五反田発リスボン行き急行列車

五反田駅からリスボン行き急行列車に乗ることを夢想する前期高齢者の徒然

2014・12・30

2014-12-30 21:31:40 | 日記
●M家の人々(36) 僕の「家の履歴書」の続き④昭和30年、理由は不明だが隣町の大田区安方町に転居。玄関の奥に台所があって、その隣に六畳一間があるだけの路地裏の一軒家。隣の田中さんの家にはバラが咲いていたが、ウチのくみ取り便所が傍にはイチジクの木が一本。田中さんとは反対側の隣にば明治大学に通う二人の学生が共同でかりているウチと同じ様な一軒家。昭和32年、乳ガンに罹ったジャージャンはその部屋で逝去。⑤昭和32年 ジャージャンが死ぬのと入れ違いに父の稔が家に戻ってきて、鎌倉市材木座にある厚生荘と云うアパートに転居。M家の人々にとっては初めて住む、ちゃんとした3dkのアパート。他の住人たちも防衛庁関連の朝雲新聞社に勤めるカメラマンがいたりした処から考えると、そこは防衛庁の半官舎と云ったアパートだったのかも知れない。⑥昭和34年3月 東京都練馬区北町に新しく出来た防衛庁の官舎に転居。同じく3DKだったが、庭付きだった為、父は僕とすぐ下の弟の孝史の為に庭に四畳半のプレハブ住宅を購入した後、渡米。そこはどぶ川に毛の生えた田柄川沿いにあった為、季節になると洪水を繰り返した。⑦父の渡米中(昭和36年まで)田柄川沿いの官舎から川越街道に面した官舎(スペースが広くなった気がする)に転居。⑧平屋建てから団地に建て替える為、昭和39年高円寺の環七と中央線が交差する辺りにあった官舎に転居。⑨昭和42年再び練馬北町に新装なった団地風官舎に転居。この⑧から⑨の間にすぐ下の弟の孝史は東大に合格し、妹のゆかりは女優としてデビューし、一番したの弟の仁史は慶応大学に入学。そして大学に悉く嫌われて居場所をなくした僕は、脚本家になることを目指してM家の人々の輪から離れて行くことになる。●今日の徒然 朝七時にかかってきた母の電話から今日一日が始まった。起きてから体調が優れないので薬を持ってきてほしいというのだ。母がそんな時間にそんなことを訴えて来るなんて初めてのことだったし、余程の体調不良なんだと理解して部屋にあった頭痛薬から痛み止め、胃腸薬まで袋にぶっこんでタクシーで母の部屋に向かう。でも、憔悴しきった母の顔を見て、そんな市販薬程度で処置できる問題じゃないことを理解。数日前電話で口げんかした弟に連絡をとる。運良く近所にいた弟が飛んできたのがお昼前。後は医学博士でもある弟に任せたが、ポカリスウェットを飲んで安静にしていれば二三日もすれば回復するとのことで安心する。でも、弟のアドバイスでリスボン旅行は中止することにする。あんなに母も楽しみにしていたけど、病み上がりの体でフランクフルトまで12時間そこから乗り継ぎに3時間半待ってリスボンまで4時間の合計19時間半の旅はちょっと無理と判断せざるをえない。だからと言って私一人で病気の母を日本に置いてリスボンへ行くなんて悪魔の様な仕業は勿論出来ず、無念、残念。でも、母が病気になったお蔭で喧嘩以外はまともな口を聞いたことが一年半以上もなかった弟とウチの店で酒を飲みながら喋るなんて仲直りできた訳で、私が病気になってよかったと母が云うのは本心だったに違いない。と云うことで、リスボン行きが中止になったとなると、今まで新年の営業開始が15日なんてのんびりしたこと言ってきたけと、1/5(月)から始めてみようと思い立ったりして。因みに今日のお客さんは、法律事務所勤務のNさん、俳優事務所社長のBさん、女性映画監督のMさんの三人。母の具合をチェックしつつ4時まで。、   
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2014・12・29

2014-12-30 11:36:28 | 日記
●今日の徒然 午前中に銀行へ。家賃他振込を数件。11時に店へ。母がラーメンを食べたいと云うので、チャーシュー替わりに豚の紅茶煮を作る。後は半熟のゆで卵、もやし、海苔、小口ネギをトッピングしての博多ラーメン。ラーメンだけじゃ淋しいので、久しぶりに揚げ餃子を作る。塩味で食べて美味堪能。母が今日のラーメンのおつゆはどうして白いの?と聞いてくる。豚骨ラーメンだから。豚骨だから豚の紅茶煮なの?面倒なのでウンと答える。食後は年賀状書き。添え書きをしているとなかなか進まない。夕方段階で70枚。老老ディナーはビーフステーキに牛乳が残っていたので久しぶりにクリームシチューを作る。じゃがいもと白菜が美味しい。焼酎のお湯割りの摘まみに塩抜き途中の数の子&昨日の残りのイカの柚子胡椒和え。今日あたりお客さんが一人か二人いるかなと期待したけど、電話は一本もなし。仕方なく年賀状を書き続けるが、途中でいつもの様にウトウト。結局1時過ぎまで頑張った?けど、今日中に年賀状は百枚ジャスト。明日一杯で何とかしなくちゃとブツブツ言いながら家路を急ぐ。●M家の人々(35) 僕の「家の履歴書」は①戸籍謄本では昭和22年11月3日世田谷区北澤4丁目561番地で出生となっている。前述したジャージャンが建てた家は駅を挟んだ代沢にあるから生まれた病院の住所だろう。因みに代沢の家の正確な住所は分からないし、僕がその家にいたのは病院を退院した数日だけだったみたいで、下北沢生まれは生まれだが、その街には数日しか住まなかったことになる。②引っ越し先は大田区馬込東3丁目、現在の南馬込1丁目。第二京浜国道と環七が交差する日本で始めて作られた立体交差がある松原橋付近から現在は東海道新幹線が走っているが当時は貨物線の線路の間にあった縦長二部屋、大阪の文化住宅みたいな住まい。ここですぐ下の弟の孝雄、妹のゆかり、その下の弟の仁史まで生まれているから昭和22年の冬から昭和27年の6月までの4年半を過ごしたことになる。因みに馬込後半には父の稔が次第に家に寄りつかなくなっていたので家計が逼迫し、恵津子はジャージャンに同居して貰ってタイピストとして働きだしていた。③次に引っ越したのは目蒲線の蒲田と矢口渡の間の大田区小林町にあった庭付き一戸建て。確か部屋が三つあった。家計が苦しいのに何故そんな家に引っ越したかと云うと、東京に出てきてから家賃収入で生計を建ててきたジャージャンがここでも又貸しで収入を得ようとしたみたいで、三ツあった部屋の内二部屋はその内米兵が時折やって来るオンリーさんと蒲田の飲み屋の女将さんに間借りされ、僕たち兄弟四人とジャージャンと母の四人は六畳一間に押し込まれることになる。でも、そこで僕は昭和27年に道塚幼稚園に入園して道塚小学校の2年生まての幼少期を過ごす。現在は環状八号線が出来て街が変わってしまっているが、狭い道路の反対側にはどぶ川が流れ、グリコのおまけを作る工場や、ザリガニを釣った池があり、その近所には空襲で焼けた工場の煙突が残った空き地のある、多摩川土手まで歩いて15分という下町の匂いを漂わす街だった(この項続く)。●ジャージャンは大晦日まで、年始は15日から営業します
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2014・12・28

2014-12-29 14:54:28 | 日記
●今日の徒然 自家製稲荷寿司と白菜を一杯いれたワンタンスープとブリ大根なんて目茶苦茶なメニューで老老ランチをとった後、母に年賀状の宛名シール貼りを手伝って貰う。宛名シールが三百人以上あるのを知って、母は一杯お客さんがいるのねぇと云うけど、母よ、その内、店に来たり芝居に来たりしてくれた人は五十人いるかいないかで、後は乃木坂時代のお客さんなんだよ。つまり250人以上の人が新しい店には来てくれていないんだと説明すると、それは大変ねぇと他人事のようにいいながらシールを貼っていく。ちょっと待って、他人事じゃないんだ。大体この店は私の祖母であるジャージャンというあなたの祖母をメモリアルする為に二人でやろうとした店じゃないか?お客さんがいないのも売上が上がらないのも二人で責任を取っていかなくちゃいけないのに、どうしてそんな他人事でいられるんだよ?と内心で詰め寄ってみても、現実には出来ない。そんな面倒なことを理解する力が母にはもうない。こうして店と息子の為にシールを貼ってくれるだけで是としなければならない。でも、こうして年賀状を送って「宣伝」活動してみても店はいつまで持つか分からない。生前贈与されたマンションを根抵当にいれてギリギリで借りたお金も今日21万円の家賃を払ったらもう200万を切ってしまった。こんな調子で来年も進んで行ったら毎月40万は赤字なんだから後五カ月しか持たないと云う計算になっちまうんだ。一体どうしたらいいんだ?と目の前で印刷した年賀状に添え書きをしている息子は深刻に悩んでいるのに、リスボンへは幾ら位持って行ったらいいのかしら?と母の能天気な声か聞こえてくる。うん?リスボンへ持って行くお金よ。明日には銀行でおかなくちゃ駄目でしょ?十万もあれば足りるかしら?そう、こんな状況に店が陥っていると云うのに、92歳になる母を連れて正月3日から13日まで十日間のリスボン旅行をしようとしている私の神経は一体どうなっているんだか分からないと他人が思っても不思議はない。いや、他人ばかりか身内だってそう思っているみたいだ。今日も弟がメールと電話で、その旅費はあんたが出しているのか?と聞いてきた。いや、全額母だけどと答えると、みっともない。自分の旅費くらい出せよと言われる。そう言われてもそんな金は持ってないし……だったらどうしてそんな旅行するんだ?それは母が何処かに行きたがっていたから……母が行きたいと云ったら何処にでも一緒に着いていくんか?あんたは?……ええ、いきますよ。ユニクロにだってリスボンにだって……もういいっ、勝手にしろっと弟に電話を切られてしまう。弟が怒る気持ちも客観的に(と云うか作家的に)見ると分からないでもないけど、老い先短い母が自分をお金をどう使おうといいじゃないの?そこに貧乏な長男がそのおこぼれに預かろうと傍で世話を焼いてもいいじゃないの?と思っていたら、その間に母はシール貼りを全部終えてしまったみたいで、そろそろお腹が減ったわねという。いつの間にか外は暗い。麦焼酎のお湯割りを用意して生牡蠣のポン酢和えにイカの柚子胡椒風味で飲んで貰う。その後十品目の野菜で作ったカレーライスのハーフを二人で食べる。母はあなたの作るものはみんな美味しいわねと言って食べてくれる。人生、それで是。満足。●M家の人々(34)話は前後するけど、(30)で東武練馬のことを書いた時に「ここに至るまでのM家の歴史」みたいな記述をしたけど、それはざっと自分とM家の人々が移り住んだ街を列記したい欲望に駆られたからだ。それなのに何故書かなかったのか?よく分からない。まだM家の人々の歴史をトコトン書き記す度胸がなかったのかもしれない。でも、この「M家の人々」を再開してから昨日まで何処か他人事のようにしか書いてこれなかったのは、度胸が座ってなかったからの様な気がして、今日は書いてしまうことにする。M家の人々が何処に住んできたかがどうしてそんなに問題になるのかと云うと、身内に有名人がいて、私とは違う「M家の人々」を語っているからだ。大体、東武練馬にだって、その街の小学校と中学校を卒業したのに、住んでいたことになってない。でも、私がその街に八年住んでいたことは消しようのない事実だ。つまり私の住んできた街を語ることは、それは即ちM家の人々の歴史を語ることになってしまうもんだから、身内に遠慮してしまったのだ。でも、そんなことを言っていたら、稔の学歴だって、経歴だって、それに纏わる秘密だって、語れなくなってしまうし、ここは淡々と事実だけを語っておこうと思う。●ジャージャンは大晦日まて、新年は15日(木)から営業します
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2014・12・27

2014-12-28 14:29:39 | 日記
●今日の徒然 朝何を食べたかということを翌日思い出さなくなるとやばいと思って、この日記で可能な限り書くことにしているけと、簡単に思い出す時と今日(日付的には28日)みたいに一時間考えても駄目な時があって、そんな時はそんなことに無駄な時間を費やした自分がたまらなく嫌になってしまう。でも、とにかく昨日は昼前に店に出て、ランチの用意をしていたらM家の先祖のことを色々調べて下さっている会社顧問のIさんが来てくれてM家のルーツについてお喋りしている内に、女優の水沢有美さんが時間が空いたからと会いに来てくれて、Iさんとは同年代だったので、三人でもお喋りがズルズルと続いて、気づいてみたら4時過ぎで、Iさんが帰った後、水沢さんには手元にあった台本を読んで貰って、急遽打合せになる。今回は一人芝居だし、彼女にも演じる立場だけじゃなく、プロデュースにも演出面でも関わって貰おうと、スケジュールや予算も含めて相談していたら、今度は映画監督兼教育評論家のHさんがきてくれて、水沢さんとは昔一緒に仕事をしたことがあるし、この間の芝居も見てくれたこともあって、お喋りの輪!水沢さんが帰った後、しばし男同士のお喋りが続いたが、八時過ぎにHさんの知り合いで、近所に住む女性のAさんが彩りを添えてくれて、そうなると男同士の時は真面目な話しかしなかったのに、彼女と三人となるとこっちもエロ話が全開して11時過ぎまで。何故こんなことをクドクドと書くかと云うと、お昼から何も食べてないことを確認する為とこうして書いていると、朝食べたものを思い出すかと思ったけど……その後は思い出す。Hさんが最後博多のラーメンの話ばかりするのでめん類が食べたくなって、深夜スーパーで値引きしていた天麩羅と蕎麦を買って部屋で天麩羅蕎麦にして食べたのだ。でも、朝はダメ。ここまできても思い出さない。肉か魚か?ご飯かパンか?それも分からない。ここでパッと思い出してオチにしたかったのに、オチもなく、オチつかない。●M家の人々(32)その頃、父の稔は青山学院中学を四修で終えて東京外語専門学校に進学していたと云うことになっている。ただ、前にも書いたよう何学科に進学していたかは不明である。父の知人の話ではアメリカ人以上に英語が上手だと云う噂だったし、現にこれからしばらくして終戦になり、アメリカ軍が進駐してくるとハワイ生まれの二世だと偽ってGHQに勤める程の英語力でいたことは母から聞いていたので、てっきり英語科とばかり思っていたけど、モンゴル語科と云う説もある。この事実関係については、大学に問い合わせれば分かるだろうけど、ハッキリさせるべきかどうか分からない。もしもモンゴル語学科だとしたら、どうしてそれをハッキリさせなかったのか?モンゴル語学科だったら恥ずかしかったのか?それともモンゴル語を学んだことは秘密だったのも知れない。陸軍委託学生になる為には当時軍事的政治的理由から求められていたモンゴル語を勉強していた方が得だと思ったのか?そのことと中野学校との関係はどうなるのか?まだ色々調べなくてはならないことが一杯ある。★ジャージャンは大晦日まで、来年は1月15日から営業します。
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2014・12・26

2014-12-27 15:58:34 | 日記
●本日の徒然 ご飯を炊く。納豆を混ぜる。鮭を焼く。漬け物を出す。小松菜の味噌汁を作る。そして美味しくいただく。朝、こんな食事が出来ることを色々な方に感謝。今日はいつもより神様に対して感謝する気持ちが強い。一粒たりとも粗末にしてはならじと茶碗についた米粒も綺麗に食べる。勿論鮭の皮もちゃんと食べる。器に付着した納豆の粘り気が勿体なくてスプーン一杯分のご飯粒をよそって嘗めるように食べる。どうしちゃったんだか分からない。そしてこんなことをしたって何が変わる訳ではない。10時過ぎにスーパーで買い物して11時前には店へ。今日のスペシャルとしてイカの刺身を柚子胡椒で和えて紫蘇と青ネギとカイワレ大根と一緒にしてお刺身サラダを作る。すき焼きの材料が肉を除いて残っていたのでその旨みを利用した「すき焼き風味の湯豆腐」と云うのを作る。でも会社的には今日が今年最後の出勤日と云うこともあってお客さんを期待したけどお客さんはゼロ。芝居の制作を担当してくれるChさんが打合せを兼ねて来てくれただけ。おまけにお腹が一杯だと言われて悄気る。夜になっても、繁華街はかなり賑わっているだろうに、お客さんはA芸能を中心に芸能ルポルタージュの分野で精力的な執筆活動を続けるライターのIさんと同郷のYさんの二人きり。母は今日妹と箱根に行っているので老老ディナーを用意することはなく、と云うと、こっちの食欲もなくなって、Iさんたちが帰った後、カレーライスを食べただけ。1時過ぎ寒空の中を歩いて帰る。最近五反田の誰もいない部屋に帰るのがとまらなく嫌になっている。●M家の人々(33)その頃、父の稔は青山学院中学を四修で終えて東京外語専門学校に進学していたと云うことになっている。ただ、前にも書いたよう何学科に進学していたかは不明である。父の知人の話ではアメリカ人以上に英語が上手だと云う噂だったし、現にこれからしばらくして終戦になり、GHQが進駐してくるとハワイ生まれの二世だと偽って
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2014・12・25

2014-12-26 13:03:38 | 日記
●今日の徒然 8時30分に部屋を出て、五反田と高輪の間にあるNTT東日本関東病院へ。遂に白内障の手術を受ける決心をした。と言っても、手術は3月初旬まで先生のスケジュールが開いてないので、今日は問診と検査だけなんだけど、「遂に」とか「いよいよ」とか大袈裟に構えたくなる。でも、仕方ないのだ。この数年、極端に視力が低下していて、映画の字幕は後方の座席ではみえないし、芝居を見ていても俳優の顔が判別できない。近いものも新聞や雑誌は眼鏡をかけたままだと見づらい。ここまで来ると眼鏡屋で眼鏡を代えてもあまり意味をなさないとか。だったら思い切って手術をする決心を固めたんだけど、現在目でひどく日常生活に困っている訳ではないし、それにもうすぐ70、十数年すると80だと思うと、そんなに無理して手術しなくてもいいかなと弱気になったりもするけど、逆にいうとその70までの三年弱を、そして80までの十数年を充実させる為にも、ちゃんと見える目でいたいのだ。病院を出て目黒で牛肉を一キロ買った店へ。今日は妹の提案で母と妹のパートナーも交えてクリスマスすき焼きパーティをやることになったのだ。人間は変わる。少し前まで、クリスマスなんて知らないよ、家族パーティなんてやってられないよと云ったモードでいた妹が、11月に入ってすぐX'mas X'masと騒いで、アメリカ土産のクリスマスグッズを店に持ってきたりいる。私の息子や娘にもプレゼントをどうするこうするとわめいている。嬉しいけど、男女関係もなく、家庭もなく、17年前に店を始めてから絶対と言っていいほどクリスマスは閑古鳥が鳴く暇な店をやっている、クリスマスとは無縁な私としてはつきあうのがちょっと大変。9時過ぎすき焼きパーティは終了。疲れたし、こんな日は早く帰るに限る。でも、しばらく掃除していない汚れた部屋に一人で帰るのは少し哀しく、この間ネットでチェックした五反田有楽街にあるIと云う焼鳥屋に行ってみることにする。ごく普通の焼鳥屋だ。でも、この佐賀の赤鶏って美味い。そして焼き鳥8本、ハイボール二杯で2500円は安い。何だかとってもハッピー。●M家の人々(32) 恵津子にとって石井さんはどうやら初恋の人ということになる。でも、二人の関係がどこまで進んだか分からない、と云うか恵津子は語りたがらない。ただ、恵津子は当時まだ18歳になったばかりだったが、石井との結婚を意識したことは確かで、翌年石井が大沢商会をやめて大阪に帰り、見合いしたことを知った恵津子はその胸の内をジャージャンに訴えたみたいで、ジャージャンは単身大阪の石井の実家に乗り込んだらしい。会社の同僚同士のつきあいをしているだけならジャージャンもわざわざ大阪まで行ったりしない。きっと恵津子と石井の間には男女の関係があったのだろう。ジャージャンにしてみれば、折角親戚の相葉さんがお目付役としている会社だと思って安心していたのに期待外れもいいところだった。それに懲りてか、もっと固い職場がいいと思ったのか、ジャージャンは翌年恵津子に陸軍省参謀本部でタイピストを募集しているという求人広告を恵津子に見せるのだった。.★本年は大晦日まて営業します。\
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2014・12・24

2014-12-25 00:17:37 | 日記
●本日の徒然 朝起きていの一番にやったことは、パソコンを開いてリスボンのホテルからの返信が届いてないかのチェックだったのだけど、今日もまた届いてないもんだら、やっぱりこっちのメールは届いてなかったのかと落ち込む。だからと言って諦める訳にはいかず、もう一度打ち直す。「私はお宅のスタンダードルームを1/3から1/12まで予約しましたが<,出来ることならスタンダードルームじゃなくてプチスイートに変更したいのでずが、いかがですか?もし出来るのなら料金を教えて下さい。そして母と一緒に泊まるのでベッドは二つにしてください。どうぞよろしく」と云う文章を英文にしなさいと云う高校受験英語が出来なかったのか?いや、そんな筈は……とチェックしていたら、メールのサンプル用紙に一生懸命書いてクリックしていることに気づいた。馬鹿。届く訳ない。もう一度スペルもちゃんとチェックしてメール。12時間後、帰宅していの一番にパソコンを開いてリスボンのホテルからの返信か届いていないかチェックしたら、届いていた。「ご要望の部屋は塞がっていますので、とても残念ながらあなたのご要望にお答えできません。でも、途中で変化があったら真っ先にお知らせします。尚、ベッドは二つある部屋をご用意しておきますのてご心配なく」内容は残念な返事だったのに、英語が通じて英語で返事が貰えたことが嬉しいクリスマスイブ。母と二人で小さなショートケーキを食べる。。
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2014・12・23

2014-12-24 02:58:28 | 日記
●今日の徒然 朝、久しぶりにお湯にのんびり浸かりながら昨日買った「新・戦争論」(池上彰+佐藤優]を読む。この二人が現在のマスコミや論壇でどんな評価を受けているかはどうでもいいけど、二人の知識量の凄さにはいつもながら圧倒される。イスラム国について、それに関連した宗教について 北朝鮮について、今の私にそれほど差し迫った問題ではないのに、ついつい読み耽ってしまうのは、二人が単なる百科事典的物知りではなくて、知識をどの様に仕入れて、どのように活用しているかを見せてくれているからだ。それはつまり自分のコンプレックスと云うことになる訳で、「知」について立ち向かうには残り時間が少なくなってきていることを自覚しつつも、ファイティングポーズだけは死ぬまでとっていたい。朝食は極太ソーセージにツナレタスサラダ、それに目玉焼き乗せご飯がメインだったけど、一番ワクワクしたのが、冷蔵庫の野菜室に残っていたしめじとオクラとエンドウを煮て、それで作ったクノールのインスタントコーンスープ。これまで馬鹿にしていたインスタントスープが残り物の野菜のお蔭で一気に格上げされた。食後、正月のリムジンバスの手配と、リスボンのホテルにルームタイプを変更するメールを打ったのだけど、当然英語。返事が帰ってこないけど、何かスペルでも間違ったか?4時に店。今日は兼ねてから母と約束していた東京駅見物に出かける。テレビなどの報道で東京駅100周年がクローズアップされているのに影響されたのだろうが、ずっと今日の見物を楽しみにしていた母が不思議。それなのに東京駅のライトアップは明日からだったみたいで、期待外れに終わってしまった東京駅見物。仕方なく帰りに品川駅のユニクロでリスボン旅行用の肌着や靴下を買い求めた後、ウイングのつな八で天麩羅を食べる。同じコースを頼んだら私には物足りないけど母には多すぎるだろうし、残りは私が食べればいいやとタカを括っていたら母は完食。仕方なく追加を頼むことになる。おまけにデザートにアイスクリームの天麩羅を食べて母はご機嫌。リスボンでもこんな風であってくれるといいんだけど。●M家の人々(31)昭和15年に女学校を卒業した恵津子は銀行勤めの傍らYWCAで英文タイプを習った後、翌年ジャージャンの薦めで大沢商会の外国部に勤め始める。何故ジャージャンがこの会社を薦めたのかというと、ここの支店長が義理の叔父にあたる相葉と云う人で、思春期を迎えていた恵津子の監視役になってくれるだろうと云う期待があったからである。でも、恵津子はその監視の目を逃れて、その外国部……と言っても恵津子を入れて二人しかいなかったのだが、そのもう一人の石井和夫と云う部員に淡い恋心を抱くようになる。「あれは真珠湾攻撃があった日だったわ」二人して仕事をそっちのけにしてニュースに興奮したら、何かの拍子に手と手が触れ合ってしまった。恵津子が石井を男性とし意識するようになったのは1その日からだった。
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2014・12・22

2014-12-23 13:20:12 | 日記
●今日の徒然 人間は誰でもよく分からない行動をすることがあるけど、加齢による認知症のせいなのか、それとも元々正常な人間の部分が薄いのか、今朝サバの干物を焼いている最中に、ご飯粒が食べたくなって茶碗にご飯をよそうと、生卵をかけて食べている自分に気づいてゾッとする。もうちょっと待てばいいじゃないか?後10分も待てば味噌汁や漬け物や納豆も含めてちゃんとした朝食が並ぶのに、どうしてたったまま生卵ご飯を食べてしまうのか?サバを焼いているのを忘れていると云うことは、やっぱり認知症が入ってきているのか?年をとっていくことは仕方ないことだし、年をとることを楽しもうとは思っているけと、折角焼いたサバが無意味になってしまう加齢はいやだ。そう思ったからか、朝の段階で卵掛けごはんを食べたことを忘れることにした私は、昼の開店準備を終えると、いかにも今日最初の食事をさぁ食べるぞという気持ちでカキカレーライフとサラダを作って食べる。そしてこの時点でもうお腹がなり一杯になっているのに、3時に病院のリハビリから母が戻ってきて「お腹が空いた」というと、だったら中華三昧しようかと、今日のスペシャルメニューの麻婆豆腐、八宝菜風野菜スープ、ネギ炒飯を一緒に老老ランチしてしまう親孝行ぶりよ。もう三食だ。それなのに夜の営業が始まって、久しぶりに映画プロデューサーのKさんが来ると連絡があると、だったら腹ごしらえをしておかなくてはと訳の分からない理屈を持ち出し、激辛麻婆豆腐ご飯を食べる異常さよ。更に更にKさんが帰るのと入れ違いに今日もまた法律事務所勤務のNさんが稲荷寿司をお土産にきてくれて、いやいやいくらなんでもこれ以上は無理ですよといかにも無造作に厨房に「放置」しておいたのに、その後、これまた一年以上ぶりに京都に事務所を構える会計士のTさん御夫婦が美人の妹さんと来店してくれて、一緒に楽しいお喋りタイムを過ごした後になると、目の前にあるNさんの稲荷寿司がたまらなく欲望をそそり、私の胃袋に消えるのに十分もかからなかった。さすがに食べ過ぎ。再考の余地は一杯残しながらも芝居の台本はととりあえず書き上げたのだし、一体何に欲求不満なんだ?お前は?……と云うことで(何の脈略もないけど)今日からまたM家の人々を再開します。●M家の人々(30)、昨日東武練馬駅前にあるオープンカフェで紅茶を飲みながらぼんやりと何をしていたかというと、絶え間なく鳴り続ける踏み切りの警笛と電車の通過する音を聞いていただけで、一緒にいた人はどうしてこんな寒空でお茶を飲んでいなくちゃいけないのか理解不能だった筈だ。