洋への海運」へと事業は拡大
 して行った。
  続いて挑戦したのが・・「欧州航路」だった。
  1896年、日本郵船は、ロンドン支店を設置し、土佐丸
 をヨーロッパに向け出航させた。
  しかし、またしても、欧米の海運会社組織が、既得権
 を主張した。
  復路(東航)のロンドンと、往路(西航)の上海寄港
 を阻止してきた。
  この最大の貨物集積地に寄港できないことは、ビジネ
 ス上の大きなマイナスだった。
  しかし、その相手を刺激すれば、ビジネスそのものが
 できなくなる状況だった。
  屈辱的な条件のもとで、運航を続けた。
  その様な運行状況ながらも、日本郵船は、船隊の拡充
 を進めて行った。
  信濃丸を含む13隻が揃った。
  総トン数で欧州海運会社に匹敵する体制ができあがっ
 て行った。
  この様な立派な体制になっては、対抗相手側も無視で
 きず、日本の海運を対等の競争相手と認めざるを得なか
 った。
  1902年、日本郵船は、欧州極東往航同盟への正式加入
 を果たした・・
  これを契機にして、海外への航路網を飛躍的に伸ばし
 て行った。
.
1896年3月16日、陸軍が、6個師団の増設を決定した。
  1871年に、明治政府は、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮
 台、東北鎮台の4鎮台を設置した。
  そして、1873年、2鎮台を増設して、東京鎮台、大阪鎮
 台、名古屋鎮台、広島鎮台、熊本鎮台(旧:鎮西鎮台)、
 仙台鎮台(旧:東北鎮台)の6鎮台を設置した。
  そして、1896年から、軍備拡張によって師団が増設さ
 れ・・、
  明治末には、国内の師団数は18となった。
.
1896年3月16日、朝鮮の大院君一派の人々が逮捕された。
  漢城府観察使の金経夏や呂圭亨など数十名が逮捕され
 裁判へ
  1896年2月11日、李氏朝鮮の第26代王・高宗が、ロシア
 公使館へ騙(だま)され、脅されて、逃げ込んで、親露
 政権が作られだが、そして、その結果、ロシアは種々の
 利権を獲得していくが・・
  そして、この日、親日派だとして金允植が流刑にされ
 たり、親日派が殺されたりした。
  この様な状況に怒った民衆が暴動などを起こしたり(
 1896年2月18日)・・
  1896年2月22日、李範晋が、法部大臣兼警務使となり、
 大院君派の粛清を開始した。
  朝鮮国内は荒れていた・・そして、この日、高宗と対
 峙する大院君派が逮捕された。
.
1896年3月22日、「生物始源、一名:種源論」立花銑三郎訳、
 経済雑誌社、
  立花銑三郎が、ダーウィンの著作を「生物始源(一名
 種源論)」という題で日本初翻訳をした。
  1000ページを超える大著だった。
  この時、28歳の銑三郎は、学習院嘱託教授であった。
  ちなみに、銑三郎は、夏目漱石の大学予備門時代から
 の同級生だった。
  銑三郎は、1900年、35歳で早世するが、漱石は、1909
 年に発表した中篇「満韓ところどころ」のなかで、銑三
 郎を親しげに「銑さん銑さん」と呼んでいたことを回想
 している。
  銑三郎と夏目漱石は、行く時期はずれたが、共に、ド
 イツとイギリスへ留学している・・
  そして、その翌年の1900年に、遅れて来た夏目漱石と
 対面した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本人の一般国民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
    シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
    その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされている監禁の状態だった。
.
紀元前5万年以上、原人:「ホモ・ルゾネンシス」がフィリ
 ピンで発見される。
  2018年4月11日の読売新聞に・・新「原人」化石、フィ
 リピンに。アジアで5番目・・と報道されていた・・
  以下、その記事の抜粋・・
  フィリピン・ルソン島で、新種の人類の化石が見つか
 ったと、フランスとフィリピンなどの研究チームが発表
 した。
  同島に5万年以上前に生存していた原人とみられる。
  (参考)原人:人類の進化は5段階(初期の猿人、猿人、
     原人、旧人、現生人類)に大別され、その3段階
     目にあたる。
      猿人とは違い、アフリカからユーラシア大陸
     に進出した。
      猿人より脳が増大し、顎や歯が縮小した。
  アジアで発見された第5の原人となり、同チームは「東
 南アジアの島々における人類の進化の複雑さなどを示す
 発見だ」としている。
  論文が11日、英科学誌ネイチャーに掲載される。
  化石が見つかったのは、同島北部のカラオ洞窟。
  歯や手足の骨の化石で、分析した結果、猿人の様な原
 始的な特徴と30万年~20万年前に誕生した現生人類(ホ
 モ・サピエンス〉などに似た特徴が混在し、同時代にア
 ジアにいた他の原人と異なっていた。
  同チームは新種と判断し、「ホモ・ルゾネンシス」と
 命名した。
  化石の年代測定から、5万年以上前に同島にいたとみら
 れる。
  アジアの原人は、中国の北京原人、インドネシアのジ
 ャワ原人とフローレス原人、中国の和県人(わけんじん)、
 台湾の澎湖人(ほうこじん)が過去に見つかっていた。
  ホモ・ルゾネンシスの臼歯は極端に小さく、海部陽介・
 国立科学博物館人類史研究グループ長は・・身長1メート
 ルあまりのフローレス原人のように「小型化していた可
 能性がうかがえる」と指摘。
  「アジアの島々では非常に独特は進化が起きており、
 他の島でも新種が見つかる可能性がある」と話す。
  ・・以上・・
 (関連事項):
  以上の話の中に、日本の先住民として、アイヌの根拠
 となる話はまったく出て来ない・・また、想像も、まっ
 たくできない。
  それは、アイヌは、それよりズーット後の世の1300年
 代にできたことが科学的に判明していて、分かっている
 からで・・
  アイヌは、まったく先住民ではない・・
  その様なことが分かっていながら、今、日本では、ま
 ったく異常な、非科学的な、また、まったく根拠のない
 「アイヌが日本の先住民族だ」という政治的決議がなさ
 れようとしている。
  今回の地方選で演説していた立憲民主党の女性議員と
 話し合ったが・・
  その論理に、まったく科学的な根拠がなく、ただ政治
 的な動きで「先住民としようとしていることが、はっき
 りわかった」。
  その議員が、「北海道でアイヌは先住民として生きて
 来た」と主張したので・・
  「北海道には、アイヌの人たちより何万年も前から縄
 文人の人たちが居たのですよ。縄文遺跡もいっぱいあり
 ますよ」と教えてあげた。
  「アイヌは日本人なんです」と主張したので・・
  「そうです。しかし、樺太のアイヌは日本人ではあり
 ません」と答えた・・
  「私は人類学をやって来た」と主張したので・・
  「そんな看板で話はしないでください」と言った。
  「国連が決めているから」と主張したので・・
  「国連が間違ったことを決める訳がない。国連が間違
 っているのなら、国連に科学的に正しいことを教えてや
 ってください」と伝えた・・
  「アイヌの言語が独特だ」と主張するから・・
  「言語が独特というなら、1例として中米のインディオ
 の方々には160もの言語があるのです。160もの先住民が
 居るという事ですか?」と・・返事が出来ない、答えら
 れない。
  「北海道にはアイヌの地名が一杯ある」と主張するの
 で・・
  「アイヌの地名なら九州にだってあるんですよ」と説
 明する。
  「学者・専門家に言って下さい」と主張するので・・
  「学者にも言っています。今は、間違っている政治家
 のあなたに間違いを説明しているのです」と言った。
  などなど・・最後は、応援演説をしたいのでと言って
 逃げた。
.
1836年、合衆国第二銀行の期限が来る・・アメリカの運命
 を決める中央銀行の期限が来る・・
  アメリカに中央銀行を作らせ、この通貨発行権を握ろ
 うと暗躍するイギリスのロスチャイルド家。
  そのアメリカの中央銀行を民間銀行として、その株式
 を牛耳ろうとするやり方自体も異常である。
  アメリカの通貨である「米ドル」を発行する銀行を民
 間銀行とするというのも異常であるが、この株式をロス
 チャイルドが牛耳ってしまおうというのも異常である。
  これによって、ロスチャイルド家には、自動的に金が
 転がり込んでくる。
  アメリカは抵抗するが、中央銀行は出来てしまう。
  その最初の合衆国第一銀行も期限が来て閉じられたが・・、
 また、色々な工作が行われて合衆国第二銀行が出来る。
  そして、その合衆国第二銀行も20年の期限が、この年・
 1836年に来た。
  アメリカ大統領のジャクソンは、その期限の来る少し
 前の1832年に、「更新はしない」と、合衆国第二銀行の
 存続の更新を否定した。
  アメリカ国内は、上や下への大激論、激しい攻防が繰
 り広げられた。
  ジャクソン大統領は、頑強に反対し、抵抗し、妥協も
 しなかった。
  そして、期限切れを迎えた。
  合衆国第二銀行は終了し、閉じられた。
  ジャクソン大統領は、暗殺のターゲットになった。
  そして、狙撃された。
  幸い不発だったため、命は助かった。
  中央銀行に反対したので狙われたと言われた。
  中央銀行が無いので、一般の銀行が銀行券を発行して
 流通させた。
  銀行券は何種類も出回った。
  金融を支配する通貨発行権を手に入れたいロスチャイ
 ルド家の目的は、達成されないままとなった。
.
1861年4月12日、南北戦争が始まった(~1865年5月9日)
  アメリカの南北戦争の勃発の理由について、イギリス
 のユダヤ系列の首相のディズレーリは言った・・、
  「何故、アメリカを二分する必要があったかというと、
 イギリスのコントロールが効かなくなったアメリカを発
 展させないためだ」・・と・・
  イギリスが、アメリカを二分しようと計画していたと
 いうこの発言を裏付ける話は明らかに色々ある。
  また、因みに、アメリカの南北戦争のアメリカ北軍の
 トップであるリンカーン大統領は、「奴隷解放の父」と
 讃美されているがまったくの嘘で「でっち上げ」。
  後から付け足されたもの。
  「奴隷解放」は・・北軍の「戦争の大義」としてでっ
 ち上げられたものだった。
  リンカーンは、はっきり「私は奴隷制度を廃止しよう
 と思っていない」と言っている。
.
