まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

学校を追い込むと、結果、こういうことになる。

2007年01月16日 | 教育、文化、少子化
大人になると、案外、自分の過去のことを忘れてしまうものだ。
特に自分は、それが甚だしい。
もう、ところてんの様に「落ちて」いく。

小学校、中学校時代のことなんて、何を思い出せばいいのか、
と、話題にかみ合わせないと出てこない。

規律厳守の生徒指導、違反たまると退学も 高校で試み

  規律を厳しく守らせる「ゼロトレランス」(寛容度ゼロ指導)という米国の生
  徒指導法が全国の高校に広がり始めている。違反が一定回数に達すると出席停
  止などの罰を定め、必ず守らせる「ぶれない指導」が特徴だ。厳しい指導が日
  本の教育風土にどこまでなじむのか。現場を訪ねた。

昨年から良く聞くようになったゼロトレランス。
賛否両論であろうが、規則を守らせることができない、
そのための「用法」なんであろうが、
その規則自体、集団生活を営む上での規則自体、
かなり「個人の裁量」が大手を振ったが故に、形骸化が著しくなっている。

思い出せば、30年前あたり、制服がどうのこうのとか、髪の長さは個性だとか、
スカートの丈がなんやらだとか、
生徒手帳の規則集は、かなりの「実効」性をもって、
規律を補完していたように思える。

靴下でさえ、「白」一色。
放課後のクラブ活動。当時バスケット部に所属していた関係で、
試合用のユニフォームを着用し、顧問の教師を呼び出しに職員室にうかがうと、
「生活指導」の教員が自分を呼び止める。

靴下が「長い」。ラインが「入っている」。
そのまま、いくら説明をしても規則をたてに、解放してくれなかった。
試合用の、ストッキングであって、全員、同じものを着用しているというのに。
今考えると、速攻、「教育委員会」ものの話しだが、
尋常ではない、いじめにも似た生活指導があったのも事実。

とはいえ、校門でのチェックに始まり、授業に不必要なグッズのチェック、
これは持ち物検査とかいうやつで、現在では「悪名」が高い、
過去の遺物といったところか。

いずれにしても、それを生きがいにしているかのような、
「名物教師」を存在ならしめる、ハードな干渉があった時代。
生徒の自主だ、個性の尊重だ、オンリーワンだとか、
ひっくるめて、わがままだとか、金を稼げるようになってから言えとか、
はなはだ「シンプル」な、大人の言い分が通用していた時代であった。

  静岡県立御殿場高校(生徒数約620人)では毎朝、教師が校門に立って、生
  徒の服装を点検している。違反を見つけると、チケットを渡して注意する。こ
  の枚数に応じて、段階的な指導をする。8枚たまると、3日間の謹慎だ。

  チケット制を始めた当初、「うちの子だけなぜ」「どうしてこの学校だけこん
  なに厳しくするんだ」といった苦情が保護者から相次いだ。
  チケット制の対象は服装や化粧など外見だけだ。ところが、指導を繰り返すう
  ちに、遅刻や欠席も減ってきた。前年度比で、欠席者数が延べ約200人減っ
  た月もあった。

結果論だろうが、いい悪いにしても、教師が生徒を放っておけない。
毎日、必ず、生徒に「注視」する習慣が、このシステムによって、
スムーズになった、という面があろう。

時代の傾向として、「それぞれの事情」が最優先され、
無目的な子供の世界に、「誇張」して流入し定着した、その傾向は、
親の「うちの子供だけなぜ」という、反省も自省も無い、
投げっぱなしジャーマンのような関与が、
マスコミの「一部報道によると」という教師の非道をあげるニュースの
後押しを受けて、

教師は、表出する様々な「色々な事情」をもった「親」含んだ、
「個性」豊なそれぞれに、
限りなく「奉仕」する、サービス装置として、存在を許されてきたかのようだ。

となると、こういうゼロトレランスというシステムも、
そういう社会の現象として、
学校側に「腹を括らせて」しまった結果といえよう。
つまり、我々が生んでしまった、ともいえるのである。

確かに、過去の記憶にある「理不尽な教師」もいたが、
もともと、そこまで望んでいいものか、学校は?と思うくらい、
一方的で、過度な思が最近とても多いように思われる。

サービス受益者として、税を払っている「雇用者」として、
我々は、最近、あまりにも「埒外」で、
責め立てて、元を取るような発言を、してこなかっただろうか?
なんてことを、このシステムに「暗然」たる思いを抱きながら、
そう思ってしまうのであった。