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(増補版)55B:気になった事柄を集めた年表(1431年~1456年)

2015-03-30 16:21:44 | 日記
 題:(増補版)55B:気になった事柄を集めた年表(1431年~1456年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1432年、太田道灌(おおたどうかん、武将、武蔵守護代の
 家老的重職の人)が生まれた(1432年~1486年)、
  主君のために武蔵国入間郡に河越城(埼玉県川越市)、
 埼玉郡の岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区、新資料発見
 で?になる)を築き、
  また、有名な江戸城も築城した(1456年頃)
1432年、北条早雲(ほうじょうそううん、武将、戦国大名
 の後北条の祖)が生まれた(1432年または1456年~
 1519年)、生まれ育ちに不明な部分が多い人。
  名前も多く持っている。
  主君は、足利義政→義尚→義澄→今川氏親。
  日本の氏族で桓武平氏の平惟衡(らいらのこれひら)
 の氏族である伊勢氏(政所執事を世襲した家柄)から、
 後北条の祖となった。
  小説には、「伊勢の素浪人が、妹が守護の妾となって
 いたのを頼りに駿河へ下って身を興した」と記されてい
 るが、出自に関する論は多くある。
  「氏素性のない素浪人ではなく、将軍に直接仕える名
 門の出であった」という論もある。
1435年2月、悲田院で処刑が行われた。
  衆徒を統制する役目を持つ山門使節(さんもんしせつ)
 が、将軍の命によって3名が処刑された。
  日本は、ヨーロッパと違って処刑はほとんどなかった。
  空が曇るほどの焚刑をしたヨーロッパ。
  全滅する村もあったほどというヨーロッパ。
  キリスト教の扇動で、好きに人を殺していた国々と違
 い、日本は3名の処刑が記録に残る国、
  昔から、人の命を大切に思って来た国。
1436年1月2日、足利義政(あしかがよしまさ、第8代将軍)
 が生まれた(1436年~1490年)、
  正室が日野富子。
  東山文化を築いた。
  将軍在位(1449年~1473年)、
  将軍になった当初、義政は、3代将軍の祖父の義満の政
 治を理想として、その復活を積極的に試みた。
  国内の紛争に対しても、追討令を発し、積極介入し、
 事を収めようとしたり、
  将軍の持つ組織の充実を計ったり、
  守護大名の勢力にも対抗して、政治をしっかり確立し
 ようとした。
  だが・・?
  正室を含む義政の周りの人たちが・・関わりを持って
 来る。
  その様な事件も、何度も起きる。
  1例で・・、配下であるべき守護大名の家督相続の紛糾
 も、義政の意が通らなくなって来た、
  また、威が通らなくなって来た。
  守護大名の力がついて来たとも言える。
  足利の時代から戦国の時代への過渡期の中に、義政は
 居た。・・(中略)・・、
  そして、義政は・・、
  東山文化の中に住む、数寄の人となって行った。
  政治は、正室・富子と側近が行なった。
1440年、義政の正室となる、日野富子が生まれた(1440年
 ~1496年)
1441年、嘉吉(かきつ)の乱が起きた。
  室町幕府の第6代将軍・足利義教が、播磨・備前・美作
 の守護大名である赤松満祐に暗殺された事件。
  そして、幕府の討伐軍は領国の播磨で討ち果たした。
 ついで満祐らは自殺した。
  将軍と守護大名の軋轢があり、その中で、満祐は、四
 職家の一つとして幕府政治の重きをなしていた・・が、
  将軍の地位の強化を企画し、強化したい義教は、その
 成行きの中で、一色義貫・世保持頼の重臣を殺した。
  そして、満祐をも圧迫した。
  また、彼の一族である赤松貞村を重く見て、満祐の所
 領を、貞村に与えたりした。
  この様な事から、満祐は、他の守護大名の様に、守護
 大名の勢力を割くために、自分もまた殺されると疑った。
  そして、この年・1441年に、「結城合戦・戦勝祝賀」
 のためと称して、義教を京都の自邸に招いた。そして、
 暗殺を実行した。
  満祐は、本領の播磨に逃れたが、彼と対立していた山
 名持豊以下の幕軍に攻められて、敗死した。
  赤松氏は一旦滅亡となった。
  また、この事件は、永享の乱と共に、室町幕府の没落
 を早める契機となった。
1442年5月、朝鮮において、雨量計による雨量観測が開始
 された。
  都・ソウルと各道の郡県に配置し観測した。
  朝鮮第4代王の世宗王が、1441年に雨量計を開発して
 いた。
1443年、世阿弥(ぜあみ、大和猿楽結崎座の猿楽師)が没
 した(1363年?~1443年?)、
  父も大和猿楽の有力な役者だった。
  当時、寺が猿楽を保護していた。
  京都へも進出して行った。
  父の観阿弥が、1374年頃、今熊野で、12歳の世阿弥と
 共に、猿楽能を演じていた時、
  将軍の義満の目にとまった。
