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(増補版)359E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年12月~1880年1月)

2016-05-30 04:29:07 | 日記
題:(増補版)359E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年12月~1880年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年、出来事:
・憲法制定手続きの論議が活発化
・財政監督制度が始まった。
  会計検査院の歴史において、1869年(明治2年)、太政
 官(内閣の前身)のうちの会計官(財務省の前身)の一
 部局として設けられた「監督司」を前身とし、
  その後、「検査寮」、「検査局」と名称の変遷を経て、
  1880年(明治13年)に至り、太政官に直属する財政監
 督機関として誕生した。
  そして、1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法が発
 布されるとともに、「会計検査院」は、憲法に定められ
 た機関となった。
  以後60年間、天皇陛下に直属する独立の官庁として財
 政監督を行って来た。
・消防本部の設立。
  この年・1880年に、内務省警視局に消防本部が設立さ
 れた。これが、東京消防庁の始まり。  
  消防は、基本的に警察の管理下に置かれた。
  これは、火事場泥棒を防ぐための措置で、
  消防経費は、国庫負担だった。
 そして、翌年・1881年、消防本署の下に6つの消防分署
 が設置された。
  消防第1分署(現在の日本橋消防署)
  消防第2分署(現在の芝消防署)
  消防第3分署(現在の麹町消防署) 
  消防第4分署(現在の本郷消防署)
  消防第5分署(現在の上野消防署)
  消防第6分署(現在の深川消防署) 
1880年、経済・財政:
・政府財政が深刻、
  西南戦争の戦費調達で、さらに火の車となった。
  負債利子だけで国庫収入の1/3となった。
  西南戦争は高くついた。
  そこで、1873年~1880年に、大蔵卿を務めていた大隈
 重信や、
  1880年~1881年に、大蔵卿を務めた佐野常民(さのつ
 ねたみ)は、不換紙幣を発行した。
  不換紙幣:正貨である金貨や銀貨との交換を保障しな
 い貨幣。不兌換の紙幣。
  世はインフレーションとなった。
  物価は上昇し、表面上の政府への歳入は、増えた様に
 見えたが、実質的に歳入減となり、さらに、財政は深刻
 化した。
・全国銀行株金総額の42%は華族が所有した。
1880年、物価:
・米価 1石=10円47銭
  この年、米価の平準を保つということで、米会所条例
 の改正が行われた。
  主な改正点は・・、
  (1)仲買人身元金の変更。
  従来、東京・大阪は200円、他は一等200円、二等100円
 を改めて、一律1000円とした。
  (2)売買証拠金を「10分の1」から「10分の2」とし
 た。
  (3)現場売買を禁止した。
  この結果、仲買人は激減した。
  また、取引は、低迷となる米会所が出た。
  当然、規制緩和の運動が、各地の米商会所から出た。
  政府は、その声を聞き容れざるを得なくなり、1882年
 に改正した。
  政府は、必死に税収を増やそうとしていた。
1880年、論:
・ 「言論自由論」(著:植木枝盛)
  1880年7月、愛国社から発行された。
  『言論自由論』の目次は・・、
  (発端)
  (言論ノ自由ハ天然ニ出ツルヲ論ス)
  (言論ノ自由ノ人生エ闕ク(か)可カヲサルヲ論ス)
  (言辞ハ文字ヨリモ優ル所アルヲ論ス)
  (語辞ノ勢力ヲ論ス)
  (人間必ス言論ノ自由ヲ有ス可キヲ論ス)
  (言論ノ自由ハ国家ニ於テモ亦緊要ナルヲ論ス)・・
  以下略
・ 「民権弁惑(みんけんべんわく)」(著:外山正一)
  外山正一(とやままさかず)は、明治時代の日本の教
 育家・文学者・社会学者・政治家。
  勝海舟の推挙により、1866年(慶応2年)、中村正直ら
 とともに幕府派遣留学生として渡英し、イギリスの最新
 の文化制度を学んだ。
  官立東京開成学校で、社会学の教鞭をとり、
  1877年、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編
 されると日本人初の教授となった。
  モースを東京大学に招聘したりし、
  また、ラフカデイオ・ハーン(小泉八雲)に強く働き
 かけ、東京帝国大学英文学講師に招聘した。
  東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て、
 同総長・貴族院議員、第3次伊藤博文内閣の文部大臣など
 を務めた。
  大日本帝国憲法発布の記念式典に、明治天皇陛下に対
 して「万歳」を始めて唱えたのは外山正一だったと言われ
 ている。
1880年、本・文学:
・美術雑誌 「臥遊席珍(がゆうせきちん)」 創刊。
・佐々木弘綱 「明治開花和歌集」
・戸田欽堂 「情海波瀾(じょうかいはらん)」
  政治小説の最初の作品。
  民権の確立(国会開設)を争点とする政府と人民の対立
 と調和が、アレゴリー(たとえ話的)に書かれている。
・翻訳物あきられ、漢字の本が売れるようになった。
・出版する者がふえる(有喜世新聞の記事)
・丸屋商社(後の、丸善・まるぜん)が丸善商社と改称し
 た。 創業(1869年)
  内外図書、雑誌、文具、事務機械、洋品雑貨の販売、
 および、輸出入のほか出版、教育機器の製造、不動産業
 を営む会社。
  1869年(明治2年)、福沢諭吉の門人・早矢仕有的 (は
 やしゆうてき) が、横浜に設立した丸屋商社がその前身。
  1869年1月1日、丸屋商社を横浜に創業し(事実上日本
 の株式会社第一号)、『丸屋商社之記』を制定した。
1880年、世相・流行:
・東京、京都、愛知で万年青、蘭の栽培が流行
・横浜で鶏の蹴合いが流行。
・甲斐絹(かいき、絹織物の一種)の騰貴で、女性の稼ぎ
 がよくなり、女天下になったと言われた。
  世界的にも稀(まれ)で、独自の技法がみられ、織物
 の風合いにも特徴がある、広幅の輸出甲斐絹が盛んに織
 られた。
・「ヘナチョコ」という新語が新橋花柳界から発生し、流
 行した。
  語彙については、「埴猪口、へな土でつくった猪口」
 の意味、
  「未熟な人や役に立たない人をあざけっていう語」と
 ある。
  そして、『集古』庚申第二号(大正9年4月25日発行)
 に、ヘナチヨコの由来と題する野崎左文(のざきさぶん、
 蟹廼屋左文)の文があり・・、
  明治14~15年の夏の事で、当時、風雅新誌の社主であ
 つた山田風外氏とおのれ等四五人で、同年神田明神に開
 業した今の開花楼に登つて一酌を催した。
  其時銘々の膳に附けて出した盃は、内部がお多福、外
 側が鬼の面になつて居る楽焼風の気取つたものであつた。
  是れは面白い盃だ先づ一杯を試みやうと女中に酒を注
 がせるとこは如何にジウジウと音がしてブクブクと泡が
 立つた。
  イヤ是れは見掛によらぬ劣等な品物だヘナ土製の猪口
 だからヘナチヨコと呼ぶべしだと呵々大笑したのが抑も
 の始まりで、
  それから以後、外見ばかり立派で実質の之に伴はぬも
 のを総てヘナチヨと呼び、ヘナチヨコ料理屋、ヘナチヨ
 コ芸者、ヘナチヨコ芝居などゝ盛んに此の新語を用ひた
 のが、忽ち新橋の花柳界に伝はり、
  又、落語家円遊などが高座で饒舌るやうになつた為め
 終に東京一般の流行言葉となつたのである。
  此のヘナチヨコなる語は、今でも猶屡々耳にする事が
 あるのに其の名付親たる当時の四五人の連中は過半故人
 となり、活き残つて居るのは風外翁とおのればかりとは
 座ろに今昔の感に堪へぬ。
1880年、演芸:
・三遊亭円遊 → ステテコ踊り
  11月:東京・浅草の並木亭で初代三遊亭円遊が「すて
 てこ踊り」を始め、大変な人気で流行した。
  落語が終わった後に、高座で見せた踊り。
  類似の芸を見せる芸人も他に現れ、それぞれに大変な
 人気となった。
  1880年は、コレラ流行の余波で寄席が不況であったの
 で始めた。
  尻っぱしょりで半股引を見せ、踊るものであった。
・三遊亭萬橘(さんゆうていまんきつ)→ヘラヘラ踊り
  「へらへら踊り」は、その後、大阪宗右衛門町の料亭・
 南地大和屋が復活させ、現在でも演じられている。
1880年、衣:
・近畿の綿作が激減しはじめる。
  二毛作は、経済性の追求を目的としていたため、その
 普及は著しかった。
  その為の「ため池の築造」が、二毛作の普及に間に合
 わないという事態が起こった。
  しばしば、水不足に見舞われる様になった。
  この対策として、いくつかの水田には米を作らないで
 おく『犠牲田』を設けて、慢性的な水不足に対応した。
  その犠牲田の有効活用を図ったのが田畑輪換農法だっ
 た。
  田畑輪換農法は、稲作と畑作を交互に行なうもので、
 いくつかの水田を畑として利用し、2~3年の周期で再び
 その土地を稲作に戻すという方法で、
  同時に、二毛作による連作障害や、地力の低下した田
 を休ませ、回復させるという長所もあった。
  輪換作物は、綿が主流だった。
  稲作期間中の綿の作付けは、江戸時代初期の「作物勝
 手作りの禁」により禁止されていた。
  明治になって、この規制が緩和に向かった。
  綿作は、水不足による犠牲田を有効利用するための作
 付けだった。
  また、綿作に向かった理由の一つに、朝鮮からの綿輸
 入の縮小があった。
  その為、国内の綿需要を満たし、また、需要の高まり
 から、綿作は、徐々に公認されて行った。
  (因みに、朝鮮からの綿輸入の減少は、豊臣秀吉によ
 る朝鮮出兵以来という古い時代にさかのぼる話がある)。
  こうして、二毛作を補うような形で無駄なく生産する
 ことができる田畑輪換が、その後、広く普及した。
  二毛作、田畑輪換により、大和平野の農業は著しく発
 展を遂げた。
  近世の中期では、水田の約3分の1(約6000ha)が輪換
 畑であった。
  しかし、明治の開国により、外国の安い綿が輸入され
 るようになると、大和平野で作られていた綿の需要は、
 一気に低下して行った。
  この頃、平野で営まれていた田畑輪換に作付けされて
 いた作物の内、綿の占める割合は4割にも達していた。
  綿を作付けしていたそれらの農家は、再び、田畑輪換
 を行なう前の状態、つまり、二毛作を強いられることに
 なった。
  綿作が衰退し、徐々に稲作が増えてくると、当然、再
 び用水が不足するようになった。
  根本的な水不足問題は、なにひとつ解決していなかっ
 た。
  そこで、再び、ため池の築造が始まった。
  明治に入って造られた「ため池」は、平野部に集中し、
 田をため池にするというような方法で行なわれた。
  綿による収入が激減していた農家に、平野部の田んぼ
 をつぶして水の確保を行なわなければいけないという辛
 い状況となった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

臨時ブログ:オバマ大統領! ありがとうございます。

2016-05-28 03:41:31 | 日記
臨時ブログ:オバマ大統領! ありがとうございます。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  以下は、2016年05月27日、アメリカ合衆国のオバマ大
 統領が、広島でスピーチした全文です。
  歴史に残るべき、大変素晴らしい演説でした。
  以下に、その全文を再掲させて戴きました。
  執筆者は吉川慧氏で、インターネット上のThe
 Huffington Postです。
  因みに、ハフィントン・ポスト(英語:The
 Huffington Post)は、アメリカ合衆国のリベラル系イン
 ターネット新聞です。
  また、同様に、インターネット上に掲載されたNHK
 の全文は、NHKのお好みに所々が意訳されているので
 注意を要します。
  末筆ですが、安倍首相、今回の御活躍、ありがとうご
 ざいました。
  御礼、申し上げます。
  [ スピーチ内容 ]
  71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、
 世界は一変しました。
  閃光と火の玉がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に
 導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。
  なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?
  私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が
 解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来
 ました。
