gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

臨時ブログ:鉄塔の話・・鉄塔が危ない。 (震度8の地震は起きていた)

2016-02-29 04:30:30 | 日記
臨時ブログ:鉄塔の話・・鉄塔が危ない (震度8の地震は起きていた)。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  鉄塔の話・・鉄塔が危ない。
  国や地方自治体の公的機関が作ったグランドの鉄塔。
  子供たちが、そして、若者たちが、スポーツに励(は
 げ)むグランドに立つ鉄塔。
  鉄塔は、暗くなると、綺麗(きれい)なカクテル光線
 を、その若者たちへ、子供たちへ投げかけた。
  グランドの芝が美しく映(は)える中を、子供たちは、
 カクテル光線の中を、楽しそうに走り回り、
  そして、若者たち・青年たちは、汗まみれになり体を
 鍛えていた。
  どこの鉄塔だったか? 失念したが・・、
  その鉄塔の根元が、錆び、そして、穴が開いていた。
  断面欠損である。
  構造部の断面が、『欠損している』のである。
  当然、構造耐力は失われている、減退している。
  あの忌(い)まわしい東日本大震災は、悲しくも、多
 くの亡くなられた方々が生まれてしまいました。
  悲しみの日々を、生んでしまいました。
  その大震災は、「千年に一度だった」と言われた。
  千年に一度に起きる規模だと言われた。
  「千年に一度」起きる自然エネルギーの規模だと、大
 きさだと言われた。
  その様な、自然の『破壊エネルギー』が、日本人が、
 営々と築いてきた諸施設へ与えられることとなった。
  気象に関する放送で、「19○○年以来の雨でした」・・
 とか、風でした・・とかという説明を、時々、聞きます
 が・・、
  自然は、その自然の現象の規模は、そして、そこから
 起こる破壊エネルギーは・・、
  そして、その破壊エネルギーで起こされてしまう災害
 は、10年とか、30年とか、50年とか、100年とか、1000年
 とかと、
  年数が長くなれば、当然、そのエネルギーが「より大
 きな自然現象」が起きていることになる。
  その災害規模は、災害を起こす自然の猛威は、だんだ
 ん大きなクラス・猛威の程度となる。
  これ以上の強い猛威はないと言えない気持ちになる。
  いくらでも大きな破壊エネルギーが与えられてしまう
 という気持ちになる。
  阪神・淡路大震災も、大変、忌まわしい出来事でした
 が、
  あの時、建築界に、土木界に、建設に携わる人々を、
 大変、驚かす出来事が起きていた。
  それは、これ以上の大きな大きさの地震は起きないだ
 ろうと言われた以上の地震が、
  「起きていたらしかった?」からだった。
  「らしかった」といった理由は、その大きさを計る地
 震計が無かったからだった。
  これ以上の大きな大きさの地震は起きないと思ってい
 たので、
  誰も、その超巨大な地震規模を計測する計器を設置し
 ていなかった。
  果たして・・?
  阪神・淡路大震災の地震の大きさは?
  その規模は「いくら」だったのか?
  「どのくらい」だったのか?・・という話となった。
  設置されて無いほど大きいスケールの、大きさの規模
 の地震は、
  設置した計器の、計測範囲以上の地震エネルギーだっ
 たので、地震計の針は、みな、振り切っていた。
  だから、地震の規模を・・計測できないでいた。
  その為、その地震は、超巨大な事だとは、その様な規
 模だとは分かるが、
  その地震エネルギーは「測れないくらいに大きかった」
 という事だけは分かったが・・、
  「このような大きさでした」という確定した規模の数
 値はつかめない、不明の状態だった。
  ここで、これを、「不明だった」「不明でした」と済
 ます訳には行きません。
  それは、大切な国民の方々を守るために、是非とも、
 その数値を知る必要があるからです。
  つまり、従来の地震エネルギーは、この数値で設計す
 れば「オーケー」になります・・だった。
  その数値ならば、地震エネルギーの破壊エネルギーに
 対し「クリアーします」というその数値が、否定されて
 いるのです。
  新しい数値を、是非、知る必要が、必要性が、絶対、
 あるのです。
  ならば、「新しい設定し直すべき数値は?」となりま
 す。
  それで、安全な設計をしなければならない・・という
 事になります。
  だから、知りたい「その数値は、いくつなのか?」で
 す。地震計は振り切っているし・・、
  探しました。その数値を知るために・・。
  しかし、驚くなかれ、日本には、その様な方が居られ
 ました。
  まったく、素晴らしい事です。
  皆が言う事に、疑問を持った方が、居られました。
  とてつもなく「ごつい」地震計を作り、設置していた
 方が居られたのです。
  その計器は、その他の計器が、みな振り切って分から
 なかった数値を、しっかり計測していました。
  その事によって、今までの「常識を破る数値」を知る
 事になったのです。
  皆、びっくりしました。
  「あったのかー」という気持ちでした。
  「起きていたのかー」という気持ちです。
  今までの常識が、打ち破られた時でした。
  「今までの数値ではだめ」と確認した一瞬でした。
  (震度8の地震は起きていた)
  この様に、自然界は、この自然エネルギーも含め、そ
 の数値は、その現象は、観測期間を越えて来ます、襲っ
 て来ます。
  ここで、標記の子供たちを照らす、青年たちを照らす
 鉄塔に話を戻しますと・・、
  その様な、自然界の中に住む私たちだからこそ・・、
  その様なこともあって、だから、なおさら・・、
  その様な備えをしてなければならない・・と・・教え
 られて居ります。
  つまり、「断面欠損した鉄塔を、そのまま放置すると
 いう話は・・論外なのです」。
  「放置の話」は論外です。
  申し上げたいことは、この様な類いの鉄塔が多いとい
 う『日本の現状・状態だ』という事です。
  日本の公的機関の社会資本、この鉄塔の様に、建物・
 橋・高速道路・トンネル・・などなどのメンテナンスが、
 まったく不十分です。
  「フォロー」がなっていません、成立していません。
  「社会資本メンテナンス庁」を作って戴きたいのです。
  腰を据えて、しなければなりません。
  今、しなければなりません。
  「社会資本メンテナンス庁」を作らねばなりません。
  国民の皆様のリスクを少なくすることに、邁進しなけ
 ればなりません。
  鉄塔は倒れます。
  倒れてから、そして、気づくという・・日本となって
 います。
  トンネルの壁は剥がれ落ち、そして、天井版も落ちま
 した。
  橋は、アメリカで起きたように、橋の崩壊が起きます。
  などなど・・が、起きます。
  この鉄塔の場合、何故、この部位に穴が開いたか?と
 いうと・・、
  雨の日に、木を見ればわかります。
  雨の水は、枝を伝い流れ落ちます、そして、幹を伝わ
 って下へ落ちて来ます。
  鉄塔も同じです。
  雨の日に、鉄塔に当たった雨粒は、鉄塔の表面を流れ
 落ち、最下部の基礎の所に来ます。
  この基礎の所に、水は溜まります。
