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罪作りな言葉・・・、

2014-03-31 14:54:26 | 日記
 題:罪作りな言葉・・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イエスが、『全財産を貧しい人たちにあげてしまいなさ
い』と言うが、
 ここのところを、何度も読んでいて感じることは、
 イエスは、『激(げ)っし易(やす)い人だ』とつくづ
く感じる。
 そして、感情的に発言することが、「あちこち」に登場
する。
 そして、ここでも、『相手を、優しく納得させようとい
う言い方ができない人』だなと感じる。
 ここのところもまた、明らかにイエスは、『頭に来てい
る状態』で発言している。
 『全財産を上げてしまいなさい』に重点があって、『貧
しい人に』に、重点があるという発言ではない。
 小銭を持っていて、イエスが発言した相手が、小賢(こ
ざか)しく、快く思えなかったのでしょう。そして、この
発言となっている。
 イエスに、いつも、心のストレスがあったが・・、
 だから、この言葉は、貧しい人に施(ほどこ)すという
心より、「相手に対する反発心」が中心となっている。
 しかし、キリスト教は、当然、『貧しい人に重点』を当
てて、美化した言い方をする。
 この過激な発言では、本当にこの人が、全財産を投げ出
して良いと、イエスは思っていたのだろうか?
 イエス自身も、また、イエスの家族たちも、『全財産を
投げ出した』などという話は、皆目(かいもく)ないが、
 この人が、本当に、全財産を投げ出したら、この人こそ
が、他の人の助けを必要とする、助けを求める、「一文な
し」になってしまう。
 また、新たな可哀想な人を作ってしまう。
 まったくバランスを欠いた、激情した発言をするものだ
と思う。
 後代になっても、こんな「イエスの言葉」があるために、
「全財産をキリスト教団に差し出して」、キリスト教団の
施設の厄介にならなければならない人たちがいる。
 今でも、社会問題になっている財産没収教義だ。
 このシステムが巧く行かないという事、駄目だという事
は、すでに、社会で実証されている。
 また、この関連で生まれた「共産主義」は破綻している。
 この様な、感情的な言葉を、針小棒大にしてキリスト教
は美化しているが、
 「上手く行きませんでした。ごめんなさい」と、罪作り
な結果になっている。罪作りな「イエスの言葉」となって
いる。
.
 (参考)こ‐ざかし・い【小賢しい】 [形][文]こざ
   か・し[シク] 1 利口ぶっていて差し出がましい。
   生意気である。2 何かにつけて要領よく振る舞って
   いる。悪賢くて抜け目がない。
 (参考)かい‐もく【皆目】 [副] 1 あとに打消しの語
   を伴って、強く否定する気持ちを表す。まるっきり。
   全然。「―ない」 2 まるまる全部、すっかりの意を
   表す。あとに否定的な意味・内容のくることが多い。
..
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この様な、キリスト教徒とキリスト教聖職者たちを生む・・

2014-03-31 01:53:46 | 日記
 題:この様な、キリスト教徒とキリスト教聖職者たちを生む・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、「思考の遊び」をする宗教である。
 『ああだ、こうだ』と思いつくままに話す。
 そして、辻褄(つじつま)を合せようと「きゅーきゅー」
とする。
 前に言った事の、都合を付けるために、後は、『前の言
葉の都合で語る』。
 例えば、キリスト教の神が、宇宙を創造したというのな
らば、
その神が、創造する前は、何も無かったはずだ、訳だと、
考える。
 しかし、聖書には、そんな事は記されてない、そんな風
には記されてない。
 「混沌だった」と記されている。
 混沌とは、何かものがあって、その状態が乱れ、混乱し
て、混沌としている事を現わしている。
 ここに、矛盾が、このままでは生じてしまう。
 そこで、キリスト教聖職者は言う、「無秩序で、カオス
の状態で、何ら形づくられたものが無い状態」・・と強引
に言う。
 強引に言って、決め付けて、信徒を納得させてしまう。
 しかし、その様な、状態になる、認識できる『空間』と、
 その空間で、「混沌を認識する神」が居て・・、
 そこに流れる『時間』が、そこに、すでにあった・・は、
否定できない存在を、神と共に現わしている。
 しかし、キリスト教は、この点については、『門外漢』
を決め込んでいる。目をづぶっている。
 そこには、立ち入らないの「口閉じの態度」だ。
 大きく流れる時を含め、そこの空間とともに・・、
 そこには『差配する大きな法(のり)』があった。
 キリスト教のおとぎ話は繕(つくろ)いきれない。
 キリスト教聖書の(「創世記』1・31)に、
 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見
よ、それは極めて良かった」・・と。
 これは、間違い。
 キリスト教の神の間違い。
 後で、何度も、神は悔(く)いるのだ。
 その1例が、「ノアの方舟」だ。
 「失敗した」と、キリスト教の神は、大洪水を起こし、
自分が造ったものを殺す。
 何ら、自分の失敗で、殺されるものに対する憐れみの情
や観念、そして、言葉を想起すること無く・・、
 神は、悲惨な行為をする、全滅行為をする。
 この様な、考え方を、洗脳するキリスト教は、この様な、
思考パターンで、形態で、世界のあっちこっちで、蛮行の
数限りない行為を行う。洗脳されたキリスト教徒とキリス
ト教聖職者たちを生み続ける。
.
 (参考)こん‐とん【混沌/渾沌】 [名]無秩序。すべ
   てが入りまじって区別がつかないさま。
 (参考)カオス [名] 秩序のない状態。混沌。
 (参考)もんがいかん【門外漢】 局外者。専門外の人。
 (参考)差配:物事の指図(さしず)をすること(人)
 (参考)のり‐の‐うみ【法の海】 仏の教えの深く広大な
   ことを、海にたとえていう語。法海(ほうかい)。
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思いが至って行く・・・、

