元外務官僚の佐藤優さんはとても頭のいい人で話も面白い。「ゼロから分かるキリスト教」というのを読んだのですが、内容は結局というかやはりというかさっぱりわからなかった。キリスト教の知識がゼロなのに、シュライエルマッハーがどうのカール・バルトがどうのと言っても分かるわけがない。 分からないのに面白いのはやはり語り口が巧みだからだろう。
それはそうと、仏教について次のように述べられていたのがちょっと引っかかってしまった。
《 仏教の場合は原罪観はないけれども、中観においても、とくに唯識においても、人間は悪に傾きやすいという人間観を持っています。われわれは輪廻転生を何度も繰り返しているわけです。もしかしたら前世はサソリだったかもしれないし、その前はミミズだったかもしれないし、或は仙人だったかもしれない。天女だったかもしれない。いろんな輪廻転生がある。でも、私がかつてミミズだった時の記憶、皆さんがかつてトカゲだった時の記憶は今残っていない。「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」とかいう記憶は残念ながら残っていないのだけれど、それはわれわれが思い出せないだけで、大きなわれわれの無意識の中には残っているんだと、仏教は考えるわけ。》 (P.114)
輪廻転生ということはよく言われるが、おそらくそれは仏教本来の考え方ではない。釈尊の教えはそのような超越的な物語とは相いれない。「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」という記憶が大きなわれわれの無意識(阿頼耶識)の中には残っていたとして、誰がそのようなことを確かめたのか疑問だし、そのようなことから生産的な思想が生まれてくるはずもない。 このようなヨタ話から仏教を語り、ひいては日本人の精神文化まで語ってしまうことには問題がある。
世界は有限であるが無限か、肉体と霊魂は一つのものか別のものか、悟りを得たものは死後に生存するかしないか、それらの問いに釈尊は答えなかったと言われている。このことを指して「無記」と言う。このことと輪廻転生説は明確に背反している。
あるところで上記のような話をしていると、「禅定を深めてゆくなら、一切の前世の記憶を思い出す能力が開発されるのだということが、原始仏典の『沙門果経』に説かれています。」ということを教えてくれた人がいた。率直に言って、仏典というのはこのように矛盾だらけなのだ。
充足理由率というのは「なにごともこのようであって他のようでないことの理由がある。」という原理のことである。「無記」という概念は仏教にとって極めて大切な概念であるにもかかわらず理解しにくいのは、われわれが無意識のうちに充足理由率を受け入れているからだろう。その一方で、輪廻転生説のようなある意味荒唐無稽と言ってもいいような言説も、図式的にはシンプルであるためやすやすと受け入れてしまうのである。
もともとこの世界は訳の分からない世界である。そのわけのわからなさをそのまま了解し受け入れよ、と釈尊は言うのである。そのような視点に立てば、輪廻転生説というのはいかにも荒唐無稽である。禅定を深めて「トカゲだった時、あそこで食べた蠅はうまかった。」と言う人がいたら、たぶんその人は詐話師であるか、良く言って思い込みの激しい妄想家に違いない。
※(公案解説はこちらを参照 ==> 「公案インデックス」)