  以後、義満は、保護するようになった。
  義満の催す祇園会などに出る事にもなる。
  当時の貴族・武家社会には、この様な気風を貴ぶ気心
 があった。
  世阿弥は、能力を発揮し、観客の機微を悟り、処々を
 改善し、大成させて行った。
  教養のある品格も付け、厚みも増して行った。
  人脈も広がり、摂政の二条良基には連歌を習い、世阿
 弥の能や能芸論にも反映されて行った。
  深みも増して行った。
  しかし、一転して、弾圧が加えられる。
  世阿弥は、1434年に、佐渡へ流刑にされている。
  そして、どこで没したかは、本当は不明。
1449年、足利義政が第8代将軍となった。
1450年、ハングル:朝鮮文字。
  15世紀中葉、李朝第4代の国王・世宗の時代に創案さ
 れ、「訓民正音」の名で交付された。
  アルファベットと同じ音素文字で、子音字と母音字を
 組み合わせて音節文字をつくり、これを並べて単語を表
 記する。
  当時の音声学の知識を総動員して作った極めて合理的
 な文字と言われている。
  正字である漢字に対し、諺文と卑称して、一般の民衆
 や女性の間でしか用いられていなかった。
  19世紀末に国字として公文書に使われるようになり、
 日本の日韓併合期に、文盲率を改善する目的で教育改革
 策に採用し、埋もれていたハングルを奨励して、「大い
 なる文字」を意味するハングルという呼称も生まれた。
1450年、キリスト教のローマ法王の思い上がり行為。
  世界がさも自分のもののような「思い上がりの悪の行
 為」をした。
  この年、キリスト教ローマ法王は、ポルトガル(国王)
 に、アフリカ西海岸の国・ギニアを越えて、アフリカの
 南端に至る陸地の『征服する権利』を与えた。
  そして、それは「永久だ」とまで言った。
  また、後に、「インドに至るまでを与える」とまで言
 った。
  「ローマ教皇の大勅書」というもので権威を付けて与
 えた。
  これを『デマルカシオン(境界画定)』と言った。
  『他人の土地を征服してよい』と、宗教をかさに着て
 言う極悪行為だった。
1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチが、フローレ
 ンス共和国の小さな村(ヴィンチ)に生まれた(1452・
 4・15~1519・5・2)、
  多能の人:絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工
 学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など、
  はじめ、幼少の時、画家の所へ弟子入りしている、モ
 ナ・リザは有名、
  しかし、現存する彼の絵画は15点という。
  完全主義の彼は、気に入らない自分の作品を破棄した
 という事と、
  長い間に渡って作品を完成させる、その間に、何度も
 手を加えるという手法であったから・・。
  また、彼の絵画以外の能力の発露の、科学的創造性は、
 重要な発見などがあったが、公表されなかったため、後
 世の科学技術の発展に、直接の影響は与えなかった・・
 と言われている。
  フランス王に保護され、晩年は、下賜されたフランス
 の邸宅で過ごした。
1452年、バチカン宮殿が、教皇ニコラウス5世の時、造営
 された。
  植民地収奪で潤った金が入った。
1453年、ビザンチン帝国の滅亡。
  東ローマ帝国の首都のコンスタンティノーブルが、オ
 スマン=トルコの攻撃で陥落した。
  ビザンティン帝国の滅亡である。
  これによって、多くの学者やキリスト教聖職者が、ロ
 ーマに逃れてきて、ローマの学問や芸術や宗教の勃興に
 大きな力になった。
1456年、東京が開都した。
  太田道灌が、この年に、江戸築城を開始し、1457年に
 完成したとされている。
..
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(増補版)54B:気になった事柄を集めた年表(1416年~1431年)

2015-03-30 03:41:35 | 日記
 題:(増補版)54B:気になった事柄を集めた年表(1416年~1431年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1418年、世阿弥が「花伝書」を著し、能を大成した。
1419年、クリスマスツリーは、キリスト教とはまったく関
 係ない。
  ゲルマン民族の「御神木信仰」に由来している。
  何でも他宗教の事を持ってくるキリスト教が取り入れ
 ただけ。
  また、クリスマス自体が、他宗教の祭りだ(冬至の祭
 り)。
  他宗教のそのお祭りが、あまりにも盛大に行われてい
 るので、キリスト教も、その日に乗っかった。
  イエスの誕生日は全く不明なのであり、イエスの「存
 在自体」も立証できない状況。
  キリスト教での、クリスマスツリーの初めは、記録に
 残っているのは、この年に、ドイツのフライブルクでパ
 ン職人がキリスト教施設にツリーを飾ったというのが最