2014-03-29 02:25:47 | 日記
 題:思いが至って行く・・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 最近では、さすが、
 キリスト教聖職者が書く本で、
 「キリスト教聖書は無謬だ」・・とは書かなくなった。
 『無謬』とは、神ゆえ論理や判断に間違いが無い、絶対
だ・・という意味であるが・・、
 以前は、この論理が大手を振って歩っていた。
 微塵も、神の不完全さにつながる言葉について、口をさ
し挟(はさ)むことができなかった。聖職者は特に・・。
 キリスト教聖書は、神が与えし書である・・と、
 また、キリスト教聖書は、神が与えし言葉を記せし書物
である・・とした。
 故に、キリスト教の神は無謬、キリスト教聖書もまた無
謬、微塵も齟齬・間違いの類いは無い・・だった。故に、
「信じさせたまえ」だった。
 それが、標記した様に、キリスト教聖職者である者が、
その大前提をひっくり返している。
 あるキリスト教聖職者が著した本には、臆面もなく、次
の様に、まったく、尻をまくった様としか表現できない様
な事が記してある。
 「確かに、この聖書の言葉は科学的根拠に乏しいし、
 第一、人間が誕生する以前のことを誰が見ていたのだろ
うか、
 誰が人間の言葉でこの様に記述することができるだろう
かと疑問を持つかもしれない。
 創世記は、天地創造の様子を誰かが近くで見ていて記録
したものではなく、
 後になって書かれたものである。
 したがって、地球や人間が具体的にどのようにできたの
か、という『現象』を、この中から読みとるのは困難であ
る。
 科学的に、創世記の天地創造ほど馬鹿げた話はないだろ
う」・・と書く。
 まったくの尻まくり的な言い方だ。
 恥ずかしくないのだろうか?
 その後で、如何(いか)なる繕(つくろ)いの言葉を費
(つい)やそうが、
 この聖職者の『信仰』という面に、否定的な、そして、
疑問を禁じ得ない。
 キリスト教とは、この様な聖職者の、この様な言葉が、
のたうつ宗教なのである。
 この聖職者は、そのうち、さも『正当な論理の顔』をし
て、『キリスト教の神の存在を否定する』に至る行為まで
をもするだろう。
 厚顔なキリスト教聖職者は、「キリスト教の神は存在し
ない。科学的に考えれば、しごく当然の事である。しかし、
・・」と、彼独特の詭弁を弄するだろう。
 キリスト教は、この様に、「危(あや)うい宗教」なの
である。信ずるに価しない。
 この聖職者は、彼独特の宗教を創作し始める。
 彼は彼なりに、不合理の、あまりにも多い宗教=キリス
ト教に、口に出しては言えない葛藤(かっとう)に悩んで
いるのである。
 そして、あらぬ事も創作して言い出す。
 「地上すべてのものが誕生する前から神は存在している」
・・と。
 そして、その神の存在が、さも無限の時を遡(さかのぼ)
って存在するかの様な事を口走(くちばし)る。
 今までの『ビッグバン』を原初とする、制限枠が存在す
るキリスト教の『その枠』を越える話に思いが至る。
 今までは、その枠内で、楽しく納得し合っていた話の状
況から、外への想いに至る。
 そして、言う、
 「神は極めて神であり、神以外の何ものではなく、われ
われの感覚をはるかに越えた聖なる存在である」・・と、
 キリスト教が、いつも都合が悪くなると持ち出して言う
言い方で、
 分かった様で、実際は、何も分からない言い方で、煙に
巻く。
 そして、不明な言葉を費やして、ただ神を美化するだけ。
 何ら得るところは無い。
 「神をわれわれと同次元に下ろせない、下ろせば人間の
傲慢さや虚栄がはじまるのだ」・・と。
 そして、結局、佛教の「無始無終」の思想に至って行か
なければと・・思いが至って行く。
 (参考)詭弁を弄する :きべんをろうする、本来は間違
  っていること を、色々と理屈を付けて正しいかのよう
  に思わせるような主張をすること。
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天の一角に・・