  鉄塔の他の部分は、雨が止んで、すぐ乾いても、鉄塔
 の表面を伝い、流れ落ちる水は、少なくなりながらも流
 れ落ち続けて、最下部に供給され、その最下部にその水
 は溜まり、何時までも、水のある状態中に、その鉄塔の
 鉄部は、浸される状態にある・・劣化環境にあるとなり
 ます。
  つまり、この鉄塔の最下部が、この水により、「より
 劣化が進むのです」。
  この鉄塔最下部の塗膜は、早く劣化し、剥がれ、水は
 鉄部に達し、鉄部に錆が発生し、錆による浸食によって、
 鉄塔に穴が開いて行くのです。
  常に、この最下部だけでも、メンテナンスの塗装の補
 強塗りをすれば、永久に鉄は、錆びを発生しない状態に
 保てるのです。
  いつまでも、この鉄塔は使って行けるのです。
  この穴の開いた鉄塔も、壊して、撤去して、新しい鉄
 塔に作り直すことをしてはいけません。
  こんなことをしていたら、税金がいくらあっても足り
 ません。
  丁寧に、溶接で修理しなさい。
  補強の鉄板も溶接しなさい。
  そして、丁寧な塗装をし直しなさい。
  そして、しっかりメンテナンスをして行けば、永久に
 何でも使用して行けます。
  ほっておいたら、何でも壊れます。
  国民の皆様のリスクは増大するし、税金はいくらあっ
 ても足りません。
  この鉄塔の最下部の基礎を、平(たいら)に仕上げる
 のではなく、斜めに、水勾配を付けて、水を溜まりにく
 くするなど、改善すべき方法は、いくらでもあります。
  庇状のものを事前につけて、最弱点部に水が行かない
 様に、溜まらない様にするなど・・など・・、
  工夫はいくらでもあります。 
  税金を大切に。
 (追伸):
  阪神・淡路大震災で、地震規模の大きさが、従来より
 大きいと判明し、知った日本の技術者の方々は、高速道
 路の補強などを行なっていった。
  しかし、設立が望まれている『社会資本メンテナンス
 庁』は、社会資本のメンテナンスだけでなく、
  この阪神・淡路大震災で対応した如くの行為の対応の
 範囲だけでなく、
  他の社会資本にも、そして、その他の事項についても
 必要な箇所はないかの「十分なる点検」をして行って戴
 きたい。
  また、この庁が、イニシアチブを取って、大学研究室
 などの参画を依頼し、しっかり点検・研究なども行って
 行って戴きたい。
  また、この庁は、民間施設の十分なる指導をも、行っ
 ていって戴きたい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)303E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年11月~1871年12月)

2016-02-28 00:58:34 | 日記
題:(増補版)303E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年11月~1871年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年11月3日(明治4年9月21日)高輪に屠牛場を設置。
  「順立帳 明治4年ノ20,官途必携 巻之3」に、
  1871年11月3日(明治4年9月21日)に、高輪屠牛場設置
 とある。
  仮名垣魯文は、この年に出版した『安愚楽鍋』で・・、
 肉食を賛辞し、以下のように書いている・・、
  「士農工商老若男女、腎愚貧福おしなべて、牛鍋食は
 ねば開化不進奴」・・と、
  文明開化にあこがれる人々は、牛肉食をあたかもその
 象徴のように信じて食べている・・と、
  牛肉は旨かったのだろうが・・、
 こんなところにも、西洋崇拝の、当時の、盲目的追従の
 姿が記されている。
  そして、魯迅は書く・・、
  「一度箸を入るれば、鳴呼、美なる哉、牛肉の味はひ
 と、叫ばざるもの殆ど希なり候」・・と、
  味噌を入れ、葱(ねぎ)を入れ食べたが・・、
 異臭だと感じたらしく・・
 (現代人は涎・よだれが出るのだろうが?)、
  山椒を投ずれば、臭気を消す・・と、記している。
1871年11月13日(10月1日)東京湯島の大成殿にて、最初の
 博覧会開かれた。
  別の説では・・下記の記述がある、
  京都では、日本最初の博覧会が、明治4(1871)年、西本
 願寺で行われた。
  また、別史料では・・、
  近代日本では、新しい文明の成果や他国の文化を人々
 に伝える啓蒙的な役割を果たすことで、
  1871年(明治4年)5月の九段下の西洋医学所薬草園に
 て行われた大学南校主催の物産会(当初、博覧会の名で
 企画されたが、直前に物産会に名称変更)や、
  10月の京都の西本願寺で開催された京都博覧会(京都
 博覧会社主催)が、国内の博覧会、最初期のものである
 ・・と。
1871年11月14日、第1次府県統合が実施される。
  全国で、それまでの3府302県が、3府72県に統合さ
 れた。(75府県になったという説もある)
  因みに、第2次府県統合は、1876年4月18日と8月21日の
 2度に渡って行われ、府県が38までになっている。
  そして、1888年に、8つの県が復活し45府県となった。
  因みに、この時、復活した県は、宮崎県、佐賀県、香
 川県、徳島県、鳥取県、奈良県、福井県、富山県。
  これで、ほぼ現在と同じ姿となった。
  そして、1890年に、府県制の法律が制定・公布され、
  1899年に、法律改正され、
  1900年までに、全府県で府県制が施行された。
1871年11月20日(10月8日)欧米派遣の特命全権大使、決定
  岩倉具視(いわくらともみ、公家、政治家)を右大臣
 に任じ、
  そして、特命全権大使として欧米各国派遣が命じられ
 た。
  また、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚文を、
 副使に任命した。
1871年11月30日(10月18日)伊予国佐田岬に、燈台竣工す。
1871年11月、鍋島閑叟(なべしまかんそう、直正、佐賀藩
 主)逝去(氷川清話)
  藩政を改革し、殖産興業政策を推進した名君。
  佐賀藩は、前代藩主の放漫財政によって、藩財政は、
 破綻寸前で、
  藩財政は窮乏、郷村の疲弊は著しかった。
  閑叟は、改革派の側近を置き、藩政改革に着手、
  郷村の復興と、農商分離の政策を行なった。
  特に、目覚ましいのは、均田制度と称された土地分給
 政策で、
  本百姓の維持政策をとり、農商分離の徹底を目指した。
  また、陶器、櫨蝋(はぜろう)、紙の開発や石炭の増
 産を行ない、財政を潤した。
  また、商人の郷村での、土地保有を徹底的に排除し、
 改革を推進した。
  長崎警備の任についていて、西洋技術の優秀性を良く
 知って、早くから洋式兵備を採用し、大砲などの近代的
 兵器を備え、強力な軍備を整えた。
  そして、西洋文明を積極的に採用し、軍備近代化(大
 量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入に努めた)、
  そして、1852年に、我が国、初めての反射炉建設を成
 功させ、
  蘭学奨励・種痘などを行った。