  私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして、
 子供、数多くの朝鮮の人々、10人ほどのアメリカ人捕虜
 を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。
  彼らの魂が、私たちに語りかけています。
  彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして、自分た
 ちがどうなったのかを振り返るため、本質を見るように
 求めています。
  広島だけが際立って戦争を象徴するものではありませ
 ん。
  遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった
 頃からあったことがわかります。
  フリント(編注・岩石の一種)から刃を、木から槍を
 作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具
 を狩りのためだけでなく、自分たちの同類に対して使っ
 たのです。
  どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。
  戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こさ
 れ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きて
 しまいます。
  多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。
  多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。
  そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人
 たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そし
 て、時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたこ
 とに苦しめられました。
  第二次世界大戦は、広島と長崎で、とても残虐な終わ
 りを迎えました。
  これまで人類の文明は、素晴らしい芸術を生み出して
 きました。
  そして、偉大な思想や、正義、調和、真実の考えを生
 み出してきました。
  しかし、同じところから戦争も出てきました。
  征服をしたいという思いも出てきました。
  古いパターンが、新しい能力によってさらに増幅され
 ました。
  そこには制約が働きませんでした。
  ほんの数年の間に6000万もの人たちが亡くなりました。
  男性、女性、子供達。
  私たちと全く変わらない人たちです。
  撃たれ、殴られ、あるいは行進させられ、飢えさせら
 れ、拘束され、またはガス室に送られて亡くなりました。
  世界中には、この戦争の歴史を刻む場所が沢山ありま
 す。
  慰霊碑が、英雄的な行いなども含めて、色々なことを
 示しています。
  空っぽな収容所などが、そういうことを物語っていま
 す。
  しかし、空に上がったキノコ雲の中で、私たちは人類
 の非常に大きな矛盾を強く突きつけられます。
  私たちの考え、想像、言語、道具の製作、私たちが自
 然とは違うということを示す能力、そういったものが大
 きな破壊の力を生み出しました。
  いかにして物質的な進歩が、こういったことから目を
 くらませるのでしょうか。
  どれだけ容易く私たちの暴力を、より高邁な理由のた
 めに正当化してきたでしょうか。
  私たちの偉大な宗教は、愛や慈しみを説いています。
  しかし、それが決して人を殺す理由になってはいけま
 せん。
  国が台頭し、色々な犠牲が生まれます。
  様々な偉業が行われましたが、そういったことが人類
 を抑圧する理由に使われてきました。
  科学によって私たちはいろいろなコミュニケーション
 をとります。
  空を飛び、病気を治し、科学によって宇宙を理解しよ
 うとします。
  そのような科学が、効率的な殺人の道具となってしま
 うこともあります。
  現代の社会は、私たちに真理を教えています。
  広島は私たちにこの真理を伝えています。
  技術の進歩が、人類の制度と一緒に発展しなければな
 らないということを。
  科学的な革命によって色々な文明が生まれ、そして、
 消えてゆきました。
  だからこそいま、私たちはここに立っているのです。
  私たちは今、この広島の真ん中に立ち、原爆が落とさ
 れた時に思いを馳せています。
  子供たちの苦しみを思い起こします。
  子供たちが目にしたこと、そして、声なき叫び声に耳
 を傾けます。
  私たちは罪のない人々が、むごい戦争によって殺され
 たことを記憶します。
  これまでの戦争、そして、これからの戦争の犠牲者に
 思いを馳せます。
  言葉だけで、そのような苦しみに声を与えるものでは
 ありません。
  しかし、私たちには共有の責任があります。
  私たちは、歴史を真っ向から見据えなけれなりません。
  そして、尋ねるのです。
  我々は、一体これから何を変えなければならないのか。
  そのような苦しみを繰り返さないためにはどうしたら
 いいのかを自問しなくてはなりません。
  いつの日か、被爆者の声も消えていくことになるでし
 ょう。
  しかし、「1945年8月6日の苦しみ」というものは、決
 して消えるものではありません。
  その記憶に拠って、私たちは慢心と戦わなければなり
 ません。
  私たちの道徳的な想像力をかきたてるものとなるでし
 ょう。
  そして、私たちに変化を促すものとなります。
  あの運命の日以来、私たちは希望を与える選択をして
 きました。
  アメリカ合衆国、そして、日本は、同盟を作っただけ
 ではなく友情も育んできました。
  欧州では連合(EU)ができました。
  国々は、商業や民主主義で結ばれています。
  国、または国民が解放を求めています。
  そして、戦争を避けるための様々な制度や条約もでき
 ました。
  制約をかけ、交代させ、ひいては核兵器を廃絶へと導
 くためのものであります。
  それにもかかわらず、世界中で目にする国家間の攻撃
 的な行動、テロ、腐敗、残虐行為、抑圧は、「私たちの
 やることに終わりはないのだ」ということを示していま
 す。
  私たちは、人類が悪事をおこなう能力を廃絶すること
 はできないかもしれません。
  私たちは、自分自身を守るための道具を持たなければ
 ならないからです。
  しかし、我が国を含む核保有国は、(他国から攻撃を
 受けるから核を持たなければいけないという)「恐怖の
 論理」から逃れる勇気を持つべきです。
  私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれ
 ません。
  しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。
  このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減ら
 し、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないよう
 にしなくてはなりません。
  それだけでは十分ではありません。
  世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破
 壊をもたらすことがあります。
  私たちの心を変えなくてはなりません。
  戦争に対する考え方を変える必要があります。
  紛争を外交的手段で解決することが必要です。
  紛争を終わらせる努力をしなければなりません。
  平和的な協力をしていくことが重要です。
  暴力的な競争をするべきではありません。
  私たちは、築きあげていかなければなりません。
  破壊をしてはならないのです。
  なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する
 必要があります。
  同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要が
 あります。
  つながりこそが人類を独自のものにしています。
  私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去
 から学ぶことができます。
  選択をすることができます。
  子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができ
 ます。
  人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易
 く受け入れない世界を作っていくことができます。
  物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。
  原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。
  殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいま
 した。
  アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持って
 います。
  アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。
  すべての人類は平等である。
  そして、生まれもった権利がある。
  生命の自由、幸福を希求する権利です。
  しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内で
 あっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありま
 せん。
  しかし、その物語は、真実であるということが非常に
 重要です。
  努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必
 要なものです。
  すべての人がやっていくべきことです。
  すべての人命は、かけがえのないものです。
  私たちは「一つの家族の一部である」という考え方で
 す。
  これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物
 語です。
  だからこそ私たちは、広島に来たのです。
  そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。
  たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人と
 のキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親から
 の優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこ
 の場所にもあったのだということを考えることができま
 す。
  亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たち
 です。
  多くの人々がそういったことが理解できると思います。
  もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。
  科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしい
 と考えています。
  国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省す
 るとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。
  世界はこの広島によって一変しました。
  しかし、今日、広島の子供達は平和な日々を生きてい
 ます。
  なんと貴重なことでしょうか。
  この生活は、守る価値があります。
  それを全ての子供達に広げていく必要があります。
  この未来こそ、私たちが選択する未来です。
  未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、
 私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょ
 う。
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  共同通信が起こした英文があります。
  (注)として、以下が記されています。
  ※米政府が発表したものではなく、共同通信が起こし
 たものです。(共同通信)
  71 years ago, on a bright cloudless morning,
 death fell from the sky and the world was changed.
