五反田発リスボン行き急行列車

五反田駅からリスボン行き急行列車に乗ることを夢想する前期高齢者の徒然

2014・11・29

2014-11-30 11:05:26 | 日記
●M家の人々(28)桜田先生の云う無謀な夢を捨てた恵津子は、女学校を卒業すると、安田銀行に就職した。配属先は家から近い渋谷支店だったが、勤務が終わると、お茶の水にあったYMCAに英文タイプを習いに通うようになる。無謀な夢を諦めたからって、銀行の雑用係として結婚するまでの時間を過ごしていくのに耐えられなかった恵津子は、ジャージャンの勧めもあって手に職をつけて職業婦人になろうとしたのだ。それにしても何故お茶の水なのか?調べてみなくは分からないけど、渋谷にだって当時英文タイプを教える学校はあった筈だ。それとも翌年には太平洋戦争が始まるご時世で、この頃から敵国の文明を教える学校は少なくなって行ったのだろうか?というよりYMCAに拘ったのはジャージャンだった。「YMCAは素敵よ。西洋の香りがするのよ。恵津子もきっと気に入るわ」渋谷で5時に仕事を終えたら遅くとも6時には池ノ上の自宅に帰れるのに、週に三日、お茶の水のYMCAまで通ってタイプを習って帰るとなると9時近くになってしまう。そこまでして恵津子をYMCAに通わせた目的はなんだったのか?●今日の徒然 昨日はSさんに「介護」されたのは覚えているが、あとはおぼろ。起きたら店から持ち帰ったパーティの残りのポテトが玄関に散乱している。ジーパンは脱いでいたけど、上は外出用の白シャツのままだ。殆ど泥酔状態のまま部屋に辿り着くと、ベッドに転がりこむ様に寝てしまったようだ。でも、こんな朝でも食欲は旺盛だ。何故かコロッケパンが無性に食べたい。そう思い出すと止まらないのが私。きっと店は後片付けをしないで出て来たのでとんでもないことになっているだろうし、いつもより早く出て、コロッケパンをたべながら開店準備をしようと、仕入する時にぬかりなく挽き肉コロッケと蟹コロッケとメンチに三枚入りの食パンを買い求める。店は想像通りの惨状を呈していたけど、三つのコロッケパンのお蔭で結構楽しい後片付けを終えて、ランチ営業に突入。今日のスペシャルメニューは、赤貝のヒモとカイワレ大根の柚子胡椒和えにジャーマンポテトだったが、お客さんはゼロ。困ったもんだ。夕方、入院中のご主人のNさんを見舞った女性脚本家のTさんが来店。ご主人の病状の経過を聞く。倒れてから一週間、発見が早かったこともあって当初の絶望的病状よりは回復度がいいみたいで安心する。Nさんと中学高校大学と一緒で、広尾時代はウチの店の常連中の常連だったFさんと連絡を取りたいとTさんが云うので、彼の携帯番号を教えてあげたが、現在音声対応は行っていないとの告知。ウチの店にも五年前に姿を見せたきりだ。Fさんは何処に?