 初とされている。
1420年、雪舟(せっしゅう、禅僧、水墨画家)が生まれた
 (1420年~1506年)、
  現存する作品のうち6点が国宝に指定されている。
  周防に、1454年に移り、守護大名の大内氏の庇護を受
 けている。
  遣明船で1468年に明へ渡航し、政府の建物の壁画を描
 いている。評判になったという。
  また、雪舟の描いた風景の写生画が中国各地に残って
 いるという。
1428年8月~9月、正長の土一揆(しょうちょうのどいっ
 き)が起こった。
  農民が起こした初めての一揆。
  天候不順からの凶作や流行病、そして、政治の不安な
 どから社会不安が高まり、徳政を求めた。
  その一揆が、畿内一帯に波及し、各地で借金に苦しん
 でいた農民たちが、酒屋・土倉などを襲い、私徳政が行
 われた。
  京都から奈良へ波及した。
  土倉が持っていた借金の証文が破棄された(私徳政)。
  興福寺が徳政令を認めたので、公式な拘束力を持った
 ものとして施行された。
  この碑があり、その碑には、「正長元年より以前の、
 神戸(かんべ)四箇郷における負債は一切消滅した」の
 意が刻まれている。
  この碑は、国指定史跡になっている。
1430年、細川勝元が生まれた(1430年~1473年)。
  3度、管領になる。
  細川勝元と山名宗全とで争い、ついに応仁の乱になる。
  細川勝元は、畠山持国の養子と実子の問題が発生点。
  持国に子が無かったので甥の政長を養子とした、後に、
 実子・義就が生まれたので政長を退け、義就をたてた。
1430年、アステカ王国:1430年頃にメキシコ盆地の覇者
 となった。
  王国の経済は、徴税によって成り立ち、都・テイチテ
 ィランの市場は、納税品と公益品とで活況を呈し、人口
 も10万人を越えた。
  アステカ族は征服を、度々、行い、捕虜を大量に生贄
 (いけにえ)とした。
  王を頂点とする成層複合社会を造り上げたが、スペイ
 ン人コルテスの滅ぼされた。
1430年5月23日、ジャンヌ・ダルクが捕縛された。
  イギリスとイギリスに味方するフランス軍の一部の策
 略があった。
  また、このジャンヌ・ダルクが活躍したイギリスとフ
 ランスが戦った百年戦争には「戦地を連れ歩く娼婦(従
 軍慰安婦)」が居た。
  ジャンヌ・ダルクを告発したのはキリスト教の異端審
 問所にいるキリスト教司祭(ピエール・コーション)だ
 った。
  このキリスト教司教は、非人道的方法でジャンヌ・ダ
 ルクを責めた。
  また、罠(わな)を仕掛けた卑劣な糾弾の仕方をした。
  また、ジャンヌ・ダルクを罵(ののし)りもした。
1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクが、火刑(焚刑)に処
 せられた。19歳の若さだった。
  キリスト教会の異端審問所が彼女に下した罪状は「悪
 魔の喚起(かんき)、様々な異端行為、様々な過(あや
 ま)ち、偶像崇拝、その他」という、多くの罪状を付け
 た。卑劣そのものだった。
  彼女は、北フランスのルーアンという所の広場で公開
 処刑された。
  処刑される時、彼女は泣いていたという。
  キリスト教の聖職者の司祭が取り囲んでいたという。
  また、観衆が大勢の見物人の中だったという。
  焼かれる前に、彼女は、「異教徒で、異端で、偶像崇
 拝者である」と書かれた帽子をかぶせられ、また、杭に
 縛(しば)られていた。
  1412年生まれの彼女のはかない一生だった。
  悪の宗教=キリスト教には救いがなかった。
  城に立て籠るフランス軍は、積極的に攻めるという姿
 勢も無く、また、取り囲むイギリス軍も、積極的に攻め
 るというわけでなく、
  兵糧攻めの状態だった。
  そこに、ジャンヌ・ダルクの援軍で、フランス軍は活
 気づき、積極的に攻めて勝ち戦となった。
  この北フランス生まれの彼女の功績は何だったのか?
  ジャンヌ・ダルクは、男装をしたのを「異端」とされ
 た。
  キリスト教の聖書に「女は男の服装をしてはならない」
 とあるからである。
  今、キリスト教は隠しているが・・、
15世紀、キリスト教に、悪魔と結託してキリスト教社会の
 破壊をもくろむ背教者という新種の魔女概念が生まれた。
  そして、キリスト教裁判所で行われる大規模な魔女裁
 判が興った。
  キリスト教は、キリスト教会内に、キリスト教裁判所
 を作り、キリスト教聖職者が異端審問をした。
  魔女裁判も行った。
  下記は、その裁判の様子を詳細に書いた記録が残って
 いる、その資料。
  (資料) : 女性の悲劇:ヨーロッパのキリスト教国の
 女性には、拷問を伴う魔女裁判という悲しい歴史がある。
  今、日本では「美魔女」など安易に魔女という言葉を
 使っているが・・、
  キリスト教による魔女裁判記録の1例・・、
  16世紀のなかばのトレドのキリスト教の異端審問で、
 エルヴィラ という人妻に対して行われた「尋問」の経過
 を、忍耐強い書記が被告の悲鳴や絶叫にいたるまで、細
