自由意志の有無ということが昔から哲学上の問題となってきた。どうしても自分が機械人形ではないかと疑いたがる人がこの世にはいるのである。私などは、立ちたいときに立ち、座りたいときに座る、それが自由意志という言葉の意味で、そこには何の紛れもないと考える。それは自分が自動機械であるかどうかとは関係なく、言葉の意味としても実存的な実感としても間違いのないことのように思える。
「我々はなにかをしようと意志することはできる。だが、なにかをする意志を意志することはできない。」 ( ヴィトゲンシュタイン )
なるほど、この言葉はとても深い意味をもっているようだ。のどが渇けば私は水を飲む。私は間違いなく自分の自由意志で水を飲んだのだが、「水を飲もう」という意思は渇きにつられて自然に湧いてきたのである。つまり、私は外的な要因に突き動かされているということになる。
外的な要因に突き動かされているならば、私は機械として反応しているだけなのだろうか? そうではあるまい。それはむしろ「自然(じねん)」の一言で片が付くような問題ではないだろうか。
弥勒菩薩の摩崖仏 ( 横須賀市 )
※(公案解説はこちらを参照 ==> 「公案インデックス」)