  幕末には、薩長土肥と言われる実力を持つ雄藩となっ
 た。
  戊辰戦争の時は、その強力な軍事力によって官軍の重
 き位置を示した。
  大隈重信、江藤新平らの藩の実力者を、新政府に送り
 込み、そして、
  明治維新後、議定・軍防事務局輔・上局議長・開拓使
 長官などを歴任した。
1871年12月2日(10月20日)伊万里の深川長右衛門、同地
 より佐賀まで、私設電話架設を出願許可される。
  幕末の1867年に、国際博覧会のパリ万博に、幕府の出
 品参加の要請に応じたのは、薩摩藩と佐賀藩だけだった。
  この時、深川長右衛門は、佐賀藩からフランスへ行っ
 ている人間の一人となっている。
1871年12月5日(10月23日)東京で邏卒(らそつ、巡査の旧
 称)3,000人を新採用し、置いた(⇒1874・1・15東京警
 視庁)
  明治という時代になって、東京府の治安維持にあたっ
 た府兵は、諸藩から選抜された藩兵であった。
  しかし、いちじるしく統制に欠け、
  そして、その上、1871年8月の廃藩置県で廃止せざるを
 得なくなった。
  そこで、欧米のポリスを模範に、邏卒をおくこととし
 た。
  取締組を編成し、邏卒総長には、川路利良(かわじと
 しよし)が任じられた。
  この3分の2にあたる2000名が、鹿児島県士族であった。
  そして、帯刀を禁じて、3尺棒を持たせた。
1871年12月8日(10月28日)大阪日報(浪華要報)の創刊、
  この頃、府県庁支援の新聞が、次々と刊行された。
  1872年1月(明治4年12月)に、廃刊となった。
  その後、『大阪新聞』が、1872年4月(明治5年3月)創
 刊され、
  1875年5月(明治8年4月)に廃刊した。
  この新聞は、大阪府の援助で出した半官半民の新聞で、
 官衙町村役場等で購読された。
  そして、その後、『浪花新聞』が、1876年1月(明治8
 年12月)に創刊され、
  1877年12月(明治10年11月)に廃刊した。
  この新聞は、大衆層を対象とする、ふり仮名付き口語
 文の称新聞だった。
  街頭で呼び売りを行なって、人気を博した。
  そして、『大坂日報』が、1876年3月(明治9年2月)に
 創刊され、
  1882年3月(明治15年1月)に休刊した。
  この新聞は、大阪裁判所の判事グループが発起、推進
 した政論中心の大新聞で、社説入りでふり仮名はなし。
  この新聞が、紆余曲折を経て、後に、大阪毎日新聞と
 なった。
1871年12月15日(11月4日)最初の停車場の新橋駅が、落成
 した。
  明治5年4月(1872年5月)新橋停車場本屋が落成し、明
 治5年6月(1872年7月)、乗降場落成の説もある。
  開業は、1872年10月14日(明治5年9月12日)、
  初代の新橋駅は、今の汐留駅(しおどめえき)。
  横浜停車場と同型で、
  米国建築技師のリチャード・ブリジンスの設計、
  煉瓦造二層の洋館(木造石張り2階建ての説がある)
1871年12月18日(11月7日)漂流していた琉球漁民のうち、
 54名が、台湾原住民に殺害された。
1871年12月20日(11月9日)大臣・参議が、岩倉邸で、朝鮮
 問題の着手順序について協議した。
1871年、こじれる朝鮮への外交権(日本の国書の受取拒否)
  昔も今も、難しい国・朝鮮・・、
  1867年に、釜山倭館へ行って、対馬藩の家老は、明治
 新政府が、成立したことを、大院君政権へ伝えた。
  しかし、朝鮮側は、日本の新しい主権者が「皇上」と
 名乗っていることを理由に、国書の受け取りを拒否した。
  そして、この年・1871年、江戸時代以来、対馬藩にゆ
 だねていた対朝鮮の外交権を、日本外務省へ移管した。
  この時も、朝鮮は、日本の国書の受け取りを拒否した。
  かたくなな朝鮮だった。
  1872年に、外務丞・花房義質が、釜山へ行き、草梁倭
 館を接収して、大日本公館と改称した。
  これに対して、大院君政権は、強硬に退去を要求した。
  そのため、日朝間の外交問題に発展し、日本で征韓論
 が台頭する一因となった。
  その後、1875年の江華島事件を経て、翌年・1876年、
 日朝修好条規が締結され、
  日本外交使節は、ソウルに駐在となった。
  ここにおいて、釜山の倭館は、200年の歴史を閉じるこ
 とになった。
  因みに、江華島事件(こうかとうじけん、カンファド
 じけん)は、日本と朝鮮の間で起こった武力衝突で、
  朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦・雲揚号が、江華
 島、永宗島砲台と交戦状態となった。
  明治新政府が成立した日本は・・、
  1868年(明治元年)12月19日に、新政権の樹立の通告
 と、条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹立を求
 める国書を持つ使者を、かねてから日本と国交のあった
 李氏朝鮮政府に送った。
  しかし、大院君のもとで、攘夷を掲げる朝鮮政府は、
 西洋化を進める明治政府を訝(いぶか、不審の目で)し
 み、
  冊封体制下では、中華王朝の皇帝にのみ許される称号
 である「皇」を、
  また、中華皇帝の詔勅を意味する「勅」の文字が入っ
 ている・・などと、理由にして、
  日本からの国書の受け取りを拒否した。
  日本は、その後、何度も国書を送ったが、
  朝鮮側は、その都度、何らかの理由を付けて、受取り
 を拒否した(書契問題)。
  早期の問題解決を望んだ明治政府は、
  対馬藩が間に入らないで、直接、話し合った方が問題
 解決するとして、外交権を政府の元に置いた。
  そして、明治政府の外交官が派遣されたが、まったく
 なすすべがなく、
  この時の外交官の佐田白茅は、帰国ののち、1870年に、
 「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべきだ」という征韓の建
 白書を提出したくらいだった。
  この時点で、局面打開をしようとする外務省は、朝鮮、
 および、清国への担当者派遣など、複数の手立てを講じ
 た。
  そして、日清修好条規が、1871年9月13日に、締結され
 るに及んだ(この時は、朝鮮との条約締結に至らなかっ
 た)
  ここに、状況をさらに複雑にする話がある。
  アメリカと朝鮮との関係である。
  1871年4月に、アメリカ艦隊が、江華島を占領した。
  これを、朝鮮は奪還しようとした(辛未洋擾・しんみ
 ようじょう)。
  この発端のところに・・、
  1866年に、アメリカの武装商船のジェネラル・シャー
 マン号が、朝鮮住民を殺害し、略奪行為をした事件があ
 った。
  この時、朝鮮は、報復として焼き討ちをして撃退した
 事件だった。
  アメリカは、通商を求めに行ったのだと言い、朝鮮は、
 難破船なので処理しようとしたと言った。
  また、朝鮮は、慣例によって、薪・水を支給した上で
 退去を命じる方針であったと言った。
  そして、朝鮮は、問題解決のための朝鮮側の使者の乗
 った船を転覆させられたと言い、
  使者を捕縛されたと言った。
  そして、朝鮮領の住民が、砲撃を加えられ、死者が出
 たと言った。