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2014・11・28

2014-11-29 12:46:18 | 日記
●M家の人々(27) 稔が東京外国語学校に合格する為に寸暇を惜しんで猛勉強している頃、道路を挟んだ実践女子学校でも恵津子が宝塚歌劇団の試験を受ける為に「猛特訓」していた。自分に音楽的芸術的才能がないことは分かっていた。でも、ジャージャンに宝塚歌劇に連れていかれる内に当時スターだった小夜福子の大ファンになった恵津子は、何とかして端役でもいいから小夜福子さんと同じ舞台に上がりたいという気持ちが強くなったのだ。でも、その気持ちを恵津子はジャージャンに告げることはできなかった。小学校の時、ジャージャンに勧められて踊りやピアノを習ったものの今一つ上達せず、ジャージャンの専門分野だった声楽においては、やれ高音域がまるで出でないとか、やれ音程がとれてないとかさんざんで、恵津子はジャージャンの声楽の授業をいつの間にか避ける様になっていた。だから女学校に入って音楽部に所属したのはジャージャンには内緒だった。内緒で上達して、宝塚を受けられるまでになってジャージャンを見返したかったのだ。でも、ある日、音楽部の担当の桜田先生が恵津子が宝塚を目指していると知って真剣な顔をして云った。「お国は何処?……半島?それとも台湾?」恵津子は桜田の質問の意味が分からなかった。それが恵津子のイントーーションが悪いので朝鮮籍か台湾籍か聞いていたと分かったのはしばらく経ってからだ。「悪いことは言わないからそんな無謀なことは今のうちに諦めなさい。あなたには根本的に音楽心というのが欠けているのよ。趣味で唄うのはいいけど、お金を取って他人に聞かせる才能があるとは私には思えないわ」ジャージャンだけじゃなく、日頃妹みたいに恵津子のことを可愛がってくれていた桜田先生にまでそんなことを言われて、恵津子の夢はふくらむ前に消えた。●今日の徒然 昼からの営業を始めて9時半前には部屋を出て、帰りは早くて夜の12時過ぎになるもんだから、宅配便や書留などの受け取りに困ってしまう。不在配達通知が入っていても時間指定が出来ないのだ。結局は配達センター預かりということになって受け取りにいくことになるのだが、中身がキャッシュカードだったりすると配達センターでは保管しないもんだから、配達担当者と連絡をとって九時から九時半までに配達して貰える時間を探ることになる。そうしてやっと受け取ったdinosカード。今全く使ってないんだけど、こうして苦労して受け取ったりすると、破棄脱退するのが惜しくなってしまうから不思議だ。買い物して10時半に店。ランチにお客さんは一人もなし。ウーン……ど唸るだけ。それでも一応お客さんを待つフリをしながら四時まで夜のパーティ用の変わり稲荷寿司作り。何が変わっているかというと……説明するのが難しい。要するにちりめんじゃこやひじきを入れたすし飯を揚げに詰め込んで、その上に人参やかぶの漬け物のみじん切りやマグロとアボガドのワサビ醬油和えやゆで卵を半分乗っけたりして見た目を鮮やかにしただけのことなんだけど、並べてみるとカワイクて女の子っぽい。他に十数人分のすき焼きともつの味噌煮込み、バカリャウ(干し鱈)のコロッケ、ピザ風ポテトフライなどを用意。パーティは脚本家のKさんが主宰した元NテレビプロデューサーだったOさんを囲む会。Oさんに育てられた脚本家のHさん、監督のSさん、Nテレビ時代の部下だったNさんたち、そしてOさんに青春スターとしてデビューさせて貰った中村雅俊、彼と「俺たちの旅」というドラマでコンビを組んだ田中健、同じ番組のレギュラーで、先日の芝居「デンティスト」に出演して貰った水沢有美など集まり、和気藹々とした集いになる。10時過ぎ解散した後、偶然お客さんできた美人デザイナーのSさんに後片付けを手伝って貰って、その替わりにワインを奢って一緒に飲む……というか飲んで貰う。2時近く、かなり酔っぱらったけど、彼女のマンションは近いので送って帰ろうと歩きだしたまではよかったが、運動神経がやられたみたいでフラフラ歩くもんだから、危ないからタクシーにのりましょ?とSさんに「介護」されてしまった。、、
