まなびの途中

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そんなことでは、天下泰平が守れないよ、朝青龍

2007年08月08日 | 教育、文化、少子化
この話題に食いついては、だめだだめだだめだ、と思っていたんですが、
うっかり書いてしまいます。

朝青龍。
ああ、いいのかなぁ、専門外のことを書いてしまって。
長いこと、本当に一人横綱をはってこられて、
当たり前だが、彼がいなかったら、ひょっとすると、
1人か2人くらいは、横綱になっていた人がいたかもしれない。
それくらい、強い。

しかしながら、この「相撲」というものは、
国技というからではないのだが、単純なスポーツではない。
何しろ、本来の最高位は「大関」であり、
横綱は、ある意味、現役の「神」として、地位を承認される、
そういう過程を経るもの。

だもんで、横綱という綱をしめて、その都度、「奉納」に赴き、
天下泰平を含んだ、祈りをも体現する。
という風に理解している。

もちろん、最近は、日本人だけでなく、あらゆる国からの参加者が多く、
天下泰平といっても、日本だけでなく、
グローバルな泰平を祈願するのも理に適っているが、
本来の意味は、その強さから、
災いを「駆逐」する、そういう願いが、彼らに期待されている。

これが、文化であり、伝統なんである。

その「使者」が、巡業といえども、今となっては、
お客様へのサービスかもしれないが、
あれも、各地を「奉納」する意味もある。
それを、休んでしまうのは、はっきり言って、いただけない。

さらに、本来、怪我も病も、横綱をはる以上、許されない。
正直、負けが許されないのだ。
ということを、もっと、歴史的に知っておくことも必要だと思う。

よって、一部で、今回の処置は民族差別だとか、色々言っているが、
「強い」という、本来の使命からすれば、
ある意味、どこの国の人間が横綱をはっても、いい。
問題は、神がすっぽかす、遊んでしまっているように見える、
本来の「役目」をないがしろにしている、
ということで、
当たり前だが、他のことはどうであっても、
こういうことが「露見」してしまっては、

天下泰平に「支障」がでるのも当然。
蟄居してもらわざるを得ない。

あれだけ、儀式も由縁も仕来りも、細かくある世界。
古来より、独特の合理的な意味を持たせている。
そこには、今で言う、アスリートのぶつかりあいと言った、
スポーツのものとは異なる、次元の違う世界観があって、
それが、いわゆる「相撲」なんである。

もとより、隠れたところで、
横綱は、あらゆる「災い」を、身をもって防いでいる、
防いでくれているという、そういう、信仰にも近い、期待感が込められている。

だから、突然、病気だとしていた「神」が、
生気を養っていると思われていたときに、
ある所で、切れのある身体で、正確にゼロ度の角度からシュートを決めてしまっては
相撲協会としては、信者に対して、申し開きすらできない。

さらに言うと、土俵上で、「格下」を投げ飛ばした時に、
ガッツポーズをしてしまうのも、
本来であれば、あれは、「災い」ではないから、
意味の無いことなんである。

例えば、タイガースが「勝つ」と、
景気が、思いっきりあがる!
なんてことよりも、「経常的」に、使命をはたさなければならない、
そういう「地位」であることを、
朝青龍には、理解してもらったほうがいいと、
素人ながら、そう思ってしまうのである。



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