  それ故、これに激怒した住民が、シャーマン号へ攻撃
 を開始したのだと言った。
  数日間の戦闘の後、アメリカのシャーマン号は座礁し
 た。
  ここで、朝鮮は、シャーマン号を襲い、焼き討ちにし、
 乗組員を殺害した。
  アメリカは、1871年に、この事件の謝罪と、通商を求
 めた、そして、
  アメリカのアジア艦隊に命じ、朝鮮を攻撃した。
  こんな辛未洋擾(しんみようじょう)がある中、日本
 は、朝鮮と問題解決の努力をしていた。
  朝鮮が、攘夷の意思を強めていたこともあって、交渉
 は進展しなかった。
  こんな経緯の中、1871年、岩倉使節団が、西欧に派遣
 されることとなり、国政・外交に関する重要な案件は、
 1873年まで、事実上の棚上げとなった。
  しかし、留守の政府は、事態を打開しようと動いた。
  日本は、会見を求めた、
  朝鮮の地方外交官は、倭館を大日本公館と改名したこ
 とに激怒した(書類上の問題)。
  貿易などすべてがストップした。
  この様な事、そして、国書などの拒絶による交渉の行
 き詰まり、その交渉の中にある日本への侮辱行為などな
 ど、
  ものごとはスムース(滑らかに、順調に)に進まなか
 った。
  この国は、昔から難しかった。
  この国は、必ずしも、アメリカとも、うまくは行って
 なかった。
  中国とは、冊封(さくほう)体制の関係から、中国を
 「天子」とし、朝鮮の長と取り結ぶ君臣関係(宗主国と
 朝貢国の関係)で、波風は立ってない様にして経過して
 いた。
1871年12月23日(11月12日)岩倉使節団が、欧米へ。
  近代日本を作るための視察と、実情調査とも言える。
  この行動、直に西洋文明に触れるという体験は、非常
 に貴重な体験を与え、影響は大きかった。
  また、この時に同行した留学生たちも、帰国後、日本
 の構築に大きく貢献した。
  使節団は、この日、アメリカ船「アメリカ号」で横浜
 港を出航し、
  一路、サンフランシスコへ向かった。(~1873年まで)
  その後、アメリカ大陸を横断し、ワシントンD.Cを訪問
 し、
  アメリカに約8ヶ月という長期滞在となった。
  その後、大西洋を渡り、イギリス → フランス →
 ベルギー、オランダ、ドイツ → ロシア → デンマ
 ーク、スエーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン
 万国博覧会視察)、スイス・・の12カ国。
  帰途、ヨーロッパ諸国の植民地であるセイロン、シン
 ガポール、サイゴン、香港、上海などの実状も見た。
  そして、出発後の約1年10ヶ月後、1973年11月2日に、
 横浜港に帰着した。
  留守政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論が争われていて、
 使節団の帰国後の明治六年政変へとなった。
  使節団の構成は、使節46名、随員18名、留学生43名の
 計107名だった。
  使節は薩長が中心で、
  書記官などは、旧幕臣から選ばれていた。
  特命全権大使:岩倉具視、副使:木戸孝允(桂小五郎)、
 大久保利通、伊藤博文、山口尚芳をはじめ、明治政府の
 中心人物たちで構成され、
  目的は・・
  1.条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出
   する。
  2.江戸時代後期に、諸外国と結ばれた不平等条約を改
   正する(条約改正)ための予備交渉
  3.西洋文明の調査
  使節団の主目的は友好親善、および、欧米先進国の文
 物視察と調査であったが、
  各国を訪れた際に、条約改正を打診する副次的使命を
 担っていた。
  明治政府は、旧幕府と締約された各種条約を、新政府
 のものとに置き換えるべく、明治初年度から順次交渉を
 続けていたが、
  1872年7月1日(明治5年6月26日)をもって、欧米十五
 カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降、1ヵ年
 の通告をもって、条約を改正しうる取り決めであったの
 で、
  明治政府は、この好機を捕えて、不平等条約の改正を
 図ったのだった。
  岩倉大使、欧米に出発(氷川清話)
  対外関係の実務は、幕府の方が経験豊富なため、登用
 されていた。
  江戸から東京になったからといって、過去の価値(幕
 府の経験)が、弊覆(へいり、惜しげもなく棄てる)の
 如く捨て去られた訳ではなかった。その様な日本だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)302E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年11月)

2016-02-26 01:59:45 | 日記
題:(増補版)302E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年9月18日(8月4日)最初の侍従長が任命された。
  侍従長の徳大寺実則(とくだいじさねつね)は、明治
 天皇陛下の政治関与に強く反対し、
  侍補(じほ、宮内省内に置かれた役職)制度が定めら
 れて、天皇陛下の親政運動が行なわれた時には、その阻
 止に強く動いた。
  また、自らの政治的関与も、強く戒めていて、
  政界に転じた実弟の西園寺公望(さいおんじきんもち、
 公家、政治家、教育者)とは、公の場所以外では会話も
 しなかった。
  天皇親政運動: 明治前期の天皇陛下を政治的君主とし
 て強化しようとした元田永孚(もとだながざね、熊本藩
 士、儒学者、男爵)ら 侍補による政治運動。
1871年9月19日(8月5日)太政大臣・三条実美(さんじょう
 さねとみ、公卿、政治家、公爵)が、鉄道一部竣工につ
 き、横浜に於いて汽車に試乗した。
  翌日の9月20日(8月6日)に、参議・木戸孝允、同大隈
 重信、工部大輔・佐藤象二郎、工部少丞・吉井源らも、
 横浜~金川(神奈川)間を試乗した。
1871年9月23日(8月9日)散髪脱刀令(さんぱつだっとうれ
 い)、政府の開化政策の一つとして、旧風を改め、散髪・
 廃刀の自由を許した。
  明治政府は、太政官布告を以て「散髪脱刀令」を布告。
  士族の断髪、脱刀、服装の自由化。
  平民の羽織袴も無制限に、
  江戸時代末からすでに行われていた。
  「半髪(はんぱつ、野郎頭。男の月代さかやきのある髪
 の結い方)頭をたたいてみれば、因循姑息(いんじゅんこ
 そく、古い習慣に頼って、その場をしのごうとすること)
 の音がする。
  惣髪(そうはつ、月代を剃らず、髪を全体に伸ばし、頭
 頂で束ねたもの)頭をたたいてみれば、王政復古の音がす
 る。
  ジャンギリ頭(髪を散切・ざんぎりにしたもの)をた
 たいてみれば、文明開化の音がする」と流行歌(はやり
 うた)があった。
  民衆は、喜んで受け入れた。
  しかし、熊本で、不満な小学校教師たちが、学校を閉
 校することが行われた。
  また、この布告は、女性の断髪も促した。
  髪を切る婦女が多いため、この風潮を止めようと、
  1872年に、東京府では「婦女子散髪禁止」の告諭(こ