1865年4月15日、リンカーン大統領が暗殺される。
  (参考)その直ぐ後の1865年5月9日、南北戦争は終わ
     る。
  南北戦争の時、リンカーン大統領は、戦費の調達に困
 った。
  ロスチャイルドなどの銀行家から資金を借りようとし
 た。
  しかし、ロスチャイルドは、非常に高い利率の利息を
 要求した。
  ロスチャイルドは、24%~36%とひっくりするほどの
 高い利子をリンカーンに要求した。
  リンカーンは、借り入れを断念した。
  ここで、リンカーンは、とんでもないことをした。
  リンカーンは、自分で金を刷ることにした。
  アメリカ政府の信用で、独自紙幣を発行した。
  「グリーンバックス」と言われるアメリカ財務省の法
 定通貨だった。
  紙幣の裏を緑色に印刷したので「グリーンバックス」
 と呼ばれた。
  アメリカの最初の法定通貨だった。
  輪転機を動かせば、いくらでも、どんどん金が刷れた。
  戦費を賄(まかな)うのは簡単だった。
  リンカーンは、「打出の小槌(うちでのこづち)」を
 手に入れた。
  イギリスのロスチャイルドらの銀行家は、南軍にも北
 軍にも金を貸して、大儲けしようとしていたが、その目
 論見は「完全に外れた」。
  イギリスの銀行家は、リンカーンを倒したいと思った。
  また、この様な行為を許していたら、アメリカの通貨
 発行権を握ってアメリカを支配するという戦略が崩壊し
 てしまう。
  そして、アメリカが、独自通貨をいくらでも発行する
 ということは、その先にアメリカの繁栄がある。
  イギリスに対抗する国家が出現してしまう。
  イギリスの脅威となってしまう。
  当時のイギリスの「タイムス」紙が社説で報じた・・
  「アメリカの法定通貨が、コストをかけずに供給され
 ている」
  「コストをかけずに通貨を供給できるということは、
 通貨発行銀行である民間の中央銀行に、利子を支払う必
 要が無い」
  「もし、アメリカに起源を持つあの有害な法定通貨政
 策が定着してしまえば、アメリカ政府は通貨をコストを
 かけずに供給することになる。そうなると、アメリカ政
 府は債務を完済し、債務のない政府になる。
  アメリカ政府は、商業活動上、必要なすべての通貨を
 所有することになり、文明国の中で史上類のない繁栄を
 謳歌することになる。
  すべての国の人材も富もアメリカ合衆国へ移動してし
 まう」
  「アメリカ政府は打倒されるべきである。
  さもなければ、アメリカ政府は地上のすべての君主国
 を破壊するだろう」・・と。
.
1895年、韓国・朝鮮が、それまでの「慕華思想」から「慕
 和思想」に転換した。
  崔基鎬教授は、自著で書く・・
  「1895年、日清戦争の終結と同時に、韓国では、それ
 までの500年に渡る慕華思想(中国に対する敬慕)から
 一転して、慕和思想(日本に対する敬慕)に転換した。
  それが、1945年からは、慕華でもなく慕和でもなく、
 他人を尊重する心を見い出す事も至難になった・・と。
  (参考)崔基鎬:チェケイホ、1923年生まれ。
      明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大
      学院教授を経て、加耶大学客員教授。
       民間レベルでの日韓関係改善に努め、サハ
      リン在住韓国人の本国往来問題、原爆被爆者
      の治療援助、在日韓国人の法的地位向上のた
      めに尽力。
.
1899年、アメリカの門戸開放宣言
  アメリカの国務長官ヘイによって提唱された外交政策。
  中国の領土保全と門戸開放、商業上の機会均等を主張
 したもので、遅れて登場したアメリカが列強の帝国主義
 競争への割り込みを意図したものだった。
  このアメリカには、一貫した方針が、ズーットあった。
  自国の領土の拡大である。
  アメリカ・インディアンの方々の地であるアメリカ大
 陸の奪取に引き続き・・太平洋の島々を奪い・・フィリ
 ピンを奪った。
  しかし、アメリカが、アジアに到達したときは遅すぎ
 た。
  イギリスが、もう堂々とそのほとんどを植民地とし、
 インドからシンガポールへ至り、また、香港へ至り、中
 国各地に利権を確立させていた。
  ロシアはシベリアに達して、北から中国へ至っていた。
  また、フランスもすでに南から中国へ至り・・もはや
 出遅れているとアメリカは思った。
  そこで発したのが、この中国の門戸開放宣言だった。
  これは、「俺にも美味しい分け前をよこせ」だった。
  日本とロシアがぶつかった日露戦争において、アメリ
 カは日本を応援した。
  これは、ロシアが退くことがアメリカにとって都合が
 良かった。
  だから、日露戦争が、日本の勝利で終わると、アメリ
 カは手のひらを返したように、今度は、日本と対抗する
 ような態度になった。
  ここが始まりとして、日本はアメリカと戦争をするよ
 うにされて行く。
  だから、アメリカは、日本と対抗することを前提とし
 て行動を続けて行った。
  日本はぎりぎりまで戦争回避に努めた。
  しかし、アメリカは、日本を追い込む手を緩めなかっ
 た。
  アメリカは、日本との開戦への路線をひた走った。
  アメリカは、中国の上海から中国浸透を企てた。
  キリスト教宣教師を利用する手をこうじた。
  中国での利益確保の先兵としてキリスト教を利用した。
  中国人留学生向けの予備校を作った。
  「精華学園」と言った。
  それと共に「日貨排斥(日本商品ボイコット)」を支
 援して、日本の貶(おとし)めと排斥行為を燃え上がら
 せた。
  キリスト教宣教師は、反日のスパイとして行動した。
  また、蒋介石の国民政府の手先となった。
  でたらめ情報のプロパガンダを盛んにした。
  これは、戦後の東京裁判までも影響するほどの嘘宣伝
 工作だった。
  アメリカは、満州の権益を欲しがった。
  この時、特に、日本が居る事を邪魔だと感じるアメリ
 カだった。
  アメリカは、日本排除へ武力行使を始めた。
  フィリピンやグアムを軍事拠点として、イギリスやオ
 ーストラリア、オランダと一緒になって南太平洋を取り
 囲むように、日本を包囲し、締め付け、また、攻撃態勢
 を作った。
  アメリカは、日本に対して威嚇的になった・・また、
 強圧的になった。
  日本が先に手を出したように見せかけの中で、実際は、
 陰で隠れてアメリカが先に武力行使をしていた。
  アメリカが、真珠湾攻撃前に日本を攻撃している事実
 は、今時点では確定されている真実である。
  「あれはボランティアだ」と言い訳するが、大統領の
 命令書があることが確認されている(アメリカ公文書館
 にその書類がある)
  この様に、アメリカは挑発行為を行った。
  中国から日本への大爆撃まで計画していた。
.
1910年8月29日、日韓併合
  「韓国併合に関する条約」が日本と大韓帝国との間で
 調印がなされた。
  この条約は、日本が求めてなされたのではない。
  イギリス・アメリカ・ロシアなどから、「韓国は独立
 してやって行けない。日本が統治した方が良い」と薦め
 られた。
  植民地ではない。
  日本が保護し統治しなければ「駄目な国と国際的に見
 られていた」。
  その様な経済レベルの国だった。
  また、社会資本もまったく整備されてない国だった。
  日本は、膨大な資金を投資して、朝鮮・韓国の「国造
 りをしていく」。
  その恩ある日本に対して、韓国は、今になって御礼を
 言うどころか、恩ある日本を貶める行為をしている。
  この様な態度が取られるのであるなら「併合という形
 ではなく、ただの保護国という形にしておけば良かった」
 と言える。
  必死に日本の資金を投入して、日本並みの国にして上
 げようという奉仕をしなければ良かったと思う。
  良い国になりたいなら「自分たちで努力しなさい」と
 いう立場で居た方が良かった。
  「ただ、軍事的には守ってやりますよ」で充分だった。
  その他の事は、何もしなけれは良かった。
  沢山の金を投入して「教育環境を整えたり」「農地を
 調整して食糧増産をしたり」「裁判制度などの社会基盤
 を充実させたり」「鉄道や道路の建設を一生懸命にやっ
 たり」「帝国大学や小学校などを、沢山、造ったり」、
 色々、手を尽くしてやったが、何の有り難みも感じない
 国・・そんなことをしてやる様な相手国ではなかった。
  この様に感謝もしない国には、今後、何もしてやる必
 要はない。
  挙げ句の果てに、日本の領土の「竹島」まで盗ってし
 まった。
  国際司法裁判所で話し合いましょうと言っても、「韓
 国は敗ける」と分かっているから、その話に応じようと
 もしない卑怯な態度をとっている。
  日本領の竹島の不法侵犯をしている。
.
1920年代、アメリカは、民主主義国家だは、作られた幻想。
  「アメリカは、民主主義の国だ」は、作られた幻想で、
 洗脳された思い込みだ。
  「金」と「情報」を使って操作されている・・この様
 な事は、1920年代に、リップマンやバーネイズは、「ア
 メリカの民主主義の幻想」に気付いていて、「錯覚の世
 界に生きていて、それに洗脳されている」と見抜いてい
 た。
  それから、世論操作をし始めた。
  今・現代、中国が、盛んに金を使って情報操作をして
 いる。
  アメリカを初めて明確に「民主政の国」であるとした
 のはアレクシス・ド・トクビルだった。
  また、「アメリカの支配勢力が、民主主義を用いて人々
 を支配し、利用するために使っている」とも言われてい
 る。
  また、「民主主義の革命的技法」を使えば「合意ので
 っちあげ」ができる、とリップマンは主張した。
  「宣伝工作技術を駆使すれば、人々が本来望んでいな
 かったことについても、同意を取り付けられる」という
 意味の事を言った。
  リップマンは言う・・第一の市民階級は、専門知識を
 持つ特別階級で、政治・経済、イデオロギーのシステム
 における諸問題の分析、実行、意思決定、管理を行う。
  これらの人々は人口のごく一部でしかない・・しかし・・
  この特別階級から漏れた人々・・すなわち人口の大部
 分を構成する多くの人たちは、「とまどえる群れ」(戸
 惑う人たち)と称した。
  この様な人たちが、「大多数の意見を構成する」。
  リップマンは、この人たちを「観客」になるが、行動
 には参加しないと説明した。
  選挙に於いて、観客は、一旦、誰かを支持し、そして、
 後はまた観客に戻って傍観する・・と・・
  だから・・とまどえる群れを飼いならす事だ・・と・・
  また、とまどえる群れに激高を起こさせてはならない・・
 横暴を許してはならない・・不都合なことを起こさせて
 はならない・・と・・
  アメリカの大統領選は、「金が続いたものが生き残る」
 と言われている・・
  そして、それが、「合意のデッチアゲ」の「民主主義
 が行われた」という満足の結果だと・・これが実態だ・・
  リップマンは、彼の代表作と言われている「世論」(
 1922年)で、「民主主義の基盤となる国民の世論が、マ
 ス・メディアの圧倒的な影響力の下にある」ということ
 を指摘している。
  マス・メディアによって世論は操作されている。
  その様な所から形成された民主主義社会・・
.