2014-03-28 14:18:23 | 日記
 題:天の一角に・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の再臨の大前提だった「ユダヤ王国の復活」は、
イスラエル共和国の樹立で満たされた。
 だから次は、ハルマゲドンの勃発となる。
 そして、その大戦争で廃墟に、
 その時、「携挙(ラプチャー)」が起こる。
 再臨を信ずる信徒だけが、天の一角に引き上げられ、
 キリストとともに、地上のハルマゲドンを見る。
 ハルマゲドンは、最後の審判でもある。
 世界最終戦争が終結した後、生き残った信徒たちだけの千年
王国(ミレニアム)の時代が始まる。
 核戦争で異教徒が一掃され、
 神の国が招来(しょうらい)される。
 ・・というキリスト教の信仰。
 (我、思う):誠に勝手な論理だ。
 キリスト教の信じない者には「救いを拒否する」。
 自分勝手な論理だ。
 信じていないのだから、死んでもらいましょう、それでいい
のだというキリスト教の論理。
 私たち・キリスト教徒は、信じるキリスト教徒だけが、
 天の一角に集まって、
 異教徒が死に絶えるのを、救いの手を差し伸べることもしな
く、見ています・・と。
 その後、千年王国を・・と。
 キリスト教には、完全に博愛精神などありません。
 キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)はありますが、心底に
流れている心は、以上の如くです。
 また、現世離脱し、
 同じ信仰の仲間たちだけで「天の一角に住む」を目的として
いる。
.
 (参考)さい‐りん【再臨】 [名](スル) キリスト教で、昇
   天したイエスが、裁きと救いの成就のため、再びこの世
   に現れるという信仰。
 (参考)ハルマゲドン【(ギリシャ)Harmagedōn】 《新約聖
   書「ヨハネ黙示録」16章から》世界の最後の日に起こる
   善悪諸勢力の終局の決戦場。転じて、世界の終わり。
 (参考)けい‐きょ【携挙】 キリスト教、特にプロテスタン
   トの信仰内容の一。イエスの再臨のときに、敬虔であっ
   た全ての死者が蘇り、生きている信徒とともに天を昇っ
   てイエスと出会い、永遠の命を得るというもの。
 (参考)せんねん‐おうこく【千年王国】 キリスト教で、再
   臨したキリストが一千年間統治する理想・至福の王国。
   →千年王国説
 (参考)しょう‐らい【招来】 [名](スル) 人を招いて来る
   ようにさせること。
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言ったことでもなく、行ったことでもない。

2014-03-26 16:26:27 | 日記
 題:言ったことでもなく、行ったことでもない。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 イエスは、神の代理。
 神ではない代理の者。
 それは、キリスト教聖書の「ヨブ記」「マラキ書」にも
ある通り、神ではなく、その神との差は大きい。
 イエスは、神には届かなかった。
 例え、メシアと言えども、メシアの到来は、神の到来に
比すれば、あくまでも『二次的なもの』。
 そこに、比較ににらない差がある。
 神に比べ、メシアは、比較にならぬ小さなものと書いて
ある。
 やはり、神自身の到来が『中心』で、メシアはその「先
ぶれ」「道備え」に過ぎない。
 メシア到来は、あくまで道備えと、聖書にも「はっきり
記されている」。
 主の来る前に、『預言者』をつかわす。
 そして、メシア到来は、神の到来と比すればあくまでも
二次的なもので神ではない。イエスは神ではない。
 イエスが、「言ったこと」「行ったこと」は、神が言っ
たことでもなく、行ったことでもない。
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