「論理」という言葉は元々の日本語にはなく、英語で言う「logic」の翻訳語である。辞書で調べてみると、次のようになっている。
Oxford Languagesの定義 · 詳細
① 議論の筋道・筋立て。比喩的に、物事の法則的なつながり。
②「論理学」の略。また、一つの論理学が立つ体系。
大体は上のような説明でほとんどの人が納得するのではないかと思う。しかし、具体的に論理がどのように自分の思考に関わっているかということを意識する人はあまりいない。私が「私たちは論理によってしかものを考えることが出来ない。」と言うと意外な顔をする人が多い。実際に私たちは非論理的なことを考えることは出来ないのである。私たちの思考は単純な論理法則によって厳格に支配されていて、決して矛盾したことを考えることが出来ない仕組みになっている。
例えば三段論法について考えてみよう。三段論法は既知の事例から新たな判断を生み出す「推論」と呼ばれる論理の一種である。
大前提:全ての人間は死すべきものである。
小前提:ソクラテスは人間である。
結論:ゆえにソクラテスは死すべきものである。
ここで試していただきたいのだが、大前提と小前提をともにあなたが正しいと信じながら、結論として「ソクラテスが死なないかもしれない」ということを実際に考えることが出来るかどうか。もちろん「しかし、ソクラテスは死なないかもしれない」と言葉でいうことは可能である、だが「全ての人は死ぬ」と信じている時点で、あなたはもう「人であるソクラテスは死ぬ」と信じているはずである。人は「円い三角」と口では言えるが実際に円い三角を思い描くことはできない。同様に「全ての人は死ぬが、人であるソクラテスは死なないかもしれない。」という言葉の意味するところを理解できないはずだ。人は論理に反することは想像することも考えることも出来ないのである。
ここであなたは「私はいくらでも非論理的なことを実際に考えることが出来る。例えば豚が空を飛ぶところだって実際に想像することが出来る。」というようなことを言い出すかもしれない。しかし、「豚が空を飛ぶ」という事態は非現実的ではあっても、非論理的とは決して言えないのである。突然変異で羽を持った豚が空を飛びだす可能性が絶対ないとは言えないし、見かけ上は同じでも驚異的なジャンプ力をもった豚がいきなり100mの距離を飛ぶかもしれない。そういうことを実際の会話の中で言いだすと、「それは屁理屈であり非論理的である」と言われても仕方ないと思う。現実の会話では非現実的と非論理的の実際的な区別はほとんどないからである。しかし、論理という言葉の意味を厳格にとらえれば、「豚が空を飛ぶ」というのは論理的可能性のあることと言わねばならない。哲学的には非現実的と非論理的の隔たりはものすごく大きいのである。
私たちはたいてい学校で三段論法というものを教えられるが、三段論法の正しさは教えられなくとも知っている。それは三段論法の論理というものを私たちが生まれながらに持ち合わせているからである。そういう意味で「論理はア・プリオリである」とも言われる。
秋の空とススキ