馬ひでの助

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『阿波~讃岐』その12 引田城登山口~北二の丸

2019-04-18 16:35:00 | 讃岐国の史跡

"2019年3月31日(日)
二日目、

08時41分、
引田城の港側登山口を通過し
田の浦方面へ向かう。


この山の上に城跡がある。

城山の西側だけが、陸続きだが、
低湿地だった。
それ以外の三方が海に囲まれた岬の上という要害の場所です。


田の浦海岸。
上天気で良かった。

キャンプ場があり、何組か利用されてた。

ここがキャンプ場側登山口。駐車場もある


667年、引田氏が築城した。
天智天皇6年なので、高松の屋島城とともに瀬戸内海の防衛上の役割があったようです。

その後、戦国時代に
四宮右近が城主となって城を大改修し、城下町も整備した。
三好氏・十河氏と対立。

1571年、三好長治に攻められ、
家臣の矢野氏が入った。
この矢野氏は、前日訪ねた阿波府中の矢野城の矢野氏です。

その後、十河氏、仙石氏、長曽我部氏が争い、
再び入った仙石秀久が、城の大改修をした。
現在の城の遺構は仙石氏時代のものかも?
1587年、秀吉の四国統一で、
讃岐国城主となった生駒親正が入城

生駒親正は讃岐聖通寺城を本拠とし、
引田城を讃岐・阿波国境を守備する城として維持した。

江戸時代、廃城。

09時00分、


いざ、登山開始!

09時04分
『北曲輪』


細長い曲輪で、丹後丸と呼ばれる

突き当たりの分岐


左へ行くと麓の田の浦キャンプ場へ行ける階段があるが、

現在通行止め。
崩落があったのかな?


右へ向かう。



尾根道を行くと前方にシートあり!

09時10分
『北二の丸』


石垣に囲まれた曲輪で、城内では一番重要な場所。
御殿があった。

石垣は上下段に分かれる。
石垣構築技術が未熟なので二段に分けたのか?
それとも防御の構造のためなのか?

下段石垣(約5m)を見る

自然石を積んだだけの野面積み。

地元産出の和泉砂岩、礫岩が使われてる。

上段石垣はシートで覆われてる。


災害で崩れたのかな?


石垣の写真の説明によると隙間に間詰石を用いて、算木積みのようです。
石垣の高さは低い(約3m)が大きな石が使われた。
シートの隙間からはみ出した石垣を見る


上段石垣は、新しい時期に造られたのか?
時期的には、天正期後半~文禄期の特徴があり香川県内では最古の石垣だと言われる。
となると、仙石氏か生駒氏どちらかの築造ですな。


北二の丸と南二の丸を分離する堀切?

広い曲輪です


斜面には崩れた石垣が残されてる。

これにより、曲輪全体が石垣で囲まれてた、とわかる。


↑ここに大手門があったとか?

↓下の道が大手道?



30分ほど二の丸を見て回った"

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

天皇・皇后両陛下が平成最後の伊勢神宮参拝をされた。

テレビを見てると、

天皇と皇后、別々に参拝されてる。

なんで、一緒じゃないの?

と、思ったら、


母が、


お伊勢さんは、夫婦やカップルで参拝してはいけない!


と、言う。


えー~!

これは知らなかったぞ!


一緒に参拝すると、別れることになるとか?


いやぁ、びっくりポンや!


ま、独り者の我が輩には関係ないけどね。


馬《●▲●》助ヒヒーン

コメント
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