1931年、東部グリーンランド事件
  グリーンランド東部の無人地帯に、ノルウェーの捕鯨
 業者が上陸した。
  そして、ノルウェー政府が、その地を併合するという
 宣言をするという「東部グリンランド事件」が発生した。
  ノルウェー政府の主張は、グリーンランドにおけるデ
 ンマークの主権は、植民地(人が住んでいる地域)に限
 定されている・・と・・
  また、古い文書では、「グリーンランド」という言葉
 は西海岸の植民地(デンマークが実際に開拓している地
 域)のみを指している。
  故に、それ以外の地域は、「デンマーク領であるとこ
 ろのグリーンランドではない」・・
  ノルウェーが占有する正当性がある・・と主張した。
  しかし、これは、デンマークの提訴を受けた国際司法
 裁判所の裁定によって退けられた。
  デンマークは、以前からグリーンランド全域に適用す
 る法令を制定したりしている・・
  つまり、人が住んでいなくても統治してきたのだから
 ノルウェーの主張はいれられない。
  人口が希薄で人が定住していない地域については他国
 が優越的主張を立証出来ない限り主権的権利の行使はご
 くわずかであってもよい。
  また、地図において、慣習的に使われる地名は反証の
 ない限り通常の意味に解すべきなので・・「グリーンラ
 ンド」という慣習的な地理的名称は、ノルウェー側が有
 力な反証をあげられない限りにおいてグリーンランド全
 島を指していると考えるべきである・・となった。
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
  ドイツとソ連が、お互いに不可侵を約束した。
  そして、アメリカのルーズベルト大統領・・
  この大統領ほどアメリカの行く道を誤らせた大統領は
 いなかった。
  このルーズベルト大統領の周りには、うようよと大勢
 の工作員が居た。
  今・現在の日本の政権の周りも、この様な状況が起き
 ていると言われている・・、
  ルーズベルト政権の周りには、ソ連と深く精神的に通
 底した「共産主義に傾倒する側近たち」で満ちていた。
  1939年2月、戦争が始まりそうなこの時、ソ連は、ドイ
 ツと「独ソ通商協定」を結んだ。
  また、続けて、この年の8月、「独ソ不可侵条約」も結
 んだ。
  アメリカは、これに大きな衝撃を受けた。
  また、この様なアメリカに限らず、日本を含めて世界
 が大きなショックを受けた。
  アメリカも、そして、世界中もが、「ドイツとソ連は
 敵対関係にある」と見ていた・・その様に思っていた。
  これを演じたのは、「ヒトラーとスターリン」だった。
  アメリカは、ソ連を、自分の陣営に引き込みたいと考
 えていた矢先だった。
  ソ連は、この様なドイツとの関係を作った後に、好き
 勝手な「武力行為を行い始めた」。
  この翌月の1939年9月、ポーランド侵攻の侵略行為を始
 めた。
  この侵略は、あっという間の武力侵攻だった。
  そして、ドイツと「独ソ間のポーランド分割協定」を
 結んで侵略を完成させた。
  また、ソ連は、その2か月後の1939年11月、フィンラン
 ドへも侵略を開始した(フィンランド戦争、冬戦争)。
  何とかソ連を取り込もうとしていたアメリカをはじめ
 西側諸国にとって、これは許せない行為だった。
  侵略国家・ソ連の性癖のむき出しの悪行為だった。
  東京裁判時にも、この蛮行は裁くべきだった。
  または、絶対に、ニュールンベルク裁判で裁かれるべ
 きだった。
  しかし、不公正な連合国の諸国は、この不正行為に目
 をつぶった。
  フィンランドは立派だった。
  敢然と不正をするソ連に立ち向かった。
  仕組まれた日本が、アメリカに立ち向かったのと同じ
 行動だった。
  フィンランドの方々は敗れたが、不正な行為に正義の
 戦いを挑み、フィンランドの「国の正義」を通した。
  これによって、フィンランドの方々には、大いなる誇
 りが生まれた。
  その誇りが、戦後のフィンランドの立派な立つ瀬を作
 り、国の立つ位置を作った。
  アメリカには、当然の「対ソ国交断絶論」が出た。
  しかし、卑劣にもアメリカは、あいまいな態度に終始
 した。
  ソ連の行動を非難したりする声明を出したりしたが、
 また、対ソ連の輸出を差し控える勧告を出したりしたが、
  ソ連の「さらなる暴力や脅迫」に晒された北欧諸国へ
 金融援助をしたりしたが・・
  アメリカの国民の方々の意見に従う行動をアメリカ政
 権はしたが・・
  しかし、結局は、ルーズベルト政権は、対ソの国交断
 絶論は否定した。
  これは、この様な卑劣な事をソ連がしても、アメリカ
 は目をつむると見透かされ・・ルーズベルト側近たちに
 動かされるルーズベルトはおかしかった。
  それでもソ連を引き込みたいというアメリカは見透か
 されていた。
  その後のソ連は、まだ、更なる暴力行為・武力行為の
 蛮行を続けた。
  1940年には、バルト三国を取ってしまった。
  そしてまた、この年・1940年、ルーマニア領を侵略し
 た。
  しかし、まだ、アメリカは、その様な横暴なソ連へ黙
 り続けた・・逆に、ソ連に対して、対ソ連の宥和(ゆう
 わ、大目に見る)政策を取った。
  その行動・・宥和政策を強化した。
  アメリカは、バルト三国のエストニア、ラトビア、リ
 トアニアから領事を引き上げて、「バルト三国はソ連領
 だ」という意味の態度を取った。
  そして、ウラジオストクに、総領事館を開設するとい
 うアメリカだった。
  また、対ソ連の物資輸送を増加した。
  そして、さらに、1941年1月には、「対ソ道義的禁輸」
 を撤廃さえした。
  そして、1941年3月には、「米ソ東亜通商協定」まで締
 結した。
  この様な事までしてアメリカはソ連を取り込んでいく
 のだが、結局は、冷戦状態となって、原子爆弾と大陸間
 弾道の核ミサイルの軍拡の競争をする相手となる。
.
1940年、アメリカが、デンマーク領のグリーンランドとア
 イスランドに進駐した。
  ドイツが、海上封鎖水域をアイスランド周囲まで拡張
 したからだった。
  また、ドイツの爆撃でイギリス本国が危うくなったか
 らだった。
  日本は、ベトナム(フランスの植民地)に上陸したが、
 この時、フランスの許可を得ていた。
  アメリカは、グリーンランドとアイスランド政府の許
 可を取っていない。
  しかし、アメリカのルーズベルト大統領は、日本のこ
 の行動を徹底的に利用して日本を悪者に仕立てた。
  日本は、フランスのビシー政権の許可を得ていた。
.
1941年4月13日、日ソ中立条約が調印された。
  正式名称:大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和
 国連邦間中立条約が締結された。
  相互不可侵、および、一方が第三国の軍事行動の対象
 になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文
 など・・
  この時まで、ソ連を宥和(ゆうわ、相手を寛大に扱う)
 したいアメリカは、なりふり構わず、ソ連の喜ぶこと、
 節操のない行動をとっていた。
  ソ連は、好きなように、ドイツとポーランドを分割し、
 何かとドイツと巧くやっていた。
  その様なソ連を、引き込みたいと、アメリカは焦(あ
 せ)っていた。
  この様なソ連の立場と対極にあったのが日本だった。
  アメリカが日本を排斥するのは病的でさえあった。
  この様な状況の時、驚天動地の事が起きた。
  1941年4月13日、日本とソ連が中立条約を締結した。
  ドイツからソ連を引き剥がしたいアメリカ、そして、
 そのソ連が、日本と中立条約を結んだのだった。
  アメリカは、ソ連へ宥和政策を進めて来た行動が頓挫
 したと思った。
  しかし、1941年6月22日に至ると、ドイツが、ソ連へ突
 如侵入した。
  この日の3時15分、ドイツ軍は、作戦名「バルバロッサ」
 の下にソ連を奇襲攻撃した。
  ソ連にいじめられていた反ソ感情の強い周辺国は、ド
 イツへ加担した。
  当然、ソ連は、ドイツに対して開戦した。
  これで、ソ連は、アメリカ側へ入ったのだった。
  1941年11月には、アメリカは、ご褒美ではないが10億
 ドルの供与をソ連へ贈った。
  アメリカ国務省から軍事品のソ連への供与が発表され
 た。
  この共産圏の国=ソ連の立つ瀬をアメリカは作った。
  逆に、アメリカの対日経済封鎖の厳しさは増していた。
  そして、その後、共産圏・中国の毛沢東をも助けるア
 メリカとなる・・毛沢東を支援し、国際舞台の中心国の
 立場にするアメリカとなる。
  この端緒・・ソ連を助けたことに始まるアメリカの行
 動の判断は、歴史上の大汚点、大いに間違った判断とな
 った。
  この後、東ヨーロッパも共産圏・ソ連に抑えられた。
  ルーズベルトのやったことは大間違いだった。
  そして、今・・この共産圏・中国は、アメリカを食お
 うとしている。
  そして、アメリカは、共産圏・中国に追い越されそう
 になっている。
.
1945年8月23日、シベリア抑留
  完全なる終戦の後に、ソ連(現:ロシア)によって行
 なわれた国際法の違反・違法行為である。
  日本国民の拉致である。
  スターリンは、戦争の終結した1945年8月14日の第二次
 世界大戦の終戦宣言の後の1945年8月16日には、「日本人
 を捕虜として用いない」という命令を内務人民委員ラヴ
 レンチー・ベリヤに下していたが、
  何と、終戦後の後も後の1945年8月23日に、これを翻し、
 「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜
 (拉致)50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労
 働を行わせる命令を下した。
  しかし、下記の実態の1事例の様に、日本人の一般国
 民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
  シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
  その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされてい
 る監禁の状態だった。
  稲葉俊郎・東大病院助教、医師のおじいさんは、足枷
 を付けて脱走し、日本へ帰って来た。
  (参考)第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ
     連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣
     戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連
     極東軍に命じて、満州・朝鮮半島北部に軍事侵
     略した(ソ連対日参戦)。
      日本は、すでに、1945年8月14日、中立国を通
     して降伏を声明し、アメリカやイギリスの連合
     国に受け入れられていたが、ソ連は、1945年8月
     16日には日本領南樺太へ、1945年8月18日には千
     島列島へも侵略して占領した。
      樺太では直後に、日本の防衛的戦闘で、日本
     は勝利していたが千島の占守島では1945年8月22
     日に、日本から停戦命令が下り、武器を置いた。
.
1950年代半ば、毛沢東による対日戦犯裁判
  中国では・・、
  ☆中華人民共和国によって対日戦犯裁判が行われた(
 近年、中国で新史料が公開された)。
  ☆1950年、シベリアに抑留されていた旧『満州国』や
 関東軍の関係者がソ連から中国に送還された。
  ☆終戦後、中国に残留し、国共内戦下で共産党軍と戦
 って捕虜となった日本人将兵、戦犯と見なされ、拘留さ
 れた。
  1526名。
  毛沢東思想に基づく思想改造を、長年、強烈に受けさ
 せられた。
  1956年に、大半が釈放された。
  (BC級戦犯なのに、約1000名が死刑にされた)
  ☆毛沢東は、「南京虐殺について、触れることはほ
 とんどない・・言及もしていない」。
  この事からも、南京事件は、後から中国(支那)によ
 る作り出された捏造ということがはっきり分かる。
.
2017年1月20日、ドナルド・トランプ、アメリカ大統領の就
 任式で・・
  「今、この瞬間からアメリカ第一主義(アメリカ・フ
 ァースト)が始まる」と演説された。
  そして、また、新大統領は、「世界の国々と友好的で
 善意に基づく関係を築きますが、すべての国には自国の
 利益を最優先する権利があります。
  私たちは、自分たちのやり方を他の誰かに押し付けた
 りはしませんが、「輝く模範として見習われる存在にな
 ります」と演説した。
  すべての国々が、自国の国民の幸せを第一に考えるの
 が当然で、自国の国益を最優先するのも当然で、その様
 な自立した国々同士が友好関係を結んでいくのが「最も
 当然な最善な事」と示された。
  そこには、今までの様なアメリカが勝手に最善として
 思い込んだ考えを押し付けるようなことはしないという
 宣言があった。
  戦争の遠因となっていた「アメリカの考え方・イデオ
 ロギー」の勝手な押し付けはしないの宣言があった。
  今まで、アメリカは『自由と民主主義』と言って表面
 的には良いように見えることを、実際はアメリカだけが
 良いという勝手な事を「他国へ押し付けた」。
  持っている武力を振り回し、自国の若者も死に至らせ、
 また、他国の人々・・戦争とまったく関係ない方々を殺
 して来た。
  この様な「勝手な独りよがりな介入はしない」という
 宣言だった。
  実際は、「アメリカのやり方」「アメリカ・スタンダ
 ード」なのに・・「グローバル・スタンダード」だと嘘
 を言って、アメリカの超富裕層に都合の良いシステムを
 押し付けて来た。
  当然の様に他国の内政に干渉し、屁理屈で「ああだ、
 こうだ」と言った。
  この様な事を、当然のように、『間違っている』と「
 否定した大統領」だった。
  しかし、今まで「利益を享受して来た組織」が、盛ん
 に抵抗している。
  その今までの組織に「おもねっている」・・日本のゴ
 マすり「マス・メディア」も、盛んに、「トランプ大統
 領に対抗する反対報道」をしている。
.
2019年、アイヌの方たちだけが特別ではない。
    アイヌ特別立法はお止めください。
  アメリカで『キンタクンテ』が話題になった頃、それ
 が日本でも話題になった頃、「ルーツ」「ルーツ」と
 自分のルーツに皆が関心が向かった頃・・、
  キンタクンテは、「そのルーツをアフリカに発見した」。
  その頃、自分の事を調べてみると、何と、せいぜい隣
 村くらいの狭い社会の中で「先祖の方たちは生きて来た」
 ことが分かりびっくりした。
  同じ村、若しくは、隣村との結婚が繰り返されていた。
  これでは、「武蔵野民族ではないか」と思った。
  知人に、京都で、明治に生まれた方が居られて、関東
 大震災の時に東京に出て来られたが・・、
  その頃、鹿児島の薩摩弁の方と青森の津軽弁の方が、
 話が通じ合わなくて、通訳をしてあげたと言っていた。
  京都で育ち、都で色々な方と接して、薩摩弁と津軽弁
 が通訳できたのだ。
  今・現代、通信機器も発達し、テレビ・ラジオの放送
 も氾濫し、標準語が定着し、その様な話は夢の様だけど・・、
  また、先の話は、交通手段が発達し、遠くまで簡単に
 行ける現代、男女の接触もSNSでも会えるという時代。
  男女の接触も広くなって、その様な話しはまったく想
 像が出来ないが、武蔵野民族の自分だって同化したが「
 武蔵野民族なのだ」。
  九州には「熊襲(くまそ)」という民族が居て、ある
 時、世間の話題になったが、今は完全に同化して、話題
 になることも無い。
  能には「吉備人」が出て来てる様に、日本には「アイ
 ヌの方々だけではない方々が色々生活して居た」。
  アイヌの方々だけが特別ではない。
  武蔵野民族は完全に同化したが・・ならば、「武蔵野
 民族の方々にも特別法を作りなさいと言いたい」・・そ
 して、「武蔵野民族を無視する理由はありませんと言い
 たい」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)639E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年2月~1896年2月)

2019-04-07 05:30:11 | 日記
題:(増補版)639E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年2月~1896年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年2月10日、貴族院議員・近衛篤麿ほか2人、議員・二
 条基弘ほか43人の賛成を得て、「北海道鉄道敷設法案」
 を提出した・・北海道開拓の実を上げるため必死に鉄道
 敷設に取り組んで行く。
  特別委員会付託となり・・、
  1896年3月7日、貴族院可決・・
  1896年3月25日、衆議院可決、
  1896年3月26日、両院協議会を開き衆議院修正案可決、
   貴族院同意。
.
1896年2月10日、法律第1号により官設鉄道用品資金25万円
 が増加となって205万円となる。
.
1896年2月10日、ロシア兵の107名の水兵 20名の食料担当兵
 大砲一門を漢城に搬入し実力支配をする。
  ロシア兵は150名となった・・親露政策へ・・反ロシア
 派への弾圧・一掃・・民衆の親露政権への反発・・
  また、ロシアは、種々の実質的な利権を獲得する結果
 となる。
  また、付随して欧米列強も同等の利権を獲得すること
 になった。
  宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密か
 に国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。
  速かに露館に播遷し回避されたし」旨の親露派が作っ
 た手紙・作文の書状を高宗に届けた。  
  そして、翌日(2月11日)、高宗と世子(純宗)が宮女
 用のかごに乗り、ロシア公使館へに逃げ込んだ。
.
1896年2月11日、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」が
 パリで初演された。
  実は、1892年に、名女優サラ・ベルナールの主演でロ
 ンドン上演をする予定だったが、当局の検閲で上演禁止
 となった・・内容の背徳性から、しばらく上演されなか
 った。
  (イギリスでは1931年まで禁止されていた・・聖書に
 登場する人物や事件を舞台にかけることが禁じられてい
 た)
  1893年に、アンドレ・ジッドとピエール・ルイスの校
   閲を経て、フランス語版の戯曲がパリで出版され、
   評判になった。
  1894年に、アルフレッド・ダグラス卿の英訳に、ワイ
   ルド自身が徹底的な修正を加えて、当時、22歳の奇
   才オーブリー・ビアズリーの幻想味あふれ、退廃的
   挿絵付きの英語版がロンドン出版された英訳版は大
   きな反響を呼んだ。
  世紀末のデカダンスの欧米芸術に強烈な衝撃を与えた。
  古臭い乾からびた伝統的な男性中心主義の女性観など
 へ衝撃を与えて行く。
  洗礼者ヨハネが首を斬られたことが興味を引いた発端。
  1903年~1905年に、リヒャルト・シュトラウスが1幕の
 オペラを作曲する。
  このシュトラウスの「サロメ」には紛れもなく世紀末
 風なデカダンスの雰囲気が濃厚に存在する。
  「ああ!ヨカナーンや、私は、おまえの口にくちづけ
 したよ、ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)、おまえの口にく
 ちづけしたよ」というサロメの無気味な歓喜の言葉が流
 れる最終場面・・妖艶・・
  何故、お前は私の顔を見なかったのだ・・
  死の秘密より大きい愛の秘密・・
  そんなことはどうでもよい・・私はお前の口に接吻し
 ましたよ・・
  https://www.youtube.com/watch?v=VT-5zz92mNQ
  現在、戯曲「サロメ」が上演されることは滅多になく、
 舞台といえばもっぱらオペラ「サロメ」。
  内容:
  ユダヤの王妃エロディアスには、最初の結婚によって
 もうけた娘サロメがいる。
  サロメは王に捕えられている預言者ヨカナーンを恋し
 ているが、ヨカナーンは彼女を拒む。
  サロメは王の求めに応じて踊り、褒美にヨカナーンの
 首を所望する。
  何でも望むものを与えると約束していた王は、やむな
 くサロメの願いを聞き届ける。
  サロメは首を持って踊り狂い、王の命令を受けた兵士
 たちに殺害される。
.
1896年2月11日、露館播遷(ろかんはせん)
  朝鮮国王が、ロシア公使館に移らされた。
  金允植(キム・ユンシク)は、穏健な開花的な人物だ
 ったが(科挙の試験にも合格する才能ある人物)・・、
  朝鮮のこの親露政権が成立すると、親日派だとして済
 州島に流刑された。
  1896年2月11日~1897年2月20日、、朝鮮王の高宗が、
 ロシア軍によってロシア公使館へ移らされ、親露政権が
 樹立させられた・・
  親日派の政権閣僚は殺害されたりした。
  そして、この結果、ロシアは、数々の種々利権を獲得
 し、他のヨーロッパの各国やアメリカの列強も同等の利
 権を獲得することになった。
  また、これは国としての自主性を放棄するのに等しい
 行為であった。
  この事に対する朝鮮有志による抵抗行動が起きる。
  朝鮮政府に好き勝手をしていたロシアの横暴。
  (参考)播遷:はせん、遠くさすらうこと。
  高宗は勅令を出さざるを得なくなる・・
  実体は、ロシア公使ウェーベルの傀儡政権の成立。
 1.閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵、禹範善、
  李斗璜、李軫鎬、李範来、権濚鎮の首を持ってロシア
  公館に持参せよ。
  (閔妃殺害事件についての再調査も実施され、漢城で
  発行されていた英文雑誌に調査結果が掲載された)
 2.新内閣の公示・・総理大臣に金炳始、内部大臣に朴定
  陽、軍部大臣兼警務使に李允用、法部大臣に趙秉稷、
  学部大臣に李完用、宮内大臣に李載純を命じる。
  (在朝ロシア公使は、スペール趙羲淵、兪吉濬、張博、
  李軫鎬等は日本に亡命・・前総理金弘集と前農工商大
  臣鄭秉夏は亡命せず・・警務庁前で暴徒に捕まり惨殺、
  遺体は焼却された)
.
1896年2月13日、博多湾鉄道発起人が、設立願を政府に提出
 した。
  1896年6月、線路計画変更、
.
1896年2月18日、朝鮮・仁川に、4000余名の暴徒が蜂起した。
  観察使(地方の行政権・兵権・司法権を握る役職)を
 殺害し、郡司を逐訴するなど、政令はソウルの外には伝
 わらず、無政府状態に陥って・・官衙官宅を毀壊した。
.
1896年2月21日、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式の出席の
 ため、明治天皇陛下の御名代として伏見宮貞愛親王(陸
 軍少将)が出席されることになり・・また、この日、山
 県有朋が、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式の出席と、
 朝鮮問題対応のため、特命全権大使に任命された。
.
1896年2月22日、日本海上保険が設立された(3月説あり)
  色々と変遷の後に、2014年9月1日に、 損害保険ジャパ
 ンと合併して、損害保険ジャパン日本興亜が発足してい
 る・・そして、発足と同時に「損保ジャパン日本興亜ホ
 ールディングス」に商号を変更した。
.
1896年2月25日、房総鉄道の千葉駅~蘇我駅間が開通した。
.
1896年2月29日、日本銀行旧館(本館)の建物が完成した。
  設計は、辰野金吾(工科大学:現東京大学工学部)教
 授。
  当初は永代橋のたもとにあったが、手狭のため中央区
 日本橋本石町に建設し、移転した。
  この日本橋という所は、江戸時代から両替商が軒を連
 ねていた場所で、金融機関が集まっていた。
  また、商業の中心地ともなっていた。
  構造:石積みレンガ造
  外装:花崗岩貼り
  工事費:112万円(当初予算は80万円であったが、この
 時期、物価上昇した)
  着工:1890年9月
  1891年に発生した濃尾地震の被害から建物の軽量化が
 図られた。
  1923年の関東大震災でも被害は無く、建物はびくとも
 しなかった・・ただ、近隣に発生した火災によりシンボ
 ルだった丸屋根が焼け、その後、復元したの屋根が現在
 に至っている。
  ちなみに、2階の廊下には代々の総裁の肖像画が展示さ
 れていたが、関東大震災ですべてが焼失し、現在の肖像
 画は、その後、再製されたもの。
  故人になられていた方は、写真から模写された。
  エレベーターや水洗便所など先進的な設備を取り入れ、
 また、防火シャッターやスチールサッシなど外国製品も
 採用した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この果てしない巨万の富は、ヨーロッパ全域へ、そして、世界へ、
   ロスチャイルドの影響力を行使できる額だった。
.
1567年9月5日、「独眼竜政宗」で有名な伊達政宗(仙台藩
 初代藩主)の話。
  伊達政宗は、出羽の国と陸奥の国の戦国大名である。
  そして、伊達氏17代の当主であり、近世大名としては
 仙台藩の初代の藩主である。
  1567年9月5日、伊達政宗は生まれた。
    出羽国・米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗
   の嫡男として、正室の最上義守の娘・義姫から生ま
   れた。
    政宗は、幼少の時に患った疱瘡(天然痘)によっ
   て右目を失明した。
  1579年(12歳)仙道の戦国大名の三春城主・田村清顕
   の娘・愛姫(12歳)を正室に迎える。
  1581年(14歳)4月、初陣。隣接の相馬氏と合戦。
  1584年(17歳)10月、父・輝宗の隠居で家督を相続し、
   伊達家第17代当主となる。
  1585年(18歳)5月、蘆名領檜原を攻め、8月に、大内
   領小手森城を攻めた。
  1586年(19歳)4月、二本松城攻め、7月、二本松城の
   明け渡し。
  1587年(20歳)12月、関白・豊臣秀吉が、関東・奥羽
   の諸大名、特に、関東の北条氏と奥州の伊達氏に対
   し、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。
    しかし、政宗は秀吉の命令を無視し、戦争を続行
   した。
  1588年(21歳)2月、北方の大崎氏の内紛に介入したが、
   黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に合い敗北。
    伯父の最上義光に大崎側に立って参戦されてしま
   い、伊達領の各地が攻め落とされた(大崎合戦)
    また、蘆名氏・相馬氏に侵攻され、苗代田城を攻
   め落とされる(郡山合戦)・・7月、和議が成立して
   窮地を脱した(愛姫の実家・田村氏領の確保に成功)
  1588年(21歳)9月、豊臣秀吉へ恭順の意を示す。
   秀吉は、翌年・1589年の前半に上洛する様に求める。
  1589年(22歳)5月~6月、摺上原の戦い・・
    この頃、政宗は、全国的にも屈指の大きな領国規
   模を築いた・・近隣諸氏・豪族も政宗の勢力下に入
   る。
  1589年(22歳)11月、後北条氏が真田領へ侵攻したこ
   とにより、豊臣氏により征伐が行われることになっ
   た。
    政宗は、父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係
   にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべ
   きか、直前まで迷っていた。
  1590年(23歳)1月、伊達政宗は、豊臣秀吉から「小田
   原城攻めをするから、参陣せよ」という命令を受け
   た。
    しかし、正宗は、これに応じなかった。
    それどころか、秀吉陣営に属していた会津・黒川
   城の芦名義弘を討った。
    父・輝宗を騙した畠山善継に味方した芦名を討っ
   たのは『敵討ち』であるという大義名分があったが、
   明らかに秀吉への反抗でもあった。
    さらに、正宗には、小田原参陣に遅れる事件もあ
   る。
    実母・保春院が、弟・小次郎を立てるため政宗を
   毒殺しようとした。
    政宗は、辛くも命拾いをした。
    小次郎を斬殺し、母を米沢へ追放した(後に、仙
   台へ戻す)。
    この様な事で参陣が遅れたのだった。
  1590年(23歳)5月、秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)
   中であるこの時・1590年5月、豊臣配下の浅野長政か
   ら小田原参陣を催促された。
    政宗は、5月9日に会津を出立すると米沢・小国を
   経て同盟国・上杉景勝の所領である越後国・信濃国、
   甲斐国を経由して小田原に至った。
    秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属した。
    参陣が遅れたことに、秀吉は激怒した。
    政宗が、小田原へ赴くと、秀吉は、会見も許さず、
   箱根・底倉へ政宗を幽閉した。
    この時、政宗は、前田利家へ「田舎者ゆえ礼儀を
   わきまえない。千利休に茶の湯を習いたい」と告げ
   た。
    秀吉は、それを聞いて引見することとした。
    死ぬか生きるかという時に良い度胸だという訳だ
   った。
  1590年(23歳)7月、政宗が、秀吉に服属してほどなく、
   北条氏政・北条氏直親子が秀吉に降伏した。
    秀吉は、宇都宮城で奥州仕置(宇都宮仕置、1590
   年7月~8月に行われた)を行った。
    ここに、秀吉の日本統一が達成されたが、政宗は、
   会津領などを失った。
    陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封された。
    秀吉は、会津領を没収したものの、伊達家の本領
   72万石(おおむね家督相続時の所領)は安堵とした。
    先の遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の
   指導を受けたいと申し出だことに秀吉らが感嘆した
   からと言われている。
  1591年(24歳)蒲生氏郷とともに、葛西大崎一揆を平
   定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露
   見する。
    しかし、これは、氏郷が、「政宗が書いた」とさ
   れる一揆勢宛の書状を入手したことに端を発する。
    また、京都では、政宗から京都に人質として差出
   した夫人は偽者であるとか・・
   一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗
   が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届
   いていた。
    喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物
   である旨を秀吉に弁明した・・
    その結果、許されるが・・、
    本拠地であった長井・信夫・伊達を含む6郡の代わ
   りに(6郡没収)、一揆で荒廃した葛西・大崎13郡を
   与えられ、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城へ58万
   石に減転封された。
    この時、秀吉の前に出る政宗の様子・・
    家康や利家をはじめ諸武将が居ならぶ席上、秀吉
   が、末席に控えている政宗へ、杖で政宗を指し・・
   「政宗、政宗」と声をかけた・・「是へ、是へ」と
   秀吉のもとに招いた。
    政宗は、脇差を抜いて知人に預け、一間(1.8メー
   トル)ほどの所まで近づいて挨拶した。
    「脇差ノ抜ヤウ、マタ、御挨拶ノフリ、誠二悪ビ
   レタル気色モナク、田舎人ナレドモ、聞キ及ビタル
   程ノ者也」(政宗記)。
    田舎者だが、噂にたがわぬ堂々とした男だと秀吉
   は言った。
    片目ながら政宗の大胆さ、そして、繊細さを、55
   歳の秀吉は鋭く見抜いた・・24歳の政宗をいっぺん
   に気に入った。
    秀吉は、鎬(しのぎ)藤四郎作の名刀を与えた。
    そして、伊達政宗は、陸奥五十四郡、出羽十二郡、
   計六十六郡の半分を所有する大名として認められた。
  1593年(26歳)政宗は、秀吉の文禄の役に従軍した。
  1599年(32歳)秀吉の死後のこの時、政宗と、五大老
   の徳川家康は、天下人であった秀吉の遺言を破った。
    政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を
   婚約させた。
  1600年(33歳)7月25日、家康が会津の上杉景勝討伐の
   軍を発した・・すると政宗はこれに従った・・そし
   て、この日、登坂勝乃が守る白石城を、政宗は奪い
   返した。
  1600年(33歳)8月、100万石へ復帰・・
    家康は、政宗に対して、岩出山転封時に没収され、
   この時点では上杉領となっていた旧領6郡49万石の領
   土の自力回復を許す旨の書状(百万石のお墨付き)
   を贈った。
  1600年9月、関ヶ原の戦いが勃発。
    正宗は東軍に属した。
  1601年(34歳)政宗は、徳川家康の許可を得て、居城
   を仙台に移した。
    城下町建設を始め、仙台藩が誕生した。
    仙台城、及び、城下町の建設は大工事となった。
    徳川幕府から松平の名字を与えられ「松平陸奥守」
   と称した。
  1606年(39歳)家康の6男・忠輝と長女・五郎女(いろ
   は)を結婚がなり、伊達家はより安泰となった。
  1613年(46歳)政宗は、仙台藩とイスパニアとの通商
   を企図した。
    仙台領内において、イスパニア国王・フェリペ3世
   の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によって
   ガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造
   した。
    この大船の建造に、材木を気仙、磐井、江刺緒郡
   から伐り出し・・公儀船大工・与十郎を棟梁とした。
    イスパニア航海士や技術者も参加した。
    政宗は、家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを
   外交使節に任命し・・
    家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパー
   ニャ(メキシコ)、イスパニア(エスパーニャ)、
   および、ローマへ派遣した(慶長遣欧使節)
    この実施で、正宗は、家康へ交易で大きな利益が
   徳川幕府にももたらされると説得していた。
  1613年(46歳)12月19日、支倉常長がノビスパニア(
   メキシコ)のアカプルコに到着した。
  1614年(47歳)大阪冬の陣・・大和口方面軍として布
   陣する。
  1615年(48歳)大坂夏の陣・・道明寺の戦い、後藤基
   次らと戦う・・基次は自刃した。
    また、他の戦いで乱戦となり、政宗は味方討ちを
   している・・抗議をされ、「伊達家の軍法には敵味
   方の区別はない」と言った・・幕府はこれを黙殺。
    論功行賞で、政宗の子(庶長子の伊達秀宗)が10
   万石を与えられた(宇和島藩)
  1615年(48歳)9月、支倉常長がローマ・バチカン市国
   で法王パウロ五世と会った。
  1620年(53歳)支倉常長が帰国した。
    この支倉常長の航海の目的には、イスパニア艦隊
   を引き連れて帰国するかもしれないという威圧が、
   無言で幕府を脅迫し、徳川幕府の挙動を抑える効果
   を狙って、伊達家安泰を図っていたとも言われてい
   るが・・?
  1626年(59歳)政宗が、仙台城下・若林に隠退した。
    春は城の桜を愛で、初夏に近郊のホトトギスの声
   を聞き、秋には月を愛で、鷹狩りを楽しんだ。
    また、政宗は、北上川水系の流域整備や開拓、領
   国開発、農業生産改良、文化の向上、技師の招聘、
   大崎八幡宮(今、国宝となっている)、瑞巌寺など
   の建設、石巻港建設、海路の整備などを行なった。
    また、下城する政宗に、徳川家光が、護身用に10
   挺の火縄銃を与えたという話もある。
  1634年(67歳)食事不振となり、嚥下に難を抱えると
   いう体調不良を訴え始めた。
  1636年5月22日(68歳)、母・義姫を弔う保春院の落慶
   式を終えた後、城下を散策した政宗は、経ヶ峰に杖
   を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。
    この2日後の5月24日、参勤交代に出発した政宗は、
   急に病状が悪化・・宿泊した郡山では嚥下困難に嘔
   吐が伴い、何も食べられなくなる。
    6月1日、江戸に入った頃、絶食状態となる。
    腹に腫れが生じていた・・しかし、病をおして参
   府した・・
    この様な政宗を、家光は、6月24日、伊達家上屋敷
   に赴いて政宗を見舞った。
    政宗は、行水して身を整えた・・そして、家光を
   迎えた。
    しかし、お目見え後に、奥へ戻る時には杖を頼り
   に何度も休みながら進まざるを得ないという状態だ
   った。
  1636年6月27日、卯の刻(午前6時)死去。
    享年(満68歳)・・仕えた主君は、豊臣秀吉→秀
   頼→徳川家康→秀忠→家光
.
1636年7月、徳川の御三家の『水戸藩』の家租となる頼房が、
 徳川姓を許された。
  水戸徳川家(水戸家)は、徳川家康の十一男の徳川頼
 房を家租としている。
  領国の石高は、実収が28万石程度だった。
  しかし、御三家の格式から、公称35万石としたため、
 水戸藩の財政を厳しくした。
  紀州藩の資料に、頼房が徳川姓を許されたのは1636年
 7月とあり、それまでの33年間は「名字定まらず」とされ
 ている。
  徳川家康は、水戸藩を成立させるにあたり、武田・北
 条・今川など、かつて敵対し、滅亡した戦国大名の家臣
 も採用した。
  水戸藩は、さながら「敗者復活藩」だった。
  御三家の「第三位の地位」が確立したのは、徳川家宣
 (第6代将軍、在任1709年~1712年)が将軍となって、甲
 府徳川家が解消した後だった。
  また、水戸家当主は、参勤交代の対象外であり、江戸
 定府とされ、基本的には国許に帰国することはまれだっ
 た。
     ・
     ・
1791年2月25日、アメリカの中央銀行である第一合衆国銀行
 が設立された。
  それまでは、13植民地がそれぞれに銀行を持ち、また、
 通貨および財政制度と政策を持っていた。
  財閥・ロスチャイルド家の策謀・・
  アメリカ合衆国で通貨発行権を得て『打ち出の小槌
 (こづち)』の様な状態の利益を得ようと暗躍したロス
 チャイルド家(イギリスにある)は・・、
  アメリカの初代財務長官・アレクサンダーに、「中央
 銀行の設立の提案」をさせた・・が、しかし・・、
  そのおかしな挙動と危険性を熟知していたベンジャミ
 ン・フランクリンや、トーマス・ジェファーソン(アメ
 リカ合衆国独立宣言を起草した人)は、そのハミルトン
 の案に反対した。
  大議論が続き、決定はされなかったが・・、
  反対したフランクリンが死んだ後・・1791年に、ジェ
 ファーソンの反対は押し切られた・・
  ハミルトンは、中央銀行の設立に成功したのだった。
  ワシントン大統領が署名して、第一合衆国銀行は設立
 された。
  しかし、この銀行は、アメリカ合衆国憲法に違反する
 という民間銀行の形で、このアメリカの中央銀行は設立
 されていた・・?
  アメリカ合衆国憲法には、はっきりと「貨幣鋳造権限
 は、アメリカ合衆国連邦議会が有する」と規定されてい
 る。
  (参考)対訳アメリカ合衆国法
      第1条8節1項(また、合衆国議会は以下の
     権限を有する)
      第1条8節5項(貨幣の鋳造、度量衡の基準
     の設定権)
      貨幣を鋳造し、国内および外国通貨の価値を
     規律し、また度量衡の基準を定める権限。
  (参考)註解アメリカ憲法
      第10条、州に対する制約
      第一項、各州は、同盟もしくは連合を締結し、
     捕獲免許状を付与し、貨幣を鋳造し、信用証券
     を発行してはならない。
      「信用証券とは、州の信用を基礎にする紙幣
     のことであって、これを発行することは許され
     ない」
      (州による紙幣の発行は禁止されている)
  この中央銀行の8割の株式は民間で、連邦政府は2割に
 過ぎない。
  この様にして、実質的な権利者となる株式を所有した
 のが、イギリスのロスチャイルド家だった。
  また、ニューヨークの民間銀行も所有した。
  そして、20年間のこの期限が1811年に訪れた。
  更新して継続するのか?・・の大論争がなされた。
  正論が通って・・「民間銀行が通貨発行権を持つのは
 おかしい」という主張が、一票差で「更新するという案
 を否決した」。
  この正当な決議に怒ったのが「旨い汁を吸い続けたい
 とする『イギリス・ロンドンの銀行家たち』だった」。
  イギリス政府に、当時は、イギリスの弱小従属国的だ
 ったアメリカへの「けしかけ」や「圧力」を与えた。
  そして、不埒にも、1812年に、「英米戦争」に至った。
  この問題以外には、何の問題も無いという英米関係だ
 ったのだったが・・?
  イギリスのロンドンの銀行家たちは、戦費調達に窮す
 るアメリカに、「戦費調達先の必要性」と、その為の「
 中央銀行の保持の必要性を思い知らせるという『仕掛け』」
 だった。
  この英米戦争で、「アメリカ政府の債務(借金)は3倍
 となった」。
  アメリカは、深刻なインフレに見舞われた。
  このインフレに対処するにも苦労するアメリカだった。
  アメリカ内に、中央銀行の必要性が出て来た。
  1816年、アメリカ合衆国連邦議会は、第二合衆国銀行
 の設立法案を可決した。
  またまた、第一合衆国銀行の時と同じように、民間8割、
 政府2割となった。
  そして、その株主もまったく同じで、ロンドンのロス
 チャイルドと、ニューヨークのウォールストリートの民
 間銀行だった。
  また、同じに、通貨発行権を一部の民間が手に入れた。
 そして、その更新期限が、1836年に来るのだった・・
  (参考)因みに・・1963年6月4日に、ケネディ大統領
     の大統領令11110 (Executive Order 11110) に
     よって政府紙幣が復活する・・
      しかし・・その約半年後の11月22日に、ケネ
     ディ大統領は暗殺されてしまった。
      1971年1月以降は、政府紙幣の新規発行は行わ
     れていない。
      但し、現在でも法律上、財務長官は、3億ドル
     を限度に「合衆国紙幣」(United States Note)
     を発行することができることとされている (合
     衆国法典第31編第5115条)。
.
1815年6月18日、ワーテルローの戦い(ナポレオンの最後の
 戦い)
  ベルギー(当時ネーデルラント連合王国領)のワーテ
 ルロー近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・
 ボナパルト)が率いるフランス軍(大陸軍=グランダルメ)
 が・・
  イギリス・オランダをはじめとする連合軍、および、
 プロイセン軍との間とで戦闘を行った。
  この戦いは、ナポレオンの最後の戦いとなった。
  ナポレオンのフランス軍は敗れた。
  戦力比較
  フランス軍72000、連合軍68000+プロセイン軍50000
  死傷者数
  フランス軍40000、連合軍27000+プロセイン軍7000
  エルバ島から帰り、フランス皇帝に復帰したナポレオ
 ン。
  そのナポレオンを打倒しようと、第七次対仏大同盟が
 出来上がろうとしていた。
  ナポレオンとしては、これが出来上がって、態勢が整
 ってしまう前に叩いてしまおうというのがナポレオンの
 作戦だった・・
  そして、ナポレオンは出陣したのだった。
  戦いは・・1815年6月16日から始まっていた。
  この時、ユダヤ財閥を築くことになるロスチャイルド
 は、戦況の分かる付近に配下の者を送り込んでいた。
  そして、ナポレオンが敗れると、馬を駆ってその情報
 をロスチャイルドへ伝えさせた。
  この情報を聞いたロスチャイルドは、普通と逆のこと
 を行なった。
  取引所で、イギリス国債を大量に売却した。
  これを見ていた周りの仲介人も、「情報通のロスチャ
 イルドが、イギリス国債を売っている、イギリスが敗れ
 たに違いない」と、一斉に取引所は、「イギリス国債売
 り一色となった」。
  イギリス国債は、当然、大暴落した。
  ロスチャイルドは、その暴落して安くなったイギリス
 国債を、「秘かに、大量に買い戻した」。
  しばらくして、ウェリントン軍が勝利したという情報
 が伝わると、イギリス国債は、この逆の動きをして買わ
 れた。
  反転して「大暴騰」となった。
  その高値で、ロスチャイルドは売り抜けた。
  巨万の富が、ロスチャイルドに残った。
  この果てしない巨万の富は、ヨーロッパ全域へ、そし
 て、世界へ、ロスチャイルドの影響力を行使できる額だ
 った。
.
1896年3月1日、第一次エチオピア戦争:(アドワの戦い)
  イタリア軍とエチオピア軍が、エチオピアのティグレ
 州アドワ近郊で戦った・・が・・
  イタリア(エチオピア征討軍)は、アドワで大敗した。
  イタリアの敗北が決定づけられた。
  19世紀は、アフリカにとって悲惨な世紀だった。
  ヨーロッパ列強各国によって、いい様に殺戮され、植
 民地化された・・アフリカの大部分がヨーロッパの国々
 によって影も形も無かった。
  アメリカの黒人の方々の『棄民目的』でリンカーンが
 造った国・リベリアと、このエチオピアのみが、アフリ
 カの独立国であった・・そのほとんどが、ヨーロッパ諸
 国の植民地などで・・蹂躙されていた。
  だが、植民地獲得の欲望が収まらないヨーロッパ各国。
  そして、このエチオピアへも侵略は行なわれた。
  エチオピア軍を率いたのはメネリク2世だった。
  イタリア軍は、補給に事欠く状況だったが、本国の命
 令でオレステ・バレティエ将軍は、1896年2月29日、進軍
 を命じた。
  この状況を察知していた優秀なエチオピア軍は、即座
 に全面攻撃が命じられた。
  イタリア軍14,527名、エチオピア軍12万人・・エチオ
 ピア軍は、各地でイタリア軍を包囲した。
  イタリア軍が撤退すれば・・追撃をし続けた。
  イタリア軍は8000名を失った・・また、エチオピア軍
 も1万名を失った。
  主力を欠いたイタリア軍は降伏をせざるを得ず、アジ
 スアベバ条約を締結した。
  エチオピアの当然の独立を承認させた・・『白人の横
 暴な行為』が挫けた事例として燦然と輝く歴史となった。
.
1898年4月25日、アメリカとスペインの戦争(米西戦争)
  この戦争もアメリカの策謀(さくぼう、たくらみ)で
 始まった。
  真珠湾攻撃も、アメリカの謀略(ぼうりゃく、人をあ
 ざむく「はかりごと」)によって始まったことは、今・
 現代では、誰でも知っていて、はっきりしていることだ
 が・・
  この米西戦争も、はっきりと、アメリカの引っ掛けの
 策謀だった。
  第二次世界大戦の大東亜戦争にも、アメリカに明確な
 「日本を潰したい」という「アメリカの動機」があった。
  そして、また、この米西戦争も、アメリカに同様に
 「スペインを潰したい」という「アメリカの動機」があ
 った。
  この年・1898年2月15日、夜9時40分、没落するスペイ
 ンの残された植民地「キューバ」のハバナ港に停泊して
 いたアメリカ戦艦「メイン号」が、謎の爆発を起こした。
  不思議なのは・・乗員の多くが爆発の起きた艦の前方
 に寝ていて、死亡してしまい・・艦長をはじめとする士
 官クラスは、不思議に、艦の後部に居て難を逃れていた。
  この時、メイン号は沈没し、260人の乗組員が犠牲と
 なった。
  また、この艦に、8名の日本人も乗船していて、6人が
 犠牲となっている。
  爆発原因は、今日に至るまで特定されず「謎となって
 いる」。
  スペインが沈没に関わったという理由も見い出されて
 いない。
  しかし、アメリカは、謎で爆発の理由が分からないの
 にもかかわらず、スペインのせい(所為)にした。
  アメリカは、爆発の原因が不明にもかかわらず、スペ
 インの仕業(しわざ)だとして、スペインに宣戦布告を
 した・・(アメリカは怖い国である)
  さらに、おかしい事に、この時、アメリカは、都合良
 く、事前に、アメリカの太平洋艦隊を「香港に集結させ
 ていた」。
  そして、このアメリカの宣戦布告で米西戦争が始まる
 と、「すぐに」、スペインの植民地であるフィリピンを
 この艦隊に急襲させた。
  そして、マニラ湾に居たスペインの東洋艦隊を全滅さ
 せてしまった・・「マニラ湾奇襲攻撃」である。
  たったの4時間の戦いだった。
  そして、フィリピンの首都・マニラも陥落させた。
  スペイン本国から、フィリピン防衛の救援に、急遽、
 駆け付けたスペイン艦隊も間に合わず・・、
  こんなアメリカの計画的な素早い行動に追い付ける訳
 は無く、このスペイン艦隊も、スエズ運河を通過したと
 ころで、マニラの陥落までの戦況が一気に進んでしまっ
 たことを知り、本国へ空しく引き上げる状況となった。
  これで、完全に、スペインの息の根は止まってしまっ
 た。
  スペインは、これで、歴史上の表舞台から消え去って
 行った。
  アメリカは、歴史上、この様な事ばかりをしている。
  米西戦争のマニラ湾の戦闘状況・・
  1898年5月1日、米西戦争のフィリピンでの最初の戦闘
 のマニラ湾海戦が行われ、6時間の戦闘で、スペイン艦隊
 は旗艦を含む3隻が沈没、4隻が炎上するなどの壊滅状態
 に陥った。
  アメリカ艦隊の被害はほぼ無傷。
  アメリカ施政者のウィリアム・マッキンリー大統領(
 在任期間1897年3月4日~1901年9月14日)は、アメリカ国
 民の方々を煽った・・「ハワイよりも遥か西に敵がいる」
 と。
  この時、アメリカは、既に、ハワイを手に入れようと
 手を打って・・そして、この様な言い方で、アメリカ国
 民の方々を煽った。
  そして、国内宣伝を行って・・煽った。
  スペイン領のフィリピンが狙いだった。
  中国進出のための橋頭保としてフィリピンが欲しいア
 メリカだった。
  そして、さらに、「フィリピンの更に西に敵が居る」
 と、アメリカ国民の方々を・・煽って行く。
  それは、台湾だった。
  日清戦争後の台湾は、日本が関係して居た。
  アメリカ施政者は、「ハワイよりも遥か西に敵がいる。
 アメリカが攻撃されるぞ!」とアメリカ国民の方々へ危
 機感を煽った。
  そして、米西戦争でフィリピンのスペイン艦隊を殲滅
 してし(1898年5月1日)続けて、ハワイを併合してし
 (1898年8月12日)・・
  そして、アメリカの目の前には、台湾(日本)があっ
 た・・そして・・日米戦争の第一幕が開いて行った。
  植民地獲得競争に出遅れていたアメリカは、この様な
 行動をしていた。
  マッキンリー大統領の使った手は・・、
  スペインに対して、「キューバでの蛮行を止めよ」と
 いう聞こえの良い正論などを言って煽った・・
  事前に・・アメリカ国民の方々は・・アメリカ世論は・・
 この様な形の発言の数々で、スペインに対する憤りで沸
 き立たされて行っていた。
  そして、1898年に、米西戦争は勃発した。
  アメリカは、90日間でキューバとフィリピンを手に入
 れた。
  「小戦争」とこの戦争を馬鹿にして発言をした高官も
 居た。
  プエルトリコ、グアム、フィリピンもアメリカに併合
 され、キューバは占領された。
  マッキンリーは、1901年に、暗殺された。
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1898年8月12日、ハワイ併合宣言・・日本の正義の抗議
  アメリカはハワイ諸島を侵略し、武力的にハワイ王国
 を併合した。
  この時、日本の大隈重信総理は、『正義の書簡』で、
 「これほど激烈で『宣戦布告か最後通牒に等しいような
 外交文書』は見たことがない」と言われるほどの抗議を
 した。
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1899年、アメリカとドイツが、サモアを分割して奪った。
  太平洋上に「サモア」という島がある。
  昔の地図には「米領サモア」とか、「独領サモア」と
 かと書いてある。
  (参考)サモア諸島:ニュージーランドとハワイ諸島
     以外ではポリネシアで最大の面積のサバイイ島
     などがある。
      アメリカ合衆国の非自治的・未編入領域と説
     明されている。
      紀元前1000年には、すでにポリネシア人の方々
     が居住されていた。
  18世紀以降、侵略され、支配される・・それへの抵抗
 という歴史の中にあった。
  19世紀後半、イギリスとアメリカが協定を結び、サモ
 ア領土の保全予約をした。
  そのサモアに、ドイツが乗り込んで来て、サモアの王
 様に「ドイツ主権を認めさせた」。
  ここから、イギリス・アメリカ・ドイツの争いとなっ
 た。
  そして、1889年、この3国が、ベルリンで会合をし、サ
 モアの独立を宣言した。
  サモアは、この様に独立はしたが、平穏なサモアとは
 ならなかった。
  乱れが、内乱が、激しくなって行った・・すると、こ
 の3国が、再び、介入して来た。
  対立はさらに激化した。
  そして、1899年、アメリカとドイツが、サモアを分割
 して奪ってしまった。
  イギリスは、棄権した。
  サモアという独立国を、当事者の「サモア抜き」で勝
 手に分割してしまった。
  正義も、何も、まったく無かった。
  アメリカは、ハワイも併合していた。
  日本は、この時、反発した。
  大隈重信外相が、何度も何度も、激しい繰り返しの「
 正義の主張」を繰り返した。
  今・現代、中国(支那)が、世界を無視し、正義を無
 視し、南シナ海、東シナ海などで領土欲むき出しの行動
 をしている・・一帯一路で、金が払えないとそれを領有
 した。
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1914年7月28、太平洋上にあるヤップ島
  第一次世界大戦前までは、ドイツ領だった。
  激烈を極めた第二次世界大戦・・特に、太平洋上の島々
 には凄まじい戦いがあるが・・
  このヤップ島には、アメリカ軍の上陸作戦は行われな
 かった。
  日本の守備軍は、終戦までこの島を維持した。
  戦争中、補給が途絶すると、日本軍は、島民と協力し
 て農業や漁業に努めた。
  このヤップ島・・1914年7月28日から始まる対ドイツの
 戦いの第一次世界大戦があるが・・
  この第一次世界大戦の前から、アメリカが、日本を敵
 視していた状況が、このヤップ島に関連して分かる。
  アメリカは、「日本と一緒にやって行こう」なんて気
 は、まったく無かった。
  太平洋の島々を手に入れて来ていたアメリカが、この
 ヤップ島にもあった。
  ヤップ島を巡る争いが生じた。
  この島は、イギリスが、「日本領にする」と決めてい
 た・・そして、日本とイギリスは約束した・・
  日本は、この約束に基づいて、第一次世界大戦へ参戦
 した。
  中国(支那)の山東省に入って青島(ちんたお)を落
 すなど、日本は、イギリスのために誠実に、忠実に、行
 動した。
  さらに、日本の海軍は、駆逐艦を地中海へ派遣し、イ
 ギリス商船などを守った。
  ドイツの潜水艦が放った魚雷の前に入って、イギリス
 商船を沈没から守ったりした。
  日本の駆逐艦は代わりに沈没してしまった。
  日本の将兵も戦死してしまうという凄(すさ)まじい
 戦闘・防戦をした。
  この時の日本の将兵の墓が、今でも、マルタ島にある。
  日本は、忠実に誠実に、イギリスとの約束を守り、そ
 して、実行した。
  しかし、このヤップ島の話は、戦争が終わると、その
 途端、アメリカが騒ぎ出した。
  アメリカは、このヤップ島を無線基地にしたいと狙っ
 ていた。
  また、アメリカ本国からフィリピンへ向けての航路上
 に日本領の島がある事をアメリカは気に食わなかった。
  アメリカには、フィリピンからシンガポールへとのさ
 らなる拡大も目論んでいた。
  既に、日本を敵視しているアメリカが、そこにあった。
  この問題は大もめにもめた・・その末に日本領とはせ
 ず、日本の委任統治領となった。
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1944年9月15日、ペリリューの戦い(~1945年11月25日)
  ペリリュー島(現:パラオ共和国)で行われた日本軍
 とアメリカ軍の戦いは熾烈を極めた。
  日本軍の守備隊長は中川州男陸軍大佐・・
  アメリカ軍は、第1海兵師団長ウィリアム・リュパータ
 ス海兵少将と第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少
 将だった。
  要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いる
 という、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術は、アメリカ
 軍を苦しめた。
  そして、この後の硫黄島の戦いへと引き継がれて行っ
 た。
  このペリリュー戦で、アメリカ軍の第1海兵師団は壊滅
 する戦いでもあった。
  「死のペリリュー戦」と言われるこの戦いは、一週間
 もあれば終わるであろうとアメリカ軍は高をくくったほ
 ど・・
  その程度だと予測するほど、アメリカ軍と日本軍との
 兵力差があった・・大きな船や多くの兵員・兵器を持つ
 アメリカ軍との間に大きな差があった。
  アメリカ軍は、日本軍の兵力の約4倍の人員を上陸さ
 せた。
  航空機は200倍、戦車は10倍、重火砲は100倍
 以上という軍事力の差だった。
  戦闘が終局に達していた1944年11月24日・・生き残っ
 た日本将兵はわずか60人足らずで、ついに日本軍総司
 令部陣地の「桜散る」の電報が打たれた。
  実に、日米の戦いは73日間にも亘って死闘が繰り返
 された。
  その結果 日本軍の戦死者 10,695名 捕虜 202名。
  アメリカ軍の戦死者 1,794名 戦傷者 8,010名。
  そして、精神に異常をきたし帰国後に精神疾患とされ
 た者が数千名いた(不眠症や離婚や色々な人生弊害者が
 出た)。
  そして、皮肉にも、この結果が・・アメリカの日本上
 陸戦を変えさせた。
  沖縄戦で新型兵器・火炎放射器を使わせた・・また、
 原子爆弾を使わせた。
  このペリリューの戦いは、日本は正々堂々と戦った。
  アメリカ軍の様な卑怯で卑劣な戦い方はしなかった。
  アメリカ軍は、フィリピンでは、フィリピンの方々を
 徴兵し、前戦へ立たせた・・卑怯な卑劣な戦い方をした
 アメリカ軍だった。
  日本は、このペリリュ―島ではペリリューの方々を、
 アメリカ軍との戦いが始まりそうになると、日本軍から
 離れさせた。
  戦争に巻き込まれないようにと配慮し、実行した。
  一般人民であるペリリュ―の方々は、陣地構築までは
 徴用していたが、日本軍は、戦闘前に強制的に戦場にな
 りそうなところから退避させた。
  ペリリュ―島の方々の死者・負傷者は共に0名である。
  その様な配慮がなされ、自分の村々へ帰島していたペ
 リリュ―の島民の方々は、戦いが終わった後に、日本兵
 の遺体には見向きもせず、アメリカ兵の自国兵の遺体だ
 けを整理していたアメリカ人を見て、憤慨した。
  そして、有り難いことに、ペリリューの島民の方々は、
 自発的に穴を掘って、こぞって、日本兵の遺体を葬り、
 墓を作って戴いた。
  そして、さらに、その後も、日本の人達がいつ来ても
 よいようにと、その後も、墓地の維持・清掃などに心掛
 けて戴いている。
  戦後統治がアメリカに移ってから・・卑劣にも 歴史
 の捏造がアメリカによって行われ・・この島での日本軍
 が、現地で虐殺をした様な記述を教科書に載せさせて、
 教えていた・・
  しかし、住民の方々や、長老の方々が、そういう事は、
 まったく無かったと指摘し、今はそうした記述は取り除
 かれた。
  この国の国旗は 青い空の黄色の太陽が模されている。
  日本の日章旗に似たものとなっている・・
  これは、独立を勝ち取った時、上記の様なアメリカに
 よる反日教育と、アメリカによって「動物園政策だ」と
 揶揄された米国よりも、誠実な日本を知る「親日家とな
 った住民の方たち」の意見で決まったという。
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1945年5月29日、横浜大空襲
  アメリカによって行われた横浜市を中心にして、無実
 の市民を狙った無差別爆撃。
  B-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機による焼夷弾攻撃
 だった。
  この日は火曜日で、天候は朝から快晴で無風状態だっ
 た。
  午前9時過ぎ、横浜上空に姿をあらわしたB29爆撃機は、
 防戦する日本軍の高射砲や機銃の弾幕の上を飛行し、高
 高度からの空爆を行った。
  降りそそぐ大量の焼夷弾によって、当時、97万の人口
 をかかえる大都市・横浜の中心部は、山手地区と山下公
 園周辺を除いて、ほとんどが燃え尽きてしまった。
  この卑劣な市民を狙った攻撃で約8,000名~10,000名の
 死者が出た。
  この時、アメリカは、実験をしたかった・・その為の
 攻撃だった・・モルモットとなった一般市民だった。
  焼夷爆弾攻撃でどのように燃え、死者や被害が、どの
 様に出て行くかのデーターをアメリカは得たかった。
  だから、被害の出やすい、燃えやすい木造住宅の密集
 地を事前に綿密に調べ上げていて、卑劣にも、また、非
 人道的にもアメリカは、この非戦闘員が集まっている住
 民を標的にする攻撃を実施した。
  アメリカ軍は、攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜
 市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃し
 た・・被害は甚大だった。
  米軍機のB-29を7機撃墜した。
  親を失った戦争孤児の浮浪児が、多数、生まれた。
  横浜の野毛の街は、この浮浪児たちが集まった・・あ
 たかも巣のように、浮浪児たちが集まった。
  また、職を失って浮浪者となった人たちも、あちこち
 に溢れた。
  戦争後になると、この様な破壊しつくされた町に、占
 領軍兵たちが町に溢れた。
  横浜大空襲で父を失った常盤とよ子氏は、この様な街
 の姿を写真撮影し、後の世に残した。
.
1945年8月、終戦の後、横浜に、沖縄を除く日本全土の連合
 国軍地上部隊を統括するアメリカ第8軍の司令部が置かれ
 た。
  都心部や港湾施設をはじめ、本牧・小港・根岸地域な
 どの広範囲が接収された。
  関内や関外地域には、占領軍兵士の兵舎が、広範囲に
 設置された。
  伊勢佐木町などの、戦前の繁華街にはアメリカ兵たち
 が闊歩した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/