 くゆ、言い聞かせる言葉)を発した。
  脱刀は、強制ではかなった。
  士族の帯刀者が多い状態だった。
  1875年12月に、陸軍卿・山形有朋が、徴兵令によって
 武士の帯刀の必要性はなくなったとし、廃刀を建議し、
  1876年(明治9年)に、帯刀禁止令(廃刀令)が出され、
 軍人や警察官以外は帯刀禁止となった。
1871年9月23日(8月9日)米麦輸出禁令の撤廃。
  安政期に、列強五か国と条約条約を取り交わしたが、
  そこにあらわれた欧米列強諸国の外交意図は、
  日本を、欧米資本主義の大量生産品を売りさばくため
 の、また、その原料を輸入するための、
  半植民地的な市場と位置づけるものだった。
  板垣退助が、会津で見た様な「君国ノ滅亡」の危機は、
 目前に迫っていた。
  この様な状況にあって、新政府には・・、
  日本が国家としての独立を保つため、
 そして、政治・経済・軍事の近代化を、
  最も短い期間内に、なし遂げる必要性が痛感した。
  この様にして、新政府は・・、
  わが国が、大久保利通が「万国ニ御対立」と表現した
 様に、万国と対峙(たいじ)するために、
  統一国家の建設、そしてまた、
  資本主義の発展という歴史的な使命を達成する必要を
 痛感した。
  新政府の政権の足元をおびやかすものは、
  明治元年以来、再び盛り上がってきた農民一揆だった。
  農民大衆の重租に対する不満は、極度に達し、
  政権の基礎に脅威を感じさせるまでになっていた。
  1868年(明治1年)~1870年(明治3年)の間に90件の
 農民一揆が発生し、
  そのうちの20件は、新政府が直轄する県のものだった。
  政府は、日々の莫大な支出に充てるための
  商人からの借入の返済に、
  安定し、まとまった歳入を確保しなければならず、
  その唯一の恒常的な財源は、幕藩体制から引き継いだ
 封建的な貢租である旧地租だった。
  それは、全歳入の6割未満(通常歳入の8割)であり、
  全歳入の2割強は、不換紙幣の発行、および、三井・
 小野・島田を筆頭とする商人からの臨時借入、および、
 外債だった。
  商人からの借入は、政商を生み出した。
  歳出は、その約4割が、家禄賞典禄等の旧封建支配者
 救済の費用であった。
  陸海軍費は、一般行政費の2倍に近く、さらに内乱・
 外征の戦費も多額にのぼるものだった。
  明治政権は、「農民からの封建的搾取に右足を置き、
 政商資本たる商業・高利貸資本家層の援助に左足をのせ
 るもので、
  そして、崩れ行く封建支配収拾の任務と、
  欧米列強に対抗する軍事力創出の強兵富国策実現の任
 務とを、一身に体現(たいげん、身を以って実現するこ
 と)していた。
1871年9月24日(8月10日)江藤新平が、左院副議長に就任。
1871年10月2日(8月18日)明治天皇陛下、馬車を召され浜
 殿へ行幸(馬車にて行幸の始め)
1871年10月2日(8月18日)東京、大阪に鎮台を設けた。
  鎮台(ちんだい)は、 明治初期の常備陸軍のことで、
 1871年(明治4年)に、東京・大阪・鎮西(小倉)・東北
 (石巻)の4鎮台を置き、
  1873年(明治6年)に、東京・仙台・名古屋・大阪・
 広島・熊本の6鎮台となった。
  また、1888年(明治21年)に、師団と改称した。
1871年10月4日(8月20日)この頃、条約改正使節に大隈重
 信をほぼ内定した。
1871年10月5日(8月21日)伊豆の石室埼燈台が竣工す。
1871年10月5日、長崎~ウラジオ間の海底電信線敷設工事が
 完成した。
  11月21日に、長崎~ウラジオストックの通信を開始し
 た。
  また、別史料には・・、
  日本最初の海底ケーブルは、1871年8月(明治4年6月)
 に敷設された長崎~上海間、及び、長崎-ウラジオストク
 間のものである。
  現在の長崎市南山手一丁目18番地には、「国際電信発
 祥の地」の碑があるが、
  かつて、ここにあったホテルベルビューの一室を借り
 ていた大北電信会社によって、
  1871年9月26日(8月12日)、一般公衆電報の取り扱い
 が始まった。
  これは、日本における国際電報事業が開始された日で
 あり、翌年・1872年、開通した欧亜陸上電信線と接続さ
 れた。
1871年10月6日(8月22日)坂本龍馬、中岡慎太郎両家共、
 その姪に故人の家督相続を許される。
1871年10月7日(8月23日)華族・士族・平民相互の結婚を
 認めた。
1871年10月7日(8月23日)御所機能が廃され、東京への首
 都機能の移転が行われた。
  京都では京都御所を後に残して、1871年(明治4年)ま
 でに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が
 次々に廃され、中央行政機関が消えていった。
  また、留守官は、1870年6月(明治3年5月)に、京都府
 から宮中に移され、
  1871年2月(明治3年12月)に、京都の宮内省に合併、
  1871年10月7日(明治4年8月23日)には廃され、東京へ
 の首都機能の移転が行われた。
  東京への移転を完了し、この実施により、中央集権体
 制が作り上げられた。
1871年10月(8月)官庁で椅子の使用が始まった。
  この年に、椅子、テーブルの使用が流行し始めた。
1871年10月15日(9月2日)官吏月給制の実施
  官吏の給与を月給制とする
1871年10月15日(9月2日)この頃、条約改正使節が大隈か
 ら岩倉具視に代わった。
1871年10月18日(9月5日)東京の元聖堂大成殿に文部省直
 轄の博物館を開設し、物産所所蔵の物品を移す。
1871年10月20日(9月7日)田畑勝手作の許可
  農民に希望の作物を作らせた。
  大蔵省が「田畑夫食取入ノ余ハ諸物品勝手作ヲ許ス」
 と令した。
  江戸幕府は、石高制と年貢の米納原則を維持するため
 に田畑勝手作禁止令を出した。
  しかし、時代が下って来ると商業作物の生産が広まり、
 形骸化していった。
  明治になって、政府は、輸送手段が発達したことや、
 年貢の石代納(こくだいのう、年貢米で納める代わりに、
 貨幣で納めること)を認めたことを理由に、田畑勝手作
 禁止令を撤廃し、農民がそれぞれの土地に適した農産物
 を生産することを奨励した。
  これは、農民の生産意欲の向上とともに、政府への租
 税収入の安定・増加を図る事になった。
  そしてまた、計画されていた地租改正にともなう租税
 の金納化に備えた措置でもあった。
  これに続いて、翌年の1872年には、田畑永代売買禁止
 令を廃止する地所永代売買解禁が出された。
  田畑勝手作の許可[1871年10月20日(明治4年9月7日)
 大蔵省布告第47号]
 是迄夫食不足ノ訳ヲ以田畑ヘハ米麦雑穀ヲ重モニ作付致
 シ桑楮漆茶藍麻藺菜種其外ノ作物共其土地ニ適当致シ候
 テモ作付不致或ハ元地頭領主ヨリ差留候向モ有之候処追
 々運輸ノ道辨利相成其上是迄米納ノ向モ願次第石代納御
 差許相成候事ニ付村々百姓銘々ノ夫食取入候外ハ何品ニ
 限ラス勝手ニ作付致シ候方下々ノ利潤ニモ可相成候間総
 テ従来其土地ノ貢租辻ヲ以テ年季ヲ究メ検見ノ場所ハ新
 規定免ノ規則ニ照準シ定納相願候上ハ屋敷成並田畑勝手
