禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

信念を持つ権利

2020-12-18 09:32:15 | 哲学
 少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,いささかの疑いを入れる余地がないものを真理とする。これはいわゆるデカルト的懐疑と呼ばれるもので、絶対的真理を求めるという態度である。しかし、よくよく考えてみれば、この世にみじんも疑う余地のないものなどどこにあるだろうか? デカルト的懐疑を徹底すれば、どのような真理に到達することも不可能に違いない。
 証拠もなしに何かを頭から信じて行動することは、一般的には愚かなことには違いない。しかし、アメリカを代表する哲学者であるウィリアム・ジェームスは、「人には十分な根拠なしに信念を持つことを意志する権利がある。むしろ必要であればそうすべきである。」と説く。

 ≪ いろんな事実について真の信念を持つことが人間生活にとって重要であることは、あまりにも明白なことである。われわれは限りなく有用とも限りなく有害ともなりうる諸実在の世界に生きている。それらの実在のいずれに望みを嘱すべきかを我々に告げてくれる観念が、これら第一義的な真理化の領域においては、真の観念とみなされ、そしてかかる観念を追求するのが第一義的な人間の義務なのである。≫(岩波文庫版「プラグマティズム」p.202)
 
 どうでもよい選択肢を選ぶ場合には、どのような信念をもって臨むかということは問題ではない。それが重大でかつ切迫した問題ならば、信念を持つということはとても重要なことである。以下は歎異抄の第2条からの抜粋である。

≪ 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、 よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきな り。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるな り。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちた りとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげ みて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はば こそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もお よびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 ≫

 法然に会う前に親鸞は絶望していた。幼少の頃から打ち込んでいた仏教はなんの法力や神通力も彼にもたらさないということを理解するようになっていたからである。「念仏によって浄土に生まれるか地獄に落ちるか(私には)分からない。」と信ずべき証拠がないことを自ら明かしながら、しかし、もう彼には法然の言葉を信じる以外の選択肢は無かったのである。「そのゆゑは、自余の行もはげ みて仏に成るべかりける身が、 ‥‥‥ いづれの行もお よびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」という言葉に、絶望の深さと決意の強靭さが表れている。この時から弥陀の本願は真理となったのである。

 人は神の存在の中に精神的安らぎを固く信ずるとき、神の観念は歓びと安心の時を与え、それを正当化する。 (ウィリアム・ジェームス) 
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危険なビーナス(TBSドラマ)と素数分布の法則性とか‥

2020-12-17 05:12:41 | どうでもいいこと
 私はサスペンス・ドラマが好きでよく見るのだが、東野圭吾のものは筋道が入り組んでいて、かつ知的な要素を絡ませていて面白いと思う。このドラマのカギとなるのは、主人公である伯朗の亡き父が遺した絵「寛恕の網」に隠された秘密である。 この絵は「ウラムの螺旋」という素数を順番に螺旋状に並べた図形をより精巧にかつ緻密にしたものだという。つまり、この絵によって素数分布の法則性が分かるというすごい代物なのだ。
 現代数学における未解決の超難問は素数に関係したものが多い。もし 「寛恕の網」がその通りのものであるなら、それらの難問が一挙に解決できる可能性がある。数学者である主人公の義理の叔父は当然その絵の価値を知っていて、それを手に入れるために誤って主人公の母を殺してしまった、という意外な事実が最終回に明らかになる。
 
 果して素数の分布に法則性があるのかどうか。個人的にはそんなものないのではないかと考えている。素数同士というのは互いに素である。つまり、それらの関係性は「互いに関係がない」という関係なのだ、もし素数の分布に法則性があったとしても、それは「寛恕の網」という一枚の絵に表現できるほど単純なものではないような気がする。(あくまで気がするだけの素人判断である。)
 
 面白いドラマだったが、納得のいかない点が一つある。主人公の天敵とも言うべきディーン・フジオカ演じる勇磨 の行動である。彼は盗聴によって、楓が実は潜入捜査員であることを知り、秘密の財産(寛恕の網)を得ることと引き換えに、捜査陣に協力することになるのだが、公権力である警察がそんな約束するというのが納得いかない。そして、寛恕の網は結局火事で燃えてしまって、彼は得ることがなかったのだが、結末のどさくさでその辺が曖昧になっているような気がする。もしかしたら、私が見逃している点があるかも知れない。どなたか、ここのところ分かる人がいたら、教えてください。
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私が私であるということはどういうことか?

