禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

論理と理論

2023-10-18 09:41:22 | 哲学
(自分でも七面倒くさい話を始めたなと思い半分後悔しています。話が面白くないと感じた方は遠慮なく読み飛ばして下さい。本題はまだまだ先の方です。)

 日本語の日常会話において、論理と理論はほとんど区別がなされていないというのが実情だろう。「君の話は全然論理的ではない。」という言葉の「論理的」を「理論的」に置き換えても意味は同じである。話のすじみちとして納得できるば、それは論理的であり理論的であるということになるのだろう。しかし、「論理」も「理論」もどちらも本来の日本語にはなかった言葉で、江戸末期または明治の初めに西洋の思想を思想を取り入れる必要にせまられてつくった翻訳語でであることを忘れてはならない。論理は logic、理論は theory であり、これらはれっきとした別概念である。

 理論(theory)というのは自然科学で言えば、例えば万有引力の法則や特殊相対性理論のように観測や実験から得られた経験をもとに、それらを矛盾なく説明したひとまとまりの体系のことである。その矛盾なく説明する(演繹という)手順が論理である。ちなみに数学の場合は公理を正しいものと前提として、そこから論理によって演繹された定理群からなる体系が数学理論である。自然科学と数学の違いは具体的な自然現象から出発するか、抽象的な公理から出発するかによるのである。
  
 理論の中に少しでも矛盾があってはならない、理論を演繹する論理は論理規則に沿って記述されなければならない。その論理規則の代表的なものを次に例示してみよう。

 ・同一律 :「命題AはAである(A=A)」
       なんであれそのものはそのもの自体と等しいという大原則である。
       

 ・無矛盾律:「命題Aとその否定命題¬Aは同時に成立することはない。」
       矛盾は決して生じないという原則。

 ・推論規則:前提がすべて真である場合に結論が必ず真であるならば、その推論は妥当であるという原則。 
       例えば、「全ての人が必ず死ぬ」という前提が正しければ、「人であるソクラテスは必ず死ぬ」という推論は正しい。

 上記の例を見て頂ければ分かると思うが、論理規則というのは実に当たり前のことでしかない。「はるおは男である」という命題と「はるおは男である」という命題はどう考えても同じ内容のことを意味しているとしか考えられない(同一律)。人はすべて死ぬということが正しいと信じているなら、人であるソクラテスは必然的に死ぬはずだと推論してしまう。私たちが論理に反することを考えることも想像することもできないというのはそういう意味である。あなたが高校の数学で証明問題を解いたとき、正解に至った時は必ずその証明の過程は論理規則に従って記述されているはずである。あなたが論理規則を論理規則として学ばなくとも、あなたがきちんと考えているかぎり、あなたは必ず論理法則に従って考えているのである。論理がア・プリオリであるというのはそういうことだろう。

 ときどき、現実に無矛盾律に反することは起こりうると主張する人はいる。例えば、ある女性が「私は彼のことを好きだけれど嫌いだ」という時、彼女の感情は矛盾しているのではないかというのである。確かにこういう場合も「矛盾している」というが、決してそれは論理矛盾しているわけではなく、単に文学的表現上の矛盾に過ぎない。論理的には「好き」の否定は「好きではない」であって「嫌い」ではないのである。「好きだけれど嫌い」は「好き and 嫌い」ということで、結局「好き」なのである。
 また、「『晴れている』とその否定である『晴れていない』が同時には成り立たないと言うが、天気雨の場合はどちらとも言えるのではないか?」という人もいる。この場合の問題は「晴れている」の言葉の意味がその人にとって明確になっていないというだけのことである。天気雨を「晴れている」と見なすのであれば、天気雨が降っている時でも「晴れていない」とはならないのである。
 
 このように考えてみると、論理(法則)の正しさは絶対的であるように思えてくる。一体その正しさの源泉はどこにあるのだろう? 論理の正しさは決して説明できない。私たちに論理を疑うことはできない。なぜなら論理こそが正しさの源泉だから、論理を運用することと考えることは同じことである。たとえ論理規則が間違っていたとしても、私たちはそのことを認識できないに違いない。例えば、無矛盾律が間違っていたとして、私たちがそのことを納得するには、無矛盾律が矛盾をしていることを示さなければならない。つまり無矛盾律が間違っているとしたら、そのことを我々が納得するには無矛盾律によって判断するしかないのである。

 ペルシャの哲学者イブン・スィーナー は次のように述べている。
「無矛盾律を否定する者は、打たれることが打たれないことと同じでないと認めるまで打たれ、焼かれることが焼かれないことと同じではないと認めるまで焼かれるべきだ」

 
横浜 大桟橋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論理とはなにか?