 作共御差許可相成候条地味ノ善悪作物ノ損得篤ト勘弁イ
 タシ充分仕当ニ可相成見込有之候ハ丶可願出事
 右ノ通管下村々ヘ触達願出候モノ有之ニ於テハ従前ノ貢
 租辻等篤ト相糺不都合無之候ハ丶聞届置追テ可相届事
 但田畑成畑田成共貢租辻増減無之分ハ総テ可為本文之通
 事
1871年10月22日(9月9日)ドン(正午号砲の制)を制定。
  江戸城より初の午砲、正午を知らせた。
  正午、宮城内・旧江戸城本丸の
 庭園にて、近衛師団の砲兵が空砲による最初の報時を行
 なった。
  江戸時代の時の鐘に代わるもの。号砲、午砲。
  その発射音の「ドン」が俗称となる。
  全国の陸軍師団司令部所在地に於いても、各師団砲兵
 にて的確に実施。
  師団所在地の都市を中心に「ドン」という言葉が普及。
1871年10月30日(9月17日)武門の流弊除去(無礼討ちの禁)
 (旧暦8月17日説あり)。
  1862年の生麦事件の時は赦されたが、武士の特権であ
 った「無礼討ち」を禁止した。
  流弊:(りゅうへい)以前からの悪い習慣。
1871年11月1日(9月19日)、政府印刷事業が始まった。
  日本における印刷業の本格的定着は、この年の政府令
 による4種類の郵便切手の印刷によって始まった。
1871年11月4日(9月22日)明治天皇陛下、日比谷操練所に
 て陸軍整列御閲兵(最初の天長節観兵式)
1871年11月5日(9月23日)華士族・平民相互の結婚の許可。
1871年11月5日(9月23日)、新政府が、西郷隆盛(43歳)
 を迎え、筆頭参議に据えた。
  西郷は、1871年4月に提案した御親兵の編成が成り、
  1871年8月、木戸とともに参議になり、
  そして、この日、新政府は、西郷を筆頭参議に据え、
  岩倉使節団が、米欧に派遣された際は、筆頭参議とし
 て留守政府を総理した。
  そして、外遊派は、新規事業と政府首脳部人事の凍結
 を西郷に誓約させたが、
  留守政府では、各省が学制、徴兵制度、地租改正など
 の重要政策実現に邁進した。
  破壊の時代にときめいた者は、必ずしも新時代建設に
 も適任とはならなかった。
1871年11月12日(9月30日)日本の「野球の初め」
  我が国の初めての野球の試合が行われた。
  そして、最初の国際試合は、「一高」対「横浜在留ア
 メリカ人」。
  無敵を誇る一高チームが、アメリカ側に他流試合を申
 し込んだが「まあ、やめておきましょう」という返事で、
 相手になってくれなかった。
  明治29年に、やっとこの試合が出来た。
  因みに、野球という言葉は、明治27年、中馬庚(ちゅ
 うまんかなえ、教育家)が、「Ball in the field」を訳
 して「野球」と命名した。
  また、因みに、「ショート・ストップは、戦列で時期
 を見て待機し、動き回ってあちこちを固める”遊軍”の
 ようだ」と説き、
  「遊撃手(ゆうげきしゅ)」という名称が広まった。
  1970年に、特別表彰で、野球殿堂入りした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

臨時ブログ:コンクリート(今日は、固いコンクリートの話です)

2016-02-25 01:58:08 | 日記
臨時ブログ:コンクリート(今日は、固いコンクリートの話です)
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  コンクリート。
  コンクリートは、砂利と、砂と、セメントに、水を入
 れながら混ぜ、こねて作られます。
  混ぜ、そして、こねると「ドロドロしたもの」になり、
 この水を入れた時点から、セメントと水は反応(化学反
 応)を始める。
  だから、水を入れて混ぜ始め、そして、その混錬が終
 わったら、なるべく早く型に入れる必要がある。
  型に入れるのが遅くなれば、なるほど、コンクリート
 の品質は低下する。
  コンクリートは、ドロドロしているから、どの様な型
 にも、当然、入る。
  だから、好きな形に、ものを作ることが出来る。
  型に入ったコンクリートは、熱を出しながら固まって
 行く。
  だから、建物や、橋や、トンネルなどを作ることが出
 来る。
  気温が低いと固まらない、または、固まりが不十分に
 なる。
  だから、北海道の様な、極寒の地の冬は、特に、大量
 の灯油を燃やし・・温める。
  東京でも、厳しい低温が予想されれば温める。
  この様にして、その化学反応を進め、固まらせて、強
 度を出させる。
  そして、日が経ち、過ぎて行くと強度が出て来る。
  強度が出て来れば、皆さまを支えることが出来る構造
 躯体になることが出来る。
  そこに、家具や机や機器や、好きなものを入れられる。
  楽しい住宅になったり、楽しい買い物ができるショッ
 ピング・センターになったり、好きな所へ早く行くこと
 が出来る高速道路になったり、
  楽しい家族旅行が快適に行けるトンネルや、新幹線を
 走らせられたりする。
  これらの事を実現させてくれている『コンクリート』。
  昔は、この様な、命や暮らしを支えてくれるものに、
 感謝し、祈ったものだ。
  物だけでなく、それを実現させてくれた道具や機械、
 あらゆる、すべてのものに、感謝の気持ちを捧(ささ)
 げた。
  その様な感謝の気持ちの中に、暮らして行くことが大
 事だった、そして、大切だった。
  今は、それがない。
  素晴らしい素材=コンクリート。
  この素晴らしいコンクリートを成り立たせているのが、
 「砂利」「砂」「セメント」「水」。
  この素材が、今、「ピンチ」です。
  良質な素材は、既に、『枯渇』しました。
  この様な意味からも、出来たものは、出来上がったも
 のは、大切にしなければなりません。
  安易に、NHKの様に、「建物は○○年、橋は△△年」
 と放送し、
  また、NHKの近所の「子供の城は壊す事になりまし
 た」などとニュースにならないニュースを放送して、洗
 脳する、マインド・コントロールする事は、「社会悪」
 です。
  使い続けることが出来る建物・社会資本の見本が、上
 野の前川国夫の「文化会館」です、そして、ル・コルビ
 ュジェの国立西洋美術館です。
  国立西洋美術館は、世界遺産に登録して、『永久』に
 使って行こうとしています。
  この姿勢でなければなりません、この姿勢が正しいの
 です。
  武甲山は無くなりました。
  急に、この様に言われても、何の事かが、お分かりに
 ならないと思います。
  ここが、「セメント」の古里なのです。
  武甲山は、無くなりました。
  関東地方のセメントは、この武甲山の山を削って作っ
 ています。
  山野草の図鑑を見ると、武甲山に生えているという記
 述の希少な植物がありますが、
  その消息が、心配なほど武甲山は、そのほとんどを無
 くしました。
  埼玉県秩父にある武甲山。
  登山ガイド・ブックのブルー・ガイドブックスにも掲
 載された登山できる山・武甲山は、今は、ありません。
  皆、東京や、その近県の、建物や橋や、トンネルや高
 速道路などなどに、なってしまいました。
  かつて、山男が、足の下に踏み固めた道はありません、
 山は、今は、ありません。