2020-12-15 06:30:26 | 哲学
 あなたが会社員であればおそらくIDカードというものを持っているだろう。そしてあなたは会社の入り口で、そのIDカードをIC読み取り機にかざす。そうすると、読み取られたデータが所定のデータと比較され一致すれば、あなたはあなたとして認められる。街中を歩いていてたまたま知人に出会ったとする。その人はあなたを認めて、「やあ、〇〇さんではないですか、お久し振りです。」などと声をかけてくるだろう。多分、その人はあなたの姿形を覚えていて、その記憶と今のあなたの姿形を比較した結果、あなたをあなたであると特定したのである。英語ではこの「特定する」ことをidentify(同一化)と言う。すべての属性が同じなら、それは同一物に違いないという発想である。すべての属性の総和がその個物のアイデンティティとなる。
 そこで、「自己のアイデンティティ」というものについて考えたいのである。それは一体どういうことなのだろう? 自分をidentifyするためには何と何を比較しているのだろうか? たぶん比較などしていないのではないかと思う。「私が御坊哲である」という自覚はおそらく自分自身の記憶に支えられている。今までの連綿として蓄積されてきた記憶が、私自身がどういう人物であるかという自画像を形づくっていると見て間違いはないだろう。もし、それらの記憶をすべて失ってしまったら、「私は一体誰?」ということになる。私は自分を御坊哲であると認識することはできなくなってしまう。
 しかし、ここで留意したいのは、その記憶というのは御坊哲のアイデンティティではあっても私自身のアイデンティティではないということである。その証拠に、あらゆる記憶を失ったとしても、おそらく「私は私である」と思っているはずである。私は私以外になれない。整形手術して他人を装ったとしても、私にとっては依然として私は私である。私は何かを比較して私をidentifyしているわけではない。それは初めから所与であり、比較を絶して私は私なのである。天上天下唯我独尊とはそのことである。

「私は私の世界である」(ウィトゲンシュタイン)
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あるがままの世界

2020-12-09 21:05:51 | 哲学
 前回記事で私は「世界は本来無色無音である。」と述べたのですが、実はその舌の根も乾かないうちに、本日の私は真逆のことを言おうとしているのであります。科学というのは現象の背後の仕組みを探ることを目的としています。物と物の関係の中の整合性を追求することが未来予測には役立つからです。だから、科学は感覚抜きの無色無音の「物の世界」を扱うのです。物と物の関係性に着目すると、「ものごとには必ずそうなることの理由がある。」と考えるようになる。それを「充足理由律」と言います。現代人のほとんどは充足理由律を信仰する「必然のとらわれ人」でもあります。
 しかし、忘れてはならないことは、「私たちは感覚の中に生きている」ということであります。例えば、目の前にリンゴが有ったとします。科学者は「そこにリンゴという『物』があるから、そこから反射した光で私達にリンゴがみえる。」と言いますが、実は話は逆で、まず赤くて丸いものが見えているから「そこにリンゴが有る」と考えているのです。この辺の事情を西田幾多郎は次のように表現しています。

≪少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。すでに意識現象の範囲を脱せぬ思惟の作用に、経験以上の実在を直覚する神秘的能力なきはいうまでもなく、これらの仮定は、つまり思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起こった抽象的概念である。≫ (「善の研究」第2編第2章)
 