2023-10-09 09:00:04 | 哲学
 「論理」という言葉は元々の日本語にはなく、英語で言う「logic」の翻訳語である。辞書で調べてみると、次のようになっている。

 Oxford Languagesの定義 · 詳細
      ① 議論の筋道・筋立て。比喩的に、物事の法則的なつながり。
      ②「論理学」の略。また、一つの論理学が立つ体系。
 
 大体は上のような説明でほとんどの人が納得するのではないかと思う。しかし、具体的に論理がどのように自分の思考に関わっているかということを意識する人はあまりいない。私が「私たちは論理によってしかものを考えることが出来ない。」と言うと意外な顔をする人が多い。実際に私たちは非論理的なことを考えることは出来ないのである。私たちの思考は単純な論理法則によって厳格に支配されていて、決して矛盾したことを考えることが出来ない仕組みになっている。

 例えば三段論法について考えてみよう。三段論法は既知の事例から新たな判断を生み出す「推論」と呼ばれる論理の一種である。

  大前提:全ての人間は死すべきものである。
  小前提:ソクラテスは人間である。
  結論:ゆえにソクラテスは死すべきものである。
 
ここで試していただきたいのだが、大前提と小前提をともにあなたが正しいと信じながら、結論として「ソクラテスが死なないかもしれない」ということを実際に考えることが出来るかどうか。もちろん「しかし、ソクラテスは死なないかもしれない」と言葉でいうことは可能である、だが「全ての人は死ぬ」と信じている時点で、あなたはもう「人であるソクラテスは死ぬ」と信じているはずである。人は「円い三角」と口では言えるが実際に円い三角を思い描くことはできない。同様に「全ての人は死ぬが、人であるソクラテスは死なないかもしれない。という言葉の意味するところを理解できないはずだ。人は論理に反することは想像することも考えることも出来ないのである。
 
  ここであなたは「私はいくらでも非論理的なことを実際に考えることが出来る。例えば豚が空を飛ぶところだって実際に想像することが出来る。」というようなことを言い出すかもしれない。しかし、「豚が空を飛ぶ」という事態は非現実的ではあっても、非論理的とは決して言えないのである。突然変異で羽を持った豚が空を飛びだす可能性が絶対ないとは言えないし、見かけ上は同じでも驚異的なジャンプ力をもった豚がいきなり100mの距離を飛ぶかもしれない。そういうことを実際の会話の中で言いだすと、「それは屁理屈であり非論理的である」と言われても仕方ないと思う。現実の会話では非現実的と非論理的の実際的な区別はほとんどないからである。しかし、論理という言葉の意味を厳格にとらえれば、「豚が空を飛ぶ」というのは論理的可能性のあることと言わねばならない。哲学的には非現実的と非論理的の隔たりはものすごく大きいのである。

 私たちはたいてい学校で三段論法というものを教えられるが、三段論法の正しさは教えられなくとも知っている。それは三段論法の論理というものを私たちが生まれながらに持ち合わせているからである。そういう意味で「論理はア・プリオリである」とも言われる。

秋の空とススキ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の看護師のモラルの高さ

2023-10-07 07:00:47 | 闘病日記
 入院している患者は大抵不安を抱えているものである。それに、相部屋になっても隣の患者との会話というものもほとんどない。患者と言葉を交わす相手は看護師しかいないのである。患者が看護師に多少甘えたくなるのもある程度やむを得ないと思う。孤独に耐えかねた患者はできるだけ看護師を自分の所に引き留めようとして、やってくる看護師ごとに毎回同じ話をしたりしている。そのくせ、最後には「お忙しいところを引き留めてすみませんねぇ」と殊勝な言い訳したりするのは可愛い方である。