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2014・11・27

2014-11-28 13:23:22 | 日記
●今日の徒然 最近朝の食事がステーキとカレーが代る代るになっている気がする。ランチの残飯処理だし、美味しいから仕方ないけと、ちょっと哀しい。そして今日はステーキの日。朝からニンニクを一杯効かせてソティして食べる。付き合わせは茹でたじゃがいもとアスパラ。それに市販のコーンフープ。10時過ぎ店へ。ランチのスペシャル、今日はまぐろとアボガドのワサビ醤油和えとサーロインステーキの梅シソ風味を用意するが、芝居の制作をしてくれているChさんが今週もまた打ち合わせ旁食べにきてくれただけ。夜もお客さんの予約電話はなかったのでずっとカウンターの中で「closed」の台本執筆。構成は珍しく全部出来ている気がするんだけど、問題は台詞。なかなか進まない。12時ジャストに店を出る。今日は電車帰宅。ぎりぎりで部屋の近くのスーパーに入って、見切り商品を買い漁る。お腹が空いたので焼きそばを作って、録画してあった「深夜食堂・ロールキャベツ」見ながら食べる。続いて「ドクターX」(脚本・寺田敏雄)見る。どっちがいいとか悪いとかいうんじゃないけと、今日は見ている内に今シリーズメインの林誠人でも前作までのメインライターだった中園ミホでもないことか分かる。だからなんだという訳ではないんだけど。2時すぎベッドに入って「大本営参謀の情報戦記(堀栄三 著)」読みつつどいうか二三ページ読んだ辺りで夢の世界に。●M家の人々(26)寅次郎が知り合いから聞いてきた陸軍委託学生制度を知って、稔はどんなに勇気づけられたことだろう。何しろ当時大学卒の初任給が85円の時代に委託学生になると給付金として40円も貰えるのだろう。この給付金にアルバイトしたお金を足せば誰の世話にもならずに生きていけるばかりか、稔の後をおう様に松本から出てきて寄宿舎の世話になっている母親や妹の面倒も見ることが出来る。稔は何がなんでも陸軍委託学生になろうと勉強に励んだが、ここで問題が一つ起きた。稔は父と同じ東京帝国大学に進学したかったが、その為には(旧制の)高等学校にいかなくてはならない。処が、委託学生は大学生か専門学校の学生にしか応募資格がないことが分かったのだ。高等学校に行ってしまえばその間はバイトのお金だけで過ごさなくてはならない。母親の俊江は麻布の東洋英和女学校の幼稚園に職を得ていたが、妹の雅子と伸子はまだ女学生になったばかりだ。そんな贅沢は許されないと稔は思ったに違いない。陸軍委託学生の試験に受かりやすく、四修でも絶対現役合格できる上級学校として、稔が東京外国語大学、それも英語科ではなく余り人気のなかった蒙古語学科を選んだことも、更には稔が以後旧制高校生と帝大生(東大生)に対して異常とも思える反感を持っていたのも納得がいく。尚、この稔の外語大への進学の経緯については新しい資料や情報が手に入ったら書き直すことがあるかも知れない。
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2014・11・26

2014-11-27 12:10:40 | 日記