 大洩らさず書きとめた長文記録。
  裁判には、拷問が、必ず行われた。
  ・・(エルヴィラの両腕を縛った綱がさらに締め付け
 られ、捻じられる。悲鳴。)
  「裁判官さま。何を申し上げたらいいか、言ってくだ
 さい。私がどんなことをしたのか私にはわからないので
 す。綱をゆるめてください、本当のことを申しますから。
 何を言えとお望みなのか、私には分かりません。おっし
 ゃってください。その通りに申します。」
 (さらに綱が締められる。「真実を言え」と迫られる。
 「どう言ったらいいか教えてください。何でも申し上げ
 ますから」と彼女は繰り返す。)
  (「おまえは豚肉を食べただろう」と誘導される。)
  「いいえ、食べた事はありません。豚肉を食べると私
 は気持ちが悪くなるのです。豚肉は好きじゃないんです。
 私は何も悪い事はしていないんです。どうぞ放して下さ
 い。何でも申しますから。何を申し上げれば宜しいので
 すか。何を言ったらいいのか分からないんです。言って
 下さい。何でも申します。放して下さい。何でも申しま
 す。・・・言って下さい、言って下さい。」
 (綱はゆるめられず、「カトリック教会にそむく事を
 しただろう」と尋ねられる。)
 「放して下さい。・・(うめき声)・・ここからおろし
 て下さい。何を言ったらいいか、言ってください。ああ
 ・・苦しい。お望み通りのことをみんな申し上げますか
 ら・・。裁判官さま、もう腕が砕けます・・。ゆるめて
 ください・・」
  (「お前がした事を詳しく言え」と迫られる。)
  「何を申し上げたらいいのか・・・。そうです、いた
 しました。なんでもいたしました。・・ああ、ゆるめて
 下さい。申し上げねばならない事が、私には思い出せな
 いんです。弱い女の身です。腕が砕けそうです。弱い女
 に、憐れみをお持ちではないのでしょうか。・・」
  (裁判官は、「本当の事を言えば憐れみを持つであろ
 う」という。)
  「裁判官さま、言って下さい。本当の事というのを教
 えて下さい・・。(泣きむせぶ)・・分からい・・何を
 言ったらいいのか・・。」
  (同じ言葉の繰り返しと拷問が続いたのち、「おまえ
 は土曜日に麻の着物を着替えただろう」と尋ねられる)
  「はい、着替えました。着替える時が来ていたからで
 す。悪意があっての事ではありません。何をお考えにな
 っているのでしょう。・・」
  (裸にして拷問台に寝かされる。四肢は四方に、綱で
 引っ張られる。口に水管が差し込まれ、水差しから水が
 注がれる。その合間合間に彼女は前と同じことを繰り返
 えす。ここで、拷問は一時「中断」。)
  それから4日後、拷問は再開された。              
    岩波新書「魔女狩り」より
..
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(増補版)53B:気になった事柄を集めた年表(1378年~1416年)

2015-03-29 03:00:34 | 日記
 題:(増補版)53B:気になった事柄を集めた年表(1378年~1416年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1392年、南北朝が一つになった。
  南朝は、亀山天皇、後宇多天皇、そして、後醍醐天皇
 へと、吉野へ移られても続いて行く、
  そして、後村上天皇、長慶天皇と続くことになる。
  だが、新田義貞、楠木正成、北畠親房(きたばたけち
 かふさ、北畠顕家の父)などの有力な武将を失って、衰
 えて行った。
  一方、北朝は、足利氏の援助のもと勢力を強め、5代の
 天皇が継いでいく。
  そして、足利義満が、1392年に、北朝の勢力を背景に
 して、南朝の後亀山天皇に吉野から京都に戻ることを勧
 めた。
  そして、京都に戻った後亀山天皇は、北朝の後小松天
 皇に天皇の位を譲った。
  ここに、60年余り続いた南北朝が1つにまとまった。
1392年、三島外記入道が、主人・細川頼之(管領)に殉死
 した。この事以来、平時に病死した主君に対して殉死す
 る風習が始まった。
  世人が「前代未聞の振舞」と驚嘆した(明月記)。
1392年、李氏朝鮮が建国され、高麗が滅びた。
  李成桂が、1392年に創建し、1910年まで続いた王朝。
  首都はソウル。法典を整備し、科挙を実施して、官僚
 支配の基礎を整えた。
  朱子学を正統の学問とし、儒教中心の独自文化が興隆
 した。
  民と君臣関係を結び、室町時代の日本とは対等な外交
 を展開した。
1399年11月、応永の乱が起きた。
  大内義弘が挙兵し、敗死した。
  室町幕府に対する大守護・大内氏の叛乱。
  周防の豪族・大内義弘は、父・弘世以来の戦功によっ
 て周防・長門・石見・富前・和泉・紀伊6国の大守護隣、
  南北朝合体の交渉の功に加えて、朝鮮・明貿易による
 富強を致し、当時の守護中最大の勢力となり、自然、将
 軍・義満の忌むところとなった。
  よって義弘は、関東管領その他の諸豪族と結んで幕府
 に抗せんとし、ついに1399年、境に叛し、幕府軍と戦っ