とても難しい言葉の言い回しですが、一つずつじっくり読み解いていくと納得できます。ここで「意識現象すなわち直接経験の事実」というのは、「赤くて丸いもの(リンゴ)が見えている」という(感覚的)事実のことです。感覚でとらえたものだから意識現象と言っているわけです。ここでは「直接経験」としていますが、これを西田は「純粋経験」と言い換えるようになります。西田はこのことだけが(実在の)事実であると言っているのです。この経験以上の実在(の事実)というものを直に知る神秘的な能力は我々にはないと言っています。つまり、「そこにリンゴという『物体』があるから、そこから反射した光で私達にリンゴがみえる。」というようなことは、色んな純粋経験を整合的(系統的)に説明するための抽象概念だというのです。

 科学では、感覚抜きの物的事実を真実としていますが、西田は感覚で直接とらえたもの(純粋経験)こそ実在の事実すなわち真実であると言います。逆に、科学における感覚抜きの物的事実というのは推論による解釈に過ぎないと言っているのです。このことは仏教における「あるがまま看よ」ということに通じていると思います。

 現前するものをすべてそのまま現実として受け入れる。それが「あるがまま看よ」ということであります。それは別に科学を否定せよということではありません。生きていくためには科学的なものの見方考え方は必要であります。ただ、ものごとの解釈にとらわれ過ぎて現実の世界を見誤ってはならないということなのです。禅の書物には、坊さんがやたら「喝!」と怒鳴ったり、棒でたたいたりと結構乱暴なシーンがでてきますが、これは意表を突く大声や痛みによって、相手に今生きている世界を実感させるという意味があります。私たちは感覚の世界の中に生きていることを実感するということが、地に足を着けて生きるということなのでしょう。

(大雄山最乗寺)
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無色無音の世界

2020-12-06 05:53:04 | 哲学
 最近奇妙な夢を見た。まるで万華鏡の中にいるような極彩色の中で、ハチャトリアンの「仮面舞踏会」のワルツが大音声で鳴り響いている、そんな夢である。めくるめくような色彩と音に息苦しさを感じ、もがくようにうなされながら目覚めたところが、みな寝静まった真夜中の事であった。
 私は学校で、音は空気振動であり、色は特定の周波数の電磁波であると教わった。しかし、私はシーンとした真夜中に確かに極彩色と大音声を聞いたのである。私は、音は決して空気振動ではないし、色も電磁波ではないということを実感した。客観的に考えれば、色も音も自然の側ではなく主観の側にあるのである。哲学者の大森荘蔵は「音がする」(エッセー集「流れとよどみ」に収蔵)というエッセーの中で次のように述べている。

≪ 元来、自然科学の世界描写というものは音無し、色なし、味なし、匂いなし、要するに眼耳鼻舌身意の六根抜きの描写なのである。六根清浄ではなく六根抜根の描写なのである。人ひとりおらず犬一匹いなくても通用する描写なのである。今から三十億年前、感覚器官を備えた生物が皆無の地球の風景を描写できる方式の描写なのである。そこには音を聞き、色を感じる生き物も無く、雨音を聞く生物もいない、だから夕焼けはただの電磁波、雨音はただの空気振動、そのようなのが自然科学の世界描写なのである。≫
 
 あらためて、元々の自然が無色無音であったことに気づかされる。客観的な世界には何も無いのである。だから自然科学では音も色も表現できない。青色の電磁波の周波数が何々ということは自然科学は説明してくれるのだが、その周波数の電磁波がなぜこの私には青色に見えるかということは説明してくれない。音も光も私の神経組織の発火現象であるという説明で終わってしまう。神経細胞の発火現象が、私の見ている色や私の聞いている音にどうしてなるのかということは説明してくれないのである。もともとの「客観的な」自然には色も音も無かったからであろう。

美しい紅葉だが、見る者がいなければこういう景色も存在しないのである。
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