 中には、居丈高に若い看護師に説教しだす人もいたりする。入院してきたばかりの患者に、担当看護士が「明日の朝いちばんに採血を行います。」と告げた。そしてその翌朝のこと、その看護師は予告通り採血に来て処理し終えたのだが、その患者は「あのね、普通世間一般の常識ではね、『朝一番』と言うのは‥‥」と言い始めた。いったいこの人は何を言おうとしているのだろう? 私にはなにがなんだかさっぱり分からなかった。が、その内どうやら「朝一番と言ったのに、来るのが遅い」と言いたかったらしいと分かった。他の患者の所へは担当の看護師が30分前程からきているのに、自分の所へはなかなか来なかったということを言いたかったらしい。私はある程度この人の気持ちは理解できる。いったん入院すると、患者がコミュニケーションできる相手はほぼ看護師しかいないからである。おそらくこの人は目が覚めてからずっと看護師が自分の所へ来てくれるのを今か今かと待ち構えていたのであろう。早朝の採血は食事前に終わっていればよいのであるから、2,30分早かろうが遅かろうが何の差しさわりもない。患者が文句言う筋合いはないのである。ただこのおじさんは自分の気持ちとして「もっと早く来てほしかった」という不満を「普通世間一般では『朝一番』と言えば‥‥」というお説教の形でぶつけているだけの話なのだ。
 
 普段はどうでもよいことと見過ごしているようなことでも、いざ自分の身に少しでも不都合と思えば、それはとても切実な問題と思うようになるのが人間である。ある日夜遅く入院してきた人がいた。なんでもその人はシャワーを使いたかったらしいのだが、その時はもう浴室の使用時間を過ぎていた。それで、熱いおしぼりで体を拭きたかったのだが、その病院では患者に対しておしぼりの提供はしていない。出入りの業者とパジャマやタオルのレンタル契約すれば、自由におしぼりを使えると説明されると。「なぜパジャマのレンタル契約をしなければ、おしぼりを使えないのか? その根拠を教えて欲しい。」などと言い出す。根拠も何も、病院には洗面所に行けば温水がでる蛇口があるので、そこでタオルを絞ってそれで体を拭けばいいだけのことである。一番の問題は、そこに来る看護師ごとに同じことを繰り返し訴えることである。看護師は病院の経営上の問題にノータッチであるなどということは全く考えないらしい。それほど病院の運営に不合理を感じるのならば、自分で直接事務長に掛け合うしかないと思うのだが、「いったいこの病院の情報共有はどうなっているんだ。」などと看護師に文句言っている。

 看護師は決して正面から反論したりはしない。常にやんわりと受け流している。せいぜい遠回しに「わたしたちはそういう問題には関われないんですよ。」という程度である。看護師はみな若いが、患者と論争しないという教育を受けているのだろう。看護の専門家であるという矜持を持ちながら坦々と業務をこなしている。本当に大したものだと思う。

 私は普段は毎朝規則正しく便通があり便秘で悩んだ記憶はあまりない。ところが、入院して生活が変化すると途端にひどい便秘になってしまった。毎朝あったはずの便通が三日も四日もないととても不安になる。それで、排便を促すための座薬をもらうことにした。看護師が私にその薬を手渡す時に、「ご自分で出来ますか? 手伝いましょうか?」と私に訊ねる。私は内心で、おいおい俺はそこまで耄碌していないぜ、俺をからかっているのか?と思って、その看護師の顔をあらためて見るといたって平然としている。よくよく考えてみれば、私のいる部屋でも日常的にオムツ交換が行われているのだった。私をからかっているなどという考えが頭をかすめたのも、まだ少女の面影が残る若い看護師に対して私の方に侮りからくる偏見があったからだろう。彼女は単にプロフェナルな親切心から言ってくれていることに気がついた。

 私は日頃から日本の政治や官僚に対して文句ばっかり言っているが、現場で働いてこの日本社会を支えている人々には称賛と感謝しかない。済生会横浜市南部病院のスタッフの皆さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。 
 
この窓を1カ月間眺めていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする