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(増補版)372E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年2月~1882年3月)

2016-06-28 03:29:26 | 日記
題:(増補版)372E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年2月~1882年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年2月8日、北海道開拓使、廃止(三県一局時代)
  開拓使を廃止して、函館県・札幌県・根室県の3県を
 設置した。
  北海道には、この3県のほか、
  北海道事業管理局(農商務省の一部局)が設置されて
 いた。
  3県と事業管理局は、1886年1月26日の北海道庁の設置
 に伴って廃止された。
  1871年10月3日(明治4年8月19日)、当時の北海道開拓
 使は、北海道の開拓の目途として、翌年・1872年から10
 年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、
 いわゆる開拓使十年計画を決定していた。
  そして、開拓使十年計画の満期を迎えた1882年、当初
 の計画通り、北海道開拓使を廃止した。
  そして、その当時置かれていた北海道開拓使の札幌の
 本庁、および、函館・根室の2支庁のそれぞれの管轄区域
 に応じて、道外と同様に、県という行政区域を新たに3つ
 設定することになった。
  開拓事業については、これらの3県と農商務省管轄の北
 海道事業管理局とで、地方レベル・国レベルを各々分担
 する形で引き継がれることになった。
  北海道開拓使の廃止直前に、「開拓使官有物払下げ事
 件」が起きて混乱が生じたものの、
  1882年2月8日のこの日に、予定通り北海道開拓使に代
 わって札幌県・函館県・根室県の3県が成立した。
  これによって、北海道全体としては、初めて近代行政
 機関・近代行政区画を持つことになった。
1882年2月12日、東洋議政會(とうようぎせいかい)が結成
 された。
  矢野文雄・尾崎行雄・犬養毅ら、東洋議政会を興す。
  東洋議政会は、慶應義塾(現・慶應義塾大学)の出身
 者によって結成された明治時代前期の政治結社で、「三
 田派(みたは)」とも呼ばれた。
  慶應義塾内では、早くから演説を導入していて、三田
 演説会などの政談演説会が、頻繁に開催されていた。
  主に、急進的な「政談演説討論会」(馬場辰猪・西村
 玄道・犬養毅・波多野承五郎・大石正巳・奥宮健之・竹
 内正志ら)と、
  穏健的傾向の「政談演説会」(小幡篤次郎・鎌田栄吉・
 藤田茂吉ら)の2派に分かれていた。
  そして、馬場辰猪は、田口卯吉・末広鉄腸と共に、よ
 り急進的な「国友会」を結成していた。
  そして、この日・1882年2月12日に、明治十四年の政変
 で下野した「嚶鳴社」・「鷗渡会」の同人と協議して、
 立憲改進党の結成に参加した。
  2院制・立憲君主制を標榜して、英国流の漸進的な改革
 を目指した。
1882年2月15日、劇場取締規則
  警視総監と東京府知事が、劇場を10座に制限するな
 どの劇場取締規則を定めた。
  1877年に、「寄席取締規則」が出されているが、どち
 らも寄席・劇場に対する客席数や営業時間などを規制し
 た。
  そして、劇場取締規則においては、下劣なものを避け
 る様にとの指導がなされた(高尚なものに)。
  鑑札制度・興行届出制・臨官席設置・定員・興行時間
 が定められた。
1882年2月25日、植物学会の創立(2月15日説あり))
  これまで、動物研究者と一緒だった東京大学生物学会
 (1878年、創立)に、東京植物学会が創立された(植物
 専攻研究の始め)
  機関誌「植物学雑誌」も、この年に創刊された。
  尚、東京大学生物学会は、植物学者が、この時に脱会
 した後、東京生物学会と名を改めた。そして、1885年に、
 東京動物学会と名を改めた。
1882年2月25日、九段遊就館ができた。
  靖国神社の祭神の霊を慰め、その徳を頌する(しょう
 する、ほめる)ため絵馬堂を兼ねて祭神の遺物を陳列す
 る所とし、1878年(明治11年)に、陸軍卿・山県有朋そ
 の他の主唱によって、西南戦争の際に献納された華族の
 恤兵金(じゅっぺい、兵士の慰問)の一部で建築に着手
 した。
  1882年、幕末維新の新政府軍(官軍)戦没者ゆかりの
 品を展示する目的で開館した。
1882年2月25日、参議・伊藤博文らが、憲法、及び、制度研
 究のため西欧諸国へ差遣を命じられた。
  さかのぼること1881年6月~7月にかけて、法律と政治
 を司る法政官僚の井上毅が、
  ドイツ人の法律顧問・ロエスレルに意見を聞いて、憲
 法に関する綱領をまとめ、岩倉具視に示していた。
 (1)欽定(きんてい、君主による制定)憲法とすること。
 (2)プロイセン=ドイツ流の漸進主義とする。
  急激な改革はしないで、徐々に進む形にする。
 (3)陸海軍の統率、宣戦と講和、外国との条約などは天皇
 陛下の大権とする。
 (4)元老院と、国民の選挙で選ばれる民撰議院を設ける=
 二院制とする。
  この頃、大隈重信は、イギリス流の二大政党政治を主
 張していたが、
  伊藤博文や、岩倉具視は、君主制イギリス流は急進的
 過ぎ、また、革命思想が強いと考えていた。
1882年2月、福島事件(自由民権運動の民権激化事件)
  福島県令が、三方道路建設を計画し、無償で工事に従
 事することなどを決定して、農民の反対運動が起こった。
  この年の2月に、県令に着任した三島通庸は、着任すぐ
 に、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道
 (会津三方道路)の工事をするために、
  会津地方六郡下の15歳から60歳までの男女を、2年にわ
 たり、月一日人夫として働くか、一日につき男15銭、女
 10銭の人夫賃を出すかと布告した。
  さらに、工事に従事しない者の財産は、競売に出すな
 どとした。
  この布告に、県会議長・河野広中らと福島県会は反発
 した。
  各地で、三島非難の演説会が開かれた。
  春から8月までに、36回余りの演説会が開かれ、うち
 19回が解散させられた。
  警察の弾圧が激化した。
  その様な中、福島県会が開会し、県側から、前年度2.5
 倍の地方税増税が提案された。
  これにも県会は抵抗し、否決に追い込んだ。
  しかし、三島県令は、内務卿・山田顕義から「原案執
 行」の特別許可を得て、県会の議決を事実上無効にした。
  さらに、三島は、自由党に対抗するため旧会津士族か
 らなる帝政党とつくった。
  そして、民権家を襲わせ、流血事件が続発した。
1882年2月、桑原紡績所が開業した。
  1870 年代末から1880年代にかけて、明治政府による紡
 績機械の輸入と、民間への払い下げを通して、
  綿糸紡績業が始動し始めた。
  当時導入された紡績機の紡錘数は2000であり、この紡
 錘機1基をもって一工場とする小規模な操業であった。
  (注)紡錘(ぼうすい):糸をつむぐとき、その糸を
    巻きつける心棒。
  桑原紡績所は、大阪府に所在し、政府の保護の立て替
 え払いを受け、2000の錘で操業した。
1882年3月1日、 「日本銀行創立ノ儀」
  松方大蔵卿「日本銀行創立ノ議」を建議する。
  松方正義大蔵卿、中央銀行設立・外国為替取引などを
 太政官に提出。
  明治維新以降、わが国は、富国強兵策によって、列強
 に伍することを目ざし、積極的な殖産興業政策を展開し
 ていた。
  しかし、財政的基盤のまだ固まっていない政府は、そ
 の資金の調達を不換紙幣の発行に依存せざるを得なかっ
 た。
  そうした中、明治10年、不平士族が立ち上がり、政府
 は、これに対処する事態となった。
  特に、1877年2月、西南戦争が勃発し、大量の不換政府
 紙幣、不換国立銀行紙幣が発行された。
  このことから、激しいインフレーションが発生してし
 まった。
  そこで、1881年、大蔵卿(現在の財務大臣)に就任し
 た松方正義は、不換紙幣の整理をはかるため、正貨兌換
 の銀行券を発行する中央銀行を創立した。
  それによって、通貨価値の安定を図るとともに、中央
 銀行を中核とした銀行制度を整備し、
  近代的信用制度を確立することが不可欠であると提議
 した。
  こうして、明治15年(1882年) 6月、日本銀行条例が
 制定され、
  同年・1882年10月10日、日本銀行が業務を開始するに
 至る。
1882年3月1日、 「時事新報(日刊新聞)」 が公刊した。
  日刊新聞の創刊ラッシュの時代だった。
  福沢諭吉が、「時事新報」を創刊し、官民調和を唱え
 た(主宰・福沢諭吉)
  慶應義塾大学、及び、その出身者が全面協力して運営
 され、
  創刊に当たって・・、
  「我日本国の独立を重んじて、畢生(ひっせい、一生
 を終わるまでの期間、終生)の目的、唯国権の一点に在
 る」・・と宣言した。
  創刊時より、国権論的主張を展開し、社説には、朝鮮
 に関する論説や、中国に関わる様々な形の東洋政略を論
 じたものが極めて多かった。
  この国権論は、慶応同窓に引き継がれ、条約改正問題
 や、朝鮮問題に際し影響を与えた。
  創刊よりの「国権皇張」「不偏不党」を掲げて発行部
 数は伸びた。
  ロイター通信社とも独占契約を、1896年に締結した。
  福沢諭吉の経営する「時事新報」の編集部は、三田の
 慶応義塾内にあった。
1882年3月1日「速達列車」
  「速達列車(そくたつれっしゃ)」とは、主要な駅だ
 けに停車し、目的地に早く到着する列車のことをいい、
 優等列車とも言った。