●今日の徒然 梅雨みたいな雨。時折夕立みたいな雨。今日はランチも含めてお客さんはいないだろうと云う予想は若干一人のお客さんがいてくれたので外れたけど、それ以外の時間は百%自分だけのものになっちゃったので、カウンターの中にパソコンを持ち込んで、四月にやる予定の「closed」の台本を書き始める。28日までに書き上げると水沢さんと制作のChさんには約束したけど、それは反故。その替わりに最高のイントロが出来た……と言っておかないとまた待ち時間が増える水沢さんたちの苛立ちが増える。でも、ホント。今、私は天才気分。母との老老ディナーは刺身イカの柚子胡椒和えカイワレ大根添え、市販の餃子、もつ煮込み、漬け物。途中母にホテルは何処?と聞かれる。来たっ、遂に来たっ。正月に行くリスボンのホテルのことだ。分かってる、分かってるんだ。でも、いま一つ決められないんだ……なんて言っている場合じゃない。どんどん空き室がなくなっていく。よし,今日中に決めようと食後何度もリスボンに行っている写真家のKさんに電話して、91歳の母親と二人きりで泊まるにはどのホテルがいいかアドバイスを受ける。そしてKさんが推薦してくれたのが、ロシオ広場に面したAホテル。迷うことなくそこに決定。××トラベルを通じて早速予約をいれる。こう書くと簡単に見えるけど、パソコンでのネット予約の苦手の私には難行苦行。でも、何とか予約完了。万歳と叫んでしまう気持ちはパソコンに慣れた人には分かるまい。●M家の人々(25)この時期における稔の劣等感は、いうまでもなく松本中学の入試に落ちて彼にとっては在学するのに不本意な青山学院中学に通わなくはならなかったことだ。数年前に36歳で亡くなった父の信正は東京帝国大学を出た農林省の役人だった。当然自分も父と同じコースを進むつもりでいたし、家族や友人たちも松本中学から出来るなら一高か三高、悪くても地元の松本高校を経て東大に進学することを期待していた。それなのに自分より数段成績のよくないS君が合格して俺が落ちるなんて何かの間違いとしか思えなかった。でも、それが現実なのだということを受け入れるのに稔は青山学院の教会の責任者だった祖父の寅次郎が用意してくれた寄宿舎に身を置きながらその一年を過ごした。でも、いつまでも失意の底に沈んでいる訳にはいかなかった。父の死で家長になった稔には母親と妹たちの生活の面倒を見る為にも何とか再起する道を探らなくてはならない。そのきっかけになったのが語学力だった。生来耳がよかったのだろう。教会に出入りする米人牧師たちの英語がちゃんと聴き取ることが出来た。それにまだ中学一年程度の英語だったが、簡単なフレーズだったら米人に通じさせることが出来た。おまけに負けじ魂だけは誰にも引きを取らない。一学期の間に一年で習う教科書を全部暗記してしまう程だった。将来は自分の跡継ぎにしようと稔を引き取った寅次郎だったが、何とか上の学校へ進学させてやる道はないかと模索し始める。そんなある時、寅次郎は数年前に始まった陸軍委託学生制度のことを知り合いから聞いて来る。
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2014・11・25

2014-11-26 12:39:58 | 日記
●M家の人々(24)どうして僕が父の稔の学歴や経歴にこだわるかというと、松本中学の入試に失敗して12歳で上京して22歳で終戦を迎えるまでの10年間が、その後の稔の人生と、極端にいうと彼の息子である僕の人生に大きな影響を及ぼして行ったのではないかと邪推に近い想像をしてしまうからだ。巷間、終戦までの稔の学歴経歴について伝えられている(自身が語っているとも含めて)ことを時系列に並べてみると、青山学院中学部四年修了後、陸軍委託学生として東京外事専門学校(東京外語大)卒業、現役入隊。参謀本部諜報部に属した後、久留米予備士官学校に進学、その後陸軍中野学校を経て 陸軍参謀本部諜報部欧米班に配属となるのだが、この十年間は稔にとって劣等感と優越感が入り混ぜになった時代だった。●今日の徒然 朝店に出てランチのスペシャル用にブリ大根を作る。いただきものの柚子も使って最高の出来。もう一品は豪州産のサーロインステーキの梅シソ風味。この二品にサラダと漬け物とゆで卵をつけて千円は安いと思うけど、お客さんはゼロ。沢山作りすぎたので、母との老老ディナーに家族内消費。お客さんは法律事務所勤務のNさんがいつもの様に稲荷寿司をお土産に、福山在住で上京中のHさんが金曜日に引き続いて仕事仲間のSさんと来店してくれて1時近くまで。今日は(この日記を書いている水曜日)どうも頭がぼんやりしていて、こんな日記を書くのにも二時間もかかってしまった。頭が全然働かない。いたたねしよう。
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2014・11・24

2014-11-25 12:35:33 | 日記
●今日の徒然 今日は母校の都立北園高校で三年間担任していただいたT先生の※寿を祝う集いが1時から池袋であるので、ランチをお休みすることにして、遅い朝御飯(またカレーライスだ!)を食べてから12時に部屋を出て大崎駅から山手線にのる。1時までには45分もある。池袋には20分少しで着いてしまう。もう少し遅くでればよかったなんて思っている内に目黒辺りで眠りに入ったのを覚えている。普通なら10分か15分で目が覚める。それなのに今日に限って目覚めたのは三十分後、電車は上野駅ホームに滑りもうとしていた。慌てて引き返すが、池袋に着いたのは1時を20分も過ぎていた。電車でこんなに眠ってしまったなんて今までになかったことだ。余程疲れていたのか?会ではT先生にも直接お祝いを述べ、同じクラスだったM君とも久しぶりに会って旧交をを温めることが出来たし、遅刻したことを差し引いても出席してよかった。4時過ぎ店に入る。5時半に女性編集者のYさんと以前彼女が勤めていた料理雑誌S編集部の先輩Uさんが来店。二人の為にサーロインステーキの梅紫蘇和え、豆腐と茹で卵の雪鍋、カキカレーの焼飯など作る。二人と入れ違いに新人女優のTと友人のSちゃんが来店。私も入れて三人でワイン二本の他ラム、スコッチなど12時過ぎまで。二人の魅力に負けないで、ちゃんと正規料金をとる。当たり前のことだけど、自分で自分を偉いと誉める。●M家の人々(23)昨日稔が「陸軍委託学生」として東京外国語学校に進んだと云う記述した処で筆が止まってしまったことには理由ガある。ふとそれは事実なのかと云う疑いを持ってしまったのだ。と云うのは、インターネットで検索すると、陸軍委託学生と云うのは中学卒業後すぐそのままなるのではなく、陸軍にしばらく在籍し、そこで優秀だった学生が学校に派遣されるという形を取っていたように記述されていて、父の様なケースは該当しないのだ。でも、これは現時点での僕の調査不足かも知れないし、もしもその様なコースがなかったら到底大学(専門学校)で勉強している経済的余裕なんか父とその家庭にはなかっただろう。でも、何かがひっかかる。そしてひっかかるといえは、東京外国語学校に在籍していたとしてどの学科にいたのか?のかが記録によって違うのだ。「外国語学校外国語学科」と記されているのもあるし、「外国語学校英語科」となっているのもある。前者は「外国語学校」には「外国語学科」しかなかったからこの記述は意味をなさない。でも、父の英語は堪能たという世間の評判(事実皇太子の通訳を勤めていたりした)から、てっきり「英語科」卒だとばかり僕も家族も思い込んでいたけと、ある時僕はは桜上水にあるKと云う割烹で、父と同年配の東京外国語学校英語科の同窓会の面々に偶然出会って、父のことを話したら「彼は英語科じゃなかった筈だよ」それじゃ父は何語を?「確かM君は蒙古語じゃなかったかな?」蒙古語!……それが真実だとしたら何故父は後に出版した本の著者略歴などに嘘を掲載させたのか?
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2014・11・23

2014-11-24 00:01:19 | 日記
●今日の徒然 夕べ帰ったのは三時過ぎか?酔っぱらってソファで寝てしまったみたいで…いやソファの傍のサイドテーブルには天カスの入った丼がある処をみると、どうやら帰ってから狸蕎麦を作って食べたみたいだ。よく分からないお前の食欲。そして性欲?…あれ?夕べ一緒にいたHさんは何処へ行った?一緒に寝てない処をみると、きっと嫌らしくセクハラしたに違いない。俺、何した?と聞くメールはとても怖くて打てない。元気でな Hさん。10時過ぎに店。今日明日と連休だけど、一応ランチの用意。でも、お客さんは予想通りいない。1時過ぎに母が時間を間違えて店に入ってきたので、二人で西麻布、表参道と母が幼少期に住んでいた町を散歩。86年ぶりに西麻布から表参道を歩く91才の母の行脚につきあえただけでも、人生やっててよかったと思えた。5時に帰宅。経理事務とこの日記を書いたりした後、6時半に妹と待ち合わせて母と一緒に近所のご飯屋へ。ロス在住の彼女と会うのは四カ月ぶりか?日本酒を二人で六合。今日もちょっと酔う。●M家の人々(22)母が時間を間違えて店に入って来た時から話を戻すと、青山学院に入った稔は四年で中等部の仮定を卒業した後は、陸軍委託学生として東京外語学校で学ぶことになった。
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2014・11・22

2014-11-23 11:59:41 | 日記
●M家の人々(21)稔と恵津子は、稔が2月、恵津子が1月と生まれ月こそ違うが、同じ大正12年((1923年)生まれだ。ということは、全く同じ時期に通りを挟んだ学校に通っていたことになって、ひょっとしたらすれ違っていたかも知れないのだけど、そのことを今恵津子に言ってみても「あら,そうなの?」と云うだけで、余り興味を示さなかったし、稔も生前当時のことを話してくれた記憶はない。二人の子供である僕にとっては、何だか運命的で、大きな意味があるような気がしてしまうのだけど、確かに当時の稔にとっては思春期ではあったけど女の子に関心を持つ気持ちの余裕はなかったに違いない。何しろ前年の昭和9年(1934年)に父親の信正が亡くなり、家督を相続して、将来的には母親の俊江と妹二人の面倒を見る義務を背負ったと云うのに、志望中学の受験に失敗してしまったのだ。幸いにも祖父の鉄治の世話で青山学院中学部に通うようになったが、ここは寸暇を惜しんで勉強し、一日も早く母と妹たちを養うとが出来る仕事につく必要があったのだ。当人が生前自分の経歴として……とここまで書いた時に散歩にでかける約束をしていた母が入ってきた。本当は一時間後だったのだが、間違えたらしい。待って貰うのも可哀相だし、仕方なくそのまま一緒に散歩に出かけることにした。と言っても行き先は決まっている。西麻布の交差点までバスで行って、そこから骨董通りの一本手前を入って、根津美術館の前まで。そこにジャージャンと母が上京して最初に住んだ貸家があったのだ。もちろん、今はもうその家はなく、コンビニに変わっていたが、その脇にある小道を母は覚えていて、「ここよ。間違いないわ」と云うもんだから、そこに立って貰って記念写真を一枚。ついでに通りを渡って青南小学校にも行き、校門の前でも記念写真。帰りにもう一度西麻布に戻ると、母は交差点の傍にある居酒屋「権八」の蔵を見て、「あの蔵を見ていると何故か涙っぽくなってしまうのよね」と感慨深げな表情になる。あの蔵は戦前からあるのか?一体どんな思い出があるんだろ?「それが思い出さないのよ。でも、涙が出ちゃう」母にとってはちょっとしたセンチメンタルジャーニー。●今日の徒然 お昼に近所に勤める女性客が一名。かきカレーをオーダーしてくれるが、今日でカレーは限界。今までは十人分以上作ってきたけど、今度も作ってから三人分しかオーダーがなく、後は酸っぱくなってきたので廃棄処分にするしかない。勿体ないけど仕方ない。慌てて五人分のカレーを作る。野菜を入れればいれる程駄目になりやすいので、今日は野菜とルーと別々に作ってみて、たべる直前に混ぜるようにしてみる。果たして味はどうなるか?朗々ディナーはかぼちゃの煮つけ、カキフライ、昨日の残りのタラモサラダ、漬け物、カレー風味の味噌汁この内、カキフライはスーパーでパックに入ったのを買ったのだけど、「大粒カキ」と書いてあるから期待したけど、稲荷寿司みたいに柄は大きくても、中身は痩せこけていて、かぶりつくと油をふくんだ粉をたべている錯覚に陥る欠陥品。反対にカレー風味の味噌汁は、カレーにいれる十品目の野菜を煮た後のスープにそのまま味噌を溶いてネギを散らしただけの味噌汁だけど、及第点と云うかマジに美味しい。女友達のTさんから彼女のご主人が脳梗塞で倒れたとの連絡。二人の結婚式の司会もやったし、夫婦別々にウチのお店にも来てくれていたから 何ともいえぬ切なさ、やりきれなさを覚える。バー営業はずっとお客さんがいなかったけど、帰りかけた頃に広島の福山から上京してきたHさんが来てくれる。何だか今日はTさんのこともあって気持ちが荒んでいて誰か女性と飲みたいと思っていたので大歓迎。サンタテレサ1796、デパーズ、ロンサカバとラムをダブルのロックで立て続けに飲む。「なんかアレテル」「そんなヨルもある」三時近くまで飲んだのは久しぶりだ。
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2014・11・21

2014-11-22 14:10:30 | 日記
●朝一番でDVDのメーカーに電話してみる。状況を話すと、HDDに不具合が生じている可能性があるので交換しなくては駄目だろうという。HDDの交換台3万~出張費その他で5千円~もしも新品を買うと安いものだと3万円台だとすると、そりゃ単純な引き算で交換及び出張を断る。すると担当者は最後に付け加える。殆ど可能性はないのですが、一度電源を切って、しばらくしてから電源を入れ直すと、治っているる場合がありますのでよかったらお試し下さい。更に昨日Chさんに言われたことを思い出す。リセットボタンを突っ付くと治ることがある。そう言われてみると、取説にそんなことも書いてある。ハハハ、そんなことで直る訳ないだろ?と笑いながらも、万が一直ったらラッキーと、電源を抜いて、リセットボタンを突っ付いてみると、あらあら不思議不思議、とりあえず直ってしまった。何じゃ!こりゃ!ランチに文字通り飛び込んできた一人の女性が、漸くこの店に辿り着いたとはかりに、本日のスペシャルランチを注文するや否や、店内の写真を(勿論断って)撮り出す。この方がジャージャンですね?そしてこっちがお母様?とやたら私の家と店のことに精通している。妹のファンの方ですか?と聞くとお兄さんのブログのファンでもあるいうMさん。二月末に前書いていた日記をやめた後、次にこの日記を始めるに当たっては、名前も出してないし、書いているのが私だと分からない様にしてきたので、店や私についての手がかりを失ってしまったけど、絶対違う形で日記を書いているに違いないと思って、色々な形で検索し続けた結果、9月に公演した芝居のことで、この店と私の名前が公になったのを見つけて、今日ここに辿り着いたのだという。何じゃ!そりゃ!でも、そこまで求めてくれたしたら、例え妹絡みだとしても嬉しい。バーのお客さんはゼロ。11時過ぎ歩いて帰る。お腹が減ったので店から持ってきた残り物のカレーをたべようとして、そういえば今朝もカレーだったことを思い出す。最近ランチを始めてから作っておくカレーの分量が分からなくなっていて、多く作ったわりにはお客さんのオーダーがなかったりして、いつも店の賞味期限の5日を過ぎて手しまうものだから、どうしても自宅処理の度合いが多くなってしまう。この日記、得意気に献立を書いている時以外は、全てカレーだど思ってくれていい。それにしても朝と夜とカレーなんて、と思ってはみたものの、空腹には勝てず、ノンアルコールビールで流し込む。カレー胃袋、いと哀し。●M家の人々(20)ジャージャンは世田谷に移ってから、そして特に転校してからというもの、恵津子に情操教育というか芸術的素養を殊更につけさせようとした様子が伺える。自分の楽しみでもあったけど、宝塚の舞台に連れましたこともそうだったし、今でいう社交ダンスのサークルにも連れて行った。そして自宅にはグランドとアップライトと二台もピアノがあったし、教師をつけて恵津子にピアノを練習させた。だが、恵津子はなかなか上達しない。女学校を卒業後は出来たら宝塚音楽学校に入ってくれたらと思って、自分の専門である声楽も教えてみたのに、高音がイマイチだ。いや、それ処か音程が時々狂う。社交ダンスでも足の運びがイマイチで、生来運動神経に問題があるみたいなのだ。「あなたは芸術家より早く奥さんになった方がいいみたいね。そして早く可愛い女の子を産んでちょうだい」そうジャージャンに言われたのは小学校を卒業する頃だったろうか?母親に芸術的才能を諦められた娘は、1935年(昭和10年)良妻賢母を育てることをモットーとする実践高等女学校に入学する。そしてこれは偶然と云えば偶然なんだけど、その十年後に出会って結婚することになる稔が、実践の殆ど目の前にある青山学院中学に信州松本から上京してきて入学していた。
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2014・11・20

2014-11-21 16:41:31 | 日記
●今日の徒然 お昼からの営業にしてしまうと、食事がいつ食べられるか分からないので、朝はしっかりと食べる。それもパン食や和食でなくて、洋食?それもそれも肉を食べると一日胃袋がもつという経験則を基に、今日も賞味期限切れの牛肉を持ち帰ったので、豆腐、ネギ、白滝、きのこと云ったすき焼きの材料を全部バター炒めにして(つまり鉄板焼き)、しょうゆをたらりと垂らした洋風すき焼き?を作り、溶き卵で食べてみる。美味。付け合わせは白菜の汐昆布和え。味噌汁は賞味期限の切れた納豆。これまた美味で、満足。ランチタイムには来年三本企画している芝居の制作を担当してくれるChさんがきてくれて「今日のスペシャル」(汐鮭、鶏団子、サラダ、漬け物)を食べていってくれる。デザートに自家製の梨のコンポートまで食べて貰いながら、とりあえずはGWに上演する「closed」の台本について相談相手にあって貰う。沈思黙考タイプじゃない私は、誰か話し相手がいないとアイデアが出てこない。Chさんがこうしてランチ代まで払って相談相手になってぐれるのはホント大助かりだ。6時に私抜きの老(老)ディナー。母はChさんがお気に入りなので彼女を話し相手にしてランチの残りだけど楽しそうに食事。今日は母子としてChさんに相手になって貰ったことになる。バータイムはノーゲスト。11時過ぎ店を出て歩いて帰宅。録画してあったドラマを見ようとしたのに、DVDが全く作動せず。数週間前から録画できたりできなかったり、出来ても途中で停止してしまったりだったけど、遂にTHE ENDか?●M家の人々(19)代沢小学校に転校して恵津子は、当初ジャージャンがいう「田舎者」の空気に馴染めないでいたが、慣れてみると、高級官僚や高級サラリーマンの子弟が多かった青南小学校よりも居心地がよく、放課後にばそれこそ狸が出た丘の林の中を近所の子供たちと走り回り、夏ともなると代沢川に浸かって水遊びに興じるようになっていた。そしてずっと鬱陶しい存在だった黒木がいつしかいなくなったことは、恵津子の気持ちを屈託のないものにさせていた。そしてジャージャンは、黒木がいなくなったことで生じた心の空虚さを、宝塚通いで埋めようとしていた。ちょうど折しも昭和8年に東京宝塚劇場が出来たのだ。杮落としとなった月組公演「宝三番艘」には連れていかれたのを最初に、恵津子は同じ公演を何度も見させられることになる。「アニキ(芦原邦子の愛称)の素敵なことったらありゃしない。毎日でも劇場に通ってみていたいわ。ね、恵津子?次はいつ行きましょうか?」ジャージャンの恋の相手が、黒木から宝塚の男役スターに変わったのだった。
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