 て敗死した。
  この乱は、明徳の乱と共に将軍義満の大守護強圧策の
 結果であって、これによって室町幕府の全盛が招来され
 た。
1400年、この頃、世阿弥「風姿花伝(花伝書)」。
1400年頃、工芸:15世紀。春日山蒔絵硯箱蓋表(東京根津
 美術館)。
1400年、中国の製紙法は15世紀にイギリスに伝わり、ヨ
 ーロッパ中に広まった。
15世紀、イギリスで、この頃、ゴルフ狂が増え、武芸修業
 がおろそかになるという事で、『ゴルフ禁止令』が出さ
 れた。
1400年、マレーシア:15世紀初めにイスラム系のマラッ
 カ王国が成立し、香料貿易で脚光を浴びた。
1400年、神聖ローマ帝国:表記の国名は15世紀から用い
 られた。
  ローマ教皇との『叙任権争議』に敗れて帝権は次第に
 衰弱し、大空位時代、金印勅書発布、30年戦争により領
 邦分裂の状態になった。
  また、15世紀のハンガリーの侵入、16~17世紀のオ
 スマン・トルコによるウィーン包囲など、東方からの圧
 力が強かった。
1401年、足利義満が明と勘合貿易を始めた。
1402年7月、アンカラ(アンゴラ)の戦いが起きた。
  ティムール朝(モンゴル帝国の継承政権の一つ)の征
 服戦争。
  トルコのアンカラ近郊において戦われた。
  戦力:ティムール朝・20万(ティムール軍には象軍も
 あったという)、オスマン帝国・12万。
  結果:ティムールの勝利、ティムールがオスマン・ト
 ルコを破った。
  モンゴル帝国の支配が弱まった中央アジアでは、ティ
 ムール朝が、1370年に、大国家を建設していた。
  この戦いで負けたオスマン帝国が、一時壊滅的な状況
 となり、滅亡の寸前まで行った。
  皇帝が捕虜になって、翌年(1403年)病死し、帝位は
 空位のままになった。
  その後、再建され、1453年には東ローマ帝国を滅ぼし
 た。
  一方、ティムールは、この戦いの余勢をかって、明の
 永楽帝の朝貢の要求に対して、逆に、遠征を決意した。
  しかし、ティムールの皇帝は、1405年に遠征中、病死
 した。
  ティムールは、その後1世紀ほど存続したが、1500年
 に征服され、1507年に滅亡した。
1404年、勘合符を使って明と盛んに貿易をした。
1405年、金春禅竹が生まれた(1405年~1468年頃)、
  猿楽の金春座を禅竹は確立し、現在まで続いている。
  禅竹は、能楽の大成者・世阿弥の女婿で、世阿弥や義
 兄の十郎元雅から芸道を授けられた。
1408年、足利義満(あしかがよしみつ、第3代将軍)が没
 した(1358年~1408年)、室場地幕府の体制を確立し
 た。
  将軍職を子の義持に、1394年に、ゆずり、太政大臣に
 なるが、翌年の1395年には出家し、その後は、京都に
 金閣を建て、北山文化を開花させた。
1410年7月15日、タンネンベルグの戦いが起きた。
  ドイツ騎士団(キリスト教系、バルト海を異教徒から
 防衛する、ローマ法王から武力によるキリスト教化を正
 当化する教勅を受けている)と、
  ポーランド王国とリトアニア大公国の連合軍の戦い。
  連合軍が勝利した。
  戦力:ドイツ27000、連合軍39000、
  損害:ドイツ8400(捕虜14000)、連合軍5000、
  領土紛争に関わった戦争。
  ドイツ騎士団は敗け、帰国できたのは27000のうち
 5000以下。
  ドイツ騎士団は、この44年後の1454年に、壊滅的敗
 北をし、その後、世俗化した。
1412年、ジャンヌ・ダルクが生まれた。
  キリスト教に関わった女性。
  負け戦を勝ち戦に導いた(100年戦争)とか、
  神の啓示があったとか・・キリスト教は色々と美化す
 るが、
  実際は、可哀想な女性、
  それも、魔女にされ、
  酷い仕打ちをキリスト教から受けて、焚刑とされた。
  キリスト教の聖職者の司教が、異端の疑いを掛け、キ
 リスト教会の異端審問所で「有罪の判決」を出されてし
 まう。
  そして、19歳の若さで、公衆の面前で焼かれる。
  勝手なもので、その後、ローマ法王は、ジャンヌは無
 実だったとした。
  そして、殉教だと言った。「キリスト教が殺した殉教
 もあり」という姿。
  そして、聖人だとした。
  魔女旋風を噴き荒らしたキリスト教の大罪である。
  何人の女性の方々が殺されたというのか。
  ヨーロッパの空は、魔女にされた女性を焼く煙でけぶ
 ったという、曇り空のごとく。
  また、人々が頼っていた助産婦(知識があって医師の
 代わりにもなっていた女性方)を、夜、薬草を煎じる姿
 から魔女だとし、殺した。
  ヨーロッパの薬草学が絶えるほどだった。
  今・現代、この西洋薬草学があれば、どれほど人類に
 貢献しているか、計り知れない知識があったと考えられ
 る(東洋の薬草学と同様に)。
  これも、卑劣な宗教=キリスト教の大罪。
  キリスト教には、この他にも数限りなく色々な大きな
 罪がある宗教、ユダヤの方々など、南米の方々・・特に、
 ユダヤの方々を追い回して、長い年月、殺し続けた話は