でも、俺にとっては何とも不思議な感慨が押し寄せる東武練馬駅前だった。あの頃、夜9時過ぎになると、毎日だったか、一日おきだったか定かじゃないけと、世田谷にあるバレー団にレッスンに通う妹の帰りを母親に頼まれて駅まで迎えに行っていたのだ。確か渋谷に着いたら電話があったのか?だったら頻繁に迎えに行っているんだから東武練馬に着く時間は大凡予想がつきそうなもんだけど、何故か俺はここで何本も何本も電車を待っていた覚えがある。それは妹が早く駅に着いたら可哀相だと思ったからなのか?いや、きっと受験勉強を強いる父のフレッシャーやボクより数段学校の勉強が出来て国立大学付属中学校に通う弟と勉強部屋で机を並べているのが嫌だったから家にいたくなかったのだろう。後で詳しく書くつもりだけと、何故東武練馬なのかというと、戦後色々な経緯を得た上に昭和29年に防衛庁の報栄研修所の教官になった父の稔が、それぞれ一年間のコロンビア大学とパーバード大学の大学院を修了して与えられた官舎が練馬北町に出来た自衛隊の練馬駐屯地の傍にあったからだ。三LDKの、親子六人で過ごすにはちょっと手狭な間取りだった。でも、そこに父の稔が東京外語専門学校に陸軍委託学生として入学し、母の恵津子が銀行に勤めながらYWCAで英文タイプを習っていた頃から、ここにM家の人々が辿り着くまでに25年近くの時が流れている。明日からはその25年間を書き記していこうと思う。
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2014・12・21

2014-12-22 07:54:22 | 日記
1時開演のマチネ公演は今までかなりの頻度で途中眠ってしまっている。普段でもちょうどその時間に眠気が襲って来て、店にいてもお客さんを待っている間にウトウトしまうことあるんだから劇場と云う真っ暗な空間に閉じ込められたら尚更だ。それだからいつもはきちんと食べる食事をしない。満腹になると眠たくなる。そして最低1時間は余裕を見て電車に乗る。乗り物に乗ると10分でも20分でもウタタネ出来て、その後眠気が消えるからだ。でも、うっかりすると目的の駅を寝過ごしてしまうこともあるから一時間の余裕をみる。更に最近はすっかり口にしなくなった珈琲を近所のカフェに入って飲む。ついでに医者から処方されたカフェインも飲む。そうやって万全の準備をして今日見に行った劇団花組芝居公演「夢邪想」(作・秋之桜子)。加納幸和の演出とシェイクスピアの「夏の日の夢」を土台にした秋之桜子の台本がきらびやかに結ばれて、そこまで眠気予防をしなくても絶対一睡もしなかっただろうと思える程に素敵な舞台空間だった。終演後、近所の蕎麦屋に入って芝居の余韻に浸りながら蕎麦と熱燗。そのまま店に向かおうと思ったけど、予約はないし、今日は連休の真ん中の日曜日でお客さんはいないだろうと悲しく見込んで、折角池袋まで来たのだからと中学生1年から20歳まで8年間住んでいた東上線の東武練馬まで行ってみることにする。実を云うとその8年以外にも店を始める直前までこの駅のから歩いて15分ほどの四葉と云う町や、店を始めてからも次の駅の下赤塚から近い光が丘に住んでいたとこもあって、東武練馬は私の人生の中でかなりのウェイトを占める町なのだ。とは云うものの、何もない町だ。どこに行ってみたいと云う場所も店もない。この町で中学を卒業したのに友人知人もいない。しばらくうろついて辿り着いた駅前前の二階にあるオープンカフェで座って紅茶を飲みながら東上線が行き交う様子をただボンヤリと眺めていた。下板橋にあった高校に通ったのもこの駅からだ。脚本家になろうとシナリオ学校に通ったのもこの駅からだ。最初の結婚を決め、この町を去ったのは22歳。あれからもう45年以上の歳月が流れる。
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