まなびの途中

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色々な出会いがありました。
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学んだことを書いてまいります。

消費主体として、不満を表明しなければならない。

2007年04月18日 | 社会的全般
経済活動が多岐にわたり、社会が複雑化すると、
必然的に、それぞれの抱える問題が「細分化」される。
そのために、大きな政府 が必要となってくる。
そういう解説は、いくつかの本に書かれている。

消費主体として育て上げられた「我々」という存在は、
どうやら、便利、不便を、合理的に、短絡的に解釈できる
思考を持ち合わせることなった。
よく言われる、歴史的にも主人公は「市民」である我々という考え方も、
いやいや、どうやら、「物」があって始めて、我々は存在するのではないか、

昔から、どうやらそういう危機意識が世界的にあったようだ。

「下流志向」という本に書かれていたが、
こういう切り口は、なかなか自分的に発想ができなかったんだが、
最近の傾向は、(いい加減な引用で申し訳ないんだが、)
いかに自分の不満を表明していくか。

特に、家庭内で、生活システムが便利になり、簡便化された環境では、
そもそも、実感できる「ありがたみ」が把握しにくくなる。
さらに、そのプロセスが見えにくく、まさにサービスが「提供」される
そういう段取りになってしまうと、
まさに、消費主体者としては、
「受ける側の」の理論を発動しやすくなり、感謝という気心が
案外、発動しにくくなる。

勢い、一番クローズアップされてしまうのが、
「わずらわしい人間関係」という話。
むちゃくちゃな理解をしてしまったかもしれないが、
自分が考えられる、合理的な範疇に収まらない、
そうすると、

その人間を「受け入れる」という作業に関して、
不満を表明することが、手っ取り早くも、自分という主体を維持できる
だって、消費者としては、等価交換だし、
この人間を受け入れるとした場合、
その価値を、自分が「見合っている」ということを、
認めた、という事実に、我慢がならない。

この我慢がならない、ということは、自分の価値をどこに置くか、
そんなの、当たり前なんだけど、
客観評価ではないから。
かなりの「インフレ」であることは間違いない。

よって、誰もが認識できる「偏差」の中に納まっている人間と
関わる場合において、自分も「認める」
イコール、自分の価値を代替できる。

どうやら、そういう世界観をもった集団になってきているようだと。

よって、あなたを認めることは、自分を認めてしまうこと。
それが、恐怖になるのは必然で、
相手に、雰囲気に、空気に振り回され放しになってしまう、
だから、人間が、怖くなる。
新しい人間と出会うのも怖くなる。
相手の「価値」が判然としないと、「価値交換」ができなくなる。

だから、身内を褒めない。
必要以上に、外に向かって、否定的な見解を述べる。
自分に「ぶれのない」軸があれば、平気なんだろうけど、
そりゃ、難しいよね。
と言う感じだ。
なんてね。

ええ、半分以上、自分の意見です。
ごめんなさい。
こんな風に理解してしまったんですが、
だめでしょうか?



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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは (インフォ)
2007-04-18 12:31:01
はじめまして^^

私のブログで
こちらの記事を紹介させて頂きましたので
ご連絡させて頂きました。

紹介記事は
http://blog.livedoor.jp/gomamint2011/archives/50132725.html
です。
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