 許せません。
  ジャンヌが、魔女とされるところは省くが、まったく
 卑劣なキリスト教である。
1415年、ポルトガルが、アフリカ大陸の北端のセウタ(町)
 を攻略した。
  これが、これから大西洋を渡って、植民地攻略をする
 ポルトガルの端緒の攻略戦だった。
  ポルトガルは、スペインもそうだが、東方はイスラム
 の世界が広がっており、これを打ち破って領土拡張をす
 る力はなかった。
  また、ユーラシア大陸には、勢力絶大な遊牧民族が居
 た。
  イスラム教徒は、ユーラシアの民族を包容した。
  ポルトガルとしては、西の海上へ向かう他はなかった。
  こうして、ポルトガルのエンリケ航海王子が、セウタ
 を手に入れた。
  そして、この様な行為をさせたのがキリスト教ローマ
 法王のキリスト教の教義・考え方だった。
  キリスト教に『異教徒は殺せ』の教義があるが、
  ローマ法王の指示は、『異教徒・他民族の征服」の指
 示、そして、『異教徒・他民族を占有する」事を正当化
 した。
  法王(教皇)は、「教皇大勅書」で指示した。
  それによって、『異教徒の征伐(殺戮)』が正当化し
 た。
  そして、教皇は、独占を認め、「原住民の奴隷化」を
 も許した。
  キリスト教聖書にある通りである。
  まったく卑劣な事を指示したものである。
  ポルトガルは、スペインより、約1世紀、早かった。
1416年、ポルトガルが、西アフリカを席巻し、奴隷貿易を
 する。
..
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(増補版)52B:気になった事柄を集めた年表(1358年~1378年)

2015-03-28 00:56:24 | 日記
 題:(増補版)52B:気になった事柄を集めた年表(1358年~1378年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1363年、世阿弥が生まれた(1363年~1443年)
1368年、足利義満が第三代将軍となった。
  足利氏の全盛時代となる。
1368年、元朝滅亡。南京で明が建国された。
  この年、トゴン・テムルは、首都の大都を放棄して、
 北のモンゴル高原へと退去した。
  モンゴル人が、中国を支配した元朝の滅亡だった。
  元朝は、モンゴル人の政権だったが、つまり、中国は
 モンゴルの植民地だった。
  つまり、この事件は、モンゴルが植民地の一つを失っ
 ただけのことだった。
  モンゴル帝国は、中国の版図の何倍もの支配領域を持
 っていた。故に、この事は、モンゴル政権が、モンゴル
 高原に撤退しただけのことだった。
  中国は、いつの時代も、流民の暴走や宗教反乱で王朝
 が倒れ、そして、交代した。
  元を滅亡させた明の初代皇帝は、朱元璋(しゅげんし
 ょう、明の創始者で初代皇帝、廟号は太祖、また、洪武
 帝とよばれる、紅巾軍に参加した)、
  白蓮教徒が1351年に、各地で反乱を起こした(紅巾の
 乱)、そして、この皇帝も参加している、そして、頭角
 を現して行く、この頃に、皇帝になる野望を抱いたと言
 われている。
  参加したその軍の長が死ぬ(1355年)と、その軍を受
 け継いだ、そして、他の長の居なくなった(戦死)した
 軍を吸収し、大勢力になって行く。
  大勢力になると、各地の有力武士が集まって来た。
  紅巾軍のある一派は、大漢国を打ち立てたりした。
  反乱軍同士の覇権争いもあったりしたが、60万の大水
 軍を率いる一派も居た、朱元璋はその一派を救援したり
 した(1363年7月)、そして、大漢国を滅ぼした。
  朱元璋は、1364年に呉王を名乗った、同じく、呉王を
 名乗る一派と激突した。
  准南、江南を、1367年に統一した。
  1368年1月に即位し、元号を洪武とし、国号を大明と
 した。南京を都とし、後に、北京に都を移した。
  皇帝権力の強い中央集権制をとり、朱子学を官学とし
 た。
  また、土地と税金の台帳作成により、人民を把握して
 行った。
1368年、陽明学:明代の儒学者・王陽明が作った学派。
  王陽明は、形式化した朱子学に反対し、人間の心の働
 きの中に理があるとし(心即理)、人間本来の心の働き
 ・判断力を発揮するときは理は極められ(致良知)、知
 識と行動は一致しなければならないとする実践的思想を
 説いた。
  だが、この考え方は主流にならなかった。
  日本では中江藤樹によって普及し、心学・王学と呼ば
 れた。
14世紀後半、高麗:14世紀後半に中国で明が興ると、国内
 では親明派と親元派の対立が起き、新明派の李成桂が実
 権を握って新しい朝鮮王朝を建てた。
1369年、チムール帝国が成立した。
1370年、明軍が、モンゴルを討伐して南京に凱旋した。
1371年、合戦の使者の衣類の取得権で争いがあった。
1377年、教皇グレゴリウス11世がローマへ帰還する。
1378年、三条公忠(さんじょうきんただ、公卿)、知識人
 で歌人。師と仰ぐものが多かったという、猿楽を乞食の
 所行とし、世阿弥を寵愛する足利義満を非難した。
14世紀、この頃、キリスト教の宗教絵画を多く手がけたジ
 ョットはじめ、シモーネ・マルティーニらの、14世紀の
 西洋画科の巨匠たちは、中国はじめ東洋の絵画に大きく
 影響を受けた。
  中世の長い期間、イスラム教徒の学問は、世界最高水
 準にあった。
  ルネッサンスなどと言って、ヨーロッパで、中世末に、
 古代ギリシャ精神の復活があったとされて居るが作られ
 た話である。
  ヨーロッパが、アラビア語を介しながら、少しずつ習
 得したものであって、アラビア語訳のアリストテレスが、
 ヨーロッパ中世哲学の支柱をなした。
  ルネッサンスで言われる「古代の復活」が、具体的に、
 ヨーロッパの現実となることはなく、所詮、ヨーロッパ
 人の願望に過ぎなかった。
  せいぜい、大学のある都市の宮廷クラスや、知識人ク
 ラスだけであって、一般化はなされなかった。
  民衆レベルの意識を変えるまでの影響はない。
  本来、進んでいるイスラム文化や学問を、ヨーロッパ
 が語る訳が無い。
  ヨーロッパ人は、自己の歴史に刻まれたイスラムの痕
 跡を、逆に、「我が物だ」として語るのが当然。
  また同時に、モンゴルや中国などが、ヨーロッパへ及
 ぼした東方の影響も、ヨーロッパは隠し、見ないように
 し、語ろうとしなかった。
  日本人も、その様なヨーロッパ人の見方に影響され、
 同様の認識の中に居て、同じ行為をしている。
  例えば、日本の中村教授のiPS細胞のノーベル賞の発明
 も、後々には同様に、ヨーロッパの発明だとなされる様
 なもの。
  ルネッサンス画家・ジョットは、空間構成や人物像に
 おいて、特に、古代ギリシャではなく、モンゴル帝国の
 拡大によって知らされた中国絵画に影響されている。
  また、このジョットはじめ、シモーネ・マルティーニ
 らの、14世紀の西洋画家の巨匠たちも、影響を受けてい
 る。
  その絵画の目は細く、つり上がり、東洋人の顔となっ
 ている。彫りの深い西洋人ではなく、平たく、黄色人種
 の影響を受けた血を表現し、語っている。
  まさしく、この事などを正直に語ったのが、I・V・ブ
 ツィナである。その著書「中国・イタリアとルネッサン
 ス初期」である。
  中国の宋と元の絵画からの影響を具体的に述べている。
  当然の様に、アメリカやヨーロッパは黙殺した。
  その影響度が、過大であるにもかかわらずである。
  モンゴルの影響は過大であった。
  画期的スケールでなされていた。
  しかし、語られることはほとんど無い。
  ヨーロッパの近代化の華のように語られるルネッサン
 スは、ギリシャではなく、『東方の刺激』によって花開
 いたのである。
  そして、有色人種の無視・蔑視である。こんな事は、
 年がら年中やっている。
  これらは、モンゴルの統治方針の構想からなされた伝
 番であって、ただ単に、伝わったというものではなく、
 それ以上のものだった。
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(増補版)51B:気になった事柄を集めた年表(1338年~1358年)

2015-03-26 02:17:30 | 日記
 題:(増補版)51B:気になった事柄を集めた年表(1338年~1358年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1338年8月11日、足利尊氏が征夷大将軍となった。
  光明天皇から征夷大将軍を任じられた。
  京都に幕府を開く。室町幕府が始まった。 
  この頃、商業都市が起こった。
  室町時代に入ると、京都・奈良・境・兵庫津などの主
 要な商業都市には割符屋・替銭屋と呼ばれる専門業者が
 発展するに至った。
  また、農民や商人層の社会進出があった。民衆が見え
 る時代へと変わって行った。
  こういう形での新しい勢力の興隆の時代でもあった。
  技術の向上、生産の増大、工業の起こりがあった。
  また、河川による生産地と消費地間の運送とその河港
 商業都市への発展などもあった。
  また、河川のみならず海運も盛んで、倭寇が、朝鮮や
 中国沿海部を襲うぐらいだった。
  また、諸街道の整備も進み、同時に、街道筋の発展も
 あった。
  また、畳や障子などを組み込んだ日本の家の基本形は、
 室町時代に作られている。
1338年、百年戦争が起きた(英仏の100年以上に及ぶ果て
 しなき戦い、~1453年)
1339年8月16日、後醍醐天皇が崩御した(1288年~1339
 年)、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後の
 村上天皇)へ、8月15日に譲位し、翌日の8月16日に、
 吉野の金輪王寺で朝敵の討滅と、京都の奪回を遺言して
 崩御された。
  足利尊氏は、後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営
 した。
  日本を良くして行きたいと行動した屈指の偉大な天皇
 だった。
1346年、室町幕府が、「故戦・防戦の法」を制定した。
  「戦いを無くしたい」「戦争を無くしたい」の願いか
 らできた法である。
  この思想は、日本は以前からあった。
  また、豊臣政権の「惣無事令」へとつながっていく。
  そして、刀狩へとつながり、武器のない日本へとなっ
 て行く(悲惨な銃社会ではない)。
  この「故戦・防戦の法」は、攻撃を仕掛けたものは無
 条件に処罰、戦者側は非があれば同罪、非がなければ
 無罪とした。
  「非が無くても、戦いを仕掛けたらダメ」の思想。
  無罪となる道は、「戦いは仕掛けなかった、そして、
 仕掛けられたけれど、非も無かった」しかない。
1346年、クレーシーの戦いが起きた。
  100年戦争の初期の戦争。
  イギリスのエドワード3世(1万2千人の兵)が、フラ
 ンスのフィリップ6世(3万~4万人の兵)を、フランス
 北部の街クレシーで惨敗させた。
  この100年戦争を、今・現在の英仏の国境線から考えれ
 ば、イギリスが、フランスの領土を欲しいと言って始まっ
 た戦争で、愚かにも、100年間以上も戦争をした。
  キリスト教の聖書にある「目には目を」の教義ではない
 が、果てしなく続く、愚かこの上ない戦争だった。
1347年、ペストが世界中に広がっていく。
1348年~1350年、ペストが流行するが、特に、この頃の
 流行の猛威は凄(すさ)まじかった。
  ヨーロッパの3分の1の方々が亡くなった。
  全滅した村もあった。
  死者を埋葬する間もなく、次々と死者が出て、町のい
 たるところに累々と死体が積まれた。
  この黒死病と呼ばれるペストは、14世紀に蔓延し、人
 口が激減したが、
  15世紀になってもこの状態は続き、キリスト教も絡ん
 だりした戦争が頻発し、領主と農民との間で果てしない
 闘争が繰り広げられてもいた。
  生産は停滞し、飢饉も襲った。暗黒の時代だった。
1351年、夢窓疎石(むそうそせき、禅僧)が没した(1275
 年~1351年)、世界遺産に登録されている京都の西芳寺
 (苔寺)および天竜寺のほか、瑞泉寺、恵林時など多く
 の庭園の設計でも知られる人。
1351年、紅巾の乱が起きた。
  中国の農民の反乱(初めは黄河の建設作業員が戦う)。
  元朝の末期症状。
  この乱は、「元王朝の打倒と、ユートピア社会の実現」
 を唱えた。
  元の末期になると、皇帝を、力の強い臣下が擁立した。
  故に、臣下同士の争い、殺し合い状況となった。
  その為、その臣下が変われば、皇帝も変わるという状態。
  当然、政治も混乱。統治能力は失われていた。
  挙句に、凶作・飢饉が頻発していた。
  当然、民は立ち上がった。
  「白蓮教」という宗教団体の人が、黄河の建設作業に
 従事していた人々と反乱を起こそうとした。
  しかし、企てが発覚し、白蓮教の教祖は処刑された。
  一旦は、この様に鎮圧されたが、処刑を免れた指導者
 が、その教祖の息子を擁立し、蜂起した。
  蜂起は成功し、短期ではあったが、一時は、国を号す
 るまでなった。
1352年、室町幕府が「故戦・防戦の法」を改訂した。
  防戦者側に非がなくても、所領半分を没収するとした。
  何しろ争いはするなと言う事。
1352年、この年に始まる「半済(はんぜい)」が普及した。
  これは足利尊氏によって行われ、近江・美濃・尾張に
 実施された。
  戦費を賄うために、荘園収入を領主と武士で折半した
 ことから始まったもので、次第に土地そのものを折半す
 るようになり、守護による荘園支配が強まった。
  鎌倉期の守護が、軍事警察権にとどまっていたのに対し、
  余裕の出た室町期の守護は、軍事警察権のみならず、
 荘園領主が持つ権能をも持つようになった。
  また、領国内の武士(国人といった)の統制や、支配
 を持つという様に拡大して行き、室町期の守護は、守護
 大名へとなって行く。
1353年頃、吉田兼好が没した(1283年頃~1353年頃)
1358年、足利尊氏が没した(1305年~1358年)
1358年、足利義満が生まれた(1358年~1408年)
1358年、ハンザ同盟が成立。
  イギリスは、ヨーロッパの片隅の弱小の国家だった。
  当時、ヨーロッパは、ハンザ同盟(都市同盟、12世紀
 頃より始まる、1358年に成立、15世紀の最盛期の都市数
 は200を超えた)に、100を超える都市が参加するなど、
  また、イタリアの町々を結ぶ商圏が花開き、経済によ
 る豊かさを享受した。
  この様な弱小のイギリスに陽が当たって来るのは、ア
 メリカ大陸の発見(1492年、コロンブスが達した)と、
 インドへの航路の発見(1497年、バスコ・ダ・ガマが喜
 望峰を回ってインドへ達した)だった。
  大西洋を舞台にし始めたイギリスへと大転換して行き、
 弱貧な国家だったイギリスへ「おいしい収奪した利益」
 が流入し始めて行く。
  この旨(うま)さが忘れられない国家となって行く。
..
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