A flash of light and a wall of fire destroyed a
city and demonstrated that mankind possessed the
means to destroy itself.
「核兵器なき世界」へ決意表明 オバマ米大統領、広島訪

Why do we come to this place, to Hiroshima?
We come to ponder a terrible force unleashed in
the not so distant past.
We come to mourn the dead, including over 100,000
Japanese men, women and children, thousands of
Koreans and a dozen Americans held prisoner.
Their souls speak to us. They ask us to look
inward to take stock of who we are and what we
might become.
It is not the fact of war that sets Hiroshima
apart.
Artifacts tell us that violent conflict appeared
with the very first men.
Our early ancestors, having learned to make blades
from flint and spears from wood, used these tools
not just for hunting but against their own kind.
On every continent the history of civilization is
filled with war, whether driven by scarcity of
grain or hunger for gold, compelled by nationalist
fervor or religious zeal. Empires have risen and
fallen, peoples have been subjugated and liberated,
and at each juncture innocents have suffered -- a
countless toll, their names forgotten by time.
The World War that reached its brutal end in
Hiroshima and Nagasaki was fought among the
wealthiest and most powerful of nations.
Their civilizations had given the world great
cities and magnificent art.
Their thinkers had advanced ideas of justice and
harmony and truth, and yet the war grew out of the
same base instinct for domination or conquest that
had caused conflicts among the simplest tribes, an
old pattern amplified by new capabilities and
without new constraints.
In the span of a few years some 60 million people
would die; men, women, children -- no different
than us, shot, beaten, marched, bombed, jailed
starved, gassed to death.
There are many sites around the world that
chronicle this war -- memorials that tell stories
of courage and heroism, graves and empty camps, the
echo of unspeakable depravity.
Yet in the image of a mushroom cloud that rose
into these skies, we are most starkly reminded of
humanity's core contradiction -- how the very spark
that marks us as a species, our thoughts, our
imagination, our language, our tool making, our
ability to set ourselves apart from nature and bend
it to our will -- those very things also give us
the capacity for unmatched destruction.
How often does material advancement or social
innovation blind us to this truth? How easily do we
learn to justify violence in the name of some
higher cause?
Every great religion promises a path to love and
peace and righteousness.
And yet no religion has been spared from believers
who have claimed their faith has a license to kill.
Nations arise telling a story that binds people
together in sacrifice and cooperation, allowing for
remarkable feats, but those same stories have so
often been used to oppress and dehumanize those who
are different.
Science allows us to communicate across the seas,
fly above the clouds, to cure disease and
understand the cosmos.
But those same discoveries can be turned into ever
more efficient killing machines.
The wars of the modern age teach us this truth.
Hiroshima teaches this truth.
Technological progress without an equivalent
progress in human institutions can doom us.
The scientific revolution that led to the
splitting of an atom requires a moral revolution as
well.
That is why we come to this place.
We stand here in the middle of this city and force
ourselves to imagine the moment the bomb fell.
We force ourselves to feel the dread of children
confused by what they see.
We listen to a silent cry.
We remember all the innocents killed across the
arc of that terrible war, and the wars that came
before, and the wars that would follow.
Mere words cannot give voice to such suffering.
But we have a shared responsibility to look
directly into the eye of history and ask what we
must do differently to curb such suffering again.
Some day the voices of the Hibakusha will no
longer be with us to bear witness.
But the memory of the morning of August 6, 1945
must never fade.
That memory allows us to fight complacency.
It fuels our moral imagination, it allows us to
change.
And since that fateful day we have made choices
that give ushope.
The United States and Japan forged not only an
alliance, but a friendship that has won far more
for our people that we can ever claim through war.
The nations of Europe built a union that replaced
battlefields with bonds of commerce and democracy.
Oppressed peoples and nations won liberation.
An international community established
institutions and treaties that worked to avoid war
and aspired to restrict and roll back and
ultimately eliminate the existence of nuclear
weapons.
Still, every act of aggression between nations,
every act of terror and corruption and cruelty and
oppression that we see around the world shows our
work is never done.
We may not be able to eliminate man's capacity to
do evil, so nations and the alliances that we
formed must possess the means to protect ourselves.
Among those nations like my own that hold nuclear
stockpiles, we must have the courage to escape the
logic of fear and pursue a world without them.
We may not realize this goal in my lifetime, but
persistent effort can roll back the possibility of
catastrophe.
We can chart a course that leads to the
destruction of these stockpiles, we can stop the
spread to new nations, and secure deadly materials
from fanatics. And yet that is not enough, for we
see around the world today how even the crudest
rifles and barrel bombs can serve up violence on a
terrible scale.
We must change our mindset about war itself -- to
prevent conflicts through diplomacy and strive to
end conflicts after they've begun; to see our
growing interdependence as a cause for peaceful
cooperation and not violent competition; to define
our nations not by our capacity to destroy but by
what we build; and perhaps above all reimagine our
connection to one another as members of one human
race -- for this too, is what makes our species
unique.
We're not bound by genetic codes to repeat the
mistakes of the past.
We can learn.
We can choose.
We can tell our children a different story, one
that describes a common humanity, one that makes
war less likely and cruelty less easily accepted.
We see these stories in the Hibakusha: the woman
who forgave the pilot who flew the plane that
dropped the atomic bomb because she recognized what
she really hated was war itself; the man who sought
out families of Americans killed here because he
believed their loss was equal to his own.
My own nation's story began with simple words.
All men are created equal and endowed with certain
inalienable rights,including life, liberty and the
pursuit of happiness.
Realizing that ideal has never been easy, even
within our own borders, even among our own citizens.
But staying true to that story is worth the effort.
It is an ideal to be strived for, an ideal that
extends across continents and across oceans.
The irreducible worth of every person, the
insistence that every life is precious, the radical
and necessary notion that we are part of a single
human family: that is the story that we all must
tell.
That is why we come to Hiroshima, so that we might
think of people we love, the first smile from our
children in the morning, the gentle touch from a
spouse over the kitchen table, the comforting
embrace of a parent.
We can think of those things and know that those
same precious moments took place here 71 years ago.
Those who died, they are like us.
Ordinary people understand this, I think.
They do not want more war.
They would rather that the wonders of science be
focused on improving life and not eliminating it.
When the choices made by nations, when the choices
made by leaders reflect this simple wisdom, then
the lesson of Hiroshima is done.
The world was forever changed here, but today the
children of this city will go through their day in
peace.
What a precious thing that is.
It is worth protecting and then extending to every
child.
That is a future we can choose, a future in which
Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of
atomic warfare, but as the start of our own moral
awakening.
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)358E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年8月~1879年12月)

2016-05-27 03:32:30 | 日記
題:(増補版)358E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年8月~1879年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1879年8月、東京大学医学部成る(氷川清話)
1879年8月、勤倹の詔下る(氷川清話)
1879年8月、流行:ウサギを弄ぶこと再び流行
1879年9月15日、製茶共進会を、初めて横浜に開催(産業一
 種目の共進会はこれを端となす)
  明治前期における政府の殖産興業政策の一つ。
  内国勧業博覧会と並ぶ明治政府の勧業政策。
  明治政府の工業化政策は、1873年の内務省設置以後、
 大きく変化した。
  財政難や貿易収支の悪化によって、工部省の直営事業
 に対する批判が高まり、『民業の育成』が緊急の課題と
 して強調されるようになった。
  試験場・学校の経営、民業助成などに当たる勧業寮(1877
 年に勧農局と改称)や、各種博覧会事務局が、内務省内に
 設けられた。
  共進会は、産業の振興を図るため、産物や製品を集め
 て展覧し、その優劣を品評する会。
  明治初年代より各地で開催された。
  各地方の代表的な物産や技術を一堂に集め、一般の観
 覧に供するとともに、生産者、販売者に優劣を競わせて
 品質改良、産業振興を図らせた。
  1879年9月、横浜で開かれた製茶共進会と、
  1879年11月、生糸繭共進会が最初で、
  明治期に殖産興業政策の一環として生糸、茶、織物な
 どを中心に各地で催された。
  特に、輸出奨励の観点から生糸類と製茶、また、輸入
 防遏(ぼうあつ、侵入や拡大などを、防ぎとめること)の
 観点から綿、砂糖、織物の共進会が重要視された。
1879年9月29日、教育令(きょういくれい)の制定
  文部卿・寺島宗則が、教育令を布告した。
  この時、学制を廃止し、公布された学校制度全般に関
 する基本法令である教育令(明治12年太政官布告40号)
 が制定された。。
  全文が47ヵ条で、学制に比べて簡略であり、また、教
 育を地方の管理にゆだねた。
  1880年12月、太政官布告59号をもって改正し (通称、
 改正教育令) 、地方官の権限を強め、また、就学義務な
 どを強化した。
1879年10月1日、長崎商法会議所を築町に創立
  初代会頭に、松田源五郎が就任した。
1879年、電気通信連合に加盟した。
  電気通信連合は、国際電気通信連合(略称ITU)の前身
 で、
  このITUは、電気通信分野での国連専門機関の一つ。
  本部は、ジュネーブ。
  加盟国数は、193か国(2012年)。
  通信の設備と運用の標準化、無線通信業務別の周波数
 割当、衛星軌道割当、通信の世界的拡充の計画と調整が
 任務。
  現存の国際組織のなかでもっとも古く、
  1865年に、ヨーロッパの20か国が設立した国際電信連
 合(万国電信連合。日本は1879年に加盟)を起源とし、
  その後の国際無線電信連合を合体して、マドリード国
 際電気通信条約(1932年作成、1934年発効。日本は原加
 盟国)により今日のITUの形となった。
1879年10月13日、川路利良(かわじとしよし)が没した。
  警察制度の創設者(45歳)。
  薩摩藩の城下士、郷士と足軽との間の与力の家柄に生
 れた。
  大久保利通の腹心として日本の警察制度の確立に努力
 し、西南戦争では陸軍少将として警察隊を率いて従軍し
 た。
  明治5年には、西郷隆盛の推挙もあり、各国警察制度視
 察のために渡欧をしていた。
  大久保利通のもとで、終始、警察権力の強化をはかる
 ことにつとめた。
1879年10月25日、目黒火薬製造所
  日本海軍の目黒火薬庫を白金火薬庫に移転し、目黒火
 薬庫の跡地に火薬製造所を建設する事にした。
  明治維新後、明治政府は、薩摩藩が1863年に建設した
 敷根火薬製造所を海軍に移管し利用した。
  しかし、1877年3月10日の西南戦争の際に、西郷軍の手
 に渡るのを恐れて、政府自ら同製造所を焼き払ってしま
 った。
  このため、火薬をすべて輸入する事になるが、
  経済的な理由や、軍事上、兵器の国内生産が必要なこ
 とから、
  東京近辺に火薬製造所を設置することにした。
  当時、火薬製造は、水車で行ったので、水利と、製造
 した火薬の運搬に適した土地を探していた。
  江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(
 1863年)9月の項の一節に・・、
  「同時二十六日昼、四半(よつはん)時頃、荏原郡目
 黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、
 過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕
 の者七十余人といふ」
  幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆
 発の記録がある。
  安政4年(1857年)幕府は、軍事上の必要から三田村の
 新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地
 域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐ
 ら、火薬庫)を移転し、
  さらに、中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒
 村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水
 車場を建てる計画を打ち出した。
  村民らは、火薬の爆発を恐れたが逆らえず、その代わ
 りに用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を
 支払うことを幕府に認めさせた。
  こうして目黒砲薬製造所がつくられた。
  明治政府になって、新政府は、国防と内乱鎮圧などに
 備え、兵器・火器の補強を図る必要があった。
  そのために、新たに火薬製造所の建設場所を捜してい
 た。
  そして、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村が候補地
 となった。
  三田村は、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に
 恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、
 火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していた。
  1869年(明治12年)、田畑をつぶし、道路を開き、水
 路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて、三田用水に
 玉川上水をひき入れ、
  翌年の1870年に、東西1町16間、南北4町10間、面積
 2,000坪に及ぶ目黒火薬製造所が完成した。
  ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎え、
  1885年(明治18年)、操業を開始した。
  そして、製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われ、生
 産額もしだいに増加して行った。
1879年10月27日、徴兵令改正(免役条項を縮小、輜重輸卒
 を説く)
  (参考)輜重輸卒(しちょうゆそつ)旧日本陸軍で、
    輜重兵の監督のもとに輜重の輸送に従事した兵卒。
     のちに輜重特務兵と改称。
  (参考)兵卒(へいそつ)1 最下級の軍人。旧日本陸
    軍では兵長以下。 2 軍人。つわもの。軍兵。兵。
  (参考)輜重(しちょう)軍隊の糧食・被服・武器・
    弾薬など、輸送すべき軍需品の総称。
  (参考)輜重兵(しちょうへい)旧日本陸軍で、輜重
    の輸送を任務とした兵種の一。また、その兵士。
1879年10月28日、札幌測候所が国営移管。
  文部省所管となり、中央気象台札幌支台へ改称した。
1879年10月28日、水上警察署を東京に開設した。
  都道府県警察は、海、空を含む都道府県の区域全域に
 ついて治安維持の責務を担っているが、
  海、河川、湖沼等の水上において行われる警察業務を
 とくに水上警察と呼称し、警察庁地域課が指導調整して
 いる。
  水上警察制度は、1877年(明治10年)2月の河海警察規
 則の制定、および、東京警視本署(警視庁)の河海警察
 仮出張所の設置に始まり、
  同年・1877年8月、河海警察が水上警察と改称され、
  さらに、1879年10月、水上警察所が廃止され、水上警
 察署が設置されてその確立をみた。
  そして、現在に至っている。
1879年10月、自由民権期の政論雑誌の『嚶鳴雑誌(おうめ
 いざっし)』が創刊された(求友社)