  この様な状況からも、出来上がったものに感謝し、大
 切にして行かなければなりません。
  武甲山は・・あと、半分です。
  アフリカの川鰻(かわうなぎ)。
  この希少な川鰻まで食べてしまおうという日本人。
  次世代の方々に残せ、飢えているアフリカの方々のた
 めに残せ・・、
  飢えているアフリカの方々が、食べられるくらいの量
 の食べ物を捨てている日本人。
  物は、何でも大切にしなさい。
  ベニヤ板で、熱帯雨林を「はげ山」にしている日本人。
  このベニヤ板で建物の型が作られている。
  そして、コンクリートを作っている砂利の話。
  川の砂利は、角がとがってなく、丸く、コンクリート
 の骨材(こつざい)として使うのに適している。
  しかし、川の砂利の採取をすると川底が下がり、川が
 深くなる。
  その結果、川に設けられた橋の基礎が露出して来た。
  ひどい橋は、その基礎の下の杭まで現れ、出て来てし
 まう状態となった。
  杭は、上からの重い荷重を支えるためで、この上から
 の方向の力には強いが、横からの力には弱い。
  その橋に、電車が走ったり、自動車が走ったり、振動
 が、その横からの振動が杭に加わり、そしてまた、加え
 続けられたりすると劣化し、品質が低下したり、
  また、地震で橋が揺らされて、杭にその横揺れの力が
 加わったりすると、横の力に弱い杭は、折れたりする恐
 れがある、その心配があった。
  それらの悪現象が出るまで、川の砂利が取り続けられ
 た。
  それで、採取禁止になると・・、
  川の岸、川岸を掘って、川砂利を取った。
  深い大きな穴・「砂利穴」が出来た。
  その砂利穴は、浅瀬が無く、急な斜面の穴なので、子
 供たちが落ちやすく、
  岸へ上りずらい、「アリ地獄」のような状態の為、子
 供たちが、よく転げ落ちて溺(おぼ)れ死んだ。
  多くの子供たちが、この罠の様な、コロコロすべる砂
 利の岸から転げ落ちた。
  アリ地獄のような砂利穴に落ちておぼれ死んだ。
  皆が行く、子供もよく行く、川に仕掛けられた、あた
 かも罠のような状況だった。
  川砂利は、この様な、犠牲となってしまう子供たちが
 出る状況において、供給された。
  そして、その子供の命の入った砂利で作ったコンクリ
 ートで、都市の建物などが建設された。
  亡くなった子供たちの事などへ、思いがおよばずに、
 出来上がった、新築なった建物へ入居した。
  そこに、皆の笑顔があった。
  だが、陰で泣いている、亡くなった子供さんと、その
 御両親、兄弟姉妹、親戚、近所の方々、学校の友達など
 など、多くの泣いている方々が居た。
  川砂利は枯渇して、この様な惨事まで生み出して、川
 砂利採取は禁止された。
  川砂。
  コンクリートを作るには砂も必要。
  川の砂は、常に、川の水で洗われていて、洗浄されて
 いて、コンクリートが嫌う不純物などが無く、良質だっ
 た。
  しかし、川砂利と同様の問題を起こした。
  また、その砂や砂利の洗浄水が川を汚染した。
  魚の遡上が問題となったりした。
  川砂採取も禁止で採れなくなった。
  そこで、やむなく、海の砂を使った。
  海砂は、塩分が含まれていた。
  これは、コンクリートに対して大問題だった。
  清浄な水を使って洗った。
  洗ってその塩分を取り去ろうとした。
  しかし、塩分は、そんなに簡単に取り切れるものでは
 ない。
  塩分が含有する、残る、その海砂で、コンクリートが
 作られ、建設に使った。
  砂が無いので、やむを得なかった。
  塩分の入ったコンクリートが、世の中に供給された。
  そのコンクリートは、鉄筋を錆びさせた。
  それ故、海砂は、必死に洗浄された。
  コンクリートの強アルカリ性も鉄筋を錆びさせないよ
 うに働いた・・が、しかし、海砂は、川砂の様な最適な
 骨材ではなかった。
  そして、砂や砂利は、山にそれを求めて行く。
  ここにも問題があった。
  まだまだ言い足りない部分がありますが、この様な背
 景で、あまり関心が無かったでしょうコンクリートに、
 この様な背景があります。
  コンクリートは、非常に『貴重』なものなのです。
  NHKが煽って、世は、すぐ壊して、建て直すという
 風潮になっていますが、反社会的な行為です。
  社会資本は、しっかりメンテナンスして、しっかり大
 切に、使い切って行くのが、社会正義です。
(追伸)
  1936年に建設されて、80年が経過している国会議事堂
 が建て替えをしなくて、長く使っていて、
  その約半分のNHKが、何故、建て替えなければなら
 ないのだ。
  アメリカのエンパイアー・ステートビルなど、しっか
 り長く使っているビルは目白押しにある。
  参議院の予算委員会で、自民党の二之湯さとし議員が、
 NHKに、ゴマをすって「50年、NHKは使ったから」
 と言って、NHKの建て替えを容認しましたが?
  根拠はまったくありません。
  NHKを管轄する総務大臣が、NHKへ、「視聴者の
 方々へ、建て替えについて誠実に説明する義務がありま
 す」と言われたが、NHKは、その説明責任を果たして
 いません。
  NHKは、耐震補強をしてお金をかけているならば、
 まだまだ、しっかり使用が出来ます。
  まだまだ大切に使って行って下さい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)301E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年9月)

2016-02-24 04:47:15 | 日記
題:(増補版)301E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年9月~1871年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1871年9月2日(明治4年7月18日)文部省が設置された。
  文部省が創設され、江藤新平が、初代文部卿(文部大
 輔)になり、学制の改革が急速に行なわれた。
  維新直後は、江戸時代以来の諸藩がなお存続しており、
 個別に藩内の教育を統轄し、また、独自の教育改革を行
 なっていた。
  したがって、新政府の教育政策の直接の対象は、府県
 の教育に限られ、
  それは、全国的に見れば一部の地域に過ぎず、
  全国の大部分を占める諸藩の教育は、新政府の直接統
 轄するところではなかった。
  明治四年七月に廃藩置県が行なわれ、
  その後、新政府は、初めて全国に統一した行政を実施
 できる体制となり、
  これに伴って、全国の教育行政を総括する機関として
 文部省が設置された。
  文部省の設置は、廃藩置県後まもない、この日・明治
 四年七月十八日であり、
  「大学ヲ廃シ文部省ヲ被レ 置候事」という太政官布
 告が発せられた。
  この大学を廃止して文部省を置くということは、この
 時まで、大学が、教育行政の機能をもっていたためで、
  明治二年七月の官制改革によって、教育行政官庁とし
 て「大学校」が設置されていて、
  同年の明治二年十二月に、これを「大学」と改称した。
  当時の大学は、最高学府であるとともに、教育行政官
 庁でもあった。