  新橋~横浜間の鉄道が、ダイヤ改正で1日で14往復にな
 った。
  このうち、4往復は、途中の品川と神奈川だけに停車す
 る速達列車で、所要時間は45分に短縮された。
  急行列車の始まり。  
  鉄道の創成期は、すべての列車が各駅停車だった。
  路線が長くなるに従い、長距離の利用乗客に対し、速
 達サービスの停車駅を限定する列車が出現した。
  そして、1882年3月、新橋~横浜間で、品川と神奈川に
 のみ停車する列車を「急行」と称した。
1882年3月1日、軽便鉄道の工部省鉱山局・釜石鉄道が、旅
 客運輸を開始した。
  工部省釜石鉄道の経緯:
  1880年2月17日、工部省釜石鉄道として、釜石桟橋~大
 橋間18kmの本線と、小佐野~小川山(わらびの)間4.9km
 の支線、さらに、工場への支線を含めた総延長26.3kmの
 鉱山専用鉄道として試運転を開始した。
  1880年9月7日に、製鉄所と鉄道の仮開業式が執り行わ
 れた。
  これは、新橋駅~横浜駅間鉄道と、京都駅~神戸駅間
 鉄道に続く、日本で3番目に開業した鉄道だった。
  軌間は838mm(2フィート9インチ)の特殊なものであっ
 たが、レールは16kg平底と丈夫なものを使用した。
  機関車は、英国シャープ・スチュアート社から輸入し
 たサドルタンク式の3両を使用した。
  1882年3月1日に、製鉄所の燃料用の炭焼竃の大半が、
 失火により焼失して、製鉄所が休止した。
  そして、それに伴い、遊休施設となった釜石鉄道は、
 一般へ開放され、旅客運輸を開始した。
  1882年12月、官営製鉄所の操業停止と、鉱山閉山によ
 り、鉄道が全廃された。
  燃料となる木炭が不足したことと、代替燃料となるコ
 ークス使用の目処が立たなかったことが原因だという。
  機関車2両と軌条は、大阪の阪堺鉄道(現、南海電気鉄
 道)へ売却された。
  近代化へ苦悩する明治政府だった。一朝一夕で、今が
 あるのではない。
1882年3月10日、日本最初の鉄道連絡船。
  琵琶湖の湖上連絡船・大津~長浜間航路が開業した。
  1882年(明治15年)、琵琶湖上で、長距離航路を運営
 する多数の会社が合同し、設立された。
  その後、いくつかの会社を吸収し、琵琶湖最大の船舶
 会社となった。
  同年・1882年に、金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)から長
 浜駅までの鉄道が開通したのを受けて、
  日本初の鉄道連絡船が、大津駅(現在の浜大津駅)ま
 での区間に就航した。
  この航路は、翌年・1883年(明治16年)に、長浜駅か
 らの鉄道が東海道本線に接続されてから、
  1889年(明治22年)に、湖東線(関ヶ原駅~米原駅~
 馬場駅(現在の膳所駅))が開業するまでの間、東海道
 の交通を担っていた。
1882年3月13日、立憲帝政党(りっけんていせいとう)が結
 成された。
  この日の1882年3月13日に、自由党、立憲改進党などに
 対抗し、
  東京日日新聞社長の福地源一郎、明治日報の丸山作楽、
 東洋新報の水野寅次郎によって結成された。
  4月4日には、大阪で、機関紙である大東日報を創刊し
 た(社長:羽田恭輔・主筆:原敬)
  立憲帝政党は、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙・
 シビリアンコントロール・司法の独立・言論の自由など
 を党議綱領に掲げた。
  自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、
  国学者、旧士族層や有力商人、高級官吏、神官・僧侶
 らなどの体制擁護を意図した。
1882年3月14日、伊藤博文が、西園寺公望らと欧州へ憲政視
 察(憲法調査・取調べ)で出航した(帰国は1883年8月3
 日)
  伊藤博文が、「憲法取調の大命」を受け、横浜を出帆。
  5月にベルリンに到着し、
  ドイツの憲法学者・ダナイスト、モッセラについて講
 義を受けた。
  しかし、伊藤は、「文字言語の不通」のうえ、きわめ
 て系統立ったモッセの憲法講義に、すっかり厭(あ)き、
  そして、疲れ、自信を失い、その困難をしきりと日本
 政府の参議・山形有朋や井上馨らに訴えていた。
  しかし、8月8日、オーストリアに入り、ロレンツ・フ
 ォン・スタイン邸を訪れてから、にわかに元気になった。
  岩倉具視にあてた手紙に「スタイン博士の講話は、私
 の感銘を興起せしめました」とある。
  「私は、グナイスト、スタインの両師について、国家
 組織の大体を了解することができ、
  皇室の基礎を固定し、大権を失墜させないための大眼
 目を十分に相立てました。・・
  いま、わが国の現情は、自由過激論者が英・米・仏流
 の思想を誤信し、
  ほとんど国家を傾けんばかりの勢いでございますが、
 これ挽回する論理と手段とを、私がつかみましたことは、
 報国の赤心を貫徹する時機において、その効果をあらわ
 す大切な要具になると存じます。
  私は心ひそかに死場所を得た心地です」
  (1882・8・11、岩倉宛伊藤博文書簡)(原文のまま)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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(増補版)371E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年2月)

2016-06-26 05:47:19 | 日記
題:(増補版)371E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年1月1日、全国人口が、3670万人118人
  東京:98万2143人、
  横浜:7万人と・・15年間で倍になった。
1882年1月1日、刑法・治罪法(ちざいほう)が施行された。
  1880年7月17日に、太政官布告37号で制定され、公布さ
 れていた日本で最初の近代的刑事訴訟法典。
  御雇外国人のG・ボアソナード (フランス人) が、フラ
 ンスの治罪法を基礎に、
  諸国の法を参照し、原案を起草した。
  それを、元老院において修正のうえ公布していた。
  1890年に、刑事訴訟法の施行によって廃止された。
  この法律の制定以前の明治初頭においては・・
  日本の刑事法制は、律令法制の復活に始まり、
  1870年の新律綱領、そして、
  1873年の改定律例とあいついで制定された。
  しかし、ヨーロッパ近代法(特に、フランス法)を範
 とした刑事手続の近代化の動きも、個々的に進められて
 いた。
  そして、治罪法制定までの間に、改定律例の自白によ
 る断罪を定めた規定の廃止や、
  証拠裁判主義や、
  1876年の自由心証主義の採用や、検事の公訴による国
 家訴追主義、
  そして、予審、保釈、裁判公開などの制が確立された。
  1878年の弾劾主義の確立、
  1879年の拷問の廃止などの法改革も進められていた。
1882年1月4日、陸軍および海軍に「軍人勅諭(ぐんうじん
 ちょくゆ)」が発布された。
  元となったのは武士道の考え方・・で、
  それまでの武士階級の規範だったものを・・国民一般
 の軍人の規範とした。
  忠節、礼儀、武勇、信義、質素が5つの柱となっている。
  西周(にしあまね、幕臣、官僚、啓蒙思想家)が、起
 草し、
  福地源一郎・井上毅・山縣有朋‎によって加筆修正され
 た。
  天皇陛下より下賜された当時、西南戦争・竹橋事件・
 自由民権運動などの社会情勢によって、世の中の状況に
 不安があり、また、設立間もない軍部に動揺が広がって
 いたため、
  これに対して精神的支柱を確立する意図で起草された
 ものされている。
  1878年(明治11年)10月に、陸軍卿・山縣有朋‎が、全
 陸軍将兵に印刷し、配布した軍人訓誡が元になっている。
  特に、「忠節」の項において、「政論に惑わず政治に
 拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じている。
  また、戦いに於いては、「普段は命を無駄にせず、け
 れども時には義のため、国のために、命を捨てよ」と命
 じている。
1882年1月8日、京都に体育演武場が開場した。
1882年1月15日、フランス人画家・ビゴーが来日した。
  ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーは、明治時代の
 日本で17年間にわたり活動した。
  当時の世相を伝える多くくの絵を残した。
  ビゴーは、1876年(16歳)の時に、フランスの国立高
 等美術学校であるエコール・デ・ボザールを退学し、
  その後、日本美術愛好家として知られたフェリックス・
 ビュオや、アンリ・ゲラールから日本美術についての知
 識を得た。
  また、挿絵の仕事で出会ったエミール・ゾラや、エド
 モン・ド・ゴンクールなどからも、ジャポニスムの魅力
 を知るようになった。
  そして、1878年に、フェリックス・レガメが、旅行記
 『日本散策』を出版したりして、日本ブームだったこの
 年、
  パリ万国博覧会で、浮世絵と出会い、興味をより強く
 抱いた。
  1880年には、美術研究家ルイ・ゴンスによる大著『日
 本美術』の挿絵の一部を担当した。
  1881年より、人気の作品の挿絵を担当するなど活躍し、
 フランスで高い知名度を得ていた・・が、
  東洋の高い文化の国・日本への思いは強く、日本への
 渡航を決断した。
  そして、21歳の1882年のこの年、マルセイユ港を発ち、
 来日した。
  日本でのビゴーは、陸軍卿・大山巌の尽力で、御雇外
 国人・絵画講師としての高給の安定した生活を得た。
  そして、日本の隅々まで見て回り、スケッチした。
  また、幸い、その画集が好評を得て、御雇外国人の契
 約が切れた後も、経済的な支えとなり、日本に住み続け
 た。
  1885年~1887年頃に、中江兆民の仏学塾でフランス語
 を教え、塾で自由民権家とも接し、運動を知った。
  また、1885年に、日本の新聞「団団珍聞」への漫画寄
 稿や、
  1886年、「郵便報知新聞」の掲載された小説の挿絵の
 仕事を得たり、
  また、1886年に、フランス新聞社の「ル・モンド・イ
 リュストレ」や、イギリス新聞社の「ザ・グラフィック」
 などから、日本を題材とした報道画家の仕事を得た。
  しかし、ビゴーは、当時の日本の悲願である条約改正
 については理解を示さず、
  当時、居留する外国人と同じ意見である「条約改正は
 時期尚早である」の立場を取り、
  また、「日本の近代化にはまだ時間がかかる」との立
 場にいた。
  そして、日本にとって手痛い風刺画を、自分で発行し
 た風刺雑誌「トバエ」に描き、発表した。
  そのため、日本での身の置き所の心配が生じ、警察も
 注意を配すべき外人とした。
  例えば、必死に条約改正をしようと鹿鳴館で苦労する
 日本女性の休息室をのぞき見し・・、
  疲れて休んでいる女性の姿を・・皮肉たっぷりに描い
 たりした。
  また、身だしなみを整え、鹿鳴館で対応する日本の紳
 士・淑女を、
  鏡の前に立ったその姿と、鏡に映ったその姿をビゴー
 は描き、
  鏡の中に居るその日本の紳士・淑女は、みすぼらしい
 姿であると描いている。
  いたずらに、日本を見下し、バカにした風刺画といっ
 たところで、
  何らそこには、高貴な叡智溢れる風刺の姿はない。
  ただ、低劣な蔑(さげす)みの皮肉な風刺画がある。
  しかし、日本に居留する外国人たちには人気があった。
  酒を注がせ、脇に女性を侍らせ、料理を食べながら、
 西洋に追い付け追い越せと勉強している外交官を描いた
 りしている。
  まったく、正しく、正当に日本を見ていない「風刺屋・
 皮肉屋」がそこにいた。
  ビゴーの絵で、ロシアの監視下で、中国(清)と日本
 が、一生懸命、朝鮮という魚を釣り上げようとしている
 絵は有名であるが・・、(まだ、ちょんまげ姿の日本に
 している)
  教科書にも載っているこの絵なのだが・・、
  ビゴーは、自分の国・フランスやイギリスが、麻薬と
 いう卑劣な商品を用いて、それを売りつけるという行動・
 戦争によって、清国をとことん虐(いじ)め、奪った過
 去の残酷な歴史については、何も語っていない。
1882年1月21日、大日本山林会が設立された。
  現在も存続し、活動している本会のホームページには、
  「大日本山林会は・・、林業の改良・進歩を目的とし、
  明治15年1月21日創立されました。
  爾来130年有余を数え、わが国で最も長い歴史をもつ
 伝統ある林業団体です。
 この間、大正4年4月5日には、社団法人の認可(農商務
 省)を得、
  歴代総裁には皇族を奉戴いたしております。
 新公益法人制度の施行に伴い、平成22年10月1日付けで、
 公益社団法人に移行しました」・・とある。
1882年1月23日、大阪府、旧堺県の和泉・河内・大和の合併
 に当たり、
  同地方の鍼灸、水蛭、吸玉による治療の新規開業を禁
 止した。
1882年1月24日、神官の教導職兼補を廃止。
  自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セザルモノ
 トス。
  明治十五年一月二十四日内務省達乙第七号
1882年1月25日、条約改正協議の「第1回各国連合予議会」
 が開催された。
  議長は、井上馨外務卿。
  日本や、中国には、イギリスやアメリカなど、外国に
 警察権を奪われた地があったり、また、行政権まで奪わ
 れた地があったり(中国の租界など)、
  自分たちのお好みのシステムに組み込んで、日本など
 の国家主権を好きに牛耳っていた。
  関税や裁判権なども牛耳られていた。
  また、欧州やアメリカなどの内のある国が、条約で得
 た「旨味のある権利」は、
  自動的に、他のアメリカやヨーロッパの他の国へも適
 用する事という・・まったくバカげた片務的な最恵国待
 遇が設けられていた。
  アメリカ・ヨーロッパが連合して弱小のアジアを牛耳
 る「まったく、不平等な条約」となっていた。
  強者のアメリカ・ヨーロッパ諸国の・・
  強者による、弱者への収奪以外の何物でもなかった。
  日本の地であっても、日本の法律が聞き入れらない悲
 しさ、
  そして、日本の裁判も・・無視された(治外法権)
  そして、日本に入って来る外国製品に関税を掛ける自
 由も奪われていた。
  イギリスが、卑劣な麻薬を中国へどんどん売った様な
 悪行為に対しても・・阻止する手はもがれていた。
  また、イギリスは「自由貿易の旗手」だなんて美しい
 事を言っているのに、
  日本の関税は低くさせて、イギリス品は日本に輸出し
 やすくしたのに、
  日本品のイギリスへの輸出品には、その5倍以上の関税
 を掛けた。
  どこが「自由貿易の旗手なのだ」と言いたい。
  アメリカなどは、そのイギリスの2倍という卑劣さだっ
 た。
  (アメリカは、日本の17倍以上の関税を掛けた)。
  日本の研究者は、その5倍や17倍の不平等さの半分でも
 改善されれば、日本の農民が税金で苦しむ事もなかった
 と言う(日本の間接税は全廃できた・・と)。
  財政難の日本は、この様な差別から国庫を潤す事も出
 来なかった。
  国内産業の発展にも「大きなブレーキ」がかかった。
  外国商人は、日本の法律の外の地位で、貿易で多大な
 利益を得て、さらに、日本の貿易を左右していた。
  その様な、程度の悪い、卑劣な条約内容だった。
  そして、この年・1882年、条約改正予議会が開催され
 た。
  (条約改正会議の開催は、1886年になった、そして、
 鹿鳴館は、1883年に落成する)。
  予備会議は、この年・1882年1月25日に、東京の外務省
 で第1回が開かれ、
  フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した(
 アメリカはこの時は参加しなかった)。
  この後になって、アメリカ合衆国とベルギーなども加
 わって、1882年7月27日まで計21回、開催された。
1882年1月、東京日日新聞と東京横浜毎日新聞の間で、主権
 所在論争が起こり、加熱した。
1882年1月、玉島紡績所が開業した(1881年説あり)
  岡山県繊維産業の勃興の端緒。
  1888年に、倉敷紡績が設立されたりしている。
  倉敷市児島地域の繊維産業は、明治時代に入り、由加
 山の参拝客が減少し、土産物として人気のあった真田紐、
 小倉帯地が売れなくなったことから、県外に販路を拡大
 するとともに、袴地や前掛地に転換していった。
1882年1月、井上馨が、条約改正に着手する。
  1882年~1887年頃に、井上馨は、条約改正に尽力した
 が、
  外国人判事任用問題で非難をあびて失脚した。
  日本に国力がまだ無く、
  外国は、日本の改正行動に対し、高をくくっていた(
 大したことはないと見くびっていた)。
  鹿鳴館など、欧化政策を必死にしていたが、まだ、し
 っくり身についていない日本の西欧化は・・蔑まされる
 面もあった。
  (ビゴーの風刺画は、風刺・ウィット(機知)と言う
 より蔑みである)
  そこには、日本の猿まねという見方があった。
  屈辱的な不平等条約を押し付けた欧米外国側に、その
 責任があるのに、その点へは、まったく思いは及んでい
 なかった。
  軍事力もまだない、そしてまだ、文明の未発達の日本
 だった。
  健気に、必死に歩んでいる日本、その日本の井上馨の
 涙ぐましい努力も、その様に受け取られていた。
  また、苦労をしている庶民サイドからも、鹿鳴館的な
 行為は、良くは感じられていなかった。
  当の在日外国人からも強く批判される鹿鳴館だった。
  また、舞踏曲の日本の演奏もまだまだ未熟であった。
  愛おしい明治の方々・明治人の一時期の出来事だった。
  結果は、功を奏さず。
1882年1月31日、日本初の生命保険金の受取人が出たことが
 報じられた。
  この生命保険会社ができたのは前年・1881年7月で、そ
 れから半年を過ぎ、加入者も1000名に達した頃の、
  1月20日に、心臓病で急死した警部長で、支払われた保
 険金は1000円。
  当人が払った保険料は30円だった。
  因みに、当時の1000円は、小学校教員の初任給の約200
 倍に相当した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)370E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年1月)

2016-06-22 04:09:16 | 日記
題:(増補版)370E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年、住:
・1882年11月1日、米国のブラッシ会社より、初めて発電機
 が移入され、銀座二丁目に2000燭光の弧光燈の電燈が灯
 された。
  東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)には、
 連日、大勢の人が見物に訪れた。
  翌年の1883年には、京都の祇園に、この電気の街灯が
 登場し、
  そしてまた、その翌年の1884年には、大阪の道頓堀に
 設置された(その場に据え付けたバッテリーから電力を
 供給する形だった)
  発電所からの電力供給が始まったのは、1886年で、
  室内電燈は、1887年1月に、鹿鳴館の室内に、日本で初
 めて、室内電燈が灯った。
  次いで、皇居に、1889年1月6日に、電燈が灯され、
  営業用に電燈が使われるようになったのは、1890年11
 月の浅草・凌雲閣だった(12階の塔、お雇い外国人のイ
 ギリス人の設計、関東大震災で倒壊)
  東京電燈(日本で最初に誕生した電力会社)は1886年
 に設立され、火力発電所を、日本橋・茅場町や、麹町な
 ど、5か所に建設した。
  その後、次々と電力会社が誕生し、
  1888年:神戸電燈、
  1889年:大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈、
  1890年:品川電燈、横浜共同電燈、深川電燈、熊本電
      燈、
  1891年:帝国電燈・・などが火力発電所を建設した。
  1894年に、日清戦争が始まると、電力が不足し、東京
 電燈は集中発電所として、浅草発電所を完成させた。
  浅草発電所の発電機は、石川島造船所が制作したもの
 で、交流200kw。
  ドイツのアルゲマイネ社の発電機を併用した。
  この発電機が50サイクルで、
  同時期に大阪電燈が採用したGE社の発電機が60サイク
 ルで、この違いが、現在まで続く日本の周波数の違いの
 起源となった。
1882年、その他:
・1882年6月25日に、東京で、鉄道馬車(てつどうばしゃ)
 が開通した。
  都市交通機関の軌道上に馬車を走らせるという輸送手
 段の東京馬車会社が、
  新橋~日本橋間の開通・開業させたのが最初。
  1882年10月1日までに、日本橋~上野~浅草~本石町~
 日本橋の循環線を完成させた。
  1372ミリメートル幅の軌道上を、定員24~28名の客車
 1両を、2頭の馬が牽引(けんいん)した。
  乗合馬車に比べてたいへん快適とされ、この後、主要
 都市の市街交通機関となった。
  1891年に大阪に、そして、1898年には函館(はこだて)
 でも開通した。
  しかし、京都の市街電車をまねて、東京でも1903年(
 明治36年)、東京馬車鉄道が電車に変わった。
  そして、地方都市でも、次第に、鉄道馬車は電車や、
 ガソリンカーに代わり、市街電車の普及により廃止され
 て行った。
  1914年の第一次世界大戦前までには、ほぼ姿を消した。
  尚、これにさかのぼること1869年、北海道茅沼炭坑で、
 軌道上を牛が炭車を引く方式が採用されたが普及しなか
 った。
  因みに、鉄道馬車の普及の前に、普及していた乗合馬
 車は、1877年9月には、雷門~新橋間のものだけで、車両
 数が87もあり、また、1日の平均売上げが、100円にも達
 するという盛況を見せた。
  しかし、1882年6月に、鉄道馬車が開設されると、次第
 に、中央部から駆逐され、
  1910年には、東京市内の乗合馬車はまったく姿を消し
 た。
・民の中に、馬にひかせる二輪車が使われ出した。
  日本における馬車の歴史は・・、
  運搬の手段としての馬は、古くから用いられていて、
  古代律令(りつりょう)制においては、駅制が整備され、
 駅馬も制度化された。
  しかし、これは、車を引かせるものではなかった。
  馬に人が乗ったり、馬の背に荷物を乗せて運んだので、
 こうした車を使用しない馬の使用は、ずっと後まで続い
 た。
  畜力による車としては、牛車(ぎっしゃ)だった。
  しかし、牛車に乗れる人は貴人に限られ、一般庶民は
 徒歩がほとんどで、
  駕籠(かご)や、馬の背を利用できる人も限られた人た
 ちだった。
  荷物を運ぶのも、人や馬の背によって行われ、駅から
 駅を付け通しする中馬(ちゅうま)制度も、車を用いるも
 のではなかった。
  日本における馬車の出現は遅く、幕末になってからで、
 横浜居留地の外人が私用に使ったり、
  外国の公使館が、幕府のある江戸とを往復するために
 用いたのが最初といわれている。
  こうした、馬車の使用を見た横浜の川奈幸左衛門ら数
 名が、1869年(明治2年)2月、乗合馬車の営業を出願し、
 出願者が共同で、成駒屋(なりこまや)という店名で、
  1870年9月、営業を開始した。
  2頭立てで乗客は6人、東京までの所要時間:4時間、運
 賃は75銭だった。
・共同運輸会社・大日本山林会・大日本水産会が設立。
 ☆共同運輸会社(きょうどううんゆかいしゃ)は、
  三菱会社の海運独占による高運賃に対抗し、1882年、
 三井資本を中心に、政府出資も得て、設立された海運会
 社だった。
  維新政府の海運振興策によって、1875年以来、船舶の
 払下げや助成金の交付などで、特別の保護・助成を受け
 て来た三菱会社との間に、
  運賃ダンピングによる死闘が展開された。
  両者が共倒れの危機となって、こうした状態を是正を
 し、海運業の一層の発展を図るため、政府が、仲介し、
  (政府は、三菱の海運界の独占を是正したいと、共同
 運輸会社の設立に対して、半額出資していた)
  1885年9月、三菱と共同運輸は合併し、10月、半官半民
 の日本郵船として開業となった。
 ☆大日本山林会(だいにほんさんりんかい)は、
  この会が設立されたのを契機として、全国各地に組織
 された民間の林業を指導した。
  大日本山林会は、1879年に、山林に関する学術知識を
 交換論究するために設立された山林学共会を先駆として、
  そして、この年・1882年に、山林共進会の開催を機に
 設立され、
  国内外の森林・林業の発展を図ることを目的とする公
 益社団法人。
  初代会頭:伏見宮貞愛親王(1882年1月~1915年4月)
  事業:
  (1)森林・林業に関する指導・普及・普及
  (2)森林・林業に関する政府への提言
  (3)森林・林業に関する調査・研究
  (4)雑誌『山林』の発行
  (5)小林記念林業文献センターの運営
 ☆大日本水産会(だいにほんすいさんかい)は、
  水産業者の養成を目的として設立した民間の教育機関。
  水産業に関係する生産者、加工業者、流通業者、小売
 販売会社など、約400の会員で構成される業界団体(一般
 社団法人)。
  沿革:
  1882年2月、「大日本水産会」が創立され、
  小松宮彰仁親王を会頭に奉戴し、品川弥二郎を初代幹
 事長に選出した。
  事業:
  (1)水産業会の意見を国の施策に反映させる。
  (2)漁業における国際会議や地域管理機関などの活動
   をNGOの立場で支援する。
  (3)漁船から食卓までの品質衛正管理の向上を目指す。
・この年になされた郵便関係のこと:
  ・郵便葉書取扱手続を制定した。
  ・郵便集配人の被服制定が改正された。
  ・駅逓局に運輸課が置かれた。
  ・外国書留郵便物の事故には、万国郵便連合条約によ
   り弁償金支払。
  ・郵便物の留置は私書函貸与に限ること:受取人の願
   による取扱禁止。
  ・郵便条例公布。
   1873年太政官布告97号・1873年制定された郵便規則
   により郵便事業官営と全国均一料金制を採用。(後に、
   郵便条例(1882年)などに整理される)
  ・郵便条例公布:郵便為替を12章に、駅逓局貯金を13
   章におさむ。
  ・府県管内地方郵便を「約束郵便」と改称。
・慈恵病院が創業した。
  1882年8月 高木兼寛が、有志共立東京病院を開院。
  1887年4月 当時の皇后陛下(明治天皇陛下の皇后・昭
 憲皇太后)より、「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と
 改称した。
  現:東京慈恵会医科大学附属病院
・この年のコレラ流行で、3万3784人が死亡する。
  幕末から明治にかけて「三日コロリ」「虎列刺(これ
 ら)」「虎狼痢(ころり)」「暴瀉病(ぼうしゃびょう)」
 とよばれ、非常に恐れられた。
  1877年には、西南戦争の戦線でコレラが発生し、帰還
 兵によって全国に感染が広がった。
  以後、1879年、1882年、1886年も多くの犠牲者が出た。
  この様な事態に、明治政府は、衛生、防疫体制の整備
 を急ぎ、
  1879年に「虎列刺病予防仮規則(太政官布告第23号)」、
  1880年には「伝染病予防規則(太政官布告第34号)」
 を公布した。
  伝染病予防法心得につき県達前書、明治14年11月11日
  目今、本邦流行伝染病中、最モ予防注意ヲ要スヘキハ
 虎列刺、腸窒扶私、赤痢、実布垤利亜、発疹窒扶私、痘
 瘡ノ六病トス。
  而テ各種ノ病症ニ従ヒ、予防ノ法モ亦其趣ヲ異ニスト
 雖モ、其要領ハ之ヲ約スルニ四項ニ出テス。
  其一ハ、病毒ノ萌動及ヒ蔓延ノ因ヲ除却スルニアリ(
 即チ清潔法)
  其二ハ、各人体中有スル所ノ感受性ナカラシムルニア
 リ(即チ摂生法)
  其三ハ、病毒伝播ノ媒介ヲ隔離スルニアリ(即チ隔離
 法)
  其四ハ、伝染病毒ヲ消滅スルニアリ(即チ消毒法)
  右ノ四項ニ依リ、予防ノ事ヲ施サヽルヘカラス。
  故ニ其大意ヲ示スコト左ノ如シ(後略)
・下岡蓮杖が、浅草に写真館を開業した。
  1862年、蓮杖は、40歳で、横浜の野毛、ついで、弁天
 通5丁目横町で写真館を開業した。
  これが、横浜における営業写真館の最初であるという。
  明治15年(1882年)、蓮杖は、浅草公園第五区に写真
 館を移した。
・田鎖綱紀(たくさりこうき)が、速記文字を創案、習う
 者多し。
  大学南校で鉱山学をまなぶかたわら、在学中、偶然に
 目にした欧米の速記記号に興味を抱いて研究を始め、
  グラハム式の英語速記法をもとに、日本語速記法を考
 案した。日本語速記術の創始者。
  欧米の速記術を研究して日本語速記法を考案、明治15
 年(1882年)に、「日本傍聴筆記法」を発表し、速記普
 及につとめた。
  弟子たちは、帝国議会発足と同時に貴族院、衆議院の
 速記者として活躍したが、
  自らは、仕官を好まず、もっぱら速記普及の全国行脚
 に努めた。
  終生、速記記号を日本文字にとの願いを失わなかった。
  明治27年、藍綬褒章。著作に「新式速記術」など。
・スダレを豪州に輸出した。
.
 (今日の言葉)
.
  題:アメリカが言う屁理屈・・
.
  その言葉は、人類の『負の遺産』。
  人類の『負の遺産』に、まさになろうとしている。
  後々の世まで、大きな弊害を、人類に与え続けて行く・・
  その、計り知れない大きなマイナス要因を人類社会へ
 与えている。
  その様な・・恐ろしさがある・・、
  アメリカのその屁理屈は・・キリスト教の教義「目に
 は目を」の「同罪報復」から来ている・・
  「同罪なら報復しても良い」という考え方・・その教
 義に・・
  考え方を、洗脳され、マインド・コントロールされ・・
  アメリカは・・これによって・・「広島・長崎に原爆
 を投下した」・・実行した・・
  「広島・長崎の原爆投下」は、『真珠湾の報復だった』
 ・・『報(むく)いだった・・』・・だから・・だから、
 アメリカは、正しいのだ・・投下は正しいのだと言う・・
  そして・・また言う・・「広島・長崎に原爆投下をし
 なかったら」・・もっと多くのアメリカの青年が死んで
 いたと、だから、広島と長崎に原爆投下したのだと、
  アメリカは悪行を糊塗して言った・・が・・しかし・・
  これは、研究者が間違いだと指摘している・・
  この様な論理や数字は成立しないと・・
  「広島・長崎の原爆投下による死者の数の方が多い」
 と言う・・しかし・・
  しかし、しかし・・このキリスト教的な・・同じ数な
 ら同罪報復だから良いとか・・多い死者数だから投下し
 て良いとか・・、低劣きわまりない・・キリスト教的発
 想・考え方の低劣さ・・??
  恐ろしい正当化の理論である・・、
  誰が何と糊塗しようと・・何しろ、このキリスト教の
 教義の考え方は、正しくない・・正義でも何でもない・・、
  ある話を・・する・・、
  もしもの・・仮定のはなし・・、
  Rや・・Cという国が・・、
  「Aという国は、自分を正当化して・・なんだかんだ
 と無実の人々を、何人も・・、
  歴史の今までに、何人も・・何人も・・殺して来た。
  だから、これから先も、この様に・・何人も、何人も、
 人々を・・無実の人々を殺して行くだろう・・だから・・
  だから、だから・・その様なことをしない様に・・こ
 のAなる国へ、原爆を投下しても正義なのだ・・」・と、
  これから、Aの国に殺される多くの人々を救う事にな
 るから・・と・・
  こういう論理が成立するのだ・・と・・
  こんな論理は・・屁理屈だ・・成立しない・・する訳
 ない・・
  アメリカの屁理屈は・・世界へ言えば言うほど・・
  世界に公言して憚(はばか)らないアメリカの行動・
 発言・・
  愚かなことを言い続ける・・そして、もしも・・もし
 も・・この事を正義と勘違いして・・実行してしまう・・
 恐ろしさ・・
  キリスト教の教義は、この様な論理・考え方を・・正
 義だというように勘違いさせて、
  これまでの歴史の様に、そして、今・現代も・・
  そして、つい先ごろの事もそうだが、悪行をやって来
 た・・、
  アメリカの「広島・長崎の原爆投下のキリスト教教義
 からの理論は・・大間違いなのだ」・・、
  「20万人~30万人殺されるだろうから、先に、20万人
 ~30万人殺した」・・、
 というキリスト教の教義の理論は大間違いなのだ・・、
  「一人、殺されようが・・」、「二人、殺されようが
 ・・」「スペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者た
 ちが、南米などで一千万人以上の人々を殺した」様に、
 その人数は波及していく、
  その考え・教義が間違っているのだ・・
  キリスト教の教義の大罪なのだ・・、
  「一人であろうが」「二人であろうが」「一千万人で
 あろうが」・・何人・・殺そうが・・
  殺人は・・『絶対悪』なのだ。
  殺人を正当化する論理は、「まったく存在しないのだ」
 ・・「正当化理論は、まったく無いのだ」。
  こんな論理が分からないで・・キリスト教にマインド・
 コントロールされ、アメリカは、洗脳されて、さも正義
 の様に思って、今・現代も同じことを・論理を言ってい
 る、言い続けている。
  そして、「広島・長崎の原爆投下は正しかった」と、
  恐ろしい事は・・人類の歴史に・・原爆投下の正当化
 の『愚かな先例』が刻み込まれた・・若しくは、刻み込
 まれようとしていることだ。
  キリスト教の遅れた教義・考え方に毒されている。
..
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(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月~1882年1月)

2016-06-20 04:09:46 | 日記
題:(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月~1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年、出来事:
・デフレーションですべて産業に陰り。
  松方財政によるデフレーション政策は、繭の価格や米
 の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招
 いた。
  このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮
 乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の
 下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落した
 りした。
  一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が
 地主や高利貸しへと集積されていった。
  一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各
 地では自由党による激化事件に参加して反政府的な暴動
 を引き起こすようになった(当時、農村は自由党の支持
 基盤だった)。
  また、官営工場の払い下げにより政商が財閥へと成長
 して行った。
  しっかりした資本家層が生まれ、一層、労働者層との
 分離が進んだ。
  資本主義経済の醜い面が、より一層強く日本に形づく
 られて行った。
1882年、流行・世相:
・東京にコレラが大流行し、全国に伝染して行った。
・世相:東京で開店や売り出しに景品を付ける富籤(とみ
 くじ)に似た行為が流行 → 各警察署が取締
  また、この取締り強化で、興農競馬会社は、富くじ付
 き前売り入場券が、発売できなくなり収入は激減した。
・1882年11月1日、東京・銀座にアーク燈がともった。
  東京電灯会社による、日本最初の電気街灯建設の地=
 東京都中央区銀座2丁目に電気街灯がともった。
  アメリカ製の可搬型小型発電機を使って、直流110ボル
 トの電気がが供給され点灯された。
  それまで、1874年に、銀座~京橋間に85本のガス灯に
 よる街灯が点灯された。
  また、この年・1874年は、日本橋馬喰町に石油ランプ
 の街灯が灯されている。
1882年、データ・物価:
・新聞・雑誌の発行禁止・停止処分件数 132件。
・鉄道運賃
  (3等・新橋起点)品川まで6銭、大森まで10銭、
 横浜まで30銭、京都まで3円75銭、大阪まで3円97銭、
 神戸まで4円13銭、
1882年、本:
・ 「民約訳解(みんやくやくかい)」(著:ジャン・ジャック・
 ルソー/訳:中江兆民)
  兆民主宰の仏学塾出版局発行の雑誌《政理叢談》に、
 原著の第2編第6章までが訳載された。
  全訳は、1877年および1883年に、兆民以外の人によっ
 てなされた。
  兆民は日本語訳でなく、漢文訳だった。
  兆民は、漢文の簡潔で豊富な表現力に傾倒し、その素
 養を深めることこそ文に長ずる道とみて、
  その文人・兆民の漢文修業の労苦の結晶であった。
  兆民の「解」が付してあり、兆民は「東洋のルソー」
 と言われた。
  この『民約訳解』は、民権派人士に歓迎され自由民権
 運動に大きな影響を与え、理論的支柱となった。
  しかし、後に、批判が加えられるようになり、時代遅
 れの理論とされるようになった。
  しかし、兆民の普遍的価値に接近していこうとする態
 度などから「東洋のルソー」と言われる機縁となった。
  兆民の「ルソーの本著の精読」から・・、
  『民権至理也自由平等是れ大義也』という確信は、
  『民権自由は欧米の専有に非ず』とする認識へ結び付
 いて行った。
  『古来、日本にもあった』と言いたかったのだろう・・
・ 「良政府談(りょうせいふだん)」(原題・ユートピア/著:
 トマス=モア/訳:井上勤)
  因みに、この頃までのユートピア文学で表現されてき
 た「理想郷」に共通する特徴は・・、
  (1)周囲の大陸と隔絶した孤島。
  (2)科学と土木によって、その自然は、無害かつ幾何
   学的に改造され、幾何学的に建設された城塞都市が
   中心となっている。
  (3)生活は、理性により厳格に律せられ、質素で規則
   的で、一糸乱れぬ画一的な社会。
    ふしだらで豪奢な要素は徹底的にそぎ落とされて
   いる。
    住民の一日のスケジュールは、労働・食事・睡眠
   の時刻などが厳密に決められている。
    長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のた
   めに使う。
  (4)人間は機能・職能で分類される。
    個々人の立場は、男女も含め、完全に平等だが、
   同時に個性はない。
    なお、一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難
   で危険な仕事をさせている場合がある。
  (5)物理的にも社会的にも衛生的な場所である。
    黴菌などは駆除され、社会のあらゆるところに監
   視の目がいきわたり犯罪の起こる余地はない。
  (6)変更すべきところがもはやない理想社会が完成し
   たので、歴史は止まってしまっている(ユートピア
   は、ユークロニア(時間のない国)でもある)。
・ 「露国虚無党事情」(訳:西川通徹)
  虚無党(きょむとう):1、帝政ロシア時代、チェル
 ヌイシェフスキーを指導者とする革命的民主主義者の党
 派の称。
  2、ロシア皇帝暗殺などの非常手段に訴えた1870~80
 年代の革命家たちを、非難してよんだ語。
  (参考)虚無(きょむ):
  1、何物もなく、むなしいこと。空虚。
  2、この世に存在するすべてのものに価値や意味を認
 めないこと。
・ 「人権新説(じんけんしんせつ)」(著:加藤弘之)
  優勝劣敗の社会進化論を肯定し、
  天賦人権(てんぷじんけん、天がすべての人に対して
 平等に、分かち与えた権利)の存在を否定。
・イタリアの作家コローディ『ピノキオ』を発表。
1882年、衣:
・銀座に丸善・森村・大倉組などの洋服店ができた。
  洋服は、1871年(明治4年)頃より普及が始まった。
  丁稚奉公人として入店し、10年の年季奉公を済ませ、
 その後に、洋服職人として2年か3年のお礼奉公をし、
 独立開業して巣立った。
・二重マワシを着るものあり、横浜で金巾の輸入が、最も
 盛ん。
  「二重回し(にじゅうまわし)」は、この頃に生まれ
 たケープコート(ポンチョ風コート)、主に、紳士向け
 の外套だった。
  また、金巾(かなきん・かねきん)は、綿布の一種で、
 固くよった糸で目を細かく織った薄地の広幅綿布。
  白足袋(しろたび)、割烹着(かっぽうぎ)、和服の
 裏地に使われた。
・浅草で学生カバン製造され、漸次普及する。
  折鞄とも言われ、材料はズック製で、後に皮革等でも
 作られ、寸法は45cm~78cm位。
  革の工人、革具師、馬具師、文庫職人等々に依る発想
 で、1869年(明治2年)頃から1877年(明治10年)頃にかけ
 て通称、胴乱が鞄になり、
  「鞄」漢字の常用は1881年(明治14年)頃。
  (参考)胴乱(どうらん):皮または布製の四角の袋
    で、印章や薬などを入れて腰に下げるもの。
     もと、鉄砲の弾丸を入れるのに用いた。
1882年、食:
・神戸港で米の輸入が始まった。
  日本の米の輸入量と、輸出量は・・、
  1868年(明治1年)輸入:436千円、輸出:不明、
  1869年        4432千円    不明、
  1870年        14598千円    不明、
  1871年        1260千円    不明、
  1872年          0千円    不明、
  1873年         30千円    553千円、
  1874年         24千円    316千円、
  1875年         22千円     16千円、
  1876年          1千円    810千円、
  1877年(明治10年)    0千円    2269千円、
  1878年          0千円    4644千円、
  1879年         248千円    417千円、
  1880年         435千円    211千円、
  1881年         135千円    262千円、
  1882年         20千円    1652千円、
  明治維新にもとづく内乱と凶作の為、1869年と1870年
 に国内不安を鎮めるために輸入した。
  1870年の米の輸入額は、すべての輸入の43パーセント
 が米の輸入額という大量の輸入量となった。
  明治政府は、この時、米の輸出禁止令を出した。
  その結果、1872年以降は、米の輸入は、ほとんど皆無
 に近くなった。
  逆に、1873年7月15日の米輸出禁止令が解除になると、
 輸出される量が、急激に伸びた。
・搾乳場
  大阪に七つの搾乳場あり、牛乳過剰で、バター製造を
 始めた。
  1874年(明治7年)に、愛媛県の下井小太郎氏は、乳用
 牛を飼育し、搾乳し、粉乳製法を研究している。
  1863年(文久2年)に、横浜で牛乳の生産を開始した。
  これにより庶民でも牛乳を手に入れる事ができるよう
 になった。
  1876年(明治9年)、北海道根室に東梅牧場(柳田藤吉
 による国内初の大規模な近代牧場)が築かれて以降、北
 海道において欧米の酪農技術を取り込んだ近代的な酪農
 経営が行われるようになった。
・松本市で馬肉を食べ始めた。
  因みに、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエル
 は、日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかった。
  また、1863年(文久3年)の遣欧使節団としてヨーロッ
 パへ派遣された一行は、肉食はもちろん、パンも牛乳も
 喉を通らなくなっていった・・とある。
・神谷伝兵衛コウザン蜂印ブドウ酒製造に成功する。
 伝兵衛は、浅草の神谷バーの経営者。
  この年に、ブドウ酒を発売した。
  そして、伝兵衛は、1882年~1886年頃、速成ブランデ
 ーを製造・販売した。
  この頃、大流行していたコレラに効くと大いに宣伝さ
 れた。
  この後、また当時、流行していた「電気」という語を
 冠して「電気ブランデイ」を売り出した。
  電気ブランは、浅草の神谷バーの名物として愛飲され
 た。
  甘く強い酒で、飲み過ぎると足を取られ、店ではカッ
 プ3杯以上は売らなかった。
  電氣ブランデー(デンキブラン)の説明に・・「ブラ
 ンデーベースのカクテルで、ジンや薬草などが使われて
 いて、アルコール度数は40度。 当時、洋風の洒落たもの
 には『電気』の名をつけた」とある。
..
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(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)

2016-06-18 02:36:03 | 日記
題:(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年10月21日、陸軍・大山巌と、海軍・川村純義を参議
 兼任に任命した。
  (参考)大山巌(おおやまいわお)1842年~1916年、
  薩摩(鹿児島)藩士の生まれ、西郷隆盛の従弟。
  陸軍軍人、元帥・陸軍大将、公爵、元老、
  1862年(20歳)に、大坂に出て倒幕運動に参加。
  薩英戦争でイギリス艦の大砲の威力を認識し、戦後、
 江戸の江川塾で砲術を学ぶ。
  1868年(26歳)の戊辰戦争では、薩摩藩兵の砲隊長。
  維新後の1869年(27歳)に、欧州に派遣され、砲術を
 研究する。
  そして、普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリ
 入城をする。
  1871年(29歳)再び渡欧、
  パリ・スイスに住んでフランス語・砲術を学ぶ。
  1877年(35歳)の西南戦争では、旅団司令官として西
 郷軍とたたかう。
  1880年(38歳)、陸軍卿となって、以後は陸軍内部の
 薩摩閥の首領の地位を占め、長州の山県有朋とともに陸
 軍を2分した。
  陸相・参謀総長を務め、日本陸軍の創設にあたった。
  1884年(42歳)には、陸軍の俊秀をひきいて渡欧し、
 各国の兵制を視察し、帰国後、陸軍大臣として軍制改革
 を行った。
  1894年(52歳)日清戦争では第二軍司令官、
  1904年(62歳)日露戦争では満州軍総司令官をつとめ
 た。陸軍大将、元帥、
  因みに、イギリス軍楽隊長のJ・W・フェントンが国歌
 の必要を説いたとき、
  大山巌が、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」から「君が代」を
 歌詞として選定したという。
  (参考)川村純義(かわむらすみよし)1836~1904、
  薩摩(鹿児島)藩士の家に生れる。
  軍人、参議兼海軍卿、海軍大将、伯爵、枢密顧問官、
 日本海軍の創設者の一人。
  戊辰(ぼしん)戦争で活躍。
  1877年(41歳)西南の役征討に軍艦を行動させて参軍
 し、活躍。
  1878年(42歳)参議兼海軍卿。勝海舟の後任の海軍卿
 となる。
  薩摩勢力を海軍部内にのばした。以後、海軍充実に尽
 力した。
  上記の大山巌の普仏戦争の観戦について・・、
  1870年8月15日、大山巌(28歳)らは、普仏戦争観戦を
 命ぜられ、8月28日、横浜から米飛脚船クレド・ハフリッ
 ク号で出発した。
  太平洋を横断し、サンフランシスコからニューヨーク
 経由で大西洋を渡り、
  10月23日に、ロンドン到着、
  閏10月23日に、ベルリン着、
  11月11日(西暦1871年1月1日)以後、普仏戦争を観戦
 した。
  フランス政府が、プロシヤに降伏後、大山はパリに入
 り、3月19日に、マルセーユから日本への帰途についた。
  5月5日(明治4年3月16日)横浜に帰着した。
  すでに、1870年12月の勅使・岩倉具視らが鹿児島を訪
 問したとき、
  藩主の依頼により鹿児島県大参事の職にあった西郷隆
 盛は、岩倉に提出した改革意見二十五箇条の中で、
  明治新政府の軍事力を世襲の士族軍隊を中核とするこ
 とを主張していた。
  翌年・1871年2月13日に、政府は、薩長土3藩の兵を徴
 して御親兵の編成を命令した。
  そして、4月25日に、大山巌は、その御親兵を統括する
 兵部省の役職兵部権大丞に任命された。
1881年10月28日、日本語速記術の発明
  田鎖綱紀(たくさりこうき)が、日本語の速記術を発
 明し、講習会を開いた。
  大学南校(政府所轄の洋学校)で鉱山学を学ぶかたわ
 ら、グラハム式の英語速記法をもとに日本語速記法を発
 明した。
1881年10月29日、自由党の結党式
  東京にて、板垣退助を総裁とする急進主義の自由党が
 結成された。
  我が国最初の組織政党として全国の農村に根を張るこ
 とになる。
1881年11月11日、最初の私鉄・日本鉄道会社が設立された。
  日本最初の民間資本による鉄道会社である日本鉄道が
 設立された。
  代表は岩倉具視。 上野~熊谷間開通(1883年)
  運行期間:1883年~1906年
  今のJR東日本の路線の多くを建設し、運営した。
  横浜の実業家の高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が、
 1872年5月、東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄
 道の建設を政府に建言し、却下されるも、高島は、政府
 要人の岩倉具視を説き、
  鍋島直大、蜂須賀茂韶をして、明治天皇陛下および当
 時の政府に、
  『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青森、
 あるいは、東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走
 らせることを補す』ことを建言させた。
  こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめ
 とする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の
 創立が決定し、
  同年・1881年11月11日、設立特許条約書が下付され、
 初代社長に吉井友実を選出し、会社が設立された。
1881年11月、 日本初の官製唱歌集『小学唱歌集』が刊行さ
 れた。
  君が代・蝶々・蛍(蛍の光)などを収めた『小学唱歌
 集(しょうがくしょうかしゅう)』初編を刊行した。
  文部省音楽取調掛が編集した日本最初の音楽教科書。
  明治14年に初編、~明治17年(1881年~1884年)刊。
  初編に「蝶々」「蛍の光」、
  第二偏に「霞か雲か」、
  第三編に「仰げば尊し」「庭の千草」などを収録。
1881年12月7日、紅綬・緑綬・藍綬の褒章が定められた。
  太政官布告第63号の褒章条例(1881年)で定められ、
  初めは、紅綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章の3種で、
  紅綬褒章:自分の危険を顧みず人命救助をした人に、
  緑綬褒章:孝子(孝行な子)・節婦(節操堅固な婦人)・
 徳行卓絶なる人や、実業に精励して一般人の模範たるべ
 き人に、
  藍綬褒章:教育、衛生事業、学校・病院建設、道路・橋
 梁などの修築、田野の開墾、森林の栽培、水産の繁殖、
 実業の発達などに貢献した人に与えることとした。
  1918年に、公益のために私財を寄付した人に授与する
 紺綬褒章が加わり、
  1955年、政令により、条例の一部が改正され、業務に
 精励し衆民の模範である人を緑綬褒章から切り離して黄
 綬褒章の対象に、
  また、従来は藍綬褒章に含まれていた学術・芸術・発
 明などの顕著な功績に対し新たに紫綬褒章の各褒章がで
 き、6種となった。
  勲章が、国家に功績ある者に与えられるのに対して、
 社会や公共のため尽くした人々に与えられる栄典だった。
1881年、アメリカの野心を訴えるハワイ王国の国王
  原因に・・そこには・・巧妙に「ハワイ」を手に入れ
 ようとするアメリカ合衆国があった。
  ハワイには「ちゃんとした政府があって」「チャント
 統合する国があって」「チャント統合する王が居て」「
 ちゃんとその王国・政府に従う人々が幸せに生活してい
 る」というのに・・、
  そこが弱者の国だと思うと・・自分のものにしたくな
 ったアメリカ合衆国だった。
  当然、そこに、何らの正義は無かった・・まったく、
 無かった。
  この年に、ハワイ王国のカラカウア王一行が来日した。
  予定の行事をこなしながらの或る日、王は、付き纏(
 つくろ)うアメリカ随行員の目をくらまして赤坂離宮を
 訪ね、明治天皇陛下(当時29歳)との極秘会談に及んだ。
  カラカウア王のこの行動は、外国の『国家元首』の最
 初の明治天皇陛下への訪問となった。
  王は、その場で、次のように訴えた。
  意訳概要:
  「我が国は、主権を持つ独立国家である。
  その我が国に対し、アメリカ合衆国が太平洋上の拠点
 にしようという野心を抱いている。
  今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重
 する気持ちが微塵も無い。
  アジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を
 深めている。
  この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列
 強諸国に対峙することが急務です。
  日本の進歩には実に驚くべきものであり、
  アジア連合を起こすとすれば、その盟主には日本以外
 には無い。
  また、天皇陛下こそが相応しい。
  日本は、今、列強諸国に治外法権(不平等条約の改正)
 を認めさせようとして苦労していると伺います。
  日本なら連合実現が、より容易にできるはずです。
  どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主とな
 っていただきたい。
  そうなれば私は、陛下を支え、大いに力をお貸しさせ
 て戴きたいです。
  私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカ
 イウラニ(Kaiulani)王女を差し出します。
  日本とハワイの絆の為、是非もらって戴きたい。
  私は、貴国の良い返事を待ち続けます」
  (「明治天皇紀」のカラカウア王の言葉)。
  そして、この後・・、
  「明治天皇陛下とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」
 は、直ちに外務卿・井上馨に伝えられた。
  井上馨は、伊藤博文を後継し、明治政府の重要な地位
 に居る人だった。
  ハワイ王国の国王による国王間直訴は・・その後・・、
  1882年(明治15年)3月22日になって、ハワイ国王・カ
 ラカウアによる日本との連合計画提案に対し、明治政府
 の回答がカラカウア王へ届けられた。
  「政府に、そこまでの余力はない」との内容だった。
  また、カイウラニ王女と日本の皇族の結婚に関しても
 最終的にはウヤムヤとなって行き・・幻となった。
  井上馨は・・、
  「カイウラニ王女の話はうまく運ぶだろう」という見
 解を示し、
  伏見宮邦家親王の第17王子の山階宮定麿親王(当時15
 歳、後に海軍兵学校卒業後、英国プレスト海軍兵学校留
 学、小松宮依仁親王となる))との「将来の御成婚」が、
 画策された。
  ・・が、しかし、懸念材料はアメリカだった。
  アメリカとの関係の悪化を懸念する意向が前面に出て、
 幻となって行った。
  かくて、「カラカウア王の望み(秘策)」は潰(つい)
 えてしまった。
  カイウラニ王女は・・その後・・、
  1889年に、カラカウア王の指示で、イギリスへ留学し
 た。
  そして、その留学中に、カラカウア王は死去されてし
 まった。
  カイウラニ王女は、叔母のリリウオカラニから王位継
 承権第1位に指名され、
  美貌の彼女は、ヨーロッパ社交界の教養を身につけ、
 英仏社交界の華になった・・が・・、
  アメリカの思惑(アメリカ帝国主義によるハワイの地
 の取得)がうごめくハワイの政変が続くハワイの事情か
 ら・・帰国が出来ず・・帰国が延び続けるという状況と
 なった。
  日本とハワイの連邦化を夢見ていたハワイ王国は・・
 消滅し・・そして、ハワイはアメリカ化し・・今、アメ
 リカ合衆国の州となっている。
1881年2月24日、イリ条約
  ロシアと中国(清国)との間で、1871年に起きた国境
 紛争事件(イリ事件)の条約が結ばれた。
  ロシアのイリ地方占拠を、清朝は左宗棠の働きで1875
 年から1877年にかけて排除した。
  しかし、1879年に、ロシアとのイリ返還を交渉した清
 朝の全権大使・満州貴族・嵩厚保がいったん領土を大幅
 に譲歩した条約を締結した。
  そのため、激怒した光緒帝が批准を拒み、改めて曽紀
 沢(曽国藩の子)が交渉に当たり、
  ようやく1881年に、イリ条約を成立させ、イリ地方は
 清に返還された。
  しかし、清朝もロシアに多額の賠償金を支払い、新疆
 全土を市場としてロシアに経済的に開放することを認め
 た。
1881年3月12日、ロシア皇帝アレクサンドル二世が暗殺され
 た(3月13日説あり)
  1867年、フランスを訪問中のアレクサンドル2世は、パ
 リで襲撃されたが、この時は難を逃れた。
  その後も、皇帝暗殺計画は再三にわたって企てられ、
  1880年2月には、アレクサンドル2世を狙った冬宮食堂
 爆破事件が起きて、多数の死傷者が出た。
  これをきっかけに、最高指揮委員会が設置され、下ヴ
 ォルガ臨時総督として暴動鎮圧に成果を収めたミハイル・
 ロリス=メリコフが委員長に任命された。
  政治を安定させ、内政の改革を進めることがテロや暴
 動の抑止になると考えたロリス=メリコフは、行政改革
 と財政改革を皇帝に進言し、
  これを受けて最高指揮委員会は解散され、ロリス=メ
 リコフが内務大臣となった。
  社会の不安を除くため、人々の怨嗟の的となっていた
 悪名高い秘密警察・皇帝官房第三部を廃止し、
  立憲制導入に向けてまず一種の「議会」導入を提案し、
 一般委員会や国家評議会にゼムストヴォの代表や大都市
 自治会の代表などを参加させようとした。
  1881年3月13日、アレクサンドル2世は、没落したシュ
 ラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人イグ
 ナツィ・フリニェヴィエツキの投じた爆弾(キバリチチ
 式手投げ爆弾)により、サンクトペテルブルク市内で暗
 殺された。
1881年5月、フランスが、チュニジアを保護国化した。
  1830年のフランスによるアルジェリア占領以後、
 フランスとイタリアによる植民地化の対象となった。
  ベクは、1867年立憲君主制憲法を制定し、トルコの力
 をかりて独立維持をはかった。
  1869年、チュニジアは財政破綻してイギリス・フラン
 ス・イタリアの管理下に置かれ、
  1873年~1877年の改革派官僚のハイルッディーンによ
 る改革が行われたが、宮廷内の保守派の反対で成果を上
 げることが出来なかった。
  普仏戦争でフランスが敗れるとイタリアがチュニジア
 に進出したのでフランスは危機感を強めた。
  1878年のベルリン会議では、イタリアとフランスが、
 チュニジアの鉄道敷設権を巡って対立したが、
  フランスは、チュニジアに於けるフランスの権利を認
 めさせ、
  最終的にイタリアが折れ、西欧列強によってチュニジ
 アにおけるフランスの優先権が確認された。
  フランスは、1881年に、軍隊を派遣し、首都チュニス
 を占領して、保護領とした。
1881年7月2日、アメリカ合衆国大統領の暗殺事件が起きた
  第20代大統領のガーフィルド大統領が暗殺された。
  ワシントンのボルティモア・ポトマック駅で大統領は
 銃撃され、9月19日に死亡した。
  暗殺犯のチャールズ・J・ギトーは、色々な職業に手を
 出して失敗していた。
  神学、法律実務、集金、オナイダ・コミュニティ(キ
 リストの再臨を信じる共同社会)だった。
  大統領は、就任から4か月の短期間だった。
1881年7月14日、ビリーザ・キッドが、満21歳で、射殺され、
 この日に死んだ。
  彼は、アメリカ西部開拓時代のアウトロー(犯罪など
 によって法の保護を受けられなくなった人)で、強盗な
 どを行なっていた(1859年~1881年)
  罪名:殺人と脱獄。
  職業:牧場手伝、ギャンブラー、牛泥棒、アウトロー。
  ニューヨークで生まれたらしい、西部のニューメキシ
 コ州で育った。
  偽名が多く、父親は良く分からない。
  12歳の時に、母親を侮辱した男を殺してアウトローに
 なったとされる。
  死ぬまでに21人を殺害したとするが、この人数の中に
 はインディアンの方々の人数は含まれてないとされる(
 有色人種への無視・軽視・蔑視)。
  アリゾナ、テキサス、メキシコ国境あたりをさすらっ
 たという。
  用心棒もした。この時、リンカーン郡戦争と呼ばれる
 騒動となった。この時、4人を射殺。
  1880年12月、友人でもあった保安官に、仲間と共に
 逮捕される。
  しかし、1881年4月18日に刑務所を脱走した。
  この事が、ニューヨーク・タイムズに報じられ有名に
 なる。
  1881年7月14日に、ニューメキシコ州フォートサムナー
 で、ギャレットに射殺された。
  鏡で銃を抜く敵を見て、振り返らずに撃ち殺したなど、
 嘘もあるだろうが・・彼の銃の腕前を示す話は多い。
  この様なアメリカ西部の様相の中で、西部は開拓され
 て行った。
  誠実に農地開拓をしている農夫の土地を、欲しがる牧
 場主が、プロの殺し屋を雇い、この正直な農夫を殺そう
 とする。
  その時、殺し屋は次の手を使う、
  町の酒場に農夫を呼び出し、この農夫に対して、あら
 んかぎりの嫌(いや)らしい事を言う。
  農夫は、愛する妻や子供も居るので我慢してその話を
 聞いているが、続けて、殺し屋は人格攻撃も含めて、い
 やらしい攻撃を続け、
  この続く人格攻撃などの中で、農夫は、やむを得ず腰
 のけん銃に手を掛ける。
  その途端、プロの殺し屋の銃が、いち早く火を噴く。
  可哀想に、この善良な農夫は殺される。
  キリスト教は、この様なこの行為を、この殺し屋の行
 為を悪くないとしている。
  だから、アメリカの西部では、この様に殺される人が
 多かった。
  キリスト教は、「(キリスト教の)神の義があれば、
 人を誅しても良い」と、神の義による殺人を是としてい
 る。
  この様な論理・教義で、隣国の富を奪いに行く。
  当然、戦争の頻発地となる。
  長い歴史、キリスト教の回りには多くの戦争の歴史が
 記録されている。
  キリスト教聖書に記されている「相手に警告を与えれ
 ば何をやっても良い」という教え・・、
  また、キリスト教の聖書記載の手順を踏めば、攻撃を
 加えて良いという教え・・
  「相手の町を包囲して、ぐるぐる回れば、何をやって
 も良い」とかと・・この様な記載が、色々多い。
  キリスト教には蛮行の実行につながる教義が多い。
  「目には目を」という教義は有名だが、「同罪報復を
 認める」教義である。
1881年9月、エジプトでアラービー=パシャの乱が起きた(~
 1882年)
  アフマド=ウラービー=パシャ・・エジプトの反イギ
 リス民族闘争の指導者は、
  1881年に、イギリス・フランスの支配に反発し、立憲
 政治実現を要求して革命を試みたが、イギリス軍によっ
 て鎮圧されてしまった。
  世界中で、武力によって、やりたいことをやっている
 イギリス、そして、ヨーロッパ列強のキリスト教国。
  パシャは尊称で、
  エジプト人の農民の子として生まれ
  軍人となり、
  ワターニューン(愛国者たちの意味、ワタン党ともい
 う)という秘密結社を組織して、
  ムハンマド=アリー朝を支え陸軍大臣にまで昇り、
  パシャの称号を認められ、ウラービー=パシャと言わ
 れた。
  19世紀中頃のエジプトが、イギリスとフランスの経済
 的支配を受けて、
  政治干渉も受けるという二国管理体制下におかれ、
  これに強く反発した(誰だって反発したくなるだろう
 よ)、
  エジプトの方々のエリート層や、高等教育を受けた
 方々は、ヨーロッパ人が、エジプト社会を牛耳ることに
 よって、
  自らの出世の道が閉ざされることも不安視した。
  また、農民は、課せられた重税に対して不平を募って
 いた。
  また、差別も存在した。
  エジプトは識字率も向上し、1870年代から188年代には、
 出版も盛んになり、新聞も発行されるようになった。
  人々は、社会の情勢・変化を知り、行動を起こした。
  1881年に、クーデターを起こして、エジプト王を退位
 させ、実権を握り、立憲政治の実現などの改革を進めよ
 うとした。
  しかし、イギリスが直ちにアレクサンドリアを砲撃、
 陸上からも攻撃し、革命を強烈な軍事力で抑えつけた。
  その結果、この出来事は〝反乱〟に終わった。
  ウラービー=パシャは捕らえられ、セイロンに流され
 た。
  彼が掲げた〝エジプト人のためのエジプト〟のスロー
 ガンは、
  その後のエジプト民族運動に受け継がれ、
  ウラービー運動といわれるようになった。
  → アラブ民族主義運動へ
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