  自由民権運動高揚とともにその言論の一舞台となり、
 月5回刊まで発展、部数も増加した。
  しかし、1883年5月10日に75号で終刊し、「東京輿論新
 誌」と合併した。
1879年11月1日、横浜で、生糸の共進会が開催された。
1878年11月5日、共同競馬会が設立され、
  11月30日に、第1回共同競馬会が開催された。
  競馬の歴史・・
  1860年(万延元年)横浜本村(現在の元町商店街あた
 り)で日本初の洋式競馬(馬蹄形の馬場)が開催された。
  因みに、この年に、咸臨丸がアメリカへ出発した。
  1862年(文久2年)10月1日~2日、横浜居留地(現在の
 中華街あたり)にいた居留外国人のレクリエーションと
 して、現在の競馬の原型となる近代競馬が始まった。
  (環形馬場で正式に番組を決めて実施した)
  1865年(元治2年)横浜のイギリス第20連隊駐屯地で競
 馬が開催。
  1866年(慶応2年)横浜の根岸に、幕府の手によって
 「根岸競馬場」が竣工した。
  1867年(慶応3年)1月「根岸競馬場」で競馬開催。
  1869年(明治2年)神戸の生田神社東側の競馬場で居留
 外国人による競馬が開催
  1870年(明治3年)九段(靖国神社境内)で、最初の招
 魂社祭典競馬を開催
  1872年(明治5年)札幌神社で祭典競馬を開催(札幌競
 馬の発祥)
  1875年(明治8年)函館招魂社祭典競馬を開催、
  御所内の吹上御苑(円周馬場)で天覧競馬開催。
  西郷従道が、根岸競馬場にて、日本人馬主として最初
 の勝利を挙げた。
  1878年(明治11年)横浜レースクラブ、横浜レースア
 ソシエーションが解散し、新たに横浜ジョッキークラブ
 が発足した。
  1879年(明治12年)祭典競馬が契機となり、各地に競
 馬場が開設し、共同競馬会社が発足した。
1879年11月7日、愛國社が、再興後の第3回大會を大阪・江
 戸堀で開催した。
  愛国社第3回大会開催し、国会開設請願を決議する。
1879年12月6日:北海道・函館で大火。
  33ヶ町がした焼失。焼失家屋2326戸。
  魚市場より要塞付近まで、焼死者多数。
  焼跡に対し、前年同様の道路の大改革を行なう。
1879年12月10日、印刷局が、当用日記帳(懐中日記)の刊
 行を始めた。
  日本で最初に印刷製本して出版された日記帳は、大蔵
 省印刷局の初代局長の得能良介が、この年・1879年に、
 官吏に配った『懐中日記』とのこと。
1879年12月20日、青森県・尻屋埼灯台に霧笛が設けられた。
  青森県下北半島北東端の尻屋崎燈台に日本で初めての
 霧笛が設置された。
1879年12月26日、東京・日本橋・京橋の大火
  東京・日本橋・京橋で大火。
  日本橋区箔屋町から出た火の手は、屋根の瓦が飛ぶほ
 どの強い北西風にあおられて、たちまち現在の日本橋2
 丁目から3丁目、京橋1丁目、2丁目の一部に延焼し、
 八丁堀、新富、入船、湊、新川の一部、さらには、佃の
 一部を焼く大火となった。
  被害は65ヶ町、全焼1万613戸、
  焼損面積7万4234坪(24万4972平方メートル)。
1879年12月31日、人口調査
  現在の国勢調査にあたる「全国の総人口の現在調査」
 (当時は「現在人別調」と称した)を志し、
  その調査方法や問題点を把握するために、1879年(明
 治12年)に、日本における国勢調査の先駆となる「甲斐
 国現在人別調」を甲斐国(山梨県)で実施した。
  同年・1879年の12月31日午後12時現在人を対象として
 行い、
  調査人:2,000人、
  調査費用は、約5,760円、
  そして、調査対象となる甲斐国の現在人数は、397,416
 人という結果を得た。
  いきさつは・・、
  杉亨二(すぎこうじ、日本近代統計の祖と言われてい
 る)が、人口調査の必要性を説いた。
  国勢調査の試験調査とも言うべき「甲斐国現在人別調」
 を実施した。
  「現在人別調の調査は根本である。国家必要なる事で
 ある」として、全国総人員の現在調査を計画し、
  実施の前に、具体的な実施方法、調査の問題点、調査
 経費等の大体の目途を知るため甲斐国で実施調査した。
  甲斐国を選んだ理由は・・、
  (1)人口の規模が適当である
  (2)管内の人口の移動が比較的少ない
  (3)東京に近く指導、連絡等が便利である
  戸籍法の戸口調査が、戸籍編成のために戸籍上の人を
 実地に点検調査したのと異なり、
  実際の住人を調査地域こそ甲斐国に限られたが、近代
 センサスとして我が国の国勢調査の先駆をなすもの
  「我が国における国勢調査の最初の試験調査」と位置
 づけられる
  調査員の2千人が、1人の調査員=1日平均39軒調査
  結果(甲斐国現在人数)=39万7416人
  調査費用=5759円99銭5厘8毛(1人当たりの費用=1銭
 4厘4毛9絲)
1879年12月、盲人学校の校舎が落成した。
  1875年5月に、古川正雄・津田仙・中村正直・岸田吟香
 らが集まって盲人教育の必要について話し合い、
  盲人学校を設立するための主体として「楽善会」を発
 足させることを決めた。
  翌年・1876年、前島密・小松彰・杉浦譲・山尾庸三が
 加わり、
  また、1876年には、楽善会訓盲院の設立認可が下り、
 東京府より3000円が下賜された。
  校舎は、築地3丁目、約4783坪。
  1879年12月に、総面積約100坪、総レンガ造りの2階建。
  室内は総漆喰塗りの校舎が落成し、
  1880年より、授業が開始された。
1879年、アメリカのカリフォルニアの「州憲法」で、中国
 人の参政権を剥奪し、拒否した。
  正常な中国の方々を、精神異常者と同様な処置とした。
  完全な人権侵犯・人権侵害行為で、
  州として国として、一番大切にしなければならない基
 本的人権を侵犯する非民主国家的行為で、最低の行為で
 ある。
  アメリカは時々このような事をする国で、どこに民主
 的な国家制があると言うのだ。
  人権尊重は第一義に守るべきもので、人権を踏みにじ
 るこの様な行為は、人類の皆を敵にしている。
1879年1月11日~7月4日、ズールー戦争が起きた。
  イギリスと南アフリカのズールー王国との間で戦われ
 た戦争。
  最新式の銃を用い、先進的な兵器を持ったイギリスが、
 弱い者いじめをした戦争。
  (強い者による、領土略奪・軽蔑行為)
  相手のズールー王国の方々は、槍と盾しかもたないと
 いう現地の方々に対し、血なまぐさい戦争行為をした。
  植民地欲しさの戦争。
  イギリスは、本国から大部隊をどんどん送り込んだ。
  敗ける訳はない、この様なやり方をした。
  そして、ズールー国家は滅亡した。
  イギリスによって、桁違いのズールーの方たちが殺さ
 れた。
  この戦争にもキリスト教がからんだ。
  現地のキリスト教宣教師が戦争を煽った。
  戦勝したイギリス軍指揮官に、ヴィクトリア十字勲章
 をイギリス国家は授与した。
  イギリスは、望まぬ戦争をしたとプロパガンダしてい
 るが、応援部隊の増派や、勲章授与など国家主導の戦争
 だった。
   望まぬ戦争ならば、戦争を止めさせることもできた
 のに、その様な行動はまったく無く、遅れた武器しか持
 たない人々に対して、卑劣な殺戮の戦争が続けられた。
  それも、体制を立て直して、また、戦争開始するとい
 う二度もの戦争が、南アフリカ共和国(アパルトヘイト
 の酷い行為もあった)の地で行なわれた。
1879年10月22日、アメリカのトーマス・エジソンが白熱電
 球を発明した。
  トーマス・エジソンが炭化した紙を使用したフィラメ
 ントで白熱電灯の実験に成功した。
  12月31日の公開実験で、40時間の点灯に成功した。
  (別の説)エジソンは、日本産の竹を焼いて作った炭
 素を用いた白熱電球を完成させる。
1879年10月7日、ドイツ・オーストリア同盟(~1918年)
  ドイツとオーストリアの間に存続した対ロシア防御同
 盟。
  1878年のベルリン会議以後、ドイツとロシアとの関係
 が悪化したので、ビスマルクは、オーストリアとの結合
 を強めた。
  そして、1879年10月7日に、両国間の秘密軍事同盟が、
 ウィーンで調印された。
  この条約は、締約国の一国がロシアから攻撃された場
 合、他の一国が共同して戦うこと、
  また、ロシア以外の国からの攻撃をうけたときには、
 好意的中立を守ることなどを義務づけた。
1879年11月、アルタミラの洞窟が発見された。
  人類最古の美術である洞窟絵画の第1号が、スペイン北
 部で発見された(洞窟長さは270メートル)。
  発見者は12歳の女の子。
  この地方の領主であり、アマチュアの考古学者である
 マルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵は娘と洞窟に入っ
 て行った。
  そして、偶然に発見した。
  アルタミラ洞窟壁画は、先史ヨーロッパ時代の区分で
 主にマドレーヌ期(約18,000年前~10,000年前)と呼ば
 れる旧石器時代末期に描かれた野牛、イノシシ、馬、ト
 ナカイなどの動物を中心とする壁画だった。
  侯爵は、これらの絵が旧石器時代のものであると考え、
 1880年に発表した。
  しかし、当時は、旧石器時代の絵が知られておらず、
 学界からは侯爵の捏造だと疑われた。
  20年ほどの間に、他の地でも、いくつかの洞窟壁画の
 事例が報告されたが、
  何と、これらの絵にも当初は否定的な見解がなされた。
  侯爵は、失意の中、1888年に、57歳でこの世を去る。
  しかし、1900年代に入ると、科学的な調査も進み、こ
 れらの洞窟壁画は間違いなく旧石器時代の絵だと認識さ
 れるようになった。
  侯爵の死から15年後、侯爵の論文を否定したトゥルー
 ズ大学のカルテラック教授は、洞窟壁画に関する肯定的
 な論文を発表し、
  かつて、侯爵の論文を否定したことを謝罪した。
..
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(増補版)357E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年6月~1879年8月)

2016-05-24 02:32:27 | 日記
題:(増補版)357E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年6月~1879年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1879年6月27日、コレラ予防法を定める。
  1879年(明治12年)と1886年(明治19年)には、死者
 が10万人の大台を超えた。
  コレラは、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とす
 る経口感染症の一つで、コレラ毒素を産生するコレラ菌
 によって発症する。
  強い感染力があり、特に、アジア型は、高い死亡率を
 示し、ペストに匹敵する危険な感染症、
  最も重要な感染源は、患者の糞便や、吐瀉物に汚染さ
 れた水や食物で、
  消化管内に入ったコレラ菌は、胃の中で多くが胃液の
 ため死滅するが、
  少数は、小腸に到達し、ここで爆発的に増殖する、
  そして、コレラ毒素を産生する。
  コレラ毒素は、上皮細胞を冒し、その作用で細胞内の
 水と電解質が大量に流出する。
  そして、いわゆる「米のとぎ汁様」の猛烈な下痢と嘔
 吐を起こす。
  潜伏期間は5日以内、普通は2~3日だが、早ければ数時
 間。
  症状が非常に軽く、1日数回の下痢で数日で回復する場
 合もあるが、
  通常、突然腹がごろごろ鳴り、水のような下痢が、1日
 20~30回も起こる。
  腹痛・発熱はなく、むしろ低体温となり、34度台にも
 下がる。
  急速に脱水症状が進み、血行障害、血圧低下、頻脈、
 筋肉の痙攣、虚脱を起こし、死亡する。
  極度の脱水によって皮膚は乾燥、しわが寄り「洗濯婦
 の手(指先のしわ)」、「コレラ顔貌(がんぼう、かお
 かたち)」と呼ばれる特有の老人様の顔になる。
  治療を行わなかった場合の死亡率は、アジア型では75
 ~80パーセントに及ぶが、エルトール型では10パーセン
 ト以下、
  現在は、適切な対処を行なえば死亡率は1~2パーセン
 ト。
  治療方法は、失われた水と電解質を補給することでコ
 レラによる死亡はきわめて効果的に抑制できる。
  しかし、経口補液のORS治療は、先進国ではまったく
 おこなわれない。
  コレラ罹患時には脱水のみならず消化管を休めること
 が大切なので、先進国医療では絶食・水分経口摂取禁が
 基本。
  患者が意識を失う重症例では、点滴による輸液で水分
 と電解質の補給を行う。
  治療薬:抗生物質による治療は、脱水症状の改善とは
 無関係で、菌体数を減らし、毒素産生を減らす。
  点滴治療と組み合わせてつかう。
1879年6月、東京の遊技場統計調べ
  煙草卸人 382、  同小売人 2,548、
  飲食店 1,262、  玉突き場 53、
  楊弓場 227、  室内射的場 17、
  投扇競場 3、  吹き矢場 6、
  待合茶屋 247、  遊船宿 70、
  理髪店 2,397、  浴場 1,051、
  人寄せ場 190、 (東京府統計表)
1879年6月、勝海舟、西郷南州自筆の詩を石に刻み、南葛飾
 郡大木村上木川浄光寺内に小池を買い、これを建て記念
 とす(氷川清話)
1879年7月3日、アメリカ前大統領のグラント将軍夫妻が来
 日。
  (氷川清話)米国前大統領グラント将軍来る
  グラント将軍は、南北戦争の英雄。
  この人気で、アメリカ合衆国の大統領を1869年~1877
 年までの2期、8年にわたって務めた。
  グラント大統領時代、1871年(明治4年)秋に、サンフ
 ランシスコに到着し、翌年・1872年1月、ワシントンを訪
 れた、日本からの特命全権大使・岩倉具視に率いられた
 視察団が大歓迎を受けている。
  日本の国書を受け取ったグラント大統領は、岩倉具視
 に、
  「閣下が奉命する、公法に基づく条約改正の交渉は、
 我輩の喜びであり、
  両国間の貿易方法の修正は重要で、望むところでもあ
 り、
  国交の増進は決して怠ってはならず、真実この美事に
 賛成するところである」
  ・・と言ったほどに、日本の条約改正を支持し歓迎し
 た人だった。
  しかし、この後、条約改正の事は、順調には進まなか
 った。
  4年半後の、1876年(明治9年)6月に、当時の外務卿・
 寺島宗則からの指示で、
  駐米特命全権公使・吉田清成が、フィッシュ国務長官と、
 日本が、関税自主権を回復する改税条約交渉を開始した。
  そして、次の大統領のヘイズ大統領の時、1878年7月25
 日に、「吉田・エヴァーツ条約」と呼ばれる新改税条約
 の調印がなされた。
1879年7月4日、来日中のアメリカ前大統領グラント将軍(
 第18代大統領)来朝参内する。
  グラント将軍は、グラント将軍の後に大統領となった
 ラザフォード・ヘイズの大統領が就任した後、
  1877年5月17日に、フィラデルフィアを出航し、世界周
 遊の旅に出発していた。
  フィラデルフィアから船でデラウェア川を下り、大西
 洋を渡り、リヴァプールからロンドンに向かった。
  出発に際し、当時のエヴァーツ国務長官が、各国駐在
 アメリカ公使宛てに出した、その年の公式書翰を見ると、
  前大統領であり、かつ、南北戦争を終結させ、国家再
 統一への勝利に導いたグラント将軍への特別な対応であ
 った(北軍の政権が続いているから・・)。
  日本へは、グラント将軍を乗せた軍艦・リッチモンド
 号(2600トン)は、1879年6月21日に、長崎に入港した。
  日本初の元首クラス国賓としての夫妻の来日だった。
  6月22日には、丸馬場で開催中の博覧会を視察し、記念
 に夫妻でアコウの木を植樹した。
  そして、福済寺において、大歓迎会が開かれた。
  町芸者30人が音曲歌舞を演じた。
  揃いの衣装は、特別に京都に注文し新調した紫縮緬に
 ぼかしの模様だった。
  また、グランド将軍へ、西洋料理店「福屋」にて西洋
 料理が準備された。
  そして、長崎での、6月23日の公式歓迎夕食会の席上、
 長崎県令・内海忠勝が、グラント将軍の歓迎の意を表し、
 健康を祝す乾杯の後、
  グラントは、日本や東洋諸国に対するアメリカの基本
 姿勢について短い演説をした。
  内容は、グラント大統領の第1期目の就任演説でも明
 らかだったが・・、
  アメリカは、日本も含めた諸外国と、公正な関係を築
 くというものであった。
  そして、日本とも常に公正な友好関係を築く努力をし
 てきたし、
  近年の素晴らしい日本の発展もあり、こんな関係の永
 続を願う・・という主旨だった。
1879年7月10日、東京大学卒業生に初めての学位(学士号)
 授与した。
  医学本科18名、製薬本科19名の計37名
1879年7月14日、検疫制度を開始した。
  虎列刺(コレラ)病伝染予防規則が公布された。
  日本の本格的検疫制度が始まった。
  伝染病予防の法令「海港虎列刺(コレラ)病伝染予防
 規則」が公布さる。
  日本最初の統一された国内予防規則
  1879年7月21日、「検疫停船規則」(太政官布告29)に
 改正し公布。
  規則に基いて設立された長崎及び神奈川の両地方検疫
 局が業務を実施。
  わが国における来航船舶に対する海港検疫が初められ
 た。
1879年7月16日、日本最初の考古学研究書完成(モースの
 「大森貝塚研究報告」)。
   報告書が出版された。
  このモースの他に、大森貝塚の発掘には、フィリップ・
 フランツ・フォン・シーボルトの次男であるハインリヒ・
 フォン・シーボルトが関わっている。
  ハインリヒは、考古学に精通していたが、学者ではな
 く外交官(通訳官)だった。
  モースとハインリヒは、第一発見者の功を争った。
  ハインリヒは、大森貝塚の発見を彼の師であるコペン
 ハーゲン国立博物館館長・J.A.ウォルソーに、1878年
 (明治11年)7月20日に報告しており、
  この報告によれば、ハインリヒの大森貝塚発掘は、そ
 の前年の1877年秋、モースの発掘の前に行われた可能性
 がある。
  モースも、後に『日本その日その日』として翻訳され
 た、モース自身の日本滞在の回想記『Japan Day By Day』
 において、
  「発掘調査開始にあたって誰かに先を越されることが
 心配だった」と言っている。
  ハインリヒは、1878年1月31日号に、自身が大森貝塚を
 発見したとの記事を寄せ、モースを激怒させている。
  ハインリヒは、本業である外交官業務が多忙を極め、
 考古学研究から遠ざかったことが決定的となった。
  因みに、「考古学」という日本における言葉は、ハイ
 ンリヒによって出版された「考古説略」から使われ始め
 ている。
1879年7月、東京・上野公園の中に、東京府癲狂(てんきょ
 う)院が設立された。
  後の、巣鴨病院・松沢病院。
1879年8月1日、日本最初の損害保険会社が開業した(東京
 海上火災保険会社)
  東京・南茅場町で海上保険会社が営業を開始。
  日本で最初の保険会社。
1879年8月10日、明治天皇陛下、濱離宮に臨幸(アメリカ前
 大統領グラント将軍を引見し給う)
  天皇陛下と浜離宮で会談。
  8月25日、上野公園で歓迎大会を開催。
1879年8月15日、東京府が本所にコレラ患者隔離のための
 避病院を開設した。
1879年8月25日、車駕上野公園に臨幸し、犬追物天覧(アメ
 リカ前大統領グラント将軍陪観する)
  (参考)犬追物(いぬおうもの):鎌倉時代から始ま
    ったとされる日本の弓術の作法の一つ。
     流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)と共に
    騎射三物の一つに数えられる。
1879年8月31日、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇陛下)御
 降誕。
  (氷川清話)皇太子御降誕
  明治天皇陛下の第3皇子。
  名は嘉仁(よしひと)、称号は明宮(はるのみや)。
1879年8月31日、坂本乙女(さかもとおとめ、坂本龍馬の姉)
 が、壊血病に罹り、没した(48歳・満47歳)
  身長5尺8寸(約174cm)・体重30貫(約112kg)の文武
 両道の女性だった。
  1846年に、母・幸が死去すると、龍馬の母親代わりを
 務め、書道・和歌・剣術などを教えた。
  1856年に、典医・岡上樹庵と結婚し、一男一女(赦太
 郎・菊栄)をもうけるが、家風の相違や夫の暴力・浮気
 などが原因で、1867年に離婚し、実家に戻る。
  龍馬のよき理解者。
  近年の史料では、乙女は、お龍(龍馬の妻)に対し親
 身に接していたことが明らかにされている。
  壊血病に罹った原因として、当時、死の病でもあった
 コレラの感染を恐れ、野菜を食べなかったことが原因と
 言われている。
.
  (今日の言葉)
  沖ノ鳥島について・・、
  沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、太平洋上に位置する
 サンゴ礁の島であり、東京都小笠原村に属する。
  小笠原諸島の中では最南端の島である。
  日本の領土として最も南にある島である。
  東京から1,740km、硫黄島から720km、
  フィリピン海プレートのほぼ中央、九州・パラオ海嶺
 上に位置する。
  太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1.7km、東西
 約4.5km、周囲約11kmほどのコメ粒形をしたサンゴ礁の島
 である。
  北回帰線の南に位置するため熱帯に属する。
  干潮時には、環礁の大部分が海面上に姿を現している
 が、
  満潮時には、礁池内の東小島(旧称・東露岩)と北小
 島(旧称・北露岩)を除いて海面下となる、
  ・・と説明されているが・・、
  中国がやっているように、更なる埋め立てを進めるべ
 きである。
  東京都が、しっかりした形にはしてくれているが・・、
  国として、もっとしっかりした形に埋め立てを、さら
 に、進めて行くべきだ。
  島を失った時に、その価値の大きさに気づくだろう。
  また、実効支配をしっかりし続けるべきだ。
  気象観測をする目的などで、気象観測員の駐在をする
 べきだ。
  また、国防業務の一端であり、作戦上の重要拠点にな
 り得る。
  自衛隊員の駐在意義がある。
  ヘリポートなど必要施設も設置すべきだ。
  日本固有の領土は大切にして行くべきだ。
  「遠く離れているからおろそかにする」というのは
 逆である(ニュース報道でその傾向にあると感じる)。
  島周辺の警備も取り止めると報じていたが・・、
  台湾が「岩だと言った」、
  それで、沖ノ鳥島の海域の利用について、台湾と協議
 に入るという。
  これは、おかしいのではないか?
  「台湾(若しくは中国)に何らかの権利を与えるとい
 う事にする」ということになる。
  台湾が中国にはっきりと帰属する、もしくは、民族自
 決権で独立をする・・という・・過渡期にある今、
  今日のニュースの内容であるなら、政府の方針は間違
 っている。
  周辺海域に貴重な海底資源があると確認されている今、
 もっと日本の固有の領土として大切にして行くべきだ。
..
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(増補版)356E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年1月~1879年6月)

2016-05-22 04:35:47 | 日記
題:(増補版)356E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年1月~1879年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1879年1月1日、広島測候所が創設された。
  政府に、国営で整備する余裕がなく、広島県が、広島
 測候所を創設した。
  そして、気象観測を開始した。
  1939年(昭和14年)11月1日に、国営へ移管され、中央
 気象台広島測候所となった。
1879年1月8日、済世館、開院式
   山形県立病院・済世館の開院式が行われた。
  太政大臣・三条実美(さねとみ)が命名して揮毫した
 「濟世館」の額が披露された。
  県令の三島通庸の「山形の近代化を図りたい」と、
  また、「東北地方で最も早く西洋医学を取り入れ、診
 療の他に医学校も併設したい」との意欲で行われた。
  オーストリア人医師・ローレツを金沢医学校から招聘
 し、経営された。
  建物は、東北地方の大規模な洋風化の歴史を示す資料
 として、国の重要文化財となった。
1879年1月15日、大阪商法會議所 開所式
  1878年7月に、設立願書が、府に提出され、
  1878年8月に、大阪商法会議所が設立された。
  設立の儀願書を提出した有志15名は・・、
  中井由兵衛、白木保三、斉藤慶則、磯野小右衛門、
  芝川又平、藤田伝三郎、井藤儀兵衛、妹尾平次郎、
  山本忠、高田伝蔵、金沢卯右衛門、沢田世範、
  広瀬宰平、中野梧一、五代友厚
1879年1月21日、五島列島住民のイギリス艦の援助
  夕方、英国の帆船「スター・クイーン号」が石炭を積
 み上海へ向けて長崎港を出港した。
  乗員乗客は女性2人、子供2人を含む33人(マレーシ
 ア人、中国人の乗組員の他、数人の欧州人の客)
  船長は、英人アンガス・F・マッキントッシュ。
  ジャーディン・マセソン商会がチャーターした。
  午後8時頃、伊王島灯台を通過し、五島列島南方に差し
 かった頃、折からの強い南東の風にあおられ船は操舵不
 能になった。
  みぞれ混じりの豪雨の中、五島列島南端の黄島沖で座
 礁した。
  最初の衝撃で、トップマストが折れ、海中に落下した。
  救命ボートは、荒波に持っていかれた。
  海水が船内になだれ込む、
  マッキントッシュ船長は、落下していたマストに当た
 り即死しており、夜明けまでに死者は22人になった。
  五島住民は、遭難した乗員乗客を自宅に向かえ援助し
 た。
  そして、生存者は、1週間後に長崎へ戻れた。
  マッキントッシュ船長の遺体は、大浦国際墓地54番の
 2に埋葬され、葬られた。
1879年1月25日、大阪朝日新聞の創刊
  朝日新聞社が大阪江戸堀南通に創立された。
  そして、「朝日新聞」創刊第1号を発行した。
  総ふりがな、さし絵入り小型4ページ、
  定価:1部1銭、1か月18銭、
  1日平均部数:約1千部
  創始者:村山龍平、従業員約20人、
  1~4号は3千部印刷した。
  「朝日」の由来は「旭日昇天 万象惟明」をもとに、編
 集主幹の津田貞の「毎朝、早く配達され、何よりも早く
 人が手にするもの」から由来、
  1888年7月10日、東京の「めさまし新聞」を買収して、
 改題し「東京朝日新聞」を創刊した。
  社屋は、京橋区元数寄屋町。
  号数は、自由燈・燈新聞・めさまし新聞を引き継いで
 1076号からスタートした。
  1889年、大阪本社発行の新聞を「大阪朝日新聞」と改
 題した。
  1940年9月1日、大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題号を
 「朝日新聞」に統一した。
  創刊当時は、小説と通俗記事を中心として大衆向けの
 絵入り「小新聞(こしんぶん)」だった。
1879年1月29日、万国電信条約に加盟した。
  外国電信業務を開始した。
1879年2月、医療文化の開化
  内務省が、医師開業試験規則を布告した。
  医師に資格試験を導入した。
  内務省は「医師試験規則」を各県に達し、全国統一の
 試験を実施した。
  大学卒業者等に対しては、無試験で開業免許授与した。
  医術開業試験では、西洋医学の知識を問う問題が出題
 された。
  それまで、医師といえば、医師は漢方医が主流であっ
 た。がしかし、この医術開業試験の導入により、新規に
 開業する医師は西洋医学の知識が必須となった。
  これは、近代日本での医師の西洋化において、画期的
 な出来事であった。
1879年3月3日、東京・上野に、貧民救療のため同愛社が開
 かれた。
  高松凌雲(たかまつりょううん、医師)が、1879年に、
 医師仲間と「同愛社」を設立し、貧民施療に努めた。
  同愛社は90万人余を救済したと言われている。
  後に同愛病院となる。
  発起人の初代社長の高松凌雲は、戊辰の箱館戦争で戦
 傷病者の救療に当たった。
  賛同する医師14人を社員として結成した。
  毎月10日に会合をもち、運営等を協議し、上野桜木町
 の鶯渓病院を本社に、社員の自宅を分社として施療した。
  施療券は、郡役所や地主・差配人を通じて配布した。
  財政難のため、独自の病院建設は実現しなかった。
  1911年、済生会の設立後解散説もでたが、何とか存続
 した。
  薬代は、社員の出金・寄附・補助金でまかなわれた。
1879年3月3日:高岡で大火。焼失家屋2000戸。
1879年3月12日、最初の内閣書記官長に中村弘毅を任命した。
  (内閣書紀官設立は3月10日)
1879年3月14日、松山にコレラ発生し、全国に広がった。
1879年3月20日、東京府会、開会。
  東京府で府議会が開会。
  府県会規則による府県会の最初。
1879年3月27日、愛国社、第二回大会開催。
  大坂の江戸堀で、愛國社の再興後の第2回大會が開催さ
 れた。
1879年3月28日、初めての日本での蓄音機の吹込み
  エジソンの蓄音機は、1878年、当時のお雇い外国人で
 東京大学教授・J.A.ユーイング(イギリス人)によって
 実験されていた。
  福地桜痴は、これを「蘇音器」とよんだ。
  そして、1879年3月には、東京商法会議所で、ユーイン
 グが、自ら制作し、持参し公開した、このエジソン蓄音
 機によって吹き込み実験が行われた。
  蓄音機には、1857年に、フランス人レオン・スコット
 (1817年~1879年)が発明した装置のフォノトグラフが
 あり、
  蓄音機が世に出るまでには、多くの人の考案、実験の
 業績があった。
  しかし、実際に音を録音し、再生することのできる蓄
 音機で、世に出たのは、アメリカのトーマス・エジソン
 の発明によるものであった。
1879年3月29日、梁川紅蘭(やながわこうらん、女流漢詩人)
 が没した(76歳)
  画家。梁川星巌(せいがん)の妻。美濃の人。
  14歳のとき、江戸遊学から帰郷した詩人・梁川星巌に
 ついて詩文を学び、17歳で星巌と結婚した。
  聡明にして詩文をよくし、中林竹洞に画を学んで山水
 花弁をよくしたと伝えられるが、確証はない。
  結婚後すぐに、星巌は、「留守中に裁縫をすること、
 三体詩を暗誦すること」を命じて旅に出てしまう。
  帰ってきたのはそれから3年後であり、
  紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたばか
 りでなく、一首の詩を詠んでいる。
  常に星巌に随って、諸国の山川の勝を探り、一対の好
 夫婦と賛えられた。
  その作品の多くに夫の賛がある。
  頼三樹三郎等の志士が出入したため、幕吏の疑うとこ
 ろとなり、安政の大獄には、星巌はコレラにて歿してい
 たものの、
  紅蘭は捕らえられ、投獄されたが(夫の身代わりに投
 獄)、遂に、正義をつらぬき許された。
  一説では、捕らえられる前に星巌と交流のあった人物
 (吉田松陰、橋本左内など)との手紙などの書類を焼却
 していたという。
  出牢後は、星巌の遺稿を出版、
  晩年は、京都に出て、私塾を開き、余生を送った。
  生涯で400以上の漢詩を示した他、絵画も残した。
  出身地の岐阜県大垣市曽根には、梁川星巌記念館があ
 り、近くの曽根城公園には、星巌と紅蘭の銅像がある。
1879年4月4日、琉球藩を廃止、沖縄県とする。
  琉球処分(沖縄縣 設置)
  (氷川清話)沖縄県を併合。
  県庁は首里。
1879年4月、集治監(しゅうじかん)が設置された。
  東京・小菅に東京集治監(現在の東京拘置所の敷地)
 が、宮城の宮城集治監とともに設置された。
1879年5月9日、官吏の公開の場での政談演説を禁止する。
1879年5月13日、陸軍幕僚参謀条例が定められた。
1879年5月15日、山林局を内務省に改称し、設置。
  江戸時代以前の山林は、幕府所有と藩所有で、御林山・
 御山・御立山(おたてやま)などと呼ばれた。
  この内、領主に預けて利用させた御預山(おあずけや
 ま)と言われる山林もあり、
  また、村所有の地下山(じげやま)、
  そして、私有林の入会山もあった。
  しかし、「所有」という概念は明確にないまま管理・
 利用されて来た。
  明治政府は、これらをとりあげて、官民有の区分を、
 1874年に開始した。
  政府直轄の国有林である「官林」と、県庁所管の「官
 有地」を定め、
  また、一部は、慣行の入会権を認めて、地元の共有林
 や私有林として払い下げた。
  特に、北海道の官林は巨大な規模となった。
  所管は、民部省と大蔵省をへて、内務省地理局山林課
 があたった。
  1879年に、内務省山林局になった。
  1881年に、農商務省が発足し、林野行政は境界査定の
 測量を含め、同省山林局に移管された。
  1886年には、林区署官制により大林区署、小林区署が
 設置され、境界調査などが行なわれた。
  北海道の官林だけは、1886年の北海道庁開設にともな
 い、内務省直轄の同庁へ移管され、第二次大戦終了時ま
 で継続した。
  また、1885年には、宮内省に御料局が置かれた。
  1889年、1890年に、官林から御料林に移管されたもの
 が多くあった。
1879年5月20日、清が、日本政府に琉球処分について抗議
  日清間において、琉球問題はくすぶり続けたが、
  最終的に、日清戦争(1894~95)で、日本が勝利する
 ことにより終止符が打たれた。
1879年5月21日、政府の支持を得て、長崎造船所に東洋一の
 立神船渠(たてがみせんきょ、現:第1ドック)が完成し
 た。
  総長140メートル、幅:入口部37.17メートル、内部31
 メートル、深さ10.40メートル、
  費用総計40万2600余円
  後に、500瓲クラスの船舶までは、小菅修船場(通称:
 ソロバンドック)で引き受けた。
  それ以上の内外国船は、立神ドックを使用した。
1879年6月4日、靖国神社と改称
  九段坂上の東京招魂社を別格官幣社に列せられ、社号
 が靖国神社と改称された。
  内務・陸軍・海軍3省の共同管理とした。
  招魂社建立(1869年)
  戊辰戦争終戦後の1868年(慶応4年)旧暦6月2日に、東
 征大総督・有栖川宮熾仁親王が、戦没した官軍(朝廷方)
 将校の招魂祭を、江戸城西丸広間において斎行した。
  また、同年・1868年、旧暦5月10日に、太政官布告で京
 都東山(現:京都市東山区)に、戦死者を祀ることが命
 ぜられたり(現:京都霊山護国神社)、
  同・1868年、旧暦7月10・11の両日には、京都の河東操
 錬場において、神祇官による1853年(嘉永6年)以降の殉
 国者を慰霊する祭典が行われる等、
  幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発にな
 った。
  その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。
  それらを背景に、大村益次郎が、東京に招魂社を創建
 することを献策した。
  そして、明治天皇陛下の勅許を受け、
  1869年(明治2年)旧暦6月12日に、現社地での招魂社
 創建が決定された。
  同・1869年、旧暦6月29日(新暦8月6日)に、五辻安仲
 が勅使として差遣され、時の軍務官知事・仁和寺宮嘉彰
 親王を祭主に、戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭し、「東
 京招魂社」として創建された。
..
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