  明治三年七月に大学本校は閉鎖され、その教育・研究
 の機能を失ったが、行政官庁としての大学は存続してい
 た。
  そして、その大学が廃止されて、新しくもっぱら教育
 行政を担当する機関として文部省が設置されることとな
 った。
1871年9月6日(7月22日)寄留・旅行者の鑑札制の廃止
  旅行の自由が許可される。
  現代においては、「旅行の自由」は当たり前の様に思
 えるが、これは戸籍にからんで、様子が少し違った。
  1871年5月22日(4月4日)、新政府はかねてより準備を
 進めていた 全国的統一戸籍の編製を命じた。
  明治四年戸籍法の公布(壬申戸籍)で、
  制定の動機は、その前文に・・
  『戸数人員ヲ詳ニシテ猥ナラサラシムルハ政務ノ最(
 モ脱か) 先シ重スル所ナリ』とある。
  脱籍浮浪の徒の取締と復籍 (本籍返し)や、
  人民の居住、交通に関する制限監視の統一化という点
 があった。
  そして、短期の移動(旅)について、
  「出生死去出入等ハ必其時々戸長ニ届ケ、戸長之ヲ其
 庁ニ届ケ出」るとある。
  また、「凡ソ旅行スルモノ、官員ハ其官省等ノ鑑札ヲ
 所持シ、 自余ハ臣民一般其管轄庁ノ鑑札ヲ所持スヘシ
 (略)鑑札ニハ当人名住所ト職分ヲ 記スヘシ」とある。
  つまり、管轄外に旅行する者は、戸長に届け出て、鑑
 札の交付を 受けて携行するようにと義務付けられていた。
  しかし、この時から4か月もたたないこの日・7月22日
 に 鑑札は廃止となった。
  しかし、旅行届の方は、これまでの「規則ノ通可相心
 得事」、つまり、「継続する様に」とが命じられた。
  中央法令たる戸籍法に基づいて、 実際に戸籍事務を扱
 う地方の行政体が、管轄下の住民に、旅行時の届出を命
 じる仕組みとなった。
  山口県の令を見ると、1872年7月(明治5年6月)に、
 「是迄之通」「届出を命じる布達が出され」、「戸籍法
 が改正される明治十九年まで旅行届 が提出され続けてい
 た」ことが確認できる。
  しかし、中央政府の法令であったので全国で実施は、
 されたはずであるが、実態としては「旅行は自由化」だ
 ったという。
1871年9月11日(7月27日)紙幣司
  大蔵省内に紙幣司として現在の国立印刷局が創設され
 た。
  そして、1871年10月(8月)に紙幣寮と改称した。
  創設当初の業務は、紙幣の発行、交換、国立銀行(民
 間銀行)の認可・育成など紙幣政策の全般がなされた。
  しかし、当時、国内では、印刷技術が未熟であったこ
 とから、
  明治政府は、近代的な紙幣の製造を、ドイツやアメリ
 カに依頼していた。
  しかし、紙幣は、国内で製造すべきであるとの声が強
 まったため、紙幣寮において、紙幣国産化の取組が行わ
 れることとなり、
  併せて、証券類、郵便切手が、1872年2月(明治5年1月)
 に、製造開始され、活版印刷等の印刷・製紙業務を行う
 こととなった。
1871年9月13日(7月29日)太政官に、正院・左院・右院を
 置いた。
  太政官官制改定、新たに正院、左院、右院を置く。
  正院(せいいん)は、明治維新政府の太政官職制発布
 後の最高政治機関で、
  他の二院に優越して、立法・行政・司法の三権の事務
 に対する最終決定権を持った。
  廃藩置県が断行された結果、9月13日に、太政官制が根
 本的に改革され、太政官に正院・左院・右院の三院が設
 けられた。
  太政大臣・左大臣・右大臣・参議などで構成された。
  3院のなかで、正院が中枢的地位を占めたので、正院の
 ことを太政官と呼んだ。
  1873年5月2日の改革で、正院の権限はさらに強化され、
 拡大された。
1871年9月13日(7月29日)日清修好条規(にっしんしゅう
 こうじょうき)
  日清修好通商条約成る(氷川清話)
  天津で、日本と清の間で初めて結ばれた最初の対等条
 約だった。
  特異性があると言われ、ヨーロッパ諸国や、アメリカ
 の列強諸国から、軍事的な密約があるのではないかとい
 らぬ疑惑をもたれた。
  これらの列強は、日本と中国が手を結ぶこと、同盟が
 怖かった。
  アメリカは、特に、日本が中国と手を結ぶ事を恐れた。
  また、この条約に対する列強各国の反対論には、この
 条約の条項に、日本と中国が、不平等条約を打ち破る条
 項があったためだった(儲け・利益の要だったから)。
  その様な状況から、批准は遅れた。
  1873年(明治6年)4月30日に、批准書交換がされて発
 効した。
1871年9月18日(8月4日)江藤新平(えとうしんぺい)が、
 左院1等議員に転ず。
  江藤新平は、佐賀県の下級武士の家に生まれ、(1834
 年~1874年)、領内の国学者に学ぶ、肥前佐賀藩士、
  藩の目付、代官を経て、貿易方を務める。しだいに、
 尊攘運動に参加し・・、
  1862年(文久2年)の28歳で、佐賀藩を脱藩し上京、尊
 王攘夷運動に参加(攘夷派の公卿と提携した)、
  帰藩を命ぜられ、帰藩後、藩庁より永蟄居に処せられ
 る。
  1867年(慶応3年)の33歳のとき、許されて群目付(こ
 おりめつけ、監察)となる。
  明治政府の成立とともに、明治政府に登用され、
  1868年(明治1年)の34歳の時、東征大総督府軍監とな
 り、江戸遷都を主張した。
  ついで江戸鎮台判事として、江戸開城直後の施政を担
 当した(民政兼会計営繕の任にあたる)。
  会計官判事、東京府判事、佐賀藩権大参事、制度局御
 用掛を歴任し、法制関係の官職を歩む、
  1871年(明治4年)の37歳で文部大輔、ついで左院副議
 長をつとめ、フランス流の民法典編纂(へんさん)に従
 事、
  1872年(明治5年)の38歳に司法卿となり、司法制度の
 確立・近代化に尽力した。
  司法権の独立・警察制度の統一をはかり、改定律例(
 かいていりつれい)の制定をした。
  後に、1873年(明治6年)の39歳に参議となり、征韓論
 を主張、西郷隆盛・板垣退助らに同調する。
  征韓論が受け入れられず辞職、1873年10月に下野した。
  1874年1月に、明撰議院設立建白書に、板垣退助・副島
 種臣(そえじまたねおみ)らと署名。
  1874年2月(明治7年)の40歳に、佐賀征韓党に推され
 て首領となり、憂国党(秋田県権令をやめた島義勇が結
 成した党)と結んで、不平士族に推されて、佐賀の乱を
 挙兵し、県庁を襲った(司法卿の時に、長州系の疑獄事
 件に腕を振るっていたのが関係したのか?)。
  しかし・・、政府軍に鎮圧され、薩摩・土佐に逃れた
 が、政府に逮捕され、
  1874年4月13日、処刑(斬罪のうえ梟首・きょうしゅ、
 さらし首)により没す(41歳)、
  のちに、大赦令(しゃれい、赦免、または特赦・大赦
 の命令)によって罪名消滅した。
  地代、家賃の値下げ、問屋仲買の独占の廃止など、民
 衆の要求を反映した近代化政策を行いながらも、
  大久保利通(おおくぼとしみち)や、岩倉具視(いわくら
 ともみ)らが政権を牛耳(ぎゅうじ)る有司(ゆうし、役人、
 官吏)専制体制を克服する道を誤り、士族の反乱にそれを
 求めることとなった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive